春よ来い(26)
 

第631回 最も小さな月

 先週の木曜日、月齢が12日頃の月の写真を撮って「満月の翌日に……」と発信したところ、市内でお店をやっているTさんから、「2020年一番小さく見える満月みたいなんで、味わい深く眺めます」というコメントを寄せていただきました。

 Tさんのコメントを読んだ私は、「一番小さく見える満月」という言葉が気になり、すぐ調べました。その結果、この満月というのは地球から最も遠い距離にあり、その日が10月31日であるということがわかりました。そして、その満月の時間は23時49分であることも。

 これをもとに私は、「地球と月の距離は変化するんですね。31日23時49分、楽しみです」と返信しました。

 正直言って、私は月の出などで月が大きく見えることがあることは知っていましたが、満月時に見える月の大きさが変化するとは思ってもみませんでした。みんな同じ大きさだと思い込んでいたのです。

 インターネットで調べたとき、今年の「一番小さく見える満月」は今年の「一番大きく見える月」よりも14%も小さいこと、その日はカボチャで賑やかな祭りをやる、あのハロウィンとも46年ぶりに重なることも知りました。

 注目したのは満月時の地球との距離です。満月の瞬間の距離は約40万6千`bだとのことです。上越市と東京間は直線で約207`bですから、上越市と東京間を980回往復するくらいの長さになります。近いようで遠いものですね。

 いったん、こういうことを知ると、じっとしていられないのが私の性分です。次の日にはTさんのお店に行き、満月への想いなどを聞きました。

 一番印象に残ったことは、Tさんのお母さんについての話です。まだ70代半ばくらいだと思うのですが、Tさんはお母さんに断捨離をするよう求めていること、実際に、Tさんの子どもさんまで動員して、不要なものを整理しているということでした。月のことから話し始めたのですが、自然と人生の長さと生き方を考えることにつながっていきました。

 さて「一番小さく見える満月」の当日です。午前は連れ合いと共に大島区の飯田邸へ行き、美味しい新そばを食べてきました。外で待っている時、カヤぶき屋根の上空が抜けるような青空となっていました。「これなら今夜は満月を楽しめる」、そう思いました。

 午後は介護施設に入所中の母と面会し、その後、高田のミュゼ雪小町で開催されていた「アール・ブリュット展」を観て楽しませてもらいました。

 その帰り道です、その日の月を最初に見たのは。夕方の17時過ぎでした。横曽根から東中島へと車を走らせている時、右奥の安塚あたりの山からまん丸の月が見えました。それも普段見る月よりもひと回り大きく、しかもうっとりするほど美しい黄色の月でした。

 そして、待ちに待った「一番小さく見える満月」、23時49分の月です。私は冷えた外に出て、軽乗用車の屋根の端にカメラを置き、月を撮りました。月の色は真っ白でした。17時頃に黄色の大きな月を見ていたので、さほど美しいとは感じませんでしたが、「これが最小満月か」と思うと感慨深いものがありました。

 細い弓のような月が徐々に大きくなって三日月、半月になり、やがては満月になる。こうした月の変化はずっと見てきました。もちろんその逆も。でも、月と地球の距離によって見える月の大きさが変化することを意識したのは今回が初めてです。「一番小さく見える満月」を見て、ちょっぴり幸せ気分になりました。

  (2020年11月8日)

 
 

第630回 歌声列車

 右や左に田んぼや畑を見ながら電車はゆっくり進む。外は青空が広がっていて、電車の中は歌声がいっぱい。楽しい、大きな歌声は電車の外にも広がっていく。

 数年前、上越でも歌声列車が走るということを聞いて、私が抱いたイメージです。今年10月27日、直江津ー妙高高原間を走った6回目の歌声列車はまさに私が思い描いた通りでした。

 この日は前日までの不安定な天気が去り、青空が広がりました。文字通り最高の天気です。直江津駅から乗車することになっていた私は、どんなドラマが展開するのかを考えただけでもワクワクしました。

 駅の4番ホームで待っていた歌声列車はディーゼル車1両。車両の脇には、なんと「わくわく歌声列車」と書いてあるじゃありませんか。一段と期待が膨らみました。

 発車は午前9時50分。直江津駅から乗った一般参加者は3人でした。あとは歌声リーダーのヒロコさんとフルートとオルガンで伴奏して下さる女性など数人が乗り込みました。出発は少人数でも8人ほどの駅員さんたちが見送りしてくださいましたよ。男性の駅員さんは、「いい天気になりましたね。歌声で新型コロナ、吹っ飛ばして下さい」と声をかけてくださいました。

 春日山駅では20人ほどが合流しました。飲み物やお菓子などを持参している人が多く、これから修学旅行に出かけるような雰囲気がありましたね。参加者の多くは70代、80代です。

 全員そろって、さあ、歌声列車のはじまり、はじまり……。「はい、最初は歌集にない歌です。『もみじ』いきますよ」とヒロコさんが声をかけると、全員が歌い始めました。「秋の夕日に照る山紅葉……」。1曲目とあって発声は遠慮がち。でも2曲目以降は元気あふれる歌声になりました。

 歌声列車の次の停車駅は上越妙高駅です。南高田駅を過ぎる頃、ヒロコさんが言いました。「次の駅で記者さんが取材に入ります。いまのうちにシワを伸ばし、ファンデーション塗っておいてください」。車内は笑い声でいっぱいになりました。

 上越妙高駅に着くと、ホームには、直江津行き電車を待っている人たちが20人ほどいて、私たちが乗った車両に一斉に目を向けました。歌が聞こえたのでしょうね、こちらの気分が伝わって、見ている人たちもみんな楽しそうな顔をしています。音楽の力ってすごいですね。

 上越妙高駅を出ると新井の市街地をのぞき田園地帯です。この日は秋晴れ、田んぼも山も空もどこを見ても絶景でした。

 ヒロコさんの「初めての人もしょうしがらずにリクエストしてね」というアナウンスに応えて誰かが『上を向いて歩こう』を注文しました。それからは、『明日があるさ』『長崎の鐘』などの歌を体を揺さぶりながら次々と歌い続けました。スイッチバックの二本木駅で休憩。その後、「汽車の窓からハンカチ振れば……高原列車はランランランランラン行くよ」と『高原列車は行く』を歌いながら妙高高原駅に着きました。

 昼食は妙高温泉の香風館です。キノコをたくさん使った料理を堪能し、お風呂にも入りました。休みの時間帯では、春に咲き、3日間で散るというハクモクレンの花に特別の思いを持っている人の話や京都で政治家の秘書をしていた女性による政治と地元気質の解説に引き込まれました。

 午後も10数曲歌い、歌声列車が直江津駅に着いたのは午後3時40分でした。朝からずっと一緒だった白髪の女性は、「楽しかったぁ。きょうは思いっきり歌った。またね」と言いました。歌声列車に乗るとなぜかみんな仲良し、別れるときは力強く手を振りました。歌の力ってすごいですね。

    (2020年11月1日)

 

第629回 願いかなって

 一度は会ってみたい、そう思っていた女性との対面が10月10日、柿崎区のKさんの協力で実現しました。

 女性は50数年前、旧吉川町の吉川小学校などで教員をされておられた古澤さんです。当日、私は浦川原区での用を済ませ、大急ぎで昼食をとった後、待ち合わせ場所のKさん宅をめざしました。

 約束の時間よりも10分ほど早く着いたのですが、古澤さんはすでに到着されていて、応接間で私を迎えてくださいました。いうまでもなく初対面です。挨拶を交わした後、古澤さんが持参されたソフィーのパン、私が持って行った「尾神サブレー」をそれぞれプレゼントしあいました。

 応接間ではKさん夫妻と古澤さん、私の4人がそれぞれイスに腰掛け、テーブルを囲んで懇談しました。

 私から、「先生は浦川原のご出身とお聞きしていたのですが」と切り出しました。すると古澤さんは、「いいえ、浦川原はマサルの母の実家があった所です。マサルは東京出身で昭和4年生まれです。昭和20年の東京大空襲では一家四人が必死になって走って逃げたそうです。亡くなった人を飛び越えるようなこともあったと聞いています。でも4人とも無事でした。ただ、家は全焼し、門の古澤≠ニいう表札だけが残っていたんです、不思議なことに……」と一気に話してくださいました。私からは、母の姉が東京大空襲で行方不明になったままであることなどを話しました。

 8年ほど前に亡くなったお連れ合いが東京大空襲に遭われたことは初めて知りました。もう1つ、お連れ合いのお母さんは、浦川原区菱田出身の歌人、山田あきの妹さんだった、これも初耳でした。

