春よ来い(22) |
第542回 冬の日差し 年末年始は荒れることなく、小正月を過ぎてもたいして雪が降らない。今年の冬は過ごしやすいですね。 1月も半ばに入った先々週の土曜日、妻とともに柏崎にある妻の実家へ行ってきました。義父の法要があったのです。 法要といっても7回忌は終わっています。祥月命日の1週間前にお経を上げていただき、お昼をお寺さんと一緒に食べるだけだったのですが、いい日になりました。 柏崎の家に着いたのは午前10時40分頃でした。 居間でくつろぎながら広間の方を見ていると、広間と南側の廊下とを仕切っている障子戸が急に明るくなりました。そして、障子戸に廊下側のカーテンなどの影が映ったのです。それは一瞬で終わらずに、しばらく続きました。 明るい日差しに誘われて、廊下まで行くと、そこには竹製の座イスがひとつありました。義父も座ったであろうイスには、紫色っぽい模様の布がかけられていました。布に触って確認したわけではありませんが、布は間違いなく温まっていました。その何気ない光景がじつに素敵でした。 この光景をのんびり見ていると、お寺さんがお出でになりました。 「いいお天気になりましたね。この時期に日が差しているなんて……」 そう言って入ってこられたお寺さんもやはり、私と同じように日差しをうれしく受け止めておられました。 お経が始まったのは11時20分頃です。お寺さんの後ろの方に座った私たちの手元にはお経が記載された小冊子が配られ、お寺さんとともに「観自在菩薩。行深般若波羅多蜜時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色……」と声を合わせました。 お経は約30分で終了。その後、お昼になるまでの時間はお茶を飲みながら、鍋焼きうどんが到着してからはそれを食べながら、みんなで懇談しました。 口火を切ったのはお寺さんです。いくつかの遺影がかけてある長押(なげし)を見ながら、「あの若い人はどなたでしたか」と質問されたのです。義兄が「長男なんです」と答えました。義父の一番上のお兄さんが結核で亡くなられた事は私も聞いていました。ここで参列者の一人が、待ってましたとばかりにエピソードを披露しました。80歳を過ぎて間質性肺炎になった義父が「オレは四男だから、死なん」と言っていたという話です。みんな笑いました。 義父の話が出たのはこれくらい。あとは慶福寺の前住職の葬儀、晋山式のこと、最近、あちこちで耳にする「墓終い」や「合同供養塔」の話などが話題に上りました。 その中で私が面白く聴いたのは、お寺さんが永平寺での修業が終わって柏崎まで歩いて帰ってきたという話です。「永平寺から歩いて10日かかった。親不知が一番怖かった。あこだけで1日かかった」「車だと遠くに感じるが、歩きなら10日で歩ける」こういった話に引き付けられました。 お寺の関係者のことは私が顔をわからないだけにチンプンカンプンでした。ただ、お寺さんが、「うちの父の母のお姉さんの……」と、自分の手を出し、上から下に家系図をたどるように説明されている姿が強く印象に残りました。 ときたま曇ることがありましたが、この日は日差しが続きました。暖かい日差しの中で、法要とその後の関係者の語らいが淡々と進んでいく。そんな様子を見て、義父もきっと喜んでくれたことと思います。 (2019年1月27日) |
第541回 林英夫先生のこと 人生の最後の場面で、その人についての新しい発見をし、心を揺さぶられる。そんなことがあるんですね。 1月の半ば、旧源小学校水源分校で私の3、4年生の時の担任だった林英夫先生の告別式に参列したときのことでした。受付をすませてから、懐かしの写真や遺品などが展示されているコーナーへ行って、「これはすごい」と思いました。 そこには、高志小学校の校長として卒業式でのべられた式辞が広げてありました。「?の芽吹きの音と共に春日山頭から春風に乗って上杉謙信の雄叫びが聞こえそうな好き日……」。式辞は毛筆で書かれていました。それも一字一字丁寧に書かれていて、とても美しかったのです。 最初に見たときは、旧吉川町時代、町が作った表彰状などを書いていた泰助さんの文字かと思いました。旧源小学校の先輩である泰助さんも林先生の教え子の1人だったということが私の頭にあったからです。 確かに似てはいましたが、林先生が書かれたものであることは、筆の運び方の違いなどからすぐに判断できました。 式辞は1つだけではありませんでした。上越市内だけではなく、旧栃尾市内の小学校時代のものもあり、卒業式の他、学校の記念行事でのものもありました。さらに、ご友人と思われる人の告別式での弔辞もありました。みんなで10前後並べてあったのです。たぶん、自筆で書かれたものはきちんと保存管理されていたのでしょう。 式場に入ってまもなく、高志小学校長だった林先生のもとで仕事をされていたという女性の方から声をかけていただきました。直江津の三八市で何度か言葉を交わしたことがある方です。 「林先生は歌も教えられたと言われましたけど、私、信じられないんですよね」 そう言われました。でも事実です。旧源小学校の分校時代に、2階の音楽室で、「りんごの花ほころび 川面に霞たち 君なき里にも 春はしのびよりぬ……」という歌詞で有名な「カチューシャ」も「原爆許すまじ」も林先生に教えてもらいました。 私が林先生のことで記憶に残っているのは歌だけではありません。社会科の授業、とくに歴史の話が面白く、引きつけられました。そこで私は勉学に目覚め、意欲的に勉強するようになりました。通知表の中で最初に「5」の評価をもらったのは社会科でした。放課後は徹底した漢字学習もありました。先生に「よし」と言われるまで1階の教務室に通ったものです。こんなことから、私にとって林先生は忘れることのできない恩師の1人になったのでした。 告別式では、弔辞で社会科の話が出るものと思っていました。ところが、林先生は「算数教育にゆるぎない情熱を傾けられ、『新潟の算数物語』を執筆されるなど、算数教育の発展に尽力された」と紹介されました。これにも驚きましたね。まさか、算数教育のプロでいらっしゃったとは……。私が知っていたのは、優れた教育者であった先生のごく一部に過ぎなかったのです。 出棺の時、先生の棺を6、7人の参列者で霊柩車まで運びました。私もその1人に加えさせていただきました。運び終わって、元の位置に戻ろうとしたとき、息子さんから声をかけられました。 「橋爪さん、うちの親父は橋爪さんの本をずっと離しませんでした」 この言葉を聞いたとき、グッときました。涙があふれ出て、止まらなくなった私は大きな柱の裏に回りました。そして、涙を手でぬぐいました。 (2019年1月20日) |
