春よ来い(25) |
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第611回 懐かしの地へ いま思うと、最後のチャンスだったかも知れません。6月初旬、青空に筋雲が広がった日、母を車に乗せて母の生まれ故郷や長年住んでいた尾神へ行ってきました。 原之町、東田中経由で源地区に入ると、母は、「ありゃ、エコちゃんちだねかな」と従妹が嫁いだ家を見て言いました。さらに車を1キロほど走らせたところでは、「あの赤い屋根はハルミさんちだ」とも言いました。物忘れが進んだ割には正確なことを言うので感心してしまいました。 久保を過ぎ、大島区の板山の田んぼが見えるところまで行くと、軽トラのそばに立っている男性の姿が見えました。母が「ありゃ、○○だねかな」と言いましたが、間違いありませんでした。私の従弟です。母が「おまん、いい男だな」と言ったのには従弟とともに笑いました。 その後、誘われて従弟の家に行きました。家の周りにはピンクのムシトリバナと赤いポピーが色鮮やかに咲いています。従弟は車庫の近くにイスを用意してくれ、母は車に乗ったままサイダーを、私はアイスコーヒーをご馳走になりました。母は「つんね」や「そうでもち」(いずれも屋号)などの名前を出し、昔のことを思い出していました。 板山では「杉(屋号)のかちゃ」のところにも寄りました。キョウダイがみんな亡くなり、一人ぼっちになった母にとっては大事な幼友達です。防災無線からは正午を伝える音楽が流れていました。 玄関で、「いなったかね」と声をかけると、最初は不思議そうな顔をしていた「杉のかちゃ」でしたが、車の助手席に乗っている母の姿を見つけると、「まあ、そっか。いかったぁ」と大喜びしてくれました。「杉のかちゃ」は、母との再会が実現するとは思っていなかったようです。 母を見ると、「まあ、いい顔してやる。ぜんめ、ひとっぱ食べるかい」と言って、家の中に入り、「きな粉せんべい」と「ゼンマイと竹の子の煮しめ」を持ってきてくれました。母は「まあ、うんめがど。上手に煮てある。たしねぇもん、もうしゃけねぇね」と言いながら、食べていました。 板山からは昔の通学道路を通って、田麦へ行きました。「ここまで来たら、田麦や竹平も母に見せてあげよう」と思ったのです。「みんな、家、新しくなっている」母はそう言いましたが、何十年も前に母が見た家と違っているのは当然のことです。 母の実家へ行く途中、足谷の従兄の家の居間が見えたので、クラクションを鳴らすと、従兄の連れ合いが気づき、外まで来てくれました。少し遅れて、従兄も車のそばに来て、「元気だねかい。いかった」と母の手をとり喜んでくれました。 帰りは下川谷からトンネル経由で尾神に抜けました。母も私も若かりし頃、何度も歩いた道です。ホタルブクロがあちこちで咲いていました。「トンネル出ると蛍場、見えるがねかな」「いや、めーねろ。ナナトリは見えるろでも」そんな言葉を交わしながら、車を走らせました。 杉林の近くで、「あれ、サワナでねかな」と私が言うと、母はすかさず「採っていこさ。煮て食べんがに。少しでいいすけ」。体を動かせなくても、山菜が大好きな母の気持ちが高ぶったのでしょう。 道路脇には牧草のオーチャードやイタリアンも生い茂っていました。わが家が長年、牛飼いをしていただけあって、母は懐かしい思いに浸ったようです。蛍場では、従妹のエコちゃとも偶然出会いました。 母を乗せての、懐かしの地への訪問。わずか2時間あまりでしたが、母にとっては忘れることのできない思い出となったはずです。母はこの訪問の3日後、再び入院しました。 (2020年6月21日) |
第610回 孫の手 日曜日の午前のことです。草刈りを終えて着替える時、連れ合いからタオルを使って背中の汗を拭きとってもらいました。 使用したタオルは電子レンジでチンしてあって、タオルが背中に触った瞬間、「わぁ、気持ちいい」と思いました。そして、ふと思い出したのです。祖父、音治郎の風呂場でのうれしそうな姿を……。 もう半世紀以上も前の話です。わが家は吉川の山間部、蛍場にありました。祖父はすでに60代の後半になっていました。背が高く、骨太で丈夫そうな男性でしたが、仕事では頑張りがきかなくなってきていました。疲れやすくなっていたのです。だから、居間では、私たち兄弟に肩を叩いてくれるよう求めることがたびたびでした。 そして風呂に入ったとき、祖父は手ぬぐいで背中をこすってくれと求めてきたのです。誰しもそうですが、いくら上手に手ぬぐいやタオルを使っても背中の真ん中の上の方は手が届きません。どうしても、洗い残しが出てしまいます。それを孫に頼んでこすってもらおうというのです。気持ちがいいことは言うまでもありません。 祖父の要求に応えたのは私や弟たちですが、祖父の背中を一番こすり、流したのは3番目の弟かも知れません。祖父に一番かわいがってもらっていましたから。 当時、わが家のお風呂は母屋の一番西側にありました。居間から「流し」(台所)を通って、その先に風呂場がありました。風呂場は家の脇にあった小さなため池のすぐそばです。水道はまだなく、横井戸の水も多くはありませんでした。そのため、お風呂の水は「御前様井戸」と呼んでいた縦井戸から汲んで、木製の桶に入れて運び、ため池側の窓から風呂にあけました。距離は30bくらいはあったと思います。この仕事、けっこうきつかったですね。 お風呂をたく、その仕事も私たち兄弟に任されていました。お風呂を沸かすためにガスや灯油を使うようになったのは、その後しばらく経ってからの話です。当時はまだ薪を燃やしていました。 話を少し前に戻しますが、祖父の体力の衰えを私が意識するようになったのは、祖父が自分の背中で運ぶ稲の量が少なくなったころからです。元気なころは3束、4束 とそっていたのに、2束しか背負うことができなくなっていたのです。 そうした衰えを見て以来、私は祖父のことが気になり、学校から帰ると、祖父が元気かどうかをまず確認するようになりました。祖父のために特別なことは何ひとつできなかったのですが、頼まれれば、肩たたきであろうが、背中かきであろうが、なんでもやってあげたいと思っていました。 祖父は72歳の冬、突然倒れ、1週間後に亡くなりました。あれから66年経ったいま、私自身が祖父の年齢に近づきました。疲れたときなど、近くに孫がいるなら、肩を叩いてもらいたい、背中もかいてもらいたい、お風呂も一緒に入り、「じいちゃん、背中流そうか」と言ってもらいたい、そう思います。 でも現実は、なかなかうまくはいきません。わが家の「じいちゃん」は、時どき、竹製の「孫の手」を引っ張りだし、1人さみしく背中をかいています。 最近、「孫の手」の「孫」は、鳥のように爪が長い、中国の伝説上の仙女、「麻姑(まこ)」が変化した言葉であることを知りました。 かゆいところをかいてくれるなら、「孫の手」の「孫」が本当の孫であろうが「麻姑」であろうが、どちらでもいいじゃないか。そう思う人もいるでしょう。でも私は、やはり孫にこだわります。遠くに住む孫とはもう1年近く会っていません。そろそろ孫に会いたくなりました。 (2020年6月14日) |
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第609回 イコイコイコ やはり家はいいのでしょうね。病院から戻った日、母は家族の者や従姉(いとこ)とたっぷり話をし、何度も笑顔を見せてくれました。 新型コロナウィルスの感染の心配から、いま、病院では、入院患者はお医者さんや看護師さんなどと話はできても、家族との面会はまずできないのが現実です。 それだけに、退院した母と言葉を交わすことができるうれしさは格別でした。おそらく、母も同じだと思います。 お昼前、わが家に戻った母は自分の寝室に行き、ベッドの上で休みました。「なんか、飲むかね」と聞いたら、「サイダー」と答えました。母にとって、サイダーは自宅だからこそ堂々と飲めるものなのでしょう。少し飲んだだけで、「うんめー」と言いました。 母との対面を楽しみにしていたのはわが家の人間だけではありません。すっかりわが家の一員となったネコたちも同じです。2匹のネコが母の寝室に入って行くと、母は、ネコたちに声をかけながら体を伸ばし、「イコイコイコ」をしていました。 午後からは、大島区出身で吉川区に住んでいる従姉がわが家にやってきました。先日、母が再入院したと伝えたら、「おれ、会いたかったのに……」と切ない顔をしたので、特別、事前に知らせておいたのです。 日頃から母を自分の母親と同じくらい大事にしてくれている従姉ですが、「おばあちゃん」と声をかけたときも、最高の優しさでした。 従姉が持ってきてくれた美味しいプリンをコタツのテーブルの上に出してから、以前と変わらぬスタイルで従姉と母の会話がはじまりました。 従姉は「うち、いいだろね」と言った後、「ばあちゃん、耳、遠くなったね」とも言いました。実際、この日も母は、「なした?」を何度も使っていました。「なした?」は「なんと言ったがだ」という意味です。 久しぶりに母と会った従姉は、自分も通い始めたデイサービスのことを中心に話してくれました。母と共通の話題の方が母も関心を寄せてくれると思ったのでしょう。 「おれ、デイサービス、週2回行ってるがど。○○○の大工さんなど男しょもいなるよ。おれには、野菜つくり、手伝いしてくれてが……」 従姉の話を聞きながらも、母は時どき目をつむってしまいます。以前よりも疲れやすくなっているようです。話の途中で、居眠りのことを気づかれたと思ったのでしょう。母は、「おれ、ねぶって顔してダメんがど」と先手を打つように話しました。 この日は従姉が帰ってから、私は事務所へ行き、デスクワークをしました。その間に母は、金沢から愛知県に移住した次男夫婦とその子どもリョウ君と話ができました。タブレットを使った、いまはやりのテレビ電話です。 十数年前、大学を卒業し、わが家から巣立ち、よそで暮らすことになった次男に対し、「いいか、わりいことしんな」と言ったのは母です。一番かわいがった孫から、テレビ電話で「ばあちゃん、元気かね」と声をかけてもらい、喜んだのは言うまでもありません。 そして、母は昨年のお盆以来会っていない、ひ孫のリョウ君の元気な姿も見ることができました。どうやら積み木遊びをしていたようです。テレビ電話の画面で動くリョウ君を見た母は、右手を出して「イコイコイコ」をしました。 母にとって、この日のテレビ電話は初体験でした。早く新型コロナが収まって、ひ孫のリョウ君をだっこし、本物の頭をイコイコイコできる日が来ますように。 (2020年6月7日) |
