春よ来い(34)
 

第827回 リンドウの花

 山間部にあるわが家の墓に母の遺骨を納めてから1か月余が経ちました。家の座敷にあった白い骨箱がなくなったいま、母に会うためには墓場に行かねばなりません。

 この間、私は3回、わが家の墓参りをしてきました。いずれも源地区に用事があった時のついでに立ち寄りました。1回目の時は納骨時の花を片付けました。2回目は母への報告です。

 このうち2回目は10月下旬の金曜日です。母がかわいがっていたわが家のネコが死んだことを伝えました。納骨の時に動かした石を再び動かすと、母の骨がよく見えます。そこに向かって、「ばちゃ、おまんがかわいがっていた〝よう〟も死んじゃったよ」と声をかけました。母が生きていれば、「まあ、かわいそうだない」と言って切ながったことと思います。

 あれっと思ったのは母への報告後です。納骨時、花入れに活けた花は1回目の墓参りで片づけていたはずなのに、墓の前の左側の花入れに紫の花が入っていたのです。そばに行くと、花の一部は枯れているものの、間違いなくリンドウの花でした。

 リンドウはわが家の墓場近くの土手にいくつも咲きますが、墓の前に活けられたものは花の数が多く、周辺にあるものとは違うと思いました。それでも、「ひょっとすれば、墓の近くにあるリンドウかも知れない。実際にはあったのに、私が気づかないでいただけかも知れない」そう思ってリンドウの茎が折られたものはないか探しました。でも、ありませんでした。

 となれば、誰かがどこかから持参し、わが家の墓に飾ってくれた、それしか考えられません。こういうことをする人間は私が知る限り、大潟区の弟しかいません。でもその弟は一年前に亡くなっていますので、花を持ってくるわけがありません。では、いったい誰が……。

 わが家の墓の場所を知っているのは、蛍場の関係者か、わが家の親戚くらいです。その人たちが何かの用事があって近くにやってきて、ついでにわが家の墓に寄ることは十分考えられます。

 それでも、わざわざ墓に寄ってくれるというのはそれなりの理由、きっかけがあるはずだと思いました。振り返ってみてたどり着いた結論は、私のブログ「ホーセの見てある記」、この「春よ来い」を読んでくれた人ではないかということでした。いずれにも母の納骨のことを書いていました。そうしたなかで、実際、わが家の墓にまで足を運んでくれた人がいたのです。これはもう最高にうれしいことでした。

 11月8日、わが家の墓がある蛍場に帰省しているR子さん宅を訪ねました。帰省しているとの連絡をもらっていたので訪ねたのですが、「ひょっとすればR子さんかも」という思いもありました。今年は豊作だったという大きな甘柿を1個いただいて食べました。蛍場の前の山の木々が大きくなったことなどを話しながら、わが家の墓に飾ってあったリンドウの花についても訊いてみました。しかし、R子さんではありませんでした。

 その日、私はまたわが家の墓へ行きました。これで母の納骨後3回目です。2回目の墓参りの時に見つけたリンドウの花はすでに枯れていました。でも何ということでしょう、墓から1㍍も離れていない場所に、リンドウが一輪、新たに咲いていたのです。周りのリンドウはすでに枯れかかっているのに、このリンドウだけは夕陽に照らされて美しく輝いていました。

 リンドウがこの時期になっても咲いていてくれたのは自然の出来事とはいえ、あまりにもうれしい出来事でした。私は夕陽に照らされた花を見ながら、リンドウを活けてくれた人のことをまた思いました。  

   (2024年11月17日)

 

第826回 愛猫逝く

 いつかはやってくると思っていても、自分の家で飼っていた動物が亡くなると切ないですね。10月22日の夕方、わが家のネコ(愛称は「よう」)が静かに息を引き取りました。

 わが家の「よう」は20年前、昨年の2月に死んだ「はる」(わが家で飼っていたメス猫の愛称)とともに長女が飼い始めた赤と白の毛のオス猫です。体は大きく、歩く姿はじつに堂々としていました。毛並みもよく、なでてやりたくなる美しさがありました。

 猫とは言え、20年間も一緒に暮らしていると、完全にわが家族の一員です。私は市役所などから帰って来た時、猫がどうしているかいつも気になりました。「よう、どこにいるんだ」そう言って階段の下から声をかけたときに、「にゃーん」と言って2階の廊下の手すりのところで私に向かって鳴いてくれる。それだけで、ほっとするんですから、やはり家族ですね。

 人間が心配するのと同じように猫も人間の家族を心配してくれます。2年前に母が亡くなったときがそうでした。母の葬儀が終わって数日後のことです。「よう」は戸が開いているときに、座敷に入っていきました。その姿を見た私は、「よう、ばあちゃんに声掛けてやんない」と言いました。わかったかどうかは判断できませんでしたが、間違いなく座敷の床の間の方角に向かって歩いていきました。そこには母の遺骨と遺影がありました。

  「よう」は、母であろうと私であろうと、なかなか、なでさせてくれませんでした。それでいながら、「よう」は母がいなくなっても、母の部屋の戸が開いていると入っていきました。長年にわたり、部屋には母がいて、「いこいこしてやるど。来(き)ない」と声をかけてもらったことをしっかり記憶していたのかも知れません。

 忘れられないのは、夕飯時の「よう」の行動です。わが家は居間で夕飯を食べていますが、そこへほぼ毎日、「よう」はやってきました。目的は牛乳です。もっと具体的に言うと、牛乳を温めてカップに入れた時、表面にできる「膜(まく)」がほしいのです。これが特別のお気に入りで、小皿に入れてやると、喜んで食べていました。

 2階から居間に下りてきた時、「よう」はもう1つ行動しました。廊下歩きです。居間から座敷に入り、座敷から廊下に出て、ぐるりと1周するのがほぼ日課になっていました。「よう」が廊下を歩いている様子は居間から見えます。たいがいは1回だけなのですが、2周することもありました。廊下を歩いている「よう」の姿は、人間の赤ちゃんが得意げに歩くところに似ているなと思いました。「がんばれ、がんばれ」と言うと、ずっと歩き続けるかも知れない雰囲気がありました。

 その「よう」も、進む老齢化には勝てませんでした。亡くなる20日くらい前から急激に体力が低下していきました。夕飯時に2階から下りてきても、帰りの階段を自力で上がれなくなりました。廊下歩きも回り切れず、途中でバタンと倒れてしまうようにもなりました。それでいながら「よう」は、私達の家族に認めてもらいたいと思ったのでしょうか、いつもの行動をしようと必死で努力していました。その姿を見ると、いじらしく感じられました。

 振り返ってみると、「よう」は20年、よく頑張って生きたと思います。家族と共に生き、家族のことを心配してくれました。「よう」の誕生日は10月の何日かまではわかりませんが、月末までに20歳になることは確かでした。先月下旬、「よう」に感謝し、誕生日祝いをしました。天国では、また母に、「いこいこしてやるど」と声をかけられていることでしょう。   

   (2024年11月10日)

 

第825回 大きなムカゴ

 携帯電話で高崎市の従姉(いとこ)の声を聞いた時、いままでになく元気がないなと思いました。衆議院選挙も後半に入った頃だったと思います。「これは早めに会って、励ましてこなきゃ」と思いました。

 出かける前に、『コウノトリさん、ありがとね』の歌が入っているDVDとCD、それに大きなムカゴ(イモゴとも呼ぶ)を二個用意しておきました。これらが一番喜んでもらえると思ったからです。そして選挙が終わった翌日の午後、上越妙高駅から新幹線に乗って高崎市に向かいました。

 新幹線に乗り、高崎駅から歩いて従姉の家に着いたのは午後3時半頃でした。

 出迎えてくれたのは従姉の次女・K子さんです。従姉が一人暮らしだと思っていたので、K子さんの姿を見たとき、ホッとしました。居間に入ってから、ソファーに座らせてもらい、すぐに従姉の顔を見ました。だいぶ弱っているのではと心配していたのですが、時々咳をするのが多少気になったものの、顔色は悪くはありませんでした。これならまだまだ大丈夫です。

 従姉がいれてくれたコーヒーをいただきながらまず話になったのは、K子さんの顔立ちです。「よく見ると、目はお父さんにそっくりだね」と言うと、「じつはまったく知らない人から突然、声をかけられたことがあるんです」という言葉が返ってきました。K子さんはお父さんのぱっちりした大きな目をそのまま引き継いでいます。お父さんの目を記憶している人が「子どもさんですか」と声をかけたくなるのも無理はありません。声も仕草も親に似ることがあるとよく言われますが、親そっくりの顔立ちは印象が強いですからね。

 しばらくしてから、K子さんは、サツマイモを使ったスコーン(パン菓子)を出してくれました。従姉が「ちゃちゃっと作ってくれるのよ」といったこのスコーン、1個だけ食べましたが、とても美味しい。見た目もしゃれていて、味は間違いなくサツマイモです。小腹が空いたときのおやつにはぴったりだと思いました。

 このスコーンを見て、スーツの上着のポケットに入れておいたムカゴを思い出しました。ムカゴは私の事務所周辺で毎年たくさん採れる山芋の実です。今年は暑い日が続いたせいか、ほとんど見かけません。「どこかにないかなぁ」と思っていたら、隣の集落のTさん宅の庭にありました。草花にからみついているイモヅルにいくつものムカゴを見つけたのです。そこでTさんから、通常よりも4倍ほど大きい長さ2.5五㌢ほどのムカゴをいただいたのです。

 従姉は子どもの頃、(旧吉川町)尾神にあったわが家で疎開生活をしていました。食糧難の時代、野山で採れる食べられるものは何でも食べていました。ムカゴもその中の1つです。私が大きなムカゴを従姉の手のひらにのせると、びっくりしていました。これほどジャンボなムカゴはめったにありませんからね。それと、ムカゴの表面の小さなぶつぶつ、従姉はそれが人間の顔にも見えたようです。ムカゴをまじまじと見ながら喜んでくれました。そしてこう言ったのです、「今度、ヒナコが来たらあげよう」。ヒナコさんは従姉にとっては孫にあたります。高校生の頃、私と一緒に尾神岳に登り、ヤマボウシの実でジャムを作ってくれたことがあります。好奇心が旺盛です。喜ぶでしょうね。

 従姉はいま88歳。従姉の体調を心配して、近くに住む安塚区高沢出身のパーマ屋さんが上越の銘酒を持参し励ましてくれたとか。従姉は家族だけでなく、近所の人たちにも支えられて頑張っています。従姉は最後に言いました。生きているうちに、もう一度尾神に行きたい、と。その願いは必ず実現させてあげたいと思います。

  (2024年11月3日)

 
 

第824回 続・最後の手紙

 弟の母への手紙は3回前の「春よ来い」で紹介した手紙の後に、もうひとつ書かれていました。

 10日の午前、活動レポートを持って大潟区の弟の家を訪ねた際、弟の連れ合いの加代子さんからお茶を勧められました。「そう言えば、きょうはイサムの命日だったね」と言って家の中に入らせてもらいました。小さな仏壇でお参りした後、お茶をご馳走になった際、加代子さんが、「お兄さん、これ、見たことある」と言って、目の前に差し出したのは封筒です。

 その封筒には、筆で書かれた勢いのある文字が縦書きで並んでいました。便箋代わりに「封筒」を使ったんですね。書いたのは明らかに弟のイサムです。

 「エツ」お母さんへ  

 私たちを産んでくれて ありがとう
 私達を育ててくれて ありがとう
 常に身体と生活のことを心配してくれて ありがとう
 今まで本当に ありがとう

 この文章が書いてある「封筒」の真ん中の下の方には、数字で「2023・5・14」と書いてありましたから、書いたのは間違いなく昨年の母の日です。

 でも、母は一昨年の10月に亡くなっています。これを書いたとしても、どうするつもりだったのでしょうか。そもそも加代子さんから「見たことあるか」と訊かれて、「あるよ」と答えたものの、どこで見たかも思い出せませんでした。

