春よ来い


第15回 ツバメ

 今年もツバメがやってきました。四月六日、ちょうど小学校と中学校の入学式の日でした。昨年わが家で暮らしたツバメの全部かどうかは分かりませんが、ともかく何羽かは無事に戻ってきてくれたようです。

 わが家へやってきて巣をつくるツバメは、たいがい一組か二組の番(つが)いです。牛舎の入り口、車庫などで適当な場所を選んで巣をかけます。今年やってきたのは一組、これまでにつくられた車庫の中の巣の一つを修繕したうえで再利用しています。

 人間の世界と同じように、ツバメの子育てもたいへんです。何者かによって襲われ、温めている卵を途中でコンクリートに落としてしまったりすることもあれば、まだ飛べないヒナが巣から落ちるハプニングもあります。数年前には、ヒナが何かの拍子に巣から落ちたのでしょうね、床に落ちて猫に食べられてしまったことがありました。床には食い残したヒナの羽が散らかっていました。猫をしかりつけたものの、どうすることもできませんでした。

 わが家のツバメにとって、昨年は最悪の年でした。おそらくカラスに間違いないと思いますが、車庫内の巣づくりを徹底して妨害したのです。その鳥は巣が完成に近づくと壊しにやってきました。それも一度や二度ではありません。執念深く、何度も何度も壊しにやってきました。壊されたので直す、直すと壊される。その繰り返し何度もやった後、とうとうツバメはあきらめてどこかへ行ってしまいました。ただ、救いだったのは、牛舎の入り口のところに巣をつくった番いが残っていてくれたことです。その一組は、子育てを最後までやりきり、遠くへと旅に出ました。

 牛舎の入り口の巣については、車庫での事件があったこともあり、いままで以上に気になりました。大きな鳥やヘビにいじめられていることはないか。巣が壊れていないか。エサはみんなが、ちゃんともらっているか。ツバメにとっては余計なお世話だったかもしれませんが、意識して見るようになりました。

 私より一生懸命だったのは父です。毎日、牛の世話をするたびに巣の様子を観察し、ツバメたちの無事を確認していました。七十代半ばを越えた父は、これまで遊ぶことを知らないかのように仕事一筋で頑張ってきました。その無理がたたったのか、このところ急速に老け込んできました。私から見ればたいして重くもないものが持てない。動作もきわめてゆっくりです。しかしその分、ツバメの観察がていねいになった感じがしました。

 ある時、父が私を呼びました。 「とちゃ、ちょっと来て見ろ」 父はツバメの巣を見上げ、子どものような顔をして微笑んでいました。上を見たら、何羽ものヒナが巣の中から顔だけ出してならんでいます。「かわいいもんだねぇ」二人して何べんも繰り返しました。

 こんな経過があったものですから、ツバメが再びやって来てくれてホッとしています。



第14回 空を飛ぶ夢

 少年時代、いつの頃からだったか分かりませんが、自分の体を使って空を飛ぶ夢を何回も見た記憶があります。飛ぶ場所はたいがい谷間です。たまに、私が育った蛍場の南側の山々だったこともありますが、ほとんどは岩肌が目立つ急峻な山の谷間で、そこには川が流れていました。

 夢というのはおもしろいもので、現実には考えられないようなことがいとも簡単に実現します。空を飛ぶ時には私の両手が大きな役割を果たしました。山の高いところから低いところへ飛ぶ時は、両手を広げ、さーっと滑空します。逆に低いところから高いところへの移動はしんどいものでした。両手を鳥の翼のようにして上下にあおぎました。ゆっくり、ゆっくりあおぐと体が少しずつ上へと上へと浮き上がります。ただ谷間から山のてっぺんまで上がるのは夢の中でもたいへんで、汗をかくこともありました。

 ふり返ってみますと、こういった夢を見るようになった背景には、当時の遊びの影響があったように思います。

 遊びは、言うまでもなく外遊びが中心でした。それもグランドとか公園があるわけではありません。家の近くに子どもたちが勝手にたまり場をつくり、遊びの基地にしてしまう。私が住んでいた蛍場の場合は、集落のはずれにある杉林のすぐとなりの広場がそういう場所となりました。そこは、天気のいい日には野球場になりました。また、かくれんぼにも適していましたし、パッチといって面子遊びの場にもなりました。

 遊びの場は、その広場だけではありませんでした。私には、蛍場に同級生がいなかったので、年上や年下の人たちといつも一緒でした。大きい子や小さな子が一つになって、川や林など周りの自然のなかで自由に遊びました。

 例えば、私たちのたまり場の近くの木にモモンガ(ムササビ)が棲んでいて、モモンガを追う遊びもしました。モモンガの棲む木を手製のバットでコンコンとたたくと、昼間、木の穴の中で休んでいる夜行性の彼らはびっくり。外へ抜け出した後は、川向こうの杉林へと大滑空しました。それをまた追ったものです。ただ、当時から疑問に思っていたのは、低い杉林から彼らの巣がある高いところまでどうやって戻ってきたのかということ。次の日に彼らのねぐらをたたいてみると、ちゃんと戻っているんですから、不思議でなりませんでした。

 その疑問が心の底に残りっぱなしだったものだから空を飛ぶ夢を見たのかもしれません。それとも、モモンガへの憧れがあったか。野山を飛び回っていると、木々や動物たちと一体化した意識を持つことがあるという文章をどこかで読んだことがあります。追いかけて遊んでいるうちに、知らず知らず感情移入してしまい、自分もモモンガの仲間入りして空を飛んでいる。心理学の専門家の方がこの話を聞けば笑われるかもしれませんが、私は、そんな気がするのです。