 今回、古澤先生は全7冊のヨーロッパ紀行文集と「文芸たかだ」の最新号を持参されていました。前にも手書きの文章を読ませてもらって、「すごく、きれいで、読みやすいな」と思ったのですが、そのことを言うと、Kさんのお連れ合いのY子さんが古澤さんに向かって「ずいぶん上手になったわね」と言われました。そしてたいへんな努力家だとも。

 Y子さんと古澤さんは若かりし頃からの友人で、同期でした。古澤さんはほめられると、「最近は字を書いても真っすぐにならなくて、右に曲がってしまう。よろよろ書いているんです」と恥ずかしそうに言われました。

 紀行文集をぱらぱらとめくると、古澤さんの描かれた橋などのイラストが何枚かありました。これがまた素敵でした。さらにびっくりしたのは、タブレット型コンピューターを使っておられたことです。Y子さんが古澤さんを「努力家だ」と言われた意味がよくわかりました。

 この日、私は、古澤さんにお会いしたら、ぜひ聞きたいと思っていたことがありました。それは60年ほど前、先生の初任校であった旧川谷小学校へ行く時のことです。たぶん冬のことでしょうね、夕方遅くなったからと、吉川区村屋のバス停の近くの家に泊めてもらったが、お礼はまだだという、その家を特定したかったのです。

「うちに泊まっていきませんかと声をかけた人は、背の低い、メガネをかけた男性だったんではないですか」「坂道を斜めに上がってそこの家に行ったのでは」と聞くと、古澤さんは「そうです」と答えられました。やはり、私が思っていた通りでした。春になればしだれ桜が咲く家です。

 この日は1時間だけでしたが、楽しいひと時を過ごさせてもらいました。古澤さんとは今度、旧川谷小学校勤務時代の思い出の地へ一緒に行く約束をしました。もちろん、まだお礼をしてないという「メガネをかけた男性」の家にも。
   (2020年10月25日)

 
 

第628回 天然の味

 柿など秋の果物がおいしい季節になってきました。

 先日、用があって中郷区まで行ってきました。その際、久しぶりにKさんのところにも寄らせてもらいました。

 Kさんは、最初、マスクをしていた私が誰だかわからなかったようです。でも、私が左手に持っていたビラを見て思い出されたようです。「あら、橋爪さん、お茶あがっていってください」と誘われました。

 正直言うと、この日、私はKさんに確かめたいことがあったのです。それは、センナリホオズキを食べたことがあるかどうかでした。

 この日、私のワイシャツのポケットには2週間ほど前に吉川区の山間部で分けていただいたセンナリホオズキが3、4個入っていました。玄関先で、そのうちの1個を取り出し、「これ、食べたことあんなる?」と尋ねたところ、Kさんは、少し考えてから、「あります、あります」と答えました。それこそ、何十年ぶりで見て、食べられたのでしょう。直径1aほどの黄金色の実を口に入れると、「あまーい」。四角いKさんの顔はまんまるになりました。

 居間に上げてもらってから、Kさんのお連れ合いのSさんにも食べてもらいました。Sさんも食べてすぐに、「うん、あまい」と言われました。

 この日の3人の会話はセンナリホオズキとイチジクの話を中心に食物についての話で盛り上がりました。

 Sさんによると、センナリホオズキについては、先日、テレビでも放映していたということです。でも、大きさは私が持参したものよりもずっと大きかったそうです。

 私が吉川区や大島区などで見かけるセンナリホオズキの実は直径1aから1.5aほどの大きさで、普通のホオズキに比べて小さく、それこそ1本の茎に鈴なりになります。テレビで放映されたものは多分、改良されたものだと思います。

 Kさんは、お茶とともにSさんが育てたというイチジクを4個出してくださいました。今年、イチジクを食べるのは妻の実家で食べて以来2度目です。1番大きなものは遠慮して、2番目に大きくて、おいしそうなイチジクを1個いただきました。もいだばかりのイチジクだったのでしょうか、とてもジューシーで口の中に甘味が広がりました。

 Sさんは果樹を育てるのが大好きです。イチジクもそうした木の1つでした。今年はイチジクの木がカミキリムシにやられて苦労したそうです。それでも昔ながらの味の実を収穫でき、この日は何軒かの家におすそ分けしたとのことでした。

 びっくりしたのはKさんの農業への情熱です。Kさんは藤沢から片貝に嫁いだ人で、いま80代の半ば。田んぼは2年前にやめましたが、テレビでごらんになったのでしょうか、「稲刈りボランティアの人には稲まるけなどもっとしっかり教えた方がいいね」などと気にされていました。馬に鋤(すき)をひかせて畑起こしを行い、それが牛に変わった当時のことや近くの山でゼンマイなどの山菜採りをしたことについても熱く語っていただきました。

 Sさん、Kさんとの話で気持ちが1つになったのは、地元でとれる果樹や山菜などの自然の食べ物、天然の味の大切さです。Sさんは、「山菜はいいね」「吉川区ではワラビが(採られないで)たくさんあって驚いた」などと言われました。私からも、「センナリホオズキの甘酸っぱさは一級品だ」「ウドは山にあってこそいい味が出る」などといった話をしました。

 新型コロナで人間らしい生活のあり方が問われているいま、もっと身近な食べ物に目を向けてもいいのではないでしょうか。          

  (2020年10月18日)

 
 

第627回 波紋

 ひとつのことが人と人をつなぎ、池に石を投げ入れたときのように波紋を広げていく。ここ数ヶ月、そんな経験をしました。

 10月最初の日曜日は、地元町内会の今年最後の草刈りでした。午前10時45分頃に作業が終わり、その後は、恒例の慰労会です。それぞれにワンカップ1個、ビール500t一缶が配られ、参加者は農道の側溝などに腰掛け、「柿の種」などの乾物をつまみに楽しいひと時を過ごしました。

 私の隣に座ったのはHさん、そしてその隣はSさんです。この日はこの2人と話をして、時間の経つのを忘れました。たぶん、1時間近くおしゃべりをしたのではないかと思います。

「橋爪さんに言おうと思っていたんだけれど……」と口火を切ったのはSさんです。Sさんは、いまから56年前、1964年(昭和39)4月のある日の思い出話を語ってくださいました。

 当時、Sさんは大学生、新潟市で下宿生活をされていました。実家の近くの小学六年生の子どもが、修学旅行で新潟へ行くから、会いたいとハガキをくれたというのです。そこには泊まる予定となっていた東中通りの飯田旅館の名前や会える時間帯も書いてあったようです。

 指定された当日、Sさんは飯田旅館を訪ねました。その時、2人の小学6年生と懐かしい再会を果たされたのですが、Sさんは私に向かってこう言われたのです。
「そん時、応対して下さった担任が古澤かをる先生だったんですよ」
 驚きましたね。私はすぐに、
「あの古澤先生ですか」
 と聞き返しました。
 私の思っていた通りでした。今年の5月に、「春よ来い」の第607回、「60年前のお礼」で私が紹介した旧川谷小学校、旧吉川小学校の古澤先生だったのです。

 私がびっくりしたのには理由があります。じつは、この日の6日後に柿崎区下条のKさん宅で古澤先生に初めてお会いすることになっていたのです。まさに最高のタイミングで寄せられた情報に私の心はふるえました。

「10日に古澤先生とお会いすることになっているんですよ。いい話ですね」 私はそう言ってSさんに感謝しました。
 Sさんは最近、ご自身に宛てられた数十年分のハガキ等を読み返しておられるとのことですが、こうしたものを保存し、1枚のハガキをめぐるエピソードをしっかり記憶されていることにも驚きました。

 SさんやHさんとは、56年前の新潟での出来事から始まって話が弾みました。50数年前、旧川谷小学校への通学時に発生した雪崩事故のこと、初めて社交ダンスパーティに参加し、女性の腰に手が触れた瞬間に体が反応した切ない体験、吉川区高沢入や大賀などからは海が見え、海に憧れた人がいたことなどを語り合いました。

 「六〇年前のお礼」を書いて以来、吉川区内外の何人もの方から、「私も習ったんです」「古澤先生に手紙を書きました」などと声をかけていただきました。手紙をくださった方もあります。4百`も離れたところに住んでおられるTさんからは、40分にも及ぶ電話をいただきました。つながりが広がっていくのはまさに感動でした。

 日頃、私がお世話になっている下条のKさんご夫妻からも話がありました。お2人は古澤先生本人や柿崎中学校にお勤めだったお連れ合いと昵懇(じっこん)にしておられたのです。Kさんから、「古澤さんから橋爪さんに会いたいと電話があってね」と連絡があったときは嬉しかったですね。

