春よ来い(29)

 

第704回 「ひとりぼっち」の白鳥

 最近、高田城址公園の池に白鳥が1羽、シベリアに帰れずに残っているというニュースが流れていましたが、私の地元にも「ひとりぼっち」の白鳥が1羽いました。

  先日の日曜日の午後のことでした。安塚区に用があって車を走らせていたら、吉川区内を流れる吉川の岩堰(いわせぎ)上流で白い大きな鳥の姿が目に入りました。

  ひょっとしたら、コウノトリかも知れないと思い、車を止めてデジタルカメラを向けると、クチバシの黒と黄色の混じり具合といい、首の太さといい、どう見ても白鳥にしか見えない鳥の姿がありました。

 最初、何で白鳥がここにいるのだろうと思いました。「高田城址公園のお堀から20㌔ほど離れているのに、飛べたんだろうか」と疑問に思ったのです。よく考えてみれば、高田城址公園の白鳥は羽根に傷を負っているということですから、飛んでくるわけがありません。となると、これは別の白鳥です。上越にはもう一羽の、シベリアに帰れなかった白鳥がいたのです。 

 私は白鳥の体のどこかに傷がついているのではないかと思い、カメラで白鳥を追いました。岩堰の上流はいま、たくさんの水がたまっていて細長い池のようになっています。白鳥は、時どき向きを変えながら、ゆっくりと泳いでいました。

 しかし、素人の目ではありましたが、白鳥には不自然な乱れは見当たりませんでした。近づいても逃げようとする様子もありません。体の内部に不調があるのかもしれない。私は勝手に判断し、翌日、市役所環境保全課に連絡をしました。

 環境保全課では、現地で白鳥を確認してから、県の環境センターに伝えて対応するとのことでした。これで一安心、そう思って楽々したのですが、後で市役所から電話をもらって心配になりました。じつは、現地に行ったけれども白鳥の姿を確認できなかったというのです。

 私が見た白鳥は飛び立つことが出来てどこかへ飛んで行ったのだろうか、それとも襲ってきた野生動物から逃げることができなかったのだろうか。どうあれ、しばらく様子を見るしかない、そう思いました。

 2日後、私は午前10時半頃、岩堰上流へ行きました。すると、前回見た場所よりも100㍍ほど上流の方に、白く丸くなっている生き物が見えました。デジタルカメラの望遠を使って見ると、先日の白鳥です。ああ、無事だったのか、とうれしくなりました。

 気のせいか、白鳥の動きは前回よりも活発に見えました。何よりも泳ぐスピードが速く感じられました。私が見ている少しの時間だけでも100㍍ほど動いたのです。

 すぐに環境保全課に連絡すると、午後から現地に来て、白鳥の姿を確認。県の環境センターの職員も駆けつけてくれました。意識していたわけでもないのですが、県のセンター職員が現地に着いたとき、私もそこにいました。

 一緒に白鳥を探したところ、川の中にはおらず、川の北側にある道之下の田んぼでエサを探していました。川から歩いて上がったか、そこまで飛び立ったのかどちらかですが、思っていた以上に元気でした。

 それから5、6分後のことでした。私たちの動きに気づいた白鳥は突然、羽根を広げ、河沢集落をめざして飛び立ったのです。びっくりした私は、デジタルカメラを動画に切り替え、白鳥の姿を追いました。

 環境センター職員の話によると、県内では、これまでもシベリアに帰れず、夏までいた白鳥や秋まで生き伸びて仲間たちと合流した白鳥がいたそうです。白鳥は家族で旅をするとのことですが、この白鳥には仲間の白鳥たちが再びやってくる季節まで生き伸びて家族と再会してほしいですね。  

 (2022年4月17日)


 
 

第703回 笑顔製造マシーン

 いま一番楽しみにしていることは何ですかと聞かれれば、「孫の便りです」と答えます。

 正直に言いますと、愛知県に住む孫についての便りは、これまで私のところに来ることはまず、ありませんでした。たいがいは連れ合いのところ、またはふだん私が管理していないわが家のアイパッドに来ていたのです。

 それが2回ほど私のところに直接来たのです。パソコンの都合だとかスマホの都合だとか言っていましたが、そんなことはどうでもいいのです。私にとっては、「孫からおじいちゃんのところへ便りが直接来る」ということが重要なのです。

 まず1回目です。3月25日のことでした。夕方、私のスマートフォンを見たら、次男の連れ合いから動画が届いていました。わずか9秒の動画ですが、孫のリョウ君が鉄棒の逆上がりをしている様子が記録されていました。

 鉄棒は足が届くくらいの高さです。リョウ君が両足をけり上げて腰の部分を鉄棒よりも上に持っていくことができたものの、それから足を下げるのに苦戦しています。そこでお母さんから「ガンバレ」の声が3度かかり、ようやく足を下げ、回転できました。その瞬間、お母さんの「ああ、できた」の声が入りました。ひょっとすると初めて逆上がりができたときの動画だったのかも知れません。

 この動画を見て私は、自分のことのようにうれしく思いました。そして驚きました。すぐに「すごい、すごい、えらいぞー」と返信をしました。じつは私自身、旧源小学校水源分校時代にこの逆上がりがなかなかできなくて苦労した記憶が残っていたのです。できたのは、おそらく4年生か5年生になってからだと思います。

  2回目は4月1日。今度は私と連れ合いの誕生日祝いの動画です。これも私のスマートフォンに来ました。

 動きはじめる前の画面には大きな段ボール箱が写っていました。「はて、何だろう」と思った瞬間、段ボール箱の上部が動きだし、なんと箱の中からリョウ君がニコニコしながら出てくるではありませんか。これには驚き、こちらまでニコニコしてしまいました。

 音声が出るようにして、もう一度動画を見ると、まず、段ボールの中から、「お誕生日」というリョウ君の大きな声が聞こえました。次いで、段ボールを押しのけるようにして、「お・め・で・と・う」と言いながらリョウ君が姿を現したのです。

 この動画を連れ合いに見せたら、私と同じです、すぐに笑顔になりました。

 それにしてもこんな楽しいプレゼントを誰が考えたのでしょうか。次男夫婦かリョウ君か。どちらにせよ、よく思いついたものです。この動画は繰り返し見ました。数えてはいませんが、もう10回以上は見ています。見るたびに笑顔になりますから、この動画はまさに「笑顔製造マシーン」ですね。

 リョウ君は7年前、予定日よりも1か月早く生まれました。体重は2400㌘弱という大きさだったので、お母さんのお腹からヒューッと出てきたのですが、その後、おかげ様でほぼ順調に成長してくれました。そして、この4月6日、リョウ君は小学校に入学しました。

 リョウ君は、生まれたばかりのとき、左右の足の指を動かし、何かをけるようなしぐさをして、私たちを喜ばせてくれました。あれからもう7年経ったのです。亡き父・照義は、「孫は自分の子どもの10倍かわいい」とよく言っていました。その言葉の意味がよくわかるようになりました。これからもみんなを笑顔にしてほしい。

   (2022年4月10日)

 
 

第702回 九八歳前後に

 母は1924年(大正13年)3月27日生まれ。ここまで来ますと、「98歳まで頑張ろう」といったふうに、区切りとなる誕生日が大きな目標となります。 

 こういったことは当の本人はあまり気にしていなくて、家族などまわりの人間の方が意識しています。一昨年、母が3度も緊急入院したことから、特にそういう思いは強くなりました。

 その後、有り難いことに、母は定期的に通院しているものの、入院することはなく、デイサービスやショートステイを利用しながら自宅で穏やかに過ごしています。

 私は日中、家にいないことが多く、母の介護の手伝いは夜、一緒に寝るときだけです。でも、母がよく眠れない時など、少しは役に立っているのかなと思っています。

 3月22日、午前2時7分でした。電気アンカを抱いて寝ている母が私に声をかけてきました。

「とちゃ、さぶいすけ、アンカ、背中につけるが、もう一つ買ってきてくれ」
「……」
「おれ、死ぬがねかな」
「まだ、早いよ」
「ふふふ。おれ、死ぬがすけ、(入れ歯の)歯、いんておいた方がいいがねかな。おい、とちゃ、いねがか」
「いるよ。寝ない」

 加齢に伴い、体から熱を発散する力が弱くなっているのでしょうか。春になって、だんだん暖かくなってきたというのに、母は寒がることが多くなりました。

 3月24日、午前0時15分。パジャマに着替えている私を見つけた母は、ベッドで上半身を少しだけ起こし、声をかけてきました。

「とちゃ、起きるがか」
「なして、これから寝るがだよ」
「そだこてな」
「……」
「デイサービスでごっつぉあるがで、びっくりしとお」
「そりゃ、いかったね」
「ぼた餅に、きな粉に、黒ゴマに、アンコと一〇も出たがど。サラダも出たし。あんがにごっつぉ出してあうがだかどうだか」

