| 春よ来い(36) |
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第887回 朗読(2) 2週間ほど前、「しんぶん赤旗」号外を持って配布活動をしていたときのことです。ある家の玄関の戸を開けて「ごめんください」と声をかけたのですが、返事がありません。 もう一度、大きな声で「ごめんください」を繰り返そうとして、急ブレーキをかけました。誰かに電話をしておられるようなE子さんの声が聞こえてきたからです。 外に出て電話が終わるのを待つしかないなと思っていたのですが、流れてきた声を聞いていて、「えっ」と思いました。明らかに電話とは違った感じ……。何かを朗読しているようなのです。 「私は一度も彼の歌を聴いたことがありません。彼の歌唱力がどれくらいなのかはわかりませんが、彼が歌った歌が母親の心を動かしたことは間違いない事実です」 何ということでしょう、E子さんが朗読していた文章は私が数日前に書いたばかりの文章ではありませんか。 自分が書いた文章でも、何か月も経てば見ても聴いても誰の文章かと思うことがあります。しかし、今回の文章は書いてから数日ですから、鮮明に覚えています。黙って聴いているのは申し訳ない気もしましたが、そのまま聴き続けました。 「歌はけっこう大きい声で歌ったのでしょうか、施設のスタッフの人たちによると、従姉の息子の歌は隣の部屋にいた人たちにも聞こえたそうです」 E子さんの声はとてもやさしく、心地よい響きで伝わってきます。私は玄関にあった赤や紫、黄色などの造花を見ながら、最後の「良かった、良かった」まで聴き入りました。 朗読が終わった段階で、もう一度声をかけると、今度はすぐに反応してくださいました。居間から玄関まで出てこられE子さんは、私の顔を見てびっくりされたようです。でも、落ち着いて話をしてくださいました。 E子さんによると、朗読はお連れ合いに聴いてもらっているとのことでした。そして、私の書いた「春よ来い」は毎回朗読してくださっているというのです。これにはびっくりしましたし、感激しました。 E子さんは、浦川原区東俣に住んでいた久代さん(故人)と仲良しで、歌がとても上手な人です。確かに、歌と朗読は違いますが、聴いてくれる人に思いがしっかり伝わるかどうか、そこには共通したものがあるように思うのです。E子さんの朗読は人の心に響きます。 私も数年前、私のエッセイ集『じゃがじゃが煮』のなかの「最後の涙」という話 を親しくしていたK子さんに読んだことがありました。 「最後の涙」は尾神岳のふもとで生まれ、尾神郵便局に長く勤めていた正博さんとほぼ同年代のK子さんが柿崎病院で最後に正博さんと会った時のことを書いた切ない、悲しい話です。その朗読の時のことはいまでも鮮明に記憶しています。 話の中にK子さんが登場していることや「わからんこて、そんげなかっこしてりゃ」など方言がふんだんに使われていることもあって、笑いが次々と生まれました。私は朗読が得意ではありませんが、喜んで聴いてもらえたことをとてもうれしく思ったものです。 これまで私が書いた文章は朗読ボランティアの小田順子さんや頸城区の村松かずみさんなどのグループの朗読で聴いたことがありました。いずれも「新春のつどい」や朗読の会などでの朗読です。でも今回は家庭の中での朗読です。E子さんのように、家で声を出して誰かに読んでいてくださる人がいても不思議ではないのですが、新発見をしたような気分になりました。 (2026年2月22日) |
