【ふるさとは母、ふるさとはいのち】
吉川中学校での講演メモ(2001年11


【自己紹介】
 こんにちは。ただいまご紹介いただきました橋爪法一です。この度は私のようなものを呼んでいただきありがとうございます。きょうは、ふるさと吉川について語り、みなさんと一緒に魅力一杯の町づくりをしていきたい、そんな思いでやってきました。
 正直言いますと、大勢の中学生の皆さんを前にしてしゃべるのは初めてで、うまくしゃべれるかどうか分かりませんが、とてもうれしい気持ちで一杯です。じつは、一時期、私は学校の先生になりたかったことがあるんです。小学校3、4年生の時の担任の先生、林英夫という先生ですが、この先生の社会の授業がとてもおもしろくてね、いつか、自分もああいう風になりたい、そう思い続けていました。だから、きょうは、昔、自分が夢見ていたことが一部とはいえ叶った。というわけで、きょうの会を準備してくださった皆さんに心から感謝しています。
 私はいまから51年前に源村大字尾神字蛍場(ほたるば)で生まれました。蛍場って知っていますか。尾神岳のふもとにある小さな集落です。蛍がものすごくいっぱいいました。わが家は、私が長男です。下に弟が3人いました。そして父母と祖父の7人暮らし。80アールの田んぼと炭焼きをやり、冬になると父が出稼ぎに出る、そういうなかで暮らしていました。

【中学時代に考えていたこと】
 中学時代の生活のなかで考えていたことは、みなさんと同じだと思います。クラスのこと、部活のことや進学をどうするか、でした。ただ、私の場合、ちょっと変わっていた点がありました。体がどんどん弱っていく祖父の影響をもろにうけていたことです。
 祖父は、私が中1の頃からちょっと様子がおかしくなって、目やにをしょっちゅう出していましたし、顔面神経痛を患ったこともありました。小さい頃から、かわいがってもらっていて、とても大事なじいちゃんでしたから、私は当時、「じいちゃんを絶対死なせない、おれは死なない薬をいつか発明してやるんだ」と、いつも考えていました。 それから、じいちゃんが、炭焼きなどで大変な苦労をして体をいためた、という意識がありまして、このままでは、とちゃも、蛍場の大人もみんな、体がだめになる、そんな思いにかられ、近くで石炭の層、炭鉱を見つけたい、そしてもっと楽な暮らしを実現したいと思い続けていたこともあります。
 ある時、石炭が地上にむき出しになっているのを見つけた、という夢をみました。そこでは、炭鉱から石炭を鉄索を使って石谷の方へどんどん運び出している。おかげで源はずいぶん栄え、暮らしも楽になった、というものですが、夢が覚めてもその場所をしっかり覚えていました。尾神と石谷の間に、国を造る山と書いて国造山(こくぞうやま)と読む山がありました。そこが夢の現場で、ひょっとしたら正夢かもしれない、と思って、私はそこまで行って確認してきました。残念ながら夢は当りませんでしたけれど、暮らしを良くしたいという気持ちは当時からずっと持ち続けています。

