春よ来い(8)


第85回 最後のロードレース

 スポーツ競技にはドラマがあります。国際大会であろうが、小さな学校の運動会であろうが、どこでも同じです。二〇〇七年九月二九日、土曜日。新潟県立吉川高校の生徒や教職員、保護者にとっては、忘れられない一日になりました。

 この日は恒例の校内ロードレースの日でした。来年の三月には閉校することから、現在、全校生徒は三年生だけの四八人。教職員も常勤はわずか五名です。長年、続いてきたロードレースも今回が最後のレースとなりました。天気は晴れ、秋風が吹き始めていたとはいえ、まだ暑さが残っていました。

 レースは午前九時一五分にまず男子生徒が、次ぎに一五分遅れて女子生徒がスタートしました。スターターは校長の山田先生。吉川高校最後のレースは全員に完走してもらいたい。その思いをいだきながら、山田先生はピストルの引き金を引きました。

 今回のレースはいつもと違っていました。いくつかの集落をぐるっとひと回りするこれまでのコースはやめ、高校から下町、そして高校の北側にある下条堰のそばを通って新潟事業営業所の前に出る一周約二・五キロの周回コースになったのです。このコースを男子は三周、女子は二周することにしました。理由はただ一つ。これまでのような一回まわって終わりのコースにするにはスタッフが足りないからでした。

 そのことが分かったのは平和橋に近いカーブまで軽乗用車を走らせた時でした。そこには源小学校出身のS君のお母さんの姿がありました。また、何年か前に退職された元校長の小林先生や数学を教えておられた井上先生の姿もあります。保護者の方が誘導係りを務め、元教員も応援に駆けつける。みんな、この記念すべきレースを成功させたいと思っていたのでした。

 小林先生はこの日、軽トラにお茶やスポーツドリンクを載せて応援に駆けつけました。トラックの荷台は臨時の給水所です。飲み物が入った紙コップをたくさん並べ、生徒が走ってくると、「おい、水、飲んでがんばれや」と声をかけていました。井上先生はというと、入院していた病院から休みをもらって家に帰っていたところ、有線放送でレースのことを知っての応援です。最後のレースとあって、吉川高校で教鞭をとっていた先生たちもじっとしておられなくなったのでしょうね。もちろん、原之町商店街などの地元の人たちも仕事の手を休めて応援していました。

 最後の一周。足の早い生徒はもうとっくにゴールしています。背が高く、少し太めの生徒が臨時給水所に近づいてきました。体育の授業を一度も休んだことのないK君です。自転車に乗って先導役をしていた西海土先生が明るい表情で言いました。「この子がゴールしてくれれば全員完走です」。

 ゴールのあるグランドには全校生徒が集まっていました。一〇時半になろうという時、ゆっくりとK君が走ってきました。「がんばれ」の声が飛びます。一時間一五分二七秒。彼のゴールをみんなが喜びました。K君の顔は笑顔で、輝いて見えました。

 閉会式。山田先生は「レースは一人の脱落者もなく、無事終わりました。吉川高校九八年目の最後のロードレースを全員が走りきった、その思い出を心に刻んでおいてほしい。このレースができたのは家族、保護者の方たちの協力のおかげです」と挨拶しました。短い言葉ながら、ジーンときました。それに誘発されたのでしょうか、生徒全員が保護者のみなさんに向かって頭を下げ、H君が代表してお礼を言いました。「みなさんの温かい応援で走ることができました」。胸が熱くなりましたね。
(2007年10月7日)



第84回 ラジオ深夜便

 深夜、ふと目がさめてしまう。そんな時、あなたはどうしていますか。敬老の日、深夜のラジオ放送を楽しみにしているという人から興味深い話を聴きました。ラジオがとてもいい。気持ちをやさしくしてくれて、ゆったりした気分にひたることができるというのです。

 「いやー、いいもんだね」そう言いながらラジオの良さを教えてくれた人はHさん、七〇代後半です。いま、NHKのラジオ深夜便にはまっています。Hさんが一番楽しみにしているのは午前三時から始まる「にっぽんの歌こころの歌」。約一時間の放送の中で紹介される曲は、戦前、戦中、戦後の歌謡曲です。いずれもHさんの歩んできた人生と重なるものばかりです。流れてくる曲は、市販されている懐かしのメロディだけではありません、レコードのB面扱いだった曲もある。アナウンサーがよく調べておいて、歌手のことや曲の紹介もやってくれる。さらには、その曲にまつわるお便りも紹介される。とても心地よいと言っておられました。