 弟は、書いてそのままにしておくような人間ではありません。それで、私なりに考えてみました。母に伝えるために、わが家の座敷に置いてあった母の遺骨の前で読むか、母の遺箱の中に入れたのではないだろうか。そう思いました。

 私の想像を確かめるために、昨年の母の日前後や母の一周忌前後の私のブログを調べてみました。私がわが家でこの「封筒」の実物を見ていれば、どこかに記録してあるかも知れないと思ったからです。でも、そうした記録はありませんでした。

 ようやくわかったのは弟の命日から12日後の午後でした。加代子さんに電話で、「イサムのばあちゃんへの思いを書いた例の『封筒』って、どこで見つけたの」と訊くと、イサムが亡くなった後、自宅で見つけたと答えました。自宅にあったなら、当時、イサムが使っていたフェイスブックに投稿したかも知れない。投稿を探すと、ありました。昨年の5月14日の投稿です。

 投稿のタイトルは、「お母さん、ありがとう」。投稿には母がコタツのそばで寝そべっている写真と「エツ」お母さんへという「封筒」を1枚の写真におさめてありました。タイトルの下には、「今、気持良いです!」という言葉も書いてあります。この投稿をするために弟は、「封筒」に母への思いを書いたのです。

 私もこの投稿に「超いいね」のボタンを押していました。「どこかで見たことがある」と思ったら、この投稿で「封筒」を一度見ていたのです。改めて「封筒」を読むと、母へのあふれる感謝のメッセージであることが分かりました。いいものを残してくれました。

  弟のこの投稿には吉川区のK子さんから、「素晴らしい母の日プレゼントですね。お母さんきっと喜んでいらっしゃいますよ」というコメントを寄せていただきました。私もそう思います。この「封筒」こそ弟の、母への最後の手紙となりました。      

  (2024年10月26日)

 

第823回 青空市一千回

 青野十文字近くで保倉の青空市をやっている徳治さんから電話があったのは10月に入ってすぐでした。

 電話は、しばらく会っていなかったので元気かどうかの確認だったのですが、その際、8日に青空市は1000回に到達すると聴いたのです。そのとき、「それはめでたい、激励に行かなきゃ」と思いました。

 8日の朝、病院へ行く途中、青空市に寄りました。時間は午前9時少し前だったと思います。最近は無人市になっているので、誰もいないかも知れないと思っていたのですが、農産物などが並んだテーブルのそばにはMさんともう1人、女性の方がおられました。

 「はい、いらっしゃい」と声をかけていただいたので、「きょうが1000回目と聞いたんできました」と言いました。Mさんは、「そうなんだ。知らなかった」と言って笑いましたが、毎回のように市に何かを出している人にとっては単なる通過点なのでしょうね。

 この日の市(いち)には、玉ねぎ、里芋、キュウリ、トマトなど農産物の他、パンやバナナなども並んでいました。このうちキュウリやトマトは畑ではほぼ終わっていますので、とても貴重です。普通に出荷できなくなったものも含めてこうしたものを入手できるのは市ならではのことです。この日、私が買ったものはやはりキュウリとトマトでした。

 Mさんの前には濃い緑色の唐辛子のようなものがありました。そこに私の目が行ったのがわかったのでしょう、Mさんが「これいらない。唐辛子のバカ辛いの……」と言ってきました。いる、いらないの返事をする前に、私から、「これ、何て名前」と訊くと、「わかんない。『あるるん』にも売っているんだけどね」との答えでした。

 Mさんに「もらいます」と言って、改めてこの「唐辛子」を見ると、少しずんぐり型で、しかも表面は本当に濃い緑です。 「いかにも辛そうですね」と言うと、Mさんは、「そうだね。私、これ、ふた切れほど入れて油で炒めるの。辛さは日本のカグラ南蛮くらいかな」と応じ、さらに「これ、好きな人にしかあげらんない。ああ、いかった」と言いました。市では農産物などの売り買いだけでなく、こうしたプレゼントや物々交換も行われているんですね。

 さらにNHKの「ためしてガッテン」のような情報交換もあります。Mさんともう1人の前のテーブルには、おわん型の白い入れ物に入ったクリと白い袋に入ったクリが並んでいました。「クリも皮むきがたいへんでね」と言ったら、お2人から、「1回冷凍してから熱い中に入れるとむきやすくなるらしいよ」「チルド室に入れてやると、ペロンとむけるようになる」と教えてもらいました。二人とも同じことが頭にあったようです。

 この日は昔の思い出や世間話もたくさん聴きました。Mさんが昔、直江津の三八市で花を売っていたという話は初耳でした。バケツ1杯500円で売っていると、お客さんの列ができたそうです。私が三八市へ行き始めた十数年前よりさらに前の話なのでしょう。驚きました。青空市にも出店していた安塚のお寺さんは保倉小学校の教頭だったという話にもびっくりしました。

 久しぶりに会ったMさんがこの日語った言葉の中で印象に残ったのは、「三八市も青空市も人とのつながりができるのが一番うれしい」でした。青空市の中心になっている徳治さんも、「お客さんはいい人ばかり。これからは2000回をめざすよ」と言っておられました。私は11年前の青空市がスタートしたころから付き合いをさせてもらっていますが、これからも応援していきたいと思います。

   (2024年10月20日)

 
 

第822回 納骨

 母の三回忌法要の後に納骨をすることにしたのは、母の命日である10月8日からひと月ほど前でした。正直言って、それまでは早期に納骨をする気持ちになっていませんでした。

 じつは1年ほど前、吉川区内のあるお寺にお邪魔した際、たまたま納骨の話になりました。そのとき、N子さんから意外な言葉を聞いたのです。

 「うちのお父さんは、自分の母親の遺骨は7年も家に置いていたんですよ」

 その言葉を聞いて、とてもうれしくなりました。そうですよね。大切な人の遺骨はできるだけそばにおいてあげたい。その気持ちはお寺さんも同じなんですね。

 以来、母の納骨はしばらく先にしようと決め、骨箱は座敷に置いたままにしていました。

 ところがひと月ほど前、長女が「ばあちゃんの骨箱のとこ、カビが生えている」と言ってきたのです。そばに行ってみると、骨箱の下敷きにカビが生えていました。となると、骨にも生えるのは時間の問題だ、と思いました。長女は骨箱に防湿剤を入れて対応してくれました。でも、「このままじゃ、かわいそうだよ。お墓に入れてあげようよ」とも言ってきたのです。いつかは墓に入れなければならないし、やむを得ないと判断しました。それで三回忌法要でお世話になる専徳寺さんにお願いして法要後、納骨することにしました。

 法要の前日、わが家の墓掃除に行きました。お盆以降、墓参りに行っていませんでしたので、周辺には落ち葉があり、木の枝なども落ちていました。それらは10分ほどで片づけることができました。

 掃除が終わってから、墓の右側にある遺骨を入れる場所の石が動くかどうかを確認することにしました。わが家の墓は地震やそばの木の根の影響で少し斜めになっていたので心配していたのですが、やはり、簡単には動きませんでした。それで、墓の一番上の石を何とか動かし、その下の遺骨を入れる場所の石をやっと引き出しました。

 さて、納骨の本番です。この日は午後から雲が広がり、夕方5時には薄暗くなっていました。愛知県からやって来た弟と一緒に母の骨を墓の中にすべて入れた後、私から「かあちゃん、これからイサムの手紙、読むよ。聴いてくんないや」と呼びかけ、手紙を読み始めました。

 じつは数日前にも家の座敷でこの手紙を読んだのですが、最初の「〝おかあさん、ありがとう〟と15行程連記して青い郵便入れを貰ったのは小学2年の頃」と読んだところで胸から熱いものがグッとこみあげてきて涙が止まりませんでした。墓の前で読んだ時も、イサムの母へのあふれる思いが思い出されて、まともに読めません。ただ、涙は流れても薄暗いなかでしたので、助かりました。なんとか終わりまで読み終わることができました。手紙には父のことも書いてありましたので、母だけでなく、亡き父も喜んでくれたはずです。

 納骨、そしてその後のお斎が終わって自宅に戻ったのは午後8時頃でした。お酒は飲んでいませんでしたので、居間で長座布団の上で横になりました。そして何とはなしに座敷の床の間を見たら、白い布をかぶせた骨箱の台はそのままになっていました。でも、その上にあった母の骨箱はありません。そのさみしさは言葉に表せないものがありました。

 翌朝、8時頃に愛知の弟がわが家の立ち寄り、挨拶した後、帰路に着きました。車に乗り込む際、弟が言いました。「ここで車に乗って帰ろうとすると、かちゃ、いつも泣いちゃってさ……」。母の姿はもう見られませんが、その時、弟の車のそばでまた、母が泣いているような気がしました。

  (2024年10月13日)

 
 

第821回 最後の手紙

 10月8日は母の命日。先日、3回忌法要を前にして1通の手紙を探しました。昨年の10月10日に急死してしまった弟が書いた母宛ての手紙です。

 手紙は母の部屋にある三段ケースの一番上の引き出しの奥にありました。デイサービスで毎年もらっていた誕生日祝いの写真や母のアルバムと一緒になっていました。記憶は薄れていますが、しまったのはたぶん私だと思います。

 手紙は「母に最初で最後の手紙」というタイトルで、原稿用紙に書かれていました。封筒には「令和2年6月18日」とありましたので、その日からじきに私に渡されたものと思います。本文はたいして長くないので、原文のまま紹介します。

 ………

 「おかあさん、ありがとう」と15行程連記して青い郵便入れを貰ったのは小学2年の頃。郵便局主催の母の日に読んだ作文と思う。

 喜んでくれた父母は家入口の柱に打ち付けてくれた。

 その母が96歳で再入院したので、もう一度、最後になろうお礼と思い出を手紙にと誓った。

 あなたは、小さい体で夕方遅くまで田畑の作業をし、疲れ、風呂のフタを重ねた板の上でよくコックリしていましたね。天ぷらやリンゴ入りジャガイモサラダは山ほど作り、腹一杯。茶碗蒸し、押し寿司が手料理の筆頭で何でも上手で旨かったよ。

 生活、子・孫の小遣いにと椎茸の行商や山菜を青空市場への持ち込みと商魂たくましかったね。 「悪いことだけはしんなや」「お世話になった人に感謝を忘れるなや」と私に説教してくれましたね。

 母が病院へ行く朝、顔を見に行くと、「おお、イサムか」「名前、覚えててありがとう」と言うと、当たり前でねかと目を細めながら微笑んだ母でした。

 近く、教えてもらった沢菜取りして届けるよ。「ほんとうにありがとう」。

 ………

 この年の6月9日、母は市内の病院に入院しました。5月に退院したばかりでしたので、そのまま母は帰ってこれないことがあるかも知れないと弟は思ったのかも知れません。

 でも、私はその再入院の際も、「母はまだ大丈夫。また家に戻れる」と思っていました。というのは、入院して4日後の13日、母とスマホを使ってオンラインで対面したときも、顔の表情はいまひとつだったものの、しゃべりはひと言、ふた言ではありませんでした。けっこう長く話ができ、元気な時と同じくらいだったからです。

 実際、母は同じ月の27日に退院しました。退院後、介護施設に3か月ほど入所したこともありましたが、基本的には家にいて、ショートやデイサービスを利用しての生活が1年半以上続きました。それだけ頑張ってくれたのです。

 さて、弟が母宛てに書いた「最後の手紙」ですが、最近になって、母が読んだかどうか心配になりました。というのも、私が毎日書き続けているブログに「母に手紙を渡した」とか「読んだ母は喜んだ」などといったことがまったく書いてなかったからです。新型コロナウイルス感染症のこともあり、病院への出入りは厳しかったころのことです。ひょっとしたら、母に渡さないでそのままになっていたのかも知れない。そう思ったら切なくなりました。

