春よ来い(9)


第105回 寄り添う

 先日のことです。母の様子がおかしいと長女が教えてくれました。「頭がフラフラするらしい。すぐに医者に連れて行くまでもないとは思うけど、ちょっとへん」そう言うのです。寝ている母のところに行くと、まったく元気がありませんでした。たまに頭を持ち上げようとしますが、その度に「だめだなぁ」と言います。

 母はこれまでもフラフラして起きられなくなったことが何回かありました。たいがいは疲れからきています。夜遅くまでコンニャクづくりをしていてよく眠らなかった時とか、何日か連続で長時間にわたって畑仕事などをした時に同じような目にあっています。ひどい時には自力で用を足せなくなってしまったこともあります。それでも、医者にかかって点滴などの処置をしてもらえばまた元気な状態に戻れました。

 今回は、めずらしく下痢をして二日間も寝込んだ、その直後です。数日前、従姉が、「ばあちゃん、最近、顔の色が黄色いね。どこか悪くない?」と言っていました。そして、もうひとつ、私が「一緒に寝てやるかね」ときいたところ、うなずいたのも気になりました。ひょっとしたら、これまでとは違った変化が体の中で起きているのかも知れないと思いました。

 母の寝室には一年半前まで父がいました。ここは父と一緒に長年寝ていた部屋であり、入院する直前まで父がベッド生活をしていたところです。私は、父のベッドが置いてあった場所に布団を敷いて母と並んで寝ました。

 布団に入ってもなかなか眠れませんでした。ティッ、ティッ。部屋にある、一秒ごとに時を刻む柱時計の音だけが聞こえてきます。そして、父がここで暮らしていた当時のことが次々と浮かびました。「おい、おい」と家族を呼んでいるところとか、父専用のレコーダーから氷川きよしや三波春夫の歌が聞こえてくる様子など……。ベッドから滑り落ちて動けなくなった父の姿も浮かびました。

 部屋にはタバコの臭いもまだ残っています。言うまでもなく、父の吸っていたタバコの臭いです。入院していた時、何をしゃべっているかよく分からなかったので、「何を言いたいがだね」と父にたずねたら、大きな声で「タバコ!」と答えるほどの愛煙家でしたので、体の状態が良い時はスパスパと吸っていたに違いありません。部屋に染みついたタバコの臭いもまた父を思い出すことにつながりました。

 眠っている母は体をほとんど動かしませんでした。布団から小さな顔をちょこんと出し、寝息すら聞こえないほど静かに寝ています。そっと顔を近づけて様子をみると、体重が四〇キロにも満たない母はまるで子どものようです。ただ、顔はしわだらけ。改めて、「年をとったなぁ」と感じました。

 真夜中に母が布団をめくって起きようとしました。「どうしたがだね」ときくと、「トイレ」と言います。抱き起こして、トイレまで連れて行こうとしたら、「なんともね。大丈夫」。そう言って、ひとりでトイレまで行きました。父や母の「なんともね」はあまり信用しない私ですが、これで、ずいぶん気が楽になりました。

 母と一緒に寝たのはおそらくお盆泊りで母の実家に泊めてもらった時以来のことです。子どものころは、よそへ行っても母と一緒に寝ることで安心して眠ったものですが、母を安心させてあげるために一緒に寝たのは初めてでした。ティッ、ティッ。母の寝室の柱時計の音は、母の体調が良い夜であっても、たまには聞くようにしたい。
(2009年6月)



第104回 特別参加

 わが家の次男が結婚し、先日、結婚式と披露宴を行いました。私たち夫婦の子としては一番最初です。若いふたりが数か月にわたって準備をしてきましたので、どんな企画で行われるのかとても楽しみでした。

 結婚式はホテルのチャペル(キリスト教式の結婚式の雰囲気で結婚する為の施設)で執り行われました。花嫁は純白のウエディングドレス、新郎は白のタキシード姿です。バージンロードを歩く次男は背筋を伸ばし、いつもより背が高く感じられました。自分の子が大きくなって新しい旅立ちをする姿はいいものですね。

 ふたりは家族、親戚、中学・高校時代の友人、元の職場の同僚など大勢の人たちが見守る中で結婚の誓いをしました。さぞかし緊張するにちがいないと思っていたのですが、ふたりが発する言葉は明瞭で、しかも落ち着いた雰囲気がありました。緊張したのはむしろ私の方です。私は妻と最前列に座って参列しましたが、新郎新婦が退場した後、一番最初に席を立ったり、バージンロードを歩くのかどうか迷ったり……。

 式が終わってからは予想外の展開でした。チャペルを出てホテルのガーデン(庭)で参列者全員が風船を持ち、新郎新婦の合図でいっせいに飛ばしました。ガーデンはビルの谷間といった空間です。大空に飛び立っていく風船は希望を感じさせてくれます。みんなが空を見つめ、笑顔になりました。そして、同じ場所で記念撮影。カメラマンは参列者を見下ろす位置から撮りましたので、参列者はチャペルを見上げる姿勢で写っているはずです。次男によると、参列者へのお礼に使うのだとか。中学時代から「みんなで何かをする」経験を積んできたふたりならではの企画でした。

 披露宴は涙の連続でした。この日の披露宴には八五歳の母と九〇歳を超えている新婦のおばあちゃんも参加してくれましたが、新郎新婦からこの二人へのプレゼントがありました。母は何も知らされていなかったようで、こぼれ落ちる涙をハンカチでふきつづけていました。新婦のおばあちゃんも泣きっぱなしでした。

 披露宴には四月に他界した父も特別参加です。孫の結婚式を誰よりも楽しみにしていたのは父でした。披露宴では「三ころ突き」か「長持唄」を歌って盛り上げてあげたい。父が元気であれば、そう思っていたにちがいないと感じた妻は、結婚式の一週間ほど前、「ねぇ、じいちゃんにも結婚式に出てもらおうよ」と私に声をかけてきました。妻の提案は父の写真を持参することでした。もちろん、私は大賛成です。

 父の写真は母がいるテーブルの上に置きました。礼服を着て、白いネクタイをつけた写真です。小さな額に入れ、新郎新婦の席の方に向けて立てました。これなら若いふたりの晴れ姿が見えます。スライドで大きく映し出された孫の顔も見えたはずです。そして父の出番がやってきました。参加者のトップをきって「長持唄」を披露してくれたのです。これは音声参加。「アーアーッ、きょうはなアーッ」スピーカーから流れ出る歌声は喜びにあふれていて、会場に響きわたりました。

 結婚式、披露宴ではふたりの成長した姿を確認できました。これが何よりもうれしい。次男はしゃべるのが苦手だったのに、いつのまにか余裕を持ってスピーチできるようになっていました。スライドを使った新郎新婦の紹介をじっと見ていたら、ふたりの息はぴったりでした。最後の新郎の挨拶。どんなにつらいことがあっても、名前のとおり生きていけば元気になれる、笑顔が出ますと挨拶しました。そういえば、この日、ふたりは最初から最後まで笑顔がいっぱいでした。
(2009年6月)



第103回 ベニコブシ

 八日の午前十一時頃でした。病院から、「(父の)容態が急変した、すぐに来てほしい」と電話が入ったのは。市議選の応援で糸魚川市能生地区へ行っていましたので、高速道路で病院へ直行。病室に着くと、看護師さんたちが心臓マッサージをしているところでした。死亡が確認されたのは午前十一時五四分、私が病室に着いて数分後です。担当医に聞くと、痰がつかえたらしい。死因は急性呼吸不全でした。

 父は今月の四日頃から熱が上がり、死亡した前日には三八度七分もありました。でもこの日の朝は下がりはじめ、三六度八分になっていましたので、いつものように回復してくれるものと確信していました。

 父とはこの日も朝の挨拶をかわし、五分ほど話をしました。話といっても、父の発する言葉はほとんど分かりません。分かるのは、「おれ」「たばこ」くらいなもの。ただ、こちらの言わんとすることはほとんど理解できていたようで、こちらから質問すると、首を縦や横に振って回答してくれました。

 父との最後の会話は午前八時五〇分頃でした。「夕方にはまた寄るからね。さみしくてもがまんだよ」と声をかけると、父は首を縦に振ってくれました。まさか、それから二時間後に急変するとは思いませんでした。

