春よ来い(23)
 

第562回 帰っちゃうのか

 笑顔になっていなくても、人間って、うれしいときはうれしいんですね。

 先週、用があって、2日連続で妻の実家へ行ってきました。いずれも、ほんの1時間ほどしか滞在しなかったのですが、義母の表情を見ていて、そう思ったのです。

 2日目の時、義母は最初、自分の部屋に入ったままでした。コーヒーをご馳走になっていたときでしたから、30分くらい経ってからだったと思います、義母が部屋からゆっくり出てきました。

 義母は薄紫色と赤い色の小さなモミジの葉が描かれているパジャマを着たままでした。その様子を確認した家族の者が、そばまで行って、頭をなでながら、「かあちゃん、鬼ババみたいだった頭、きれいになったね」と言いました。

 義母はにこりともしませんでしたが、かといって、怒っていたわけではありません。

 あとで妻から聞いた話ですが、私が訪問していることを知って、94歳の義母は髪を整え、部屋から出てきたようなのです。

 義母は部屋から出てくるとき、左手に赤いトマトを1個持っていました。

 このトマトは前日、私が吉川区内のトマト農家、山岸さんから買って持参したものです。前日は、私がいるときに、義姉から八等分してもらい、トマトの一切れひときれを味わって食べていました。「これ、おいしい」と言っていましたから、すでに3個全部がなくなっていたと思ったら、まだ残っていたんですね。

 義母は居間に入ると、「これ、切って、持ってきてくれや」と妻に言いました。

 このとき、テレビでは東京へオリンピック招致する話をやっていました。数年前の話ではありません。加納治五郎や東京市長の永田秀次郎が出ていましたから、東京でオリンピックをという運動が起きた数十年前の出来事です。戦争している国でオリンピックを開催していいのかという声があるなかで、永田だか加納が、「オリンピックは政治に左右されてはならないのです」と訴えている姿が映し出されていました。

 切られたトマトが出てくるまで、義母は、私の隣のイスに腰掛けて待ちました。見ると、首に素敵なネッカチーフを巻いています。しかも結びもきれいです。「なかなか素敵だね。でも、暑くないの」と尋ねると、「これを巻いていないと寒いの」という答えが返ってきました。

 切ったトマトが出されてからのことですが、テーブルの上には箸もフォークもありませんでした。誰かが金色に光ったフォークを食器棚から出してきました。

 この日も義母は、「このトマト、おいしい」と言い、金色のフォークで一切れひときれゆっくり味わいながら食べました。

 食べ終わったところで、義母は、「もう1個ある。明日が楽しみだ」と言いました。そして、もうひとこと、「ああ、おいしかった。もう夕飯いらん」とも。

 そばにいた妻が、「夕飯はまたおいしいもの出るよ」と言ったのですが、それには反応しませんでした。代わりに反応したのは義兄です。「ソーメンとかき揚げがある。4分の1に分けて食べればいいさ」と言いました。

 義母がトマトを食べ終わった段階になって、裏庭から涼しい風が居間にすーっと入ってきました。なるほど、これならネッカチーフを必要とするかも知れません。

 夕方の4時半過ぎ、帰らなければならない時間になりました。「さあ、帰ろう」そう言って立ち上がると、義母がすぐに反応しました。「もう、帰っちゃうのか」と。

  (2019年6月23日)

 
 

第561回 過去との再会

 前回の「古本屋を訪ねて」の最後に、私は、「ひょっとしたら、(古本屋の大雲健而さんと)東京大空襲で行方不明となった私の母の姉、アヤノ伯母さんとの接点が見えてくるかも知れません」と書きました。

 この文章を掲載したビラを配り始めた1日目の夜、高田で会合に出ていた私の携帯電話が鳴りました。電話は私が赤ちゃんの時に乳を飲ませていただいたキエさんからでした。

「おまんが書いてくんなった本屋の健而さんの母親と正田家のMさんはね、イトコ同士だよ」

 なんということでしょう。私が活動レポートを配り始めたばかりだというのに、いきなりびっくり情報が飛び込んできたのです。うれしかったですね。

 すぐにでも飛んでいって、確かめたかったのですが、ちょうど議会開会中とあって、キエさん宅を訪問したのは2日後になりました。茶の間に上がらせてもらうと、キエさんから、「なつかしいことを書いてもらっていかった」と言われました。

 キエさんによると、キエさんは昭和19年1月末ころ、私の母の案内で正田家のMさんのところへ行ったというのです。ここで私の母が登場してくること自体、驚きだったのですが、Mさん宅へは、Mさんのお連れ合いが2月にお産をされるということで、家事の手伝いをするために行ったということでした。Mさん宅へ行く前日には、当時、東京・深川に住んでいたアヤノ伯母さんの家に1泊させてもらったということもわかりました。

 もう一方の当事者である大雲健而さんですが、男6人、女1人の7人キョウダイだったといいます。そのなかで健而さんは真ん中あたりだったとか。名前も1人わからないだけで、残りは全部覚えているといいますから、たいしたものです。

 神田神保町の大雲堂書店に旧旭村から女中奉公に行った最初の女性は、竹平出身のアキ子さん、キエさんの同級生でした。どうしてそういうことがわかるかというと、大雲堂へアキ子さんを紹介したのはキエさんだったのです。アキ子さんが大雲堂で仕事をしていたのは終戦後のことだと思います。大雲堂へ奉公に行った2人目はチズさん、キエさんの妹さんです。そして3人目が内山キョウさんだったのです。

 キエさんがこの大雲堂書店には「へさ行ったわけではねし、ほんの2、3回いっただけだ」そうです。それでも、健而さんやその上のキョウダイの人の名前を覚えていました。それだけではないのです。建物や部屋の様子、それに暮らしの一面も記憶していました。

 例えば、料理。大雲堂でも料理をされたのでしょうか。キエさんはこう言ったのです。

「黄身を乾燥させたものを水で溶いて、フライパンに油ひいて、ご飯いれて、炒めるがさね。『それ、ぼく一番好きだよ』そって言われた」

 キエさんは料理が得意の人ですから、こういう記憶も残ったのかも知れません。でも、卵料理を食べた大雲堂のご家族の誰かがのべたことまで頭に残っているとは、すごい記憶力だと思います。

 前回の「春よ来い」に書いた大雲健而さんの写った写真、これには健而さん以外のキョウダイが写っていることもわかりました。今後の新たな展開が楽しみです。

 戦争中から昭和20年代後半にかけての歴史の一こまひとこまが見えてくるようなキエさんの話、キエさん自身が過去との再会を楽しんでいるようにも見えました。
 
  (2019年6月16日)

 

第560回 古本屋を訪ねて

 「母のキョウは神田神保町の大雲堂(たいうんどう)という古本屋さんに世話になっていました」。この言葉を聞いたことがいま、面白い展開につながっています。

 話したのは柿崎区上下浜のKさん。5月5日の従兄の法事の席でした。これまで母の実家やその親戚の女性の何人かが東京で奉公したのは日清製粉の正田家と聞いていました。私の母もその1人でした。まさか、Kさんのお母さんが神田神保町の古本屋に奉公していたとは……。

 私は学生時代と大学卒業後に何度か神田神保町に行き、古本屋街を歩き回ったことがあります。そこでは、「秋田県労農運動史」などめずらしい本を見つけ出したこともあって、そこはうもれた歴史や知識の宝庫だと思っていました。

 そこにキョウさんが若かりし頃、行っていた、それも古本屋さんで働いていた。そうか、キョウさんの知的な雰囲気はそこが原点だったのか。私は勝手にそう判断し、これは一度、その古本屋さんを訪ねてみなければと思いました。

 大雲堂という古本屋さんを訪ねる機会は、思いのほか、早くやってきました。

 5月24日。高校時代の下宿仲間が中心になって東京でミニ同級会をやることになっていました。そのミニ同級会の会場は神保町交差点から南の方に歩いて5分、約400bという位置にありました。「よしっ、それならば、同級会に出ることにして、神保町の大雲堂も訪ねてみよう」私はそう決意して、東京行きを決めたのです。

 この日は気温が25度前後、暑かったですね。私は最初、神保町交差点から西の方角に向かってぶらついたのですが、私が探している大雲堂書店は神保町交差点から東側に進んで50bも行かないところにあることがわかりました。