 母へのあふれる思いを伝えようと書いた弟の手紙は、本当に最後の手紙となってしまいました。6日の母の納骨を前にいま、弟の手紙は母の骨箱のそばにあります。弟の手紙は今度、私が読んで母に伝えます。      

  (2024年10月6日)

 

第820回 カボチャが7個

 カボチャがなっただけでもこんなにうれしいものなのか。大潟区の農村部に住む元気なお母さん、K子さんのエビスさんのようなニコニコ顔をみて、そう思いました。

 猛暑がようやく一段落して、はっきりと涼しさを感じるようになった日の午後のことでした。K子さんの家に寄らせてもらったら、まず水ようかんを出してくださいました。ちょうど小腹が空いた時間帯でしたので、遠慮なくいただきました。

 この水ようかんを食べ始めたところでK子さんは、「何という名前のカボチャかは分からないけど美味しいんですよ」と言って今度はカボチャを出してくださいました。小皿に出されたカボチャは3、4切れ。皮は緑色で、中は黄色でした。小さなフォークで削るようにして取り、口に運び入れると言われた通りでした。ほどよい甘さで、とても美味しいものだったのです。

  「どんなカボチャなんでしょう。まだ残っていますか」とK子さんに訊いたら、「ありますよ」と言って台所から持って来てくださいました。そのカボチャは、私も吉川区内で見たことがあるものでした。表面は緑色で浅いミゾも、白い斑点もある。形はラグビーボールそっくりで、けっこう重みのあるカボチャに見えました。

 それからです。K子さんがカボチャのドラマを語ってくださったのは……。

 カボチャの苗は隣の家のM子さんからもらったそうです。M子さんは、その昔、「ミスブルボン」と呼ばれた器量よしの人でした。「着るもの着てていいから昔の姿に一度会いたいもんですね」と言うと、「また、そんなこと言って……。いまだって素敵ですよ」とK子さんは笑いました。

 カボチャは、今年初めてかと思いきや昨年も植えたとのことでした。しかし、昨年は1個もならなかったのです。今年もなかなかならず、駄目かと思ってあきらめかけていたところ、大きな実が1個なり、それから次々と実をつけ、何と合計で7個もなったのでした。いうまでもなく、K子さんの喜びは格別でした。まさにラッキーセブンです。

 カボチャがなった話をK子さんが日頃お世話になっている養法寺の坊守さんにしたところ、坊守さんは今年、坊ちゃんカボチャを40数個もならせたとのこと。一輪車のぼてに入れきれないほどとれたと言われたそうです。その秘訣を訊いたところ、苗を植えてそのままにしないで、親ヅルが60㌢くらいになったら1回切る。そこから脇に芽が出て伸びて、さらに1㍍伸びたら再び切る。そうすると、ツルがあちこちに伸び、花を咲かせ、実をならせるのだとか。カボチャは植えれば手をかけないでも必ず実がなる、極めて簡単な農作物だと思っていたのですが、やはり摘心(てきしん)など育てる技術が必要なんですね。

 カボチャを食べながらのおしゃべりは30分くらい続きました。コウノトリの話から数十年前のK子さんのお連れ合いの初恋の人の話までして、何度笑ったかわかりません。楽しいおしゃべりとなりました。

 K子さん宅から家に戻る前、現在のカボチャの様子を見せていただきました。どうしても見ておきたかったのです。

 家のすぐ北側にビニールのかかっていないパイプハウスがあり、その奥にカボチャのツルが見えました。K子さんが、「ほら、あそこに。ここにも」そう言って指さすところに小さな「ラグビーボール」が三個ほど横たわっていました。いずれの実も底には白い台が置いてありました。

 説明を聴いている途中、ハウスの入り口付近に人の姿を確認しました。家に中におられると思ったK子さんのお連れ合いです。その、やさしく見守る姿を見て、「ああ、素敵な夫婦だなぁ」と思いました。

  (2024年9月29日)

 
 

第819回 つながり


 先日、大島区旭地区へ行ったときの帰り道、儀明トンネル入り口近くのT字路で車のハンドルを右に切りました。ふと、儀明のKさん宅に行きたくなったのです。

 Kさん宅は私の母と同級生のおばあちゃん(故人)が住んでいた家でした。旧旭小学校で一緒に学んだだけでなく、普段から行き来する仲良しだったことから、母にせがまれて何度も車に乗せて訪ねていました。そこでは、母の子ども時代、ワラ布団で一緒に寝て遊んだことなどの思い出を教えてもらっていました。

 母が亡くなる数年前が最後の訪問で、その後はすっかりご無沙汰していました。なぜ急にKさん宅へ行きたくなったのか。私自身もよくわからないのですが、母の三回忌を前に、何か母についての新しい情報を知りたくなったのかも知れません。

 訪ねた時間は午後4時を過ぎ、いくぶん涼しくなっていましたから、畑仕事に出ておられるかと思ったのですが、娘さんのT子さんは幸運にも在宅でした。私の顔を見るなり、「まあ、橋爪さん、お久しぶりですね。どうぞ入ってください」と勧められました。

 T子さんからは「いつも頑張っていらっしゃいますね」と言われましたが、おそらくコウノトリの観察のことを新聞でご覧になっていたのだと思います。

 お茶を飲み始めてからの話題の中心はお互いの母親のことです。T子さんのお母さんは七年前の1月に急に亡くなっていました。その事実は前回の訪問で聴いていたのですが、亡くなった最後の状況は今回の訪問で初めて知りました。正月の2日、最愛の孫さんたちがいた時に誤嚥性肺炎を起こし、救急車で病院に運んでもらったものの間に合わなかったということでした。

 私からは、2年前の9月、母を自宅で看取るために退院させてもらい、お医者さんや看護師さん、介護士さんなどから助けてもらったこと、新型コロナの影響もあったけれど、自宅に戻った日から数日間、母が会いたいと思っていた多くの人たちと会えたことなどを詳しくお話ししました。

 うれしかったのは、この日の訪問でこれまで知らなかったことをいくつも聴いたことです。  一番の情報はKさん宅のおばあちゃんの出身集落についてです。これまで、旭地区の竹平の生まれだと思っていたのですが、そうではなく、足谷の隣の入場(にゅうば)だったのです。入場だと聴いてすぐ、「それじゃ冬になれば、旭の学校には家から通えないすけ、竹平のどこかに泊めてもらいなったがだろね」と訊くと、「たぶん、そうだと思います」という答えが返ってきました。母が竹平の「下」(した。屋号)から吉川区の源地区に嫁いだ人たちと仲良しだったことから考えると、その家は「下」だったのかも知れません。いまJAえちご上越の幹部として活躍している山岸さんも入場出身で、しかもKさん宅のおばあちゃんの実家だということも初めて知りました。

 それだけでも驚き、うれしかったのですが、長年にわたりお世話になった直江津は五智在住だった元教員のKさん(故人)もKさん宅とは親戚でした。さらに私の友人である松之山のTさんともつながっていました。本当に世間は狭いと思いました。

 T子さんは現在70代後半です。私とは母親繋がりで、長年付き合いをさせてもらっていたのですが、今回の訪問のなかで、双方がいろんなルートでつながっていることを確認できました。  延長約2キロの儀明峠トンネルを境に行政区は区分されていても、こんなにつながっているとは……。次回は母の三回忌法要が終わったら訪ねようと思います。

 コウノトリの歌を聴いてもらいました。

  (2024年9月22日)

 
 

第818回 夏の終わりに

 暑い日が続きますね。でも先日、夏の終わりの匂いというものがあるとしたらこんな感じだろう、と思うことがありました。

 久しぶりに近くの代石池(たいしいけ)まで行き、車を降りた途端、ちょっぴり焼けたような匂いがしました。匂いの出どころは、猛暑で枯れ始めたススキです。朝露に濡れていました。

 今年の夏は30度を超える日が続き、日当たりのいい場所の草花は徹底的に痛めつけられました。ここのススキが枯れてきているのもそのせいですし、その近くにあるナツハゼ(別名アタヅキとも)の木の葉も枯れ、落ちていました。ナツハゼは普通ならもうひと月も先になってから実が熟し、食べごろになるのですが、すでに黒くなっているものがいくつもありました。その黒い実を口の中に入れてみると、ゴムのように弾力があり、味はいま一つでした。

 池には周回道路があり、少し歩き始めたところに、ナラの木が道路をふさぐように倒れていました。木の幹の太さは10㌢くらいで、高さは5㍍近くあったと思われます。風で倒れたのか、それとも根元を虫に食われてしまったか、どちらかでしょう。どちらにせよ、何となく、ひょろひょろと伸びたような雰囲気のある木でした。

 その根元の部分に小さな白いものが見えました。それも見たことのない形になっていましたが、間違いなく花です。花は草アジサイのようにも見えましたが、明らかに低木の花で、一部は薄いピンク色になっていました。スマホを持って近づき、何枚か写真を撮りました。その上でインターネットで何の花か調べたところ、ツツジ科のホツツジであることが分かりました。花は明らかに終わりに近く、形は少し崩れていました。わかりにくいわけです。

 ホツツジは尾神岳の展望台のすぐ東側にある雑木のなかで一斉に花を咲かせているところをみたことがあります。小さくて可愛らしい花でした。それと同じ花が平場の池の周りにあるとは……。

 それから、5歩ほど歩いた所で、このホツツジがまとまって花を咲かせている場所を見つけました。ナラの木が倒れた場所とは違い日当たりが悪く開花が遅かったのでしょう、花の形はまだしゃんとしていて、崩れた感じにはなっていませんでした。

 そこから離れ、数㍍歩くと、ナツハゼが小さな緑色の実を生(な)らしていました。葉もしっかりついていました。こちらも日当たりが悪い所です。葉は青々としていて、まったく落ちていませんでした。

 さらに進むと、ヤマウルシの木が何本かあり、その中の1枚の葉が赤くなり始めていました。ヤマウルシの葉は赤飯に使う朴の木の葉の半分ほどの大きさです。何枚もの緑色の葉のなかで、この1枚だけが特別目立っていました。

 この紅葉を撮るためにカメラを向けたら、その奥に白い野の花がありました。キク科のシラヤマギクです。真っ白な菊の花をまばらに咲かせていました。よく見ると、シラヤマギクはここだけではありませんでした。この先にも数本、花を咲かせている場所が見えたのです。

 この日、周回道路を歩いて出合った野の花は、ホツツジ、シラヤマギク、オトコエシ、オヤマボクチ、ハギなどです。すでに終わりに近づいているもの、盛りとなっているもの、これから咲かせる準備に入っているものなど様々でした。

 野の花やセミの鳴き声などが季節の変化を伝えてくれることは、長年の経験の中で頭の中にしっかり入っています。でも野にあるものの匂いで夏の終わりを意識したのは今回が初めてです。車に再び乗り込もうとした時、また枯れたススキの匂いが漂っていました。     

   (2024年9月15日)

 
 

第817回 コウノトリの歌


 コウノトリの観察を続けていて、その記録にプラスして歌があったらいいなと思ったのは6月の下旬でした。

 6月になると、5月6日から次々と生まれた4羽のヒナたちの成長が著しく、その姿を見るだけでうれしくなっていました。その様子をコミュニティバンド・「ピアス」のマコさんに伝え、「歌を作ってみませんか」と7月3日に提案しました。

 マコさんはこの提案を喜んで受け入れてくれました。そして、早速翌日から動き出しました。この時期、私は毎日、朝の5時半頃から1時間くらいコウノトリの巣などの観察を続けていたのですが、それに付き合ってもらいました。何よりもコウノトリたちの実際の姿を見るなかで歌のイメージを膨らませてほしかったからです。

