春よ来い(25) 
 

第595回 一枚のベニヤ板

 1月9日。毎週発行の活動レポートの印刷が終わって約30分後、大潟区の旧国道を走っていると、弟の姿が見えたので、車を止めて声をかけました。

 1、2分話をしたところで、弟が、「兄貴、面白いものを見せてやるわ」と言って、自分の家の裏へ行きました。弟のことだろうから、私が懐かしく思うものを見せてくれるんだろうと思っていたら、やはりそうでした。

 弟が持ってきたのは日本共産党の大型ポスターが貼られたベニヤ板で、縦80a、横60aほどの大きさです。弟は私のところへくると、そのベニヤ板をくるりと回しました。見た瞬間、あっと思いました。ベニヤ板の裏側には、なんと、11年前に亡くなった父の文字が書かれていたのです。それも、すべて白墨で書かれていました。ところどころ、薄くなっていましたが、何とか読むことができます。

 私の記憶では、きれいな文字を書く母と違って、父の文字は丸みのある、べろべろとした文字で、読みにくいと思っていました。しかし、ベニヤ板に書かれた文字は角ばるべきところは角ばり、はねるところはちゃんとはねてあります。〇(まる)を書いて、下にピッと線を引く数字の9など、いかにも父らしい書き方のところが一部にありましたが、全体としては丁寧で読みやすい文字になっていました。

 父がベニヤ板に書いていたのは、仔牛に飲ませる牛乳、粉ミルクなどの量です。横にしたベニヤ板の上段には1から15までの数字が並んでいて、生まれて4日間は1回に2g、5日目より牛乳3.・5gなどと書いてありました。8日目から15日目までは粉ミルクの量が書いてあります。最初は粉ミルクが100c、それが14日目には400cとなります。順次増やしていくんですね。ミルクを溶かす温水の量も1g段階から2g段階までありました。16日目以降については白墨の字が薄くなっていてわかりませんでした。

 このベニヤ板は、わが家の牛舎にあったものです。生まれたばかりの仔牛を下痢をさせずにしっかり育てる。これは簡単そうでなかなか難しいことでした。仔牛をまともに育てられず、何頭も死なせてしまった経験のなかで、父は自分でつかんだ仔牛育ての技術を記録していたのです。

 でも、このベニヤ板は、6年前に牛舎を解体した段階で廃材と共に処分したものと思っていました。それを几帳面な性格の弟がとっておいてくれたんですね。いいことをしてくれました。

 弟からこのベニヤ板を見せてもらったとき、すぐにスマホで撮影しました。そして、「父の仕事の記録」というタイトルを付けてインターネットで発信しました。

 すると、「これは貴重な家族遺産ですね」、「なんだか泣けてきます」などといったコメントがいくつも寄せられました。それだけでもうれしいのですが、びっくりしたのは、このベニヤ板の記録をよく読んで、父の技術を評価するコメントも寄せられたことです。

 長野県の酪農家の湯本さんは、「参考(に)させていただきます。粉ミルクに加える温水量を増やす目安」と書いてくださいました。獣医師だった福井県の坂井さんも「立派に通用する技術です。どこかの、畜産機関に見せてあげてください」というコメントを寄せてくださいました。

 父が亡くなって11年目の冬。まさか牛飼いとしての父の執念を再発見するとは……。50数年前、妻や子どもたちと一緒に暮らそうと出稼ぎをやめ、酪農を始めた父に再び尊敬の念をいだきました。

     (2020年2月16日)

 

 

第594回 春になったら

 真冬とは思えない青空が広がった日、叔父が入所している介護施設に今年初めて行ってきました。約3か月ぶりです。

 9時40分過ぎに施設に到着し、手を消毒していると、スタッフの方が、「橋爪さんですね」と声をかけてくださいました。1年に何度か訪問していますので施設のスタッフの方も私の名前を覚えていてくださったようです。