 もうすぐ10月10日。まだ見ぬ80代の女性との出会いを前に私はいま、ワクワクしています。       

  (2020年10月11日)

 
 

第626回 ご苦労さん会

 柏崎市にある妻の実家の稲刈りが終わったし、ご苦労さん会をやるので来ないかと義兄に誘われ、先日、出かけてきました。

 妻の実家に集まったのは、義兄と妻の姉夫婦、すぐ近くの親戚のY子さん、それに私たち夫婦の6人です。それぞれ、ビールや酒、サラダなど飲み物や食べ物を持ちよりました。

 飯台の上に広げたら豪華でしたよ。トマトやエビ、ハムなどが入ったサラダ、チーズと栗、トマトとキウイフルーツ、揚げ物、煮豆、ハヤトウリの粕漬け、乾物などがところ狭しと並んだのです。

 ビールとノンアルコールで乾杯をして会は開始しました。

 まずは今年の稲刈りの苦労話です。妻の実家では、今年は稲がべったり倒れ、コンバインが刈る前に稲を棒で起こすという作業をしなければなりませんでした。それも1枚や2枚ではなかったのです。

 稲が倒伏しただけではありません。今年はあちこちで動物による被害がありました。妻の実家もそうです。イノシシらしきものが田んぼの中を行き来して荒らしました。ただ、寝転がり、稲を片っ端から倒し、臭いをつけるというところまではいかなかったのが救いだったといいます。

 田んぼに入った妻の姿を初めて見たと義姉が言ったことを契機に、稲刈りの話は今年のことだけでなく、ずっと昔のことにも広がりました。

 妻は、実際は子どもの頃、田んぼに入っていたそうです。ただ、「とうちゃんに『鎌を持たせたら、危なっかしい』と言われ、稲まるけに徹した」とか。また、ハサがけの手伝いでは、稲を投げるときのコントロールが悪く、義父から時どき、「顔のそばに投げるな」としかられたという思い出を語っていました。

 みんなが話をしているさなか、時折、チリン、チリンという風鈴の音がしました。居間と広間の仕切りのところにある風鈴です。裏庭から入ってくる風が風鈴の一番下にぶら下がった厚紙を揺らすと、その上にある金属製の細い棒がぶつかり合ってよく響く高い音を発生するのでした。

 会がスタートしてから約1時間後、半田の蕎麦屋さんに頼んでおいた鍋焼きうどんが到着しました。到着したばかりの鍋は熱く、中に入ったものからは湯気が立ち上っています。鍋の中には、ホウレンソウ、ネギ、蒲鉾、シイタケ、鶏肉などが入っていました。2週間ほど前まで、「暑い、暑い」と言っていたのですが、この冬の食べ物、実に美味しかったです。

 鍋焼きうどんを食べていたときだったでしょうか、外ではツクツクボウシが鳴き、「チキチキ、チキチキ」という小鳥の声も聞こえてきました。前庭では、百日紅の花が咲いていました。誰かが「今年は百日紅、長持ちしているね。がんばろうしている」と言うと、みんながいっせいに百日紅の花を見ました。赤い百日紅が空に向かって、突き上げるようにようにして咲いていました。確かに「決意」を感じましたね。

 鍋焼きうどんを食べ終わったら急に睡魔が襲ってきました。私だけでなく男性陣はみんな同じ、全員が飯台の脇で横になり、沈没しました。でも女性陣は楽しそうに、おしゃべりを続けていました。

 1時間ほど寝たのでしょうか。全員が起きた時点で、妻が原之町のお菓子屋さんで買って持参した「ふまんじゅう」をデザートとして出し、みんなで食べました。味も良かったし、本物の笹で包んであることにも驚きの声が上がりました。

 この日、集まった者は妻が60代であるほかはみんな70代でした。最後に、義兄が言いました。来年も田んぼ作って、また、ご苦労さん会、やろうで。

  (2020年10月4日)

 
 

第625回 懐かしい再会

 新型コロナの感染の心配があって、入所している介護施設から母が外出できるのは通院などごく一部に限られています。ですから、外出できる日は母にとって、家族と会ったり、友達や親戚へ電話をかけたりできる貴重な時間となります。

 先日は入所している施設からそう遠くないところにある理容所へ行き、髪の毛を短く切ってもらいました。その日は、ちょうど議会の休会日でしたので、私が付き添いました。

 車の中で、私がまず電話をしたのは愛知県に住む弟のところです。弟には母が施設に入所したことを最近になって伝えたのですが、その際、母と電話で話をしたいと頼まれていました。

 どうせ電話をするなら母の顔を見ながら話ができるようにと、スマートフォン(スマホ)を使ってテレビ電話をかけました。

 弟はスマホでテレビ電話ができることをよく知らなかったようで、スマホの画面で母の顔を見るなり、「あら、かちゃだ、かちゃが出ている」と大喜びでした。そして、言ったのです、「かちゃ、元気かね、ツトムだよ。わかるかね」と。

 母はニコニコしながら、「わかるこてや。おまん、いい顔してるない」と答えました。ほめられりゃ、弟も黙っていられません。「そりゃ、そうだこてね、おまんの子だもん」と言って笑いました。

 新型コロナ感染症でたいへんな事態となる前から、母と弟は長く会っていませんでした。おそらくその期間は2年ほどになっていたかと思います。それだけに、母に弟の元気な顔を見せることは大きな励ましになると思っていました。テレビ電話では弟はもちろんのこと、弟の連れ合いも出て、母に声をかけてくれました。

 この日は秋らしいさわやかな晴れとなっていました。髪の毛を切ってもらい、施設に帰ろうという時間帯になって、私の車を理容所入り口まで移動させているときでした。昔、牛飼いの仲間であったNさんとバッタリ出会いました。

 Nさんは私の顔を見るなり、「おばあちゃん、どうしなったぁ」と声をかけてくださいました。「おら、ばちゃかね、ここにいるでね」と言うと、「まあ、うれしい」そう言って、理容所に入り、母のそばへ急ぎました。
「おばあちゃん、わかんなる?」
 母はその言葉にすぐ反応して、
「Nさんかね。おまさん、きれいな顔してなるね」
 と言いました。

 たぶん、母とNさんとは5、6年は会っていないと思います。Nさんはずっと母と話をしてみたいと思っておられたようです。Nさんは元々母親譲りのやさしい顔の持ち主ですが、再会した直後に顔をほめられ、ずっと笑顔でした。

 久しぶりに会ったのですから、挨拶し、「はい、さようなら」というわけにはいきません。その後、待合所でお茶をご馳走になり、2人はおしゃべりを楽しみました。

 母の目の前のケースの上には黄色や緑色のUFOカボチャが並んで置いてありました。最初、このカボチャの話で盛り上がりました。その後は、やはり思い出話です。
「おばあちゃん、カレー作ってくんなったこてね。上手でいなった。煮物の味付けもぴったしだったし……」
 自分が作った料理のことで次々とほめてもらった母は、照れながら話を聴いていました。

 母とNさんは牛飼いの仲間として共通の苦労をしてきました。もちろん喜びも共通のことが多かったと思います。それだけにこの日の懐かしい再会は、母にとって、これまた大きな励ましとなりました。

  (2020年9月27日)

 
 

第624回 八幡様のお地蔵様

 私たちが住んでいる上越にはいろいろな宝物があります。大島区大島の八幡社にあるお地蔵様もそのひとつです。

 このお地蔵様は頭部だけしかありませんが、はやり病を終息させてくれるといいます。いまの新型コロナウィルス感染症対策でも力になってもらえるかも知れません。

 お地蔵様のことを知ったのは、9月の最初の日曜日でした。この日、私は、「大島やすらぎの森散策ウォーク」に参加し、初めてお地蔵様があるところを訪ね、お参りしてきました。

 いうまでもなく八幡社は神社で、現在は「やすらぎの森」の上の方、須巻山(標高316b)にあります。昔は大島集落内の、もっと低いところにあったそうです。

 この日は20数人で登りました。よく晴れていて、米山や尾神岳、魚沼の越後三山などがはっきりと見えました。青空の広がるなかで見えた山々はとても素敵でした。棚岡のTさんによると、北側の木々を切れば、刈羽黒姫山も、さらには弥彦山も望めるそうです。

 八幡社そのものは、幅1.8b、奥行き2.7b、高さが1.8bの小さな木造の建物で、お地蔵様の頭部は奥まったところに安置されていました。

 眺めを堪能したところで、大島町内会の前町内会長の江口鎮夫さんがお地蔵様の頭部を手のひらに載せて外に持ち出し、小さなハンドマイクを使って、頭部だけになったいわれなどを語ってくださいました。

