春よ来い(4) |
第45回 つけ木 小さな町でありながら知らないことはまだたくさんある、そう思ったのは「つけ木」についての話を聞いた時でした。数年前のことでした。町史のことから民俗資料の話になり、その際、吉川の伯母ヶ沢というところは「つけ木」の産地であって、あちこちに売り歩いた人もこの集落にはいたということを聞いたのです。 「つけ木」については、私も子どものころから知っていました。わが家の風呂場、いろりのそばにいつもあったからです。縦10センチ、横5センチくらいの大きさで、厚さは1ミリくらいだったでしょうか、カンナクズより少し硬めの木の先に硫黄が塗ってありました。当時、「つけ木」は農村部の家庭にはどこにもありました。 もちろん、見るだけでなく、私も使いました。「つけ木」を使ったのは風呂焚きの時です。1センチほどの幅に切り割いてマッチで火をつけ、それを風呂釜の中の「杉っぱ」(杉の葉)につけました。「杉っぱ」に火は移ります。その火は、次に「ボエ」(雑木の細いもの)に燃え移り、最後はマキに燃え移る。このマキが一番火力があり、この熱エネルギーによって風呂の中の水が温まったのでした。 当時、わが家の風呂場は家の北西側にありました。井戸に近くて、外から水を入れやすかったので、この位置にあったのだと思います。風呂場の囲いの板も天井もけむりが染み込んで真っ黒になっていました。ですから風呂場というと黒いイメージなのです。いまのようなタイル張りのきれいで明るい風呂場とは月とすっぽんでした。 風呂場のけむりで思い出すのは、風呂焚きの時のけむりの強烈さです。「つけ木」からの火は、「杉っぱ」から「ボエ」、「ボエ」からマキへと順調に燃え移るとは限りませんでした。「ボエ」からマキの段階で消えてしまうことがしばしばでした。「火吹き竹」を使って必死になって火を燃やし続けようとする。その度に、ほっぺたが痛くなり、けむりが目に沁みたものです。 ところで先日、「つけ木」を生産していた人たちの話を直接聞く機会に恵まれました。伯母ヶ沢という集落は最高時34軒あったといいますが、山間部だったため田んぼの条件はあまり恵まれておらず、それぞれの農家の耕作面積もわずかでした。ですから冬仕事として、少しでも生活の足しにしようと「つけ木」の生産と販売をしたということです。ほとんどの農家が「つけ木」づくりをしたので、材料の一つである松の木は、どんどん減っていきました。 いま、「つけ木」作りのプロは何人も伯母ヶ沢にいます。カンナなどの道具や長野から仕入れた硫黄も持っている人もいます。道具や原材料だけでなく、「つけ木」の束をいまなお大切にしている人もいました。「○○さんは上手かったなぁ。体とリズムが大事でさね、『キャッ、キャッ、キャッ』とカンナで木を削る。その削ったものが、見事に重なっていくすけね。ありゃ、たいしたもんだった」。話を聞いているうちに、生産現場が目の前にあるような錯覚に陥りました。 私の生まれ育ったふるさとには、いまなお「つけ木」は生きています。火をつける役割はすでに終わりとなりましたが、言葉として生きているのです。お返しのことを「つけ木」、あるいは「つけげ」ともいいます。「これ、つけげ代わりに持っていってくんない」。とても温かくなる言葉です。そういえば、お寺さんも安寿さんも「つけ木」持って歩いておられましたね。 |
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第44回 こねり 1月も下旬だというのに、まだ生のまま食べられる柿がありました。冷凍したり、低温貯蔵しておいた柿の話ではありません。秋にもいだ柿を常温でとっておいたものでも、まだ食べられる品種があるのです。この柿はふゆう≠ニいう名前の柿だとか。先日、ある家の玄関先で見つけてとてもうれしくなりました。 玄関先のバケツの中には、少し痛みはじめていたものの、色も形もしっかりとした柿が10個ほど入っていました。とても美味しそうなので、がまんできなくなりました。