 昔から料理が好きだった母は、介護施設で出していただく料理にも強い関心を持っているのです。 

 さて、98歳の誕生日の祝いですが、今年はちょうどショートステイの日と重なりましたので、翌28日の夜に家族みんなが集まってお祝いの会を行いました。

 まずは、母が手を合わせて言った、「いただきます」を合図にみんながケーキを食べました。

 次いで母の大好きな寿司とサラダをコタツのテーブルの上に並べると、母はそれらの料理を見て、「正月よりごっつぉある」「いままでで一番のごっつぉど」を繰り返しました。

  この日はみんなに注目されながら食べたせいでしょうか、母の食欲は旺盛でした。

 いつもなら一切れ食べるのがやっとの巻き寿司はふた切れも食べました。それだけではありません。「その黒いがなにぃ」と他の寿司を欲しがったり、小さなフォークでサラダにまで手を伸ばし始めました。さらに、残った稲荷寿司を片付け始めると、「それ、食ってねかったな」と言って、食べ始めたのです。

 この日、母は、大潟区に住む弟からもテレビ電話で誕生日を祝ってもらいました。耳が遠い母は、何を言われたかはよく分からず、「おまん、怪我しなんなや」とだけ言っていました。

 母の次の目標は来年の誕生日です。今度は99歳です。満百歳の一歩手前まで生きた板山の伯母の背中が見えてきました。

   (2022年4月3日)

 
 

第701回 生還

 吉川区上川谷に住む俊一さんが転んで大けがをし、「どうもよくないようだ」と聞いたのは昨年の暮れだったと思います。

 俊一さんとは20年以上も前から親しく付き合いをさせてもらっていたので、普通なら病院へ見舞いに行かねばならない関係なのですが、行けませんでした。

 俊一さんと付き合いのあった人からの情報では、「もう食事もとれず、点滴だけで何とか命をつないでいるようだ」とのことでした。そうなれば、安静状態を確保しなければなりません。新型コロナ感染症のことがなくても、見舞いは遠慮しなければならないと思いました。

 正直言うと、その後、3か月以上にわたり、毎朝、新聞の「お悔やみ欄」を見るたびに、俊一さんの名前が出てくるかもしれないと、思っていたくらいです。

 それが、先日のお昼頃、気になって俊一さん宅を訪ねたところ、お連れ合いの美枝さんが、玄関のところへ来られ、「橋爪さん、とうちゃんの顔、見ていきなる?」と聞かれたのです。

 びっくりしましたね。何と、俊一さんはすでに退院されていたのです。美枝さんが、先に歩き、「橋爪さん、来てくんなったよ」そう言いながら居間に入るとき、私にはベッドが見えました。「ああ、ベッド生活になってしまったのか」そう思って、ベッドの上を見ても俊一さんの姿はありませんでした。

 何と何と、俊一さんはコタツに入って私の顔を見ておられるじゃありませんか。

「わあ、とうちゃん、元気になんなったがかね。いかったぁ。よく頑張ったねぇ。きょうは悪いニュースを聴いてがっかりしていたがでも、こりゃ、最高にうれしいニュースだ。いかった、いかった」

 目の前の俊一さんは79歳、入院する前より少しやせてはいましたが、とても生死にかかわる事態になったとは思えないほど回復しておられたのです。もう、うれしいやら、びっくりするやら……、私は正座したまま、俊一さん夫婦と話を続けました。

 美枝さんによると、一時は脳内出血の影響なのでしょうか、錯乱状態になるなど、たいへんな状況だったとのことですが、点滴から次第に「おかゆ」を食べられるようになった、しかも病院で出された「おかゆ」の量では足らないほどの食欲も出てきたというのです。それだけでもすごいなと思ったのですが、俊一さん本人も「何としても、もう一度、家に帰ろう」と病院内を毎日歩いて体力づくりをしたとのことでした。意志の強い人だと改めて感じました。

 俊一さんは長年にわたって冬期保安要員をしてくださった方です。私は市議になってから、大雪になった時には、必ずと言ってよいほど俊一さんを訪ね、その仕事ぶりを見てきました。

 集落内道路の確保、独り暮らしのミヨさんやシズエさん宅の木戸先の除雪、消防ポンプ小屋の確保など、大雪のときはそれこそフル回転で働いてくださいました。それだけではありません。冬期でなくても、地域の人が困っていれば手助けする、そういう大事な存在となっていました。

 私が訪ねた日は退院後間もない時期だったのですが、俊一さん夫婦は裏山の雪崩が家のそばまでやってきたことがあること、土石流で怖い思いをしたことがあること、かつて集落に大勢の人たちがいた時代のことなどをたっぷり話してくださいました。

 俊一さんは最近、デイサービスにも通い始めたといいます。そこで出される「おかゆ」の量も足らなく感じるということでした。この調子なら、どんどん回復して、もう1回、田んぼや畑をしたいということになるかも知れません。そこまでいかなくても、元気でいてほしい。

   (2022年3月27日)

 
 

第700回 絵はがき

 この歳になって、夢中になるものがまたひとつ増えました。自家製の絵はがき作りです。

 今年1月になってから、私はコンサート等のイベントや各種会議のイラストに加えて、風景画にも挑戦しています。最初に描いたのは、中郷区片貝の農道から見た妙高山などの風景です。

 ちょうど、NHKの「きらっと新潟」で火野正平が自転車に乗って全国を旅する「こころ旅」の1000回目の再放送がされた頃です。遠くに妙高山、その手前に旧片貝小学校や圃場整備された田んぼ、そして放送では何度か通過したえちごトキめき鉄道の電車を描きました。それに加えて、放送ではなかったのですが、火野正平が自転車に乗って妙高山を見ている場面も入れてみました。

 ボールペンで下描きをし、コピックペンで色塗りしただけの作品ですが、初心者としてはまずまずの出来栄えとなりました。

 描いたイラストをインターネットで紹介したところ、有り難いことに、「絵にはバランス力がある。暖かいお人柄が感じられ、ほっとするので『温活絵画』と命名しました」「情景をよくとらえられています」「今後とも暖かい眼差しを通して描かれた世界を楽しみにしております」などの感想が寄せられました。

 こうなると調子に乗ってしまいます。1月22日の夜、NHKEテレ特集、「たんぼ物語 限界集落で究極の酒作り秋田鵜養(うやしない)」を見た私は、ふるさとを守ろうとする取組に感心するとともに、稲刈りをしているところの映像の美しさに惹かれました。そして、この風景画を一気に描き上げました。

 この作品は一作目と比べ、山の色塗りが上手くいかず、納得できない出来上がりとなりましたが、風景を描きたいという気持ちはなえることはありませんでした。その後、柿崎区百木から見た米山さんの風景や大島区の田麦集落の様子などを次々と描いていきました。

 そうこうするうちに、別の欲も出てきました。手前味噌になりますが、描いた絵をはがきに使ったら、素敵な絵はがきになるのではないか、そう思ったのです。

 ヒントを与えてくれたのは、1月の下旬、吉川区のTさん宅で見せてもらった、だるまさんの絵が入った「大丈夫だるま」はがきでした。この作者は静物、野の花、風景など何でも上手く描ける人でした。この人のような絵はとても描けませんが、見た瞬間から、「自分もこんなことをやってみたい」という気持ちが生まれました。

 数日後、私は中郷区片貝の風景画、吉川区河沢の「さいの神」を描いた絵、そして直江津はライオン像のある館で行われた川合徹人さんのコンサートの様子を描いた3枚の絵の電子データを持ってコンビニに行き、コピー機を使って初めて、はがきにプリントしてみました。面白いものですね。縦15㌢、横10㌢の四角い枠に入れただけで、これまで考えてもみなかった世界が広がったのです。ちょうど、作品展で見る額に入った絵のような感じになりました。

 自分で描いた絵を使っての絵はがきづくりは、この1ヶ月間だけでも3回ほどやりました。いずれも素人の作品でありながら、見てくださった方からは、「既製品にはない温もり伝わります」「女性がコトコト歩いているのを送って」などうれしい言葉を寄せてもらいました。

 最近は、車を走らせていても、「この風景、絵はがきにしてみたい」などと思うようになりました。スマホを使って連絡をするのもいいですが、これからは、お礼の言葉やちょっとした連絡は手づくりの絵はがきを使ってみようと思っています。

   (2022年3月20日)

 
 