「あのー、八幡社の由来につきましては、諸説があるようでございますけれども、大島には村松さんという大地主がございますけれども、当初は長野県の方から隣の(安塚の)行野集落に移住されたそうです。そのころ疫病がはやりまして、それでまた大島の方へ移住されたとのことです」
「その折、石像(お地蔵様)の所在は誰のもんだ、村松家のもんだとかなんだとかで、行野の方からすれば、“おらの守り神だ”ということで、いろいろ話し合いがつかなくて、結局、取り合いをしているうちに、胴体の方は行野集落にございます。お地蔵様の頭部も当初、大島神社の方に八幡社として祭られたところでございますけれども、いろいろのいわくのなかでしたことから、行野集落も見える、また大島も眼下に見えるところに移されました」

 江口さんの「ございますけれども」を多用した説明を聴きながら、左の手のひらのなかのお地蔵様の頭部を見ると、思っていた以上に小さなものでした。あとで測ってもらったら幅は6a、高さは9aしかありませんでした。人間の赤ちゃんの頭よりも小さめです。顔は説明して下さった江口さんに似ていて細長で、耳もついてました。

 江口さんの説明は続きます。

「八幡様そのものは由来は米山薬師からきてございます。かつて、歩いて米山登山した折には、旭の板山を経由して米山寺から米山をめざしたとお聞きしているところです。かつては大島もここで祭りをして、だいぶ賑わいをしたところです。そこに昔の名残の焼酎甕(しょうちゅうがめ)がございますけれども、ここで焼酎を飲み交わしてどんちゃん騒ぎをして、最後は盆踊りをして解散ということだったそうです」

 焼酎甕の説明のとき、熊田のTさんが「これだ」と指をさしておられましたが、お地蔵様がとても身近に感じられましたね。そして、お地蔵様の胴体にも会いたいものだと思いました。

 この日は猛暑で、私は「あねさかぶり」で動きました。帰りは、三竹沢のK子さんや石橋のY子さんなどと歩きながら、母の近況や母の実家のことなどを語りあい、下山しました。今度はみなさんと一緒に行野へも行ってみたいものです。

  (2020年9月20日)

 
 

第623回 朝市で

 直江津の三八市に通い始めてから6年ほどになります。たいがいは9時から10時の間に行きますが、たまに、訪れる時間帯をずらすと発見があります。

 8月の最後の朝市、28日もそうでした。この日は私の毎週発行の活動レポートの印刷に時間がかかり、朝市の場所に着いたのは10時半頃になりました。

 バカ暑いので、タオルであねさかぶりをしてビラ配布をしていると、洋服屋のKさんから、「いつもより遅いじゃない。待ってたんだよ」と声をかけてもらいました。「きょうは、きなんねがかと思った」と言ってくださるお店もありました。こういう言葉をもらえるなんて、最高にうれしいです。

 猛烈に暑かったせいなのでしょうか、それとも全部売れたのでしょうか、店終いの支度をしている人がいました。やはり朝市は遅くならない方が良いようです。

 そんなとき、玉子を売っているお店のそばでお客さんがあちこちを見渡していました。お店の「店長」さんをさがしていたのです。その様子を見て、近くの別のお店の人や他のお客さんが心配して、「店長」さんをさがしています。こういう光景には初めて出合いましたが、いいもんですね。

 ぐるっとひと回りして山川製菓店のそばまで行くと、漬物が美味しいと評判のYさんのお店周辺が少し賑やかになっていました。何人かの人たちが集まって、ちょうどお茶会が始まろうとしていたのです。

 集まっていたのは、軽トラに花などを載せて販売しているOさん、先日、ホテイソウを販売していた春日山のTさん、あとは柿崎のSさんのお連れ合いなどです。

 山川製菓店から私が出てきたところで、花屋さんから、「橋爪さん、お茶飲む時間ないかね」と声かけてもらいました。

 花屋さんは、旧吉川町出身の方で、花が咲いたら幸せがやってくるという「幸来花(こうらいか)」という名前の花を分けてもらったころからの付き合いです。毎冬、幸来花を購入していますし、ふるさとの情報などを語り合って楽しんでいます。

 率直にいうと、あまり時間はなかったのですが、お店を出している人たちの何人かと一緒にお茶を飲めるなんてめったにあることではありません。喜んで仲間に入れてもらうことにしました。

 花屋さんからお茶を入れていただいてすぐに、漬物名人のYさんからナスを1個もらいました。もちろん、漬けたナスです。外側の紫色の部分と果肉の白い部分がとてもきれいでした。前日、漬けたナスなのでしょうが、よく漬かっていましたね。

 私から「いい味だね」とほめたら、まずはナスのことが話題となりました。最近はナスもいろんな品種が栽培されるようになって、「越の丸ナス」だの「鉛筆ナス」だのと賑やかです。でも、漬けるとなると、昔からの十全ナスが一番いいらしい。Yさんは、「実の締まり具合から、いちばん漬けやすい」と言いました。

 ナス漬けの話が終わると、話題が急展開して暑さの話になり、さらに屋根の雨漏りの話へと発展しました。その間にナス漬けを2個ご馳走になりましたから、10分くらいお茶飲みをさせてもらったことになります。

 市での販売活動は終盤に入っていましたが、お客さんがまったく来なくなったわけではありません。自分の店にお客さんが来るか来ないかを気にしながら、お茶飲みをし、世間話を楽しむ。いいですね。三八市で店を出している人たちがこういう時間を持っていることを私は初めて知りました。

 今度はさらに30分遅らせて朝市へ行ってみようと思います。私の知らない市の姿をまた、見つけることができるかも知れません。  

   (2020年9月13日)

 
 

第622回 手づくりアイス

 先日の土曜日も猛暑でした。朝からミンミンゼミが激しく鳴き、気温はぐんぐん上昇、タオルなしには動けませんでした。

 車に母を乗せて帰宅するところが目に入ったのでしょうか、近くに住むYさんが、母を家の中に入れて、車に戻ろうとしたときにやってきて、「おばあちゃんだよね」と声をかけてくださいました。
「そいが。いま入ったばかりなんだわ」
 と私が答えたら、
「元気でいてくんなるだけで、励まされるんだわ。うちは十分介護しないうちに、おふくろが逝っちゃったから、頑張ってもらいたい」
 と言われました。確か、Yさんのお母さんは私の母と同じ大正13年生まれだったと思います。それだけに、Yさんは私の母の姿と重ねるなかでお母さんを思い浮かべることが多いのでしょう。

 続いてYさんは、
「家に来て、お経あげてくださるお寺の住職さん、アイスクリームが好きでいらっしゃるんで、抹茶アイス作ってあるんだけど、合うかどうか食べてみて、おばあちゃんにやって……」
 そう言うと、自宅に戻り、そのアイスクリームを届けてくださいました。

 見た途端、びっくりしましたね。アイスクリームが入った容器は少なくとも直径20aはある大きなものだったからです。アイスクリームを自宅で作る人がいることは聞いたことがありますが、これほど大きいものを作る人がいるとは……。

 Yさんはアイスクリームだけでなく、凍っているアイスクリームを取り出す専用スプーンまで、持参してくださいました。

 Yさんによると、普通のスプーンでアイスクリームを取ろうとすると、折れてしまうことがあるから、がっちりタイプのスプーンを使用した方がいいというのです。遠慮なくお借りすることにしました。

 台所で、いただいたアイスクリームの容器のふたを開けてみたら、中は薄緑色の抹茶アイスクリームが入っていました。そこには撹拌時の模様が入っていて、作った過程が見えます。それだけでも食欲をそそられます。そして、どう見ても、がちがちに凍っています。普通のスプーンでは役に立たないことは一目でわかりました。

 アイスクリームを、小さな皿に移し、母のベッドのところに持って行くと、母は「なしたが」と訊いてきました。
「Yさんからもらったがどね。おまんに食べてもらってだと」
 そう言うと母は、
「そいがか。アイス、きょんなもくんなったがど」
 と言って、すぐに食べ始めました。Yさんのアイスクリームの味はすでに体験済みだったんですね。

「なじょだね、味は」
 と聞くと、首を縦に小さく振って
「うんめぇ」
 と言って食べ続けました。

 アイスクリームを食べ終わると、母は堰を切ったようにしゃべり始めました。

「デイサービスにゃ、モリヨシのばちゃ、いなったし、東横山のコメ買うとこんしょもいなった」
「ヨシワラのせんざい畑の上、イドンシリ(屋号)のとちゃ、炭焼きしていなったどこでウド採りした夢、見とぉ」