そこの家のお母さんに、「1つもらっていいかいね」と声をかけたら、「なじょも、なじょも。1つなんて言わんでいくつでも持っていきない」。それで5個ももらってきました。もちろんすぐに食べました。皮の部分はしっかりしていたんですが、実はだいぶ軟らかくなっていました。でもこの時期ですからね、柿の味を確かめることができただけでも大満足です。 この柿を食べながら思い出したのは、こねり≠ニ呼んでいた柿です。20年くらい前まで、わが家には、通称「サカンソ」という所に直径30センチくらいの柿の木がありました。これがこねり≠ナした。実の長さは5センチ弱。甘柿の中では最も晩生品種で、もいだばかりのころは硬くて食べる気にもなれません。わが家では、母が比較的温度が低いガンギにワラを広げ、そこにこねり≠並べておきました。 果物がなかなか手に入らない冬場、こうして「貯蔵」しておいたこねり≠ヘ、貴重な果物でした。家族みんなで、手ごろな硬さになったものから少しずつ食べました。たいがいは、皮をむかないで、手で表面をこすってがぶりとやりました。柿の甘みと冷たさが口の中に広がって忘れられない感触が残りました。 私のキョウダイは食い盛り、こねり≠ヘ山ほどあったわけではありません。誰かが一日にいくつも食べてしまえば、少しの間に全部無くなってしまったでしょう。でも、誰も一度に何個も食べるようなことはしませんでした。家族みんなで楽しみ味わう。家の中で決めたわけではないのに、自然にそういうルールができていました。 そんなわけで、わが家のこねり≠烽P月、ひょっとすると2月ころまでありました。外は雪の白一色。こうしたなかで、柿のだいだい色は、昔もいまもとても温かく感じます。 |
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第43回 干し柿 先日、干し柿を買ってきました。白色のトレイの上に並んだ干し柿は、粉をふいていて、とても美味しそうでした。ところが、食べてみたら、どうも、いまひとつなのです。気のせいか、子どものころ母がつくった干し柿に比べると、ちょっと甘味が薄い、そんな感じがしました。 わが家では、母が毎年干し柿をつくっていました。いうまでもなく干し柿は、渋柿を使ってつくります。母が干し柿用に使った柿のなる木は、わが家のハサ場のあった釜平というところにありました。「みなし柿」、タネの入らない渋柿をそう呼んでいましたが、そこに一本ありました。 その木には、多い年ですと、数百個の柿が正に鈴なりになりました。稲刈り、もみすりが終わった頃でしたでしょうか、母は自らその「みなし柿」の木に登り、実をもぎました。干し柿に使うものは、傷がついていたのでは使いものになりません。手でもげる範囲のものは手でもぎ、手の届かないところのものは、竹ザオの先に袋をつけた鈎(かぎ)を使ってもぎました。 もいできた柿は皮をむきます。次に、串(くし)に刺しますが、串には、いたんだカラ傘の竹の骨を使いました。この竹を洗って使えば、干し柿の串にぴったりだったのです。串一本につき10個の柿を刺します。その串が10本になると、串の両端をワラ縄で編みます。母は、こうした串刺しの柿をわが家の二階の外につるしました。全部で5つか6つ、あったように思います。 串にさした柿は、わが家の下の方に流れる釜平川から吹き上げてくる冷たい秋風にさらすなかで乾き、干し柿になりました。天候にも左右されましたが、硬くなり、白い粉がふきはじめるころ、家の中にしまいました。このタイミングを間違うといいものができません。ある年のこと、母は柿がまだ柔らかい状態の段階でしまったことがありました。天候が悪かったのでしょう、この時は実がぺたぺたしていて、粉もふかない、干し柿らしからぬ「干し柿」になってしまったのでした。 以来、母は串柿をやめて、ワラ縄を使ったつるし柿にして干し柿をつくるようになりました。このやり方だと柿のズボ(「へた」のことをいいます)を利用して縄にしばりますので、串に刺したところからカビが生えることもありません。そしてしまう時にはダンボールを利用できました。 