 当日はけっこう強い風があり、ヒナたちの羽を揺さぶっていました。1羽は寝そべっていましたが、3羽は立って親鳥を待っていました。そんななか、口ばしでカタカタという音を出すコウノトリのカッタリングも聞こえてきました。

 コウノトリの観察場所は巣から250㍍ほど離れたところにあります。ここで3か月間観察を続けているなかで、誕生して2週間ほどのヒナが親鳥の手伝いをして巣の修繕をしている姿やカエルやドジョウなどのエサを運んできた親鳥がカッタリングをして巣の上のヒナたちに合図を送っている様子などいろんな場面を見てきました。

 それらを語りながら、この日は、マコさんに聴いてもらいたい音がありました。1つはお寺の鐘の音です。長峰の光円寺や柿崎区内のお寺の鐘の音が時々聞こえてくるのです。この日も風に乗ってお寺の鐘の音が聞こえてきました。もう1つは、ウグイスの鳴き声です。観察場所の近くでは毎日のようにウグイスがやってきて、美しい声を聞かせてくれていたのです。幸い、この日の朝はどちらもばっちり聞こえました。マコさんは、「こんな風に聞こえるんですね」といった表情で聴き入っていました。

 それから1週間ほどの間に私とマコさんによる歌作りはどんどん進みました。マコさんが歌詞の原案を出し、私が、「コウノトリさん、おらったりよく来てくんたね。また来てくんないや」など方言入り歌詞を示しました。また、バックの演奏ではカッタリングの音に似た木琴を使ってほしいという注文もさせてもらいました。

 こうして「コウノトリさん、ありがとね」の歌が最初の巣立ちの前々日、7月11日には誕生しました。作詞は私とマコさんの共同作業、作曲はマコさんです。「おはよう 起きたかね まんま 食ったかね」で始まる曲では、はるばる上越の地にやってきてくれたコウノトリへの感謝の気持ちを前面に出しました。そして、巣立ちを前にジャンプを繰り返す様子や空を初めて飛んで見た尾神岳や米山の姿、きれいな夕日などが入り、最後は、「また来てくんないね」で締めました。編曲を担当してくださった山崎伸さんからはカラオケ版も用意していただきました。ピアスのメンバーの皆さんのおかげで、ふるさと自慢ができる素敵な曲を作っていただきました。

 コウノトリの歌は私の「小さな作品展」で初めて披露してもらいました。歌の動画をユーチューブにアップしたところ、多くの人から、「ほっこりして涙ぐみます。本当に幸せいっぱいの歌ですね」「時々聴いて口ずさみ温かいひと時を過ごしています」などの感想が次々と寄せられました。

 いまコウノトリは、親鳥だけが吉川などで飛び回り、子どもたちは遠く飛んで行ったようです。そして歌はいま全国へ飛び始めました。この上越もコウノトリとこの歌で大きな話題になるかも知れません。まさに「コウノトリさん、ありがとね」です。  

  (2024年9月8日)

 

第816回 サプライズ(2)

 まさか2年連続でサプライズがあるとは思いませんでした。毎年8月の最終土曜日に行われる川谷運動会でのことです。

 今年の運動会は午後3時からとはいえ、30度を超える猛暑でした。会場となった旧川谷校体育館には地元住民を中心に30数人が集まり、輪投げ、ビン釣り競争などの競技を繰り広げ、楽しみました。

 競技が終了して懇親会になり、まもなくのことでした。体育館の床と同じ高さの小さな窓からは時折、涼しい風が入ってきていました。やはり夕方だな、いい風が吹く。そう思っていたところで、芳和さんが豊子さん、幸彦さんを伴ってケーキを運んでくるのが目に入りました。ケーキの上に立てられたロウソクの灯を消さないようにゆっくり、慎重に運んでいる様子がよくわかりました。

 ケーキは正面舞台前に設置された長いテーブルの上に運ばれました。ケーキの上のロウソクは十数本。赤、黄、緑などのロウソクの火は消えることなく無事でした。

 さて、何が始まるのかと思ったら、何と何と、入籍したばかりの宇野さんとパートナー2人の結婚を祝うケーキカットと花のプレゼントだったのです。

 2人は舞台前に並び、「セーノ」の掛け声に応じてローソクの火を消すと、会場からは、「オオオー」という声が上がりました。続いて、「ケーキ、入刀!」というアナウンスが入り、2人は包丁を持ちましたが、少し練習をしてから上から下の方へとゆっくり切りました。会場は一気に盛り上がり、「ハイ、写真どうぞ」「おめでとう」「いかった、いかった」などの声でいっぱいになりました。山形放送のテレビカメラ、星山さん、石谷のタカヤマさんなどのカメラが一斉に動きました。

 このとき、小学生と思われる男の子が2人の前に出てきて、盛んに拍手をしていました。この姿が何とも言えない素敵な雰囲気を作りだしていました。

 そこへ、もう1人登場したのです。いつの間にか会場にやってきていた懐メロギタリスト・中村真二さんです。新郎新婦の右隣にすっと入ると、ギターを弾きながら、「赤い絆に思いを載せて……」と歌いはじめたのです。ケーキカットが終わった直後の絶妙なタイミングでした。

 「乾杯、今君の人生の 大きなおおきな舞台に立ち遥か長い道のりを歩き始めた……」。みんながじっと聴き入り、中村さんの歌が会場にいた人たちの心にしみていくのが見えるようでした。中村さんも最高の気分だったのでしょう、歌っているときの表情もじつにさわやかでした。最後の「君に幸あーれー」まで歌ったところで、大きな拍手が起きました。

  『乾杯』の歌が終わったところで、宇野さんにマイクが渡され、「とても素敵なサプライズをありがとうございました。2人で頑張って新しい生活を営んでいきます。温かく見守ってください」と挨拶しました。

 新婦が深々と挨拶を下げた後、石川さんと新郎新婦の間で行われた、「キスはしてもらえますか」「いえ」「じゃ、キスは無しで行きましょう」というやりとりも聞こえてきました。

 続いて花のプレゼント、記念撮影も行われました。体育館の中央部分に参加者が並びました。もちろん新婚の宇野さんたちが中心です。新郎がケーキ、新婦は花束を持ち、赤とピンクでの紙で作られたハートが紅白の細いヒモにぶら下げられ2人の周りに飾られました。準備オーケーです。誰かさんが「お幸せにー」と言って笑顔を求めました。いい記念写真になったはずです。

 今回も運動会はサプライズで大きく盛り上がりました。2年もサプライズが続くと来年は何があるか気になります。     

  (2024年9月1日)

 
 

第815回 A4の紙

 今年は昨年秋に亡くなった弟の初盆でした。昨年は母、今年は弟と2年続きの初盆となりましたが、今年のお盆もドラマが相次ぎました。

 まずは弟のところです。お盆入りした13日、大潟区にある弟の家に行くと、弟の子ども夫婦やその子どもたちが集まっていました。小さな子どもたちはみんな遊び盛り、所狭しと動き回るなか、私は仏壇の前に行き、手を合わせました。

 その後、居間でお茶をご馳走になりました。そのときです。弟の末娘がうれしいことを伝えてくれたのは。「おじちゃん、お父さんの夢見たよ。お父さんね、玄関から入ってきたの。〝A4の紙、ないかね〟って……。台所ではお父さんの塗料の匂いもしたよ」と教えてくれました。末娘が語る言葉には現実味がありました。

 たぶん、弟はいつもの白い軽トラックに乗って帰って来たのでしょう。助手席には仕事道具やメモが置かれ、着ているズボンには塗料が付いていたに相違ありません。

 それにしても、「A4の紙、ないかね」はどういう意味でしょうか。天国に行っても好きな絵を描いていて、紙が足らなくなったのでしょうか。どうあれ、弟が生きていれば、ありそうな出来事です。弟の連れ合いがわが家の仏壇のお参りに来た際、私は「イサムの仏壇のとこに持って行ってくんない」と言ってA4の紙を手渡しました。私の所にはA4の紙がたくさんあったからです。

 これで、次回、誰かの夢に出た時には、弟は得意とするホオズキの絵を持参し、「描いたよ。観てくんない」と言うかも知れません。

 続いて墓参りをめぐる話です。13日は弟の家に行くまでに2か所で墓参りをしてきました。1か所はいうまでもなくわが家の墓です。吉川区尾神にあります。

 お盆前に高崎市在住の88歳の従姉(いとこ)から「おばさんにお花をあげて」と言われていたこともあり、テレビ電話で墓参りを実況中継しました。その際、周りの風景だけでなく、元のわが家の屋敷跡なども従姉に見てもらったら、祖父や叔母などとの戦争時の疎開生活を思い出したらしく、大喜びでした。

 もう1か所は連れ合いの実家の墓です。すでに義父母が亡くなり墓に入っています。この日は、わが家だけでなく実家も忙しいことだし、そっと墓参りをして帰るつもりでした。だから連れ合いの実家には、何時に行くという連絡もしませんでした。

 ところが、午後4時に墓場のそばの市道に車を止めたら、前方から見たことのある人たちが歩いてくるじゃありませんか。義姉とその子ども夫婦たちでした。さらに見慣れた車も到着しました。こちらは義兄たちの乗った車でした。お盆の初日ということもありますが、連れ合いのキョウダイ3人が約束もしていないのに、まったく同じ時間に墓場で合流することになるとは……。偶然とはいえ、びっくりでした。

 連れ合いの実家の墓のそばには、百日紅の木があります。今年は花の付きがイマイチでしたが、横に伸びた枝は健在でしっかりしていました。墓の前に行く際、ちょっと頭を下げないとこの枝に頭をぶつけてしまいます。これは「墓の前で頭を下げさせる」義父の作戦でした。

 墓の前では、百日紅の花を見ながら、墓の今後の管理のことや義父のこの作戦のことが今回も話題となりました。

 夢でもいいから亡くなった大事な人と再会したい。みんな、そう思っていますが、お盆では亡くなった人が夢に出て来なくても思い出話の中で必ず登場します。今年のお盆も亡くなった人の顔を思いだし、絆を確認する大事な機会となりました。 

  (2024年8月25日)

 

第814回 折り紙

 7月の下旬、次男の連れ合いの実家で、孫のリョウ君と会いました。前回会ったのは、母が病院から退院し、家族や親族と最後の別れをしたころですから、1年10ヶ月ぶりということになります。

 今年、コウノトリのヒナ誕生から巣立ちまでわずか2か月ちょっとという状況を見てきました。孫の場合もコウノトリほどではないものの、成長のスピードの速さに驚きました。2年近くも会わないでいると、成長ぶりには目を見張るものがあります。

 孫のリョウ君は現在、名古屋市に住み、小学校3年生です。会った途端、「大きくなったもんだ」と感心しました。何よりも背丈です。前回会った時よりもぐんと伸びて、1㍍30㌢は軽く超えていそうです。

 いったいどれくらい大きくなったのだろうか。そう思ったのは、私だけではありませんでした。妻がすぐにリョウ君のそばに行き、背比べを始めました。リョウ君と向き合い、ニコニコしながら、右手を自分の頭から滑らせてリョウ君の頭まで持っていき、その差を確認していました。

 居間に入ると、テーブルの一角には紙コップが10個、ピラミッド型に積み上げられていました。何だろうと思って見入っていると、その近くに、割り箸を2組使って縛ってあるものがありました。次男の連れ合いのお母さんであるHさんだったと思いますが、その時点で、遊び道具であることを教えてくださいました。何のことはない、割り箸は輪ゴムを飛ばす道具で、紙コップは射的の的だったのです。

 そうとわかると、じっとしていられないのが私の性分です。2つの輪ゴムを割りばしに取り付け、ビューンとやりました。すると、紙コップのピラミッドの一番高いところにパシッとあたって紙コップが倒れ、「おお」と言う声が上がりました。われながら立派なものです。(ここで拍手)

