春よ来い(6) |
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第65回 夫婦ブナ 今回は人間とブナの木をめぐる話。人間にはいつも会うたびにホッとする木があります。私が数年前に出会った二本のブナの木もそう。初めて出会ったときに一目ぼれしてしまい、以来、何回も会いに出かけています。 このブナは尾神岳の広大なブナ林の中にある巨木です。根回りは、どちらも四メートルくらい。周囲一五メートルほどの地面にはブナの木が一本もありません。二本の木は、ゆるやかな斜面にドンと立っていて、まさに威風堂々としています。それでいながら優しさがある。誰が見てもそう感じる木です。 今年になって、このブナの木を訪れたのは五月の連休明けのことでした。市道にはまだ雪が山のように残っていました。残雪のある時期に、このブナ林の中に入ったのは今回が初めてです。これまで訪れた時も、なんともいえないすばらしい空間に入り込んだ感じがしたものですが、雪があると、これもまたいい。どこへ行っても、林の中を流れる川のザーッという音が聞こえてきます。吉川の源流の音です。雪の上は一面、ブナの赤い冬芽と小さな実でいっぱい。そして、柔らかで明るい緑色が空間の上部に広がっている。ブナ林の中にいるだけで、体から疲れがスーッと抜けていくような気がしました。 二本のブナのところへ行くと、いつも木肌にさわりたくなります。なでる。牛のお腹にさわる感じで、パンパンとやる。抱きついてみる。木を見上げる。ずっと見ていると、ときたま上の方からひらひらと舞い降りてくるものがありました。最初は昆虫かと思いましたが、ブナの冬芽です。 いまやすっかり私の「お気に入り」となっている二本のブナは、自分だけで見ているのはもったいないほど素敵な巨木。これまで何人かの人を案内し、この二本の木を見てもらいました。 そのなかにFさん夫妻がいます。数年前、ヤマアジサイの咲く頃、尾神岳に登ったFさん夫妻もまた、このブナの木を気に入ってくださいました。当時、夫のTさんは癌と闘いながら仕事をしておられました。野の花など自然にあるものの美しさにひかれ、はまりつつある点は私と共通していました。その日、Tさんは体力が落ちていたにもかかわらず、林の中を歩き、様々な角度から二本のブナを撮影し続けました。お連れ合いのKさんが、その姿をほほ笑んで見ておられたことを記憶しています。 今回、私がこのブナ林を訪ねた目的の一つは、芽吹きの頃の二本のブナを撮ることです。下の方から、上の方から、木の下からと、距離を変え、角度を変えて数十枚撮りました。雪があり、青い空がちらっと見えるなか、太陽光線がブナの葉の色に濃淡を与え、どこから撮ってもいいものが撮れるような気がしました。 二〇枚くらい撮った時だったでしょうか、この二本のブナの木がおもしろい表情を見せたのは。おおらかに枝を広げ、やさしさのただよう一本の木を、もう一本の精かんなブナがそっと抱こうとしているように見えたのです。この瞬間、私は、この二本のブナは夫婦にちがいないと思いました。 Tさんは尾神岳に登ってからまもなく再入院、三年前に亡くなりました。ブナの木との出会いは尾神岳のものが最後だったはずです。思い出の木が見せた素敵な表情の写真、今度お会いしたら、お連れ合いにプレゼントしようと思っています。 |
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第64回 春を呼ぶ花 この冬、吉川区の中でどの集落の人たちよりも春を待っていたのは上川谷の人たちだったのではないでしょうか。昨年6月の豪雨災害で日常生活のうえで最も大切な道を失い、大島区経由の一本の県道だけを頼りに冬が通り過ぎるのをじっと待っている、私には、そんなふうに見えました。 今冬は2年続きの豪雪でした。12月からのドカ雪で、はっきりと不安の表情を見せる人が何人もいました。中には、家の周りを除雪してもらったあと、吹雪が玄関先に雪の山をつくったため外に出れなくなり、近所の人から掘ってもらったケースもありました。