春よ来い


第25回 トコロテン

 お盆が近づくと、思い出すのはトコロテンの懐かしい味です。子どもだった頃、わが家で親戚の人たちを迎えた時、あるいは、母の実家に泊まりに行った時に、必ず食べたのがエゴとトコロテンでした。私はどちらも食べましたが、どちらかといえばトコロテンの方が気に入っていました。

 当時、トコロテンは、お盆の食べもの、と決まっていました。わが家では、農協がお盆用品として斡旋したテングサを買い、母がそれを原料にして作っていました。

 買ってきたテングサを井戸水にさらして洗う。それを刈ってきたカヤ(ススキの茎)の上に干す。テングサに付着している砂や小さな貝を小槌(こづち)でたたいて落とす。煮る。布でこす。角面(パット)に入れて固める。横井戸で冷やす。こういった一連の作業を、時間をかけてコツコツとやり、お盆に備えました。いまのように、パック入りのものを買っておいて、冷蔵庫から取り出し、「さあ、どうぞ」というトコロテンとは味も歯ごたえもぜんぜん違いました。

 農家のお母さんたちが、お客のために手間ひまかけ、心を込めて準備したトコロテン。横井戸に入れておいたものは、いまの冷蔵庫に入れておいたものほど冷たくはなかったはずですが、「トコロテン突き」からギュッと押し出されたものに醤油をちょっぴりつけて口に入れると、冷っこくて、何ともいえない涼感がありましたね。また、これには、芯といったらいいのでしょうか、箸で持つとプルプルッとする適度な硬さがありました。

 いまとなっては、このような手のかかった、懐かしいトコロテンはもう二度と出会うことはできない、そう思っていました。ところが、数年前、小さな食堂でトコロテンを食べた時に、「うわっ、うれしい。これだ」と思いました。昔、それも子ども時代に食べたものとまったく同じ味がしたのです。

 その店は新潟県大島村の村役場の近くにある「日本一うまいトコロテン」。そこで働く娘さんたちに聞いたら、作り方もテングサを煮る段階から間違いなく昔風であることが分かりました。そして目をみはったのは、店のすぐわきに、こんこんと湧き出ている清水です。とても冷たくて水量も豊富、ひょっとすると、この水がトコロテンの味や硬さを決めているのではないか。一緒に出かけた友人とともに、このトコロテンの美味しさはどこからきているのかを語り合い、食べました。

 以来、一年に一度はその店を訪れ、懐かしい味を楽しんできました。そこでは、トコロテンの味だけでなく、子ども時代のゆったりした時間に戻ることもできます。近所の仲間や従兄たちと夢中になって遊んだ時間……。今年も、もうすぐお盆。今度は妻をさそってこのトコロテンを食べに行こうかと思っています。
                                  (2004年8月8日)



第24回 夕陽

 一年ほど前のある日のことです。牛舎で仕事をしていたら、外にいた父が、大きな声で私を呼びました。
「おーい、トチャ、早く来てみろ」
 何のことかと思って外に出てみると、父は遠くの杉林の方をじっと見ています。「ほら、すごいだろう。こんなが初めてだ」と言う父の視線の先には、杉林の中、さらには海へと沈んでいく夕陽の姿がありました。鮮やかなオレンジ色、しかも大きくて、まんまるの太陽がスッ、スッと落ちていきます。その様子を見る、ゆったりとして、うれしそうな父の表情がとても印象に残りました。

 その時、私も何とも言えないうれしさを感じていました。私の知っている父は、遊んでいることがきらいで、酒もほとんど飲みませんし、パチンコなどギャンブルは大嫌いときている。いつ見ても仕事をしていました。自然の美しさにボーッとしている姿など一度も見たことがありませんでした。その父と一緒に夕陽を見る、正直言って、そんな日が来るとは思いもしませんでした。

 それにしても、父は一体いつから夕陽が気に入ったのか。私にはちょっと気になりました。もともと夕陽が好きで、眺めていたけれども、私にはその様子が目に入らなかっただけなのではないか、とも考えました。
 