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第608回 一度は山騒ぎを 山間部で育った人間は、春になると落ち着かなくなる。それは山が呼んでいるから。そう言うと大げさでしょうか。 雪がほとんど降らなかったことから、桜が咲くのも、草が伸びるのも今年は早く、「こりゃ、山菜も早く出るにちがいない」そう思いました。 山菜のトップバッターはフキノトウです。これはわが家の屋敷周りでも出るのですが、今年、最初に目にしたのは隣の下中条の農道でした。2、3個、採って母に見せたところ、「いい匂いだない。味噌汁にでもしるか」と大喜びでした。正月の11日のことです。 2番手はコゴミです。極端に雪が少なく、ひょっとすれば、3月初めに出るのではと期待したのですが、実際に出たのは3月の下旬になってから。平年並みでした。 それからひと月というものは落ち着きませんでしたね。「おまん、忙しいだろすけ」、そう言って親戚の人などからコゴミやヤマウドなどを持ってきていただきました。いずれも美味しくいただきましたが、山育ちの人間はそれだけで満足できないのです。どうしても一度は自分で山に入って動き回り、山菜を採る、そういう山騒ぎをやらないと気持ちが落ち着かないのです。 今春、山に入って山菜採りができたのは、5月の連休が終わってからとなりました。それまでずっと我慢していたのです。 山に出かけたのは5月9日の午後3時過ぎのことです。母が退院し、一段落した私は、山菜採りを実行に移すにはこの日しかないと思いました。 目指したのは、わが家から車で15分で着ける山間部です。ここはわが家が最後まで田んぼをやっていた所のそばで、「あそこに行けば外れはない。ひとつやふたつ、山菜があるはずだ」そう思ったのです。 市道に車を止めて、歩きはじめて50bほどのところで、高さ15bほどの杉の木に絡んだフジツルの白い花が目に入りました。下から眺めると、大きいハチがたくさん飛び交い、「わーん」という音を立てていました。 さらに2百bほど行くと、上り坂の道と下り坂の道に分かれています。私は後者を選びました。1b以上に生長したサイキなどをかきわけ、歩きました。 食べ頃のワラビを見つけたのは数分後です。耕作をやめて10年は経っている田んぼに入ると、コゴミの葉が大きく広がっていました。その一角で、隠れるようにして25aほどのワラビが生えているのを発見しました。目を少し横に向けると手頃なワラビが2本、3本とありました。 こうなったら、隠れているワラビを探すのに時間はかかりません。右を見て左を見る。ちょっと眼の位置を下げる。後ろも振り返る。あちこちでワラビをポン、ポンと折りました。こうして、ほんの5分ほどで片手では持ち切れないほどのワラビを収穫することができました。 まだ、その気になれば、もっと収穫できたのですが、私は次の山菜を探しました。カヤ(ススキ)などの草の下で遅くなって出るウドです。どこら辺にあるかは長年の経験でわかっていましたが、雪消えが早かった今年は、さすがにこうしたウドもほうけていました。そこで、ウドの先端部分の柔らかなところを指で折って、持ち帰ることにしました。香りも味も小さなウドと変わらないからです。 この日の収穫は、ワラビが二束分とウドの先端部分10個ほどです。なんだ、それきりか、と思われるかも知れません。でも、採れた山菜の量の大小など、どうでもいいのです。春になったら一度は山騒ぎをしたいという願いが叶った、それが最大の収穫なのですから。 (2020年5月31日) |
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第607回 60年前のお礼 まだ一度も会ったことがないのに、とても親しみを感じる女性がいます。 上越市在住の古澤かをるさん。戦後復興期に旧吉川町の川谷小学校や吉川小学校で教鞭をとられた方です。 昨年、友人のSさんから薦められ、古澤さんのエッセイを読む機会がありました。エッセイは2つ、「窓いっぱいに ひかり輝く妙高連山 ながめながら」と「川谷の野の花よ ありがとう」というタイトルでした。 どちらもいまから60年ほど前の思い出を綴ったものです。浦川原、吉川の山間部の地名、風景、野の花などが登場していたこともあってとても身近に感じ、一気に読みました。戦後間もない頃の頸城鉄道、バスなどの交通事情や学校の様子も生き生きと書かれていました。 いずれのエッセイも吉川タイムズのホームページで読んだのですが、私が文章の中で特にひきつけられたのは、上猪子田から名木山までの雪道を歩いたときの話です。 上猪子田から名木山までは距離にすれば500bほどほどの道ですが、大雪でまったく道がなくなっている中、雪をかき分けながら歩いたとありました。しかもここは、雪崩の危険もある場所でした。私も蛍場と村屋間を歩く時に似たような経験をしましたので、ハラハラドキドキして読みました。 もうひとつ、1本の茎に百個の花がついたというヤマユリの話にも引き込まれました。7月の中旬頃のことでしょう、野良着姿の女性が山でこのヤマユリを見つけ、先生たちに見せてあげたくて、鎌で切って学校へ持って行ったというのです。昔はこういう学校思いの人が何人もいましたね。 ふたつのエッセイを読んだ後、古澤さんとはいつか会って、話をしてみたいものだと思いました。その後、古澤さんに会う機会に恵まれず、時間が過ぎていきましたが、思いがけないことがこの5月の中旬に起きました。 上越妙高駅に近いところに住むMさんからお連れ合いを通じて、手紙とコピーが入った大きな封筒を渡されたのです。 Mさんは元小学校の先生です。「川谷のことが書いてあって、とても心を打たれたので、橋爪さんに読んでほしくて」と渡してくださったのですが、その中のコピーは、何と古澤さんの2つのエッセイとMさんへ宛てた古澤さんの手紙だったのです。いずれも、古澤さんの手書きでした。 見た瞬間、きれいな文字だと思いました。それにエッセイだけでなく、Mさん宛ての手紙の内容もまた素敵でした。 手紙には、60年ほど前のことが書かれていました。村屋までバスで行ったものの、あたりが暗くなってしまった。そのとき、「先生、これから川谷までは危ないから、オラチで泊まっていきない」と声をかけてくださり、お世話になった家がある。何もお礼しないまま60年余りが過ぎ、いまだに気になっている、とあったのです。その家はバス停のすぐ上の家だとも書いてありました。 バス停の上に家は1軒しかありません。私の友人の家です。私はじっとしていられなくなり、Mさんを通じて古澤さんの連絡先を聞き出し、電話をかけました。 古澤さんはとても喜んでくださいました。「尾神にあるアケビの色は最高でした」「ミヤマツも食べましたよ」「トヨコさんもセツコさんも私の教え子です」と語ってくださいました。私についてもご存じで、「K先生の教え子でいらっしゃいますよね。夫が死んでもお世話になっています」などと言われ、話は弾みました。 最後に、新型コロナが収まったら、一緒にバス停のすぐ上の家に行きましょう、と約束をしました。出来れば、しだれ桜の咲く頃におじゃましたいものです。 (2020年5月24日) |
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第606回 母の昔話、健在 4月8日に緊急入院した母が1か月ぶりに家に戻ってきました。母の長い入院は38年前、わが家の2階の屋根から落ちて5か月ほど入院したとき以来のことです。 病院からは、わが家に着くまで車で30分ほどかかります。いつもなら、助手席に乗っていて、「ああ、ここはあやめフードだねかな。笹、持ってきたな」「ここは六万部か。河沢の親戚の家、あったな」といった調子で、次々としゃべるのですが、母はこの日、外の景色をほとんど見ず、しゃべろうとはしませんでした。 午前11時過ぎにわが家に到着。いつもと少し違うなと思ったのは、車から降りて玄関に入るときでした。2か所で段差があり、歩きづらいこともあったでしょうが、靴を脱いで廊下まで上がると、「ああ、しんね」と言ったのです。やはり、疲れが残っていたのでしょうね。 家に上がってからは、茶の間には直行せず、まずは母の寝室のベッドで休むようにすすめました。そこでしばらく寝ていれば疲れもとれるし、安心だと思ったのです。ところが、私が家を1時間ほど離れている間に、びっくりするようなことが起きました。家族の者によると、1階で何か水の音がするのでなんだかと思ったら、ひとりで歩けないと思っていた母がトイレに行き、洗い場で手を洗っていたというのです。ベッドから歩いて移動したのでしょうね。 お昼頃から、母はいつもの居間に移動しました。母が使っていた居間の電動イスは入院中も設置したままでした。久しぶりに電動イスに座った母は、電動イスを上げ下げしようとしましたが、操作はなんとなくぎこちなく見えました。完全回復するまでにはまだまだ時間がかかると思いました。 でも、テーブルの上に置いてあった山竹の子(根曲がり竹)に興味を示しました。これは、その日の朝、大島区の従弟から分けてもらったものです。皮をむきやすいように切れ目が入れてありました。 「どうだね、皮、むいてみるかね」と言うと、母は切れ目を探し、そこに爪を入れてゆっくり皮をむきはじめました。昔からやってきたことは指が覚えているのでしょうね、皮むきの手つきは初心者とは全然違います。びっくりするほど丁寧に、かつきれいにむいていきました。 最初、母は黙って竹の子の皮をむいていたのですが、1、2本むいたところで、急にしゃべりはじめました。 「こりゃ、板山のシュウジ、採ってきたがか」 「そだよ」 「ほしゃ、サンキョか」 「サンキョ?」 「竹林寺から上に登って行ったとこ。てっぺんからスキーで滑ったがど」 「へー、そりゃ、知らんかった」 「学校の下に役場あって、役場の脇が大工さんの家、役場の下が宮本屋、その脇の高いところに観音様あった。そこで、ヨイヤーナー、ヨイトーセーそって踊ったもんだ」 「そうすりゃ、学校は板山に行くはずれでなくて、田麦の真ん中にあったがか」 「そいが」 もともと、母は皮むきのような手作業が好きなんですね。この日は従弟からもらった竹の子の皮を全部むき終わりました。 病院で母が「飲みたい」と言っていたサイダーですが、私が少し出かけている間にさっそく1回飲んだそうです。竹の子の皮むきが終わってからも私と一緒に飲みました。飲み終わった母は、「サイダーは、やはり冷たい方がうまいな」と言いました。そして、再び母の昔話が始まりました。 (2020年5月17日) |