 びっくりしたのは、Hさんが気に入った放送をすべて録音していることでした。本棚の片隅には、録音したMD(光磁気を使った記憶装置)が何と四九個も並んでいます。もう一個でちょうど五〇個になるとか。

 試しに少し聴いてみたくなりました。「明るくちゃ、ちょっとムードはでないけどね」そう言って聴かせてもらったのは、録音したMDのなかで最も新しい九月一五日の放送でした。スイッチを入れると男性アナウンサーの声が静かに流れてきます。「三時六分を少しまわりました。三時台は『にっぽんの歌こころの歌』、今回は津村謙と鈴木三重子の真夜中の夢の競演です……」。

 紹介された曲は『流れの旅路』『愛ちゃんはお嫁に』『上海帰りのリル』など、いずれも戦後の曲です。この頃の歌謡曲は、どういうわけか小さな子どもたちの耳にも残るものでした。「さようなら さようなら 今日限り 愛ちゃんは太郎の 嫁になる」「リル リル どこにいるのかリル」などといった歌詞は私もしっかり記憶しています。『上海帰りのリル』は私が二歳の頃の歌、長くヒットしたのでしょうね。

 こうした曲をバックにHさんは、いろんな話をしてくださいました。「津村謙は『座頭市』の勝新太郎と酒飲み友だちだったんだ。運が悪かったんだろうね、酒飲んで、車庫の中で車のスイッチ切らないで寝てしまったんだ。気の毒に」。これは放送で知った話でした。終戦前後の思い出も出てきます。「吉川高校(当時は農林学校)の農場へ行こうとした時に、アメリカのグラマン戦闘機がやってきて、操縦士の顔まで見えて怖かった。あわてて水肥小屋の陰に隠れたわね」「黒井の空襲があった日(一九四五年五月五日)、爆撃をした飛行機B29が原之町上空を飛んで行った。いきなり急降下したかと思ったら、ドーン、バリバリ。ガラスが揺れた。あれが空襲だったんだね」。Hさんの話は、長岡空襲の時に北の空が真っ赤になったことなどへと続きました。

 Hさんの十代後半から二十代は戦争と重なる激動の時代でした。「やっぱり、青春時代の歌がいいね。一緒に歌えるし、いろいろな思い出が浮かんでくるもん」そういうHさんですが、「にっぽんの歌こころの歌」は布団の中でウトウトしながら聴いています。それが一番いいのだそうです。Hさんの録音したMDは、なつかしい曲だけでなく、ご自身の思い出も保存するものとして百枚、二百枚と続くことでしょう。

(2007年9月23日)



第83回 お盆の頃に

 今年は七月に地震があってバタバタしたせいでしょうか、いつの間にかお盆を迎えていたという感じがしました。でも、いったんお盆に入って、お墓参りやお盆の挨拶回りなどをするうちに、長年親しんできたお盆の頃の音や匂いなどを思い出してくるから不思議です。

 まずは音です。夏の陽射しの中でミンミンゼミの鳴き声が大きく聞こえてきます。ミーン、ミン、ミン、ミーン。この最後のミーンが寂しそうな独特の響きを持っているので、いつまでも耳に残ります。それからエゾゼミ、この夏は平場でも鳴き声を聞くことができましたね。「ギィーーー」、「ギィッ、ギィッ、ギィッ」という鳴き声に初めて出会ったのはお盆泊まりへ行く道中でした。上川谷か、角間だったかと思います。この「ギィーーー」という音を聞くたびに、母の実家へお盆泊まりに行った頃の思い出が浮かんできます。

 スイカをたたいた時の音もお盆の頃のもの。先日、同年代の人たちと野山を歩く機会がありました。歩いているだけで汗がにじみ出てくる暑い日でした。一緒に歩いている時、健康診断の話になり、私は自分のわき腹を相撲取りのようにポンポンとやりました。軽く響きのあるポンポンという音が出ました。