 しかし、そうではないことがじきに分かりました。その後も、夕陽を見て私を呼ぶことが何度も続いたからです。しかも父は夕陽だけではなく、そのほかの美しいものにも大きな関心を寄せるようになりました。たとえば、コブシの花。わが家の庭木として見事に咲いたのですが、それも、私に「きれいに咲いたから見てみろ」と言うのです。明らかに父の気持ちのなかで何かが変わりはじめていることを直感しました。

 先日、ある人に言われました。
「人間というのはね、小さな時には一年ごとにグイッ、グイッと成長していくんだよ。体も心も。そしてね、人によって差はあるけれど、七五くらいから、今度は一年ごとにどんどん子どもになっていくの。子どもの時は親と一緒にいたかったでしょ。年をとれば、その逆になるんだよ」

 この言葉を聞いて、私はハッとしました。父に初めて夕陽を見てみろと言われた時、うれしい気持ちはありましたが、ちょっと見ただけで、一緒に、じっくりと見る余裕を持てませんでした。その後の誘いの時も同じです。忙しすぎて、父の気持ちを分かってやれなかったのです。

 私も夕陽は大好き。真夏の夕陽もとてもすばらしいと思います。美しいもの、すばらしいものは一人で見るのはもったいない。そういう思いは大切にしたいと思っています。今度、父と一緒に夕陽を眺める時には、もっと、のんびりと見てみたいと思います。昔話でもしながら……。



第23回 梅のもぎ残し

 昔はどこの農家にも梅の木がありました。実がなれば、それをもいで梅干しを作り、毎日の食生活に必ずといってよいほど使いました。いまもこの流れは変わりませんが、梅の木がなくなって、実を買ってきたり、出来上がった梅干しを買ってくる農家も少なくありません。

 私の記憶に残っている梅の木が数本あります。そのうちの一本は、わが家の東側にあった老木です。近くに大きな杉があり、納屋もあったせいか日当たりが悪く、木には勢いがありませんでした。木の皮もところどころはがれ、見るからに年を食っている感じがしました。しかし、毎年、小さな梅の実をたくさんつけてくれました。しかも梅干しには手ごろな大きさで、生で食べても美味しい。そんなわけで、毎年、ムシロなどをしいて丁寧に梅もぎをしました。

 当時、梅をもぐ時期は、いまよりも少し遅かったかもしれません。田植えが終わり、パラチオンを散布する直前でしたから、6月の下旬から7月上旬だったように思います。

 梅もぎの時がやってくると、私は少々さみしい思いをしました。というのは、おやつ代わりに食べていたものが急に無くなってしまうからです。おそらく、梅の木がある農家の子どもたちはみんなそうだったと思いますが、梅の実がついたころから大きくなるのを待ち、いつから食べられるようになるかをずっと見ていました。そして実が熟し始めれば、毎日何個かはもいで食べていた。

 そんなわけで、梅もぎをする時にはなるべく多く残しておいてもらいたいと願っていました。そこらへんは梅をもぐ大人たちも十分承知していたようです。稲刈りの時には落穂を一本残らず拾うほど徹底しているのに、梅もぎの時には必ずもぎ残しがありました。

 もぎ残された梅の実は一本の木に20個もあればいい方でしたが、それらは子どもたちの自由になりました。完熟させると、梅の実は黄色や赤味を帯びたものになります。これがまた美味しいときています。酸味が薄くなり、ほんのりと甘い香りもしました。子どもたちは、この一つひとつの実を大切にして食べたものです。

 もう一本、忘れられない梅の木があります。わが家から150メートルほど離れたところにある木です。こちらはまだ若く、生長過程にある梅でした。年季は入っていないけれども、わが家のものに比べて実が一回りも大きいのが特徴です。日当たりがいいのでとても元気のいい木で、実もしっかりしたものに見えました。

 ただ、残念ながらこちらはよその家の木。毎日、少しずつ、いただくというわけにはいきません。梅もぎが終わるまではじっと見ているしかありませんでした。こちらのもぎ残しも何回かいただきました。わが家の老木よりも太陽の光をたくさん浴びていたせいか、酸味がとても薄く、高級品のように思えたものでした。

 今年はウメが豊作のようです。なりすぎて、もぎ残しもたくさんありますが、大きく、美味しそうなものを見つけると、50歳を超えたこともすっかり忘れてもぎたくなってしまいます。



