春よ来い(35) 
 

第840回 連絡先名簿

 いざという時に必要なものの1つに緊急事態の時の連絡先情報があります。ところが、その連絡先がなかなか出てこない。みなさんはそういう体験がありませんか。

 先日、大潟区のある家にお邪魔し、おいとましようとした際、愛知県稲沢市に住む弟から電話がかかってきました。その数分前に、「キョウダイが少なくなるとさみしいね。いままで以上に電話したくなる」と話したばかりだったので、「うわさをすれば影だね」と言って、そこの家の人と笑いました。

 弟からの電話は、「長年、店で一緒に働いてくれた人が突然亡くなった。イサムと同じだ。この騒ぎで身内の人と連絡をとるのに苦労した。兄貴もいつくるかわからんよ。いざという時のために家族が連絡先、わかるように紙で貼りだしておいてくれ」というものでした。

 もっと具体的に書くと、十数年にわたり弟の営業を支えてくれた人が突然亡くなった時、スマホを開こうとしたがパスワードがわからず、大事な連絡先を探し出すことができなかった。最終的にはわかったのでしょうが、一番大事な連絡先にたどり着くのに大変苦労したということでした。

 そういう体験をしただけに、わが家のことが気になったのでしょう。弟はわが家の状況については、父や母の葬儀のときに見ていたのでしょうか。電話機のそばの柱に私や大潟区に住んでいた弟(故人)などほんの数人の電話番号を書いたものを貼ってあるだけでした。それらはいずれも母が書いたもので、いまは何も貼ってありません。昨年秋の母の法事の時も何も貼っておきませんでした。

 じつは、昔からそうだったわけではありません。まだ牛を飼っていたころ、親戚の連絡先一覧を整理し、プリントして部屋の壁に貼っていたことがあったのです。いうまでもなく、父や母にいつ重大事態がやってくるかもしれない、その時にと思って準備しておいたのです。一覧表を貼っておいた場所は、いまのわが家ではなく、牛舎管理舎のどこかの部屋だったと思います。

 その一覧表は十数年前に牛舎や管理舎を壊すときにそのままにしていたので、解体と同時になくなってしまったのです。電子データもあったはずですが、かなり古いデータです。ハードデスクのどこかに保存してあるのでしょうが、まだ確認していません。

 ただ、見つかったとしても、何処まで連絡先を書いておくかは微妙なところがあります。新型コロナウイルス感染症が五類に移行したとはいえ、ここ数年で葬儀の形態も大きく変わり、家族だけとか家族とごく身近な親戚だけを呼ぶ葬儀が主流を占めるようになってきました。そんななかで父や母の時のような範囲まで声をかけると、迷惑をかけるのではないか。しぼるとすればどこまでしぼったらいいのか。正直言って、とても悩ましいのです。

 ここまで書いた段階でまた悲しい知らせが入ってきました。私と同じ大島区旭地区で生まれ、長年にわたりお世話になってきた同い年の女性が車の中で突然発病し、亡くなってしまったというのです。

 彼女とは亡くなる1週間ほど前、浦川原区の彼女の自宅車庫前で楽しいおしゃべりをしたばかりでした。うらがわら駅で『コウノトリさん、ありがとね』を一緒に歌った時のこと、何処かのイベントで踊った時のことなど、話は尽きませんでした。その時の笑顔が思い出され、亡くなったなんてとても信じられませんでした。

 人間、いつ何があるかわかりません。どこの家でも緊急連絡先名簿が必要となる時は必ずやってきます。その時がいつやってこようと困らないようにしなければ……。

  (2025年2月23日)

 
 

第839回 ハツラツ95歳

 95歳のイメージが変わりました。こんなにも若々しくて、元気だとは……。

 災害救助法が吉川区にも適用になった翌日、私は山間部の高齢世帯などを訪問しました。豪雪の中でちゃんと暮らせているだろうか、危険はないかなどをこの目で、この耳で確かめたいと思ったからです。

 訪ねたM子さん宅は3軒目でした。近くの県道には社会福祉協議会(社協)の車がとまっていましたので、私と同じような気持ちで訪問されていたのかも知れません。

 玄関まで除雪機できれいに雪を飛ばしてありましたが、おそらく近くのHさんが城戸先の道を除雪して下さったのでしょう。

 約30㍍ほど進んで玄関先まで行ってびっくりしました。大きな雪の四角いブロックが落ち、山となっていたのです。その数、少なくとも15個はあったと思います。M子さん宅はカヤぶきの家でした。それにトタンをかぶせてあります。今回は玄関の屋根雪が一気に落ちたのでしょう。人間がその下にいれば、もちろん命はなかったはずです。誰もいなくてよかったです。

 玄関の戸を開けて大きな声で「ごめんください」と呼んだところ、返事があり、じきにM子さんが出てこられました。私は帽子をかぶっていたので、ぬいで顔を見てもらったのですが、最初は「どなたでしょう」といった感じでしたので、「ホーセです。元気でいなったかいね」と言ったら、ようやくわかってもらえたようです。

 玄関には社協のKさんも出てこられました。Kさんは、わが家の母も世話になった職員さんです。靴をはいたところで、そばにあった蝋梅(ろうばい)の生け花を指さし、「いいよね、香りがまたいい」と言って鼻を近づけておられました。その様子が素敵でしたので、「使いませんので、写真に撮らせてください」とお願いしたところニコニコ顔で応じてくださいました。

