春よ来い(24)
 

第574回 よしたよした

 先日の深夜、風呂に入ったときのことです。風呂上がりに、ふと思い出しました。「よした」という言葉です。

 この「よした」は、ほめるときに使う言葉で、「よくやった」という意味です。わが家では、父がよく使っていました。私がいまでも記憶しているのは、昔、わが家で飼っていた「ニャンチャン」という名前のネコをほめるときに使っていたことです。

 季節は、もう少し遅い、秋が深まったころだったと思います。わが家の「にわ」で稲の脱穀作業をやり、モミが広間の「たて」のなかに入れられていたときでした。

 居間でご飯を食べていたか、お茶を飲んでいたときのことでした。家族みんながいるところへ「ニャンチャン」がやってきたのです。それも血がついたネズミを口にくわえていました。

 正直言うと、血で汚れたネズミは一時も早くどこかへ持って行ってほしかったのですが、父はネコを怒るどころかほめたのです。「よした、よした。えらいど、ニャン」。その言葉を聞いた「ニャンチャン」は、少し間をおいて、ネズミをくわえたまま姿を消しました。おそらく、どこかへ持って行って食べたのだと思います。

 このとき、父は、一緒にいたみんなに、「ニャンは、ネズミを捕まえたことをほめてもらいたくて、やってきたのだ」と言いました。「ニャンチャン」のそのときの表情、動きを見ていた私たちは、父の言うとおりだと思いました。

「よした」と言う言葉を思い出すなかで、改めて、子どもの頃の秋の農作業のことを振り返ることができました。

 わが家では9月の半ば過ぎから稲刈りが始まったように記憶しています。手伝い始めたころは手刈りでした。「あねさかぶり」をした母と父が稲刈り鎌を手に、ザッザッザッザという音を出しながらリズムよく稲を刈っている様子を見て、私たち兄弟も稲刈りができるようになりました。

 手刈りに慣れてきた頃、バインダーという稲を刈る機械が導入されました。わが家ではヤンマーのバインダーです。一条刈りながら、「ガチャガチャガチャン」という音を立てて稲を刈り、束ねていくそのスピードは人力をはるかに上回るものでした。湿田ではこのバインダーに下駄をはかせて機械が埋まらないようにするだけでなく、刈り取った稲を濡らさないように舟まで用意されていました。

 このバインダーを使った稲刈りは、父だけでなく、私もやることになりました。乾いた田んぼでの作業は楽でしたが、湿田での作業はきつく、半日もバインダーを使ったときは、体はもうぐったりでしたね。

 いまはほとんど姿を消した稲のハサがけ、これも忘れることのできない作業の1つでした。

 田んぼで刈った稲は人間が背負うか牛に載せて運ぶ時代が長く続きました。その後、耕耘機で運ぶのが主流となりましたが、ハサがけはずっと続きました。

 わが家では、釜平(がまびろ・地名)にハサ場があり、暗くなってからのハサがけではバイクのエンジンをかけ、そのライトを頼りに仕事を進めました。父はどんな仕事をする場合でも、手ぬぐいを使ったねじり鉢巻きをしていましたが、薄暗くなっても、父のねじり鉢巻きさえ見えれば、稲を投げることができました。

 機械化が大きく進んだいまでは考えられないことですが、数十年前までの稲作りでは、家族みんなが力を合わせて仕事をやっていました。このことは一生忘れることがありません。たまには、父の「よした、よした」という声を聞きたいものです。        

  (2019年9月22日)

 
 

第573回 タネを守り続けて

 先日、板倉区の山間部に住むキョウヘイさん夫婦が60年も70年も白瓜のタネを守り続けているという、興味深い情報を耳にしました。このお二人は私も知っていて、聞いた瞬間からそわそわしました。数日後、キョウヘイさん夫婦を訪ねました。

 その日、キョウヘイさんの家の近くの橋を渡ると、右側の畑のそばで仕事をしている女性の姿が目に入りました。キョウヘイさんのお連れ合いであるキヨエさんです。

「橋爪です。おまんちの白瓜のこと、聞きたくてやってきました」と言うと、すぐに白瓜を栽培しているところへ案内してもらいました。

 白瓜の畑は幅3b、長さ5bくらい。たくさんのツルがはっていましたが、植えた苗は6本だけとのことでした。すでに最盛期は過ぎていたものの、いくつかの瓜の姿が見えました。キヨエさんは、「もうはい、時季過ぎちゃったすけさ、春蒔いて、お盆のころが最高においしいんだでも……」と言っておられました。そして、「これ、タネなんですわ」と言って、ひときわ大きな白瓜を指差しました。