第699回 父「帰る」

 「帰ったど」……そう言って「父がわが家に姿を見せた」のは先月28日の午前2時15分のことでした。

 父は2009年の4月8日に市内の病院で亡くなっています。ですから、父が家に帰ることはありえません。夢の話です。夢の中では、父が玄関に入ってきたのか、居間に入ってきたのか、よくわかりませんでした。そのときの顔も記憶に残っていません。ただ、「帰ったど」という父の言葉だけはしっかりと聞こえたのです。

 夢から覚めた私は、すぐにスマートフォンを開いて時刻を確認しました。その時刻が2時15分だったのです。

 時刻を確認した私は、次に、そばに寝ていた母の顔を覗き込みました。正直言って、父が母を迎えに来たのではないかと心配になったからです。母はちゃんと息をしていました。ああ、いかったぁ……。 

 では、いったい何をしに父は「家に帰ってきた」のか。だいたい、亡くなってから夢に出てきたのは13年間で、せいぜい2、3回なのです。

 久しぶりに「父がわが家に姿を見せた」理由を私なりに考えました。

 まず思ったのは、父と同級生だった和作さんが先日亡くなったことです。わが家とは親戚筋であり、酒造り唄の仲間だったことから、生前、父は和作さんのことをよく話していました。天国で再会した父が、懐かしくなってわが家を思い出し、やってきたのかも知れません。

 数日後、「これだ、親父が帰ってきた理由は……」と私が思いついたのは、庭木のことでした。

 じつは、3月2日から2日間、わが家では屋敷内の樹木の伐採作業をしてもらうことになっていました。隣の家の屋敷まで枝を広げていた大きな杉、どんどん背が伸びたケヤキ、幹の半分が腐ったプラム、エンジュなどを切り倒し、処分してもらうことで業者さんと話が出来ていました。そのことを知った父が気になって「家に姿を見せた」、それなら納得がいきます。

 いまのわが家は1982年(昭和57年)に吉川町尾神(当時)にあった家を移築したものです。移築したその年から、父は庭にいくつかの石を配置し、ヤシ、エンジュ、プラム、カリン、梅、グミ、紅葉などの木を次々と植えていきました。ある意味、わが家の庭は父が造ったものでした。

 それらの樹木のうち、プラムやエンジュなどは今回の伐採作業で処分してもらうことにしていましたが、父の「許可」をもらっていませんでした。そのことに何となく後ろめたさが残っていました。それが、「父がわが家に姿を見せた」ことにつながったようです。

 実際の作業では、家の裏側にある大小7本の杉をはじめとして、全部で19本もの木を切ってもらいました。このうち、家の裏側の木については、切り倒しても、それらを簡単に運び出すことができません。それで、25トンのクレーン車を使っての作業となりました。 

 私はちょうど3月議会と重なりましたので、伐採作業はほんの一部しか見ることができませんでした。心配していた家の屋根の上をクレーンが行ったり来たりして伐採木などを運び出す作業は順調にいったようです。また、家の裏側の一番大きな杉については、伐採作業もレッカー車を使って行われた模様です。

 どうあれ、作業が予定の日数で無事に終了してホッとしました。これで強風によって大きな木が隣の家やわが家の屋根に倒れかかるという心配もなくなりました。私が留守中の作業は、おそらく父が見守ってくれたものと思います。作業が終わってから、仏壇の父の遺影に手を合わせました。

  (2022年3月13日)

 
 

第698回 いつものポーズ

 先々回の「春よ来い」で書いた柿崎区の介護施設に行ってきました。入所している叔父のことが気になったからです。

 先日、実家の雪掘りに来たという従弟(いとこ)に電話をしたところ、「今年になって急に足が弱くなり、車イス生活になったというので行ってきました。親父もだいぶやせました」と言っていました。

 叔父は昨年末で満96歳になっています。いくら頑丈な体でも、どこかに悪いところが1つや2つ出てきても不思議ではない年齢です。「これは少しでも早く会っておこう」、そう思いました。

 予約した時間に施設へ行くと、スタッフの人が待っていて下さいました。体温、ワクチン接種の状況などのチェックを受けていると、奥の方から叔父の声が聞こえてきました。そして、まもなく、車イスに乗った叔父の姿が玄関の窓越しに見えました。

 叔父は私の姿を見るとすぐに、右手をあげるいつものポーズで、
「おー、ありがとう」
 と言ってくれました。「やせた」とのことでしたが、前回会ったときに比べても極端なやせ方はしていませんでした。何よりもうれしかったのは、何十年も前からのポーズで「おー」と言ってくれたことです。これならまだ大丈夫だと思いました。

 私からの第一声は「元気かね」です。この問いかけに叔父は、これまた元気に「はいよー」と言ってくれました。

 この日の前日、私は叔父の長女である従妹(いとこ)のところへ電話し、施設で叔父と会ったらスマートフォンを使ってテレビ電話をすると約束していました。前にも一度、親子でうれしそうにテレビ電話をしていたことが忘れられなかったのです。

 叔父に、「いまねぇ、フミちゃんと電話するからね。待っててね」そう言うと、叔父は「はあ」とだけ返事をしました。

「こんちは」
「ほら、とうちゃん、フミちゃんだよ」
「あー」
「こんにちはー」
「フミちゃんだよ、見える?」
「……」
「(お父さん)元気?」

 ここまで行って、やっと叔父が大きな声で言いました。

「元気だよ」
「元気でいてくんたね、ありがとね。良かった」

 安心したのでしょうね。従妹の顔もゆるみました。

 私と従妹で「良かったね」「良かった」とやっていると、ここでまた、叔父が大きな声で言いました。

「ありがとう!」

 今度はハッキリと自分の娘だとわかったようです。

「お父さん、良かったぁ」
「はいよー」
「行かれなくて、ごめんね」
「ありがとう!」

 新型コロナウイルス感染症の広がりで、全国、いや世界で大勢の親子や夫婦などが分断され、会えなくなっています。それだけに、こういう場面は何度見ても胸が熱くなります。

 この日はわずか3分ほどの親子対話でしたが、テレビ電話後、私は叔父とも話をしました。

「どっか、わり(悪い)どこないかね」
「大丈夫!」
「おらばちゃも元気だわ、こんだ98!」
「はーあ」

 こんな調子で会話をしました。そして叔父は今回も玄関ドアのぎりぎりのところで私を送り、また、右手をあげるいつものポーズで「バイバイ」をしてくれました。

  (2022年3月6日)

 

 

第697回 食べ物を探す母

 午前3時45分だというのに……。

 びっくりしましたね。母が台所へ行くと言い出したのです。

 母が起きていることに私が気づいたとき、母はポータブルトイレのそばに立っていました。「トイレか?」と聞いたら、「台所」と言いました。

 普段、車イスで移動しているので、まさかと思ったのですが、この時、母は戸につかまり、柱につかまりながら伝い歩きを始めたのです。「まだ早いすけ、寝よ」そう言っても受け付けません。

 台所に入ると、まず冷蔵庫を開けました。「ねぇなぁ」。次いで戸棚も開けました。また、「ねぇなぁ」。「何しようてが?」と聞くと、母は「片栗粉」とだけ答えました。

 どうやら、母は片栗粉をお湯に溶いて食べようとしているようでした。片栗粉をお湯で溶かす。それだけで、とろりとした食べ物になります。食べると体がポカポカしてきます。母は昔、腹をすかした自分の子どもたちに食べさせてきたその食べ物を自分でも食べたかったのでしょう。

 片栗粉を見つけることができなかった母は、今度は、「餅でもいいがでもなぁ」と言いました。でも、これも見つけられませんでした。

 ふり返ってみると、この夜の母の言動はいつもと違っていました。  23時ちょっと前のことでした。外はビュンビュンと風が吹いていました。その音を聞きながら、母のベッド脇に敷いておいた私の布団に入ろうとすると、母が目を覚まし、不思議そうな顔をして私を見ています。
「まだ寝ていない」
「はい、いっぺ寝と」
「まだ早いよ」
「外は白くなったがか」
「降ってねぇよ」  

 電気を点けるヒモを引き、母は柱にかけた時計を見てから、また、しゃべり続けました。
「はい、昼になるがど」
「違うよ、夜中だよ」
「オカズでもつくろかな。ちゃじょっぺでも……」
「なして、なあもしねでいいよ」

 今度は私の後ろにある衣装箱に目をやり、言いました。

「箱ん中にうんめもんあるがか」
「ないわね」
「寝てばっかいたって、あれだな、なんかごっつぉつくろかな」
「いいわね、いいわね。早く、寝てくんない、(夜中に食べりゃ)毒だし」
「ほっか」
「はい、寝て、寝て」
「寝ていれば楽だもんな。外には雪があるがか」
「あるよ」
「ヨモギ採らんねがか」
「まだ雪あるよ」