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第886回 漬菜ご飯 遠い昔のことが目に浮かびました。T子さんの実家のナガシ(台所)に子どもたちが集まっていて、釜の中に残っていたご飯を分け合って食べている光景です。 先日、市内の中山間地に住むT子さん宅でお茶をご馳走になったときのことです。台所からサツマイモの丸干し1本と中くらいのどんぶりにハリハリ漬けを入れて持ってきたT子さんが、「私、この冬、手紙を4通書いたわ」と話しました。 T子さんは、自分の気持ちをしっかりと伝えたいとき、手紙に書いて伝える人だということを私は30年ほど前から知っていました。 30年ほど前というのは、私の叔父が労災病院に入院していたときのことです。そこで私はT子さんの手紙を初めて見ました。宛先は私の叔母です。双方の連れ合いが同じところに入院している、そういう仲間として共に頑張りましょうね、といった励ましの手紙でした。手紙に書かれた文字がとても美しく、惚れ惚れしました。それとともに、叔父を看病する伯母への優しさに満ちた文章がとても印象的でした。 今回、T子さんは手紙で何を伝えたかったのか。伝えたかった相手は1人ではなく、4人もいるのです。私から、「1人に出すだけでもたいへんなのに、いっぱい書きなったね。いまの時代だから、手書きで手紙を書く人は少なくなっているし、喜ばれると思うけど……」そう切り出すと、T子さんは手紙のことを語りだしました。 今回の手紙は自分の妹などキョウダイ・親戚のところへ出したとのことで、いずれも子ども時代の忘れられない思い出をそこに綴ったということでした。 T子さんは戦前生まれの人ですが、戦前から戦後の十年ほどの間に生まれた人たちには共通して、いつも空腹感がありました。「とにかく何かを食べたい」、その思いが頭から離れることがなかったのです。 手紙の中身で私が一番引き付けられたのは、漬菜ご飯のことです。 T子さんの実家では、土で作った「かまど」を使い、ご飯を炊いていたそうです。子どもたちがお腹を空かしていたとき、あてにしていた食べ物の1つは釜の中の残りご飯でした。そのほとんどは「おこげ」です。T子さんは釜の残りご飯を削り、そこに細かく切った野沢菜漬けを入れてかき混ぜました。そこにちょっぴり醤油をたらしました。T子さんは、「いまだったら、〝花かつお〟だとか〝しらす〟を使うんだろうけどね。昔はそんなもん、なあもないねかね……。でもね、その醤油をたらしたががじつにうまかった」とT子さんは言いました。釜の中でよく混ざった漬菜ご飯は、T子さんが小さな皿に盛ってみんなに分けました。うまかったことは言うまでもありません。 私たちが住んでいる雪国の家では野沢菜漬けは貴重な食べ物で、どこの家でも大事にしていました。T子さんは、「昔は野沢菜、いっぱい漬けたんだわ。終(しまい)には春になると、桶の中に逆さになって入り、最後のやつだしてさ、食べたこてね……」と言っていましたが、それほど重要な食べ物だったのです。 家に帰って、T子さんの漬菜ご飯のことを改めて振り返りました。T子さんの5人キョウダイが数十年前、「ナガシ」で漬菜ご飯を食べていたとき、みんな真剣な表情で食べておられたのではないでしょうか。懐かしく、素敵な光景です。その5人はいまもお元気だとか。 私も野沢菜漬けは大好きです。すでに2人の弟を亡くしている私にとって、漬菜ご飯であろうがカレーライスであろうが、キョウダイみんながそろい、食べていた光景はいつまでも忘れられません。 (2026年2月15日) |
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第885回 帰らないで 点滴だけの栄養補給がすでに70数日にもなっているので、手足などの体を動かして反応することは無理だと思っていました。でも、そうではありませんでした。 医療介護型施設に入所している従姉(いとこ)のことです。2月1日の夕方でした。従姉の息子から電話があって、「おじちゃん、母ちゃん、手を動かしたよ」とうれしいニュースが伝えられたのです。 この日は私も午後1時近くになって同施設を訪問していました。その時、従姉は目を開けてはいたものの、私からの呼びかけには全く反応がなく、正直言って、だいぶ弱ったなという印象を持っていました。 従姉の息子は、私よりも1時間半ほど後になって母親の見舞いに出かけたようです。よほどうれしかったのでしょう、電話では、いきなり、「おじちゃん、母ちゃんに歌、歌ってやったよ。そしたら、母ちゃんが手、動かしたんだよ。