【『幸せめっけた』をなぜ出版したか】
 さて、きょうの主題に入りましょう。私がいま持っている本が、『幸せめっけた』という本です。吉川町に住んでいる人で、随筆の類の出版は私の本が初めてだったということもあって、多くの町民の皆さんから買っていただきました。だいたい3軒に1冊の割合で求めていただきましたから、みなさんもどこかでご覧になったかもしれません。
 なぜこの本を出版したか。その最大の理由は、自分が生きてきた20世紀後半の歩みのなかで、このことだけは後世に伝えたい、21世紀に残しておきたいというものがあったからです。
 21世紀に残しておきたい、忘れられない故郷の記憶、ここでは3つだけお話しましょう。
  1つは、いのちの重みを心に刻みながら暮らしていたということです。40年位前までは、人が生まれるのも、死ぬのも、ほとんど自宅でした。だから、赤ちゃんが生まれるのも近くで見ていたし、死ぬのもそばで見ていました。
 「いま大東(おおひがし。我が家のすぐ下にあった家の屋号)で赤ちゃん生まれると」なんて聞くと、子どもながら、「大丈夫かな」とか「どんな子か」などと言って、ドキドキして待ちました。
 年寄りが死ぬ場合もそうです。生きている時は様々な愛情もあれば憎しみもあったでしょう、しかし地域で共に生きてきた人が近くで死んでいく。みんな心配していましたし、死の重みを感じていました。
 そして亡くなると、焼き場、火葬場です。そこから立ち上るけむりが見え、臭いも漂ってくる、そういう暮らしがありました。人間が生まれてから死ぬまでを地域のなかでしっかり見て、いのちの重みを心に刻みながら暮らす、そのことはこれからも大切にしなければならないことだと思います。
  2つ目は出稼ぎです。いまは吉川町から出稼ぎに出る人は90人くらいしかいませんが、昔はこの10倍近い人たちが出稼ぎに出ました。いわゆる酒屋もん(者)です。酒屋もんというのは、酒造りの出稼ぎにでる人のことをいいます。昔は、役場とか農協・郵便局にでている家以外は、まず例外なしに酒屋もんに出ました。
 11月に田んぼの仕事が終わると、じきに旅に出かけ、正月に一度戻ってくるぐらいで、あとは4月末まで戻ってこない。残された子どもも妻も年寄りも、みんな、出稼ぎに出た人を思いました。
 わが家も父が酒屋もんに出ましたから、さびしかったですね。特に出稼ぎに出たばかりの頃、囲炉裏端の、普段、父が座っている場所に誰もいない、というのは、何ともいえないさびしさを感じさせました。
 それだけに、正月、そして春、父が帰ってくる日はものすごく嬉しかったものです。みやげには必ず少年雑誌を買ってきてくれました。それが何よりも楽しみでした。私は、買ってきてもらった本は読む前に、匂いをかぎました。インクの匂いが好きになったのは父のせいです。
 長期間、父親がいない。その時の父親の存在感、父親への想い、これはかなしい歴史として記録しておくべきことだと思ったのです。
 3つ目は、厳しい労働と暮らしのなかで培った家族のまとまりです。子どもは10歳になれば、もう、りっぱな労働力でした。本のなかに「丸木の二本橋」「夜なべ仕事」というのを載せましたが、春の「まやごそい」から始まって「稲こき」まで、よくもまあ、手伝ったもんだ、と思います。機械化が進んでいなかった時代にあっては、子どもの働きなしに農業は成り立ちませんでした。
 忘れられないのは、「まやご」とか稲をそって丸木の橋を渡るときの気持ちです。晴れている時でも緊張するのに、雨が降った時のものすごい緊張感。足がふるえたら川に落ちる、そんな恐怖を感じながら手伝いました。
 手伝いは田んぼ仕事だけではありませんでした。家事も手伝いました。特に大変だったのは風呂焚きです。当時、水道なんてありません。井戸だけがたよりでした。私の役目は木製の桶を使い、40〜50メートル離れた井戸から水を汲んで、風呂の中にあけるのと、風呂をわかすことでした。
 田んぼ仕事の手伝いも、風呂の水汲みも決して楽ではありませんでした。しかし、いま、振り返ってみると、こうした手伝いが親と子どもたちの心をつなぐ架け橋となった、そして家族の絆を確かめ合い、固くする手段になった、と思います。
  私は中学生のみなさんに、昔はすべてよかった、と言うつもりはありません。暮らしは今の方がはるかによくなりました。私が書いた家族のまとまりなど、いまだってあるさ、と言う人もいるかもしれません。しかし、数十年前の吉川町にはあったけれども、いまの暮らしのなかにほとんどなくなってしまった大切なもの、あるいは、いまの暮らしのなかで弱くなっている大切なものがある、この事をみなさんに知ってほしいのです。
  それとは逆に、もうひとつ、私の中学時代には実現できなかったものをみなさんが見事にやっていることを私は指摘しておきたいと思います。9月に行われた中学校の体育祭、私も見にきました。圧倒されたのは応援合戦です。リズムに乗って、あれだけのまとまりをつくれるってのはすごいと思います。それに合唱コンクール、あれも私たちの時代には実現できなかったことです。とてもうらやましく思います。