 キヨエさんの言う「タネ」と言うのは、タネをとるために完熟させている瓜のことです。このタネ瓜は一般の白瓜よりもひと回り大きく、長さも40a前後ありました。表面には細かい網をかぶせてあります。キヨエさんによると、これはカラスやタヌキ等によってタネをなくされないようにと考えての対策だということでした。

 白瓜だけではないと思いますが、タネをとるには適期(てっき)があります。キヨエさんによると、「ほぞぬけるまでにならないと、タネになってないの。タネが若いとダメ。実、よってくると、だんだん、マクワみていにいい匂いしてくる」とのことでした。さすがは何十年も作り続けた人の説明です。よくわかりました。

 タネ瓜の説明が終わったところで、キヨエさんは、食べるにはちょうどいい感じの白瓜を1個もぎ、実そのものについても説明してくださいました。

「これね、どういんだかしらんけど、いまの白瓜と違ってね、皮、うっすいしね、むかんでもいい。実もやわらかいの」

 私の目には、現在、広くつくられている白瓜とほとんど同じです。つい、「そんでも、なんかしるがでしょ」と訊いてしまいました。

 キヨエさんは、手に持った白瓜を私に見せながら、「はい、このまんま、へんなとこ取って、真ん中から割って、スプーンで取ると、中さ、きれいになるすけさ、ジュグジュグときざんで、一晩冷蔵庫に入れとくと、食べられるんだけどね」と言いました。「ジュグジュグときざむ」、思わず微笑んでしまう面白い表現ですね。

 この白瓜については歴史があります。キヨエさんは語りました。「おれの姑さん、つくっていなすった.んですわ。おれね、29年に嫁に来て、そんとき、ばあちゃん作っていなったんだけどね、2年経ったら、ばあちゃん、8年寝た切りのチュウキになっちゃって……」。この伝統ある白瓜はいま、3軒しか作っていないそうです。

 29年と言えば、いまから65年前のことです。キヨエさんの姑さんの代から、ひょっとすれば、その前からこの白瓜は作られていたのかも知れません。他の品種と交配させないようにしながら、何十年もタネを守り続けてきたとはすごいですね。

 キヨエさんは、いま91歳。93歳のキョウヘイさんとともに元気です。キヨエさんは最後に、「このつるたぐりのヘンクリ、食べてみなんねかね」そう言って、私に白瓜を4個もくださいました。

  (2019年9月15日)

 
 

第572回 ヤイヤイヤイ

 3か月ぶりに次男夫婦と孫のリョウ君がやってきました。お盆の初日、お墓参りを済ませてから、みんなでスカイトピア遊ランドに集まり、夕食会を楽しみました。

 夕食会は午後6時過ぎから。2つの大きなテーブルの上には、豚肉、ニンジン、なた豆、ジャガイモなどの焼き肉セット、刺身、カボチャやエビなどの天ぷら、サバの煮物、トコロテン、さらに特別注文したイワナの塩焼きなどが並んでいます。たくさんのご馳走を見た母は、「こりゃ、殿様だ」と言って喜びました。

 リョウ君にとっては、めずらしい食べ物ばかりです。トコロテンを食べているとき、「味はどうですか」と聞いたところ、「すっぱ過ぎ」という答えが返ってきました。大人にはちょうどいい味だったのですが、子どもには少しきつかったのでしょうか。それにしても、もう「すっぱい」という言葉を覚えていたのには驚きました。

 その後、しばらくは、みんなが座って食べていましたが、リョウ君が突然立って、大人たちの料理を見渡すと、「お肉!」と言いました。自分だけ、子ども用の食べ物となっていることに気づいたのかも知れません。いやはや、大人顔負けの食欲です。

 私たち大人がビールやウーロン茶などを飲んで、おしゃべりがはずんでいる時のこと、リョウ君は何を思ったのか、魔法瓶のそばに行き、麦茶を出し始めました。茶碗を用意し、そのなかに麦茶を注ぐ。たったそれだけのことではありますが、魔法瓶の上部の丸いところを手でしっかりと押さないと麦茶は出てきません。これを1回覚えたら、2度、3度とやってみたいんですね。それと、麦茶の色が気に入ったようです。「ビールみたい」とニコニコしながら、麦茶出しを繰り返していました。