 それにしても、いまの少年少女は空を飛ぶ夢を見ているのでしょうか。



第13回 町田城


 私たちがいま住んでいるところは、私たちが初めて踏み入れた土地ではありません。大勢の人たちが住み、暮らしてきた歴史があります。ふだんの生活の中ではそのことをまったく意識していませんが、たまにはその歴史にふれてみるのもいいものです。

 この間、町内在住の歴史愛好者の方などと一緒にいくつかの史跡や文化財を訪ねました。意識したわけではないのですが、いずれも上杉謙信の時代にかかわりがあるものばかり。彼の跡目争いの場の1つとなった町田城址、山に入って伐採することを禁じた制札、戦勝祈願の石像などをゆっくりと見てまわりました。

 このうち町田城は、町内に数多くある山城のなかでも、一番気軽に登れ、歴史的な雰囲気をたっぷり味わうことができる場所です。北の方角には米山が望め、近くには顕法寺城址、六角城址も見える。じつに風光明媚(ふうこうめいび)なところです。

 ここのおもしろさは、訪ねるたびに新たな発見や出会いがあることです。今回は5人で登ったこともあって、興味深い見解や推察を聞くことができました。城の一番高いところは平らになっていて、25坪ほどしかありませんが、参加者の一人が言いました。「ここでいくら頑張ったって、何日ももたんわ」。いままで、戦(いくさ)の場としてはどうなのかを深く考えたことがなかったので、言われてみると、なるほどと思いました。城の北側、西側、南側は、海抜150メートルとは思えないほど高さ≠実感させる急斜面になっている。東側も大きな空堀があって簡単には登れない。しかし、水や食糧をどうするかを考えたら、長期戦は絶対無理な場所です。1579年(天正7年)3月7日の戦で、景勝方の上野九兵衛が大勢の兵を引き連れてきて、たいした時間もかけずに攻め落としたのもうなずけます。

 私が気になったのは花です。今回、町田城を訪れた時は野の花が咲き始めたばかりで、ヤマザクラ、ショウジョウバカマ、カタクリなどが咲いていました。前述の町田城での戦いがあった日付がいまの太陽暦の日付とどれくらい差があるのかは分かりませんが、早春であったことは確かでしょう。戦場に咲く花はあったのか、なかったのか。あったとすれば、どんな花が咲いていたのだろうか、と考えてしまいます。もし、カタクリの花が最盛期だったら、東側から攻上った場合、一面に咲く美しい花を踏みつぶしながら戦をしたことになります。これは人間としては、心の中のどこかに抵抗感がある。だから、これより前のできごとだったのではないか、と勝手な推察をしました。

 1579年の町田城での戦い後、しばらくの間、町田の山への入山は許されず、木々の伐採は禁止となりました。戦国時代の大きな事件から四百数十年たったいま、歴史の舞台の近くには高圧線が通り、車の行き来する道が開かれています。しかし大地には昔と変わらぬ美しい花が咲いている。何となく不思議な、ゆったりとした気分になります。



第12回 センス・オブ・ワンダー

 数年前から、自分の感性のなかに何かが戻ってきた、そう感じてきました。道端に咲く小さな花に感動する。小鳥たちのさえずりが歌声のように聞こえてくる。セミが鳴いていれば、どういうふうにして鳴き声がでるのか調べたくなる。それが何だかつかめませんでしたが、子ども時代に体験したものであるということだけはハッキリしていました。

 その感性の復活のきっかけとなったのは雪割草見学でした。まだ雪が残っているある日のこと、数十年ぶりに雪割草を見たくなった私は、子どもの頃、近所の仲間や従姉妹(いとこ)などと行ったことのある山をめざしました。そこは、タヌキのお腹のような形をした小高い山で、タヌキやヤマドリ、それにウサギなどが棲んでいたものです。その山の尾根に白や紫などの雪割草の花が咲いているはずでした。

 子ども時代に歩いた道は雑木におおわれてはいましたが、まだ形が残っていました。途中、春になって一番最初に咲くマンサクの黄色い花に出会いました。体重が増えたせいなのか、山道を登っていくだけで汗をかきます。でもマンサクの花やタニウツギなどの木の芽吹きを見ただけで疲れは吹き飛びます。それに雪の上をなめるようにして吹き上げてくる谷間の風が冷たく、とても気持ちいい。春に向かって動き始めている木々の様子も景色も懐かしく感じます。

 ゆっくりと歩いて約一時間、頂上に着きました。そこでひと休みしていたら、驚きましたね。最近、数が減って、足跡だけでも見るのがむずかしくなったウサギが雪の残っていた雑木林の中を走り抜けていったのです。それだけではありません。「ドドドッ」という音を残し飛び立つものがいました。ヤマドリです。昔と同じ景色があって、ウサギやヤマドリもいる。木々や動物たちが、そこを訪ねた者を歓迎してくれているようで、私はものすごくうれしくなりました。

 あとは雪割草です。子ども時代と同じように雪割草は咲いてくれているだろうか、という心配は数分後に消えました。尾根の北側の急斜面に点々と咲いている姿が目に入ったのです。最上部には、鮮やかなピンク色の雪割草がありました。ナラなどの落ち葉の中から茎だけがすっと伸び、花びらを恥ずかしそうに広げています。これは間違いなく森の妖精≠セと思いました。