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第605回 一本の桜の木が… 一本の桜の木が落ち込んでいた一人の人間を励ました。それを機会に、その人は見事に復活していく……。そんな話を聞けば、その木を見てみたくなりますよね。 2年前、上越市で「全国さくらシンポジウム」が開催され、そこで記念講演をされたのは三遊亭白鳥さんでした。上越市高田出身の落語家です。講演では、高田の町の今昔、桜の魅力などを方言をまじえて語ってくださったのですが、しゃべりは創作落語風で、爆笑に次ぐ爆笑でした。 その話の中で一本の桜の木のことが出てきたのです。私の記憶だけを頼りに紹介しますと、大筋は次のような内容でした。 噺家としての仕事がうまくいかなくなって、高田の町に帰ったとき、岡田橋のたもとにある大きな桜の木のところで酒をいっぱい飲んで酔っ払った。どうしたらいいのか悩んでいた。酔いがまわって眠り、夢をみたのだろうか、桜の木の根元のところから、ぶわーっと風が巻き起こり、花びらがばあーっと舞うところを見た。そして、どこからか、「がんばれー」という声が聞こえてきたのだった。ふと、目を覚ますと、桜は散ることなく木の枝についていた。だが、不思議なことに、酒の入ったコップのなかには花びらが浮いていた。 数日後、私は、話の中に出てきた桜の木を見に出かけました。場所は高田の西城町、市道岡島二ノ辻線岡田橋のすぐそばでした。すでに桜は散っていましたが、一目で「この木だ」と思いました。実に堂々としていて、美しい桜の木だったからです。 桜の木はソメイヨシノで、おそらく50年は経っているものと思われます。地面からは、ねじれるような形で幹がいくつにも分かれ、幹の高さは四bからありました。枝は南の方に約10b、東の方へも10bほど広がっていました。東の方へ伸びた枝は3本あって、その一部は青田川の近くまで低く伸びていました。 木に触ってみると、木というよりは石に近かったですね。がちがちに固く、そしてごつごつしていました。 この木の地面から1bくらいのところには、すでに散った花びらがたまっていました。それを見たとき、白鳥さんが夢で見たという、「花びらがばあーっと舞う」場面をイメージできました。夢の中でも、きっと、ここにたまっていた花びらが舞ったにちがいない、そう思ったのです。 ただ、白鳥さんの話では、酔っ払って夢を見たとき、桜の木にはまだ花がまだいっぱいついていたということでした。私は、満開のときにもう一度、見てみたいと思いました。 その思いは今年の4月3日、ようやく実現しました。 直江津の三八市での宣伝を終えて、岡田橋のそばまで行ったとき、満開となったその木の美しさに私は圧倒されました。 やはり、満開のときはちがいます。青空の下で大きく広がった桜の花はボリューム満点でした。黒い幹と薄いピンクの花の絶妙な組み合わせは見るものをぐいぐい惹きつけます。小鳥たちのさえずり、風の音も心地よく伝わってきました。 白鳥さんがうとうとしたであろう木の根元には、ヒメオドリコソウやハコベなどが花を咲かせていました。木の根元で眠るには最高の条件じゃありませんか。何よりも、この桜の木には、親父のようなどっしりした存在感がありました。 満開の桜の木の下で、青田川へと伸びた枝を見ながら、私は思いました。落ち込んでいた白鳥さんに「がんばれー」と声をかけたのは、やはり、この桜の木そのものだったのではないかと。 (2020年5月10日) |
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第604回 サイダー 母が緊急入院してから3週間立ちました。おかげ様で、母は少しずつ元気を取り戻してきています。 新型コロナの関係で面会はごく限られたときしかできませんが、1週間ほど前、病棟の移動に伴う手続きで病院へ行ったとき、数分だけ母と会うことができました。 そのとき、母はベッドで寝ていて、目をつむったままでした。「ばちゃ」とひと声かけたら、やっとのことで目を少し開け、「とちゃか」と言いました。 私のことを忘れていなかっただけでも、喜ばなければならないのですが、その言葉には力がありませんでした。そして帰るとき、いつものように、「イコイコパン」をしました。頭をぐるぐるとなで、最後にパンとやる、あれです。元気なころには、母は喜び、必ず笑ったものですが、この日は黙っていて、口元はゆるみませんでした。 その後、家族の者が病院へ洗濯したものを持参したとき、状態はかなり良くなっていました。わが家で飼っているネコの動画を見せると、ネコにさわろうとしたり、声をかけたりしたそうです。 笑ってしまったのは、「サイダー飲みてぇ」と母が注文してきたという話を聞いたときです。 たいがい、入院患者は飲み物や食べ物を外から持ち込むことは許されません。家族の者は、「ばあちゃん、それは無理だよ」と言ったのでしょう。そうしたら、近くのベッドの人が2人の会話を聞いていて、「それぐらい、いいがねかね」と言ったということでした。 私はこの話を聞いて、母の願いにこたえて、ほんの一口でもいいから母にサイダーを飲ませてあげたいと思いました。12年前、父が入院していたとき、父がでっかい声で「たばこ!」と叫んだことがありました。タバコはもちろん許されません。でも、心残りでした。あたりさわりのない飲み物とスタッフから判断してもらえたら、母の願いを叶えてあげたいと思いました。 数日後、家族の者が再び病院を訪れ、病院スタッフステーションの担当者に相談したところ、母にサイダーを飲ませることについては許可が出ました。 病室では、家族の者がサイダーを持参し、コップに入れて母に与えたところ、母は、「こりゃ、うんめーがど」と言って、おかわりしたそうです。サイダーが喉を通過するとき、ぴりぴりとしたのでしょうか。どうあれ、母は大喜びしたそうです。 母のサイダー好きは家族のみんなが知っています。わが家の冷蔵庫では大きなペットボトルで保管してあるからです。母は、毎日のように、このペットボトルからサイダーをコップに注ぎ、飲んでいました。わが家では、「サイダーは、ばあちゃんの晩酌だ」と言う者がいるほどです。 私は仕事柄、夜遅く帰ることがたびたびです。そんなとき、居間でコタツに入ってテレビを観ていると、母がニコニコしながら、居間に入ってくるのです。片方の手にはサイダーのペットボトル、もう一つの手にはコップを持って……。 「とちゃも飲まんか」そう言って、サイダーを注ぐときの母の満足そうな顔、これは晩酌好きの男性の顔と同じです。私は普段、晩酌をやりませんが、母の影響でしょうか、夜遅くなって喉が渇いたときにはサイダーを飲みたいと思うようになりました。 手術が成功した母はいま、リハビリ中です。順調にいけば、もう1、2週間で帰宅できるかも知れません。遅くとも3週間後には大丈夫でしょう。退院したときは、居間で、電動イスに座った母とサイダーで乾杯をしたいと思います。 (2020年5月3日) |
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第603回 笑顔ふたたび 先日、96歳になったばかりの母ですが、父の命日に緊急入院しました。今回は心筋梗塞が原因で時間との戦いとなったことから、かつてなく緊張しました。 病院に到着後、速やかに検査、手術をしてもらい、その後、集中治療室で治療していただきました。 高齢でしたが手術は成功し、手術後、気持ちはずいぶん楽になりました。ただ、集中治療室での治療が長くなると、昼と夜の区別ができなくなりやすく、認知症の人は症状が悪化する可能性も大きいとお聞きし、心配になりました。実際のところ、異常行動をしたり、医療器具を取り外したりした場合の対応などについても説明を受けました。 母が緊急入院して2日後の午前、病院の看護師と思われる人から電話がかかってきました。「何かあったのか」と一瞬、緊張しました。 こういうときは、どうしても悪い知らせではないかと思いがちですが、電話の内容は思いがけないものでした。容体が悪化したのではなく、午後に集中治療室から一般病棟に移るという知らせだったのです。 この日は、午後から病院へ行くことにしていました。集中治療室では、精神的に落ち着かせ、できるだけ、いままでのままでいてほしい。そのためには、時の流れを意識してもらおうと小さな置き時計を母のベッドのそばに置く。家族の写真を見える場所に貼ってもらい、私たちを忘れることがないようにする。そんなことを考えていました。 電話をくださった看護師さんは、「もしよろしかったら、(写真などを渡す際)病室を見ておいてください」と言ってくださいました。集中治療室を二日で出られるだけでもうれしかったのですが、その上、母とも会える。ありがたいというか、願ってもないことでした。 私は、午後2時前に病院へ行き、集中治療室の入り口付近のイスに座って母が一般病棟へ移動する時間まで待機しました。 予定した時間になると、集中治療室の入り口の戸が開き、男性の看護師さんが、「橋爪さんですね。これから一般病棟に移ります」と言われました。まもなく、ベッドに乗った母が集中治療室から出てきました。母は目をつむったまま、全く動きません。母は貧血を起こしていて、輸血をしてもらっていました。 母のベッドを移動しながら、看護師さんたちと話をしました。私から、「うちの母は耳が遠いんですわ」と言うと、なんということでしょう、ベッドから「おりゃ、聞こえるよ」という声が返ってきたのです。びっくりしましたね。 エレベーターに乗って一般病棟の部屋に入室すると、看護師さんがテレビの位置などを調整して、準備してくださいました。ベッドの上で輸血の管などを見ていた母が「おれ、血を輸血しているがか」と言ったのには笑いました。 持参した私をはじめとする家族の写真、母は喜んで見てくれました。 このうち、ひ孫のリョウ君の写真は数年前のもの、「もうこんなになったがか」という言葉は、現実とはだいぶ離れていましたが、まあ、ひ孫の名前をちゃんと言えましたから、それだけで良しとしましょう。 救急車で運ばれる前、苦しい表情を見せていた母ですが、ふた月ほど前の私の写真を見たとき、「いい顔してら〜」と言いました。すかさず、「おまんの子だもん」と返したら、「ふふふ」と言って笑顔を見せてくれました。母の笑顔が復活したのです。こんなに嬉しいことはありません。 (2020年4月18日) |
