春よ来い(33) |
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第783回 楽しいお茶飲み会 世間にはお茶飲み会を楽しくやる名手がたくさんおられるんですね。先日、柿崎区のSさん宅でお茶をご馳走になったときに一緒になった3人の方もそうです。今回はその一部を「実況中継」します。 Sさん宅のチャイムを鳴らし、玄関ドアを開けたら、「あら、橋爪さん。お茶いかがですか」とSさんに誘われました。「お客さんがいなるみたいだし、またにするこて」と言ったのですが、「まあ、そう言わんで」と再度誘われ、お邪魔しました。 居間に入らせてもらうと、そこには80歳前後に見える2人の女性がおられました。そのうちの1人はKさんです。吉川区芸能発表会などで何度か見かけ、一度だけですが、Sさん宅で一緒にお茶を飲んだことがありました。もう1人は初対面でしたが、母が長年笹採りでお世話になった家の親戚筋のMさんでした。 4人のお茶飲み会で最初に話題となったのは私が発行している活動レポートです。私が3人に活動レポートを配ったとき、Sさんが「絵も描いていなるんだよ」と他の2人に紹介してくださいました。そこで、3人には活動レポートに掲載した青春コンサートのイラストを私のスマホ画面で見ていただきました。 イラストはブルーブラック(青黒)のボールペンで描き、コピックペンを使って色塗りをしています。スマホの画面を見てくださったみなさんは、「あらー、こんなふうになっているんだ」「カラーできれいなんだね」などと喜んでくださいました。 続いて、笹の葉採りのことが話題となりました。母が採っていたころは1枚2円くらいだったと言ったところ、Mさんは、「いまはそんなもんじゃないわね。もっと高くなっていますよ」と応じてくださいました。Mさんによると、笹団子にせよチマキにせよ、笹の葉を確保することが大変になっているとのことでした。 お茶飲み会が一気に盛り上がったのは食べ物の話になってからです。この日はテーブルの上にはリンゴ、ミカン、大根の漬物のほか、ニンジン、コンニャク、ホタテ、大根、チクワが入った煮物、それに茹でたサツマイモが並んでいました。このなかでもMさんが持参したという煮物が人気で、「いい味だね。煮物は時間をかけた方がおいしい」「あっため返しがまたいい」などの声が出ました。そして、テーブルにはなかったのですが、冬瓜(とうがん)の食べ方についても「大根と同じでいいのじゃないの」「まだ他のやり方もあると思うよ」などと賑やかになりました。 政治の話題も次々出ました。車でやってきたKさんが、車がなければ買い物にも、実家にも行けなくなるという話をされ、人口減少のことも出ました。山間部のある集落でまた1軒減るという情報から、Sさんが、「どうしてこうも人口が減るのかね」と私に質問されたので、「国の経済政策がダメだったね。ここ30年、働く人たちの賃金を抑え、非正規の人を増やしたことで若い人は結婚もできなくなった。子どもも育てられない」と答えました。 これにすぐ反応したのがKさんです。「国会で寝ている議員をなくさんきゃだめだね。おれ、最近、政治の話をすると、みんなから〝おまん、総理大臣やってくんない〟と言われるんだわ」。おそらくKさんは、どんな問題でもズバッと自分の考えを言う人なのでしょう。 この日のお茶飲み会は約1時間に及びました。打ち解けた雰囲気づくりがうまいSさん、煮物を持参するなど、みんなから喜んでもらう算段をしてきたMさん、そして話を分かりやすくする「総理大臣」のおかげで私も楽しい思いをさせていただきました。総理、次回もよろしくお願いします。 (2023年12月3日) |
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第782回 小春日和の日に(2) 5か月ぶりくらいでしょうか、E子さん宅を訪ねたのは……。注文していただいたエッセイ集『花嫁行列』を2冊持っていくと、E子さんは、美味しい沢庵漬けを出して、楽しい時間を作ってくださいました。 いつもなら、玄関の戸を開けた瞬間、飼っておられる犬が私に飛びついてくるのですが、今回はそういう「歓待」はありません。 「あれー、いつもの犬はどうしたの」と訊(き)くと、E子さんは南側のベランダの方を見て、「きょうは暖かいから、あそこで日向ぼっこ」と教えてくれました。 この日は気温が上昇し、最高気温は平年よりも3度ほど高い15度に達していました。家の中にいるよりも外に出ていた方が暖かい日でした。 ベランダを見た時、犬と目が合いましたが、こちらに向かって動く様子は全く見られませんでした。外の方がよほど気持ちが良かったのでしょうね。 「あそこからは妙高も見えるんでしょ」と言うと、「一番左に斑尾山、それから飯縄山、黒姫、妙高、火打、焼山と見えるの」とE子さんは言いました。自分の家から頸城三山も周辺の山々も見えるなんて羨ましいですね。 E子さんとの間で話題となったことの1つは、先日行われた山直海の専徳寺住職の葬儀のことでした。わが家もE子さんの家も専徳寺の檀家です。2人とも葬儀に参列していました。 「喪主を務めた副住職のお礼の挨拶が良かったわ」 「都合で終わりまでいられなかったけど、総代の高二さんの挨拶や敏明さんの弔辞は聴くことができた。