春よ来い(33)
 

第800回 「百歳の誕生日」に

 2024年3月27日の朝のことです。パソコンを立ち上げた瞬間、「そうだ、きょうは母の誕生日だ」と思いました。

 母が生きているときでも、母の誕生日は忘れていることがたびたびだったのに、どうしたことでしょう、この日の朝、母の誕生日であることがすぐに浮かんだのです。

 振り返ってみれば、1年半前に母が亡くなるまでは、「百歳になるまであと3年だ」などとずっと百歳到達を意識してきました。特に90歳を超えてからは、母の誕生日には原之町の小浜屋菓子店にケーキを頼んだり、長年住んできた尾神岳のふもとにあるスカイトピア遊ランドで連れ合いのキョウダイたちと一緒に祝ったりしてきました。だから、その延長線上で母の誕生日を思い出すことはありうる話です。

 8日が母の月命日ですので、この文章を書いているいまは、母が亡くなってちょうど1年6か月ということになります。

 当然のことながら、母が使っていたベッドも電動椅子もとっくに返却してあります。でも1年6か月前と同じように、私はいまも母の部屋で寝起きしています。それが親孝行になると思っているわけではありません。2階の私の部屋に戻り、母と一緒に寝起きする前のように、夜中に階段を上り下りする自信がないのです。

 母のベッドや電動椅子はなくなりましたが、わが家の居間には以前と変わらず、デイサービスでもらった母の誕生祝の写真とスタッフの皆さんのメッセージが飾ってあります。これはずっと以前からのことですので、わが家の日常に溶け込んでいます。

 母が亡くなって大きく変わったのは母の部屋にも居間にも母の動く姿がないことです。それにはだいぶ慣れてきましたが、最近、どういうわけか、母の晩年の出来事がふっと思い出されるのです。例えば、私がトイレに入っているときに、介護スタッフのSさんだったか、Tさんだったかよく覚えていないのですが、突然、戸を開けて、「あら、ごめんなさい」と言ったときのこと、看護師のYさんやKさんが母の部屋に入ってきて、「おはようございます」「こんにちは」などと母に声をかけてくださったときの様子などが浮かぶのです。

 3月27日の朝はゆっくりできたので、部屋の中のモノを見てみました。介護スタッフのみなさんの手書きの母の介護記録をさがしていて、押し入れの中を久しぶりに開けて見たら、母の愛用の餅つき機と押し寿司で使った木製の箱がありました。これは懐かしかったですね。

 このほか、私がこれまで見たことのないアルバムが1冊、目にとまりました。アルバムとはいっても写真が貼ってあったのはわずか1ページだけで、6枚の写真しかありませんでした。そのうちの1枚は平成2年6月に実施された吉川町老人会の旅行写真で、そこにはキンジロウさん、カナメさん、イチロウさんなどと一緒に行った父の姿も写っていました。他の写真はすべてわが家の写真です。このアルバムを見つけたことで父のことも思い出しました。

 そうしたなかで、切なく思い出すのは弟のイサムのことです。近くに住んでいたこともあって、仕事の合間によく母の様子を見に来てくれました。ベッドの母を見て、「ばちゃ、おまん、いい顔してるねかね。これなら大丈夫だ」などと声をかけてくれました。その母親思いの弟が母の1周忌法要の翌日に急死したことはいまも信じることができません。

 母の遺骨は現在もわが家の座敷にあります。その横には弟の遺影も置いてあります。この日は、「ばあちゃん」「イサム」と2人に声をかけました。そして久しぶりに、母の骨が入った小さな袋を胸の中に入れ、ぎゅっと抱きしめました。  

  (2024年4月13日)

 

 

第799回 一本の長い棒

 2月の下旬頃だったでしょうか、朔日峠に近い吉川区内のKさんの家でお茶をご馳走になったのは……。

 この日、私は活動レポートの配布などで動いていました。玄関に入って声をかけると、お連れ合いのYさんが出てきてくださり、「まあ、久しぶりだね。入んなんねぇ、お父さんもいるし」と誘っていただきました。

 じつはYさんは、私の小中学校時代の同級生のお姉さんです。同級生のことなどいろいろと話を聴きたいと思っていましたので、「ほしゃ、ちょっとおじゃましようかな」と入らせていただきました。

 居間に入ると、Yさんは台所から沢庵を出してきて、「何もねえもんで」と言われました。「おれ、漬物が好きなんです」と言って手を伸ばしたのですが、色も味も申し分のないものでした。

 お茶を飲みながら、北側の窓を見ると、隣の家が見え、軒下に干し柿がつるされていました。私が住んでいる地域では、干し柿づくりをする人がけっこういますが、2月の下旬にもなっても、まだつるしている人がいたのです。食べたくなりました。

 食べ物の話が一段落したところで、私の目に入ったのはコタツのそばに置いてあった一本の細い棒です。「何に使いなるがね」と訊いたら、「どう●●棒」だがね、という答えでした。簡単に言うと、コタツに入ったまま、ファンヒーターのスイッチを入れたり、切ったりすることができるようにする道具です。Kさんが考案したのだそうですが、私は立って移動しなくてもいい「らくちん棒」だと思いました。

 棒を手にしたところ、この棒は、手元が直径1㌢ほどの筒になっていて、その中に木製の細長い棒が入れられていました。先っぽの方は黒いセロテープで巻いてありました。先っぽの太さは5㍉くらいです。「長さは1㍍くらいかな」と私が言うと、Yさんが居間の奥の方にその棒をもっていき、モノサシで長さを計ってくださいました。「1㍍10㌢だね」。思っていた以上に長い棒です。

 それにしてもよく作ったものです。70代にもなると、コタツから立ち上がるだけでも一苦労する人が大勢います。立たないで、コタツに入ったままストーブを操作できるようにしたい。Kさんだけでなく、おそらく他の人も一度や二度は考えたことがあるだろうと思います。でも、作るところまではいきません。何が直接のきっかけとなったかまでは訊きませんでしたが、Kさんが、この「らくちん棒」を初めて作ったのは5、6年前だということでした。

 便利なものを作ったものだと思ったのは私だけではありませんでした。Kさん宅のコタツに入った人の何人かは、「いいものを作ったね」とほめていたとのことです。私と同じ気持ちだったんですね。

 世の中には、出来上がった製品を見ると、「なあんだ、こんなに単純なものか」と思うものがあります。その代表格は、Kさんの家でも使っていたファンヒーターダクトです。ヒーターの熱をコタツに引き込む。そのために筒(風道)を用意する。ただそれだけなのに、この筒は大ヒットし、現在も多くの家庭で使われています。

 Kさんは真面目で、目立つことをされない方です。「らくちん棒」を商品化すれば、ヒットすると思いますが、そういうことはされないでしょうね。

 Kさんはいま88歳。寒さが残っていてコタツがあるうちは、世界でただ1つの自作の細長い棒を自分のそばに置き、ごく自然にファンヒーターのスイッチを押したり離したりされているはずです。その姿を思い浮かべていたら、Kさんにとっては、それが一番いいように思えてきました。   

  (2024年4月7日)

 
 

第798回 黄色の踊る花

 早春の 山踏み分けて マンサクの 花くれし夫 若き笑顔で  

 先日、読売新聞の「歌壇」に載った短歌です。私は、短歌や俳句を作ることはせず全くの素人なのですが、読んだとき思わす微笑んでしまいました。

 作者は吉川区の山間部に住んでいた恵美子さん。エッセイや短歌をたくさん発表したことのある私の友人です。特に野の花についてのエッセイや介護短歌がすばらしく、多くの人に感動を与えてきました。

 今回、「歌壇」に登場したマンサクの花は、野にある木の花の中では一番早く咲き、春の到来を告げる花として有名です。市内では、先月下旬から吉川区や浦川原区などの山間部で開花しています。 「歌壇」に載った恵美子さんの歌を読んだ数日後、恵美子さんに直接電話して歌でとりあげたマンサクの花やお連れ合いの様子などを訊(き)きました。

 歌の最後は「若き笑顔で」と結んであるので、かなり昔のことを詠んだものだとは思っていましたが、このマンサクが50年も前に見た花のことだったというのには驚きました。

 恵美子さんは21歳で結婚、その後、2人の子どもを産み、関東地方から吉川町(当時)にやってきました。非農家出身であったことから、ナスやキュウリなど野菜が育つ様子も見たことがなかったし、作ったこともありませんでした。山野に咲く花は見たことのないものがほとんどだったといいます。もちろん、マンサクも……。

 マンサクは早春、黄色の花を咲かせます。その花の形はじつに個性的です。四枚の赤い萼(がく)の内側に細長い黄色の花びらが楽しそうに踊っているのです。私は子どもの頃からマンサクの花を知っていますが、これほどユニークでかわいい花はその後、出合ったことがありません。

 恵美子さんのお連れ合いであるYさんが恵美子さんを連れて山に入り、マンサクの花を見たのは結婚して数年後の3月上旬頃だったそうです。どこの山だったか、よく覚えていないとのことでしたが、お聴きした話を総合すると、東田中地区から源地区につながる標高数十㍍の山のどこかだと思います。

 Yさんが若き妻にマンサクの花を見せたくて目指した場所は、おそらく、Yさんが何度か花を見たことがある場所に違いありません。誰でも同じだと思いますが、毎年見ていても、新しい年には咲いているかどうか心配になります。だから、雪の残る山に登っていき、黄色の踊る花を見つけた時はうれしかったでしょうね。

 恵美子さんによると、Yさんは、「これがマンサクだでや」と花が咲いた枝を折って、恵美子さんに渡したそうです。恵美子さんにとっては初めて見るマンサクの花です。雪の中で踊るこの花を初めて見たときは大喜びでした。

 Yさんは、その後もホオノキの白い大きな花やピンク色のネムノキの花も恵美子さんに教えてくれたそうです。元々、Yさんは野の花が好きだったのでしょうね、採ってきた花は湯飲み茶わんに入れて飾っていたこともあったとか。

 でも、50年も前のことを何で今頃思い出したのか。恵美子さんに訊くと、Yさんがマンサクの花を渡してくれたのはそのときの1回きりだったというのです。だから、強く印象に残ったんですね。

 Yさんはその後、長い病院生活に入り、20年前に60歳で亡くなりました。マンサクの花をくれた若い夫の笑顔を思い出した恵美子さんは、最近、夫と杉起こしをした春のことも思い出し、歌にしました。

 二人して 雪に倒れた 若杉を 起こす向こうに 山桜咲く    

  (2024年3月31日)

 
 

第797回 衝撃の話の後に

 私よりももっと切ない思いをした人がいるっていうことは頭の中ではわかっていました。でも、目の前の人から突然、そういった話を聴いたときは衝撃でした。

 3月中旬のある日の午後4時頃のことです。私は大島区保倉地区のNさん宅の玄関にいました。従兄の嫁さんから、私の最新エッセイ集『春になったら』をNさんに届けるようにと言われて出かけたのです。

 あらかじめ、近くに住むY子さんから電話をしてもらっていたので、玄関で声をかけたら、Nさんはすぐに出てきてくださいました。私とは初対面だったのですが、本を手渡すと、Nさんは、まるで久しぶりに会った友人を迎えるような感じでお茶を勧めてくださいました。私のことは従兄などからよく聞いておられたのだと思います。

 お茶を出してくださってから、すぐに話がはじまりました。Nさんは私のエッセイをよく読んでおられたようで、びっくりするほど私の母のことを覚えておられ、「よく世話をされましたね」とねぎらってくださいました。そのときまでは、Nさんもご両親の介護などで苦労されたに違いないと思いつつ、話を聴いていました。

 しかしNさんは、年をとった親たちの面倒を見るどころか、早々と自分のご両親を亡くされていたのです。「早々と」と書きましたが、お父さんを亡くされたのはNさんが何と2歳のときであり、お母さんは4歳の時だったというのです。これには驚きました。

 Nさんが2歳や4歳という年齢なら、おそらく何が起きたかほとんどわからないはずです。親はまた近いうちに出て来るに違いない、と思っていたことと思います。

 両親を亡くした幼いNさんは、その後、同じ集落の一番高い場所にあった母親の実家にお世話になったとのことでした。

 Nさんは親を亡くしてからの苦労は語られませんでした。幼年期の記憶はなく、学校へ通い始めた頃から記憶されているだけなのかも知れません。Nさんは、「学校は小中高と母親の実家から大平まで通った。山間部に住んでいたすけ、大平へ出ると都会に出る感覚だった」と言われました。尾神岳のふもとに住んでいた私は子どもの頃、「原之町は賑やかな町、その先の柿崎の街中は映画館も学校もある都会」そう思っていましたが、Nさんの感覚も似たようなものだったのでしょう。

