春よ来い (27)
 

第642回 母のユーモア

 ひと月に最低1回はある母の通院日。ここ数カ月は、介護施設から病院へ通ってきました。毎回、ほぼ同じことの繰り返しなのですが、必ず何らかの変化があったり、発見があったりします。

 つい先だっての通院日。毎週発行している活動レポートの原稿の手直し、印刷作業を終わらせ、時計を見たら午前11時半を回っていました。大急ぎで母の入所している介護施設に向かいました。

 通院日の数日前にはどか雪が降りましたので、いつもよりも1時間ほど早く母を迎えに行きました。母とは正月の一時帰宅以来、十数日ぶりで会ったのですが、私の顔を見るなり、「なんだ、とちゃか」。私の顔を見て大喜びするに違いない、そう思っていただけに、ちょっと拍子抜けしました。でも、元気でホッとしました。

 病院に行くまでの途中、上沼道が使えなかったのは誤算でしたが、道路の路面などの状況は良好で、回り道をしてもそう時間は変わりませんでした。

 病院へは予定よりも1時間早く着く見通しとなったので、病院の近くのスーパーに入りました。いつも診察を終え、帰りに買い物で寄っていたのですが、この日は順番が逆になりました。

 駐車場に車を止め、店内に入ったのは、いうまでもなく私一人だけです。母の好きな稲荷寿司だけでもよかったのですが、店内に入ったら、キンカン、デコポンが目に留まりました。母が見たら喜ぶに違いないと思ったのです。これらも購入しました。

 車に戻って、「おまん、昼、何、ごっつおになったね」と母に訊くと、「カレー」と答えました。となれば、「いらん」と言うかも知れなかったのですが、購入した稲荷寿司を見せると、ひとつだけ、手を伸ばしました。やはり母の好物ですね。

 稲荷寿司を食べたあとは、恒例となっている弟たちとのテレビ電話を楽しみました。この日は、愛知県で喫茶店を経営している弟がお客さんたちにもスマホ画面を見せました。弟のスマホ画面で私や母の顔が見えたのでしょう、「おー、似ているね」「これがお母さんか。元気でね」などといった声が聞こえてきました。

 病院では、看護師さんが血圧などを測定した後、いつものお医者さんが聴診器を使って診てくださいました。「おばあちゃん、どこか悪くないですか」という質問に母は、「どこも悪くねです」と答えたので、お医者さんは笑顔になりました。

 お医者さんは「おばあちゃん、その後、体調はいかがですか」という意味で質問されたので、母の回答は間違っているわけではありません。でも、悪いところがあるから通院しているのです。そばで聞いていた私も、「どこも悪くねです」には笑ってしまいました。この日、お医者さんは母について、「顔が少し小さくなった感じがしますね」と言われました。何でも食べますが、食は細くなったのかも知れません。

 診察は5分くらいで終わり、その後、薬局に寄って薬を出してもらいました。こちらの方は20分ほどかかりました。

 病院への行き帰り、母が目を覚ましていたのはキンカンを食べた時だけ、今回もほとんど眠っていました。「おまん、ねぶってがか」と聞くと、「ねぶってくなんかねぇよ。おれの顔がねぶってだけだ」。

 この言葉を聞いたとき、十数年前に入院している父を母と共に見舞ったときの父と母のやりとりを思い出しました。父はベッドから母の顔を見上げ、「かちゃ、もっと目を開けろ」と言い、それにたいして母は、「おれの目は元々細いがどね」と言ったのでした。「どこも悪くね」「おれの顔がねぶってだけだ」を聞き、母のユーモアは、まだ健在だと思いました。  

  (2021年1月24日)

 
 

第641回 道つけ

 もう2度と道つけをすることはないだろうと思っていました。それが今回の豪雪で、それこそ数十年ぶりにカンジキをはき、道つけをすることになりました。

 道つけをすることになったのは、災害救助法が適用された翌日、11日のことです。前日から、わが家の除雪機は故障していて、この日は除雪機を修理してくださる人が来られる予定でした。故障した除雪機がある場所の近くの道には前日からの雪が60㌢ほど積もっていて、車は入って来られません。ならば、修理に来る人が難儀しないですむようにと、除雪してある道までの約200㍍を道つけすることにしました。

 最初は、左右の足で交互に踏み固める昔ながらの方法で進みました。でも、60㌢の雪は70代の人間にはきつく、10㍍ほどでこの方法はあきらめました。

 それ以降は左足で3回、右足で3回踏んで進む方法に切り替えました。こちらの方が楽に思えたからです。5㍍ほど進んで一息入れ、また前に進む、それをずっと繰り返しました。ただ、この方法でも疲れはすぐにきて、つらかったです。

 30㍍ほど進んだところからは杉林沿いの道となります。そこでは杉の木から落ちた雪で固くなっているところもあれば、月面クレーターのように大きなへこみができているところもありました。私は杉の木からの白いバクダンに直撃されないよう注意しながら進みました。