 麦茶出しが一段落すると、リョウ君、今度はテーブルのまわりをとび回り始めました。じっとしていられないのでしょう。でも、他のみんなが飲み食いをしているさなかです。お父さんに捕まり、「ひげ攻撃」を受けました。ほっぺにひげをくっつけられるとチクチクします。それがいやでリョウ君は何度も逃げようとしました。

 お父さんが観念し、やっと逃げだしたリョウ君、次はテーブルの下にもぐりました。テーブルは2つ並べてあり、その下は絶好の遊び空間です。高さが40センチぐらいしかないなかで、両手でぐいぐい体を動かし、右へ左へ。私が「そんがんどこ、もぐらんで、こっち来なさい」と声をかけても、言葉にならない声をあげながらやめようとはしませんでした。私が面白半分に注意していることはすっかり見抜かれていたようです。

 テーブルの下から出たところで、リョウ君は再びお父さんに捕まりました。お父さん、今度は「こちょこちょ攻撃」を開始しました。リョウ君は「キャッキャ」と言いながら抵抗、「こちょばしちゃダメ」としきりに訴えていました。

 ようやく「こちょこちょ攻撃」から逃げ出すと、リョウ君は「ヤイヤイヤイ」と言って、テーブルの周辺を元気よく動きまわりました。

 こうして夕食会の始めから終わりまで、大人はリョウ君の一挙手一投足に注目しました。「すっぱい」「こちょばす」など使える言葉がぐんと増えるなど、ここ数か月の成長ぶりに目を見張りました。

 それにしても「ヤイヤイヤイ」は何の意思表示なのでしょう。私には、勝ち誇って踊るときの叫びのように思えました。しばらくは、リョウ君の天下が続きそうです。

  (2019年9月8日)

 

 

第571回 78年前の写真

 まさか手紙の中にこんなにうれしい写真があろうとは……。

 18日の夜、より正確に言うと19日の午前1時頃になりますが、わが家の座敷の入り口付近においてあった袋の中に叔父の手紙を見つけてびっくりしました。

 手紙は、平成13年8月19日、いまは亡き父・照義宛てに書かれたもので、郵便局の消印は「8月20日」となっていました。差出人は当時、習志野市に住んでいた叔父の伊東義孝でした。偶然ですが、私はこの手紙が書かれてからちょうど18年目の同じ日に読んだことになります。

 その手紙には「あさひ会」(大島区旭地区出身者の会)の会報に投稿する原稿の写しとともに1枚の写真が入っていました。そして手紙の「追伸」には、「姉アヤノ二三歳、兄英一 二一歳の古い写真ですが、私の手元に有りましたので同封しました」とあったのです。心がふるえました。

 写真はいまから78年前の昭和16年4月24日、東京の明治神宮前で撮ったものです。2人とも若々しく、伯母も伯父も着物姿でした。伯父は一目でわかりましたが、伯母は初めて見る顔です。これまで、私は、母の実家にある若い女性の遺影がアヤノ伯母さんだと思い込んでいましたが、それとは全然違っていました。背は150aほど、落ち着いた雰囲気があって、実際の年齢よりも上に見えました。私は、「こんな顔だったのか」とじっと見つめました。写真の裏には、叔父の字で、「右 内山アヤノ 二十三歳 左 内山英一 二十一歳」と書いてありました。

 写真を見た私は、誰よりも先に母に見てもらいたいと思いました。翌日だったと思いますが、「これ、見てみない」そう言って母の前に写真を差し出したところ、母は落ち着いた表情で、「こりゃ、アヤノという人だねかな」と言いました。驚くような仕草をしなかったところをみると、18年前、父のところへこの手紙が来たとき、父と一緒に見ていたのかも知れません。

 母の「アヤノという人だねかな」という他人行儀な言い方に違和感を持った私は「おまんの姉さんだろね」とつい、言ってしまいました。でも、母のしゃべりはすぐに姉妹らしい言い方に戻ったので安心しました。

 母は、その後、思い出の引き出しを開け、「いい姉さんだったがど。板山の小山トミエさんに負けらんねそって、よく勉強してたな」「アヤノはシンガポールに勤めていた正田家の人んとこに4年半、女中奉公したがだでも空襲で死んじゃった」などと語り続けました。