 学校時代の思い出を挟んで、「このところ、若い人があちこちで亡くなっている」という話から再び親の話になりました。

 ご両親が亡くなった時の年齢はどちらも28歳だったと聞きました。ご両親が若くして亡くなり、キョウダイもおられないとのことです。Nさんは、「自分はもう親の3倍も生きてきた」と言っておられましたが、ご両親と一緒の時間が短かった分、苦労されていることと思います。

 Nさんのご両親について、信じられないような話を聴いたので、私は、出していただいたお菓子などにはまったく手を出す気持になれませんでした。

 でも、Nさんの表情はその後、パッと明るくなりました。市内各地で頑張る子どもさんや孫さん、ひ孫さんたちの様子を語り始めてからです。なかでもひ孫さんたちの話になった時は最高の笑顔となりました。

 8人のひ孫さんたちが一緒になった写真が居間の長押(なげし)に飾ってあったので、私が立って、「この子どもたちですか」とその写真に近づくと、Nさんも立ち、説明してくださいました。「この一番前の子どもは5月5日に生まれたがだ。それからこの子は……」。その姿は本当に嬉しそうでした。Nさんは現在、80代前半です。人生は悲しいことの後に、いつか必ず嬉しいことがやってくるんですね。

  (2024年3月24日)

 
 

第796回 月命日を前に

 まだ寒いですね。この10日は昨年10月に亡くなった大潟区の弟の月命日です。

 毎年、この時期になると、弟は吉川区の山間部にあるわが家の山に登って雪割草の写真を撮ったり、蛍場を流れる釜平川の川べりにあるネコヤナギを見に出かけたりしていました。

 先だっての日曜日、私は浦川原区での用事を済ませた後、花の写真を撮るため、吉川区東田中地区へ出かけました。その際、吉川の川ばたに咲いているネコヤナギが目に入ったので、これも撮影しました。

 時刻はすでに午後4時半を過ぎていましたので、普通なら、これで家に戻るところですが、急に蛍場(地名・ほたるば)に行ってみたくなりました。弟が緑色の細い枝に咲くネコヤナギを見に出かけていたことをふと思い出したのです。

 東田中地区から蛍場までは車で約10分です。蛍場にあったわが家の入口付近に車を止め、ネコヤナギがある場所をめざしました。市道から「オオヒガシ」(屋号)の屋敷跡に入ると大きな杉が1本横倒しになっていました。そこを過ぎると、50㌢ほどの雪の中を歩かなければなりません。幸いなことに、雪はしただまっていて、長靴もたいして埋まりませんでした。

 釜平川まで下りるのに5分くらいかかったでしょうか。水量は思っていたほど多くはありませんでしたが、川の中には水害で流れ着いたコンクリートの構造物や流木などがいくつもありました。たぶん、ここ数年間にあった大雨の影響でしょう。

 驚いたのは川の水が澄んでいて、とてもきれいだったことです。泥濁りした釜平川はよく見ていましたが、透き通って川底が見えるような釜平川は記憶にありません。今冬は雪が少なく、上流では土砂崩れもなかったのだと思います。

  この日、目指していたネコヤナギはかつて丸木橋がかかっていた場所から20㍍ほど下流にありました。数年前にも行っているのですが、大雨にも負けることなく、そのときと同じ場所にそのままありました。

 そこは、ちょうど川の流れが一段低くなる場所で、どんどん流れ落ちる水でネコヤナギの枝がびんびんと揺さぶられていました。その先には米粒の2倍くらいの小さなネコヤナギの花がついていて、枝と一緒に揺れていました。

 きれいな雪解け水の流れとネコヤナギのかわいい花。野山に咲く花が少しずつ増え、もうすぐ暖かい春になる、そのことを感じることができて気分が高揚しました。

 私は、デジタルカメラとスマホを使ってこの様子を撮影しました。また、花がついたネコヤナギの小さな枝を2本折って、いただいてきました。写真は、なるべく多くの人に見てもらいたいと思ったから。小枝は弟の仏壇に持っていくためです。

 弟が生きていれば、電話をするなり、画像を送るなりして喜びを分かち合うのですが、いまそれは叶いません。それで、蛍場の画像を見て喜ぶ、高崎の従姉にテレビ電話しました。従姉は戦時中、わが家に疎開してきたことがあり、蛍場の山や川を愛しています。釜平川の音を聞き、「ニョウダイラ」(地名)、わが家の跡地、御前様井戸からの水などを見て喜んでくれました。

 翌日、私は大潟区の弟の家を訪ねました。いうまでもなくネコヤナギの報告です。弟の目に入るようにと、仏壇の中の小さな遺影のそばにネコヤナギの枝を置きました。「おい、見てくれ、蛍場のネコヤナギだど」と声をかけて手を合わせました。

 ネコヤナギについては、これまで、何度も弟に先を越され、「兄貴、ネコヤナギ見てみない」と言われてきました。もう先を越されることはありません。これからは毎年、私が弟に見せてあげようと思います。

  (2024年3月10日)

 
 

第795回 サプライズ(2)

 吉川区の山間部、川谷地区のイベントでは素敵なことが必ずあります。23日の冬まつりでもやはりありました。

 サイの神に火がつけられ、煙がまっすぐ上へ上へとのぼって、「こりゃ、今年は作はいいね」という声が聞こえた後でしたから、時間は午後4時10分くらいだったと思います。グランドの出入口となっている場所にとまった黒い軽乗用車のバックドアが開けられ、そこでキーボード(電子ピアノ)の演奏が始まったのです。私は事前に何も聞いていませんでしたから、「えっ、何がはじまるの」と驚きました。

 キーボードを演奏していた人は、後でわかったのですが、石谷にUターンしたヒデキさんでした。演奏曲は美空ひばりが歌ったあの名曲、「川の流れのように」です。

 車の後部で奏(かな)でられた曲は、グランドにいた冬まつり参加者へはもちろんのこと、旧川谷校の坂道のそばにある大きな杉や、「ミナミダケ」(屋号)の家の方までどんどん広がっていきました。ちょうどタイミングよく雪がちらちらと舞い、演奏を盛り立ててくれました。

 積雪50㌢ほどのグランドにいたのは約40人の参加者です。演奏が始まるとじきに歌声も始まりました。「タキ」(屋号)の和子さんは左手の先に歌詞カードを持ち、まるで独唱しているようなスタイルで歌っていました。「マエヤマ」(屋号)のチヨ子さんは三輪さん夫婦の歌詞カードをのぞき込んで歌っています。多くの人が体をゆすり、「ああ川の流れのように……」とやっていました。

 演奏の2曲目は「川谷校校歌」です。いうまでもなく、地元の人たちには馴染みの歌です。私も何度か歌ってきましたが、キーボードの伴奏があるなかで歌うのは初めてでした。

 ヒデキさんは前奏の段階から乗りに乗っていました。オレンジ色の毛糸の帽子をかぶり、黒いアノラックを着たヒデキさんは、時には腰を低くし、右足を少し上げたり下げたりしながらリズムを取り演奏していました。その姿は、まさに雪上ミュージシャンだと思いました。

 前奏が始まって約30秒後、ヒデキさんはグランドにいる人たちの方へ体をひねると、左手をいったん縮めて、大きく伸ばしました。「さあ、歌いましょう」という合図です。

♪里また里の つられなる 頸城平を 目の下に……

 グランドにいた人たちは一斉に歌い始めました。多くの人が歌詞カードを見ながら歌うなかで、「タカヤマ」(屋号)の一志さん、お寺の彰英さんなど何人かは、歌詞をそらんじているのでしょう、何も見ないで歌っていました。

 校歌の最後、「山を範(のり)とし もろ共に こころを高く 世に生きむ」まで歌い終わると、グランドにいる人たちの心はすっかり1つになっていました。そしてキーボードを弾いてくれたヒデキさんを称えたい気持ちが一気に高まりました。

 地域おこし協力隊の宇野さん、元協力隊の石川さん、たましぎ農園の玉実さんのお父さん、吉川総合事務所の平原さんがヒデキさんのそばに行き、そのうちの誰かが「ヒデキ、頑張った」と声をかけました。みんなが感動したのです。そして「ミナミダケ」の豊子さんは、豊子さんらしいやり方で気持ちを伝えました。サイの神の火で焼いたチクワを竹竿につけたまま持参し、ヒデキさんに食べてもらったのです。

 ヒデキさんは、「予想以上に間違った」と照れくさそうでしたが、冬まつりを最高に盛り上げてくれました。川谷地区を元気にする希望の演奏です。夏の運動会以来のサプライズに私も酔いしれました。      

  (2024年3月3日)

 
 

第794回 ぬか床

 初対面なのに、何十年も前から知っている、そんな感じのする夫婦でした。安塚区のシンボル、菱ヶ岳の近くに住んでいるMさん夫婦のことです。

 白い雪と青空がとても美しい火曜日のことでした。浦川原区のSさんとともに訪ねたMさん宅は国道403号線から少し下ったところにあります。雪のあるところをザックザックと音を立てながら下っていくと、玄関がありました。

 Sさんが玄関を開けて声をかけると、すぐにMさんが出てきてくださいました。続いてお連れ合いも姿を見せ、お茶を勧めてくださいました。最初はどんな方だろうと思っていたのですが、かなり前からどさん娘ラーメンさんなどを通じて名前を知っていた人でした。

 お茶をいただき、最初に話題となったのは、安塚にある高校のことです。昔は、この学校にはいろんなところから生徒が集まっていたんですね。Mさんは、「西は糸魚川の西海からも来ていた。高柳の石黒からは矢沢という名字の人が2人来ていた。あそこはドブロクの郷だった。じつに美味しい。田沢村からも来ていた」と言われました。石黒のドブロクは「石黒正宗」とも呼ばれ、私も昔から知っていました。田沢というのは松代の田沢でしょうか。次々と登場する人物のことを聞いて、生徒の出身地はずいぶん広範囲だなと驚きました。

 学校時代は、歩くのが基本、尾神岳や米山にも登ったとのことでした。米山までとなるとかなりの距離になります。ふもとで一泊して山頂を目指したそうです。それにしてもよく歩いたものです。

 話が面白くなってきた段階で、目の前に白菜の漬物が出されていることに気づきました。そこで、私から、「どこへ行っても、私はお茶をいただくときに出される漬物がどんな味か楽しみなんですよ」と言ったら、Mさんのお連れ合いが今度はキュウリの漬物を出してきてくださいました。

 ここでMさんが、今度は自分の出番だとばかりに、ぬか床の話をしてくださいました。この話がまた、あっと驚くものだったのです。Mさんの家のぬか床は、Mさんのお母さんの時代から引き継いでこられ、何と、90年以上の歴史があったのでした。物置の地下室から出すときも入れるときもかんもし続け、毎日、ぬか床の子守りをしてきたとのことでした。興味深い話に私はぐいぐい引き付けられました。

 目の前に出されたキュウリの漬物はこのぬか床で漬けたものでした。味はどうだったかですって……。そりゃ、最高です。実にまろやかな味で美味しかったです。

 このキュウリの漬物を食べてからも面白くて、懐かしい話がいくつも続きました。そのなかのひとつは、牛の世話と種付けの話です。

 昔はどこの農家でも牛を飼っていました。この日のような冬の晴れた日は「まやご出し」をしたものです。これは共通の体験でした。「まやご」というのは、牛や馬が自分の居場所の糞尿とわらを踏み固めたもののことです。雪の上に出すと湯気が立っていました。Mさんは、「人工授精ではなかなかタネがつかなかった。吉川の名木山にタネ牛がいたので本交させた。牛の本交はニンジンのようなものが一突きして終わった」とも言われました。

 最後にもう1つ。私から「恋愛結婚ですか」と訊くと、Mさんは「あきらめ結婚です」と答えました。そして続けて、「でも大当たりでしたね。あれからずっと一緒にいるのだから」とも。90歳を超えた男性とそれなりのお年の女性の夫婦ならではの〝おのろけ〟でしたね。この日、Mさん宅の居間から見える菱ヶ岳は白く輝いていて、ニコニコしているように見えました。

  (2024年2月25日)

 
 

第793回 クローラー運搬車

 まさか板倉区で遠い昔の源地区のことを聞くとは思いませんでした。それも15年前に他界した父の良き思い出につながる話でした。

 先日、板倉区の北陸新幹線に近いところでNさんと共にSさん宅を訪ねたときのことです。私の名を告げたら、Sさんは親しい友人を迎えるような雰囲気で「どうぞお入りください」と勧めてくださいました。

