春よ来い(29)
 

第692回 もうしゃけねぇです

 母はもう2か月ほどで98歳になります。体調が安定しているのでうれしいのですが、最近、母の口から出てくる言葉にはびっくりしたり、笑ったりしています。

 母はひと月に1回、病院へ行き、健康チェックを受けていますが、先日、病院へ行くとき、「あれ、どうしたんだろう」と思うことがありました。というのは、外に出ていた私が母を迎えに行ったとき、自宅の玄関の戸を開けた私を見て、母が「もうしゃけねぇですね」と言ったからです。

 ふだん、母が私に感謝の気持ちを伝える時に使う言葉は決まっています。美味しい食べ物を渡したとき、トイレへ行く介助をしたときなど、どんなときでも「ありがとう」なのです。

 それがどうして「もうしゃけねぇです」という他人向けの言葉になったのか。たまたま、光の関係で私を介護施設のスタッフと勘違いしたのかも知れませんが、ひょっとしたら、物忘れがいちだんと進んだのだろうかと心配になりました。そばにいた長女も、「ばあちゃん、とうちゃんだとわかっていないみたい」と言っていました。

 もっとも、その後は似たような発言をすることはなく、いつもの「ホーセのばあちゃん」言葉に戻っています(「ホーセ」はわが家の屋号)。そのいくつかを紹介しましょう。

 まずはある日の深夜です。私が居間から寝室の布団に入ってまもなくのことです。寝ていた母が目を覚まし、むっくりと起きて言いました。

「まだ、うんめもん、くわんねがか」

 これには笑っちゃいました。最近は食欲旺盛だとは思っていたのですが、夜中に食べ物のことを口に出すとは……。時計を見たら、なんと午前1時50分でした。

 夢の話もいつもの調子です。これは時間の記録を忘れたのですが、午前3時頃かと思います。トイレに起きた時に、母が言いました。

「夢だでも、便所のなかにゴミ、いっぱい入っていて、これどしたらいいが、と思って……」
「そいがか、おまん、なーも心配しねでいいがだよ」
「そいがか」

 いくつになっても自分の住んでいる家のことが気になっているんでしょうね。

 次は介護施設への送迎時の言葉です。送っていく時間帯はいつも午前9時頃から9時半頃の時間帯です。助手席に座った母はずっと目をつむっていることが多く、この間は気になって声をかけました。

「ねぶってがか」
「ねぶってくねぇよ。オレの顔、ねぶってがだ」
「達者でいないや」
「はいよ」

 介護施設からの帰りは午後4時頃から4時半頃となります。先日、吉川区山方の坂にかかった頃、「おまん、ここ、どこだかわかるかね」ときいてみました。母は、「山方の寺のとこだろ。あのむこうはイシノさんちだ」と答えました。まあ、よく覚えているもんだと感心しました。

 母のしゃべる言葉を聴くたびに思うのは、よく記憶力が衰えないなぁ、ということです。そして、ユーモアのセンスがあることにも感心しています。これらはずっと続いてほしいものです。

 それだけに先日の「もうしゃけねぇです」は気になります。十数年前に永眠した父は仕事一筋で、夕陽をゆっくり見ることもない人でしたが、ある日、牛舎の西側で真っ赤な夕陽を見て言いました。「おーい、とちゃ、早く来てみろ。こんなが初めてだ」。物忘れの病気の始まりのサインでした。母は大丈夫だといいのですが……。

 (2022年1月23日)

 
 

第691回 ちゃんちゃんこ

 「ひとりで風呂入って、トイレは杖ついていきゃる。ご飯もみんなと一緒。餅だけは細かく切るでも」そう言ってケンイチさんのお連れ合い、ツネコさんは笑いました。

 昨年の暮れに102歳になったばかりの「ほしば」(屋号)のおばあちゃん、シサオさんのことです。

 先日、大島区田麦のシサオさん宅へ行き、お茶をご馳走になってきました。

 居間のコタツに入らせてもらうと、テーブルの上には、ニンジン、タケノコ、ゼンマイなどが入った美味しそうな煮物、タクワン、干し柿、お菓子などが並んでいました。青黒い「ちゃんちゃんこ」(袖なし)を着たシサオさんはそのテーブルを挟んだ私の反対側に座っておられました。やはり親子ですね。ケンイチさんと顔立ちが似ていて、眉毛と目は瓜二つでした。