 M子さんから、「入ってください」と勧められました。時間は正午近くになっていましたので遠慮したのですが、K子さんに、「家の中からも雪の状態を見てください」と言われました。そこまで言われると、居間には外の光が入っているか、それとも暗くなっているだろうか、と気になりました。

 M子さん宅に上がらせてもらったのはこれで2回目だと思います。居間には東側の窓から光が入ってきてはいたものの、少し薄暗い感じがしました。窓の外の雪が邪魔していたのです。

 コタツに入らせてもらい、お茶をご馳走になりましたが、立ったり座ったり、居間と台所の移動など、M子さんの動きがじつにスムーズなのには驚きました。それで、「いくつになんなったですか」と聞くと、私の父よりも3歳下だというのです。ということは、満95歳だということになります。それを聞いてまた驚きました。私の母の動きをモノサシにするなら、まだ80代の動きでした。

 ゼンマイ料理をいただきながら、「元気でいなるね」と言うと、M子さんは、「小さな時から、何回も死にそうと言われながらこの歳になった。私は3歳まで歩けなかったがです。それが柿崎のショウショウジに連れて行ってもらったら、歩けるようになったんです」と言われました。ショウショウジのことを母以外の人から聞くのは初めてでした。3歳以降もいろいろなことがあったのかも知れませんが、それはいつかお聴きしようと思います。

 正午を回っていることがわかったので、「ご馳走様でした」と言って立ち上がると、窓際にも黄色い花が飾ってあるのが見えました。これも蝋梅です。その花がじつに生き生きとしてきれいです。私にはこの蝋梅とM子さんが重なって見えました。

  (2025年2月16日)

 
 

第838回 もらい風呂

 私のふるさと、吉川区蛍場(尾神の小字名の1つ)出身で現在は大潟区在住のハル子さんを久しぶりに訪ねました。

 ハル子さんは私の母と仲が良く、母が健在だったころは、吉川区下中条のチコさんとともに、大島区板山の「伊作」へ泊りに出かけたり、近くの温泉に行ったりしていました。母がまともに動けなくなっても、1年に何回かはわが家へ来て、母を励ましてくださいました。

 また、大潟区四ツ屋浜に住んでいた弟が生きていた時は、弟が私の作成したビラをひと月に1回くらい、ハル子さんのところに届けてくれていました。たまにハル子さんと会うと、「おまんた、イサムちゃんが届けてくんなるすけ、おかげさんで読ませてもらっているでね」と声をかけてもらっていました。

 そういう経過を知っている以上、「ハル子さんのところへ、たまには行かなきゃ」と思い続けてきました。でも、なかなかその時間が取れませんでした。

 訪ねた日は月初めでした。玄関でチャイムを鳴らしましたが返事はありません。玄関ドアを開けて、大きな声で「ごめんください」と呼びかけましたが、それも返事はありませんでした。あきらめて車に戻ったところ、いいタイミングで娘さん夫婦が帰ってこられました。

  「お茶、どうですか」と勧められ、居間に入らせてもらうと、ハル子さんはテレビでも観ておられたのでしょう、やはり、在宅でした。耳がよく聞こえなかったのです。

 この日、私がハル子さんを訪ねたのには特別の目的がありました。新曲『かちゃの歌』をユーチューブで観てもらいたかったのです。歌を聴いてほしいし、イラストも観てほしい、そう思っていました。というのも、歌やイラストには蛍場の風景や三輪自転車に乗った母の姿などが出てくるからです。『かちゃの歌』を聴いて母や蛍場のことを思い出し、懐かしい思い出を語ってもらえたらいいなと思っていたのです。

 私のスマホを使い、『かちゃの歌』を再生し始めたら、ハル子さんは涙を浮かべながら聴いてくださいました。おそらく自分の母親のこと、子ども時代の切なかったことなどが次々と浮かんだのだと思います。

 ハル子さんの家族が昔、大変な苦労をしてきたことは私も聞いていましたが、記憶は薄くなっていました。ハル子さんは『かちゃの歌』を聴いた後、私の記憶をしっかりとしたものにしてくださいました。

 ハル子さんが10代の半ば頃、母親は43歳の若さで1月の寒い時期に亡くなりました。心筋梗塞だったようです。そして父親も同じ月の下旬に53歳で亡くなっていました。2人は10歳違いの夫婦でした。父親は風邪をこじらせ、肺炎が命取りになったそうです。このとき、家にいたのはハル子さんと8つ年下の妹さんの2人だけでした。短期間のうちに両親が亡くなって、姉妹2人しか家にはいない。どんなに切なかったことでしょう。

 昔、ハル子さんの家は生活がたいへん厳しく、ハル子さんは母親の実家で九歳まで養ってもらったそうです。お兄さんもすぐ下の妹さんも冬は出稼ぎに行っていました。母親が亡くなった時の葬儀には、お兄さんは出稼ぎ先から戻れなかったといいます。その際、この一家に寄り添った1人が私の祖父・音治郎だったとのことでした。

 両親が亡くなり、ハル子さんたちキョウダイは必死に頑張ります。その姿を見ていた蛍場の人たちは、「こんだ、おらちに風呂入りにきない」と誘ってくれたといいます。いわゆる「もらい風呂」です。それがどんなに温かいお風呂だったか。ハル子さんは「ありがたかったし、うれしかった」と何度も感謝の言葉をのべていました。

