春よ来い(30) |
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第721回 一枚板の橋 一枚の板が水路にかかっているのを見ただけで、こんなにも気持ちが高ぶるとは思いませんでした。 お盆の15日の夕方、市道代石小苗代線に車を止め、田んぼの風景を撮ろうと思ったときでした。前方に用排水路をまたぐ一枚の板があることに気づきました。 ここは市道から見ると、田んぼの畦も水路も一直線に見える場所です。この直線と田んぼの稲や青空とがうまくかみ合って美しい景観を作り出していました。 そこに直線と90度の角度で一枚の板がかかっている。写真を撮るためにはじゃまになってもおかしくないのですが、じゃまどころか、「いいなぁ」と思いました。「水路をまたぐ、素敵なもの」として私の目に映ったのです。 私は、市道と田んぼの境に張ってある電気柵をまたぎ、板のかかっている場所をめざしました。歩数にして約70歩、だいたい40㍍ぐらいの場所にありました。 一枚の板がかかっているのを見つけたとき、すぐにそばまで行きたくなったのは好奇心というよりも、私をひきつける懐かしさを持っていたからです。 板は幅も広く、厚さもけっこうあります。一目で、「これはがっしりしている」と思いました。迷うことなく板の上に乗り、渡ってみました。危なげないので、スリル感はまったくありません。ただ、私の体重は80数㌔ありますので、真ん中あたりで少し沈みました。でも大丈夫でした。 私が吉川区の山間部、蛍場に住んでいた頃、山へ山菜採りに行くにも、田んぼに行くにも、畑に行くにも必ず丸木橋を渡らなければなりませんでした。そこには釜平川(がまびろがわ)が流れていたからです。いずれの橋も杉の丸太数本でつくられていて、一部に平らな板を打ち付けてあるものもありました。丸木橋は移動のためには欠かせぬものでした。一番切なかったのは、雨の日に稲を背負って橋を渡るときでした。川の流れは怖く、見ると足がすくみました。絶対見てはいけなかったのです。 今回、見つけたものは丸木橋ではなく、板を渡しただけのものですが、渡るときの慎重な気持ちは共通でした。 一枚板の橋を往復してから、私はいったん家に戻り、巻き尺を持って、もう一度板のところへ行きました。大きさをしっかり測っておきたかったからです。板の幅は約30㌢、長さは3㍍でした。そして6㌢もの厚さがありました。 それにしても、こんなに素敵な橋を誰がかけたのだろう。そう思った私は、まず、小苗代で材木店を営んでいるFさんに電話をしました。こんなに大きな板を使っているからには、Fさんが何らかの情報を持っているに違いないと思ったからです。 ところがFさんには心当たりがないということでした。そうなれば、朝早くからきめ細かく田んぼをまわっているOさんかも知れない。声をかけたら、「自分ではない。たぶん、しんたく(屋号)さんでないか。草刈りのときの移動に使っていなると思うよ」と言われました。 Oさんの予想通りでした。「しんたく」さんへ行くと、「うちのです。小屋を作ったときの残った材料を持ってきて、かけたんです。うちはあそこに田んぼがいっぱいあるし、あれがあると、草刈りなんかで便利なんだわ」と言われました。 話を聞いて、なるほどと思いましたね。水路は1㍍20㌢ほどの幅です。人間だけならジャンプすれば渡れる幅です。でも草刈り機などを持てば、そうはいきません。 雨上がりの日、改めて一枚板の橋を渡ってみました。板には製材時にできた横のギザギザの滑り止めもある。たかが板と言うなかれ。渡るには、じつに便利な橋です。 (2022年8月28日) |
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第720回 義母のVサイン 義母は今年も笑顔で迎えてくれました。ただし、自分の部屋ではなく、今回は仏壇の脇の写真の中からでしたが。 今年のお盆は義母が亡くなって最初に迎えた新盆です。お寺さんがお参りに来てくださるというので、15日、妻と共に柏崎市にある妻の実家に行ってきました。 この日は雨が降ったり止んだりの天気で、一日中、蒸し暑い日となりました。 家の玄関に至る道は市道から15㍍ほどの距離です。ずっと坂道で、道の中ほどのところの左右に大きな百日紅(さるすべり)の木があります。雨にぬれたのでしょうね、左側の白い花も右側の赤い花もキラキラと輝いて見えました。 家に入ったのは午前10時を少しまわった頃です。まずはお参りをと仏壇に向かいました。仏壇の一歩手前で、すぐ左側に義母の遺影と共にひと回り小さな写真があることに気づきました。これがとても素敵でした。笑顔いっぱいで、しかもVサインをしています。私の顔を見上げて、「おっ、橋爪さんも来てくれたね」そんな言葉が聞こえてきそうな写真でした。 写真をよく見ると、介護施設のスタッフの方から撮ってもらったものなのでしょう、立派な木製のイスに腰掛けて、足元には毛布をかけてもらっています。撮影の日付は2020年4月5日となっていましたから、まだ寒かったのでしょう。 お寺さんを待つ間、私は庭が見渡せる廊下のイスに座ってゆっくりさせてもらいました。庭には百日紅の木だけでなく、桜や紅葉の木などが植えられていますが、庭のほぼ真ん中にある桜の木の上部が枯れ始めている様子が見えました。 義兄に、「桜ん木、上の方、枯れちゃったね」と言うと、「たぶん栄養不足になっているんじゃないかな。足も踏まれちゃっているしさ」という言葉が返ってきました。「足が踏まれている」というのは、木のそばに大きな石が置いてあるということです。これは気づいていませんでした。 桜の木は義兄の長女のNちゃんが誕生したことを記念して植えたものです。だから、樹齢は少なくとも47年になっています。義兄によると、苗木は3㍍くらいの長さになっていたといいますから、実際の樹齢はそれよりも2、3年長いはずです。 妻はというと、座敷に置いてある家系図に見入っていました。「父ちゃんの母親は、大正14年5月11日、36歳で亡くなったんだね。父ちゃんがまだ2歳だったんだ」。前にも聞いたことがあるような気もするのですが、この言葉が心に響き、私も家系図を改めて見てみました。義父の母親だけでなく、何人もの人が30代、40代で亡くなっていることを知りました。 それだけではありません。妻が「火事にあっているんだ」と言ったので、家系図のなかの一角に書いてある重大な事件にも注目しました。「明治31年5月17日、放火で当字当家とも3戸が全焼。家屋の再建と、後に長男嫁子娘孫に先立たれ、妻と共に心労されたことと思う」。この記述は義父が書いたと思われますが、こうしたことが書かれていることは初めて知りました。 新盆というのは、この1年の間に亡くなった人のことを思い、さらにそれよりも前に亡くなった人たちのことにも思いを寄せることになるんですね。 再び外を見ると、いつの間にか日が照っていて、アブラゼミとツクツクボウシが賑やかに鳴いています。 家系図を見たことで、義母が生前、「父ちゃんがまだ迎えに来ない」と怒っていたという話を思い出しました。そして、笑顔とVサインの義母の写真を改めて見て、声をかけたくなりました。おかあさん、おとうさんと会えて良かったね、と。 (2022年8月21日) |