 あとでわかったことですが、リョウ君は遊び道具を自分で作ることに興味を持ち始めていました。前回会った時は、何を使って遊んでいたかよく覚えていませんが、市販されている乗り物やブロックなどだったように思います。この2年近くの間に遊びの道具は買うだけでなく、自分でも作るようになりました。遊びの点でも大きく成長していたのです。

  リョウ君が最近、はまっているのは折り紙です。折り紙といえば、紙飛行機とかツルが人気ですが、飛行機ひとつとっても丁寧に作ってあって、遠くまできれいに飛ぶように作ってありました。

 びっくりしたのは花です。テーブルの上にリョウ君が出してきた折り紙の花は、見て楽しむというレベルを超えていて、上から中心部を押すと花が開くようになっていました。動きがあるのです。

 それだけではありません。駒回しも自作でした。白と紫色、オレンジ色、青色の4種の紙を使って作られた駒は、平らなところで上の青色の部分を指で回すと、ぐるぐる回るようにできていました。私が「どん」と言うと、リョウ君が回す駒は勢いよく回転し続けました。あまりにもうまく回転するので、「うまい、うまい、うまい」とほめました。

 このほか、折り紙で作ったヘビは、ニョロニョロと動くヘビの雰囲気を出せるようにしてありました。ヘビの胴体はいくつかの小さな箱をつなげていました。なるほどよく考えたものです。

 久しぶりに孫に会うと、成長した姿にびっくりすることが1つや2つはあるのですが、今回の折り紙の上達ぶりには「大したものだ」と思いました。リョウ君は数日後、私の作品展に来て、コウノトリの写真をじっと見ていました。次回会う時にはコウノトリの折り紙ができているかも……。 

  (2024年8月11日)

 

第813回 閉店

 さみしいもんですね。馴染みのお店がなくなるというのは……。

 先週の木曜日、札幌ラーメンどさん娘安塚店へ行くと、駐車場にはたくさんの車が並んでいました。「これは、そうとう混んでいるな」と思いながら入ると、お客さんはテーブル席に2組、奥の部屋にも1組おられました。全員女性です。しかもどこかで一度は会っている感じの人たちでした。

 カウンター席に座ろうとすると、奥の部屋にいた直電(なおでん)の母ちゃんが「こっちに来ない」と盛んに手を振っています。私はいったん車に戻って、活動レポートを持ち、テーブル席の人たちに頭を下げながら奥の部屋に入りました。

 奥の部屋に入ったら、みんな知っている人ばかりです。テーブルの上にはビールやサイダーらしきものが並んでいました。K子さんなど、いつものメンバーで「おしゃべり会」をやっていたんですね。でも、いつもと雰囲気が少し違いました。

 メンバーで一番のしゃべり上手は直電の母ちゃんです。ほめるのは上手だし、単刀直入に人を批判しても嫌な感じが残りません。私が座ったらいきなり、「どさん娘、今月で終わりだと」と声をかけてこられました。「聞いてます。さびしくなるね。ここがなくなったら、どこへ行ったらいいがだろね」と私は応じました。

 直電の母ちゃんが、「そりゃ、おらだって同じだわね。ここがなきゃ困るこて。みんなでわいわいやって笑う、その場所がねくなる」と言われたので、私も、「おれはもう十年以上、付き合いさせてもらって世話になった」と言いました。すると、実際の歳よりも若く見える母ちゃんが、「私なんか、四十数年の付き合いだわね」と続けました。「ほしゃ、おまん、歳は50以上かね」「あははは……」。こんな感じで話が続き、広がりました。

 話が一区切りしたところで、私から「今月で終わりなら送別会やらんきゃ」と言うと、「これがそれだこてね」とまた直電の母ちゃんが言いました。長年の付き合いだし、みんなで感謝の気持ちを伝える場がほしいなと思っていたのですが、マスターのお連れ合いの体調が良くないとも聞いていましたので、それ以上は、私も言いませんでした。集まっていた皆さんもこれがどさん娘での最後だといった気持だったようです。思う存分語り合っていました。

 私が座って20分くらい経ったころだったでしょうか、マスターが餃子を3皿運んできました。その姿を見てK子さんなどが「たいへんだね。こんなに大勢いて、何か手伝うかね」そう言いながら、テーブル席へ行って片付けなどをはじめました。餃子は私にも少し分けていただきました。続いて、自宅から持ち込んだキュウリ漬けやカライモの粕漬けも……。みんな、美味しくいただきました。

 私はここ数年、安塚に出かけた時の昼食はこのお店で野菜炒め定食を食べていました。私より先に来られたテーブル席のお客さんたちへのラーメン作りが終わるとじきに、マスターが野菜炒め定食を持って来てくださいました。まだ、何も注文していなかったのですが、長年の付き合いで私が何を欲しいかをマスターは承知でした。

 この日は、店から出る前、マスターに、お店を閉める月末までにもう1回来ますよ、と言いました。そのもう1回は30日になりました。お店に着くと、入口には、「長い間ありがとうございました。本日より店を閉じさせていただきます」との張り紙がすでに出されていました。どさん娘ラーメン安塚店はついに44年の歴史に幕を下ろしました。

 さみしいもんですね。馴染みのお店がなくなるというのは……。

  (2024年8月4日)

 

第812回 ユスラウメ

 もう2ヶ月くらい前のことです。柿崎区の海岸部に住むKさんが、ゆったりとした口調で「うちにある木、何の木だか見てもらえませんか」と電話をくださったのは……。

 電話の様子からは急ぎの依頼だとは思えませんでしたし、Kさん宅のそばの道路は毎週のように通る道でしたので、すぐには出かけずにいました。ところが、その後、数回、Kさん宅近くの道を通ったにもかかわらず、「あ、さーさ。また、通り越しちゃった」と寄らずじまいでした。

 そうこうしているうちに時はあっという間に流れていきます。これではいけないと思い、6月も下旬になって、こちらからKさんに電話をかけ、確認を依頼された木を見に出かけました。

 案内していただいた木は、大通りからすぐそばのところにありました。木の高さは1㍍50㌢ほどです。小さな葉がたくさんついていて、そこに隠れるようにして直径1㌢ほどの小さな実がついていました。実は熟して赤くなっているものがほとんどでしたが、まだ緑色のものもありました。

 それらのうち1個だけ、もがせてもらい、口に入れてみました。味は悪くはありません。そうですね、昔、「さだんきょ」と呼んでいたスモモの味に似た感じでした。数十年前なら、子どもたちが競い合ってもいだことと思います。

 私にとって、この木も実も初めて出合ったものでした。でも、「スモモの仲間で小さな実」を手掛かりにインターネットで調べたところ、じきに名前が分かりました。バラ科の「ユスラウメ」。漢字で「梅桃」あるいは「山桜桃」と書く落葉低木だったのです。4月には桜のような形の白色または淡紅色の花を咲かせていたはずです。

 Kさんに、「ユスラウメという名前でした」と伝えると、ようやく疑問が解けたといった感じで、とても喜んでくださいました。私もホッとしました。

 それにして、この木のことをもっと知りたいと電話をかけて来られたKさん、どんな事情があるのかと気になりました。Kさんに事情を訊いて、「やはり、そうだったのか」と思いました。5年ほど前に病気で亡くなられたお連れ合いとの思い出の木だったのです。

 その思い出とは数年前、長野県は戸隠へそばを食べに向かったときのことです、目的地に行く途中、1㍍ほどの高さの木に咲いていたきれいな花が2人の目に入りました。それがこのウスラウメだったのです。

 花が咲いていたとのことですから、おそらく4月だったのでしょうね。あまりにもきれいだったことから、Kさんは30㌢ほどの「苗木」を入手し、自宅の庭の一角に植えました。ところが、その後、木が生長して2㍍ほどになったものの、そばのアジサイの方が存在感があったせいか、すっかり忘れていたというのです。

 気づいたのは今年になってからです。木が一段と大きくなり、白い花を咲かせていたのです。私が木の様子を見に行ったときにはすでに花の時期は終わって、小さな実が熟し始めていました。Kさんは、木の名前がわかってから、小さな実の付いた小枝を仏壇にあげ、お連れ合いに、「おれとおまんの形見だよ」と言って声をかけたとのことでした。

 お連れ合いは吉川区の出身で、近くのKさんの所に嫁がれていました。まだ70代の若さで亡くなったといいます。生きておられれば、今年がちょうど80歳だとか。長年、直江津の大きな会社で働き、家のことはお連れ合いに任せて頑張ってきたKさん、お連れ合いとの思い出の1つが蘇ってうれしかったのでしょう。八四歳の顔はやさしさいっぱいでした。

  (2024年7月28日)

 

第811回 最後の巣立ち

 16日の午後、上越市富岡のパティオにいるときでした。コウノトリの巣の近くで田んぼを耕作しているTさんから携帯電話がありました。

 電話に出たら、Tさんはいきなり、「巣の中、いま、からっぽになってるよ」と言いました。

 正直言って、「しまった」と思いました。じつは前日の夕方、4羽のヒナのうちまだ巣立っていない1羽が巣の上で盛んにジャンプを繰り返しているところを見ていました。16日の朝もすでに巣立った1羽が最後の1羽に寄り添い、盛んにジャンプを促していました。これまでの経験から言って、そう遅くない時期に巣立つ可能性が高いと思っていたのです。

 ところが、16日の午後になったら、今月下旬に実施する「小さな作品展」の準備で動き回っていて、最後のヒナの巣立ちのことが頭からすっかり離れてしまっていました。

 Tさんには、「すぐに行きます」と返事をし、「いま、何時かね」と訊きました。というのも、現地に行くまでの所要時間は40分弱でしたので、私が撮影場所に到着するまでに鳥が巣に戻っていなければ、「巣立ち」として認定できると思ったからです。車を走らせながら、「おれが着くまでは巣に戻らないように」と祈りました。

 富岡からは約35分でわが家に到着。カメラを用意して、すぐ車に乗り込み、いつもの撮影場所をめざしました。

 撮影の現場に着くと同時に、巣を見ました。肉眼で見るかぎり、巣の上にはコウノトリの姿はありません。カメラのズームを伸ばしても姿はなし。これで巣から30分以上離れることという巣立ちの要件はクリアしたことになります。「よし、やった」そう思いながら、総合事務所に最後の1羽の巣立ちの様子を報告しました。

 吉川の営巣場所から13日に巣立ったヒナたちは、巣立った後、近くの田んぼに下りていました。今回もそうなるかも知れないと思って、田んぼの近くに住むTさんに電話を入れると、「おらったりの田んぼに、いま3羽いるよ。隣の町内会との境にも1羽いるみたいだ」という情報が入りました。

 そこでいったん、いつもの撮影場所を離れ、Tさんが見たという田んぼの見える場所まで移動しました。

 車を移動している最中、巣の近くの田んぼのなかに、2ないし3羽のコウノトリの姿を確認できました。車を止めてから、三脚を使い、望遠ズームを使って見たら、1羽は母親、他はすでに巣立っている幼鳥でした。ただ、この時、最後に飛び立ったヒナの姿は見られませんでした。

 しばらく田んぼの中の幼鳥たちの動きを見ていると、農道に上がり、歩いています。その姿は多少ぎこちなさはあるものの、わずか3日前に巣立ったばかりとは思えないほど堂々とした歩きっぷりです。

 5月の上旬に誕生したヒナたちは4羽。このうち2羽は13日に、1羽は翌14日に巣立っていました。残るは1羽。その段階で私には気になることがありました。最初に巣立った2羽のヒナたちが巣に戻ってきたとき、身動き一つせず、巣にべったりと寝ているのがいました。いかにも具合が悪そう。それが最後のヒナだったのです。

 2日後、そのヒナは巣の上で1分間に10回以上もジャンプを繰り返すほどになっていました。それでも、私は何かなければいいがと心の中で思っていました。

 それだけに、最後のヒナが巣立ったことを知ったとき、私は心の底からうれしくなりました。そして、この日の夜、私は久々にビールをひと缶飲み、巣立ちを静かに祝いました。   

  (2024年7月21日)

