春よ来い(24)
 

第587回 70になったら

 古希を迎えた中学時代の同級生たち。先だっての同級会以降も電話をかけたり、お茶飲みをしたりと交流が続いています。

 先週の金曜日の夜には大潟区、柿崎区、吉川区に住む同級生のうち、7人が集まって、土底浜のあるお店で「いっぱい会」をやりました。

 同級生だけの集まりでは、誰に気兼ねする必要もないし、ざっくばらんに話ができる。それがいいのです。ビールで乾杯してから、すぐにおしゃべりが始まりました。

 私のすぐ隣には、バスの車掌をやったことのあるミツコさんが座っていました。そのミツコさんの隣にはカヲルさんがいて、さらにその隣にはサチコさんがいました。

 最初に私の耳の入ってきたのは3人の女性同級生の会話です。何の話をしていたのかよく聞きとれませんでしたが、
「いい男がいっぱいいるんだから……、お父さんにないものがあるよ」
 そんな「あぶない」言葉が聞こえてきました。もっとも、「遠慮しないで、男しょと大いに話をしましょう」といったレベルの話ですからご心配なく……。

  「私ね、仕事やめたら、忘れっぽくなったの。原因、何だかわかる。いつも音楽聴いているんだわ。さみしいの」

 そこまで話したところで、お店のスタッフが刺身を皿に入れてテーブルの上に置いていくと、話は急展開。ミツコさんは、
「ここのお店ね、活きのいい魚を出してくれるのよ。どっかから持ってくるんじゃなくて、そこの海でとったのを使っていなるんだわ。とろける甘さの刺身、いいよね」
 と言いました。

 この日は、地魚の刺身からはじまって、牛タンのつくね、八つ橋風チーズ、もつ料理、しゅうまい、お好み焼きなど、おいしい料理が次々と運ばれてきました。

 集まった同級生の中にはすでに満年齢で70歳になった人もいれば、これからの人もいます。70歳というのは、やはり節目の歳なんでしょうね。誰がいつ誕生日を迎えるのかという話になりました。

 ショウイチくんもトラオくんも、ともに1月生まれ。サチコさんと私は3月生まれです。誕生日を言うたびに、「えーっ、そうだったの」「なるほどね」といった声があがりました。これまで何十回も会っているのにおかしなものです。

 そもそも、我々の世代では誕生日を意識した家庭生活をしている人はあまりいません。誰かが、「誕生日に、“誕生日、おめでとう ”って言われたことがない」とも言っていました。

 この「誕生日談義」の延長線上でまた話が盛り上がりました。みんなが笑ったのはミツコさんの話です。
「70になったら、わが家、脂っこいもの食べなくなってさ。そしたら、毎日、同じオカズになったの」
 すかさずカヲルさんが言いました。
「どこも一緒よ。大根の煮物でしょ、千切りでしょ。それから……」

 この日はカヲルさんも大いに語りました。カヲルさんは長年、柿崎郵便局の近くのある食堂に勤めていたのですが、70でひと区切りと思っていたのでしょう、今年辞めたとのことでした。そのカヲルさん、
「○○○○やめてから一週間くらい(手伝いに)行ったの。そしたら、『やはり、おまんいなきゃだめだ』と言われた。嬉しかったぁ」

 この夜の「いっぱい会」は、皆が時間が経つのを忘れ、3時間以上も続きました。70になると、それぞれ新しい生活の探求がはじまるんですね。でも、いくつになっても仲良く、元気に暮らしたいものです。  

  (2019年12月22日)

 

 

第586回 K先生のこと

 おそらく1年近くのご無沙汰だったと思います。同級生のショウイチ君のところへ同級会の記事を載せたビラを持っていった後、K先生のところへ寄ってきました。

 この日は12月とは思えない晴れの天気で、米山さんや尾神岳、それに妙高山など頸城三山もよく見えました。馬正面で何枚かの風景と赤とんぼの写真を撮った後、先生の家に向かいました。

 玄関で、お連れ合いと挨拶を交わした際、「先生、お元気でしょうか」と言ったところ、「元気です」という言葉が返ってこなかったので、少し心配になりました。

 お連れ合いに勧められ座敷に上がり、待たせてもらったものの、先生の姿はなかなか見えません。「お待たせしまして」と言ってK先生が姿を見せたのは5分くらい経ってからでした。でも、顔は色つやもよく、とても元気そうに見えました。安心しました。

 この日、先生は私の母校である旧源中学校時代の思い出をたっぷりと語ってくださいました。

 K先生は昭和35年の4月から3年間、旧源中学校に勤務されていました。私とは1年間の付き合いだったのですが、英語の授業でお世話になっただけでなく、テニス部の顧問をしてくださったこともあって、何年もお世話になった感じがしています。

 私から「先生は白い体操ズボンをはいてテニスの指導をされていて、みんな、かっこいいと言っていましたよ」と言うと、K先生は、穏やかな表情でゆっくりと語ってくださいました。

 最初は庭球部の話です。旧源小学校の故中村三代志先生や吉村商店のご主人、故吉村博さんが部活に参加してくださったことや対外試合で部員たちが頑張ったことなどを教えてくださいました。

 じつは私は以前から先生にお尋ねしたいと思っていたことがありました。それは、裸足でテニスをやっていたことについてです。私の記憶では、旧源中テニス部では練習はもちろん、対外試合を含め試合ではすべて裸足でテニスをやっていたと記憶しています。実際には、どうであったかを確かめたかったのです。

 これについては、K先生から新しい事実を教えていただきました。確かに、旧源中学校テニス部の生徒は裸足で対外試合にのぞんだことはあるが、柿崎のテニスの元祖、小松雄吉先生に「裸足だとテニスコートを傷めるので運動靴を履くように」という指導があったということでした。この結果、部員たちは、「テニスシューズを履いたかどうかは分からないが、少なくとも運動靴を履いたはずだ」とのことです。

 米山登山の話は初めて聴きました。

 詳しいところはわかりませんが、源中学校を朝4時ごろに出発、旧泉谷小、旧上中山小を経由して米山に登り、帰りは柏崎市側に下りたということでした。たぶん、大平の方に下ったのでしょう。でも帰りは汽車に乗ったという確信はなく、バスだったのではないかと語っておられました。この米山登山については、強行軍だったのでしょう、K先生は、「とにかく疲れた」を何度も繰り返しておられました。

 K先生は88歳。白髪と黒ぶちの眼鏡が似合います。

 話をしていて目に留まったのは先生の後ろの床柱にはりつけてあった板です。板には、相澤木城先生の筆で芭蕉の句が書かれていました。「この道やゆく人なしに秋の暮れ」。秋から冬に向かう時期の寂しさが漂う句ではありますが、背筋を伸ばしてかっこいいK先生の姿と重なりました。ずっとずっと元気でいてほしいです。

  (2019年12月15日)

 

第585回 コタツの中から

 先日、めずらしく、夜八時から家でゆっくりしました。

 この日の夜は、パソコンには一切触らず、家でボーッとする時間にしようと決めていました。というのも、前の日から2日間、忙しく動き回っていたこともあって、疲れ切っていたのです。

 ふだん、母と一緒にいる時間はせいぜい30分かそこらです。たまに1時間ほど一緒のこともありますが、それは年に数回くらいです。でもこの日は、3時間くらい母と一緒にコタツに入り、テレビを観ました。より正確に言うと、私がコタツにもぐり込み、母は電動イスに座って足をコタツに入れていました。

 コタツに入って横になっていると、母を見上げる感じになります。この位置は、母の様子を「観察する」には絶好の場となりました。ここからは普段は見えないものも見えてきます。面白いものですね。