 全体の半分、約100㍍まで進んで、左前方の空から「ケェーッ、ケェーッ」という鳥の鳴き声がしました。雁行です。きれいな「くの字」になって飛び去っていきました。雪がちらちら降ってはいましたが、雁たちは雪に負けずに飛行を続けているんですね。この日は道つけをしているときに3回も雁行と出合いました。もっとも後の2回は5、6羽の飛行で、最初のような「くの字」ではありませんでしたが……。

 左右に田んぼが見える場所まで行き、少し明るくなったなと思ったら、雲の切れ目からちょっとだけお日様が顔を見せてくれました。そのバックには青空も見えます。冬の青空は希望です。ホッとしました。

 道つけは、尾神岳のふもと、蛍場に住んでいた子どもの時分、朝の仕事の1つでした。小屋や納屋に行く道、わが家から集落の中を通る道につなぐ道など、何十回となくやってきました。それはさほど苦痛ではなく、むしろ、家族の中での自分の役割を発揮できた喜びを感じたものです。

 でも今回はそうした懐かしい思い出にひたる余裕はまったくなく、汗をかき、山登りで急な坂道を登ったときのような疲れを感じました。

 疲れると、どこまで進んだかがとても気になります。踏み固めた道を振り返り、そして前方を見る。「まだ、こんなにあるのか」。先がいやに遠く感じられました。

 たいへんさを意識しはじめ、下を向いて踏み固めていると、雪道はどうしても右や左に曲がってしまいます。私が踏み固めた道はなかなかまっすぐにはなりません。酔っ払いが歩いた道のように見えました。

 今回の道つけ、長さは200㍍ほどですから、そう時間はかからないだろうと思っていましたが、甘かったですね。所要時間は、何と1時間もかかりました。

 数十年ぶりの道つけをするまでは、正直言って、カンジキをはいた道つけがこんなにもたいへんな作業だとは思いませんでした。そのことに気づいたとき、蛍場から半入沢入り口までの約500㍍を道つけしてくれた母や蛍場の母ちゃんたちへの感謝の気持ちで胸が一杯になりました。

 サクラサワ、ヒガシ、オオヒガシ、イドンシリ、ムコウ、カミ、オオニシのかあちゃんたち、ありがとねぇ~。

 (2021年1月17日)

 
 

第640回 春になったら(2)

‎ 大晦日、母が介護施設からわが家に帰ってきました。前回が11月の上旬でしたから、50数日ぶりの帰宅です。

 送ってきてくださったケアマネのMさんによると、母はその前の晩、眠れなかったようだとのことでした。母に聞くと、「体の調子悪くて、眠らんねかったがど。神様、ねーらしてくんなさい、と手を合わせたけどダメだった」と答えました。

 そのせいもあったのでしょうか、帰ってきた母は、これまでになくテンションが高くなっていました。

‎「きょうは31日の年越しだ」
「よくわかるねぇ」
「そりゃ、わかるこて。‎‎ゼンメの煮しめとササギの煮たが、頼んでおいたがだでもなぁ」

 母が頼んだと思っている人は、たぶん、施設で料理を担当されているスタッフの方なのでしょう。実際はありえない話です。母の頭の中は賑やかになっているなと思いました。それを裏付けるように、雪が降る時期だというのに、イネの話もしました。

「とちゃ、はさイネどうしんが」
「イネなんかねぇよ」
「ほしゃいかった。人目わりいと思った」

 わが家は元々稲作農家でした。牛飼いもしていたのでワラ集めも忙しく、地域ではイネの収穫作業が遅い農家の1つでした。母の頭には、そのことがしっかり記憶されているんですね。

 今回の帰宅でも母は、離れて暮らしている私の弟たちやイトコなどとスマートフォンを使ってテレビ電話をしました。弟たちからは「かちゃ、きょうは家か。いかったねぇ」と言われ、ニコニコ顔でした。

 母はイトコたちの顔も声もしっかり覚えています。今回、初めてテレビ電話した習志野市のイトコがスマホの画面に登場すると、「エツオちゃんか、元気かね」と声をかけました。亡くなった叔父そっくりの眉毛としゃべりに母はうれしそうでした。