 大雲堂書店は外壁は新しく、色はウッドブラウン。お店の中に一歩入ると、左右の本棚は高いところまで古本がびっしりと並んでいて、古本の匂いが漂っていました。

 お店の中の本をしばらく見た後、私は、店の隅っこに座っていた白髪の男性に声をかけてみました。

「すみません、上越市からやってきた橋爪といいますが、大島村出身で、終戦前後、お宅にお世話になっていた内山キョウさん、ご存じでしょうか」

 この問いかけに、白髪の男性は、
「わかりますよ。内山さんのところからはキョウさんとミツコさん、それにサダオさんも来られてました」

 と答えてくださったのです。

 この男性はお店のご主人、大雲健而(おおくもけんじ)さんでした。にこやかな表情でいろいろと話をしてくださったのですが、びっくりしたのは、大雲さん自身が大島を訪ねていたという話です。

 東京から帰って6日後、私は大島区にあるキョウさんの実家を訪ねました。

 神保町の大雲堂書店や大雲さんの写真をキョウさんの実家のRさんに見せたところ、「たぶん、大雲さんがきなったときの写真、おらちにあるはずだ」というのです。これには、うれしくなりました。

 その数日後、Rさんからその写真を見せていただきました。Rさんの家族とともに背が高く、若い大雲さんが写っていました。大雲さんがこの写真を見たら、懐かしい話をいっぱいしてくださるはずです。

 ひょっとしたら、世田谷・成城町の正田家に奉公し、後に東京大空襲で行方不明となった私の母の姉、アヤノ伯母さんとの接点が見えてくるかも知れません。 

  (2019年6月9日)

 
 

第559回 斜め切り

 いくつになっても毎日の生活の中で一番の楽しみは食事、食べることです。それもできるだけ楽しく、美味しく食べたい。

 いうまでもなく、食べるには、その前に調理しなければならないものが少なくありません。私は食べるばかりで、調理することがめったにない人間ですが、最近、調理の過程での「これは」と思う新発見を2度もしました。

 そのひとつは食材の切り方です。

 今年の4月下旬のことでした。ウドやワラビ、コゴミなどの山菜をたくさん採ることができたので、その一部を近くの友人におすそ分けしました。そこの家では、その日の夕飯時に、ウドを斜め切りにし、その上にイカジョッカラをのせて食べたというのです。

 なんとまあ、豪快な食べ方をするんだろうと感心したのですが、私の心には「斜め切り」という言葉が残りました。

 これまで私が知っていた調理での食材の切り方は、「千切り」「輪切り」「みじん切り」くらいです。「斜め切り」は初めて聞いた言葉ではありますが、どういう切り方かはよくイメージできます。

 たしかにウドの白身の残ったところを斜め切りにすると、見栄えがしますし、美味しそうにも見えます。しかし、それだけではないことがあとでわかりました。斜め切りにするとスジっぽくならないというのです。調理のことをほとんど知らない私にとっては新鮮な知識でした。

 どうしてそういうことになるのか。インターネットで調べてみると、「加熱の方法や味つけも味を決める大きな要素ですが、もう一点切り方次第でも味わいが変わります。ポイントは『繊維の向き』と『食感』。キャベツの千切りをする時、どういう向きに切るかで味が変わってきます。包丁で切る場合、葉脈に向かって縦に切ると繊維に沿って切ることになるため繊維が断たれることなく残ります」とありました。

 包丁を使った切り方ひとつで、食べ物の味や食感にも影響を与えるんですね。驚きました。

 それから数日後、今度は、高菜(たかな)の調理でもおもしろいと言ったらいいか、興味深い発見をしました。

 女性グループの皆さんが、ある集いの準備で忙しく動いておられるときのことでした。数人の人がウドやオヤマボクチ(山ごぼう)などの天ぷらを揚げているそばで、高菜の調理をしているNさんの姿が目に入ってきました。

 Nさんは、大きな鍋で菜箸(さいばし)を使って、高菜を2、3回、行ったり来たりさせると、まな板の上にさっと上げました。そして、少し時間を置いてから、高菜に少々、塩を振りかけ、束にしてまるけながら、ギュッ、ギュッと押したのです。それが何を意味するのかはわかりませんでしたが、その際、高菜がバリバリと音を出すのにはびっくりしました。

 この調理風景を見てから1か月ほど経って知ったのですが、これは野菜の下処理方法のひとつで、「板ずり」と呼ぶのだそうです。Nさんの話では、鍋の中でさっと茹でて高菜の辛味を飛ばし、板ずりによって苦味をしぼり出していくのだとか。

 最初に書いたように、私は日頃、調理をすることがほとんどありません。面倒くさがりなんでしょうね。そういう私ではありますが、「斜め切り」や「板ずり」のことなどを聞き、少し興味がわいてきました。えっ、何ですか、タマネギは切り方で味も栄養効果も変わってくるですって。

 (2019年6月2日)

 
 

第558回 命のつながり

 このところ、命について考える機会が続いています。

 例えば5月5日、私は大島区で従兄の納骨式に参列していました。ここでも命について考える機会を与えてもらいました。

 この日、仏壇の前でお経を上げてくださった吉川区の専徳寺住職の松村公雄さんは、「亡くなった日のことを『死亡年月日』と呼ばず、なぜ『命日』と呼ぶのでしょうか」と私たちに問いかけられました。そして、少し時間をおいて、「命日とは命のバトンを渡す日」とおっしゃったのです。

 松村さんからは、だいぶ前にも「命のバトン」という話を聴いていたこともあり、この日は、松村さんのこの言葉がずっと頭に残っていて、命日や法事のことを考える素地はできていました。

 この日、「庄屋の家」で行われたお斎の席では出席者の1人からたいへん興味深い話を聴きました。

 話を聴かせてくれたのはKさん。亡くなった従兄の母親と同じく、Kさんの母親も大島区竹平の「むこう」(屋号)の出身でした。Kさんは、かなり前に角間から柿崎区上下浜に移住しています。

 Kさんは、自分が子どもの頃、母親の実家へ泊まりに行ったときのことについてふれ、「浅五郎さんというじいさんはじつに達筆だった。それと布団の中で昔話をしてくれた」と語りました。またKさんは、自分の母親が若い頃、東京は神田神保町の「大運堂」という古本屋に奉公に出ていたことについても語ってくれました。

 話を聴きながら、私は浅五郎さんからKさんの母親、さらにKさんへとつながっているものがあるなと感じました。

 そして今月12日、直江津の三八市の通りに面した聽心寺の掲示板に書かれた言葉。これがまた、すばらしいものでした。

 花は散っても
  花は死なない
  翌年 また 花は咲く
 人は死んでも
  なくならない
  縁あった人の心に
  生き続ける

 縦70a、横1b20aほどの掲示板に、一字一字丁寧に書かれていました。

 書いたのは同寺の住職だった居多コ恵さんです。コ恵さんは5月6日、満64歳で亡くなられたのですが、亡くなる前日か前々日に掲示板にこの言葉を書かれたというのです。まるで、「自分が死んでも悲しむことはないよ」と遺言を書かれたかのようで、コ恵さんのことを知っている人はみんなびっくりしました。

 私はここ数年、同寺の掲示板を見続けてきました。コ恵さんが自分で言葉を考え、しかも自筆で書いておられたことは十分承知していたのですが、それでも、ひょっとすれば、掲示板を書いていたのは坊守さんかもしれないと思ったくらいです。

 私は、フェイスブックや毎週発行の活動レポートなどでこの掲示板の言葉を紹介しました。それを読んだ多くの人から、「ご住職のお人柄が伝わってくる掲示板、最後に素晴らしい大事にしたい言葉を残された」「身近なものが亡くなって悲しい思いをしていたが、これで元気に生きていけます」などの声が寄せられました。

 Kさんの話といい、聽心寺の掲示板といい、私の心に響きました。そして、思ったのです。「人の命はつながっていく。自分が死んでも、『人の心に生き続ける』生き方をしなければ」と。

  (2019年5月26日)

 
 

第557回 弟の帰省

 今年の正月、愛知県在住で私のすぐ下の弟は、母に顔を見せるように催促され、「桜が咲く頃には帰るよ」と約束していました。

 母はその言葉を信じ、「桜が咲けば、ツトムが帰ってくる」と、桜の咲くときをずっと待ち続けていました。母にとって、桜というのはわが家の庭にある桜の木のことです。父が植えたその桜はこれまで、濃いピンク色の花を咲かせ続けてきました。