 お盆を自宅で過ごさなかった母。「モリヨシのばちゃいなった」という母の言葉に「おやっ」と思ったのですが、物忘れの進行は如何ともしがたいものがあります。

 でも、おかげ様で「なにかうんめもんあるがか」と食欲は旺盛です。アイスクリームを食べているとき、母は言いました。「とちゃ、おまんもアイスくいない」   
  (2020年9月6日)

 
 

第621回 入道雲

 青空に大きな白い入道雲。子どもの頃から夏の空を描くときのパターンは決まっていました。それほど夏を象徴する風景となっていたのでしょうね。

 今年の夏は雨降りの日が多く、入道雲を見る機会はほとんどありませんでした。太陽がカッと照るような日もなかなか来ませんでした。それだけに代石神社の祭りがあった日の夕方、米山さんや尾神岳の上空に雲がモリモリと大きくなっていく様子が目に入ったときは少し興奮しました。

 その日の夕方、私は用があって柿崎駅まで往復しました。駅に向かう時、百木を過ぎると、下黒川に至るまでは、右手方向に米山さんや尾神岳の姿が見えます。この2つの山の上空で雲が大きく広がっている様子が見えたときには、もうじっとしていられませんでした。車を止め、カメラを取り出して雲の撮影を始めました。ただ、このときは電車の時間の関係で、1、2枚撮るだけでやめました。

 柿崎駅から家に戻ってからは、家に入らず、隣りの小苗代や下中条まで車を走らせました。

 代石から小苗代地内に入ってすぐの場所では、田んぼを挟んだ向かいの里山の上空で雲がどんどん発達していました。それも手前と奥の方の雲では色が違います。手前のものは灰色で、奥は白く、その上部は輝いていました。

 風景写真を撮ったことのある人なら同じ体験をされたことがあると思うのですが、被写体が短時間に変化していく場合、なかなか撮影をやめることができなくなることがあります。

 この日の夕方もそうでした。小苗代で入道雲を写真に撮り、車のところに移動しようとして空を見ると、写真を撮った時点よりも雲はさらに大きく盛り上がっている。またカメラを取り出し、写真に撮る。これを何度も繰り返しました。

 5分くらい同じ場所にいたでしょうか。5、6枚撮ったところで、欲が出て、「この風景は尾神岳が見えるところで撮りたい」そう思いました。

 下中条の撮影ポイントまでは車で30秒足らずです。到着して尾神岳方面を見たら、思っていた通りでした。尾神岳の標高の3倍くらいの高さにまで雲が大きくなっている様子が見えたのです。ここ数年間に見た入道雲の中では最大規模だ、と私は思いました。

 見事なのは高さだけではありません。米山さんの方にも、その反対方向にも雲の山ができて広がっていました。さらに面白かったのは雲の色がつくりだす美しい景色です。私には、入道雲が発達して、ねぶたになったように見えました。「ねぶた」というのはあの、青森の「ねぶた」です。「らっせーらー、らっせらー」という掛け声とともに笛や太鼓が鳴り、大型の「ねぶた」が進む、あのイメージです。

 入道雲が出たときは雷が鳴り、土砂降りをもたらすことが多いのですが、私の場合、これまでそういうことにはつながりませんでした。今回もそうです。雷の音はせず、雨は降りませんでした。離れていましたので当然と言えば当然なんですが……。

 この日、小苗代から下中条へ移動する時、散歩中の女性に会いました。「雲がすごくおっきくなって……。これから中条へ行って撮ろうと思ってね」と言うと、「橋爪さんは好奇心が強いんですね」と言われてしまいました。

 私は3月に満70歳になりました。足腰が痛くなったり、目がしょぼしょぼしたりと明らかに加齢に伴う症状が出てきていますが、自然現象や動植物などを詳しく知りたいという意欲は旺盛です。やはり好奇心が強いのでしょうか。

  (2020年8月30日)

 
 

第620回 うんめがどぉ

 今年のお盆の最中、15日の朝のことです。大島区細越まで行く用事があったので、居間にいた母に聞いてみました。

「これから大島へ行くけど、おまん、どうしんね」

 母はすぐに「行ぐ」と答えたのですが、以前のような体調ではありません。ベッドで横になることが多い状態です。最低限にしぼって行き先を決めることにしました。それで、もうひとつ質問しました。

「そうすりゃ、日本一うまいトコロテンにしっかね、それとも板山の杉(屋号)んちにするかね」

 いま考えてみると、これは母にとっては答えが難しかったかも知れません。どちらも母にとっては気持ちを揺さぶられるところだったからです。ただ、母の体調のことを思えば、そう長い時間をかけることはできませんでした。それに、家族の者からも「ばあちゃん、あんまり連れまわさんようにしないや」とくぎを刺されていました。

 ところが、私の問いかけに対する母の答えはというと、
「どっちも」
 だったのです。

 トコロテンか幼友達の家か、どちらかを答えると思っていたので、ちょっと驚いたのですが、正直言ってうれしくもありました。それだけ行動する意欲はあるということですから。

 午前9時過ぎに家を出て、朔日峠(ついたちとうげ)経由で大島に向かいました。

 細越の高橋新聞店に寄って、「日本一のトコロテン」に着いたのは午前9時50分。すでに駐車場には何台も車がとまっていて、行列がつくられ始めていました。すごい人気です。

 私も列に加わりました。割合と早い順番でしたので、開店後10分くらいでトコロテンを手にすることができました。ただ、母は車から降りて移動するとなるとエネルギーを使いますので、お持ち帰り用を選び、割り箸をつけてもらいました。

 母はひと昔前までは自分でトコロテンをつくり、味については自信を持っています。車の中でトコロテンを食べた後、どういう言葉を発するか気になりました。

 口をすぼめて食べていた母に、
「なじょだね、味は……」
 と聞くと、さすが、味に定評のあるトコロテンですね、
「うんめがどぉ」
 という言葉が返ってきました。この言葉を聴いただけで私は、母に声をかけて良かったと思いました。

 トコロテンを食べたところで、板山の杉のかちゃのところへ電話をしました。本当は家で電話をかけようと思ったのですが、もし途中で、母が体調を崩し行けなくなったら、がっかりさせてしまうと考えて、この時点までかけなかったのです。

 杉の家に着くと、乗用車を前庭まで乗り入れ、2人が玄関先で話をできるようにしました。母は助手席に乗ったままです。

「来たでね」、そう言って声をかけると、杉のかちゃは、台所の冷蔵庫から出してきたのでしょう、冷えたエゴを2皿、おぼんに入れて私たちのところへ運んでくれました。1つは私のために、いまひと皿は母のためです。

 エゴは私も母も大好きな食べ物です。私は皿の上の四切れのエゴをすぐに平らげてしまいました。母は、一切れ一切れ、ゆっくり味わって食べました。杉のかちゃはその様子を助手席の窓から覗き込むようにして見て、「また会えるとは思わんかったじゃ」と大喜びでした。

 この日、母は大好きなトコロテンとエゴのどっちも食べることができました。四切れは無理だと思っていたエゴも全部食べ、ここでも「うんめがどぉ」と言いました。

  (2020年8月23日)

 
 

第619回 忘れ得ぬ墓参りに

 さいたま市在住のNさんからラインでメッセージが届いたのは12日の夜でした。そこには新型コロナウィルス感染症のことが心配で帰省できず、墓掃除も墓参りもできない、「先祖に申し訳なく思っております」などと書かれていました。

 こういうメッセージが来たのは、フェイスブックでの私の発信をNさんが見たからだと思います。

 その日、私は、代石にある黒竹や半入沢にあるわが家の孟宗竹を使って、花立て、ロウソク立て、線香入れなどを手づくりで用意し、尾神岳のふもとにある蛍場のわが家の墓へ行ってきました。墓参りの準備です。作業が一段落したところで、ミンミンゼミの鳴き声と共に、ふるさとの山、蛍場の山々を動画で撮り、発信しました。

 この発信を見て、懐かしい思いを抱かれた人たちが何人もおられたようです。蛍場に実家や親戚があった人など蛍場に関係のある人たちから、「かつて、おふくろも同じ空気すってたんですね…澄み切っていますね」「今年は墓参りには行けません」などという声が寄せられました。

 Nさんからのメッセージを読み、私は雨さえ降らなければ、Nさんの先祖のお墓のお参りに行こうと気持ちを固めました。ただ、私はNさん宅の墓場の位置はだいたいわかってはいたものの、一度も訪れたことがありません。杉林の中にひっそりとあるお墓……ひょっとすれば、草むらをかき分けて行かなければならないかもと心配になりました。