第22回 ホタルブクロ

 このところ、悲しい出来事が続いています。「千葉の叔父」が亡くなってからひと月もたたないというのに、今度は「高崎の伯母」が旅立ったという知らせが飛び込んできました。

 亡くなった日の翌々日は友引ということから、当初予想していた日より一日遅い通夜、そして葬儀・告別式となりました。出発までに少し余裕ができた私は、お盆や祖父の法要の時など、伯母と一緒になった時の様々な場面を思い出しました。その時、ふと思ったのです。お世話になった伯母のところに、ふるさとに咲くホタルブクロの花を持っていってあげよう、そうすれば、きっと喜んでくれるにちがいない、と。

 もう何十年も前のことでした。高崎市の伯母や従姉たち(ひょっとすると伊勢崎市の伯母たちだったかもしれません)が泊まりにきた時、わが家の近くに白いホタルブクロがポツンと咲いていました。清楚にして凛とした姿は魅力的でした。季節はずれの咲き残りを見つけたのは、伯母だか、従姉たちだったか。いずれにせよ、とても喜んでくれました。その時のことを思い出したのです。

 高崎市へ出発する日の朝早く、私はわが家のあった蛍場へと車を走らせました。ホタルブクロは昔あった場所とほとんど変わらぬところに咲いていました。花どきを過ぎているものに混じって、これから花を開こうかというものが何本かあります。そのうちの3本をへしょって(折って)家に持ち帰り、小さなビンに入れました。これで準備オーケーです。

 採れたてのホタルブクロは、伯母の家まで、できるだけ生き生きした状態で届けたいと思い、軽トラの中でも、列車の中でもビンを倒さぬようにと、手から離しませんでした。

 伯母の家に着いた時、玄関でホタルブクロを見た従姉がすぐ言いました。
「あら、ホタルブクロ、ありがとう。これ、お母さんが大好きな花なのよ」
従姉のこの一言で私はとてもうれしくなりました。数十年前にこの花を見て喜んだのも、やはり伯母だったのでしょうか。

 「高崎の伯母」は10人キョウダイの二番目で、父の姉にあたります。縁があって、7歳の時に高崎市の荻原家へ養子に入りました。7歳といえば、まだ両親に思いっきり甘えたい年頃です。ふるさとの両親やキョウダイに会いたくてたまらなかったことと思います。

 その伯母がもっとも切ない思いをしたのは最愛の夫を亡くした時でした。1943年(昭和18年)6月15日のこと、ニューギニアでの戦死でした。伯母は当時24歳、幼い2人の子ども・養父とともに残されました。私が記憶している伯母は、悲しみに耐えてきたせいか、芯が強く、それでいながらいつもやさしさと気品がただよっていました。

 持参したホタルブクロは、棺(ひつぎ)の中に横たわった伯母の顔のすぐ脇に入れてもらいました。幼い時に父母とともに過ごしたふるさとの花がそばにある。これで伯母もふるさとへ帰ることができるはずです。両親や夫とも再会できるにちがいありません。



第21回 千葉の叔父さん

 まさかと思いました。千葉県習志野市に住む、まだ70代半ばの叔父が亡くなったというのです。朝五時過ぎ、大島村の従兄より連絡をもらいました。すぐ母のところへ行き、「千葉の叔父さん、亡くなったよ」と伝えました。突然の訃報に母は、体を左右に大きくブルブルッと震わせ、「なしたがろな(どうしたのか)、かわいそうに」と言いました。「そういえば、退院したけど、はかばかしくないんだよ、と言ってた」とも。

 叔父は七人キョウダイの末っ子でした。何よりも故郷・大島村を愛し、キョウダイや甥、姪などとの付合いをとても大事にする人でした。毎年、千葉の特産である落花生やニンジンを送ってくれました。入学や結婚など人生の区切りでは、必ず励ましてくれましたし、ちょっとしたことでも心配し、「大丈夫か」と声をかけてくれる叔父でした。

 私が小学校に入学した時も、わざわざ祝いを持ってきてくれました。なぜこのことを記憶しているかというと、叔父がわが家へ来てくれた日のことで忘れられない想い出があるからです。この日、水源分校からの帰り道、私は雪の「がらんぽつ」(雪に覆われた穴)に落ち、泥だらけになってしまいました。泣きながら家に帰りつくと、そこには大好きな叔父が待っていてくれたのです。うれしかったですね、あの時は。こうした叔父を、親戚中のみんなが「千葉の叔父さん」と呼び、親しんでいました。

