春よ来い(28) 
 

第662回 感動の反応

 6月最初の日曜日は地元町内会の草刈りでした。総勢28人で用水路、ため池等の草を刈り払いました。

 草刈りの作業中は草刈り機を動かしているので、参加者同士で話をすることもなく、ひたすら草刈りをしました。それだけに、休憩時間や終わってからの時間は会話がはずみ、賑やかになります。

 ため池のそばで休んでいたときのことです。私から、「サンコウチョウの鳴き声、聞いたことある?」とまわりの人たちにたずねたところ、「どんな鳴き声だね」と質問されました。「直江津駅で流されていた小鳥の鳴き声だこて。最後にホイホイホイと鳴くんだわ」と答えたのですが、まわりの人たちは、どうもピンとこなかったようです。それならば、実際の鳴き声を聞いてもらおう、そう思ってスマートフォンを使い、「サンコウチョウの鳴き声」の動画を動かして聞いてもらいました。 

 この日はよく晴れていて、スマホからの音も伝わりやすくなっていたようです。「ツキ ヒ ホシ ホイホイホイ」。この鳴き声が池のまわりに響きました。すると、何ということでしょう、近くの林から「ツキ ヒ ホシ ホイホイホイ」という鳴き声が聞こえてくるじゃありませんか。私の近くにいたNさん、Mさん、Kさんなどがびっくり、「おお、スマホの鳴き声に、つられたんだね」「反応したね」などといった声が出ました。もちろん、私も驚きました。

 私の人生70年余のなかで、こちらが発信したものに応えて小鳥が鳴いたのは初めてです。こんなことが現実に起こりうるとは思ってもみませんでした。

 スマホとサンコウチョウのやりとりを聞きながら、Mさんに向かって「これ、いるろね。おまんちの裏山に。おれも聞いているもん」と言うと、Mさんも「うん、いるいる」と言いました。

 ここまでくると、話はどんどん進みます。私は「アカショービンもいるでしょ。キョロロロローと鳴くが」と言いました。すぐに反応がなかったので、ふたたびスマホで調べて、アカショウビンの鳴き声を聞いてもらいました。これにも、「いるいる、確かにいる」という言葉が返ってきました。

 アカショウビンはカワセミの仲間です。私は昨年、柏崎市の用水路で初めてカワセミを見て、撮影もできました。そのことを話すと、Mさんは「カワセミならオラチの裏の用水のところを飛んでるよ」と言いました。また、Kさんからも、「すぐそばの吉川でも行ったり来たりしている」という話が出ました。サンコウチョウが私の住んでいるところにもいるなんて信じられませんでした。話を聞いてみると、どうも知らなかったのは私だけだったようです。

 続いて、キツネのことも話題になりました。私が、「タキシタ(地名)でやせたキツネを見た」と言うと、Mさんが「キツネはこの間の朝、畑の方からオラチの方へ歩いてきたから、じっと見ていて、そばに来てからシッ≠ニ言ったら、やっこさん、びっくりして飛び上がって逃げて行った」と話してくれました。

 すると、今度はNさんが話しました。Nさんは前日の夜、米山さんに登り、草刈りの日の朝4時過ぎに起きて下りてきたといいます。その際、「米山ではきれいなカモシカに出合い、追いかけられた。2ついたから、あれはつがいだったかも。それと小さな黒い動物も見た。コグマかもしれない」などと話をしました。

 この日は、草刈りが終わってからも話が出来ました。サンコウチョウの感動の反応から始まり、小鳥や動物、野の花などの話をして改めて思いました。ここは実に自然豊かで、いいところだなと。

  (2021年6月13日)

 
 

第661回 夜中の対話

 日中は朝から出かけることが多く、母と話をする時間をなかなかとれずにいます。夜は私の帰りが遅くなっても、母と同じ部屋で寝ていますので、昼間に比べたら、話をするチャンスはあります。

 もうひと月以上も前の夜のことです。何がきっかけだったのか、すっかり忘れてしまいましたが、母が蛍場に住んでいた頃のことを話し始めました。 

「どしたが」
「ネコ、手を前に出して、いらっしゃいませ≠オてと」
「そりゃ、たいしたもんだ」
「ホトラバにネコ、二ついたもんだけど、どしたかな」
「はえ、いねこてね」
「ほっか、いいネコだったでもな」