私は、できるだけ上川谷を訪ねよう、顔を見せるだけでも励ましになるかもしれない、そう思って雪道を軽トラで通いました。 4月9日の上川谷訪問は、今年に入って9回目の訪問でした。いつものように市政レポートの配布をしながら安否確認をしてまわりましたが、前回の訪問とは明らかな違いが見えました。まだ雪が1メートル70センチほど残っていたものの、一人ひとりの表情がぐんと明るくなって、集落に活気が出てきていたのです。 その訳はすぐにわかりました。冬の間、関東地方の身内に身を寄せていた睦男さん夫婦が戻ってきていたのです。数戸しかない集落で1軒増える、その力は大きいものがあります。私が訪ねたこの日、睦男さん夫婦は、隣に住む人たちと一緒に黒色の太いホースを引っぱっていました。あとで事情を聞いたら、キンタマ橋の上から引いている水道の出が悪くなってしまい、隣家から水を分けてもらう段取りをしていたということでした。 もうひとつ、春が来たことをみんなが感じとっていたこと、これも活気につながっていました。もう雪が降っても大したことがない。野も山も春に向かって進んでいく。それを一番早く教えてくれたのは、野の花たちでした。 8戸すべてを訪問してから、残雪状況を写真におさめようと道を歩いていたら、町内会長さんの車庫の付近で小さな紫のかたまりを発見しました。スミレです。ちょうど南向きの斜面なので、早く雪が解けた場所だったのでしょう、ほんの一株だけ、そっと咲いていました。周囲にごっそりと雪が残っていても土の出たところから花が咲く。見つけた瞬間、とてもうれしくなりました。 それからは花が咲いているかどうか気になり、軽トラをゆっくりと走らせました。数分後、今度は吉川区と大島区の境となる場所で、またもや紫色の花を見つけました。こちらはショウジョウバカマです。スミレとちがい、この花は急な山すそにたくさん咲いていました。華やかで、見ているだけでウキウキしてきます。 軽トラから降りて、よく観察してみると、葉っぱは押しつぶされたままになっているものがほとんどです。土や枯葉などがつき、汚れているものもあります。つい先だってまで重い雪の下敷きになっていたのでしょう。でも雪が滑り落ちて間もなく、その中心部から茎をスッと伸ばし、その先に紫の花をたくさんつけたのです。 ショウジョウバカマはユリ科の野草で、地元の人たちはザンザラバナとも呼んでいます。いくつもの花がまとまっているのですが、一見、ささくれだっているようにも見えるので、そう呼ぶのかもしれません。しかし重い雪に耐え、いち早く花を咲かせ、みんなを元気にしてくれます。まさに春を呼ぶ花というにふさわしい。 (2006年4月) |
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第63回 巣立ち とうとうやってきました。わが家から子どもが離れていく日です。結婚して子どもができてから、いつかはやってくるとは思いながらも、その日、どんな気分になるかを想像することはありませんでした。 家から最初に離れていくことになったのは次男です。大学を無事卒業し、就職した会社がある新潟市へ行くことになりました。私の父と母にとって、次男はかわいがった孫の一人です。妻にとっては、育児休暇をとって育てた子どもでした。四月一日の早朝、出発するというので、前日、母は赤飯を炊き、妻は白いふんわりとしたお菓子を作って祝いました。 出発を前にして、次男は家族からそれぞれ送別の言葉をもらいました。私は、その場にいなかったのですが、母の贈った言葉がユニークというか、まったく予想しないものでした。 いいか、わりいことしんな。 母が言ったのはこの一言、世間を騒がせるような悪いことをするな、という意味です。赤ん坊の時から、ずっと面倒をみてきた子どもですから、次男がそういう人間でないことを十分わかっているはずです。それでも、こういう言葉が出てくるのは、狂ったとしか思えないような事件を毎日のようにテレビで観ていて、一番気がかりなことなのでしょう。 それにしても、「わりいことしんな」とはまいりましたね。うちの子どもが悪いことするわけないよね、といいながら、家族みんなで顔を見合い、大笑いしてしまいした。