春よ来い(31)
 

第741回 花手毬

 えっ、仏間の柱にもあるんだ。玄関の正面にも脇にもある。廊下は1階だけでなく2階の「なげし」にもずらり……。驚きましたね、Aさんの家の中には色紙で作った花手毬(はなでまり)が所狭しと並んでいたのです。

 これまで、Aさんについては、囲碁と自転車乗りが趣味で、折り紙のようなことにはいっさい手を出さない人だと思っていました。

 実際にはそうではなく、Aさんは50年も前から、折り紙が趣味だったのです。最初はツルや紙飛行機をつくっていましたが、それが動物や建造物などへと、どんどん広がっていきました。もともと研究熱心なところがあったのでしょうが、折り紙への関心は作るたびに強まり、読んだ折り紙の本は40冊から50冊にもなりました。

 折り紙をはじめたのは子育て時代から。長女のYさんが生まれてから、最初は歌を一緒に歌って楽しんでいたらしいのですが、ふとしたことから折り紙をするようになりました。

 始めたばかりの頃は、ツルを折っていたとのことですが、子どもさんの遊び相手をつとめるようになってからは、紙飛行機づくりに夢中になりました。

 Aさんは、「ツルは難しいけど、紙飛行機なら誰でも作れる。飛ばすと皆が喜ぶ」と言いますが、Aさんが持ち出してきた紙飛行機を見て、なるほどと思いました。

 紙飛行機の形はジェット機のような形ではなく、もっとシンプルなものだったのです。三角柱のようなもの、掃除のときに使うごみ入れのような四角なものまであり、形はどちらかというと不恰好(ぶかっこう)です。でも、飛ばすと、じつによく飛ぶのです。

 私も、勧められて飛ばしてみましたが、これまで私が作ったどの紙飛行機よりも勢いよく飛びました。おそらく広い部屋で飛ばせば、「こんなにも遠くへ飛ぶのか」と思うくらい飛んだことでしょう。

 いま、Aさんの家で一番多くある折り紙作品は花手毬です。花の種類は、ツバキ、バラ、ヒガンバナ、モクレンなど50種余りで、家では80個ほど飾っているとのことでした。

 驚いたのは、花の特徴がじつに良く出ていることです。例えば沖縄のハイビスカス、ラッパ状に開いた花、真ん中で突出した花柱(かちゅう)がよくわかります。また、キクは花弁が放射状に並びますが、これも見事に作られていました。

 Aさんは、定年退職後、この花手毬を作るようになりました。「四角の折り紙で、しかも切らないで花らしく見えるようにするのは難しい」とAさんは言います。でも花手毬をつくる技術は進化し、いまでは柿崎地区公民館や上下浜郵便局などにも作品を飾っていただいているとのことでした。

 花手毬のほか目立ったのはサッカーボールの折り紙です。黒と白の厚紙で作成された作品は、花手毬と同じ基本構造で作られていて、がっちりとしています。

 このサッカーボール作品に素敵なエピソードがあることを知りました。2002年の日韓共同開催のワールドカップの際、高校生とともに折り紙で作ったサッカーボール作品を10個ほどボランティアの人を通じてクロアチアの選手に贈ったというのです。作品は、「日本の伝統文化の贈り物」として喜ばれ、帰りのバスに乗り込む選手たちが折り紙ボールを手にしていた様子がテレビでも放映されたとか。

 作品紹介の時はずっと笑顔だったAさん、「どんどんやると、きちんと折れる。だんだんうまくなるんですよ」と言いました。花手毬などの作品作りがいま、楽しくてたまらないのでしょうね。

  (2023年1月22日)

 
 

第740回 パタカラ

 世の中には、知らないことがいっぱいあるものですね。先週の金曜日、数か月ぶりに柏崎市にある妻の実家へ行った時のことです。昨年3月に亡くなった義母の部屋の冷蔵庫に貼り付けてある白いボードに書かれた文字が目に留まりました。

 書かれた文字は、横書きで「ねる時 すって はいて ゆっくり パタカラ」とありました。一字一字、しっかりとした文字で書いてあります。

 すぐに「これは何?」と私が訊(き)くと、「お袋用の言葉の訓練」といった意味合いの言葉を義兄または妻が返してくれました。どちらだったかは覚えていないのです。文字そのものについては、「義母が書いたもの」と思い込み、その時は深く考えませんでした。

 義兄と妻は私よりも詳しく知っているはずですので、もっと深く訊こうと思えば、訊くことはできたのですが、その時の話題の中心はどちらかというと、義母のことよりも大雪のことだったのです。

 妻の実家では、昨年12月19日から翌20日にかけて降った70㌢ほどの重い雪によって、大きな百日紅をはじめ、ツバキ、桜などが何本も裂けたり、折れたりしていました。裏山の杉や雑木も同じです。そして車庫の屋根には杉の木の枝がまだ残っていました。義兄によると、屋根には穴が開いてしまい、これまでにかかった庭木などの伐採費用も入れると、3桁のお金がかかりそうだとのことでした。

 ボードに書かれた言葉、文字について私が再び話に出したのは、妻の実家から車で5分ほどのところに住む義姉のアパートに行ってからでした。

 私のスマートフォンで撮影したボードの文字を義姉に見せ、「これ、知ってる?」と言うと、「これは私が書いたの」と言われ、びっくりしました。

 義姉によると、義母は当時、よく眠れないと訴えていて、その状態を少しでも改善しようと、「ねる時 すって はいて ゆっくり」と書いて義母にそれをやってもらおうと思ったと言います。義母は亡くなる前、介護施設や病院などに2年以上入っていますので、義姉がボードに書いたのは、短くて3年、長ければ4年くらい前になることもわかりました。

 そして私が初めて出合った言葉、「パタカラ」の意味、これはインターネットで調べました。舌や口周りの筋肉が硬くなり、むせる、口が乾く、飲み込みが悪い、こういったことがたびたび起こるようになったら、毎日、数分間、「パパパ、タタタ、カカカ、ラララ」とやるといいらしいのです。実際は、よく知っている歌に合わせてやっている人が多いようです。「パタカラ」を発音したり、歌ったりすることを「パタカラ体操」ともいうようです。

 ボードの言葉を見て義母が実際にはどうしていたか、私は見ていません。義姉も見ていなかったようです。ただ、義母がこれらの言葉を大事にしていたことはハッキリしています。

 じつは、ボードの文字はよく見ると二重になっていたのです。これは義姉に言われてわかったのですが、ボード用のペンで書いても、黒板消しで簡単に消せるので、義母は黒のマジックで義姉が書いた文字の上をなぞっていたのです。

 これなら消えません。私は、義母が、自分でなぞった文字を見ながら、ベッドの上で、大きく息を吸い、はきだしている姿をイメージすることができました。もちろん、「パパパパ、タタタタタ……」もやっていたはずです。

 初めて出合ったパタカラ。最近、滑舌が悪くなってきた私にとっては救いの神かも知れません。よーし、やってみようっと。

  (2023年1月15日)

 
 

第739回 物忘れ

 なーんだ、こんなところにあったのか。なんで気づかなかったのだろう……あなたは、普段の生活の中でそう思ったことがありませんか。

 情けないことに、私は最近、そういうことを何回か繰り返しています。

 ごく最近の例で言うと、先日の夜がまさにそれでした。自宅に戻って、玄関の戸を閉めかけて、ふと思ったのです。そういえば、車のカギをどこへやったのだろう。アノラックのポケットにはない。となれば、車から玄関まで歩いている途中で落としたに違いない。

 スマーフォンのライトを点けて、探すことにしました。あいにく、雨がしとしと降っています。すぐに見つかるはずだと思い、傘もささずに2往復して探したのですが、それらしきものはとうとう見つかりませんでした。

 それでもやめるわけにはいきません。今度は傘をさして探そう、そう思って、玄関わきのカギかけの場所を見ると、探していた鍵がちゃんとかかっているじゃありませんか。玄関の戸を閉める前、無意識のうちに、いつものカギかけにかけていたのです。なーんだ、こんなところにあったのか、と思いました。

 こうした物忘れは、不思議なことに、日常生活に欠かせない大事なものとかかわっていることが多いから困ります。

 その一つ、運転免許証がそう。これは車を運転するときに絶対なければならないものです。ところが、急いでいるときに限って免許証が見つからないことがあるのです。

 もう1月ほど前のことです。ある手続きで、申請者が本人かどうかの確認のために免許証が必要でした。いつも保管している場所から出して、ポケットに入れて、用事を済ませました。

 用が済んだらすぐに元に戻しておけば、どうってことないのですが、たまたま出会った友達とおしゃべりをして、時間が流れました。そのときに「免許証をしまうことを忘れてしまった」んですね。