 ちょうど、この日は中曽根元総理大臣が亡くなり、テレビは長時間にわたって特集を組んで元総理の歩みを中心に報じていました。

 各界の著名人が次々とコメントを出すなかで、伊吹元文科相のコメントが映し出されました。伊吹元文科相の名前が出てすぐに、母は十数年前の親戚のイブキくんのことを思い出し、話し始めました。

 その時の母との会話を再現すると、こんなふうになります。

「イブキって子、でっかくなっただろうな」
「どうしてまた……」
「あの子、幼稚園(保育園)のとき、大勢の子どもと一緒に女の先生に連れられて、おらちの牛舎に来たがど」
「そんで」
「おらとちゃが、青いシート広げて(子どもたちをそこに座らせ)、説明したがど」
「……」
「それから、子どもたち、牛舎に入った」
「へー」
「そんとき、イブキって子、オレんとこへ来て、オレもいるよそって、教えに来たがど」
「そいがか」

 電動イスを高くしてテレビを見ながら語る母。コタツの中から見ると、思い出を一つひとつ手繰り寄せる母はいつもよりも大きくみえました。

 母の語った話には、私がまったく知らないことが含まれていました。吉川小学校の児童は、たびたびわが家の牛舎にやってきましたが、保育園児については、直江津のある保育園の子どもたちが見学に来たことくらいしか知りませんでした。

 まさか、父が地元保育園の子どもたちに座ってもらうためにブルーシートを用意し、牛の説明をしていたとは……。一度くらい、父の説明を聴きたかったですね。

 母が伊吹元文部科学相の名前を覚えていたことにも驚きました。政治家の名前は知っていても、せいぜい政党の幹部と総理大臣くらいと思っていましたので、一瞬、耳を疑いました。

 母に訊いたわけではありませんが、伊吹文科相が誕生した時に、「親戚の子どもと同じ名前だ」、そう関連付けていたのかも知れません。

 何十年も母を見てきて、夜になると思い出すのは、夜なべ仕事に疲れて「船をこぐ」母の姿です。でもこの夜の母は、ずっと目を開けてテレビを見続けていました。おそらく、昼間、コタツでよく眠っていたのでしょう。どうあれ、夜、こっくりひとつせずにテレビを見ている母の姿は新鮮でした。

  (2019年12月8日)

 
 

第584回 スライド上映

 モミジの色合いは最高、遠くの海もはっきり見える。旧源中学校の同級会の日は良い天気で、11月とは思えませんでした。

 この同級会は3年ぶり。今回は古希を迎えたということで、地元、尾神岳のふもとのスカイトピア遊ランドに集いました。

 全員で黙祷をした後、吉川で働いている進行役のトラチャが「みんなの元気な姿が見れてうれしい」と笑顔で挨拶。続いて参加者が次々と立って近況報告をしました。

 まずは大潟区在住のヨシカズ君から。「12月いっぱいで会社辞める。もう少し頑張る」。大工をやっているマサオ君も、「細かい仕事をボチボチやっている」と報告しました。飲食業をやっているヒサシ君は、「カツミ君はケガなんだろうね、首が回らないと言っているが……。私は借金で首が回らない」と笑わせました。まだ仕事をやっている人がけっこういるんですね。

 退職して自分の趣味に生きている人もいました。その代表格はユキミツ君。65歳で退職、その後、滝めぐりを続けています。同級会の前日には妙高市燕温泉にある滝を訪ね、びしょびしょになって写真を撮ってきたとのことでした。「第四の人生、最後は自分で選びたい」と終活についても語りました。

 15年前にふるさとに戻ったユミコさんは、「62歳で車の免許をとった。こんなにいいところはない」と生まれ育ったこの地をピーアールしてくれました。

 古希を迎えるとなれば、体のどこかにおかしいところが出てきても不思議はありません。健康を意識した発言もいくつかありました。習志野市で頑張っているタダユキ君、「何よりも健康づくり(が大事)。てんとうむし(転倒無視)体操をやっている」とのべ、みんなが注目しました。

 大潟区在住で、いつもみんなをやさしく包み込んでくれるミツコさん。みんなの近況報告を聴いて感激したのでしょう、「うれしくて、どうしようもないです」と短くのべました。

 さてスライド上映、同級会では初めてのことです。ショウイチ君とトラチャが写真を探しだしてくれました。編集とスライド上映担当は私です。

 プロジェクターでスクリーンに映し出した1枚目は、旧源小学校水源分校での集合写真。19人の同級生と林先生、山本先生の姿が見えます。映し出してすぐに、「おーっ」という声と共に何人かが1人ひとりの名前を呼び始めました。

  「キョウコだろ、隣がアキコ、そしてヒサシ君、もう1人のキョウコ、キヨコにマチコだ。その隣はホーセだ」。この調子で写真に登場している全員分続いたのです。

 しかも、名前の確認は1枚だけでは終わりませんでした。小学校時代、中学生の時代の写真とずっと続いたのです。そして時どき、「林先生の後ろにいるのはオレだ」、「真ん中の白いのは私よ」などといった本人の説明が入りました。さらに、「あのとっぽいのは〇〇君か」などといった「ヤジ」も。

 集合写真はスライドですから大きくすることもできます。カヲルさんの顔を大写しにしたら、「やだ―、わたし、でっかくしないでー」。面白いことに、50年経とうが60年経とうが、みんな顔形は小学校時代から変わりません。「みんな、変わらないね」の言葉が何度も出ました。

 スライドは20枚。でも、映し出されるたびに懐かしさが充満、上映時間は1時間半にもなりました。大当たりしたスライド上映が弾みとなって、この日の同級会は尾神岳での夕焼け鑑賞、カラオケを含め、何と8時間にも及びました。  

  (2019年12月1日)

 
 

第583回 チンドン屋と時を知らせる音楽と

 東京と言うと、「ごちゃごちゃしていて落ち着かないところ」という先入観がありました。でも、ホッとするようなところも残っているんですね。

 先日、東京へ出かけたとき、神田神保町の古本屋街で思わぬものと出会いました。

 ひとつはチンドン屋さんです。

 神保町交差点付近を歩いていると、前方から、太鼓の音がし、クラリネットとおぼしき音も聞こえてきました。明らかにチンドン屋と思われる音楽です。大急ぎでスマートフォンを取り出し、すれ違うぎりぎりのところで撮影に成功しました。

 後にスマートフォンの画像を見てわかったのですが、このチンドン屋さんは、生姜焼き定食専門店のオープンの宣伝をしていたのでした。演奏していた曲は、たぶん行進曲だったと思います。賑やかで元気のいい曲でしたから。

 チンドン屋をしている人たちは3人、チンドンをやっている先頭の女性は笑顔をふりまきとても楽しそうでした。クラリネットを演奏をしている男性もそう、クラリネットの演奏の仕方そのものが楽しい雰囲気をかもし出していました。そして一番後ろを歩いていた女性は、お店の宣伝ビラを一枚一枚配っていました。

 私がチンドン屋さんと出会ったのは本当に久しぶりです。これまでの人生でも、おそらく、ほんの数回の出会いでしょう。そのうち、子どもの頃、柿崎のお引き上げか原之町商店街で出会ったのが最初で、強烈な印象を持ちました。いまでも、チンドン屋というと心がうきうきしてきます。

 ですから、神田神保町で出会ったチンドン屋さんたちの演奏でも懐かしさを覚え、うれしくなりました。もし私が4、5歳の小さな子どもだったなら、しばらくチンドン屋さんたちの後ろについていったことと思います。

 もう1つは屋外放送です。

 チンドン屋さんと出会って30分後くらいたっていたでしょうか、ちょうど農文協の農業書センター内で本をゆっくり見て歩いている時でした。突然、窓の外から音楽が流れてきたのです。