でも、母のこの一言によって、わが家の子どもたちは一生の心構えができたはずです、まっとうな人生を送らなければいけないと。 さて、旅立ちの当日、もう一つ、心に残る出来事がありました。もう一時間足らずで出発する、そんな時間になると、家に残っている者、みんなが落着かなくなりました。すでに準備が出来ているはずなのに、着るものなど忘れてはいないか、お金は大丈夫かなど、気にしないでいいことまで気になります。 私はちょうどこの日、「しんぶん赤旗」日刊紙の配達当番でした。次男の出発の時間には家にいることができません。だから、「体に気をつけて頑張るんだぞ」そう声をかけて配達の仕事に出かけました。 その結果、私以外の家族が次男の旅立ちに立ち会うことになりました。昔のように駅やバス停で見送るのではなく、自分の車で会社に向かう次男にサヨナラするだけの旅立ちでした。 ところが、次男がいなくなって誰よりもさびしがるはずの父がこの見送りに出なかったというのです。母や妻、それに残ったキョウダイが家の外に出て見送ったというのに、父はコタツに入ったままでした。「じいちゃん、いっちゃうよ」と声をかけられても、「どうせ盆には帰ってくるがだろ、コタツに入っていた方がいい」と言って、動かなかったということでした。 私が配達の仕事を終えて家に戻ったのは午前七時半をまわった頃でした。妻に、「行ったか」とたずねると、「行ったよ」。いつもとまったく変わらぬ朝なのに、玄関に脱いだままになっている次男のスリッパがいとおしく感じられました。 |
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第62回 母の自転車 雪が降ってから、母が使っている自転車は牛舎の中にしまいました。春が近くなって、もう雪は降らない、そういう状況になるまでお休みさせておくのです。ところが、本格的な降雪がこれからという時期に、この自転車が家に持ってきてあるのでびっくりしてしまいました。 どうせ、遠くまで買物に出かけようと考えているにちがいない。もし、雪道で転倒でもしたら大騒ぎになる、何を考えているのか。そう思い、母に厳しく言いました。 「こんがな時に、自転車に乗るなんて、どういう気だね」 そうしたら、母が言うのです。 「おれじゃねぇ、とちゃだがなあ、持ってきたのは」 道路には、まだ雪が残っていました。にもかかわらず、父は牛舎においてあった自転車を、わざわざ家までひいてきたのでした。母によると、自転車を家に運んだのには、それなりの理由があったようだというのです。 牛舎に行くのを日課にしている父ですが、その日、牛舎から家まで五百メートルも自転車をひいてきて、母に言ったそうです。 「牛舎に置いたのでは、自転車がかわいそうだ」 夏場は、いつも母と一緒の自転車です。それが牛舎の物置に、ぽつんと置いてある。その姿が不自然に見えたのでしょう。でも、母が愛用している乗り物を父がこのように見ているとは新鮮な発見でした。 わが家が尾神岳のふもとにあった頃は、坂道がほとんどでしたから、自転車はまったくといってよいほど使うことがありませんでした。それに、母は二輪の自転車には乗れませんでした。母が自転車に乗るようなったのは、二十数年前、現在の住まいに移転して、しばらくたってからのことです。家と牛舎や畑が五百メートルも離れていましたし、何をするにも歩きでは不自由でした。それで、二輪がだめでも乗れる三輪自転車を買い求めたのです。 自転車に乗るようになってから、母の動きは活発になりました。近くの集落の親戚や友だちの家に行く。買物に行く。山菜採りに行く。畑仕事に行く。どこに行くにも、この三輪自転車に乗って出かけるようになりました。体の小さな母ですので、乗っている様子を初めて見た時には、ペダルを踏むたびに、左右の肩を大きく上下させているので、とても重そうに感じました。これなら、歩いた方がいいのではと思うほどでしたが、乗りなれてからというものは、十キロメートル離れたところにも自転車で行くほど上手になりました。 この自転車を好きになったのは母だけではありません。