 
 

第810回 生きていた鯉

 ずっと気になっていたんです。留守家になってから、Hさん宅の脇の「たね」(小さな池)にいた鯉たちはどうしているかと……。

 7月上旬のある日の午後、Hさん宅に着いた私は、玄関前に車を止めて、近くの「たね」に行きました。「たね」には4㍍ほどの高さから水が細く落ちていました。その中心部から波が広がっています。気になっていた鯉たちですが、何処かの陰にかくれていたのか見当たりませんでした。

 そこで、久しぶりに帰省していたR子さんに声をかけると、「鯉はいますよ」と言われました。それならばと、2人で再び「たね」へ。いつの間に出てきたのでしょうね、「たね」のそばまで行くと、体長が70㌢ほどの大きな鯉が2匹いて、そのうちの1匹がバシャッと跳ねました。様子を見ていたR子さんは私に向かって、「喜んでいるんですよ」と言いました。確かに、私も喜んでいるように見えました。

 この「たね」には1994年(平成6)から鯉がいたそうですから、もう30年になるんですね、鯉たちが棲(す)んでいたのは……。数年前まで、鯉は6匹いたそうですが、サギなどにやられてしまい、現在は2匹だけになったそうです。

 日常的に「たね」の鯉の世話をする人は1年数か月前まではいました。でも、1人で暮らしていた人も亡くなり、現在はいません。ただ、時々、私と同年代の子どもさんたちがやってきて、家の管理をしています。そのときはエサを与えていることと思います。でも冬から春にかけてはずっと留守でした。だから、鯉たちはどうなったか心配していたのです。

 今回の訪問でR子さんから説明してもらい、納得しました。「たね」の山際には、奥が深い「むろ」のようなものがあって、どうやら、鯉たちはそこで冬を過ごしていたようです。それにしてもよく冬を越し、これまで生きてきたと思います。R子さんによると、大きな鯉はネズミだって食べてしまうとか。食えるものは何でもとって食べていたのかも知れません。

 この日、「たね」の様子を見に行ったとき、紫色のクガイソウが5、6本、土手に咲いているのが見えました。私は浦川原区の有島や吉川区の石谷あたりでしか見たことがありませんので、数少ない珍しい野の花なのかも知れません。

 私が「クガイソウだね」と言うと、R子さんは、「紫色だけでなく、白いものもありますよ」と言うので、案内してもらいました。ひょっとすれば、初めて見るクガイソウかもと心は踊りました。でも、「白いクガイソウかも」と言われた植物があった杉林にはクガイソウはなく、オカトラノオがありました。R子さんが見たのはオカトラノオだったのです。昔はここでオカトラノオを見た記憶がありませんので、植物の生態も変わったんでしょうね。

 その後、Hさんの家の近くにある梅の木のところにも2人で一緒に行きました。R子さんが「花梅」と言っていたその木には1個だけ梅が生っていました。実は熟し、黄色くなっていました。「食べていいですよ」と言われたのでいただきましたが、味はけっこう美味しいものでした。木の幹の周りには梅の実が見当たりませんでしたから、今年はこの1個だけだったのかも……。貴重な一個をいただきました。  梅の実を食べてからもう1回、「たね」へ行きました。「たね」に落ちてくる水を運ぶ管を支えているのは2本の細い丸太です。そのうちの1本の丸太の頭には、15年前に亡くなったH男さんがかぶせたというアルミ製のキャップがそのまま使われていました。2匹の鯉が生きる「たね」にはいろいろな歴史が刻まれているんですね。  

   (2024年7月14日)

 

第809回 じじ、見て

 先日、7月下旬に開催する「橋爪法一の小さな作品展」に亡き弟・勇の作品も展示してもらいたいと思い、大潟区四ツ屋浜の家に寄りました。

 お茶をご馳走になりながら、6月23日の上越市消防点検後の懇親会の席で、Sさんという方が私に「残念でしたね」と慰めの言葉をかけてくださったことを弟の連れ合いの加代子さんに伝えました。

 すると、加代子さんは、「葬儀にはSさんが夫婦で参列してくださったんです。勇さんが高田の店に勤めていた頃、奥さんもどういうかたちだか忘れたけど勤めていなったんだわ。Sさんはとても良くしてくださる方で、いまも自動車のことで世話になっているの」と教えてくれました。Sさんと話をしたとき、弟とは濃密なお付き合いをしてくださった方かもと思ったのですが、それほどお世話になっていた方だったとは……。びっくりしました。

 その後、今年の大潟かっぱ祭りの話になりました。今年のかっぱ祭り、私は時間がなく、初日のお昼頃の音楽ライブだけ見てきたのですが、吉川区尾神とかかわりのある人がフェイスブックにあげたかっぱ祭りのスナップ写真を見て、「まさか」と思いました。弟そっくりの男性が写っていたからです。

 その写真はかっぱ祭りの2日目に行われた民謡流しの様子を撮ったものです。写っていたのは土底浜の人たちです。写真の手前には、日頃お世話になっているM子さんがいて、その奥の方に青い法被(はっぴ)を着た男性がいました。いくぶん弟よりも若い感じがしましたが、横から見た時の目鼻の形といい、あごの出具合といい、勇と瓜二つでした。

 写真を見た後、加代子さんにはその画像を送り、「そっくりの人っているもんだね」と話したのですが、加代子さんは、弟の生前の写真と思い込んでいたようです。でも写真は明らかに今年のかっぱ祭りで撮影したものでした。亡くなってから9ヶ月経った今でも、元気でいてほしかったと思っていますが、その思いがそっくりさんを見つけることにつながったのでしょうね。どうあれ、今年のかっぱ祭りに弟が参加しているように感じられて、とてもうれしく思いました。

 亡き弟はかっぱ祭りが大好きで、民謡流しの際には女装したりして盛り上げていました。加代子さんは、「近所の人たちが、〝勇さんがいなんねと祭りを盛り上げるのが大変なんだわ〟と言ってくんなってね」と、うれしそうに教えてくれました。

 この言葉が出てふと思い出したのでしょうか、加代子さんが、「四ツ屋浜の民謡流しが来たとき、弦之介がじじの写真をもって見せたの。弦之介はとってもやさしい子」と言いました。

 弦之介くんは、まだ5歳の小さな男の子です。この子が亡くなったおじいちゃんに民謡流しの様子を見せたい、そう思って、縦20㌢、横10㌢ほどの弟の写真を民謡流しの隊列に向けて掲げたというのです。

 この様子は弟の家族が動画に撮り、スマートフォンに保存してありました。四ツ屋浜の通りを西側からオレンジの服を着た人たちが踊りながら進んでくる。曲は大潟かっぱ音頭でしょうか、「はー、さとのみずうみ 朝日に映えてヨー……」の唄が聞こえてきます。その踊りの隊列に向かって、弦之介くんが左手に持った弟・勇の写真をさっと掲げ、「じじ、見て」と言った表情でじっと動かない。これにはぐっときました。

 おーい、勇。弦之介くんの気持ち、わかったかー。民謡流し、見えたかー。もし見えたなら、夜中でいいすけ、弦之介くんの頭、そっとなでてくれや。頼むど。  

    (2024年7月7日)

 

第808回 お茶飲み場

 数人が集まって気軽にお茶飲みできるたまり場、昔は農機具屋さん、鉄工所さん、酒屋さんなどけっこうありましたね。

 先日、田んぼの干ばつ被害調査の途中、数少なくなったお茶飲み場のひとつ、吉川区福平の農産物直売所に寄ってきました。

 誰がおられるかなと、車のスピードを落とし直売所の中を見たら、E子さん、F子さん、Hさんなどの姿が見えました。

 時間は午前10時半頃です。直売所に野菜などを持ち込み、売り物を並べ終わった段階でお茶飲みを始め、まだ続いていたようです。車を止めて中に入ろうとすると、Hさんに、「あらー、いま、先生帰んなったばっかだよ。おまんに頼みたいことあるそってなったよ」と言われました。

 Hさんが言う先生とは私の中学時代の恩師、實英先生のことです。たぶん、がっかりしている様子が私の顔に出ていたのでしょうね、Hさんはすぐに先生に携帯電話をかけてくださって、先生には再びお茶飲みの場に戻っていただきました。

 私がお茶飲みに参加して最初に言われた言葉は、「選挙も終わったし、来(き)なんねがかね、と噂してたがだ」でした。今年度直売所がスタートして初めての訪問でした。どういう言葉であれ、私のことを気にかけてくださるのはうれしいことです。

  「いやー、いろいろと騒ぎが続いてね。なかなか来れねかったがどね」と言ったのですが、実は私自身も、ずっと気になっていたのです。

 私の言い訳が終わってからは、いつものように楽しく、面白い話になりました。

 一番新鮮に聴こえてきたのは、料理の話です。K子さんだったと思いますが、「ひとかたけだけ、残らんように作るのは大変なんだわ」と言いました。久々に聴く「ひとかたけ」です。誰かが「一人分作るのって大変だよね」と言ってからは、一人分の料理のことが話題の中心になりました。

 實英先生が「大根一本もらっても、どうやって使い切るか悩むこて」と切り出すと、「昔は煮物に入れてあまっても、次の日のお昼に食べたもんだ」「夏場になりゃ、ニオイかいだぐれにして食べた」「いまの若いしょは衛生的なんだよね。冷蔵庫の中を見て、じいちゃん、これダメだよって言うんだよ」「おら、作るがやだ」などと賑やかに続きました。

 話を聴いていて、私が思い出したのは、2か月ほど前の夕方、原之町で見かけた素敵な光景です。昔、下宿屋もやったことのある80代のK子さんが、道をはさんで反対側に住んでいる同級生のU子さんに、「おまん、夕飯作ったかね。作ってねかったらおら家で一緒に食べねかね」と声をかけていたのです。K子さんもU子さんもすでにお連れ合いを亡くし、一人暮らしです。一人分の料理をどう作るかも大切ですが、こんなふうに助け合って食事するっていいなと思いました。直売所でのお茶飲みでは、この2人のことも紹介しました。

 この日のお茶飲みでは、それぞれの結婚をめぐる話でみんなが大笑いしました。

 誰かが私に、「板山のY子さん、どうしてなるかね」と訊いたので、「生きていなるよ」と冗談まじりに答えました。そうしたら、「よくあそこに行きなったよね」「父ちゃんが土方に来て、連んてったがだ」「旦那に惹かんたがだこてね」「他人(ひと)のこと言ったって、みんなそいがだ」「おらだけだ。騙(だま)さんてきたがは」と話が終わらなくなりました。

 直売所では約1時間、過ごさせてもらいました。誰でも歳を重ねます。連れ合いを亡くしてひとりになるときも来ます。そんななかで切ないこと、悲しいことを忘れ楽しむ。それができるお茶飲みの場所は大事にしたいものです。    

 (2024年6月30日)

 
 

第807回 見守り隊

 5月25日の朝、5時46分でした。布団の中でスマホを操作していたところ、突然、携帯電話が鳴りました。

 電話をかけてきたのは、コウノトリの巣のそばの田んぼを耕作しているTさんです。Tさんは私の友人で、気持のやさしい人です。電話は「親鳥が頻繁に下りたり、上がったりしているがど。エサが足りないんだろうか、それとも何かあったのかね」という問い合わせでした。

 身支度をしてから、大急ぎでいつもの撮影場所まで行きました。この場所は、コウノトリの巣から250㍍ほど離れたところにあります。

 三脚を立て、カメラを回し始めました。オスの親鳥が巣の上に立っていて、ヒナたちが巣の中から時々頭を出しています。Tさんからの電話で、「ひょっとしたら、ヒナの一部が巣から落ちたかも知れない」と思っていたこともあって、4羽のヒナたちが無事であるかどうか一番気になりました。「あっ、1羽いる」「2羽目、3番目もいた」。ところがもう1羽の姿がなかなか見えません。しばらくして最後の白い頭がかすかに動きました。「おお、いたいた。大丈夫だ。みんないる」。4羽とも顔を上げてからは、動きがとても活発になりました。良かった、良かった。ヒナたちはみんな無事でした。