 わが家の庭では七日、ベニコブシ(紅辛夷)が開花しました。父の大好きな花です。この花を父はミニコブシと呼んでいました。家にいたころは、お客さんが来ると必ず、「きれいだねかね。おらちのミニコブシ見てくんない」と言っていた自慢の木であり、花でした。家族は言うまでもないことですが、近所の人や親戚の人たちも何人かはこのことを知っていました。

 というわけで、私はこのところ毎日、庭のコブシを観察し、いつ花が開くかと待ち続けていました。わが家のベニコブシ開花のニュースは誰よりも早く父に伝えたいと思っていたのです。

 七日、私は咲き始めたばかりのベニコブシのひと枝を病室に持ちこみました。「ほら、じいちゃんが植えたコブシの花が咲いたよ。きれいだよ」と言って顔に近づけて見せると、父は大きくうなずいて喜んでくれました。花はリポビタンDの小瓶に入れ、窓際のテーブルの上にかざりました。体を窓側の方に向けてもらったときには、父の目に入ったはずです。病室のベニコブシは朝の段階では咲き始めたばかりでしたが、この日の夕方には満開といったらいいのでしょうか、パッと開きました。父はそれを見てホッとしたのかも知れません。

 父がわが家に戻ったのは一年四か月ぶりです。午後二時過ぎ、家に着くと、庭のベニコブシは満開となっていました。そこへ父が戻ったことになります。この日は青空も広がり、ベニコブシの花がじつにきれいに見えました。気に入ったのは人間だけではありません。ハチたちもまたこのコブシの木の周りを飛び交っていました。車から父を降ろす時、父の声が聞こえたような気がしました。「おい、とちゃ、見てみろ、ミニコブシがきれいに咲いているど」。

 父が家に戻ってから、親戚の人たちが次々とやってきました。父の姉妹三人も翌日には顔をそろえました。「じいちゃん、いいときに帰ってきたね」親戚の人たちの間でもこのコブシが話題の中心です。十一日の葬儀の時、棺の中には父が好きだったものをたくさん入れてあげようと思っています。もちろん、ミニコブシの花も。
(2009年4月)



第102回 手をつなぐ

 先日、二十数年前のビデオを久しぶりに見て思わず微笑んでしまいました。このビデオは、妻の絵本作りをNHKが取材し、放映してくれたものです。微笑んだのは私が長男の手をひいて歩いている場面です。長男はまだ二歳くらい、指しゃぶりをしてしっかり父親の手につかまっているではありませんか。

 正直言って、私が子どもの手を引く、手をつないで歩いたというのはあまり記憶がありません。人間がたくさん歩いている都会へ一緒に出かけたこともありませんし、子ども会などで出かけた遊びの施設でも手をつないだ記憶が残っていないのです。でも実際はそうではなかった。買い物であれ、遊びであれ、小さな子どもたちと歩く時はいつも手をつないでいたんだと思います。ビデオを見たとき、「こんなときもあったのか。それにしても大きくなったもんだ」と思った次第です。

 このビデオを見てから、最近は、親子などの手をつないでいる姿に目がいくようになりました。意識しようとしまいと、人と人が手をつないでいるところは、けっこう目にします。保育園や学校、デパートの中、商店街の通路、駅構内などひと組やふた組はかならずいます。

 このあいだ、頸城区で、オレンジ色のベストを着た、だいぶ腰の曲がったおじいさんが小さな男の子の手を引いている場面にたまたま出合いました。通学バスの停留所まで送るところです。子どもさんはおそらく、小学校の一年生か二年生でしょう。ふたりは体を寄せ合って歩き、どちらがひっぱられているのかわからないようなところがあって、じつにほほえましい光景でした。そして、背を丸めて歩いているこのおじいさんの姿からは孫さんを大切にしている気持ちがあふれでていました。

 手をつなぐのは親や祖父母が子どもや孫の手助けをする時だけではありません。その逆のこともあります。恋人同士が手をつなぐ姿もある。障がいのある人を支えて、手をつないでいるケースもあります。たくさんの「手をつなぐ」姿がありますが、そこに共通しているのは、手と手をつなぐことで人と人がつながっていること、心と心がつながっていることです。

 二月の下旬。私は母を市内の病院へ連れて行きました。八〇歳を超えてもほとんど医者にかかることのない母ですが、これまで良かった視力が徐々に低下してきています。それで眼科にかかって治療を受けているのですが、受付を済ませ、呼び出しがあるまで待てばいいところまで付き添って、あとは母に任せて市役所へと急ぎました。会議があったからです。

 この日、治療が終わってから母を家に送り届ける役目は弟に頼みました。診察が終わったのは正午過ぎだったとかで、弟は仕事先で待ちきれず病院まで行ってくれたとのことでした。たまたま、病院で弟と母の姿を見かけた人がいて、その人が翌日、私に教えてくれました。「おまんちのおばあちゃん、病院で弟さんに手をひいてもらっていなったよ」と。私は、病院で母と手をつなぐということを一度も思いついたことがなかっただけに、とても新鮮で、うれしく思いました。

 私も還暦が近づいてきました。まだ体はしっかりしていますので、子どもや妻などの世話になることはまったく想像していません。でも、人生、いつ、何があるかわかりませんね。体力が落ちて弱った時に、だれか手をつないでくれる人がいるかどうか。そんなことを考えるようになりました。
(2009年3月)



第101回 指相撲

 妻の実家へ新年の挨拶に出かけた時のことです。義父母や義姉夫婦などと一緒に食事を済ませた後、義父と妻が、指相撲を始めました。義父のベッドに腰をかけ、親子で勝った負けたとやっている光景を見て、思わず微笑んでしまいました。

 指相撲は、人差し指から小指まで、お互いしっかりと組んで、親指だけを動かして相手の親指を一定時間押さえつけた方が勝ちになります。力だけでなく、瞬時に相手の親指を押さえこむ巧みさも求められる遊びです。盛んに親指をくるくる回しながら、つかまえようとして逆に押さえられてしまった妻。「わー、父ちゃん、やっぱり強いわ」「じゃ、今度は左手でやろさ」などとはしゃいでいました。

 結婚してから三十数年、正月と盆には必ず妻の実家を訪問してきましたが、親子がこんな遊びで盛り上がる姿は見たことがありませんでした。親は八十代の半ば、子は五十代の半ばです。ともに子を持ち、親子関係のいろんな場面を経験してきています。お互いそれ相応に年を重ね、昔に戻って楽しむときの心地よさを知っていることもあると思います。でも、それだけではない、何か、微妙な変化が生まれているような気がしました。

 先日も、妻から興味深い話を聴きました。たしか、十二月議会で私が忙しかった頃だったと思います。「俺は行けないよ」と言ったところ、妻が一人で実家に遊びに出かけました。夜遅くなってしまい、その夜、妻は柏崎の実家に泊まることになりました。嫁ぎ先が近いこともあって、泊まるのは数十年ぶりでした。十一時半過ぎまでたっぷりおしゃべりを楽しんで、さあー寝ようという段階になって、妻がどこで寝るかをめぐり義父母の間で「引き合い」が始まったというのです。「ここで寝ればいいこて。コタツのそばで寝ろや」「わたしの横で寝るよね。あったかいよ」。軍配は、言葉に力のある義父でなく、暖かいカーペットの上にサッサと娘用の布団を敷いた義母に上がりました。

 義父母と妻の間に微妙な変化が生まれたのは、持病の間質性肺炎が悪化して義父が緊急入院した一昨年の五月以降です。

 緊急入院した柏崎の義父が一か月後に退院して、自宅で療養生活するようになってから一年と七か月になりました。この間、人工呼吸器を付けたままになるかどうかの瀬戸際のところで自呼吸を再開した父親の生命力に感動したということがあります。「夏場を越えることができればいいのですが」とまで医師に言われていたにもかかわらず、二回の夏場を無事乗り越えることができた父親にたいして愛(いと)おしさが増したこともあるでしょう。義母も体力を落としつつあります。どうあれ、妻は、親がこれまで以上に大切な存在として感じられるようになったのだと思います。

 義父は、ディサービスには一週間に一度だけ行きます。後は、在宅酸素療法をやっていることもあって、ほとんど外出しません。居間だったところには義父のベッドが置かれ、そこが義父の普段の生活空間となっています。トイレ、お風呂、それと「自分の仕事」にしている一階のカーテンの開け閉め以外はベッドの上での生活です。

 これまで更年期障害からなかなか脱出できず、両親に心配をかけてばかりいた妻も、最近は、実家を訪ねることが多くなりました。自分が訪ねることで両親が生き生きする姿を見ることができるからでしょう。ひょっとすると、指相撲は実家へ行くたびに父親とやっていたのかも知れません。
(2009年1月4日)