 ところが、この桜の木は今年、4月下旬になっても花を咲かせませんでした。「まだ桜が咲かない」という母の言葉を聞いたとき、「認知症がひどくなったかな」と思ったのですが、桜の木のそばに行ってよく見たら、驚きました。まだ若い木なのに枯れていたのです。これには困りました。

 桜の木が枯れたことを母に知られてはまずいと思い、愛知の弟に電話して、早く帰省するよう促しました。忙しいゴールデンウイークが終わって最初の日曜日の夕方、弟はようやく帰ってきました。

 弟が帰省したのは数年ぶりです。この日のために、母は家族の者と協力して久しぶりに赤飯を蒸かしました。大潟区に住むもう一人の弟もウドやワラビなどの山菜を採りに行き、天ぷらなどにしてこの日の夕食時に持ってきてくれました。

 コタツのテーブルの上には、ウドやフキノトウの天ぷら、ワラビやウドの煮物などが並びました。そして私が用意しておいたオードブルや朝鮮漬けなどの漬物もテーブルに上げました。

 母が指導して作った赤飯は、これまで母が一人で作ったときのものとまったく同じ味で、「やっぱり、この赤飯は違うね。うんまいわ」などの声が上がりました。家の者によると、もち米をといでから水に浸す時間の長さ、蒸かしに入る前にちょっぴり入れる塩加減が赤飯の味を左右するようです。耳が遠くなった母は、赤飯を美味しく食べている私たちの姿を確認できてニコニコ顔でした。

 刺身やフライなどオードブルのものも、大潟の弟が揚げたという山菜の天ぷらもいい味で、次々となくなっていきました。

 この日、キョウダイの中で大きな話題となったことのひとつはキュウリの朝鮮漬けです。というのも、この漬物は私たちが子どもだった頃、わが家の常備食というか必ず出てきたおかずだったからです。

 この朝鮮漬けは色も味も歯ごたえも昔と変わりませんでした。弟たちは、「懐かしいなあ。確か、親父が源農協からだろうけど、桶入りのものを買って来ていたよね」「これがあれば、ご飯、いくらでも食べらんたこて」などと言って喜んでいました。

 愛知から帰省した弟は2泊3日、わが家で母と過ごし、戻っていきました。この間、尾神にあるわが家の墓参りに行ったほか、母と一緒に柏崎の日本海フィッシャーマンズケープ(旧米山レストハウス)で刺身などの料理を食べてきました。

 母は弟が愛知へ帰って行った日の午後、「きんなは大橋んとこで、うんめもん、いっぺごっつぉしてくんと」「鯛の刺身に、赤い刺身に、ばちゃ、ほら食いない、ほら食いないそってくんたがど」とうれしそうに報告してくれました。

 愛知の弟の帰省は母を元気づけるものとなりました。「来年もまた来るよ」と言われたのでしょう、母の顔はいつもよりも色つやが良くなったように見えました。でも、弟によると、帰りのとき、母は南側の廊下に出て見送ったものの、泣いていて、しばらく車を出せなかったそうです。

   (2019年5月19日)

 
 

第556回 ちょっと失礼

 5か月ぶりに孫のリョウ君がわが家に帰ってきました。会わなかった期間がこれだけ長いと、いろんなところに孫の成長がみられてうれしいですね。

「リョウ君、おーい、おじいちゃんだぞ」と声をかけると、「こんにちは」という言葉をすぐ返してきました。えらいぞ、えらい。数か月の間に、ちゃんと挨拶できるようになったのです。

 わが家の居間に入ったリョウ君、5分も経たないうちにオモチャ遊びを始めました。それを歓迎するかのように、わが家の柱時計が「ボンボンボン」と鳴り続け、午前10時を知らせました。

 ジージージー。オモチャはトミカのタウン循環バスステーションでした。電池の力で動くようになっています。レーンのなかに何台もの自動車が入り、次々と押しています。見ているこっちまで力が入ります。つい、「それ、頑張れ、頑張れ」と声を出してしまいます。

 リョウ君が来れば食べてもらおうと、買っておいたのはお菓子です。「リョウ君、小浜屋の最新のお菓子食べるか。ブルーベリー入り、あん入り、どちらがいいでしょうか」と言うと、ブルーベリー入りの方に目が行きました。すかさず、おじいちゃんが「半分ずつ食べれば、どちらも食べられるよ」と言いました。

「いただきます」と言って食べ始めたリョウ君、口の動かし方がいかにも美味しいものを食べているといった感じです。「どうだ、うまい?」と聞くとリョウ君はうなずきました。リョウ君の「いただきます」という言葉は初めて聞きました。うなずく姿も初めてです。

 調子に乗った私は、「今度、何が食べたいですか」と質問しました。リョウ君が黙っているので、「ビールか?」と言ったら、白けた雰囲気になってしまいました。

 ほぼ恒例となったジャンケンポン遊びもしました。「最初はグー、ジャンケンポン」。リョウ君はグー、私はチョキでリョウ君の勝ちです。何度かやりましたが、リョウ君は私よりもワンテンポ遅らせて手を出すので、必ず勝ちます。そこで、意地悪なおじいちゃんは、リョウ君よりもちょっとだけ遅く手を出し、勝ちました。

 この日、私はリョウ君に次々と質問を浴びせました。
「はい、リョウ君、カメさんとウサギさん、競争すると、どちらが勝つでしょう」
「カメさん」
「よくできました。それではネコさんと豚さんが競争すると、どちらが早いでしょうか」
「豚さんです」

 まだ3歳とはいえ、なかなかです。こちらが少しでも気をゆるめると負けそうです。そうこうしているうちに、リョウ君は再びオモチャ遊びを再開しました。

 ジージージー。「おーい、渋滞だ。リョウ君、救急車、優先してください」そう言うと、そばにいた家族の者も「渋滞の緩和をお願いします」。みんなニコニコです。

 救急車がレーンから落ちそうになったので、止めようとしたら、リョウ君が「停止じゃない」と言ってきました。もう、「停止」という言葉を使うのにはびっくりでした。でも、もっと驚いたのは、「ちょっと失礼」という言葉、何回も使っていました。いったいどこで覚えたのでしょうか。

 この日は快晴。私は、次男夫婦などと長峰池に出かけ、リョウ君と外遊びも楽しみました。タンポポなどの野の花が沢山咲いていましたし、カナチョロもいましたよ。  

  (2019年5月12日)

 

第555回 ビデオ上映

 4月21日の午後、妻の実家で恒例の観桜会が行われました。今回は親戚筋のSさんが自分で制作したビデオ動画を持ち込み、全員で鑑賞したことから、これまで以上の盛り上がりとなりました。

 この日の参加メンバーは、Sさんの他、妻のキョウダイ夫婦と近くに住むY子さんの総勢7人です。花見の対象となったサクラの木は樹齢40数年のしだれ桜。花の付き具合はいまひとつでしたが、まだ散り始めることなく、田んぼをバックに美しい景色をつくりだしていました。

 観桜会のメイン会場である広間のテーブルの上には鳥の唐揚げ、サラダ、キノコ、キャベツ、ニンジン、肉が入った煮物、寿司などが並び、ビールやお酒が用意されていました。

 義兄がはじまりの挨拶をした後、食べ物レースがスタートしたかのように、テーブルを囲んだ者がいっせいに食べ始めました。参加者の中で一番背の高いSさんが長い手を活かして、食べ物を自分の皿に持っていきます。そばにいた人が、「長い手だねー、どこでも届く」と言うと、みんなが大笑いしました。

 観桜会が始まってまもなく、Sさんと義兄が動き、居間のテレビを移動し、広間でも視られるようにしました。Sさんはビデオ上映ができるように他の機器も持参してきていました。10分ほどでそれらをすべてセットし、準備オーケーとなりました。

 さあ、はじまり、はじまり。ビデオのスイッチを押すとすぐに音楽が鳴り、「いざ、〇〇〇〇へ」というタイトルが出た途端、みんなが笑いました。いかにもドラマチックなスタートになっていたからです。