第540回 夫は夢の中で 一人暮らしになったMさんを昨年の12月の半ば過ぎ、訪ねました。コタツの中で寝ておられたのでしょう、大きな声で「ごめんください」と呼んでもしばらく返事がありませんでした。 1、2分経って、ようやく人が来たことに気づいたMさんは、「おれ、すぐに起きらんねぇがで……」と言って、ゆっくりと玄関に出てこられました。 「まあ、Aさんだと思ったら、橋爪さんかね。入ってくんない」そう言ってMさんは私を誘ってくださいました。でも、この日はいろいろとやることがあって、とても忙しい日でした。「きょうは入らんで行くわね」と返事をすると、Mさんは、「まあ、いいねかね」と言われました。Mさんの顔を見たら、すぐ帰れば、はらいねがられる、と心配になりました。 家の中に入れば、どうしても長くなってしまいます。玄関で少し話をして、サヨナラしよう、私はそう思いました。 そこで、Mさんに質問したのです。「お父さんの夢、見なったかね」と。そしたら、Mさんはすぐに「見た、見た」。しゃべるときの表情が急に明るくなったような気がしました。「夢に出てくるときゃ、しゃべらんもんだてがでも、おらちのお父さん、しゃべるんだわ」とも言いました。 Mさんのお父さんというのは昨年の10月の半ばに亡くなった、Mさんのお連れ合いのことです。「そりゃ、いかったね」と言ったら、Mさんは夢の内容まで語ってくれました。 「この間も夢に出てきて、『これからウド採りに行くし、飲み物たのむわ』と言ったすけ、お父さんに番茶持たしたが……。帽子もかぶって、まぁ、山に行く、そのまんまだったわね」 私も山菜採りは大好きで、シーズンになれば、どんなに忙しくても一度は行かないと気が済みません。Mさんのお連れ合いが行かれた山は旭方面の山なのか、菖蒲方面の山なのかはわかりませんが、はまりこんで山に行こうとしている姿は十分想像できました。 それにしても、亡くなった人が夢の中でもしゃべってくれるというのはうらやましいですね。私も九年前に父を亡くし、その後、何度か父の夢を見てはいますが、父がしゃべっている姿は記憶にありません。 Mさんが見たという夢はMさん自身の、「お父さんに会いたい、話をしたい」という強い願望が反映したに違いありません。 でも、夢の中で亡くなった人がしゃべることはあまりないのではないでしょうか。気になって、年末のある日、もう一度、Mさんのところに寄って確かめてみました。 驚きましたね。Mさんはその後もお父さんの夢を見ていて、そこではお父さんがまたしゃべっている、というのです。 「お父さん、自転車に乗って田麦に行って仕事してきたんだけどね。帰ってきて、疲んたそういうすけ、『風呂入んない』そったがだでも、風呂はちびたかった……」 この日は、居間に入らせてもらってお茶もご馳走になってきました。Mさんは、数十年前の年末年始に、Mさんちの本家に手伝いに行ったときの様子や私の随想のことなどをたっぷりと語ってくださいました。おいとまするとき、Mさんは言いました。 「おら、さみしいすけ、男しょでも誰でもいいすけ、お茶飲み来てくんない、そう言ってるが……。この年になりゃ、関係ねすけね」 私は、「関係ねすけね」に笑ってしまいました。もう、Mさんは大丈夫です。 (2019年1月13日) |
第539回 懐かしの写真集 新年の初回も母のことを書きます。年末のある日のこと、これなら母が喜んで見るかも知れない、そう思って一冊の写真集を居間のコタツのそばに置いておきました。 写真集のタイトルは「懐かしのわが街 上越」。寺町にある日蓮宗・長遠寺の前住職、岡観妙さん(故人)が戦後撮られた写真を集めたものです。 数日後、「おまん、本、見たかね」と母に聞くと、「見たよ、いい本だった」という返事でした。 この写真集を初めて見たとき、私は懐かしさでいっぱいになりました。高田の街の写真が中心でしたが、牧や吉川などの農村部の写真も掲載されていましたし、何よりも豪雪との闘いや数十年前のバスが載っている。母や私が歩んできた歴史と重なるものが多かったのです。これなら母の記憶力を活性化させるに違いないと思いました。 この日、コタツに入っていた母は次々と「思い出」話を語り始めました。母が最初に語ったのは「紙芝居の写真」です。「とちゃの紙芝居。出てたな」と言いました。 いうまでもなく、掲載されていたのは私のものではありません。ただ、私が乳搾りを始めたばかりの頃、県酪農民協議会の「牛乳まつり」で、私の乳搾りの様子が紙芝居になったことがありました。これを「新潟県で最後の紙芝居屋さん」と言われた新潟市古町の西村徳治さん(故人)が演じてくださったのです。このときの写真を母が記憶していて、岡さんの写真と混同したのでしょう。 母に、「似ているでも、この写真は高田で撮ったもんだよ」と教えたところ、私の言葉に反論することなく、今度は、30年ほど前、タカヤブ(屋号)のアキちゃんを子守していたことを語り始めました。母の記憶には、アキちゃんが吉川から高田方面へ引っ越したことがしっかり入っていたんですね。「アキちゃんは頭がかたい子で、頭、ゴッツンコしようてがで、したら、オレのほが痛くなってオレが泣いた」と言いました。 