  (2025年2月9日)

 
 

第837回 玉ねぎ

 ずっと気になっていました。昨年秋に体調を崩し、入院した同級生のTさんのことです。

 入院中に電話した時には、言葉がすっと出てこないことがあって、明らかに会話しにくい状態でした。退院後に会った時には、普通に話が出来ました。これなら、生活上はまったく問題ないなと思いました。でも、本人は誰よりも自分の体のことはわかります。まだまだ注意してリハビリに努めなければいけないと思っていたようです。

 退院後、偶然、散歩中のTさんに会ったのですが、今度は毎日のように散歩に出ることにしたと言っていました。そして、長年勤めていた会社も昨年末で辞めました。これまでTさんを見かけたのは軽トラを運転して仕事をしている姿でしたが、もうその姿は見られません。1か月以上も会わないでいると、やはり気になります。

 そんななか、先日、柿崎区上下浜の小さな食堂でラーメンを食べた時、この店の常連でもあったTさんのことをふと思い出し、「そういえば、Tさん、どうしなったろね。最近、こちらに来なる?」と訊きました。するとお店の人は、「昨日、来なったよ。昨日は誕生日だったんだわね」と言われました。

 そうでした。Tさんは私と同じ寅年でした。それも1月生まれです。その誕生日を会社の元同僚だった人たちが覚えていたようで、ケーキをお店に持参してくださったとか。Tさんにとって、誕生日にケーキをプレゼントされたのは初めてだったとのことです。Tさんは大喜びだったそうです。

 この日は、食堂の客がたまたま私一人だったこともあって、食後もコーヒーをいただきながら、『かちゃの歌』を聴いてもらったり、おしゃべりしたりしました。

 まずはお店の壁に貼ってある見事な書を見て、Tさんの字がきれいだという話になりました。私はこれまで見たことがなかったのですが、何事も手帳にきちんと書いてあって、とても読みやすいとのことでした。Tさんのお兄さんは表彰状などを書くほどの人でしたので、そういう血筋かも知れません。

 すごいなと思ったのは、Tさんが元通り会話ができるように発声練習をしているということでした。その一番の練習方法はカラオケなんだそうです。どんな歌を歌っているのか、調べたら堀内孝雄の『続 竹とんぼ』でした。お店の高いところにある画面に向かって、Tさんが体をくねらせ、ニコニコしながら歌っている姿が思い浮かびました。

♪男の背中は 背中は人生
 乾杯しようぜ 昔の俺に

 私の予想では、すでに病気になる前と同じレベルまで歌える状態に復活していると思います。

 もう一つ、飲み食いにもしっかり気を使っていることを知って、大したもんだと思いました。お店に来てもアルコール類はなるべく飲まないようにし、飲まざるをえないときには水も必ず一緒に飲んでいるそうです。

 食べ物も考えて食べているんですね。先日の誕生日のとき、お店の人がTさんに、「何か欲しいものあるかね」と訊いたところ、「玉ねぎ」という言葉が返ってきたそうです。玉ねぎはスライスすれば辛さを飛ばせるし、血液サラサラ効果もある美味しい野菜です。病気と闘うTさんの姿を知って私はとても新鮮な感じがしました。

 Tさんはおそらく、きょうも玉ねぎをスライスして食べていることでしょう。それともこのお店に行っているのかな。私もこのお店に行って、玉ねぎを食べているTさんの姿を見てみたくなりました。

  (2025年2月2日)

 
 

第836回 四角形を作って

 先日の午後、用があって長峰温泉ゆったりの郷に行った際の帰りのことでした。

 温浴施設に併設されているゲートボール場のそばを通ったとき、何とはなしに場内を見たら、私と同じ町内会のM子さんとHさんの姿が見えました。中には入らず、ガラス越しに手を振っただけなんですが、Hさんは私に気づき、笑顔で応えてくださいました。

 ドラマはその数秒後に起きました。私はHさんにもう一度手を振り、駐車場に向かって歩き始めていました。そのとき、ゲートボール場の入り口付近から私に向かって声がかけられたのです。声の主はAさんです。よく覚えてはいませんが、「おらちのおっかさのこと、〇〇〇くんなってありがとね」と言われたのです。雨が降っていたこともありますが、その「〇〇〇」がよく聞き取れませんでした。私の顔が「えっ、何ですか」といった表情になっていたのでしょうね。Aさんはすぐに両手を使って四角形を作ってくださったのです。

 それですべてがわかりました。数日前、活動レポートに載せている「春よ来い」にAさんのお連れ合いのことをちょっぴり書いていました。ですから、良く聞こえなかった言葉も入れると、「おらちのおっかさのこと書いてくんなってありがとね」という言葉だったのです。Aさんは、わざわざお礼の言葉を私にかけてくださったのでした。

 手を使ったジェスチャーで四角形を作って、私に話しかけてくださったケースは今回が初めてではありません。これまでも、ずいぶん多くの人たちが四角形を作って私に声をかけてくださいました。