 あの時以来だと思います。自分の住んできたふるさとにある木々や野の花などが生き生きとして、いつも感動を伴って私に迫ってくるようになったのは。

 最近になって、私が取り戻しつつあるものと同じ感性の大切さを世界に発信していた作家がいることを知りました。その人の名はレイチェル・カーソン、環境問題を世界のテーマにしたあの『沈黙の春』の著者です。森や海、山などの自然のなかの神秘や不思議さに目を見はる感性を、彼女は「センス・オブ・ワンダー」と呼び、子どもたちに身につけてもらいたいと考えていました。彼女はすでに亡くなっています。私はいま、彼女がやろうとしていたことの百分の一でもできないものかと思っています。



第11回 温かい先生

 3月上旬のある晩、新潟大学国際交流会館一階ホールには、20人ほどの人たちが一人の先生を偲んで集まっていました。参加者はロシア人、中国人、日本人と国際色豊かです。
  一人の青年が一枚の紙を取り出し、読み始めました。「私は新潟大学入学後、学校の近くにボロボロのアパートの一室を借り…」少々ぎこちない日本語ではありましたが、参加者は身動き一つせず、聞き入りました。彼は語り続けます。

     *

  秋が過ぎ、段々寒くなってきた。ある日、ゼミが終わって、先生は私に聞いた。
「高君、新潟の環境に慣れたかな」
「はい、大丈夫です」私は微笑みの先生に答えた。
「あのー、こちらの冬は寒いので、アパートでは寒くない?」
「大丈夫です。私は殆ど研究室にいて、帰ったらすぐ寝るので、心配しないでください」
「いや、寒いだろう。うちに灯油ストーブがありますが、高君にあげようか。新品ではないですけど、使って、部屋を暖めましょう」
「先生、ご迷惑をかけたくないから、いいです。今のまま大丈夫だと思います」
先生は他の用事があり、そのまま研究室に戻った。
 次回のゼミが終わって、先生は、「高君、ちょっと待ってて。僕の車にストーブを置いたが、取って下さい」
「えっ、先生、本当にいいですよ」
「いや、夜は寒いから、体を大事にしないと、研究にも支障が出るよ!」
 先生の好意のお陰で、当夜、私は新潟で初めての温かい夜を送った。その後、先生はそのストーブの話は一度も口にすることがなかった。しばらくして、私はそのアパートから引越しした。退室した日、そのストーブを部屋の真ん中に置いた。次の入居者もそれを欲しいだろうと考えた。
 意外に同じ現社研の楊君が私の次に、その部屋に入居した。もちろん、彼も新潟の冬には恐ろしくない(原文のまま)――そのストーブがあるから。
 去年の春が来る時、私たちの先生は天国に行きました。そのストーブの行方は? 多分、また引き続き、他の留学生へ先生の温かさを伝えているでしょう。
 天国、きっと寒くないでしょう。温かい先生がそこにいらっしゃるから……。

     *

 先生の名前は古厩忠夫(ふるまや・ただお)さん、これまで吉川町には講演などで何回か足を運んでくださった方です。この日、参加者が語ったエピソードは感動的なものばかりでした。病気の時に励まされた。自信を無くしていた時に声をかけてもらった。教官採用試験の面接で何を聞かれるかどきどきしていた時に、「あなたはテニスができますか」と聞かれ、ホッとしたなど……。
 ストーブを先生からもらった高さんは中国からの留学生です。国際交流を大切にし、いつも困難を抱えている人の味方だった古厩先生の人柄が参加者の話から浮き彫りになりました。
 偲ぶ会が終了し、夜遅くなってから、私は急行列車に乗りました。いつもなら疲れですぐ寝てしまうのに、この時ばかりは、心がぽっぽして眠れませんでした。



第10回 最後のお産

 搾乳の仕事をやめることにした時に、しばらくわが家で飼っておこうときめた妊娠中の牛が2頭いました。このうち1頭は、先日、家畜商をつうじてある酪農家に引き取ってもらいました。残ったもう1頭ですが、これがまた、乳房の一部に障害があるうえに、エサの食い込みが悪いときています。とうとう引き取り手が見つからず、今日に至ってしまいました。

 雪がひらひらと舞い降りてはパッと消える、数日前のこと、その牛がお産の時を迎えました。前日から乳房もぐんと張り、そろそろかなと思っていたのですが、お産が間近いことに気付いたのは父でした。老いたとはいえ、長年酪農をやってきた父の感はするどいものがあります。朝のエサくれが終わってまもなく、私のところへやってきた父が、「父ちゃ、きょう、子、生むぞ」そう言ってきたのです。

 しばらくして私が牛舎へ行ってみると、牛はときたまシッポを持ち上げる仕草をしています。もうまちがいありません、お産をするのは。いつでも飛んでいけるように私は管理舎で待ちました。午前11時ちょっと前でしたでしょうか、もう一度、牛舎に入ったら、すでに陣痛がはじまっていました。そこで父にも手伝ってくれるよう声をかけました。直検手袋をつけて子牛の状態を確認したら、子牛は正常の位置にいます。前足も頭もちゃんときている、それで少しは気が楽にはなったのですが、一抹の不安がありました。

 じつは、残っていた1頭の牛はエサ食いが悪いわりにかなり太っていました。こういう牛のお産では、起立不能になったり、子牛が弱弱しかったりで、お産の失敗も少なくありません。ですから、実際に子を引き出してみないと安心できないところがあるのです。