ここまで来ると、母の思い出の引き出しは開けっ放しになります。 ノリカズは「じゃいわ」(蛇岩?)という藤尾と嶺の間にある山にノノバ採りに行ったもんだ。お盆泊まりのとき、五軒角間から藤尾へ行った。イチベエ(屋号)というでっけ家から尾神のアメヤ(屋号)に嫁に来た人と一緒に帰ったがど。その嫁さんが、「おらちでチュウハン食べよさ」そってそこんちに入って、マンマ食った。とちゃが牛のエサを牛舎の2階にすっと運ばれるようにするてがで、ベト(土)削っていたら、赤ベトのなかから、でっけ袋担いだ大黒様が出てきた……。 3つ目の話はこれまでも聞いたことのある話でしたが、「じゃいわ」の話と藤尾のイチベエに上がり込んでマンマ食った話は初耳でした。もっとも、私がノノバ採りに行った山は蛍場から見える「にょうだいら」の東側ですので母の勘違いでしょう。 この日、母が語った傑作は私が通っていた水源分校での話です。 オレが分場に行ったら、女の先生が教えてくんなったがど。ノリカズが先生に、ねぶってすけ、いっとき、ねぶらしてくれ、と言ったてがど。それ、忘れられねぇな。家に帰ってから、ノリカズに、学校てがは勉強するどこだすけ、そんがんこと言っちゃダメだど、とオレは言ったがど……。 やはや、やはや。最後は私に説教した話でした。この話も初めてです。岡さんの写真集のおかげで、懐かしいだけでなく、楽しい思いにもひたることができました。 (2019年1月6日) |
第538回 サンキュー カタカナ語はあまり使わない方がいいという声を時どき耳にします。たしかにアイデンティティなどといった難しい言葉を使われると、さて、どういう意味かなと考えてしまう人が多いのではないでしょうか。 でも、先日、叔父が入所しているグループホームへ行ったとき、「サンキュー」というカタカナ語を楽しく使っている場面に出合い、「こりゃ、いいもんだ」と思いました。 この日、私がグループホームに着いたのは午前9時45分頃だったと思います。玄関で職員さんに、叔父に会いたいと伝えると、談話室に案内されました。叔父はそこでくつろいでいて、私の顔を見ると、すぐニコニコしました。 叔父がいた談話室は中央部に大きなテーブルがあります。そこで新聞を読んだり、お茶を飲んだりしているのでしょう。私は叔父の隣に座らせてもらいました。 イスに座るとまもなく、叔父は、「何も出さないでわりいね」と言いました。たぶん、自分の家でお茶などを出していたから出た言葉だったのでしょう。私からは、「なして、なして…」と返事をしました。 そうこうしているうちに、職員さんの一人の女性がコーヒーとお菓子を私たちのところに持ってきてくれました。 そのときのことです。叔父が「サンキュー」と言うと、この女性が「ヨンキュウ」と応じました。「サンキュー」を「三球」にひっかけ、「ヨンキュウ」(四球)と言ったのです。とても楽しい雰囲気になっているのには驚きました。 叔父の前のテーブルの上には拡大鏡が置いてありました。「拡大鏡かね」とたずねたところ、叔父は「新聞読むにも読まんねねかね」と言いました。手にとってみると、取っ手の部分がカーブしていて、しゃれています。「なかなか恰好(かっこう)いいもんだね」と言いながら、どんなふうに見えるのか、試してみました。大きく見えて、とても便利です。 コーヒーをいただいていると、叔父が声をかけてきました。 「おまん、車で来たがか」 「はあ、車だこてね」 「1時間、かかったろね」 「なして、10分だわね。後生寺からだって10分そこそこだわね」 「そいがか」 1時間かかったろね、と聞かれたときは、「えっ」と思いましたが、叔父は何か勘違いしたのでしょう。走行時間については、それ以上話をしませんでした。 この日、叔父が一番心配していたのは雪でした。私は携帯電話に入っている最近の風景写真を見てもらうことにしました。灰庭で撮った米山の写真、下中条から撮った尾神岳などの写真を次々と見せると、叔父は集中して画面を見てくれました。あまり外の景色を見ていないのかも知れません。 今回も母の写真を叔父に見てもらいました。もちろん、携帯電話の中にある画像です。叔父は手を合わせ、「ばちゃ、おはよう」と写真の中の母に声をかけてくれました。そして、私にこういったのです。「オレ、当分の間ここにいるわ。ここにいりゃ、みんな、してもらわれるもん」と。私からは、「そうしない、そうしない。雪かまいしねでいいねかね」と言いました。 私が施設にいたのは20分ほど。帰ると言うと、叔父は玄関の外まで見送ってくれました。車の窓ガラスを開けて手を振ったら、叔父も手を振って、また言いました。「サンキュー」。うれしかったですね。 (2018年12月30日) |
第537回 母の自転車に別れ お父さん、ばあちゃんの自転車、燃えないごみの日に出してもいい──家族の者からそう言われたのは今月の半ばでした。 ばあちゃんの自転車というのは、母が長年乗っていた三輪自転車のことです。すでに1年以上乗ることなく、玄関の外に置きっぱなしになっていました。ブレーキは腐り、前輪のポークは1本が折れ、そのほかのものもあやしくなってきていました。 これまで三輪自転車は、牛舎があったときは、冬になれば、牛舎にしまいました。牛舎をなくしてからは、わが家の狭い玄関の中にしまっていました。すでに使い物にならなくなって、どうにかせねばと思っていましたので、三輪自転車を廃棄する提案にはそう迷うことなく、「いいよ」と返事をしました。 燃えないごみの日の前夜、「ばあちゃんの自転車に(市の指定)シール貼っといたから、お父さん、明日の朝、出してね」と家族の者から言われたときも、「はいよ」と返事をしました。 当日の朝、三輪自転車を出す前に母の寝室へ行きました。母に声をかけずに出すのは申し訳ないと思ったからです。「ばちゃ、おまんの自転車、だめになってるすけ、ごみんとこへ出すよ」そう言うと、母は、やはりあきらめ切れなかったのでしょう、小さな声で「おりゃ、ありゃ、ねきゃならんがでもな」と言いました。