 ‎‎高崎市のイトコは80代の半ばです。これまで2人は何度も電話しています。

「ヨウコさん、おまさん、頭、白くなんなったでもきれいど。こんだ、コゴメやるでね」

 母の言葉に気をよくしたイトコは、「もう5年頑張ろうと思ったけど、10年にするわ」と言いました。

 高崎のイトコとの電話が終わってすぐに、母は電動イスのスイッチを入れ、イスを上げ始めました。

「トイレか」
「なして、コゴメ、採りに行くがど」
「雪、あるすけ、行かんねよ」
「ほっか、‎‎‎春になったら、コゴメ採りでも、笹採りでもなんでもするよ」

 高崎のイトコとの電話で母は、明確な目標を持ったようです。母は車イス生活ですが、頭の中では、母の体は自由に動きます。その後、料理の話もしました。

「とちゃ、おらちの餅焼く炭、どこ」
「とちゃ、赤飯、ふかそうか」

 母は昼食後もテレビ電話をしました。名古屋市に住むひ孫のリョウ君は五歳。母は「リョウちゃん、ヨオー」と声をかけ、顔をスマホの画面に近づけたり、遠ざけたりして遊び相手をしていました。上手なもんです。電話が終わったら私に言いました。

「リョウちゃん、いい子になったなぁ。しっかりしてる。ありゃ、学校できるど、きっと。ミカン2つ、やればいかったなぁ。‎‎こんだ、山菜も採ってきて、うんまいもん、買ってきてやろ」

 今年の冬は雪が多く、春の訪れはいつもよりも遅くなるかも知れません。春になったら、母をコゴメが採れる場所へ必ず連れて行ってやりたいと思います。コゴメの香りをかげば、また元気が出るはずです。

  (2021年1月10日)

 
 

第639回 大根穴

 いまも床下の穴蔵(あなぐら)を使っていらっしゃる家があるんですね。先日、大島区のT子さん宅でお茶をご馳走になった際、知りました。

 話し始めてじきにT子さんが「大根穴に入れとけば……」という話をされました。私は「芋蔵」とか「穴蔵」という言葉は知っていましたが、「大根穴」は初めて出合った言葉です。すぐに、「大根穴、そう言うがですか」と聞き直しました。

 間違いありませんでした。「大根穴」と言うのだそうです。私が知っている「芋蔵」は、床下に穴を掘って芋類などを冬季間保存する場所です。それと同じものなのかどうか知りたくなりました。

 T子さん宅にある「大根穴」は台所にありました。縦60㌢、横90㌢、深さは1㍍ほどの大きさです。ここには大根だけでなく、ニンジンやゴボウ、ヤツガシラなどが入れてありました。いずれもビニール袋やポリの桶の中に入れて、しまってありました。私の知っている「穴蔵」と構造は基本的に一緒でした。台所の他にも「穴蔵」があるらしく、T子さんは「昔の知恵だじゃねぇ。外に出ねでいいすけ、楽だわね」と言っておられました。

 ヤーコンやカボチャ料理をいただきながら、T子さんとお茶飲みをしてわかったのは、T子さん宅では、「昔の知恵と暮らし」をしっかり引き継ぎ、「今の知恵」も活かした暮らし方をされているということでした。

 私の正面には昔からの食器棚が置いてありました。いまの食器棚ならガラス戸がはめられていて、中に何が入っているか見えます。しかし、M子さん宅の食器棚は木製の戸です。中はまったく見えません。

「ガラス戸の方が便利なのはわかっているけど、木の戸の方が落ち着くんですよね」

 近くにある「ジョウヨウバシラ」(大黒柱)についても話が広がりました。

「昔はヌカガマのけぶで柱、真っ黒になったこてね。それを包丁で削ると、肌の赤が出た。若い頃は嫌だったけど、これも、いまは落ち着くんだよね。旅に出たしょなんかは、ジョウヨウバシラ見て、抱きつく人もいなる」

 私も似た体験がありますから、こういう話はよく理解できます。

 先ほど「今の知恵」と書きましたが、この日は、ヤーコンやカボチャんの他にもご馳走になったものがありました。「これ、やわらかいすけ、食べてみてくんない」 そう言って、出された干し芋です。干し芋と言えば、茨城産が有名ですが、T子さん宅では自分の家で作っておられました。

 T子さんによれば、干し芋を作る方法は2つ。その1つは、石油ストーブの前に切った芋を置いて乾かす方法で、出来上がりまでには2、3日かかるといいます。いま1つは、ストーブの熱をコタツに引き込む筒先に置く方法です。こちらの方が出来上がるまでの時間が早いとか。確かに、こういうのは昔はありませんでしたね。

 T子さんとの話は、この日、30分以上にも及びました。考えてみれば、T子さんとはかなり前からの知り合いですが、一緒にお茶を飲んだのは初めてです。とてもいい時間を過ごさせてもらいました。

 帰りしなに、食器棚の隣を見たら、どこかで見たことのある大きなポスターが貼ってありました。真ん中には「おらちの『ごっつお』、めしあがれ」と白抜きの文字。上越市のポスターです。

 ポスター写真、大きな囲炉裏を囲んで親子4人が笑顔で食事をしています。そして大きなシャモジで湯気の立った煮物を茶碗によそっているのはT子さん本人でした。

 新年は、旅に出ているしょとも一緒に「ごっつお」を食べられる年にしたい。  
   (2021年1月3日)