 歩いている人たちに、「どうだね、完熟スイカのようだろう?」と問いかけました。そうしたら、「うん、そんな音だったね」という声が出て、その後が賑やかになりました。「オラの子どもの時分には、毎日、スイカ畑に行って、ポンポンとやっていたもんだ」「ポンポンの音も微妙に変わっていって、すっきりしたポンの音になって、初めて食べられる」などという話がいっぱい出ました。

 誰もが共通して記憶しているのはお宮さんでたたかれる太鼓の音です。お盆の頃の代表的な音。私が生まれ育った尾神の神社も、いま住んでいる代石の神社も集落の中の高いところにあるものですから、そこでたたく太鼓の音は遠くまで伝わります。でも、盆踊りの衰退によって、最近はほとんど聞くことができなくなりました。

 祭りの日は午後の早い時間帯から太鼓の音が聞こえてきたものです。酒を飲んだ、威勢のいい青年団の人たちが次々と交代しながら、ドドンガドンとやる。その音に子どもたちがひきつけられ、夜の盆踊りを心待ちにしました。夜、お宮さんの境内でたたかれる太鼓はすごい迫力でしたね。鉢巻姿で太鼓をたたく人の筋肉は隆々、リズム感あふれた体の動きは子どもたちの心を揺さぶりました。

 次は青い空。お盆の頃の夏空は、真っ青な空にモクモクした雲が似合います。疲れきった草や木々を癒すように時たまやってくる夕立はこの空からの贈り物です。

 中学生の頃、お盆になれば、従弟たちを誘い、村屋の川へ魚を捕まえに行きました。子どもたちの間では、「魚つかめ」と言った遊びです。「魚つかめ」の時の必需品は耳栓、水中眼鏡、それにヤス。平沢橋付近から川に入り、石の下に手をつっこんだり、ヤスが飛出す手づくりの道具を使って魚を捕まえたりしました。

 今年のお盆、我が家は泊り客ゼロでした。父が要介護状態であり、母も昔のようには「まかない」ができないことを知ってか、親戚の人たちも遠慮しているのでしょう。お盆から一〇日間くらいは、どこの町内会も祭りです。しかし、ここ数年、お宮さんからは太鼓の音が聞こえてこなくなりました。何となくさみしい感じがするのはそのせいかも知れません。

(2007年8月26日)



第82回 お風呂

 中越沖地震から九日目。三時間ほど時間をもらって吉川区から離れ、妻とともに柏崎市にある妻の実家に出かけてきました。地震から二日後に一度訪ねているのですが、義父の病気のことも心配で、再度様子を見てきたいと思ったのです。

 妻の実家がある集落に入ると、一軒残らず建物応急危険度判定が行われていました。家々の玄関には判定済みの張り紙がしてありました。妻の実家は緑色の張り紙で安全でした。玄関の下の作業所脇では、義兄のTさんが軽トラにポリの箱を山のように積んでいます。「何をするの?」と訊きますと、「水道の水が出ないので水を汲んでくる」と言います。前回訪問した時には「水が出る」と喜んでいたのですが、それは水道管に残っていたもので、じきに無くなったそうです。

 柏崎の義父とは一週間ぶりの再会です。「どうですか、体の調子は?」と訊(き)いたら、「いや、あんまり良くないんだ。昨日から腹が減ってどうにもならない」という答えが返ってきました。顔色もいまひとつです。「腹が減る」のは普通なことだと思うのですが、食後、たいして時間も経たないのに腹が減るというのは、体のどこかでリズムの狂いが生じているのかも知れません。

 でも、義父の昼食の様子を見た限りは普通です。ご飯にお茶をかけて食べているのは、喉の通りを良くするためですし、サヤインゲンをゆでたものや煮魚も食べているところもおかしくはありませんでした。そばにいた義母が「小さなおにぎりがウンマイって言うんだよ。それもタラコとスジコがいいって。サケはもくもくしていやなんだと」と言います。ベッド中心の生活スタイルもいつもと変わりません。横長のテーブルの上には、新聞のほか、農協が出しているビラ、地元の共産党組織が発行している被災者向けの制度案内ビラなどが載せられていました。