そのまま母の言うことに従うわけにはいきませんので、「はい、乗らんねかね」と私が言うと、母はそれ以上言いませんでした。 午前七時過ぎ、玄関の外に出た私は、母の三輪車の記念写真を撮りました。長年にわたり母の足となって畑仕事や買い物、孫の子守などで大活躍してくれた自転車です。母の分身と言ってもよいものでした。 いよいよ、ごみ集積場へ。三輪自転車は母の手を引くような感じで引きました。左側の後輪のタイヤがパンクしているにしては軽かったですね。ただ、前輪のポークが壊れていたので、一回転するごとにガッチャンという音がしました。けっこう大きな音だったので、近くの家に聞こえるかもと心配になりました。 もっとも、わが家からごみ集積場までの距離は2百bほどです。時間的には、いっときですので、ガッチャンという音を出しながら三輪自転車を引き続けました。 この日、わが家からは三輪自転車の他にも「燃えないごみ」を2つの袋に入れて出しました。これらは三輪自転車をごみ集積場に置いたあと、車に乗せて運びました。そして、三輪自転車が風などで動かないようにと前輪と左の後輪付近に置きました。 こうして無事、ごみ集積場に母の三輪自転車を出すことができました。 その後、インターネットでこの経過とともに母の三輪自転車に別れを告げたことを発信したところ、ある人から「乗る乗らない、乗れる乗れないではなくて、きっと三輪自転車は橋爪家の景色の一部になっているのだと思います」というコメントが寄せられました。 このコメントが私の心に引っかかりました。それで、地元事務所を出て市役所に向かう前に、わが家に向かいました。自転車のない玄関の様子を見たかったからです。 わが家に行くには県道柿崎牧線を横断しなければなりません。軽乗用車をいったん停止して、右左を確認したときでした。右手の遠くにあるごみ集積場を見たら、キラッと光るものが見えたのです。いうまでもなく母の三輪自転車です。私は、心の中で、「かんべんな」と謝りました。 (2018年12月23日) |
第536回 最新型ももひき 少し前まで、私の冬の自慢は「寒さなんかへっちゃら、ズボン下ははかないでいい」ということでした。それが数年前からズボン下なしでいられなくなりました。 きっかけは風邪をひいたときだったと記憶しています。体に震えがきて、足も寒い。そこで、夏場、ズボンがべたべたしないようにとはいていたステテコを出してきました。丈は短かったものの、けっこう暖かでした。それで何日もはき、離せなくなってしまったのです。 これまで持っていたズボン下は黒いものと白いものですが、白いズボン下よりも黒の方が気に入っています。色のついたものの方が失敗しても汚れが目立たないし、何よりも体に合う感じがするからです。 というわけで、先日は黒いズボン下の着替え用のものが欲しくなり、あるお店の男性用衣料品売り場に入りました。入ってすぐ右のところに、私が探しているものが下がっていました。値段はいずれも1290円+税。色は黒、灰色、少し青が入ったものなど数種です。 私が選んだものは濃い青色に薄い青のチェック模様のズボン下です。他人に見てもらう場面はまったくありませんが、いま持っている黒と同じでは区別が難しくなるのではと、別の色にしたかったのです。 ただ問題は、自分がはける大きさのものがあるかどうかでした。私のウエスト(腰回り)は「94〜104」の範囲ですので、体型に合うものは2Lサイズ(ツーエルサイズ)ということになります。幸い、青色のチェック模様の2Lサイズは1枚だけ残っていました。 この日は夜の会議が9時過ぎまであり、家に戻ったのは10時少し前でした。購入してきたズボン下を袋から出して、電気の灯りの下で見ますと、けっこうおしゃれな感じがします。すぐに、はいてみたくなりました。 このズボン下をはいて、鏡の前に立ってみたら、不思議なことに、私の足がきりりとしまっていて、細く感じました。「こりゃ、いいわ。オレの足が細く見える」と家族のものに言ったところ、「ほんとだね、でも、その上の腹がね……」と言われてしまいました。こういうときは上半身を見せないことが大事ですね。 笑ってしまったのは、値段などが書かれた紙の宣伝文句を見たときです。「ロング丈タイツ」と書かれた、その下に赤い帯のようなものがあり、そこに白字で「ムレにくく 暖かい」とあります。裏面には、「ムレにくい」「薄いのに暖かい」「着ぶくれしない すっきりシルエット」とも書いてありました。 いずれも短い言葉でありながら、商品をしっかり宣伝しているのですが、読んだ人間をくすぐります。そのうえ、最近目があやしくなってきた私は、「着ぶくれしない すっきりシルエット」を「すっきり ダイエット」と読んでいました。 さて、肝腎のはきごこちです。最初は試着のつもりでしたが、そのまま翌々日まではきました。暖かいし、何よりも腰からくるぶしあたりまでピタッとくる感覚がいい。さらに、ちょっぴり細くなった雰囲気もあるのです。私にとっては、やはり「着ぶくれしない すっきり ダイエット」でした。 子どもの頃、ラクダの「ももひき」を買ってもらい、温まりました。これはいまもあるのでしょうか。どうあれ、今年の冬は、「すっきり ダイエット」の最新型ももひきで冬を乗り切ろうと思います。 (2018年12月15日) |