 Sさんという名前ですぐに思い出したのは、元牛飼いの仲間だったSさんです。この人は旧妙高村の大洞原で搾乳をしていました。

 Sさんに、「お宅は大洞原のSさんと関係がありますか。乳牛を飼っておられた……」と尋ねたところ、「いいえ、関係のある方ではありません」と答えられ、続けて、こう言われたのです。「私は有線放送の電話線張り替え工事でおたくが住んでおられた地域に行き、仕事をしていたことがあるんです」と。

 びっくりしましたね。新井の岡田土建工業㈱に勤めていた板倉の寺野地区の人たち数人が砂防工事でわが家の近くに来ておられたことや新井の長沢の人たちが旧吉川町のエリアで電話工事をされていたことは知っていました。でも、それ以外にも遠い吉川の山間部まで来た人がいたとは……。

 有線放送の電話線張り替え工事が行われたのは私が住んでいた源地区です。当時、わが家は尾神の蛍場(小字名)にありましたから、いまから半世紀ほど前のことになります。たぶん、私が高校か大学へ行っていた期間のどこかだと思います。

 Sさんの「電話工事をしていた」という言葉を聞いて、「そうなんですか。私も電話工事に出て電柱の穴掘りをさせてもらいました。長沢(妙高市)の大野さんなどと一緒でした」と私が言うと、Sさんは一段と親近感を持たれた感じでした。ただ、大野さんのことはご存じでなかったです。

 Sさんによると、村屋の村松さん宅を宿にして、水源地区など旧源農協管内で電話線を張る仕事を約2か月間されたとのことでした。工事の時期は雪が残っている春先だったようです。一緒に仕事をしていた地元の人のなかには川袋の小池電器屋さんもおられたとか。

 うれしかったのは、その工事の話の中にクローラー運搬車のことが出てきたことです。電話線張替工事に使う電話線は大きなドラムに巻かれています。そのドラムを雪道で運ぶとき、ディーゼルエンジンを搭載し、キャタピラをはかせた運搬車で運んでもらったというのです。

 この話を聞いたとき、「これは父が使っていたクローラー運搬車に違いない」と思いました。わが家では、冬場に牛乳を運ぶときにこの運搬車を使っていたからです。私も運転したことがありますが、便利な機械ではあったものの、雪面が斜めになっているところは苦手で、すぐにキャタピラが外れてしまいます。カーブも上手にやらないとうまく曲がりません。だから、使い慣れた人が操作しないと仕事にならないのです。父が運搬車を運転し、電話張替えでも協力していたかもしれないと思ったら、懐かしさでいっぱいになりました。

 旧源農協職員だった人に後で訊いたら、源地区には、わが家以外でもこの運搬車が1、2台導入されたようです。そのうちの1台は農協が牛乳運搬などで使っていたとのことでした。これは初めて聴きました。

 板倉区のSさんは現在86歳。初対面の人でしたが、おしゃべりが楽しい人でした。いまは切り絵が趣味で、牛乳パックを再利用した飾り物作りなどもやっておられます。今回は懐かしい昔話を聞かせてもらいましたので、次回は、作品作りのことをたっぷり聞いてみようと思います。

   (2024年2月18日)

 
 

第792回 ほったらかし

 カボチャを割らないで、そのままにしておくと、カボチャの内部でタネが芽を出すことがあるんですね。先日、初めて知りました。

 教えてくれたのは友人のお連れ合いのHさんです。先日の夕方、今年初めて友人宅を訪れたときのことでした。

 カライモ(キクイモが正式名称)とソウメンカボチャの漬物をご馳走になり、「この歯ごたえがなんともいえないね」「おれ、この粕漬けが大好きなんだわ」などと言っていたら、Hさんが、「ソウメンカボチャの芽が出たんだわ。モヤシみたいになっているけど、橋爪さん、見てみなる」と言いました。

 そう言われたものの、私は何のことだかさっぱりわかりませんでした。たぶん、私の顔もそういう顔になっていたのでしょう。Hさんは、「カボチャの中で芽が出たの」と言いながら、台所の方へ行きました。私に実物を見せようと思ったのです。

 台所から出てきたHさんは、四角のお盆にソウメンカボチャを真っ二つにしたものを4個載せて居間に運んできました。テーブルの上に置かれたソウメンカボチャを見て驚きましたね。それぞれのカボチャの中心部には大豆のモヤシと同じ形をしたものがグチャグチャに入っていて、つながっていたのです。

 そもそも、私にはソウメンカボチャは畑の土の中で芽を出すイメージしかありませんでした。それだけに、カボチャの中心部で芽を出し、モヤシ状態となっていることが信じられませんでした。

 Hさんによると、ソウメンカボチャは夏に収穫したものだそうです。それから半年は経っているわけですが、まだ、カボチャの黄色い本体はしっかりしています。でもこの半年の間にカボチャのなかでは新しい動きがはじまっていたのです。

 Hさんは、この状態をわかりやすく説明するために、タネが芽を出し、どんどん長くなっているものを1本、別にしてくれました。伸びた芽の長さは25㌢ほどになっていました。太陽の光が届かないなかにあっても生きんがためにどんどん伸びていく、その姿はとても新鮮でした。

 ソウメンカボチャの実際の姿を見た私はうれしくなって、スマホのカメラで何枚も撮影しました。初めて見たソウメンカボチャの本体の中での発芽の状況を全国に発信しようと思ったのです。

 家に戻ってから、フェィスブックにて写真付きで発信しました。「夏に収穫したソウメンカボチャ(金糸瓜)が体内でタネから芽を出している様子です。見せてくれた人は初めて見たとのことでした。私も初めて見ました。まさに、〝話のタネ〟ですね」という言葉を添えて……。

 ぐに反応がありました。「うちの糸瓜も年末に切ったら種から芽が出てるのありました」「すごい生命力ですね」「ひえーっ」「私、毎年のようにみています。それだけ、毎年毎年、夏に買った糸瓜をほったらかしておく…ということですね」 「実は我が家もこれまでにいくつかありましたが、みた時は、スゲーな~って感心しました」などのコメントが次々と寄せられました。

 寄せられたコメントでは1人の人が書いた「ほったらかし」という言葉が連鎖反応を起こしました。「私も見たことあります。ほったらかしていた組(笑)」「ほったらかしもいいことあるるんですね」 「私もほったらかし組、毎年義妹から頂くのですが……」と続いたのです。

 コメントにもありましたが、「優しい発見や発明は失敗やひらめきから」です。「ほったらかし」のおかげでこんなにも楽しく、興味深い発見につながるとは……。    

  (2024年2月11日)

 
 

第791回 また、明日も

 先日、4年ぶりに旧源中学校時代の同級生が集まり、ミニ同級会をやりました。集まったのは、ヨシカズくん、トラちゃなど大潟区、柿崎区、吉川区に住む6人です。

 会場はトラちゃの行きつけのお店です。午後6時前にトラちゃとサチコさん、それに私が宴会場入りし、続いてカヲルさんがやってきました。

 宴会場には、黒くて大きな大人用とピンク色の子ども用の座椅子がいくつか用意してありました。カヲルさんに、わざと、「はい、あなたはこれにどうぞ」とピンクの座椅子を勧めると、「うちでも子ども用に座っているの」と言いながら、腰かけました。その途端、「ピピー」と鳴ったので、本人も私も大笑いしました。

 そこへ、ニコニコしながら、「おはよう」と言って入ってきたのはヨシカズくんです。続いて、ヨシカズくんの連れ合いであるミツコさんも入ってきました。

 前回のミニ同級会のときには、このメンバーの他にS君も入っていたのですが、3年前に亡くなってしまいました。

 宴会のスタートは丁度午後6時から。生ビールで乾杯し、テーブルの上に次々と運ばれてきた刺身、焼き鳥などを食べながら話をしました。

 4年ぶりですから、積もり積もった話はいくつもありますが、やはり一番の話題は元旦に起きた能登半島地震です。

 地震発生時、ヨシカズくんはミツコさんとともに家の中にいたんですね。「うちのは台所からテーブルの下にさぁーと入った。早かった」と言いました。

 続いてカヲルさんだったと思いますが、「みんな奥へ奥へと逃げて、下黒川の学校のグランドで一晩泊まった人もいた。携帯電話、かけあったこて……」と言いました。そこへミツコさんが参入し、「うちの人、やさしいの」と言いました。これにカヲルさんがすぐ反応し、「わたしに一晩貸して」とジョークを言ったものですから、またみんなが笑いました。

 続いては同級生の近況です、話題となったのは。みんな元気でいてほしいのですが、年を重ねるうちに病気で亡くなる人が出てきています。原之町の万年堂旅館で同級会をやったときは元気だったK子さんが亡くなったという話のあと、大柄のS子さんや山登りが大好きだったA子さんが亡くなったいう話にはみんなびっくりしていました。

 同級会はミニであろうが大であろうが共に体験した昔話で盛り上がります。

 今回は源小学校六年生だった時の就学旅行のことが話題となりました。私から、「志賀高原へ行くときのバスの中でガイドさんが歌ってくれた歌、何だったっけ」と言ったら、みんな、すぐには言えませんでした。そこで私とトラちゃが「バスはゆくゆくあの山越えて……」とやり始めたら、みんなはすぐに「わかる、わかる」と言い出しました。タイトルは忘れても歌詞はちゃんと覚えている。すごいですね。

 サチコさんは、「私、この旅行の時の写真、あるわ。みんなセーラー服を着て行ったけど、私は買ってもらえず、セーター着て行ったの」と言いました。私もこの修学旅行の際、泊まった旅館の玄関先での記念写真を見た記憶があります。何人かが「写真、見てみたいなぁ」とつぶやきました。

 ミニ同級会とはいえ、この日は3時間ほどかけてゆっくりと楽しみました。同級生のことだけでなく、中学校でお世話になった上野實英先生や畠山利一先生のことなども話題となりました。ちょっとしたことでも笑い、話はなかなか尽きません。「同級会って、どうしてこんなにも楽しいのかね」という声が出たら、ミツコさんがすかさず言いました。また、明日もやろさ。  

  (2024年2月4日)

 
 

第790回 ゆり根

 今回は、お茶会での話がサイの神や山野草のことから正月の料理のことにまで発展したエピソードです。

 つい先だっての日曜日、大島区保倉地区のH子さん宅へ活動レポートを持って行ったときのことです。

 玄関で声をかけたら、H子さんに続いてC子さんも出てこられました。お茶に誘われ入らせてもらったのですが、H子さんは「まあ、偶然って、こういうことを言うのね」と言われました。その日の朝刊に折り込んだ「春よ来い」の話が頭の中にあったのでしょうね。

 C子さんは、「もう2時間も遊ばせてもらったので、帰ろうとしたところに橋爪さんがきなった。お父さんには1時間くらいで家に戻ると言ってたがに、戻らないと怒られちゃう」と言いながらも、引き続きお茶会に付き合ってくださいました。

 お茶を飲みながら、世間話になったのですが、最初は人が減っていることが話題となりました。そのなかで安塚区の上船倉のサイの神のことが出てきました。「戸数はほんの数軒になったと思うけど、あそこでもサイの神をやったんだって、すごいね」とH子さん、C子さんのどちらかが言いました。じつはその準備の様子の一部を私は国道405号線を走っていて、見ていました。たしかにすごい頑張りだと思います。

 その上船倉のすぐ近くにあるのが大島区の西沢です。現在2戸だけかと思いますが、かつて西沢の小学生は船倉の小学校に通っていました。旧大島村教育委員会で仕事をしたことがあるC子さんによると、西沢の子どもたちは、小学校は安塚に世話になり、中学生になると大島区内の中学校に通うということになっていたそうです。

 西沢の名前が出たところで、私から、西沢にはオニユリがたくさん咲いているところがあり、写真を撮りに行ったことがあると、そのときの様子を語りました。

 そうしたら、いつの間にかオニユリからヤマユリの話になりました。「大きな個性的な花だよね」「ヤマユリがたくさん咲くのは菖蒲高原だわ」「棚岡の山手にヤマユリの群落があって見事に咲いている」などといった話で賑やかになりました。

 それからです、「ゆり根」の話で盛り上がったのは……。「ゆり根」というのはヤマユリの球根です。「ゆり根」は美味しいが、近年はイノシシが掘って食べている、その結果、ヤマユリは無くなってしまったなどといった話が次々と出ました。