いい話だったね」 「ほんとに良かったね。敏明さん、事前にエピソード探しをしなったみたい。弟さんが住職と同級生だったから、弟さんにも訊きなったんじゃないかな。同級会かなんかで飲んだとき、酒好きの住職が茶碗を使ってチャカチャカやり、ひょうきんなところもみせたという話は弟さんの情報かも」 「そうだったんだ。よく知っていなるなあと思った」 今回のエッセイ集『花嫁行列』のなかには、専徳寺住職の人柄の一端を書いた「お寺さんのひと声」というエッセイも入っています。そのことを紹介すると、住職をめぐり話題がさらに広がりました。 E子さん宅の居間にはストーブが出してあり、その上に大きな柚子(ゆず)が置いてありました。ジャンボ柚子です。それも話題になりました。 「橋爪さんから写真撮ってもらおうと思ってね」と言われたので、ストーブからテーブルの上に移動してもらい、大きさをはかりました。 表面はごつごつしていますが、ほぼ丸型で直径が15㌢もありました。写真に撮ってから、柚子の底にあたる部分を下から見てみると5㍉ほどの穴が開いています。 「なんだ、こんな風になっているんだ」 「私も知らなかった」 「なんかお尻の穴のようにも見えるね。ちょっと嗅(か)いでみるか。おお、いい匂い。やはり柚子の匂いだわ。おまんも嗅いでみない」 「あら、ほんと、いい匂いがする。でかいけど、中は実が入っていないのかもね」 2人の話はなかなか尽きなかったのですが、約1時間ほどのおしゃべりで気持ちをリラックスできました。 この日はいわゆる小春日和の日でした。夕方、近くの池の遊歩道を散歩していて、センブリやオヤマボクチなどいくつかの野の花がうれしそうに咲いているのを見つけました。この時期、暖かいと気持が良いのは、植物だって人間だって同じです。 (2023年11月26日) |
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第781回 鳥かご 青年団時代からお世話になっていたSさんが亡くなったというので、先日ご自宅に伺い、お参りさせてもらいました。 お参りした際、Sさんの遺影の話になりました。お連れ合いによると、Sさんの写真は帽子をかぶったものが多く、遺影に使える写真がなかなか見つからなくて困ったとのことでした。 でも、Sさんの顔が写っていれば、どういう写真でもSさんの人懐こい、やさしい目は同じです。遺影は眼鏡をかけていませんでしたが、目を見ただけで、誰もが「これはSさんだ」とわかるものでした。 正直言うと、ここ2、3年Sさんに会っていませんでした。ですから、以前の元気だった頃の姿しか思い浮かべることができません。それだけに、お風呂に入るとき苦労したとか、トイレに行くにもお連れ合いの手を借りないと行けない状態になっていたという話を聴いて驚きました。 さらに驚いたのは、救急車で病院に運ばれ、しばらく入院することになるだろうと思っていたら、入院したその日の夜に亡くなってしまったということです。病院では、「今夜が山だ」とか「もう1週間持つかどうか」などといった話は1つもなかったそうです。それが入院当日の夜に緊急連絡ですからお連れ合いも子どもさんもショックだったと思います。お連れ合いは、「びっくりして涙も出なかった」と言っておられました。当然だと思います。 お連れ合いからは、Sさんが大潟区のY商事に勤めていた当時の同僚の人との思い出話やその人の近況などを聞き、懐かしく思い出しました。どの人も私が知っている人たちだったからです。 話をしていて、ふと目に入ったのは、居間の外に置いてあった小鳥を入れるための鳥かごです。縦25㌢、横35㌢、高さ25㌢ほどの小さな鳥かごでしたが、まだ使っている雰囲気が漂っていました。それもそのはずです。鳥かごの中にいた小鳥がいなくなってからまだ1日くらいしか経っていなかったのです。 この鳥かごには、亡くなったSさんが世話をしていたヤマガラが入っていたといいます。お連れ合いによると、Sさんは体調を崩してからも1時間くらいかけて鳥かごの掃除、エサ作りなどをやっていたとのことでした。小鳥が好きだったのが一番の理由だと思いますが、このヤマガラの世話をすることが自分の仕事だとSさんは思い、その仕事をすることを楽しみにしていたのでしょうね。 葬儀の日、お連れ合いだと思うのですが、この鳥かごの出入り口を開いたそうです。外へ出ていってもいいし、残ってもいいと思われたのでしょうが、中にいたヤマガラは開いた出入り口から外に飛び立って行きました。 それでも気になるのでしょう、お連れ合いは、ひょっとすれば、また、ヤマガラは戻るかも知れないと思い、時々見ているそうです。でも、私が訪ねた日までには戻ってきていませんでした。ヤマガラは仲間たちがいる林のなかにいるのでしょうか。 その鳥かごのすぐ近くまで行き、中を見せていただいたら、小さな水入れの容器には水が残っていました。また、鳥かごの上にはきれいなオレンジ色の柿が置かれていました。甘柿ではないかとお連れ合いは言っておられましたが、少しとがっているところがあり、私には渋柿に見えました。 Sさんの家を訪ねてからすでに数日経ちました。鳥かごから外に出て行ったヤマガラはいまどこにいるのでしょうか。鳥かごの上にあるオレンジ色の柿は目印になります。私の勘ですが、この柿が熟す頃、ヤマガラが再び戻ってくるような気がするのです。Sさんのことを思い出して……。 (2023年11月19日) |