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第602回 ハプニング あなたは、これまでの人生で、まったく予想もしなかった事態に遭遇したことはありませんか。 3日のお昼過ぎのことでした。直江津の三八市で知り合ったM子さん宅へ私の活動レポートを届けに行ったところ、門の近くでM子さんの車のストップランプが点いていました。 車の近くまで行くと、「コンコン」という音が繰り返し聞こえてきます。何だろうと思い、車のそばまで行くと、車の中にはM子さんの姿があるじゃありませんか。M子さんは盛んに運転席側のガラスをたたいていたのです。最初は何のことかわからなかったのですが、「コンコン」は「ドアを開けてくれ」という合図だったのです。しかし、車のドアは外から開けようとしても開きませんでした。完全にロック状態になっていたのです。 M子さんが何かしゃべっていたので、ガラスに耳をくっつけて聞くと、私の後ろにバッグがある、そこに車のカギが入っているので開けてくれ、ということでした。 M子さんに見えるようにしてバッグの中をさぐると、小銭入れと一緒にカギが入っていました。カギは流行りの型で、オン、オフを押すだけでドアを開閉できるようになっていました。 私はすぐにオフを押し、ドアを開けました。開けると同時に、M子さんは、「助かったあー、一生忘れないわ」と言いました。顔はいくぶん赤くなっているように見えました。 M子さんによると、私がそばに行くまで、車の中で少なくとも一時間は悪戦苦闘していたと言います。ドアを開けようといろいろ試したのでしょう。でも開かなかった。誰も来ないし、不安は募るばかりです。こうなれば、午後1時頃にやってくるはずの人が見つけてくれるまではダメか。そう思っていたところへ、私が訪ねて行ったのでした。 興奮していたM子さんの肩を抱き、「よかったね。昨日でなくて、きょうでよかった」と慰めの言葉をかけました。じつは、本来なら前日にM子さん宅へ行くはずだったのです。それが偶然、1日遅れになり、今回の事態に出合ったというわけです。 センサーの不具合があったのでしょうか、それとも、車の中でM子さんがどこかにさわりロックしてしまったのでしょうか。カギが車外にあるのに、なぜロック状態になったのかはよくわかりません。 車の中に「閉じ込められた」状態となったM子さんは、いろいろな手段で外にアピールしたそうです。そのアピールに唯一応えてくれたのは、人間ではなく、M子さんが飼っているネコでした。このネコはM子さんのことを心配してボンネットの上に上ったり下りたりしていたといいますから驚きました。 しばらくして、M子さんは落ち着きを取り戻し、キクザキイチゲやカタクリなど庭に咲く野の花のことや門の近くにある大きな桜の木の歩みなどを語ってくれました。 この日、青空が大きく広がったなかで、門の近くにある大きな桜の木の花は満開でした。何というサクラかは聞きませんでしたが、花の大きさはソメイヨシノよりも小さいものの、たくさんの白い花を付けていて、花のアピール度は抜群でした。 桜の木の樹齢は少なくとも62年。M子さんが嫁いできたときに持参したものとか。幹の内部には大きな空洞もでき、満身創痍といった感じでした。それでも見事に花を咲かせていました。2人で、この桜の木を見上げていたら、車をめぐるハプニングのことなどすっかり忘れていました。 (2020年4月12日) |
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第601回 梅の花 3月の半ばに尾神岳に登った日のことでした。久しぶりに蛍場(ほたるば)を通って帰ることにしましたが、その際、連れ合いと共にわが家の墓に寄ってきました。 わが家の墓に寄ることにしたのは、素通りするのは申し訳ないという気持ち以外に何もありません。ただ、何かあるのではないか、そんな予感はありました。 予感は当たりました。墓の前に白い梅の花が飾ってあったのです。 梅の花を見たとき、お彼岸が近いということで、少し早めに墓参りに来たといったふうには思えませんでした。普通に墓参りにきたならば、どこかで市販の花を買い、それを飾るはずだと思ったからです。 これは私の推測ですが、別の目的で、この近くに来た人がついでに立ち寄ったのではないか。その際、何か花がないかと探したところ、墓場からそう遠くない場所に梅の木があり、木には白い花がいっぱい咲いていた。ならば、ひと枝もらって、墓に飾ろう、そう思ったにちがいない。私はそう判断しました。 墓のそばにあった梅の花はまだ生き生きしていました。花びらには輝きがありましたし、茎自体もしっかりしていました。ひょっとすれば、梅の枝が活けられたのは、その日の午前だったのではないか。どんなに早くても2、3日前だろうと思いました。 墓に手を合わせてから、私が「いったい誰だろう、梅の花を飾ったのは……」と言うと、連れ合いは、「イサムさんしかいないでしょ」と言いました。じつは、私自身もそんな感じがしていたのです。 大潟区在住の弟がこの時期、生まれ故郷に来るとすれば、フキノトウかコゴミなどの山菜採りが目的だろうと最初は思ったのですが、ふと頭に浮かんだのはネコヤナギのことでした。 数年前、弟も私もほぼ同じ時期にネコヤナギを探しに蛍場へやって来たことがありました。釜平川のそばにある、花穂が大きく緑色のネコヤナギは、子どもの頃からの楽しみでした。春到来を教えてくれるものの1つだったのです。川のそばまで行き、花穂にさわって猫の尻尾のようなつやつやした感じを味わいたい、その気持ちはいくつになっても変わりませんでした。 今年は暖冬少雪でした。雪がほとんど降りませんでしたので、ネコヤナギはいつもよりもかなり早く開花しています。弟は今回もこのネコヤナギを求めてやってきたのではないか。墓がある釜平(がまびろ)周辺の様子を見るうちに、その思いはだんだん強くなりました。 墓には56年前の3月19日に亡くなった祖父、音治郎も、11前の4月8日に亡くなった父、照義も眠っています。命日の近くに墓に来たことがわかれば、祖父も父も大喜びしたに違いありません。 墓場から離れるとき、墓場と地続きで、30年ほど前までハサ場となっていた場所を見ると、薄紫色の花が一輪咲いていました。キクザキイチゲです。 そう言えば、ここはキクザキイチゲとトキワイカリソウがいっぱい咲く場所だったなと思いながら、私はハサ場の下の方面へ向かって歩きました。 20bほど歩いて、2b50aほどの高さの梅の木と出合いました。やはり、梅の木は近くにあったのです。すでに開花していて、ちょうど花盛りといった感じでした。 弟がこの梅の木のひと枝をもらい、墓に飾ったかどうかはわかりません。どうあれ、祖父や父などに会いに寄ってくれて、春を告げる梅の花を飾ってくれた、その気持ちをとてもうれしく思いました。 (2020年4月5日) |
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第600回 デイサービス よほど楽しかったのでしょうね。デイサービスへ行ってきた母が夜になって、しゃべりまくりました。 いつもならデイサービスで出されたお昼のおかずのことが母の話のトップに出てくるのですが、この日は違いました。「あごひげのおじいちゃん」のことが先でした。 その人は、どうやらわが家からそう遠くない所に住む人のようです。デイサービスから迎えに来るワゴン車に乗った時のことから母の話は始まりました。 「あごひげのおじいちゃん、おれのそばにストンと座ってデイサービスに行くがど」 そう言った母は、途中の話を省略して、この日、デイサービスで一番印象に残った「稲刈りの話」に入りました。 「デイサービスのしょがそのおじいちゃんに、稲刈りのことを話して、そういうと、そのあごひげのおじいちゃんが、稲刈りしてるみてにしなるがど……。腰にわら、えつけておいて、サクサクサク、サクサクサク、と声出して刈ると、片手にひとつかみになるだろ。そしたら、またサクサクサク、サクサクサクとやんなる。ふたつ重ねて、今度はわらまるけだ。わらを両手で持って、たばねた稲の上にのせると、右手を下にして、わら持ってくりんと回す。そうするとネジかかるこて。そんで、右手のわらをきゅっと差しこんで……。ほして、かぶつ、ポンポンとはたいて、『こんで終わり』。まあ、上手にしなるがど……」 こうして、母は稲刈りのひと工程を一気にしゃべりました。 母が電動イスに乗ったまま語るときは静かに語ることが多いのですが、このときは声も出すし、ジェスチャーも付きました。長年にわたり、蛍場の田んぼで稲刈りをしてきましたので、稲刈り鎌もわらもすべて母の頭の中に入っているのでしょう。それらを総動員して手を右に左に動かし、体を揺さぶり、『サクサクサク』とやるのです。デイサービスで「あごひげのおじいちゃん」の形態模写を見たことがきっかけになって、自分でも稲刈り気分にひたっていたのかも知れません。 この日は稲刈りのことだけでは終わりませんでした。まだ、「あごひげのおじいちゃん」の話が続いたのです。スタッフの誰かが、冗談っぽく「○○さん、あごひげ、ちょびっと切らして」そう言って声をかけたのでしょうか。「あごひげのおじいちゃんはダメダメそいなったがど……」と話をし、母は体を動かしてそのときの様子も再現していました。 お昼の食事の話は、ヒゲを切る話の次にようやく出てきました。いつも感心するのですが、母は出された料理のことをよく覚えています。 「サツマイモ、小さく四角に切ったがにソーセージも入ってた。そうだ、ミカンの缶詰も入っていたな。それにミカンも出たすけ、むざいて食った」 サラダと果物として出されたミカンは時間差があったはずですが、話は一緒でもいいでしょう。その次は炒め物でした。 「ニンジン、タマネギ、ダイコン、キビのつぶしたがに青いピーマン、豚肉、いっぺ入っていた」 そして最後はみそ汁です。 「おっつょのしんのみに、ミョウガ、細い油揚入っていた。ささぎの斜め切りしたがも。豆腐の小さいがも。うんめぇごっつぉになっていたな」 母は今月、満96歳に到達しました。体を思うように動かせなくなりつつありますが、デイサービス通いが生きるエネルギー源の1つになっているようです。次回はどんな話を運んできてくれるのでしょうか。 (2020年3月29日) |