 昼食を食べ終わってから、義父は立って部屋のカーテンを開けました。義父にとって、いま、部屋のカーテンの開け閉めが、家族のためになっていることを実感できる唯一の仕事になっています。カーテンをサーッと引いている時の顔は何となく、満足げな感じがしました。

 カーテンを引くと裏庭が見えます。手前の方ではヤブカンゾウがグイッと花を伸ばし、奥の方ではオイランソウが白い花を咲かせています。そして左側の木にはノウゼンカズラが橙色(だいだいいろ)の花をからませています。夏に咲くこれらの花々を見ながら義父はさびしそうに言いました。「今年は何にも手、出せなかった」と。手入れがしてなくても、花たちはとても生き生きしていました。とてもきれいです。

 三〇分ほどたって、さあ、吉川に戻ろうという時に、義母が思いがけないことを教えてくれました。「あんちゃん、おやじさんを風呂に入れてやりたいというんで、水汲みの仕度をしている」と言うのです。水道が断水している間、家族は、吉川区の長峰温泉ゆったりの郷などで入浴してきたと言います。ただし、義父だけは別。体が不自由なため遠くには行けず、しっとりしたタオルで体を拭くだけだったのです。

 この話を妻は、帰り際に義父に教えました。「あんちゃん、とうちゃんを風呂に入れるために水運びするんだって。良かったね、とうちゃん」。その言葉を聞いた義父は、「そうか」とも言いませんでした。しかし、聞いた瞬間、義父は体の動きを止め、じっと前の方を見つめていました。うれしかったんでしょうね。この日、義父は自分の一生の中でも最高に気持ちのいい湯船につかったに違いありません。
(2007年7月)



第81回 五センチの母

 父もショートスティにだいぶ慣れてきたようです。先日、軽乗用車で迎えに行った時でした。受付のカウンターのそばで車椅子に座っていた父と世話をしてくれている女性スタッフとの会話を耳にしました。それはじつに楽しい会話でした。病気になる前も時たま冗談を言って笑わせることはありましたが、こんなに周りの人たちをひきつける話をしている姿は初めて見ました。

「ねえ、ハシヅメさん、奥さんの名前は?」
「エツ!」
「エツさん…、まあ、いい名前ですね」
 こう言われれば、たいがい次ぎに出てくる言葉は「ありがとう」とか「いやいや」とかになります。ところが、父はこういう言葉を使わないで、片方の手をゆっくり前に出し、右手親指と人差し指を五センチくらい広げ、
「はあ、これくらい」
 と言ったのです。 「いい名前ですね」と言われたのを「どれくらい大きい奥さんですか」と聞き間違えたのかも知れません。でも、父の頭の中には自分の連れ合いは小さいんだということがこびりついているんでしょう。どう問いかけられようが、父の次の言葉は「はあ、これくらい」になったと思います。実際、母は身長が百四十センチ足らず、体重も四〇キロほどしかありません。それにしても指を使い、母を五センチくらいにして表現するとは見事でした。
 介護スタッフのひとりが、「はあ、これくらい」に反応して、
「そう、そんなに小さいの」と言うと、
「はあ、小さいがだ」
 そばにいたスタッフの皆さんはみんなニコニコ顔になりました。

 その五センチの母はおかげ様でとても元気です。家の中では、父から引っ切りなしに浴びせられる「おい」という言葉をやわらかく受けとめ、世話をしています。長女が家にいたり、父が介護施設に行っている時は、畑仕事や私の農業仲間だった頸城区や大潟区の人に頼まれて山菜や笹の葉採りに精を出しています。
 家では食事、トイレ、入浴など何から何まで父の介護をしているのですが、介護している連れ合いは身長が百六十数センチという大男です。父が転んだり、座り込んでしまった時にはたいへんです。
 「ほら、おまさんも男だろね、頑張んない。はい、一、二の、三」などと声をかけながら起こしています。父の体調がいい時はそれで何とかなるのですが、気力がなよなよしている時はきびしい。ベッドから落ちた父をロープを使って引っぱり上げることもあります。
 母は八十三歳になりました。 