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第780回 海にかかった虹 幸運と言えば幸運でした。 連れ合いのキョウダイとの小旅行で、柿崎のマリンホテルハマナスに泊まった翌日の朝八時頃のことです。窓の外を見ていた一人が、「あっ、虹が出ている」と言ったので、すぐに窓のそばまで行きました。「おお、これは素晴らしい」と思いました。荒れ狂っていた海の上にきれいな虹の橋ができていたのです。 カメラを持って窓際で撮影しましたが、窓ガラスには波のしぶきがかかっていましたし、ガラスに網が入っていて、うまく撮れません。それで、サンダルに履き替えて、海が直接見れる場所まで行きました。 この日は、まともに立っていることができないくらい強い風が吹き荒れていました。それでも脇を固め、カメラを構え、何とか撮影することができました。 これまでの私の人生では何度か素敵な虹と出合っています。刈り取り前の黄色い田んぼの上空にかかった虹などです。そのたびに虹はいつもきれいだなと思ってきました。でも、海にかかった虹を見るのは今回が初めてでした。消えないうちにと思いながら、4枚ほど写真を撮りました。 撮った写真の一番手前には、しぶきを上げた波があり、虹の橋のバックには雲が横たわっています。そして、その雲の上は真っ青な空です。願ってもない風景写真となりました。 その後、食堂へ行きました。すでに連れ合いや義兄などがテーブルについていました。そこでも虹が話題の中心になっていました。寒くなってからの虹はすぐ消えると言われていますが、この日の虹は何と40分以上も持ちこたえました。 この日、朝食に出されたおかずは、納豆、焼いた鮭の切り身、半熟の卵、サラダ、レタスなどの生野菜でした。前の晩の夕食の時もそうでしたが、目の前に出された食べ物そのものやそれにまつわる話が必ず出て、楽しんで食べました。 まずは鮭の切り身です。これがまた良く焼けていて美味しかったのです。今年は鮭が異常に少なく、高価だと聞いていましたが、みんなで「美味しいね」を連発してただきました。 自分で作った料理はそれとしての魅力がありますが、旅に出て、他人に作ってもらった料理をいただくのは、また別の喜びがあるんですね。特に義姉などの「美味しいね」には一味違った雰囲気がただよっていました。 食後、私がコーヒーを飲むと、連れ合いや義姉もコーヒーを飲み、連れ合いはさらにコーラももらってきました。再び席に座った連れ合いは、「うちはあんちゃんが買ってきたような気がする。苦いとか言って……」と言いました。その話の続きで、私からもひと言いいました。 「じつは、この間、Kさんから弟に渡してくれと言われ、コーラのビン、預かったんだわ。渡さないうちに亡くなっちゃった」 すると、連れ合いが、 「コーラのビンに、花生けてやればいいんじゃない。前に勇くん、ホタルブクロが咲いたと言って、ビンに入れて持ってきてくれたことがあるよ」 話の間に何度も海を見ましたが、そのたびに、「まだ虹が出ている。すごいね」という声が出ました。 私が撮影した虹の写真の1枚は全国に発信しました。私が発信した写真を見た一人に、その日の朝、お連れ合いを亡くされた女性がいました。その方が「心洗われる虹を見せていただき、ありがたくて……」というコメントを寄せてくださいました。 虹は悲しみを乗り越える力を与えてくれます。40分もの長い時間にわたり美しい虹を見せてくれた、この日に感謝です。 (2023年11月12日) |
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第779回 朝風呂 温泉に泊まった時の楽しみの1つは朝風呂です。今回の地元老人会の旅行でも朝六時頃にお風呂に入りました。 浴衣を脱いで、すっぽんぽんになって大きなお風呂に入ろうとしたら、その手前の小さな露天風呂に入っている人の姿が目に入りました。同じ部屋の「もりよし」さんです。 じゃ、オレも露天風呂に、そう思い仲間にしてもらいました。そこにもう1人、井上さんも加わり、朝風呂にゆっくりつかりながら、おしゃべりを楽しみました。 露天風呂の外には川の流れが見えます。きれいな水です。そして、川からの高さが70㍍ほどの山が迫っています。 風呂のなかでは、まず今年の紅葉のことが話題になりました。すぐ近くのケヤキは多少色づき始めていましたが、川向こうの山はまだかなり先といった感じです。 3人のうちの1人が、「今年は紅葉はダメだね」と言うと、「標高の高いところは遅いらしいよ。暑い夏が続いたし、秋になっても寒暖差がなかったからね」と「もりよし」さんが解説してくれました。 続いて柿です。これは私から口火を切りました。「今年は生り年なのに、今年、家の甘柿は、数が少なくてダメだねー」と言いました。私が言ったのは、わが家の庭と事務所の近くにある甘柿のことです。すると、また、「もりよし」さんが、「おらちも全然だ。むいて干す皮も手に入らない」と応じてくれました。 この日の朝、旅館の川向こうの木が気になっていました。じつは前の晩、午後7時半ころから川向こうの舞台で、ライトが照らされる中、踊りが披露されました。