どういうしまい方をしたかといいますと、ダンボールに、すぐったワラを入れます。その上に干し柿を並べます。並べ終わると、その上にまたワラを敷く。そして干し柿を並べる。その繰り返しをしてしまったのです。 こうして出来上がった干し柿は、漬物と並んでお茶飲みに欠かせない食べものとなりました。誰かがお茶飲みに来ると、干し柿を取り出しては食べたものです。当時もカリントウなど甘いお菓子がありましたが、それらは贅沢品。それだけに甘味のある干し柿は貴重でした。 正月元旦、私のふるさとではこの干し柿を「歯がため」といって食べる風習がありました。この時も美味しかった。でも私が一番好きだった干し柿の食べ方はといいますと、天ぷらです。口の中にぱくりとやると、天ぷらの衣と黒い干し柿の甘みが合わさって広がる。あの感触は忘れがたいものでした。 |
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第42回 三ころ突き 雪が本格的に降ってくると、父が酒屋者(さかやもん)の出稼ぎに出ていたころのことを思い出します。一晩に1メートルもの雪が降ったこともありました。祖父や母が道つけや雪掘りで苦労をしている姿を見て、「とちゃは何をしているのだろう。酒屋者をやめて早く帰ってきてほしい」、そう思ったこともありました。 父が家族のために町を離れて働いていることは、子どもながらにうっすらと分かってはいましたが、それでも「どうして、とちゃは……」という気持ちがあったものです。その一方で、父が行っている酒造りの仕事がどんなものなのか、関心がありました。どんなふうに仕事をしているかは、父も多くは語ってくれませんでしたが、父が家に持ち帰るものが酒造りの様子を想像させてくれました。 その一つは、正月休みに父が家に持ってきた酒粕とヒンネリ餅です。コメを使って酒は造られている。それを洗って蒸かしたり、混ぜたりしているらしいことも分かりました。時々耳にした、釜屋だとか麹屋、精米などといった言葉も、意味は分からなくても、父と祖父などとの会話の中身から、酒造りの大事な仕事の分担であることが理解できました。 余談になりますが、酒粕は楽しみでしたね。酒粕を水で溶かしたものを沸かし、砂糖を入れて飲んだ時の美味さは格別でした。また、酒粕をモチ網の上に乗せ、火にあぶって「おこげ」をつくる。これを手で少しずつちぎって口に入れる。こちらも美味しいものでした。いずれも冬場の大好きな食べものの一つでした。 さてもう一つ、父が持ち帰ったものがあります。それは酒造り唄です。酒造り唄は、酒造りの作業のなかで歌われる仕事歌です。娯楽でもありましたが、何よりも時間を計ったり、集団労働で仕事のテンポを合わせるなど酒造りの流れのなかで重要な役割を果たしていたようです。 私の小さな頃の造り酒屋ではよく歌われていたのでしょう、父はいくつも歌うことができました。父が最も得意とする酒造り唄は「三ころ突き」です。 揃(そろ)た揃いました コラヤノヤ 一ころニころ四ころにゃ足りない 中のニ・三本が コラヤノヤ よーく揃ーた 正直言って、子ども時代に聴いた時は何の唄なのかさっぱり分かりませんでした。しかし、正月やお盆などにお客があって酒を振舞った時や目出度いことがあると、必ず歌っていたのでとても印象に残っています。大きな声で手拍子を打ちながら歌う父。その姿はとても力強く頼もしいものでした。 オジジ何処きゃる コラヤノヤ おやじの代から三代伝わる桐の木どうらん 菜っ葉にはぜ飯 おカカの分まで てっちり詰め込み 裏の板山へ コラヤノヤ 柴刈(しばか)りにー 4年前、『幸せめっけた』の中から8つほど話を選んで小田順子さんに朗読してもらった際、従弟の一人に言われました。「おまんちの親父さんの、あの唄はすごい」。それで、父のこの唄も朗読と一緒にMDに録音しました。父が酒屋から持ち帰った「三ころ突き」はわが家の家宝です。いつまでも大切にしたいと思います。 |