第80回 生還

 五月になったばかりの日、夜9時半頃でした。私の携帯電話が鳴りました。入院したばかりの妻の父親が重体に陥ったという知らせです。じつはその前日、私は義父の家を訪れていました。コタツで一緒に昼寝をした際、呼吸が荒く、しょっちゅう咳き込んでいたので、いままでとは違うなとは感じていたのですが、まさかこんなにも早く緊急事態がやってくるとは思いませんでした。

 直ちに家に戻り、妻を乗せて柏崎市内の病院へと向かいました。ナースセンターのすぐそばの個室に義父は入っていました。医療機器に囲まれ、呼吸の音だけがハッキリと聞こえる病室。付き添ってくれていた義兄によると、持病の間質性肺炎だけでなく、心不全を起こしている可能性もあり、重篤状態だといいます。義父は自己呼吸ができなくて、人口呼吸器というのでしょうか、機械の力を借りて呼吸していました。

 間質性肺炎は加齢とともに肺の機能が落ちていきます。義父がこの病気だとわかったばかりのころは、健康な人とどこが違うのかと思うくらいでしたが、そのうち、ちょっと力仕事をしただけでも咳き込むようになりました。最近は体の移動もままならず、台所、トイレ、寝室を行き来するのがやっとだと義母から聞いていました。でも、病院に向かった義父はその日の新聞、いつも持ち歩いている自分のカバンを持参したそうですから、たいしたことなく家に戻れると思っていたにちがいありません。

 妻のキョウダイは三人です。入院したその日から、キョウダイやそれぞれの連れ合い、それに近くの親戚の人が義父に付き添いました。患者が無意識の内に点滴などの器具をはずさないか、機械が表示している数値が異常にならないかなどを見ていました。医者からは、ここ一週間が山です、連休明けに人工呼吸器をはずした時、果たして自己呼吸できるか、できなければ付けたままの状態が続く、そう言われました。

 連休明け。妻から「自己呼吸できたよ」と聞いた時はうれしかったですね。何かしゃべろうとしている気配もあったともいいます。それから酸素マスクになり、数日後には、おかゆも食べられるようになっていきました。何回目か忘れましたが、見舞いに行った時、ベッドの上に新聞が置いてあるのを見て、ホッとしました。私はこれで退院できることを確信しました。

 一ヵ月後、義父は退院しました。入院が一時間遅かったら死んでいたといいますから、本当に運が良かったと思います。退院して数日後、私は、自宅療養中の義父を訪ねました。ベットがある部屋に入ると、義父はさっと手を出し、握手を求めてきました。「ありがとう、世話になったな」。私は何回か見舞いに行っただけだったのですが、妻が三日に一回くらいの割合で付き添いをしたことへのお礼の言葉なのでしょう。手に力が入っていました。「とんでもない。おとうさんの看病をさせてもらったおかげで女房もだいぶ良くなってきました」とこたえました。

 この日、義父母や妻などと一緒に、見舞いとしてもらったというスイカをご馳走になってきました。まだ六月ですから、早すぎてうまくないだろうと思ったら、意外にもとても甘く、美味しいスイカでした。一切れ食べたところで、義母が言いました。初ものを食べた時には西の方を向いてアッハッハと笑うもんだと。どうやら、柏崎地方の言い伝えらしい。スイカであろうがマクワであろうが、初ものを食べた時に西の方を向いてアッハッハと笑うと長生きするのだそうです。アッハッハといった調子まではいきませんでしたが、みんなで笑いました。これで義父も元気になるでしょう。



第79回 心いっぱい

 孫が嫁さんをもらうなんて最高に幸せだ。いったい誰に感謝すればいいのか。結婚披露宴の会場で、「ばあちゃん、いかったね」と声をかけられるたびに、タマさんは目を潤ませ、何回も何回も手を合わせました。

 タマさんは三年前、長年連れ添ってきた夫を肺気腫で亡くしました。それまで数十年間、夫や長男夫婦とともに山間地で田んぼを耕し、家を守ってきました。年をとって田んぼ仕事ができなくなってからは、毎日のように家のすぐそばの畑に出ていました。でも、夫がいなくなってから、外仕事をすることがめっきり少なくなりました。