 言うまでもなくイノシシが「ゆり根」を食べているのは美味しいからです。子どもの頃、母が作ってくれた正月料理の1つに茶碗蒸しがあり、そのなかに銀杏と共に入っていた「ゆり根」、楽しみでした。

 私が子どもの頃は戦後間もないこともあって、まだ食糧難の時代でした。いつも腹を減らして生きていました。そんな時代でしたから、野山の食べられるものは何でも食べていましたし、正月にしか食べられないものがいくつもあったのです。

 3人のお茶会で私が話したのはミカンと茶碗蒸しです。ミカンは尾神の庵主さまが正月、お経を読みに来てくださるとき、土産に2、3個持ってきてくださいました。そのミカンを兄弟で分け合って食べたものです。茶碗蒸しは、何といっても「ゆり根」のほっくりした食感が最高でした。

 H子さん宅でのお茶会は40分以上にもなりました。会の終わりの頃、C子さんに「ゆり根はつっとこに入れて持ち歩いたこて。橋爪さん、つっとこって知っていなる?」と訊(き)かれました。もちろん、知っています、と答えました。庵主さまが正月料理を持ち帰られるとき、母が用意した入れ物は、ワラでつくった「つっとこ」だったのですから。    

  (2024年1月24日)


 
 

第789回 うれしい出会い

 偶然、思いがけない人と出会う。それも同郷の人と……。いいものですね。

 先日、寒風が吹き荒れるなか、柿崎区の下黒川地区で活動レポートを配布しているときのことでした。

 ある家の玄関へ入らせてもらい、出てこられた女性にレポートを渡すと、「私、尾神の人間です」と言われました。すぐに顔を見たのですが、誰だかわかりません。それで、「おまんちの屋号は?」と尋ねると、「タバタです」という答えが返ってきました。「タバタなら、おらちの親父が大変世話になった家です。それはそれは……」と話を続けました。

 わが家は1982年(昭和57)秋まで尾神岳のふもとの尾神にありました。私が32歳のときまでです。いまでも尾神の人たちとは親しく付き合いをさせていただいていますが、タバタのお父さんも私の父も同じ会社に勤めていたことがあり、よく行き来していました。タバタのお父さんは背が高く、すらっとした姿の方でした。子ども時代、私は歌手の田端義夫に似ている人だと思っていました。そんなこともあって、タバタという名前を聞くだけで特別の思いが湧いてきます。

 それだけではありません。女性は60代前半の人だと思ったのですが、私のすぐ下の愛知県在住の弟と同級生だというのです。それにもびっくりしました。

 数日後、今回の出会いを愛知県の弟に伝えたところ、「背が割合と高くて、まじめな人だった」と教えてくれました。

 弟には久しぶりに電話をしたのですが、弟の同級生の近況をいくつも聞きました。東京の有名ホテルで仕事をしていたKさんは退職したが、料理の腕を買われて別の職場で頑張っている。Nさんは亡くなったが、お姉さんがずっと面倒をみていた。Hさんはいま田んぼに一生懸命で、もらったコメがばかうまかった。いずれの人も私よりも2級下の人ですので、知っています。レポートを渡した女性との出会いをきっかけに波紋が次々と広がりそうです。

 数年前にビラ配布をしているときにも、尾神出身の人に出会いました。このときも柿崎区でした。料理がおいしいことで定評のある民宿の近くに住む方でした。こちらは私よりも年上の方でしたが、私のことを知っていてくださいました。私の活動レポートをよく読んでいることも教えていただき、感激したものです。

 こういう体験は尾神だけではありません。私が現在住んでいる吉川区代石出身の人や近くの町内会の関係者、私が生まれた大島区の関係者との出会いもうれしい気持ちになります。

 これも何年か前になりますが、コメリのあるお店でカードを作成するために、私の名前など必要事項を書いてスタッフに渡したら、「橋爪さんですね、いつもお世話になっています」と言われ、驚きました。この方は私が農業委員として活動していた時に、委員仲間だった人の家の方だったのです。「こんなところで、吉川の人と会えるなんてうれしいね」と言ったら、「もう1人、吉川の人がいますよ」と言って、その人を紹介してくださいました。2人とは初めて言葉を交わしたのですが、気分は上々でした。

 最近では、直江津は石橋で「しんぶん赤旗」日曜版を配達しているときに、すぐ近くのお店で仕事をしていた人がニコニコしながら私の顔を見ています。見た瞬間、わが家の隣のNさんだとわかり、「おー、こんなとこで会うとは」と声を上げました。

 同郷、あるいは自分とかかわりの深い地域の関係者と遠く離れたところで偶然出会うと、何となく親近感を覚え、うれしくなるのは何故でしょうね。

  (2024年1月21日)

 
 

第788回 やさしい笑顔

 旧源中学校の同級生のなかでもぴか一の笑顔の持ち主は大潟区に住むミツコさんです。震災から1週間ほど経った日の午後、久しぶりに訪ねてきました。

 突然の訪問でしたが、幸運にも在宅でした。インターホンで「ごめん下さい、橋爪です」と声をかけると、お連れ合いのヨシカズさんが玄関を開け、「さあさ、入ってくんない」と言い、居間に案内してもらいました。

 ヨシカズさんも中学校の同級生です。ヨシカズさんの後ろから居間に入らせてもらったら、居間の奥にあるキッチンにミツコさんがいて、「まあ、うれしい」と笑顔で迎えてくれました。 「麦茶でいいかしら」と訊(き)かれたので、「おれは煎茶よりも番茶か麦茶がいいんだわ」と答えると、ミツコさんはニコニコして運んでくれました。「ミツコさん、いつまでも若いね」と言ったら、自分のほっぺを両手で支え、「若いでしょう」と言ってまた笑いました。

 お茶をご馳走になりながら最初に話題になったのは元旦の地震です。地震発生時、私は吉川区米山にある中野生悦さん(故人)の句碑の前にいて、激しい揺れに恐怖を感じたのですが、2人は自宅にいたとのことでした。2人の家は海から近いものの高台にあり、津波の心配はありません。でも、地震の恐怖は私と同じでした。

 私からは、地震発生後、いったん自宅に戻って、その後、吉川区総合事務所に駆け付けたら、駐車場に次から次へと避難する車がやってきたこと、大潟漁港など日本海側の津波被害を初めて見たことなどを伝えると二人は興味深く聴いてくれました。

 ひとしきり地震のことでお互いの情報を出し合ったあと、ヨシカズさんは、「おまんもたいへんだったね」と言って、昨年の10月に亡くなった弟のことを話してくれました。

 うれしかったのは、亡くなる前日、喪服姿の弟をヨシカズさんが大潟区で見かけたという話です。ヨシカズさんは、「何があったんだろうか」と思ったそうですが、たぶん、母の一周忌法要に出るために、自宅近くを歩いていたのだと思います。

  「あんなに元気そうに動いていなったすけ、信じらんねかった」と言われました。弟のことについては、「頼んでおいた仕事のことで会ったばかりだった」など亡くなる前日の情報をいくつも聴いていました。またしても前日情報が入り、胸がいっぱいになりました。

 同級生同士で会って話をすると、必ず、同級生の近況が話題となります。ヨシカズさんは、「柿崎のナルスでカヲルさんに会った」と教えてくれました。「あの人、いくつになって同じ顔していて、年とらんよね」と応じました。

 その後は、3人で、「川袋(出身)のヨウコさんと電話で話した」「サチコさんと〝割烹やまろく〟さんで会ったけど、その後、どうしていなるかね」「ショウイチくんの奥さんから初めて年賀状もらった」「ヒサシくんは兄さんが亡くなってから、こっちへ来てなんねみてだ」「チエコさんからは最近、はがき来ない」などと時間を忘れておしゃべりしました。

 40分ほどおじゃまして、外に出たのですが、2人とも車の近くまで来て、見送りしてくれました。この時のミツコさんの笑顔がまた素敵でした。

 ミツコさんは地元で同級会をやると、遠方からやってきた同級生に「お帰りなさい」と言って笑顔で迎えるやさしい人です。今回の訪問でわかったのですが、彼女の笑顔は一段とやさしさが増したものとなっていました。この笑顔に出会っただけで元気になります。    

   (2024年1月14日)

 

第787回 気をつけてね

 10歳年上の従姉(いとこ)である「鳥越のかちゃ」が入所している特別養護老人ホームを訪ねたのは月曜日のことでした。

 特別養護老人ホームに入所する前はグループホームに入所していて、新型コロナウイルス感染症の流行の時期と重なっていたこともあり、私が「鳥越のかちゃ」に会ったのは4年ぶりです。

 1階のロビーに展示してある渡辺幸雄さんの絵や入所者のアルバムを見て、5分くらい経ったころだったでしょうか、車椅子に乗せてもらった「鳥越のかちゃ」が2階からやってきました。

  「かちゃ、久しぶりだねー」と声をかけながらそばに行くと、「鳥越のかちゃ」の顔が少しゆるみました。ピンク色の長袖シャツとオレンジ色の前掛けがとても似合います。髪はきれいにすいてあって真っ白、とても素敵でした。

  「おまん、おれ、誰だかわかるかねー。タイシのノリカズだよ」と言うと、「はい」と答えたものの、いまひとつ、はっきりしません。「見たことがある」程度の反応だったのです。

 その反応が大きく変わったのは私の母の写真を見せたときです。スマートフォンの画面で青色の半纏を着た笑顔の母を見た途端、「鳥越のかちゃ」はニコニコ顔になったのです。写真は5年前の12月に撮影したもので、母の顔は「おまん、どうしたが」と問いかけている感じでした。

 長年、わが家の母を自分の母親のように大切にしてくれた「鳥越のかちゃ」は、毎日のようにわが家に電話をかけ、「ばあちゃん、どうしてるね」と母に声をかけてくれていました。たびたび、わが家にもやってきました。おそらく母と一緒の時間は私以上だったと思います。それだけに母のことは頭の中にしっかりと残っているのでしょうね。「鳥越のかちゃ」の笑顔はとてもうれしく思いました。

 スマートフォンの中の母の姿を見た「鳥越のかちゃ」は私に向かって、「立っているがか」と訊(き)いてきました。一瞬、どういう意味かと思ったのですが、母が立っているのか、座っているのか写真では判断できなかったのだと思います。

 それで私は、母の別の写真をさがしました。ところが、どういうわけか、最初の写真と似たようなものしか出てきませんでした。着ていた半纏も同じ色のもの、その下の薄いピンク色のシャツも同じだったのです。「鳥越のかちゃ」は新たな反応を見せませんでした。

 そうしたときに介護スタッフのNさんが私たちのところにやってきて、声をかけてくださいました。「祭りのときに(町田の)Kさんと会ってくださってましたよね」と言われたので、「そうなんです。Kさんとはいろいろつながってまして……。こちらは従姉なんですよ。私らの母親が姉妹で、2人とも母親似だから、どっか似ているでしょ」と言って従姉と並びました。

 Nさんからは、日曜日に新聞折り込みしている「春よ来い」をKさんや「鳥越のかちゃ」に見てもらっていると教えていただきました。少しでも喜んでもらいたい、元気になってもらいたいというスタッフの皆さん方の心配りです。感謝ですね。

 この日は突然の訪問にもかかわらず、15分ほど面会させてもらいました。「鳥越のかちゃ」は母の写真には大きく反応したものの、私には「いまいち」でした。でも玄関ドアの近くで、「またね」と私が別れの挨拶したとき、「鳥越のかちゃ」の口から思いがけない言葉が出てきたのです。「気をつけてね」。たったひと言ですが、私が誰かわかっていなければ出てこない言葉です。私は大きく手を振ってバイバイをしました。  

  (2024年1月7日)

 
 

第786回 アサガオ

 12月議会の最終日、会議が早く終わったので、市内岩木の娘さん夫婦の家に住んでいるキエさんを訪ねました。

 キエさんの部屋に入ると、ちょうど昼食を終えたところでした。キエさんは思っていた以上に顔色が良く、ホッとしました。ベッドに座り、背中を伸ばして私に話しかける姿勢もすっきりしていて、体調の良さを感じさせました。

 お茶をご馳走になり、世間話を始めてまもなく思いがけない言葉を耳にしました。
「おら、7日の日に、板山に連んてってもらってきた」
 ビックリしましたね。確かに、春以来、リハビリに努め、ベッドから車椅子への移動もできるようになり、トイレにも自力で行ける。そこまで回復していましたから、もう少しで歩けるようになるかもしれない、そう思ってはいました。でも、大島区板山の家にまで行けるとは思ってもみませんでした。