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第599回 三月の尾神岳 先日の午後、思い立って尾神岳に行ってきました。尾神岳に登って気分転換してこようと思ったのです。この日は少し寒かったものの、青空が広がっていました。 尾神岳の姿は毎日のように写真に撮っていますので、今年は雪が極端に少ないことはわかっていました。でも、道路の雪が完全に解けているかどうか少し不安でした。まあ、行けるところまで行ってみよう、そう思って車で道を上り始めました。 見晴荘を過ぎ、キャンプ場を過ぎても雪は見えません。旧第2キャンプ場の高さでも確認できませんでした。路面はもちろん、道路脇にも雪はありませんでした。ようやく道路脇などに雪が見えたのは、パノラマハウスへ上る道の少し手前のカーブのところへ行ってからでした。 パノラマハウスの駐車場に着いたのは午後3時15分頃でした。車から降りて最初に目に入ったのは、長野県との県境にある1千b級の山々です。すでに雪解けが始まり、黒と白の山肌は大島の菖蒲高原から板倉の光ヶ原あたりまでずっと続いていました。時どき南風が吹いてきましたが、けっこう冷たかったですね。 何枚かの写真を撮ってから展望台のある山側を見ると、山の木々が赤くなっているところ、黄色くなっているところがありました。すでに芽吹きの準備が始まっていたのでしょう。展望台では、その端にあるピンク色の布切れが風を受けてあおられていました。そして、展望台へと続く急な坂の遊歩道が目に入りました。そこには雪が残っていました。先客があったようで、雪の上を歩いた跡もありました。 私もその道を登って展望台を目指すことにしました。ゆっくり登り始めたのですが、80`を超える体重では長靴でも雪に埋まります。長靴の中に少し雪が入ったのですが、「そういえば、今年の冬は雪に埋まるような道を歩いたことはなかったな」と懐かしさにも似た思いにひたりました。 遊歩道のまわりはツバキの木とヤマ竹が生い茂っています。雪道は20bほどで終わり、あとは土が出ていました。正直言うと、スミレなどいくつかの野の花との出合いがあるかも知れないと期待していたのですが、そういう展開にはなりませんでした。50bほど上に登って、斜め横につくられた遊歩道と一緒になるあたりで、ようやくフキノトウと出合いました。 展望台の少し前で再び雪道。今度は長靴にごそっと雪が入りました。木の枝につかまり、長靴を逆さにして雪を出したのですが、長靴の中は少し濡れてしまいました。 「わー、これはすごいや」と思ったのは展望台のらせん階段を上っているときでした。南魚沼の山々が真っ白になって輝いていたからです。展望台に上がってカメラを取り出し、何枚も撮影しました。魚沼の山々の左手前には刈羽の黒姫山があり、さらにその前には兜巾山があります。それぞれ、山の色合いが違い、見事な景色をつくりだしていました。 展望台には強く、冷たい風が吹き上げていました。ブナ林の沢から雪の上をかけのぼるようにして吹いてくるのです。アノラックを着ていって正解でした。 初めて登った3月の尾神岳。楽しみにしていた野の花で見ることができたのは、フキノトウとマンサクだけでした。そのかわり、魚沼の山々の白い絶景と初めて出合い、初めて見る野の花と同じくらいの喜びにひたることができました。 尾神岳は吉川区のシンボルで、標高757b。長年、ふもとに住んでいましたから、私にとってはふるさとそのものです。これからも登り続けたいと思います。 (2020年3月22日) |
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第598回 のぼり旗 昨年の12月だったと思います。友人のTさんが「橋爪さん、『あひる』、もう店を開けるのは難しいかも知れない」と言ったのは……。 「あひる」というのは直江津は石橋にある食堂・喫茶「あひる」のことです。お店を開店している日は、お店の東側駐車場に、「営業中」「日替わり定食」「コーヒー」の3本の旗が立っています。経営者のセイコさんは私と同郷で、吉川区尾神出身、旧源中学校の先輩です。 そのセイコさんがお店を休業することにしたのは昨年の12月です。元々、何度かのケガで足の弱かったセイコさんでしたが、どこかで「けっからんだ」らしく、歩き方は極端に弱弱しくなっていました。それだけではありません。顔色も悪く、ケガだけでなく、何か病気にかかっているのではないかとも思いました。Tさんだけでなく、多くのお客さんたちが心配しました。 でも、それから2か月半後、セイコさんは見事に復活、今年の2月の半ばにはお店を再開したのです。 私が再開したお店を訪ね、食事をしたのは、さらに半月後の3月上旬でした。 お店の西側の駐車場に車を止め、入り口のドアをゆっくり開けて、「はい、ごめんください。ありがとうございました」と声をかけました。すると、すぐに「どうも」という声がカウンターの中から、そして入り口のそばの客席からも聞こえてきました。セイコさんの娘さんのK子さんとセイコさん本人の声です。 セイコさんの姿を確認してから、「どうだね、調子は」と尋ねると、「まあまあ」という答えでした。でも表情は明るく、休業直前の頃とは雲泥の差です。改めて「顔色、良くなったねかね」と言うと、今度は「良くなった、良くなった」という言葉が返ってきました。さらにもう一言、「ちょっといいひとになったねかね」と言うと、セイコさんは遠慮がちにパチパチと拍手をして喜んでくださいました。 カウンター席に座ってから、いつものように日替わり定食を注文しました。セイコさんが作った料理は5、6分で出来上がり、K子さんが運んできてくれました。 カウンター席に運ばれた日替わり定食。この日は、ウインナー入りの炒めた卵、薄く切った大根、ニンジンにマヨネーズがかかったもの、白菜の漬物、それと思い出せませんが、あと1品、ついていました。 定食を食べながらテレビに目を向けると、新潟市でも発生した新型コロナウイルス感染患者のことが報じられていました。 食べ終わる頃、再びセイコさんに声をかけました。「切り絵の西山さん、きなる」と尋ねたところ、亡くなったお父さん譲りの人懐こい、くりくりした目をして「よく来ていただいている。ここ2、3日はきなんねけど」と言われました。 その言葉を聞いて、切り絵が貼ってある方向を見ると、奥の席には知り合いのOさんの姿がありました。「あら、知らん顔して……」と言うと、Oさんはいつものようにニコニコ顔でした。 Oさんのそばまで行って、壁に掛けてある西山さんの作品を見たら、大きな手の絵が目に留まりました。西山さんのこれまでの作風とは少し違っていて、新鮮な感じがしました。 「あひる」での昼食は3か月ぶりでした。セイコさんの元気なしゃべりも復活していて、ホッとしました。そしてお店を出て東側の駐車場を見たとき、うれしくなりました。赤い布地に白い文字で「営業中」と書かれたのぼり旗が青空をバックに堂々とはためいていたのです。 (2020年3月15日) |
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第597回 わら靴のおかげで 仕事柄、いろんな地域の家におじゃまします。そのなかで思わぬ出会いがあったり、懐かしい昔話を聞けたりする機会が少なくありません。 先日、大島区旭地区へ行ったときもそうでした。同地区は上越市屈指の豪雪地帯です。長靴をはいて行ったのですが、長靴が必要な家は1軒もありませんでした。ここも、今冬は異常ともいえる少雪で、木戸先の道にはまったく雪がなかったのです。 この日は4月と間違えそうなほど暖かい日が差していました。数年前、ブリ大根をご馳走になったことのある場所まで行った時、白い車で動こうとしていた人がいました。若い人かと思ったら、顔なじみのマコトさんでした。 マコトさんの自宅の玄関に入ると、すぐったワラを束にして大きくまとめたものが目に入りました。明らかにわら細工をするための材料です。懐かしい香りがふわっとしました。 私がわら細工に強い関心を持っていることを察知したのでしょうか、マコトさんは、「おい、橋爪さんだぞ」そういって奥の部屋にいたエツヨさんに声をかけてくださいました。 大きなワラの束を見て、「これ、なかなかいいねぇ」と言うと、エツヨさんは、待ってましたとばかりに、わらで作った直径60aくらいのザル状の大きな入れ物と小さな箒(ほうき)を2本を持ってきて見せてくださいました。 わら製の、大きな入れ物は、中心部から編んでいくのでしょうね。中心と思われるところから放射線状に広がった網目はとても美しく、人間の手でここまでやれるのかと驚きました。小さな箒には、もみ殻もちょっぴりついていて、素敵でした。 これだけでもすごいと思っていたところへ、今度はわら靴を持ってきてくださいました。小学校の低学年なら、はけそうなくらいの大きさです。このわら靴で昔話をしたくなる気持ちに火がつきました。 70年前、私をとりあげてくださった竹平の内山医院の助産師・フミ子さんは藤尾出身です。助産師の資格をとってから最初にとりあげた赤ん坊が私でした。そのことを話したところ、エツヨさんは昭和40年前後に2年間、内山医院で仕事をしたことがあるというのです。そしてエツヨさんは、私の知らない内山医院の活動の歴史を語ってくださいました。 内山医院のお医者さんが吉川区の上川谷まで往診してくださったことは知っていましたが、柏崎市の石黒(旧高柳町)まで、冬でも往診していたというのです。これは初耳でした。 上川谷の岩野や久保でもそうだったのでしょうか、雪がたくさん降っている時に石黒へ行くときは、道つけ要員を含め、4、5人で往診隊を作り、出かけたというのですからたいへんだったんですね。往診の帰りに、お医者さんは大好きなお酒を飲まれたとも聞きました。竹平出身の人は昔も今も酒好きの人が多いですね。 いまから5、60年前の小中学生の冬場の登下校の雪道についても話題となりました。角間の子どもたちは、夏場の道とは違い、角間から田麦につながる山の峰伝いの道を歩いて通ったというのです。おそらく、大人たちが道を踏み、その後ろを子どもたちが歩いたのでしょう。 話を聞いて、数十年前、蛍場の大人たちが子どもたちのために力を合わせて作ってくれた雪道のことを思い出しました。もちろん、どんなに雪が降ってもがんばって雪道を作ってくれた大人たちのことも……。エツヨさんのわら靴のおかげです。 (2020年3月8日) |