第100回 赤とんぼ

 今年の秋はいつもと違う、このごろ、そんな気がします。ミンミンゼミが一〇月半ばころになっても鳴いていたり、季節はずれのスイレンが咲いている。それもありますが、何よりも赤とんぼが少ないのが気になります。

 私が尾神岳のふもとで住んでいた時も、現在の代石というところに移り住んでからも、毎年秋になれば、たくさんの赤とんぼの姿を見てきました。田んぼでワラ集めをしている時、無数の赤とんぼがトラクターの周りを飛び回る。水たまりに腹部の先端を打ちつける。空中でオスとメスが連結(合体)したまま飛ぶ。そうしたとんぼたちの様子は秋のごく普通の風物詩だと受けとめてきました。 それがどうでしょう、今年は、晴れた日の夕方であっても、赤とんぼは指で数えることができるほどしかいないのです。

 この秋、赤とんぼの大群と出合えるかと何度も足を運んだ場所がいくつかあります。ひとつはわが家の牛舎の堆肥舎付近です。そこは、無数の赤とんぼが夕日に照らされてキラキラと飛んでいたことがしっかりと記憶に残っている場所のひとつです。堆肥を運び出す作業をしている時に、赤とんぼたちはトラクターの周りを飛び交い、トラクターのボディや排気筒の先端、そして私の体にもとまったものです。付近の建物のトタン屋根、それから建物と木の間に張ってあったロープにもとんぼたちが行儀よく並んでとまっていました。ところが、今年はいつ行っても数匹の赤とんぼがいるだけです。空いっぱいに広がり飛んでいたとんぼたちは一体どこへ行ってしまったのでしょうか。

 吉川の下流域にある代石の田んぼも赤とんぼがたくさんいた場所として忘れることができません。ここは、二〇年ほど前、赤とんぼたちが次々と産卵する光景を見た感動の場所です。真赤なアキアカネの大群がやってきて、雨あがりの田んぼの水たまりで腹部を打ちつけては飛び立つ。幾組もの連結した赤とんぼがこれを繰り返していました。赤とんぼといっても、胴体部分が必ず赤くなるとはかぎりません。ほとんどは茶系統の色をしています。ですから、真赤なとんぼの大群を見るだけでも見事な光景だなと思っていました。それが産卵もしていたのです。印象は強烈でした。残念ながら、ここも今年は、ほんの数匹しか飛んでいませんでした。

 こう書くと、昔から赤とんぼの飛び交う様子をゆっくりと観察していたのではないかと思われるかも知れません。でも、これまでなかなかそういう時間はありませんでした。赤とんぼの羽は四枚であり、足は六本ついている、大きな眼は複眼で、羽をつかんで人間の顔を近づけるとぐるりと回すことがある、といったことなどは昔も見たことがあるのでしょうが、最近になって、なるほどと思いながら確認しています。

 赤とんぼは、とんぼとしての生活の中で私たち人間と出合います。人間と出合うために飛んでいるわけではないと思いますが、空が赤く染まるころ、空を無数の赤とんぼたちが飛び交い、人間の周りにもやってくる、その様子は、私たちの暮らしの中で当たり前のものとして定着しています。

 子どものころ、夕陽を浴びてとんぼたちが空を舞う姿はいいものでした。大人だって同じです。どんなに忙しくても、たくさんの赤とんぼの姿を見ると気持ちがふわっと温かくなります。何となく幸せな気分になります。赤とんぼが少なくなったのがたまたまであって、地球温暖化の影響でなければいいのですが。
(2008年10月26日)



第99回 落ち穂拾い

 ご飯はひとつぶでも残すな。バチがあたるぞ。私が子どもの頃、父や祖父・音治郎に言われた言葉です。いつも空腹を感じていた時代でしたので茶わんに盛られたご飯を残すことはめったになかったはずなのですが、なぜか繰り返し聞かされた記憶が残っています。

 当時、わが家は吉川町(現在、上越市吉川区)のシンボル、尾神岳のふもとにありました。そこで、八反(八〇アール)ほどの田んぼを耕作していました。この田んぼでとれた米を売って得る収入がどれほどだったかは詳しくわかりませんが、わが家の家計を支える極めて大切な収入源であったことは確かです。

 売れるコメはできるだけ多くして、自家用分は少なめにする。よその農家もそうだったと思いますが、わが家ではその考えが食生活など生活全般にわたり貫かれていました。自家消費用のコメはある程度余裕を持って確保するものの、加減して使っていたように思います。米俵に入れて売ることのできない小さなコメなどは粉にして、団子をつくる原料にしました。囲炉裏で焼いてもらった「焼きもち」も、こうしたコメで作られたものです。コメに麦などを混ぜて炊いていたこともあります。こちらは健康のために良いといううたい文句でしたが。

 いうまでもなく、田んぼでは一キロでも多くコメを収穫しようとしました。春先に、寝かせた堆肥を入れる。田の草取りをする。水管理をしっかりとやる。ここで得る収入が家計で大きな割合を占めていただけに、一つひとつの作業をていねいにやりました。稲作にたいする力の入れ具合はいま以上だったと思います。

 そうしたなかで忘れられないのは落ち穂拾いです。稲刈り鎌やバインダーで稲刈りをしていた当時、田んぼに落ちている稲穂をひとつ残さず拾い集めようとしました。収穫量を少しでも増やすためです。その作業をしたのは主に子どもたちでした。

 落ち穂拾いはたいがい、田んぼの中にある刈った稲を運び出してから。私は右利きです。落ち穂を拾うのは右手。右手で拾っては左手にためる。それがいっぱいになると、袋に入れるか畦元(あぜもと)まで出しました。刈り取りが適期であった時はさほど多くはありませんでしたが、天候の具合などで刈り取りが遅れた時や倒伏して穂先が地面にべったりと張り付くような時には大仕事になりました。稲穂があちこちに落ちていて、簡単には終わらなかったのです。

 子どもの頃の稲刈りはいまよりも遅く始まり、ややもすれば、終わるのが十一月の十日過ぎにずれ込むことがありました。日が沈むのはどんどん速くなり、田んぼの周りはあっという間に暗くなります。落ち穂拾いをしているうちに暗くなってしまったこともありました。暗くなって、一時も早く家に帰りたいと思ったのはいうまでもありません。子どもですから。こういう時、待っていたのは「帰るど」という父の言葉でした。家に帰ってもすぐに休めるかどうかはわからないのに、この言葉を聞くとものすごくうれしかったものです。

 先日の夕方、父が病院のベッドの上で突然、言いました。「とちゃ、家に帰っていっぱいやろさ」。認知症がかなり進んでいて、いつも何をしゃべっているのかわからないことが多いのに、このときばかりは言葉がハッキリしていました。病室の窓からは夕焼けが見えました。真っ暗になるまで田んぼで働いてきた父の脳裏に浮かんだのは、ひょっとすると稲刈り仕事をしまいにすることだったのかも知れません。
(2008年10月5日)



第98回 ワラ集め

 稲刈りのシーズンがやってきました。車の窓を開けていると、実った稲の甘酸っぱい匂いが入りこんできます。この時期になると、私はこの匂いとともに、ワラ集めの仕事のことを思い出します。

 酪農をやっていたわが家にとって、秋の一番の仕事はワラ集めでした。ハサがけのワラがあった時には耕運機にのせて運んだことが忘れられません。あらかじめ何軒かの稲作農家にワラを売ってほしいと頼んでおくと、稲こき(脱穀作業)が終わった時点で、取りに来てほしいと連絡が入ります。軽トラックがなかったころの運搬手段は耕運機でした。耕運機の荷台に、それこそ、ワラを山のように積んで運ぶのですが、積み方やしばり方にこつがありました。ワラの束を交互に組んで積む。山になった荷を縦横に一定の間隔でしっかりとロープで結ぶ。このことがちゃんとできていないと、運んでいる途中で荷が真っ二つに割れてくずれてしまうことがありました。それも、もう少しでわが家の牛舎に着くという時にくずれるのです。当時は砂利道です。大きめの石にタイヤが乗り上げて荷が割れて傾いたり、場合によっては、耕運機の周りにワラがバサッと落ちる。そんな時はくやしい思いをしました。