♪ゆうやけこやけで ひがくれて
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょう

 時間はちょうど5時、「夕焼け小焼け」の1番だけ演奏が流れました。わずか1分の放送でしたが、まさか、東京は神田神保町で5時を伝える防災行政無線放送を聞くとは思っていませんでした。信じがたい気持ちになり、本屋のスタッフの男性に、「これはなんですか」と訊いたほどです。

 防災行政無線は、これまで都市部で聞いたことはなく、農村部のようなところにのみ配置してあるものだと思い込んでいました。流された「夕焼け小焼け」は、歌詞を思い出せば、農村部でないと似合わないはずなんですが、東京のど真ん中であっても違和感はまったくありませんでした。それどころか、この曲は都会でも夕方の風景にマッチするのではないかと思ったくらいです。親しみをおぼえましたね。

 私の思い出に残っている時を伝える音は、吉川区村屋にあったサイレンの音です。子どものころは、山の中の田んぼで午前11時半や5時のサイレンを聞くと、食事の時間が近いとうれしくなったものです。最近はサイレンから音楽にかわっていますが、童謡はいいですね。

 童謡はどこで聞こうが人の心を優しくしてくれます。気持ちをゆったりさせてくれます。神田神保町の本屋街で聞いた「夕焼け小焼け」は一生忘れないでしょう。   

  (2018年11月22日)

 

 

第582回 手をギュー

 今週の火曜日、1年に1回の母のMRI検査が無事終了しました。検査の結果、母の頭の中にある動脈瘤の大きさは昨年と変わらず、ホッとしました。

 上越病院での検査が終わって、会計での支払いが済めば、そのまま、まっすぐ家に帰ることができます。今回は薬局から薬を出してもらう必要はなかったからです。

 この日は午後から視察があり、できれば早く家に戻りたいと思っていました。ただ、1つ気がかりなことがありました。母の大好きな買い物をどうするかです。

 正直言って、病院を出たところで迷いました。「どうしるね」と母に聞くと、母は少し考えて「どうでもいい」と言いました。「ああ、良かった。これなら、すぐ家に帰れる」、私はそう思って車のハンドルを右に切ろうとした次の瞬間、母はぽつりと言いました。「ナメコ、買っていこかな」と。

 こういう言葉が出れば、「またにしときない」とは言えません。ハンドルをすぐ左に切りかえて、JAの「あるるん畑」に向かいました。

 売り場入り口に一番近い駐車場に車を止め、母の手を引きながら、店内を歩きました。目標は「ナメコ」を買うことなんですが、言うまでもなく、それだけで済むはずがありません。これまでと同じように、「あれもこれも」になることは目に見えています。ただ、母が欲しいと言ったものは、できるだけ買ってあげようと思っていました。

 歩き初めてすぐに、キャベツの山がありました。「キャベツ、買おうかな」と言うので「いいよ」と答えました。サツマイモのところでも、じろじろ見て、母が手をのばしました。「紅はるか」です。母は細めのものが欲しかったようです。これも買い物かごに入れました。

 続いて母はショウガに手をのばしました。ショウガは先日、ある農家の人がりっぱなものをくださったばかりです。私は「ショウガは家にあるねかね」と言って、あきらめてもらいました。同じようにして、母がいったん手にしたニンジンも買うのをやめてもらいました。

 この2つを購入対象外にしたことが作用したのでしょうか、その後、母の行動が微妙に変わったように見えました。

 エノキがいっぱい並んでいるところへ行ったときのことです。母は、「これ、ほしい」という声を出す前に、私の手をギューと握ったのです。私には、母の足もふんばっているように思えました。実際は、足が滑らないようにしただけなのかも知れません。でも、私には「おれは、これほしいがだ」という母の意思表示に思えました。ナメコが見当たらないこともあって、エノキはすぐに1袋購入しました。

 少し歩いて、長ネギと打ち豆のところでも母は、私の手を引っ張るようにして止まりました。このうち、打ち豆は食べたいというよりも、その昔、自分で作っていたこともあって懐かしかったのでしょう。本当にいるのかどうかあやしいと思いましたが、金額は198円です。すんなりと認め、打ち豆は私の方で取って、買い物かごに入れました。

 こうして、この日、「あるるん畑」で購入したものは昼食用のお寿司を含めて9品目、合計で1608円となりました。これで母の買い物願望が満たされ、気分良くしてもらえるなら安いものです。

 「あるるん畑」は、母が行くことのできる数少ない買い物の場です。「とちゃ、ちょっと寄っていこさ」という母の誘いがあるときは必ずこたえたいと思います。

  (2019年11月17日)

 

 

第581回 アキノキリンソウ

 毎日のように見ている花であっても、思わぬところで見かけると、うれしくなるものですね。

 11月4日、大島区は竹平の共同墓地で目にしたアキノキリンソウの場合もそうでした。

 この日は、午前に従兄の文英さんの1周忌法要を自宅ですませ、参列者全員でマイクロバス、自家用車に分乗して共同墓地へ向かいました。私は専徳寺住職とともに軽乗用車で墓地のすぐ下の駐車場まで行きました。

 駐車場よりも少し高い墓地につながる石の階段を登り切ったところで、「おおっ」と思ったのはアキノキリンソウです。小さな黄色い花をたくさん咲かせていました。

 最初に目に入ったのは1本だけ。こんなところにも咲いていたのか」としみじみ見ました。次に墓地全体をぐるっと見渡すと、何とあちこちにアキノキリンソウが咲いているじゃありませんか。花は、終わりに近づいているものも一部にありましたが、ほとんどは花盛りでした。

 文英さんが亡くなったのはまだ寒い2月の半ばでした。あれから8カ月が経っています。文英さんが心配していた米づくりも無事に収穫作業を終えました。

 いまごろ、文英さんはどうしているのだろうと、ふと思ったのは、小鳥たちの鳴き声に導かれるようにして空を見上げたときです。この日はけっこういい天気になりましたが、空には薄い雲がかかっていました。でも私が見上げたとき、墓地の真上よりも少し南の位置の雲にぽっかりと穴が開き、しばらくの間、青い空が出たのです。

 そばの杉林の木々が上に伸び、その先に青い空がある。この風景を見ながら、私は10数年前の冬のある日のことを思い出していました。この日は足谷の伯母の葬儀か法事で、照源寺住職が「千の風」のことを語ってくださったのです。

 ちょうどそのころ、秋川雅史が歌う「千の風」は大流行していました。照源寺住職はお経を読んだ後、亡くなった伯母はいまごろ風になって空を飛んでいるのではないかと静かに語ってくださいました。そのとき、私は足谷の家の廊下に近いところに座っていて、青い空と雲が見えたのです。そのお陰で、私の心の中には青い空とともに「千の風」の話がずっと入っています

 文英さんの1周忌法要のこの日も、墓地上空で雲が動き、青い空が見えたとき、文英さんが空から私たちを見ていてくれる、そんな気がしました。もし、文英さんがしゃべることができるならば、「わりいね。みんなに心配かけちゃって……。きょうはまあ、遠慮なく飲んでいってくれ」そう言ったでしょうね。

 お墓の前では、専徳寺住職と照源寺住職がそろってお経をあげてくださり、その後、参列者全員が線香を上げ、墓に向かって手を合わせました。

 文英さんが墓の中から見ていたか、それとも風になって空から見ていたかどうかはわかりません。実際は、何も見えないのかも知れません。でも、文英さんは、大好きな孫たちがそろってお墓の前に来ていて、お参りしてくれたこと、30代で亡くなった妹の子どもさんたちも来てくれたこと、親戚のものも顔をそろえたことを感じとってくれたと思うのです。