 シサオさんは顔の色艶が良く、とても元気そう。まだ90代前半といった感じでした。ただ、耳は遠くなったとのことで、でっかい声を出すか紙に書いて渡すかしないと、言いたいことは伝わりません。

 ケンイチさんが、新聞に載った私の大きな顔写真を見せ、「この人がきゃったがだ」と大声で言うと、シサオさんは私を見てうれしそうな顔をしてくださいました。

 最初にすごいと思ったのは、シサオさんの視力です。いまでもメガネなしで新聞を読んでおられるのです。以前、白内障だということで、直江津の眼科医院へ行ったそうですが、「新聞読まれるすけ手術しないでいい」と言って断ったとか。結局、手術はしないで、薬だけで対応されているとのことでした。 

 シサオさんは新聞を読めるだけではありません。針仕事をいまもしっかりやっておられます。「最近、針、通してくれそいなるけど、こんがんが縫いやったでね」、ツネコさんがそう言って私の目の前に出してくださったものは、赤、白、ピンクなどの花びらがたくさん描かれている「ちゃんちゃんこ」でした。なかなか凝(こ)ったデザインの素敵な着物です。

 この「ちゃんちゃんこ」、シサオさんはひと冬に2、3着作っているのだそうです。出来上がったものは東京、茨城、山梨など、あちこちの親戚などに送っているとのことですが、市販の出来合いの「ちゃんちゃんこ」とは違った着心地の良さがあるようです。そりゃそうですよね、百歳を越えたおばあちゃんが作った着物となれば、見ているだけでも長生きできそうです。

 もうひとつ驚いたのは旺盛な食欲です。この日も話の途中で、シサオさんは、ツネコさんにテーブルの上に出してあったお菓子を催促しました。三幸製菓㈱の「雪の宿」です。丸いせんべいに砂糖を白く落としたお菓子です。シサオさんは、入れ歯でありながら、「カリッ」といういい音を出して食べていました。

 ツネコさんによると、シサオさんはテレビを見ていても「うんまげらだ」と言って食べたがるほど食欲があるのだそうです。「食べ物に好き嫌いはなく何でも食べ、魚よりも肉の方が好き」とも言っておられました。

 シサオさんの最近の楽しみの1つは、テレビ電話で孫やひ孫たちと話すことだそうです。シサオさんは、新型コロナのことを心配し、いつも「ねら、いいか、わりい風邪、きいつけろ」とやっているとか。

 松代病院の医師からは、「百歳を超えているとは思えない。心臓がいい音をしている」とほめられているシサオさん。目標は106歳まで生きた「いんきょ」(屋号)のおばあちゃんの歳を越えることです。ペースを落とさず、「ちゃんちゃんこ」をもう10着つくることができれば目標到達です。頑張ってくんないね、シサオさん。

  (2022年1月16日)

 
 

第690回 美男カズラ

 美男カズラをご存じでしょうか。雪の降る季節に赤い実をつけている常緑のツル性植物です。

 先日、友人のTさん宅を訪れた時のことです。用が済み、玄関で長靴をはいて帰ろうとしている時に、台の上できれいに咲いているシンビジウムが目に入りました。

 「冬になると、花が少なくなってね」そう言ってカメラを花に向けさせてもらいました。活動レポートの「花コーナー」に載せたくなったのです。撮影が終わると、Tさんのお連れ合いが、「美男カズラ、見ていきなる?」と言われました。

 「美男カズラ」という名前は初めて聞く名前です。もちろん、見に行きました。「カズラ」という言葉が付くからには、つる性植物であることは想像できました。が、これまで花も実も見たことがありません。「美男カズラは男性の整髪剤としても使われるんですって」という説明を聞きながら、Tさん宅の南側の軒下まで行くと、ナンテンのような真っ赤な実やそれよりも少し薄赤い実を付けたツルが縦1.5㍍、横2㍍ほどの空間に広がっていました。