 また、雨が降りそうな時は緊張しました。荷にブルーシートをかけて運べば安心していられるのですが、運ぶにあまり時間がかからない距離であればシートなしで運びたくなります。いつ雨が落ちてくるかびくびくしながら運ぶことがたびたびでした。  ハサがけのワラがほとんど入手できなくなったのは、コンバインが普及してからでした。ハサがだめとなれば、刈り取りが終わった田んぼの稲ワラをもらって集めるしかありません。田んぼに落とされた稲ワラを一日ほど天日にさらし、それ攪拌(かくはん)して乾かす。ワラの列をつくる。ワラを梱包(こんぽう)する。その作業を機械でやり、集めました。この作業はトラクターの後ろに攪拌、集草、梱包の機能を持ったアタッチメントを作業の種類ごとに付け替えて行いました。

 ここでも一番の心配は空模様でした。ワラ集めの作業をする時は電話で177をまわしました。高田測候所の最新の天気予報を聞くことができたからです。ここの情報が一番確実で、あてになるものでした。予報はたしか三時間ごとに発表されていたように思います。稲の刈り取りが終わった時から、晴れの天気が連続して続く場合、約四日間あれば乾いたワラとして収集できました。予報で数日間の天気の移り具合を確認した上で作業に入りました。晴れの天気がずっと続くこともありますが、せいぜい二日か三日です、続くのは。なかなか続きません。なかには乾いて、「さー、梱包するぞ」という段になって、雨がザーッと降ってくることもありました。

 切なかったのはいまから二十数年前のことです。コンバインから長いままで生ワラを落としてもらったものの、晴れの天気が続かず、とうとう冬を迎えてしまいました。翌春、田んぼの土にべったりと張り付いたワラを田んぼの外へ上げる作業をすることになりました。機械を使っても張りついたワラをうまく収集できず、手作業で根気よくやるしかありませんでした。

 わが家のワラ集めを記録した写真がたった一枚だけ残っています。下中条のカメラマン・平田一幸さんが撮ってくださったものです。私がトラクターに乗り、乾いたワラの梱包作業をしていて、上半身裸の父が後ろから付いて歩いている写真です。わが家の牛飼いは、この父が牛に餌をくれることができなくなって終わりとなりました。
(2008年9月13日)



第97回 姉と妹(3)

 いま会っておかないと二度と会えないかも知れない。そんな思いが心のどこかから湧いて出たのでしょうか、母が大島区板山の伯母のところに連れて行ってくれと急に言いだし、一緒に出かけてきました。

 「板山のばちゃ、最近、足にしびれがくるがだと。顔、見に行ってこねと」母の強い調子の言葉に押されて出かけたのは町内会の祭りの翌日、それも夕方のことでした。いつものことながら、バタバタと土産にするものを決めました。今回は、前日の祭りの時に作った押し寿司と玉ねぎです。車にのせてすぐ出発しました。

 伯母の家まで車で約四〇分。近いようですが、なかなか行けませんでした。母にとって、姉と再会するのは一年ぶりくらいだったでしょうか。

 茶の間にあげてもらうと、いつものように、飯台の上にはご馳走がいっぱい並んでいます。そのそばで母が土産の品を広げはじめたら、伯母が言いました。
「何でもいらんそったがに。こんげっぺ。おら、こんげんことせねがに……。ま、もうしゃけねぇね。ごっつお、ごっつお」

 それから、堰を切ったように、二人の会話が続きます。
「あらまあ、お寿司屋さんが作ったような寿司だない」
「きんな(昨日)の祭りの時に作ったがだすけ大丈夫だと思うでも、チンして食べてくんない」
「おらとこは、野菜ごっつおばっかでそ」
「それで、いいこて。上手に作ってあるねかね」
「なーし、おらちのおっかさ作ったがだ」

 二人の会話は、食べものから、お互いの体調のこと、懐かしい人のこと、昔話へと、どんどん広がっていきます。
「おまさん、達者だね。年より若いねかね」
「なして、ほら、腕なんか、シワクチャじゃ」
「ふんだ、おらの方が丸っこいわ」
「あたしゃのじちゃ、几帳面な人だでも、最近、しゃべらんくなっちゃったそうだ」
「まあ、気の毒だねや。あの人は、おら狭山(狭山市に住んでいた叔父のこと・故人)と年、同じだ」

 八月も半ばすぎ。いまにも雨が降りそうな空模様の中で、板山はセミの声ひとつせず、とても静かでした。母と伯母の話し声の他に聞こえてきたのは、オートバイの中古などを買い求めて回っている業者の宣伝カーのアナウンスだけです。ゆったりした時間の流れの中で二人はとても楽しそうでした。

 帰り際、母は伯母からたくさんのヨウゴ(ユウガオ)をもらうことになりました。畑は伯母の家のすぐ隣にあります。日当たりがよく、土地も肥えているのか、畑には重さ三キロ以上、長さ五〇センチ近いヨウゴがごろごろしていました。「ばちゃ、もういいよ。十分だよ」という私の声にかまうことなく、九一歳にもなる伯母は次々と運び出してくれました。

 キョウダイは伯母と母だけ。毎年ひとつずつ年を重ね、体も弱っていく。でも、いつも姉や妹のことを心配している姉妹です。車に乗って帰る時、妹が「そいじゃ、元気でね」と言うと、姉はしっかりした声でこたえました。「ころぶなや」
(2008年8月31日)



第96回 都会のセミ

 七月の下旬、ある日の朝のことです。大阪市西中島のホテルを出てまもなくでした。歩いている右手前方から、「ジー、シャッ、シャッ、シャッ、ジー、シャッ、シャッ」という大きな音が聞こえてきます。連続して聞こえてくるので、私には、まるでビルのコンクリートの壁を磨いているような音に聞こえました。

 近くに工事をしているビルはありませんでした。ひょっとしたら、街路樹に何かがいる。そう思って、すぐそばの木の枝を見上げると、一匹の黒いセミが小枝に下からしがみついて盛んに大きな鳴き声を出していました。音の発生源はセミだったのです。

 私は今年、セミの鳴き声をわが家のそばで聞きました。最初に聞こえてきたのはアブラゼミ(※注)の大合唱でした。その後、カナカナゼミ(ヒグラシ)もミンミンゼミも鳴いています。この夏、大阪へ行くまでに鳴き声は耳にしていましたが、セミの姿をまだ見ていませんでした。いつか出合うだろうと思っていた生き物に、まさか、都会で出合うことになろうとは……。

 しばらく街路樹の下からセミの鳴く様子を眺めていると、通りがかりの人が「何をしているのだろう」といった表情をしながら私のそばまでやってきました。背の高い、頭の毛がかなり薄くなった七十代の男性でした。
「アブラゼミが鳴いているんです。ほら、あそこにとまっていますよ」
そう言うと、この男性も一緒になってセミをじっと見つめています。
「いやー、今年、初めてセミの姿を見たんです。家の方で見られるはずなのにね」
私がそこまで言ったら、この男性が、ようやく話しかけてきました。
「こちらの方ではないんですか」
「はい、新潟なんです」
「地震にやられた新潟ですか?」
「はい、柏崎の近くなんです」
「……」
 私とこの男性との会話はそれだけで終わったのですが、何となく心が落ち着くというか、やさしい気持ちに浸っていく時間のふくらみを感じました。ゆったりした会話の中で、この男性のやさしさが伝わってきたのです。

 私が三十数年ぶりに大阪を訪ねたのはこの日の前日でした。気のせいか、電車に乗っていても、街を歩いていても三十数年前とは違った人間の「あらっぽさ」を感じていました。何となくせかせかしていて、落ち着きがなく、こちらが間違って他人の足でも踏もうなら、すぐにげんこつが飛んでくる。そんな感じさえしたのです。

 しかし、そんなイメージはセミと出合い、この男性と会話をする中でどこかへ行ってしまいました。一緒にセミの鳴く姿を見つめ、語り合う。他人から見れば、偶然出会ったとは思われない親しい雰囲気が一瞬のうちにできあがっていました。

 大都会での一匹のセミとの出合いで思ったのは、子ども時代の遊びの力です。いまの年配の人たちは、どこに住んでいようと、セミを求めて遊んだ思い出を持っています。セミを追い求めた体験が心の奥深くに蓄積していて、人間の心をこれほど和らげてくれるなんて……。小さな事かも知れませんが、うれしい出来事でした。
 ※私が大阪で出合ったセミは調べたところ、アブラゼミではなくクマゼミでした。
 (2008年8月10日)