第719回 猛暑の夏まつりで 7月の最後の日。5回目の日曜日となった日です。この日も日除けなしで外に長くいるのは危ない感じの猛暑日でした。 私は軽乗用車に乗って大島区のふれあい館前で開催されていた〝おおしま夏まつり〟に出かけました。 先日の吉川テラスと同じくこちらも3年ぶりの開催です。日頃、なかなか会えない人とも会えるかもしれない、そう思って楽しみにしていました。 この日、気温は35度前後になりました。私は、3年前に亡くなった従兄が愛用していて、最近、私が譲り受けた菅笠(すげがさ)をかぶって会場に入りました。 一番最初に、私に気づいてくれたのは市役所職員のヨシコさんです。菅笠をとり、その内側に書かれた〝文英〟という文字を見せたところ、「おおー」という声をあげてくれました。この菅笠には、水戸のご老公の印籠(いんろう)のような「威力」があることを知り、驚きました。 会場のふれあい館前広場では、焼き鳥などの食べ物の販売や遊びの場などとなっているテントがいくつも並び、お客さんが飲食をし、おしゃべりもできるパラソルも十数基設置されていました。 まずは腹ごしらえをしようと寄ったのは菖蒲地区のみなさんのテントです。中高生でしょうか、大人に混じって若い人たちが一生懸命働いている姿は見ている方も気持ちがいいですね。私は、ここで焼きそばを買い、西側に設置してある休憩用テントの下で、休むことにしました。 そこのテントを選んだのは、石橋のHさんらしき人が2人の男性と一緒にくつろいでおられたからです。「Hさん、写真は昔から撮っていなったがですか」と声をかけると、「いや、私はやっていません」と言われました。「あれだけ素敵な風景写真などを撮っておられるのに、おかしいなぁ」と思いました。 そのうちに板山の従弟夫婦が、私のところにやってきておしゃべりが弾みました。そして従弟の連れ合いのチエコさんが、「Hさんらしき人」に向かって、「ヨウコさんお元気ですか」と訊(き)くと、従弟が慌てて、「なして、奥さん、何年も前に亡くなったねか」と言ったのです。 その瞬間、私の勘違いがハッキリしました。どうもおかしいと思っていたら、数年前にお連れ合いを亡くされた大工のTさんだったのです。チエコさんも間違えるくらい、Tさんは顔立ちといい、真っ白な髪といい、Hさんにそっくりでした。 私もTさんのお連れ合いはよく知っていて、ご自宅で何度かお茶をご馳走になったことがありました。勘違いしたおかげで、亡くなったお連れ合いとのお茶飲みで、春日山のSさんたちのことや私が書いた「春よ来い」のことをたっぷり話したことを思い出しました。 短い時間でしたが、会場では大平のIさん、Tさんなどとも再会し、野の花や昔の懐かしい出来事を話すことが出来ました。 この日は、商工会のテントでイカ焼きのパックを買い求めた後、大島区出身の市役所職員さんたちがポップコーンや綿飴を販売していたテントにも寄り、挨拶しました。ここでも菅笠をとり、「文英」の文字が見えるようにすると、ヨシコさんが、「ほら、おまんたも、フミエイさんの世話になったがろ」と言ってくれました。そのひと言だけで、親しみのある雰囲気が醸し出されました。うれしかったですね。 夏まつりには地元に住んでいる人たちだけでなく、外に転出した人たちやその子どもたちも大勢参加していました。そして、すでに亡くなっている人たちも盛り上げに一役買ってくれました。だから、いいんです、夏まつりは。 (2022年8月7日) |
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第718回 母のほめ言葉 先日、「かあちゃんに食べてもらって」と愛知県に住む弟が大きなメロンを2個送ってくれました。 わが家の人間はメロンが大好きです。私が子どもの頃は、ヨシワラという場所で、母がマクワや黄色いメロンをつくってくれていましたので、収穫の時期が来るのを楽しみにしていました。時期はちょうど今頃ですね。 母が90歳を超え、自分で作ることができなくなってからは、牛飼い時代にたくさん作っていた一口メロンの栽培に私も挑戦しましたが、食べ頃になる直前に野生動物たちに食われてしまい、やめました。 そこらへんの事情を弟も知っていたのでしょうか、今度は自分が用意して母に食べてもらおうと送ってくれたのです。メロンが着いてから数日後の夜、弟のところにお礼のテレビ電話をしました。 「あら、おまん、どうしたが」 「おまん、電話くんたがねがか」 いつものように、すぐに話ができるようにして、スマートフォンを母の目の前に置いたのですが、自分から電話をかけたという自覚はないのです。最初はぎこちない会話になりました。でも、すぐにいつもの調子に戻りました。 「おまん、いい男だなぁ。元気か」 「元気だよ」 「そりゃ、いかった」 「ヒロ子、入院してるがど……」 「なしたが」 「24年前の交通事故のせいだねかな。でも、心配いらんよ」 その後です、弟がメロンのことを口に出したのは。 「おまん、メロン食ったかね」 「うん、うんめかったよ」 そして、母はこれまでにない言葉を弟にかけました。 「おまん、長生きしろや。長生きしてくんないや」 弟が母にかける言葉を先取りして、逆に母が弟に言うとはびっくりでした。何か思うところがあったのでしょう。 弟に電話をかけた時間帯は、テレビのBSで朝ドラの再放送が行われていました。電話中はテレビを切り、電話が終わってから、再びスイッチを入れました。 再放送されていた朝ドラは、国産初のウイスキー製造に挑んだ人の物語、「マッサン」です。主人公の政春を演じた玉山鉄二は母のお気に入りの俳優さんです。テレビでは、マッサンが、「日本がぎゅっと詰まったウイスキーをつくる」としゃべっていました。 「これがマッサンてがろ、いい男だなぁ」 ここ数年、母の男性にたいするほめ言葉はいつも「いい男」、女性にたいしては、「きれい」「若いねぇ」です。 ♪麦は泣き、麦は咲き、あしたへと育っていく 中島みゆきが歌う主題歌が流れ、番組が終わってから、母に気になっていたことを質問しました。 「おまん、ほんとにメロン、食ったがか」 「なんだか、うんめ、メロン、食ったよな気しるな」 しかし、本当はまだメロンは座敷に置いたままでした。食べ頃には2、3日早いと思ったからです。 その日の夜中のことです。最近、左手がきかなくなった母は、ベッドから起きるにも難儀していました。「いち、にいーの」と声を出しても、なかなか起き上がれません。私はこれが限界という段階で手助けしています。そのときです。私には「いい男だな」とは言ってくれない母が、「ああ、トチャいてくんていかった」と言ったのです。私にとっては最高のほめ言葉でした。 (2022年7月31日) |