子どもたちも大好きでした。母が使っている三輪自転車には、後ろの方に荷物を載せることができる籠がついています。これが、また、たいへん便利で、野菜や山菜等を入れるのにちょうどよい大きさなのです。これに目をつけたのは、わが家の子どもたちでした。母が自転車に乗っている姿を見つけると、後ろの荷台に乗りたがり、母を追いかけたものです。 母の自転車は私が軽トラにのせて運び、牛舎内の元の位置に戻しました。確かに、三輪自転車が「くの字」になってじっとしている姿は、さみしそうに見えます。母のところへ持って行ってやりたくなった父の気持ちも何となくわかるような気がしました。 |
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第61回 人を励ます 人間と言う文字は人の間(あいだ)と書く。人間は一人じゃ生きていけない。必ず誰かの世話になって生かしてもらっているという自覚が大事だよ……数十年前、ある人に教えてもらいました。最近、それに加えて、もう一つのことに注目しています。自然や動物なども人を励まし、生きる力を与えてくれるということです。 そのことを改めて確認したのは、先日、吉川区の山間部を一軒一軒訪ねて歩いた時でした。例えばTさん、一昨年、連れ合いを亡くしたばかりのおばあさんで、いまは一人暮らしです。正確に言うと、ネコとの共同生活です。生まれも育ちも山間部なので、雪の中での生活には慣れているとはいえ、連日の降雪のなかで家に一人でいたのでは寒さも寂しさも募るばかりと思っていたのですが、お元気なので安心しました。 「お茶、飲んでいってくんない」と言われ、居間に案内してもらってから間もなく、一匹のネコが障子戸の桟(さん)の最下段をくぐりぬけ、居間に飛び込んできました。こっちもびっくりしましたが、ネコも驚いたのでしょう。あわてて、障子戸をもう一度くぐって隣の部屋に逃げていきました。そこまでならどこにでもある話ですが、そのネコは、障子戸のそばに戻ってきて、私や一緒におじゃました仲間の顔の観察をはじめたのです。「この人間たち、一体何者なのだろう」「ばあさんは大丈夫だろうか」ネコの表情から推察すると、どうもそんなことを考えているようでした。 おじゃました者同士で顔を見合わせました。ネコの茶目っけたっぷりの動きは、まるでこの家の小さな子どもたちがのぞいているように見えたからです。とてもかわいい光景でした。振り返ってみると、私たちも子どもの時に、似たようなことをした記憶があります。 Tさんによると、このネコはネズミ捕りの名人(名ネコ?)といいます。ネズミを捕った時には、くわえてきて、「ほら、捕ったよ、すごいだろう」と自慢顔で居間にやってくるのだそうです。話を聞いていて、よく分かったのは、Tさんにとってこのネコは家族そのものだということでした。お互い心配しあい、励ましあっている。その姿はとてもいいなぁ、と思いました。 もう一人、Mさんを紹介しましょう。Mさんも一人暮らしです。同じ集落に住む、一人暮らしのSさんと励まし合って生活しています。「たまには入っていけばいいこて」と誘われ、お茶をご馳走になりました。大きな家の中の居間は天井が高く、ストーブをつけてもすぐには暖まりません。カーテンで居間を仕切って、自分の生活空間をせまくして暖める工夫をしています。 その自分の空間の真ん中にコタツがあって、テーブルの上にはシクラメンが一鉢のせてありました。色はピンク、花びらが上に反り返っているので、何人もの子どもたちが空に向かって両手を広げているかのようにも見えます。 「この花、いいねかねぇ。長く咲くしさ」 Mさんからはこの一言しか聞けませんでしたが、このシクラメンがMさんの日々の暮らしのなかでどんな役割を果たしているかは、部屋の真ん中にどんと置いてあるだけでも分かります。シクラメンは、上手に育てれば6ヶ月近く咲き続ける冬の代表的な花です。この花がいつもそばに咲いている、それだけでも元気をもらえます。 TさんとMさんの暮らしを見て、何となく心が温まりました。 |
