春よ来い(35) 
 

第832回 鉄瓶の歌

 炭火が赤くなり、少し茶色がかった鉄瓶からは湯気が立っている。10日ほど前、三和区川浦のケイさんが発信した鉄瓶の画像を見て懐かしさでいっぱいになりました。

 数日後の午前、「湯気が立っている鉄瓶の姿を見たいんですが」とケイさんに電話をすると、「どうぞお出で下さい」と言われました。この日は晴れたり、曇ったりと空の動きが激しい日でしたが、伺った時はちょうど、晴れ間でした。

 玄関から入ると、土間からの上がり框(かまち)付近に大きな座敷囲炉裏が置いてあって、その真ん中に鉄瓶がありました。私から電話で到着予想時間をお伝えしていたこともあって、鉄瓶からはすでに湯気が見えました。

 ケイさんが鉄瓶の蓋(ふた)を少し開けてくださると、そこからさーっと湯気が立ち上がりました。その湯気にも強弱があります。湯気によって蓋の色が黄緑がかったり、灰色になったり……。それを見ているだけでも気持ちが安らぎます。

 じっと鉄瓶を見ていたら、途中で鉄瓶の音が変わりました。「お湯の量が変わったからなのかな」と私から言うと、「それもあるかも知れませんね」とケイさんは言いました。続けて私が、「これ、蓋で閉じこまれた音じゃないかな。でも、そのおかげで鉄瓶の口から出る湯気が元気になる。チンチンじゃないですね」と言うと、「そうでしょ。だから、それ書けなくて、何というか、ボコボコでもないし……」という言葉が返ってきました。

 蓋を取って、中が見える状態になった時、今度ははっきりと音が聞こえてきました。「ガァー」か「ゴォー」ですね。低音の「オォー」に近い感じでも聞こえます。鉄瓶の中からは上昇気流が発生している感じで湯気が立ち上っています。水を足すときの音もいい。鉄瓶が鳴いている感じにもなります。

 鉄瓶を見つめながら、ケイさんとの会話がはずみました。時々、「ガァー」という音が聞こえてきます。

「私、これ買ったのは40代ですから」
「じゃ、30年前ですか」
「なんか鉄瓶が歌っているでしょう。これが何とも言えなくて……」
「お母さんの声でも聞こえてくるといいのにね」
「ほんと、そうなの。ずっと母を思い出しているんですよ」

 ケイさんがお茶のお供に干し柿を出してくださいました。乾き具合と言い、甘さと言い、抜群の出来でした。ケイさんによると、今年、干し柿づくりで失敗した人が何人もいたそうです。たぶん天候のせいだと思います。

 でもケイさんはうまくできたそうです。柿の皮を剥いたらお湯にサッと通す、干すときに実をもむ、こういったことが大事だとのことでしたが、このうち実をもむことはお母さんから教わった干し柿づくりの知恵でした。鉄瓶の音を聞きながらそんな話もしました。

 昔、囲炉裏には必ず鉄瓶があり、その音を聞いて私たちは育ちました。囲炉裏では鍋をかけ、煮物などをすることもありました。鍋から煮汁が噴き出る様子などはよく記憶しています。ただ、わが家の場合、囲炉裏で食事やお茶飲みなどをしていたのは、住宅を新築するまででした。新築後は囲炉裏を設置しませんでしたから。

 ケイさんが今使っている鉄瓶と座敷囲炉裏は骨董屋さんで買い求めたとのことです。大きな囲炉裏がなくても、大きな火鉢ともいえる座敷囲炉裏があれば、囲炉裏を囲んだ懐かしい思い出がよみがえります。鉄瓶のお湯を沸かすこともできます。おやおや、また鉄瓶の歌がはじまりましたよ。

  (2024年12月22日)

 
 

第831回 冬の料理

 雪が降り、寒くなって煮付けや煮物が美味しい季節になりました。

 先日、議会が早めに終わったので、K子さんの家にお邪魔したところ、Eさんとともにお茶を飲んでおられました。私も仲間にしてもらい、お茶だけでなく、鱈(たら)の煮付けや大根、チクワなどの煮物をご馳走になりました。

 私はこの時期の食べ物としては煮付けや煮物が大好きで、なかでも鱈の煮付けは冬の間に一度は食べないと気が済みません。鱈の肉は柔らかくなっても煮崩れしないし、何よりも美味しい。ひと月ほど前、糸魚川市へ行った帰り道、名立ドライブインに寄って鱈汁定食を食べることができました。今度は鱈の煮付けを地元で食べさせてもらえるとは……。うれしかったですね。

 K子さんのところには日頃から同年代のお母さんたちが寄ってお茶会をされていますが、この日も何人かで楽しいひと時を過ごされたようです。鱈の煮付けを出してくださるときにK子さんは、「まだ、誰かが来る予感がしたの。少し残しておいてよかった」と言われました。