 叔父は面倒見の良い人でしたが、挨拶だけはどうも不得手だったようです。私のすぐ下の弟の結婚式の際には、司会者から親戚を代表して一言ご挨拶をと言われ、「挨拶は苦手なので、一曲やらしてもらいます」。司会者から、「いや、それは後ほどお願いします」と言い返され、叔父はたいへん困っていたとのことでした。もう二十数年前になりますが、母は笑いながらこのエピソードを教えてくれたものです。

 叔父は一年に数回、大島村の実家にやってきて、わが家にも一年に一回はきてくれました。母や私たちの顔を見るためです。いつもたくさんの土産を持参し、酒を飲み、楽しい時間をつくってくれました。家に帰れば、きれいな字で必ず礼状をしたためる、撮った記念写真はちゃんと送ってくれる、几帳面な性格の持ち主でもありました。

 その叔父が弱音をはいたことが一度ありました。数年前、直江津の労災病院に「竹平の伯父」(母の兄)を見舞った時でした。駅前の食堂で昼飯をご馳走してくれた叔父がぽつりと言いました。「次はオレの番だよ」。男のキョウダイが次々といなくなり、一人ぼっちになりそうなことをさみしく思ったのでしょうね。

 旅行が大好きだった叔父。棺の中では片方の目をちょっぴり開けていて、いまにも「きてくれたか」と語りかけてきそうでした。顔のそばには、愛用のタバコと大島村のあさひ荘のマッチがありました。ひょっとすると、いまごろ大島村にきているかもしれません。
 (2004年6月6日)

 


第20回 ウォーキング再開

 どんどん歩いてどんどんやせよう。そう思ってウォーキングをスタートさせたのは数年前のことでした。吉川町や近くの町村のいろんな所を歩き、数キロの減量に成功、診療所の山本医師から「やせたね、大丈夫か」と声をかけてもらうくらいになりました。ところが、アカギレなどによる足の痛みを契機に歩く回数が減り、一年数ヶ月前には完全に止めてしまいました。その結果は言うまでもありません。あっという間に元に戻ってしまったのです。それどころか、食生活が変わらなかったため、体重増の道をひたすら歩むことに……。

 その後、運が良かったといったらいいのでしょう、風邪で体調をくずしたことはありましたが、入院するような大病に侵されることなく今日まできました。そしていま、再び、健康づくり、ウォーキングの大切さを意識するようになっています。

 きっかけは高校時代の同期会でした。交流会が始まる前、ホテルの部屋でテレビを見ながらゆったりとしていた時のことです。同室と決まっていたSさんが私よりも遅れて部屋へ入ってきました。その時、彼も私も一瞬、躊躇(ちゅうちょ)しました。前に見た時と比べ、彼はだいぶ細くなっていましたので、私はSさんとは違う人かと思ったのです。そして、彼は彼で、私が誰だかすぐ分からなかったのです。私と二メートルくらいの距離まで近づいてようやく彼は、「やっぱり橋爪か。いや、オレ、これくらいの暗さだとよくわからんのだわ」と言いました。

 じつはSさんは、数年前、糖尿病にかかり、視力がかなり落ちていたのです。昔はがっしりとした体格をしていた彼が違って見えたのは、発病後、減量に努め、一〇キロも体重を落としていたからでした。話を聞いてみると、いまは家業をすべて娘さんたちにまかせていて、自分の仕事は毎日歩くことだけだとのことでした。

 糖尿病とたたかっている人はSさんだけではありませんでした。汽車通だったAさんも糖尿病にかかったというのです。彼の場合、Sさんに比べ、軽度だったようですが、それでも昔のイメージとはかなりちがった体格になっていました。

 同期会では、久しぶりに会った下宿仲間や同じクラスの人たちとビールを飲み、山菜料理などに舌鼓を打ちながら楽しいひと時をすごしました。しかし、私は心の中で、「がっちり飲み食いするのは、きょう限りにしよう」と決意をしていました。この日、体調がいまひとつだったこともありますが、なによりもショックだったのは、Sさんなどの発病前の生活ぶりと私のいまの状態がほとんど同じだったことです。