 そして再び、食べ物の話をしました。

「おら、まだ朝飯食ってねがど」
「そんがん時間じゃねえよ」
「柿、ねぇーかな」
「ねぇーよ。はい、寝ましょう、寝ましょう、遅いすけ」

 この夜、母をなだめて、台所から何とかベッドに戻した私は再び布団に入りましたが、母に、もしものことが起きなければいいが、と気になり熟睡できませんでした。

 でも、6時前に起床して、母を見ると、夜中には何もなかったかのような顔をして、すやすやと眠っていました。ああ、よかった。あとで、夜中の出来事を長女に話したところ、「ばあちゃん、夕飯、少し足らなかったみたい」と言いました。

  (2022年2月27日)
 
 

第696回 春の小川

 昔から知っている童謡のひとつがこんなにも人間を励まし、喜ばせてくれるとは思いませんでした。

 先日、大潟区にある佐藤正幸さんの実家を壇参りで訪ねたときのことでした。1月下旬に亡くなった正幸さんのお母さん、美惠子さんの遺影がハーモニカを演奏している時の姿だったことから、歌の話がどんどん広がりました。

「動きのある遺影っていいね」と私が言うと、正幸さんは、「母は婦人会の役員をやっていたときも民生委員をやっていたときも、いつもカバンのなかにハーモニカを入れていたんですよ」と言いました。美惠子さんは歌でまわりの人を楽しくすることが何よりも好きだったようです。

 美惠子さんは1927年(昭和2)、旧吉川村に生まれました。ハーモニカは子どもの頃から学び、オルガンは2年ほどの代用教員時代におぼえられたといいます。

 ある時、正幸さんと姉妹のみなさんはお母さんのオルガンの演奏を初めて聴くことになります。仕事でオルガンを演奏しなくなって何年も経っているのに、左右の手を使い、コードとメロディをひくお母さんの姿に正幸さんはびっくりしました。

 そのとき演奏された曲は、高野辰之作詞、岡野貞一作曲の「春の小川」でした。そうです、ご存じ「春の小川はさらさら行くよ」のあの童謡です。以来、正幸さんにとって、「春の小川」はお母さんと一緒に過ごす時に欠かせない曲となりました。

 正幸さんはお母さんと同じく歌が大好きです。お母さんが高齢となり、要介護状態になってからは、ギターを持って、お母さんが入所している柿崎区芋島の介護施設を何度か訪ねてきました。

 じつは、その施設には、私の叔父も入所しています。正幸さんは歌謡曲を歌うことを得意とする私の叔父とも一緒に歌を歌ったということでした。もちろん、その場では他の入所者のみなさんやスタッフのみなさんとも。そのときも歌のなかに必ず「春の小川」を入れていたそうです。

 正幸さんがその介護施設を最後に訪れたのは今年の1月15日、美惠子さんが亡くなる1週間ほど前のことでした。すでに体力がどんどん落ちて、呼びかけても返事がない状態になっていました。

 でも、正幸さんがギターを演奏し、「春の小川は……」と歌い始めたら、眠っていると思ったお母さんが、歌が終わるまでずっと涙を流しておられたというのです。それだけじゃありません。口も動かしていたというのです。おそらく一緒に歌を歌っておられたのでしょうね。

 音楽好きのお母さん、美惠子さんは子どもさんたちにもたっぷり愛情を注ぐ人でした。正幸さんが直江津高校3年生の時、高田公園陸上競技場で開催された大会で、4百㍍と1600㍍リレーの選手として出場しました。その時、お母さんが第2コーナー付近で「マサユキ!」を連呼していた姿を正幸さんはいまでも忘れられません。

 さて葬儀の日。美惠子さんと最後のお別れをする時、式場の真ん中に美惠子さんの棺を置き、参列者のなかの数人が美惠子さんへの思いを語りました。その1人、長女の博子さんは、「米山は片田の美惠子さん知っている 生まれた秋も『ホーム』の冬も」と短歌を捧げました。そして、この日もみんなで「春の小川」を歌ったのです。

 正幸さんの娘さんが持ち込んだキーボードに合わせた歌声は式場に響きました。

 ♪春の小川はさらさら行くよ 岸のすみれや れんげのはなに すがたやさしく色うつくしく……。おそらく歌声は美惠子さんの耳にも届いたはずです。そして美惠子さんも、「咲けよ咲けよと ささやきながら」と歌い続けたことと思います。

  (2022年2月20日)

 
 

第695回 春になったら(3)

 黄色のバラが咲いているのを見たのは1月の最後の土曜日でした。おお、ここの家ではまだバラが咲いている、そう思って何枚か写真を撮らせてもらいました。

 バラが咲いていたのは隣の集落のSさん宅でした。あいにく、この日は曇り空でしたが、黄色のバラは美しく、花の女王としての風格がありました。

 この黄色のバラを見たことで、私の心はすぐに反応しました。そう言えば、大島区板山の杉(屋号)のかちゃ、キエさんのとこにもバラがあったな。あそこのバラはどうなっているだろう、そう思ったのです。

 ひとたび頭に浮かぶと、ずっと気になるのは私の性分です。すぐ現地に飛びたかったのですが、その後、いろいろと用があって、杉のかちゃの家に行けたのは5日後になりました。

 久しぶりに杉の家に行くと、冬用の玄関の前も前庭への道もちゃんと除雪してあります。何となくうれしくなりました。というのも、杉のかちゃは昨年の秋に体調を崩し、娘さん宅に行っていて留守のはずだったからです。

 でも、市道から5㍍ほど入ったところまで除雪してある。その理由は、おそらく、郵便ポストです。杉の家の軒下には赤くて四角い郵便ポストがあるのです。雪をどかしてあったのは、郵便ポストを利用する人のためなのでしょう。

 杉の家のバラはその郵便ポストの脇にありました。軒下まで歩いて行くと、バラの木は下見板のすぐそばまで寄っていて、雪によるダメージを避けていました。そして花は……。ひょっとすれば、ここのバラはピンク色の花を咲かせているかも知れないと私は期待していましたが、残念ながら花はつけていませんでした。

 すでに花は終わっていましたが、そのかわり、実をつけていました。ここのバラの実はミニトマトよりもひと回り小さく、色も薄赤い感じでした。その数は4個、実の形は同じでしたが、大きさは全部違いました。おそらく、花の段階から大きさに差があったのだろうと思います。

 その日の夕方、私は娘さんのところに行っている杉のかちゃ、キエさんのところへ電話をかけました。正確に言うと、私が電話をかけ、母と杉のかちゃとで話ができるようにしました。

 これまでもひと月に何回かは電話をかけていたのですが、母の耳は遠くなり、電話中に何度も「なしたぁ」と聞き直していました。それで、今回はスマホのスピーカーを使ってみました。今度は大きな声が聞こえてきます。
「なんだ、キちゃか」
「おまさん、元気でいなっかね」
「元気だよ」
「ほっか。そりゃ、いかった」
「元気でいなきゃ、うんめもん、食わんねし。元気でいよでね」
「そうだね。春になったら、また会いたいもんだね」
「そだね」

 5年前に板山の伯母が亡くなってから、母は7人キョウダイのなかで1人ぼっちになりました。そういうなかで、キョウダイのように仲良くして、お互いに励まし合っていたのが幼友達の杉のかちゃでした。

 電話はこの数年間だけでも何十回もかけあっていますが、今回の電話は約1か月ぶりでした。

 母のそばで2人のやりとりを聞いていて、気になったのは杉のかちゃの声です。何となく弱弱しく聞こえてきたのです。でも、「春になったら、また会いたい」、というひと言が心に残りました。早く元気になってもらい、杉の家のピンクのバラの花を2人で楽しんでほしいと思います。  

  (2022年2月13日)

 
 

第694回 一月のネコヤナギ

 驚きの発見は突然やってくる。そう思ったのは先日の土曜日のことです。

 吉川区の山間部を通って大島区へ向かう途中、川袋地内で車を止めました。というのは、日がパアーッと差して、稲古寄りの吉川の土手や近くにある堰などが明るく浮かび上がったからです。よし、チャンスだ、尾神岳を撮ろう、と思いました。

 車から降り、除雪車で雪を川の方へ大きく押し出してある場所まで行って、カメラを構えました。そのときです。川の流れのすぐそばのネコヤナギがキラッと光って見えたのは……。

 ネコヤナギの細い枝に水玉がまだ残っているんだろうか。でも、いまはもう昼に近い時間……。ひょっとするとネコヤナギの白い小さな花が咲いているのかも知れない。そう思った私は、デジタルカメラを車のボックスの中から取り出し、望遠レンズで見てみました。