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第717回 認知症テスト ベッドに横たわり、点滴を受けているときに隣の診察室からA先生と高齢の女性との会話が聞こえてきました。 「おばあちゃん、きょうは何月何日ですか」 「7月11日です」 「はい、その通りです。私たちがいるここはどこですか」 「病院です」 「どこの病院ですか」 「中央病院? あっ、労災病院かな」 ここまで聞いて、思い出しました。この設問は十数年前、親父を犀潟の病院に連れて行った時のものと同じだったのです。「ああ、この人もうちの親父と同じ病気なのかな」そう思いました。先生と女性とのやりとりは続きます。 「そうねぇ、ここも病院だからいいことにしましょう」 「では何曜日かな」 「火曜日です」 「ううん、だいたいそんなところかな」 「じゃ、次に3つの言葉を言います。あとで聞きます。ゆっくり言いますから、しっかり覚えてくださいね」 「・・・・・・」 「はい、いきますよ。サクラ・・・ネコ・・・電車・・・。覚えてくださいね」 「・・・・・・」 「では、聞きますよ。最初に私が言った言葉は何ですか」 「サクラ」 「はい、正解です。では次は?」 「・・・・・・」 言葉はなかなか出てきません。私とは壁ひとつへだてているので、実際には見えないのですが、女性が一生懸命思い出そうとしている様子がよく伝わってきました。そして、苦笑してしまいました。 じつは、私も1個目の言葉はすぐに思い出せたのですが、2個目も3個目も出てこなかったからです。 「はい、次の言葉はネコでした。おばあちゃん、ネコ、知ってますよね。かわいいもんね」 「・・・・・・」 この後もやり取りが続き、最後は野菜の話になりました。 「では、知っている野菜の名前、できるだけ言ってみてください」 「ブロッコリー、大根、ナス・・・・・・」 次々と出てきても良さそうなのですが、これもなかなか出てきません。かくいう私も出てきませんでした。正直言って、ここに書いた野菜の名前も実際はどうであったか、あまり自信はないのです。 今月10日の夜、急に左手の動きに違和感を持ち、翌日、私は市内のある脳外科医院で診察してもらいました。 MRI検査や血液検査をしてもらった結果、異状はありませんでした。これでひと安心したのですが、この医院で点滴をしてもらっているときに聞いたやりとりを思い出し、自分のことも心配になりました。 この医院でA先生と女性が交わしていたことは長谷川式という認知症テストのひとつでした。そこでの先生の質問に答えられないものが私にもいくつもあった。ということは、私自身も始まったのかも知れない、そう感じたのです。 私の父は、70歳を過ぎても頑張り続け、百姓の仕事は私よりもはるかに多くできました。でも70代半ば頃から体調を崩し、一気に認知症が進みました。 考えてみれば、その父の年齢まであと何年もありません。どんな病気でも、早期発見、早期治療が大事だと言われています。自分の体力などを過信せず、しっかり健康チェックをしたいと思います。それは亡き父への恩返しにもつながるはずだから。 (2022年7月24日) |
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第716回 はつもん やはり、この季節には「はつもん」という言葉が似合います。春に種をまいたり、苗を植えたりした野菜が次々と収穫の時期を迎えるからです。 「はつもん」というのは「初物」の方言です。先日、吉川区勝穂地区のHさん宅でお茶をご馳走になったとき、「さあさ、食べてくんない、はつもんだすけ」と言って出してくださったものはカボチャと枝豆でした。カボチャは皿の上に5切れのせられていて、茹で上がりのオレンジ色が食欲をそそります。枝豆は10個くらいだったでしょうか、こちらもきれいな黄緑色になっていました。 出された直後、カボチャも枝豆もHさん夫婦の畑でとれたものだと思っていたのですが、お二人が「カボチャはヨシアキさんが持ってきてくんなったが」「この枝豆はイクちゃが持ってきてくんたがど」と言ったことでそうでないことがわかりました。どちらも親しく付き合いをされている人からのプレゼントだったのです。 今年、カボチャは出来が早いのでしょうか、この数日前、私は大島区菖蒲地区のある家でカボチャの「はつもん」をご馳走になっていました。Hさん宅で出されたものもたぶん同じ品種だったのでしょう。色も味もまったく同じ感じで、いいものでした。私は枝豆に手を付け始めると、休むことなく食べ続けてしまいます。遠慮なく、どんどん食べる姿を見て、Hさんのお連れ合いは、「ああ、橋爪さんに食べてもらっていかった」と喜んでくださいました。 今回の「はつもん」は「お茶のとも」として最高でした。「イクちゃんちの枝豆は吉川郵便局にも出してんがだよ」という話から、話は盛り上がりました。野菜販売は農協へ出すだけでなく、最近は、郵便局などいろんなところへ出すということです。びっくりしましたね、「郵便局に出す」というのは宅急便を使うという意味だと思ったら、そうではないのです。郵便局舎内でも販売しているということだったのです。今度、吉川郵便局に行って、その様子を見てこようと思います。 出していただいたカボチャと枝豆は私のスマートフォンのカメラを使い、写真に収めました。撮ったものをHさん夫婦に見せたら、「いいもんだね。よく撮れている」とほめていただきました。その言葉が呼び水となり、私のスマホ内の画像やイラストも見ていただきました。このうち、ヒマワリは頸城区で撮ったものですが、お天道様の光を受けて、輝いていました。Hさんのお連れ合いが「きれいだね」と言われたので、「若い時の誰かさんみたいだ」と言うと、ニコニコして「知らんくせに」。そして「ヒマワリなら、おらちにもいいのがあるよ。こんだ、おらちんがも撮ってくんない」と言われました。 Hさんのお連れ合いは元建設労働者でした。原之町に営業所があったN事業で働いていたのです。「N事業では国田のマモルさんちの母ちゃんや河沢のヤッちゃと一緒に仕事させてもらった」と語り、昔の仕事を振り返りました。ヤッちゃというのは私の叔母です。こうした人たちはすでに八〇代です。最近は高齢者や障がいのある人たちが集うサロンに行って交流しているとのことでした。 わが家では、いま畑をまったくやっていません。昔は「はつもん」を収穫すると、必ず仏壇に上げ、その後、家族みんなで、「はつもん」を味わったものです。自分で作らず、買ったり、もらったりするなかでその習慣は薄らいでしまいました。 最近は出てきませんが、そのうち、祖父音治郎が夢に出てきて言いそうです。「あにゃ、人様からもらったもんでも、はつもんは仏壇に上げてから食うもんだど」と。 (2022年7月17日) |
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第715回 不死鳥のように 6月3日だったと思います。直江津の三八市へ行った際、漬物を中心に販売していた悦子さんのことが気になって、山川製菓店のお母さん、初江さんに尋ねました。 「悦子さん、ずっと来ていなんねみたいだけど、どうしなったろね」 すると、初江さんはこう言われたのです。 「あの人は心配いらんわね。病気しようがケガしようが不死鳥のように立ち上がんなさるすけ」 言われた通りでした。悦子さんは、その後、10日ほど経って、再び市に出てこられたのです。 悦子さんに聞いたら、階段から落ちて入院し、自宅療養も含め50日ほど休んだとのことでした。 私は直江津の三八市に通い始めて8年になりますが、先日、悦子さんに、「いつから市に店を出すようになったがね」と訊(き)きました。すると、「25歳で結婚し、じきに市へ通うようになったんだわね」。びっくりしましたね。ということは、50年以上も前から朝市に野菜や漬物などを出してきたということです。 きっかけは政府の減反政策だったとのことでした。「コメつくらんねくなりゃ、どうしよう」と最初は枝豆を作って3年ほど頑張ったけどうまくいかず、その後、自分の畑で作った野菜などを高田の市へ売りに出したのだそうです。当時は車がありませんでした。それでどうしたか。自宅から朝市のところまで片道約6㎞、リヤカーに野菜を積んで市まで運んだというのです。すごいですね。 そう言えば、私が高校時代、南城町や南本町などに住んでいた時、農家のお母さんたちがリヤカーを引いて、野菜売りをされているところを何度か見たことがありました。