 わが家が蛍場にあったのは昭和57年の秋までです。「いらっしゃいませ」のネコは夢の中に出てきたのだと思います。そして、蛍場の家のネコのことは39年も前の話です。母の頭の中では昔のことも今のことも横並びになっているようです。

 次は、5月下旬のある晩のこと、時間は深夜の午前1時近くになっていました。ベッドに寝ていた母が突然目を開け、回りを見渡し、どうしたんだろうという表情をしました。

「どしたが」
「いい歌、聞いとー」
「へー、とちゃか」
「ううん、子ども」
「子どもが歌、歌ってたがか」
「うん」
「そりゃ、いかったね」
「うん」
「寝ないや」
「うん」

 ここでいう「とちゃ」は、父、照義のことです。父は田んぼでも牛舎でもよく歌を歌っていましたから、母は夢の中で父の歌を聞いたのかと思ったのですが、そうではなく、子どもたちでした。

 母が夢の中で聞いたという子どもの歌声は、誰だかはわかりません。ただ、牛飼いをしていた頃のわが家の牛舎には、近くの子どもや保育園、小学校の子どもたちがよくやってきていました。母は、そうした子どもたちのことを思い出していたのかも知れません。

 これも5月下旬の夜のこと、私が遅くなって家に入った日でしたから、午後10時過ぎだったと思います。寝室に入ると、寝ていると思った母がベッドのところにちょこんと座っていました。その時の母との会話です。

「どしたが」
「しっこしたが」
「へぇー、そりゃ、えらいもんだ」
「なして、それくらいできるよ」
「そっかね、えらい、えらい」
「早く寝ないや」
「うん」  

  99歳で他界した板山の母の姉は退院後も寝たきりにならないように、はってでもトイレに行ったと聞いています。母もその血筋ですから、どんなに具合が悪くなっても自力で頑張る意思がありそうです。

 最後はつい先だっての深夜です。時間は午前の2時、3時頃だと思います。寝室の電気が点いて明るくなっていたので、目が覚めました。見ると、母がまたベッドのところに腰掛けてニコニコしていました。

「どしたが」
「ふふふ」

 この日、母は昼間も眠ったのでしょうか。私の方は眠たくて、朦朧(もうろう)としているのに、母の方は細い目をしっかり開けて笑っていたのです。母との夜中の対話は、まだまだ続きそうです。

  (2021年6月6日)

 
 

第660回 童心に帰って

 人間の記憶というのは面白いものですね。ちょっとしたことがきっかけになって、思い出し、新たな体験につながっていくことがあるのですから。

 先日の朝、散歩しながら野の花を探していた時のこと、目当ての花が無く、ちょっとさみしい思いをしていました。そんなときに、目に留まったのがゼンマイです。

 ゼンマイは、多年生シダ植物です。山菜として食べる時期はとっくに過ぎています。うずまき状で綿毛におおわれていた茎の姿は一変し、左右の小枝には長い楕円形の葉がたくさんついていました。

 この姿を写真に撮り、「ゼンマイはいま、大きくなって葉を広げています。子どもの頃は、これくらいになると、片側の葉を落とし、飛行機にして遊びました」という説明を付けてフェイスブックに投稿しました。

 すると、「飛ぶんですか。こういうので『飛ばす技術』を競うのが、健全な成長に役立ちそうですね」「その遊びは知らないです。紙飛行機みたいに飛ぶんですね?」「子ども時代はあるもので想像力をふくらませて工夫して物を作り、愉快に遊びましたよね♪」などといったコメントが次々と寄せられました。なかには、「動力はゼンマイですか?」といった「舌を巻く」ようなコメントもありました。

 食べ物としてのゼンマイは広く知られていますが、生長して葉を広げた姿はあまり知られていません。おもちゃの飛行機を作れることについてはなおさらです。

 たくさんのコメントを読んだ私は、もう一度、ゼンマイのあるところに戻りました。手でゼンマイの茎をつまんでみると、けっこうかたくなっています。これなら、飛行機を作れそうだと一枝折りました。