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第60回 遠い記憶 先日、久しぶりに大島区板山の伯母を訪ねてきました。大島区まわりで吉川区の一番奥の集落・上川谷へ行くと母に教えたところ、「そうしゃ、板山のばちゃのとこへ、これ持っていってくれ」とコンニャクを渡されました。伯母のところへは、もう何ヶ月も行っていません。元気な様子を確認しておきたいという思いもあったので、即座に「わかったよ」と返事をしました。 伯母は88歳。時々、ディサービスセンターに世話になってはいますが、あとは家の中や近くの畑で動き回っています。訪ねた時は丁度お昼前でした。伯母はコタツにあたってテレビを観ていました。顔色も良く、とても元気そうです。蔵を改造した家の中に入ったのは初めてでした。「いい家になったね」と言うと、「暖かいでも、戸ばっか、いくつも開けなきゃならんすけ、おおごと」だと言って笑います。 お昼に伯母は「のっぺ」を出してくれました。サトイモ、大根、ニンジンなど、おきまりの具のほかにキノコが入っています。私の住んでいるところでは、「あまんだれ」と呼んでいるキノコですが、「おもしいもん入っているね」そう言ったら、「もぐら」と言うんだそうです、板山では。 その「もぐら入りのっぺ」を一緒に食べながら、何を思い出したか、伯母は急に昔の話をしはじめました。だいぶ前のことだでも、尾神(母が嫁いだ家があった集落名。伯母は母のことをこの集落名で呼ぶのです)と一緒に千葉へ行った時、大宮駅で離れ離れになってしまって大騒ぎしてそ……。でも、よくまあ、無事に千葉へ着いたもんだこて……。尾神は、先にどんどん歩いて行っちゃって、大宮駅の東口だか西口をとっとと出て行ったがど。そんで心配して千葉へ電話したら、もう着いていた。あん時は騒ぎだった。 いかにも母がやりそうなことですが、私にとっては初めて聞く話です。帰ってからさっそく母に聞いてみました。 「おまん、昔、板山のばちゃと千葉へ行った時、大宮駅で迷ったがだと?」 「なして、大宮でねえ、直江津駅だ」 「なんでまた、直江津で離れ離れになったが?」 「あん時は、板山のばちゃ、約束の時間に間に合わんかったがど。汽車に乗ってから、それでもと思って、車掌さんに頼んで放送してもらったけど、いなかった」 「そいがか、でも、おまんもよく千葉へ行ったもんだ」 「字見て行けや分かるこてや。習志野の駅に着いたら、エツオちゃんとヨシエちゃんがちゃんと迎えに来てくれていたし……」 おそらく母と伯母は何度か一緒に列車に乗ったことがあったのでしょう。大宮駅は狭山に住んでいた叔父のところへ行く時に乗り換えた駅です。習志野は一番下の叔父が住んでいたところです。背が低くとも歩けば、とっとと歩く。母のそうした姿は大宮駅で伯母が見たものだったのかもしれません。 数十年前の記憶には、正しいものもあれば誤解もある。母と伯母はともに80代ですが、昔のこととなると、目を輝かせて語りだします。どんな思い出も、いまになればなつかしさで一杯になるのでしょう。7人いたキョウダイのうち、男のキョウダイは次々と亡くなり、いま、元気に話をできるのはこの2人だけになりました。雪が消え、春になったら、母を板山に連れて行ってあげようと思います。 |
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第59回 記念写真 2週間ほど前のこと。旭川市在住のYさんからメールをいただきました。そこには、「先日、『兜巾山からみた米山』の写真を拝見しました。びっくりするやら、懐 かしいやら」とありました。その写真は、市道・尾神川谷線の兜巾山付近で私が撮影したもの。私のホームページに「私の好きな風景」の一枚として掲載していました。 Yさんは上越市吉川区内にあった旧源小学校出身です。ホームページに掲載した私の写真とコメントを見て、小学校時代に兜巾山に登山したことを思い出されたのです。そして、その登山をした時の記念写真を送ってくださいました。写真は山頂で撮ったもの、女の先生と22人の男子児童が写っていました。 写真はいまから47年前の10月に撮影されたものです。