その際、舞台の左上後方にオレンジ色のものが見えていたのです。その時、柿だろうと想像していましたが、やはり、柿でした。 柑橘類も話題になりました。まずは、ゆずです。 「正式には近江柚子と言うんだでも、家のそばで、でっかいのがいくつもなった。みんな受粉手伝った。元農協職員だった原之町のHさんの隣の家のゆずは見事だ」 キンカンは、花の話から。少し前、「もりよし」さんの家の植木鉢で、小さな白い花が咲いていたので、スズコさんに「これ、なんていう花だね」と尋ねたことがありました。「キンカンです」という言葉を聞いて、「これがキンカンなんだ」と言って、黄色の小さな実をつけるところまで想像しました。そして、「今度、チラシに載させてもらうね」と約束したものです。そのことを私が言うと、 「キンカンの花は3度咲く。2回目んのが実をつける。これもオレがつけた」 そう言って、「もりよし」さんが教えてくれました。正直言って、こんなに詳しいとは思っていませんでした。冗談交じりに、「自家受粉じゃ、かわいそうだね」と言うと、「人間と同じように、花には花の世界があるんさ」という言葉が返ってきました。 朝風呂談義の中で一番賑やかになったのは栗の実のことです。井上さんの、「今年は豊作だ」という言葉を皮切りに、 「山栗ですか」 「家栗です」 「皮は剥きやすいように、水に浸しておくのかね」 「いや、生のまま皮むいている」 「手か痛くなるんだよね。おっかさ、ゆびにテープ巻いてる」 「うちも生だ」 「うちは皮剥き器、使っている」 話は、ゆっくりつながっていきました。 朝風呂で久しぶりに味わった朝のゆったり感、いいもんですね。この日は一日中、元気に飛び回ることができました。 (2023年11月5日) |
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第778回 どうしたが 今月12日のことです。スマホでフェイスブックを見ていたら、偶然、母の動画が出てきて、「どうしたが」という母の声が聞こえてきました。 このとき、私は亡くなった大潟区の弟の家にいました。正確な時間は記憶していないのですが、弟の納棺の前の段階だったように思います。 フェイスブックでは毎日、過去の同じ月日に投稿した過去の写真や動画などを教えてくれます。母の動画はそのうちの1つだったのです。いまから2年前の2021年の10月12日に投稿したもので、私が居間にいる母にカメラを向けたとき、母がたったひと言、「どうしたが」という言葉を発したのです。 普通であれば、どうってことのない言葉ですが、弟が亡くなり、納棺、通夜式へと進む流れのなかでは、いかにも母の気持ちを表した言葉に聞こえてきて、切なくなりました。 この動画を投稿した当時、母は健在で、居間のコタツのそばの電動椅子に腰かけて、よくテレビを見ていました。たぶん、私がいつもとは違った時間に帰って来たので、「どうしたが」と声をかけてきたのでしょう。 どうあれ、母が生きていれば、それこそ「どうしたが」と言って、私に訊(き)いて来たはずです。それほど、弟の死は突然やってきました。 弟が救急車で病院に運ばれたのは、10日の夕方でした。市内の工務店の方から電話で、「弟さんが仕事の現場で倒れておられて、いま、救急車で運んでもらうところです」という知らせが入りました。 電話を受けた時、私はデスクワークを一休みしていて、居間にいました。もちろん、信じられませんでした。前の日には母の一周忌法要を営み、元気に仕事の現場に行く姿を見たばかりだったのです。病気だとか、体調がいまひとつだとか、そういった話はひとつも聞いたことがありませんでした。 その後、救急隊員から、弟の名前、生年月日、住所などの問い合わせがありました。これはたいへんだと、雨が降るなか、車を病院へと飛ばしました。 途中、大声で何度も天国の母に、「カチャ、勇を助けてくんない、頼むすけ」と呼びかけました。救急隊員とのやりとりのなかで、心臓も呼吸も止まったままだということが分かったからです。涙があふれ出て、どうにもなりませんでした。 病院の夜間用玄関には40分ほどで着きました。そこでは弟の子ども(長男)が待っていました。「どうだ、なんとかなりそうか」と訊いたのですが、「きびしい」との返事でした。 弟の連れ合いが病院に着くと、一緒に集中治療室に入りました。心臓マッサージの機械が動いていましたが復活には至らず、医師から、「これ以上やってもかわいそうです。止めていいでしょうか」と判断を迫られました。もう、うなずくしかありませんでした。 亡くなった弟は、小さいときから祖父・音治郎に可愛がられ、一緒に寝てもらっていました。そして、父の影響も大きく受けて育ちました。骨董品を集め、仕事の合間に自分の趣味である絵などの作品づくりを楽しむ、弟の暮らしに対する姿勢は最近、父親そっくりになってきていました。 亡くなる2日前、50年も前に使っていた電気スタンドまで持参し、兄弟3人の懇親会を盛り上げたのは大潟の弟です。まだ67歳、早すぎる死でしたが、ここで私が元気をなくしていたら、それこそ「どうしたが」と母を心配させてしまいます。頑張らなければ……。 (2023年10月22日) |