 
 

第638回 カレーの匂い

 上越市には、意外と知られていない素敵な風景があります。それはカレーの匂いの風景です。歩いているときは勿論、窓を開けていれば、家の中にも入ってきます。

 火曜日の午後3時過ぎのことでした。市役所での仕事が一段落し、家に戻ろうとしたときです。東口玄関から駐車場へつながる階段で、カレー粉だとはっきりわかる匂いがただよってきました。

 匂いは見えるはずがないのに、私はすぐに空を見上げました。駐車場のそばの木の上の方から匂いが舞い降りてくるように思えたのです。

 匂いの出どころは、上越市寺にあるエスビーガーリック食品㈱高田工場です。詳しいことはわかりませんが、たぶん、同社の赤缶カレー粉を製造している日に風に乗って、風下の方に匂いがただようのだと思います。

 ここのカレー粉の匂いのことを初めて知ったのは、15年前、上越市役所に通い始めてまもなくでした。大日付近を車で走っていたときに突然、車の中に入り込んできたのです。びっくりしました。匂いはすぐにわかりました。子どもの頃から知っている大好きな匂いだったからです。

 申し訳ないことですが、私はその時までエスビーガーリックの工場が上越市にあることを知りませんでした。カレー粉の匂いがただようことを知った私は、その後も年に2回や3回はカレー粉の匂いがただようなかを歩いたり、車で移動したりしています。風の状態によりけりなのでしょうが、遠いところでは直江津の石橋付近で匂いを感じたこともありました。

 私がカレー粉の匂いと出合ったのは、わが家が吉川区の尾神にあったころ、それも1950年代です。もちろん、私は子どもで、小学校に通い始めた頃だと思います。

 母が流し(台所)でカレーを作るときには、必ずと言ってよいほどカレー粉の匂いが居間の中までただよってきました。

 当時、いまのような固形のカレールーはなく、赤い缶の中に入ったエスビーガーリックのカレー粉はカレーづくりに欠かせないものでした。母はフライパンで小麦粉を炒め、カレー粉をねり合わせてカレールーを作っていました。この段階でもう匂いはふわふわと私たち兄弟のいるところに届いていました。カレールーができると、それにサバの缶詰、鍋で煮たニンジンなどを入れて出来上がりでした。

 わが家でカレーの中に肉が入ったのは、当時、年に1、2回です。年の暮れに祖父、音治郎がニワトリを1羽しめて肉にしたときと、わなをかけて捕ったウサギの肉を手に入れたときくらいでした。

 母が作ったライスカレーは、私も弟たちも大好きでした。ただ、カレーが入った鍋はそう大きくはありませんでした。カレーがすっかりなくなると、私たちは皿についたカレーを舌できれいになめていました。

 最近、調べてわかったことですが、わが家にもあったエスビーガーリックの赤缶カレー粉の製造開始は1950年です。いまから、70年前です。そして、「とろけるカレー」のような固形ルーが発売されるようになったのは1960年代です。だから、赤缶カレー粉の全盛時代は10年から15年間くらいだったと思います。

 ライスカレーは母の得意料理の1つでした。イトコたちがお盆泊まりにやってくると、母は必ず一度はライスカレーを作ってふるまっていました。

 市役所駐車場でカレー粉の匂いがただよってきたときに思い出したのは母のことです。数日前に会ったばかりなのに、なぜかまた会いたくなりました。この日は介護施設で窓越しの面会でしたが、母は笑みを浮かべ、盛んに手を振ってくれました。

  (2020年12月27日)

 

 

第637回 一枚の写真から

 季節は冬。コタツの中に潜り込んだ小さな男の子と女の子が身を乗り出してテレビを見ている。テレビは背もたれのある椅子の上に置いてあって、縦30㌢、横40㌢、奥行きが30㌢ほどの箱型だ。二人が見ているテレビには、回すとガチャガチャと音がするチャンネルとボリューム用だろうか、チャンネルとほぼ同じ大きさのダイヤルが並んでついている。

 先日、大潟区に住む弟から、「これ持っていってくんない」と渡されたのがこの写真でした。写真は、いまから30数年前のわが家の茶の間の風景で、コタツに入ってテレビを見ているのはわが家の子どもたちです。当時、わが家は吉川区の山間部、尾神にありました。

 写真の状況から判断して、撮ったのはおそらく私だと思います。でも、不思議なことに、私の記憶には残っていません。

 写真に写っているのは、当時、どこの家でもあった懐かしい光景です。これなら同時代を生きた人たちから喜んでもらえるかも知れない、そう思ってインターネットで発信しました。すると、うれしいことにいくつものコメントが寄せられました。

 柿崎区のMさんは、「この写真細かいところまで暖かいです。まず、体は、暖かいこたつで暖をとっているけど、身をのり出してテレビに釘付け。子供の手首のふくやかさ。座布団の柄。テレビの下のおもちゃ2つ。3才位ですかね」と書いてくださいました。細かいところまでよく見てくださるものだと感心しました。