 そういうなかで楽しみは、二人の孫たちが訪ねてきてくれることです。ひとりは三和区に嫁いでいて、時々、ひ孫を連れてやってきます。そのひ孫は、小さな頃の長男と瓜二つ。かわいくてたまりません。ただ気がかりは、もうひとりの孫、マサトさんでした。付き合っている女性がいることは知っていましたが、マサトさんが三〇歳を越えていることもあって、早く所帯を持ってほしいものだと願っていました。

 そのマサトさんが結婚式を挙げるという日がようやくやってきました。六月二日です。心配した雨も上がって、尾神岳の上の方には青空も見える。柔らかな木々の葉を少し揺らせて流れて来る風はじつにさわやか、この日はまさに結婚式日和でした。足の悪いタマさんは、高田の結婚式場へ車で送ってもらいました。

 結婚式が終わって披露宴でのこと。タマさんは会場の隅で椅子に座って、新郎新婦の入場から、会社の社長さんの挨拶、友人の祝いの言葉など、ひとつでも見逃すまいと見ていました。式場のカメラはスクリーンに若い二人の動きを大きく映しだしてくれます。時々、そのスクリーンを見上げました。孫とその連れ合いの姿を見る様子はおだやかで、ゆったりしていました。そして、とてもうれしそうでした。

 披露宴が終わりに近づいた頃、タマさんの表情が急に変わった場面がありました。「それでは、新郎のマサトさんからおばあちゃんへプレゼントがございます」という司会者の声が流れた時です。事前に話があったのでしょうが、一瞬、緊張した顔になりました。

 白いタキシードを着た新郎が新婦とともにタマさんのところへやってきました。新郎が手にしていたものは縦四〇センチ、横三〇センチくらいの額です。額を目にした途端、タマさんの目から涙が溢れました。額の中には、マサトさんの、片岡鶴太郎のようなクセのある字体で「おばあちゃん、心からありがとう」という文字が筆で書かれていたのです。しかも、その心という文字はどんと大きく書かれていました。

 タマさんにとってマサトさんは二人目の内孫でした。小さな時からずっと面倒を見てきた孫です。思いやりがあって真面目な人間に育ってくれさえすればいいと思っていましたが、こんなにもやさしい心の持ち主になってくれるとは……。

 マサトさんの心を込めた書のプレゼントはタマさんから始まって、新郎新婦の両親へと続きました。そして事前通告なしで、なんと、新婦にも。額の中に入った色紙には、「絆」という一字が力強く書かれていました。「一生、あなたとともに歩きます」という決意です。会場にいた親戚や友人の人たち、みんなが拍手を送りました。もちろん、タマさんも。会場では、小田和正の歌が静かに流されていました。ラーラーラ、ラーラーラ、言葉にできない。あなたに会えてほんとうによかった。



第78回 靴

 物忘れがはげしくなっても人間としての喜びは変わらない。美味しい物を食べた時は笑顔になるし、美しい景色を見ればうっとりします。ひょっとすると、物忘れがひどくなる前よりも感情が豊かになっているのかもしれません。じつは先日、そんなことを感じた一件が我が家でありました。

 ベッドに寝たままの格好で父が私を呼びました。 「おい、とちゃ、ちょっと来い……。ほら、いい靴だろ」  父が指差す床の上には、新聞紙が敷かれていて、その上に真新しい靴が並べてありました。 「いい靴だね。どうしたが、これ」そう言うと、 「りんちゃん買ってくれたがだ」と答え、ニコニコしています。孫から何かを買ってもらうのはこれまでも何回かありましたが、今回の喜びようといったら、まるで生まれて初めて革靴を買ってもらった時のようです。心が弾んでいることがはっきりと分かりました。

 現在、父が靴を履くのは、かかりつけの医院、ディサービス、ショートスティに出かける時くらい。ほとんど歩けないので、靴を履く必要があるのは、ほんの一時(いっとき)です。にもかかわらず、靴を繰り返し見てニコニコしている。このような喜びをみせる父の姿はとても新鮮でした。

 娘が父に買ってやった靴は、薄茶色のカジュアルシューズでした。ひもがついていなくて、足を入れるだけで気軽に履ける靴です。これなら、体の不自由な父でも履きやすい。というより、履かせやすい。もっとも、父が気に入ったのは、こうした靴の機能性よりも、この靴そのもののかっこよさのようです。