 談話室のドアを開けると、3、4人の方がそれぞれの名前が書かれたテーブルに座っておられました。叔父はいつもより南側のテーブルのそばで立っていました。どこかへ行こうとしていたタイミングだったのかも知れません。

 私がマスクをしていたこともあって、叔父は最初、私が誰か分からなかったようです。「おはようございます」とよそいきの挨拶をしていました。

 私がすかさず、「父ちゃん、オレだよ」そう声をかけたら、叔父は私の声でわかったようです。「ようーっ、ありがとうね、何年ぶりだね」ときました。おやおや、昨年の秋も来ているんですがね。私についての記憶は少し飛んでしまったのでしょう。

 談話室の外を見ると、雪が全くない風景が広がっています。叔父とは自然と、まもなくやってくる春の話になりました。
 「今年の冬は、雪ねえすけ、体、いつもより楽だわね」
 「オレ、春になったら、家、帰りて、たまには……」
 「そんどきはオレにまかしてくんない。乗せていってやんでね」 「ありがとね。オレも5月になりゃ、ゼンメ、とらんきゃならん。300株、植えてあるがすけ、たいへんなんど……、茹でて、ほさんきゃならんすけね」
 「ほしゃ、一反くれ、ゼンメの畑、あるがかね」
 「なして、そんがにね。三畝ぐれかね」  

 叔父のしゃべる様子を見ていたら、ゼンメ(ゼンマイのこと)採りのことから茹でて干すことまでのことを本気で考えている雰囲気がありました。

「春になったら」の話が一段落したところで、いつものようにスマホを取り出し、まず母の写真を見てもらいました。母の笑顔いっぱいの写真を見た叔父は、「まあ、達者だね」と言いました。

 続いて尾神岳や米山さんの風景写真です。今年は晴れの日が多く、2つの山と青空の写真を何回も撮ることができました。私のような素人でも、けっこうきれいに撮れています。叔父は喜んでくれました。

 最後はサイの神の写真です。サイの神の写真は川谷、川袋、代石の写真がありました。このうち、川谷のものは動画で見てもらいました。叔父は、「よく燃えてるねぇ、ここでもやったがど」そう言って画像を食い入るように見つめていました。

 叔父は昨年の年末で満94歳になりました。よく考えてみたら、叔父は介護施設に入所してから、家に帰ったという話を聞いたことがありません。おそらく一度も家に帰っていないのだと思います。

 そのことに気づいたら、「春になったら、家に帰りたい」そう言った叔父の願いに必ず応えてあげたいと思いました。畑に行ってゼンメ採りができようができまいがどうでもいいのです。とにかく、一度、長年住んでいた自分の家の姿を見て、喜んでもらいたいのです。

 面会が終わると、叔父は今回も玄関口まで私を送りに出てくれました。百bほど車を走らせ、振り返ってみたら、叔父はまだ盛んに手を振っています。待っててくんないや、春になったら必ず迎えに来るすけ。

  (2020年2月9日)

 
 

第593回 一枚の写真

 先日、一枚の写真と出合い、心をブルッと揺すぶられました。昔の写真ではありません。昨年の秋に撮られた一枚のスナップショットです。

 そこには、冬の風よけ設置の作業をしているRさんの姿が写っていました。Rさんはハシゴの上から2つ目の高いところに両足をのせ、何かの道具を使って作業をしていました。おそらく、風よけの骨組みの部分と支え棒となる鉄パイプをつなぐところだったのでしょう。

 この写真を見たのは、市内のあるセレモニーホールの一角に設置された故人の思い出コーナー。写真はモニター画面に映し出された何枚かのうちの一枚でした。私は葬儀が一区切りした、出棺までのわずかな時間帯に、この写真を見せてもらいました。