 このコメントを読んでから、写真を拡大して見たところ、長男の右手がふっくらしているところや、テレビに集中した子どもたちの視線もよく見えてきました。

 この時代、テレビの人気は絶大でした。福井県のIさんは、「懐かしい!じっと見つめるお二人、テレビが楽しみな時代でした」と書き、三重県のHさんもまた、「寒い中、二人でコタツに潜り込みテレビを見る。仲良くいいですね、テレビもなつかしい」と書いてくださいました。

 写真には、茶の間と座敷を仕切る板戸も写っていました。子どもたちやテレビのほかに、この戸にも多くの人から注目していただきました。

 高田に住む大先輩のHさんは、「私は漆塗りの板戸に目が行きました。昔の家はみんなこんな感じでしたね」とひと言寄せてくださいました。

 私よりも20歳ほど若いSさんもそうです。テレビのチャンネルとともに板戸にも目が行ったようです。
「チャンネルのダイヤル式テレビ懐かしいですね。小学校から帰ると宇宙戦艦ヤマト見て、そのあと祖父母と一緒に大相撲見ていたことを思い出します。襖の板戸もいいですね。昔の我が家もそうでした。いい写真ですね。昔を思い出します」

 写真に写っている板戸、わが家ではいまも現役です。当時と同じく居間と座敷を仕切る役目をしっかり果たしています。30数年経っていますから、塗りがはげたり、一部が割れたりしていますが、落ち着きがあって、ホッとする雰囲気をかもし出しているところは昔も今も同じです。

 板が割れたのは、兄弟げんかをしたときか、それとも相撲を取った時か。祖父、音治郎は私たち兄弟の相撲の相手にもなってくれました。いろんな思い出がこの戸の割れ目に詰まっています。

 この原稿を書きはじめたら初雪が降ってきました。コタツもストーブも本領発揮のときです。でも、今年の冬は新型コロナの影響で愛知県に住む次男夫婦も孫も帰省しません。来れば、30数年前と同じように、コタツにもぐり、テレビを見る孫の姿を撮ることができるのですが……。   

  (2020年12月20日)

 
 

第636回 小春日和

 12月の最初の日曜日は朝から青空が広がりました。ブログを書き終えてから、近くの農道へ行きました。素敵な景色が見られる、そんな予感がしたのです。

 私が歩く農道は区内の小苗代から下中条につながる道で、幅は約3㍍、東南から北西方向に伸びています。そこでは、米山さんの姿がよく見えるのが魅力の1つ。そして、舗装してありませんので、春から冬間近まで様々な野の花と出合うこともできる。それも魅力です。そんなわけで私にとっては最高の散歩道となっています。

 この日、散歩を始めたのは午前9時少し前でした。歩き始めてすぐに、背中がポッポとしてきて、とても気持ち良くなりました。朝日が背中に当たり、暖めてくれるのです。12月だというのに、陽に当たっただけでこんなに暖まるとは……。お日様の力はすごいですね。

 空を見上げると、鳥がはばたいているような形をした薄い雲が何重にもなって広がっていました。

 背中を暖めてもらいながらゆっくり歩いて2分ほど経つと、米山さんの山の形がよく見えるところに着きます。山頂付近には先日降った雪が残っています。この日は山頂上空に白い雲が少し流れていて、その他は青空、まさに絶景となっていました。

 農道は一部に緩やかなカーブがあるほかはほぼ直線といった感じなのですが、途中から東側と北側へ行く道に分離します。その分離したところを東側に進むと、日当たりの良い場所があります。ひょっとすれば春の花、オオイヌノフグリが咲いているかも知れないと思いながら、歩くスピードをさらに落とし、花を探し続けました。

 探し続けて数分後のことです。もう見つからないだろうと諦めかけていたところで、目の前を何かがスッと移動しました。びっくりしましたね、それはバッタだったのです。体長は3㌢ほどで、触角はぴんと伸ばしたまま、右と左の前脚を交互にぐるぐる回しながら動いていました。

 それからは、野の花だけでなく、昆虫も意識して探しました。思っていた通り、いましたよ。バッタは1匹でしたが、そのほかにも小さなクモが植物の葉の陰に隠れたり、よそに移ったりしていました。さらに、チョウの姿も確認できましたし、赤とんぼ2匹が空中でぶつかり合っている場面にも出合いました。

 チョウはその色と模様から見てキタテハだと思います。越冬中の多くの昆虫たちが姿を見せたのは、暖かい日差しで春になったと勘違いしたのかも知れません。

 さて、野の花です。先日、別の農道で出合ったオオイヌノフグリの青い花、この散歩道では残念ながら見つけることができませんでした。そのかわり、12月になっても頑張って咲いている夏場の花をいくつも見つけました。