 例えば、吉川区原之町のMさん、「春よ恋」というエッセイを書いたとき、朝の早い時間帯に私を見つけ四角形を作ってくださいました。また、訪問活動をしているときに、「おまんのアレ、読ませてもらっているでね」と言って四角形を作ってくださる人が何人もおられます。昨春、大島区岡のNさん宅を訪ねた時もそうでした。

  「四角形」は私が毎週発行している活動レポートのことです。大きさはB4サイズで長方形です。毎週発行にしてから40年経っていますので、けっこう多くの人たちから読んでいただいています。ただ、「活動レポート」という名前は覚えにくいのでしょうね。多くの人たちは、「おまんのビラ」とか「春よ来い」などといった言葉で呼んでくださいます。それらの言葉がすぐに出て来なくなった場合はどうするか。そのときが「四角形」の出番なのです。長年にわたり私の活動レポートを読んでいてくださる方と私とでは四角形を作るだけで、何を伝えたいかがわかる関係が成立しているのです。ありがたいことです。

 「四角形を作る」話を書いていて思い出したのは、NHKテレビのクイズ番組・「ジェスチャー」です。私が中学、高校に通っていた頃の番組でした。たしか、柳家金語楼さんや水の江瀧子さんなどが出演していたように思います。

 当時はテレビが入ったばかりで、自分の気に入った番組は欠かさず視ていました。「ジャスチャー」もそのひとつでした。身振り手振りで問いかけに回答するものだったと記憶していますが、子どもながらに「よく言葉を出さないで、表せるもんだな。すごい表現力だ」と思ったものです。

 私はもうふた月ほどで70代の半ばに到達する人間です。最近は人の名前がすぐ出て来なくなって、それだけで一日中悩むことが多くなりました。物の名前もそうです。でもそうしたとき、ジャスチャーで伝えると見事にわかってもらえることが何度かありました。高齢になるほど、ジェスチャーの力がつくのかも知れません。

  (2025年1月26日)

 

 

第835回 正月の片付仕事

 年末、連れ合いから言われました。「正月のうちに机の上や周り、片づけてよ」と。ここ数年、ずっと気にはなっていたのですが、忙しいことを理由にそのままにしていました。

 元日の午前、地元町内会の新年会でお酒を飲んだので、車ではどこにも出れない状態となりました。そこで、思い切って片付け仕事をすることにしました。

 まずは机の中です。ここには大事な手紙、思い出の品物などが入りきれなくなっていました。これらを選別し、どうしても残しておきたいものだけを残すことにしました。これが簡単ではありませんでした。

 例えば手紙、見つけると、つい読んでしまいます。読むと処分できなくなります。特に何通もくださった人の場合がそうです。高田在住の古澤かをるさんがその代表です。エッセイ集をお届けした時のお礼の手紙、吉川町時代に赴任された旧川谷小学校の思い出をめぐる手紙などいずれも達筆で、心のこもったものばかり……。結局、1通も処分できませんでした。

 写真もたくさんありました。正直言って、残しておいても私以外の誰かが見る可能性はゼロに近いものです。私がいなくなれば、それで終わりのものが圧倒的です。でも、いったん見てしまうと懐かしくなって、簡単には処分できないのです。20数年前、旧源小学校の児童が私の牛舎へ見学に来たことがありました。そのときの牛舎案内、外での説明などの写真には知っている児童の顔が何人もいました。それでどうしたか。そのときの記録として2枚ほど残すことにしました。あとは思い切ってゴミ箱に入れました。

 写真を整理していたら、しばらく行方不明になっていたものも出てきました。連れ合いと結婚する前に親不知海岸で撮った写真もその1つです。縦横それぞれ5㌢ほどの大きさで、長く運転免許証ケースに入れて持ち歩いていたのですが、数年前に見つけたものの、またまた行方不明になっていました。小さな写真なのでちょっとしたものに挟み込んだだけもわからなくなります。久しぶりに再発見し、改めて写真を見ると、じつに若い。50年も前に撮ったものですから当たり前です。

 眼鏡も出てきました。私は高校時代から視力を落とし、乱視も入っています。当時から眼鏡をかけるようになりました。それから50数年経ちました。うっかり踏みつぶしたものも含め、これまで少なくとも五回は眼鏡を替えています。机の中から、以前使っていた眼鏡が2個も出てきました。そのうちの1個を試しにかけてみてびっくりしました。周りの景色がこれまでになく鮮明に見えたのです。視力がこの眼鏡を使っていたころと偶然、同じになったのかも知れません。

 元日の片付け仕事では、机の中のものは1割くらい減っただけでしたが、机の上や周りはだいぶ片付きました。不要な書類は紙ひもでしばって七個くらいになりました。この書類の山を見た連れ合いが「お父さんて集中力あるね」とほめてくれました。聞こえないふりをしていましたが、ほめられれば、中途半端で終わらせることはできません。結局、翌日も片付け作業を続けることとなりました。

 2日間の片付け仕事を自己評価すれば、60点というところでしょうか。不要なものの整理はまだ60%ぐらいですから。ただ、今回の作業で何がどこにあるかを確認できました。それがわかっただけでも気分は上々です。片付けを進めるうえで最大の課題は40年間続いた活動レポートです。この宝の山を整理するにはデータの電子化が不可欠です。体が動くうちにその作業をやりたいと思います。

  (2025年1月19日)

 
 