 川の流れは早く、石などにぶつかった水はあちこちで白くなってあばれています。そうしたところでは川面に伸びたネコヤナギが花を咲かせているかどうかの確認はできません。確認できたのは、川の流れが少し黒っぽい緑色になっている部分を背景にした場所です。一部は光の関係で黄色くなって見えるところもありました。

 望遠レンズを拡大してネコヤナギの枝に焦点を当て、枝の一本いっぽんを見ると、ありました、ありました。やはり、ネコヤナギの花、花穂です。色は白、長さは1㌢にも満たない小さな三角形です。おそらく冬芽から花穂が出始めたばかりなのでしょうね。絵筆で白い絵の具を軽くピッとはねた感じで細い枝についていました。

 私は川辺まで下りてみたくなりました。子どもの頃やったように、そばまで行って、ネコのしっぽのような花穂の感触を味わってみたかったからです。そして、写真も近くで撮りたかったのです。でも先日、97歳の母から、「川のそばに行くなや」と言われたばかりです。川辺までの高低差は5、6㍍で、滑って川の中に落ちないとも限らない、そう思って断念しました。 

 この日、大島区での用事を済ませた私は、次に何をするかを心に決めていました。川袋でネコヤナギが咲いていたのだから、柿崎区米山寺の出合橋のたもとのネコヤナギも咲いているに違いない。この目で確かめたい、そう思っていたのです。

 出合橋に着いたのは午後2時半頃でした。橋の上から、5㍍ほど離れた川辺のネコヤナギをながめてみましたが、花らしきものは1個だけでした。幸い積雪は30㌢ほどでしたので、川辺に下りて確認しました。やはり、咲いていたのは1個だけ、あとはすべて冬芽のままでした。

 そこで、今度は方針転換して地元、吉川橋の上流150㍍から200㍍ほどのところにあるネコヤナギの群生地をめざしました。昨年も開花を確認した場所です。川辺まで下りてみたら、川袋で見たのと同じ白い小さな咲き始めの花穂が2か所で数十個見つかりました。

 ただ、ここも花穂は川面まで伸びた枝の先の方です。ここでも花穂に触って、ネコのしっぽの感触を味わうことはできませんでした。その代わり写真撮影はバッチリ、デジカメを使って十数枚撮りました。

 昨年、ネコヤナギの開花を確認したのはマンサクの花を見つけた頃でしたから2月の下旬です。今年はそれよりもひと月も早く咲いているのです。

 たまたまフェイスブックを見たら、高知県仁淀川町の安藤雅人さんがネコヤナギの花の写真をこの日、発信していました。ということは、南国の高知と同じ時期に、ここ上越でもネコヤナギが咲いているのです。こういうこともあるんですね。

  (2022年2月6日)

 
 

第693回 大丈夫だるま

 Tさんから「お茶あがっていってくんない」と誘われたのは先日のことでした。正直言って、時間はあまりなかったのですが、何か良いことがありそうな予感がし、あがらせていただきました。

 予感は当たりました。居間のコタツのテーブルの端っこに、ハガキ大の紙にだるまの絵と何か大事そうな言葉が筆で書かれているのが目に入ったのです。

 近づいてみると、「大丈夫 なにが起きても大丈夫 全てあなたの生きる目的につながっているのだから」という言葉です。Tさんは独り暮らしです。そばに誰もいませんが、テーブルの上には、「心配しなんな。安心して頑張んない」といつも励ましてくれる言葉がどんと置いてあるのです。「これはいい!」と思いました。

 言葉だけでなく絵もいい。だるまの絵は笑っている顔になっていて、だるまさんのお腹の位置には「愛」という字が書かれていました。その下には「大丈夫だるま」という字も見えます。書かれた言葉にぴたりの絵になっているじゃありませんか。

 これまでTさん宅には何度もおじゃましています。でも、「大丈夫だるま」の絵とひと言メッセージの存在を意識したのはこの時が初めてでした。私は台所におられたTさんに、「このいい言葉、いつからあったがね」と訊(き)きました。

 Tさんによると、昨年の11月頃、直江津は西本町のエルマールの近くにある坂田薬局「オタテ」でもらってきたのだそうです。いいプレゼントをもらいましたね。

 いつものことながらTさんは、今回も台所から美味しいものを出してきてくださいました。

 まずは私の好きな漬物、この日はあっさりとした黄色が目立つ白菜でした。そして大きなお椀にはガンモドキ、細かく切られた大根、ニンジン、シイタケが入っていました。いずれもよく煮てありました。歯ごたえからいうと、大根は切り干しだったのかも知れません。

 白菜漬や野菜の煮物をいただきながら、Tさんからは、「大丈夫だるま」の絵とひと言メッセージとの出合いなどについてたっぷり聴かせていただきました。

 Tさんは、長年にわたって上越市内の病院に通院しておられますが、以前、入院中のTさんを見舞ったことがあります。そのときに、「この人はすごいな」と思ったのは、病院のスタッフはもちろんのこと、見舞いに来られた人たちと丁寧な付き合いをされているということでした。使う言葉もそうですが、何よりも心のこもった感謝の手紙を自筆で書かれていたのです。

 院外薬局である坂田薬局「オタテ」とも丁寧な付き合いがどんどん発展していったのでしょう。いまでは、すっかりお店のスタッフの人たちと懇意にされていて、手づくりの赤飯やチマキなどを届けることもあるとのことでした。

  「大丈夫だるま」の絵とひと言メッセージはお店のご主人と仲良しの新潟西区の平和堂薬局店主、坂本麿聡(まさとし)さんがかかれているものです。

 Tさんは、「だるまの絵だけでなく、風景も花の絵もいいんですわ。言葉もね」と言われました。その場で調べたところ、坂本さんは雪割草等の花や小鳥、風景など、なんでも描かれていました。しかも、「誰だって苦しみをうれしさに 悲しみを喜びに 欠点を誇りにする力があるんだよ」などといった「ことばの薬」も添えて……。

 昨年、Tさんはお連れ合いを突然亡くされています。日頃から丁寧な付き合いをされる人ですから、心のこもった言葉にはすぐに共鳴されるようです。この日も「大丈夫 なにが起きても大丈夫」の言葉を私が読んだだけで目がうるんでいました。

  (2022年1月30日)

 
 

第692回 もうしゃけねぇです

 母はもう2か月ほどで98歳になります。体調が安定しているのでうれしいのですが、最近、母の口から出てくる言葉にはびっくりしたり、笑ったりしています。

 母はひと月に1回、病院へ行き、健康チェックを受けていますが、先日、病院へ行くとき、「あれ、どうしたんだろう」と思うことがありました。というのは、外に出ていた私が母を迎えに行ったとき、自宅の玄関の戸を開けた私を見て、母が「もうしゃけねぇですね」と言ったからです。

 ふだん、母が私に感謝の気持ちを伝える時に使う言葉は決まっています。美味しい食べ物を渡したとき、トイレへ行く介助をしたときなど、どんなときでも「ありがとう」なのです。

 それがどうして「もうしゃけねぇです」という他人向けの言葉になったのか。たまたま、光の関係で私を介護施設のスタッフと勘違いしたのかも知れませんが、ひょっとしたら、物忘れがいちだんと進んだのだろうかと心配になりました。そばにいた長女も、「ばあちゃん、とうちゃんだとわかっていないみたい」と言っていました。

 もっとも、その後は似たような発言をすることはなく、いつもの「ホーセのばあちゃん」言葉に戻っています(「ホーセ」はわが家の屋号)。そのいくつかを紹介しましょう。

 まずはある日の深夜です。私が居間から寝室の布団に入ってまもなくのことです。寝ていた母が目を覚まし、むっくりと起きて言いました。

「まだ、うんめもん、くわんねがか」

 これには笑っちゃいました。最近は食欲旺盛だとは思っていたのですが、夜中に食べ物のことを口に出すとは……。時計を見たら、なんと午前1時50分でした。

 夢の話もいつもの調子です。これは時間の記録を忘れたのですが、午前3時頃かと思います。トイレに起きた時に、母が言いました。

「夢だでも、便所のなかにゴミ、いっぱい入っていて、これどしたらいいが、と思って……」
「そいがか、おまん、なーも心配しねでいいがだよ」
「そいがか」

 いくつになっても自分の住んでいる家のことが気になっているんでしょうね。

 次は介護施設への送迎時の言葉です。送っていく時間帯はいつも午前9時頃から9時半頃の時間帯です。助手席に座った母はずっと目をつむっていることが多く、この間は気になって声をかけました。