第95回 散髪

 父の入院生活は七ヶ月目に入りました。ご飯は食べられない。水も飲めない。酒やたばこはもちろん駄目。飲食物を摂取しても食道へは行かず、喉(のど)から肺にいたる気管やその先の肺に行ってしまう。こうした状態の父にとって、数少ない楽しみはお風呂と歌だけかと思っていました。ところが、まだあったのです。

 先日、父の病室を訪ねようとしたら、すぐそばの廊下で床屋さんが車いすに座った患者の頭を刈っていました。患者の後ろ姿はあきらかに父です。「あら、じいちゃん、いかったねぇ。散髪してもらって」そう声をかけると、父は目をつぶったまま、うなずきました。

 父の姿を見てうれしく思いました。というのは、正直言って、まだ車いすに乗ることができるとは思っていませんでした。もう、ベッドから動けないものと勝手に思いこんでいたのです。散髪をしてもらうにしても、ベッドの上でなければ駄目だと思っていました。それに、床屋さんがひとりで仕事をしておられるのも驚きでした。他人に頭をかまってもらうとなると、「もういいが」とか何とか言っていやがり、誰かから頭を押えてもらわないと刈ってもらえないものと思っていたからです。

 「いい子になってますね」と床屋さんに話しかけたら、床屋さんは笑顔で「はい、大丈夫ですよ」と言います。床屋さんは市内の稲田在住。まだ若い方ですが、人懐こくて話好き、とても感じのいい人でした。
「お父さんはおいくつなんですか」
「八一歳です」
「おかあさんはお元気なんですか」
「はい、元気ですよ。八四歳ですが、自転車に乗れば、一〇キロくらい遠くでも行ってしまいます。百歳までは生きるでしょう」
「私も吉川へ行くことがあるんですよ。先週は二日続けて長峰温泉『ゆったりの郷』へ行ってきました。入浴と食事がセットで千円とか千五百円とかいうのがありがたくて……。とくにアナゴのセットがいい」

 こんな調子で、しばらく会話が続きました。
病院の廊下は床屋さんの臨時の仕事場です。大きな鏡はありません。約二〇分ほどかけて散髪が終わると、父を病室内の洗面所に移動しました。髪を短く刈り上げてもらった父の頭はすっきりした感じになりました。
「じいちゃん、いい男になったねぇ」
そう呼びかけると、だまってうなずきました。
「よし、じいちゃん、いい男になったすけ、写真撮ってやるよ」

 デジタルカメラを取り出し、大きな鏡を見ながら、少しでも明るい表情の写真をと思ったのですが、これがうまくいきません。二〇分も頭を起こしていたので、疲れたのでしょう、首をなかなか持ち上げてくれませんでした。でも散髪後の気分は上々だったようです。「いい男になったね」という声に口元が動き、小さく「ハハッ」と笑いましたから。

 若い時には髪の毛をきちんと整え、ばっちり決めていた父。病気になっても、「いい男でいたい」という気持ちは変わらないようです。入院後、二回目(?)の散髪でみせた父の満足げな表情は意外でしたが、うれしい発見でした。
(2008年7月13日)



第94回 亡くなった後に

 ひとり、また一人と親のキョウダイが亡くなっていきます。年の順番は関係なし。前触れもなく急に倒れた人、ずっと入院生活をしていて、ロウソクの火が消えるように亡くなる人、事故で命を落とした人など様々ですが、葬儀などで共通して語られるのは亡くなる少し前の様子と昔の暮らしです。

 先日亡くなった伊勢崎の伯母の場合もそうでした。伯母は七人キョウダイの一番上です。九一歳。私の父より一〇歳も離れていたので、父の姉というより、祖母のような感じがしました。わが家では祖父・音治郎を子どもの先頭に立って助け、伊勢崎市に嫁いでからは、家具店のおかみとして、伯父をしっかりささえてきました。

 伯母が入院したのは三か月ほど前のこと。きっかけは、コタツの敷布団か何かにつまづいて転倒し、腰の骨を折ったことでした。一〇センチ以上もある長い鉄製補助具を体に埋め込んでもらったものの、リハビリをきらいました。いとこの話では、病院へ行くと、「もう苦しいのはいやだ。早く逝きたい」ともらしていたと言います。

 体を動かさないものだから、伯母の腕や足の筋肉はどんどん落ち、やせ細りました。まったくしゃべれなくなってからのことです。いとこのKさんの連れ合いが伯母を見舞いました。凍み大根のように細くなった足を、ゆっくりとやさしくさすってやったところ、伯母は目をパッチリと開けます。うれしかったのは伯母だけでなく、さすった本人も同じだったのでしょう、にこにこしてその時のことを語ってくれました。死の直前でも、人のやさしさは伝わるんですね。

 葬儀の時、伯母の遺影を見てびっくりしました。あまりにも祖父・音治郎の顔とそっくりだったからです。ちょっとさみしそうな目、高い鼻、頬骨の張り具合などはまったく同じです。もし、坊主頭になっていれば、誰もが祖父だと言うでしょう。それくらい似ていました。

 お斎(とき)の際、挨拶を求められ、わが家の終戦後の暮らしや伯母の顔について話をさせてもらいました。その影響もあってか、それからは、私の周りのいとこたちやその連れ合いが、終戦前後の暮らしや出来事について次々と語りました。

 伊勢崎や高崎のいとこたちがわが家に疎開に来ていた頃、祖父は尾神岳の南側にある国造山などで炭焼きをしていました。家に戻るときには体中が炭で真っ黒です。炭俵を背負いながら帰ってくる祖父の姿は、子ども時代のいとこたちに強い印象を与えます。全身が真っ黒、そして祖父のふんどしの中では、小さな黒い塊(かたまり)が右へ、左へと揺れている。「黒い塊の揺れ」は激しい労働と疲れの象徴でした。

 こんな話も聞きました。伯母が自分の子どもたちに語り継いだ話のなかに、よく白装束の人たちのことが出てきたというのです。わが家は父が生まれる前に三人もの男の子が幼くして亡くなっていますが、ある日、白装束の人たちがやってきた。何をしに来たかは不明です。ただ、それから男の子が育つようになったということでした。

 この話を聞いた時、すぐに浮かんだのは、山伏(やまぶし)です。じつは、わが家は数百年前、山伏寺だったと聞いています。どうも修験者を泊める家だったらしい。名前は「法生坊」。「ほうさいぼう」と読むのか「ほうせいぼう」と読むのかわかりませんが、わが家の屋号は「法生(ほうせい)」です。ひょっとしたら、伯母はわが家の言い伝えについてもっと詳しく知っていたのかも知れません。伯母の死で、改めてわが家のルーツを探りたくなりました。
(2008年5月)


第93回 プレゼント

 2月14日はバレンタインデー、父の81歳の誕生日でした。昨年の暮れに緊急入院し、ひょっとすれば命が途絶えてしまうかも知れないという事態に陥ったこともあって、今年の場合は、父が誕生日を迎えたことを特別うれしく感じました。

 父は、昨年の2月に満80歳になってから、「おれ、80になった」という言葉を繰り返し使うようになりました。この言葉を言えば、「そうかね、えらいね」とか、「たいしたもんだ」などとほめられることを頭にしっかりと記憶していて、繰り返し使ったのだと思います。父はほめられる度にうれしそうに笑いました。

 今年はずっと入院生活です。入院後、会話ができなくなっています。誕生日まであと1週間ほどになって、妻が、「じいちゃんの誕生日、今年は何かプレゼントしてあげようよ」と言いました。認知症もかなり進んでいるので、正直言って、贈ってもわからないのではないかと思い、その時は、それ以上、話は進みませんでした。

 誕生日当日、ある人からチョコレートをもらい、妻の言葉を思い出しました。そうだ、きょうはじいちゃんの誕生日だ。何かプレゼントしなきゃ。そう考え、とりあえず、病院へ足を運びました。

 父は前日、大部屋から6階の個室に移ったばかりです。病室で初めて会った看護師さんに、「きょうは父の誕生日なんですよ」と言うと、「あら、そうなんですか」とにっこりし、「橋爪さん、よかったですね」と父に声をかけてくださいました。私も父のそばに行き、「じちゃ、おまん、81になったがだよ。いかったね。今度は82になろうね」と言いました。ところが、父はこっくりしたものの、何を思ったか、「おれ、役に立たんがか」と言うのです。ハッキリと聞き取れる言葉で父から思いがけない質問を受けたので一瞬とまどったのですが、「心配いらんよ。じちゃは十分、家のために役に立っているよ」と答えることができました。