第535回 血筋 年なんでしょうかね、この頃、ちょっとしたことから血筋とか遺伝とかを意識することが多くなりました。 先日、ある家を訪問したときのことです。その家の入り口付近の道路に車をとめて降りたところ、玄関を出て尾神岳の方を見ているSさんの後ろ姿が目にとまり、ハッとしました。というのも、その後ろ姿が長年お世話になったTさんそっくりだったからです。 どちらかと言えば丸い形の頭と髪型、少し横幅のある体型、肩の丸さ、そして何よりも全体の雰囲気が人懐こいTさんによく似ていました。 Sさんが私の方を振り向いたとき、私は挨拶よりも先に、「おまん、お母さんに似てきなったねぇ」と言いました。私よりも少し先輩なのに失礼な言い方だったと思いますが、Sさんはそんなことは気にせず、「みんなにそう言われんが」と笑顔で応じてくださいました。 そんな対応に甘えて、「いや、オレは、お母さんに似ていてくんなった方がうれしいけどね」とも言ってしまいました。誰かに似ていなくてよかったという意味ではなく、お母さんに似ていること自体がうれしかったのです。 Sさんのお母さんであるTさんとは大学を出てまもなく知り合いました。Tさんのお連れ合いだったと思いますが、私に声をかけ、2人して私を励ましてくださったのです。以来、1年に何度もTさん宅におじゃまし、お茶をご馳走になる、そんな関係になっていったのです。 Tさんが亡くなってからすでに20年近く経過しています。後ろ姿であろうが、なんであろうが、そっくりな人と出会えば、うれしいに決まっています。 その日はSさんに会ってから、Sさんの近くに住むMさんとも会い、話をする機会がありました。最近、このMさんもまた、数年前亡くなったお母さんに似た雰囲気が出てきていました。 Mさんのお母さんは、私が書いていた随想を長年にわたり愛読してくださっていて、会うと必ずと言ってよいほど、「上がってお茶飲みなんねかね」と声をかけてくださいました。 お会いしたときは、ビラ配布などでいつも私が忙しく動き回っていたこともあって2、3回くらいしかお茶をいただく機会を持てませんでした。一緒にお茶を飲ませてもらったときには、「この間も書いてあったけど、おまさんちのお母さん、たっしゃで、まだ山に行って山菜採ってなんがね。たいしたもんだ」などと言って、話を次々としてくださいました。 亡くなる少し前、自宅の座敷でベッド生活をされていたときも、私にぜひ会いたいと言ってくださり、ベッドのそばまで行って話をさせてもらいました。Mさんのお母さんと生前にお会いしたのはそれが最後、そのときの笑顔はいまも忘れません。 Mさんはいま60代ですが、最近、話す相手を見る目のやさしさなど、人に話しかけるときの様子、雰囲気がお母さんそっくりになってきました。 人間、60代に入り、さらに年を重ねていくと、親やその兄弟などに似てくるのでしょうか。先日、大島区大平でビラを配布していたとき、ある人に、「あんた、『のうの』(母の実家の屋号)の英一さんに似てなるね」と言われました。どうだろうかと思いましたが、本人は気付かなくても、顔、後ろ姿、歩き方、話し方などに似たところが出てくるのかも知れません。 (2018年12月9日) |
第534回 もっかい 4か月ぶりに次男夫婦と孫のリョウ君が帰省するというので、先週の土曜日、会議を早めに切り上げ、陽が射してぽかぽかとなっている玄関で到着を待ちました。 次男一家の車は当初の予定より少し遅れて到着しました。「ばちゃ、あいら、来たよ」と声をかけると、居間のコタツに入って横になっていた母は大急ぎで起きて、電動イスに移動しました。そして、リョウ君が姿を現すと同時に、母は「まあ、でっかくなったね。いい子になったね」と声をかけ、目を細めました。 言うまでもなく、居間に入ったリョウ君はみんなの注目の的です。「さて、家に着いて何をするんだろう」と見ていると、リョウ君はお父さんに「行こう」と促されて仏壇に向かいました。テルヨシじいちゃんにチンと鐘を鳴らして挨拶するためです。「行こう」という父親の声に従って動く姿は新鮮でした。そして仏壇から戻ると、すぐに遊びが始まりました。 最初はどこで憶えたのでしょうか、トンネル遊びです。「トンネルやろう」とお父さんに言われ、リョウ君は、お父さんとお母さんのひざを利用して、上向きになった状態で体を伸ばしブリッジ(橋)をつくりました。お腹を丸くして見事なブリッジをつくったところで、まわりのみんなが「おお、うまい、うまい」とほめます。そして「もっかい」(もう1回)と呼びかけると、またお腹をつきだしてブリッジをつくりました。ブリッジの下がトンネルのようになるから「トンネル遊び」というのでしょうね。調子に乗ってリョウ君は何度もブリッジをつくりました。 ひと区切りしたところで、今度は母が声をかけました。「リョウ君、ジャンケンやろう」。これにはなかなか応じてくれません。「こちょこちょしちゃおうかな」「いこいこしちゃおうかな」とも言ってみましたが、乗ってきませんでした。 リョウ君に代わって誰かが「負けたら、おおばあちゃん、抱っこしてもいいよ」と言ったら、ようやくジャンケンが実現しました。「最初はグー、ジャンケンポン」。みんなが声を出すなかでジャンケンした結果、リョウ君は「グー」、母は「チョキ」。みんなに「おおばあちゃんの負け」と言われましたが、母はうれしそうでした。ジャンケンを一度したことで打ち解けたのでしょう、その後、94歳の母と3歳のリョウ君とで3回ほどジャンケンをしました。 ジャンケンの後、「たんけんごっご」が始まりました。2階へ上がってみたり、廊下をそっと覗いてみたり……。カボチャやサツマイモなどにも関心を示しました。 この日、リョウ君が一番はまったのは健康機器のフィットネスバイクです。だっこしてもらってサドルに乗せてもらうと、自転車に乗った気分になるのでしょう、ハンドルにつかまって、盛んに体を動かして遊んでいました。 このフィットネスバイクのハンドルのすぐ下にダイヤルがあります。これは負荷(ふか)をかけるときに強弱を変更する装置ですが、回すたびに「カチッ」という音がします。リョウ君はこの音がすっかり気に入ったようです。「カチッ」とやって、少し間を置くと、「もっかい」「もっかい」と言って催促しました。 久しぶりにわが家にやってきたリョウ君、体重は増え、15`になっていました。しゃべる言葉も大人っぽくなってきました。春になったら、きれいな野の花をいっぱい見せてあげたいと思います。 (2018年12月2日) |