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第41回 トコロ 秋が終わり、冬になると、食べたくなるものがあります。トコロです。昔はどこの家でも食べていたものですが、クセのある味に好き嫌いがあるのか、このごろは本当に好きな人たちだけが食べているようです。私も、小さな時から食べているうちに、個性的な味に惹かれ、すっかり「トコロ大好き人間」になってしまいました。 わが家が蛍場にあったころ、山芋は祖父や私が掘っていましたが、トコロを掘ってくるのはいつも母の仕事でした。場所は通称ヨシワラというところで、田や畑を起こすこともできない山の急斜面でした。そこに山芋などと混じってトコロがたくさん生えていたのです。秋も深まったころ、トコロ特有の黄色の大きな葉を探して掘る。探すのも簡単で、根も深くなく、山芋に比べれば掘りやすかったようですね。 ヨシワラでは、トコロのいいものがたくさん採れました。太くて、味が良いものです。いろいろなトコロがあるなかで、ゆで上がったトコロの皮をむいたときの色が黄色に近いものほどおいしかった記憶が残っています。しかも胃の薬にもなる。子どもの時分には、遠慮している子どもたちに、「薬にもなるし、体にいいんだよ」と言って食べさせた親たちがかなりいたのではないでしょうか。 トコロは、掘ってきたら、よく洗ってからゆでます。ゆでる時には米ヌカを少し入れておくと甘みが出ていい味になります。ゆで上がったトコロは、すぐ食べてもいいし、2、3日、そのままにしておいてから食べてもいい。さらに、ゆでたてのものを、皮をむき、焼酎漬けにしておいて食べる方法もあります。 トコロは大勢でお茶を飲みながら食べるのが最高です。わが家では昔も今もコタツの台の上に新聞紙を広げ、そこでトコロを食べます。ゆでたまんまの状態でボールなどの入れ物に入れておくと、次々と手が伸びます。誰かが食べられるようにするのではなく、それぞれが長いヒゲ(根)を抜き、ナイフで皮をむく。そして食べる。これがお決まりの食べ方です。 ところで、焼酎漬けのトコロについては、母がおもしろい話を教えてくれました。いまから20数年前のことです。母がわが家の2階の屋根から転落して重傷を負い、高田のある整形外科病院に数ヶ月も入院したことがありました。そこでトコロを食べたというのです。母に付き添ってくれたのは大島村板山の伯母でしたが、この伯母が焼酎漬けのトコロを病院に持ち込んだのでした。 昔ながらのアルミの弁当箱にたくさん持ってきた伯母は、病室の食事用の台をいくつか寄せて、それを囲んでお茶飲み会をやったというのです。仲間は同じく吉川町から入院していた町田集落のKさんとYさんだったといいます。いまの病院なら即座に中止させられるのでしょうが、当時はこういうお茶会を整形外科病院なら自由にやれたらしい。 トコロは冬のお茶飲み会にはよく似合います。ちょっぴり苦いものの、漬物などと同様、お茶飲み会を楽しいものにしてくれる食べものです。たとえ病院であっても、トコロを食べられるお茶飲み会なら、参加したくなる人が結構いるのではないでしょうか。食べものが不足していた時には、腹をいっぱいにするためにどんどん食べたトコロ、なつかしい時代を引き寄せるだけでなく、人を結ぶ力を秘めている、そんな気がします。 |
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第40回 横井戸 最近、横井戸が話題になっています。「花の球根をしまっておくには横井戸が一番いい」「物置、冷蔵庫代わりにも使える」などという評価の声も耳にします。ただ、私には、なつかしいけれども、農作業で難儀した時代の思い出がついてまわります。 わが家にも横井戸は何本かありました。家の台所などで使う水を確保するために掘ったものが2本、田んぼのかんがい用水を引くためのものが1本、合計3本だったと思います。このうち忘れられない横井戸は、田んぼのそばにあった横井戸です。 この田んぼは、わが家の前の、通称ムケと言っていた山のかなり高いところにありました。海抜は150メートルくらいだったと思います。