 陣痛は順調に推移し、11時15分過ぎには、子牛の足もゆっくり出てきました。足にロープを巻きつけ陣痛の波にあわせてひっぱります。頭が出てからはするすると子牛を引き出すことができました。ところが、生まれたばかりの子牛は元気がなく、ぐったりしています。目も開けません。これは大変だと、父と二人で子牛をワラで必死になってこすりました。
「ほら、元気だせ、がんばれ」
「死ぬな、しっかりしろ」
 数分後、二人の励ましの声が通じたのか、子牛は目を開け、首を持ち上げました。もう、大丈夫です。全身をよく拭いてやり、毛布に入れた子牛を父と一緒にハッチ(子牛を飼う大きな木の箱)の中まで運びました。

 さて、親の方です。お産が終わるとまもなく立ち上がり、バケツに入れた味噌湯を一気に飲み干しました。この調子なら何とかなると思ったのですが、産後3日たってもエサの方は乾草を少し食べるだけ。これではどんどんやせていくので心配していますが、生まれた子牛に飲ませる乳は出し続けています。自分の身を削ってでも子どもを育てる。母親というのはすごいと思います。



第9回 ひなたぼっこ

 このところ暖かい日が続いています。まだ二月なのに冬らしさがまったく感じられません。もし、まわりに雪がなかったら、冬であることを忘れてしまうでしょうね。

 この間の週末、新聞配達をしていて、いろんなことにハッとさせられました。アスファルト舗装された道路がいやに濡れていると思ったら、雪解け水が流れ出していました。雪が消え、土がのぞいている場所では、もう緑色の植物が姿を見せています。アザミ、タンポポ、それから明らかに雪の下でじっと耐えてきたとわかるノミノフスマなどが緑を広げる準備をしていました。空はといえば真っ青、それも澄んだ青空です。雪の白と空の青に挟(はさ)まれた景色は、どこを切り取っても、額に入れて飾っておきたくなるほど美しい。春先に見られる自然の動きはもう始まっています。

 ぽかぽか陽気だったある日のこと、八〇歳を過ぎた夫婦が玄関先のコンクリートの上に新聞紙を敷き、座っている光景を目にしました。夏場は畑仕事などでがんばっている二人ですが、様子を見るかぎり仕事をしているふうには見えません。仲良く座っているだけなのです。それがあまりにも微笑ましくて、しばらくそばにいたくなるほどでした。

 じつは、この二人、ひなたぼっこをしていたのです。太陽の光を全身で浴びながら、同時に太陽が暖めたコンクリートの感触を楽しむ、それがどんなに気持ちの良いものであるかは二人の座り方や表情がすべてを語っていました。二人とも足を伸ばし、ゆったりと座って、目を細めている、その光景を見ただけで、こちらまで幸せな気分にひたってしまいます。ひなたぼっこで感ずる暖かさには、普段コタツやストーブで感じているものとは違った自然の温もりがあります。だから、この温もりを手でもいい、足でもいい、お尻でもいい、味わってみたい、そう思うのではないでしょうか。

 かく言う私も同じ気持ちになったことがあります。それは、わが家が尾神岳の麓にあった時代のことです。冬が終わりに近づき、家の向かい側にある山々の肌が少しずつ見えてきた頃、お天道様が顔を出す日には、わが家の二階のトタン屋根によく上がりました。目的は一つでした。太陽からトタンが吸収した熱を味わいたかった、それだけです。トタンに手でさわり、頬をつけてみました。「うーん、あったかいー」、とてもうれしくなりました。それから、トタン屋根の上に寝そべる。腹ばいになれば、お腹から、仰向けになれば背中からトタンの熱が伝わってきました。

 春先前の自然の営みのなかで、人間もまた体を変化させていきます。ひなたぼっこをしている時に伝わってくる温もりは、人間の皮膚にぴったり。しかも体全体にジワッと伝わってきます。ひなたぼっこでの何ともいえない心地よさを何回か味わうと、緑の空気をいっぱい吸って汗をかく日々が駆け足でやってきます。



第8回 お茶飲み会

 農家の母ちゃんたちにとって、冬のくらしの中での最大の楽しみの一つはお茶飲み会です。きょう、誰かを誘い、明日は誘われる、そんな繰り返しをやりながらお茶を飲み、おしゃべりを楽しんでいます。先日も、ある母ちゃんの呼びかけで5人の母ちゃんたちのお茶飲み会がありました。5人とも東頸城郡大島村旭地区から吉川町の源地区へ嫁いで来た人たち。同郷のよしみで顔を合わせ、大いに語ろうというわけです。

 お茶飲み会には、それぞれが漬物やお菓子などを持ち寄って集まります。母は、この日のために押し寿司を用意していました。お互いが挨拶をした後、すぐにおしゃべりがはじまりました。

 嫁いでから、短い人でも40年、長い人は50年以上も経っています。「おまさんちのとちゃ(父さん)、達者かね」「子どもさんは何人いなさるね。孫さん、でっかくなんなったろい」まずはお互いの連れ合いのこと、家族のことを聞き合う。それが一段落すると、今度はコタツの上の板に並んだ食べ物に話が及びます。ふきの佃煮、大根の切干、ハヤトウリの漬物、それに母がつくった押し寿司などに手を伸ばしながら、
「うんまく漬けたねや、いい味だわ」
「大根の切干、これ、茹(ゆ)でたがかい」
「なして、なして。この切干はいいかげんでいいがど、トタン板の上に生(なま)のまま広げてさ、干しとけば、あとはお天道様が面倒みてくれる」
などと食べ物談義に花が咲きます。