いうまでもなく写真はモノクロ、写っている児童は全員が丸坊主で学生服か半袖シャツ姿で、元気に登山したことが一目で分かる、いい表情をしていました。兜巾山は海抜767メートルで尾神岳よりも低い山ですが、記念写真の背景には米山がはっきりと写っていました。 写真を見た瞬間、「なつかしい。これはすばらしい写真だ」と思いました。そして、「私の好きな風景」として全国に紹介したくなりました。掲載するためには撮影した人の許可を得てからと思い、行動を開始しました。手がかりは、写真の裏面に記された、「M先生より」という文字です。まずMさんに会うことにしました。 Mさんは当時、源小学校の教員で、カメラ愛好者の一人でした。お会いすると、快く当時のことを語ってくださいました。Mさんは、自分の家で現像するほど写真に熱中していたそうです。同じ学校の教員の中でカメラを持っていた人は他に思いあたらないということやYさんの写真メモからいって、撮影者はMさんにほぼ間違いないと判断しました。 驚いたのはMさんの記憶力のすごさです。なぜ、小学生が兜巾山へ登ることになったのか、その経緯や状況を鮮明に覚えておられました。47年前というと、上越地方にテレビが普及する少し前でした。じつは、当時、テレビ電波の受信試験を兜巾山でやっていたのです。それを見ようという声が教師や子どもたちのなかからあがったのでしょう。写真には元気な顔が写っていましたが、児童の中には、へたばってしまった者もありました。小学生だけでなく、中学生も兜巾山をめざしていたそうです。中学生は登山道が分からずに途中で断念し、引き返したといいます。 Mさんからは、当時の農村風景や学校生活など様々な思い出についても語ってもらいました。私がずっと探し求めていた田植えの時の「わっころがし」の写真、これも撮っておられました。当時、ある集落の民家に下宿していた女性教員のところへ夜中に「訪問」しようとした不届き者がいたとかで、運動会用のピストルで追い払うようアドバイスしたという話には笑ってしまいました。笑いごとではないですが……。 かくして、47年前の「兜巾山での記念写真」はホームページに載せることができました。その後、Yさんの同級生や同窓生などから、この写真についての感想や問い合わせなどがいくつも寄せられています。同級生だったN男さんは、「いやー、いい写真だった。今度はこの写真を肴にして同級会をやるよ」。たった一枚の記念写真が話題になり、数十年前の記憶が次々とよみがえってくる。いいものですね。 |
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第58回 『ハルとナツ』をみて 泣きました。いっぱい泣きました。この間、五夜連続で放映されたNHKドラマ・『ハルとナツ』をみてのことです。家族みんなで楽々食べられる生活を夢見て一生懸命働くけれども、なかなかそうはならない。家族が離ればなれになり、戦争に翻弄(ほんろう)され、二度と会えない事態も起きる。手に汗を握りながらみました。 こんなにもひきつけられたテレビドラマは久しぶりでした。舞台はブラジルと日本の農村ですが、戦前、戦中、戦後にわたる生活を描こうとすれば、必ず出てくるのは貧しさとのたたかいです。 ハルたちが北海道の伯父の家に世話になっていた時は毎日のように雑炊、ブラジルのコーヒー農園で働いている時は煮た大豆ばかりを食べていました。戦前から戦後の食糧難と慢性的な空腹感を経験してきた人たちにとっては、当時の苦労と切なさを思い出すシーンだったにちがいありません。私も、自分や家族の歩んできたことと重ねながらいろんなことを思い出しました。 ハルの一家ほどの厳しさはありませんでしたが、空腹感は共通しています。子どものころ、学校から帰れば、茶箪笥(ちゃだんす)を開け、何か食べるものがないかとさがしました。カリントウのひとつでも残っていれば、大喜びしたものです。売ってもいくらもしないタテセンの下(小さなコメ)を大切にし、毎日のように「おじや」を食べました。 貧しさをひきずり、家族みんなで一緒になって懸命に働く、そこも共通していました。