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第777回 電気スタンド 母が亡くなった日から1年が経った先週の日曜日、私のすぐ下の弟夫婦が愛知県から帰省しました。大潟区に住む、その下の弟、勇もわが家にやってきました。 翌日の一周忌法要を前に、「たまにゃ、兄弟で飲んで、トチャやカチャの話でもしようさ」ということで寄ったのです。 愛知県の弟がわが家に着いたのは午後7時頃でした。昨年、母が亡くなる3週間ほど前に、一度帰省し、母に声をかけて励ましてくれたのですが、その後は葬儀の時も含めて来ていませんでした。亡くなってから母に会うのは今回が初めてです。 家に入ってからすぐに、仏壇脇の母の遺骨と遺影の前に行った弟は、母の小さなコツ袋をのぞき、「カチャ、来たよ」と言って声をかけました。亡くなった母に弟の声が届いたかどうかはわかりません。でも、母は喜んだことと思います。 3人の兄弟がそろったところで、缶入りの生ビールで乾杯していっぱい会はスタートしました。今回は愛知の弟が飲み物や食べ物を用意してくれました。大潟区の勇もブドウなどを持ってきてくれました。刺身やてんぷら、豚レバー焼きなどを食べながら、ビールを2缶ほど飲みました。 この日は大潟区の勇がまず、父の思い出を語り始めました。 「この家にある骨董は大きな甕(かめ)などみんなトチャが集めたものだ」 「たしかにそうだな」 「トチャが自分でつくった木彫りの飾り物には『末代古楽』というのが押してあったこて。そのもとの焼きごて(ハンコ)、どこに行ったもんかね」 「牛舎、壊した時、どっかに片づけたかもしんねな。どこだか、わからん」 「トチャの木工の道具、いくつかオレんとこにあるけど、河沢のヤコちゃんにやってもいいかな。使ってもらえる人にやった方がいいと思って……」 「そりゃ、そうしてくんない」 いうまでもなく、母の思い出も次々と語られました。特に笹の葉採りについては、毎年どれくらい採ったとか、それをどこへやったかなど私がよく知らなかったことも話に出て、興味深く聴きました。 父と母の思い出話が盛り上がったところで、大潟区の弟が自分の車の中から古い電気製品を持ってきました。 「これ、たぶん、兄貴が高校時代、下宿していた時に使ったもんだと思うんだけど」 そう言ってみんなの前に出したものは電気スタンドでした。赤と白のスイッチ、横長の蛍光管、見覚えのあるものでした。間違いなく、私が使っていたものです。いったいどこにしまってあったのでしょうか。勇が昔の物を大事に保管していることは知っていましたが、まさか、私の高校の下宿生活時代の物まで保管してあるとはびっくりしました。 この電気スタンド、50年ほど前に使っていたものですが、3人の注目は電気が点くかどうかでした。最初に勇がスイッチをかまいました。でも点きません。 やはりだめか、そう思っていたところで、「俺の出番だ」とばかりにテレビの前に陣取って、スタンドをかまい始めたのは愛知県に住む弟です。この弟は旧源中学校を卒業後、稲沢市のある電気屋さんに勤めていた経験があるのです。 約10分くらい経ってからだったと思います。愛知の弟がついに電気を点けました。蛍光管の端が黒くなり始めていましたので、無理だと思っていたのですが、見事にパッと点けたのです。3人は「おおっ」という声を出し、喜び合いました。これで一気に思い出話がにぎやかになりました。 (大潟区の弟、勇は、母の一周忌の翌日、急死しました。大変お世話になりました) (2023年10月15日) |
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第776回 母のメモ 思わず微笑んでしまいました。 先日、テレビのそばに行ったとき、テレビを置く台の端っこに、「赤いせんは取らない様におねがいします」というメモが目に入りました。 「赤いせん」というのはテレビのそばにある細長いコンセントタップにはめた「上越ケーブルビジョン」の放送機器用電源プラグのことです。プラグには、細い赤のテープが巻いてあって、そこに「抜かないでください」と書いてあるのですが、よく見えません。それで、母が数年前、白い紙にボールペンで同じ趣旨のことを書き、みんなの目に入るようにタップのそばに置いていました。 母が亡くなってから、このメモはどこかに片づけたか、あるいは捨てたものと思っていました。ところが、その母のメモはタップのそばからは離れたものの、テレビの脇にちゃんと置いてあったのです。 久しぶりにこのメモを見たとき微笑んだのは、まだ私たちに「抜くなや」と伝えようとしている母の気持ちを感じたからです。亡くなって1年経っても、母は私たちを見守ってくれている。そう思ったら、うれしくなりました。 よく見ると、母のメモ書きはじつにしっかりとした文字で書かれています。少し縦長ですが、読みやすく、しかもきれいです。おそらくわが家の中では一番字がうまかったと思います。 このことがあってから数日後、今度は私のスマートフォンが「チン」と鳴ったので、何事かと手にしてみたら、写真の中にある「ForYou」(あなたに)という機能が作動して、昨年の「秋」の写真が次々と映し出されました。 この「秋」は昨年の秋に撮った写真のなかから代表的な写真を28枚選び出し、まとめたものです。