第533回 梅のカリカリ 漬物はどの季節に食べても美味しいですね。いまの時期なら、ちょいと訪ねたときにカブ、ハヤトウリなどの漬物をお茶と一緒にいただくと最高に幸せです。 季節は前に戻りますが、外へ出るのが怖いくらい暑い日、ある集落で一人暮らしをしているYさんのお宅を半年ぶりに訪ねました。 Yさんの仕事場でお茶をご馳走になっていたとき、梅を固く漬けたカリカリのことが話題となりました。梅のカリカリ漬けは私の大好きな漬物のひとつですが、梅のカリカリはYさんの得意な漬物だということもあって、私に漬け方を教えてくださいました。 「あのね、海水くらいの水で、ちょっとしょっぱいくらいので一晩だけ漬けるが。漬けたら次の日にザルにあげて、水切ったら今度は塩ぞっきで漬けんが。白くなるほどね。それを半日か1日置いとくが。そうすると茶色になるが。今度は塩のまんま、水出んこて、その塩ぞっきで漬けたときの汁、その水を大事にしておくが。いっぱい出ねが。それをまた使うんだわ。それを今度は梅割り、これ売ってるが。ここに入れてパッと押すが。そんで梅の種とるが」 説明の仕方に、ものすごい力が入っていて、何度も繰り返す「が」言葉が仕事場に大きく響きました。しかも、しゃべり方が速い。漬け方を携帯電話のメモ帳に記録していた私も大忙しでした。 Yさんの話は続きます。 「いっときが勝負。半日くらい水につけておかんでいいな。塩出ししたら、水をよく切って、そこにシソほしいわけ、夜中でも取りに行ってきたわね。さっと洗って水切って、シソもんで。そんで、海苔のびん、3キロ入るが。そこに白砂糖ひいて、シソ、梅、砂糖、シソ、梅、砂糖と重ねて、最後に上から手で押してくんて、最後に、にがりの水をかける。カップに八分目くらいかけて。酢をカップに少し入んてね。すぐに色が出て、食べられる」 「が」言葉こそ少なくなりましたが、依然として力は入っています。Yさんのしゃべりのスピードについていかれなくなったので、「レシピ、書いていなんねがかね」と訊いたら、「レシピは探せばあるが」と言ったきり……。今度は梅そのもの話になりました。 Yさん宅の梅の木、今年は鈴なりだったとか。でも、いっぱいなった分、梅の大きさは小ぶりだったようです。これまでと同じように、美味しいカリカリ漬けにこだわるYさんは、自分の家の梅を諦め、市販の梅を求めました。Yさんは言いました。 「でっけがほしかったすけ10`買ったが。直径2aくらいの梅、でっかいがほしいが」 梅の大きさがカリカリ漬けをつくる上でどんな影響があるのか、私にはわかりません。Yさんが「が」を強く言うようになったことから判断すると、大きい梅の実をカットして使った方が口に入れたときの感触のいいものを作れるのかも知れません。 梅のカリカリ漬けは1週間くらいで食べられるそうです。「これ、おれ作ったが」と言って、友だちなどに食べてもらえば、必ずほめられるに違いありません。 Yさんのお連れ合いが亡くなったのは9年前。一時は元気をなくしていたYさんですが、カリカリ漬けなどで人にほめられ、頼りにされ、いまはすっかり元気になりました。「おまん、梅のカリカリいらんが」と言われる前に、そろそろYさん宅に行って来なきゃ。 (2018年11月25日) |
第532回 「春よ恋」 ひと月ほど前の朝のことです。吉川区の鳥倉団地で「しんぶん赤旗」の配達をしているときでした。 父の代からお世話になっている家のY子さんの姿が見えたので、朝の挨拶をしました。普通ならそれだけで終わりなのですが、この日は違いました。私が車に乗り込もうとしたところで、Y子さんに、「橋爪さん」と呼びとめられたのです。 「さて、何だろう」と思いながらそばへ行くと、Y子さんは両手で四角い形をつくり、ジェスチャーで何か伝えようとしています。四角形といっても長方形でしたから、私はすぐに私のビラのことだと判断しました。 私が毎週発行しているビラは「活動レポート」が正式名称なのですが、覚えにくいのかも知れません。これまでも、手で四角形をつくって私に何かを訴えようとした人が何人かいましたが、すべてこの活動レポートのことだったのです。Y子さんもやはりそうでした。 そばに行くと、Y子さんは、玄関に上がっていく手前にある庭の一角を指差して語り始めました。 「これ、『春よ恋』というんです。こっちは恋なんですけどね」 そう言って、Y子さんは人指し指で「恋」という字を書きました。 「じゃあ、おれと同じだ」 と冗談で言うと、Y子さんは、 「ダメダメ、それは……」 と言って笑いました。 「でも、そうありたいね」 「橋爪さんはいつもそうじゃないですか」 「いやいや、なかなかそうは……」 私たちの会話を見ていた人がいるとすれば、何の掛け合い漫才をやっているのだろうと思われたことでしょう。Y子さんは、活動レポートに私が書いている随想、「春よ来い」と「来い」という字が違うけれど、同じ呼び名のアジサイがあることを私に伝えたかったのでした。 Y子さんが私に見せてくれたのは植木鉢に植わったアジサイらしきものでした。「アジサイの一種なんですか」と尋ねたら、「そう、アジサイなの……」という言葉が返ってきました。 植木鉢をよく見ると、とっくに盛りを過ぎた花が一輪だけ残っていました。花の形は間違いなくアジサイでした。 それでも何となく信じられない思いがして、家に帰ってからインターネットで調べてみました。「春よ恋」は静岡県は掛川市の植物園が改良して作ったガクアジサイの一種でした。 インターネットでの情報によると、花の中心部もその周りも八重咲きとなり、ふんわりとした感じになるとありました。しかも、花は咲き進むうちに表情を変えていくといいます。 母の日などのプレゼントとして使われていることもわかりました。 これだけの情報が入れば、もう一度、Y子さんのところの「春よ恋」がどんなものだったか改めて見てみたくなります。まずは写真を見てみようと思ったところで、Y子さんとの話に夢中になって写真を撮っていなかったことに気づきました。 朝食後、再び鳥倉団地へ行きました。 Y子さん宅の「春よ恋」をじっくり見ると、青々としている葉っぱ中に花が残っていました。花はすでに薄緑になっていたものの、ボリューム感はあります。「恋」という名前がついているので花盛りの色はおそらくピンクでしょう。それにしても、名前だけでわくわくする花があるとは……。 (2018年11月18日) |