 Rさんの作業写真のことを知ったのは、喪主を務めた息子さん、Hさんの参列者へのお礼の挨拶のときでした。Hさんは父親のRさんと最後に交わした言葉、救急車で病院に運ばれてから亡くなるまでのこと、家族の中でのRさんの仕事ぶりのことなどを話した後、家の北側にある風よけ設置作業について語りはじめました。

 Hさんによると、父親のRさんは80を超え82歳になっているし、そろそろ、自分も風よけづくりを覚えなければと思い、昨年の秋、Rさんに教えてほしいと願い出たそうです。Rさんは喜び、「Hが手伝ってくれる」とお連れ合いに報告しました。

 言うまでもなく、HさんがRさんと一緒に風よけづくりの作業をするのは初めてでした。一緒に作業をしていて、Hさんはびっくりしたそうです。というのも、82歳の父親がハシゴの6、7段までさっと登り、下でハシゴを押さえているときは9段まで登って行ったというのです。身のこなし方が軽く、テキパキと仕事をしている。高いところが苦手のHさんはその仕事ぶりに感心しました。同時にHさんは、Rさんの背中が思っていた以上に大きかったことを知ったといいます。

 Hさんの話を聴いている時、私は何度かRさんの遺影を見ました。Hさんの話を聴いていて、Rさんの顔を見たくなったからです。Rさんの遺影は、桜の花をバックにした笑顔いっぱいの写真ですが、ふだんのRさんの、ありのままの表情が写真に出ていました。

 改めてRさんの遺影を見たくなったのは、Hさんの目のせいです。目そのもののやさしさも、眼の動かし方も百パーセント父親と同じだと思ったのです。そして、Hさんが話をする時の両足の開き方、手を後ろにもっていく仕草もどこかで見たことがあるなと思ったら、Rさんと同じでした。すべて父親譲りだったんですね。

 冒頭の一枚の写真は、Hさんの挨拶のなかで紹介されました。父親の作業する姿を見て父親のすごさを再認識したというそのときの写真。話を聴いていた私は、すぐにでもこの写真を見てみたいと思いました。

 Rさんの写真については、家族などとの集合写真はあるけれど、仕事をしているときの、ごく自然なスナップ写真がきわめて少ないとのことでした。それだけに、風よけづくりの作業写真は、Rさんのしっかりとした仕事ぶりを知るうえでも貴重な写真の一枚となりました。

 作業中のRさんの姿を撮ったのはたぶん、Hさんだと思います。ハシゴを押さえながら、下から写真を撮ったのでしょう。バックには青い空が広がり、農道を挟んだ北側にはオレンジ色の実がついた柿の木も見えます。写真を見ていたら、「おい、ハシゴ、しっかり押さえていてくれよ」というRさんの声が聞こえてきそうでした。  

 (2020年2月2日)

 

 

第592回 ショート帰りの母と

 3泊4日のショートステイを終えて、母が家に戻ってきました。今回は家庭の事情で急な泊まりとなったことから、母がどんな顔をして戻ってくるか少し心配でした。

 スタッフからワゴン車で送ってもらって家に到着する予定時間は午後3時45分から4時15分の間。施設からはそういう連絡をもらっていましたので、家の前で母を待っていると、花梨(かりん)の木の下に白いものが見えました。

 何だろうと近づいてみたら、なんと、それはニホンズイセンの花でした。普通の冬なら雪の下になっていますから、花を見るのはずっとあとなんですが、今年はまったく雪がないし、花も咲いたんですね。

 車が到着したのは午後3時45分頃でした。スタッフのOさんから降ろしてもらい、玄関へ。母は足取りもまずまずで、ショートに行った時とまったく変わりない表情で家に入りました。