おれ、びっくりしたよ」と言ったのです。 歌は演歌で、知っている限りの演歌を次々と歌ったといいます。「どんな歌、歌ったんだ」と訊いたのですが、恥ずかしいのか答えてくれませんでした。私は一度も彼の歌を聴いたことがありません。彼の歌唱力がどれくらいなのかはわかりませんが、彼が歌った歌が母親の心を動かしたことは間違いない事実です。だからこそ、歌に合わせて手を動かしたのだと思います。 私が訪問した時には右手に点滴を打ってもらっていましたので、動かした手は左手です。手拍子というわけにはいかないので、左手を動かしたのだと思います。それにしても、よく動かしてくれました。従姉がこの施設に入所してから、すでに45日ほど経過していますが、目や口を動かしたところは何度か見ています。でも、手を動かすところは一度も見ていませんでした。 ただ、従姉が歌に反応することは私も気づいていました。これまで見舞いに行ったときは、数年前まで従姉が毎日のように会っていた私の母親の写真を見せてきました。それはそれなりの反応してくれたのですが、しばらくしてからは、頸北地域を中心に頑張っているコミュニティバンド・ピアスが歌っている『かちゃの歌』をユーチューブで聴いてもらいました。 そのとき、スマホに映し出された画像を食い入るように見ている従姉の姿を私は見ていました。歌を聴き流すのではなく、そこに集中する力を持っていたのです。ですから、大好きな息子が自分のために演歌を歌ってくれている、その姿がうれしくなって自分の左手を動かしたとしても不思議ではありません。 歌はけっこう大きい声で歌ったのでしょうか、施設のスタッフの人たちによると、従姉の息子の歌は隣の部屋にいた人たちにも聞こえたそうです。 この日の夕方の電話には続きがあります。従姉は左手を動かしただけでなく、頷いたり、顔を左右に動かしたりもしていたというのです。私が訪ねたときよりも体調は良かったのだと思います。 私がびっくりしたのは、従姉の息子が部屋から出る前の出来事です。彼が母親に、「また来るしね」と言って、「帰っていいかね」と訊いたら、首を左右に振って、「帰らないで」と合図を送ったというのです。従姉の息子が、母親のこれまでにない反応に驚いたのは言うまでもありません。 従姉の息子は雪のことも心配だったので、いったん家に戻ったものの、母親の合図が気になります。ひょっとしたら、「最後の別れの合図だったのかもしれない」と思い、施設に「大丈夫ですかね」と問い合わせの電話を入れました。返って来た答えは、「大丈夫ですよ、心配いりません」でした。良かった、良かった。 (2026年2月8日) |
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第884回 寒波のなかで 今冬は正月早々に1回目の寒波がやってきて、20日過ぎには長期にわたる2回目の寒波がやってきました。今後もまだ何回かやってきそうです。 1回目の寒波の時のことはすでに書いたように、除雪機のトラブルでひどい目にあったのですが、お陰様でその時の指先の小さなキズは治りました。 先日、同じ時期に頸城区の友人、Kさんに会ったら、「いやー、親指の先が割れちゃって、痛くて参ったよ」と言うのです。びっくりしました。まさか私と同じ場所を痛めたとは……。いろいろと聞いたら、原因は冷たい雪の中の作業で皮膚が割れたのだとわかりました。簡単に言うと、加齢に伴う皮膚のトラブルです。2人ともそういう年になってしまったのです。 2回目の寒波はすさまじかったですね。降雪量が半端ではなく、1日に何回も除雪が必要な日が続きました。 そのなかで、21日、22日は市役所や地元で会議や新年会などがありました。日中は家にはいません。となれば、除雪作業はどうしても朝晩にやることになります。切なかったのは、除雪できる時間を十分取れないことでした。 私が除雪作業をしなければならない場所は自宅周辺と県道に至る道、地元事務所の駐車場です。この2か所は500㍍離れているので、除雪機の移動に15分ほどかかります。