 赤い実はナンテンの実が鈴なりになっている感じです。たくさんの赤い実は花に負けないくらいの美しさがありました。特に、この日は雪が降り始めたこともあって、赤い実の美しさが際立ちました。

 Tさんのお連れ合いによると、この美男カズラは20数年前に柿崎のホームセンタームサシで入手したということでした。

 たぶん、入手した時期は秋が終わって冬に向かっている頃だったのでしょう。Tさんは売れ残って、お店の軒下に置いてあった美男カズラ、バラ、小さなひまわりなどを見て、「何か捨てられているようでかわいそうだ」と思ったのだそうです。それでお店のBさんに話して、2千円から3千円といった超安価で分けてもらいました。

 そのとき入手した花木は物流で使うパレットひとつ分もあったとか。軽トラに積まれた美男カズラなどを見て、Tさんのお連れ合いは「とっぴょうしもないことをする人だ」とびっくりされたそうです。

 大量に入手した草木は、まず自宅の周囲に植えました。美男カズラは、道路から丸見えの家の西側に植えました。こんもりと育て、「目隠し」にしたかったのです。

 購入した花などはパレット1つ分です。いうまでもなく家の周囲だけでは植えきれません。Tさんは当時勤めていたS社の建物のまわりにも植えたとのことでした。 

 あれから20数年経ちました。Tさんの自宅周辺に植えたもののうち、良く育ったのは美男カズラとバラでした。とくに美男カズラはそこの土壌(どじょう)が良かったのでしょうか、どんどん広がりました。

 家の西側の美男カズラはつるが繁茂し、当初のねらい通りこんもりした生け垣のようになりました。そこの実は赤だけでなく、赤と黒の中間色などじつに多彩です。

 この美男カズラの実を自分たちの食べ物の1つにしているのが小鳥たちです。小鳥たちは赤い実をあちこちに運び、食べたあとの種は落としっぱなしです。現在、家の南側の軒下で真っ赤な実をつけた美男カズラも小鳥たちが増やしたものです。

 それにしても、捨てられる運命だった植物がここまでになるとは……。植物に対してもやさしい心をむけるTさんの生き方、改めて素敵だと思いました。パレットの植物たちもいい人と出合いましたね。

 助けられた植物もTさんの思いに応えました。特に家の南側の軒下で増えた美男カズラはハッとするほど美しく育ちました。肥料も水もくれないのに、夏には薄黄色の小さな花をたくさん咲かせ、秋が終わる頃には赤い実を実らせます。そして今、道行く人たちの心をあたためています。  

  (2022年1月2日)

 
 

第689回 茶筒ダンス

 先日、大島区熊田出身のシズエさんが入所している介護施設を訪ねました。

 その日の前の日曜日、熊田町内会が制作発表した「思い出ビデオ」のなかに出てきたシズエさんの「茶筒ダンス」のことが気になり、それをやっている実際の姿を見てみたくなったのです。

 施設の面会所にやってきたシズエさんは面長で、人懐こい顔のお母さんでした。すでに90歳を越えているとのことでしたが、80代半ばくらいに見えました。

 私が旭地区竹平の「のうの」(母の実家の屋号)の生まれであることを伝えると、シズエさんは「聞いたことがある」と言われました。なぜかホッとしました。

 この後、「この間、熊田町内会の行事で茶筒使ったがをビデオで見せてもらったんですわ。町内会長のテツオさんは〝茶筒ダンス〟と呼んでいなったんですが……」と私が言うと、シズエさんは、うれしそうに笑いました。

 私の注文で、面会所では、2人の女性職員さんが白い机を運んでくださり、舞台が出来ました。いよいよ「茶筒ダンス」の始まりです。

♪越後名物 数々あれど 明石ちじみに雪の肌 着せたら離せぬ 味の良さ テモサッテモソウジャナイカ テモソウジャナイカ

 シズエさんは唄を口ずさみながら、それに合わせて茶筒を動かしました。

 まずは両手でパンとやって、右手を下向きにし、左側から茶筒を握る。茶筒の頭を左手の「てのひら」にポンとあてて茶筒を上に持ち上げる。次に、茶筒の下の方を左手の「てのひら」にちょんとついて、その後、机の上でトントンとやる……。

