春よ来い(34)
 

第806回 思い出の花

 1つの花が懐かしい人とつながっていて、花を見るとその人を思い出す、ということがありませんか。

 先だっての日曜日のことです。吉川区の山間部にある専徳寺に用があって行ったところ、前住職のお連れ合いの眞知子さんからお茶を飲みませんかと勧められました。お茶会の場には、亡き弟の同級生であるY子さんとお連れ合いの姿がありました。

 偶然、花好きの人が何人も集まったことから、この日はお茶をいただいているときも外に出て庭園を見せていただいた時も花をめぐる楽しい話が続きました。

 眞知子さんから出していただいた細いウドとワラビの漬物をご馳走になりながら最初に話題になったのは、ネコヤナギの花でした。

 コヤナギは大潟区に住んでいた弟の勇やお世話になった1人の大工さんとの思い出につながっています。

 弟は毎年のように、蛍場の川のそばからネコヤナギを採ってきていました。その動きを見て、私は近くの吉川橋の上流右岸ににあるネコヤナギの様子を見に出かけたものです。

 ちょうど新しいエッセイ集の出版が間近だったこともあり、Y子さんに「今回の本の中にもY子さんの名前が入っていますよ」と言いました。本の中には、数年前、急に亡くなった大工さんの所へネコヤナギを持ってお参りに行ったときのことを書いたものが入っていました。「春ですね」という題名です。その文章の最後にY子さんのことをちょっぴり書いていたのです。

 お茶会では、「ネコヤナギに触った時の感じ、いいよね」「懐かしいね」などと言いながら弟などの思い出に浸りました。

 お茶をいただいていた場所からは、外の庭木が見えます。眞知子さんは「あそこの淡いピンク色の花はウンナンナツロウバイというんです。ウンナンは雲南省の雲南です。そのそばにある白い花はサンショバラです。山椒の木のあのサンショです」と説明してくださいました。いずれの花も私が初めて見る花でした。

 お茶会後、みんなで庭に出て、駐車場の近くでツリガネニンジンの茎や葉を見ているときでした。すぐそばで、ドクダミが白い小さな花をきれいに咲かせていました。

 この花を見ると、千葉県習志野市に住んでいた叔父を思い出します。叔父が亡くなる数年前、叔父と共に労災病院に入院していた母の実家の伯父を見舞い、直江津駅前の食堂、「多七」で食事をしました。私の記憶では、叔父との最初で最後の食堂での食事でした。そのとき、伯父は、「次はおれだよ」とボソッと言ったのです。

 叔父の葬儀の時、叔父の家の近くにあるお寺に泊めてもらいました。告別式の朝、散歩をしていて、その年に初めてドクダミの花を見ました。見た瞬間、こんなにもきれいな白い花だったかと驚きました。その印象が強かったので、ドクダミの花を見るたびに、叔父との思い出が浮かびます。

 専徳寺の北側の庭ではクリンソウの花がいくつも咲いていました。眞知子さんがY子さんに分けてあげますよということになって、その作業をされているとき、私はその先の池を見ました。池の中を見ると、緑の葉に囲まれた鮮やかなピンクのスイレンが咲いていました。そのスイレンを見て私は数年前、前住職と一緒にお茶飲みをさせてもらった時のことを思い出しました。

 その際も、「モリアオガエルがいるんですよ」と言われたのですが、緑色のカエルを見つけた後、池の中のスイレンが目に入りました。その美しさに惹かれ、池のそばまで行ったのは言うまでもありません。  そのスイレンがまた咲いている。私は、なぜかうれしくなりました。    

  (2024年6月9日)


 

第805回 有線放送2

 先日、上越市内から有線放送が無くなってしまうという話を聞いて、急にYさんと話をしたくなりました。

 Yさんはいまから50ど前、旧源農協の有線放送の交換手さんだった人です。顔を合わせて話をすることはほとんどなかった人ですが、透き通ったきれいな声は何百回も聴いていましたので、いまでもよく覚えています。

 現在、新潟市に住むYさんに電話をすると、私の父のことはよくご存じでしたが、私のことはうっすらとしか記憶に残っていませんでした。でも、私からの電話を懐かしく受け止めていただきました。