 手紙の中にあった「あさひ会」会報への叔父の投稿文には、母の実家の長男だった「のうののとちゃ」や埼玉で頑張ってきた母の弟、「狭山の叔父さん」とともにアヤノ伯母のことも書かれていました。15年前に他界した叔父は当時、キョウダイのうち、この3人が亡くなったとして悲しみ、「幼き頃の兄弟姉妹は年をとっても忘れることができません」と綴っていました。

 前にも書いたことがありますが、アヤノ伯母については、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲で行方不明となり、嫁ぎ先のお父さん(舅)が「アヤノが来ていないだろうか」と大島まで探しに来たという経過がありました。その後、見つかったという話は聞いていません。

 今回見つかった写真を手掛かりに、東京大空襲時の身元不明者の遺骨も納めているという東京都慰霊堂に行ってみたいと思います。何かに出合える予感がするのです。

 (2019年9月1日)

 

 

第570回 大画面

 写真をドーンと大きくしてみんなで見ると、楽しいもんですね。先日、大島区熊田の「ふるさとふれあい交流会」で取り組まれた、大画面で楽しむ「懐かしの写真展」で体験しました。

 会場は熊田町内会集会所の2階です。町内会長さんが、壁に取り付けられた50インチのモニター(画面の大きさは縦62a、横110a)のスイッチを入れて、パソコンに入った画像データ(写真)を見せてくださいました。

 私が見たときは、多分、この日、最初の映写だったのでしょう。4、5人の人たちとともに、大きくなった写真を見ました。

 大画面を見ていて、たくさんの声が最初にあがったのは花嫁行列の写真でした。「すごい」「みんな若いよ」などといった声が後ろの方から聞こえてきました。映像は、私も見た記憶がありましたから、昨年、パネルに貼ってあった町内会長さん夫婦の結婚式のときのものでしょう。

 写真はスライドショーで映し出されていて、映写時間は1枚約3秒と短く、そのときは確認できなかったのですが、あとで見せてもらったところ、花嫁の口元、アゴのあたりがじつに若々しく感じました。

 それにしても、40数年前のこの結婚式、暑い日だったんですね。多くの人が扇子持参でした。最前列を歩く白いワイシャツ姿の男性は腰を曲げ、下を向いていましたし、花嫁のすぐ後ろの若い女性たちもうなだれて歩いているように見えました。

 キャンプファイヤーの写真でも集会所の2階は賑やかになりました。画面がキャンプファイヤーに替わった途端、私の後ろで、「あっ、いた、いた。真ん中、オレだ」という声があがりました。

 どこかのキャンプ場での写真だと思いますが、親子キャンプだったようです。大きな丸太を組んで、中心部には板こっぱを縦に差し込んでありました。燃え盛る火のそばに2人の男の子がいました。まだ小学校へ上がったかどうかという年齢でしたが、自分の顔はわかるんですね。

 大きな画面で映写して楽しむ会では、何よりも自分が出てくる写真が一番です。次いで自分の家族や近所の人たちでしょうか。身近な人たちが映し出されるたびに会場は盛り上がります。

 大画面に映し出された写真は熊田での暮らしの風景がほとんどです。田んぼ仕事、結婚式、旅行、ゲートボールの試合、カラオケ大会などずいぶん多くの場面の写真が残されていました。

 そのなかには、だいぶ前の旅行の写真も3枚ありました。うち2枚は大佐渡スカイラインへ行ったときのもの、もう1枚は松之山温泉郷で楽しんだときのものです。

 いずれも少なくとも10数年は経っているのでしょう。みんな懐かしい思いで映像をながめ、「あれはアラシキ(屋号)のじちゃだ」「あれはヤマンキ(屋号)のばちゃ」「サカンシタ(屋号)のばちゃもいる」などという声が相次ぎました。そして「昔の年寄りはよく旅行に行ったよね」という声も……。

 スライドショーは約10分かかりました。90枚全部を見終わった段階で、熊田から三竹沢へ嫁いだY子さんが、「ありがとうございました。いいが見してもらった」と言って、1階へ降りて行かれました。この気持ちはみんな共通です。

 子どもの頃、写真を何人かで顔を寄せ合って見て、大いに盛り上がった記憶があります。大画面で見た時も一緒。でも大きく映ると、楽しさもでっかくなりますね。

(2019年8月25日)

 

 
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