【私が再発見したふるさとの面白さと魅力】
 次にふるさととは何か、ふるさとの魅力について語りましょう。ふるさとというのは、言うまでもなく自分の生まれた地域のことです。このふるさとというのは、ふるさとから離れた時に初めて実感できます。
 私の場合、ふるさとを初めて離れたのは高校一年生の時でした。高田の南城町で下宿生活をはじめたのですが、強烈なホームシックにかかりました。いつも一緒にいた弟たちがいない、父母もいない、毎晩、どうしているかと心配でした。なぜ電話をかけないのか、と思うでしょう。当時、わが家にはまだ電話が入っていませんでした。そんな時、信越線の列車の音が聞こえてきます。ゴトゴト、ゴトゴト、ゴトゴト、いや、じつにさみしかったですよ。それと高田公園のお堀に棲むカエルの鳴き声、夜になると、グワッ、グワッ、グワッと鳴くんです、あの声を聞いて、ずいぶん遠くへ来ちゃったな、と思ったものです。たまに、尾神岳が遠くに見えると、それだけでぐっとくるものがありました。生まれ故郷にかかわる何かを見聞きするだけで心が騒ぐ、ドキドキしてくる、それがふるさとです。
 こんなことがありました。高2の時、確か、昭和42年の1月17日だったと思いますが、高田の南本町通りを歩いていた時でした。ラジオから吉川町という言葉が流れてきてビクッとしました。吉川町の川谷で子どもたちが雪崩にまきこまれたというニュースです。幸い、子どもたち全員が無事救出されたのですが、あの時も胸がドキドキしました。ふるさとというものはそういうものだと思います。
 私が本を出してからいただいた感想や書評で最も多かったのは、ふるさとへの共鳴でした。ふるさとでの遊びや労働、行事などについて書いた文章にふれて、読者の心がふるえたのです。ありがたいことに、多くの読者のみなさんは、自分の体験・思い出を重ね合わせて私の文章を読んで読んでくださり、共感してくださいました。
 私自身も本を出すことによって、ふるさとを見る眼が変わりつつあります。ここ20〜30年、見えていなかったふるさとの面白いところや魅力が見えてきたのです。
 まず面白い話をひとつしましょう。吉川町は泥棒体験者が多い。酒屋もんが多かったことで「酒造りの町」といわれていますが、もうひとつの顔があるのです。いま、人口は約5700人ですが、このうち、だいたい、1500人くらいが泥棒をやったことがある。人口の4分の1が泥棒しているとなると、もう、文句なしに「泥棒の町、吉川」と言っていい。この間、町の小野教育長さんにお聞きしましたら、あの方もりっぱな「泥棒」でした。よその家の玄関にあったダンゴの盗みを見事に成功させたのです。
  かく言う私もじつは泥棒をやったことがあるのです。いいですか、これは駐在さんに内緒にしておいてくださいよ。私は2回、泥棒をやりました。もう数十年前のことです。
 1回目は9月の十五夜でした。暗くなってから、遊び仲間とナシ泥棒にでかけました。私の家から300メートルほど離れたところに大きなナシの木があってね、暗闇を懐中電灯なしで進みました。昼間、学校へ行く時に通っている道ですから、どれくらい歩けば、右に曲がる、どれくらい進めば上りになる、そんなことは体が覚えてましたから、どうってことないのですが、やはり、泥棒ってのはスリル満点、ものすごい緊張感です。杉林の中に入ったら、ギャーッ、人間みたいな声を出す鳥がいました。空を見上げると、大きな木の枝がまるで悪魔のマントのように広がっています。短靴とランニング姿の私たちは震えましたよ。でも、この時は成功しました。小さな砂ナシをランニングシャツの中に入れて持ち帰り、かぶりついて食べました。
  2回目も同じナシの木で泥棒をやりました。この時は学校帰り、夕暮れ時でした。1回目ですっかり自信をつけてね、ナシは鈴なりでしたから、ひとつやふたつ、いや、10や20とったってわかりやしない。そう思って木の上でムシャムシャ食べ始めてしまいました。そしたら、「おまんた、うんめか」と大人の声が聞こえてね、必死に逃げましたよ。それ以来、私は泥棒から足を洗いました。
 吉川町になぜ泥棒体験者が多いか。それは数十年前まで吉川町では一年で一晩だけ泥棒してもいい晩があったからです。その晩は十五夜でした。木や畑になっているものだけでなく、わざわざ、子どもに盗ませるために、家の前に机を出し、ダンゴをならべていた集落もあったそうですよ。
 なぜ、こういう風習があったのか、はっきりしたところは分かりません。しかし、地域の大人たちが、子どもたちを大人にさせようと協力する、この「地域共同の教育力」の発揮は素晴らしいことだと思います。
 地域みんなで子どもたちを育てようという伝統は、昭和42年4月1日に、全国に先駆けて公布された吉川町義務教育費用無償化条例を誕生させていきます。
  2つ目の魅力は、心をなごませてくれる、ふるさとのよき自然があることです。『幸せめっけた』を書くようになってから、子ども時代に飛び回った場所などを何度も訪れるようになったのですが、いい場所が一杯ありますね。季節の風を感じ、風と遊べる大地がある。
 斎藤隆介の「花さき山」という絵本ご存じでしょうか。あの本の中で、人間、やさしいことをすると、きれいな花がぽっと咲く、自分のことよりも、ひとのことを思って、涙をためて、しんぼうすると、そのやさしさと、けなげさが花になって咲くという話が出てきます。
 その「花さき山」が吉川町にたくさんあるのです。例えば、尾神と川谷の間に小さなトンネルがありますが、あそこの上、川谷一番地というところですが、そこにはかたくりの花の大群落が広がっています。吉川中学校のそばにも「花さき山」があります。5月の連休の頃、グランドから六角山に向かって山の中を歩いてみてください。行けども行けどもオオイワカガミの花です。ものすごいですよ。みなさん方がいいことをするたびに、やさしいことをするたびに、あそこの花はどんどん増え続けるでしょう。
 花だけではありません、自然の素晴らしさは。最初に石炭が出るのではといった国造山は私が春になって一番最初に訪れる山です。うさぎ、たぬき、きじなどとよく出会うので、私は「ぽんぽこ山」と呼んでいます。そこへ行くと、不思議なことが起こるのです。今年は3回行ったのですが、3回ともうさぎに出会いました。会うと、なぜか、向こうも私の顔を懐かしそうに見るんです。ひょっとしたら、中学時代に弓と矢を持って追いかけた私を知っているのではないか、あの時のうさぎがまだ生きている、そんな錯覚に陥ります。「花さき山」も「ぽんぽこ山」もこの地で生きているものにとっては、大きな安らぎを与えてくれます。私は、ほんとうに、いいところに生まれたと思います。
  3つ目の魅力。この町には、もらい風呂の思想が生き続けている、と思います。もらい風呂というのはよその家で沸かした風呂に入れさせてもらうことをいいます。もう、すっかり無くなってしまいましたが、昔は、いまと違って水道もなく、しょっちゅう水不足になりました。また燃料とてたくさんない。だから、近所で助け合って生きていたのです。何人も風呂に入るものですから、お湯の表面をよく見ると、垢(あか)が浮いていました。それを洗面器で上手にすくって捨ててね、使いました。ざぶっと入ってお湯をこぼしてはいけません。そーっと入ってあったまる。それでも安らぎました。疲れが取れました。また、もらい風呂によってさまざまな交流が生まれます。わが家にやってきたモコのばちゃは、風呂入りに来ては、子どもたちに昔話をしてくれました。昔話をたくさん聞いたおかげで、想像力は豊かになりました。このもらい風呂によって、困った時には助け合う、という考え方が子供のなかにも浸透したのではないでしょうか。 このもらい風呂の考え方・思想は町民の暮らしのなかで形を変えて生き続けています。どこにこの考え方が引き継がれているか、今度、調べてみてください。これは宿題にしましょう。