 そして、飛行機の翼を想定し、小枝の葉の片側を指で落として形を整えました。その後、左右のバランスを考え、翼の長さを同じくしました。出来上がった飛行機は一番前の翼が左右それぞれ12aほど、2番目、3番目の翼は8a、3aほどの長さです。胴体の長さは25aほどにしました。

 出来上がれば、あとは飛ばすだけです。近くの田んぼの乗り入れのところで飛ばしてみると、「昔とったなんとか」で見事に3bほど飛びました。そして何度か繰り返しているうちに、滞空時間が長く、7、8bくらい先まで飛ぶものも出てきました。大成功です。

 これらはいずれも動画撮影をしましたので、これまたフェイスブックに投稿すると、「面白い、初めて見ました」「こんな遊びもあるんですね」「えっ!すごい飛ぶ!初めて見ました。いつか飛ばしてみたいです」「子どもの頃は暗くなるまで遊んでいたでしょう」「結構よく飛びますよね。主翼や尾翼の葉っぱの後ろを切って微調整したくらいにして」「おお、科学だ!」などというコメントが続きました。

 注目したのは、私の投稿を見て、何人もの人たちが関心を持ち、実際に飛ばしてみようとしていることでした。夏休みなどのイベントでいろんな実験をして子どもたちに人気の上越科学館の館長さんも関心を持ってくださいました。おそらく、次回のイベントでは、ゼンマイを使った最新型の飛行機を作成し、子どもたちと一緒に飛ばす実演をされることでしょう。

 私自身も、すっかり童心に帰って、より優れたゼンマイ飛行機を作って飛ばす計画を頭の中に描いています。この日の翌日、柏崎市へ行った帰り道には、私は聖ヶ鼻の駐車場から海に向かって、ゼンマイ飛行機を飛ばしました。その時は風向きもあって、なかなかうまくいきませんでしたが、何回か実験を重ね、次回は、尾神岳の展望台から飛ばしてみようと思っています。

  (2021年5月30日)

 
 

第659回 旗持山へ

 先日、柏崎市の旗持山(はたもちやま)へ行ってきました。旗持山は柿崎や大潟などからよく見える山で、標高366b。数年前、上越市教育委員会のある女性から、「あそこは野の花の宝庫ですよ」と言われて以来、ずっと気になっていた山です。

 米山町の国道脇の登山口から登ることにし、聖ヶ鼻(ひじりがはな)にまず行き、車を止める場所を探してから歩きました。

 聖ヶ鼻の高台からは米山町を初めて見下ろしました。町並みはもちろんのこと、海岸がずっと先まで見え、直江津の火力発電所も見えます。「ワオー」と叫びたくなるほどの絶景スポットでした。そこへ2両編成の電車がやってきましたから、たまりません、大急ぎでシャッターを切りました。

 登山口のところには小さな看板があり、「登り60分、下り40分」とありました。標高もたいしたことない、これは楽勝だと思いましたが、甘かったですね。

 最初は小鳥たちや野の花の撮影をし、ゆったりと歩いていたのですが、いったん下り坂になり、再び杉林の中の上り坂になってからが長かった。登っても登っても薄暗く、青空が見えてこないのです。何よりもずっと続く坂道が70歳を超えた体にはきつく、10回くらい木の根に腰掛けて休みました。

 ほっとしたのは野の花と出合ったときです。道にはスミレやクサイチゴなどが咲いていました。特に杉林の中の登山道脇で小さな白い花を咲かせている植物を見つけた時はうれしくなりました。この花は、十数年前に初めて出合ったクルマムグラです。久しぶりの出合いで疲れを忘れました。

 杉林を抜けたのは1時間以上歩いてから。山の尾根ともいうべき場所へ出たとき、海が見えました。波はすじ状になっていて低く、色はブルーでした。そして、「海の高さ」を感じました。具体的に言うと、手前の海岸部が低く、遠くの海が高くなって見えたのです。下から吹き上げてくる風もじつに気持ちいいものでした。「みはらし」と書かれたミニ看板がある近くでは、上輪大橋がよく見えました。アーチ型のきれいな橋ですね。