少しでも暮らしを楽にしたいと、父と母はここを開墾し、田畑をつくったのでした。田は4枚ありましたが、いずれも狭く、全部合わせても10アール(1反)に満たない面積でした。 ここへ行くには、釜平川にかかった丸木橋を渡り、人間一人歩くのがやっとの、急な縦の道を上っていくか、通称ヨシワラというところから遠回りして、これまた細い山道を斜めに上っていくしか方法はありませんでした。ですから、肥やしを運ぶにしても、収穫した稲を運ぶにも難儀をしました。父が鉄索(てっさく)で運ぶことを考えついてからは、仕事はずいぶん軽減されましたが、それでもつらかった。 ムケの田を耕すうえで最大の問題は水でした。水が無ければ、打つことはできても土をくだいて代かきをすることができません。稲を育てることもできません。それで、父は一番高い田のそばに横井戸を掘りました。父は必死でした。小さな木箱を乗せたソリをつくり、何日もかけて土を運び出しました。しかし、10メートルほど掘ったところで父は断念しました。この小さな横井戸からは、水がチョッピリしか出なかったのです。 次に父がやったのは、近くの沢から水を引いて水をためることでした。沢といっても、いつも流れていたわけではありません。頼りは空から降ってくる雨でした。最も頼りにしていたのは、7月の「米山さんの坂流し」だったといいます。このでっかい雨が降った時に一気に代にしたのです。やっと代かきができた田には、水がたくさん張られました。田植えの時には、水がジャボンジャボンしていました。植えにくかったことと思います。でも、そうして溜めておかないと、干ばつになりやすい田は作れなかったのです。こういう状態でしたから、横井戸というと、父母の悪戦苦闘を思い出してしまいます。 いま振り返ってみると、ムケの田畑は家族みんなで仕事をした現場の1つでした。耕耘機が入りたての頃には、ここへ小型耕耘機を持っていくにしても、父一人では駄目、いつも私とすぐ下の弟がかりだされ、ロープで耕耘機を引っぱり上げる、下げる時にもロープを張りながら下ろす、この手伝いをしました。また、秋になれば稲刈り、稲そい(稲を背中で運ぶこと)もしました。 苦労の多い仕事でしたが、家族みんなできびしい暮らしから抜け出そうとした体験は貴重でした。大学3年生の時、先輩に日本共産党への入党を勧められた際、何のためらいも無かったのも、こうした体験があったからです。働くものの立場で一生懸命活動する先輩たちの姿の中に見えたものは、私が子ども時代からさがしていた、「働くもの、みんなが幸せになれる道」でした。 |
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第39回 長持 私の好きな女性の一人にユシという名前のおばあさんがいます。すでに90歳を超えていますが、顔の色つやもよく、とても元気です。会うたびに、いまの政治のことや昔の思い出など興味深い話をしてくださるので、ユシさんの家を訪ねるのが楽しみになっています。 先日もビラ配布の際にユシさんの家を訪ねました。12月にしては、とても温かくて気持ちの良い日でした。ちょうどユシさんは外でひなたぼっこの真っ最中でした。会話は、いつものように、「どうしていなったね」「あらまあ、おまさんかね」から始まって、どんどんすすみます。玄関先の石の上に二人して腰掛け、この日もおもしろい話を30分近くもしました。 ユシさんの話を聞いていて思わずほほ笑んでしまったのは、長持の話の時でした。ユシさんは、幼い時に隣町からもらわれてきたのですが、稲刈り前のある日のこと、育ての親からこんな話を聞かされます。おまんはこの長持の中から出てきたから、大きく育ててやったんだと。話をまともに受けた少女ユシさんは、この日以降、学校から帰るとまず、長持を開いて赤ちゃんがいるかどうか確かめるようになりました。妹が生まれればいいな、と思っていたのでしょう。 しかし、長持から生まれたという話が、よそからもらわれてきたことを悟られないようにするための親の配慮であることを知ったのはずいぶん後になってからのことでした。