 鱈を食べはじめた段階で、K子さん、今度は台所から大根、チクワ、コンニャクなどが入った煮物も持って来てくださいました。そして、「おまんちのばちゃのコンニャクは最高だったね」とほめてくださいました。母の手作りコンニャクは一時期、大島区の青空市場にも出していたことがあったのですが、わが家の近くに住むK子さんの口にも入っていたんですね。

 私は出していただいたものは遠慮なくいただきます。鱈はふた切れ食べ、大根、チクワなどもいただきました。いずれもよく煮込んであって、味がよくしみ込んでいます。「いやー、うまい」と言うと、K子さんも喜んでくださいました。

 この日、私がK子さんのところにお邪魔したのは、K子さんと仲良しで同級生でもあるYさんの近況について話をしたかったからです。最近、Yさんの姿が見えないのであちこちに聞いたら、春まで介護施設に入っておられることがわかりました。K子さんに会えば、Yさんのことを詳しく聞けるかも知れないと思ったのです。

 お茶をご馳走になりながら話を聞くうちに、Yさんに携帯電話してみたくなりました。時間は午後4時少し前、施設にいる人にかけるには丁度いい時間帯でした。

 呼び出し音が3回ほど鳴った段階で、Yさんは電話に出てくださいました。

「もしもし、橋爪です。ご無沙汰してます。元気かいね」
「元気だよ」
「そいが、そりゃいかった。いまねぇ、K子さんとこにいて、お茶ごっつおになっているがど。春までがんばってくんないね」
「がんばるよ、おまんも頑張ってね」

 短いやりとりでしたが、電話からは、Yさんのいつもの元気な声が聞こえてきて安心しました。

 Yさんの声はスマホからあふれ出ていました。本来なら、K子さんなどと一緒にお茶を飲んでいても不思議ではない間柄です。みんな心配していたので、Yさんの声を聞いて、「いかった、いかった」と喜び合いました。

 再び食べることに一生懸命になりました。そして、Yさんのところでも何度か美味しい料理をご馳走になったことがあることを思い出しました。Yさんも自宅にいた時は同級生などを呼んで、美味しいものを振舞っていました。

 米山さんも尾神岳も白くなりました。寒さはこれからが本番。でも、もう百日ほど我慢すれば暖かい春がやってきます。Yさんが戻ってきたら、今度はウドなどの山菜料理をみんなで味わいたいものです。    

  (2024年12月15日)

 
 

第830回 かちゃの歌

 4か月ぶりくらいでしょうか、キエさんに会ったのは……。

 先日の夕方の5時近くになって、高田から岩木のキエさん宅をめざしました。あらかじめ電話をかけたのですが、通じません。「駄目で元元」と思い自宅まで行ったところ、娘さん夫婦が家の外で仕事をされていました。キエさんは留守かと思ったのですが、娘さんからは「いるすけ、入ってください」と言われました。

 娘さんに案内してもらい、キエさんの部屋に入ると、キエさんはベッドの上に座っていました。私の顔を見るなり、「きょうあたり、電話しようと思っていたがど……」と言われました。じつは、前回会ってから2度ほどキエさん宅を訪ねたのですが、ディサービスなどで留守だったのです。それだけに私との再会が待ち遠しかったのかも知れません。

 最初に試作段階の『かちゃの歌』をスマホで聴いてもらいました。この歌は私が吉川の山間部、蛍場に住んでいたころのことから現在の代石に移り住むようになってからの数十年の母の姿をイメージして作り上げた歌です。私とコミュニティバンド・「ピアス」のボーカルのマコさんと共同で作詞したものにマコさんが曲をつけてくれました。

 ♪かーちゃー帰って来ない かちゃ暗くなってきた かちゃ みんな 腹へった

 歌声が流れ出てくるスマホをじっと見ていたキエさんは、2番から3番に入るあたりでベッドのわきにあったハンカチを取り、歌が終わるまでずっと顔をおおっていました。

 歌が終わるとゆっくりハンカチを外し、「ごめんね、昔を思い出した。おまんたエツさんが〝のうの〟にいやった時分のこと、思い出して……」と私に言いました。〝のうの〟は旧大島村竹平にあった母の実家の屋号です。キエさんは、〝のうの〟のすぐ下にあった〝あたしゃ〟(屋号)で生まれ育った人です。

 ♪みんなかちゃが好きだった かちゃから生まれていかったよ

 キエさんは私が生まれて間もない時のことをまた思い出してくれました。1950年(昭和25年)の春のことです。私が〝のうの〟の家で生まれたものの、母の乳が充分出なくて、私よりもひと月前にお産をしたキエさんは私に乳を飲ませてくれたのです。キエさんは、「あんとき、きょもん(着物)がびしょびしょになるほど乳が出ていた。飲んでもらって助かった」と言いました。