 その日の翌日の朝がたいへんでした。服のポケットに入れておいたはずの免許証が見つからなかったのです。カバンの中、玄関脇の棚、車のボックス、イスの脇など思い当たるところはすべて探したのですが、見つからない。それで再び、カバンの中を探しました。やはり、何回探しても見つかりません。

 こうなったら免許証なしで行くしかない、と決断して、車に乗り込んだときです。いつもの免許証の場所に名刺が置いてあり、その下にちゃんとあったのです。ある人から新しい名刺を作ったと言われ、その名刺とともにいつもの場所に免許証を置いておいたのです。このときも、「なーんだ、こんなところに」でした。

 財布も忘れることが多くなりました。

 財布はたいがいカバンの中に入れています。ところが、私のカバンはマジックをやる人が使うには便利な構造になっています。とにかくポケットが外側、内側双方にいくつもあって、しかもポケットには個性がないのです。別な言葉で言うと、入れたポケットをしっかり覚えておかないと、どこに財布を入れたかわからなくなってしまうのです。

 急いで探しているときほどカバンのマジックにかかりやすい。落ち着いて、カバンの中のポケットを端から順番に1つひとつ調べていけば、必ず見つかるはずですが、最近、マジックにかからないための別の方法を見つけました。ポケットの個性をなくすために番号をつければいいのです。

 そういえば、20年ほど前、父も同じことをやっていました。新しい年、また1つ歳をとり、父と同じ道を歩き始めました。  

  (2023年1月1日)

 

第738回 初雪の日に

 ドカーン。突然、私の寝室を揺らすような大きなカミナリが鳴ったのは、日曜日の朝、夜明け前のことでした。

 これは雪おろしだ。いよいよ来たな。そう思った私は、枕元に置いてあるスマートフォンを引き寄せ、時刻を確認しました。午前5時21分でした。

 この日は朝早くからやるべきことがいくつもありました。ブログ(日記)を書く。直江津の三八市へ行き、宣伝をする。板倉区で市政を語る集いに参加するなどです。

 予定したことを確実にやるためには、6時には起床して事務所に行き、パソコンに向かっていなければなりませんでした。ところが、ドカーンという音で時計を見たことにより、もう少し時間があると判断し、再び眠ってしまったのです。その結果、スタートから調子が狂いました。遅くとも8時半には事務所を出る予定でしたが、実際には9時を回っていました。

 この時間には、雪はすでに5㌢ほど積もっていました。強い風も吹いています。こうなれば、板倉区への移動だけでも40分以上はかかるかも知れない、そう思い、直江津での朝市宣伝は断念し、直接板倉区へ向かいました。

 雪の降り始めはすべりやすく危険です。車は時速40キロ前後のスピードで走りました。この日の2日前、大島区等の雪道を走っていましたので、雪道は今冬に入って2度目でしたが、それでも緊張しました。

 県道新井柿崎線を南に進めば、雪は少しずつ増えていくに違いない、そう思っていたのですが、意外にも南に行くほど路面の雪は減り、板倉では道路にも田んぼや畑にも雪がありませんでした。

 路面状況が良かったことで、板倉区の集いの会場には午前9時50分過ぎに到着、10時の開始時間に楽々間に合ったのでホッとしました。

 集いでは、私からこの1年間の市政の動き、12月議会でとり上げた大雪時の災害救助法適用問題などを報告しました。しかし、参加者からの質問は第三セクター問題がトップでした。雪が降っていれば、違った展開となったかも知れません。

 この日は昼食後、直江津は「ライオン像のある館」での音楽イベント、「寄り道ライブ」にも顔を出してきました。会場の音響の良さに加え、Kさん夫妻の献身的な支えもあり、いまや、このイベントは上越だけでなく、中下越や隣県からも出演希望者があるほど発展してきています。この日は長岡市の電気屋さんとTさんのデュオ、「シャンテ」などの演奏を楽しみました。

 天候さえ良ければ、もう少し歌を楽しみたいと思っていましたが、この日は直江津も荒れ模様で、雪は高田よりも多く積もっていました。

 こうなると、心配なのはわが家の除雪です。じつはまだわが家の除雪機は試運転をしていなかったのです。そもそもバッテリーがあがっていないだろうか、キャタビラはまともに動くだろうか。そんなことを考えながら、わが家へ急ぎました。

 わが家の除雪機は事務所入口脇の格納庫にしまってあります。夕方4時前には、格納庫前に到着、懐中電灯を照らしながら、外していたバッテリーの線を接続してみました。スイッチを入れると、バッテリーランプがすぐに点き、エンジンも一発でかかりました。足回りも大丈夫です。ああ、良かった。これで降っても大丈夫……。そう思ったら、何となく疲れが出ました。

 初雪の日はいつもあたふたします。雪がないときの気持ちの切り替えがなかなかできないのです。でも、そうも言っていられません。すでに本格的な冬に入っています。どんなに降ろうとも、ここは雪と共に暮らすのが当たり前の雪国ですから。  

  (2022年12月25日)

 
 

第737回 何をしていても

 母が亡くなってから2か月が経ちました。母の遺骨が入った箱はまだわが家の座敷にありますので、朝起きた時と家に帰った時には必ず母に声をかけています。

 母が健在だった頃は、「ほしゃ、市役所へ行ってくるよ。元気でいないや」とか、「帰ったよ、体の調子はなじょだね」などと母の顔を見ながら、声をかけていたのですが、いまは、「ばちゃ、おはよう」「ばちゃ、帰ったよ」と短く声をかけ、コツ箱と遺影にさわっています。

 亡くなってからしばらくは、なかなか眠れませんでしたが、いまはだいぶ眠れるようになりました。ただ、母とは1年半くらい同じ寝室で寝起きしていたこともあって、自分の部屋に戻る気はしません。

 長く母の居場所だったベッドや居間で使わせてもらった電動椅子はすぐにお返ししましたので、わが家の中の風景は、母がいたときとは変わり、さみしくなりました。そして最近は、何をしていても、母がいたときの場面を思い出してしまいます。

 例えば、トイレに入っているときです。母は便座に座ってトイレットペーパーを取るときは、必要な分を全部引っ張り出して、その後、たたんで使用していました。そのペーパーを引っ張っている姿が目に浮かぶのです。

 現在、居間にはコタツが出してあり、長座布団を敷いています。私はかつて父が座っていた場所で、いつものように新聞を読んだり、本を読んだり、スマートフォンを操作したりしています。4か月前までは、この私のそばに母が電動椅子に座っていました。だから、長座布団に座っただけで母のことを思い出します。

 母がいるときは、時々、スマートフォンのカメラを使って電動椅子に座った母の姿を撮ってきました。それに気づいた母は必ずと言ってよいほど、「どら、見してくれ」と催促しました。スマートフォンの画面を見た母は、口癖のように、「おれは、ばちゃだなあ」と言って笑いました。

 テレビをつければつけたで、母が一緒に観ている姿を思い出します。「マッサン」など朝ドラの再放送を楽しそうに観ている母の姿はほほえましく、その母の様子をじっと見ていると、「なしたが」と私に声をかけてきました。

 数日前、テレビの本体のそばまで行ったら、「赤いせんは取らない様におねがいします」というメモが置いてあり、見入ってしまいました。赤いしるしの付いた電源コードを抜かないようにという母の指示メモです。じつにしっかりした字で書いてあるところをみると、もう何年も前に書いたものなのでしょう。それにしてもきれいな文字を書いたもんだ、と感心しました。

 先日は入院証明書を受け取るために、久しぶりに母が入院していた病院へ行ってきました。病院へ行く途中、助手席に座って「ここは河沢の親類」「ここは押し寿司のとこだ」などと言って、窓の外の景色を語る母の姿を思い出しました。

 病院に着くと、病院の建物自体がとても懐かしく感じられました。母が入院していた病院だからなんでしょうね。

 眼科や脳神経外科に通っていたころ、検査や診察が終わると、1階の会計の前で、薬が出るのを待ちました。その間、母は車イスに座って目をつむっていたのですが、「終わったよ。帰るよ」と私が言うと、「とちゃ、きょうは〝あるるん〟寄らんがか。寿司買って帰ろさ」という言葉が返ってきたものです。

 この日、病院の各種手続きの窓口で証明書を交付してもらってから、何とはなしに椅子に座っている人たちを見たら、母がどこかにいるような気がしてなりませんでした。ばちゃ、寿司買って帰ろさ。    

  (2022年12月18日)

 