 途中で茶筒を握りそこねるハプニングがありましたが、シズエさんはじつに楽しそうに「茶筒ダンス」を続けました。

♪雪が消えれば 越路の春は 梅も桜も みな開く わしが心の花もさく テモサッテモソウジャナイカ テモソウジャナイカ

 「茶筒ダンス」はこの唄の2番までやって終わりました。シズエさんの茶筒のあやつり方があまりにも見事だったので、私は、「これは簡単に出来ない芸だ」と思いました。シズエさんによると、この芸は炭坑節でも何でも合わせてできるそうです。

 どうあれ、これほど見事な芸は、大勢の人に見てもらわないともったいない。そう思った私は、シズエさんに「熊田などでもやっていなるの」と訊(き)きました。すると、「5、6人を相手にやったことがある」とのことでした。

 そしてシズエさんは続けて言ったのです。「じゃあ、ひとつやってみるかね」。これには驚きました。「茶筒ダンス」の芸を楽しく見てくれる人達の姿がしっかり頭の中に入っているのでしょうね。

 シズエさんは再び唄をうたい、茶筒をあやつりました。その時、「あっ」と思いました。この唄は亡き父がよくうたっていた唄だったのです。あとで名前を思い出しましたが、十日町小唄でした。

 この日、初めて知ったのですが、「茶筒ダンス」はシズエさんが創作したものではありませんでした。子どもの頃、シズエさんの家に高田から瞽女(ごぜ)さんがやってきて、この「茶筒ダンス」をやってくれたのだそうです。それをシズエさんのお母さんが覚え、シズエさんにも教えてくれたということでした。

  瞽女さんたちは、きびしい練習で唄や三味線などを覚え、その芸を大勢の人たちに楽しんでもらい、人のやさしさを広げてきました。シズエさんの「じゃあ、ひとつやってみるかね」という言葉を聞いて、私は思いました。シズエさんも、瞽女さんたちのやさしい心を引き継いでいると。

  (2021年12月26日)

 
 

第688回 朗読

 「上がればいいこて」……玄関で、「橋爪です」と声をかけたら、そう言って返事をしてくれたのは「でみせ」(屋号)のキヨコさんです。

 初めて出会ってから40数年、長年の付き合いで声も顔もすぐわかるキヨコさんはいま80代の半ばくらいでしょうか。いつも気軽に言葉を交わしています。

 居間に上がらせてもらって、「今度の本、おまんのこと書いたがも載せたがど」と言って、私は、すぐにその文章を朗読しはじめました。

 ──マサヒロさん、死んじゃったねぇー。高見盛が負けたときに見せたような顔をしてそう言ったのは「でみせ」のばーちゃん、キヨコさんです……。

 そこまで読んだら、キヨコさんはもう「あはははは」と声を上げました。

 本に載せた文章というのは、私の最新エッセイ集『じゃがじゃが煮』のなかの「最後の涙」という話です。吉川区尾神で生まれ、長く尾神郵便局に勤めていたマサヒロさんとほぼ同年代のキヨコさんが柿崎病院でマサヒロさんと最後に会った時のことを書いた切ない、悲しい話なんですが、キヨコさんは、当日のことをすぐに思い出したようでした。

 マサヒロさんは私もよく知っていた人で、顔だけでなく如才ないしゃべりっぷりもよく知っています。朗読の際には、マサヒロさんのしゃべりに似せて読みました。

 ──マサヒロさんから「おれ、分からんがか」と声をかけられたキヨコさんは、黒っぽい大きな顔を見てびっくり、「わからんこて、そんげなかっこしてりゃ」と言い返しました。

 キヨコさんは「おれ、分からんがか」と読んだところでまた笑い、「わからんこて、そんげなかっこしてりゃ」という自分の言葉でも大笑いしました。マサヒロさんはこの日、柿崎病院の待合室で、頭がすっぽり入るほどの大きな帽子をかぶっていたのです。キヨコさんは、よほどその格好が印象に残っていたのでしょうね。