  「尾神というか蛍場にあった橋爪照義の子どもです」と言うと、「よくわかりますよ。乳をしぼっていなったでしょ。お父さんは、いばって何かをするとか、人をけなすことのない穏やかな人でしたね」と言ってくださいました。「けっこう頑固なところもあったんですけどね」と私は言ったのですが、父のことをこんな風に評価してくださるのはうれしいことでした。

 旧源農協時代の有線放送では事務所の交換手が電話をつなぐ仕事をしていました。

 電話をかけるときは、ダイヤルではなく、受話器を外し交換手さんに、「8番ですが、何々の3番にお願いします」などと言います。すると、交換手さんが相手の家の番号を「3番さん、3番さん」と言って呼び出してくださったものです。

 当時の有線放送では、電話といっても1軒ごとにつながるのではなく、数軒のグループ(回線)につながるので、電話がかかってくると、他の家にも声が聞こえる仕組みでした。だから聴く気がなくても、大きな声だと、やりとりがある程度聞こえました。いうまでもなく、交換手さんにもやりとりは聞こえます。でもYさんは、「人の秘密を知るというのはヤダだったから、聴くことはなかった」と言います。

 当時、交換手は2人体制で、私が知っているのはYさんと川袋のKさんの2人体制だったころでした。

 今回初めて知ったのですが、2人体制とはいっても、2人の職員さんが1日交代で電話交換の仕事をしていたということです。ですから、同じ交換手が1日中、仕事をしていたということになります。 「それなら、昼飯を食べたり、トイレに行く時間もないじゃないですか」と訊くと、「そんなに苦にならなかったですよ」Yさんは言いました。でも、トイレが近いKさんにとっては大変だったようで、当初、1階にしかなかったトイレは2階にも作ってもらったそうです。

 人間ですから、食べたり飲んだりしていればトイレには必ずいきます。交換台の席に戻って電話に出ると、「おまん、トイレに行っていたがか」と言われたこともあったそうです。交換台にいると、「言葉の優しい人もいれば、きつい人もいた」とか。

 交換手の仕事は電話交換のほかに「お知らせ」の時間に一斉放送する仕事がありました。当時、有線放送は大事な伝達手段の1つでした。交換手さんにとっては、書いたものを読むだけだったそうですが、「気分がのらない原稿のときはべらべらと読んだの」と言って、Yさんは笑いました。

 Yさんとは、有線放送のことだけではなく、「農協の参事さんがクリスマスケーキをリュックに入れ、バイクに乗って帰った」とか「源中学校時代、絵を描いていたら、熊倉先生が〝こうやって描いたらいいよ〟と手直ししてくださった」など興味深いエピソードをいくつも聞きました。

 いまは情報技術は進み、スマホでテレビ電話ができる時代となりました。便利ではありますが、昔の有線放送がなつかしく思い出されるのは何故なのでしょうね。    

  (2024年6月2日)

 

第804回 鐘楼の中から

 忙しくてあまり発信できませんでしたが、市議選の最中に心を揺さぶられた出来事がいくつもありました。今回はそのいくつかを書き留めておきたいと思います。

 4月18日、牧区原でのことです。街頭演説が終わって50㍍ほど車を走らせたときでした。「がんばって」の声がはっきりと聞こえたので、車を降りて人の姿を探しました。でも姿は見えません。「どこにいなるんだろいね」と言いながら、あたりをぐるりと見渡すと、何とそばの鐘楼の中に男女2人の姿を確認できました。

 この鐘楼のある明願寺は、全国で最初に有線放送を始めたことで有名で、十数年前、私は全国家族新聞交流会のみなさんとともに訪れたことがあります。でもその際、鐘楼には入りませんでした。「上がらしてもらっていいですか」と2階におられた2人にお願いすると、「どうぞ」と言われました。2人の方は初対面でしたが、私がこのお寺のことについてエッセイに書いたこともご存じでした。そしてこの人たちは「激励の鐘だ」と言ってゴーンとやってくださったのです。感激でした。

 2つ目。選挙戦では、人の姿が見えないものの、どこかで聴いていてくださる方があるかも知れない、そう思って演説することが何回かありました。その思い出です。

 投票日の前々日の夕方、宣伝カーは柿崎区の黒岩地内を走っていました。黄砂の影響だったのでしょう、その日は夕日の色が白く、お月様のような感じになっていました。夕日の周りは黄金色です。こんな夕日になることもあるのかと思うほど美しいものでした。