 翌13日、朝の段階で強い雨がいっとき降ったものの、その後はまずまずの天気となりました。わが家のお墓へ持っていく花を用意したその足で、私は蛍場をめざしました。時間は正午を過ぎ、1時近くになっていたと思います。

 蛍場に着くと、まずNさん宅のお墓に行くことにしました。蛍場の中心部から旧源小学校水源分校に行く通学道路があります。その起点にあたるところに車を止め、雨でぬれた道を登りました。

 途中、オトコエシやゲンノショウコなど野の花も採り、園芸種の花と一緒に手に持ち、お墓をめざしました。通学道路だった道から杉林に入り、急な坂道を20bほどのぼったところに墓はありました。

 その墓場へは草刈りをする必要もなく、歩いて行くことができました。平らになった場所まで行って、驚きましたね。一見したところ歌碑かと見間違えそうな形の大きなお墓が西側にあったのです。その東には、普通のお墓があり、さらに北側には仏様の姿が彫られた像が4つ、これらは一体のものとなって安置されていました。これらは1軒の家のものとは思えぬくらい、りっぱなものでした。

 あとでNさんから聴いたのですが、Nさんの父親と仲良しだった「いどんしり」(屋号)のお父さん(故人)が2人でこの墓場にいたときに、子どもたちの笑い声が聞こえたことがあるとのことでした。おそらくNさんの先祖には幼くして亡くなった人が大勢いたのではないかと思われます。

 私は持参した花を飾り、線香をあげ、ロウソクに火をともした後、手を合わせました。目をつむったときに、私が子どもの頃、囲炉裏の中で大きな木のドンゴロを燃やしながら、よく昔話をしてくれたマンばあちゃんの姿が思い浮かびました。

 新型コロナウィルス感染症が広がるなかで今年はお盆もお墓参りも一変しています。でも、思わぬきっかけで初めてNさん宅のお墓参りができ、蛍場にこのようなりっぱな場所があることを知りました。そして、私が小さかった頃のことも思い出しました。この驚きと体験は生涯忘れることのない思い出となることでしょう。

  (2020年8月16日)

 
 

第618回 通院付き添い

 最近、母の通院に付き添うことが楽しみになってきました。母と一緒に過ごす貴重な時間となっているからです。

 先日は、お世話になっている介護施設に母を迎えに行き、病院から戻るまでの4時間ほどを母と一緒に過ごしました。

 迎えに行ったのは午前8時半です。施設の玄関前まで行って、インターホンを使って声を掛けると、「橋爪さーん、お迎えですよ。きょうは病院に行くんだよ」というスタッフの方の声が聞こえてきました。

 軽乗用車に乗せると、いつもの茶色のヘアネットを頭に着用した母は車の前方をじっと見たまま、黙っています。私から、
「さみしくなかったかね」
 と声をかけると、
「なーんも」
 という言葉が返ってきました。

 母の体調の良し悪しは、車に乗った時の会話の様子で判断できます。こちらから声をかけても反応がないときは体調が悪い。反応があるときはまずまず。自分からしゃべるときは上々の体調です。

 この日はくるみ家族園を過ぎ、カントリーが見える頃になってから、母がしゃべりはじめました。
「穂、いっぱい出てるなー」
「そうだね、五百万石だと思うよ」
「粒、でっけーがど」 「おらちも五百万石、作ってたよね」
「だと思うな」
「そう言えば、おまん、小貫(こつなぎ)知ってるかね、足谷の奥の……」
「知ってるよ、足谷から道あったもんだ」
「おれ、きんな、小貫(出身)の人に会ったがど。おまん、行ったことあるがか」
「あるよ。足谷んちの近くから山越えて小貫に行く道あって行った。何軒もねかったような気がするな」

 こんな調子での会話が病院に到着するまで続きました。五百万石は酒米です。そして小貫は、旧松代町の集落の一つで、旧大島村の足谷の近くにありました。

 病院に着いてからは、それこそ母の付き添い本番です。9時25分から血液検査が始まりました。

 番号札を提示した後、「お名前、言ってもらってもいいですか」ときかれた母は何を思ったのかマスクを外し、「はい、橋爪エツです」としっかり答えました。

 検査用の血液は3本。やせ細った右腕を差し出すと、看護師さんが母の手をとり、アルコールをつけて針を刺しました。1本目の採取では、血液が管の中をシュッーと流れていくのが見えました。

 続いてレントゲン検査。こちらもわずか5分ほどで終了しました。9時40分には内科に戻り、診察へ。入院時からお世話になっているお医者さんから、「貧血は改善されましたね。肺の方も良くなっていますよ」と言われてホッとしました。

 この日は診察、会計が終わるまで3時間半ほどかかりました。前回よりも時間がかかったので母も気になったのでしょうね、ずっと車イスに乗りっぱなしだった母は、
「腰かけてばっかいたすけ、ケツ痛くなっとぉ。とちゃ、オレ、入院しねきゃならんがか」ときいてきました。

 ちょっといたずらっぽく、「おまん、入院してがか」と言うと、「なしてー」。入院しないでいいことを悟った母は、安心したようです。 「何時だか知らんけど、腹減ったな。とちゃ、新井線のヒラサワさんとこ寄って、押し寿司買ってこさ」とも言いました。

 これだけ食欲があれば体調は最高。この日は時間がなく、別のお店で押し寿司を買い、車中で少し食べてもらいました。「どうだね、味は」とたずねると、母は「うんめ」と言って何度もうなずきました。  

  (2020年8月9日)

 
 

第617回 紛失騒動

 先日、母がお世話になった病院の先生から診断書をもらうにあたって必要な文書が行方不明となり、大騒ぎしました。

 「行方不明」と書きましたが、管理していたのは私です。「失くしてしまった」と言った方が正確かも知れません。

 家族の者からは「大事なものを決まった場所に置かないからこういうことになる」と責められました。私は、10日ほど前に文書を手にしたときにさかのぼり、文書を置いたと思われる場所、保管したと思われるカバンや机の中などを数時間かけて探しました。でも、見つかりませんでした。

 私が大事なものを失くして大騒ぎすることは今に始まったことではありません。学校に通い始めた頃から今日に至るまで、大切なものを失くした事例は10本の指で数えることができないくらいあるのです。

 失くしたもののほとんどは、そう長い期間をかけずに出てきましたが、いまだにわからず仕舞いなのがいくつかあります。

 一番忘れることのできないものは小学1年生のときの通知表です。通知表には児童について評価する欄があって、担任の山田利(やまだ・とし)先生(当時。その後、先生は結婚されて小島姓にかわりました)は私について、「仕事はのろいが、最後までがんばる」と書いてくださいました。

 この言葉は、これまでずっと私を励まし続けてくれました。どんな困難にぶつかっても、オレは最後にはちゃんとできる。そう思うと自信をもって何事にも向かうことができました。それだけに先生が書いてくださった通知表を大事にしていたのですが、じつは20数年前、旧源農協の2階で行った同級会を最後にその通知表はどこにあるかわからなくなってしまいました。

 その同級会では、利先生が来賓として初めて出席されました。私は通知表をその場に持ち込み、みんなの前で、「先生のこの言葉のおかげでがんばることができました」と先生に感謝の言葉を伝えました。利先生は、はずかしそうにしながらも、とても喜んでくださいました。先生のその姿を見た私は涙が溢れ出ました。

 その後、お酒に酔って、元の場所にしまい忘れたのでしょうね。私の通知表は現在、小学2年生から高校3年生まであるものの、一番大事にしていた小学1年生時の通知表が欠落したままになっています。

 話を元に戻しましょう。私が病院からの診断書をもらうための文書を一生懸命探したのには他にも理由がありました。文書と共に母の後期高齢者医療被保険者証、診察券も一緒だったのです。いずれも大事なものです。私は、失くしたことがわかった日だけでなく、その翌日も改めてカバンや机などを探しました。どこを探して出てこないことが明らかになった段階で、私はすべて再発行してもらう覚悟を決めて、病院へ行くことにしました。

 病院の駐車場に着いて、私は念のためもう一度、車の中にあるボックスを開いてみました。車検証や車の整備記録、保険証券入れなどを一つひとつめくり、もうないなと諦めかけたときでした。まさかと思いました。探していた文書とそれに包まれていた後期高齢者医療被保険者証等があるじゃありませんか。ボックスの中は前の日もすべてチェックしたはずなのですが、いったい、どこに「隠れていた」のでしょうか。

 何故、見つからなかったのか、いまでも不思議でなりませんが、前の晩、良い結果を予感させることが起きていました。利先生が生前、私にくださった最後のハガキが出てきたのです。「努力は何ものにも勝る」と書かれたハガキでした。このハガキもかなり前に失くしていました。ひょっとすると、20数年前に失くした通知表も近々出てくるかも知れません。 