 テレビの大画面に映し出されたのは、今年1月下旬に同じメンバーで行ったミニ旅行の記録映像です。柏崎を出発して、鯨波の交差点脇のクジラが大きく映し出され、その後には国道を走る様子が出てきます。そして、ホテルの玄関からロビィに入ってくる様子を見て、また笑いが起きました。

 映っているのは自分たちなのですが、誰かが「いかにもお年寄りといった感じだなぁ」と言ったことで、それぞれが自らの「老い」を確認し、笑ったのです。

 それだけではありません。背中の曲がり具合、歩く時の姿勢などがありのまま画面に映し出されるたびに、何が面白いのかと思うほど、笑いが続きました。

 夕食会に出された数々のご馳走が映し出されるたびに、「こんなの、出たっけ」などといった声も出ました。思っていた以上に記憶していないんですね、こういうことって。みんな、食べることに夢中になっていたのかも知れません。

 泊まった翌日の朝食風景も森昌子の「越冬つばめ」とともに出てきました。それを見ていた一人が、「うちの夕食よりも豪華だ」と言うと全員納得、また笑いました。

 この日、妻の実家のサクラのことはあまり話題になりませんでした。話題になったのは、「小さな春」というタイトルの2本目のビデオ上映に出てきたサクラでした。このビデオは7年前に制作したもので、柏崎の南条から石川峠を通って小国の八王子に抜ける道のサクラが実に美しく写っていました。風に舞うサクラ、道をピンク色に染めた様子などに魅せられ、みんなが箸を休めてサクラを語りました。

 ビデオを観たみんなから感謝されたSさんは言いました。「集まりがあるとこには楽しいイベントがなきゃ」。ひょっとすると、もう、来年の観桜会をどう面白くしようかと考えているのかも知れません。

  (2019年4月28日)

 
 

第554回 サクラ咲かず

 インフルエンザが4月になっても終息せず、わが家では、その影響で母がショートシティ(短期入所生活介護)に行き、お世話になってきました。

 ショートシティはこれまで、2泊3日の利用でした。今回は5泊6日です。途中で2回ほど様子を見に行ってきたのですが、2回目の時に、母から、「きょうで3日だすけ、迎えに来てくんたがか」と言われました。「なして、そうじゃないよ、風邪がどっかに行かんと帰らんねがどね。もう四日ばか、いてもらわんと……」と言ったところ、「そいがか」とすぐわかってくれて安心しました。

 幸い、わが家ではインフルエンザは拡大せず、終息に向かったことから、ショートシティに行って6日目の夕方、母を迎えに行くことができました。

 施設からわが家までは車で5分です。家に着くまで母は、「ここはオカズミんちだねかな」と言ったぐらいで、あとは黙っていました。

 家に着いてすぐトイレに入った母は、用を済ませてから、居間の電動イスに座っておしゃべりを始めました。

 夕方の5時半ころだったのですが、最近は日が長くなって、外はまだ明るい状態です。そのことが頭に残っていたのでしょう。母は突然、「明るきゃ、ヨモギ採りに行くか」と言いだしたのです。

 さっきまで手を引いてもらって歩いていたのに、ヨモギ採りどころではありません。「今度、調子が良いときにね」とでも言えば良かったのですが、「なして行かれんね」と言ってしまいました。母は、少しがっかりしたようです。

 ヨモギのことから餅のことを連想したのでしょう。餅のことも話しました。

「とちゃ、今度、ヒラサワさんとこから餅、買ってきてくれ。えーと、粟餅だろ、豆餅だろ、それと白餅の3つだな。あっ、ヨモギ餅もだ」

 夏冬問わず、日頃から餅が大好きな母です。これには、「いいよ」と応えました。

 電動イスに座ったときの母は、実際の体よりも大きく見えます。それと、がっちりしたイスが醸し出す雰囲気なのでしょうか、堂々とした感じにも見えます。

 めずらしく、頭にかぶる編み物を外していたので、母の白い髪に左手でさわると、髪は硬くぴちっとしまっています。「ばちゃの髪、かっこいいな」とほめました。すると母は、「なんだこんやら」と言って笑いました。

 私はこの日、まだ仕事が残っていました。外は明るいし、行くべきところもあったのです。立ち上がろうとしたときでした。母が、「ツトムは『サクラ咲く頃、いぐ』そったがだでも、サクラはまだコメ粒だもんな」と言ったのです。

 いうまでもなく、まわりのサクラは満開です。そのことを承知のはずなのに、母はなぜ、「サクラはまだ小粒だ」と言ったのか。私は、稲沢の弟が帰省しない中で、母はサクラの開花を認めたくなかったに違いないと思いました。

 その翌日、私は弟のところへ携帯電話をかけ、母と会話ができるようにしました。帰省できないなら、せめて弟の声を母に聞かせてあげたかったからです。弟は5月に帰省するとのことで、ホッとしました。

 でも、その後、家の庭に出てびっくりしました。わが家のサクラは、花を咲かせるどころか木が枯れ始めていたのです。このことは弟が帰省した段階で、母に伝えようと思います。

  (2019年4月21日)

 

第553回 ゴロゴロササギ

 最近、昔から使われていて、これこそぴったりだと思う言葉に出合うことがあります。先日、母と一緒にキエさんの家でお茶飲みをしたときもそうでした。

 この日は、母の眼科通院日でした。病院の帰りに農協の農産物直売施設・「あるるん畑」に寄って、自家用としてキュウリなどの野菜、キノコを買い求めました。そしてお昼にと、お寿司、赤飯も買いました。

 キエさんのところには「あるるん畑」から電話を入れておいたのですが、キエさんも外出先から帰ったばかりだったようです。それでもコタツの上には、キュウリの漬物、豆腐、ニンジン、マイタケ等が入った煮物などが並んでいました。キエさんは、時間がないのに、私たち親子を迎えるための準備をしていてくれたのです。

 急な訪問ですので、3人で一緒に食べようとお寿司と赤飯を買っていったのですが、私がテーブルの上に出すと、キエさんに、「だら、昼飯なんて買ってくると……」と言われてしまいました。

 私と母が最初に食べたものは、やわらかく茹でたトウナに味噌が添えてある料理でした。母が、「これはうんめわ。つんてきてもらっていかった。おまさんのうんめぇごっつおもらって」と言いました。

 食べ始めてすぐに、母とキエさんの会話が始まりました。

 2人の話に出てきたことのひとつは山菜です。「あるるん畑」にウドが売っていたということを伝えると、キエさんは、「今年は山菜の出るのが遅くなりそうだ」とか、「ノノバは土、嫌うすけ、やたらんとこ出ないでも、今年はもう出ていて、先だって『初もん』をほんのひとてしょもらった」などという話をしてくれました。

 2人の体の具合の話も出てきました。「年取ったら、やあばんなくてだめだ」とか「耳がよく聞こえなくなってきて、この間は、電話していて、よく聞こえねそったら、『聞こえる耳のほにやってみやっしゃいの』と言わんた」などといったことも聞こえてきました。

 病院へ行くときは、母はあまりしゃべらず、どこか具合が悪いのではないかと心配したくらいでしたのに、しゃべるの、しゃべるの……。幼友達に会うというのは、こんなに人間を変えてしまうのでしょうか。

 そして、コタツであったまった私がうつらうつらし始めた頃でした。「こりゃ、ゴロゴロササギだろ」という母の言葉が聞こえてきたのです。 初めて聞くゴロゴロササギという言葉に強い関心を覚え、「何だね、ゴロゴロササギって」と聞くと、2人は笑いながら、「丸くて転がるからゴロゴロだ」と説明してくれました。テーブルの上に出されたササギの煮物を見ると確かに丸い。赤飯で使う細長のものとは明らかに違います。ササギをつくっている農家の感覚で表現したこの名前、私は一発で好きになりました。

 2人の話を聞くなかで、ササギにはツル性のものとシバ(クネバラ)の要らない畑の地に育つものがあり、色も白、小豆色など様々のものがあることも知りました。

 この日、95歳と90歳の2人が会った時間は約1時間半。母が私を産んでまもなく風邪をひいたため、私がキエさんの乳をぱくぱく飲んでいたなどの話もしました。

 帰り際、キエさんが、「だんだん動くがやになる。歳がじゃましてかなわん」と言うと、母が、「死んじまえば、しゃべらんねし、食べらんね」と応じました。そしてキエさんが言ったのです。「生きているうちだ。長生きして楽しませてもらおうさね」と。