 私には父の靴にたいする特別の想いがあります。子どもの頃、父が酒屋者(さかやもん)に出る時、帰る時は、革靴を履いていました。がっちりとした体を支えるにふさわしい大きい、しっかりした靴でした。サイズは見たことがなかったのですが、今回の出来事で確認でました。二八センチ。改めて、その大きさにびっくりしました。そっと私の足を父の靴に並べてみると、確かに私の足よりも長い。おもわずため息をついてしまいました。

 父の足が大きいのは親譲りです。私の祖父・音治郎は、一七五センチはあったでしょう、背が高く、足の大きな人でした。しかも、足の人差し指は親指よりも長いのが特徴でした。子ども時代、大人たちから聞かされていたのは、足の大きな人はよく稼ぐということでした。実際、祖父も父もよく働きました。炭俵や刈ったばかりの稲をたくさん背負って立っても、がんとしていました。大きな足がしっかりと支えていたのです。

 娘が靴を買ってくれたことで、父がもう何十年も履いている茶色の革靴を思い出しました。靴底はたいして減っていないものの、外見はかなりくたびれています。数年前、親戚の結婚式でも履いて行ったのですが、目出度い席に履いて出るには古すぎると感じました。

 我が家の子どもたちも、そろそろ、結婚式を挙げる時が来ても不思議ではありません。そうなれば、父にピカピカの革靴を買ってあげようと思います。式場で車椅子に乗り、新しい革靴を履いた父がその時どんな表情を見せてくれるか、楽しみです。



第77回 再会

 もう三〇年以上も前になりますが、ある人に会いたくて、出身地などを調べたことがありました。その人の名はAさん、私を慕っていてくれた大学の後輩です。農村の出身でした。都市部に住む人たちとの付き合いが上手でないなど、私とそっくりなところがあって、卒業後、どうしているか気になったのでした。

 しかし、居所はわからずじまい。その後、一度も会うことがなかったのですが、今年になって、その彼から私の留守中に突然電話があったのです。三月も半ばのある日のことでした。留守電に残った「上越のAです」という短い言葉からは、名前が苗字だけだったということもあって、その時は、学生時代のAさんを思い浮かべることはありませんでした。

 でも翌日、こちらから電話をして、聞こえてきたのは間違いなく、なつかしいAさんの声でした。学生時代とまったく変わりません。「高田の春陽館書店で『春よ来い』を手にして、奥付け(本の最後にある著者の略歴などが書いてあるところ)を見て、やはり橋爪さんだと確認しました。読んだら、なつかしくて、積もり積もった話がしたくなったのです。お忙しいとは思いますけど、お会いできないでしょうか」丁寧な口調も昔と同じでした。

 三日後、Aさんは、市役所五階にある議員控え室にやってきました。左手には雨傘、右手にはカバンらしきものを持っています。ぬうっと現れた彼は、頭の毛に白いものが混じってはいましたが、昔と同じ顔をしていて、誠実さもそのまんまでした。うれしかったですね、じつに三五年ぶりの再会です。

 Aさんとは、約五〇分間、コーヒーを飲みながら話をしました。会う約束をした日から、どんな話をしてくれるのか楽しみにしていましたが、三十数年前のことを次々と思い出させてくれる話の内容にはドキドキすることばかりでした。

 下宿生活をしていた私が食べるものに困っていて、豆腐に醤油をかけるだけのオカズで食事をしているのにびっくりしたこと、私が愛読していた本のひとつに、秋田県横手市のむのたけじさんの『たいまつ』があり、その本を私からもらったこと、私の下宿を度々訪ねてきた人がいたことなど、私の当時の生活ぶりを鮮明に語ってくれました。

 私がAさんに出会ったのは大学四年生の時です。彼は一年生でした。彼と付き合うことになったのは、彼が所属する学部の学生自治会役員選挙がきっかけでした。学生自治会は一部の暴力学生たちにのっとられていて、それを取り戻すために正義感に燃えた一年生が立ち上がっていました。そこに私が支援に入ったのでした。