 父との思いがけないやり取りがあったあと、まもなくして、携帯電話がブルブルと震え、埼玉に住む従妹から「誕生日おめでとう」というメールが届きました。どうして父の誕生日を知ったのかわかりませんが、従妹からのうれしいメールでした。これがヒントになり、父へのプレゼントを考えつきました。

 父が入院中の病院では携帯電話を使用できます。よし、きょうは、じいちゃんに声のプレゼントだ。そう決断してから、まず母のところへ電話を入れました。父の左耳に受話器をつけると、母の元気な声が聞こえてきました。「じちゃ、早く良くなって家に帰ってきないや」という呼びかけに「おぅ」という小さな返事が出ました。次は、愛知県に住んでいる弟です。「とちゃ、元気かね、頑張るんだよ」。いつも父が心配していた弟の声を聞き、「うん」とか「あぁん」とかやっています。最後は大潟区に住む弟、前日も見舞いに来たばかりといいますが、弟の元気づけの言葉に父はうなづいていました。

 さて、父にプレゼントをと提案した妻ですが、勤務を終えた夕方、一枚の紙を持って病室に入ってきました。大きなひらがなで「あいうえお」が書いてある一覧表です。「おじいちゃん、今度、何か言いたいことがあったら、この紙の字を指差してね」と声をかけていました。これで父との会話ができるようになれば、と考えたのでしょう。思い通りにうまくいってくれればいいのですが、なかなか難しそうです。

 この日、父が入院してから初めて、父の「ありがと」という言葉を聞きました。
                                  (2008年2月17日)


第92回 花になる

 名前を聞いただけで一度会ってみたくなる人がいます。「小雪」「花子」などといった名前に出合うと、自分なりにその人のイメージをふくらませてしまいます。そして、素敵な名前の人が実際にはどんな人なのか、会ってみたくなります。

 柳川月(やながわ・つき)さんもそうした一人でした。私が大学を卒業してまもなくのこと、旧青海町在住の、印刷の仕事をしておられる人として、初めて知りました。当時はガリ版が全盛期でした。月さんの作られたものは、ひとつひとつの文字が丁寧に書かれていて、文字が並ぶと不思議なほど読みやすく、きれいでした。私もガリ版をやった経験がありますが、その見事さに惚れ惚れしたものです。

 月さんは、月の形で言えば三日月のような人、名前からそのように想像していました。しかし、それから三〇年近くも出会うことなく時は流れたのです。数十年間、正直に言って、ほとんど名前も聞くことなく過ごしたのですが、再び月さんの名前と文字に出合ったのは、日本共産党上越地区委員会の事務所でした。

 一昨年のある日のこと、事務所のひとりの職員さんの机の上に、「ざ・むぅん」というタイトルの手書き新聞が開いて置かれていました。見た瞬間、なつかしさがこみあげてきました。私が二〇代の頃出合った時とまったく同じ文字が並んでいたからです。美しさもそのまんまでした。

 B4二つ折りで、四ページの小さな新聞を隅から隅まで読んで感心しました。平和を願い、庶民の立場からの主張がある。短歌や川柳、家族新聞などを受け取った記録もある。もちろん、ご自身の行動記録も。ガリ版で書く一字一字を大切にしたように、月さんの文章は一人ひとりの人間を大切にする姿勢で貫かれていました。一読して、すごさを感じました。私はすぐに手紙を書きました。私にも購読させてくださいというお願いです。何枚かの八〇円切手を同封して申し込みました。

 「ざ・むぅん」は一九七二年一月に創刊され、その後、ほぼ毎月一回のペースで発行されてきました。月さんからの封筒が届くようになってから一年ほどたった昨年の秋、この新聞は三〇〇号を迎えました。「どうやら三〇〇号にこぎつけました」で始まる文章は、月さんのお人柄がそのままにじみ出ていて、それまで励まし、支えてくれた人たちへの感謝の気持ちがつづられていました。

 初めて月さんにお会いしたのは、というよりも見かけたと言った方が正確ですが、二年ほど前に市民プラザで開催された「憲法9条を守る会」でした。月さんは白髪で、顔の形は満月に近い丸さがありました。目は、平安時代の女性として描かれている貴族のように細く、ほんのりと引かれた紅がとても印象に残りました。その後、二回ほどお会いしていますが、まだ、あいさつ程度で、ゆっくりお話できる機会はつくれないでいます。

 さて、月さんは、「ざ・むぅん」の新年号巻頭に「ことし私は花になります」と書いて、全国に発信されました。「花」という文字の脇には小さく「八七」とありました。月さんが花になる。どんな花になるのかと文章を最後まで読み進んで、うなってしまいました。「この一月二十七日で私は満八七歳になります。そうです、私は花になるのです。枯木に花を咲かせましょう。世の中のいろんな矛盾をしりぞけ、平和の花の一輪になりましょう」と書かれていたのです。

 一月二七日、私は偶然、花になったばかりの月さんと会いました。とてもきれいでした。 (2008年2月3日)



第91回 漬け菜汁

 漬物や鍋物が美味しい季節です。ここ数年、郷土料理に興味を持ち、呉汁とかソーメン南瓜(糸瓜)や漬物を使った料理の話が出ると、それだけで頭の中がいっぱいになります。先日も、Fさんの家におじゃましたときに聞いた漬け菜汁の話にぐいぐい引き込まれました。

 漬け菜汁というのは、私が子どもの頃、どこの家庭でもよく作っていたお汁です。最近は、あまり作らなくなって、「漬け菜汁」という言葉自体が使われなくなりつつあります。ですから、Fさんから作り方を教えてもらうまで、どんなものが入っていたのかさえ忘れていました。

 基本的な作り方はこうです。まず酒粕を一晩水に浸しておく。そして翌朝、それをグラグラと煮る。これを、あらかじめお汁茶碗に入れておいた漬け菜にかけるだけで出来上がりとなります。漬け菜は刻んで入れておくのだそうです。作り方は極めて簡単ですが、実際は作り手によって工夫されているようです。漬け菜はしゃりしゃりという食感を出すために、粕と一緒に煮ない。漬け菜のほかに、渋柿や黒豆を入れて、その人ならでは味にする。作る人は、いろいろと考えているんですね。

 母にもきいてみました。母の場合、酒粕を一晩水に浸しておくまでは同じです。煮る段階でワラビの干したものを刻んで入れるほか、打ち豆も入れたといいます。煮上がったものを漬け菜にかけます。こうすると、うま味も温まり具合も違うのだと母は言います。

 漬け菜汁は、冬の代表的な郷土料理のひとつでした。雪がしんしんと降った日の朝、道つけが終わって、茶碗に盛ってもらって食べると体の芯から温まっていくのがわかる食べ物でした。冬を乗り切るために家族みんなが道つけや雪掘りなどをし、みんなが温まる。こういう食べ方をしたから、何十年も前に食べた人たちは、いまでも懐かしがって食べるのではないでしょうか。

 私にお茶をご馳走してくださったFさんは夫を三年前に亡くして今は独り暮らしです。朝の連続テレビドラマや「ためしてガッテン」などの番組が大好きで、よくテレビを観ています。さみしい時には近くに住む同級生や友達に電話をかけ、時々は出かけて、おしゃべりも楽しんでいます。

 そんなFさんですが、この時期になると、遠い親戚の人たちのことが頭に浮かびます。吉川に泊まりに来て、なんでも喜んで食べてくれたこと、いろんなものを小荷物にまとめて送ると喜ばれ、「故郷のものは格別だ」といって丁寧なお礼の言葉が返ってきたことなど。亡くなったお連れ合いからは、「おらちは宅急便貧乏だ」と言われたことも思い出します。

 この冬、Fさんは、宅急便の回数券を購入しました。少しでも安上がりになるようにすれば、亡くなったお連れ合いからの文句の言葉は出ないでしょう。そして、すでに関東に住む親せきの人たちに、自分で作った野菜やモチ、コンニャクなどを送りました。

 Fさんは、冬の間に親戚の人たちに、もう一回宅急便を送るのだそうです。モチと漬け菜です。モチは二度目。漬け菜はもちろん、漬け菜汁を食べて温まってもらうことを考えて……。Fさんの話を聞いて改めて思いました。人間の心は自然に温まるものではない、温める働きかけがあってこそ温まるものだと。
(2008年1月)