往復すれば30分です。この移動時間を短縮するために、今冬は1つ工夫をしました。 これまでは、どこで除雪を終わらせようと、最後は事務所の格納庫に除雪機をしまっていたのですが、今回は自宅周辺で作業が終わった場合は、シートをかぶせ、自宅の外にとめておくことにしました。これで15分は短縮できます。 こういう時間短縮を実現したものの、除雪作業そのものは同じ時間がかかります。夕方から夜にかけて除雪作業をし、一晩経ったらまた除雪機につかまりました。 作業時間は1回につき1時間半から2時間です。長いときは、朝晩で4時間以上になります。亡き父のように民謡や歌謡曲を歌いながら作業をする能力はありませんので、黙々と作業を続けています。この作業の疲れがなかなか取れません。腰の痛み、腕の疲れなどが溜まる一方なのです。 寒波が続く中で難儀したのは除雪だけではありません。車での移動も大変でした。 私の場合、大雪であろうが少ない雪であろうが、毎週1回、「しんぶん赤旗」日曜版の配達であちこちに出かけます。先週の金曜日は、大島区旭地区に行きました。観測機器がある田麦では、積雪が2㍍80㌢にもなっていました。今冬の上越市内では最大の積雪です。 竹平の集会場を過ぎ、母の実家がある集落へ上っていく途中、私の車は前進もバックもできなくなりました。スコップで除雪し、何とか集会場付近まで戻り駐車しました。ところが配達を終えて、車を動かそうとしたら、また前にも後にも動かせなくなりました。最終的には除雪作業でやって来た丸和総建のブルのオペレーターさんに助けてもらい、脱出しました。 こういうなかで、疲れを取る方法の1つは近くの温泉につかることです。幸い、わが家の近くには長峰温泉ゆったりの郷やスカイトピア遊ランドなどの温浴施設があります。先日は、ゆったりの郷でコウノトリ観察仲間のSさんや元公務員のTさんなどと出会い、一緒に湯につかりました。みんなとおしゃべりするだけでくつろげます。 今冬はもうひと月、雪の心配をしながら生活しなければなりません。早く降雪が終わって、凍み渡りができるようになってほしい。ああ、また雪が降ってきました。 (2026年2月1日) |
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第883回 また来るしね 従姉(いとこ)が市内の医療介護型施設に入所してひと月以上が経ちました。毎日、母親の様子を見に行っている従姉の長男からは毎日のように画像データが届きます。 私も市役所に行くときだけでなく、直江津や高田に用があるときはこの施設に寄るようにしているので、だいたいの様子はわかっています。それでも、送られてくる画像を見ているといろいろな発見があってうれしくなります。 従姉は私よりも10歳年上です。母が生きていたころは、わが家にやってくると、「鳥越のかちゃ」と呼んでいました。ですから、私が施設を訪問した時も、「かちゃ、なじょだね、元気かね」と声をかけています。 従姉の長男から送られてくる動画では、「母ちゃん」の声が必ず出てきます。「かちゃ」ではなく、「母ちゃん」と呼んでいるんですね。10日ほど前の動画では、従姉が目を開けてはいるものの、呼びかけても反応がない状態でした。 それでも従姉の長男は呼びかけます。「母ちゃん、母ちゃん、母ちゃん。だめか。明日、お風呂にいんてもらえんがし。わかったかね」。その呼びかけには相変わらず動きが見られなかったので、長男は母親の鼻をつつきます。やはりぴくりともしませんでした。 それから3日後、従姉の長男は、「母ちゃん、きょうは何の話する」と声をかけた後、外の様子を従姉に伝えます。「雪もあんまり降らなくていいわ、母ちゃん」と言ったところで、反応がないものだから、髪に触り、鼻にも触っている様子が写っていました。わずか1分足らずの動画でしたが、母を想う子どもの気持がよく伝わってきました。 従姉は呼びかけられても反応しないことが多いのですが、お風呂上りなど体調がいいときは目を動かすことがありますし、口を開けてもごもごし、何かをしゃべろうとしていることもあります。 