悦子さんが高田の市に野菜などを出された時期は、その数年後になります。当時、リヤカーは大事な運送手段の1つだったんですね。 車に乗るようになってからYさんは、車の置く場所を確保しやすい直江津の三八市へ変更しました。そのころ、悦子さんは保健所の許可を取って漬物や惣菜も朝市に出すようになっていました。 三八市では、悦子さんは、美味しい漬物やおかきを売っている1人として有名ですが、長年続けてきた、その頑張りの土台は子どもの時に形成されたようです。父親がじつにきびしい人だったとか。そして、小学校の5年生の時でした。お母さんが40歳で倒れられ、お母さんがされていた仕事を3人のキョウダイで頑張ってやったのだそうです。そのことが大きく影響しているのでしょうね。 朝市では、大勢のなじみのお客さんがいます。悦子さんは、「お客さんと触れ合う時間が一番楽しい。『おばちゃん、待っていたよ』、『おいしかったよ』と言われるとうれしくなる」「これまで、こういうお客さんに後押しされたから長続きしてきた。感謝しかないわね」と言って笑います。 最近は午前10時頃になると、近くで野菜などを売っている人たちと山川製菓店前でお茶飲みをするようになりました。これがまた楽しいんです。家族のこと、野菜のことなどおしゃべりがはずみます。私も2度ほど仲間にしてもらいましたが、悦子さんはお茶飲み用にナスの漬物を用意していて、みんなに食べてもらっています。 悦子Yさんは、「再来年の2月には運転免許証の更新がある、来年の10月ころには運転してもいいかどうかを判断する検査もある。家族は心配しているが、朝市の楽しみは忘れられそうもない」と言っておられました。「人生、楽しく生きなきゃ」というYさんはいま、80代の一番いいところ、まだまだ元気です。 (2022年7月10日) |
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第714回 三年ぶりの小旅行 先日、地元町内の老人会で3年ぶりに小旅行をしました。といっても、車で10分くらいのホテルへ行き、風呂に入り、懇親会をやっただけなのですが……。 参加者は60代後半から80代までの男女11人。集落のほぼ真ん中にあるバス停までホテル側からマイクロバスで迎えに来てもらい、帰りも送ってもらいました。 ホテルに着いて、休憩室兼懇親会場となる大きな部屋に入ると、海が見えます。何人かが、「きれいな海だね」「船に乗っているようだ」と言いましたが、会場の北側の窓からは海面を見下ろす感じなのです。 沖の方では、漁船と思われる小さな船が1隻、ゆっくりと移動していました。後の方に少し黒みがかった浮きのようなものを引いていて、見ていた人たちは、「網をおろしているんだろうか」などと言って眺めていました。 会場に着けば、たいがいはまず風呂に入り、それから懇親会となるのですが、お風呂は午前11時からということなので、時間がありました。待っていましたとばかりに、楽しいおしゃべりが始まりました。 まずはカボチャの話から。もうカボチャを食べたという人がいて、「どういう状態になると収穫できるのか」という質問が出ました。S子さんが、「カボチャの実の上のツルがコルクのようになるといい」と言うと、隣のM子さんも、「そこに穴が開いたように点々ができるんだよね」と言いました。 久しぶりにゆっくりとみんなで話す機会ができたものですから、タヌキを見かけることが今年は少ないとか、ヘビがキュウリの棚の上にいてびっくりしたなど、話は次々と出てきます。 お風呂に入って、懇親会は正午から開始。男性陣は4人が中ジョッキの生ビール、私がノンアルコールのビール、女性陣は小ジョッキの生ビールで乾杯しました。 テーブルの上にはアクリル板の仕切りがあり、酒を注いで回ることはほとんどありませんが、他は以前とほぼ同じです。生ビールのジョッキは久しぶりに見ました。料理は刺身、カサゴのから揚げなどが出てきて、宴会ならではの料理に舌鼓を打ちました。 懇親会でも楽しみの中心はおしゃべりです。参加者の中で2番目に年長のSさんはお寺さんです。お寺の境内にある鐘突きの話に引き込まれました。 「昔は午前11時半に鐘を鳴らしたんだよね。その鐘の音を聞くと女しょは仕事をやめて昼ご飯を作りに家に帰る。男しょは一服吸いつけて、もうひと働きするんだ」 話を聴いていた人たちは、みんなこの種の体験をしていますから、昔のことを懐かしく思い出しました。 Sさんは続けて、「鐘の音でも一番いい音は夕方だね」と言いました。「夕方、鐘、突いていたの」という質問が出ると、「突いていないけど、いいと思う」。聞いていた人たちみんなが、夕焼けの中、ゴーンという音が静かに響き渡っていく様子を思い浮かべてニコニコになりました。そうそう、柿崎駅の近くの鉄橋を渡る電車の音も話題になりました。 参加者の年齢は70代、80代が多いので、どうして話題の最後は人生の終盤のことになります。 「先日亡くなったS子さんは、お連れ合いのやさしい歌の声にひかれて旅から嫁に来なった」 「いなくなる前に整理しておけ、と子どもに言われている。あの植木、どうしるがとも」 ちょっぴりさみしい気持ちになりました。でも、みんなで小旅行に出て一緒に楽しむのは最高です。満足感は最後に食べたメロンの味と同じ、ベリーグッドでした。 (2022年7月3日) |
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第713回 人に励まされて お連れ合いを亡くし、まもなく半年になる女性がいます。Hさん、88歳。現在、山間部で一人暮らしをされています。 先日、ビラ配りをしていたら、宅地のそばの畑で、麦わら帽子をかぶって草取りをしているHさんの姿が目に入りました。もちろん一人です。 隣の家の前庭を通って畑に行くと、作業に夢中になっておられたのか、それとも耳が遠いのか、Hさんは黙々と草取りを続けていました。 私はマスクをあごまで下げ、「どうも。元気でいなったかね」と声をかけました。最初は、「誰だろう」といった感じの受け止めだったのですが、Hさんは、「橋爪さんかね」と言って、私の顔を見てくださいました。 私がうなずくと、Hさんは、「ああ、いかった。橋爪さんのこと、わかりゃ、まだオレはおかしくなっていないね」と言って、喜びの顔になりました。 手押し車に座ったHさんをよく見ると、薄いピンクの花柄の長袖シャツにもんぺ姿でした。なかなかのおしゃれです。 そのHさん、最近、「物忘れ」が進んできたと言います。 「オレ、植えてすぐなるもんはトマトだと思っていたもんだすけ、トマトの苗、買ってきたが。でも、ナスやキュウリ、わすんちゃって」 Hさんは、雪が解けてから、いつものように自分の家で食べる野菜はそばの畑で作ろうと思ったのだそうです。でも、最初、野菜の苗として購入したのはトマトだけでした。その後、気づいて子どもさんからキュウリなどの苗を買ってきてもらったとのことでした。 そばにはキュウリの姿は確認できませんでしたが、遅れて購入したキュウリもすでに大きく育ち、収穫できているとか。この間も、「キュウリ、たくさんとれたすけ、とりに来てくれ」そったが。でも、こらんねてがで、冷蔵庫にしまったと言います。 Hさんは、話を続けます。 「おらったり、空き家が増えて、○○さんちと▲△さんちは動物の棲み処(すみか)になってるが。そんで、なんとかならんかねと区長さんに言ったら、さっそく草刈りしてくんなって。