米山の写真から始まって、紅葉の写真まで入っているのですが、これらのなかに母の写真が何と9枚も入っていました。いずれも大事な写真で、母からの贈り物のように思えました。 そのうちの1枚目は、母を家で看取るために退院させてもらった昨年の9月15日の母の写真です。父の妹である河沢の叔母がベッドで眠る母に声をかけると、母がそれに応えて目を開けました。その瞬間の写真です。母が目を開けた時、目の前の人が誰であるかわかったかどうかはわかりません。でも、明らかに顔が見えたという表情でした。「ああ、家に連れて来てよかったな」と思った記念すべき写真でした。 母が退院した日の午後から翌日にかけて、母の部屋には親戚の人たちや近所の人たち、私の兄弟、私の子どもなどが次々と母に会いに来ました。帰宅後の2枚目の写真はわが家の居間の風景です。そこには私の連れ合いや母が最も会いたがっていた孫の元気夫婦とその子どもの姿がありました。母と再会し、みんなが「良かったね」と喜んでいる姿が写っていました。 3枚目には、母の痰(たん)をとっている訪問看護師さんと長女の姿が写っていました。母の自宅での看取りの期間中、何よりもお世話になったのは看護師や介護のスタッフのみなさんでした。いまでもこの期間中、わが家に出入りしてくださったYさん、Kさん、Tさん、Sさんなどのスタッフの方々の顔が目に浮かびます。 今月の8日は母の祥月命日です。1年経ちました。生前、母と交わした最後の言葉は入院当日の深夜でした。母が「おれ、死んだがか」ときいてきたので、「なして、死んでなんかいないよ」という言葉を返しました。母の「赤いせん」のメモなどを見たいま、母に「おれ、死んだがか」ときかれれば、やはり同じ言葉を返します。「なして、死んでなんかいないよ」と。 (2023年10月8日) |
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第775回 産みたての卵 焼いて食べる。ゆでて食べる。ご飯にかけて食べる。卵の食べ方として浮かぶのはそんなところでしょうか。 でも、もう1つあることを忘れていませんか。「食べる」という大きな「くくり」のなかに入ると思うのですが、「飲む」というやり方です。 先週の木曜日、Kさん宅を訪ねたら、玄関わきの蛇口でさっと何かを洗い、「これ、食べてみてくんない」と言われました。見たら、小さめなニワトリの卵です。それも産みたての卵でした。 「ありがとうございます」と言っていただいたのですが、ちょうど市役所に向かう途中でしたし、家に戻る時間もありません。車の中やカバンの中でうっかりつぶそうものなら後の始末がたいへんです。となれば、「これは、もう飲むしかないな」と思いました。 それで、車を木陰のところに止めて、ティッシュを取り出し、それで卵を包むようにしながら、車の硬いところで恐る恐るコンコンとやりました。割れ目が入ったところで、指を使って、割れ目を広げ、そこに口をつけて、チュウチュウ吸いました。 飲んだ瞬間、「あたたかい」と思いました。Kさんが卵の表面の汚れを落とすためにサッと水洗いしたのですが、それでも中身は温かいままだったのです。これには感動しました。 ニワトリの卵をこんな風にしていただいたのは何十年ぶりでしょうか。私の記憶では、わが家が尾神岳のふもとにあったころ、それもまだ、私が子どもだった頃かと思います。産みたての卵に穴をあけ、グイッと飲んだときは美味しかったですね。 数十年ぶりに卵を飲んだ私は、インターネットで、いただいた卵の写真と共に全国に発信しました。すると、「産みたて卵、久しく触って無いなぁ」とか「生卵を飲みますか。素晴らしいです」などのコメントが次々と寄せられました。 それらのなかには、「子どもの頃は、鶏小屋に行くのが楽しみでした。昔のことを思い出しました」というのもありました。もちろん、私も思い出しました。子どもの頃、わが家でもニワトリを数羽飼っていました。言うまでもなく、目的は自分の家で使う卵を得るためです。春になれば、農協からまだ薄黄色い「ヒヨコ」(雛)が届けられました。段ボール箱に入ったヒヨコたちはかわいかったですね。 ヒヨコたちをどう育てかは記憶していませんが、場所は家の前にあった小屋の一角だったと思います。そこで数か月飼うと大きくなり、卵を産むようになりました。 そのニワトリたちに大根などの葉を刻んでエサを作り、与える仕事は私や弟たちに与えられました。そして産んだ卵をとってくるのも私たちの仕事でした。 ニワトリを飼っていた一角は板と金網で囲ってありました。これはニワトリが逃げて行かないようにするだけではなく、イタチやヘビなどの外敵からニワトリを守るためでした。特に注意したのはヘビです。ヘビはちょっとした隙(すき)をついて囲いの中に侵入し、雛(ひな)や卵を呑みこむことがありました。卵を呑みこんだために胴の一部が大きくなって囲いから出られなくなっているヘビを棒で外に放り出したこともあります。 卵をもらった2日後、Kさんと会う機会があったので、お礼を言い、「卵、温かかったね」と言うと、「そりゃ、産みたてだもん」と言われました。Kさんによると、都会から田舎体験に来る子どもたちに見せたくて飼い始めたとのことですが、私が飲んだ卵は、今年購入したヒヨコが大きくなって産み始めたばかりのものだったそうです。最高の卵をいただきました。 (2023年10月1日) |