第834回 認知症検査

 何となく嫌な予感がしていたのです。6日の朝のことでした。「さあ、自動車学校へ行こう。その前に認知症検査のハガキを取りに行かなきゃ」と事務所に寄って、ハガキを手にしたら検査日8日になっていたのです。

 そばにいた連れ合いが笑って私に言いました。「事前に予約が必要なんだよ。予約をしてくるかどうかも検査のうちだと思うよ」。ハガキをもう一度、見てみたら、わざわざ赤い文字で「早めに電話し、予約を確定してください」とありました。「忙しいのに、そんなことまで読んでいられるか」という思いもあったのですが、ハガキにウソは書いてありません。日時と場所くらいしか読まなかったのでしょうね、落ち度は完全に私にありました。

 それにしても一度見た検査実施日をスマホの予定表に間違って記載したのはなんでだろうと思いました。

 検査日当日、この日は重たい雪が降って、路面が滑りやすくなっていました。家族の者から、「少し早めに出た方がいいんじゃない」と言われ、検査が行われる柿崎自動車学校に行きました。案内ハガキには受付時間は11時10分からとなっていましたが、11時前には着きました。

 受付を済ませてから30分ほど近くの待合室にて待機し、その後、係の人の案内で「高齢者講習会場」という張り紙がしてある検査会場に入りました。

 会場に入ってから分かったのですが、私と同じ時間帯の検査対象者は6人でした。そっと横顔を見ると、土尻出身のT子さんの姿がありました。T子さんは日頃から若いとは思っていましたが、私よりも7つか8つくらい年上のはずです。「おかしいなぁ」と思いながら、隣の席を見ると、いつもお世話になっている原之町のYさんもおられました。どうやら、検査はこれから後期高齢者になる人だけでなく、すでになっている人でも免許証更新で必要な人も一緒だったようです。

 検査会場に入ってまもなく、担当の女性から、検査の案内がはじまりました。「何枚か絵を見てもらいます。絵を見て何だか聞きますので、声を出して覚えてください」そう言われて、1枚当たり4つの絵が描いてあるパネルを4枚見せてもらいました。絵は全部で16枚ということになります。1つひとつの絵を見て、みんなで声を出しましたので、これで名前はすべて覚えたはずでした。

 いよいよ検査本番です。裏返しになっていた答案用紙を引き寄せ、最初に名前と生年月日を記入しました。そして、用紙の1枚目をめくりました。第1問は、4枚のパネルに描かれた16の絵の名前をすべて書き出してください、というものでした。

 私の頭に浮かび出てきたのは、1枚目の左上の大砲です。続いて、竹の子、ラジオなど6つまでは出てきました。そこで、あれこれ考え始めたら、その後が続きません。これにはまいりましたね。

 第2問。16の絵を思い出させるために、それぞれのヒントが1つずつ書いてあり、その絵の名前を書きなさい、というものです。「野菜」「武器」「楽器」「体の一部」などのヒントが助けになって、13ほど書き出すことができました。それでも出てこないものがいくつかありました。

 第3問。検査日当日のことが問いです。いまは何年か、何月何日か、何曜日か、現在の時刻は。これらはすべて正解でした。

 検査が終わって、案内ハガキを見た私が間違った日をスマホに記入した原因がよくわかりました。見事に「物忘れ」がはじまっていたのです。T子さん、Yさん、そして柿崎のKさんと顔を合わせましたが、皆さん、同じ思いだったのかも……。

  (2025年1月12日)

 
 

第833回 ハプニング

 まったく予想していませんでした。でも、後から考えてみたら、こういうことが起きても不思議ではなく、ありうる話だったのです。

 先週の日曜日の午前のことです。いよいよ冬だなと感じさせる強い風が吹いているなか、長い屋根付きの廊下からほくほく線うらがわら駅の待合室へと歩く人が続きました。

 この日は午前10時から、うらがわら駅で「えきカフェ」を行うことになっていました。駅舎の中でコーヒーなどを飲み、みんなで楽しく交流しましょうというイベントです。

 当初の企画では、ピアノの演奏があり、地元の皆さんが歌や舞踊を披露されるという内容だったようです。それに加えて、今年、コウノトリのカップルが上越で営巣、4羽のヒナが誕生して大きな話題となったことから、私のコウノトリの観察報告もあとから入りました。

 待合室では、開会の1時間ほど前からNPO法人夢あふれるまち浦川原のスタッフの皆さんが舞台づくりをしたり、熱風オイルヒーターをセットして部屋を温めるなど準備を着々と進めていました。私はスタッフの方が持って来てくださったパソコンを作動させ、用意してきた画像をスクリーンに映し出すことができるかどうかなどのチェックをしました。こうして準備は無事終わり、あとは本番を待つばかりとなりました。

 午前10時、いよいよ本番開始です。冒頭、NPO法人夢あふれるまち浦川原の代表である藤田さんが挨拶、ほくほく線への思いと今回のイベントをからめて熱く語られました。黄色いシャツと濃いブルーのネッカチーフを身につけた藤田さんの服装はおしゃれで、このイベントへの意気込みを感じさせる素敵なものでした。

 挨拶が終わると、この日のために音楽グループ、「真理子&伸」を結成したというお2人がドラえもんの「ひまわりの約束」、クリスマスソングの「きよしこの夜」などを演奏して60人近い聴衆を音楽の世界にいざないました。続いて、地元の春日久代さんや高橋春美さん、福井克利さんが次々と美声を披露、歌は待合室の狭い空間から外にも広がっていきました。