それまでは長持から子どもが生まれることを信じていたのです。待っても待っても赤ちゃんは出てこない。待つことにくたびれたユシさんは、母親が嫁入りした時の赤い「しごき」を使って人形をつくってしまったのでした。 長持は、衣装等を保管するための大きな木製の箱です。大きさは、縦が130センチ、 横が60センチ、 高さが70センチくらいだったでしょうか。私の町では、昭和初期まで、花嫁が輿入れの際、嫁入道具を入れる物として使われていました。花嫁行列では、この長持を担ぐ人たちが唄を歌いながら、お祝い気分を盛り上げたといいます。 わが家には、いまも長持があります。かつては納屋の二階に置いてありました。母によると、箱の中には、大切にしていた布団やお膳などを入れておいたそうです。私が小学生時代に見た長持は、とても大きく、重々しいものでした。長持の形は、当時読んだ海賊船の物語に出てくる宝箱にそっくりです。海賊の宝箱にはダイヤモンドなどの宝石類がつまっていたので、そのイメージが強く残りました。ですから、長持には家で一番大切なものが入っている、長い間、そう思い続けてきました。 さて、話を元に戻しましょう。「長持から生まれた」ユシさんの話には、ためになることが次々と出てきます。ユシさんは、自分が子どもを産んだ日と夫に召集令状が来たのが重なるというまれな体験をされました。その日の忘れがたい思い出をつづったものを「とてもいい文章だったねかね」とほめたら、「何でも真実が一番。ウソを書くと、ごまかそうと頭を使う必要があるからたいへんだ」という言葉が返ってきました。「杉の木だったら、年をとれば役に立つけど、人間、年寄りになれば役に立たなくて……」とも。しかし、私にとっては、人間が生きていくうえで大切なことがいっぱい頭に入った、役に立つおばあさんです。ぜひ長生きしてほしい。 |
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第38回 ふくべ おもしろいものですね、ある家でヒョウタンを見せてもらったおかげでユウガオについての知識が広がり、昔の暮らしぶりまで知ることができました。ユウガオの使い方にはさまざまな暮らしの知恵があって感心してしまいます。 ユウガオというと、細長型の大きな瓜をまず思い浮かべます。私の住んでいる地域では、「ヨウゴ」と呼んでいます。ユウガオがなまってヨウゴになったのでしょう。次に浮かぶのは御なじみのヒョウタン、あのくびれたものです。そして今回初めて知ったことですが、ユウガオには、この他に、丸型のものがあるのだそうです。 母の実家(大島村)では、昔、この丸型のものをつくっていたといいます。母の記憶によると、大きくなった実を真ん中で2つに分け、これを水の中に入れておく。数日間(あるいはもっと長かったかも)もすると、中がどろどろになり、皮だけが残る。この皮を天日で干してカサに使ったというのです。私たちの地域で使っているスゲガサの代わりになるものなのでしょう。 細長型、ヒョウタン型、丸型の3つのタイプの中で、これまで最も目にしてきたのは細長型のヨウゴです。これは主に食用として栽培されてきました。私の大好きなお汁のひとつは、鯨の肉とこのヨウゴを細かく切って煮たものですが、新ジャガイモとワカメの組み合わせと並んで、美味いお汁の横綱格だと思っています。 このヨウゴを細長く切って干すカンピョウ作りは、現在も町内の農家で盛んに行われています。7月から8月にかけて行われるカンピョウ作り風景は、わが町の夏の風物詩といってもよいでしょう。母も牛舎の近くで、皮を向き、細長く切ってはトタンの上に並べて干しています。雨が降りそうな時など手伝うことがありますが、いったん、くっつくと離すのがやっかいです。 でも、苦労して作ったカンピョウは本当においしい。それに、独特のやわらかさ、歯ごたえが何ともいえません。繊維質が豊富で、鉄・リン・カルシウムなどが バランスよく含まれた健康食品でもあります。私が食べるカンピョウ料理のなかで一番は、カンピョウ入り海苔巻きです。