 そして何よりも賑やかになるのは昔の思い出話です。
「おまさんも、おらも仲人は上(かみ)の先生だったねかね。おまさんとこのとちゃ、背が高くて、いい男だてがで一緒になったそうだと聞いたもんだ」
「そんなことねぇわね、アハハハ」

 苦しかった昔の田んぼ仕事も、いまになればなつかしい。
「○○のかちゃ、田植えしるが早かったこて。さっさと植えて畦のところでタバコを吸って待っていなすったもんだ」
「そう、そう、なんでも早かった。稲をまるけるときにゃ、束がでっかくて」

 ふるさとが同じことは、人間の心をこれほどまでに一つにするものなのでしょうか。「そろそろ家のもんに迎え頼むか」「まだ、いいねかね」こんな調子でなかなか終わりは見えません。午前からのお茶飲み会は夕方まで続きました。

 この日、集まった母ちゃんたちの年齢は60代後半から70代後半。若い頃、夏も冬も仕事でがんばり、まったくといってよいほど遊ぶことのなかった人たちです。すでに第一線から退いてはいますが、まだまだ元気、それぞれの家庭や地域で大事な役割を果たしています。

 お茶飲み会をお開きにする時、ハルミ母ちゃんが何回も言いました。「また、会おうでね」。外はもう薄暗くなっていました。



第7回 ワラはたきの音が聞こえる

 人間の記憶というものは面白いものですね。すっかり忘れていた風景がたまたま聞いた一つの音からよみがえってくることがあるのですから。先日、軽トラを走らせている時に、ラジオから「トントントントン」という音が聞こえてきました。あれーっ、この音、どこかで聞いたことがあると思っていたら、子どもの時に聞いたワラはたきの音と同じでした。

 父が出稼ぎにでていた冬場、わが家のニワ(農作業場)では、祖父や母がワラ仕事に精を出していました。ワラで作っていたものは、ムシロ、ワラ縄、ワラジ、足ナカなどです。足ナカというのは、ワラジの半分くらいの長さのものです。

 こうしたものを作るには、まず乾いたワラを加工しやすいようにやわらかくする必要があります。これが「ワラはたき」とか「ワラたたき」と呼んだ作業でした。少量なら横槌(よこづち)でワラをトントンとやればいいのですが、わが家のように一冬にムシロを何十枚も編んでいた家では、電気モーターの力を借りてでないと、大量のワラはたきをすることはできません。それで父などがモーターの力でプーリーを回転させ、ケヤキの四角い柱を上下させてワラを打つ方法を考え出しました。柱は二本、下に埋め込んである平らで大きな石にあたるたびにトントンという音がしました。

 このワラはたきは近所でも朝早くからやっていました。とくにわが家のすぐ下の大東(屋号)の家からは、どこよりも早い時間にトントンという音がしました。「大東のしょ、もうワラはたきしてなるわ」そう言って祖父たちはワラ仕事をはじめたものです。モーターで動く二本の柱が交互に上下する。そこへワラを入れたり出したり。母や祖父の見事な手さばきには感心しました。自分でもやってみたいという気持ちになったこともありましたが、もしも手をつぶしたら、という怖さがあって手は出せませんでした。

 やわらかくしたワラを使い、わが家で一番多く作っていた物はムシロです。ムシロを編む仕事は一人ではできません。祖父と母がムシロを編む道具の前で右側と左側に別れ、ワラをさし、何本もの細縄を通した木の横棒で圧縮する、その繰り返しを根気よく続けていました。

 こうして一冬で編んだムシロは数十枚にもなりました。その多くはわが家の農作業で使いました。当時はビニールシートなどありませんでしたから、物を干す時、何かを広げる時に使うなどムシロの用途はたくさんあったのです。あまったものはもちろん売りました。

 ある時のこと、母が祖父にしかられているところを見たことがあります。それは、母が祖父に内緒でムシロを何枚か背負い、売りに出かけたからでした。ちゃんと訊(き)いたことがないので、これはあくまで私の想像ですが、母は自由になるお金が欲しかったのだと思います。あの時、母をしかった祖父・音治郎が亡くなったのは四〇年前の三月。ワラはたきの音が響き、ムシロの生産が盛んだった時代はずいぶん遠くなりました。 



第6回 ウサギの肉

 先日、友人からウサギの肉をもらったので久しぶりに食べました。中学校時代に食べて以来、口にした記憶がありませんので、三十数年ぶりということになりましょうか。醤油と酒、それに生姜(しょうが)の入ったものに漬けておいたということで、昔の味をまっすぐに感じることはできませんでしたが、とても懐かしい思いを抱きながらいただきました。

 食肉と言えば、いまは豚肉、牛肉が主流で、家庭の食卓にしばしば登場します。しかし三十数年前の吉川町、わが家を含めほとんどの家では、肉を買って食べることはまずありませんでした。当時は魚は食べても動物の肉は食べない、そういった食生活のスタイルだったのです。というよりも、肉を買うことのできる経済状態ではなかったといった方が正確かもしれません。肉を食べるのは贅沢(ぜいたく)なことで、たまに食べるとすれば、正月などめでたい時ぐらいなものでした。それも買ってくるのではなく、ふだん、たまごをとるために飼っているニワトリをつぶし、肉にして食べたのです。