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第774回 セイコさんの店 「おれ、一度、セイコさんの店、行ってみたいと思ってさ。どこらへんにあるがかね。教えてくんない」 先日、従妹(いとこ)のエコちゃが急にそう言いました。その日は、昼飯をセイコさんの店「あひる」で食べたばかり、あまりにもタイミングがぴたりで驚きました。 話を聴いてみると、エコちゃはセイコさんの実家の人たち、特に亡くなったお父さんに特別な思いを持っていたようです。 子どもの頃、セイコさんの実家は私やエコちゃが住んでいた蛍場から旧源小学校水源分校に至る通学路の近くにありました。エコちゃは、私以上にセイコさんの家のことをよく知っていました。 「セイコさんのお父さんは目がぎょろっとしていて、怖そうに見えた。9月の十五夜には柿泥棒をしてもいいことになってたこて。そん時、見張っていなったもんだ。でも、とてもやさしい人だった」 「あそこの家は道具を大事にする家で、砥石(といし)ひとつ失くしただけでも、子どもは捜しに行かさんてたこてね。暗くなっても」 エコちゃの家とセイコさんの実家とは五百㍍ほど離れていました。それでいながら、よくもまあ、細かいことまで知っていたものです。 話の途中、持ってきてもらった紙に、ボールペンでセイコさんのお店の近くにあるホテルやセレモニー会場の位置、お店に至るルートを描くと、エコちゃは真剣な表情で私の説明を聴いてくれました。 エコちゃがセイコさんのお店に行ってみたいと思うようになった直接のきっかけは、この「春よ来い」にお店のことを何度か書いたからとのことでした。そうなると、私も知っていることを話したくなります。2人の会話がはずみました。 「そう言えば、おまん以外にもお店に行きたいと言って、行きなった人、何人かいるみたいだよ。坪野出身のMさんも行きなったということをきいたことがあるし……」 「他には?」 「そだこてね、すぐ名前出てこねでも、おれより先輩の人とか、尾神出身のしょとか、何人もいなったね」 「尾神のしょもかね」 「そいが。おまん、知ってなるかどうか、トナリ(屋号)のM子さんとは店で何回か会っているよ。おれより一級上だけどわかんなるかね。お袋さんの面倒、ちゃんとみていなった、いい人だよ」 「二つ上だでも、わかるわね」 じつは、このほかにも坪野から春日山方面に出た人とか、大島区田麦の人などが訪れていることを知っていたのですが、エコちゃとは付き合いがなさそうだし、私からは話しませんでした。 前にも書いたことがありますが、セイコさんの店は、カウンター席とテーブルが3つの小さな食堂です。でも、いろんな人が集まり、楽しいおしゃべりができる。それが魅力なんですね。 エコちゃは完全に乗り気になりました。 「店は、何曜休みかね」 「曜日で決めてはなくて、不定期なんだわ。だから行きなるときは、電話してから行ってくんない」 「そいがかね」 「何か食べるんであればお昼に行った方がいいよ。ほかの時間であれば、コーヒーなんかも飲めるけどね」 セイコさんは、私の父やエコちゃの母親(伯母)のことはよくご存じです。とくにエコちゃの母親には、人との接し方などで尊敬の思いを強く持っていてくださいました。エコちゃがセイコさんのお店を訪ねることを知れば、きっと話ははずんで、終わらなくなるかも。 (2023年9月24日) |
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第773回 カボチャとヨンゴ 昨年の秋以来ですから、10か月ぶりということになるでしょうか。8月下旬、上越市東部の山間部に住むキユさんの家を訪ねました。 居間の東側の戸も前庭の戸も閉まっていたので、留守かも知れないと思ったのですが、玄関の戸は開いていました。「いなったかいね」と声をかけ、様子を見ていたら、キユさんが少し腰を曲げて出てこられました。 キユさんは、私の顔を見るなり、「入ってってくんない」と言われました。「いやー、時間ないし、またにするこて」と断ったものの、「いいねかね」と何度も誘われ、迷いました。 家に上げさせてもらえば、あっという間に20分や30分が経ってしまいます。申し訳ないと思いながら、丁寧にお断りしました。じつは、この日、松之山へ行く予定があり、遅くなりたくなかったのです。 でも、すぐに「さよなら」できる雰囲気ではありませんでした。私が居間に入る気配がないと判断したキユさんは、玄関の外まで出てきて、しゃべり始めました。 「お母さん亡くなって、さみしくなんなったろね」 キユさんはずっと私の母のことを気にしてくださっていました。お会いした時、「お母さん、元気でいなったかね」という声を聞かないことはありませんでした。 私は、さみしいかどうかに答えるのではなく、「98歳でした。よく頑張ってくれたと思います」と言いました。すると、キユさんは、「おれはいま94だすけ、まだおまんちのお母さんの歳まで4年ある」と言います。すかさず、「まだまだ若くていなるんだね」と応じました。 正直言うと、キユさんの年齢はもっと若いと思っていました。だから、驚いたのですが、見た目はまだ80代後半に入ったばかりくらいに見えていたのです。 こういうやりとりを始めたら、もういつものパターンです。