【ふるさと吉川の魅力を全国に発信しよう】
 次は、ふるさと吉川の魅力を全国に発信しよう、という話です。
 私が本を出したのは昨年の8月でした。本の内容も文章もまだまだ未熟なものですので、爆発的な売れ行きをすることはありませんでした。しかし、ありがたかったのは、ずいぶん多くのみなさんからお便りをいただいたことです。そして1年たったいまでも、本が静かに広がっている。うれしいですね。
 本を読んで一番喜んでくれたのは、本に登場した人たちです。父や母も親戚の人も、同級生も自分の名前や写真を見つけ喜んでくれました。次は、吉川町で生まれながら、ふるさとを離れている人たちです。山梨県で幼稚園の先生をされている方は、感動的な手紙とともにワインをおくってくださいました。千葉県へ行っている方は便箋7枚にも及ぶ感想文と新鮮なサンマをおくってくださいました。おいしいワインを飲み、サンマでたっぷりご飯を食べた私は、おかげ様でずいぶん太ってしまいました。
 吉川町に直接関係ない人とも本を通じて出会いが生まれ、交流が始まりました。そのなかの1人に、東京の山浦正昭さんという方がいます。全国歩け歩け協会の幹部で、全国野道を歩く会の会長さんですが、この方が『幸せめっけた』を一気に読んで、「この本には、いまの世の中が失っている何か大切なものがある」そう言って広げてくださっています。しかも吉川町のPRもやってくださっているのです。
  たった一冊の本でも、その影響力は予想以上でした。そこで私は、中学生のみなさんに訴えたいと思います。
 私がこれまでお話してきたふるさとの魅力は、私自身が感じているものです。みなさんには、みなさんの目と耳、鼻、皮膚、舌で感ずるふるさとがあるはずです。何よりもまず第1に私は、みなさんから、五感をフル回転させ、もっとふるさと吉川を感じ取ってほしいと思います。いまほど紹介した山浦さんは、人間らしい生き方を追求していくと、歩く旅にたどりつく、とおっしゃっています。できれば、みなさんにも歩いてもらいたい。歩くことによって、ふるさとの、これまで見えなかった、意識していなかった魅力が見えてくるはずです。
 そして第2に、魅力を発見したら、どんどん発表してください。町内だけでなく、全国に発信してほしい。私1人だけでも、かなりの反響があった。みなさんが次々と発信してくだされば、それはもう、ものすごい力になります。ふるさとはよくなります。
 私の場合、たまたま、随想という形で発信しましたが、みなさんは、皆さんのやり方で発信すればいい、と思います。写真、マンガ、弾き語りなど、どんな形でもいいと思います。
 竹直の小田順子さん、ご存じでしょうか。私とふるさとは同じで、中学校時代の2級先輩ですが、小田さんの場合は、得意の朗読を生かしてふるさとの魅力を訴えておられます。ぜひ、みなさんも、自分に見合ったやり方で試してください。
 そしてもうひとつ、みなさんに呼びかけたい。みなさんが生まれ育ったこのふるさと、一度や二度、離れても結構です。でもかならず戻ってきてほしい。ここはふるさと、あなたの町です。 それじゃ、最後に「幸せめっけた」のなかで、ふるさとや大好きだった祖父への想いを書いた「夕焼け」を朗読して終わりたいと思います。