ある日のことです。お風呂上がりの従姉の様子が写っている動画が送られてきました。従姉のほっぺたが何となく光っています。「いかったね、お風呂入んてもらって……」と長男が呼びかけると、従姉は長男の方に目を向けました。そして、口を少し開けました。何かを伝えたいという明らかな意志を感じました。それだけではありません。従姉の頬(ほほ)がゆるみ、うっすらと笑顔になっていました。 その瞬間、従姉の長男がうれしい笑顔になったのは言うまでもありません。「いかったね、おお、いい笑顔だわ」という長男の声が聞こえてきました。この日の動画には、「いかったね」という言葉は少なくとも5、6回は出てきました。 従姉の連れ合いは20年ほど前に急病で亡くなっています。その連れ合いの弟のTさんは、大潟区土底浜在住で、吉川の実家のことを心配して毎日のように従姉の家に来てくださっていました。しかし最近、体調を崩し、介護施設に入所されています。そのTさんと従姉との再会が施設の計らいで先日実現しました。その様子も写真が送られてきました。従姉にとっては信じられない、うれしい出来事だったはずです。 従姉の長男が発する言葉の中で、私が一番気に入っている言葉は面会が終わって帰るときの言葉です。「母ちゃん、オレ帰るよ。また来るしね」。この「また来るしね」がとてもいいのです。おそらく従姉はこの「また来るしね」を聞くたびに、「もう少し頑張って、また息子の顔を見たい」と思っているのではないでしょうか。ここ数日は大雪で従姉のところへは行けそうもありません。従姉の長男がどんな動画を送ってくれるか……。 (2026年1月25日) |
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第882回 指紋が消えた 4か月ぶりに中山間地に住むフミヱさんの家を訪ねました。それも2日続けて訪ねることになりました。 前回訪問したとき、すでに90代の後半になられたことを知り、「これは半年に一度くらいは訪ねなきゃ」と思っていました。訪ねた1日目は夕方ではありましたが、家の前で迷わず車を止めました。 いつものように、フミヱさんは私の顔を見ると、「さあさ、入ってくんない」と声をかけてくださいました。その言葉に甘えて茶の間に上がらせてもらうと、フミヱさんの顔がとてもすっきりしています。 「いい顔してなんね。艶もあるし……」と言うと、本人も健康状態が良いことを自覚しておられるようで、「ちょっと死なんね」と言ってニコニコ顔になりました。 フミヱさんは、「お茶、出さんで悪いね。そのかわり、ミカンでも食べてくんない」と言われました。コタツのテーブルの上に出されたミカンをいただきながら、前日、フミヱさんが行ったという床屋さんの話を聞いて納得しました。いつも以上に髪がきちんとしていたので、すっきりしたいい顔になっていたんですね。デイサービスで一緒になるキヨコさんとの楽しいおしゃべりのことも聞きました。 この日の訪問では、フミヱさんから私の最新エッセイ集『母ありてこそ』の注文がありました。それで、翌日にもう一度フミヱさん宅へ行くこととなりました。 翌日の2回目の訪問は午後2時過ぎになりました。この日は強い風が吹き、小正月の行事があちこちで延期になりました。私が参加することにしていたところも同じです。それで、時間の余裕ができました。 この日も茶の間に上がらせてもらい、お茶をご馳走になりました。フミヱさんは「ジャガイモ、美味しいねかね。カレイとジャガイモの煮たもんがあるけど、食べなんねかね」と私に問いました。「ほしゃ、もらおうかな」と答えたら、すぐに冷蔵庫からラップに包まれた煮物を出し、電子レンジで温めてくださいました。ご馳走になったジャガイモとカレイの煮物は双方の味がしみ込んでいて、とても美味しくいただきました。 1日目、2日目とフミヱさんの姿を見ていて感心したのは、96歳という高齢でありながら、身の回りのこと食事のことなどで、じつによく考え、行動しておられることです。