 コタツのそばの電動イスに座った母は、しばらく居間の四方の壁などを見上げていました。毛布などが干してあったので、いつもと違って見えたのでしょう。

「どうだったね」
 と声をかけると、
「デイサービスで、男がいないとダメどそってたけど、おらちはとちゃ、いるすけ、いかっとぉ」

 ショートに入ったのは日曜日の夕方でした。その日は、昼間は近くのデイサービスに行っていたのですが、そこで、誰かと話でもしたのでしょうか。

「だれか知っている人に会ったかね」
 そう言って母に尋ねたところ、
「原之町のとこやのおばあちゃんと一緒になったよ。それから、山中の人とも一緒になった」
 と答えが返ってきました。私からは、
 「知っているしょと一緒でいかったねや」 
 と言ったのですが、母は「うん」とひと言しゃべっただけで、テーブルの上にあったミカンを、ゆっくり食べ始めました。それも目をつむりながら……。

 母は時どき、目をつむったり、開けたりしながら物を食べます。ミカンを食べている母を見ながら、また声をかけました。

「おまんいね間にスイセン咲いと」
「外のスイセンの花か」
「うん。そうだよ。ほら、見てみない」

 私の携帯の写真を見せると、目をしっかり開けました。

「まあ、これ、おらちんがか、きれいなもんだない」
 「……」
 「こりゃ、ぞくぞくっと咲くすけな、花いっぱいに」
 「おまん、おらちの庭にスイセンあるが知ってたかね」
「知ってたこてや。牛舎のそばの畑の長いところにもあるよ。ちょっと小高いとこ」

 母がミカンを食べていた時、私は千葉からもらった落花生を食べていました。私が食べていた落花生に母の視線が向いたところで、話題を変えました。

「おまんも千葉の落花生、食べるかね」
「いま、いい。千葉のエツオちゃん、くんたがろ、カレンダーと一緒に」
「そだよ」
「中条の佐藤さんに、早くとらんと、タヌキに食べらんちゃうよ、といわんたがど」
「なにね」
「落花生だこてや。牛舎のそばの畑で落花生植えたらいっぺなったがど……」  

 この時、母と話したのは正味10分くらいだったでしょうか。でも、母と話した時は時間がゆっくり流れていく感じがしました。どうあれ、母が元気で良かったです。 じき暗くなる、5時になりゃ、暗くなる。

 (2010年1月26日)

 
 

第591回 えご

 「えご」をご存じでしょうか。「自分中心」といった意味のエゴではありません。食べ物の「えご」です。

 先日、従兄の家でお茶をご馳走になった際、久しぶりに「えご」と出合いました。従兄の連れ合いのA子さんが出してくれたのです。「えご」は私の好物の一つ、ちょっぴり醤油をかけていただきました。

 A子さんが出してくれたものは、この「えご」だけでなく、手づくりサラダを含め、みんな美味しかったのですが、そのなかでも「えご」は味といい、少しざらっぽい舌触りといい、最高でした。

  「えご」は子どもの頃から食べてきた郷土料理です。

 わが家では、母が作ってくれました。

 蛍場にわが家があった時代、わが家は柏崎市笠島から赤色の「えご草」を仕入れました。それを母が洗って、カヤとかヨシ、場合によってはワラの上にのせて日にさらしていました。こうすると白くなるのです。家のそばで、さらしているときの、ほのかな磯の香り、忘れられないですね。

 母によると、いくらきれいに洗ったつもりでも、細い棒や屑が入っていることが多かったとか。天日干しした時点で、それらを選別し、捨てたと言います。  その後の「えご作り」は、どこの家でもやっている通りです。水を一定量入れて「えご」を煮る。鍋の底で焦げ付くことがないように、ゆっくりと混ぜながらとろみがつくまでやる。それで、あとは固めて冷やせば出来上がりとなります。

 従兄の家でいただいた「えご」には辛子がのせてありました。従兄の居住地域では醤油と辛子で食べるんですね。わが家では酢味噌でしたが、私はどっちも好きです。

 従兄の家でのお茶会は、A子さんだけでなく、隣集落のJ子さんも一緒でした。「えご」をゆっくり味わいながら、私も時どきしゃべりましたが、おしゃべりの中心は2人の女性です。