 夕焼け

 私は幼いときから祖父が大好きでした。爺ちゃんを略して「じちゃ」と呼んでいましたが、本当の名前は音治郎といいます。背が高く、足の大きな男性でした。眉毛が太いところや足の人差し指の長いところは、子から孫、そしてひ孫へと引き継がれています。妻スガとの間に10人の子をもうけましたが、男の子が次々と幼くして亡くなり、男は私の父だけ、あとはみな女の子でした。

 わが家の屋号は法生、「ホーセ」と呼ぶ人もいます。法生の一番目に生まれたことから、私の名前は法一と書いて、ノリカズ。名付け親は祖父です。

 祖父はよく私をおぶってくれました。
「ノリや、カラスはどういって鳴く?」
「カア、カア」
「ノリや、うぐいすは?」
「ホウ、ホケキョ」
「そうだな、えらいど」

 祖父の背中は広く、暖かでした。ゆったりとして安心感がありました。遊びも、駆けっこであろうが、相撲であろうが、何でも付き合ってくれました。相撲をやれば、わざと 長身の体をごろりとやって、「ノリは強いなあ」。

 冬になると私や弟たちはスキーに夢中でした。ここでも祖父は孫の面倒をみます。たえずスキーの曲がり具合に気をくばり、平らな板になっているのを見ると、大きな釜に湯を沸かし、スキーを煮て、のして、先端部分を上手に曲げてくれました。
「ほら、いいど。乗ってみろ」
 一、二日たって祖父がスキーを渡してくれると、待ちかねていたわが家の兄弟たちはすぐに野山に出かけるのでした。