  (2020年8月2日)

 
 

第616回 タチアオイ

 出合うと気になる花、あなたにありませんか。私にはコブシ、キクザキイチゲなどいくつもの花があります。それぞれ、いろんな思い出とつながっています。

 最近、私が気になっているのはアオイ科の多年草、タチアオイです。それも、吉川区北部にある吉川橋の上流2百bほどの右岸の高台にぽつんと咲いているものです。6月からずっと赤い花を咲かせ続けていますが、民家から離れたところに何故咲いたのか。しかもそこの花はよそのものよりも長持ちしています。そばを通るたびに気になりました。

 7月3日の午後2時半過ぎ、このタチアオイのそばまで行ってみました。

 車を走らせながら見たときは1本に見えましたが、タチアオイは1本ではなく、3本もありました。

 1本1本よく見ると、真ん中のタチアオイが一番背が高く、1b30aもあり、8個の花を咲かせていました。両脇のタチアオイは、1本は2個、もう1本は6個、花をつけていました。握りこぶしのようにぎゅっとしまって、茎に巻きついているつぼみもいくつかありました。これから咲くのでしょう。

 この日は朝方に雨が降ったのでしょうか、花はいずれも下向きで、花の裏側には雨の粒らしきものがいくつも残っていました。降り止んでかなり時間が経っているはずなのに、なかなか落ちないでいる、これは初めて気づきました。

 タチアオイのそばまで行ってわかったのですが、この花のことが気になっていた人間は私だけではありませんでした。タチアオイの周辺の草が少し刈ってあったのです。おそらく、タチアオイが育ちやすいようにと誰かが刈ったに違いありません。

 タチアオイの姿をゆっくり眺めている時に、周りの音も私の耳に入ってきました。

 ひとつは近くを流れる吉川の流れの音です。普段はザーとかゴ―といった結構大きな音がするのですが、この時は、水の玉が破裂でもしたかのようなプチプチという音がしました。

 次に風。タチアオイのそばに行ったとき、風は東から西へとゆっくり吹いていました。繰り返し吹くので草の葉がぶつかり合います。さらさら、さらさら。激しくぶつかる音ではなく、やさしくふれあう音が聞こえてきました。

 そしてウグイスなど小鳥たちやセミの鳴き声も賑やかです。これは市道を挟んで反対側の山の上の方から聞こえてきました。

 3本のタチアオイのまわりには様々な植物がありました。一番多くあって、目立ったのはヨシ、そしてセイタアカワダチソウもそれに負けないくらいに仲間を増やしていました。そのほか、ヒルガオ、クズもありました。薄いピンクの花を咲かせたヒルガオは、花のほとんどが低い位置にあるためにアピール度が弱く、赤いタチアオイだけが存在感を示していました。

 この吉川橋上流の赤いタチアオイは、先日行われた河川の草刈りでなくなっています。でも、19日の日曜日、再びこのタチアオイを思い出しました。

 じつはこの日のお昼過ぎ、吉川区の山間部にあるMさん(故人)宅の脇を車で通り過ぎようとして、ブレーキを踏みました。Mさんが生前から植えていたタチアオイが絶えることなく、何本も生きていて、赤やピンクなどの花を咲かせていたからです。

 それらのタチアオイの写真を撮っていた時、ふと思いました。私がタチアオイを好きになったきっかけの1つは、明らかにMさん宅で何年も見てきたから。吉川橋上流のタチアオイが長く咲いていたのは、Mさんが「おらちも咲いてるよ。見にきない」と私を誘っていたからではないか、と。    

  (2020年7月26日)

 
 

第615回 替え唄

 先日のことです。お連れ合いのT子さんに「歌ってみない」と言われ、居間でくつろいでいたDさんが歌を歌ってくださったのにはびっくりしました。

 Dさんが歌い出したのは、「お座敷小唄」の替え唄です。

♪何もしないで ぼんやりと
 テレビばかりを観ていると
 のんきな様でも年をとり
 いつか知らずに●●ますよ

 Dさんは今年の春から毎週2回、デイサービスに通っています。この替え唄はそこで覚えたようです。「お座敷小唄」の替え唄は「●●ます小唄」と「●●ない小唄」の2種類あるのですが、よほど気に入ったのでしょう、Dさんはどちらも歌ってくださいました。

 もともとDさんは職人さんで、酒の席は何度も経験されていたのでしょうが、私はDさんが酒の席で歌う姿は一度しか見たことがありませんでした。正直言って、歌は歌っても、それは商売上、半ば義務的なことであって、本人は自らマイクを握るような人だとは思っていなかったのです。それだけに居間で歌詞を見ながら歌う姿は新鮮でした。

 私の場合と違って、Dさんが歌う唄はちゃんとリズムに乗って、流れもきれいですし、声もいい。たぶんデイサービスでは、談話室で歌うと、仲間の皆さんや介護士のみなさんなどから「上手いねぇ」「上手なもんだ」とほめられているんだと思います。Dさんは、その延長線上で、これらの替え唄を歌ってくださったのでしょう。とにかく、楽しそうでした。

 デイサービスでの活動についてDさんが歌のこと以上に語ってくださったのは野菜作りです。

 野菜作りをするデイサービスがあることは聞いてはいましたが、実際にその作業に携わっている男性から話を聞くのは初めてでした。Dさんが通うデイサービスでは、利用者の方が元気に頑張れるようにと、野菜作りに本腰を入れているようです。そこでは土起こしもするし、タネまき、苗植え、草取りもする、畑仕事はなんでもするのだそうです。

 Dさんは、「デイサービスに行って、畑仕事するとは思わんかっとぉ」「おれなんか、畑仕事してこなかったすけ、NさんやOさんから教えてもらっているがど」と言いましたが、ニコニコしながら話している姿を見ると、いやいやながらではなく、けっこう気に入ってやっているのだろうと思いました。

 T子さんによると、デイサービスに通い始めた頃、Dさんは靴をはいて出かけていたそうです。でも、外で畑仕事をすることもあることがわかってからはスニーカーに履き替えたといいます。

 いまは梅雨時です。雨が降っているときはどうするのかと思ったら、屋内で手仕事をやるのだそうです。具体的には塩の袋詰め作業です。上越では安塚の塩が有名ですが、このデイサービスではフィリピンから輸入した塩を一定量、袋に入れる作業をやっているとのことでした。

 Dさんは今年になって物忘れがひどくなり、医者にお世話になりました。元の状態への完全復帰は難しいと思いますが、いまは落ち着いてきていて、デイサービスには元気に通っています。

♪年をとっても 白髪でも
  頭はげても まだ若い
  演歌唄って アンコール
  生きがいある人 ●●ません

 Dさんが歌った替え唄の「●●ない 小唄」の最後です。Dさんが歌っているとき、お茶の用意をしていたT子さんの頬がゆるむのが見えました。

  (2020年7月19日)

 
 

第614回 キュウリの佃煮

 親戚のキゾウさんから「ハナはパッと咲いて早死にするぞ」と言われたのはどれくらい前だったのでしょうか。ハナさんは現在91歳。耳がすっかり遠くなり、足腰も弱くなりましたが、まだまだ元気です。

 先日も、ハナさんを訪ねたところ、うれしそうな顔をしてキュウリの佃煮のことや昔話などを次々と語ってくださいました。

 ハナさんがキュウリの佃煮を作るきっかけとなったのは、十数年前の新潟日報の窓欄の記事です。長岡市のYさんの投稿でした。そこには、Yさんの義兄が作るキュウリの佃煮では、どういう材料がどれくらい必要か、どのように作るかだけでなく、作った時の反響まで書かれていました。

「これは私も作ってみよう」、この記事を読んだハナさんはすぐにキュウリの佃煮作りに挑戦します。そしてハナさんは、これまで十数年間にわたり、年4、5回のペースで作り続けてきたのです。

 新聞の投稿記事の中にあった「キュウリは3`」、「タカノツメは3、4本」など材料についての記述は紙に書き写し、それを見ながら作りました。いまでは、「みりん、30シーシー」「酢、150シーシー」などすべてそらんじています。

 ただ、作り方については新聞記事をしっかり読み、料理好きのハナさんらしい工夫をしています。例えば、主たる材料のキュウリ。細かく切って一晩塩で殺し、洗濯機の脱水機能を使ってしぼっています。歳をとって力がなくなった分、頭を使っているんですね。そして、しぼったキュウリは大きなフライパンに入れて、焦げ付く寸前まで汁を煮詰め、冷ましたところでパッとカツオ節を3袋入れているといいます。話を聴いているだけでも佃煮の出来上がる様子が思い浮かんできます。