 最初に見つけたのはハルジオンです。花弁は千切れてはいるものの、鮮やかなピンク色でした。その花のそばにはいくつもつぼみがありました。ということは、まだ咲くということです。すごいですね。こうなったら、残りの花が咲くまで雪には遠慮してもらいたいものです。

 続いて、赤いイヌタデ、紫色のトキワハゼ、白い花を咲かせたハキダメギクを道端で見つけることが出来ました。それだけじゃありません、アキノキリンソウも1本残っていましたし、紫色のスミレも数か所で咲いていました。12月初旬にもなって、これほどの野の花を見つけたのは初めてです。

 小春日和。暖かな陽射しのなかで植物が花を咲かせたり、昆虫が眠りから目を覚ましたり……。人間だってうきうきするのは当たり前です。

  (2020年12月13日)

 
 

第635回 通院の日に

 11月は母を病院へ連れて行った日が3回ありました。母は介護施設に入所していますので、通院の日の母と一緒の時間は、同じ空間で過ごす至福の時間です。

 母の通院に要する時間は、介護施設と病院の往復を含め、短くて2時間半、長ければ3時間半かかります。

  介護施設で母を車に乗せ、病院へ行って診察してもらう。終わってから、また施設に戻る。この間に介護施設の人たち、病院のスタッフの人たちなどと接することになりますが、この3時間前後の時間帯でも様々なエピソードが生まれます。

 先日の午後、母を迎えに行った介護施設でのこと。玄関先まで母を乗せた車イスを押して来たスタッフの女性が私に声をかけてくださいました。

「おかあさん、いつも、『ありがとね』と言って手を合わせてくださるんですよ」 
 母がわが家でヘルパーさんたちにお世話になっていたときも何度か母の「ありがとね」を聞いていましたが、施設のスタッフの方からそう言ってもらうと、こちらもうれしくなります。

 声をかけてくださったこの女性は大島区の出身だということでした。以前、ゆきぐに森林組合の仕事をされていて、母の実家についてもよくご存じでした。

「英一さんにもお世話になりました」

 そう言われた時、母はニコニコしていました。ひょっとすると、このスタッフとの会話が母にも聞こえたのかも知れません。

 母が病院へ行くのは、いくつかの病気の診察、検査があるからです。薬を出してもらうためにも病院へ行かねばなりません。

 この日は予約した時間の10分前に病院に到着。受付を済ませ、診察室の前の待合所にいると、看護師さんがやってきて、母の右手指先の1つを小さな医療器具ではさみ、酸素濃度や脈拍数などを調べました。

「はい、調べますよ。痛くないですか」
「痛い!」
 「いつからですか」
「へさだな」

 母の受け答えは、ぶっきらぼうに思えるかも知れませんが、実際は声は小さく、方言丸出しです。「へさだな」は「ずいぶん前からです」という意味です。

 看護師さんは血圧の測定もしました。その途中でのこと、母は看護師さんにまた訊(き)かれました。
「どこか悪いところないですか」
「ないです」

 これには笑ってしまいました。確かに頭が痛いわけでも、熱があるわけでもありませんが、いやに自信を持って「ないです」と答えていたからです。

 診察室では、担当のお医者さんから体調だけでなく、食事の状況なども訊かれました。診察結果はまずまずでした。

 そして、診察が終わって会計の場所へ移動する時のことです。母の前方から歩いてきた若い看護師さんが急にしゃがんで、 「まあ、かわいい」  と言ったのです。

 一瞬、何が起きたのかわかりませんでしたが、母はその看護師さんの顔を見た瞬間に笑顔になったのでした。  ここ数年、母は若い女性を見るとうれしくなって、「あんた、きれいでいなったですね」などという言葉が自然と出ます。この日は言葉こそ出なかったものの、同じ思いだったのでしょう。その母の表情を見て、看護師さんが思わず「かわいい」と言ったんですね。

 最近、病院への行き帰りの際、母はほとんど何も言いません。でも、この日は違いました。親戚の家のことなどたっぷり語りました。そして話の最後は、また、「とちゃ、寿司食ってこさ」でした。  

  (2020年12月6日)

 
 

第634回 六十数年ぶりの訪問

 元教員の古澤さんが60数年前に泊めてもらった家にお礼の言葉を述べに行くという当日のことです。

 朝9時過ぎに電話をすると古澤さんは、「数日前からわくわくしてたんですよ」と言われました。60数年前にお世話になりながらお礼をしないでいた家に行く、それが古澤さんにとってどんなに重要なことだったのか、そのひと言でわかりました。

 古澤さんが泊めてもらったという家については、バス停から坂道を歩いたということをヒントに、その家の98歳のMさんに確かめてありました。それでも、間違いがないかちょっぴり不安もありました。