 11時近い時間になって、いよいよ私の出番がやってきました。この日のために用意してきたコウノトリの数々の画像をカラーで見ていただき、ほくほく線沿いの池や田んぼなどで見かけたコウノトリのいる風景も見ていただく予定でした。

 ところが、スクリーンに画像を映そうとした直後、プロジェクターもスクリーンもダウンしてしまったのです。イベントのスタッフの皆さんが大急ぎで復旧させようと動き回りました。しかし、時間はどんどん過ぎていきます。

 こうなったら、カラーの画像を映し出すのは断念するしかない。あとは事前に準備していた白黒の画像入りレジメに基づいて話をしよう、そう決意してしゃべりはじめました。コウノトリとの出合い、コウノトリについての豆知識、観察のポイントなどをエピソードを交えて語りました。

 スクリーン上映なしでの話が終わりに近づいてきたとき、プロジェクターなどの電源がようやく入りました。時すでに遅しの感がありましたが、皆さん、真剣に聴き入ってくださいました。有難いことです。

 普段は使うことのない二台の熱風オイルヒーターとスタッフの皆さんが配ってくださった暖かいコーヒーのおかげで参加者の身も心も温まったのですが、まさか駅舎の電気ブレーカーが落ちるとは……。でもこのハプニングがあったおかげで、このイベントは忘れられない思い出となりました。  

   (2024年12月29日)

 
 

第832回 鉄瓶の歌

 炭火が赤くなり、少し茶色がかった鉄瓶からは湯気が立っている。10日ほど前、三和区川浦のケイさんが発信した鉄瓶の画像を見て懐かしさでいっぱいになりました。

 数日後の午前、「湯気が立っている鉄瓶の姿を見たいんですが」とケイさんに電話をすると、「どうぞお出で下さい」と言われました。この日は晴れたり、曇ったりと空の動きが激しい日でしたが、伺った時はちょうど、晴れ間でした。

 玄関から入ると、土間からの上がり框(かまち)付近に大きな座敷囲炉裏が置いてあって、その真ん中に鉄瓶がありました。私から電話で到着予想時間をお伝えしていたこともあって、鉄瓶からはすでに湯気が見えました。

 ケイさんが鉄瓶の蓋(ふた)を少し開けてくださると、そこからさーっと湯気が立ち上がりました。その湯気にも強弱があります。湯気によって蓋の色が黄緑がかったり、灰色になったり……。それを見ているだけでも気持ちが安らぎます。

 じっと鉄瓶を見ていたら、途中で鉄瓶の音が変わりました。「お湯の量が変わったからなのかな」と私から言うと、「それもあるかも知れませんね」とケイさんは言いました。続けて私が、「これ、蓋で閉じこまれた音じゃないかな。でも、そのおかげで鉄瓶の口から出る湯気が元気になる。チンチンじゃないですね」と言うと、「そうでしょ。だから、それ書けなくて、何というか、ボコボコでもないし……」という言葉が返ってきました。

 蓋を取って、中が見える状態になった時、今度ははっきりと音が聞こえてきました。「ガァー」か「ゴォー」ですね。低音の「オォー」に近い感じでも聞こえます。鉄瓶の中からは上昇気流が発生している感じで湯気が立ち上っています。水を足すときの音もいい。鉄瓶が鳴いている感じにもなります。

 鉄瓶を見つめながら、ケイさんとの会話がはずみました。時々、「ガァー」という音が聞こえてきます。

「私、これ買ったのは40代ですから」
「じゃ、30年前ですか」
「なんか鉄瓶が歌っているでしょう。これが何とも言えなくて……」
「お母さんの声でも聞こえてくるといいのにね」
「ほんと、そうなの。ずっと母を思い出しているんですよ」

 ケイさんがお茶のお供に干し柿を出してくださいました。乾き具合と言い、甘さと言い、抜群の出来でした。ケイさんによると、今年、干し柿づくりで失敗した人が何人もいたそうです。たぶん天候のせいだと思います。

 でもケイさんはうまくできたそうです。柿の皮を剥いたらお湯にサッと通す、干すときに実をもむ、こういったことが大事だとのことでしたが、このうち実をもむことはお母さんから教わった干し柿づくりの知恵でした。鉄瓶の音を聞きながらそんな話もしました。

 昔、囲炉裏には必ず鉄瓶があり、その音を聞いて私たちは育ちました。囲炉裏では鍋をかけ、煮物などをすることもありました。鍋から煮汁が噴き出る様子などはよく記憶しています。ただ、わが家の場合、囲炉裏で食事やお茶飲みなどをしていたのは、住宅を新築するまででした。新築後は囲炉裏を設置しませんでしたから。

 ケイさんが今使っている鉄瓶と座敷囲炉裏は骨董屋さんで買い求めたとのことです。大きな囲炉裏がなくても、大きな火鉢ともいえる座敷囲炉裏があれば、囲炉裏を囲んだ懐かしい思い出がよみがえります。鉄瓶のお湯を沸かすこともできます。おやおや、また鉄瓶の歌がはじまりましたよ。

  (2024年12月22日)

 
 