第736回 花と実と

 ひと月ほど前のことでした。地元にある池の周りを散策しているときに濃い紫色の実がツルからぶら下がっていました。

 そこでじっくり観察すれば、何の実か、大体の見当がついたのかも知れません。でも、私はスマートフォンで撮影しただけで、前に進んでしまいました。というのも、すぐ近くに咲いていたオヤマボクチの花に大きな蜂が顔を突っ込み、蜜を吸っている姿が目に入ったからです。

 再び紫色の実のことに関心が向いたのは家に帰ってからです。散歩時に撮った写真を一枚いちまい見ていて、「はて、これは一体何だろう」と思ったのです。実(み)はツルにつながっていて、豆のような形をしている。まだサヤは破れていない。葉っぱは三つ葉アケビのようだ。そう思いながらインターネットで「ツル 紫色 実」と入力し、検索してみました。

 すると、一番上に出てきたのは、「11月のつる植物・青紫色の実」というタイトルで書かれたブログでした。そこには写真も載っていて、私が写真に撮ったものとそっくりのものが写っていました。それも、サヤが破れて中のタネが見える状態になっています。

 記事を読み進み、この植物の名前がノササゲであることを知り、「なーんだ、あれか」と思いました。夏に細長い黄色の花を咲かせる、私が何度も見たことのあるツル性植物だったからです。

 植物の実のことを調べて、「なーんだ」と思ったのは今回が最初ではありません。ツルアリドオシのときもそうでした。

 この時は数年前の晩秋でした。里山の縁を見ながら、アキノキリンソウやノコンギクが最後の花を咲かせている様子を見て、写真を撮り続けていたときです。直径6、7㍉くらいの小さな赤い実が目の前にあることに気づきました。

 晩秋の小さな赤い実とくれば、ヤブコウジだ、そう思っていたのですが、どこか違うなとも思いました。この実をつけた植物はどうみてもツルだったからです。ヤブコウジのように上の方に向かって茎を伸ばすことはなく、横にすっと這っている、そんな感じでした。

 これもインターネットで調べて、じきに判明しました。6月から7月にかけて咲くツルアリドオシだったのです。このツルアリドオシの花は、枝先にかわいい白い花を必ず2個ずつ咲かせるので、一度見たら忘れることがありません。「この花の実だったのか」とうれしくなったものです。

 最近ではニシキギとヘクソカズラでも同じような体験をしました。  ニシキギ(錦木)の場合は、近くの市道脇で2㍉ほどの小さな赤い実を見つけ、名前を確認してから花を探しました。じつは、この木の花と思われる写真を今年の5月に撮っていました。薄い黄緑色の小さな花でした。インターネットで確認すると、間違いなくニシキギの花でした。

 ヘクソカズラ(屁糞葛)の場合は農道脇でした。黄褐色の2、3㍉の実がたくさんついているツルを見て、何だろうと考えました。こちらは、同じ場所で花が咲いている姿を思い出したので、調べることなく、「あの、小さな花の実か」とすぐにわかったのですが、実についてはこれまで何度も見ていながら、ヘクソカズラの花と結び付けて考えることはありませんでした。

 考えてみれば、野の花に興味を持ち始めてから20数年、見たことのない花を追い求めることに夢中になっていました。花を見つけたら、その花が咲き終わるとどんな実をつけるのかまで追求すると、その花の面白い特徴などが見えてくるのに……。70代前半の私にとって、野の花の世界は、最近、どんどん広がっていきます。  

  (2022年12月11日)

 
 

第735回 赤とんぼ(3)

 地球温暖化の影響なのでしょうか、11月も終わろうとしているのに、10月上旬のような暖かい日が続いています。

 先週の月曜日、大潟区にある県立大潟水と森公園へ行ったときもポカポカ陽気でした。西口駐車場に車を止め、歴史ゾーンの丸山古墳に向かって歩いていると、すぐに体が温まり、上着もいらなくなりました。

 歩き始めて数分後、花びらがきれいに並んでいるノコンギクが目に入りました。ノコンギクについては今秋、あまりいい写真が撮れていなかったので、「これはいい写真になる」とカメラを向け、何枚か撮りました。

 そして、何とはなしにノコンギクの周辺を見渡したところ、驚きましたね、ツリガネニンジンが花を咲かせているじゃありませんか。紫色の釣鐘状の花、葉の形からして間違いなくツリガネニンジンです。

 本来なら夏に咲く花がもう数日で雪が降るかも知れないというこの時期にどうして咲いたのでしょうか。気になって公園事務所に電話を入れたところ、花が咲いているところは草刈りをした場所なので、草刈り後にツリガネニンジンの茎が再び伸びて花を咲かせたようだとのことでした。それにしても、よく咲いたものだと思います。

 この公園ではもう1つ、うれしいことがありました。赤とんぼがいたのです。丸山古墳からの帰り道でした。歩道脇にある防護柵に1匹だけいました。カメラを持って近づくとサッと飛び立つのですが、すぐに同じ場所に戻ります。とても人懐こい赤とんぼだと思いました。逃げて遠くへ行くことがなかったので、この赤とんぼも撮ることができました。

 赤とんぼと出合ってうれしくなったのは、赤とんぼの季節はまだ完全には終わっていないと感じたからです。でも、それだけじゃないのです。今年は赤とんぼにたいする特別の想いを持った年でした。

 ひとつは母が他界した10月8日の朝、わが家の玄関前のわずかな水たまりを利用して連結した赤とんぼが産卵する姿を目にしたことです。これは、14年前、父の遺体を病院から自宅に運んでもらった時、庭のミニコブシの花が満開だったことと同じように私の脳裏に焼きつけられました。

 もう1つは楽しい話題です。毎年、9月になると、赤とんぼが人間の体にもとまるようになります。今年は大島出身で、現在は高田の仲町在住のSさんとともに、インターネット上で「赤とんぼ、この体にとまれ選手権」というのを始めました。

 この選手権は、自分の体にとまった赤とんぼの数を競う単純な遊びですが、私の体に赤とんぼが十匹とまったあたりから競争は激化しました。Sさんが三脚を使い、動画撮影をする中で一挙に25匹を記録しました。負けてなるものかと、私も同じ方法で記録に挑戦しました。数日後、今度は私が30匹を記録、今年度は終わりを迎えました。来年はギネスを目指します。

 こういうことがありましたから、赤とんぼは忘れられない生き物となりました。

 赤とんぼは、大潟水と森公園に行った日の翌日も見ることができました。南からの暖かい風が吹いていて、木の葉がさらさらと地上に落ちてくる日でした。

 赤とんぼを見つけたのは、私の地元の池の周辺です。赤とんぼたちは風に乗り、ゆったりと空を飛び回り、木の枝や草の先端などにとまっていました。時々、私がいる遊歩道のそばまで下りてきました。

 この日は、私がカメラを持って50㌢ほどの距離まで近づいても赤とんぼは逃げることがありませんでした。今年は、これだけ仲良しになったのですから、赤とんぼには1日でも長く生きてほしいものです。雪はもうすぐやってきます。

  (2022年12月4日)

 
 

第734回 記憶が重なって

 不思議なものですね。知美さんの話が牛のお産のことになった途端、切ない思い出が一気によみがえってきたのです。

 先週の土曜日の夕方のことです。高田在住の本城文夫さんから、「『夢は牛のお医者さん』の主人公の獣医師・丸山知美さんの講話会を計画しました。都合がついたら南三世代交流プラザにお出かけください」と誘われ、参加してきました。

 会では、ドキュメンタリー映画『夢は牛のお医者さん』のもとになったTeNYの映像を20分ほど観たのち、知美さんがスクリーンの前に立って話しました。

 映画では、知美さんが仔牛をかわいがり、一緒にかけっこしたり、抱きついたりした子どもの頃の様子が強く印象に残っていました。体もさほど大きくないイメージでした。でも、スクリーンの前の知美さんは背が高く、がっしりしています。とても頼もしく見えました。

 これまで、私は『夢は…』の映画を5回観ています。映画を観て、知美さんが獣医師を目指したのは、自宅でも学校でも牛を飼い、牛を好きになったからだ、と勝手に思っていました。でも、それだけではないことが話を聴くなかで分かりました。

 映画には、家族みんなで牛のお産の手助けをする場面がありました。母牛の「いきみ」に合わせて、人間が仔牛をひっぱりだすのですが、映画に出てきたのはうまくいったときの映像でした。でも、知美さんが見たのは成功事例だけではなかったのです。お産に失敗して牛が死亡するところも見ていたのです。

 知美さんは、この日、「家では仔牛が亡くなることもあって、今は許可されないが、死んだ仔牛を土の中に埋めた。そのときに牛を助けたいと思った」と語りました。牛たちが病気をしたり、難産したりするところを見た。病気が治らず死亡する場にもいた。知美さんはこういう悲しみを経験したから獣医になったのです。