 そうした食生活でしたので、野ウサギやヤマドリを捕まえることがあれば、それこそ大歓迎でした。家族が喜ぶことが分かっていて、しかも楽しさもある。となれば、子どもたちはじっとしていません。春が近づいてきたことがはっきりと分かる頃、野山の雪がしまってきて、サルトコ(凍み渡り)ができるようになります。この時期がウサギ狩りやヤマドリ追いに最適でした。蛍場に住む中学生たちは、ウサギなどを捕まえるために共同作戦を展開したほか、単独でも行動しました。

 近年、ウサギの足跡を見かけることが少なくなりましたが、当時は、野山にはウサギの足跡がたくさんありました。その中から、タラノキの皮を食べたばかりということが分かるものとか、排泄したばかりだと分かるものなど一番新しい足跡をさがしました。これだと思った足跡を、手づくりの弓矢を持った数人の仲間と一緒にスキーにのって追いました。ウサギの姿を見つけた時の喜びは格別でしたが、捕らえるのは容易ではありません。追いかけるのに夢中になり、スキーごと川の中に飛び込んでしまったこともありました。

 捕まえることのできる確率が高かったのは針金を使ったワナです。農道とか杉林の中など、ウサギの通り道とおぼしきところに針金で作った輪をぶら下げて、かかるのを待ちました。毎朝、かかったかどうかを確認するために出かけました。こうして数羽のウサギを捕まえた記憶がありますが、ワナにかかった時、私は、必ずといってよいほどウサギを捕まえた夢を見ました。

 忘れられないウサギが一羽います。そのウサギはワナにかかったばかりで、ばたばたしていました。助けようと思えば助けることができるタイミングでしたが、「かんべんな」と言いながら助けることはせず、ウサギが静かになるのを待ちました。その肉は、母の得意料理だったライスカレーに入れられました。私はウサギの肉が好きでしたが、その時だけは食べることができませんでした。



第5回 味噌汁の匂い

 久しぶりにドカ雪がやってきました。雪がしんしんと降り続き、夜明けの時間なのになかなか明るくならない。そんな日の朝の話です。前日に除雪した時間が早かったこともあって、降雪量は40センチほどになっていました。私たちの町では、いっぱいの雪をかき分けるようにして一歩一歩すすむことを「雪をこざく」といいますが、こざかないと前にすすめない降り方をしたのでした。

 大量に降り積もった雪は重かったのでしょうね、牛舎のそばにある大きな山桜の枝が折れていました。ちょっと先にすすむと、まだ生長期にある五、六メートルぐらいの高さの杉林があります。その中には、先の方が、いかにも無理やり折られたといった感じでぶら下がっているものがありました。

 この日の朝、私は新聞配達をしなければなりませんでした。軽トラックの助手席には、新聞を高く積んであります。いつもなら昼間の内に配達するのですが、この日はたまたま会議の予定が入っていて、早朝しか配達時間をつくれませんでした。

 新聞配達をしていると様々な光景に出会います。まだ暗い時間帯だというのに、わが町の人たちは本当によく働きます。家族の中に出勤する人がいる家庭では、まず木戸先の道をあけ、ブルが置いていった雪の山をどかす仕事をしている人がいました。車庫から車を出せるように、スノーダンプで雪を運んだり、除雪機で飛ばしている人もいます。大勢の人たちが同じことをやっているものですから、個々の家でやっている除雪作業でありながら、まるで集落の共同作業のようにも見えます。

 山間部に入ったら、降雪量はぐんと増えていました。ある集落に、雪にすっぽりと覆われている小屋がありました。あれっ、これは民話の世界で何度か見たことがある風景だ、と思いました。前夜からの降雪が強烈だったことを印象付けるのは民家の周りにある孟宗竹です。雪の重みに耐え切れず、折れ曲がった竹は、頭といったらいいのか、それとも先の方といったらいいのでしょうか、それを雪の中に突っ込んでいます。折れてしまったものはしょうがないにしても、まだ折れていないものは早めにナタで竹の先を切った方がいい。他人の竹なのですが、ナタで切られた竹が勢いよく立ち上がる姿を想像しながら、そう思いました。

 配達である家に入ろうとしたときのことです。退職して新たな生活を始められたばかりのご主人がスノーダンプでせっせと雪運びをしています。昔からこの家では雪の処理を家族総出でやり、雪と闘い、雪とともに生きていく暮らし方を大切にしておられますが、玄関の戸を開けたときにプーンと匂ってきたものがあります。味噌汁の匂いです。早朝から雪と格闘し、汗をかいて家に入る。そのときに差し出されるであろう味噌汁、これほど疲れを忘れさせてくれるものはありません。一杯の味噌汁は、昔も今もホッとした時間をつくりだしてくれます。私も早く家に戻りたくなりました。



第4回 乳搾りに終止符

 2004年1月20日。わが家の酪農の歴史はこの日で終止符を打つことになりました。親子二代、約40年にわたって乳牛を飼い、乳を搾ってきましたが、この日の朝の搾乳が最後となりました。最高時24頭いた乳牛は2年ほど前から徐々に減らし、最後に搾った時の頭数はわずかに6頭でした。