 お店だった橋本屋さんのところから南黒岩へと上がる途中で、車を降りて、マイクを握りました。ここなら、北黒岩に住む人たちにも聞こえるかもしれない、そう思ったのです。ただ、これまでの経験から、演説すると必ずこだますることがわかっていたので、「みなさん、橋爪法一です。いよいよ、明後日が、投票日です」といった風に短く区切って、演説しました。

 薄暗くなっていましたので、演説中に有権者の姿は確認できませんでした。でも、なぜか感じたんです。ピピッときたんです。声は遠くの集落に間違いなく届いている。何人かの人たちに私の思い、訴えが伝わっている、と。

 吉川区川谷での演説でも同じような体験をしました。演説した場所は2年前の3月に大規模な地滑りが発生した県道です。下川谷側から上川谷に接近した場合、宣伝カーはこの地滑り現場までしか行けません。約300㍍離れた上川谷の家々に向かって、ボリュームを上げ、その場所から地滑り現場の早期復旧への決意などをのべました。上川谷には現在、2世帯3人が住んでいます。その3人の顔を思い浮かべながら訴えました。ここでも聴いている人のリアクションはありませんでしたが、伝わったなと思いました。

 最後は市議選最終日でのことです。大島区の一番南側にある菖蒲の田中屋さんの近くの作業所で何かをしている5、6人の人たちと出会いました。握手をしようとそばまで行くと、そのなかに背の高い男性に抱っこされている生後1か月の赤ちゃんがいました。とても小さく、ほっぺがかわいい。さわりたくなりました。いったいどこの赤ちゃんだろうかと思いながら、菖蒲西へ行ったとき、Kさんに「赤ちゃんはどこの子ね」と尋ねたところ、何と近くの念宗寺の若夫婦の子どもさんだったのです。

 山間部の奥まった集落に赤ちゃんがいる。それは希望です。車の中から念宗寺の方を見たら、鯉のぼりがひらひらと揺れています。今年初めて見た鯉のぼり、とても素敵に見えました。

    (2024年5月26日)

 

第803回 コウノトリの郷に

 5月6日の14時40分でした。巣の中にいたコウノトリのメスが飛び立った後、巣に残ったオスの様子がいつもと違ってきたのは……。

 観察を始めて5時間半が経っていました。オスは肩にグッと力を入れ、とってきたエサを体内から吐き出そうとしていました。私は、酒を飲みすぎた人間がトイレの便器に向かって吐く姿を連想しました。その姿はあまりにも苦しそうで、大丈夫かなと心配になるほどでした。

 近くの木の上からは小鳥たちの鳴き声が聞こえてきました。田んぼを耕すトラクターの音も聞こえます。そして数秒後、コウノトリのオスは、とうとう、嘴(くちばし)を広げ何かを吐き出しました。小さな魚かカエルのどちらかだと思います。

 吐き出した瞬間、「ヨシ、ヤッター」と思いました。というのは、ヒナが誕生していることが明らかになったからです。その日の前日、私は、兵庫県豊岡市のコウノトリの郷公園の専門家の方から「ヒナがかえっても、巣の中は上からでないと見えないが、親鳥がエサを吐き出すところを確認できれば、生まれたヒナにエサをくれる行動に入ったと判断していいですよ」とアドバイスしてもらっていました。

 嘴からエサを吐き出す様子は動画で撮影しました。ヒナの誕生は間違いないと思いましたが、やはり専門家に最終的な判断をしてもらいたいと思ったからです。すぐに家に戻り、コウノトリの郷公園の担当者に動画を送信すると、「間違いありません。おめでとうございます」と言われました。

 事前にいただいていた情報では、この上越市がコウノトリのヒナが誕生した最北の地となります。県レベルでみると、新潟県はトキとコウノトリの双方のヒナが誕生した全国で唯一の県となりました。こうして5月6日は記念すべき日になりました。

 私がコウノトリと初めて出合ったのは、5年前の8月17日の夕方でした。友人のHさんから、「ツルらしきものが飛来してきている」と言われ、大急ぎでカメラを持って出かけたことをよく覚えています。