第831回 冬の料理

 雪が降り、寒くなって煮付けや煮物が美味しい季節になりました。

 先日、議会が早めに終わったので、K子さんの家にお邪魔したところ、Eさんとともにお茶を飲んでおられました。私も仲間にしてもらい、お茶だけでなく、鱈(たら)の煮付けや大根、チクワなどの煮物をご馳走になりました。

 私はこの時期の食べ物としては煮付けや煮物が大好きで、なかでも鱈の煮付けは冬の間に一度は食べないと気が済みません。鱈の肉は柔らかくなっても煮崩れしないし、何よりも美味しい。ひと月ほど前、糸魚川市へ行った帰り道、名立ドライブインに寄って鱈汁定食を食べることができました。今度は鱈の煮付けを地元で食べさせてもらえるとは……。うれしかったですね。

 K子さんのところには日頃から同年代のお母さんたちが寄ってお茶会をされていますが、この日も何人かで楽しいひと時を過ごされたようです。鱈の煮付けを出してくださるときにK子さんは、「まだ、誰かが来る予感がしたの。少し残しておいてよかった」と言われました。

 鱈を食べはじめた段階で、K子さん、今度は台所から大根、チクワ、コンニャクなどが入った煮物も持って来てくださいました。そして、「おまんちのばちゃのコンニャクは最高だったね」とほめてくださいました。母の手作りコンニャクは一時期、大島区の青空市場にも出していたことがあったのですが、わが家の近くに住むK子さんの口にも入っていたんですね。

 私は出していただいたものは遠慮なくいただきます。鱈はふた切れ食べ、大根、チクワなどもいただきました。いずれもよく煮込んであって、味がよくしみ込んでいます。「いやー、うまい」と言うと、K子さんも喜んでくださいました。

 この日、私がK子さんのところにお邪魔したのは、K子さんと仲良しで同級生でもあるYさんの近況について話をしたかったからです。最近、Yさんの姿が見えないのであちこちに聞いたら、春まで介護施設に入っておられることがわかりました。K子さんに会えば、Yさんのことを詳しく聞けるかも知れないと思ったのです。

 お茶をご馳走になりながら話を聞くうちに、Yさんに携帯電話してみたくなりました。時間は午後4時少し前、施設にいる人にかけるには丁度いい時間帯でした。

 呼び出し音が3回ほど鳴った段階で、Yさんは電話に出てくださいました。

「もしもし、橋爪です。ご無沙汰してます。元気かいね」
「元気だよ」
「そいが、そりゃいかった。いまねぇ、K子さんとこにいて、お茶ごっつおになっているがど。春までがんばってくんないね」
「がんばるよ、おまんも頑張ってね」

 短いやりとりでしたが、電話からは、Yさんのいつもの元気な声が聞こえてきて安心しました。

 Yさんの声はスマホからあふれ出ていました。本来なら、K子さんなどと一緒にお茶を飲んでいても不思議ではない間柄です。みんな心配していたので、Yさんの声を聞いて、「いかった、いかった」と喜び合いました。

 再び食べることに一生懸命になりました。そして、Yさんのところでも何度か美味しい料理をご馳走になったことがあることを思い出しました。Yさんも自宅にいた時は同級生などを呼んで、美味しいものを振舞っていました。

 米山さんも尾神岳も白くなりました。寒さはこれからが本番。でも、もう百日ほど我慢すれば暖かい春がやってきます。Yさんが戻ってきたら、今度はウドなどの山菜料理をみんなで味わいたいものです。    

  (2024年12月15日)

 
 

第830回 かちゃの歌

 4か月ぶりくらいでしょうか、キエさんに会ったのは……。

 先日の夕方の5時近くになって、高田から岩木のキエさん宅をめざしました。あらかじめ電話をかけたのですが、通じません。「駄目で元元」と思い自宅まで行ったところ、娘さん夫婦が家の外で仕事をされていました。キエさんは留守かと思ったのですが、娘さんからは「いるすけ、入ってください」と言われました。

 娘さんに案内してもらい、キエさんの部屋に入ると、キエさんはベッドの上に座っていました。私の顔を見るなり、「きょうあたり、電話しようと思っていたがど……」と言われました。じつは、前回会ってから2度ほどキエさん宅を訪ねたのですが、ディサービスなどで留守だったのです。それだけに私との再会が待ち遠しかったのかも知れません。

 最初に試作段階の『かちゃの歌』をスマホで聴いてもらいました。この歌は私が吉川の山間部、蛍場に住んでいたころのことから現在の代石に移り住むようになってからの数十年の母の姿をイメージして作り上げた歌です。私とコミュニティバンド・「ピアス」のボーカルのマコさんと共同で作詞したものにマコさんが曲をつけてくれました。

 ♪かーちゃー帰って来ない かちゃ暗くなってきた かちゃ みんな 腹へった

 歌声が流れ出てくるスマホをじっと見ていたキエさんは、2番から3番に入るあたりでベッドのわきにあったハンカチを取り、歌が終わるまでずっと顔をおおっていました。

 歌が終わるとゆっくりハンカチを外し、「ごめんね、昔を思い出した。おまんたエツさんが〝のうの〟にいやった時分のこと、思い出して……」と私に言いました。〝のうの〟は旧大島村竹平にあった母の実家の屋号です。キエさんは、〝のうの〟のすぐ下にあった〝あたしゃ〟(屋号)で生まれ育った人です。