第531回 フジさんの戒名 戒名についての話にこれほど心を揺さぶられるとは思いませんでした。桑取地区・土口の清兵衛(屋号)さんちのフジさんの告別式でのことです。 話をしたのは霊雲寺住職の古川真海さんでした。体調を崩し、通夜式は息子さん、お孫さんに任せていましたので、告別式には何としても出てお経を読み、区切りのいいところで、フジさんへの思いをしっかり語ろうと心に決めておられたようです。 弔電が読み上げられ、喪主の挨拶へと進むのかと思ったら、真海さんのところへマイクが渡されました。そして、「ここでフジさんの戒名についてお話します」と切り出されたのです。 話の内容を私のメモで再現してみます。 フジさんの戒名の「富峰静津大姉(ふほうじょうしんだいし)」の富は、フジさんのフジを漢字で書くなら、「富士山」の「富」になるんではないかと思ったんです。富士は見た目は美しく、裾はうんと大きく広がっている。フジさんは美しくて、包容力のあるおばあちゃんだったですね。 静津(じょうしん)の静は「しずか」、津は直江津の「津」。「津」というのは渡し場、舟の集まる場所のことを言います。フジさんは、土口という静かな場所でみなさんが集まる場所を提供してこられた。誰彼となく「あがらっしゃい」と声をかけていた。野菜とか山菜に合った味をつけて振舞ってくれた人でした。だから、フジさんのいる清兵衛さんちは地元だけでなく、他集落からも人がやってきて、毎日、人が絶えないくらい賑やかな家でございました。 私の友達で、マルケーにおった人も必ず清兵衛さんのところでお茶を飲み、世間話をしていきました。年寄りも若い人も、女の人も男も、老若男女でございますですね、心おきなく、寄っていった。言うなれば渡し場のごとくということです。フジさんは、みなさんから慕われたやさしいおばあちゃんでございました。 私は真海さんの話を聴きながら、フジさんのところで一緒にお茶飲みをしていたときのことを思い出していました。 何年か前の秋、フジさんの顔をちょこっと見ていこうと清兵衛さんちに寄りました。裏の池の山手でツリフネソウやキバナアキギリなどが花を咲かせていた頃です。フジさんから、「ありもんしかないけどあがらっしゃい」と言われ、タケノコと昆布の煮物をご馳走になりました。そして、ちょこっとどころか30分以上もいてしまう。こんな感じでお茶をご馳走になったのは少なくとも5、6回はありました。 地元の人たちと一緒にフジさんのところで過ごさせてもらったことも1、2回ありました。いつも気兼ねすることなく飲み食いし、とりとめのない話もできる。このときもゆったりした時間を過ごすことができました。フジさんのところはそういう心地よさがありましたね。 この心地よさは地元外の人も感じていたようです。葬儀後に聞いたのですが、告別式にはマルケーのバスの運転手さんだった方が4人も参列されていました。清兵衛さんちはマルケーのバス運転手や車掌さんたちが泊まる宿でもありました。宿の空気が良くて、休日になっても自分の家に帰りたがらない人がいるほどだったといいます。 「名は体を表す」という言葉があります。真海さんは、「戒名は生きていたときの人格を表す」と言われました。気持ちがやさしく、多くの人が慕い、集った。だから「富峰静津大姉」。素敵な戒名ですね。私は初めて戒名に惹(ひ)かれました。 (2018年11月11日) |
第530回 小さな穴 もう半年で父が他界して10年になります。申し訳ないことに1年に何回も思い出すことがないのですが、先日の夜、コタツ掛けのことから急に父の話になりました。 夕飯を食べ終わって、ゆったりした時間帯でした。コタツの南側にいた家族の者がコタツ掛けの一角に小さな穴を見つけ、「これはじいちゃんがあけた穴だ」と言ったのです。 確かに父が生きていた頃には、タバコの火を落として、穴をあけてしまったことがあったような記憶があります。でも、その当時の穴がいまだに残っているとは……。 そばまで行って見ると、確かに直径3ミリほどの小さな穴がありました。それも3か所です。穴の縁の焦げた様子から見て、明らかにタバコの火によるものでした。 わが家のコタツ掛けは、少なくとも10数年使っています。そう考えれば、穴が残っていても不思議はないのですが、父が座っていた北側にその穴があって、まだ見ることができるというのはちょっぴりうれしいことでした。 コタツ掛けには花の絵とともに紫、薄紫、白の3色を使ったチェック模様が入っています。コタツ掛けは正方形ですし、模様も、どこから見ても基本的には同じく見えます。それだけに、通常、どこをどの位置にするかを定めることはしません。今回はたまたま、いままで北側であったところが南側になったということでしょう。 それでも、このコタツ掛けの小さな穴は父を思い出すきっかけになりました。 「おらじちゃ、タバコだけや、やめらんねかったわな」そう言って、父の話を始めたのは母です。 顔を上向きにして、母は続けました。「おらじちゃ、いっとき『もりよし』(近くの電気屋さん)のじちゃと山直海のデイサービスに行ってなったもんだけど、『もりよし』のじちゃ、よくおらちに迎えに来なったがど。そんときも、『タバコ持ったかい』そう言わんて支度してなったがど……」 父が山直海のデイサービスに通っていたことも、近くのデイサービス、「あじさいの家」に通っていたことも私は見てはいたのですが、要介護状態になって、施設に行くようになってもタバコを持参していたというのは初めて知りました。 