 山頂に着いたのは午後2時40分頃です。登山口からは1時間40分弱かかったことになります。

 山頂の平なところに2つの小さな看板がありました。「旗持山山頂」と「旗持山城址」です。4月に郷土史家の植木宏さんから上杉謙信の時代の山城について話を聴いたばかりでしたが、旗持山城は海岸警備の要で、春日山城の支城群の1つです。この日は残念ながら木の枝が邪魔をして、春日山城址を望むことはできませんでした。また、旗持山と柿崎側の山の空間は、下で見ると、手塚治虫の漫画、「ハトよ天まで」に出てくる黒姫山と久風呂岳の景色に似ていますが、そこもよく見えませんでした。

 私が山頂から一番見たかったのは高速の北陸道です。柏崎から柿崎方面へと走る時、正面に見える旗持山から見たら高速道はどんな感じに見えるのだろうかと思っていました。今回、やっと念願が叶いました。高速道のラインは美しく、山頂から走っている車を見ると、大きな動物が足元で動く虫を見ている感じになるんですね。

 山頂からの下りは上輪大橋の近くに出るルートにしました。ロープが随所に張られるほどの急こう配の坂道です。杉林のところに出るまでは靴がすべりやすく、ずっと緊張しました。国道まで下りたのは午後4時頃だったと思います。

 今回の旗持山登山で出合えた野の花は、この時期ですからクルマムグラ、オオハナウドなどほんの数種でした。でも、山頂からの眺望は抜群、旗持山城の重要な役割も理解できました。N先生に感謝です。
  
  (2021年5月23日)

 
 

第658回 牛飼いの心、今も

 考えてみれば、これまで母と一緒に映画を観た記憶はありません。ひょっとすると、今回が初めてかも知れません。

 「ひょっとすると」と書いたのは、60年ほど前、旧源小学校水源分校で青年会主催の映画を観た時、母も一緒だったかも知れないからです。記憶にないのですが。

 今回、母と一緒に映画を見たのはテレビ初登場のドキュメンタリー映画、「夢は牛のお医者さん」です。私はこの映画を高田世界館などで4回観たのですが、長年にわたって牛を飼っていたわが家のことと重なることが多く、「これは母にもぜひ観てもらいたい」と思っていました。

 ただ、普通の映画館や映写会場まで母を連れていくのは無理でしたので、今回のテレビ放映は願ってもないことでした。

 「夢は牛のお医者さん」の放映が始まったのは今月7日の午後6時15分から。母は電動イスに座ってテレビを見つめていました。牛が出てくる映画に母がどういう反応をするか、私は時どき、母の表情を見ながら、映画を観ました。

 母がこの映画に反応し、最初に口を開いたのは「牛の卒業式」のシーンです。映画の主人公の知美さんが旧松代町莇平小学校の児童だった時の出来事でした。子牛の段階から長期間世話をしてきた牛を出荷する前に、子どもたちは「牛の卒業式」を行い、泣きながら、牛たちに感謝の言葉を伝えていました。母はこの場面を見て、わが家で父が乳搾りを始めた当時のことを思い出したのです。

「とちゃ、村屋の中村さん、どうしなったもんだ。おらちに来て、乳搾り、教えてくんなったこて」
「もう亡くなったよ。いま、あそこんちは柿崎へ出なったよ」
「へー、そいがか」

 中村さんというのは司法書士をされていた中村英一さん(故人)です。中村さんは山間部の源地区で酪農をした草分け的な存在でした。

 知美さんたちは、学校で子牛だけでなく、豚も飼いました。子牛はある程度肉がつけば、肥育の素牛として売られます。豚とて同じです。母は、豚の出荷の場面をじっと見ながら、言いました。

「階段とこ、チョンチョンと上がるわ。子ども泣いているな、はらいながって」

 わが家でも、牛を家畜商のトラックに乗せて別れるときはいつもつらかったものです。母は、映画でそのことを思い出していました。さらに、父、照義が豚肉を食い過ぎた時のことも思い出したようです。

「とちゃ、豚の肉、いっぺ食って、腹のまわりカイカイになった。栃窪の温泉に通って治したがど……」

 映画を観ながら母と共にテレビ画面に釘付けになったのは、知美さんの実家での牛のお産の場面でした。難産となっている牛を助けるために、破水して出てきた、子牛の足にロープを巻き、家族みんなが力を合わせてひっぱる、こういうことは、わが家でも何度も経験しました。