 共同墓地に咲いたアキノキリンソウは自然に増えたのでしょうか。それとも誰かが植えたものなのでしょうか。どうあれ、文英さんの1周忌法要の日に花をいっぱい咲かせて私たちを迎えてくれたのです。「おまんた、よく咲いていてくんたね」と声をかけたくなりました。

   (2019年11月10日)

 
 

第580回 一枚の小さな絵

 まだ見ぬ人への想いが広がる。70歳を前にして、不思議な体験をしました。

 日曜日のお昼過ぎの時間帯でした。私は旧第四銀行高田支店の1階で開催されていた9回目の「ぬくもり展」をぐるっと観たところで、受付兼案内係をしていた女性、Oさんに声をかけました。

 この女性に声をかけたのには理由がありました。私が最後に観た1枚の大きな作品のなかに書かれていた「わたなべ・きよし」さんという作者がどこの施設の人か知りたかったからです。

 Oさんによると、この「わたなべ・きよし」さんは既に亡くなっていました。8人の男性と1人の女性を描いた実際の作品は展示されていたものよりも小さかったそうですが、目や鼻、ヒゲの独特な表現、カラフルで直線を活かした衣装の描き方など、観るものを強くひきつけました。それで、作品を拡大し、これまでも何回か「ぬくもり展」で展示してきたということでした。

 この質問を契機にOさんとは、その後、30分ほど話をすることになりました。ちょうどお昼休みの時間帯だったということもあり、お客さんはほとんどありませんでした。

 Oさんとは、「わたなべ・きよし」さんの作品の魅力を語りあうことを出発点にして、私が「つどいの郷」のHさんの作品の下に「ステキな色合いですね」というコメントを書いたことやOさんが観た瞬間に強烈な印象を持ったという「つどいの郷」のSさんの作品のことなどで話が弾みました。歌舞伎の役者特有の化粧法、くまどりを描いたSさんが、お父さんに連れられ、何度も何度も歌舞伎を見てきたことなど興味深く聴きしました。

 話をするなかで、展示されていた作品の解説がじつにわかりやすかったので、どういう人なのかと思ったら、Oさんは長年にわたって陶芸をしてこられた方でした。芸術作品に造詣が深いわけです。

 私が名刺を渡すと、Oさんから名刺代わりに縦15a、横21aの紙をもらいました。そこには陶芸の歩みを書かれたご自身の経歴とともに、「洋子さんのはなあかり」と書かれた絵がありました。

 この「名刺」をもらった瞬間、私はこの絵に引き込まれました。観るものをふわっと包み込む素敵な温かさを感じたのです。

 絵は名刺と同じ横幅で、縦が1aほど短く小さなものです。真ん中の「あかり」の縁(ふち)の線は淡い黒が使われています。「あかり」のまわりには、黄色の花びらのようなものが濃淡をつけてたくさん描かれていました。多分、「あかり」から飛び出していく光なのでしょう。

 これまで私はオレンジ色が温かさを描く時の色と思っていましたが、この作品を観て、黄色を使っても温かさを表現できることを学びました。

 この小さな絵の左下にはカタカナで「リツ」と書かれていました。リツさんは妙高市関山の方で、児童文学作家の杉みき子さんの第1回文章教室の生徒さんでもあったとOさんからお聞きしました。文章もお上手で、童話も書かれるということです。素敵な絵を描くだけでなく、文章も書いて、童話とか絵本も作られている。そこまで聞いたら、まだ見ぬリツさんにたまらなく会いたくなりました。

 Oさんの話では、リツさんは94歳。最近、目が不自由になられ、外にはめったに出られないとのことです。幸い、ご自宅では娘さんが小さな料理店を開いておられるとも聞きました。ぜひ一度、リツさんとお会いし、どんな人か知りたい。そして絵や絵本も見せてもらえたらと思います。    

  (2019年11月3日)

 
 

第579回 帰ろかな

 有り難いもんですね。これまでかなりの間、忘れていた父のことをまた思い出すことができました。

 思い出すきっかけとなったのは、先日の越後よしかわ酒まつりです。

 この日は午前中、雨がぱらつきました。会場内のお店をひと通り見て回った後、来賓席のテントの中でしばらく休ませてもらいました。そこにいたのは私と吉川区在住の杜氏の大ベテラン、Yさん、新潟酒造技術研究会のKさん、日本酒造杜氏組合連合会のHさんなど数人でした。

 テントの中では空模様の話から始まって、様々なことが話題に上りました。

 利き酒に200近い銘柄が出ているという話の時だったでしょうか、私は岩室(旧岩室村)の酒蔵、宝山酒造を訪ねたときのことをみなさんに話しました。その内容を再現するとこんな感じです。

 何年か前ですけどね、宝山へ行ってきたんですよ。そしたら、親父のことを知っているお母さんがいらして、懐かしがってくださって……。蔵の中を案内してもらったら、(酒造りをする人たちの居場所であった)ヒロシキはそのままだったし、風呂場も、食事の時に使う物を入れる引き出しもそっくり残っていたんですよ。親父たちがいた頃、あそこへは県醸造試験場にいらした嶋悌司さんも時どき行かれ、嶋さんはそこでいろいろ学ばれたと親父は言っていましたね。

 私の話を聞いて、Yさんだったか、Kさんだったかが、「いやー、嶋さんはあの頃、毎日のように宝山に来ていなったこて……」と応じてくださいました。

 じつは、Yさんは、宝山酒造で父と一緒に仕事をされていたのです。頑固なところがある父でしたので、嫌な思いもされたことがあると思うのですが、Yさんは懐かしく当時の思い出を語ってくださいました。

 そうこうしているうちに、酒造り唄の時間がやってきました。Yさんは酒造り唄保存会のメンバーです。数人のメンバーとともに中央舞台へ上り、3曲ほど披露してくださいました。

 唄を聴きながら思い出したのは父の「三ころ突き」です。

「おじじ何処きゃるこらやのや おやじの代から3代伝わる桐木どーらん 菜っ葉にはぜ飯 おっかの分まで てっちり詰め込み 裏の板山へこらやのや 芝刈りに」

 父も酒造り唄が大好きで、祝い事のあるたびにこの唄をうたっていました。息子が言うのもなんですが、人に聞いてもらっても恥ずかしくない唄いっぷりでした。

 思い出というものは面白いもので、1つの思い出と出合うと、ちょっとした拍子に別の思い出ともつながっていきます。

 酒まつりの日から10日ほど経った日、思いがけなく、父の最後の歌の音声記録が見つかりました。

 この歌は父が亡くなる5か月前に歌ったものです。父が入院してからすでに1年経っていて、父は口から食べ物をとることもできず、しゃべることもできなくなっていました。曲は千昌夫の「北国の春」。父の大好きな歌謡曲の1つでした。

 この日は家族の者が父を励まそうと、ベッドのそばで「北国の春」を小さな声で歌いはじめました。

 ♪白樺青空南風 こぶし咲くあの丘 北国のああ北国の春 季節が都会ではわからないだろと 届いたおふくろの 小さな包み あのふるさとへ 帰ろかな

 このタイミングで、突然、父が大きな声で歌ったのです、「帰ろかなー」と。ちゃんと聞きとれる父の「帰ろかなー」に出合った私は、胸がいっぱいになりました。      

   (2018年10月27日)

 
 