 この話を聴いたとき、わが家での牛飼いの記憶と重なって胸が熱くなりました。

 お産は人間だけでなく、牛でも一大事です。牛の場合、仔牛の前足と頭が正常に出てくるときはいいのですが、中には片足だけ出てきたり、頭だけ出て、手の方は「きょつけ」をしていることがあります。さらには「逆仔」(さかさご)と言って手でなく、足が先に出てくることもあります。わが家の場合、ロープで引っ張るだけではダメで、チェーンブロックまで使ったことが何度もありました。

 一生懸命手助けしたものの、牛の親子とも亡くなったことがありました。「牛のお産を見せてください」と若いお父さんが親子で牛舎に来られたときに、母胎から出てきた仔牛がすでに死亡していたこともありました。こうした切ない体験は私にも何度もあったのです。私も死んだ牛たちを畑に何頭も埋めてきました。ですから、知美さんの気持ちはよくわかります。

 会場からの質問タイム。丸山知美さんは、「獣医をやっていてよかったことは何ですか」という質問に答えていました。「治療で農家に行き、手術などがうまくいき、〝あんたに来てもらってよかった〟と言ってもらえるのが一番うれしい。きょうも難産だったが、親子とも助かった。きょうは、だからとてもうれしい」。この言葉、実感がこもっていましたね。

 質問タイムで知美さんは、「農家の方の経営が上向きになってくれることもうれしい。でも、いまはたいへんだ。経営主が病気になったりして経営がガタガタになることもある。そういうときは切ない」とものべていました。話を聴き、牛にも畜産農家にもやさしい知美さん、なんと素敵な獣医さんだろうと思いました。    

  (2022年11月27日)

 
 

第733回 花の絨毯

 つい先だってのことです。T子さん宅の玄関前まで車を乗り入れたとき、すぐに私の目に飛び込んできたのは金平糖を思わせる小さな花たちでした。

 前回はお盆頃にお邪魔したかと思います。これらの花については、その時のことは私の記憶にはありません。あるのは、コンクリートだけです。それがいつの間にか、金平糖の花でいっぱいになり、ツルについている葉っぱも紅葉していて、まさに花の絨毯(じゅうたん)になっていたのです。車から降りた途端、「おお、素晴らしい」と声を出しそうになりました。

  「花の絨毯」は横幅が3㍍以上、縦は約1㍍、高さは5㌢くらいになっていました。ピンクと白の花が入り乱れ、構わないでおけば、さらに5㍍、10㍍と広がりそうな勢いがありました。

 花の正式名称はヒメツルソバ。タデ科のツル性の植物で、原産地はヒマラヤだといいます。

 あまりにもきれいなので、T子さんにこのヒメツルソバについて訊(き)いたところ、花は昨年、柿崎区の平場の集落に住むY子さんからもらったとのことでした。

 Y子さんがT子さん宅に弔問に行かれたのは、昨年の今頃です。建築の仕事をされていたT子さんのお連れ合いに住宅を建てる時、大変お世話になったとのことでした。ただ、その時はT子さんのお連れ合いが亡くなってからすでに半年以上となっていて、お返しする品がなかったとか。それで、T子さんは後日、Y子さん宅へお礼の品を持って行かれたのでした。

 その時だったのですね、Y子さんからヒメツルソバを分けてもらったのは……。その後、T子さんはもらった花を丸いプランターに植え、育ててきました。プランターからツルが伸びたのでしょうか、それとも春に咲いた花の種が落ちたのでしょうか、舗装のちょっとした隙間にも根を下ろし、横へ横へと、どんどん増えていったのです。ヒメツルソバは繁殖力が旺盛ですね。

 この日、私は柿崎に用事があったので、県道柿崎牧線からY子さんの住む家へと車を走らせました。T子さんに分けたというヒメツルソバの花の様子を見てみたかったからです。

 あいにく、Y子さんはお留守でしたが、花は見せてもらいました。Y子さんのところでもピンクや白の花が美しく、それこそ最高級の「絨毯」となっていました。

 遠くから見せてもらったにしても黙っていては悪い、そう思って、午後になってY子さん宅に電話を入れました。Y子さんは一度もお会いしたことのない人ですが、ヒメツルソバをめぐる一連の出来事について、つぶさに語ってくださいました。

 Y子さんによると、ヒメツルソバを最初に分けてくれた人は旧下黒川中学校の同級生で、吉川区の旭地区に嫁いだS子さんだということでした。また、T子さんのところで働いていた吉川区泉谷地区のKさんとは親戚筋であること、現在、吉川区に近い工場でアルバイトをしていることなども明らかにしてくださいました。

 S子さんもKさんも私とつながりがあり、お世話になった人です。思わず、「世間は狭いですね」と言いました。Y子さんは、思っていた以上に気さくな方でした。私も花好きですので、すぐに意気投合しました。今度、一緒にS子さんが現在、住んでいる清里へ行きましょうということになりました。

 ヒメツルソバの花言葉は、「思いがけない出会い」です。ヒメツルソバはツル性の植物で、横にどんどんつながり、広がっていく生き物です。Y子さんの話を聴きながら、人の人生もまた、横につながっているし、つながっていくと思いました。

  (2022年11月20日)

 

第732回 一か月目の日に

 母が永眠してからもう1か月が経ちました。時が経つのは早いものだと思います。

 まだ、やっておかなければならないこと、整理しなければならないことはいくつもありますが、ほぼ普通の生活に戻ってきました。

 ちょうど1か月目の8日は、晴れたり、曇ったり、この時期としてはまずまずの天気でした。

 午前に柿崎区でちょっとした用事を済ませ、午後からは3時間ほど吉川区にいる時間がとれました。

 気になっていたのは、Kさんからの電話です。「美男カズラが赤い実をつけていますよ。わが家のそばを通ることがあったら見ていってくんない」という案内でした。

 雨も降っていないし、「写真を撮るならいまだ」と思い、Kさん宅を訪ねましたがお留守でした。美男カズラ(サネカズラが正式名称)は言うまでもなく外にあり、家のそばに植えられています。屋根下のものは昨年と同じ橙色でしたが、垣根になっているところは、真っ赤な実がたくさん生っていました。「なるほど、熟すとこんな感じになるのか」と感心しながら何枚か写真を撮らせてもらいました。

 撮り終わって車に乗り込み、少し走ったところで、左前方100㍍ほどの田んぼの中にコウノトリの姿を見つけました。それも4羽もいます。今年になって、これまで見てきたコウノトリは2羽でつがいでした。「この2羽以外にどんなコウノトリが来ているのだろうか」と、撮影をしました。

 そこへKさんから電話が入りました。「いま、コウノトリを撮っていなるでしょ。ここから見えるの。Hさんとこでお茶飲んでるし、来なんない」と誘われました。コウノトリには逃げられたこともあり、「じゃ、顔、見に行きますか」と言って、Hさん宅へ車を走らせました。

 Hさん宅まで行って、居間に上がらせもらったら、私がコウノトリを撮っていた場所が窓からよく見えます。でも、よく遠く離れた私を確認できたものです。

 KさんとHさんによると、ちょうど私のことが話題になっていたとのことでした。そのとき、偶然にも私の車の色がKさんの目に入ったようです。

 Hさんは最近、遠くの友人に私の随想集の1冊を送ったところ、喜んで読んでもらっているとか。「お宅のお母さん、幸せだったと思いますよ」などと母の介護のことについても語ってくださいました。

 Kさんは美男カズラの実の色の変化やお連れ合いの絵画作品について語るとともに、目の前に出されている干し柿について、「やわらかで美味しいときに冷蔵庫に入れて保存するのもいい」などと教えてくださいました。

 美味しいハヤトウリの漬物や干し柿などをご馳走になっていたら、ちょっと顔を見てお暇するどころか、30分近くも経っていました。それだけ楽しかったのです。

 この日はその後、郵便局や住宅などを訪問し、いつもよりも早く帰宅しました。皆既月食を見たかったし、NHKの「うたコン」で大好きな小椋佳の歌を聴きたかったからです。

 夜は、コタツに入ってテレビを観ているうちにいつの間にか眠ってしまいました。

 母が元気だったころだと、コタツのところまでやってきて、「とちゃ、風邪ひくなや」と言ってくれました。風呂から上がるときは、素っ裸のまま、着るものを両手で抱いて、「風呂あいたよ、とちゃ、早く入って寝ろや」と声をかけ、自分の寝室へ入っていきました。

 「よし、起きよう」自分で気合を入れ、母と一緒に寝ていた部屋へこの日も行って寝ましたが、その母はもういません。

  (2022年11月13日)