 場所は吉川区赤沢の田んぼです。そこには見たことのない、大きな鳥がいました。体長は一㍍を超え、羽の後ろの方は黒く、白と黒の組み合わせが素敵でした。正直言って、コウノトリかもと思ったものの、それまで飛来したという話は聞いたことがなかったし、コウノトリだと断定する自信がありませんでした。翌日の朝に書いたブログでも「多分、コウノトリかと思います」と書くのが精いっぱいでした。

 そのコウノトリは数日にわたって、赤沢、下中条などにいました。その間に、私は兵庫県豊岡市のコウノトリ担当者と連絡をとりました。その結果、鳥は間違いなくコウノトリであり、足環の色の組み合わせから前年の4月19日生まれのオスであることが判明しました。

 コウノトリはいつのまにかいなくなりましたが、その鳥は上越市吉川区を忘れてはいませんでした。翌年の8月13日に再びやってきたのです。見かけた場所は下中条でした。コウノトリは地図を持ち歩いているわけではないのに、ちゃんと1年前に来た場所を覚えていてくれました。

 コウノトリと初めて出合ってからまもなく5年になります。いまや上越市全体がコウノトリの飛来する場所になりつつあります。吉川区だけでなく、大潟区、柿崎区、頸城区など市内各地で出合っています。

 コウノトリは幸せを運ぶ鳥と言われていますが、肝心なのは安全なエサを確保できるかどうかです。環境保全型農業が重要です。今回のヒナの誕生を機に農業のありかたを見直し、コウノトリがいっぱい、幸せいっぱいのコウノトリの郷をつくりたい。 

  (2024年5月19日)

 
 

第802回 鯉の産卵

 車を下りたら、近くでバシャバシャという音がしました。何事かと思って、すぐそばの池を見たら、鯉が暴れているじゃありませんか。

 4月の最後の日、朝7時頃のことです。「しんぶん赤旗」の配達を終え、活動レポートをFさん宅へ届けようと、吉川区にある小苗代池のそばに車を止めた時でした。池の道路側の一角にある浅瀬で「事件」が起きていたのです。

 浅瀬にいたのは体長が50㌢くらいの鯉です。5、6匹はいたと思います。普段は池の中ですいすいと泳いでいるのですが、この時は鯉たちが競い合って浅瀬を猛スピードで移動し、からみ合い、水しぶきをあげていました。見たところ、水があろうがなかろうが、関係なしといった感じでした。浅瀬にあったショウブの茎はなぎ倒されていました。このような鯉の激しい動きは初めて見ました。

 Fさんに、「鯉のすさまじい動きを見ました」と伝えると、「鯉の産卵です」と言われました。  Fさんによると、産卵行動では1匹のメスの鯉の上に何匹ものオスが乗っかかろうと激しく争い、水しぶきを上げるとか。私が見た「事件」はまさにその光景だったのです。浅瀬のショウブの芽が出る少し前にもこうした動きがあったとのことでした。

 私にとっては人生で初めて見た鯉の産卵でしたが、Fさんなど産卵場所の近くに住む人たちにとっては昔から繰り返し見てきた光景です。産卵は毎年4月頃から始まって7月頃までに2、3回行われるとのことでした。

 小苗代池には今回見た浅瀬だけでなく、昔はそこから20㍍ほど離れた東側のへこんだ場所の木の下にも鯉が集まっていたといいます。Fさんは中学生の頃、雪の重みで曲がり、池の水面近くに伸びている木の枝の上から鯉をヤスで仕留めた思い出があるそうです。Fさんの一番下の妹さんは5月1日生まれだとのことですが、妹さんが生まれた時、近所のおばあさんに、「お母さんに鯉を食べさせると、おっぱいがいっぱい出るよ」と言われ、鯉をヤスで捕まえたとのことでした。

 今回、私が偶然出合った鯉の産卵は4月30日、Fさんが中学生の時、出合った産卵は5月1日。わずか1日違いです。

 Fさんからは、「最高のタイミングで鯉の産卵と出合いましたね」と言われました。鯉の産卵は水深の浅い場所で、早朝、いっときの時間に行われるそうです。訪問の時間次第では出合えなかったのです。 「最高のタイミング」と言われ、思い出したのは、3年前に同じ小苗代池で見た川鵜による魚の「鵜呑み」の様子です。