コーヒー豆をもぐ、綿花をつむ光景をみながら、刈った稲を背中で背負い運んだことや稲こきのために夜遅くまで手伝ったことを思い出していました。 ハルとナツが日本とブラジルで離ればなれになって暮らす姿は、連絡がとれないという点で大きな違いがあるものの、出稼ぎに行った父と残された家族の関係に似ているところがありました。しんしんと雪が降り続き、豪雪となった時には、毎日のように父を思いました。「何で家族のところへ戻ってきてくれないのか」とイライラしたこともあります。 でも、こういう体験はけっしてムダではなかったと思います。つらいことはたくさんありましたが、幸せをつかむ大切なことが含まれていたように思うのです。脚本を書いた橋田壽賀子さんは、「貧しくても土にしがみついて自分の力で生きていく家族の姿というのは、人間の生きる原型みたいなもの」とのべています。こうした体験があるから今の暮らしがあるのではないでしょうか。 それにしても、戦争は絶対してはならないと思いましたね。ドラマは戦争そのものをあまり描写していませんでしたが、「戦争のもたらす悲劇」をしっかり伝えるものとなっていました。憲法9条のありがたさをしみじみと感じたドラマでした。 |
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第57回 解散総会 酪農組合総会といえば、年に1回、それも2月と決まっていました。総会の日は、いつもと言っていいくらい大雪か吹雪で荒れました。ところが、今回の総会案内は真夏でした。封筒を開き、案内文を読み、ハッとしました。同じ総会でも解散総会の案内だったのです。 吉川の酪農の歴史は、戦後まもなく、旭地区の先進的な農家が乳牛を導入し手搾りをしたところから始まりました。そして、何人かの人たちが集まり組合が誕生しました。もう半世紀も前の話です。最初は1頭飼いの乳搾りでした。それが徐々に増え、2桁の頭数を飼養する農家も登場します。タバコ、豚、養蚕などとともに、水田との複合営農の一類型として最も注目されたのが酪農でした。その酪農も経営の厳しさ、後継者難などで組合員数が激減、いまや2人だけとなってしまいました。 わが家は1961年(昭和38年)から組合の仲間にしてもらいました。父が出稼ぎをやめて酪農をはじめたのです。私が中学2年生の時でした。冬でも父と一緒に暮らすことができるようになった、あの感激はいまでも忘れることができません。当時、わが家の出荷番号は58。ということは、わが家が組合に加入した頃が酪農組合の最盛期だったのかもしれません。以来、仲間に助けられ、励ましあい、昨年3月まで43年間にわたり組合員でした。 さて解散総会、じつは50回目の総会でした。会場はいつものように、農協旭野支店の2階です。最後の総会に参加したのは、酪農家2人と組合長、事務局のほかに来賓4名でした。総会の中身は昨年度の決算承認と組合の解散だけ。いうまでもなく新年度の事業方針も予算もありません。総会はあっさり終了しました。 でも総会が終わっても誰一人席を立とうとしません。そのうち、参加者のひとりが、「おい、おまんちの親父さん、元気か」と言い出してから、しばらく思い出話に花が咲きました。 組合結成20周年の年に茨城県協和町から鈴木茂さんという著名な酪農家をよんで酪農技術講演会をやり、それが吉川の酪農の大きな飛躍につながったこと、パクラマアストロセレクト、紋次郎などといった種牛にこだわったことなど次々と語り合いました。おもしろいもので、苦労したことほど懐かしい。ワラ集めのために長時間トラクターに乗り、胃が痛くなったとか、ご飯が食べられなくなったことなど、「そう、そう」とうなづくことばかりでした。 組合員が10人くらいだった頃は、総会後が賑やかでした。懇親会をやり、夕方の搾乳までがっちりと酒を飲む。場合によっては、搾乳後、スナックやカラオケに出かけたこともありました。今回は最後の総会でしたが、懇親会は無し。じつは事務局の人が昨年体調を崩した組合員のYさんの体のことを気遣って配慮してくれたのです。 まだ食事制限もしているし、酒も飲めない。そのYさんですが、久しぶりに会ったら、顔色も笑顔もすっかり元通りになっています。もう大丈夫です。これからは息子さんとともに吉川の酪農の伝統をしっかりと守ってくれるにちがいありません。 酪農組合もいつか解散の日を迎えるとは思っていました。その時は派手にご苦労さん会をやってさよならをする、そんなイメージを抱いていたのですが、お互いに助け合い、励ましあって酪農を続ける、その精神というか伝統を最後の場面でも大切にしているのはとてもうれしいことでした。 |