 
 

第731回 ナツハゼ

 もう60年ぐらい前になるでしょうか、旧吉川町尾神の蛍場地内の「むこう」(屋号)の家のそばの土手で、甘酸っぱい黒い実を食べたことがありました。

 実は、高さが1㍍にも満たない、何本かの細い木に生(な)っていたように思います。大きさは、直径4㍉ほどの小さなものでした。たしか、そばには半鐘を下げた木の柱が立っていました。

 遠い記憶ですので、すっかり忘れていたのですが、先日、柏崎市在住の友人であるSさんのフェイスブックへの投稿を見て、この実のことを思い出しました。Sさんは「ナツハゼという小さな木の実を大量に入手したので、ジャムをつくります」という発信をしていました。

 その翌日の朝、散歩していて、まさかと思いました。偶然にも、Sさんがジャムをつくるといったのと同じような実が目の前の土手の木の枝からいくつも垂れ下がっていたからです。

 おっかなびっくりで、ひと粒だけ口に入れてみました。子どものころ食べた実と大きさはほぼ同じです。ただ、子ども時代に味わったものよりも酸っぱく感じたので、同じだとは自信を持って言うことはできませんでした。むしろ、初めて出合った木の実のように思えました。

 Sさんが発信した実と同じかどうかについても分からなかったので、スマートフォンで画像を示し、電話で確認すると、Sさんは、「99%間違いない」と言われました。やはり、ナツハゼだったのです。

 この日は大島区菖蒲の飯田邸にて「新そば祭り」があり、開始時間前に会場に着いたのですが、そこで吉川区の平場地域に暮らしているOさん夫婦と出会いました。

 朝の散歩で見つけたナツハゼの実を持参していましたので、Oさん夫婦に見てもらったら、「子どもの時分、手でこぐようにしてもいで食べたもんだわね。アタジキだね」と言われました。正式名称はナツハゼですが、私たちのところでは、「アタジキ」などと呼んでいるようです。

 その後、吉川区の勝穂地区でSさん夫婦のところを訪ね、お茶飲みをしたときも、この実を持って行きました。

 テーブルの上に小さな実を出したら、2人ともすぐに反応し、「これはアタジキだ」「おらったりじゃ、アタッパジキとも言ってたよ。さんざ、食べたこて」「おらは、チンボイ、スイッカシ、食べて生きてきた」などと言って賑やかになりました。

 こうなると、もう止まりません。この小さな実を自分で食べるだけでなく、より多くの人に食べてもらって、面白い思い出話をたくさんしてもらおうと思いました。

 数日経って、私は、買い物をしたときに使うビニール袋を持参し、近くの山で1時間近く、この実を収穫しました。20分ほど採り続けた段階で、袋の中身を確認しようとして、うっかりこぼしてしまうというハプニングがありましたが、幸いにも次々と新しいナツハゼの木を見つけ、全部で一升マスにいっぱいくらい集めました。

 集めた実は十数人の人に分けました。ほとんどの人はこの実を知っていて、「これ、酸っぱかったよね」などと言い、とても懐かしがって食べてくださいました。

 あとは、私が子ども時代、蛍場で食べた小さな黒い実と同じかどうかです。先日、介護施設に入所している「むこう」のお父さんに確認してもらうことにしました。

 施設の玄関ドアのところでガラス越しにナツハゼの実を見てもらったら、お父さんは指で丸印をつくってくださいました。私が子ども時代に食べた黒い実はやはり、ナツハゼだったのです。私はうれしくなり、手元にあったナツハゼをまた1個口に入れ、ゆっくりと味わいました。

  (2022年11月6日)

 
 

第730回 山盛りのご飯

 なんでもそうですが、そろそろ帰ろうかという時間になって、これはという発見をすることがあります。

 先日、上越市立吉川小学校の創立20周年記念事業で児童が描いた「吉川百景」などを観るために出かけた時もそうでした。しかも発見は1つだけではなくいくつもあったのです。もう、最高の気分でした。

 「吉川百景」の作品は、グランドやプールへの出入り口ある西側の1階から2階に上がっていく階段の壁に展示されています。直径30センチほどの丸い画用紙に、1人ひとりのお気に入り「百景」が描かれていました。作品は全児童が作成しましたので、全部で108枚になります。

 越後よしかわやったれ祭りの竿灯、よしかわ杜氏の郷のお酒、パラグライダーなど、それぞれの児童が「これぞ、吉川」と思ったものを描いていました。誰もが美しいと思う景色だけでなく、自分とかかわりのある昆虫や食べ物なども描いてあるので、作品は興味深く、見応えがありました。文化祭で展示された絵もワークスペースに飾ってあり、これらも鑑賞しました。

 発見の1つ目は、3階まで上がり、5、6年生の作品を鑑賞していたときでした。展示作品の中に大きな欅(けやき)の木が描かれていることに気づきました。それも何枚もです。欅の木の存在は私も10数年前から知っていましたが、20年間に大きく生長し、校舎の3階の屋根の高さまで伸びていたとはびっくりでした。

 校舎とともに欅の木を描いた6年生の児童の1人は、絵のタイトルを「ぼくたちを見ていた木」としていました。理科室から見たら、欅はどっしりしています。すでに学校のシンボル的存在になっていて、この欅の木の生長そのものが吉川小学校の歩みと重なっていることにも気づきました。

 2つ目。3階から再び「吉川百景」コーナーを通って下りるとき、児童が選ぶ「百景」の中には、実った稲の上を飛ぶ赤とんぼやセミなどの昆虫、ウグイスなどの小鳥、花が多いことにも気づきました。よく短い言葉で「吉川は自然豊かなところ」と言いますが、子どもたちは、普段見かける動植物も「素敵だ」と思っているのです。これって大事なことだと思いませんか。

 3つ目。「吉川百景」のなかに茶色の木の幹がドーンと描かれ、その周りに大小9個の赤い塊が描かれているものがありました。校長先生によると学校のプール脇にあるザクロだということでした。児童には、これが大人気で、休み時間には人だかりができるとか。手の届くところにあるザクロの赤い実はすでになくなっています。原之町の平野さんが指導している学校の絵手紙サークルの作品でもザクロは人気で、じつに美味しそうに描かれていました。

 私が子どもだったころはまだ食糧難が続いていて、なんでも食べてました。野にあるイチゴやミヤマツ、小さな梨の実は競争して探していました。吉川小学校のザクロはそれとは違うものの、いまの子どもたちも食べ物を競って求めることがあるという事実は新鮮でした。

 そして4つ目です。「おおっ」と心を揺さぶられたのはZさんが描いたご飯の絵です。青と緑の2色の茶碗と赤い茶碗に真っ白なご飯が山盛りしてありました。ご飯は一粒ひとつぶしっかり描いてあります。これを見た時、「吉川は美味しいコメがとれるところ。ぼくはご飯が大好きです」というZさんのメッセージを感じとりました。私はうれしくなって、校長先生に言いました。「この絵、ご飯が山盛りですね。吉川の発展を象徴する最高の絵です」と。

 新型コロナの関係ですっかりご無沙汰していた吉川小学校でしたが、子どもたちの絵を観て、私も元気をもらいました。

 (2022年10月30日)

 
 

第729回 リンドウの花

 前から気づいてはいました。わが家の墓があるこの場所には秋になればリンドウの花が咲くはずだと。

 今年も、お盆入りの2日前になって、墓場の草刈りをしました。その際も私は、リンドウを確認していました。長年見てきましたので、リンドウの葉の形、茎全体の雰囲気は頭の中にしっかり入っています。間違って刈払わないように注意しながら作業を進めました。

 正直言うと、秋にわが家の墓場へ行き、リンドウの花が咲いているところをこれまで見たことはありませんでした。それだけに、今回、墓場でリンドウの花が咲いているのを見て、初めて出合ったときと同じくらい、うれしくなりました。

 この日は、香典返しを渡さなければならない家が2軒あって、市道半入沢線を車で下っていました。蛍場が近づき、左奥にわが家の墓場が見えたとき、急に寄りたくなりました。理由は母が亡くなったことを父や祖父などに伝えておかなきゃならないと思ったからです。

 墓のそばまで行くと、墓の一番上にとげの付いたクリがのっていました。木からまっすぐ落ちて、墓石にピタリと着地したのでしょう。

 手を合わせてから、私は墓に向かって声をかけました。「トチャ、ジチャ。こんだ、そっちへバチャ行くすけね、頼むよ」言いたいことはそれだけだったのですが、どうしても頼んでおきたかったのです。