最近、体のあちこちに不具合が出ている私には信じられませんでした。 高齢になると、立ったりねまったりがとても負担になります。そして家事から遠ざかる人も少なくありません。でもフミヱさんは、漬物こそ作れなくなっていますが、掃除も料理もまだ現役です。 驚いたのはフミヱさんの両手の指先です。「指の指紋、消えちゃって」と言われたので、まさかと思って、指を見せてもらい、触らせてもらいました。水仕事などの影響でしょうか、指紋はほとんどわからくなっていて、指先がツルツルになっていました。そのため、茶碗を持つにも指全体ではさむようにしておられました。こういう指先は初めて見ました。 ジャガイモとカレイの煮物をいただく中で、買い物についても工夫されていることを知りました。町の中心部には食料品を扱っているお店がなくなったので、保存のきくものはまとめ買いし、冷蔵庫に入れているということでした。フミヱさんは、「一人暮らしだから冷蔵庫は小さくてよいと思ったら、そうじゃなかった」と言って苦笑いされていました。 フミヱさんの誕生日は5月5日だとのことです。私が「ゴーゴーだね」と言うと、また笑っておられました。この調子なら百の大台は軽く超えられることでしょう。 (2026年1月18日) |
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第881回 指先の小さなキズ 指先がこんなにも大事な役割を果たしているとは思いませんでした。右手親指の爪の右端の先にできた小さなキズにより、いま、私は物を持つにもつかむにも不自由しています。 年明け早々の寒波でわが家でも40㌢ほどの雪が降り、除雪作業をしました。除雪機は初出動ではありましたが、作業そのものは順調で、1日目も2日目もきれいに除雪できました。しかし2日目の作業がもう少しで終わるという段階になって、思わぬトラブルに遭(あ)ってしまいました。除雪機が雪の下になっていたブルーシートを巻き込んでしまったのです。 除雪機のエンジンを切り、カッターと大きな剪定ばさみを使って、機械に食い込んだシートを少しずつ取り除きました。でも、軍手をしての作業ではうまくいかず、途中から素手でシートを引っ張ったり、押したりしていました。その際、誤って指先を切ってしまったようなのです。 血が出ているわけでもなく、指先が痛いだけでしたので、最初は雪が降るなかでの作業で手が冷たくなり、凍傷になったのかと思いました。指先の痛みは親指だけでなく、人差し指や中指にも及んでいました。それで、私の地元事務所に入ってお湯で指を温めました。でもすぐには治りませんでした。その日は巻き込んだブルーシートの除去作業をやめて、残りは翌日にやることにしました。 家に帰ってからの夜、お風呂に入っても痛みはひきませんでした。とくに親指が痛かったので、どうなっているのかなと思いながら、親指の先を調べました。親指の先っぽの小さなキズは、長さ、深さともわずか2㍉ほどのものでした。これがアカギレのような割れ方をしていたのです。 ひょっとすると冷たいなかで作業をしていたので、それが引き金となってアカギレになったのかとも思いました。しかし、それならば、人差し指も中指も割れているはずです。そうはなっていませんから、やはり、作業中に傷つけたのでしょうね。 小さなキズとは言え、困ったことが次々と起こりました。 箸(はし)を使うことはできますが、デジカメのメモリーカードを引き出すにも右指の親指と人差し指ではつかめません。お店で買い物をしてお釣りをもらう時、平らな皿の上に硬貨を置かれるときもなかなかつかめませんでした。 机の上の電気スタンドは右の親指を使ってボタンを押し、スイッチを入れたり切ったりしていました。これも押すと指先が痛いので、左の親指を使っています。 私の右手親指と人差し指には特技があります。長年にわたる印刷経験で、コピー用紙をはさむと1枚なのか複数枚なのか判断できます。これもできなくなりました。 一番不自由しているのはワイシャツなどのボタンです。