オラの言うこと聞いてくんなったが。うれしかったぁ」 「そりゃ、いかったねぇ」 「オラ、一人になって、だあれも声かけてくんなんねかと思ったら、ありがたいもんだね。Nさんが朝早く、車に乗って仕事に出なるとき、おらちの方をちらっと見て、プッと鳴らしてくんなる」 「そりゃ、助かるね」 「はい、人間にさせてもらってるがでね。おまさんも、こうして、ここまで上がってきて、声かけてくんなるなんて、ありがたいです。ばちゃ、元気かね」 「おかげさんで、元気にしてるでね」 Hさんと話をしていて、驚いたのは、「人間にさせてもらっている」という言葉がその後も何度か出てきたことです。 そして、何の話の時だか忘れたのですが、手を合わせて私に感謝の気持ちを表してくださったのです。おそらく、Hさんに声をかけた他の人にもそうされているのだと思います。 一人暮らしになって半年、Hさんにとって、声をかけられたり、なんらかの働きかけを受けたりすることが生きていくうえで大きな励ましになっているんですね。 この日は晴れて気温が上昇、30度前後になりました。外に長時間いることは危険です。「もうじきお昼になるし、あっついすけ、家に入ってくんない。オレも帰るし」そう言うと、Hさんは、また手を合わせ、涙を浮かべておられました。 (2022年6月26日 |
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第712回 カエルの変態 このところ、近くの田んぼでオタマジャクシの観察を続けています。 きっかけは5月半ば頃のことでした。田んぼの中の数十匹のオタマジャクシを見ているうちに、ふと思ったのです。「このオタマジャクシたちは、いまは水中生活をしているが、そのうち、水中だけでなく、陸に上がっても生活できるようになる。ならば、その成長過程を見てみたい」と。 私は、子どもの頃からオタマジャクシを見てきました。雪解けからしばらく経って、田んぼの一角にカエルの卵がかたまって浮かんでいたりすると、それにさわってみたり、手ですくい上げてみたりして遊んだものです。 田植えの頃になれば、水田の水の中をすいすいと動き回るオタマジャクシの姿も見てきました。泳ぐ姿はまさに自由で、楽しそうに見えました。 でも、その先となると、よく分からない。分かっているのは、小さなカエルとなって道路上にとび出てくる姿、さらに大きくなって草むらにいる姿くらいなもので、その途中の変化についてはまったく見てこなかったような気がするのです。 水中だけの生活から地上へ移動するとなると、地上でも動けるように体が変わらなければなりません。呼吸方法もエラ呼吸から肺呼吸へと変化していくことになります。いったい、オタマジャクシの体はどうなっていくのか。 その答えは、突然、やってきました。 5月中旬のある朝のこと、それまで、数十匹が泳いでいた田んぼの場所からオタマジャクの姿が消えていたのです。「これは何かあったに違いない」そう思って、その周辺の水たまりを探しました。 数分後、少し離れたところでオタマジャクシを数匹、確認することができました。でも、様子が何となくおかしい。オタマジャクシの頭がいつもよりも大きく見えたのです。そして、体の側面には白っぽい手足が見えました。おお、こんなふうになるのかぁ。72歳にもなって初めて見た手足のついたオタマジャクシの姿、見ていてうれしくなりました。 こうしたオタマジャクシはその周辺に何匹もいました。水溜まりで泳いでいるオマジャクシを見たら、よりハッキリと確認できました。頭と胴体部分が区別できます。お尻の部分からは長いしっぽもまだついていました。 その数日後、今度は別の田んぼで体長がわずか1.5㌢ほどの小さなカエルを見つけました。1匹が目に入ってまもなく、他にも1匹2匹と姿を確認できました。 この小さなカエル、体の色はオタマジャクシの時の色ではなく、薄緑色になっていました。カエルたちは水たまりに入ったり、稲のそばに行ったりしていました。 注目したのはしっぽがまだついていたことです。しっぽは水中はいいにしても、陸上ではじゃまになるはずです。これじゃ跳びはねるのは無理だな、そう思っていたら、水たまりの中にいた1匹が田んぼから私がいない方を向き、ぴょんぴょんと跳ねたのです。それもしっぽはまったく問題ないよといった感じで飛び続けたのです。私は、しっぽのついたカエルが跳ねる姿を初めて見て、びっくりしました。この姿は記録しておかなきゃ、そう思って、スマホを使って動画撮影もしました。 オタマジャクシから普通のカエルの体になるように、動物が体の形を変えることを変態といいます。今回はその一部を見ることができました。それだけでもうれしかったのですが、後ろ足と前足はどちらが先か、しっぽはこの先どうなるかなど気になることはまだいっぱいあります。さて、そろりと田んぼに行かなきゃ。 (2022年6月19日) |
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第711回 グラジオラス 見たわけでないのに話を聞いただけで、見た時と同じくらい、あるいはそれ以上に花と作る人への思いがふくらんだ話です。 先日、自宅の庭や畑でたくさんの花を育てているM子さんから、「近くを通んなったら、私んちの花も見てくんない」と誘われました。M子さんが育てている花は園芸種です。私はどちらかというと野の花の方が好きな人間ですので、園芸種には大きな関心はありません。でも、1人で食堂をやっているM子さんが「自分ちの花も見てほしい」と言うからには、花について、何か特別の思いを持っているに違いない、そう思って出かけてきました。 M子さんのところに着いたのは午後2時前でした。駐車場に車を止めると、M子さんは砂利敷きをしている最中でした。「いやー、疲れるわ。だれもしてくんねもんだすけ」そう言って、M子さんは手を休めました。そして、すぐに駐車場のまわりに咲いている白やピンク、紫などの花の説明をはじめました。 そのなかで東側の植え込みにあったピンク色の花が私の気を引きました。名前はゴテチャ。空に向かって大きく手を広げているような花姿がとても素敵です。近くには田んぼが何枚も続いていて、そのずっと向こうには清里や板倉の山々も見える。さらに山の上の方には青空が広がっています。これはカメラに収めなきゃ、そう思って、ピンクの花に焦点を当てて、写真を撮りました。M子さんは、「いいでしょう」と私に声をかけ、ニコニコしていました。 玄関先で赤やピンク、オレンジ色のバラやジニアなどの花を咲かせているお店に入れてもらってからは、コーヒーをいただきながらM子さんの花人生をたっぷりと聞かせてもらいました。 M子さんは子どもの頃から花が大好きで、将来は花屋さんになりたいと思っていたそうです。残念ながら、花屋にはなれませんでしたが、ふるさと板倉に戻ってからは、家の玄関や屋敷内にできるだけ多くの花を咲かせました。それでも足りず、畑にも花を植え続けてきました。 たくさんの花の話の中で、注目したのはグラジオラスの話です。このとき、M子さんの目が一段と輝いて見えました。 M子さんは数十年前から畑にグラジオラスを植えています。最初は少しだったのですが、毎年増やし続け、現在は30㍍ほどの長さの畝(うね)を何と3列も作っているというのです。 グラジオラスの花はアヤメ科の園芸種。夏場の7月、8月に赤、黄、白、ピンクなどの花を咲かせます。咲いたグラジオラスは自分の家で使うだけでなく、M子さんが日頃仲良くしている大切な人にあげます。あるときは一番きれいに咲いている1本を、あるときは両手で抱きかかえなければならないほどどっさりと……。 昨年の夏は、真っ赤に輝くグラジオラスを1本、病気とたたかっている新井の同級生にプレゼントしました。この1本には花が20数個もついていたそうです。 お盆の少し前には近所の80代のお母さん、Tさんのところへ持参しました。Tさんもまた、花が大好きで、M子さんと競い合って花を育ててきた人です。でも病気を患ってからは思うように花を楽しむことができなくなりました。それで、お盆の前にグラジオラスを抱きかかえるほどたくさん持って行き、これを玄関先の大きな壺の中に入れて楽しんでもらうのだそうです。 M子さんはいま、70代の後半。数年前に息子さんを亡くし、お連れ合いと2人暮らしです。花を売ってはいませんが、心は花屋さん。たくさんの花をつくって元気をもらい、人にあげて元気のおすそわけをする、M子さんの花づくりは続きます。 (2022年6月12日) |