 わが家の墓場の隣には、親戚である「いどんしり」(屋号、井戸尻)の墓もあります。13年前に農作業事故で亡くなった「いどんしり」のトチャとカチャにも母のことを頼みました。おそらく「いどんしり」のトチャのことですから、「ほっかね、そりゃ、いいやんべだ」と言ってくれたと思います。

 もちろん、どちらの墓からも返事を確認するすべはありません。ただ、雨がしとしと降っていて、虫たちの鳴き声もしない静けさがある、そのときの周りの雰囲気から、なんとなく、伝わったという自信みたいなものが私の心にはありました。

 リンドウの花が目に入ったのは、墓場の平のところから車を止めた道に下りるときです。「いどんしり」の墓から1メートルくらいしか離れていない場所に紫色の花がくるりと巻いた感じでいくつか見えました。見た瞬間、「おお、リンドウが咲いている」と声を出しそうになりました。

 わが家の墓場がある場所は「がまびろ」(正式名は釜平)と呼んでいました。40年ほど前まで、ここには畑があり、ジャガイモなどを植えていました。そばにある柿の木、杉、クヌギの木などを利用して3か所でハサバも作っていました。秋になれば、稲のはさかけをし、乾けば稲入れをする。稲作農家だったわが家にとっては、とても大事な場所でした。

 リンドウの花を写真に収めてから、子どものころ抱きついて登った柿の木をしみじみと眺めました。ごまの入った美味しい甘柿の姿は残念ながら見ることはできませんでした。ハサバがあったところも、その面影はまったくなく、すっかり自然に戻っていました。でも、バイクのエンジンをかけ、ライトを点けて親子ではさがけをしている姿や耕運機に山盛りの乾いた稲を積んで運ぶ父や母の姿は目に浮かびました。

 車に乗り込もうとしたとき、リンドウは墓場だけでなく、近くの土手にあるものも花を咲かせていることを確認しました。それも1か所だけではありません。少なくとも3か所はありました。

 墓場を支えるように咲いているリンドウを見て、私は思いました。リンドウの花は母を思い出す大切な花になると。

  (2022年10月23日)

 
 

第728回 達者でな

 10月8日午前3時49分、母の命がとうとう燃え尽きました。98歳と6か月余の生涯でした。

 母が7月29日、市内の病院に緊急入院することになってからの出来事は、この「春よ来い」でも書いてきましたが、今回は、これまで書けなかった出来事のなかから、いくつかを書きたいと思います。

 その1つは、母が緊急入院することになった7月29日から翌日にかけてのことです。夕食中にロレツがまわらなくなるなどの症状が出て、救急車を呼ぶことにしたのは29日の午後8時過ぎでした。

 この日の夜は救急車も忙しかったようで、わが家には頸北でなく安塚にある東頸消防署から来てもらうことになりました。

 到着までには時間があるので、午後8時20分過ぎ、大潟区在住の弟と愛知県在住の弟のところにテレビ電話を入れました。ひょっとすれば、これが母の顔や声を見たり、聞いたりしてもらう最後となるかも知れないと思ったからです。

 いうまでもなく、弟たちの顔を見て母は喜びました。そして、母は自分のことよりも弟たちのことを心配して声をかけました。これまで交通事故などで何度か大ケガをしている大潟区の弟には、「いいか、達者でいろや、ケガしんな」と言いました。愛知県の弟にも「達者でな」と言いました。涙もろい愛知県の弟は、「かちゃ、ありがとね」と言って泣いていました。

 私は、母のこれらの言葉を、「母の最期の言葉になるかも知れない」と受け止めましたが、これについては書きませんでした。書くことで、それが現実になりそうな気がしたからです。

 病院で検査や診察をしてもらい、個室に移動したのは翌日の午前3時前です。この時、看護師さんに頼んで、病室に入れさせてもらい、母と言葉を交わしました。2人の弟に言葉をのこしていたので、私にもと期待しました。その時の会話です。

「ばあちゃん、大丈夫かね」
「とちゃか、オレ、死んだがか」
「死んでなんかいねよ」
「脳梗塞か、助けてくれ」

 いま振り返ると、これが母と交わした最後の会話となりました。私にも「達者でいろや」と言うのかと思ったら、「助けてくれ」でした。母の、この生きたいという強い気持ちが、その後、73日間、命をつなぐ力になりました。

 2つ目は母の葬儀での出来事です。母の葬儀は、13年前に亡くなった父のときとは違い、親族葬という形で執り行いました。もちろん初めてです。しかも新型コロナの関係や体調不良などで、弟や家族が3人もいない葬儀となりました。でも、母への温かい気持ちが込められた思い出深い葬儀となりました。

 愛知県の弟は、母への想いを込めた弔電を寄せてくれました。「男兄弟4人を育ててくれた母。思えば、育ち盛りの兄弟が母の分まで食べてしまい、母は釜の底のご飯を指の先で食べていた姿を思い出します。世界一の母に感謝しています」という弔電です。弟のこの言葉で子ども時代の母の苦労を思い出し、葬儀式の挨拶で私は、数十年前の夜なべ仕事とその時に母がつくってくれたインスタントラーメンの話をさせてもらいました。

 3つ目。母が亡くなった日の朝の出来事です。オスとメスが連結した赤とんぼがわが家の庭の水たまりにやってきました。そこで、メスが腹部の先端を水面に打ち付けるようにして産卵をしていました。新しい生命の誕生です。偶然の巡り合わせだと思いますが、見ていて感動しました。命は人間であれ、トンボであれ、親から子へ、子から孫へとつながっていくんですね。

 (2022年10月16日)

 

第727回 一喜一憂

 母が退院してから間もなく3週間になろうとしています。秋も深まり、ヤマボウシの実も素敵な赤い色になってきました。

 先日の深夜、時間は午前2時頃のことです。突然、「りんちゃん!」という母の声が聞こえてきて、そばで寝ていた私はびっくりして起きました。母の顔を見ると、なんとなくいつもと違うなと思いました。

 どうあれ、母にとっては緊急事態が起きているに違いない、そう思い、まずは長女の部屋に行き、「ばあちゃんがおまんを呼んでいるよ」と伝えました。母は日頃から長女を頼りにしているので、長女を呼んだのだと思いますが、こういうときに母が何を求めているかを一番よくわかるのは長女なんです。

 母の様子を見た長女は、「ばあちゃん、口が乾いているみたい。水が欲しいんだと思う」と言って、台所か洗面所に行き、水を少し含ませた口腔ケアスポンジブラシを持ってきて母の口の中に入れました。そのときです、母が再び声を出したのは……。長女が「これだよ、この声だよ。うんめーだって」と言って、教えてくれました。はっきりした言葉ではなかったものの、間違いなく「うんめー」だと私も確認できました。

 そうこうしているうちに、座敷で寝ていた弟も起きてきて、3人で母の様子をしばらく見守りました。私は最初、緊急事態かなと心配したのですが、母の「うんめー」という言葉を退院後初めて聞いた後は、むしろ、うれしい気持ちになりました。

 母の「うんめー」という言葉は退院後11日目に長女が聞いたということです。私は、それは奇跡的なことで、再びしゃべることはないだろうと思っていたのです。それだけに、母が再び言葉を発したときには感動しました。

 夜が明けてからは、事務所で仕事をしたのち、長女の車に乗って自動車屋さんに行き、代車で直江津の三八市へ宣伝に出かけました。市では、多くのお店の人たちが私の母がいま、どうなっているかを知っています。会った人からは、「おばあちゃん、どうだね」と様子を訊かれることが何度もありました。でも、この日は「おかげさんでちょっぴりしゃべるようになったわね」という言葉を返すことができたのです。心もなんとなくはずんでいました。

 こうした気持ちは夕方まで続きました。おかげさまで、市役所に行っても落ち着いて会議に臨むことができました。

 しかし、夕方、再び一気に緊張が高まりました。

 午後5時過ぎ、車検の結果などを自動車屋さんのスタッフの人から聴いて、車に乗ろうとしたとき、長女から緊急電話が入ったのです。「いま、看護師さんから来てもらっているんだけど、ばあちゃん、血圧が下がって、呼吸もなんとなくいつもよりも静かになっているし、早く帰ってきて」という知らせを聞き、胸が騒ぎました。

 すぐに大潟区に住む弟にも連絡しました。弟はこの日の夜は会議なども入っているとのことでしたが、それも休ませてもらって駆けつけてくれました。

 家に着いて、母の部屋に行くと、母の呼吸は確かに静かで、弱弱しく感じました。酸素飽和度は良好だったものの、最高血圧は100を切っていました。ただ、血圧、脈数などの数値は、総合的にみると、退院後1週間時の悪い状態よりも少しだけ良かったので、母は今回も乗り切ってくれると思いました。