 わが家の酪農は父が始めたものです。父には、出稼ぎをやめて冬でも家族みんなで暮らしたい、という強い思いがありました。しかし山間部での酪農は厳しく、急傾斜地の野草を刈り、鉄索(てっさく)で運搬するなど平地での酪農にはない苦労がありました。特に冬は、牛乳の出荷だけでも悪戦苦闘の連続でした。20数年前から、出稼ぎを再開した父に代わって私が仕事を引き継いだ形になりましたが、わが家の酪農の中心にはいつも父がいて、議員活動で手薄になりがちだった私の仕事を支えてくれました。

 この日、家畜商が午後3時ころにやってきて、搾乳中の牛たち全部を連れていくことになっていました。私は、牛たちと別れることには慣れています。しかし、この時だけはその場面にいるのがいやで、役場での会議が終わってもすぐ家に戻る気がしません。少し遅くなってから牛舎へ向かいました。ところが、下町の信号機の近くで見えたのです、わが家の牛たちを乗せた家畜商の車が走っていくのが。私は、心の中で「ごめんな」と詫びました。

 いま牛舎の中にいる乳牛は2頭だけです。3月にお産をするこの牛たちは、お産を前にして乳搾りを休んでいるところで、まだ行き先が決まっていません。仲間の牛たちがいなくなってから、私がそばに行ったら、2頭とも私の顔をじっと見つめ、「みんな、どこへ行ったの」と聞きたそうな目をしています。この2頭だけでもわが家の牛舎に長くおいてやろう、そう思いました。

 搾乳をやめた日の夕方、大潟町に向かう途中、トラクターに乗って仕事をしている酪農仲間の田中さんに会いました。「俺、きょうの朝で搾乳やめたんだわ」と言うと、「しかたないさ、ご苦労さんだったね」という言葉が返ってきました。酪農をやめた人たちから、「やめた時には涙が出るよ」と聞かされていたのですが、再び軽トラックに乗って走り出したら、もう駄目。それまで一粒も出なかった涙がぼろぼろと出てきて止まりませんでした。

 私の酪農は議員と二束わらじをはいた中でのものでした。よい成績は残せませんでしたが、酪農仲間や獣医さん、共済組合の家畜担当のみなさんなど大勢の人たちに助けられ、人のやさしさをいっぱいもらったことが最大の財産となりました。私が牛舎で倒れた時、すぐに駆けつけてくれ、仕事を手伝ってくれた西井さんと中嶋さん。町議選の時に「乳を搾っていたんでは危ない」と遠く大和町から泊りがけで応援に来てくれた山口さん。牛が死んでがっかりしていたら香典とろうそくをもってきて励ましてくれた山岸さんなど、お世話になった方々に心から御礼申し上げます。ありがとうございました。



第3回 捨てるものがない社会


 先日、友人とともに「昔のくらし展」という催しに出かけてきました。「昔のくらし」という言葉にひかれて行きたくなったのですが、私がこの言葉から連想するのは何よりも雪と冬です。ふたつは交じり合い、一体となって強く印象に残っています。

 雪は重い。私にとって、雪は一日でも遅く降ってもらいたいものでした。降り積もった雪は一時も早く解けてほしいとも思いました。

 「くらし展」の会場で目に飛び込んできた数々の民具の1つに木鋤(こすき)があります。木で作られた平らなスコップとでも呼べば、どんなものかお分かりいただけるでしょう。これをどこで使ったか。わが家の場合は、大屋根に上って1メートル以上にも降り積もった雪を切る道具として使いました。雪を四角に切って下に投げ捨てる、その際、雪が付くこともなく、とても便利でした。わが家は二階建で、大屋根というと、5メートル以上の高さがあって怖さを感じたものです。父が出稼ぎで留守の間、家を守るのは祖父と母と我々子どもたち。祖父の体力が落ちてきてから何回か大屋根に上りましたが、そのたびに父がいないさびしさと切なさを味わったものです。

 もう1つ、なつかしく感じたのは黒い行火が入ったコタツです。行火の中に普通の炭をおこして入れ、布団をかける。それだけのものですが、豆炭コタツがはやるまではコタツの主流だったように思います。

 行火入りコタツを見た友人が言いました。
 「子どもの誰かが寝小便たれた時、このコタツで布団干したもんだ。そうすると小便の臭いがフワッとしたこて」 この話を聞いて私もその臭いがよく思い出されました。わが家にも寝小便小僧がいたからです。

 昔のくらしの中の数々の民具や農具。展示されているものを一つひとつ丁寧に見ていくと、木や草など身近にあるものをしっかり利用し、自分で工夫してくらしに生かしていたことがわかります。また、ほとんど捨てるものがない。捨てても自然を汚さず、自然に還るものばかりであったことに気付かされます。 昔は石油製品がなかった時代だからそうなっただけさ、という人もいます。しかし私は、それだけだとは思えないのです。牛を飼って厩肥えを積む。生ごみは厩肥えの上にあける。よく腐らせた堆肥は田畑に戻して土づくりに生かす。農産物はできるだけ自給し、収穫したものは一粒たりとも無駄にしない。昔は完全に循環型社会ができていました。だから罰(ばち)があたらなかった。現在のくらしはどうでしょうか。昔に比べれば飛躍的に便利にはなりましたが、ものは大切にしない。地域循環どころか、どんどん捨てるものをつくり、自然を汚しています。どう見ても、昔のくらしのスタイルの方が上、私たちは昔のくらしに学ぶことがありそうですね。