 最初はやはり「えご草」をめぐる話題でした。「採る人が少なくなったらしい」という話から始まって、「売っているところも少なくなった」とか「えごを練る人も減ってきているこて……」といった調子で話が弾んでいきました。最近、「えご」を口にする機会が少なくなったのにはそれなりの背景があったんですね。

 続いて、地元の話題です。「おらほでも空き家が増えてきたこて。切ないね。夫婦して施設に入ってる人もいなるし……」、「子どものところへ行っても付き会う人がいればいいけど、いないとね……。また元の所に帰ることがあるすけ、家は残しておいた方がいいかも」。こういった話は、他人ごとではありません。そうそう、近くのお寺の住職さんが交通事故にあったらしいという話も出ました。心配です。

 そうこうしているうちに、従兄が戻ってきて、それからは4人でのお茶会です。田んぼをたくさん耕作している従兄からは、「夏の田んぼの水が心配だ」「最近は九州でも北海道でもうまいコメがとれる」「夏場は空からも水が落ちてこないと等級は下がる」などといった話が出ていました。異常気象で再び不作となることが心配なんですね。

 従兄の家で、「えご」の味をほめたら、A子さんに「おまんちのお母さんも上手でいなる」と言われました。そう言えば、母の作った「えご」、もう5、6年は食べていません。残念ながら、母が作るのはもう無理です。先日、インターネットで調べたら、笠島産の「えご草」を使った「えご」の作り方が動画で紹介されていました。今度は母に食べさせてあげたいものです。   

  (2020年1月19日)

 
 

第590回 母の年賀状

 今回は年賀状をめぐる話。1月5日の夜のこと、95歳の母から不安というか気になることを聞きました。

 95を過ぎて、年賀状に返事を出すだけでもえらいと思って、母に「杉のかちゃにも書いたがか」と訊くと、「書いたと思うな。板山のキイちゃには、バイバイと書いたもん」と答えたのです。

 年賀はがきに「バイバイ」と書いた。考えすぎだと思われるかも知れませんが、その言葉がこの世からサヨナラする言葉のように思えました。「キイちゃ」というのは母の実家の隣で育ち、板山へ嫁に行ったキエさんのことです。

「そう言えば、あの時の年賀状にバイバイと書いてあったもんね」、そんな言葉が出るような事態が起きないようにと願いつつ、私は考えました。「ならば、いまのうちに母をキエさんのところに連れていこう」。年賀状が届いた後に、ちゃんと会っていれば、そういう事態は避けられると判断したのです。

 翌日の午後、会議が早めに終わったので、「よし、きょうのうちに行ってこよう」とキエさんに電話を入れたところ、「まあ、うれしい。来てくんない」という返事でした。急な話ではありましたが、母も乗り気で、すぐに「行く」と、私の誘いに応じました。

 雪は降っていなかったので、吉川区の川谷地区を通って、キエさんが住んでいる大島区板山を目指しました。

 途中の山々は、母にとっても私にとっても懐かしい風景です。わが家の田んぼや畑があったナナトリ(地名)を見た母は、「名木山のミネ(屋号)んしょの林とおらちの田んぼ3枚、物物交換した」と言いました。「音治郎じちゃ、その林で炭焼いた」とも。よく覚えているものです。

 石谷では、タキ(屋号)の和子さんとも会いました。母は「耳遠くなって……」と言うと、和子さんはニコニコして「頑張りましょう」と両手の親指を立てて、母を励ましてくださいました。

 わが家から板山までは車で40分足らずで着きます。「おーい」と呼びかけ、キエさん宅に上げてもらった母は、薪ストーブのそばに座らせてもらいました。

 キエさんは、「いかったじゃ。そこだら背中あぶりになるすけ……。はあ、いかった。あったかいろ、そこ」と言ってから、コタツの長いテーブルの上に次々とご馳走を出してくれました。