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第710回 忘れられない味 なんということでしょう。兄弟で同じことを考え、同じ行動をしていたのです。 先日、近くの雑木林の縁で、今年初めてキイチゴを採って食べました。例年よりもかなり早く実ったので、見つけた時はびっくりしました。その実った様子を写真に撮りインターネットで発信しましたが、大潟区に住む弟もほぼ同じタイミングで同じことをしていたことがわかりました。 キイチゴにはいろいろな種類があるらしいのですが、私が発信したのはバラ科の黄色いつぶつぶの実をつけるイチゴです。私が住んでいる地域では、キイチゴとかサガリイチゴと読んでいます。正式にはモミジイチゴと呼ぶのだそうです。 この時期、なぜキイチゴに惹かれるのか。その理由はただ1つ、子どもの頃から大好きな野の食べもので、忘れられない味となっているからです。 私の記憶は旧源小学校水源分校時代にまでさかのぼります。当時、私は旧吉川町の山間部にある蛍場(ほたるば)というところに住んでいました。いまのように食料が十分にあるわけではありません。学校の行き帰りの最大の関心事は、勉強のことでも遊びのことでもなく、食べられるものがあるかどうかでした。 春になれば、野草のなかでおやつ代わりになるスイッカシ(正式名はスイバ)、スカンボ(正式名はオオイタドリ)を見つけては食べていました。いずれも適度の酸味があって美味しかったのです。 わが家の田植えは毎年6月4日と決まっていました。キイチゴはその後1週間ほどで食べられるようになると覚えています。 野で採れる食べ物のなかで、キイチゴは王様と言ってもよいものでした。大きさは直径1㌢ほどで、甘味もあり、黄色でつやつやした実には上品さがありました。 私がキイチゴを採りに行ったのは、釜平川を挟んで南側にある田んぼの土手です。ここにキイチゴの木がたくさんあったのです。土手から7、8㍉の太さの茎が2㍍ほどに伸びて、垂れ下がっていました。そこに一枝あたり5、6個の黄色のイチゴが実っていました。多く採れた時は、弁当箱にいっぱいになりました。垂れ下がった姿が影響したのでしょうか、このイチゴをサガリイチゴと呼ぶ人がけっこういました。 さて、インターネットで発信した反応です。投稿を読んだ人たちからは、「昔良く食べました」「懐かしい。食べたいよぉ」「黄色のが美味しいですよね」「最初、イクラかなと、思いました。食べたい」などといったコメントが相次ぎました。これらのコメントを寄せてくださった人たちのほとんどは昔、キイチゴを食べたことがある人です。この人たちにとっても、キイチゴは忘れられない味だったんですね。 この日の翌日の朝のこと、高崎市で独り暮らしをしている従姉(いとこ)から電話がありました。「頭がふらふらする」とか言って、自分の娘のところにテレビ電話をするつもりだったのが、間違って、私のところにかかってきたのです。 たまたま外でテレビ電話をしていたので、ふと思いつき、近くにあった桑イチゴの実やキイチゴの実を見てもらいました。 「えーっ、これって桑イチゴ?」 「懐かしい、この黄色のイチゴ、よく食べたのよ」 そう言って従姉は大喜びしました。声を聞くかぎり、頭のふらふらは完全にどこかへ行ったようでした。 従姉は戦中、わが家で疎開生活をしていました。私よりもひと回り以上年上ですので、やはり、子ども時代、キイチゴや桑イチゴなどを食べていたんですね。この忘れられない味、今年はもう1週間ほど楽しめそうです。あなたも食べてみませんか。 (2022年6月5日) |
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第709回 野に咲く花は 毎年、5月の下旬になると、ひとつの野の花のことが気になります。白色または薄紫色の花を咲かせるミヤマヨメナです。 この花のことを初めて知ったのは、いまから20数年前の5月下旬か6月上旬の頃でした。当時、旧源小学校校長の高橋先生が通勤の途中、吉川区米山(こめやま)地内で見つけたと教えて下さったのです。 私がこの花に強い関心を持ったのは、「ミヤマヨメナ」という花の名前です。漢字で「深山嫁菜」と書きますが、私はこの花に、「奥深い山の中に住む、一度会ったら忘れることのできない美しい女性」というイメージをいだいてしまったのです。もちろん、それまで見たことがない花だったということもありますが……。 高橋先生から花が咲いている場所をしっかり教えていただいたので、私はその日のうちに現地へ足を運びました。車から降りると、町道(当時)脇の杉林の一角にその花の群生地がありました。 何本かの杉の根元付近に、数十本の花がひっそりと咲いていました。花の高さは4、50㌢、不揃いでしたが、1つひとつの花はキリリとして美しい。花びらは1枚いちまいはっきりと見え、秋に咲くノコンギクやヨメナと似た感じの花の形でしたので、すぐにキク科の花だとわかりました。そして葉は鋸歯でありながら、優しさを感じました。葉先が上ではなく、横に伸びていたせいかも知れません。 当時、キク科の花は秋に咲くものという先入観が私にはありました。それだけに目の前にあるミヤマヨメナはとても新鮮でした。花の大きさは直径で4、5㌢。色も私の好きな薄紫色です。「よく咲いてくれた」と一目ぼれしてしまいました。 以来、私はミヤマヨメナを探すようになります。米山以外で最初に見つけたのは吉川区東田中地区です。ここも杉林のなかでしたが、群生の規模は10坪近くもありました。さらに源地区や柿崎区などでも見かけました。 驚いたのは、数年前のことでした。地元町内会で草刈りをしていて、ミヤマヨメナを見つけたのです。あちこち探していたのですが、まさかわが家からそう遠くない場所に群生地があるとは思いませんでした。 今年は5月24日に地元代石(たいし)の群生地でミヤマヨメナの花の姿を確認しました。花の開き具合から言って、開花はその4、5日前頃だったと思います。 言うまでもなく、私が気になる野の花はミヤマヨメナだけではありません。毎月、その月ならではの気になる野の花がいくつかあります。3月はキクザキイチゲ、4月はコシノコバイモといったふうに。 6月になれば、吉川区が生育地の北限と言われているササユリです。ピンクや白の花を咲かせ、楽しませてくれます。ここ数年は白とピンクの花の競演を写真に収めることが一番の楽しみになっています。 このササユリは、私が吉川区の山間部に住んでいたときには知らない花でした。ユリ科の野の花としてはヤマユリとオニユリくらいしか知りませんでした。そしてヤマユリがユリ科の王様だと思ってきました。でも六角山の散策でササユリを見つけてからは、ササユリにぞっこんです。 ミヤマヨメナを含め野の花のほとんどは人に知られることもなく、そっと咲き、そっと散っていきます。しかし、そうであったとしても、花の時期になれば、野を彩り、至高の美をつくりだします。見事としか言いようがありません。 あと3日で6月です。そろりとササユリが開花するはずです。ヒメサユリのような派手さはないものの、慎ましく咲く姿には毎年感動しています。今年はどんな花姿を見せてくれるのでしょうか。 ことでしょう (2022年5月29日) |