「ねぶってがか」
「ねぶってくねぇよ。オレの顔、ねぶってがだ」
「達者でいないや」
「はいよ」

 介護施設からの帰りは午後4時頃から4時半頃となります。先日、吉川区山方の坂にかかった頃、「おまん、ここ、どこだかわかるかね」ときいてみました。母は、「山方の寺のとこだろ。あのむこうはイシノさんちだ」と答えました。まあ、よく覚えているもんだと感心しました。

 母のしゃべる言葉を聴くたびに思うのは、よく記憶力が衰えないなぁ、ということです。そして、ユーモアのセンスがあることにも感心しています。これらはずっと続いてほしいものです。

 それだけに先日の「もうしゃけねぇです」は気になります。十数年前に永眠した父は仕事一筋で、夕陽をゆっくり見ることもない人でしたが、ある日、牛舎の西側で真っ赤な夕陽を見て言いました。「おーい、とちゃ、早く来てみろ。こんなが初めてだ」。物忘れの病気の始まりのサインでした。母は大丈夫だといいのですが……。

 (2022年1月23日)

 
 

第691回 ちゃんちゃんこ

 「ひとりで風呂入って、トイレは杖ついていきゃる。ご飯もみんなと一緒。餅だけは細かく切るでも」そう言ってケンイチさんのお連れ合い、ツネコさんは笑いました。

 昨年の暮れに102歳になったばかりの「ほしば」(屋号)のおばあちゃん、シサオさんのことです。

 先日、大島区田麦のシサオさん宅へ行き、お茶をご馳走になってきました。

 居間のコタツに入らせてもらうと、テーブルの上には、ニンジン、タケノコ、ゼンマイなどが入った美味しそうな煮物、タクワン、干し柿、お菓子などが並んでいました。青黒い「ちゃんちゃんこ」(袖なし)を着たシサオさんはそのテーブルを挟んだ私の反対側に座っておられました。やはり親子ですね。ケンイチさんと顔立ちが似ていて、眉毛と目は瓜二つでした。

 シサオさんは顔の色艶が良く、とても元気そう。まだ90代前半といった感じでした。ただ、耳は遠くなったとのことで、でっかい声を出すか紙に書いて渡すかしないと、言いたいことは伝わりません。

 ケンイチさんが、新聞に載った私の大きな顔写真を見せ、「この人がきゃったがだ」と大声で言うと、シサオさんは私を見てうれしそうな顔をしてくださいました。

 最初にすごいと思ったのは、シサオさんの視力です。いまでもメガネなしで新聞を読んでおられるのです。以前、白内障だということで、直江津の眼科医院へ行ったそうですが、「新聞読まれるすけ手術しないでいい」と言って断ったとか。結局、手術はしないで、薬だけで対応されているとのことでした。 

 シサオさんは新聞を読めるだけではありません。針仕事をいまもしっかりやっておられます。「最近、針、通してくれそいなるけど、こんがんが縫いやったでね」、ツネコさんがそう言って私の目の前に出してくださったものは、赤、白、ピンクなどの花びらがたくさん描かれている「ちゃんちゃんこ」でした。なかなか凝(こ)ったデザインの素敵な着物です。

 この「ちゃんちゃんこ」、シサオさんはひと冬に2、3着作っているのだそうです。出来上がったものは東京、茨城、山梨など、あちこちの親戚などに送っているとのことですが、市販の出来合いの「ちゃんちゃんこ」とは違った着心地の良さがあるようです。そりゃそうですよね、百歳を越えたおばあちゃんが作った着物となれば、見ているだけでも長生きできそうです。

 もうひとつ驚いたのは旺盛な食欲です。この日も話の途中で、シサオさんは、ツネコさんにテーブルの上に出してあったお菓子を催促しました。三幸製菓㈱の「雪の宿」です。丸いせんべいに砂糖を白く落としたお菓子です。シサオさんは、入れ歯でありながら、「カリッ」といういい音を出して食べていました。

 ツネコさんによると、シサオさんはテレビを見ていても「うんまげらだ」と言って食べたがるほど食欲があるのだそうです。「食べ物に好き嫌いはなく何でも食べ、魚よりも肉の方が好き」とも言っておられました。

 シサオさんの最近の楽しみの1つは、テレビ電話で孫やひ孫たちと話すことだそうです。シサオさんは、新型コロナのことを心配し、いつも「ねら、いいか、わりい風邪、きいつけろ」とやっているとか。

 松代病院の医師からは、「百歳を超えているとは思えない。心臓がいい音をしている」とほめられているシサオさん。目標は106歳まで生きた「いんきょ」(屋号)のおばあちゃんの歳を越えることです。ペースを落とさず、「ちゃんちゃんこ」をもう10着つくることができれば目標到達です。頑張ってくんないね、シサオさん。

  (2022年1月16日)

 
 

第690回 美男カズラ

 美男カズラをご存じでしょうか。雪の降る季節に赤い実をつけている常緑のツル性植物です。

 先日、友人のTさん宅を訪れた時のことです。用が済み、玄関で長靴をはいて帰ろうとしている時に、台の上できれいに咲いているシンビジウムが目に入りました。

 「冬になると、花が少なくなってね」そう言ってカメラを花に向けさせてもらいました。活動レポートの「花コーナー」に載せたくなったのです。撮影が終わると、Tさんのお連れ合いが、「美男カズラ、見ていきなる?」と言われました。

 「美男カズラ」という名前は初めて聞く名前です。もちろん、見に行きました。「カズラ」という言葉が付くからには、つる性植物であることは想像できました。が、これまで花も実も見たことがありません。「美男カズラは男性の整髪剤としても使われるんですって」という説明を聞きながら、Tさん宅の南側の軒下まで行くと、ナンテンのような真っ赤な実やそれよりも少し薄赤い実を付けたツルが縦1.5㍍、横2㍍ほどの空間に広がっていました。

 赤い実はナンテンの実が鈴なりになっている感じです。たくさんの赤い実は花に負けないくらいの美しさがありました。特に、この日は雪が降り始めたこともあって、赤い実の美しさが際立ちました。

 Tさんのお連れ合いによると、この美男カズラは20数年前に柿崎のホームセンタームサシで入手したということでした。

 たぶん、入手した時期は秋が終わって冬に向かっている頃だったのでしょう。Tさんは売れ残って、お店の軒下に置いてあった美男カズラ、バラ、小さなひまわりなどを見て、「何か捨てられているようでかわいそうだ」と思ったのだそうです。それでお店のBさんに話して、2千円から3千円といった超安価で分けてもらいました。

 そのとき入手した花木は物流で使うパレットひとつ分もあったとか。軽トラに積まれた美男カズラなどを見て、Tさんのお連れ合いは「とっぴょうしもないことをする人だ」とびっくりされたそうです。

 大量に入手した草木は、まず自宅の周囲に植えました。美男カズラは、道路から丸見えの家の西側に植えました。こんもりと育て、「目隠し」にしたかったのです。

 購入した花などはパレット1つ分です。いうまでもなく家の周囲だけでは植えきれません。Tさんは当時勤めていたS社の建物のまわりにも植えたとのことでした。 

 あれから20数年経ちました。Tさんの自宅周辺に植えたもののうち、良く育ったのは美男カズラとバラでした。とくに美男カズラはそこの土壌(どじょう)が良かったのでしょうか、どんどん広がりました。

 家の西側の美男カズラはつるが繁茂し、当初のねらい通りこんもりした生け垣のようになりました。そこの実は赤だけでなく、赤と黒の中間色などじつに多彩です。

 この美男カズラの実を自分たちの食べ物の1つにしているのが小鳥たちです。小鳥たちは赤い実をあちこちに運び、食べたあとの種は落としっぱなしです。現在、家の南側の軒下で真っ赤な実をつけた美男カズラも小鳥たちが増やしたものです。

 それにしても、捨てられる運命だった植物がここまでになるとは……。植物に対してもやさしい心をむけるTさんの生き方、改めて素敵だと思いました。パレットの植物たちもいい人と出合いましたね。

 助けられた植物もTさんの思いに応えました。特に家の南側の軒下で増えた美男カズラはハッとするほど美しく育ちました。肥料も水もくれないのに、夏には薄黄色の小さな花をたくさん咲かせ、秋が終わる頃には赤い実を実らせます。そして今、道行く人たちの心をあたためています。  

  (2022年1月2日)

 
 

第689回 茶筒ダンス

 先日、大島区熊田出身のシズエさんが入所している介護施設を訪ねました。

 その日の前の日曜日、熊田町内会が制作発表した「思い出ビデオ」のなかに出てきたシズエさんの「茶筒ダンス」のことが気になり、それをやっている実際の姿を見てみたくなったのです。