 午後1時20分。頸北観光バスの山直海線、村屋のバス停で古澤さんと合流した私は、一緒にMさん宅の木戸先の坂道を歩きはじめました。坂の途中で古澤さんは、「間違いありません、このお宅です。屋根の大きな、りっぱなお家でした」と言われました。古澤さんは玄関の近くに行っても、すぐには入られませんでした。家の周りの景色を見て、確かめ、思い出されたことがあったのでしょう。

 玄関に入ってから、古澤さんはすぐNさんやお連れ合いのTさん、そしてMさんに「60数年前にお世話になった古澤です」と挨拶をされました。少し緊張した雰囲気が漂っていて、私自身も無意識のうちに気持ちが引き締まりました。

 私たちが案内された応接間は仏間の隣にあります。近世に描かれた墨絵や書が置かれていて、しだれ桜をイメージして作成された奥田広美さんの「押し花」作品も飾ってありました。

 応接間に入った古澤さんは持参された品をMさんに出されました。まず縦30㌢、横25㌢ほどの大きさの箱をひとつ。中身は内緒です。そして、びっくりしましたね、古澤さんはこの日のために、手づくりのソックスカバー、さらに筆で書かれた手紙まで用意されていたのです。

 プレゼントを出した後、古澤さんは、前庭に近い廊下を見て、「この廊下、覚えています」と言われました。60数年前のことでも、同じ空間に立てば、人間の記憶は1つひとつ呼び戻されるのでしょうね。

 さて、この日を待っていたのは古澤さんだけではありませんでした。Mさん一家もまた、楽しみにしておられたのです。特にMさんは、栗の渋皮煮を用意していてくださいました。私も2個いただきましたが、甘くて、高級感のある食べ物でした。

 お茶をいただく時、テーブルの上に縦長の小さな写真が出されました。Nさんたちが半日かけて探し出してくださったというMさんのお連れ合い、シュウイチさん(故人)の写真です。古澤さんは、「この方です、声をかけてくださったのは。間違いありません」と言われました。

 写真の中でシュウイチさんが着ていたのは礼服です。「写真は祝言のときみたいですね」と言うと、Mさんはニコニコしながら「皿踊りが得意だったんです」と言われました。写真をじっと見ていたら、シュウイチさんが皿を持ち、カシャ、カシャと踊る様子が目に浮かびました。

 60数年前に古澤さんが泊めていただいたという日。Mさんは浦川原区小谷島の実家へ行って留守だったということでした。ですから、シュウイチさんの母親のRさんが夜と朝の食事の用意をされたようです。Mさんは古澤さんが泊まったことを後日、シュウイチさんから聞いたということもわかりました。

 60数年ぶりの訪問。話は弾みました。古澤さんに「わが家に泊まって」と勧めたシュウイチさんは当時30代後半で、川谷と源の中学校で英語と数学を教えていたとか。話はなかなか尽きませんでした。  

   (2020年11月29日)

 
 

第633回 十三年ぶりの電話

 もう2度と言葉を交わすことができないだろうと諦めていたKさんと数日前、連絡が取れ、13年ぶりに話をすることが出来ました。

 きっかけは、今回も高田のMさんでした。Mさんは太極拳をやっていて、最近、新潟市で検定をうけてきたとのことですが、その際、知りあった女性が何とKさんだったのです。

 Kさんは私の大学時代からの友人だった日本画家・風岡準仙さんのパートナーでした。Mさんと話をするなかで、「上越の市議会議員で知っている人がいる」と言って私の名前を出し、風岡さんが死の直前まで私と交流があったことなどを熱く語ってくださったということです。

 風岡さんは13年前の4月に亡くなっています。私は彼の葬儀、初七日法要に出させてもらいました。そこらへんの一連の動きや私の想いなどは私のブログ(日記)、「ホーセの見てある記」に書いたのですが、その後、Kさんの携帯に電話をしたものの、つながりませんでした。

 私は、「Kさんは私とは話したくないのかも知れない」と思い、その後、電話をかけなかったのです。当時書いたブログも2度と読むことはありませんでした。

 新潟市へ行ったMさんから話を聞いて、私はうれしくなりました。私の勘違いだったことがわかったからです。すぐにKさんに電話しました。でも、そのときもつながりませんでした。

 その六日後、土曜日のことです、私の携帯電話が鳴りました。画面表示を見たところ、Kさんからです。うれしいと言ったらよいのか、ホッとしたと言ったらいいのか、心がじわーっと熱くなりました。

 Kさんによると、普段、携帯電話は使っていないとのことでした。たまたま携帯電話の着信履歴を見たところ、私の名前を確認し、電話をかけてきてくれたのでした。

 13年ぶりにつながった電話で、私は、「あれから電話をかけたんですが、つながりませんでした。風岡のことはブログにも書いたし、ホームページで彼の作品と名前を残したかったし……」と言いました。そして、13年前の4月、風岡さんについて書いたブログの日付も伝えました。