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第708回 ゼンマイ飛行機 先日他界した叔父にかかわることでもう1つ書いておきたいことがあります。それは3年前の従弟の死についてです。 亡くなった従弟は叔父にとっては長男になります。亡くなった当時、従弟はまだ62歳という若さでした。叔父そっくりの顔立ちをしていて、頭の回転もよく、都内にある専門学校の教師をしていました。 生前の叔父は、この従弟の死をずっと知らずにいたと私は思っていました。当時、叔父は93歳。見た感じは元気でも、自分の連れ合いに続いて長男が先立ったとなると、精神的ダメージが大きいのではないか。伝えたことで身も心もガタガタときたら困る。そう思って、家族からも私からも長男が亡くなったことを伝えないことにしていたからです。叔父が入所していたグループホームのスタッフのみなさんにも「叔父に伝えない」考えであることをお伝えし、了解していただいていました。 ところが、誰も叔父に教えなかったにもかかわらず、叔父は長男の死を感じとっていたようだと、葬儀の翌日、叔父が入所していた施設のスタッフの方から教えていただきました。 入所以来、叔父は毎朝、施設から見える吉川区のシンボル、尾神岳に手を合わせていました。長男が亡くなった翌日の朝も、尾神岳に手を合わせていましたが、その時間はとても長く、しかもその際、何かぶつぶつ言っていたというのです。ひょっとすると、お経を唱えているのではないか。施設のスタッフのみなさんは叔父の様子を見て、長男の死が直感でわかったのではないかと心が震えたと言います。 その話を聴いて、これまで不思議に思っていたことが理解できるようになりました。これまで一番叔父のことを気にかけ、叔父の心配をしていた長男が叔父の顔を見に来ない、電話も手紙もよこさない。新型コロナウイルス感染症のことがあるにしても、叔父はいつかそのことに疑問を持ち、自分の子どもたちか私に何か言ってくるのではないか、そう思っていたのですが、長男のことはひと言も言いませんでした。今回、ようやくその謎が解けました。 叔父の葬儀の中では、いまでは懐かしい叔父と叔母の夫婦喧嘩のことなどの思い出話が次々と出ました。そして、亡くなった長男のことも話題となりました。何がきっかけだったかは記憶していません。話はじめたのは長男の連れ合いです。 「お父さん(連れ合い)が、子どもたちの前で草の飛行機をつくって飛ばし、子どもたちが『お父さん、すごい』と言ってた」 「草の飛行機」というのはゼンマイで作った飛行機のことです。それまであまりしゃべらなかった長男の連れ合いがうれしそうに話をしたので、私は斎場周辺の道などでゼンマイを探しました。どこかにあるはずだと思ってはいたのですが、5分も経たないうちに手頃のゼンマイを見つけました。 早速葉をちぎり、かっこいい「ゼンマイ飛行機」をつくって待合室で飛ばしました。無風の中でしたので、なかなかうまく飛ばせませんでした。でも、「ゼンマイ飛行機」のおかげで、亡くなった長男も「加わって」叔父をしのぶことができました。 初七日の法要が終わってから後生寺に行きました。短時間だったものの、叔父の家の中に入り、仏壇の前で叔母と叔父の写真を並べました。遺骨も仏壇におきました。そして、みんなが叔母に声をかけました。 「かあちゃん、長い間、一人にしておいてごめんね。今度、とうちゃんもあんちゃんも行くから仲良くしてね」 叔父が約5年間、施設に行き、その間、留守を守ったのは仏壇のなかの叔母でした。26年前、68歳で旅立った叔母にはみんなの気持ちが伝わったことでしょう。 (2022年5月22日) |
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第707回 家に帰りたい 大きく心を揺さぶられた時がやってきたのは、通夜式後のお斎(とき)が終わり、田中家の控室で叔父の思い出を語り合ってまもなくのことでした。 シゲルさんが突然言ったのです。 「親父が後生寺の家に連れていってもらった写真があるんですよ」 一瞬、耳を疑いました。叔父が柿崎区芋島のグループホームにお世話になってから、自分の家に戻ることはもちろんのこと、自分の家の現実の姿を見ることは一度もなかったと思っていたからです。 「えーっ、後生寺の家を見たことがあったの?。その写真、おれにも見せて」 そうお願いすると、シゲルさんは奥の部屋に行き、何枚かのスナップ写真を持ってきました。歩きながら写真を見て、「これです」と言って渡してくれたのは、まだ新しい写真でした。 写真はグループホームの送迎用ワゴン車の中なのでしょうか、左側に大きく叔父の後ろ姿が写っています。叔父は手を合わせていました。その叔父の視線の先にあるのは叔父の家の玄関でした。グループホームのみなさんが叔父の願いに応えて、後生寺の家に連れていってくださったんですね。 その様子が確認できてすぐ、涙があふれそうになりました。 「いかったねー。何度か家を見せてもらったの?」と尋ねると、シゲルさんは「この時の一度だけです」と答えました。 いったい、いつ頃の写真だろうと思っていま一度見ると、右下に撮影日時が入っていました。二〇二一年七月二七日、一五時一五分。なんと、昨年の夏に叔父は自分の家に連れて行ってもらったのです。 この写真をめぐり、一緒にいたイトコたちと話になりました。 「父ちゃん、車から降りたんかねぇ」 「降りないと思うよ。降りたら、どっかにしがみついて帰らないと言うだろうし」 「そうだよね。降りたら帰らないよね」 新型コロナウイルス感染症が流行する前、私は、だいたい三か月に一回は叔父を訪問することにしていました。訪問するたびに、叔父は「ゼンマイ採りに行かなきゃならん」などと言っては後生寺の自分の家に帰る話をしました。 叔父の願いを聞き、一度は叶えてあげたいと思っていましたが、踏み切れませんでした。叔父の性格からして、連れていけば、「もう施設に帰らない」と言いだすかもしれない、そう思ったからです。 関東にいるイトコたちが帰省して叔父の施設を訪問したとき、一番切なかったのは、叔父は迎えに来てもらったと思い、身の回りのものを風呂敷などにつつんで帰り仕度をはじめることだったと言っていました。ですから、イトコたちも叔父を家へ連れていくことはなかったのです。 叔父が柿崎区のこのグループホームにお世話になったのは平成二九年九月からです。ですから、叔父は五年弱にわたって、「家に帰りたい」という願いを抑えていた、そう思っていたのです。 でも、施設のスタッフのみなさんは、昨年、叔父の願いを叶えてくださったのです。生きているうちに、自分の家に一度は帰れたのです。叔父はどれほどうれしかったことでしょう。叔父が手を合わせていたのは、家の仏壇のなかでひとり留守番をしていた叔母にたいしてだと思いますが、施設のみなさんへの感謝の気持ちの表現でもあったと私は思いました。 葬儀の翌日、荷物整理のため、施設の叔父の部屋に入って、もう一度びっくりしました。叔父はいつでも家に帰れるように、いくつかの大きな袋のなかに身の回りの物のほとんどをしまいこんでいたのです。私は、やっとのことで涙を抑えました。 (2022年5月15日 |