 施設の面会所にやってきたシズエさんは面長で、人懐こい顔のお母さんでした。すでに90歳を越えているとのことでしたが、80代半ばくらいに見えました。

 私が旭地区竹平の「のうの」(母の実家の屋号)の生まれであることを伝えると、シズエさんは「聞いたことがある」と言われました。なぜかホッとしました。

 この後、「この間、熊田町内会の行事で茶筒使ったがをビデオで見せてもらったんですわ。町内会長のテツオさんは〝茶筒ダンス〟と呼んでいなったんですが……」と私が言うと、シズエさんは、うれしそうに笑いました。

 私の注文で、面会所では、2人の女性職員さんが白い机を運んでくださり、舞台が出来ました。いよいよ「茶筒ダンス」の始まりです。

♪越後名物 数々あれど 明石ちじみに雪の肌 着せたら離せぬ 味の良さ テモサッテモソウジャナイカ テモソウジャナイカ

 シズエさんは唄を口ずさみながら、それに合わせて茶筒を動かしました。

 まずは両手でパンとやって、右手を下向きにし、左側から茶筒を握る。茶筒の頭を左手の「てのひら」にポンとあてて茶筒を上に持ち上げる。次に、茶筒の下の方を左手の「てのひら」にちょんとついて、その後、机の上でトントンとやる……。

 途中で茶筒を握りそこねるハプニングがありましたが、シズエさんはじつに楽しそうに「茶筒ダンス」を続けました。

♪雪が消えれば 越路の春は 梅も桜も みな開く わしが心の花もさく テモサッテモソウジャナイカ テモソウジャナイカ

 「茶筒ダンス」はこの唄の2番までやって終わりました。シズエさんの茶筒のあやつり方があまりにも見事だったので、私は、「これは簡単に出来ない芸だ」と思いました。シズエさんによると、この芸は炭坑節でも何でも合わせてできるそうです。

 どうあれ、これほど見事な芸は、大勢の人に見てもらわないともったいない。そう思った私は、シズエさんに「熊田などでもやっていなるの」と訊(き)きました。すると、「5、6人を相手にやったことがある」とのことでした。

 そしてシズエさんは続けて言ったのです。「じゃあ、ひとつやってみるかね」。これには驚きました。「茶筒ダンス」の芸を楽しく見てくれる人達の姿がしっかり頭の中に入っているのでしょうね。

 シズエさんは再び唄をうたい、茶筒をあやつりました。その時、「あっ」と思いました。この唄は亡き父がよくうたっていた唄だったのです。あとで名前を思い出しましたが、十日町小唄でした。

 この日、初めて知ったのですが、「茶筒ダンス」はシズエさんが創作したものではありませんでした。子どもの頃、シズエさんの家に高田から瞽女(ごぜ)さんがやってきて、この「茶筒ダンス」をやってくれたのだそうです。それをシズエさんのお母さんが覚え、シズエさんにも教えてくれたということでした。

  瞽女さんたちは、きびしい練習で唄や三味線などを覚え、その芸を大勢の人たちに楽しんでもらい、人のやさしさを広げてきました。シズエさんの「じゃあ、ひとつやってみるかね」という言葉を聞いて、私は思いました。シズエさんも、瞽女さんたちのやさしい心を引き継いでいると。

  (2021年12月26日)

 
 

第688回 朗読

 「上がればいいこて」……玄関で、「橋爪です」と声をかけたら、そう言って返事をしてくれたのは「でみせ」(屋号)のキヨコさんです。

 初めて出会ってから40数年、長年の付き合いで声も顔もすぐわかるキヨコさんはいま80代の半ばくらいでしょうか。いつも気軽に言葉を交わしています。

 居間に上がらせてもらって、「今度の本、おまんのこと書いたがも載せたがど」と言って、私は、すぐにその文章を朗読しはじめました。

 ──マサヒロさん、死んじゃったねぇー。高見盛が負けたときに見せたような顔をしてそう言ったのは「でみせ」のばーちゃん、キヨコさんです……。

 そこまで読んだら、キヨコさんはもう「あはははは」と声を上げました。

 本に載せた文章というのは、私の最新エッセイ集『じゃがじゃが煮』のなかの「最後の涙」という話です。吉川区尾神で生まれ、長く尾神郵便局に勤めていたマサヒロさんとほぼ同年代のキヨコさんが柿崎病院でマサヒロさんと最後に会った時のことを書いた切ない、悲しい話なんですが、キヨコさんは、当日のことをすぐに思い出したようでした。

 マサヒロさんは私もよく知っていた人で、顔だけでなく如才ないしゃべりっぷりもよく知っています。朗読の際には、マサヒロさんのしゃべりに似せて読みました。

 ──マサヒロさんから「おれ、分からんがか」と声をかけられたキヨコさんは、黒っぽい大きな顔を見てびっくり、「わからんこて、そんげなかっこしてりゃ」と言い返しました。

 キヨコさんは「おれ、分からんがか」と読んだところでまた笑い、「わからんこて、そんげなかっこしてりゃ」という自分の言葉でも大笑いしました。マサヒロさんはこの日、柿崎病院の待合室で、頭がすっぽり入るほどの大きな帽子をかぶっていたのです。キヨコさんは、よほどその格好が印象に残っていたのでしょうね。

 さらに読み続けました。

 ──「あまいけの西」(屋号)のマサヒロさん、あの通りの真っ黒い顔だろ、それなのに赤い蝶ネクタイつけてさぁ、おれは似合わんと思っていたがだでも、本人は気に入っていたげらで、しばらくつけていたこてー。

 キヨコさん、今度は笑わずに、「真っ黒い顔」のところと「赤い蝶ネクタイつけてさぁ」のところで「そいが、そいが」と相槌(あいづち)を打ちました。

 それからは笑ったり、相槌を打ったり……。キヨコさん一人を聞き手にした私の朗読は、ぎこちないものでしたが、キヨコさんは一生懸命聴いてくださいました。そして文章の最後です。

 ──さて、キヨコさんとマサヒロさんの最後の出会いの最後です。キヨコさんが言いました。「あの日、西のあんちゃと病院出る時も一緒になったがど。おれにさー、手、振ってサイナラしてくれたがよ。そん時さー、目に涙うかべてんがねかね。うれしかったこてー」。そう言うキヨコさんも目がうるんでいました。

 朗読はそこで終わりなのですが、キヨコさんの顔を見たら、涙目になっていることがわかりました。改めて、マサヒロさんとの最後の別れの場面が思い浮かび、ぐっときたのでしょう。

 これまで私は、朗読については小田順子さんや北井さくらさんなどその道のプロの方にやってもらえばいいと思っていました。でも、たまには自分で読むのもいいかもしれない、そんな気がしてきました。今度、この『朗読』を読んだら、キヨコさん、また大笑いしてくんなるかどうか……。 。  

  (2021年12月19日)

 

 

第687回 塗り絵(2)

 もう50年ほどの付き合いになるのに、まったく気づきませんでした。青年時代は長距離ランナーだったトシイチさんが塗り絵の技術を身に付け、インターネットで発表するまでになっていたのです。

 先日、おじゃました時、お連れ合いのヒロミさんが数枚のコピーを綴じたものを私に見せてくださいました。手にとって見ると、「ものと語りオンラインⅡーオンライン発表会―開催レポート」とあります。

 いったい何が書いてあるのか。そんな思いを抱きながら、下の方へ目を動かすと、5人の発表者のところにトシイチさんの名前があるじゃありませんか。そしてコメンテーターのところには、私がここ数年注目している作家の佐藤葉月さんの名前も載っていました。

「あら、葉月さんの名前もある。この人、よく知っている人だよ」と言うと、ヒロミさんが、「橋爪さんのチラシに無印(良品)でのイベントのことが書いてあって、そこに佐藤さんの名前も載っていたので気づいていたんですよ」と言いました。

 これで事情が呑み込めました。ヒロミさんは、私が障がい者の文化芸術活動に関心を持っていることを知り、それで、トシイチさんの作品づくりと今回の発表会のことを私に伝えたかったのです。

 レポートには、トシイチさんの12枚の絵が並んでいました。白黒のコピーでしたので色の塗り具合などはまったくわからなかったのですが、絵は昔話・『笠地蔵』の話です。なかなか良くできていました。

 そして、「一連の塗り絵は、色鉛筆やパステルを指で塗り延ばしたりしながら、細かく色を調整されているとのこと。確かに、吹雪を受ける木々や、雪深いシーンをグレーで幻想的にしあげていらっしゃいますね」というコメントもありました。

 私は、「えーっ、パステルも使って、指で延ばしているの。すごいね。おれも色鉛筆やクレヨンを使っていたんだけど、最近はコピックペンを使っているんだわ。使いやすいもんだから」と言いました。その後、スマホ内に保存してある描いたばかりの絵も見てもらいました。