 すぐにTさんのところへ電話を入れました。「大丈夫だったよ。4羽、ちゃんといたよ」と言うと、Tさんも安心したようです、「そりゃ、いかった」と言いました。

 私がこの日、撮影場所にいたのは約40分です。Tさんからの電話をきっかけに知ったことですが、コウノトリの親子はけっこう早くから動いているんですね。

 Tさんが電話で言った、巣から離れ、巣に戻る親鳥の頻繁な動きは、巣のメンテナンス(手直し)の材料運びでした。枯草や木の枝などを運んでいたのです。

 この日、注目したのはヒナも親の巣づくりを手伝っていることです。1羽のヒナが杉の葉が残った枝をくちばしに挟み、動かしている姿にはびっくりしました。ヒナが誕生してからまだ20日足らずです。それなのに親と協力して巣の手直しをしている。大したものだと思いました。

 Tさんからの電話を契機にわかったのは、コウノトリの動きを静かに見守っている人がいることです。それも1人や2人ではありません。近くの田んぼの耕作者、毎日のように望遠鏡で観察を続けているお寺さん、自宅の二階から望遠鏡やカメラのズームを使って見ている人など大勢いることがわかりました。誰かが呼びかけたわけではないのですが、自然にコウノトリの「見守り隊」ができていたのです。強い風が吹いた日、冷たい雨が降った日、30度を超える夏日となった時などは、「見守り隊」のみなさんが「コウノトリは大丈夫か」と心配しています。

 私も「見守り隊」の一員です。最近は忙しく、朝の5時半過ぎから30分くらいしか見守りができませんが、この時間帯がまたいいのです。親鳥がエサ探しから戻って、ヒナたちに与えるときはとても賑やかです。ウグイスなどの小鳥たちも毎日やってきて、さえずります。そして、お寺の鐘の音や防災無線から時報も聞こえてくる。このゆったりした時間の流れは素敵です。

 コウノトリのヒナたちは6月17日、兵庫県豊岡市の「コウノトリの郷公園」からやって来た専門家のみなさんによって足環をつけてもらいました。もう20日ほどすればヒナたちは巣立ちを迎えます。高い電柱の巣の上から最初に飛び立つには勇気がいるはずです。飛ぼうとして、戻る。また挑戦する。その繰り返しの中で飛び立った時には拍手を送りたい。    

  (2024年6月23日)

 

第806回 思い出の花

 1つの花が懐かしい人とつながっていて、花を見るとその人を思い出す、ということがありませんか。

 先だっての日曜日のことです。吉川区の山間部にある専徳寺に用があって行ったところ、前住職のお連れ合いの眞知子さんからお茶を飲みませんかと勧められました。お茶会の場には、亡き弟の同級生であるY子さんとお連れ合いの姿がありました。

 偶然、花好きの人が何人も集まったことから、この日はお茶をいただいているときも外に出て庭園を見せていただいた時も花をめぐる楽しい話が続きました。

 眞知子さんから出していただいた細いウドとワラビの漬物をご馳走になりながら最初に話題になったのは、ネコヤナギの花でした。

 コヤナギは大潟区に住んでいた弟の勇やお世話になった1人の大工さんとの思い出につながっています。

 弟は毎年のように、蛍場の川のそばからネコヤナギを採ってきていました。その動きを見て、私は近くの吉川橋の上流右岸ににあるネコヤナギの様子を見に出かけたものです。

 ちょうど新しいエッセイ集の出版が間近だったこともあり、Y子さんに「今回の本の中にもY子さんの名前が入っていますよ」と言いました。本の中には、数年前、急に亡くなった大工さんの所へネコヤナギを持ってお参りに行ったときのことを書いたものが入っていました。「春ですね」という題名です。その文章の最後にY子さんのことをちょっぴり書いていたのです。

 お茶会では、「ネコヤナギに触った時の感じ、いいよね」「懐かしいね」などと言いながら弟などの思い出に浸りました。

 お茶をいただいていた場所からは、外の庭木が見えます。眞知子さんは「あそこの淡いピンク色の花はウンナンナツロウバイというんです。ウンナンは雲南省の雲南です。そのそばにある白い花はサンショバラです。山椒の木のあのサンショです」と説明してくださいました。いずれの花も私が初めて見る花でした。

 お茶会後、みんなで庭に出て、駐車場の近くでツリガネニンジンの茎や葉を見ているときでした。すぐそばで、ドクダミが白い小さな花をきれいに咲かせていました。

 この花を見ると、千葉県習志野市に住んでいた叔父を思い出します。叔父が亡くなる数年前、叔父と共に労災病院に入院していた母の実家の伯父を見舞い、直江津駅前の食堂、「多七」で食事をしました。私の記憶では、叔父との最初で最後の食堂での食事でした。そのとき、伯父は、「次はおれだよ」とボソッと言ったのです。

 叔父の葬儀の時、叔父の家の近くにあるお寺に泊めてもらいました。告別式の朝、散歩をしていて、その年に初めてドクダミの花を見ました。見た瞬間、こんなにもきれいな白い花だったかと驚きました。その印象が強かったので、ドクダミの花を見るたびに、叔父との思い出が浮かびます。

 専徳寺の北側の庭ではクリンソウの花がいくつも咲いていました。眞知子さんがY子さんに分けてあげますよということになって、その作業をされているとき、私はその先の池を見ました。池の中を見ると、緑の葉に囲まれた鮮やかなピンクのスイレンが咲いていました。そのスイレンを見て私は数年前、前住職と一緒にお茶飲みをさせてもらった時のことを思い出しました。

 その際も、「モリアオガエルがいるんですよ」と言われたのですが、緑色のカエルを見つけた後、池の中のスイレンが目に入りました。その美しさに惹かれ、池のそばまで行ったのは言うまでもありません。  そのスイレンがまた咲いている。私は、なぜかうれしくなりました。    

  (2024年6月9日)


 

第805回 有線放送2

 先日、上越市内から有線放送が無くなってしまうという話を聞いて、急にYさんと話をしたくなりました。

 Yさんはいまから50ど前、旧源農協の有線放送の交換手さんだった人です。顔を合わせて話をすることはほとんどなかった人ですが、透き通ったきれいな声は何百回も聴いていましたので、いまでもよく覚えています。

 現在、新潟市に住むYさんに電話をすると、私の父のことはよくご存じでしたが、私のことはうっすらとしか記憶に残っていませんでした。でも、私からの電話を懐かしく受け止めていただきました。

  「尾神というか蛍場にあった橋爪照義の子どもです」と言うと、「よくわかりますよ。乳をしぼっていなったでしょ。お父さんは、いばって何かをするとか、人をけなすことのない穏やかな人でしたね」と言ってくださいました。「けっこう頑固なところもあったんですけどね」と私は言ったのですが、父のことをこんな風に評価してくださるのはうれしいことでした。

 旧源農協時代の有線放送では事務所の交換手が電話をつなぐ仕事をしていました。

 電話をかけるときは、ダイヤルではなく、受話器を外し交換手さんに、「8番ですが、何々の3番にお願いします」などと言います。すると、交換手さんが相手の家の番号を「3番さん、3番さん」と言って呼び出してくださったものです。

 当時の有線放送では、電話といっても1軒ごとにつながるのではなく、数軒のグループ(回線)につながるので、電話がかかってくると、他の家にも声が聞こえる仕組みでした。だから聴く気がなくても、大きな声だと、やりとりがある程度聞こえました。いうまでもなく、交換手さんにもやりとりは聞こえます。でもYさんは、「人の秘密を知るというのはヤダだったから、聴くことはなかった」と言います。

 当時、交換手は2人体制で、私が知っているのはYさんと川袋のKさんの2人体制だったころでした。

 今回初めて知ったのですが、2人体制とはいっても、2人の職員さんが1日交代で電話交換の仕事をしていたということです。ですから、同じ交換手が1日中、仕事をしていたということになります。 「それなら、昼飯を食べたり、トイレに行く時間もないじゃないですか」と訊くと、「そんなに苦にならなかったですよ」Yさんは言いました。でも、トイレが近いKさんにとっては大変だったようで、当初、1階にしかなかったトイレは2階にも作ってもらったそうです。

 人間ですから、食べたり飲んだりしていればトイレには必ずいきます。交換台の席に戻って電話に出ると、「おまん、トイレに行っていたがか」と言われたこともあったそうです。交換台にいると、「言葉の優しい人もいれば、きつい人もいた」とか。

 交換手の仕事は電話交換のほかに「お知らせ」の時間に一斉放送する仕事がありました。当時、有線放送は大事な伝達手段の1つでした。交換手さんにとっては、書いたものを読むだけだったそうですが、「気分がのらない原稿のときはべらべらと読んだの」と言って、Yさんは笑いました。

 Yさんとは、有線放送のことだけではなく、「農協の参事さんがクリスマスケーキをリュックに入れ、バイクに乗って帰った」とか「源中学校時代、絵を描いていたら、熊倉先生が〝こうやって描いたらいいよ〟と手直ししてくださった」など興味深いエピソードをいくつも聞きました。

 いまは情報技術は進み、スマホでテレビ電話ができる時代となりました。便利ではありますが、昔の有線放送がなつかしく思い出されるのは何故なのでしょうね。    

  (2024年6月2日)

 

第804回 鐘楼の中から

 忙しくてあまり発信できませんでしたが、市議選の最中に心を揺さぶられた出来事がいくつもありました。今回はそのいくつかを書き留めておきたいと思います。

 4月18日、牧区原でのことです。街頭演説が終わって50㍍ほど車を走らせたときでした。「がんばって」の声がはっきりと聞こえたので、車を降りて人の姿を探しました。でも姿は見えません。「どこにいなるんだろいね」と言いながら、あたりをぐるりと見渡すと、何とそばの鐘楼の中に男女2人の姿を確認できました。

 この鐘楼のある明願寺は、全国で最初に有線放送を始めたことで有名で、十数年前、私は全国家族新聞交流会のみなさんとともに訪れたことがあります。でもその際、鐘楼には入りませんでした。「上がらしてもらっていいですか」と2階におられた2人にお願いすると、「どうぞ」と言われました。2人の方は初対面でしたが、私がこのお寺のことについてエッセイに書いたこともご存じでした。そしてこの人たちは「激励の鐘だ」と言ってゴーンとやってくださったのです。感激でした。

 2つ目。選挙戦では、人の姿が見えないものの、どこかで聴いていてくださる方があるかも知れない、そう思って演説することが何回かありました。その思い出です。

 投票日の前々日の夕方、宣伝カーは柿崎区の黒岩地内を走っていました。黄砂の影響だったのでしょう、その日は夕日の色が白く、お月様のような感じになっていました。夕日の周りは黄金色です。こんな夕日になることもあるのかと思うほど美しいものでした。

 お店だった橋本屋さんのところから南黒岩へと上がる途中で、車を降りて、マイクを握りました。ここなら、北黒岩に住む人たちにも聞こえるかもしれない、そう思ったのです。ただ、これまでの経験から、演説すると必ずこだますることがわかっていたので、「みなさん、橋爪法一です。いよいよ、明後日が、投票日です」といった風に短く区切って、演説しました。

 薄暗くなっていましたので、演説中に有権者の姿は確認できませんでした。でも、なぜか感じたんです。ピピッときたんです。声は遠くの集落に間違いなく届いている。何人かの人たちに私の思い、訴えが伝わっている、と。