第578回 みんなと一緒だから

 先日、突然の訪問にもかかわらず、歓迎していただき、楽しいひと時を過ごさせてもらいました。市内北部の、ある高齢者介護施設でのことです。

 その日は台風19号が近づいてきた日でした。私は吉川区敬老会で母と一緒に写真を撮った3人の女性を訪ね、現像した写真を届けるために動いていました。

 山間部に住むYさんとHさんに写真を届けた後、私は残るもう1人の女性が入所している介護施設に行きました。

 時間は午後3時少し前。ちょうど、午後のお茶の時間です。玄関に入ったところで、申し訳ないと思いつつ、「橋爪といいます。この写真をSさんに渡してくださいませんか」と職員さんにお願いしました。

 そうしましたら、複数の職員さんが、「どうぞ、入っていってください」と勧めてくださったのです。「ならば、ちょっとだけ」と、案内されるままに入らせてもらいました。

 入ったところは談話室兼食堂といった感じの場所でした。3つの長いテーブルとイスがあり、そこに入所者の皆さんが座っておられました。私はSさんがいるテーブルに案内され、Sさんの隣にイスを用意してもらいました。

 Sさんに、「この間の敬老会の時の写真できたすけ、持ってきたでね」そう言って写真を見せると、「おら写真写り悪いすけ……」と恥ずかしそうです。「なして、いい女だこてね、見てくんない」そう促すと、改めて写真をのぞき込むようにして見てくださいました。

 Sさんは大正13年生まれ。母とは旧東頸城郡旭小学校時代、同級生でした。Sさんと話をしながら、同じテーブルの人たちをよく見ると、私の前には絵の上手なAさん、その隣には私と同郷で小柄なT子さんがいました。そして、その斜め前には背の高いY子さんの姿が見えました。いずれの人も私の知っている人だったのです。「あらまあ、おまさんだね」と皆さん、声をかけてくださいました。

 話がはずんで10分くらい経ったときだったでしょうか。部屋の入口付近の柱を見ると、朱色で「敬老祭り」と書かれた張り紙がしてあるじゃありませんか。この日は敬老祭りの日だったのです。

 そうこうするうちに、職員のMさんが、集まっていたみなさんに祭りを始めることを告げました。

 最初はクイズ、Mさんが入所者の全員に問いかけました。「はい、質問です。みなさんの中で、昔、イノシシを見たことがある人いますか」。1人の男性が手を上げると、「わあ、すごい」という声があがりました。続いて第2問。「昔、マムシを粉にして飲んだことがありますか」。この問いには5、6人の人が手を上げました。私も手を上げました。もっとも私の場合は、マムシの骨を焼いて食べただけなんですが。みんなが「おおっ」という顔をされていたので、私はふと思いついて、スマホ(携帯電話)の中にある赤マムシの画像を出し、Mさんに渡しました。Mさんがそれぞれのテーブルのところへ行って皆さんに見せると、驚きや恐怖の表情をされました。ということで、ずいぶん盛り上がりました。

 私がこの施設を訪ね、入所者の皆さんと交流したのは今回が初めてでした。短時間でしたが、率直に言って、こんなに楽しく交流できるとは思っていませんでした。

 そんな中でうれしかったのは、Sさんの最後の言葉です。おら、ひとりじゃ生きていかんねでも、みんなと一緒だすけ、元気に生きていかれるがだ。いつも前向きなSさんらしい、心に残る言葉でした。  

  (2019年10月20日)

 
 
 

第577回 遠い日の思い出

 先日、84歳で亡くなったHさんの壇参りに行ってきました。同じ町内会であったこともあり、Hさんには、いろんなことでお世話になりました。

 お参りした後、お連れ合いと一緒にお茶を飲みながら、50年ほど前のことを思い出し、語り合いました。面白いもので、それぞれの記憶に刺激されて、すっかり忘れていたこともいくつかよみがえりました。

 そのなかでも最も印象に残ったのは、土方仕事のことです。

 大学卒業後、家に戻った私は、家業の酪農の手伝いをしていましたが、賃金収入がほしくて、近くの砂防ダム建設工事現場に行って仕事をさせてもらいました。Hさんはそのとき一緒だった人でもありました。

 ここの砂防ダムは、当時、私が住んでいた蛍場を流れる釜平川に造られていたダムの1つでした。地元では「堰堤」(えんてい)または「砂防堰堤」と呼んでいました。上流から押し寄せてくるかもしれない土石流をこのダムで防ぎ、下流に被害をもたらさないようにするのがねらいでした。

 砂防ダム建設現場は通称ナナトリという山へ行く途中にあり、わが家の田んぼもこの周辺に15アールほどありました。

 工事ではダムの基礎となる部分を掘ってコンクリートで固め、その上に堤となる部分を造って行きました。堤も、言うまでもなくコンクリートです。下の方から一定の高さごとに固め打ちしていく工程だったと記憶しています。

 Hさんは、ワイヤーロープを張った工事現場でコンクリートや各種資材の上げ下ろしをする機械の運転係でした。「キャリア」とか「キャリア係」と呼ばれていました。極端な言い方をすると、ダム工事では、Hさんのような人がいないと主要作業はほとんどできなかったように思います。

 私はレバーを使って機械を自在に扱うHさんの姿を見て、「すごいな。さすがはプロだ」と思ったものです。現場では監督がいて、すべてを仕切っていましたが、Hさんは監督の次、または次の次くらいの重要な役割をされていたように思います。

 工事を請けたのは相村建設。現場には20人前後の人たちが働いていました。そのほとんどは日雇いの労働者で、男性も女性もいました。私はその中の1人だったのですが、先ほど、「仕事をさせてもらった」と書いたように、当時の私は、スコップの使い方すらわからない土方の素人でした。

 そういう私を、「あんちゃ、突っ立っていたって仕事は進まんよ」と叱咤激励してくださったのが、Hさんをはじめとした現場の人たちでした。

 Hさんのお連れ合いとの間では、私が初めて土方仕事をした当時のことも話題になりました。

 多分、私が高校生だった頃の夏休みだと思います。現場は、尾神の「ジュウイチダのウラ」(屋号)の裏山方面でした。ここも砂防工事で、平山工務店の請負でした。仕事は、「しょいかご」のなかに玉石を入れて運ぶことでした。じつにきつい仕事でしたが、初めて仕事をしてお金をもらった時の喜びは格別でしたね。

 当時はどこの農家でも田んぼ仕事以外の仕事に出ていた時代でした。Hさんの家では夏場は土方、冬場になると、Hさん自身が酒造りに、お連れ合いやHさんの母親は、赤倉温泉で「ご飯し」の仕事をされていたということでした。

 いま、振り返ってみると、土木現場での仕事の経験があったからこそ、その後、電柱の穴掘りなどの肉体労働ができるようになりました。いまとなっては遠い日の懐かしい思い出です。 

  (2019年10月13日)

 

第576回 同郷の人

 誰かに会おうと決めていたわけではありません。ただ何となく、会いたい人に会えるかも知れないという予感がしたのです。

 吉川高等特別支援学校の「吉川ドリームフェスタ」の日のことでした。午前10時半頃、ハッピーカフェで一休みしようと体育館入り口のところまで行って、躊躇(ちゅうちょ)しました。受付のところには長い列ができていたからです。でも、この日を逃せば、またしばらく行けないと思い、時間がかかっても待つことにしました。

 長い列の最後尾に行き、会場を見渡すと、浦川原区在住のTさんや旧吉川町青年団時代からの友人のYさんの姿が見えました。また、テーブルに座っている人の中に原之町のOさんやYさんなど何人かの知っている顔を確認できました。それに、同校の卒業生のTさんの姿もみえました。

 みなさん、フェスタを楽しみに来ているんだなあと思いながら、「ふれんどり〜ミルはまなす」の売店の方を見たときです。その近くのテーブルに座っていた白髪の女性が私の方を向いて手を振っています。母と同郷のヨシエさんです。その隣には姉のカズエさんの姿も見えました。この姉妹とはそれこそ何年も会っていませんでした。どうしても話をしたいと思いました。