  (2019年4月14日)

 
 

第552回 まあ、どうしるだ

 3月27日。母は95歳になりました。

 一日一日、積み重ねて365日経つと、誰でも1つ年をとるのですが、94歳を迎えたときとは違った重みを感じました。

 母の誕生日の数日前、連れ合いから、「ばあちゃんの誕生日、ケーキでも一緒に食べない」と言われていました。「そうだね」と返事をしていたものの、注文したのは前日です。急な注文でしたが、地元の小浜屋菓子店さんが応えてくださいました。

 27日の夕方、小浜屋さんへ行くと、すでに出来上がっていました。95歳ですから、ケーキにさすローソクは、本来ならば95本ということになるのでしょうか。でも、それだけの本数をさすのはたいへんです。お店の人と相談して、10本、用意していただきました。

 母を囲んで、みんなでケーキを食べる時間は午後7時から。それまで2時間近く時間がありましたので、とりあえずは、母の居場所となっている居間に持っていくことにしました。コタツのテーブルの上にケーキをのせたところ、母は、「まあ、どうしるだ」と言って喜んでくれました。

 午後7時過ぎ、母の誕生を祝う会を始めました。連れ合いがケーキにロウソクをさしたところで、母は、「これ、どうしんが」と聞いてきました。それに応え、みんなでおなじみの誕生日の歌を歌うことにしました。ローソクに火をつけてから、  

 ♪ハッピィバースデートゥーユー、ハッピィバースデートゥーユー……。

 歌を歌いはじめると、母も手拍子をしながら歌いました。おそらく、デイサービスで何回も誕生祝いをやってもらっているのでしょう、慣れた感じで歌いました。 「ハッピィバースデーディアばあちゃん、ハッピィバースデートゥーユー」と歌い終えたところで、ローソクの火を消す場面がやってきます。誰かの声かけで、母は息を吹きかけましたが、なかなか消えてくれません。4、5回、「フー」とやって、やっと消えました。母の息の吹きかけが、いまひとつ力強さに欠けていたので、ひょっとすると咳き込むのではと思ったのですが、それは大丈夫でした。

 さて、ケーキを分けて食べる段になって、改めてケーキを見た母が言いました。

  「これ、小浜屋んしょ、作ったがか。でっけぇない。こりゃ、もうしゃけねー」

 ケーキは5人分。一番上には赤くて、大きなイチゴが6個のせてあります。これがまた存在感十分でした。家族の者に、「ばあちゃん、どれ食べる」と聞かれた母はすぐに、「イチゴがいい」と答えました。ケーキの中にはマンゴウだか、黄桃だかわかりませんでしたが、黄色い果物も入っていました。これもおいしい味でした。

 切り分けたケーキの1つを母の皿の上にのせると、母はすぐに食べ始めました。「ほんに、おいしいがど」そう言って、喜んでいました。ただ、母のところへ分けたケーキが少し大きすぎだったのでしょうか、母は食べるのに苦労し、「一度に食べらんねぇな」と言っていました。

 母の誕生日にみんなでケーキを食べたのは、昨年に続き2度目です。驚いたのは、歌を歌っている時の母の表情が子どものようにうれしそうだったことです。電動椅子に座った母は、手をたたき、笑顔いっぱいでした。まるで、これほどうれしいことはない、そんな表情をしていました。

 ケーキを食べている時も、母は小さな子どものようでした。手や上着の一部にクリームをつけてニコニコしています。私はイチゴをもう1つ、母にあげました。

  (2019年4月7日)

 
 

第551回「団子まき」

 ずっと前から一度参加してみたいと思っていたことがあります。毎年3月、お寺で行われる団子まきです。69歳の誕生日を前に、ようやくこの願いが実現しました。

 幸運でした。というのも、大島区板山の従弟に電話をした、その日が田麦の竹林寺での団子まきの日だったのです。電話で「午後から団子まきでいないでも……」という従弟の言葉を聞き損ねていたら、まだ願いは実現しなかったかも知れません。

 竹林寺の団子まきはお彼岸の中日である21日の午後から行われました。この日は晴天で、気温は25度近くにまで上昇していました。私は「しんぶん赤旗」日曜版の配達のいつものコースを変更し、竹林寺へと急ぎました。

 お経がはじまる10分前にお寺に到着。お御堂に入ると、ジュンコさんやマコトさんの奥さんなど知っている人を何人も確認できました。全体では、地元の田麦の人たちを中心に30人以上の人たちが集まっていたと思います。

 ご住職は、交通事故で、まだ入院中だと聞いていました。ところがこの日、車イスに乗って登場されたのです。驚きました。

 車イスを押していたのはお連れ合いです。お御堂の中で段差があるところは2か所、ここを上がるのに一苦労でした。でもほぼ予定した時刻に間に合いました。

 お経が始まったのは午後1時4分です。車イスに乗った住職のすぐ後ろにはお連れ合いが控えておられ、心配そうに見守っておられました。

 少し遠くにいたせいかも知れませんが、ご住職がお経を読む声はときどきしか聞こえてきませんでした。ご住職が木魚をたたきはじめると、その様子を見ていた最前列の男の子は横になったり、あお向けになったりしていました。とてもかわいかったですね。

 お経は6分ほどで終了。ご住職は私たちに挨拶するために、杖だけを頼りに私たちの正面の位置に移動されました。このときも、そばにはお連れ合いがずっとついておられました。ちょっとでもぐらつけば支えるつもりでおられたのだと思います。

 ご住職の挨拶は、ご自身の自損事故の話からはじまりました。本人もよく生きていたと思うくらい、危ない事故だったようです。「皆さんの信心のおかげか、あるいはオレの精進のおかげか」というくだりには、みんな笑いましたね。そして最後、お釈迦様のお骨を細かくして団子にしたという団子まきの起源についても語りました。

 この挨拶の途中、「押すな」という声が聞こえ、話を聴いていた人たちから笑い声が起こりました。ご住職をわきで支えていたお連れ合いの力が入りすぎたか、それとも住職が倒れかかったのか、真相はわかりませんが、私には「夫婦仲がいい」というふうにしか見えませんでした。

 その後、ケンジさん、マモルさん、マコトさん、ケンイチさんが団子を山盛りにした大きな木の桶を運び入れました。団子は白、赤、緑と色がついていますから、遠くから見てもよくわかりました。

 ケンジさんの「ほしゃ、いいかね」で団子まきは始まりました。上の方からバサバサと降ってくる団子、大人も子どもも拾う人はビニール袋を広げて、無我夢中です。私も取材どころではなくなりました。

 初めて参加した団子まき、建前のときの餅まきと同じように人間たちを興奮させてくれました。そしてこの日、団子を拾う喜びを濃厚にしてくれたのは、支え、支えられるご住職とお連れ合いの姿でした。

  (2019年3月31日)

 

第550回 「夢のようだ」

 最後の最後にドラマが待っていました。時間にすれば、ほんの数秒の出来事ですが、おかげでこの日はずっとやさしい気持ちになれました。

 小雨が降っていた日の午後4時頃のことです。私は、あるグループホームに入所している叔父のところへ行ってきました。

 スタッフの方に案内していただき、談話室に入ると、入所者が4人ほどおられ、叔父は真ん中あたりの席に座っていました。私がマスクをしていたこともあって、最初はわからなかったのでしょう、叔父は、少し経ってから、「おーっ」と声を出し、手を上げて喜んでくれました。

 叔父は満93歳。少しやせた感じがしましたが、とても元気そうでした。「いい顔してるねかね、風邪ひかんかったかね」と尋ねると、「大丈夫」という答えです。顔の色つやもも良く、安心しました。

「今年は雪が少なくてねぇ。助かったわね」と言うと、「少なくていかった。いっぺ降りゃ、ここになんかいらんねがだでも」という言葉が返ってきました。笑いそうになった私は、「おまんちも大丈夫だでね」そう言ってこらえました。

 次に話したのは母の実家のことです。「おらばちゃの実家のお父さん、亡くなってさね。まだ71、若いすけ、かわいそうだったわね」そう言うと、叔父は68歳で亡くなった自分の連れ合いのことをすぐ思い出したようです。「若いのに亡くなるてが切ないわね」と言いました。「そう言えば、叔母さん、亡くなったが23日だったねかね」と言うと、叔父は「そいが。いい人だった」と振り返りました。