 映画ではロープを使ったかどうかは 不明ですが、子牛の足が出てきて、子牛の体全体を引っ張りだすまで、無意識のうちに腕に力が入り、「よし、よし、よーし」と声をかけていました。母も声こそ出さなかったものの、私と同じ気持ちだったと思います。  

 「夢は牛のお医者さん」は、牛の病気を治すために獣医になりたいという知美さんの夢を追うドキュメントです。97歳の母は、十数年前まで搾乳時の「あとしぼり」や子牛の体をこするなどの仕事をして頑張っていました。映画に登場した牛が産後、エサを食えなくなった姿を切ない目で追う母を見て、「母はいまだに牛飼いの心を持っている」と思いました。  

  (2021年5月16日)
 

 

第657回 トイレ介助

 今年の3月から母の部屋で一緒に寝ています。

 私が母と一緒に寝るのは12年ぶりです。前回は父が他界し、さみしいだろうと思ったからでした。今回は、母に病気の発症などの緊急事態が起きた場合に備えて決めました。

 私が布団に入るのは早くて23時頃、遅い時は午前1時を回ることもあります。母と一緒に寝ている時間は6時間ほどです。

 おかげ様で一緒の部屋に寝るようになってから今日に至るまで緊急事態はなく、ホッとしています。その代わり、私の新たな役割がひとつ、出てきました。母がトイレに行く時の介助です。

 母がトイレに行くと言っても、トイレはポータブルトイレです。ベッドのすぐそばにありますので、車イスを使う必要はありません。ベッドとトイレの移動をスムーズにできるようにすること、母のズボンやパンツの上げ下ろしを手伝うことが私の主な仕事になります。

 母はトイレへ行きたくなると、暗くなっている部屋の電気をつけます。次いで、ベッドの手すりやポータブルトイレの手を置く場所につかまって移動します。所定の位置に移動をしたことを確認してから、ズボン、ももひき、パンツを順に下ろします。その後、便座に座ることになりますが、母は「はぁー、どっこいしょ、ありがとね」と言いながら、座ります。

 このとき、ポータブルの真ん中にキチンと座ってもらうことが大事です。ややもすると、浅く座ったり、斜めに座ったりしますから。それをちゃんと直さないとたいへんなことになります。おしっこがとんでもないところに流れ出てしまうからです。

 便座にうまく座ってくれると一安心です。母の小便がトイレの容器の中に落ちる音を聞きながら、折りたたんだトイレットペーパーを母に手渡しします。受け取った母は、いつも、「あっりがとう」と言います。そしてペーパーで陰部をふいた後、「よいしょーの」を1回ないし2回言って威勢を付けて立ち上がります。立ったところで、パンツ、ももひき、ズボンの順に上に引き上げます。そして、再び布団の中にちゃんと寝るようにしてあげる、これでトイレ介助はおしまいです。

 このトイレ介助は朝起きるまでに少なくとも3回しなければなりません。単純な介助とはいえ、2時間に1回の割合となると、こちらはなかなか深い眠りをすることができなくなります。それがつらいところですね。

 母はトイレに行くと、たいがいはすぐに布団の中で眠るのですが、眠れなくて、布団の中から私に声をかけてくることがあります。

 3月の末ごろでした。「ああ、とちゃがいていかった。おれ、おっかね夢見たがど……」と言って私に声をかけ、どんな夢かを語ってくれました。

 先日も眠れなくなったのでしょう。つながりのない、いろんなことを思い出し、語り続けました。

「庄屋の家に子どもがいたがど……。どうしたかなぁ」
「なに、田麦の話か」
「うん。おした(半入沢にあった家の屋号)の親戚で、ひとり暮らしの人、いなったこて。あの人、どうしなったろな」
「守さん、何年も前に亡くなったよ」
 
 言うまでもなく母がショートシティ(短期入所)に行っていて家にいないときは、トイレ介助をする必要がありません。そういう時は、「今夜は楽々眠れるな」と思って、布団の中に入るのですが、母がベッドに寝ていないと、ろくに眠れず、目が冴えてしまうのです。不思議なものですね。  

  (2021年5月9日)

 
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