話は簡単には終わりません。 「おれなんて、家にばっかいる」 「そんでいいがどね。あっついし」 「そこの田んぼの畑にカボチャとヨンゴ、一本植えただけだ」 「そりゃ、大したもんだ」 「草だらけにしておいたがでも、ヨンゴは八本なった。カボチャもいくつもなったすけ、嫁さん、持って行った」 「すごいね。じゃ、おれも見ていこ」 話の成り行きで、カボチャとヨンゴがとれたという畑まで行きました。 畑は納屋のすぐそばにありました。面積的には4畝くらいでしょうか。一人暮らしの人にとっては少し大きすぎる畑かも知れません。何よりも草刈りが大変ですから。 畑は、お盆前に息子さんが草刈りされたのでしょう、きれいになっていました。手前にヨンゴ、奥の方はカボチャが植わっていました。それだけではありません。ナスも7、8本植わっていましたし、地ばい瓜と思しきものもありました。 94歳の人がカボチャとヨンゴを植えたというだけでもすごいことだと思っていたのに、やはり、長年、畑仕事をしていた人のやる仕事です、丁寧に管理されていることがわかり、大したもんだと思いました。 それに、最初の話にはまったく出てこなかったナスやキュウリなど、普段必要な野菜もちゃんと作ってあります。それらを目にして、改めて、「このお母さんは頑張り屋さんだな」と思いました。 私の母も畑仕事は大好きでしたが、93歳のときにまったくしなくなりました。そういう姿を見てきただけに、キユさんの姿はとても力強く見えました。この人は100歳を軽く超える人だと思いました。 (2023年9月17日) |
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第772回 サプライズ 「これからサプライズがあります」、シギタニさんがそう宣言した時、会場にいたみんなが、これからいったい何が行われるのだろうかと思いました。川谷地域運動会が無事終わって、懇親会に入ってまもなくのことです。 みんなの気持ちをさぐるように、シギタニさんが「誕生日の人いないかな」と言ったので、「結婚記念日の人でもいるのか」という声も聞こえてきました。でも、そういうことではありませんでした。 元地域おこし協力隊の石川さんが川谷に移住して10年という節目の年だったので、それを祝い、石川さんを激励する企画が準備されていたのです。 石川さんにはまず、大きなケーキと花束が渡されました。続いて、シギタニさんの子どもさんが、空気を入れて膨らませた数字をかかえて運んできました。運んできた数字は「1」と「0」です。膨らんだ数字を並べると「10」になります。子どもさんからは、「10」という数字と虹が描かれた絵もプレゼントされました。石川さんはもうびっくり、まさにサプライズです。石川さんだけでなく会場のみんなが感激して拍手を送りました。 思いがけないプレゼントに石川さんは、「本当にびっくりしました。しゃべるのが苦手で農業しに来たのに、こういうとき何言っていいか、わからないけどうれしいです」「10年間は皆さんからの手助けなしにはありませんでした。迂回路、芝火災など支えられてばっかり……。これからは支えられている分、恩返ししなきゃという気持ちです」と挨拶しました。会場からは、「頑張れ」という声がかかりました。 三輪さんが、プレゼントを手にした石川さんの記念写真を撮ろうとしたとき、シギタニさんが、「みんなと一緒がいいんじゃない」と言ったので、体育館の舞台の上から石川さんを中心にして参加者全員の写真を撮ることとなりました。撮影にあたり、舞台に向かって右側の人は片手を上げて「1」の文字を作り、左側の人は両手を上げて「0」を作りました。素敵な記念写真になりましたね。 この後、ケーキカットの儀式も行われました。ケーキを普通の包丁でどう切るか、少し考えた石川さんは、ゆっくりとケーキを切り始めました。なかなかうまく切れません。シギタニさんもケーキ切りの応援に乗り出しました。 ケーキを切れば、当然、それを入れる皿なども必要です。誰かが、その食器を探しに旧校舎棟に走りました。こうして、慰労会は、急遽決まった結婚式のような雰囲気になっていきました。 今回のことは何人かが密に企画したようです。石川さんは、「おれよりもずっと長く住んでいる人がおられるのに、もらっていいのかなあ」とつぶやいていました。 そこは、遠慮することはありません。地域から離れていく人がいる中で、雪の多い川谷地域に住んでくれる人がいる。地域住民にとっては、それほど励みになることはありませんから。 カットされたケーキは20個くらいになったでしょうか。子どもや女性参加者中心に配られました。配られた人たちは、運動会でケーキを食べられるとは思っていなかったようで、うれしそうでしたね。 この日は、法政米米クラブの内藤さんなど川谷地域に感謝の思いを持って地域外から参加している人が何人もいました。星山さんもその1人です。星山さんが仕事の関係で遅くなり、会場に到着したのは慰労会をそろそろ終えようかというタイミングでした。多くの人が「今年は来ないのかな」と思っていたので、これもサプライズ、みんな大喜びでした。 (2023年9月10日) |
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