 同期会の翌日から私のやることは決まっていました。一年数ヶ月前までやっていたウォーキングを復活させること、そしてご飯の量を減らす、甘いものをあまりとらない。さてどこまでできるか。こればかりは他人がやってくれません。健康を守るには自分がその気になって取り組むことが基本ですから、他人に笑われないように頑張りたいと思います。



第19回 方言の魅力

 このあいださぁ、新潟へいぐ用事あってさぁ、ついでに本屋へよってきたが……。そしたら、おもしれえ本、見つけたがど。『おくにことばで憲法を』(新日本出版社)という名前の本でさぁ、憲法の前文と第9条、ほら、戦争放棄のこと書いてあるあれだこて。あれを方言で書いてあるがさね。読んでみて、たまげたね。ものすごく分かりやすいし、ぐっとくるんだよね。

 先日、新潟へ行く用事がありました。その際、本屋に寄りましたら、おもしろい本を見つけました。『おくにことばで憲法を』という名前の本です。憲法の前文と第九条をおくにことば(方言)で書いてあります。読んでみて驚きました。ものすごく分かりやすいし、心に迫るものがあったのです。

 さて、同じことを、この吉川町で使っている方言とそうでない言葉(「標準語」というのでしょうが、この言葉は好きでないので使いませんでした)で書いてみましたが、いかがでしょうか。まあ、このくらいの題材なら、どちらでも分かりやすいでしょう。でも「親しみやすさ」という尺度からみるとずいぶんちがうのではないでしょうか。

 4年前に『幸せめっけた』(恒文社)を出版した時に、中学時代の先輩のひとりがあちこちに住む同級生、親戚の人たちに紹介してくださり、30冊ほど広めてくださいました。その人は、とにかくなつかしい、子ども時代に使っていた言葉が本の中にそのままでてきてうれしくなる、と言っておられました。方言はたくさんありますが、やっぱり、自分が使っていたものが一番。同じ方言を使う人とは、郷土意識というか、仲間意識を共有できます。特に、異郷の地でふるさとが同じ人に会った時がそう、「そいが、そいが、ふんだすけ都会なんてやだてがさ」といった言葉を聞いただけで、親しみがぐっと増します。

 もう一つ、最近、気付いたことがあります。方言にはどんぴしゃりの表現が、たくさんあります。しかもイメージたっぷり。例えば、「バラコクテ」という言葉から、どんなことを思い浮かべられるでしょうか。これは、「整理がしてなくて、散らかっている」様子を言います。部屋の中にいろんなものが出ていて、足の踏み場もない、そういう状態のなかで、お客さんが見えたとします。そんな時に、「かんべね、入ってお茶でも飲んでもらえばいいんだけど、このとおりバラコクテでさぁ」と使います。どこで使いはじめたのか分かりませんが、部屋の中に様々なものが散乱している有様がすぐ浮かぶでしょう。もうひとつ、「ドウズリコキ」はどうでしょう。起き上がって物をとればいいのに、寝たまま動いて手を伸ばす、そんな感じのなまけ者を指すことがすぐ分かりますね。

 大事なことを親しみやすく、豊かなイメージでとらえることができる言葉で伝える。日本国憲法を方言で読む運動は、全国的な広がりをみせています。先の『おくにことばで憲法を』は、岩手や大阪など9つの地域の方言で書かれていますが、残念ながら、私たちの地域の方言では書かれていません。ならば、自分で書いてみたい。わたしら、日本国民、ジチャ、バチャ、トチャ、カチャ、アンサ、アネサ、コドモ、みんなして正義を大事にしてさね、……。



第18回 花外蜜腺

 分からなかったことが分かることは、いくつになってもうれしいものです。スイッカシ(スイバ)とスカンポ(オオイタドリ)を食べた時の微妙な味の違いはどこからくるのか、子どもの頃から疑問に思っていました。それがようやく解明できそうな感じになってきました。