 さらに読み続けました。

 ──「あまいけの西」(屋号)のマサヒロさん、あの通りの真っ黒い顔だろ、それなのに赤い蝶ネクタイつけてさぁ、おれは似合わんと思っていたがだでも、本人は気に入っていたげらで、しばらくつけていたこてー。

 キヨコさん、今度は笑わずに、「真っ黒い顔」のところと「赤い蝶ネクタイつけてさぁ」のところで「そいが、そいが」と相槌(あいづち)を打ちました。

 それからは笑ったり、相槌を打ったり……。キヨコさん一人を聞き手にした私の朗読は、ぎこちないものでしたが、キヨコさんは一生懸命聴いてくださいました。そして文章の最後です。

 ──さて、キヨコさんとマサヒロさんの最後の出会いの最後です。キヨコさんが言いました。「あの日、西のあんちゃと病院出る時も一緒になったがど。おれにさー、手、振ってサイナラしてくれたがよ。そん時さー、目に涙うかべてんがねかね。うれしかったこてー」。そう言うキヨコさんも目がうるんでいました。

 朗読はそこで終わりなのですが、キヨコさんの顔を見たら、涙目になっていることがわかりました。改めて、マサヒロさんとの最後の別れの場面が思い浮かび、ぐっときたのでしょう。

 これまで私は、朗読については小田順子さんや北井さくらさんなどその道のプロの方にやってもらえばいいと思っていました。でも、たまには自分で読むのもいいかもしれない、そんな気がしてきました。今度、この『朗読』を読んだら、キヨコさん、また大笑いしてくんなるかどうか……。 。  

  (2021年12月19日)

 

 

第687回 塗り絵(2)

 もう50年ほどの付き合いになるのに、まったく気づきませんでした。青年時代は長距離ランナーだったトシイチさんが塗り絵の技術を身に付け、インターネットで発表するまでになっていたのです。

 先日、おじゃました時、お連れ合いのヒロミさんが数枚のコピーを綴じたものを私に見せてくださいました。手にとって見ると、「ものと語りオンラインⅡーオンライン発表会―開催レポート」とあります。

 いったい何が書いてあるのか。そんな思いを抱きながら、下の方へ目を動かすと、5人の発表者のところにトシイチさんの名前があるじゃありませんか。そしてコメンテーターのところには、私がここ数年注目している作家の佐藤葉月さんの名前も載っていました。

「あら、葉月さんの名前もある。この人、よく知っている人だよ」と言うと、ヒロミさんが、「橋爪さんのチラシに無印(良品)でのイベントのことが書いてあって、そこに佐藤さんの名前も載っていたので気づいていたんですよ」と言いました。

 これで事情が呑み込めました。ヒロミさんは、私が障がい者の文化芸術活動に関心を持っていることを知り、それで、トシイチさんの作品づくりと今回の発表会のことを私に伝えたかったのです。

 レポートには、トシイチさんの12枚の絵が並んでいました。白黒のコピーでしたので色の塗り具合などはまったくわからなかったのですが、絵は昔話・『笠地蔵』の話です。なかなか良くできていました。

 そして、「一連の塗り絵は、色鉛筆やパステルを指で塗り延ばしたりしながら、細かく色を調整されているとのこと。確かに、吹雪を受ける木々や、雪深いシーンをグレーで幻想的にしあげていらっしゃいますね」というコメントもありました。

 私は、「えーっ、パステルも使って、指で延ばしているの。すごいね。おれも色鉛筆やクレヨンを使っていたんだけど、最近はコピックペンを使っているんだわ。使いやすいもんだから」と言いました。その後、スマホ内に保存してある描いたばかりの絵も見てもらいました。

 すると、ヒロミさんは、レポートでも紹介されていた「都道府県にちなんだイラストに隠し文字を入れて楽しんでいる」というトシイチさん制作の実物を居間のコタツのテーブルの上に持ってきてくださいました。たしかにレポートに書いてあった通り、とても美しく塗り分けてありました。