 ハッピーカフェの受付にたどり着けるまで20分くらいはかかったでしょうか。その間、2人が帰らないか気が気でなかったのですが、注文したカプチーノを受け取った段階でも、まだ2人は仲良くおしゃべりをしていたのでホッとしました。

 2人のそばまで行って、「元気かね」と声をかけると、「おまんたおかあさんも元気そうだね」という言葉が返ってきました。「もうじき、100だろね」と言われましたので、「なしてね、まだ95だわね」そう言うと、「100なんて、すぐだわね」とカズエさんが言いました。

「そうそう、最近、撮ったばちゃの写真あった。ほんとは、あんたがた、いなるがだったら連れてきたいところだけど」そう言って、スマホの中にある母の写真を何枚か見せると、「ああ、やっぱり、似てるわ。『のうの』(母の実家の屋号)のしょに」と言われました。懐かしがって、カズエさんは写真の母に向かって、「元気かね」と声をかけてくださいました。

 この姿を見た私は、「こりゃ、声も聞いてもらおう」そう思って、スマホを使い家に電話をかけました。

 しばらく呼び鈴が鳴り、やっと電話口に出た母に「ばちゃ、おれだよ。おまんの知ってる人とかわるわ」そう言って、電話をカズエさんに渡しました。 「半分くらいしか聞こえねかもしんねでね」と言ったのですが、それでも聞こえたようです。「かちゃかね、おれヒヅカ(屋号)、わかんなる〜」カズエさんは元気に呼びかけました。そして、「おまんと、こんだハルミさんちに行ってごたく言い合おうさ」そんな提案もしていました。

 カズエさんの電話が一区切りしたところでヨシエさんともかわってもらいました。「同じ声だすけ、わかるかなー」そう言いながらも母とやりとりしていました。

 カズエさんとヨシエさんは大島区竹平の「シタ」(屋号)の出身、いまは吉川区源地区に住んでいます。同じ源地区に住んでいるハルミさんも竹平の「カミヤ」(屋号)の出身です。これまで3人は何回も、ハルミさんの家でソバを食べながら、おしゃべりを楽しみ、励まし合ってきました。もちろん、母も一緒です。

 同郷の者同士が元気でいることを確認できたカズエさんは、別れ際に言いました。「ああいかった、きょうはいい日だ」。

  (2019年10月6日)

 
 

第575回 姫風露

 「姫風露」(ひめふうろ)という花があるんですね。先日、直江津は三八市へ行ったときの帰り道、ある喫茶店に入って初めて知りました。

 この花は店の入り口の小さな植木鉢に植えられていました。花は桃色、5枚の小さな花びらには血管のような感じの赤い筋が何本も走っていました。花の形はいま、あちこちの野山で咲いているゲンノショウコにそっくり、違うのは葉の形です。こちらはチドメグサの葉とほぼ同じ形でした。

 喫茶店に入った私は、コーヒーを注文する前に、「玄関のところにある小さな花、何というんですか」とAさんに訊きました。ひとたび気になると、じっとしていられないのが私の性分なのです。

 Aさんはお店のスタッフです。「ヒメフウロと言うんだそうです」と答えてくださいました。「ヒメフウロ?」と私が言ったもんですから、「姫のひめ、風(かぜ)、そして露(つゆ)と書くんです」とも教えてくださいました。

「花の形からいって、ゲンノショウコの仲間であることはわかるんですけどね……」そう言いながら、カウンター席に座り、スマホを使って調べ始めました。

 すると、姫風露は「フウロソウ科の一年草または越年草。別名はシオヤキソウ(塩焼草)」とあります。やはり、ゲンノショウコの仲間でした。

 私はスマホで調べた姫風露の情報をすぐAさんに伝えました。「間違いなくゲンノショウコの仲間でした。でも、私には初めて見る花です」と言うと、Aさんは、この花を入手したときのこと、花の一部は枯れてしまったことなどについても語ってくださいました。じつは、姫風露は玄関先だけでなく、お店の中にも一鉢あったのです。

 この日、私がお店に入ったばかりのころ、店内にはお客さんはなく、Aさんと私の2人だけでした。コーヒーを飲みながら、私が書いている「春よ来い」のことから、議会での「しゃべり」のことまで次々と話題が広がりました。

 そのなかでも盛り上がったのは本のことです。Aさんは、「橋爪さんは本はお好きなんですか」と訊かれましたので、「好きな方ですね。ただ、難しい本はダメです」と答えました。

 喫茶店のカウンター内の隅っこに、浅田次郎の『蒼穹の昴』(そうきゅうのすばる)が置いてありました。私の目がそちらに向いたことに気づかれたのでしょう。Aさんは、「私は浅田次郎が好きなんですよ」と言われました。「鉄道員」など2、3冊しか読んでいませんが、私も浅田次郎が好きで、とくに人情の機微(きび)にふれる文章が気に入っていました。

 ひとしきり浅田次郎の話をした後、私は向田邦子の小説やエッセイの話をしようとしました。ところが、何ということでしょう、このとき、向田邦子の名前がすぐに出てきませんでした。

「私はね、あの人の本が好きなんですよ。いま生きておられれば、八十代でしょうか、飛行機事故で亡くなった……」。私がそこまで話をしたところで、Aさんは、「あっ、向田邦子ね。『あうん』とか『思い出トランプ』の人ね」と言われました。私が向田邦子を好きなのは、日常生活の何気ないことをとりあげて、そこにキラリと光るものを見つけ出すところなのですが、Aさんもまた向田邦子に関心を持っておられたことを知って驚きました。

 姫風露の花言葉は「静かな人」。この日、Aさんがとても本好きであることを初めて知りました。姫風露の小さな花が小柄なAさんの姿と重なりました。

  (2019年9月29日)

 
 

第574回 よしたよした

 先日の深夜、風呂に入ったときのことです。風呂上がりに、ふと思い出しました。「よした」という言葉です。

 この「よした」は、ほめるときに使う言葉で、「よくやった」という意味です。わが家では、父がよく使っていました。私がいまでも記憶しているのは、昔、わが家で飼っていた「ニャンチャン」という名前のネコをほめるときに使っていたことです。

 季節は、もう少し遅い、秋が深まったころだったと思います。わが家の「にわ」で稲の脱穀作業をやり、モミが広間の「たて」のなかに入れられていたときでした。

 居間でご飯を食べていたか、お茶を飲んでいたときのことでした。家族みんながいるところへ「ニャンチャン」がやってきたのです。それも血がついたネズミを口にくわえていました。

 正直言うと、血で汚れたネズミは一時も早くどこかへ持って行ってほしかったのですが、父はネコを怒るどころかほめたのです。「よした、よした。えらいど、ニャン」。その言葉を聞いた「ニャンチャン」は、少し間をおいて、ネズミをくわえたまま姿を消しました。おそらく、どこかへ持って行って食べたのだと思います。

 このとき、父は、一緒にいたみんなに、「ニャンは、ネズミを捕まえたことをほめてもらいたくて、やってきたのだ」と言いました。「ニャンチャン」のそのときの表情、動きを見ていた私たちは、父の言うとおりだと思いました。

「よした」と言う言葉を思い出すなかで、改めて、子どもの頃の秋の農作業のことを振り返ることができました。

 わが家では9月の半ば過ぎから稲刈りが始まったように記憶しています。手伝い始めたころは手刈りでした。「あねさかぶり」をした母と父が稲刈り鎌を手に、ザッザッザッザという音を出しながらリズムよく稲を刈っている様子を見て、私たち兄弟も稲刈りができるようになりました。