 もちろん、自力で板山の家に行ったわけではありません。娘さん夫婦とともに出かけ、2人に抱えてもらって家に入りました。キエさんは、「家の中には、ようでもないものがいっぱいあって……」とうれしそうに言いました。

 2年前の11月2日、キエさんは急にふらっとして、体調がおかしくなり、娘さんに電話しようにも電話機のところまで行けませんでした。最終的には、なんとか緊急ボタンを押して、娘さんと連絡をとることができましたが、医療機関に運んでもらって入院しましたので、家の中の状態は基本的には当時のままです。

 板山の家には仏壇も神棚もあります。キエさんは、家に入ってから、どちらにも手を合わせてお参りしました。こうして、長年連れ添った夫などに感謝の気持ちを伝えることができた、そのことがとてもうれしかったようです。

 うれしかったのは自分の家に入ってお参りできたことだけではありません。長年親しくしていた近所の人たちの家も訪ねることができたのです。「てづかみ」(屋号)のお母さんなどから、「まあ、よく来たなぇ」と言われたそうですが、みなさん、心配しておられたんですね。私の従弟(いとこ)の家に行ったときには、「入らんねそったら、ぶってやるわい」とも言われたとのことでした。

 2年ぶりに板山に行った話が一区切りしたところで、キエさんの話は、大潟区の弟のことになり、「おまんた弟さんの娘さんが新しい車、買ってもらったてがで、おまんたばちゃを乗せて、おらちに来てくんなったもんだ」と思い出を語ってくれました。もう何年も前のことなのでしょうが、姪(めい)が母を乗せて板山のキエさんを訪ねたという話は初めて聴きました。おそらく、母が姪に頼んだのでしょうね。

 この日、キエさんは、週に2回行くデイサービスの様子も語ってくれました。97歳にもなる人が杖も使わずに歩いているとか、100歳になる人が朝からずっと塗り絵をしていなる、などといった話です。そういう様子をしっかり見ているキエさん自身もすごいと思うのですが、暗い話やさみしくなるような話が全然出ないところを見ると、やはり元気に生きている人を見ると、自分も頑張るぞという前向きの気持ちになるのだと思います。

 キエさんは大島区竹平生まれの94歳。私の生家のすぐ下の家で育ちました。乳の出が悪かった母に頼まれ私に乳を飲ませてくださった恩人です。岩木の家を出るとき、玄関先に咲く赤紫色のアサガオを見ました。とっくに盛りを過ぎていますが、小さいながらもきれいな花を咲かせています。キエさんと重なって見えました。

  (2023年12月24日)



 
 

第785回 人を励ます力

 大潟区の海岸から300㍍ほど陸地に入ったところに住むTさんは、柿崎区の下黒川地区の出身です。

 先日、議会が早く終わったので訪ねたところ、「待っていました」と言った感じで迎え入れてくださいました。私のエッセイ集を何冊も購入してくださった方なので、私も、たまにはゆっくりと話をしたいと思っていました。

 居間に上がらせてもらい、お茶をご馳走になったのは何年ぶりだったでしょうか。テーブルに目を向けると、その上には詩人・画家である星野富弘さんの『花に描かせてもらおう』という十数ページの冊子が置いてありました。

 気になって手を伸ばしたら、Tさんは、「私、この人の書いた本が好きなの」と言って、奥の部屋から、『いのちよりも大切なもの』、『鈴の鳴る道』など7冊もの本を持ってきてくださいました。

 星野富弘さんについては花の絵やカレンダーを見ていましたので、心に響く詩を書き、ほんのりした絵を描く人であることは分かっていました。でも、この人の本はまだ読んだことがなかったのです。それだけに、Tさんが知っておられる情報は新鮮でした。

「この人は学校の先生をやっていなったんだけど、ケガをして体が不自由になんなったんだわ。でも絵筆を口にくわえて絵も描けるようになったし、字も書きなるの」

 そう言って、字を書く練習をして上達していったことを示す本の中の画像を見せてくださいました。そして、「奥さんは絵の具を混ぜる手伝いしていなる」とも言われました。Tさんが星野富弘さんの世界にはまっていることはすぐにわかりました。

 お茶をご馳走になりながらTさんの話を聴いていて思ったのは、Tさんがなぜ星野富弘さんの作品に惹かれるようになったかです。作品が素敵であることが理由の1つであることは言うまでもありません。ただ、それだけではないと思っていました。私はTさん自身がこれまでの人生で様々な困難とぶつかり、乗り越えてきた、そのことが星野富弘さんの詩や絵の世界と重なっているに違いないと感じていたのです。

 何よりもびっくりしたのは、ガンや糖尿病などじつにたくさんの内臓の病気にかかり、骨折などのケガも繰り返されてきたことです。本人は女性ですが、「おれ、オトコだすけ産婦人科にかからんかっただけで、あとはみんなかかった」と言われるほどなのです。でも見かけは、病気やケガとは縁がないような明るい顔をされていて、ふた月ほど前まで市内の病院に入院していたことが嘘のように思えました。

 星野作品がTさんに影響を与えているなと思ったのは、Tさんから花の話を聴いたときでした。どんな話をしていても、少しでも花に関係することが出てくると花の魅力へと話題が移っていくのです。

 Tさんの実家周辺には里山が広がっていて、ワラビやゼンマイなどの山菜の宝庫となっています。でも、山菜は1本も採らないそうです。それでいながら、里山に咲く雪椿のことになると目の色が変わるといいます。面白いものですね。

 この日、私は家に戻ってすぐに星野富弘さんの冊子、『花に描かせてもらおう』を読みました。読みはじめてからじきに素敵な〝励ましの言葉〟と出合いました。 「美しいものを美しいと感じられる心さえ大丈夫なら、自分にも絵が描ける、文章だって書ける」  読み終わって分かったのですが、星野富弘さんの本や作品はすべて人を励ます力を持っているのです。Tさんの明るさはここから来ているような気がしました。今度、会ったら聞いてみようと思います。

  (2023年12月17日)

 
 

第784回 喪中はがき

 まさか2年続けて喪中はがきを出すことになるとは思ってもみませんでした。昨年10月の母に続いて今年の10月に大潟区の弟が亡くなったからです。

 あっという間に49日法要を迎え、一区切りしたところで、年末年始の挨拶を失礼します、という喪中はがきを出す準備にとりかかりました。

 昨年は喪中でしたので年賀状はほとんど来ていません。今回も昨年と同じように一昨年の正月に届いた年賀はがき、その前にわが家に来た喪中はがきをもとに宛名書きをすることにしました。

 今回は忙しかったので、長女に宛名書きを頼んだのですが、その前の段階の「誰に出すか」の準備は私がしました。

 その作業をする中で母に宛てた弟の年賀状が出てきました。弟が生前書いた最後の年賀状となったものです。一度は見ているはずですが、見た途端、ぐっときました。

 年賀状には糸魚川市能生の浜徳合地域の浜茶屋の風景が薄くプリントされていて、その上に筆を使って朱色で文字が書かれていました。右側には太い文字で「賀春」、その左側には、これも朱色で

いつも「エツさん」  ありがとう
ありがとう
ありがとう
ありがとう
ありがとう
本当に  ありがとう

 と書いてありました。弟は最後の最後の年賀状でも母への感謝を伝えていたのです。母はこの年賀状を居間のコタツのそばの電動椅子に座って読んだと思うのですが、どんなにうれしかったことでしょう。

 さて、宛名書きが終わった喪中欠礼はがきは11月末から12月初旬に配達されました。喪中はがきを受け取った反応はほとんど伝わってこないのですが、先日の朝、9時半過ぎのこと、わが家と遠い親戚関係にある東京都内在住のTさんから電話が入りました。

 わが家が尾神岳のふもとから現在の代石(たいし)に移って41年経過しているのですが、Tさんの頭の中では、わが家は未だに尾神にあるようです。

「尾神んちだろかいね。喪中はがきもらったけど、勇さんは67歳で亡くなったのかね。早すぎるね。オレが知っている人だろうか」
「さて、どうだろうね。原之町あたりで会ったことはあるかもしらんけど、尾神のおらちに来てくんなったころはまだ生まんてねかっただろうし……。そうそう、おらちのオジは東田中の田村先生に習ってたし、どこかで会ってるかもしれないね」
「ちょっとわからんな、オレは……。小さい頃、尾神んちに行きたくて、行きたくてね、何度も世話になったもんだわね。尾神んちで夜、切なくなって泣いていると、トナリに嫁に行ったシカちゃんがね、『泣かんでいいがだよ、明日になればスイカも大きくなっているよ』そう言って声をかけてくんなったもんだ。音治郎さんからは馬にものせてもらった」
「そいのかね、世話になりましたね」

 Tさんからの電話は今回も私の携帯にかかってきました。母と同じ年の生まれですから、いま満99歳だと思います。話す声はしっかりしているし、耳も大丈夫の様です。どうあれ、喪中はがきを見て、わが家のことを思い出してくださったのはとてもうれしいことでした。

 今年、わが家が出した喪中はがきは百枚を超えました。悲しい知らせではありますが、はがきを契機に故人にかかわることを思い出していただけるならうれしい。

  (2023年12月10日)

 
 

783回 楽しいお茶飲み会

 世間にはお茶飲み会を楽しくやる名手がたくさんおられるんですね。先日、柿崎区のSさん宅でお茶をご馳走になったときに一緒になった3人の方もそうです。今回はその一部を「実況中継」します。

 Sさん宅のチャイムを鳴らし、玄関ドアを開けたら、「あら、橋爪さん。お茶いかがですか」とSさんに誘われました。「お客さんがいなるみたいだし、またにするこて」と言ったのですが、「まあ、そう言わんで」と再度誘われ、お邪魔しました。

 居間に入らせてもらうと、そこには80歳前後に見える2人の女性がおられました。そのうちの1人はKさんです。吉川区芸能発表会などで何度か見かけ、一度だけですが、Sさん宅で一緒にお茶を飲んだことがありました。もう1人は初対面でしたが、母が長年笹採りでお世話になった家の親戚筋のMさんでした。

 4人のお茶飲み会で最初に話題となったのは私が発行している活動レポートです。私が3人に活動レポートを配ったとき、Sさんが「絵も描いていなるんだよ」と他の2人に紹介してくださいました。そこで、3人には活動レポートに掲載した青春コンサートのイラストを私のスマホ画面で見ていただきました。

 イラストはブルーブラック(青黒)のボールペンで描き、コピックペンを使って色塗りをしています。スマホの画面を見てくださったみなさんは、「あらー、こんなふうになっているんだ」「カラーできれいなんだね」などと喜んでくださいました。

 続いて、笹の葉採りのことが話題となりました。母が採っていたころは1枚2円くらいだったと言ったところ、Mさんは、「いまはそんなもんじゃないわね。もっと高くなっていますよ」と応じてくださいました。Mさんによると、笹団子にせよチマキにせよ、笹の葉を確保することが大変になっているとのことでした。

 お茶飲み会が一気に盛り上がったのは食べ物の話になってからです。この日はテーブルの上にはリンゴ、ミカン、大根の漬物のほか、ニンジン、コンニャク、ホタテ、大根、チクワが入った煮物、それに茹でたサツマイモが並んでいました。このなかでもMさんが持参したという煮物が人気で、「いい味だね。煮物は時間をかけた方がおいしい」「あっため返しがまたいい」などの声が出ました。そして、テーブルにはなかったのですが、冬瓜(とうがん)の食べ方についても「大根と同じでいいのじゃないの」「まだ他のやり方もあると思うよ」などと賑やかになりました。

 政治の話題も次々出ました。車でやってきたKさんが、車がなければ買い物にも、実家にも行けなくなるという話をされ、人口減少のことも出ました。山間部のある集落でまた1軒減るという情報から、Sさんが、「どうしてこうも人口が減るのかね」と私に質問されたので、「国の経済政策がダメだったね。ここ30年、働く人たちの賃金を抑え、非正規の人を増やしたことで若い人は結婚もできなくなった。子どもも育てられない」と答えました。

 これにすぐ反応したのがKさんです。「国会で寝ている議員をなくさんきゃだめだね。おれ、最近、政治の話をすると、みんなから〝おまん、総理大臣やってくんない〟と言われるんだわ」。おそらくKさんは、どんな問題でもズバッと自分の考えを言う人なのでしょう。

 この日のお茶飲み会は約1時間に及びました。打ち解けた雰囲気づくりがうまいSさん、煮物を持参するなど、みんなから喜んでもらう算段をしてきたMさん、そして話を分かりやすくする「総理大臣」のおかげで私も楽しい思いをさせていただきました。総理、次回もよろしくお願いします。  