 出来上がったキュウリの佃煮は美味しく、美味しいからこそ1年に何回も作ります。私もご馳走になりましたが、ご飯のおかずにしてもいいし、お酒のつまみにもいい。もちろん、お茶にも合います。ハナさんは、大量に作ったときはパックに入れて冷凍庫にも保存しています。冷凍しておけば、急に旅からお客が来ることになったときなど、すぐに対応できるからです。冷たくなったキュウリの佃煮もいいものです。

 ハナさんのキュウリの佃煮はハナさん宅の台所にじっとしてはいません。近くの親しい人に届けられます。静岡など遠くの親戚にも渡ります。そして、雲門寺の東堂さんなどお世話になった人のところにも。

 ハナさんは戦中から昭和25年までの6年7か月、埼玉県は桶川市のあるお宅で女中奉公をしていました。そこの家とは現在も交流が続いています。最近も生のキュウリとナスと一緒にキュウリの佃煮を送ったとのことでした。送られた人はうれしいでしょうね。

 驚いたのはキュウリの佃煮を先祖にも「贈っている」ということでした。わが家でも数十年前はそうでしたが、野菜などの初物がとれれば、仏壇の先祖にまず供える、それから家の者が食べるという習慣がありました。ハナさんの家では、いまもそれを続けているのです。

 ハナさんは自分と一緒に住んだ人たちの命日を大切にしています。12日は夫の命日、8日は夫の母親の命日、6日はまだ小学1年生という若さで亡くなった長女の命日、次々と月命日のことが語られました。キュウリの佃煮はこうした人たちにも「食べてもらっている」んですね。

 楽しそうに語るハナさんの様子を見ていて、美味しいものを作るコツは人を大切にする心だと思いました。そう言えば、ハナさんの姉のヒサさんからも正月に囲炉裏で串餅を食べさせてもらったことがありました。この姉妹は顔も心もそっくりです。  

   (2020年7月11 日)
 

第613回 夏のコタツ

 心臓の具合が悪く、入退院を繰り返した母。先週の土曜日、19日ぶりにわが家に戻ってきました。

 病院の看護師さんの話では、母の体調は入院前に戻ったとのことでした、でも、食事ひとつ見ても、以前より食欲が落ちています。顔もいくぶん痩せたと感じました。

 状態がいいときは出されたものの8割は食べる。でも状態の悪いときは3割しか食べない……。看護師さんからそう聞いたのは今回の退院の数日前でした。だから、母の食べ具合が一番気になっていました。

 退院した日、家に戻った母はまずサイダーを飲み、ベッドの上で横になりました。そこまではいままで通りです。

 母の食欲がいままでとは明らかに違っていることを意識したのは、その日の午後からのことです。

 買い物に行くことにしていましたので、母に「何かほしんもん、ねかね」と聞いたら、「アイスクリーム!」という言葉が返ってきました。

 母に食べてもらうにはバニラの棒アイスがいいかなと思っていましたが、お店には、残念ながらバニラの棒はなく、「PINO」(ぴの)という箱入りのアイスクリームを買ってきました。コーヒーのミルク入れくらいの小さな入れ物にチョコやバニラなどのアイスがいくつも入っているものです。

 買い物から家に戻ると、母はベッドから居間の電動イスに移動していました。「はい、アイスクリームだよ」そう言って差し出すと、母はバニラが入ったものを1個口に入れました。

 いままでだったら、すぐに「まあ、うんめがど」と言ったのですが、この日は、口の中にアイスを入れたあと、しばらく目をつむりながら、口をもぐもぐさせて、飲みこみました。そして、こう言ったのです、「もう、いらん 」。

 アイスが思っていた以上に冷たく、それでもう食べられないという意味だったのかも知れません。でも、私は、母の体がアイスそのものを受け付けなくなってきているのだと思いました。

 実際、「いらない」という言葉を発したときに、母は右手でも「もういらない」という仕草をしていました。「こんがにうんめもん、なして」と、私が言おうとして言わなかったのは、母の手を振る姿を見たからです。

 母の体調の変化を意識したことがもうひとつあります。それは、退院して4日目でした。この日は、半日、母と一緒に居間で過ごしたのですが、母は電気ゴタツの中をのぞいてから、スイッチを入れるよう求めてきたのです。

 この日は夏日、気温は25度以上でした。家の中は外に比べて低いものの、寒さを感じるような気温ではありません。
「寒いがか」
 と尋ねると、
「なして……。コタツはあったかい方がいいこて」
 そう言って、母はちょっぴりさみしそうにしました。私からは、
「こんがにあっつい日にコタツはいらんこてね」
 と言って、その場はコタツに電気は入れなかったのですが、夕方、母の手を触ってみたら、手が冷たかったのです。

 ひょっとすると、母は居間で寒さを感じていたのではないか、そう思ったら、申し訳ない気持ちになりました。

 母は96歳。一般的に、高齢になるにつれ、皮膚の温度感受性がにぶくなると言われています。母もそうなっているのかも知れません。でも、アイスとコタツでそれだけではない変化を感じています。

  (2020年7月5日)

 

 

第612回 黄色いサボテンの花

 何でもそうですが、思ってもみなかった良い展開となると心を揺さぶられます。Yさんの場合、サボテンの花がそうだったようです。

 6月の下旬、Yさん宅へ行くと、「橋爪さん、ちょっと見ていってください」と誘われました。Yさん宅の屋敷の前庭から少し歩いたところへ行って、「うわっ」と声をあげそうになりました。杉の木の根っこのところでサボテンの黄色い花がいっぱい咲いていたからです。花の数を数えると、少なくとも70個は咲いていました。

 花には日の当たり具合などで早く咲くものもあれば、遅いものもあります。これから咲く蕾も数十個ありましたから、しばらく人の目を楽しませてくれそうです。

 サボテンはウチワサボテン、サボテンの代表選手と言っていいでしょう。一個だけで見ると、縦12a、横10aほどの大きさです。咲いている黄色の花は直径5aもありました。敵から身を守るためでしょうか、たくさんのトゲもあります。古いサボテンほどトゲは硬く、とがっています。

 ウチワサボテンは横に増えるだけではありません。体の上部から芽が出て、上の方にも増殖していきます。ですから下の方にあるものは古く、上の方にあるものは新しいサボテンということになります。

 Yさんの話だと、このサボテンは最初、家の玄関近くのプランターの中において育てていたとのことです。それを7、8年前、Yさんのお連れ合いが杉の木の下に移したとのことでした。サボテンを移植した場所でトラクターにくっついた土を落としたといいますから、その土に含まれていた栄養が効いたのでしょうか、その後、縦にも横にも広がり、サボテンの数はどんどん増え続けました。まだ畳1枚分には届きませんが、それに迫る勢いがあります。冬囲いをしないで増え続けたというのも驚きでした。

 このサボテンの花、最初はピンクのものがいくつか咲いたそうです。それがいつのまにか黄色い花にかわり、いまは完全に黄色の花となりました。スイカズラのように白から黄色に変化する花もありますが、この花は同じ花の色が変化するのではなく、年度をまたいでの話ですから、なぜこういうことになるのか調べてみたいものです。

 この日は、このサボテンを見る30分ほど前に、別の家でアジサイの花の不思議な咲き方について教えてもらっていました。そこの家の脇には、アジサイの木がありました。毎年、青色の花を咲かせます。そのアジサイから1bほど離れた場所に挿し木をしたところ、赤っぽい紫色の花が咲いたということでした。土質、日当たりなども花の色に影響を与えるのでしょうか。

 Yさん宅のサボテンについては、最初に見た日の次の日にもおじゃまし、2度も見せてもらいました。もう一度ウチワサボテンを見て、細かいところも丁寧に観察したいと思ったのです。

 2回目の訪問の時も青空が広がり、気温は25度を超えて、夏日となりました。前日咲いていた花はいくつもしぼみ、花の数は減っていましたが、花が醸し出す全体の雰囲気はそのままでした。

 カメラを向けると、ハチが1匹やってきて、花の中心部に顔を突っ込み、蜜を吸い始めました。雌しべの柱頭の一番上から脇、さらにその下へと顔を押しつけ、蜜を盛んに吸っています。そして次から次へと飛び回るなかで、体中、花粉だらけになっていました。ハチも必死です。

 私が再度、サボテンを見に出かけた日、Yさん夫婦の娘さんの家では祝い事があったとのことでした。黄色い花は幸せをもたらすと言われています。今年はウチワサボテンの花に願いを託しましょう。

  (2020年6月28日)


 
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