第2回 忘れられない元日


 新しい年の最初の日、元日。時の流れとしては前日と変わらないのに、新鮮さがあり、気持ちにもひきしまったというか、緊張感があります。子ども時代の元日については一つや二つ忘れられないことがあってもよさそうなのですが、まったくといってよいほど思いだすことができません。どういうわけか、記憶に残っているのは牛飼いに関することばかり。それだけ牛飼いのことが私の記憶の中で重みがあるのでしょうね。

 私が出稼ぎを再開した父に代わって乳搾りをしはじめた頃、正月の三が日は特別な仕事が待っていました。朝の搾乳が終わってから、搾った牛乳を旭農協(当時)の集乳所まで運ぶ仕事です。いつもなら農協の職員がトラックで運んでくれるのですが、この時は職員が休みとなり、誰かが運搬をしなければなりませんでした。それで、私がトラックを運転し、わが家の牛乳だけでなく、村屋や福平、中谷内、原之町などでよその酪農家の分も乗せて運ぶことになったのです。

 三が日、なかでも元日は、仕事が休みのところがほとんどで、たまに仕事をしている人の姿を見ると、敬愛の念をいだいたものでした。だから自分が仕事をする立場に立った時、気分は上々でした。牛乳を運搬していると、声をかけてくださる方が何人もおられました。特に原之町で牛乳をトラックに乗せる時間帯は、新年会の開会時間の少し前とあって、「おい、がんばってんねか」「ご苦労さんだねや」と励ましてくれる人が大勢おられたのです。「ふだん、仕事らしい仕事もしていないもんで……」と、遠慮がちに答えたものですが、うれしかったですね、そう言われるのは。

 酪農の仕事には盆も正月もありません。毎日エサくれはあるし、搾乳もしなければなりません。そういう中で元日は集落での新年会もある。かつてのような牛乳運搬の仕事はもうありませんが、けっこう忙しい日になります。

 もう10年以上も前のことですが、一生に一度あるかないかくらい忙しい元日がありました。その日は、朝の搾乳がはじまる前に1頭が産気づき、たしか搾乳中だったと思いますが、子牛が誕生しました。いつもより小さな子牛だったので、ひょっとしたらもう1つ子牛がいるのではと直感。調べたら、案の定、もう1頭います。9時から集落の新年会ですので、早く無事に産まれることを祈りました。そうしたら運良く、2頭目もすんなりと出産し、これで新年会に出ることができる、と楽々しました。

 ところが、搾乳後の後片付けも終わって、「さあ、お風呂に入ろう」という時になって、今度は別の母牛が産気づき、なんと、この牛も双子の赤ちゃんを産んだのです。結局、この日は4頭も子牛が誕生、その騒ぎで新年会への出席は不可能となってしまいました。私にとっては、忘れることのできない元日でした。
 (2004年1月11日)



第1回 大晦日の夜に


 大晦日は一年の区切りの日。その日が終わって新しい日が来ると、新しい年を迎えることから、年越しともいいますが、昔は「年取りの日」ともいいました。いまの子どもは、誕生日を祝ってもらい、翌日には年がひとつ増えますね。私の子ども時代は、そうではありませんでした。誕生日といっても、わが家では、祝いの言葉を交わすこともなく、なんら特別のことをしませんでした。しかし、「年取りの日」は違います。夜の12時を過ぎ新しい日が来ると、家族みんな、年がひとつずつ増えました。元旦の朝、祖父は、「あにゃ、今度はいくつになった」と私に声をかけてくれたものです。新年を迎えることは自分の年が増えることでもありました。二つの目出度いことのおかげなのでしょうか、大晦日は、普段食べることのできない、ご馳走が飯台の上に並ぶことになったのでした。

 おそらくどの家庭でも、大晦日の夕食では、一年の中で一番のご馳走を準備するでしょう。私の子ども時代、裕福な暮らしをできるような家ではありませんでしたが、わが家も、この日の夕食だけは奮発しました。母は、この夕食作りに時間をかけていたようです。ぜんまいの煮しめ、黒豆やササギの煮たもの、サツマイモやゴボウ、ニンジンなどの天ぷらなど、何品ものおかずをつくりました。その時の匂いは、「流し(ながし)」から居間までただよっていたものです。母がご馳走の支度をしている時、私たち兄弟は、美味しい匂いをかぎながら遊びました。そして待ちに待った夕食。出稼ぎから父が帰ってきた時も、帰ってこなかった時も祖父が中心になり、楽しく食べました。この時に食べたものの中には、確か、「年取り魚」というものがありましたね。サケです。この魚を食べると、年を取ることができる。そう言って教えてくれたのは、祖父だったか、母だったか。

 夕食が終わってからのことで忘れられないのは、ドーナツづくりです。まだテレビが入っていませんでしたから、小学校に通っていた頃のことだと思います。何年間くらい続いたかは覚えていませんが、弟たちと一緒に楽しくつくった記憶が残っています。きっかけは何だったか分かりません。ドーナツは、母が天ぷらづくりに使った油で揚げました。小麦粉に卵とちょっぴり膨らし粉を入れてかき混ぜ、かために練る。それを伸(の)して、ドーナツの形にする。これを天ぷらなべに入れて揚げればできあがりです。焦がしてカリカリにしてしまうこともありましたが、うまく膨らんで美味しく揚がったものは、兄弟の間で見せ合いながら食べたものです。家族がバラバラになっているいま、私は、大晦日のドーナツづくりをもう一度やってみたいと思っています。
 (2004年1月1日)


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