  (2023年12月3日)

 
 

第782回 小春日和の日に(2)

 5か月ぶりくらいでしょうか、E子さん宅を訪ねたのは……。注文していただいたエッセイ集『花嫁行列』を2冊持っていくと、E子さんは、美味しい沢庵漬けを出して、楽しい時間を作ってくださいました。

 いつもなら、玄関の戸を開けた瞬間、飼っておられる犬が私に飛びついてくるのですが、今回はそういう「歓待」はありません。 「あれー、いつもの犬はどうしたの」と訊(き)くと、E子さんは南側のベランダの方を見て、「きょうは暖かいから、あそこで日向ぼっこ」と教えてくれました。

 この日は気温が上昇し、最高気温は平年よりも3度ほど高い15度に達していました。家の中にいるよりも外に出ていた方が暖かい日でした。

 ベランダを見た時、犬と目が合いましたが、こちらに向かって動く様子は全く見られませんでした。外の方がよほど気持ちが良かったのでしょうね。

  「あそこからは妙高も見えるんでしょ」と言うと、「一番左に斑尾山、それから飯縄山、黒姫、妙高、火打、焼山と見えるの」とE子さんは言いました。自分の家から頸城三山も周辺の山々も見えるなんて羨ましいですね。

 E子さんとの間で話題となったことの1つは、先日行われた山直海の専徳寺住職の葬儀のことでした。わが家もE子さんの家も専徳寺の檀家です。2人とも葬儀に参列していました。

「喪主を務めた副住職のお礼の挨拶が良かったわ」
「都合で終わりまでいられなかったけど、総代の高二さんの挨拶や敏明さんの弔辞は聴くことができた。いい話だったね」
「ほんとに良かったね。敏明さん、事前にエピソード探しをしなったみたい。弟さんが住職と同級生だったから、弟さんにも訊きなったんじゃないかな。同級会かなんかで飲んだとき、酒好きの住職が茶碗を使ってチャカチャカやり、ひょうきんなところもみせたという話は弟さんの情報かも」
「そうだったんだ。よく知っていなるなあと思った」

 今回のエッセイ集『花嫁行列』のなかには、専徳寺住職の人柄の一端を書いた「お寺さんのひと声」というエッセイも入っています。そのことを紹介すると、住職をめぐり話題がさらに広がりました。

 E子さん宅の居間にはストーブが出してあり、その上に大きな柚子(ゆず)が置いてありました。ジャンボ柚子です。それも話題になりました。

  「橋爪さんから写真撮ってもらおうと思ってね」と言われたので、ストーブからテーブルの上に移動してもらい、大きさをはかりました。

 表面はごつごつしていますが、ほぼ丸型で直径が15㌢もありました。写真に撮ってから、柚子の底にあたる部分を下から見てみると5㍉ほどの穴が開いています。

「なんだ、こんな風になっているんだ」
「私も知らなかった」
「なんかお尻の穴のようにも見えるね。ちょっと嗅(か)いでみるか。おお、いい匂い。やはり柚子の匂いだわ。おまんも嗅いでみない」
「あら、ほんと、いい匂いがする。でかいけど、中は実が入っていないのかもね」

 2人の話はなかなか尽きなかったのですが、約1時間ほどのおしゃべりで気持ちをリラックスできました。

 この日はいわゆる小春日和の日でした。夕方、近くの池の遊歩道を散歩していて、センブリやオヤマボクチなどいくつかの野の花がうれしそうに咲いているのを見つけました。この時期、暖かいと気持が良いのは、植物だって人間だって同じです。    

  (2023年11月26日)

 
 

第781回 鳥かご

 青年団時代からお世話になっていたSさんが亡くなったというので、先日ご自宅に伺い、お参りさせてもらいました。

 お参りした際、Sさんの遺影の話になりました。お連れ合いによると、Sさんの写真は帽子をかぶったものが多く、遺影に使える写真がなかなか見つからなくて困ったとのことでした。

 でも、Sさんの顔が写っていれば、どういう写真でもSさんの人懐こい、やさしい目は同じです。遺影は眼鏡をかけていませんでしたが、目を見ただけで、誰もが「これはSさんだ」とわかるものでした。

 正直言うと、ここ2、3年Sさんに会っていませんでした。ですから、以前の元気だった頃の姿しか思い浮かべることができません。それだけに、お風呂に入るとき苦労したとか、トイレに行くにもお連れ合いの手を借りないと行けない状態になっていたという話を聴いて驚きました。

 さらに驚いたのは、救急車で病院に運ばれ、しばらく入院することになるだろうと思っていたら、入院したその日の夜に亡くなってしまったということです。病院では、「今夜が山だ」とか「もう1週間持つかどうか」などといった話は1つもなかったそうです。それが入院当日の夜に緊急連絡ですからお連れ合いも子どもさんもショックだったと思います。お連れ合いは、「びっくりして涙も出なかった」と言っておられました。当然だと思います。

 お連れ合いからは、Sさんが大潟区のY商事に勤めていた当時の同僚の人との思い出話やその人の近況などを聞き、懐かしく思い出しました。どの人も私が知っている人たちだったからです。

 話をしていて、ふと目に入ったのは、居間の外に置いてあった小鳥を入れるための鳥かごです。縦25㌢、横35㌢、高さ25㌢ほどの小さな鳥かごでしたが、まだ使っている雰囲気が漂っていました。それもそのはずです。鳥かごの中にいた小鳥がいなくなってからまだ1日くらいしか経っていなかったのです。

 この鳥かごには、亡くなったSさんが世話をしていたヤマガラが入っていたといいます。お連れ合いによると、Sさんは体調を崩してからも1時間くらいかけて鳥かごの掃除、エサ作りなどをやっていたとのことでした。小鳥が好きだったのが一番の理由だと思いますが、このヤマガラの世話をすることが自分の仕事だとSさんは思い、その仕事をすることを楽しみにしていたのでしょうね。

 葬儀の日、お連れ合いだと思うのですが、この鳥かごの出入り口を開いたそうです。外へ出ていってもいいし、残ってもいいと思われたのでしょうが、中にいたヤマガラは開いた出入り口から外に飛び立って行きました。

 それでも気になるのでしょう、お連れ合いは、ひょっとすれば、また、ヤマガラは戻るかも知れないと思い、時々見ているそうです。でも、私が訪ねた日までには戻ってきていませんでした。ヤマガラは仲間たちがいる林のなかにいるのでしょうか。

 その鳥かごのすぐ近くまで行き、中を見せていただいたら、小さな水入れの容器には水が残っていました。また、鳥かごの上にはきれいなオレンジ色の柿が置かれていました。甘柿ではないかとお連れ合いは言っておられましたが、少しとがっているところがあり、私には渋柿に見えました。

 Sさんの家を訪ねてからすでに数日経ちました。鳥かごから外に出て行ったヤマガラはいまどこにいるのでしょうか。鳥かごの上にあるオレンジ色の柿は目印になります。私の勘ですが、この柿が熟す頃、ヤマガラが再び戻ってくるような気がするのです。Sさんのことを思い出して……。

  (2023年11月19日)

 
 

第780回 海にかかった虹

 幸運と言えば幸運でした。

 連れ合いのキョウダイとの小旅行で、柿崎のマリンホテルハマナスに泊まった翌日の朝八時頃のことです。窓の外を見ていた一人が、「あっ、虹が出ている」と言ったので、すぐに窓のそばまで行きました。「おお、これは素晴らしい」と思いました。荒れ狂っていた海の上にきれいな虹の橋ができていたのです。

 カメラを持って窓際で撮影しましたが、窓ガラスには波のしぶきがかかっていましたし、ガラスに網が入っていて、うまく撮れません。それで、サンダルに履き替えて、海が直接見れる場所まで行きました。

 この日は、まともに立っていることができないくらい強い風が吹き荒れていました。それでも脇を固め、カメラを構え、何とか撮影することができました。

 これまでの私の人生では何度か素敵な虹と出合っています。刈り取り前の黄色い田んぼの上空にかかった虹などです。そのたびに虹はいつもきれいだなと思ってきました。でも、海にかかった虹を見るのは今回が初めてでした。消えないうちにと思いながら、4枚ほど写真を撮りました。

 撮った写真の一番手前には、しぶきを上げた波があり、虹の橋のバックには雲が横たわっています。そして、その雲の上は真っ青な空です。願ってもない風景写真となりました。

 その後、食堂へ行きました。すでに連れ合いや義兄などがテーブルについていました。そこでも虹が話題の中心になっていました。寒くなってからの虹はすぐ消えると言われていますが、この日の虹は何と40分以上も持ちこたえました。

 この日、朝食に出されたおかずは、納豆、焼いた鮭の切り身、半熟の卵、サラダ、レタスなどの生野菜でした。前の晩の夕食の時もそうでしたが、目の前に出された食べ物そのものやそれにまつわる話が必ず出て、楽しんで食べました。

 まずは鮭の切り身です。これがまた良く焼けていて美味しかったのです。今年は鮭が異常に少なく、高価だと聞いていましたが、みんなで「美味しいね」を連発してただきました。

 自分で作った料理はそれとしての魅力がありますが、旅に出て、他人に作ってもらった料理をいただくのは、また別の喜びがあるんですね。特に義姉などの「美味しいね」には一味違った雰囲気がただよっていました。

 食後、私がコーヒーを飲むと、連れ合いや義姉もコーヒーを飲み、連れ合いはさらにコーラももらってきました。再び席に座った連れ合いは、「うちはあんちゃんが買ってきたような気がする。苦いとか言って……」と言いました。その話の続きで、私からもひと言いいました。

「じつは、この間、Kさんから弟に渡してくれと言われ、コーラのビン、預かったんだわ。渡さないうちに亡くなっちゃった」

 すると、連れ合いが、
「コーラのビンに、花生けてやればいいんじゃない。前に勇くん、ホタルブクロが咲いたと言って、ビンに入れて持ってきてくれたことがあるよ」

 話の間に何度も海を見ましたが、そのたびに、「まだ虹が出ている。すごいね」という声が出ました。

 私が撮影した虹の写真の1枚は全国に発信しました。私が発信した写真を見た一人に、その日の朝、お連れ合いを亡くされた女性がいました。その方が「心洗われる虹を見せていただき、ありがたくて……」というコメントを寄せてくださいました。

 虹は悲しみを乗り越える力を与えてくれます。40分もの長い時間にわたり美しい虹を見せてくれた、この日に感謝です。 

  (2023年11月12日)

 
 

第779回 朝風呂

 温泉に泊まった時の楽しみの1つは朝風呂です。今回の地元老人会の旅行でも朝六時頃にお風呂に入りました。

 浴衣を脱いで、すっぽんぽんになって大きなお風呂に入ろうとしたら、その手前の小さな露天風呂に入っている人の姿が目に入りました。同じ部屋の「もりよし」さんです。

 じゃ、オレも露天風呂に、そう思い仲間にしてもらいました。そこにもう1人、井上さんも加わり、朝風呂にゆっくりつかりながら、おしゃべりを楽しみました。

 露天風呂の外には川の流れが見えます。きれいな水です。そして、川からの高さが70㍍ほどの山が迫っています。

 風呂のなかでは、まず今年の紅葉のことが話題になりました。すぐ近くのケヤキは多少色づき始めていましたが、川向こうの山はまだかなり先といった感じです。

 3人のうちの1人が、「今年は紅葉はダメだね」と言うと、「標高の高いところは遅いらしいよ。暑い夏が続いたし、秋になっても寒暖差がなかったからね」と「もりよし」さんが解説してくれました。

 続いて柿です。これは私から口火を切りました。「今年は生り年なのに、今年、家の甘柿は、数が少なくてダメだねー」と言いました。私が言ったのは、わが家の庭と事務所の近くにある甘柿のことです。すると、また、「もりよし」さんが、「おらちも全然だ。むいて干す皮も手に入らない」と応じてくれました。

 この日の朝、旅館の川向こうの木が気になっていました。じつは前の晩、午後7時半ころから川向こうの舞台で、ライトが照らされる中、踊りが披露されました。その際、舞台の左上後方にオレンジ色のものが見えていたのです。その時、柿だろうと想像していましたが、やはり、柿でした。