 すべての絵に、「どこの県でしょうか?」という文字が書かれています。1枚目は水戸の御老公と納豆の絵が描かれていましたから、茨城県であることはすぐにわかりました。2枚目も水木しげるの1つ目の子どもが描かれていたので、鳥取県だとわかります。しかし、どちらも県名を書いた文字がなかなか見つかりませんでした。これなら十分楽しむことができます。よく考えて描かれた絵でした。

 トシイチさんは50歳の時に脳の病気で倒れ、右の腕や手などが思うように動かせなくなりました。その後、柿崎区の介護施設に通いながら、リハビリに努めてきました。そのリハビリの一環として、塗り絵に取り組んできたのです。

 トシイチさんによると、最初は硬いボールペンを使い、その後、20年の間に鉛筆、シャープペンシルと、徐々に柔らかいものを使えるように鍛えたそうです。いまでは右手にパステルを持ち、左手で紙を動かしながら塗り絵を楽しんでいます。

 トシイチさんは、ケアマネさんなどから次は紙芝居に挑戦したらと勧められているそうです。本人もその意欲はあるようで、ひょっとすると、来年あたり紙芝居用の絵が出来上がるかも。こりゃ、楽しみだ。

  (2021年12月12日)

 
 

第686回 きなこねじり

 懐かしいものが突然、目の前に現れる。そうしたときの喜びは格別ですね。

 土曜日の午後、Sさん宅でお茶をご馳走になったときがそうでした。居間に上がらせてもらい、テーブルの上に出されたお菓子を見た瞬間、「わあ、懐かしい」と声を出してしまいました。

 お菓子は薄緑色、ねじれがあって、数十年前はお客さんなどに出すお菓子の1つでした。いったん封を切ったお菓子は長持ちしなかったのでしょうか、お客さんが残すのを待って、喜んで食べたものです。とても美味しかったので、色や形とともに、このお菓子のことはしっかり記憶しました。ただ、どういうわけか、肝腎の名前が出てきません。

 Sさんからお菓子が入った袋を渡してもらい、名前を見ると、「きなこねじり」と書いてあります。なるほど、こういう名前だったんですね。このお菓子にぴったりの名前だと思いました。そして、このお菓子は県内の見附市でつくられていることもわかりました。

 出していただいたお菓子の中から1つ手にとり、じっくりと見せてもらいました。緑と白のほどよい混じり、4㌢ほどのお菓子の本体を半分ほどひねった形、これらは昔、私が見たものとまったく同じでした。そして口に入れた瞬間、ほどよい甘さが広がりました。きな粉が入った味も間違いなく、私が若かりし頃食べたもの、そのものでした。さらにこのお菓子が持つ独特のもっちり感もかわっていませんでした。

 この日、Sさん宅では、近くのHさんと一緒にお茶をご馳走になりました。すすめられた「きなこねじり」は遠慮なく手を出し、最終的には、4、5個はいただいたと思います。お茶飲みのなかで、「きなこねじり」がどこで売っているかも知ることが出来ました。

 Sさんによると、柿崎のスーパーや原之町の商店にもあるとのことでした。ただ、2、3袋しかおいてないので、すぐになくなってしまうとも言われました。それにしても、意外でしたね。私は、このお菓子が身近なところでいまも売っていることに気づいていませんでした。

 Sさん宅でのお茶飲みを終わってから私は、車に乗り込み、インターネットで「きなこねじり」の画像を発信しました。懐かしいお菓子に出合ったことを多くの皆さんに知ってもらいたいと思ったからです。

 私が思っていた通り、「きなこねじり」の思い出を持っている人は大勢いました。
「おばあちゃんだった私。いつも、おばあちゃんの割烹着のポケット捜索して(いた)。『きなこねじり』は(見つけると)大収穫(だった)。いつもポケットにお菓子が有ったのは多分、食いしん坊の私の為。自分は、食べないで、ドラえもんのポケットにしてくれていたんだな」
「だーーーーい好きです 」
「ばあちゃん家に泊りに行かせられる時、お目覚めはこれかあんこ玉。そして幼稚園児なのに、朝茶で必ずお煎茶がついてました」