 そして予想通り、母はその危機を乗り越えてくれました。でも安心はできません。ここ数日、血圧の低い状態が続いていますので、しばらくは一喜一憂の毎日となりそうです。 

 (2022年10月9日)

 
 

第726回 母が笑った

 じつは、母が退院するとき、病院のお医者さんからは、「長く持って1週間でしょうね」と言われました。

 それだけに退院後は一日一日がとても貴重で、母の部屋に入るたびに顔を見て、息をしているかどうかを確認しています。

 夜、一緒に寝ていても大きないびきをかいているうちはいいのですが、呼吸が止まると、再開するまでが心配で、緊張します。呼吸が止まっている時間が10秒くらいのときはまだ良い方で、長いときは30秒から40秒くらい続くのです。口元で静かに呼吸をし始めたときはホッとします。

 正直言って、入院時は、面会した時の数分しか母の様子を見れませんでした。家にいるときは、家族の者が母のそばにいる時間が長いので、いろんな発見があります。

 例えば、こんなことがありました。母がかわいがっていたネコが母の部屋に入ったときのことです。ニャーン、ニャーンと大きな声で鳴くと母は喜び、笑顔になったというのです。もう二度と笑うことはないだろうと思っていただけに、長女から、この知らせを聞いたときは、万歳をしたくなるほどうれしくなりました。元気な頃、いつも電動椅子の上から背中を「イコイコ」となでていたネコのことがしっかり母の記憶に残っていたのでしょうね。

 甘酒を含んだものを口の中に入れたときも母は笑顔を見せたといいます。小さなスプーンでほんの少し、口に含ませる程度だったのですが、それでも母にとっては、最高のご馳走だったのでしょう。

 甘酒は母の好物の一つ。わが家ではいつも冷蔵庫に入っていて、母は時々飲んでいました。ですから、病院で、お医者さんから、「ここまで来たら、飲みたいものがあれば、飲ませてもいいのでは」という言葉を聞いたとき、ぜひ甘酒の味を味わってほしいと思っていました。この願いは、わが家に来ていただいている看護師さんの協力で実現しました。

 自宅に戻り、一番切なかったのは、1週間後の22日の夜のことです。お医者さんから「持って1週間」と言われたこともあり、夕方、家族の者から、「おばあちゃん、おかしい」と連絡を受けたときは、ついにその時が来たかと緊張しました。

 緊急事態に駆けつけて来てくださった看護師さんは母の状態を確認し、帰りに、「明日の朝、8時半に来ます。それまで持ってほしいですね」と言われました。それほど事態は深刻だったのです。

 この日、母は夜の10時ころまで両目を開けていました。その後は目をつぶったままの時間帯が長くなりました。母のベッドわきには私と大潟区在住の弟、そして長女と3人が毛布などを持ち込んで母を見守り続けました。

 母の呼吸が止まっているとき、窓の外からは虫の鳴き声がよく聞こえてきました。母の左手は私、右手は弟がずっと握り続けました。深夜の2時過ぎ、母の手を握り続けるのも疲れたので、手を離し、スマホを使って歌謡曲を流しました。三橋美智也の「夕焼けとんび」「達者でな」です。亡き父が田んぼや牛舎で仕事をしているときによく歌っていた曲です。母からの反応はありませんでしたが、しっかりと聞こえたはずです。

 母の病状は退院後の8日目から、それなりに安定しました。そして数日後、水や甘酒を含んだものを口に入れもらった時、母は何と「うんめー」と言ったのです。まさに奇跡的な出来事でした。ひょっとすると、三橋美智也の「オーラ オーラ 達者でナ」という歌が効いたのかも知れません。容態がしばらく安定していれば、そう遅くない時期に母の「ありがとね」という言葉も聞けるかも……。

  (2022年10月2日)

 
 

第725回 48日ぶりに帰宅

 7月下旬に入院した母が48日ぶりに家に帰ってきました。恢復して退院したのではなく、家で最後を迎えられるようにと退院させてもらったのです。

 病院側との協議では、当日の退院時間は午前11時という約束になっていました。10分前に行くと、すでに準備ができていて、担当のお医者さんをはじめ、看護師さんなどお世話になった何人ものスタッフのみなさんがナースセンター前に集合して見送ってくださいました。

 お医者さんからは、ここまで来たら、「何か美味しいものを食べさせてあげたいですね」と言われました。もちろん、食べられる状態ではありません。できたとしても、好きな甘酒などを何かにしみこませ、口に塗ってあげる程度かと思います。でも貴重なアドバイスでした。見送ってくださった看護師さんの中には、市役所でお世話になっている人のお連れ合いもおられました。何らかのつながりのある人がおられるというのはうれしいものですね。

 自宅での看取りのために退院させるという経験は今回が初めでした。退院までには微妙なところがあって、ほんとうに大勢の皆さんのお力添えがあり実現しました。心から感謝申し上げます。

 病院からは福祉タクシーで帰宅しました。私がタクシーの先導をしたのですが、タクシーの運転手さんは吉川区竹直出身の方だったということでびっくりしました。また、一緒にタクシーに乗り込んでくださった看護師さんは吉川区で勤務をされたこともある人で、私の知り合いでした。偶然とはいえ、うれしかったですね。病院では、「途中でだめになることもあります」と聞いていたこともあって、車はゆっくり走らせ、約50分かけて自宅に無事到着しました。看護師さんの話によると、県道からわが家に行く農道に入った途端、母は目を開けたといいます。感動しました。

 午後1時過ぎからは近所の人や親せきの人、母の友達の人などが次々と訪問してくださいました。私の弟も遠くにいる子どももPCR検査をしてわが家にきてくれました。病院でお医者さんからは、「きょうはいままでで最高に良い状態です」と言われたのですが、近所の人や親せきの人から声をかけられると、母は数回にわたって、目を開けて、口をもごもごさせました。近所のMさんは、「いやー、いかっとぉ。ばあちゃん目を開けてくんなった。それも2回もだでね。ばあちゃんには、また一緒にお茶飲みしようでね、と言ったこてね」と喜んでくださいました。遠くから来た従兄の嫁さんや従姉も母が口を動かしたり、目をぱちくりしたことから、「うれしい、来たかいがあったわ」と言ってくれました。なかには母と記念写真を撮る人もいました。

 病院では面会制限などもあって、なかなかできなかったのですが、母が入院前、電話をちょこちょこかけていた人にも電話をしました。その一人は、いまは要介護状態となっている大島区板山出身のKさんです。Kさんに電話すると、「ばちゃ、おれだよ。じちゃが迎えに来たそってもまだ行っちゃだめだよ。こんだ、お茶飲みしようで」と声をかけてくださいました。母はしゃべれませんでしたが、相手の人の声は聞こえたようで、この時も口をもごもご動かしていました。

 この日の夜は48日ぶりに母と同じ部屋で寝ました。1年半にわたり、一緒に寝ていた部屋です。弟が付き添いを替わろうかと言ってくれたのですが、断りました。最初の晩は私がそばにいたかったからです。深夜に母の頭をイコイコしていると、目をぱっちり開けて私をじっと見てくれました。口も動かしました。それだけで疲れがどこかへ行きました。

  (2022年9月25日)

 
 

第724回 母は目を開けた

 母の病室に入って30秒経つか経たないかという時間でした。母に声をかけようとしてベッドのそばまで行ったところ、母が目をぱっちりと開けたのです。

 先月下旬に、完全に点滴生活になり、眠り続ける生活になってから、17日目のことでした。時刻は午後3時15分頃です。

 すぐに母の顔のそばに行き、「とちゃだよ、見えたかね、とちゃだよ。りんちゃんも来てるよ」と声をかけました。母は私の顔をじっと見てくれました。声を出すこともできない。うれしそうな笑顔になることもできません。でも、目はちゃんと私を見ていて、私には、母が喜んでいることがわかりました。いまにも「とちゃか」と言い出しそうな表情になっていたからです。

 とっさに「長女の顔も見てもらいたい」と思ったのですが、残念ながら、母にはそれ以上目を開ける力は無く、再び閉じてしまいました。

 この時、一緒に病室に入ったのは病院スタッフの女性の方と長女の2人でした。スタッフの方は、母が目を開けたときのことがわかったらしく、「視線が合いましたね」と言ってくださいました。

 じつは、母が目を開けないようになってから12日目にもうっすらと目を開けたことがありました。このときもうれしくて、「ばちゃ、見えたかね。ほら、もっかい見てみない。とちゃの顔、見てみない」と催促すると、母は目を動かし開けようとしました。そのときの様子を動画で撮りましたので、弟たちにも送信しました。