 キエさんが「ごった煮だ。年とったら、味、落ちちゃって」と言って出してくれた料理にはセリ、ウインナー、竹輪、ネギ、豆腐、茹で玉子などが入っていました。

 気になっていた年賀状について、私から「おかしな年賀状やったてが、もうしゃけねかったね」と言うと、「なして、いい年賀状だったよ。95にもなってこんがん書けるがすけたいしたもんだ」との言葉が返ってきました。

 キエさんから「こんがん書ける」とほめられた年賀状を見せてもらいました。そこには、「きえちゃん、お元気ですね。年賀状有りがとうございました。雪のない正月でなによりです。風ひかないやうに頑張ってね。バイバイね」と数行書いてありました。何のことはない、バイバイは通常の挨拶の言葉だったのです。ほっとしました。

 食欲旺盛な母は、煮物を黙々と食べ続けました。その母にキエさんは、「風邪ひかんかったかね」と声をかけました。すると、母は、「おら、ひかんよ。コタツにもぐっているもん」。私は、ふだん、ネコのようにコタツにもぐって寝ている母を思い出し、笑ってしまいました。

  (2020年1月12日)

 
 

第589回 高齢者講習

 歳を重ねると、いろんなことがありますね。私は3か月後に70歳を迎えますが、70歳にならないうちに高齢者講習の案内ハガキが来てびっくりしました。

 正直言うと、「まだ、70になっていないのに何かの間違いじゃないか」そう思って、ちょっとムッとしました。でも、間違いではありませんでした。道路交通法にある高齢者講習のことを私がよく知らなかっただけのことでした。運転免許証更新前に高齢者講習を受ける義務があって、更新時には高齢者講習終了済みの証明書が必要だったのです。

 高齢者講習の日は11月28日。ハガキには講習の日時が書かれていて、都合の良し悪しを自動車学校へ連絡することになっていました。「この頃なら予定通り講習を受けられる」と判断し、返事をしました。

 高齢者講習の当日、私は講習の会場である柿崎自動車学校に初めて行きました。免許を取る時に世話になった学校ではないかと思われるかも知れませんが、自動車の運転免許は大学を卒業した1972年(昭和47)6月、個人指導で取得したので、自動車学校に通っていなかったのです。

 講習会場には私のほか、同じ年齢の男性が1人、女性が4人参加していました。女性のうち2人は明らかに見たことのある顔でした。でも、1回会っただけで強く印象に残るレベルの特徴がある人ではなく、どこで会ったか思い出せません。それがずっと気になりました。

 講習会では、まず高齢者が安全運転するためのビデオを全員で見て、その後、2組のグループに分かれ、決められたコースを運転しました。

 私のグループは3人。私以外の2人は女性でした。コースまわりは合格、不合格がつくわけではなかったのですが、やはり緊張しました。というのも、すでに高齢者講習を受けた人から、免許を取る時に苦戦したSクランクや車庫入れもある、そう聞いていたのです。

 コースまわりに使う乗用車は普通車でした。普段、軽乗用車に乗っている者としては、普通車の車体は広く、長いとあって、運転感覚が微妙に違います。でも、乗った時点で、「まあ、ゆっくり走れば問題ないだろう」という気持ちになれました。

 後から考えると、それが良かったのかも知れません。

 まず第1難関、車庫入れ。大きく前に出て、後ろを見ながらバックすると、丁度真ん中にピタリと止まりました。100点です。日頃、曲がったり、ナナメに止まったりするものですから失敗を覚悟していたのですが、杞憂に終わりました。

 もうひとつの難関、Sクランク。これも脱輪することなく、無難にこなしました。

 講習で一番問題だったのは視力です。視力検査では夜間視力、動体視力とも思っていた以上に低い数値でした。特に動体視力は速度30`で0.1であり、がっくりでした。これだから、私の車の前を横断するタヌキに気づかないことがあるんですね。