ケガをする前から、ワイシャツの左の襟のボタンをはめにくくなっているのですが、今度はもっと範囲が広がりました。左手首のボタン、ワイシャツの真ん中のボタンまではめにくくなってしまったのです。 右の親指は爪のあるところで幅が2㌢あります。爪の先の部分でも1.5㌢あります。パソコンの入力の時、ボタンをかける時、本のページをめくる時など作業の種類によって、同じ爪の先でも力が作用する場所がずいぶん違います。普段はあまり考えたことがなかったのですが、人間の動きの中で指の果たす役割は実に様々であることを改めて知りました。 親指の痛みは除雪作業をしてから4日目になっても収まりません。長期化したとき、長年の経験で蓄積した指先の能力に狂いが生じないか心配になってきました。 (2026年1月11日) |
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| 第880回 師走の晴れ 師走になり、冬至も過ぎました。一番短くなった昼の時間帯が、これからは少しずつのびていく、うれしいですね。 今年の師走はこれまで、晴れの日が多く、暖かいのが特徴です。先だっての日曜日は20度を超えました。 この時期、晴れの日が1日でもあると、私と同じ年代の人は、「きょうは、もうけもんの日だ」と言います。雪や雨が降るのが当たり前と覚悟しているだけに、青空を見るとうれしくなるのです。 それが2日も3日も続くとどうなるか。朝ドラの『ばけばけ』風に言えば、もうスキップ気分です。私の場合、家でじっとしていることができません。とにかく外に出てみたい。行きたいところへ行きたい。 晴れれば、人間だけでなく鳥だって同じはずだ。そう思って、先日はコウノトリ探しに出ました。まずは吉川区内の主だったところを探しました。でもいませんでした。コウノトリを見つけたのは三和区を過ぎて東中島方面へ向かう農道を軽乗用車で走っているときでした。県道との十文字で一時停止していると、私の目に空飛ぶコウノトリの姿が飛び込んできたのです。 コウノトリは全部で3羽いました。3羽いるだけでもうれしかったのですが、それが空を飛んでいるとなれば、めったにないことです。「これは記録しておかなきゃ」とカメラを構えました。 動画を撮り始めたら、3羽は旋回しながら徐々に高く上がっていきました。上昇気流に乗ったのでしょう。こういう光景を見たのは、今年2度目です。前回はわが家の近くでした。カタカタカタというクラッタリング(口ばしを使って音を出すこと)の音がしたので、その音の方向へ車を走らせたところ、2羽のコウノトリが旋回中でした。青空が広がるなか、数回羽ばたいて、その後、グライダーのように飛ぶ。じつに楽しそうでした。今回も同じです。 晴れると、会いたい人と偶然出会う確率も高まる感じがします。この日は面白いことにあちこちで、日頃会いたくてもなかなか会えない人と再会しました。 コウノトリの撮影が終わってから、直江津で少し仕事をし、その後、ライオン像のある館に顔を出してきました。そこでは春以来、会っていなかった音楽ユニット、「コスモフィッシュ」のみなさんと再会できました。もちろん演奏も聴き、素敵なハーモニーにうっとりしました。うれしかったのはアンコールで地元の歌、『朝市の歌』を聴けたことです。「買っていきないや」「晩のごっつぉ」などの方言がいくつも出てきて、朝市の人たちの様子を見事に表現しています。メンバーの一人からは、「また、イラスト、描いてくださいね」と声をかけていただきました。 数日後、これも晴れの日です。昼食後、従姉が入所している医療型介護施設へ車を走らせました。 検温などの所定の手続きをして従姉の部屋に入ると、目をしっかりと開けています。「これは調子良さそうだ」そう思いながら、頭をなでて、「かあちゃん、ノリカズだよ」と声をかけましたが、返事はありません。それで亡き母の元気な頃の写真をスマホのなかから選んで見てもらいました、「ほら、おらちのばちゃだよ。わかるかね」そう言うと、何と、コックリと頷いてくれたのです。 母が3年前に亡くなっていることは伝えてないので、ひょっとすると、母が元気でいると思ったかも知れません。どうあれ、母の写真に反応してくれたことで、私はうれしくなって涙がこぼれてしまいました。 師走の晴れ、今年はもう1回はありそうです。そのとき、どんなうれしいドラマが展開するか、楽しみにしています。 (2025年12月28日) |