 いつも元気に働き、孫たちの世話をしてくれていた祖父でしたが、私が中学1年生のころから急に体力が落ち込みはじめました。そのことを一番最初に感じたのは、秋の稲刈り作業のときでした。背中に背負う稲の量がガクンと減ったのです。大きな背に、山のようなたくさんの稲をせおっている祖父の姿にたくましさを感じていた私は、わずか三束ほどしかせおうことのできないありさまを見てショックを受けました。

 体力の落ち込みだけでなく健康も害していたのでしょう。いつもメヤニを出すようになっていました。そして冬のある日のこと、餅を食べていた祖父が突然もがきはじめたのです。驚きました。餅がノドにつっかえて息ができなくなったのです。幸いそのときは大事にいたりませんでしたが、以来、私は祖父の死が近いことを意識するようになりました。
「ひょっとしたら、いまごろ、じちゃが・・・・・・」そう考えると、もうじっとしていられません。学校から走って帰ることもたびたびでした。毎朝起きると、まず最初に祖父の寝息を確認するようにもなりました。祖父は働き者でしたが、私より寝坊助だったのです。

 恐れていた日は予想以上に早くやってきました。中学2年生のときの3月中旬、季節は冬から春へと急ぎ足で変わろうとしていました。炬燵に入りながら家族みんなで夕飯を食べている真っ最中でした。祖父の手から箸がぽろりと落ち、次の瞬間、後ろの方へばったりと倒れてしまったのです。
「じちゃ、大丈夫か」
家族みんなが声をかけました。父から抱き起こしてもらった祖父は、自分でも何がおきたのかわからなかったのだと思います。指を一本一本折り曲げ、数えることができるかどうかを確かめていました。じきに言葉も出なくなり、祖父の病状は悪化していきました。父は原之町の杉田先生を呼びました。「じちゃ、倒れる」の報せを聞いて、親戚の人たちも次々と駆けつけてくれました。心配顔の子どもたちを前にして父は言います。
「ねら、心配すんな。じちゃには高い注射うってもらったすけ、もう大丈夫だ」
 父の言葉を聞いて気持ちがずいぶん楽になったものでした。

 「じちゃが一番かわいがったのはノリカズだぞ」。伊勢崎の伯母だか、河沢の叔母だか忘れましたが、そう言われた私は、祖父の看護に重大な責任をもたされた気がしました。雪道を往診してくださる杉田先生を迎えにいき、先生のカバンを持つ役目をすすんで引き受けました。また、できるだけ長く祖父のそばにいるように心がけました。

 高い注射のおかげだったのでしょうか、祖父の病状はある程度すすんでからそれ以上悪化しない状態がつづきます。しかし一週間後の午後、容体が急変しました。呼吸が荒々しく、とぎれとぎれになってしまったのです。
「先生呼んでこい!」
父の言葉に促されて、私は雪道を走りました。いまのように除雪されている道ではありません。カンジキで踏みかためただけの道です。ときたま、雪に突っ込みながらも必死でした。
「じちゃ、待ってないや。すぐ先生連れてくるすけね」
 そう叫びながら全力で走りました。長靴の中は解けた雪でグチョグチョ。当時、車は村屋という集落まで。村屋に着いたとき、私の肌着も汗でぐしょ濡れとなっていました。

 はさ木にもたれながら先生を待ちました。5分、10分、時間はどんどん過ぎてゆきます。なかなか先生の姿が見えません。「どうしたのかな」。不安が広がり、もう駄目だろうなと思いはじめたころ、家から「目、落ちちゃったし、帰ってこい」という連絡が入りました。

 不思議なことに涙は出ませんでした。夕方の5時半を過ぎていました。ふと稲場の方を見ると、すごい。とてもきれいな夕焼けです。元の源中学校の上の方から南の方角の山々まで赤く染まっていました。しばらくその景色を見ていたら、祖父が「ノリ、元気だせや」といっているようで・・・・・・。そのせいかどうかわかりませんが、私は、いまでも夕焼け空を見ると元気が出てくるのです。

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