 スタッフの方が用意してくださったコーヒーをいただきながら、叔父と話をしている途中、急に叔父の手が動いたので驚きました。なんと叔父が厨房に入っているスタッフと声を出さずにジャンケンをしていたのです。多分、前に訪問したときに、叔父と「タナカさん、グー?」「グー」とやり合っていた女性スタッフだと思います。ジャンケンは単純な遊びですが、こんな遊びを自分よりも若い女性を相手にやっていれば楽しいに決まっています。

 前回訪問したとき、叔父は、「オレ、ここに置いてもらうわ。その方がみんなしてもらえるもん」と言っていました。ところが、今回、叔父は、「おれもここにいりゃ楽だでも、いつまでもそうしてらんねすけ、6月頃には帰ろうと思って」と言ったのです。心身ともに体調が良くなって、自分の家に帰るなら、それもありですが、この気持ちの変化がどこから来ているのか少し気になりました。

 叔父とは15分くらい話をしたのですが、席を立つとき、ちょっとした出来事がありました。スタッフの方がコーヒーと一緒にお菓子も一緒に出していてくださったのですが、そのお菓子を叔父が私に渡そうとしたのです。土産にしたかったのでしょうね。私は丁寧に断りました。でも、その様子を見ていたジャンケンの女性がナイロン袋にそのお菓子を入れて、私に渡してくださったのです。叔父の気持ちを汲んだすばやい対応に驚きました。

 そして玄関先でのこと、ジャンケンをしてくれた女性ともう一人のスタッフが一緒に送りに出てくださいました。そのときです、「タナカさん、夢のようだね」の言葉がわたしの耳に入ったのは……。

 叔父が「夢のようだ」と答えたとき、叔父の顔を見ると、もう泣きそうでした。私は叔父の手をぎゅっと握り、「じゃ、またね」と別れの挨拶をしました。

  (2019年3月24日)

 
 

第549回 終わりはつもん

 えっ、終わりはつもん?―――3月上旬のある日のことです。お茶を出してくださる前に、Kさんはミカンを1個、私の前に出して、「終わりはつもん、食べてくんない」と言われたのです。一瞬、なんのことだろうと思いました。

 言うまでもなく、「終わりはつもん」という言葉は、この日、初めて耳にした言葉でした。

 茶の間には、近くのT子さんがお茶飲みに来ておられました。すでにT子さんはミカンを食べ終わり、テーブルの上にはむいた皮が置いてありました。私の前に差し出されたミカンは、それこそ最後に残ったミカンだったのです。

 私は、食べさせてもらっていいのだろうかと思っていたのですが、盛んに勧められので、「最後の1個」をいただきました。ミカンの皮をむき、中の筋を丁寧に取って、実をばらし、何回かにわけて口の中に入れました。しばらく食べていなかったこともあり、美味しかったですね。もちろん、残さずに食べました。

 茶の間で一緒にいた2人の女性はどちらも80代です。おそらく昔は、「終わりはつもん」という言葉をよく使っていたのでしょう。いまは、ほとんど使われなくなった言葉と思いますが、ちょっとした弾みで出たに違いありません。

 2人の話を聴く中で、「終わりはつもん」とは「最後の1個」を言うのではなく、もう少し広くとらえた言葉であることがわかりました。野菜や果物などの食べ物が終わりの時期を迎えていて、初めて出てくるときと同じくらい、大事に味わって食べるものを言うんですね。

 ミカンを食べ終わったところで、Kさんがお茶を入れてくださいました。

 お茶を飲みながら、話題になったのは母の実家の『のうの』(屋号)の伯父のことです。「『のうの』のじいちゃんて、生きていなったけね」とT子さんに聞かれた私は、「いやいや、もう相当前に亡くなっているでね」と答えました。

 T子さんが伯父のことを言ってきたのは、伯父などと共に森林組合の草刈り仕事をしたことがあったからです。

「いつだったか、竹平で仕事をしていたとき、『のうの』のじいちゃんが、ひりはおらちで食べればいいこて、と誘ってくんなってね、何度かひり宿に使わしてもらったんだわね」

 T子さんの熱の入った話を聞きながら、私は、人懐こい顔をした伯父のしゃべる姿を久しぶりに思い出しました。

 興味深かったのは伯父が自分の腕(時計)にぽんぽんと触る話。草刈り仕事をしていれば、振動病対策上、時どき、休む必要があります。それだけでも、時計を気にしなければならないのですが、ほかにも気にする要因があったのです。それは、いっときでも早く、いっぷくの時間や昼飯の時間にならないかなという思いです。働き者の伯父にもそんな面があったとは……。

 この日、私が初めて耳にした「終わりはつもん」という言葉はインターネットで紹介しました。すると、どうでしょう、「おわりはつもん、懐かしい。死語かと思っていたら、どっこい生きていた」「いい言葉ですね。私も使いますよ。今の方には解らないようですけどね」などといったコメントがいくつも寄せられました。

 それらを読んだとき、私は「終わりはつもん」という言葉の中には、野菜であろうが果物であろうが、食べ物を大切にする心があると感じました。いい言葉ですね。

  (2019年3月17日)

 
 

第548回 春のプレゼント

 今年の春は早足でやってきています。そんなに急がなくてもいいよ、と言いたくなりますが、早ければ早いなりにうれしいものです。

 先日、直江津の朝市でネコヤナギを売っているお母さんがいました。いつもは漬物や野菜、餅などを売っているのですが、時どき、季節を感じさせてくれる、木に咲く花を売っています。1月も黄色い花をつけた蝋梅を売っていました。

 このお母さんが今回売っていたネコヤナギは花穂に少し赤みがあるもので、園芸種かと思います。このネコヤナギを見たおかげで、吉川の川沿いでもネコヤナギが花をつけ始めたかもしれないと思いました。

 それで私は、吉川区に戻ってまもなく、家の近くを流れる吉川の水辺まで行ってみました。吉川橋の上流200bほどのところです。ここでは以前にもネコヤナギを取ったことがあります。何よりも日当たりがよく、春の早い段階で花を咲かせます。

 車を止めて、川のそばまで下りていくと、ヤナギの木は思っていた以上に背が高くなっていました。高いものは2bを軽く超えています。ただ、私の子ども時代、蛍場の下の方の釜平川にあった、背が低く、木肌が緑っぽいネコヤナギの木は、残念ながら、見当たりませんでした。

 そんななかでも 、川の流れの方に枝を伸ばしている一部の木に目を向けると、白っぽい玉のようなものがついているのを確認できました。長年の勘ですぐにネコヤナギの花穂だとわかりました。自然の中のネコヤナギも咲いていたのです。

 携帯のカメラとデジカメを使って写真撮影をした後、私は、花穂が7、8個ついていて、とてもかわいい枝を2本だけ折らせてもらいました。持ち運びがしやすいようにと、長さは30aほどにしました。

 じつは、ネコヤナギを渡し、見せたい人がいました。学生時代の友人です。この日の数日後、新潟市で同窓会が開催されることになっていました。そこで渡せば、必ず喜んでくれる人がいたのです。

 水辺には5、6分くらいいたでしょうか。その後、私はネコヤナギの枝を2本持って土手をゆっくり上がりました。

 上がって市道に出たところで、ちょうど散歩中の人と出会いました。すぐ隣の町内会に住むY子さんと娘さんの2人です。

 私がネコヤナギの枝を持っていたのを目にした2人はすぐに、「わー、もう出ているんですか」と言いました。春が来たことを告げてくれるネコヤナギを見てうれしくなるのはみな同じなんですね。私は、取ったばかりのネコヤナギをこの二人にあげることにしました。ネコヤナギを手にした2人は「いいんですか」と言いながら、終始、笑顔でした。

 Y子さんたちとの話は直江津の朝市でネコヤナギを見たことから始まり、子どもの頃、見て、触って遊んだネコヤナギのことに及び、さらには既に亡くなったお互いの父親の酒造りのことまで広がりました。

 さて、数日後の新潟市での大学同窓会。40数年ぶりで再会した人が何人もいました。すっかり髪がうすくなって、すぐには誰だか思い出せない人もいました。

 会で自己紹介する際、私は「きょうはプレゼントを持ってきました」とのべて、その日、取ってきたばかりのネコヤナギを一人の女性のところへ届けました。愛知県で坊守をしているCさんです。Cさんは一瞬、「えっ」という表情をし、すぐ笑顔になりました。この時期、春の到来を告げるプレゼントは感動、笑顔につながります。