 3月の土曜日の正午頃、黒い鳥が30㌢ほどの大きな魚をくちばしにはさんでいました。魚は鯉だったように思います。デジカメのズームを伸ばして見たのは、魚を取り逃がさないように、くちばしで必死になって押さえている鳥の姿と、鳥のくちばしから逃げようと盛んに体を揺さぶり動かしている魚の姿でした。最後は、黒い鳥は大きな魚を丸ごとくちばしから喉へと呑み込みました。あの時もびっくりでした。

 小苗代池には数日後、鯉の産卵後の様子を見に出かけました。産卵時に痛めつけられ、なぎ倒されたショウブの茎は立ち直ってきていました。ショウブの群生地から池の中を見たら、大小さまざまな木の枝などが沈んでいました。

 産卵前の風景が戻りつつあり、一見、何事もなかったように見えましたが、池の中の木の枝の周辺には薄黄色いものが付いています。ひょっとすると、鯉の卵かも知れません。これから先、どういう展開になるのか楽しみになってきました。

  (2024年5月12日)

 

第801回 たんぽぽの花

 たんぽぽの花が好きです。ずっと前から好きです。いまはどこでも咲いていますが、咲き始めの頃の花に特に惹かれます。

 4月上旬、活動レポートなどの宣伝活動で忙しい日々が続いていました。

 ある晴れた日のことでした。車を運転していましたので、スピードを出していればおそらく気づかなかったと思います。わが家の近くの農村集落排水処理場の土手に黄色いものがぽつりぽつりと見えたので、車を止めました。「たんぽぽの花が咲いたのかな」と思っていましたが、間違いなく、たんぽぽの花でした。今年もまた咲き始めたのです。素敵なすじ状の雲が浮かぶ青い空をバックに何枚か写真を撮りました。

 大好きなたんぽぽと出合ったことで、この日はうれしいことがいくつも続き、気分よく行動できました。

 まずはお寺の掲示板です。処理場からそう遠くないところにある善長寺の掲示板が新しくなっていました。掲示板は月がかわるごとに新しいものと入れ替えられるのですが、まさに「春が来た」ことの喜びがそのまま表現されていました。

 四月の風はやさしい
 イヌフグリに笑いかけ
 タンポポやスミレに
 ウィンクする
 ツクシの頭をなでながら
 また来るよと
 去っていく

 この掲示板の見どころはもうひとつあります。折り紙と切り絵です。今月は切り絵でしょうか。たんぽぽとツクシが掲示板の左隅に貼られていました。

 続いて、懐かしい出会いです。ずっと会いたいと思っていた人と何人も出会うことができました。

 ある家のわき道を歩いているときでした。家の中から音楽が聞こえてきました。春の天気の良い日に、家の中から音楽が流れてくる。いいなあと思いながらその家の玄関で声をかけると、すぐに曲は止まりました。1年ぶりに会ったその家の人に、「外でずっと聞いていました」と伝えました。その後、そこの家の人と、亡き弟のことや音楽やイラストなどお互いの趣味のことで話が弾みました。この方は、私の悲しみをよくわかってくださっていて、弟の葬儀の時には参列したかったとまで言ってくださいました。それだけで胸がいっぱいになりました。時間があるときならば、もう30分くらい話をしたかったです。

 わが家の次男のことを良く知っている人とも会いました。この人とは地元の特別養護老人ホーム、「ほほ笑よしかわの里」の祭りで会って以来の再会です。子どもさんたちと一緒で、とても楽しそうでした。次男が帰省したら、「子どもたちに硬式テニスの指導をしてほしいと思っている」と言われました。次男が硬式テニスをしていたとは知りませんでした。

 私のSNSでの発信や活動レポートをよく読んでいてくださり、「今度、コーヒーを一緒に飲みましょう」と約束していた方とも会いました。話をしていて、ここ数年の間に母親やイトコなど身近な人を何人も亡くされ、私と同じような体験をされたことを知って驚きました。

 たんぽぽを見つけ、うれしいことが続いた後、久しぶりに門倉さとし作曲の「たんぽぽ」をユーチューブで繰り返し聴きました。 ♪ ゆきのしたの ふるさとのよる つめたいかぜとつちのなかで  で始まる曲です。私はこの歌のなかにある「どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう」というところが好きです。ここだけはしっかり覚えていて、曲がここまで来ると、つい声を出してしまいます。

  (2024年4月28日)

 

 
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