 私が「きなこねじり」を買いに出かけると書いたら、「是非私の分も買って来てください 」という人もいました。

 翌日、私は板倉区まで行く用事がありました。帰りにスーパーに寄って、「きなこねじり」を探したところ、運よく1個だけ残っていました。すぐに購入し、家でもう1回、味や形を確かめました。

 やはり、Sさん宅でご馳走になった時と同じ味でした。お菓子袋には、「昔ながらのおいしさそのままでお子さまからご年配の方まで皆様に愛されつづけています」とあります。わが家ではご年配の男性が愛しつづけ、もう無くなりそうです。

    (2021年12月5日)

 

 

第685回 孫の重さ

 なーんだ、そういうことだったんだ。連れ合いがおコメの「新之助」を持ってみたいといった理由がやっとわかりました。

 先週の火曜日のことです。私は連れ合いと一緒に柿崎のホームセンター・ムサシへ買い物に行き、コピー用紙などを大量に購入してきました。その際、帰りに、回り道して、大潟区内雁子にある朝日池総合農場の「むら市場」に寄ることにしました。連れ合いが「新之助」の売り場に行きたいと言っていたからです。

 連れ合いが「新之助」という銘柄にこだわっていたのは、美味しいコメだから次男のところへ送るためだと思っていたのですが、そうではありませんでした。「むら市場」で平澤さんと一緒になった時、連れ合いは「孫が20㌔にもなったというんで、その重さの米を持ってみたくて……」と言ったのです。孫の代わりにおコメを抱いて、どれくらいの重さになったかを体で感じてみたかったんですね。

 考えてみれば、孫のリョウ君がわが家にやって来たなかで最新の訪問は一昨年のお盆のときでした。ですから、もう2年3か月も孫と会っていないことになります。会いたい、会って抱っこしたいと思うのは当然だと思います。せめて20㌔になったという孫の重さを体感してみたいという連れ合いの気持ちもわかります。

 私と連れ合いの前には5㌔入りの「新之助」などのコメが10袋ほど積んでありました。コメ袋は縦長の状態で置かれていましたので、私が2袋だけ横に積み、「腰、痛めるなよ。まずは10㌔だけ持ってみたら」と勧めました。どうみても、一度に4袋、20㌔分も持てないだろうと思ったのです。実際、2袋だけでも想像以上に重たいものでした。

 5㌔入りのコメを2袋持ってみた連れ合いは、やはり「重い」と言いました。孫の体重は4袋分です。半分の10㌔分だけでもけっこうな重さですから、その2倍となると、どれくらいかはわかったのでしょう。連れ合いは一度に4袋を持ってみたいとは言いませんでした。

 その後、私は連れ合いとともにコーヒーをいただき、平澤さんと3人でおしゃべりを楽しみました。

 今年亡くなった平澤さんのお母さんが96歳だったことから、まずは、介護はどんなふうにしておられたかを訊きました。また、お母さんは俳句が好きで雑誌など投稿されていたので、いつ頃まで句作を続けておられたかなども話してもらいました。

 歌の話も弾みました。10月29日、かに池交差点で平澤さんはバイオリンとギターの伴奏で自作の「久比岐の里」を伸びのある声で歌いました。選挙戦の最終盤のスピーチの前の取組だったのですが、大いに盛り上がりました。

 柿崎の浄福寺でのコンサートの話になったところで、3人の話は音楽活動など地域文化論にまで発展しました。最近は農村部など身近なところで素敵な歌を歌う人が増えてきました。絵や写真などの作品展開催も盛んです。そういう地域文化こそ本物の文化だ、みんなで楽しむようにしたいね、ということで3人は一致しました。 

 だいぶ、横道にそれましたね。再び孫の話に戻ります。今回の連れ合いの「コメで孫の重さを確認したい」という行動で、孫のリョウ君の体重は6年前の2400㌘ほどから8倍もの重さになったことを改めて知りました。正直言って、驚きました。

 先日もスマホでリョウ君の姿を見た母が、「でっかくなったなぁ」を連発していましたが、大きくなったものです。孫のリョウ君は来年、小学1年生です。嫌がらないうちにもう一度抱っこしてみたいものです。 

  (2021年11月28日)

 
 
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