 柑橘類も話題になりました。まずは、ゆずです。

「正式には近江柚子と言うんだでも、家のそばで、でっかいのがいくつもなった。みんな受粉手伝った。元農協職員だった原之町のHさんの隣の家のゆずは見事だ」

 キンカンは、花の話から。少し前、「もりよし」さんの家の植木鉢で、小さな白い花が咲いていたので、スズコさんに「これ、なんていう花だね」と尋ねたことがありました。「キンカンです」という言葉を聞いて、「これがキンカンなんだ」と言って、黄色の小さな実をつけるところまで想像しました。そして、「今度、チラシに載させてもらうね」と約束したものです。そのことを私が言うと、

「キンカンの花は3度咲く。2回目んのが実をつける。これもオレがつけた」  

 そう言って、「もりよし」さんが教えてくれました。正直言って、こんなに詳しいとは思っていませんでした。冗談交じりに、「自家受粉じゃ、かわいそうだね」と言うと、「人間と同じように、花には花の世界があるんさ」という言葉が返ってきました。

 朝風呂談義の中で一番賑やかになったのは栗の実のことです。井上さんの、「今年は豊作だ」という言葉を皮切りに、

「山栗ですか」
「家栗です」
「皮は剥きやすいように、水に浸しておくのかね」
「いや、生のまま皮むいている」
「手か痛くなるんだよね。おっかさ、ゆびにテープ巻いてる」
「うちも生だ」
「うちは皮剥き器、使っている」

 話は、ゆっくりつながっていきました。

 朝風呂で久しぶりに味わった朝のゆったり感、いいもんですね。この日は一日中、元気に飛び回ることができました。

  (2023年11月5日)

 

 

第778回 どうしたが

 今月12日のことです。スマホでフェイスブックを見ていたら、偶然、母の動画が出てきて、「どうしたが」という母の声が聞こえてきました。

 このとき、私は亡くなった大潟区の弟の家にいました。正確な時間は記憶していないのですが、弟の納棺の前の段階だったように思います。

 フェイスブックでは毎日、過去の同じ月日に投稿した過去の写真や動画などを教えてくれます。母の動画はそのうちの1つだったのです。いまから2年前の2021年の10月12日に投稿したもので、私が居間にいる母にカメラを向けたとき、母がたったひと言、「どうしたが」という言葉を発したのです。

 普通であれば、どうってことのない言葉ですが、弟が亡くなり、納棺、通夜式へと進む流れのなかでは、いかにも母の気持ちを表した言葉に聞こえてきて、切なくなりました。

 この動画を投稿した当時、母は健在で、居間のコタツのそばの電動椅子に腰かけて、よくテレビを見ていました。たぶん、私がいつもとは違った時間に帰って来たので、「どうしたが」と声をかけてきたのでしょう。

 どうあれ、母が生きていれば、それこそ「どうしたが」と言って、私に訊(き)いて来たはずです。それほど、弟の死は突然やってきました。

 弟が救急車で病院に運ばれたのは、10日の夕方でした。市内の工務店の方から電話で、「弟さんが仕事の現場で倒れておられて、いま、救急車で運んでもらうところです」という知らせが入りました。

 電話を受けた時、私はデスクワークを一休みしていて、居間にいました。もちろん、信じられませんでした。前の日には母の一周忌法要を営み、元気に仕事の現場に行く姿を見たばかりだったのです。病気だとか、体調がいまひとつだとか、そういった話はひとつも聞いたことがありませんでした。

 その後、救急隊員から、弟の名前、生年月日、住所などの問い合わせがありました。これはたいへんだと、雨が降るなか、車を病院へと飛ばしました。

 途中、大声で何度も天国の母に、「カチャ、勇を助けてくんない、頼むすけ」と呼びかけました。救急隊員とのやりとりのなかで、心臓も呼吸も止まったままだということが分かったからです。涙があふれ出て、どうにもなりませんでした。

 病院の夜間用玄関には40分ほどで着きました。そこでは弟の子ども(長男)が待っていました。「どうだ、なんとかなりそうか」と訊いたのですが、「きびしい」との返事でした。

 弟の連れ合いが病院に着くと、一緒に集中治療室に入りました。心臓マッサージの機械が動いていましたが復活には至らず、医師から、「これ以上やってもかわいそうです。止めていいでしょうか」と判断を迫られました。もう、うなずくしかありませんでした。

 亡くなった弟は、小さいときから祖父・音治郎に可愛がられ、一緒に寝てもらっていました。そして、父の影響も大きく受けて育ちました。骨董品を集め、仕事の合間に自分の趣味である絵などの作品づくりを楽しむ、弟の暮らしに対する姿勢は最近、父親そっくりになってきていました。

 亡くなる2日前、50年も前に使っていた電気スタンドまで持参し、兄弟3人の懇親会を盛り上げたのは大潟の弟です。まだ67歳、早すぎる死でしたが、ここで私が元気をなくしていたら、それこそ「どうしたが」と母を心配させてしまいます。頑張らなければ……。   

  (2023年10月22日)

 
 

第777回 電気スタンド

 母が亡くなった日から1年が経った先週の日曜日、私のすぐ下の弟夫婦が愛知県から帰省しました。大潟区に住む、その下の弟、勇もわが家にやってきました。

 翌日の一周忌法要を前に、「たまにゃ、兄弟で飲んで、トチャやカチャの話でもしようさ」ということで寄ったのです。

 愛知県の弟がわが家に着いたのは午後7時頃でした。昨年、母が亡くなる3週間ほど前に、一度帰省し、母に声をかけて励ましてくれたのですが、その後は葬儀の時も含めて来ていませんでした。亡くなってから母に会うのは今回が初めてです。

 家に入ってからすぐに、仏壇脇の母の遺骨と遺影の前に行った弟は、母の小さなコツ袋をのぞき、「カチャ、来たよ」と言って声をかけました。亡くなった母に弟の声が届いたかどうかはわかりません。でも、母は喜んだことと思います。

 3人の兄弟がそろったところで、缶入りの生ビールで乾杯していっぱい会はスタートしました。今回は愛知の弟が飲み物や食べ物を用意してくれました。大潟区の勇もブドウなどを持ってきてくれました。刺身やてんぷら、豚レバー焼きなどを食べながら、ビールを2缶ほど飲みました。

 この日は大潟区の勇がまず、父の思い出を語り始めました。
「この家にある骨董は大きな甕(かめ)などみんなトチャが集めたものだ」 「たしかにそうだな」

「トチャが自分でつくった木彫りの飾り物には『末代古楽』というのが押してあったこて。そのもとの焼きごて(ハンコ)、どこに行ったもんかね」
「牛舎、壊した時、どっかに片づけたかもしんねな。どこだか、わからん」
「トチャの木工の道具、いくつかオレんとこにあるけど、河沢のヤコちゃんにやってもいいかな。使ってもらえる人にやった方がいいと思って……」
「そりゃ、そうしてくんない」

 いうまでもなく、母の思い出も次々と語られました。特に笹の葉採りについては、毎年どれくらい採ったとか、それをどこへやったかなど私がよく知らなかったことも話に出て、興味深く聴きました。

 父と母の思い出話が盛り上がったところで、大潟区の弟が自分の車の中から古い電気製品を持ってきました。

「これ、たぶん、兄貴が高校時代、下宿していた時に使ったもんだと思うんだけど」
 
 そう言ってみんなの前に出したものは電気スタンドでした。赤と白のスイッチ、横長の蛍光管、見覚えのあるものでした。間違いなく、私が使っていたものです。いったいどこにしまってあったのでしょうか。勇が昔の物を大事に保管していることは知っていましたが、まさか、私の高校の下宿生活時代の物まで保管してあるとはびっくりしました。

 この電気スタンド、50年ほど前に使っていたものですが、3人の注目は電気が点くかどうかでした。最初に勇がスイッチをかまいました。でも点きません。

 やはりだめか、そう思っていたところで、「俺の出番だ」とばかりにテレビの前に陣取って、スタンドをかまい始めたのは愛知県に住む弟です。この弟は旧源中学校を卒業後、稲沢市のある電気屋さんに勤めていた経験があるのです。

 約10分くらい経ってからだったと思います。愛知の弟がついに電気を点けました。蛍光管の端が黒くなり始めていましたので、無理だと思っていたのですが、見事にパッと点けたのです。3人は「おおっ」という声を出し、喜び合いました。これで一気に思い出話がにぎやかになりました。

(大潟区の弟、勇は、母の一周忌の翌日、急死しました。大変お世話になりました)

 (2023年10月15日)

 
 

第776回 母のメモ

 思わず微笑んでしまいました。

 先日、テレビのそばに行ったとき、テレビを置く台の端っこに、「赤いせんは取らない様におねがいします」というメモが目に入りました。

 「赤いせん」というのはテレビのそばにある細長いコンセントタップにはめた「上越ケーブルビジョン」の放送機器用電源プラグのことです。プラグには、細い赤のテープが巻いてあって、そこに「抜かないでください」と書いてあるのですが、よく見えません。それで、母が数年前、白い紙にボールペンで同じ趣旨のことを書き、みんなの目に入るようにタップのそばに置いていました。

 母が亡くなってから、このメモはどこかに片づけたか、あるいは捨てたものと思っていました。ところが、その母のメモはタップのそばからは離れたものの、テレビの脇にちゃんと置いてあったのです。

 久しぶりにこのメモを見たとき微笑んだのは、まだ私たちに「抜くなや」と伝えようとしている母の気持ちを感じたからです。亡くなって1年経っても、母は私たちを見守ってくれている。そう思ったら、うれしくなりました。

 よく見ると、母のメモ書きはじつにしっかりとした文字で書かれています。少し縦長ですが、読みやすく、しかもきれいです。おそらくわが家の中では一番字がうまかったと思います。

 このことがあってから数日後、今度は私のスマートフォンが「チン」と鳴ったので、何事かと手にしてみたら、写真の中にある「ForYou」(あなたに)という機能が作動して、昨年の「秋」の写真が次々と映し出されました。

 この「秋」は昨年の秋に撮った写真のなかから代表的な写真を28枚選び出し、まとめたものです。米山の写真から始まって、紅葉の写真まで入っているのですが、これらのなかに母の写真が何と9枚も入っていました。いずれも大事な写真で、母からの贈り物のように思えました。

 そのうちの1枚目は、母を家で看取るために退院させてもらった昨年の9月15日の母の写真です。父の妹である河沢の叔母がベッドで眠る母に声をかけると、母がそれに応えて目を開けました。その瞬間の写真です。母が目を開けた時、目の前の人が誰であるかわかったかどうかはわかりません。でも、明らかに顔が見えたという表情でした。「ああ、家に連れて来てよかったな」と思った記念すべき写真でした。

 母が退院した日の午後から翌日にかけて、母の部屋には親戚の人たちや近所の人たち、私の兄弟、私の子どもなどが次々と母に会いに来ました。帰宅後の2枚目の写真はわが家の居間の風景です。そこには私の連れ合いや母が最も会いたがっていた孫の元気夫婦とその子どもの姿がありました。母と再会し、みんなが「良かったね」と喜んでいる姿が写っていました。

 3枚目には、母の痰(たん)をとっている訪問看護師さんと長女の姿が写っていました。母の自宅での看取りの期間中、何よりもお世話になったのは看護師や介護のスタッフのみなさんでした。いまでもこの期間中、わが家に出入りしてくださったYさん、Kさん、Tさん、Sさんなどのスタッフの方々の顔が目に浮かびます。

 今月の8日は母の祥月命日です。1年経ちました。生前、母と交わした最後の言葉は入院当日の深夜でした。母が「おれ、死んだがか」ときいてきたので、「なして、死んでなんかいないよ」という言葉を返しました。母の「赤いせん」のメモなどを見たいま、母に「おれ、死んだがか」ときかれれば、やはり同じ言葉を返します。「なして、死んでなんかいないよ」と。  

  (2023年10月8日)

 
 

第775回 産みたての卵

 焼いて食べる。ゆでて食べる。ご飯にかけて食べる。卵の食べ方として浮かぶのはそんなところでしょうか。

 でも、もう1つあることを忘れていませんか。「食べる」という大きな「くくり」のなかに入ると思うのですが、「飲む」というやり方です。

 先週の木曜日、Kさん宅を訪ねたら、玄関わきの蛇口でさっと何かを洗い、「これ、食べてみてくんない」と言われました。見たら、小さめなニワトリの卵です。それも産みたての卵でした。

  「ありがとうございます」と言っていただいたのですが、ちょうど市役所に向かう途中でしたし、家に戻る時間もありません。車の中やカバンの中でうっかりつぶそうものなら後の始末がたいへんです。となれば、「これは、もう飲むしかないな」と思いました。

 それで、車を木陰のところに止めて、ティッシュを取り出し、それで卵を包むようにしながら、車の硬いところで恐る恐るコンコンとやりました。割れ目が入ったところで、指を使って、割れ目を広げ、そこに口をつけて、チュウチュウ吸いました。