 彼と一緒に自治会役員選挙に立候補した人たちは、私の下宿に泊まりこんで選挙運動を展開しました。私が学生時代、後輩を指導するような場面はその時が最初で最後だったと思うのですが、Aさんから思いがけないことを教えてもらいました。選挙で勝利するために、近くの日和山海岸まで後輩たちを連れて行き、そこで演説の練習をしたというのです。いまでさえ演説は苦手なのに、三十数年前に後輩たちに演説の仕方についてアドバイスしていたと聞いてびっくりしてしまいました。

 人と出会い、別れ、数十年ぶりに再会する。Aさんと再会したおかげで、忘れていた「過去の自分」を再発見し、何か得をした気分になりました。私の文章はむのたけじさんの文章に似ているとも言われました。今度、読み直してみたいと思います。



第76回 サルトコの日に

 伯母の壇払いの日。この日も晴れて、いい天気になりました。お経を窓ぎわで聞いていたら、背中をお天道様が暖めてくれます。とても気持ちがよくなって、眠たくなりました。ところが、骨納めのために外へ出たらびっくりしました。空は真っ青に晴れわたっていたものの、ちょっと風が吹いただけで、ものすごく寒いのです。

 外に出て、みんながめざしたのは大桜高台霊園です。伯母の家から二〇〇メートルくらい離れていて、海抜三〇〇メートルほどの、文字通り高台にあります。積雪は五〇センチ〜七〇センチくらい。うっかりしていて、伯母の家には革靴のまま出かけてしまったのですが、高台への雪道を歩いても靴は埋まりませんでした。

 春が近づくと、サルトコ(凍み渡り)のできる日がやってきます。この日はちょうど、初めてサルトコができる日となりました。雪は本当によくしまっていました。私のような体重八〇キロの人間でも雪道だけでなく、野原を歩いてもまったく埋りません。こうなると、大喜びするのは子どもたちです。伯母には、ひ孫にあたる小さな子どもたちが六人いますが、伯母の骨納めのことなどそっちのけで、みんな雪の上を歩いて遊んでいました。

 暖冬でサルトコのことをすっかり忘れてしまっていた大人たちも、この子どもたちのおかげでサルトコのことを思い出しました。「おらなんか、学校へ行くギリギリの時間まで雪の上を騒いでいた」「わらゾリを作ってさね、遊んだこて、みんなしてそ」心が騒いだ子ども時代の「雪が凍った日」のことを語る大人たちの表情はとても生き生きしていて、楽しそうでした。

 大桜高台霊園からは天明山や尾神岳がよく見えます。私も、いつのまにか、子どものころ、尾神岳のふもとの田んぼや野原の固くなった雪の上で遊び回ったことを思い浮かべていました。ワラや笹で簡単なソリを作ってすべったこと、雪の固さを確認するためにジャンプして埋まるかどうか試したこと、田んぼの雪解けが始まった雪の端っこのところでは、長靴でドンドンとやり、雪を田んぼの水に中に落として遊んだことなど、サルトコができた時ならではの快感は不思議なほどよくおぼえています。

 無事、骨納めが終わってからはお斎です。この日は、葬儀と同じように、母も板山の伯母も参加していました。ふたりとも顔色もよく、とても元気です。お酒を飲み、自然と在りし日の伯母のことが語られ始めると、「こうやってみると、板山の伯母さんの後姿は足谷のばちゃとそっくりだ」「あとはおまんた、ふたりしかいないがだすけ、長生きしてくんなさい」そんな言葉が次々と出て、いつのまにか、このふたりが話の中心にいました。

 お斎がすんで、再び伯母の家に戻った時のこと、家の中で小さな子どもたちを相手に遊んでいたら酔いが完全に回ってしまい、ダウンしてしまいました。一時間くらい眠ったでしょうか、窓の外の賑やか声で目が覚めました。外では、この家の孫たちがまた雪の上でキャーキャー声をあげて遊んでいたのです。まさかと思いましたが、夢ではありません。この日は昼間でも気温が低く、午後になってもサルトコができるという、めずらしい日でした。

 固い雪の上で歩いたり、遊んだりすることの楽しさは、時代がかわっても同じです。親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へ。命とともに雪の上での遊びもまた引き継がれていきます。何となく、永遠の流れみたいなものを感じた一日となりました。


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