 ♪みんなかちゃが好きだった かちゃから生まれていかったよ

 キエさんは私が生まれて間もない時のことをまた思い出してくれました。1950年(昭和25年)の春のことです。私が〝のうの〟の家で生まれたものの、母の乳が充分出なくて、私よりもひと月前にお産をしたキエさんは私に乳を飲ませてくれたのです。キエさんは、「あんとき、きょもん(着物)がびしょびしょになるほど乳が出ていた。飲んでもらって助かった」と言いました。

 ♪かちゃ 帰って来ない  かちゃ 笹採りおつかれさん

 キエさんは、自分の結婚後の暮らしも思い出しました。「おれ、17のときからほしいと言われた。結婚したのは19のときだ。小説になるほどいろんなことあった。ご飯の時は、自分で〝しゃもじ〟持たんねかったもんだ」。当時は食料不足で厳しい食生活が強いられ、嫁が大事にされない封建的な面も強く残っている時代でした。

 『かちゃの歌』は子どもの頃のことを思い出させてくれるようです。キエさんは子どもの頃、同級生だった〝のうの〟の義孝叔父さん(故人)とナスをもいだ時のことを語ってくれました。ナスは手で取ると茎に傷をつけてしまい、ナスのなりが悪くなることがあると親たちから注意されたことを思い出したというのです。

 まだ試作段階の『かちゃの歌』。じつは今月21日(土)、吉川コミプラで14時から開催の「ほっとホットコンサート」で「ピアス」の皆さんが『コウノトリさん、ありがとね』などと一緒に歌ってくださるそうです。大勢の聴衆を前にどんな演奏になるのか、いまからワクワクしています。

  (2024年12月8日)

 
 

第829回 届いた冊子は…

 こういうこともあるんですね。発刊されてから7年経った冊子がめぐりめぐって先週の火曜日、私の手元に届きました。

 冊子は全部で24ページ。タイトルは『秀雄の絵手紙』。絵手紙が55枚入っています。表紙には私の大好きなひまわりの絵が真ん中にどんと描かれていて、ハガキの白地のスペースには、「命あるものに乾杯」「だから平和を」という言葉が添えられていました。

 この冊子の絵手紙の描き手は、「しんぶん赤旗日曜版」編集部で仕事をされていた手崎秀雄さん(故人)です。2013年に手崎さんが亡くなって4年後、孫の碧(みどり)さんが「段ボールにあふれる絵手紙」の中から55枚を選んで冊子にまとめました。

 冊子を手にして私がまず読んだのは、手崎さんのお連れ合いの久實子さんが書かれた「前書き」です。そこには、秀雄さんが17歳の時に志願して通信兵となったこと、猛爆を受け、秀雄さんは運よく生きていたものの、同い年の親友が亡くなったことなどが綴られ、秀雄さんの「絵と紡ぐ言葉には戦争への反省と命の尊さが込められている」とありました。とても印象に残る言葉でした。

 そしてもう1つ、「これはすごい」と思ったのは次の文章です。「彼は生涯多忙でした。絵はハガキ大で15分以内に描くと決めていました。感動するものに出合うと、何処でも立ち止まって描いていました」。このなかでも「15分以内に描く」に惹かれました。私もそれくらいのスピードで描ければなぁ……。うらやましい。

 絵手紙のトップはツクシでした。3本のツクシがハガキの上下いっぱいに描かれ、「どんどん伸びる春 命がそこにあるから」という言葉が書いてありました。「伸びる春」という表現がとても素敵でした。

 次いで目にとまったものは柏餅の絵手紙です。左下から右上に大きく柏餅が描いてあって、「葉っぱがだきしめる春の味」「人の温もりも」とありました。「春の味」にはどんなものが入っていたのでしょうか。

 絵手紙には人柄も出ます。緑の枝豆が描かれた絵手紙を見て笑ってしまいました。茎が付いたもの2個、すでに茎から離れたものが2個描かれ、「マメに暮らすのがいい 一粒々々味をかみしめて 集うて食べたらもっとうまい」と親父ギャグを飛ばし、一番上には「ビールはどこ?」と書いてあったのです。きっと生前は職場でもこんな調子だったのでしょう。

 この冊子を息子さん夫婦を通じて私にくださったのは糸魚川市在住の山岸朝子さんです。7月下旬に私が取り組んだ「小さな作品展」にわざわざ出かけてくださっていたのですが、私への手紙では「作品展のお礼」とありました。朝子さんは久實子さんのことをよくご存じで、久實子さんと私が「何だか人間像が重なるような気がする」とも書いてありました。どうあれ、このような立派な冊子をプレゼントしてくださるとは思っても見ませんでした。

 じつは、朝子さん自身も野菜などの素敵な絵を描いておられます。一時期、息子さん夫婦がやっているトマトなどの農産物直売所の壁には、トマトやピーマンなどの野菜が踊るような雰囲気で描かれた大きな紙が貼ってありました。それはまさにジャンボ絵手紙といった感じでした。朝子さんがこの絵手紙集を私にくださった本当の理由は、私の画力の向上につながると判断してくださったのかも知れません。

 私に届いた1冊の絵手紙集、すぐに全部を観ました。色の濃淡、線の太さと強弱など勉強になることがいくつも……。私に新しいエネルギーが注入された感じです。 

   (2024年12月1日)

 

 
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