 でも、それきりだったのです。目を開けようとしたのは。その後、2回ほど母と面会し、声をかけましたが、目を開けてはくれませんでした。

 そのかわり、母は長女にたいしては手で反応してくれました。脳梗塞で左手は動かないので、右手はどうかと手を握ったところ、握り返してくれたというのです。

 こういう明るい、希望を抱かせてもらえる出来事がありましたが、母の体力はその後も衰退していきました。変化が見えたのは手です。両方の手がともにはれてきたのです。近いうちに手からは点滴できなくなるのではないかと心配しています。

 この日は、母を自宅で見守りたいということから、おむつの替え方などの実際を病院スタッフの方から教えていただくことになっていました。母は元々体が小さく、介護しやすいと思っていたのですが、なかなか面倒でした。おむつひとつ替えるにも手順があり、コツがあるんですね。

 おむつ替えを実際に行う少し前には、担当のお医者さんも病室に来てくださり、最新の病状について説明してくださいました。一番気になったのは血液検査の結果です。ヘモグロビンの数値がこれ以上低くなってはいけないというところまで下がっていたのです。お医者さんからは、「胃のなかで出血しているかも知れません。お母さんの心臓はよく頑張っています」と言われました。

 こういう病状ですから、目を開けたことで喜んでばかりはいられないのですが、それでもうれしく、今回も2人の弟などにすぐ連絡しました。 「ばちゃ、目、ぱっちり開けたよ。今度は俺の顔わかったげらだ」  私からの電話にすぐ下の弟は、「明日、仕事休みだすけ、そっちに行こうかな」とも言いました。実際には来ませんでしたが、母が目を開けたことの喜びは弟も大きかったんですね。

 看護師さんによると、その後、母は少なくとも一回は目を開けたといいます。その時、おそらく家族の顔を探したに違いありません。今度、目を開いたときには、家族の誰かがそばにいてあげたいです。 

  (2022年9月18日)

 
 

第723回 赤とんぼ(2)

 先日の夜遅くのことでした。仕事を終え、事務所から家に帰ろうと、車のドアを開けて座ったところ、赤とんぼが一緒に乗りこんでいたことがわかりました。

 入ったのは1匹です。翅(はね)を動かし、あちこちのガラスにぶつかっています。「これはめずらしい。夜遅い時間でもいるんだ」そう思って、スマホのカメラを使って写真に収めました。

 写真は私の腕にとまったところで撮影したのですが、車内の明かりの関係からか、翅が左右3枚ずつあるように見えて、ひょっとしたら、珍種かなと思いました。

 そのうち、赤とんぼは私の胸にしっかりとつかまって動かなくなりました。どうしようか迷ったのですが、そのまま車を走らせ、家の玄関前まで走りました。

 わが家に着き、車を止めたところ、赤とんぼは私の胸から離れました。そのとき、ドアを開けたものですから、赤とんぼは外に逃げ出したものと思っていました。

 ところが、翌朝になっても、その赤とんぼは車の中にいたのです。飛び回りすぎて疲れたのでしょうか、ほとんど動かなくなっていました。翅の数が気になっていたので、車の中で赤とんぼをよく見ると、翅は左右2枚ずつでした。やはり、光のいたずらだったんですね。

 赤とんぼは、すっかり元気をなくしているようにも見えましたので、前日、赤とんぼが車に乗り込んだ場所の近くまで行き、草の上にそっと置きました。すると、なんということでしょう、さっと飛び上がり、どこかへ飛び去ったのです。

 赤とんぼは、この数日前から近くの田んぼでその姿を確認していました。ですから、いても不思議はないのですが、ただ、夜に見かけたという記憶は街灯の下くらいで、他にはありません。母の病状に大きな変化が起きたなど、何か、特別に私に知らせようとしたことがあったのではないかと思いました。でも、それは考えすぎだったようです。病院からはその後、何も連絡は来ませんでしたから、ホッとしました。

 それにしても、赤とんぼは何故、私の胸にしがみついたのか。「偶然ですよ」と言われれば何も反論できないのですが、私には偶然とは思えないことがいくつか起きていたのです。

 じつは昨年の秋、何回か、赤とんぼが私の胸にとまることを体験していました。それも1匹や2匹ではないのです。多い時には5匹も私の胸にとまったことがありました。しかも、すぐに飛び去ることもなく、しばらくつかまったままでした。

 この様子は写真にも撮って記録し、全国に発信しました。その時、全国の多くの人から、「もしかして、体にトンボが好きなもの張り付けていませんか」「素敵なバッジを、しかもたくさん!」「不思議な魅力感じるのかな」「すごいですね、女性とんぼの軍団ですか」「これ、珍百景に応募してください。登録は確実です」「露濡れし幼き胸に赤トンボ」などのコメントをいただきました。

 今回、夜中の赤とんぼの様子などを目にして、改めてどういうときに赤とんぼが私の胸にとまったかを考えてみました。

 共通だったことは、いずれも私のシャツにとまったことです。なぜかズボンにはとまっていないのです。そしてシャツは、私が普段着として愛用している縞模様のシャツだったのです。

 赤とんぼは縞模様の柄が気に入ったのかも知れません。でも、この時、私が思ったのは、私の「におい」がシャツにしみ込んでいるからではないかということです。もしそうなら、高齢の体から出る「におい」は嫌なことばかりではないということです。赤とんぼたちよ、ありがとう。

  (2022年9月11日)

 
 

第722回 眠り続ける母

 入院している母と約1か月ぶりに会える、そう思っていたので病院へ行く前日の日曜日の夜はうれしくて、よく眠れませんでした。

 ところが当日の午前10時半過ぎ、市役所で仕事をしているときに病院のスタッフの方から電話がかかってきたのです。スタッフからは、「エツさんはここ3日間ほど食事がとれてなく、点滴をしています。これからMRI検査を行います。検査結果は、こられたときにお知らせします」と言われました。そして、「2年前の心臓手術以外で金属が入っているところはないでしょうか」と質問されました。

 じつは、この日は母の退院にむけて家での食事をどうするか、介護をどうするかを看護師さん、栄養士さんなどから指導していただくことになっていました。

 当初の予定と違った展開に、「ひょっとすると、脳梗塞がまた発生したか、大きくなった脳内の動脈瘤が破裂したかも知れない」そう思い、母との再会についての期待が一気に不安に変わりました。

 病院側と約束した時間は午後2時からでした。長女とともに病棟のナースセンターに行くと、「まずは医師から説明します」ということで、ナースセンター脇の部屋で担当のお医者さんから説明をしていただきました。

 担当のお医者さんは、「新たなことがわかりました」と言って、7月29日に入院した当時の画像とその日の午前に撮ったばかりのMRI画像を比較しながら、脳梗塞を起こした部分が大きく広がっていること、覚醒をつかさどる場所についても、白くなってしまっていることなどについて丁寧に説明してくださいました。

 びっくりしましたね。午前の電話では、「3日間ほど食事をとれず、点滴している」と知らせていただいたのですが、まさか、母が3日間も眠り続け、呼びかけても反応がない状態になっているとは思いませんでした。

 今後の治療について、お医者さんからは、「1週間ほど点滴しても目がさめなかった場合、その時点でもう一度相談させてください」と言われました。端的に言うと、延命治療についてどうするか相談したいということです。

 1か月ぶりに母と会えば、「とちゃ、来てくんたがか。何かうんめもん、持って来てくんたか」と笑顔で話してくれるにちがいない。そう期待していただけに、お医者さんの説明を聴き、私はがっくりしてしまいました。

 お医者さんの説明を聴いてから、長女とともに、ベッドに寝ている母のところへ行きました。母の顔色は悪くありませんでしたが、完全に眠ったままです。

「ばちゃ、とちゃだよ、来たよ。一緒に家に帰ろさ」
「ばちゃ、オレだよ、頑張ってくんない」

 私は何度も母の頭をなで、声をかけました。長女も母の手を握り、声をかけ、励ましました。でも、母の目は開くことはありませんでした。手にも反応はありません。そばに看護師さんがおられたのですが、涙がこぼれそうになりました。

 担当のお医者さんや看護師さんによると、母は意識がなくなる数日前に大きな声で私や家族の名前を呼び、家に帰してほしいと必死になって訴えたとのことです。そのとき、母のそばにいてやれれば、どんなに母は喜んだことでしょう。

 母が眠り続けてまもなく1週間になります。「眠っているようでも耳は聞こえていますよ」という方が何人もおられます。今度、母に会った時には、牛飼い時代の思い出や母の得意料理のことを書いた私の随想を読んで、聴いてもらおうと思います。

  (2022年9月4日)

 
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