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第596回 暖かな午後に 人間と自然がつくりだす、平凡でありながらも、ホッとする光景に出合ったときはいいもんですね。 2月半ばの土曜日の午後4時頃のことでした。軽乗用車で市道高沢入線を走っていたとき、前方に、手押し車につかまりながら背中を丸くして歩いている女性の姿が目に入りました。 一目で、ああ、いいなぁと思いました。バックには杉林があって、手前の幅広い道路には暖かい日差しがそそいでいる。その道の端っこを歩く様子がとてもゆったりしていて、気持ち良さそうに見えたのです。 いったい誰だろう、そう思って近づいて見ると、ヒサエさんでした。率直に言って、どうして手押し車を使っているんだろうと思いました。いつも車を運転している姿を見てきただけに、信じられなかったのです。でも、歩くとなると、こういう「支え」が必要になっていたんですね。 車の窓を開け、「どうしなったね」と声をかけたところ、丸く、人懐こい顔をしたヒサエさんは「ずっと家の中にいたがだでも、天気いくなったすけ、清水が出るとこまで行ってこと思って」と言いました。 この日は午前中は曇り空で、ちょっぴり寒かったのですが、午後になってから日が差して来て、暖かくなりました。ヒサエさんは、この暖かさに誘われて、手押し車を頼りに散歩に出たのでした。 ヒサエさん宅からケヤキ林の近くにある清水の場所までは3百bほどあります。往復では6百bくらいの距離になります。道路はヒサエさん宅から百bくらいが少し下っていて、あとはほぼ平らですが、帰りは最後に上りが待っていることになります。いい運動になりますね。 話をはじめてまもなく、ヒサエさんが「バスが来たよ」と言うので、後方を見たら頸城自動車のバスでした。私は車を左端に移動しました。そしてバスが通り過ぎたあと、ヒサエさんは急にナナトリのことを話しだしました。 「おらちは景色いいすけ、こないだみてな雪が降ると、ナナトリ、よーく見えるがど……」 ヒサエさん宅の前庭からはナナトリを含む尾神の山々が見えるんですが、ヒサエさんが話したのは七曲がりになっている道のことです。いまはもう誰も通ることなく、荒れ放題となっている道ですが、雪が少し降って消え始めると、かつての道の形がくっきりと見えるのです。 今冬は雪が降ったり消えたりが何度も続いたので、私も七曲がりの道を写真に撮ることができました。子ども時代に慣れ親しんだ道が遠くからでも見えるとなると懐かしく、うれしくなります。 ひとしきりナナトリのことを話してから、ヒサエさんは手押し車に腰掛けて話を続けました。今度は運転免許証の話です。 「もうじき免許証の書き換えなんだでも、ねぇけりゃ医者にも行かんねし、買いもんにも行かんね。困ったもんだと思って……。でも、いつか区切りつけねきゃならん」 免許証の「書き換え」というのは更新のことです。ヒサエさんは今、80代半ばだと思います。春になったら誕生日を迎えるのでしょうか、車の運転を続けるべきかどうか迷っている様子が伝わってきました。 午後の暖かい日差しの下でヒサエさんと話したのはせいぜい5、6分だと思います。でも、その時間は不思議なくらいゆったりと流れていました。このところ、時間を気にしながら飛び回っていただけに、ヒサエさんとの一緒の時間が私にはとても心地よく感じられました。 (2020年2月23日) |
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第595回 一枚のベニヤ板 1月9日。毎週発行の活動レポートの印刷が終わって約30分後、大潟区の旧国道を走っていると、弟の姿が見えたので、車を止めて声をかけました。 1、2分話をしたところで、弟が、「兄貴、面白いものを見せてやるわ」と言って、自分の家の裏へ行きました。弟のことだろうから、私が懐かしく思うものを見せてくれるんだろうと思っていたら、やはりそうでした。 弟が持ってきたのは日本共産党の大型ポスターが貼られたベニヤ板で、縦80a、横60aほどの大きさです。弟は私のところへくると、そのベニヤ板をくるりと回しました。見た瞬間、あっと思いました。ベニヤ板の裏側には、なんと、11年前に亡くなった父の文字が書かれていたのです。それも、すべて白墨で書かれていました。ところどころ、薄くなっていましたが、何とか読むことができます。 私の記憶では、きれいな文字を書く母と違って、父の文字は丸みのある、べろべろとした文字で、読みにくいと思っていました。しかし、ベニヤ板に書かれた文字は角ばるべきところは角ばり、はねるところはちゃんとはねてあります。〇(まる)を書いて、下にピッと線を引く数字の9など、いかにも父らしい書き方のところが一部にありましたが、全体としては丁寧で読みやすい文字になっていました。 父がベニヤ板に書いていたのは、仔牛に飲ませる牛乳、粉ミルクなどの量です。横にしたベニヤ板の上段には1から15までの数字が並んでいて、生まれて4日間は1回に2g、5日目より牛乳3.・5gなどと書いてありました。8日目から15日目までは粉ミルクの量が書いてあります。最初は粉ミルクが100c、それが14日目には400cとなります。順次増やしていくんですね。ミルクを溶かす温水の量も1g段階から2g段階までありました。16日目以降については白墨の字が薄くなっていてわかりませんでした。 このベニヤ板は、わが家の牛舎にあったものです。生まれたばかりの仔牛を下痢をさせずにしっかり育てる。これは簡単そうでなかなか難しいことでした。仔牛をまともに育てられず、何頭も死なせてしまった経験のなかで、父は自分でつかんだ仔牛育ての技術を記録していたのです。 でも、このベニヤ板は、6年前に牛舎を解体した段階で廃材と共に処分したものと思っていました。それを几帳面な性格の弟がとっておいてくれたんですね。いいことをしてくれました。 弟からこのベニヤ板を見せてもらったとき、すぐにスマホで撮影しました。そして、「父の仕事の記録」というタイトルを付けてインターネットで発信しました。 すると、「これは貴重な家族遺産ですね」、「なんだか泣けてきます」などといったコメントがいくつも寄せられました。それだけでもうれしいのですが、びっくりしたのは、このベニヤ板の記録をよく読んで、父の技術を評価するコメントも寄せられたことです。 長野県の酪農家の湯本さんは、「参考(に)させていただきます。粉ミルクに加える温水量を増やす目安」と書いてくださいました。獣医師だった福井県の坂井さんも「立派に通用する技術です。どこかの、畜産機関に見せてあげてください」というコメントを寄せてくださいました。 父が亡くなって11年目の冬。まさか牛飼いとしての父の執念を再発見するとは……。50数年前、妻や子どもたちと一緒に暮らそうと出稼ぎをやめ、酪農を始めた父に再び尊敬の念をいだきました。 (2020年2月16日) |
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第594回 春になったら 真冬とは思えない青空が広がった日、叔父が入所している介護施設に今年初めて行ってきました。約3か月ぶりです。 9時40分過ぎに施設に到着し、手を消毒していると、スタッフの方が、「橋爪さんですね」と声をかけてくださいました。1年に何度か訪問していますので施設のスタッフの方も私の名前を覚えていてくださったようです。 談話室のドアを開けると、3、4人の方がそれぞれの名前が書かれたテーブルに座っておられました。叔父はいつもより南側のテーブルのそばで立っていました。どこかへ行こうとしていたタイミングだったのかも知れません。 私がマスクをしていたこともあって、叔父は最初、私が誰か分からなかったようです。「おはようございます」とよそいきの挨拶をしていました。 私がすかさず、「父ちゃん、オレだよ」そう声をかけたら、叔父は私の声でわかったようです。「ようーっ、ありがとうね、何年ぶりだね」ときました。おやおや、昨年の秋も来ているんですがね。私についての記憶は少し飛んでしまったのでしょう。 談話室の外を見ると、雪が全くない風景が広がっています。叔父とは自然と、まもなくやってくる春の話になりました。 「今年の冬は、雪ねえすけ、体、いつもより楽だわね」 「オレ、春になったら、家、帰りて、たまには……」 「そんどきはオレにまかしてくんない。乗せていってやんでね」 「ありがとね。オレも5月になりゃ、ゼンメ、とらんきゃならん。300株、植えてあるがすけ、たいへんなんど……、茹でて、ほさんきゃならんすけね」 「ほしゃ、一反くれ、ゼンメの畑、あるがかね」 「なして、そんがにね。三畝ぐれかね」 叔父のしゃべる様子を見ていたら、ゼンメ(ゼンマイのこと)採りのことから茹でて干すことまでのことを本気で考えている雰囲気がありました。 「春になったら」の話が一段落したところで、いつものようにスマホを取り出し、まず母の写真を見てもらいました。母の笑顔いっぱいの写真を見た叔父は、「まあ、達者だね」と言いました。 続いて尾神岳や米山さんの風景写真です。今年は晴れの日が多く、2つの山と青空の写真を何回も撮ることができました。私のような素人でも、けっこうきれいに撮れています。叔父は喜んでくれました。 最後はサイの神の写真です。サイの神の写真は川谷、川袋、代石の写真がありました。このうち、川谷のものは動画で見てもらいました。叔父は、「よく燃えてるねぇ、ここでもやったがど」そう言って画像を食い入るように見つめていました。 叔父は昨年の年末で満94歳になりました。よく考えてみたら、叔父は介護施設に入所してから、家に帰ったという話を聞いたことがありません。おそらく一度も家に帰っていないのだと思います。 そのことに気づいたら、「春になったら、家に帰りたい」そう言った叔父の願いに必ず応えてあげたいと思いました。畑に行ってゼンメ採りができようができまいがどうでもいいのです。とにかく、一度、長年住んでいた自分の家の姿を見て、喜んでもらいたいのです。 面会が終わると、叔父は今回も玄関口まで私を送りに出てくれました。百bほど車を走らせ、振り返ってみたら、叔父はまだ盛んに手を振っています。待っててくんないや、春になったら必ず迎えに来るすけ。 (2020年2月9日) |