   (2019年3月10日)

 

第547回 早春の「大合唱」

 2月の下旬、ポカポカ陽気の日の午後のことでした。初めての、素敵な出合いがまたありました。人間ではありません。小さな動物との出合いです。

 尾神岳に近い集落で、パンフレットを持ってある家の玄関先まで行くと、その家の脇の方から、「ピィピィ」という鳴き声が聞こえてきました。私の子ども時代、箱に入れられてわが家にやってきたヒヨコとそっくりの鳴き声で、とても賑やかです。

 どこで鳴いているんだろうと気になって歩きはじめたところへ、そこの家のS子さんが出てこられました。

 驚きました。鳴き声は鳥ではなく、カエルだというのです。それも、聞いたことのない名前でした。「ヤマアカガエルなんですよ。静かに近寄らないと鳴きやんでしまいます」そう言って、S子さんは、住宅の西側にある荒れた田んぼのそばへと私を案内してくださいました。

 眼の前にある田んぼの面積は3畝(アール)ほどです。そこにはヨシらしき草がたくさん横になっていました。脇の水路から水が入っているのか、それとも湧き水があるのか、田んぼの端っこの方には水がたっぷりたまっていました。

 一時はピタッと鳴きやんだカエルも、私たちが歩きを止めてじっとしていると、再び賑やかな声を出し始めました。それも「ピィピィ」だけでなく、「コッコッコ」「キャッキャッキャ」も加わり、大合唱へと「発展」していきました。

 私は最初、ヨシの間にカエルがいて、鳴いているものと思っていました。でも、そこだけではなく、水の中にもいて、数え切れないほどのカエルたちが田んぼの中で動き回っていたのです。

 水がたまっているところでカエルが動くと、水の輪が次々と広がっていきます。カエルがつくりだす輪は水たまりのあちこちにできました。そして、ヤマアカガエルの姿も確認できました。喉を大きく膨らませているカエル、泳ぎを開始するカエルなど、見ているだけでもおもしろく、私はずっとそこにいたい気持ちになりました。

 よく見ると、水たまりにはカエルの卵の塊(かたまり)も浮かんでいました。思わず、「わー、懐かしい。カエルの卵だ」と叫んでしまいました。光の加減もあるのでしょうが、ゼリー状になったガエルの卵の塊は少し黒っぽく見えました。

 案内をしてくださったS子さんによると、ヤマアカガエルたちが鳴きはじめたのは前の週の金曜日頃からだとのことです。鳴いているのはメスを求めるオスです。最初は夜に鳴き、それも夜中じゅう鳴いていて、寝るにはうるさいくらい大きな鳴き声だったといいます。それが次第に昼間鳴くようになって、ほぼ2週間くらいで鳴き声は収まるとのことでした。

 私が訪ねたときはちょうど午後3時頃でした。2月とは思えない暖かな日差しがこの田んぼにも降り注いでいました。私が動いていてもルンルン気分でしたから、同じようにカエルたちも最高の気分だったのかも知れません。

 どうあれ、ヤマアカガエルのオスの求愛の鳴き声が大きく盛り上がっているところへ私が行ったということのようです。

 私はこの日まで、カエルは田植え頃にならないと繁殖期はやってこないものと思っていました。でも、まだ寒さが残る早春に繁殖期を迎え、「大合唱」や「カエル合戦」を繰り広げるカエルもいる。早春の「大合唱」に初めて出合った私はもう最高の興奮状態でした。

  (2019年3月3日)

 
 

第546回 孫に励まされて

 私の父の口癖のひとつは「孫は自分の子どもの10倍かわいい」でした。今月13日の夜に亡くなった従兄の文英さんも同じだったようです。

 通夜式が終わった後で、棺の中を見たとき、明らかに、孫たちからのものと思われる手紙が3通ありました。

 3通は重なっていましたので、全体が読めたのは水色の用紙に書かれた手紙だけでした。そこには、「おこめをつくってくれてありがとう」「マンガをかってくれてありがとう」と書かれていました。

 他の2通にも、「じいじへ お米を作ってくれてありがとうござい(ました)」「お米おくってくれて『ありがとう』。(中略)これからもガンバルから見てい(てね)。だい好きだよ」などと書かれていました。

 3通ともお米のことが書かれていたのは、「じいじ」と言えば、コメを作って、自分たちの家に送ってくれる人という印象が強かったからだと思います。たぶん、大島区竹平の「じいじ」の家に行くと、「じいじ」はいつも田んぼ仕事をしていたに違いありません。

 そしてもう1つ、3通の手紙に共通したことがありました。いずれの手紙も用紙の一角に絵が描かれていたのです。メガネをかけた男性が両手を上げている絵は、元気に仕事をしていたころの文英さんなのでしょうか。まんまるの顔をした子どもが「大好きだよ」と言っているのもありました。どの絵も文英さんに見てもらいたくて描いたものなのでしょう。

 もちろん、「じいじ」は田んぼで仕事をしていただけでなく、孫たちが来れば、いつも遊び相手になっていました。

 私が葬儀の際、見せてもらった写真の1枚に、「のうの」(屋号)の車庫のそばで「じいじ」と孫が雪遊びをしているものがありました。雪の上でソリを引っ張って遊んでいる孫がいて、その様子をすぐそばでやさしく見つめる「じいじ」がいる。派手さはなく、孫と遊ぶ喜びが静かに伝わってくる写真でした。

 私は、10年ほど前から、ほぼ毎週、文英さんの家に行っていたのですが、正月、5月の連休、お盆のころに行くと、玄関の雰囲気が一変していました。小さな靴がいくつも並んでいて、パアーっと賑やかになっていたのです。そういうとき、玄関先で文英さんに声をかけると、「孫たちが来てるがど」と言って、いつもうれしそうでしたね。

 文英さんは数年前に体調を崩し、闘病生活に入りました。以来、東京在住の次女、S子さん夫婦の家に世話になりながら、病院へ通う、場合によっては入院することが多くなりました。いうまでもなく、孫たちと一緒の時間も増えました。

「ああ、『のうの』の文英さんは、孫と一緒の生活のなかで愛され、元気をもらい続けていたんだな」。そう思ったのは、棺の中に入った「じいじ」の唇にお酒をぬってあげ、体にも少しかけてあげていた子どもたちの姿を見たときでした。何をしてやれば「じいじ」が一番喜ぶか、よくわかっていたのです。

 13日、呼吸困難に陥った文英さんのところへ孫たちがかけつけました。いつもおいしいコメを作ってくれた大好きな「じいじ」の苦しんでいる姿を見て、孫たちは、「じいちゃん、頑張って!」と何度か声をかけました。すると、なんということでしょう、文英さんが「おーっ」と言ったというのです。しかも2度も。

  (2019年2月24日)

 

第545回 早春の青い花

 何度見てもまた見たくなる。野にある花にはそういうものが少なくありません。早春に青い花を咲かせるオオバコ科のオオイヌノフグリもそのひとつです。

 今月の5日でした。市役所での仕事が午前11時過ぎに終わり、自宅に帰る途中のことでした。ふと、オオイヌノフグリのことを思い出して、隣の集落の農道へと車を走らせました。

 この日は2月とは思えないほど暖かい日差しが大地に降り注いでいました。「こんな日は花がぱっと咲いているに違いない」そう思った私は、何となく落ち着きませんでした。

 目当ての場所に着いて車を降りると、すぐにオオイヌノフグリの花の姿が目に入ってきました。明るい青、コバルトブルーの花があちこちに咲いていたからです。まさに全面開花といった感じの咲き方でした。

 ちょうどお日様の位置が上の方にありましたので、私は、どの角度から花を撮ろうかとカメラを動かしながら、写真に撮る花を特定しようとしていました。

 そのときです、赤紫の花が目に入ったのは……。一瞬、目を疑いました。青い花だけでなく、赤紫の花もある。私には信じられませんでした。私が野の花を意識するようになってからすでに30年近くになりますが、オオイヌノフグリについては、これまで青色の花以外は見たことがなかったのです。