 飲んだ瞬間、「あたたかい」と思いました。Kさんが卵の表面の汚れを落とすためにサッと水洗いしたのですが、それでも中身は温かいままだったのです。これには感動しました。

 ニワトリの卵をこんな風にしていただいたのは何十年ぶりでしょうか。私の記憶では、わが家が尾神岳のふもとにあったころ、それもまだ、私が子どもだった頃かと思います。産みたての卵に穴をあけ、グイッと飲んだときは美味しかったですね。

 数十年ぶりに卵を飲んだ私は、インターネットで、いただいた卵の写真と共に全国に発信しました。すると、「産みたて卵、久しく触って無いなぁ」とか「生卵を飲みますか。素晴らしいです」などのコメントが次々と寄せられました。

 それらのなかには、「子どもの頃は、鶏小屋に行くのが楽しみでした。昔のことを思い出しました」というのもありました。もちろん、私も思い出しました。子どもの頃、わが家でもニワトリを数羽飼っていました。言うまでもなく、目的は自分の家で使う卵を得るためです。春になれば、農協からまだ薄黄色い「ヒヨコ」(雛)が届けられました。段ボール箱に入ったヒヨコたちはかわいかったですね。

 ヒヨコたちをどう育てかは記憶していませんが、場所は家の前にあった小屋の一角だったと思います。そこで数か月飼うと大きくなり、卵を産むようになりました。

 そのニワトリたちに大根などの葉を刻んでエサを作り、与える仕事は私や弟たちに与えられました。そして産んだ卵をとってくるのも私たちの仕事でした。

 ニワトリを飼っていた一角は板と金網で囲ってありました。これはニワトリが逃げて行かないようにするだけではなく、イタチやヘビなどの外敵からニワトリを守るためでした。特に注意したのはヘビです。ヘビはちょっとした隙(すき)をついて囲いの中に侵入し、雛(ひな)や卵を呑みこむことがありました。卵を呑みこんだために胴の一部が大きくなって囲いから出られなくなっているヘビを棒で外に放り出したこともあります。

 卵をもらった2日後、Kさんと会う機会があったので、お礼を言い、「卵、温かかったね」と言うと、「そりゃ、産みたてだもん」と言われました。Kさんによると、都会から田舎体験に来る子どもたちに見せたくて飼い始めたとのことですが、私が飲んだ卵は、今年購入したヒヨコが大きくなって産み始めたばかりのものだったそうです。最高の卵をいただきました。    

  (2023年10月1日)

 
 

第774回 セイコさんの店

 「おれ、一度、セイコさんの店、行ってみたいと思ってさ。どこらへんにあるがかね。教えてくんない」

 先日、従妹(いとこ)のエコちゃが急にそう言いました。その日は、昼飯をセイコさんの店「あひる」で食べたばかり、あまりにもタイミングがぴたりで驚きました。

 話を聴いてみると、エコちゃはセイコさんの実家の人たち、特に亡くなったお父さんに特別な思いを持っていたようです。

 子どもの頃、セイコさんの実家は私やエコちゃが住んでいた蛍場から旧源小学校水源分校に至る通学路の近くにありました。エコちゃは、私以上にセイコさんの家のことをよく知っていました。

「セイコさんのお父さんは目がぎょろっとしていて、怖そうに見えた。9月の十五夜には柿泥棒をしてもいいことになってたこて。そん時、見張っていなったもんだ。でも、とてもやさしい人だった」
「あそこの家は道具を大事にする家で、砥石(といし)ひとつ失くしただけでも、子どもは捜しに行かさんてたこてね。暗くなっても」

 エコちゃの家とセイコさんの実家とは五百㍍ほど離れていました。それでいながら、よくもまあ、細かいことまで知っていたものです。

 話の途中、持ってきてもらった紙に、ボールペンでセイコさんのお店の近くにあるホテルやセレモニー会場の位置、お店に至るルートを描くと、エコちゃは真剣な表情で私の説明を聴いてくれました。

 エコちゃがセイコさんのお店に行ってみたいと思うようになった直接のきっかけは、この「春よ来い」にお店のことを何度か書いたからとのことでした。そうなると、私も知っていることを話したくなります。2人の会話がはずみました。

「そう言えば、おまん以外にもお店に行きたいと言って、行きなった人、何人かいるみたいだよ。坪野出身のMさんも行きなったということをきいたことがあるし……」
「他には?」
「そだこてね、すぐ名前出てこねでも、おれより先輩の人とか、尾神出身のしょとか、何人もいなったね」
「尾神のしょもかね」
「そいが。おまん、知ってなるかどうか、トナリ(屋号)のM子さんとは店で何回か会っているよ。おれより一級上だけどわかんなるかね。お袋さんの面倒、ちゃんとみていなった、いい人だよ」
「二つ上だでも、わかるわね」

 じつは、このほかにも坪野から春日山方面に出た人とか、大島区田麦の人などが訪れていることを知っていたのですが、エコちゃとは付き合いがなさそうだし、私からは話しませんでした。

 前にも書いたことがありますが、セイコさんの店は、カウンター席とテーブルが3つの小さな食堂です。でも、いろんな人が集まり、楽しいおしゃべりができる。それが魅力なんですね。

 エコちゃは完全に乗り気になりました。

「店は、何曜休みかね」
「曜日で決めてはなくて、不定期なんだわ。だから行きなるときは、電話してから行ってくんない」
「そいがかね」
「何か食べるんであればお昼に行った方がいいよ。ほかの時間であれば、コーヒーなんかも飲めるけどね」

 セイコさんは、私の父やエコちゃの母親(伯母)のことはよくご存じです。とくにエコちゃの母親には、人との接し方などで尊敬の思いを強く持っていてくださいました。エコちゃがセイコさんのお店を訪ねることを知れば、きっと話ははずんで、終わらなくなるかも。

 (2023年9月24日)

 
 

第773回 カボチャとヨンゴ

 昨年の秋以来ですから、10か月ぶりということになるでしょうか。8月下旬、上越市東部の山間部に住むキユさんの家を訪ねました。

 居間の東側の戸も前庭の戸も閉まっていたので、留守かも知れないと思ったのですが、玄関の戸は開いていました。「いなったかいね」と声をかけ、様子を見ていたら、キユさんが少し腰を曲げて出てこられました。

 キユさんは、私の顔を見るなり、「入ってってくんない」と言われました。「いやー、時間ないし、またにするこて」と断ったものの、「いいねかね」と何度も誘われ、迷いました。

 家に上げさせてもらえば、あっという間に20分や30分が経ってしまいます。申し訳ないと思いながら、丁寧にお断りしました。じつは、この日、松之山へ行く予定があり、遅くなりたくなかったのです。

 でも、すぐに「さよなら」できる雰囲気ではありませんでした。私が居間に入る気配がないと判断したキユさんは、玄関の外まで出てきて、しゃべり始めました。 「お母さん亡くなって、さみしくなんなったろね」  キユさんはずっと私の母のことを気にしてくださっていました。お会いした時、「お母さん、元気でいなったかね」という声を聞かないことはありませんでした。

 私は、さみしいかどうかに答えるのではなく、「98歳でした。よく頑張ってくれたと思います」と言いました。すると、キユさんは、「おれはいま94だすけ、まだおまんちのお母さんの歳まで4年ある」と言います。すかさず、「まだまだ若くていなるんだね」と応じました。

 正直言うと、キユさんの年齢はもっと若いと思っていました。だから、驚いたのですが、見た目はまだ80代後半に入ったばかりくらいに見えていたのです。

 こういうやりとりを始めたら、もういつものパターンです。話は簡単には終わりません。

「おれなんて、家にばっかいる」
「そんでいいがどね。あっついし」
「そこの田んぼの畑にカボチャとヨンゴ、一本植えただけだ」
「そりゃ、大したもんだ」
「草だらけにしておいたがでも、ヨンゴは八本なった。カボチャもいくつもなったすけ、嫁さん、持って行った」
「すごいね。じゃ、おれも見ていこ」

 話の成り行きで、カボチャとヨンゴがとれたという畑まで行きました。

 畑は納屋のすぐそばにありました。面積的には4畝くらいでしょうか。一人暮らしの人にとっては少し大きすぎる畑かも知れません。何よりも草刈りが大変ですから。

 畑は、お盆前に息子さんが草刈りされたのでしょう、きれいになっていました。手前にヨンゴ、奥の方はカボチャが植わっていました。それだけではありません。ナスも7、8本植わっていましたし、地ばい瓜と思しきものもありました。

 94歳の人がカボチャとヨンゴを植えたというだけでもすごいことだと思っていたのに、やはり、長年、畑仕事をしていた人のやる仕事です、丁寧に管理されていることがわかり、大したもんだと思いました。

 それに、最初の話にはまったく出てこなかったナスやキュウリなど、普段必要な野菜もちゃんと作ってあります。それらを目にして、改めて、「このお母さんは頑張り屋さんだな」と思いました。

 私の母も畑仕事は大好きでしたが、93歳のときにまったくしなくなりました。そういう姿を見てきただけに、キユさんの姿はとても力強く見えました。この人は100歳を軽く超える人だと思いました。

  (2023年9月17日)

 

 

第772回 サプライズ

 「これからサプライズがあります」、シギタニさんがそう宣言した時、会場にいたみんなが、これからいったい何が行われるのだろうかと思いました。川谷地域運動会が無事終わって、懇親会に入ってまもなくのことです。

 みんなの気持ちをさぐるように、シギタニさんが「誕生日の人いないかな」と言ったので、「結婚記念日の人でもいるのか」という声も聞こえてきました。でも、そういうことではありませんでした。

 元地域おこし協力隊の石川さんが川谷に移住して10年という節目の年だったので、それを祝い、石川さんを激励する企画が準備されていたのです。

 石川さんにはまず、大きなケーキと花束が渡されました。続いて、シギタニさんの子どもさんが、空気を入れて膨らませた数字をかかえて運んできました。運んできた数字は「1」と「0」です。膨らんだ数字を並べると「10」になります。子どもさんからは、「10」という数字と虹が描かれた絵もプレゼントされました。石川さんはもうびっくり、まさにサプライズです。石川さんだけでなく会場のみんなが感激して拍手を送りました。

 思いがけないプレゼントに石川さんは、「本当にびっくりしました。しゃべるのが苦手で農業しに来たのに、こういうとき何言っていいか、わからないけどうれしいです」「10年間は皆さんからの手助けなしにはありませんでした。迂回路、芝火災など支えられてばっかり……。これからは支えられている分、恩返ししなきゃという気持ちです」と挨拶しました。会場からは、「頑張れ」という声がかかりました。

 三輪さんが、プレゼントを手にした石川さんの記念写真を撮ろうとしたとき、シギタニさんが、「みんなと一緒がいいんじゃない」と言ったので、体育館の舞台の上から石川さんを中心にして参加者全員の写真を撮ることとなりました。撮影にあたり、舞台に向かって右側の人は片手を上げて「1」の文字を作り、左側の人は両手を上げて「0」を作りました。素敵な記念写真になりましたね。

 この後、ケーキカットの儀式も行われました。ケーキを普通の包丁でどう切るか、少し考えた石川さんは、ゆっくりとケーキを切り始めました。なかなかうまく切れません。シギタニさんもケーキ切りの応援に乗り出しました。

 ケーキを切れば、当然、それを入れる皿なども必要です。誰かが、その食器を探しに旧校舎棟に走りました。こうして、慰労会は、急遽決まった結婚式のような雰囲気になっていきました。

 今回のことは何人かが密に企画したようです。石川さんは、「おれよりもずっと長く住んでいる人がおられるのに、もらっていいのかなあ」とつぶやいていました。

 そこは、遠慮することはありません。地域から離れていく人がいる中で、雪の多い川谷地域に住んでくれる人がいる。地域住民にとっては、それほど励みになることはありませんから。

 カットされたケーキは20個くらいになったでしょうか。子どもや女性参加者中心に配られました。配られた人たちは、運動会でケーキを食べられるとは思っていなかったようで、うれしそうでしたね。

 この日は、法政米米クラブの内藤さんなど川谷地域に感謝の思いを持って地域外から参加している人が何人もいました。星山さんもその1人です。星山さんが仕事の関係で遅くなり、会場に到着したのは慰労会をそろそろ終えようかというタイミングでした。多くの人が「今年は来ないのかな」と思っていたので、これもサプライズ、みんな大喜びでした。    

  (2023年9月10日)

 
 
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