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第593回 一枚の写真 先日、一枚の写真と出合い、心をブルッと揺すぶられました。昔の写真ではありません。昨年の秋に撮られた一枚のスナップショットです。 そこには、冬の風よけ設置の作業をしているRさんの姿が写っていました。Rさんはハシゴの上から2つ目の高いところに両足をのせ、何かの道具を使って作業をしていました。おそらく、風よけの骨組みの部分と支え棒となる鉄パイプをつなぐところだったのでしょう。 この写真を見たのは、市内のあるセレモニーホールの一角に設置された故人の思い出コーナー。写真はモニター画面に映し出された何枚かのうちの一枚でした。私は葬儀が一区切りした、出棺までのわずかな時間帯に、この写真を見せてもらいました。 Rさんの作業写真のことを知ったのは、喪主を務めた息子さん、Hさんの参列者へのお礼の挨拶のときでした。Hさんは父親のRさんと最後に交わした言葉、救急車で病院に運ばれてから亡くなるまでのこと、家族の中でのRさんの仕事ぶりのことなどを話した後、家の北側にある風よけ設置作業について語りはじめました。 Hさんによると、父親のRさんは80を超え82歳になっているし、そろそろ、自分も風よけづくりを覚えなければと思い、昨年の秋、Rさんに教えてほしいと願い出たそうです。Rさんは喜び、「Hが手伝ってくれる」とお連れ合いに報告しました。 言うまでもなく、HさんがRさんと一緒に風よけづくりの作業をするのは初めてでした。一緒に作業をしていて、Hさんはびっくりしたそうです。というのも、82歳の父親がハシゴの6、7段までさっと登り、下でハシゴを押さえているときは9段まで登って行ったというのです。身のこなし方が軽く、テキパキと仕事をしている。高いところが苦手のHさんはその仕事ぶりに感心しました。同時にHさんは、Rさんの背中が思っていた以上に大きかったことを知ったといいます。 Hさんの話を聴いている時、私は何度かRさんの遺影を見ました。Hさんの話を聴いていて、Rさんの顔を見たくなったからです。Rさんの遺影は、桜の花をバックにした笑顔いっぱいの写真ですが、ふだんのRさんの、ありのままの表情が写真に出ていました。 改めてRさんの遺影を見たくなったのは、Hさんの目のせいです。目そのもののやさしさも、眼の動かし方も百パーセント父親と同じだと思ったのです。そして、Hさんが話をする時の両足の開き方、手を後ろにもっていく仕草もどこかで見たことがあるなと思ったら、Rさんと同じでした。すべて父親譲りだったんですね。 冒頭の一枚の写真は、Hさんの挨拶のなかで紹介されました。父親の作業する姿を見て父親のすごさを再認識したというそのときの写真。話を聴いていた私は、すぐにでもこの写真を見てみたいと思いました。 Rさんの写真については、家族などとの集合写真はあるけれど、仕事をしているときの、ごく自然なスナップ写真がきわめて少ないとのことでした。それだけに、風よけづくりの作業写真は、Rさんのしっかりとした仕事ぶりを知るうえでも貴重な写真の一枚となりました。 作業中のRさんの姿を撮ったのはたぶん、Hさんだと思います。ハシゴを押さえながら、下から写真を撮ったのでしょう。バックには青い空が広がり、農道を挟んだ北側にはオレンジ色の実がついた柿の木も見えます。写真を見ていたら、「おい、ハシゴ、しっかり押さえていてくれよ」というRさんの声が聞こえてきそうでした。 (2020年2月2日) |
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第592回 ショート帰りの母と 3泊4日のショートステイを終えて、母が家に戻ってきました。今回は家庭の事情で急な泊まりとなったことから、母がどんな顔をして戻ってくるか少し心配でした。 スタッフからワゴン車で送ってもらって家に到着する予定時間は午後3時45分から4時15分の間。施設からはそういう連絡をもらっていましたので、家の前で母を待っていると、花梨(かりん)の木の下に白いものが見えました。 何だろうと近づいてみたら、なんと、それはニホンズイセンの花でした。普通の冬なら雪の下になっていますから、花を見るのはずっとあとなんですが、今年はまったく雪がないし、花も咲いたんですね。 車が到着したのは午後3時45分頃でした。スタッフのOさんから降ろしてもらい、玄関へ。母は足取りもまずまずで、ショートに行った時とまったく変わりない表情で家に入りました。 コタツのそばの電動イスに座った母は、しばらく居間の四方の壁などを見上げていました。毛布などが干してあったので、いつもと違って見えたのでしょう。 「どうだったね」 と声をかけると、 「デイサービスで、男がいないとダメどそってたけど、おらちはとちゃ、いるすけ、いかっとぉ」 ショートに入ったのは日曜日の夕方でした。その日は、昼間は近くのデイサービスに行っていたのですが、そこで、誰かと話でもしたのでしょうか。 「だれか知っている人に会ったかね」 そう言って母に尋ねたところ、 「原之町のとこやのおばあちゃんと一緒になったよ。それから、山中の人とも一緒になった」 と答えが返ってきました。私からは、 「知っているしょと一緒でいかったねや」 と言ったのですが、母は「うん」とひと言しゃべっただけで、テーブルの上にあったミカンを、ゆっくり食べ始めました。それも目をつむりながら……。 母は時どき、目をつむったり、開けたりしながら物を食べます。ミカンを食べている母を見ながら、また声をかけました。 「おまんいね間にスイセン咲いと」 「外のスイセンの花か」 「うん。そうだよ。ほら、見てみない」 私の携帯の写真を見せると、目をしっかり開けました。 「まあ、これ、おらちんがか、きれいなもんだない」 「……」 「こりゃ、ぞくぞくっと咲くすけな、花いっぱいに」 「おまん、おらちの庭にスイセンあるが知ってたかね」 「知ってたこてや。牛舎のそばの畑の長いところにもあるよ。ちょっと小高いとこ」 母がミカンを食べていた時、私は千葉からもらった落花生を食べていました。私が食べていた落花生に母の視線が向いたところで、話題を変えました。 「おまんも千葉の落花生、食べるかね」 「いま、いい。千葉のエツオちゃん、くんたがろ、カレンダーと一緒に」 「そだよ」 「中条の佐藤さんに、早くとらんと、タヌキに食べらんちゃうよ、といわんたがど」 「なにね」 「落花生だこてや。牛舎のそばの畑で落花生植えたらいっぺなったがど……」 この時、母と話したのは正味10分くらいだったでしょうか。でも、母と話した時は時間がゆっくり流れていく感じがしました。どうあれ、母が元気で良かったです。 じき暗くなる、5時になりゃ、暗くなる。 (2010年1月26日) |
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第591回 えご 「えご」をご存じでしょうか。「自分中心」といった意味のエゴではありません。食べ物の「えご」です。 先日、従兄の家でお茶をご馳走になった際、久しぶりに「えご」と出合いました。従兄の連れ合いのA子さんが出してくれたのです。「えご」は私の好物の一つ、ちょっぴり醤油をかけていただきました。 A子さんが出してくれたものは、この「えご」だけでなく、手づくりサラダを含め、みんな美味しかったのですが、そのなかでも「えご」は味といい、少しざらっぽい舌触りといい、最高でした。 「えご」は子どもの頃から食べてきた郷土料理です。 わが家では、母が作ってくれました。 蛍場にわが家があった時代、わが家は柏崎市笠島から赤色の「えご草」を仕入れました。それを母が洗って、カヤとかヨシ、場合によってはワラの上にのせて日にさらしていました。こうすると白くなるのです。家のそばで、さらしているときの、ほのかな磯の香り、忘れられないですね。 母によると、いくらきれいに洗ったつもりでも、細い棒や屑が入っていることが多かったとか。天日干しした時点で、それらを選別し、捨てたと言います。 その後の「えご作り」は、どこの家でもやっている通りです。水を一定量入れて「えご」を煮る。鍋の底で焦げ付くことがないように、ゆっくりと混ぜながらとろみがつくまでやる。それで、あとは固めて冷やせば出来上がりとなります。 従兄の家でいただいた「えご」には辛子がのせてありました。従兄の居住地域では醤油と辛子で食べるんですね。わが家では酢味噌でしたが、私はどっちも好きです。 従兄の家でのお茶会は、A子さんだけでなく、隣集落のJ子さんも一緒でした。「えご」をゆっくり味わいながら、私も時どきしゃべりましたが、おしゃべりの中心は2人の女性です。 最初はやはり「えご草」をめぐる話題でした。「採る人が少なくなったらしい」という話から始まって、「売っているところも少なくなった」とか「えごを練る人も減ってきているこて……」といった調子で話が弾んでいきました。最近、「えご」を口にする機会が少なくなったのにはそれなりの背景があったんですね。 続いて、地元の話題です。「おらほでも空き家が増えてきたこて。切ないね。夫婦して施設に入ってる人もいなるし……」、「子どものところへ行っても付き会う人がいればいいけど、いないとね……。また元の所に帰ることがあるすけ、家は残しておいた方がいいかも」。こういった話は、他人ごとではありません。そうそう、近くのお寺の住職さんが交通事故にあったらしいという話も出ました。心配です。 そうこうしているうちに、従兄が戻ってきて、それからは4人でのお茶会です。田んぼをたくさん耕作している従兄からは、「夏の田んぼの水が心配だ」「最近は九州でも北海道でもうまいコメがとれる」「夏場は空からも水が落ちてこないと等級は下がる」などといった話が出ていました。異常気象で再び不作となることが心配なんですね。 従兄の家で、「えご」の味をほめたら、A子さんに「おまんちのお母さんも上手でいなる」と言われました。そう言えば、母の作った「えご」、もう5、6年は食べていません。残念ながら、母が作るのはもう無理です。先日、インターネットで調べたら、笠島産の「えご草」を使った「えご」の作り方が動画で紹介されていました。今度は母に食べさせてあげたいものです。 (2020年1月19日) |