 ひょっとすれば、このほかにも赤紫色のものがあるかも……。そう思って探しましたが、やはり、赤紫色の花は私が見つけた1つだけでした。ただ、よく見ると、隣近所のオオイヌノフグリも明るい青が基本色ではありましたが、4枚の花びらに赤紫色の縦筋が入っていました。これらも同じ色になる過程なのかも知れません。

 私は、ワクワクしながら、カメラでこれらの花を何枚も撮りました。これまで何千枚もの花の写真を撮ってきましたが、今回撮った写真は、間違いなく私の宝物のひとつになります。

 家に戻った私は、さっそくパソコンを立ち上げ、インターネットでオオイヌノフグリについて調べました。でも、まれに白やピンクはあっても、赤紫色の花を咲かせることがあるとは書いてありませんでした。それほどめずらしいものだったのです。

 生物学上、どういう事情で赤紫色の花をつけたオオイヌノフグリが出現したのかはわかりません。ただ、私には、近くで咲いていたヒメオドリコソウの赤い色と関係しているのではないかと素人なりに考えているのですが、どうでしょう。

 私にとって、オオイヌノフグリが赤紫色の花を咲かせることがあることは新発見でしたが、インターネットで調べていて、もう1つ、知ったことがあります。それは雪に耐えるオオイヌノフグリの秘めた力についてです。

 そこには、「寒さに耐えるため、細胞内の糖濃度を高める機能を持ち、葉と茎に生える短い毛で雪と霜を遠ざけて保温する」とあったのです。今冬のように、雪が降っては消え、降っては消える激しい変化に耐えて、オオイヌノフグリが青い花を咲かせ続けるのはなぜか。ずっと疑問に思っていたことが、ようやく解決しました。

 オオイヌノフグリが雪下野菜や雪室貯蔵の野菜と同じように細胞内で糖濃度を高めて、寒さに耐える植物だった。今回、そのことを知って、野の花にはまだまだ私の知らない世界があることを改めて感じました。ますます面白くなってきました。

  (2019年2月17日)

 
 

第544回 三年日記帳

 話には聞いていましたが、三年日記帳というものを初めて見せてもらいました。見せてくださったのは上越市の山間部で一人暮らしをしているK子さんです。

 日記帳はB5サイズ、1ページに横書きで3年分書き込めるようになっています。もちろん、上から1年目、2年目、3年目の順です。左の欄外には、「怒りは敵と思え」などといった故事・ことわざが書いてあって、その横に午前と午後の天気を書きこむことができます。

 1ページは大きく二等分されていて、2日分書くことができます。日記の欄は各年ごとに10行、用意されています。その右には、「収支の覚え」という欄もあって、買い物の記録を残せるようになっているのです。なかなか便利にできています。

 私がK子さん宅を訪ねたのは1月17日でした。兵庫県南部地震が発生し、阪神淡路大震災と呼ばれるほど大きな被害が出た日です。すでに24年経過していますが、テレビは朝から特集番組で関連ニュースを放映していました。

「おらったりでは、たしか、この日、新しい町長さんが初めて登庁した日だったがどね」そういって話し始めたところ、K子さんは2階まで上がって、三年日記帳を取りに行ってくださいました。

 しばらくすると、K子さんは紫色の風呂敷に包んだ日記帳を持って来られました。風呂敷を開けると、何と7冊も入っているじゃありませんか。聞くと、三年日記帳だけで10冊もあるというのです。その前の段階では、昨年2月に亡くなった私の伯母と同じように、農協の「家の光」のものを使って10年ほど書いていたとか。ということは、少なくとも40年は日記をつけているということです。すごいですね。

 さて、K子さんの日記ですが、いうまでもなく個人情報がたくさん書かれています。遠慮しつつ、少しだけ見せていただきました。見せてもらったのは、阪神淡路大震災の前年から3年間の1月17日など数日分の記録です。

 大地震が発生した1995年(平成7)1月17日の日記には、「新聞配達、6時30分。きょうも雪が降り続く。道つけして新聞配達に出る。(中略)ご飯も食べずに内職もって行った。(後略)」などとありました。そして赤いボールペンで、「午前6時より地しん しんげんち(あわじ島) 大阪あたりもたいへんな為、高田へ電話した。無事とのこと」と書いてありました。

 赤いボールペンで書かれているところは、「収支の覚え」欄にもありました。翌年の1996年1月17日の「収支の覚え」欄には、「バス代480円、パーマ2500円 買い物1800円」と赤字で書いてあったのです。どういう事情があったのかはわかりませんが、K子さんにとっては重要なことだったのでしょう。

 驚いたのは、日記のあちこちに線が引いてあることでした。最近は赤や青のクレヨンが使われています。例えば2年前の1月17日の日記、「○▲十一時過ぎに来てくれた。お茶一ぱいのんで、5時迄おひるも食べないで仕事していった」という文章には赤いクレヨンで線が引いてありました。

 どうやら、K子さんは線を引きながら日記を読みなおしておられるようなのです。赤や青のクレヨンで一日一日を振り返り、また次の日も書く。それだけ一日一日を大切に生きてこられたんですね。

 1日も休むことなく、今夜も日記を書き続けるK子さんの姿が目に浮かびます。

  (2019年2月10日)

 
 

第543回 「赤い花」

 夜中にお茶飲みとはびっくり。半月ほど前、母が夜の11時近くになって、台所から急須を持ってきて、「のどが渇いたすけ」と言いながらお茶飲みを始めました。

 私は「なんでこんな遅い時間に飲むのだろう。何か体の調子がいつもと違うのではないだろうか」と心配になりました。でも、それは取り越し苦労でした。お茶を一口飲んだ母がうれしそうに話を始めたのです。どうやら、母は私と話をしたかったようです。

 そのときの母と私の会話を再現すると、おおよそ次のようになります。

「とちゃ」
「なしたてが」
「きんな、家のまわりを、ぐるっとまわって歩いたがど」
「ふーん」
「そんで、前庭んとこへ行ったら、チューリップみていな葉っぱがあってな、そんなかに赤い、まんまるの花がベトから出てたがど……」
「へーえ、そりゃなんだろいね」
「おまん、今度、見てくれ」
「いいでも……」

 その夜の話はそれくらいで、短く終わりました。

 話を聞いていて、私は、「夢を見たときのことと現実のことが、また、ごっちゃまんざいになっているに違いない」と思いました。「また」と書いたのは、最近、母の話にはそう言ったふうに感じられることが何回かあったからです。

 翌日、私は暗いうちに起きて、「しんぶん赤旗」の配達に出ました。配達が終わったのは7時近くになっていました。終わって、玄関のところまでやってきたところで、前の晩の母の話を思い出しました。

 まずは玄関脇にある雪を見ました。母が家のまわりを歩いたというなら、足跡が残っているはずだと思ったからです。ところが、雪の上にはひとつも人間の足跡がありませんでした。ネコやタヌキなどの足跡もありません。 「やはり、夢だったんだな。そもそも、自力で歩くのが困難になってきている者が家のまわりを歩くなんて考えられない」そう思いました。それでも、念のため、庭木が植わっているところから家の脇にある道へ出てみました。母が最後のところで見たというチューリップ状の葉っぱと「赤い花」があるかどうか気になったのです。

 道が農道と出合うちょっと手前のところで止まり、あっと思いました。2bくらい奥に赤いものが見えるじゃありませんか。

 すぐそばまで行くと、緑色の大きな葉に囲まれ、赤い実が5、6個ついていました。大きな万年青(おもと)です。葉や赤く丸い実を手にとってみて、母が「ベトの中から赤いまんまるの花が出ている」と言ったものに違いないと確信しました。

 それにしても、誰が植えたのでしょう。家に入って、母に、「ばちゃ、おまんがそった赤い花は万年青だろね。じちゃ、植えたがか」と聞くと、「ほっか。ほしゃ、じちゃだろうなぁ」と答えました。

 デイサービスの日か医者に行くときでもなければ外に出ない母がなぜ外に出たのか。私にはひとつ思い当たることがありました。稲沢市に住む弟からの電話です。

 正月に帰ることができなかった弟は先日、母のところへ電話をかけてよこしたのです。「かちゃ、サクラ咲いたら帰るからね、待ってないや」そう言ったというのです。母は家のまわりに桜が咲いていないだろうかと、気になったのでしょうね。

 (2019年2月3日)

 
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