ぱくりと食べても良し、行儀が悪いと怒られそうですが、味の付いたカンピョウだけ引っ張り出して食べるのも格別です。 今回、このヨウゴについて長年忘れていたことを1つ思い出しました。わが家のそばには、「タネ」と呼んでいた小さな池があり、そこにヨウゴを入れていたという事実です。それが何のためだったのか、何一つ記憶していなかったのですが、ヨウゴを野菜の種子入れにするなど保存容器としても使っていたということを聞き、なるほどと思いました。 母によると、「タネ」に入れておいたヨウゴは、ツルから実になる部分を小さく切ってあったそうです。大島村の実家のカサづくりと同じ要領で一定期間水につけた後乾かすと、中が空っぽの入れ物が出来上がります。乾燥したものは、表面がカチカチの木工品みたいで、フタをすれば、中に入れたゴマ、ササギなどの種子には虫もつかないとか。わが家ではこれを3つほど軒下にぶら下げていたといいます。 町内では、このヨウゴのことを「ふくべ」と呼ぶ人たちがいます。漢字では、「瓠」と書くのだそうですが、耳に入る感じでは「福瓶」というふうに伝わってきます。この「ふくべ」から幸せの種子が次々と出てくる。そんな感じがしませんか。 |
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第37回 旅先で歩く 研修旅行に行った時に、一人でそっと楽しむ。そういったら何か誤解されるかもしれませんが、数年前、旅先でぶらぶら歩くことを覚えて以来、どうもクセになったようです。いまでは、宿泊したところの周辺を計画無しで歩き、思わぬ発見や出会いを楽しんでいます。 きっかけは宿泊地でのウォーキングでした。数年前、議会の研修旅行で山口県萩市に一泊した時のことです。朝早く起きて、ウォーキングシューズに履き替えて市街地まで急ぎ足で歩いていました。そうしたら、偶然にも明治維新期に活躍した高杉晋作の旧宅の案内板を見つけ、実際の建物を見ることができたのです。 瓦葺の小さな門があって、中には平屋建ての家屋がありました。石の門柱に高杉という文字がなかったら、ごく普通の家に見える建物です。ただ、前の通りには石垣と白壁のある長い塀があって、重々しい雰囲気が漂っていました。また、この周辺には久坂玄端、桂小五郎などに係わりのあるものがいくつもありました。彼らが生きていた激動の時代にタイムスリップしていく自分を感じ、とても興奮した記憶があります。足は自然とゆっくりになり、あたりの建物の一つひとつを興味深く眺めました。 つい先だって実施された農業委員会の研修旅行では、長野県松本市の美ヶ原温泉に宿泊することになりました。宿についてから夕食までには2時間近くもあります。ここでもクセがでました。ホテルの脇に細い道があり、山の方に伸びています。その道を登ることにしました。 まず目に入ってきたのは、石垣です。家の敷地、畑、果樹園、そして田んぼの土手にも石が積んでありました。私たちのところでは、おそらく遊休農地になってしまうであろう形の悪い田んぼでも田打ちがされていて、しっかりと石が積まれているのには感心しました。大切な財産は石垣で守る。そういう伝統があるのだと思います。 道のそばの川には、きれいな水が音を立てて流れています。道ばたには、遅咲きの野の花がありました。ノコンギクとヒメジョオンです。これらはいま私の町でも咲いています。新潟だけでなく、長野県の南部でも同じ時期に、同じ花が咲いていることを知って、何故かうれしくなりました。野の花はどこで咲いていても、その場所に似合います。 急な坂道を300メートルくらい登ったでしょうか、そこは雑木林が道のすぐそばまできているところでした。道にはナラやクヌギなどの葉がたくさん落ちています。落ち葉はよく乾燥していたので、上を歩くとカサカサという音がします。いい音だと思っていた時、「あれっ」と思いました。なつかしい匂いがしたのです。稲の籾のような匂いは、落ち葉が産み出したのでしょう。少年時代、遊びまわっていたころに嗅いだことのある匂いでした。 すぐそばに、「つくれっぱら」という看板がありました。ここは、馬の休憩所だったところだそうです。下のほうには市街地が広がって見えます。さわやかな風が吹き上げてきて眺めがとてもいい。そばには馬頭観音もあります。じっとしているだけで心が休まる場所でした。 旅先でゆっくり歩く。そこには歴史もあれば、美しい景観もある。どこでも見かけることのある野の花があり、すっかり忘れていた自分を思い出すこともある。こんど旅に出た時、どんな出会いがあるか、考えるだけでワクワクしてきます。 |