 目に関しては視野検査もありました。この検査で初めて確認できたのは、左右の目にある盲点の存在です。前方15度ほどの右または左にあるんですね。実際に確認できたことがじつに新鮮でした。

 こうして、高齢者講習は無事修了したのですが、運転免許証更新時に必要だという高齢者講習修了証を同日、紛失して大騒ぎとなりました。どこにしまいこんだのかわからなくなってしまったのです。私が普段使っている机の左の引き出しの中から見つけたのは、何と33日後でした。大事にしまったことをどうして忘れたのか……。     

   (2020年1月5日)

 
 

第588回 12月の凍み渡り

 もうほとんど消えてしまいましたが、今冬は雪が早かったですね。多いところでは、50aほどの積雪となったようです。 「えっ、まさか」と思ったのは、凍み渡りができたという知らせです。

 12月9日の朝のことでした。市内山間部に住むAさんが、フェイスブックで、「初、しみわたり」という見出しをつけて発信してくれたのです。

 おはようございます(^^)
 いや〜 ガリンガリン、つるんつるんの朝
 そして空は青空〜
 だから今朝は一番の寒さかな。
 今年初、しみわたり〜(^^)
 しみわたりってご存じでしょうか?
 さむーい朝に雪がかたくなり、その上を
 歩いていけること。いっときの楽しみな
 んですよ。
 雪の上をウサギかな〜
 足跡も発見。
 しみわたりができる〜ってなったら、
 ワクワクウキウキ……(中略)……
 サクサク、ザクザクって音がまたワクワ
 ク感をアップさせます(笑)

 どうです、素敵な文章でしょう。この文章を読んだだけでも雪の上を歩いたときの楽しい気分にひたることができるのではないでしょうか。たぶん、Aさんは、自宅の近くの田んぼかグラウンドで凍み渡りをされたんだと思います。

 Aさんの発信には、この文章と共に写真も添えられていました。ブーツをはいて雪の上にあがった時の様子を自撮りした写真です。青いスカートの下ですらりと伸びた足とそれをしっかり守っているブーツはまったく埋まっていませんでした。

 改めて言うまでもないと思いますが、凍み渡りとは、凍った雪の上を歩くことを言います。前日は晴れて、その夜は地上の熱がどんどん逃げていき、翌朝は冷え込む。放射冷却現象が起きたときに、雪が凍ってガチガチになるのです。道路はまさに「ガリンガリン、つるんつるん」、大地はすべて「雪コンクリート」、こうして凍み渡りができるようになります。

 当然のことながら、凍み渡りができるためには一定の積雪がなければなりません。少なくても30a前後は積もっていることが必要だと思います。

 それにしても12月に凍み渡りができるとは思いませんでした。やはり異常気象なのでしょうか。雪国で生まれ、雪国で育った人間ですから、ずっと冬を見てきましたが、12月に凍み渡りしたという話は初めて聞きました。

 これまで、私が一番早く凍み渡りできたのは4年前の1月21日の朝でした。この日の日記には次のように書きました。

「冷え込みました。今冬で一番でしょう。おはようございます。今朝はカメラを持つ手が冷たい、というよりも痛いです。雪の上にのぼっても足がうまりません。近くの雪原をゆっくり歩き回りました。1月に凍み渡りができるとは思いませんでした。いつも思うのは、凍み渡りをしているときの解放感。最高です、雪国、最高です」

 今冬の初の凍み渡りが私が体験した時よりもさらに1ヶ月以上早いとなれば、今冬は、長期間に何度も凍み渡りができるかも知れません。

 どうあれ、凍み渡りは冬の間に少なくとも一回はやりたいものです。出来れば、私が育った蛍場の野山をどんどん歩いて、子ども時代の遊び仲間を思い出したい。そしてウサギやヤマドリにも会ってみたい。         

  (2019年12月29日)

 

 
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