 13年前のことでいまでも鮮明に記憶していることがあります。それは、風岡さんがモルヒネを打たれる前に、私と話をしたいと電話をかけてきた時のことです。私は朝食も食べずに着の身着のまま軽乗用車に乗って高速道路を飛ばし、新潟のがんセンターへ行きました。

 ブログでは、「病室では、風岡さんとお連れ合いが待っていてくれました。昨夜は痛くて眠れなかったのでしょう、いくぶん疲れた目でしたが、私を見てくれています。『来たぞ。間に合ってよかった』と言いながら、彼の手をギュッと握りしめ、再会を喜び合いました。お連れ合いの話では、私が来るというので、モルヒネは待ってもらったということでした」(2007年4月18日)などと書いています。

 Kさんは、その後、13年前の私のブログを読み、「当時のことを思い出して、涙が出ました。高速でやってきてくださって、1日、彼のそばにいてくださった」と語ってくださいました。そして、私のホームページに掲載した「風岡準仙作品集」については、「がんセンターの主治医の竹之内先生が風岡の死後、風岡の名前を検索したら、私のホームページの1件だけがヒットしたとのことでした」とも。

 人間関係というのはちょっとした勘違いで壊れたり、おかしくなったりすることがあります。でも、今回、人のつながりのなかで修復されることがあることも体験しました。改めて高田のMさんに感謝します。 

   (2020年11月22日)

 

 

第632回 赤い半纏

 やはり、居間の電動イスには座る人がいた方がいいです。今月7日、電動イス利用者の母が久しぶりに家に戻ってきました。

 今回は1泊2日です。この日の夕方5時半過ぎに家に帰ると、母はすでに介護施設から家に来ていました。

 居間の電動イスに座った母は赤い半纏(はんてん)を着ていました。この半纏は、母が家に帰ってきたら着てもらおうと家の者が購入し、電動イスの上に置いてあったものです。母がこれまで着ていた青い半纏に比べれば少し大きめですが、色のせいでしょうか、いつもよりも母の顔が明るくなって見えました。

 7日の段階で、わが家ではコタツを出していたものの、まだストーブは使っていませんでした。それが気になり、母にたずねました。
「寒くねかね」
「寒くねぇよ、コタツ入ってるもん」
 母の言葉を聞いて安心しました。

 しばらくすると、わが家のネコが居間に入ってきました。母にとって、ネコは孫のような存在です。一方、ネコも母が気になっていたようです。母が留守のときも、ときどき母の部屋に入っていましたから。

 電動イスのすぐそばをゆっくりと歩くネコに気づいた母は、「イーコ、イコ、イコ」と言いながらネコの背中をなでていました。

 母と比べると、わが家のネコと私の一緒の時間は少なく、長くても1日30分くらい。それだけに私に警戒心を持っています。ネコは私の姿を見たとき、目を大きく開けていました。それに気づいた母は、
「とちゃ、おっかねがか」
 とネコに向かって言いました。

 夕飯後、母は、電動イスに座ってテレビをずっと観ていました。豆腐屋さんの映像が出てきたところで、母は急に、愛知県に住む弟のことを思い浮かべたらしく、
「ツトム、愛知には麩(ふ)、ないすけ、米山大橋のとこで、麩、買っていったな」
 と言いました。

 この母の言葉を聞いて、「そうだ、弟たちに赤い半纏を着た母の姿を見てもらおう」、そう思いました。そして、2人の弟たちにテレビ電話しました。

 まず、愛知の弟です。スマホを母の前に置き、母と弟、そして私の3人で話をしました。
「かあちゃん、きょうは家かね、おまん、いい顔してんねー、色つやいいわ」
「なしたー」
「色つやいいだと」
「ほっか、変わらんでもな」

 赤い半纏を着た母の姿は愛知の弟にも華やいだ感じに見えたようです。どうあれ、母も弟もスマホの画面で笑顔いっぱいになりました。

 大潟在住の弟は風呂から上がったばかりでした。 「ばちゃ、おまんの夢みたよ。ナナトリで草刈りしてたすけ、〝一緒に帰ろさ〟そって帰ったが……」  と言って、母を喜ばせてくれました。

 耳がずいぶん遠くなり、時どき、私が会話の中継ぎをしなければなりませんでしたが、2人と話して母は満足したようです。テレビ電話を切ると、私に言いました。
「いいもんだない、あいら来ねがに会われんがすけ」

 この夜、私は赤い半纏を着た母の写真をインターネットで発信しました。すると、「赤い半纏、お似合いです」「新しい物を買ってもらうとうれしいですよね」「嬉しくなります。上手く言えませんが、ただ、嬉しいんです」などといったコメントが寄せられました。母には、この赤い半纏を家で何度も着てもらいたいものです。

  (2020年11月15日)

 

 
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