 ♪かちゃ 帰って来ない  かちゃ 笹採りおつかれさん

 キエさんは、自分の結婚後の暮らしも思い出しました。「おれ、17のときからほしいと言われた。結婚したのは19のときだ。小説になるほどいろんなことあった。ご飯の時は、自分で〝しゃもじ〟持たんねかったもんだ」。当時は食料不足で厳しい食生活が強いられ、嫁が大事にされない封建的な面も強く残っている時代でした。

 『かちゃの歌』は子どもの頃のことを思い出させてくれるようです。キエさんは子どもの頃、同級生だった〝のうの〟の義孝叔父さん(故人)とナスをもいだ時のことを語ってくれました。ナスは手で取ると茎に傷をつけてしまい、ナスのなりが悪くなることがあると親たちから注意されたことを思い出したというのです。

 まだ試作段階の『かちゃの歌』。じつは今月21日(土)、吉川コミプラで14時から開催の「ほっとホットコンサート」で「ピアス」の皆さんが『コウノトリさん、ありがとね』などと一緒に歌ってくださるそうです。大勢の聴衆を前にどんな演奏になるのか、いまからワクワクしています。

  (2024年12月8日)

 
 

第829回 届いた冊子は…

 こういうこともあるんですね。発刊されてから7年経った冊子がめぐりめぐって先週の火曜日、私の手元に届きました。

 冊子は全部で24ページ。タイトルは『秀雄の絵手紙』。絵手紙が55枚入っています。表紙には私の大好きなひまわりの絵が真ん中にどんと描かれていて、ハガキの白地のスペースには、「命あるものに乾杯」「だから平和を」という言葉が添えられていました。

 この冊子の絵手紙の描き手は、「しんぶん赤旗日曜版」編集部で仕事をされていた手崎秀雄さん(故人)です。2013年に手崎さんが亡くなって4年後、孫の碧(みどり)さんが「段ボールにあふれる絵手紙」の中から55枚を選んで冊子にまとめました。

 冊子を手にして私がまず読んだのは、手崎さんのお連れ合いの久實子さんが書かれた「前書き」です。そこには、秀雄さんが17歳の時に志願して通信兵となったこと、猛爆を受け、秀雄さんは運よく生きていたものの、同い年の親友が亡くなったことなどが綴られ、秀雄さんの「絵と紡ぐ言葉には戦争への反省と命の尊さが込められている」とありました。とても印象に残る言葉でした。

 そしてもう1つ、「これはすごい」と思ったのは次の文章です。「彼は生涯多忙でした。絵はハガキ大で15分以内に描くと決めていました。感動するものに出合うと、何処でも立ち止まって描いていました」。このなかでも「15分以内に描く」に惹かれました。私もそれくらいのスピードで描ければなぁ……。うらやましい。

 絵手紙のトップはツクシでした。3本のツクシがハガキの上下いっぱいに描かれ、「どんどん伸びる春 命がそこにあるから」という言葉が書いてありました。「伸びる春」という表現がとても素敵でした。

 次いで目にとまったものは柏餅の絵手紙です。左下から右上に大きく柏餅が描いてあって、「葉っぱがだきしめる春の味」「人の温もりも」とありました。「春の味」にはどんなものが入っていたのでしょうか。

 絵手紙には人柄も出ます。緑の枝豆が描かれた絵手紙を見て笑ってしまいました。茎が付いたもの2個、すでに茎から離れたものが2個描かれ、「マメに暮らすのがいい 一粒々々味をかみしめて 集うて食べたらもっとうまい」と親父ギャグを飛ばし、一番上には「ビールはどこ?」と書いてあったのです。きっと生前は職場でもこんな調子だったのでしょう。

 この冊子を息子さん夫婦を通じて私にくださったのは糸魚川市在住の山岸朝子さんです。7月下旬に私が取り組んだ「小さな作品展」にわざわざ出かけてくださっていたのですが、私への手紙では「作品展のお礼」とありました。朝子さんは久實子さんのことをよくご存じで、久實子さんと私が「何だか人間像が重なるような気がする」とも書いてありました。どうあれ、このような立派な冊子をプレゼントしてくださるとは思っても見ませんでした。

 じつは、朝子さん自身も野菜などの素敵な絵を描いておられます。一時期、息子さん夫婦がやっているトマトなどの農産物直売所の壁には、トマトやピーマンなどの野菜が踊るような雰囲気で描かれた大きな紙が貼ってありました。それはまさにジャンボ絵手紙といった感じでした。朝子さんがこの絵手紙集を私にくださった本当の理由は、私の画力の向上につながると判断してくださったのかも知れません。

 私に届いた1冊の絵手紙集、すぐに全部を観ました。色の濃淡、線の太さと強弱など勉強になることがいくつも……。私に新しいエネルギーが注入された感じです。 

   (2024年12月1日)

 

 
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