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第590回 母の年賀状 今回は年賀状をめぐる話。1月5日の夜のこと、95歳の母から不安というか気になることを聞きました。 95を過ぎて、年賀状に返事を出すだけでもえらいと思って、母に「杉のかちゃにも書いたがか」と訊くと、「書いたと思うな。板山のキイちゃには、バイバイと書いたもん」と答えたのです。 年賀はがきに「バイバイ」と書いた。考えすぎだと思われるかも知れませんが、その言葉がこの世からサヨナラする言葉のように思えました。「キイちゃ」というのは母の実家の隣で育ち、板山へ嫁に行ったキエさんのことです。 「そう言えば、あの時の年賀状にバイバイと書いてあったもんね」、そんな言葉が出るような事態が起きないようにと願いつつ、私は考えました。「ならば、いまのうちに母をキエさんのところに連れていこう」。年賀状が届いた後に、ちゃんと会っていれば、そういう事態は避けられると判断したのです。 翌日の午後、会議が早めに終わったので、「よし、きょうのうちに行ってこよう」とキエさんに電話を入れたところ、「まあ、うれしい。来てくんない」という返事でした。急な話ではありましたが、母も乗り気で、すぐに「行く」と、私の誘いに応じました。 雪は降っていなかったので、吉川区の川谷地区を通って、キエさんが住んでいる大島区板山を目指しました。 途中の山々は、母にとっても私にとっても懐かしい風景です。わが家の田んぼや畑があったナナトリ(地名)を見た母は、「名木山のミネ(屋号)んしょの林とおらちの田んぼ3枚、物物交換した」と言いました。「音治郎じちゃ、その林で炭焼いた」とも。よく覚えているものです。 石谷では、タキ(屋号)の和子さんとも会いました。母は「耳遠くなって……」と言うと、和子さんはニコニコして「頑張りましょう」と両手の親指を立てて、母を励ましてくださいました。 わが家から板山までは車で40分足らずで着きます。「おーい」と呼びかけ、キエさん宅に上げてもらった母は、薪ストーブのそばに座らせてもらいました。 キエさんは、「いかったじゃ。そこだら背中あぶりになるすけ……。はあ、いかった。あったかいろ、そこ」と言ってから、コタツの長いテーブルの上に次々とご馳走を出してくれました。 キエさんが「ごった煮だ。年とったら、味、落ちちゃって」と言って出してくれた料理にはセリ、ウインナー、竹輪、ネギ、豆腐、茹で玉子などが入っていました。 気になっていた年賀状について、私から「おかしな年賀状やったてが、もうしゃけねかったね」と言うと、「なして、いい年賀状だったよ。95にもなってこんがん書けるがすけたいしたもんだ」との言葉が返ってきました。 キエさんから「こんがん書ける」とほめられた年賀状を見せてもらいました。そこには、「きえちゃん、お元気ですね。年賀状有りがとうございました。雪のない正月でなによりです。風ひかないやうに頑張ってね。バイバイね」と数行書いてありました。何のことはない、バイバイは通常の挨拶の言葉だったのです。ほっとしました。 食欲旺盛な母は、煮物を黙々と食べ続けました。その母にキエさんは、「風邪ひかんかったかね」と声をかけました。すると、母は、「おら、ひかんよ。コタツにもぐっているもん」。私は、ふだん、ネコのようにコタツにもぐって寝ている母を思い出し、笑ってしまいました。 (2020年1月12日) |
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第589回 高齢者講習 歳を重ねると、いろんなことがありますね。私は3か月後に70歳を迎えますが、70歳にならないうちに高齢者講習の案内ハガキが来てびっくりしました。 正直言うと、「まだ、70になっていないのに何かの間違いじゃないか」そう思って、ちょっとムッとしました。でも、間違いではありませんでした。道路交通法にある高齢者講習のことを私がよく知らなかっただけのことでした。運転免許証更新前に高齢者講習を受ける義務があって、更新時には高齢者講習終了済みの証明書が必要だったのです。 高齢者講習の日は11月28日。ハガキには講習の日時が書かれていて、都合の良し悪しを自動車学校へ連絡することになっていました。「この頃なら予定通り講習を受けられる」と判断し、返事をしました。 高齢者講習の当日、私は講習の会場である柿崎自動車学校に初めて行きました。免許を取る時に世話になった学校ではないかと思われるかも知れませんが、自動車の運転免許は大学を卒業した1972年(昭和47)6月、個人指導で取得したので、自動車学校に通っていなかったのです。 講習会場には私のほか、同じ年齢の男性が1人、女性が4人参加していました。女性のうち2人は明らかに見たことのある顔でした。でも、1回会っただけで強く印象に残るレベルの特徴がある人ではなく、どこで会ったか思い出せません。それがずっと気になりました。 講習会では、まず高齢者が安全運転するためのビデオを全員で見て、その後、2組のグループに分かれ、決められたコースを運転しました。 私のグループは3人。私以外の2人は女性でした。コースまわりは合格、不合格がつくわけではなかったのですが、やはり緊張しました。というのも、すでに高齢者講習を受けた人から、免許を取る時に苦戦したSクランクや車庫入れもある、そう聞いていたのです。 コースまわりに使う乗用車は普通車でした。普段、軽乗用車に乗っている者としては、普通車の車体は広く、長いとあって、運転感覚が微妙に違います。でも、乗った時点で、「まあ、ゆっくり走れば問題ないだろう」という気持ちになれました。 後から考えると、それが良かったのかも知れません。 まず第1難関、車庫入れ。大きく前に出て、後ろを見ながらバックすると、丁度真ん中にピタリと止まりました。100点です。日頃、曲がったり、ナナメに止まったりするものですから失敗を覚悟していたのですが、杞憂に終わりました。 もうひとつの難関、Sクランク。これも脱輪することなく、無難にこなしました。 講習で一番問題だったのは視力です。視力検査では夜間視力、動体視力とも思っていた以上に低い数値でした。特に動体視力は速度30`で0.1であり、がっくりでした。これだから、私の車の前を横断するタヌキに気づかないことがあるんですね。 目に関しては視野検査もありました。この検査で初めて確認できたのは、左右の目にある盲点の存在です。前方15度ほどの右または左にあるんですね。実際に確認できたことがじつに新鮮でした。 こうして、高齢者講習は無事修了したのですが、運転免許証更新時に必要だという高齢者講習修了証を同日、紛失して大騒ぎとなりました。どこにしまいこんだのかわからなくなってしまったのです。私が普段使っている机の左の引き出しの中から見つけたのは、何と33日後でした。大事にしまったことをどうして忘れたのか……。 (2020年1月5日) |
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第588回 12月の凍み渡り もうほとんど消えてしまいましたが、今冬は雪が早かったですね。多いところでは、50aほどの積雪となったようです。 「えっ、まさか」と思ったのは、凍み渡りができたという知らせです。 12月9日の朝のことでした。市内山間部に住むAさんが、フェイスブックで、「初、しみわたり」という見出しをつけて発信してくれたのです。 おはようございます(^^) いや〜 ガリンガリン、つるんつるんの朝 そして空は青空〜 だから今朝は一番の寒さかな。 今年初、しみわたり〜(^^) しみわたりってご存じでしょうか? さむーい朝に雪がかたくなり、その上を 歩いていけること。いっときの楽しみな んですよ。 雪の上をウサギかな〜 足跡も発見。 しみわたりができる〜ってなったら、 ワクワクウキウキ……(中略)…… サクサク、ザクザクって音がまたワクワ ク感をアップさせます(笑) どうです、素敵な文章でしょう。この文章を読んだだけでも雪の上を歩いたときの楽しい気分にひたることができるのではないでしょうか。たぶん、Aさんは、自宅の近くの田んぼかグラウンドで凍み渡りをされたんだと思います。 Aさんの発信には、この文章と共に写真も添えられていました。ブーツをはいて雪の上にあがった時の様子を自撮りした写真です。青いスカートの下ですらりと伸びた足とそれをしっかり守っているブーツはまったく埋まっていませんでした。 改めて言うまでもないと思いますが、凍み渡りとは、凍った雪の上を歩くことを言います。前日は晴れて、その夜は地上の熱がどんどん逃げていき、翌朝は冷え込む。放射冷却現象が起きたときに、雪が凍ってガチガチになるのです。道路はまさに「ガリンガリン、つるんつるん」、大地はすべて「雪コンクリート」、こうして凍み渡りができるようになります。 当然のことながら、凍み渡りができるためには一定の積雪がなければなりません。少なくても30a前後は積もっていることが必要だと思います。 それにしても12月に凍み渡りができるとは思いませんでした。やはり異常気象なのでしょうか。雪国で生まれ、雪国で育った人間ですから、ずっと冬を見てきましたが、12月に凍み渡りしたという話は初めて聞きました。 これまで、私が一番早く凍み渡りできたのは4年前の1月21日の朝でした。この日の日記には次のように書きました。 「冷え込みました。今冬で一番でしょう。おはようございます。今朝はカメラを持つ手が冷たい、というよりも痛いです。雪の上にのぼっても足がうまりません。近くの雪原をゆっくり歩き回りました。1月に凍み渡りができるとは思いませんでした。いつも思うのは、凍み渡りをしているときの解放感。最高です、雪国、最高です」 今冬の初の凍み渡りが私が体験した時よりもさらに1ヶ月以上早いとなれば、今冬は、長期間に何度も凍み渡りができるかも知れません。 どうあれ、凍み渡りは冬の間に少なくとも一回はやりたいものです。出来れば、私が育った蛍場の野山をどんどん歩いて、子ども時代の遊び仲間を思い出したい。そしてウサギやヤマドリにも会ってみたい。 (2019年12月29日) |
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