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第706回 十数年前の世界で 先日の夜、23時30分頃でした。母の寝室に入ろうとしたら、びっくりしましたね。ベッドで寝ているはずの母がそばまで来て、戸につかまっていたのです。 「なしたが」 「コゴメ採りに行こうと思って……」 「そんな時間じゃないよ。寝ないや」 「ほっか」 「はい、遅いすけ、寝よさ」 そんなやりとりをして、母の手をとり、ベッドまで戻しました。普通なら、それで一件落着となるのですが、この日の夜はそうはいきませんでした。 母のベッド脇に布団を敷いて寝る準備をしてから、風呂に入るため洗面所に行っていると、母の部屋から物音がしました。「これはおかしい」そう思って、部屋に戻りました。すると、母はベッドの上で、上半身を起こし、ニコニコしています。 「とちゃ、連休だし、青空市場の方へ行かんねど。車、混んでるだろし。コゴメ採りに行こさ」 「こんな時間に行かんねこてね。それに、おまん、歩かんねよ、山なんか……」 「……」 「はい、寝ないや」 「……」 「お願いします。寝てくんない」 母はしぶしぶ横になり、目をつむりました。私は、母の胸に電気アンカを抱かせ、毛布、布団をかけました。 その後、私は風呂にさっと入って、いつもよりも早めに上がり、自分の布団の中に入りました。母を見ると、私が風呂に入るときと同じように目をつむったままです。「これなら大丈夫だ」と私も目をつむりました。 それから1時間も経たないうちに、「とちゃ」という母の声で起こされました。 「なしたね、しっこか」 「ううん、出ね。きょう、デイサービスで背のでっけぇしょが4人、歩く練習してなっとぉ」 そう言って母はベッドに腰掛けるようにして足の運動を始めたのです。 「いち、に、いち、に」 デイサービスで運動している人たちの様子が記憶に残っていたのでしょうか。母はしばらく足の運動を続けました。 明らかに母のテンションは上がっていました。そして、母はしゃべり続けます。 「とちゃ、きょう、粕甘酒、ごっつぉになっとぉ」 「そりゃ、いかったね」 「サクラも見とぉ、ボタンザクラだねかな、でっけぇ木で、ばかいかっとぉ」 「……」 「ありゃ梶かな、とちゃ、行ってみたか」 「うん、見たよ。はい、寝ましょう、寝ましょう」 この日の夜は、こんなことが2時間おきに繰り返されました。もう1つ、私の記憶に残っている話、三輪自転車のことです。 「とちゃ、おら、自転車買ってもらわんきゃだめどぉ。買ってきてくれ」 「わかった、わかった、寝よさ」 「でっけぜんだろうな、新しく買うてや。おら、どうしても、自転車ねきゃダメだな。どっか、行かんねもん」 「……」 「カゴのついたがは注文しねきゃだめだろな、店に並んでねもん」 長女によると、母は翌日の朝、牛舎へ行って牛の世話をするつもりでいたとのことでした。母はもう自転車には乗れないし、わが家は牛飼いもやめています。どうやら、母はいまから十数年前の世界で生きているようです。今度、牛を飼う、コゴメ採りに行くと言ったら、どう言ったらいいのでしょうか。「頑張るね」が一番かな。 (2022年5月1日) |
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第705回 鈴蘭水仙 三条市からKさんがときどき来ている実家を取り壊すそうだという話を聞いたのは高田城址公園のソメイヨシノの花がまだ少し残っている頃でした。 教えてくれたのはYさん。Kさんの実家がある吉川区米山(こめやま)にかつて住んでいた人です。「Kさんは実家を大事にしていなって、家の管理だけでなく近くの畑などもきれいにしてなったんだけど、もうじき80歳になるし、通わんね、という判断しなったがろね」と残念そうでした。 Yさんは先日、吉川区源地域にある三大しだれ桜を観に出かけ、その帰り道に、米山に寄ったのでした。そのとき、Kさんが実家に来ておられたということです。いまは、家を取り壊す前の準備で、Kさんは、建物の中にある物の整理をされているそうですが、Yさんは言いました。 「一番、時間がかかっているのは古い写真の整理だって。どれを残そうかと考えていると、あっという間に時間が過ぎていくんだよね」 じつは私も家の引っ越しなどで同じ体験をしたことがあります。 私の子どもの頃の写真は近所のHさんや原之町の親戚の人などから撮ってもらった数枚しかありません。大量に写真が残るようになったのは、社会人になってからです。特にカメラを自分で持つようになってからのものが多い。何十枚、何百枚とありますから、どうでもいい写真がほとんどなのですが、それでも長年写真を撮っていると、大量の写真のなかに「これは宝物だ」と思えるものがあるものです。わが家の移築のときの写真などがそうでした。 私はKさんの実家とはKさんのお父さんが健在だった頃から親しく付き合いをさせていただきました。私の父も生前、長年にわたり、お世話になってきました。 いま残っているKさんの実家の玄関には、貴重な記録写真が何枚か貼ってあります。Kさんの実家には、ひょっとしたら、私の父の写真や源の歴史の重要場面の写真もあるのではないか……。そう思い始めたらじっとしていられませんでした。 翌日の午前、私は車を米山へと走らせました。運がよければ、Kさんと会えるかも知れない、そう思ったのです。公民館があるところまで行った所で、Kさんの車がないことがわかりました。もちろん、Kさんの姿もありませんでした。 やはりダメだったかとがっかりしていたところ、前方から歩いてくる女性の姿が目に入りました。背丈、歩き方からして間違いなく、「いんきょ」(屋号)のお母さん、マサエさんです。車を止め、窓を開けると、「なーんだ、橋爪さんかね」とニコニコ顔です。 マサエさんは先日、90歳になったばかり。数年前にお連れ合いを亡くし、その後、ご自身も体調を崩し入院したものの、今は元気です。マサエさんは、お連れ合いが畑に植えたというゼンマイを左手に10本ほど持ちながら、Kさんのことなどを語りました。そして、言いました。 「この間、Kさんからセリをもらったの。池の中にとてもいいのがあったんだわ。家を壊しなれば、さみしくなるこてね」 マサエさんと別れた後に、私はKさんの実家の玄関前に行きました。セリが採れたという小さな池や木戸先の花などをゆっくり見せてもらいました。 私の目にとまったのは鈴蘭水仙(すずらんすいせん・スノーフレーク)です。先日、道之下でも出合った花ですが、白い花びらには緑色の斑点があり、清らかでとても美しい花です。花言葉は「皆を惹きつける魅力」。Kさんの実家にぴたりの言葉です。長年お世話になったことを思い出し、感謝しながら、その場を離れました。 (2022年4月24日) |
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