 手刈りに慣れてきた頃、バインダーという稲を刈る機械が導入されました。わが家ではヤンマーのバインダーです。一条刈りながら、「ガチャガチャガチャン」という音を立てて稲を刈り、束ねていくそのスピードは人力をはるかに上回るものでした。湿田ではこのバインダーに下駄をはかせて機械が埋まらないようにするだけでなく、刈り取った稲を濡らさないように舟まで用意されていました。

 このバインダーを使った稲刈りは、父だけでなく、私もやることになりました。乾いた田んぼでの作業は楽でしたが、湿田での作業はきつく、半日もバインダーを使ったときは、体はもうぐったりでしたね。

 いまはほとんど姿を消した稲のハサがけ、これも忘れることのできない作業の1つでした。

 田んぼで刈った稲は人間が背負うか牛に載せて運ぶ時代が長く続きました。その後、耕耘機で運ぶのが主流となりましたが、ハサがけはずっと続きました。

 わが家では、釜平(がまびろ・地名)にハサ場があり、暗くなってからのハサがけではバイクのエンジンをかけ、そのライトを頼りに仕事を進めました。父はどんな仕事をする場合でも、手ぬぐいを使ったねじり鉢巻きをしていましたが、薄暗くなっても、父のねじり鉢巻きさえ見えれば、稲を投げることができました。

 機械化が大きく進んだいまでは考えられないことですが、数十年前までの稲作りでは、家族みんなが力を合わせて仕事をやっていました。このことは一生忘れることがありません。たまには、父の「よした、よした」という声を聞きたいものです。        

  (2019年9月22日)

 
 

第573回 タネを守り続けて

 先日、板倉区の山間部に住むキョウヘイさん夫婦が60年も70年も白瓜のタネを守り続けているという、興味深い情報を耳にしました。このお二人は私も知っていて、聞いた瞬間からそわそわしました。数日後、キョウヘイさん夫婦を訪ねました。

 その日、キョウヘイさんの家の近くの橋を渡ると、右側の畑のそばで仕事をしている女性の姿が目に入りました。キョウヘイさんのお連れ合いであるキヨエさんです。

「橋爪です。おまんちの白瓜のこと、聞きたくてやってきました」と言うと、すぐに白瓜を栽培しているところへ案内してもらいました。

 白瓜の畑は幅3b、長さ5bくらい。たくさんのツルがはっていましたが、植えた苗は6本だけとのことでした。すでに最盛期は過ぎていたものの、いくつかの瓜の姿が見えました。キヨエさんは、「もうはい、時季過ぎちゃったすけさ、春蒔いて、お盆のころが最高においしいんだでも……」と言っておられました。そして、「これ、タネなんですわ」と言って、ひときわ大きな白瓜を指差しました。

 キヨエさんの言う「タネ」と言うのは、タネをとるために完熟させている瓜のことです。このタネ瓜は一般の白瓜よりもひと回り大きく、長さも40a前後ありました。表面には細かい網をかぶせてあります。キヨエさんによると、これはカラスやタヌキ等によってタネをなくされないようにと考えての対策だということでした。

 白瓜だけではないと思いますが、タネをとるには適期(てっき)があります。キヨエさんによると、「ほぞぬけるまでにならないと、タネになってないの。タネが若いとダメ。実、よってくると、だんだん、マクワみていにいい匂いしてくる」とのことでした。さすがは何十年も作り続けた人の説明です。よくわかりました。

 タネ瓜の説明が終わったところで、キヨエさんは、食べるにはちょうどいい感じの白瓜を1個もぎ、実そのものについても説明してくださいました。

「これね、どういんだかしらんけど、いまの白瓜と違ってね、皮、うっすいしね、むかんでもいい。実もやわらかいの」

 私の目には、現在、広くつくられている白瓜とほとんど同じです。つい、「そんでも、なんかしるがでしょ」と訊いてしまいました。

 キヨエさんは、手に持った白瓜を私に見せながら、「はい、このまんま、へんなとこ取って、真ん中から割って、スプーンで取ると、中さ、きれいになるすけさ、ジュグジュグときざんで、一晩冷蔵庫に入れとくと、食べられるんだけどね」と言いました。「ジュグジュグときざむ」、思わず微笑んでしまう面白い表現ですね。

 この白瓜については歴史があります。キヨエさんは語りました。「おれの姑さん、つくっていなすった.んですわ。おれね、29年に嫁に来て、そんとき、ばあちゃん作っていなったんだけどね、2年経ったら、ばあちゃん、8年寝た切りのチュウキになっちゃって……」。この伝統ある白瓜はいま、3軒しか作っていないそうです。

 29年と言えば、いまから65年前のことです。キヨエさんの姑さんの代から、ひょっとすれば、その前からこの白瓜は作られていたのかも知れません。他の品種と交配させないようにしながら、何十年もタネを守り続けてきたとはすごいですね。

 キヨエさんは、いま91歳。93歳のキョウヘイさんとともに元気です。キヨエさんは最後に、「このつるたぐりのヘンクリ、食べてみなんねかね」そう言って、私に白瓜を4個もくださいました。

  (2019年9月15日)

 
 

第572回 ヤイヤイヤイ

 3か月ぶりに次男夫婦と孫のリョウ君がやってきました。お盆の初日、お墓参りを済ませてから、みんなでスカイトピア遊ランドに集まり、夕食会を楽しみました。

 夕食会は午後6時過ぎから。2つの大きなテーブルの上には、豚肉、ニンジン、なた豆、ジャガイモなどの焼き肉セット、刺身、カボチャやエビなどの天ぷら、サバの煮物、トコロテン、さらに特別注文したイワナの塩焼きなどが並んでいます。たくさんのご馳走を見た母は、「こりゃ、殿様だ」と言って喜びました。

 リョウ君にとっては、めずらしい食べ物ばかりです。トコロテンを食べているとき、「味はどうですか」と聞いたところ、「すっぱ過ぎ」という答えが返ってきました。大人にはちょうどいい味だったのですが、子どもには少しきつかったのでしょうか。それにしても、もう「すっぱい」という言葉を覚えていたのには驚きました。

 その後、しばらくは、みんなが座って食べていましたが、リョウ君が突然立って、大人たちの料理を見渡すと、「お肉!」と言いました。自分だけ、子ども用の食べ物となっていることに気づいたのかも知れません。いやはや、大人顔負けの食欲です。

 私たち大人がビールやウーロン茶などを飲んで、おしゃべりがはずんでいる時のこと、リョウ君は何を思ったのか、魔法瓶のそばに行き、麦茶を出し始めました。茶碗を用意し、そのなかに麦茶を注ぐ。たったそれだけのことではありますが、魔法瓶の上部の丸いところを手でしっかりと押さないと麦茶は出てきません。これを1回覚えたら、2度、3度とやってみたいんですね。それと、麦茶の色が気に入ったようです。「ビールみたい」とニコニコしながら、麦茶出しを繰り返していました。

 麦茶出しが一段落すると、リョウ君、今度はテーブルのまわりをとび回り始めました。じっとしていられないのでしょう。でも、他のみんなが飲み食いをしているさなかです。お父さんに捕まり、「ひげ攻撃」を受けました。ほっぺにひげをくっつけられるとチクチクします。それがいやでリョウ君は何度も逃げようとしました。

 お父さんが観念し、やっと逃げだしたリョウ君、次はテーブルの下にもぐりました。テーブルは2つ並べてあり、その下は絶好の遊び空間です。高さが40センチぐらいしかないなかで、両手でぐいぐい体を動かし、右へ左へ。私が「そんがんどこ、もぐらんで、こっち来なさい」と声をかけても、言葉にならない声をあげながらやめようとはしませんでした。私が面白半分に注意していることはすっかり見抜かれていたようです。