 先日、ある本を読んでいたら、動けない植物はただじっとしているんではない、外敵から身を守るためにそれなりの防御の仕組みを持っているとありました。キイチゴのように茎にトゲをもっているものもあれば、有毒物質を体内に蓄えておいて食べられないようにするものもある。そして、もうひとつ、私が注目したのは、アリと共生して守ってもらうという方法でした。

 それは、花以外の場所から蜜を分泌してアリを引き寄せ、用心棒をしてもらうというものです。植物の蜜といいますと、本来、花の中にあります。この蜜がハチなどの昆虫を引き寄せます。ハチは、意識しているかどうかは分かりませんが、花粉を運び、雌しべにつけるという重要な役割を果たしています。その蜜を出すところが花以外のところにもあるから花外蜜腺=Aおもしろいですね。

 じつはスカンポにも花外蜜腺があることをこの間、初めて知りました。葉の付け根の托葉に赤褐色の蜜腺があり、蜜につられてきたアリは葉を食べる昆虫を補食するといいます。すると、スイッカシの強烈な酸っぱさと違った微妙な甘さはこれが元ではないか。いま、私は何本ものスカンポをポンと折っては食べ、確かめています。

 しかし甘いものにつられて行動するのは昆虫だけではありませんね。かくいう私もそうでした。少年時代、野山を飛び回り、食べられそうなものをさがしました。空腹感を埋めてくれるものであれば、なんでもよかったのですが、それらのなかでも人気があったのは、やはり甘みのある食べものでした。私も仲間と競争して採りに行きました。おそらく戦前から1960年代の頃までの間に子どもだった人たちはみんなそうだったのではないでしょうか。

 野にある甘い食べものの代表格は、春から夏にかけてはキイチゴ、秋はミヤマツだったと思います。このうちキイチゴは田んぼの土手とか、用水路のそばなどにありました。田植えが終わって、しばらくしてからでしたので、6月の中下旬頃だったでしょうか、小指の頭くらいの黄色い実が付くようになると、弁当箱など適当な入れ物を持って採りに行ったものです。

 イチゴを採る時は、手のひらに入るように下からそっともぎます。その際、私が気をつけたのはイチゴをつぶさないようにしたこと、それともうひとつ、ヘタガリ(カメムシ)などの虫を一緒にしないことでした。キイチゴはひとつでも美味しいですが、手のひらにのせた5、6粒を一度に口に入れて食べると、甘さがぐわっと広がって最高です。ただ、数量的にはたくさんはありませんでしたね。小さな実ですので弁当箱に半分でも採れば大収穫でした。

 昔のこと、いまのこと、最近、植物への関心は深まるばかりです。



第17回 送別

 「大東のおとっちゃ、今度、ヨコちゃのとこへ行くがだと」
 四月下旬のある日、母から、そう言われた私は、「そいが、仕方ないこて」とは言ったものの、しばらくの間、言いようのない寂しさに襲われました。

 「大東のおとっちゃ」とは、わが家のすぐ下のところに住宅があった、大東という屋号の家のお父さんで、國治さんといいます。現在八四歳。四年前に火災に遭い、以後、単身で町の中心部にある町営住宅に移り住んでいました。

 大東の家は國治さんだけが男で、あとは全部女という家族でした。正確に言うと、「シンちゃ」という小さな男の子がいたのですが、病気で亡くなり、残った子どもは女の子が四人、それに國治さんの連れ合いと母親という家族構成でした。國治さんは、まさに一家の大黒柱で、細い体で懸命に一家の生活を支えてきました。春から秋までは田んぼ仕事と土方仕事に精を出し、冬には酒屋もんとして出稼ぎもしました。

 一方、わが家は母だけが女、父と祖父、そして四人の子どもは男だけときています。家族の雰囲気もだいぶ違っていました。ただ、大東の姉妹とこっちの兄弟はほぼ同じ年齢構成でしたので、しょっちゅう遊びの仲間にしてもらい、仲良く付き合いをさせていただきました。私も、大東の大きな犬に咬まれたこともあったのですが、それでも遊びに行き続けました。

 大東の姉妹は成長し、次々と嫁いでいきました。みんな良縁だったと聞いています。偶然にも、大東の家もわが家も長く住んでいた蛍場を離れる結果になりました。面白いもので、同じ町内に住んでいると、同じところの出だということで気持ちが通じるというか、連帯感みたいなものを感じます。それだけに、國治さんが吉川町から離れて千葉県に住むという話を聞いた時には、「ついにその時がやってきてしまったか」という思いがしたのです。