第90回 父の挨拶

 母から緊急連絡が入ったのは二七日の夕方でした。「とちゃ、じちゃの様子がおかしいすけ、見てくれ」そういう母の口調には落ち着きがあったので、パソコンのスイッチを切ってから父のベッドへと急ぎました。「大丈夫か」と声をかけると、父はうなづきます。でも、その動きにはいかにも具合が悪いといった鈍さがありました。

 父は前日から痰が詰まりがちでした。この日も痰の切れが一段と悪くなっていました。医療のことで困るといつも相談するFさんや従姉から「このまま家で様子を見るににしても限度がある」とアドバイスをもらい、かかりつけの医院に何度も連絡しましたが、何かあったのでしょう、連絡はとれませんでした。それで救急車を呼ぶことにしました。

 救急車で父を病院に運んでもらったのは二五年ぶりのことです。前回は牛舎管理棟で大量の吐血をし、その血を見ただけで大慌てしましたが、今回も、あまり落ち着いてはいられませんでした。Fさんから、「肺炎を起こしている可能性がある。油断できない」と聞いていたからです。

 病院での診察の結果は、やはり肺炎でした。レントゲンでは片方の肺は真っ白で、いまひとつの方も白い点がかなり広がっていました。担当医からは、「最悪の場合、明日の朝まで持たないかもしれません。いざという時に心臓マッサージ、人工呼吸器はどうされますか」とまで言われました。私は弟たちや父のキョウダイなどに連絡を取り、診断結果を伝えました。

 大潟区に住む弟、わが家の子どもたち、大島区の従兄弟などが心配して病院まで駆けつけてくれました。彼らが病院を離れ、病室で父と私たち夫婦だけになったのは夜中の一時近くでした。それからの時間が長かった。担当医から直接聞いた、「最悪の場合は……」という言葉が頭からずっと離れず、時間の流れが気になりました。デジタル時計の数字を何回見たことか。

 病室から外へ目を向けると、謙信大橋に至る道が見えます。午前二時過ぎから通り過ぎる車がガクンと減りました。たまに通る車のライトをうれしく感じるのはなぜでしょう、ライトの流れを追い求めるようになりました。冬場で夜明けが遅いこともあって、車が徐々に増えてくるのは午前六時過ぎでした。

 医者に何時までと言われたわけではないのに、六時を過ぎたら何となくホッとしました。父がひと山越えたと思えたからです。ベッドを見ると、父は相変わらず薄眼を開けて私の顔を見ています。時たま、口をあけて何かを言っていたのですが、入れ歯をはずしているため、何を言おうとしているのかさっぱりわかりませんでした。

 入院後一週間。父の病状は回復基調にあるものの、熱が上がったり下がったりするなど一進一退を続けています。しゃべる言葉がほとんどわからないのも同じで、わかるのは「おい」とか、「ばちゃ」ぐらいなもの。ただ、こちらからの問いかけには、うなづいたり、首を振ったりして意思表示してくれます。

 そんな父も最近は、自分で意思表示する新たな方法を考え出しました。「いやだ」という時には両方の手を出して×(バツ)を作ります。「ありがとう。さよなら」の挨拶では、グローブのような白い手袋をはめたまま、右手を斜め前に持ち上げます。父が一番大好きな孫たちが付き添ってくれたときは、特別うれしいのでしょう、感謝の意味を込めて、右手をサッと上げています。じいちゃん、がんばれ。
(2008年1月6日)



第89回 ぎっくり腰

 恐れていたことが現実になりました。ぎっくり腰が再発してしまったのです。金曜日の朝、父の着替えを手伝っていたときでした。電気毛布による低温やけどで父の右足の外側が「赤めどこ」状態になっていることを長女が発見、薬を塗るというので父の体を後ろから抱き上げようとした瞬間、腰がぐずぐずとなってしまいました。

 私が初めて腰を痛めたのは、三〇年ほど前のことです。耕運機にキャタビラをつけた雪上運搬車で牛乳缶の運搬作業をしていたときでした。蛍場から村屋まで二〇分くらいはかかったでしょうか。雪が降ったある日のこと、旧源農協のそばにあった集乳場、といっても、水槽があるだけの施設でしたが、そこに着いて、牛乳缶を下ろし始めたばかりのタイミングで大型トラックがやってきて、運搬車を移動しなければならなくなりました。急いで牛乳缶を下ろそうとしたのがいけませんでした。五〇キロもある缶を持ったときに、腰がグニャグニャしてしまい、まさに腰砕けとなりました。

 初めて腰を痛めたときのつらさは、いまでも忘れません。トイレでしゃがむことができなくなりました。咳でもしようものなら腰に痛みがズンときました。車で乗り降りするときもそう。何よりも切なかったのは、腰が痛くても乳しぼりをしなければならなかったことです。腰を中途半端におろし、乳しぼりをしようとすると、牛の方も、いつもと違う様子に警戒心を持ちました。そして搾った牛乳は、どんなに腰が痛くても缶に入れて運び、水槽で冷やさなければなりませんでした。

 以来、物を持つときには腰を痛めないことを意識するようになりました。一回、腰を痛めると、何日も仕事ができなくなるばかりか、立ちねまり、歩行など、まともにできなくなるからです。重いものを持つときは、まず腰を入れて、腰をふらつかさないようにしました。

 それにもかかわらず、酪農をやっていたときだけでも、少なくても五回は腰を痛めた記憶があります。酪農家で腰を痛める人は多く、いかに早く治すか、みんな大きな関心を持っていました。どこどこの整体師は一発で治してくれる、いろいろ当たったけれど最後は身近なところが一番良かったなどの情報を交換し合ったものです。

 困ったのは、いったん腰を痛めると、ちょっとしたきっかけで腰を痛めることでした。重いものを持つときは腰を意識しましたから、そう何回もなかったのですが、むしろ、軽いものを持つときの方がなりやすかった。風呂に入っていて、洗い場にある洗面器を取ろうとしただけでぎっくり腰になったこともあります。

 さて、数年前に酪農をやめてからは、重いものを持ってぎっくり腰になる心配はほとんどなくなりました。それで、腰の痛みからはずっと解放されるものと思っていたのですが、一年半ほど前から父が要介護状態となり、再び、腰のことを意識するようになりました。何人もの人に「おまんちのじいちゃん、大柄で骨太だすけ、きいつけないや」とも言われていました。だから、また、ぎっくり腰になりやせぬかと注意していたんですが。

 再び腰を痛めた日。市議会は私の所属する常任委員会でした。佐渡汽船の小木直江津航路問題で質問に立ったものの、腰の痛みは増すばかりでした。家に帰ってもベッド中心の父の生活は変わりません。私はささやかな介護の補助しかできませんが、父が介護を必要とするうちは、なんらかの手助けをしてやりたいと思います。早く腰の痛みを治して、自宅でできる介護の基礎知識ぐらいは身につけておかないと……
(2007年12月23日)



第88回 サルナシ

 五月に入院した柏崎の義父はおかげ様で退院後、順調に療養生活を続けています。ただ酸素ボンベなしには生きていけないので、これまで、なかなか外に出ることができませんでした。というより、出ようとしなかったといった方がいいのかも知れません。その義父を外に連れ出そうという話が義兄などから出て、すぐに話がまとまりました。

 近くのホテルに義父母を連れて行き、妻のキョウダイ全員と連れ合いが一緒になって懇親会をやる。酒を飲む以上は泊まる。それだけの単純な計画です。話がまとまってから一〇日くらいで実現しました。

 義父にとっては半年ぶりの外出です。ずっと楽しみにしていたのでしょうね、ホテルで見た義父は終始、満足そうな顔をしていました。ホテルでは、私よりも一足早く着いた義兄たちが酸素吸入に必要な機器を部屋に運んでくれました。私はその日、一日中、会議などでバタバタしていて何も手伝いできなかったのですが、たまたまもらったサルナシの完熟した実を持参したところ、それが大当たりでした。

 海の見える部屋のひとつに、この日の旅行に参加した七人全員が集まり、さっそくお茶飲みとなりました。持ち込んだお菓子などがコタツの上に並べられた時、「これ、何だか知っている? 食べてみて……」紙に包んだサルナシを広げて声をかけると、私と妻以外のメンバーは、何だろうかと不思議がりながら、口の中に入れました。

 みんながすぐに言いました。「美味しいね。何ていうの、これ」「生まれて初めて食べたよ。柏崎にはないよな。こういうの」小さい実でありながら、口の中に広がる甘酸っぱさに驚いたのでしょう。それからしばらくの間、どこで採れたのか、ツルか木かなどと私はたくさんの質問を浴びることになりました。珍しいものを持ち込む、たったそれだけでこんなにも喜んでもらえるとは思いませんでした。