 テーブルの下から出たところで、リョウ君は再びお父さんに捕まりました。お父さん、今度は「こちょこちょ攻撃」を開始しました。リョウ君は「キャッキャ」と言いながら抵抗、「こちょばしちゃダメ」としきりに訴えていました。

 ようやく「こちょこちょ攻撃」から逃げ出すと、リョウ君は「ヤイヤイヤイ」と言って、テーブルの周辺を元気よく動きまわりました。

 こうして夕食会の始めから終わりまで、大人はリョウ君の一挙手一投足に注目しました。「すっぱい」「こちょばす」など使える言葉がぐんと増えるなど、ここ数か月の成長ぶりに目を見張りました。

 それにしても「ヤイヤイヤイ」は何の意思表示なのでしょう。私には、勝ち誇って踊るときの叫びのように思えました。しばらくは、リョウ君の天下が続きそうです。

  (2019年9月8日)

 

 

第571回 78年前の写真

 まさか手紙の中にこんなにうれしい写真があろうとは……。

 18日の夜、より正確に言うと19日の午前1時頃になりますが、わが家の座敷の入り口付近においてあった袋の中に叔父の手紙を見つけてびっくりしました。

 手紙は、平成13年8月19日、いまは亡き父・照義宛てに書かれたもので、郵便局の消印は「8月20日」となっていました。差出人は当時、習志野市に住んでいた叔父の伊東義孝でした。偶然ですが、私はこの手紙が書かれてからちょうど18年目の同じ日に読んだことになります。

 その手紙には「あさひ会」(大島区旭地区出身者の会)の会報に投稿する原稿の写しとともに1枚の写真が入っていました。そして手紙の「追伸」には、「姉アヤノ二三歳、兄英一 二一歳の古い写真ですが、私の手元に有りましたので同封しました」とあったのです。心がふるえました。

 写真はいまから78年前の昭和16年4月24日、東京の明治神宮前で撮ったものです。2人とも若々しく、伯母も伯父も着物姿でした。伯父は一目でわかりましたが、伯母は初めて見る顔です。これまで、私は、母の実家にある若い女性の遺影がアヤノ伯母さんだと思い込んでいましたが、それとは全然違っていました。背は150aほど、落ち着いた雰囲気があって、実際の年齢よりも上に見えました。私は、「こんな顔だったのか」とじっと見つめました。写真の裏には、叔父の字で、「右 内山アヤノ 二十三歳 左 内山英一 二十一歳」と書いてありました。

 写真を見た私は、誰よりも先に母に見てもらいたいと思いました。翌日だったと思いますが、「これ、見てみない」そう言って母の前に写真を差し出したところ、母は落ち着いた表情で、「こりゃ、アヤノという人だねかな」と言いました。驚くような仕草をしなかったところをみると、18年前、父のところへこの手紙が来たとき、父と一緒に見ていたのかも知れません。

 母の「アヤノという人だねかな」という他人行儀な言い方に違和感を持った私は「おまんの姉さんだろね」とつい、言ってしまいました。でも、母のしゃべりはすぐに姉妹らしい言い方に戻ったので安心しました。

 母は、その後、思い出の引き出しを開け、「いい姉さんだったがど。板山の小山トミエさんに負けらんねそって、よく勉強してたな」「アヤノはシンガポールに勤めていた正田家の人んとこに4年半、女中奉公したがだでも空襲で死んじゃった」などと語り続けました。

 手紙の中にあった「あさひ会」会報への叔父の投稿文には、母の実家の長男だった「のうののとちゃ」や埼玉で頑張ってきた母の弟、「狭山の叔父さん」とともにアヤノ伯母のことも書かれていました。15年前に他界した叔父は当時、キョウダイのうち、この3人が亡くなったとして悲しみ、「幼き頃の兄弟姉妹は年をとっても忘れることができません」と綴っていました。

 前にも書いたことがありますが、アヤノ伯母については、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で行方不明となり、嫁ぎ先のお父さん(舅)が「アヤノが来ていないだろうか」と大島まで探しに来たという経過がありました。その後、見つかったという話は聞いていません。

 今回見つかった写真を手掛かりに、東京大空襲時の身元不明者の遺骨も納めているという東京都慰霊堂に行ってみたいと思います。何かに出合える予感がするのです。

 (2019年9月1日)

 

 

第570回 大画面

 写真をドーンと大きくしてみんなで見ると、楽しいもんですね。先日、大島区熊田の「ふるさとふれあい交流会」で取り組まれた、大画面で楽しむ「懐かしの写真展」で体験しました。

 会場は熊田町内会集会所の2階です。町内会長さんが、壁に取り付けられた50インチのモニター(画面の大きさは縦62a、横110a)のスイッチを入れて、パソコンに入った画像データ(写真)を見せてくださいました。

 私が見たときは、多分、この日、最初の映写だったのでしょう。4、5人の人たちとともに、大きくなった写真を見ました。

 大画面を見ていて、たくさんの声が最初にあがったのは花嫁行列の写真でした。「すごい」「みんな若いよ」などといった声が後ろの方から聞こえてきました。映像は、私も見た記憶がありましたから、昨年、パネルに貼ってあった町内会長さん夫婦の結婚式のときのものでしょう。

 写真はスライドショーで映し出されていて、映写時間は1枚約3秒と短く、そのときは確認できなかったのですが、あとで見せてもらったところ、花嫁の口元、アゴのあたりがじつに若々しく感じました。

 それにしても、40数年前のこの結婚式、暑い日だったんですね。多くの人が扇子持参でした。最前列を歩く白いワイシャツ姿の男性は腰を曲げ、下を向いていましたし、花嫁のすぐ後ろの若い女性たちもうなだれて歩いているように見えました。

 キャンプファイヤーの写真でも集会所の2階は賑やかになりました。画面がキャンプファイヤーに替わった途端、私の後ろで、「あっ、いた、いた。真ん中、オレだ」という声があがりました。

 どこかのキャンプ場での写真だと思いますが、親子キャンプだったようです。大きな丸太を組んで、中心部には板こっぱを縦に差し込んでありました。燃え盛る火のそばに2人の男の子がいました。まだ小学校へ上がったかどうかという年齢でしたが、自分の顔はわかるんですね。

 大きな画面で映写して楽しむ会では、何よりも自分が出てくる写真が一番です。次いで自分の家族や近所の人たちでしょうか。身近な人たちが映し出されるたびに会場は盛り上がります。

 大画面に映し出された写真は熊田での暮らしの風景がほとんどです。田んぼ仕事、結婚式、旅行、ゲートボールの試合、カラオケ大会などずいぶん多くの場面の写真が残されていました。

 そのなかには、だいぶ前の旅行の写真も3枚ありました。うち2枚は大佐渡スカイラインへ行ったときのもの、もう1枚は松之山温泉郷で楽しんだときのものです。

 いずれも少なくとも10数年は経っているのでしょう。みんな懐かしい思いで映像をながめ、「あれはアラシキ(屋号)のじちゃだ」「あれはヤマンキ(屋号)のばちゃ」「サカンシタ(屋号)のばちゃもいる」などという声が相次ぎました。そして「昔の年寄りはよく旅行に行ったよね」という声も……。

 スライドショーは約10分かかりました。90枚全部を見終わった段階で、熊田から三竹沢へ嫁いだY子さんが、「ありがとうございました。いいが見してもらった」と言って、1階へ降りて行かれました。この気持ちはみんな共通です。

 子どもの頃、写真を何人かで顔を寄せ合って見て、大いに盛り上がった記憶があります。大画面で見た時も一緒。でも大きく映ると、楽しさもでっかくなりますね。

(2019年8月25日)

 

 
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