 すると、ヒロミさんは、レポートでも紹介されていた「都道府県にちなんだイラストに隠し文字を入れて楽しんでいる」というトシイチさん制作の実物を居間のコタツのテーブルの上に持ってきてくださいました。たしかにレポートに書いてあった通り、とても美しく塗り分けてありました。

 すべての絵に、「どこの県でしょうか?」という文字が書かれています。1枚目は水戸の御老公と納豆の絵が描かれていましたから、茨城県であることはすぐにわかりました。2枚目も水木しげるの1つ目の子どもが描かれていたので、鳥取県だとわかります。しかし、どちらも県名を書いた文字がなかなか見つかりませんでした。これなら十分楽しむことができます。よく考えて描かれた絵でした。

 トシイチさんは50歳の時に脳の病気で倒れ、右の腕や手などが思うように動かせなくなりました。その後、柿崎区の介護施設に通いながら、リハビリに努めてきました。そのリハビリの一環として、塗り絵に取り組んできたのです。

 トシイチさんによると、最初は硬いボールペンを使い、その後、20年の間に鉛筆、シャープペンシルと、徐々に柔らかいものを使えるように鍛えたそうです。いまでは右手にパステルを持ち、左手で紙を動かしながら塗り絵を楽しんでいます。

 トシイチさんは、ケアマネさんなどから次は紙芝居に挑戦したらと勧められているそうです。本人もその意欲はあるようで、ひょっとすると、来年あたり紙芝居用の絵が出来上がるかも。こりゃ、楽しみだ。

  (2021年12月12日)

 
 

第686回 きなこねじり

 懐かしいものが突然、目の前に現れる。そうしたときの喜びは格別ですね。

 土曜日の午後、Sさん宅でお茶をご馳走になったときがそうでした。居間に上がらせてもらい、テーブルの上に出されたお菓子を見た瞬間、「わあ、懐かしい」と声を出してしまいました。

 お菓子は薄緑色、ねじれがあって、数十年前はお客さんなどに出すお菓子の1つでした。いったん封を切ったお菓子は長持ちしなかったのでしょうか、お客さんが残すのを待って、喜んで食べたものです。とても美味しかったので、色や形とともに、このお菓子のことはしっかり記憶しました。ただ、どういうわけか、肝腎の名前が出てきません。

 Sさんからお菓子が入った袋を渡してもらい、名前を見ると、「きなこねじり」と書いてあります。なるほど、こういう名前だったんですね。このお菓子にぴったりの名前だと思いました。そして、このお菓子は県内の見附市でつくられていることもわかりました。

 出していただいたお菓子の中から1つ手にとり、じっくりと見せてもらいました。緑と白のほどよい混じり、4㌢ほどのお菓子の本体を半分ほどひねった形、これらは昔、私が見たものとまったく同じでした。そして口に入れた瞬間、ほどよい甘さが広がりました。きな粉が入った味も間違いなく、私が若かりし頃食べたもの、そのものでした。さらにこのお菓子が持つ独特のもっちり感もかわっていませんでした。

 この日、Sさん宅では、近くのHさんと一緒にお茶をご馳走になりました。すすめられた「きなこねじり」は遠慮なく手を出し、最終的には、4、5個はいただいたと思います。お茶飲みのなかで、「きなこねじり」がどこで売っているかも知ることが出来ました。

 Sさんによると、柿崎のスーパーや原之町の商店にもあるとのことでした。ただ、2、3袋しかおいてないので、すぐになくなってしまうとも言われました。それにしても、意外でしたね。私は、このお菓子が身近なところでいまも売っていることに気づいていませんでした。

 Sさん宅でのお茶飲みを終わってから私は、車に乗り込み、インターネットで「きなこねじり」の画像を発信しました。懐かしいお菓子に出合ったことを多くの皆さんに知ってもらいたいと思ったからです。

 私が思っていた通り、「きなこねじり」の思い出を持っている人は大勢いました。
「おばあちゃんだった私。いつも、おばあちゃんの割烹着のポケット捜索して(いた)。『きなこねじり』は(見つけると)大収穫(だった)。いつもポケットにお菓子が有ったのは多分、食いしん坊の私の為。自分は、食べないで、ドラえもんのポケットにしてくれていたんだな」
「だーーーーい好きです 」
「ばあちゃん家に泊りに行かせられる時、お目覚めはこれかあんこ玉。そして幼稚園児なのに、朝茶で必ずお煎茶がついてました」

 私が「きなこねじり」を買いに出かけると書いたら、「是非私の分も買って来てください 」という人もいました。

 翌日、私は板倉区まで行く用事がありました。帰りにスーパーに寄って、「きなこねじり」を探したところ、運よく1個だけ残っていました。すぐに購入し、家でもう1回、味や形を確かめました。

 やはり、Sさん宅でご馳走になった時と同じ味でした。お菓子袋には、「昔ながらのおいしさそのままでお子さまからご年配の方まで皆様に愛されつづけています」とあります。わが家ではご年配の男性が愛しつづけ、もう無くなりそうです。

    (2021年12月5日)

 

 

第685回 孫の重さ

 なーんだ、そういうことだったんだ。連れ合いがおコメの「新之助」を持ってみたいといった理由がやっとわかりました。

 先週の火曜日のことです。私は連れ合いと一緒に柿崎のホームセンター・ムサシへ買い物に行き、コピー用紙などを大量に購入してきました。その際、帰りに、回り道して、大潟区内雁子にある朝日池総合農場の「むら市場」に寄ることにしました。連れ合いが「新之助」の売り場に行きたいと言っていたからです。

 連れ合いが「新之助」という銘柄にこだわっていたのは、美味しいコメだから次男のところへ送るためだと思っていたのですが、そうではありませんでした。「むら市場」で平澤さんと一緒になった時、連れ合いは「孫が20㌔にもなったというんで、その重さの米を持ってみたくて……」と言ったのです。孫の代わりにおコメを抱いて、どれくらいの重さになったかを体で感じてみたかったんですね。

 考えてみれば、孫のリョウ君がわが家にやって来たなかで最新の訪問は一昨年のお盆のときでした。ですから、もう2年3か月も孫と会っていないことになります。会いたい、会って抱っこしたいと思うのは当然だと思います。せめて20㌔になったという孫の重さを体感してみたいという連れ合いの気持ちもわかります。

 私と連れ合いの前には5㌔入りの「新之助」などのコメが10袋ほど積んでありました。コメ袋は縦長の状態で置かれていましたので、私が2袋だけ横に積み、「腰、痛めるなよ。まずは10㌔だけ持ってみたら」と勧めました。どうみても、一度に4袋、20㌔分も持てないだろうと思ったのです。実際、2袋だけでも想像以上に重たいものでした。

 5㌔入りのコメを2袋持ってみた連れ合いは、やはり「重い」と言いました。孫の体重は4袋分です。半分の10㌔分だけでもけっこうな重さですから、その2倍となると、どれくらいかはわかったのでしょう。連れ合いは一度に4袋を持ってみたいとは言いませんでした。

 その後、私は連れ合いとともにコーヒーをいただき、平澤さんと3人でおしゃべりを楽しみました。

 今年亡くなった平澤さんのお母さんが96歳だったことから、まずは、介護はどんなふうにしておられたかを訊きました。また、お母さんは俳句が好きで雑誌など投稿されていたので、いつ頃まで句作を続けておられたかなども話してもらいました。

 歌の話も弾みました。10月29日、かに池交差点で平澤さんはバイオリンとギターの伴奏で自作の「久比岐の里」を伸びのある声で歌いました。選挙戦の最終盤のスピーチの前の取組だったのですが、大いに盛り上がりました。

 柿崎の浄福寺でのコンサートの話になったところで、3人の話は音楽活動など地域文化論にまで発展しました。最近は農村部など身近なところで素敵な歌を歌う人が増えてきました。絵や写真などの作品展開催も盛んです。そういう地域文化こそ本物の文化だ、みんなで楽しむようにしたいね、ということで3人は一致しました。 

 だいぶ、横道にそれましたね。再び孫の話に戻ります。今回の連れ合いの「コメで孫の重さを確認したい」という行動で、孫のリョウ君の体重は6年前の2400㌘ほどから8倍もの重さになったことを改めて知りました。正直言って、驚きました。

 先日もスマホでリョウ君の姿を見た母が、「でっかくなったなぁ」を連発していましたが、大きくなったものです。孫のリョウ君は来年、小学1年生です。嫌がらないうちにもう一度抱っこしてみたいものです。 

  (2021年11月28日)

 
 
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