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第36回 川谷出張所 吉川町の東端の山間部、川谷地区は雪の少ない年でも3メートル近い積雪となる豪雪地帯です。過疎化が進んで、戸数は4集落合わせても40戸ほどになりました。その殆んどが老人世帯です。私は、大島村へ行く際やビラ配布などで、たびたびこの地区を訪れますが、下川谷集落内にある、農協の小さなお店がとても気に入っています。 10坪(33u)ほどの大きさの、このお店、現在の正式名称は「JAえちご上越川谷店」と呼ぶのだそうです。でも私も地区の人々も源農協時代の「川谷出張所」という名前を使っています。長年使ってきただけに、「ジェイエイエチゴジョウエツカワダニテン」よりもずっと親しみがありますし、温かいイメージもある。それに言いやすいということもあるのでしょう。 「川谷出張所」の店員の豊子さんは私と同年代の女性で、彼女がまた、この職場にぴったり。いつも明るい笑顔で応対してくれて、お年寄りにとてもやさしいのです。売っている商品の食べ方の説明をしてくれる。貯金のことも教えてくれる。長い世間話もいやがらない。あまりにもいい雰囲気でお客と接してくれるので、「川谷出張所」を訪れる人は、みんな元気をもらって帰ります。だから、また行きたくなるのだと思います。 ここを訪れる時、お客はたいがい私一人だけ。ただ木曜日は農協の売出しの日とかで、いつも3、4人のお客がいます。一度に3、4人も集まるのは、この小さなお店にとっては大入りで、にぎやかな感じになります。 先日の売出しの日も、私は出張所の休憩所に立ち寄り、コーヒーを飲んで休んできました。お客は電動三輪車に乗ったトキハばあちゃん、一番標高の高いところに住んでいるチヨさん、そしてすぐ近くに住むハツイばあちゃんの3人でした。 久々に私に会ったチヨさん、太った私の姿が違う人間に見えたのかもしれません、豊子さんにきいています。 「この人、橋爪さんだねかねや」 確認できたら、今度は私に話しかけてきて、ひとしきり、にぎやかな会話が続きました。チヨさんは、私の母と同じく大島村旭地区の出身で、父のことも母のこともよく知っています。「おまんちの、お母さん、元気でいなすったかね」から始まって、父が20数年前までやっていた保険外交のこと、さらには母の実家と親戚の家のことまで話が広がりました。 こんな調子でいろんな人たちが、この「川谷出張所」を舞台にして話をするものですから、お店をあずかる豊子さんの頭の中には、地区に住む人々の情報でいっぱいになります。どこどこのおばあちゃんは、きょうは、医者に行く日だとか、大地震の時、だれがどこへ避難したなどという話まで知っている。いま、一番地区住民のことを知っているのは豊子さんでしょう。 小さなお店、「川谷出張所」は農協の店舗ですが、郵便局の仕事もしていて、地区の人たちがこの地で暮らすためには欠かせない存在です。豊子さんの人柄もあって、心のよりどころにもなっています。地区の人たちにとっては、まさに生命線と言ってもよいでしょう。最近、近くに住む若い香織さんが、毎日のように子どもさんを抱いてお店にやってくるといいます。そうすると、お年寄りたちは、代わる代わる子どもさんを抱いて大喜びだそうです。たまには、あなたも「川谷出張所」へ行ってみませんか。 |
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