 私もサルナシの存在を知ったのは数年前のことです。中学時代の先輩たちが、この実を使ってワインを造る計画を持っていると聞いた時が最初でした。尾神岳の山の中や川谷方面にある「野生の実」で、キウイフルーツの原種だと聞いて、どんなものか知りたくて図鑑を持って山間部を(実際には平場にもある)歩きました。

 田んぼの土手でサルナシのツルを見つけた時はうれしかったですね。葉っぱや白い花は生まれて初めて見たものでした。そして、その年の秋には緑色の実を自分で採って食べました。その時の感動はいまでも覚えていますから、義父などが高い関心を示したのは、よく分かります。

 夕食後、夜遅くなってから、ホテルの部屋の壁をいっぱいに使ってスライドを上映しました。今年の夏、柿崎海岸で見た夕陽、数年前に群馬県や長野県へ家族旅行に行った時の写真、野の花の写真を次々と映し出したところ、みんな乗ってくれ、スライド上映は三時間にも及びました。懐かしい写真が何枚もあったことや義兄が野の花を好きだったこともあって、話はつきませんでした。

 最後に映し出したのは、このホテルでの義父の姿です。サルナシを前面にして義父を後方にした写真でした。サルナシは小指の頭くらいしかないのに、写真ではニワトリの卵ほどの大きさに見えます。カメラを意識したのでしょう、そのサルナシを前にいくぶん緊張した表情で写っていました。写真は夕方撮ったばかりです。義父は、「もう映せるのか」とびっくりしていました。サルナシにたいへん興味を示した義父ですが、来年は生っている現場を見せてあげたいものです。
(2007年11月)



第87回 いもご

 秋が深まり、ツタやヤマウルシなどが赤くなってきました。尾神岳も紅葉し始めました。子ども時代、この時期の楽しみといえば、熟した村屋柿(むらやがき)を食べること、そして山芋を掘ることでした。現在はどうかといいますと、私はいま、「いもご」にはまっています。

 「いもご」の正式名称は「むかご」と言うのだそうです。山芋の葉の付け根にできる球芽で、大きなものになると小指の頭ほどのものがあります。色も形もさまざまですが、大きくても小さくても、また、どんな形をしていようとも、これには山芋の香りとコクが詰まっていてとても美味しいのです。

 おそらく、子ども時代からこの「いもご」を食べていたのでしょうが、どういうわけか、私にはその記憶がほとんど残っていませんでした。山芋そのものへの関心が強かったからなのでしょうか。

 「いもご」についての記憶がよみがえるきっかけとなったのは数年前のことでした。浦川原区の菱田という集落にある著名な歌人・山田あきさんの歌碑を見に行った時、案内役の宮川哲夫さんが「いもご」をもいで、「これ、むかしは、炒(い)って食べたもんだ」と教えてくださったのです。そのひと言で、おおきなフライパンの中で「いもご」を炒っていた母の姿を思い出しました。もちろん、ほっくりとした味も一緒です。

 以来、「いもご」についての記憶を次々とたぐり寄せることができるようになりました。母が「いもご入りご飯」をつくってくれたこと、「いもご入りの天ぷら」を食べる時、中の「いもご」がどうなっているかを確かめながら食べたことなどです。

 記憶がよみがえっただけではありません。それを再び食べたい、しかも自分で作ってみたいと思うようになりました。調理方法を習わずにいきなり作っても大丈夫という気楽さもありましたからね。

 こうして、一番先に作ったのは、「いもご入りご飯」でした。あらかじめ、「いもご」をよく洗っておいて軽くゆでる。コメをといだら、そこに一握り入れて炊くだけ。炊きあがった時、電気釜からこぼれでたように、「いもご」の匂いが台所全体に漂っていました。とてもいい匂いでした。

 ふたを開けると、ご飯はうっすらと茶色の色がついていて、「いもご」がうまく蒸(ふ)けていました。ひと口食べたら、じつに美味い。あっさりした味でありながら、ひと口、もうひと口とついつい食べてしまう魅力を秘めています。そんなわけで、今ごろの時期になりますと、多い時で五回、少なくとも三回くらいは「いもご入りご飯」を食べています。

 今年は「いもご」の入った別の料理にも挑戦してみようと思っていたところ、先日、長岡市小国町(旧小国町)法末(ほっすぃえ)の宿泊施設で「いもご入り天ぷら」をご馳走になってきました。母が作ってくれたものとひと味違うのは、この中に「あけび」の皮の部分がちょっぴり入っていて、これが隠し味としてきまっていたことです。こんな工夫ができるのかと感心してしまいました。

 この「あけび入りいもごの天ぷら」に触発されていま、「サルナシ入りいもごご飯」などに挑戦しています。なかなか思っている味は出せませんが、自然にある素材をいかして「いもご入りご飯」をさらに美味しく出来たらいいなと思っています。
(2007年10月)



第86回 ギブスのお守り

 Hさんが杉の枝打ちをしていて、七メートルもの高いところから落下したのは二月の末のことです。もう一本、枝下ろしをすれば終わりというところでの事故、右足の複雑骨折、左足はかかとが真っ二つに割れるという大怪我になりました。入院は当初予想を大きく上回り、七ヶ月にも及びました。

 春先に入院し、秋までの闘病生活。三回にわたって手術が行われ、その後はリハビリが続きました。本人が考えていた以上にたいへんだったようです。でも、担当のお医者さん、看護師さんなどたくさんの人たちがHさんを支えてくれました。

 入院して一番最初にHさんに声をかけたのは看護師のSさんでした。「Hさん、シッコ足りなくて困ったねぇ。もっと、水、どんどん飲んでね。飲まないと脳梗塞になるわよ」。入院した病院に五台しかない高性能のベッドを使わせてもらったとはいえ、両足が不自由の身、Hさんは看護師さんに迷惑をかけてはならないと水分補給を控えていたのです。Sさんのひと声で、遠慮しないで水分をとることにしました。

 ベッドから動けない日は連続して三〇日にもなりました。その間、もちろんトイレに行くことが出来ません。便器を用意してもらって用を足すことになります。看護師さんたちのやっかいになりました。几帳面なHさんは、一回用を足すごとに枕元のカレンダーに鉛筆で印をつけました。一本ずつ棒を引き五回になると「正」という字になるやり方です。三〇日で合計二三七回。これは看護師さんたちにお世話になった回数であり、印です。

 Nさんはゴミの片付け、車椅子の空気入れ、ベッドのシーツ交換など、なんでも屋さん。ちょっと男ずっぽのところがありますが、気は優しくて、病室をいつも明るくしてくれる女性です。赤ら顔のHさんを見るなり「Hさん、いっぱい飲んでいるんじゃないの?」などと冗談を言って、みんなを笑わせます。そのNさんは、Hさんのためにでっかい足枕をつくってくれました。

 Hさんが入院してから一番たいそ(難儀)だったのはリハビリでした。平行棒につかまりながら、片足で案山子(かかし)みたいに立つ、その動作だけでも一ヶ月かけて訓練をしました。

 リハビリを始めたばかりの人は無表情の人が多いのですが、リハビリの行程が増えていくと次第に笑顔に変わっていきます。片足立ち、マットの上にあがって重りを付けた足を上下する訓練、階段を上る訓練ど、一つひとつ増えるごとにHさんもうれしくなったと言います。自転車こぎの訓練をさせてもらえるようになった時には、「よく、ここまでたどり着いたね」とほめられました。

 お世話になったお医者さんや看護師さんなどは、Hさんには神様に見えました。退院が見えてきた頃、Hさんは思い立ってひとつのことをはじめました。二ヶ月つけっぱなしだったギブスに、こうした人たちからサインをしてもらい、お守りにしよう。時間を見つけては一人ひとりにお願いしました。「七ヶ月間、お疲れ様でした」「お元気になっておめでとうございます」「無理をせず頑張って」「お元気で」。縦一〇センチ、横一〇センチのギブスは、たくさんのメッセージでうまりました。

 「家に来たら、段坂があってたいへんだ」と現在も自宅でリハビリを続けるHさん、お守りは手づくりの袋に入れて、居間の見えるところに置き、頑張っています。この調子でいけば、来春、大好きな田んぼ仕事に復帰できるにちがいありません。
(2007年10月21日)


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