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第56回 夏まつり ドン、ドン、ドドドン、ドドドン、ドン。遠くから聞こえてくる夏まつりの太鼓の音に心が騒ぎ、出かけたくなる。私と同じ年代の人なら、その気持ちはよくわかることと思います。久しぶりに会える人がいて、日頃よく会う人と出会っても、身も心もパッと華やぐ。夏まつりの場には、特有の雰囲気がありました。 もうだいぶ前の話。夏まつりの会場はお宮さんでした。私が出かけたまつりは、わが家から1キロほど離れたところでありました。薄暗くなってから懐中電灯を持って出かけました。みんなのお目当ては踊り、もちろん、歩いて行きました。途中で誰かに出会えば、「おつかいさんです」と挨拶しました。ごく普通の挨拶なのに、なぜか新鮮さがありました。 太鼓はお宮さんの広場の真ん中にどんと置いてありました。そこには一番近い家から電気が引かれていて、たったひとつの裸電球が会場全体を温かく照らし出しています。現役の青年団の若い衆や「太鼓こそわが人生」と言いたげな青年団OBの人たちが、ひっきりなしに太鼓を打ち続けていました。 踊りがはじまると、広場は一気に盛り上がりました。踊りの輪は、たちまち二重になり、狭い広場では居場所がないほどになります。みんなが踊ったのは北海盆唄、花笠音頭、佐渡おけさ、そして十三夜だったでしょうか。子どもたちも踊りを知っていようがいまいが輪の中に入りました。 私はどちらかというと、踊りは苦手です。他人の踊る姿を見て何とかついていけそうなのが佐渡おけさと十三夜だけ、あとはまったく駄目です。踊りのセンスがないのでしょう、どうしても動作がワンテンポ遅れてしまいます。「踊らんねぇようじゃ、一人前の人間になれねぇど」踊りを輪の外で観ていると、誰かが引っぱりに来て、輪の中に入れられたこともありました。でも、うまくなりませんでしたね。 それでも夏まつりに出かけたのは、大勢集まってにぎわう所が好きだからです。踊りは駄目でも仲間と肝だめしをしたり、かくれんぼをすることができました。広場には、お酒を飲んで元気な人がいました。裸電球の周りに飛んでくるカブトムシもいました。この際だと一生懸命若い女性を口説こうとしている人もある。そんな光景をみながら、いろんなことを知ることができました。他所の家の親戚の人たちの顔はこういう場で覚えたように記憶しています。 「死んだ、どこどこのジチャは音頭とりがうまかったもんだ」「どこどこのバチャは若い時分いい女で、踊りがばかうまかった」などと亡くなった人のことが話題になるのも夏まつりならではのことでした。夏まつりは、一年に一度、みんなが集まって楽しく交流する場でした。老いも若きもつどい、亡くなった人にも思いを馳せ、心を通わせる場になりました。 いまはもう、夏まつりを昔のようにやれる集落は殆んどありません。時代は変わりました。でも、昔からのまつりの良さを引き継ぎ、いまの若い人たちにも歓迎されるまつりへと発展させていくチャンスがいま来ているのかもしれない。そう思ったのは、先日、「越後よしかわ・やったれ祭り」を見た時です。よさこいソーランや太鼓などで見せてくれた若者たちの力強さ、雨中の抽選会場の最前列で声をそろえた子どもたちの目の輝き、それにペットボトルを活用した手づくりの稲穂竿灯の美しさ……。いずれも、新しい夏まつりの到来を暗示しているような気がしました。 |
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