 五月になって最初の日曜日、私は國治さんを訪ねました。二日後には引っ越すという時でしたので、同じ蛍場に住んだことのある人、いまも蛍場に住んでいる人がすでに四人も来ていて、お茶を飲んでいました。話したいことがいっぱいあるはずだったのですが、お茶もすすまず、それぞれの家族が元気でいるかどうかなどを少し話しただけ。あとはしっかりと手を握り合ってから、おいとましました。

 國治さんは昔からメガネをかけていて、目はいつも細く、笑っている人です。とてもやさしいお父さんでしたが、私は一度だけ叱られたことがあります。子どもの頃、遊び仲間と一緒に梨泥棒をしているところを見つけられ、「おい、おまんた、うんめか」と声をかけられたのです。しかしその時でも、怖いとは思いませんでした。

 軽トラの中から、さよならをして手を振った時、おやっと思ったのは、「大東のおとっちゃ」の顔が昔のまんまだということです。メガネの奥にある目は細く、いつまでも笑っていました。


第16回 ウド

 春になって楽しみなことの一つは山菜採りです。フキノトウから始まってコゴミ、カタクリ、ウド、ノノバ、ゼンマイ、タラの芽、ワラビ、ミズナと次々に登場する山菜は、春の味と香りを運んでくれるので大好きです。これらはスーパーや道の駅など、どこでも手に入りますが、やはり自分で採ってきたものが一番です。

 こうした山菜のなかでもウドは日の当たり具合や雪消えの時期によって早く出るものと遅く出るものとでは一ヶ月くらいの差があるので、ゆっくり楽しむことができます。私の場合、ウドは採る場所をさがす必要なし。子どもの時から知っている場所へまっすぐ行き、そこでウド採りをしています。

 一番先に採る場所は、かつてわが家の田んぼがあったところの土手。ここは南向きで、太陽光線をたっぷり浴びたいいものが採れるので、毎年、ウド採りのシーズンが近づくと、どれくらい生長したかを確認しに行きます。そして二〇センチほどになったら採る。採った初物はたいがい数本ですが、香りはたっぷり、色も鮮やかで、一本一本がとても貴重に思えます。今年も妻に「ほらっ」と見せると、「あら、いいわね」。家族も初物には敏感に反応してくれます。いうまでもなく、夕食には胡麻和え、天ぷらなどが並ぶことになりますが、この時の満足感はなんともいえませんね。

 同じウドでも親しい友人に贈るものを採る場所は、私の場合、北向きの急な斜面がある谷、それも特定のところに決めています。この場所の特徴は上の方のウドは一時に生長してしまうけれど、下の方は雪がゆっくり消えていくので、いつ訪ねても丁度いい長さのものが必ず採れるところにあります。しかも細かな土や落ち葉などがたくさんあるので、目に見える部分は五センチくらいであっても、思いがけない魅力的なウドが隠れていることが多いときています。鎌でウドの周囲の土をどかす。茎の根元をはっきり確認してからザクッと切り取る。掘ってみると茎の白い部分が太く、二〇センチ前後もあるりっぱなものだった。こういう最高の気分を味わうことができる場所です。先日、エッセイスト・岸本葉子さんの『「和」の旅、ひとり旅』を読んでいたら、「ウド掘り」という言葉が出てきましたが、ここでは「ウド掘り」という表現がよく似合います。

 もう四〇数年ウド採りをして、「採る楽しみ」、「食べる楽しみ」を毎年味わってきましたが、今年は「食べる楽しみ」が「料理して食べる楽しみ」に変わろうとしています。きっかけは、ある家でウドの一夜漬けをご馳走になったことにあります。インスタントコーヒーの空き瓶に味噌を半分くらい入れて、そこに皮をむいたウドを瓶の長さに合わせて切って次々と差し込んで出来上がり。翌日には味噌の味が程よくしみこんだウドが食べられるというのです。こんなにも簡単にできるならと興味が湧いてきて、以来、一夜漬け、天ぷらなどに挑戦しています。ウドとの付き合いは、ますます深まりそうです。


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