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第879回 いつのまにか 最近、身の回りのことで「こりゃ、親父やおふくろと同じことやっている」と思うことが多くなってきました。 朝から順番に紹介しましょう。まず、布団からなかなか起き上がれない。まっすぐ立てず、少し体をひねって、片腕を杖がわりにしてやっと体を起こしています。 体を起こしたら、次に、布団の脇に置いている洗濯済みの靴下を履きます。太っているせいもあるでしょうが、足を少しひねって、靴下をかぶせ、ひっぱって直す。以前は足をまっすぐ立てて履いたものですが、いまはできなくなりました。 布団から立ち上がるときは気合を入れて、「よいしょ」と言いながら立ちます。ここでも敷布団の上で体を起こすときと同じく片方の腕を使います。 起き上がってからは、パジャマを脱いで、長袖のシャツを着ます。最近、予想してなかったことが起きました。ワイシャツのボタンがなかなかはまらないのです。特に左ボタン、うまくいきません。先日、起きてすぐ外に出たかったのに、時間がかかり、いらつきました。 現在、私が寝ている場所は亡くなった母の部屋だったところです。2階の私の部屋からこの1階の部屋に移ったのは、夜間、母のトイレ介助が必要になってからです。 朝起きると、まずトイレに行きます。トイレには2つのドアがあるのですが、外側のドアはともかく、内側のドアが閉めてないことがあります。父や母が自力でトイレに行っていたころ、朝、トイレのドアを開けると、内側のドアがよく開いていたものですが、2人ともこの世にいなくなったというのに、またドアを開けっぱなしにしてある。これは、明らかに私が夜中にトイレに行った後の行為です。 なんで内側のドアを開けっぱなしにしているのか。ドアの取っ手に触る前に、手洗いをしたいという気持ちが動きます、手洗いをした後、振り返り、ドアをちゃんと閉めればいいことなのですが、どういう訳か忘れてしまっていることが多いのです。 朝食をとって、家から市役所などに行くとき、家の者から「気をつけてね」「何か忘れ物ないかね」と言われます。「おれだって必要なものはちゃんと持っているわ」そう思っているのですが、毎回と言っていいほど何かを忘れています。 一番多いのは携帯電話。出かけて途中で不携帯に気づくと、落ち着かなくなります。続いて多いのは財布、これも携帯電話と同じく大事な持ち物で、無ければ買い物も食事もできなくなります。やはり、無いと落ち着きません。 車の運転にも変化が出てきました。先日も連れ合いを乗せて買い物に出かけたときに、「おじいちゃんと同じだね。道の真ん中に寄ってる」と言われました。白線が真ん中にあれば、左側を意識するのですが、無い場合は無意識のうちに真ん中に寄っている、ともすれば真ん中を走っているのかも知れません。 家に戻ってからは、靴を脱いで、自分の部屋に行きます。そこで普段着に着替えるのですが、スーツをハンガーにかけても、左右のバランスが崩れたままのことがあります。じつは数年前から左手を上の方によく上げられなくなりました。途中で左右のバランスを崩しても、そのままにしておくことが多くなっています。 父は後期高齢者になってから身の回りのこと、車の運転など多くのことができなくなりました。忘れられないのはトイレでお尻を洗浄するウオッシュレットを使えなくなったことです。父ほどではなかったですが、母もいろいろできなくなりました。そしていつのまにか、私も父や母と同じ道を歩み始めています。頑張らなきゃ。 (2025年12月21日) |
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