 吉川区川谷での演説でも同じような体験をしました。演説した場所は2年前の3月に大規模な地滑りが発生した県道です。下川谷側から上川谷に接近した場合、宣伝カーはこの地滑り現場までしか行けません。約300㍍離れた上川谷の家々に向かって、ボリュームを上げ、その場所から地滑り現場の早期復旧への決意などをのべました。上川谷には現在、2世帯3人が住んでいます。その3人の顔を思い浮かべながら訴えました。ここでも聴いている人のリアクションはありませんでしたが、伝わったなと思いました。

 最後は市議選最終日でのことです。大島区の一番南側にある菖蒲の田中屋さんの近くの作業所で何かをしている5、6人の人たちと出会いました。握手をしようとそばまで行くと、そのなかに背の高い男性に抱っこされている生後1か月の赤ちゃんがいました。とても小さく、ほっぺがかわいい。さわりたくなりました。いったいどこの赤ちゃんだろうかと思いながら、菖蒲西へ行ったとき、Kさんに「赤ちゃんはどこの子ね」と尋ねたところ、何と近くの念宗寺の若夫婦の子どもさんだったのです。

 山間部の奥まった集落に赤ちゃんがいる。それは希望です。車の中から念宗寺の方を見たら、鯉のぼりがひらひらと揺れています。今年初めて見た鯉のぼり、とても素敵に見えました。

    (2024年5月26日)

 

第803回 コウノトリの郷に

 5月6日の14時40分でした。巣の中にいたコウノトリのメスが飛び立った後、巣に残ったオスの様子がいつもと違ってきたのは……。

 観察を始めて5時間半が経っていました。オスは肩にグッと力を入れ、とってきたエサを体内から吐き出そうとしていました。私は、酒を飲みすぎた人間がトイレの便器に向かって吐く姿を連想しました。その姿はあまりにも苦しそうで、大丈夫かなと心配になるほどでした。

 近くの木の上からは小鳥たちの鳴き声が聞こえてきました。田んぼを耕すトラクターの音も聞こえます。そして数秒後、コウノトリのオスは、とうとう、嘴(くちばし)を広げ何かを吐き出しました。小さな魚かカエルのどちらかだと思います。

 吐き出した瞬間、「ヨシ、ヤッター」と思いました。というのは、ヒナが誕生していることが明らかになったからです。その日の前日、私は、兵庫県豊岡市のコウノトリの郷公園の専門家の方から「ヒナがかえっても、巣の中は上からでないと見えないが、親鳥がエサを吐き出すところを確認できれば、生まれたヒナにエサをくれる行動に入ったと判断していいですよ」とアドバイスしてもらっていました。

 嘴からエサを吐き出す様子は動画で撮影しました。ヒナの誕生は間違いないと思いましたが、やはり専門家に最終的な判断をしてもらいたいと思ったからです。すぐに家に戻り、コウノトリの郷公園の担当者に動画を送信すると、「間違いありません。おめでとうございます」と言われました。

 事前にいただいていた情報では、この上越市がコウノトリのヒナが誕生した最北の地となります。県レベルでみると、新潟県はトキとコウノトリの双方のヒナが誕生した全国で唯一の県となりました。こうして5月6日は記念すべき日になりました。

 私がコウノトリと初めて出合ったのは、5年前の8月17日の夕方でした。友人のHさんから、「ツルらしきものが飛来してきている」と言われ、大急ぎでカメラを持って出かけたことをよく覚えています。

 場所は吉川区赤沢の田んぼです。そこには見たことのない、大きな鳥がいました。体長は一㍍を超え、羽の後ろの方は黒く、白と黒の組み合わせが素敵でした。正直言って、コウノトリかもと思ったものの、それまで飛来したという話は聞いたことがなかったし、コウノトリだと断定する自信がありませんでした。翌日の朝に書いたブログでも「多分、コウノトリかと思います」と書くのが精いっぱいでした。

 そのコウノトリは数日にわたって、赤沢、下中条などにいました。その間に、私は兵庫県豊岡市のコウノトリ担当者と連絡をとりました。その結果、鳥は間違いなくコウノトリであり、足環の色の組み合わせから前年の4月19日生まれのオスであることが判明しました。

 コウノトリはいつのまにかいなくなりましたが、その鳥は上越市吉川区を忘れてはいませんでした。翌年の8月13日に再びやってきたのです。見かけた場所は下中条でした。コウノトリは地図を持ち歩いているわけではないのに、ちゃんと1年前に来た場所を覚えていてくれました。

 コウノトリと初めて出合ってからまもなく5年になります。いまや上越市全体がコウノトリの飛来する場所になりつつあります。吉川区だけでなく、大潟区、柿崎区、頸城区など市内各地で出合っています。

 コウノトリは幸せを運ぶ鳥と言われていますが、肝心なのは安全なエサを確保できるかどうかです。環境保全型農業が重要です。今回のヒナの誕生を機に農業のありかたを見直し、コウノトリがいっぱい、幸せいっぱいのコウノトリの郷をつくりたい。 

  (2024年5月19日)

 
 

第802回 鯉の産卵

 車を下りたら、近くでバシャバシャという音がしました。何事かと思って、すぐそばの池を見たら、鯉が暴れているじゃありませんか。

 4月の最後の日、朝7時頃のことです。「しんぶん赤旗」の配達を終え、活動レポートをFさん宅へ届けようと、吉川区にある小苗代池のそばに車を止めた時でした。池の道路側の一角にある浅瀬で「事件」が起きていたのです。

 浅瀬にいたのは体長が50㌢くらいの鯉です。5、6匹はいたと思います。普段は池の中ですいすいと泳いでいるのですが、この時は鯉たちが競い合って浅瀬を猛スピードで移動し、からみ合い、水しぶきをあげていました。見たところ、水があろうがなかろうが、関係なしといった感じでした。浅瀬にあったショウブの茎はなぎ倒されていました。このような鯉の激しい動きは初めて見ました。

 Fさんに、「鯉のすさまじい動きを見ました」と伝えると、「鯉の産卵です」と言われました。  Fさんによると、産卵行動では1匹のメスの鯉の上に何匹ものオスが乗っかかろうと激しく争い、水しぶきを上げるとか。私が見た「事件」はまさにその光景だったのです。浅瀬のショウブの芽が出る少し前にもこうした動きがあったとのことでした。

 私にとっては人生で初めて見た鯉の産卵でしたが、Fさんなど産卵場所の近くに住む人たちにとっては昔から繰り返し見てきた光景です。産卵は毎年4月頃から始まって7月頃までに2、3回行われるとのことでした。

 小苗代池には今回見た浅瀬だけでなく、昔はそこから20㍍ほど離れた東側のへこんだ場所の木の下にも鯉が集まっていたといいます。Fさんは中学生の頃、雪の重みで曲がり、池の水面近くに伸びている木の枝の上から鯉をヤスで仕留めた思い出があるそうです。Fさんの一番下の妹さんは5月1日生まれだとのことですが、妹さんが生まれた時、近所のおばあさんに、「お母さんに鯉を食べさせると、おっぱいがいっぱい出るよ」と言われ、鯉をヤスで捕まえたとのことでした。

 今回、私が偶然出合った鯉の産卵は4月30日、Fさんが中学生の時、出合った産卵は5月1日。わずか1日違いです。

 Fさんからは、「最高のタイミングで鯉の産卵と出合いましたね」と言われました。鯉の産卵は水深の浅い場所で、早朝、いっときの時間に行われるそうです。訪問の時間次第では出合えなかったのです。 「最高のタイミング」と言われ、思い出したのは、3年前に同じ小苗代池で見た川鵜による魚の「鵜呑み」の様子です。

 3月の土曜日の正午頃、黒い鳥が30㌢ほどの大きな魚をくちばしにはさんでいました。魚は鯉だったように思います。デジカメのズームを伸ばして見たのは、魚を取り逃がさないように、くちばしで必死になって押さえている鳥の姿と、鳥のくちばしから逃げようと盛んに体を揺さぶり動かしている魚の姿でした。最後は、黒い鳥は大きな魚を丸ごとくちばしから喉へと呑み込みました。あの時もびっくりでした。

 小苗代池には数日後、鯉の産卵後の様子を見に出かけました。産卵時に痛めつけられ、なぎ倒されたショウブの茎は立ち直ってきていました。ショウブの群生地から池の中を見たら、大小さまざまな木の枝などが沈んでいました。

 産卵前の風景が戻りつつあり、一見、何事もなかったように見えましたが、池の中の木の枝の周辺には薄黄色いものが付いています。ひょっとすると、鯉の卵かも知れません。これから先、どういう展開になるのか楽しみになってきました。

  (2024年5月12日)

 

第801回 たんぽぽの花

 たんぽぽの花が好きです。ずっと前から好きです。いまはどこでも咲いていますが、咲き始めの頃の花に特に惹かれます。

 4月上旬、活動レポートなどの宣伝活動で忙しい日々が続いていました。

 ある晴れた日のことでした。車を運転していましたので、スピードを出していればおそらく気づかなかったと思います。わが家の近くの農村集落排水処理場の土手に黄色いものがぽつりぽつりと見えたので、車を止めました。「たんぽぽの花が咲いたのかな」と思っていましたが、間違いなく、たんぽぽの花でした。今年もまた咲き始めたのです。素敵なすじ状の雲が浮かぶ青い空をバックに何枚か写真を撮りました。

 大好きなたんぽぽと出合ったことで、この日はうれしいことがいくつも続き、気分よく行動できました。

 まずはお寺の掲示板です。処理場からそう遠くないところにある善長寺の掲示板が新しくなっていました。掲示板は月がかわるごとに新しいものと入れ替えられるのですが、まさに「春が来た」ことの喜びがそのまま表現されていました。

 四月の風はやさしい
 イヌフグリに笑いかけ
 タンポポやスミレに
 ウィンクする
 ツクシの頭をなでながら
 また来るよと
 去っていく

 この掲示板の見どころはもうひとつあります。折り紙と切り絵です。今月は切り絵でしょうか。たんぽぽとツクシが掲示板の左隅に貼られていました。

 続いて、懐かしい出会いです。ずっと会いたいと思っていた人と何人も出会うことができました。

 ある家のわき道を歩いているときでした。家の中から音楽が聞こえてきました。春の天気の良い日に、家の中から音楽が流れてくる。いいなあと思いながらその家の玄関で声をかけると、すぐに曲は止まりました。1年ぶりに会ったその家の人に、「外でずっと聞いていました」と伝えました。その後、そこの家の人と、亡き弟のことや音楽やイラストなどお互いの趣味のことで話が弾みました。この方は、私の悲しみをよくわかってくださっていて、弟の葬儀の時には参列したかったとまで言ってくださいました。それだけで胸がいっぱいになりました。時間があるときならば、もう30分くらい話をしたかったです。

 わが家の次男のことを良く知っている人とも会いました。この人とは地元の特別養護老人ホーム、「ほほ笑よしかわの里」の祭りで会って以来の再会です。子どもさんたちと一緒で、とても楽しそうでした。次男が帰省したら、「子どもたちに硬式テニスの指導をしてほしいと思っている」と言われました。次男が硬式テニスをしていたとは知りませんでした。

 私のSNSでの発信や活動レポートをよく読んでいてくださり、「今度、コーヒーを一緒に飲みましょう」と約束していた方とも会いました。話をしていて、ここ数年の間に母親やイトコなど身近な人を何人も亡くされ、私と同じような体験をされたことを知って驚きました。

 たんぽぽを見つけ、うれしいことが続いた後、久しぶりに門倉さとし作曲の「たんぽぽ」をユーチューブで繰り返し聴きました。 ♪ ゆきのしたの ふるさとのよる つめたいかぜとつちのなかで  で始まる曲です。私はこの歌のなかにある「どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう」というところが好きです。ここだけはしっかり覚えていて、曲がここまで来ると、つい声を出してしまいます。

  (2024年4月28日)

 

 
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