施設で吸うことができたかどうかは疑問ですが、タバコを持参した可能性は十分あります。というのは、病院に入院していて、話ができなくなってからも、タバコを吸いたがりました。口をもごもごしていたときに、「何、言いたいがだね」と繰り返し尋ねたところ、父は「タバコ!」とでっかい声で叫んだことがありました。父がしゃべった言葉はこれが最後でした。 母は父がタバコの火の粉を落としたとき、あわてて火を消す父の姿も鮮明に憶えていました。落ちた瞬間に気づき、手で消していたというのです。救急車で病院に運ばれた当時ならば、動きが相当のろくなっていましたから、こんな機敏な対応を父がするわけがありません。小さな穴をあけたのは、入院よりもかなり前だったのでしょうね。 父のタバコについての話を母から聞いて、私はコタツ掛けの小さな穴を再び見てみました。そして、穴のひとつから母を見てみました。その様子を見た母がまた私に声をかけてきました。 「とちゃ、おまん、チョウチ(地名)のナシの木、知っているだろ……」 母の昔話がまた始まりました。 (2018年11月4日) |
第529回 思いがけない呼びかけ 人間って面白いところがありますね。思いがけない声かけ、それもほんのひと声にもかかわらず、人間を大きく励ますことがあるのですから。 先日の吉川区駅伝大会での出来事です。私は大会会長の高野さん、副会長の小山さんなどとともに審判車に乗せてもらい、レースを見守りました。 各チームの選手のみなさんが3区を走っている時でした。審判車が先頭のランナーを追い抜き、天林寺地内にある4区との中継点に近づいたとき、友人のバリさんがお連れ合いとともに自分の家の入り口付近に出ている姿が目に入りました。 各選手のタスキのつなぎを確認するために中継所付近で車を降りた私は、急いでバリさんのところに向かいました。わざわざ出て、応援してくれている彼に「元気かね」と声をかけたかったからです。 バリさん夫婦がいる場所まであと20bくらいで着く、そんなタイミングで、駅伝のレースが行われていることを案内して走っている広報車の拡声器から、突然、「バリさん、おはようございます」という声が聞こえてきました。これにはびっくりしましたね。 マイクで呼びかけたのは広報車のアナウンサーを務めたアツコさんでした。 バリさんに会ってすぐ、「声をかけてもらったね」と言うと、「いやー、おれもびっくりした」と言いました。バリさんの顔を見ると、眉毛は完全に「への字」になっていました。よほどうれしかったのでしょうね。バリさんは、「吉川町走ろう会」という名前が入った水色のジャンパーを着て応援に出ていたのですが、そのジャンパーまでニコニコしているように見えました。 もちろん、私もうれしかった。普通、広報車が特定の人に「○○さん」と呼びかけたり、挨拶したりすることはありません。でも、アツコさんの「バリさん、おはようございます」にはまったく違和感がありませんでした。その言葉には「応援に出てくれてありがとう」という意味合いが含まれていて、近くにいた駅伝関係者の気持ちを代弁した呼びかけとなっていたのです。 たぶん、アツコさんもバリさんがかつて駅伝ランナーだったことを知っていたのだと思います。そして十数年前にバリさんが大病して、2度と走れなくなったことも。そのバリさんが大好きな駅伝のレースを見るために今回も道路の近くまで出て見ている、その様子がうれしかったのではないでしょうか。 5区の中継所付近で広報車と出合ったので私は、アナウンサーをやっていたアツコさんに、「バリさん、喜んでいましたよ」と声をかけました。感謝の気持ちを伝えたかったからです。アツコさんは、「つい、声をかけちゃって……」と申し訳なさそうな顔をしていましたが、責められるようなことではありません。 バリさんは国体のスキー選手となったショウイチさんやスキークラブのトシオさんなどとともに吉川町時代、「走ろう会」を結成したメンバーの一人です。いうまでもなく、駅伝の常連でした。来年の大会でもまた応援してくれるに違いありません。 吉川区の駅伝大会は小さな大会ですが、これまでも私は、1区か2区を走っていた選手がレースの後半の交通整理員をしていたことなど、心を揺さぶられた出来事をいくつも見てきました。アツコさんのバリさんへの呼びかけで感動のエピソードがまた一つ増えました。 (2018年10月28日) |
第528回 一人前 最近の自動車は至れり尽くせりです。シートベルトをかけ忘れていれば、ピーピー。車を止めて、ライトを点けっぱなしのときも、ピピッと教えてくれます。車内にカギを忘れていれば、ロックできない。 「まあ、こんなことも」と思うようなこともちゃんと車の方でやってくれるんですね。ありがたいというか便利な時代になったものです。そんななか、先日、面白い体験をしました。 長野県須坂市から友人がわざわざブドウを届けに来てくれるという日でした。お土産に新潟の新米を、と思った私はその日の午前、玄米が30キロ入ったコメ袋を車の助手席に載せました。精米するためです。 助手席はふだん人間が乗る場所ですが、コメをつくときはいつも助手席に載せてコイン精米機のあるところへ向かいます。この日はコメ袋を横倒しではなく、縦にして載せました。 走り始めてすぐのことでした、運転席の前方からピーピーという音が鳴り始めたのは。「あれっ、おれのシートベルトが金具によくはまっていないのかな」と思って、いったん抜いてはめなおしました。ところが1分と走らないうちにまた、ピーピーと鳴ったのです。 そうか、シートベルトではないのか。じゃ、何だろう。助手席側のドアが半ドアになっているのかも。そう思った私は、車を止めて、ドアをしめなおしました。よし、これで大丈夫だろうと思いました。 ところが、これで終わりにならなかったのです。再び、車を動かし始めたら、すぐにピーピーと来たのです。 こうなったら、ものは試しだと思い、コメ袋にシートベルトをかけてみました。シートベルトをかけてもらったコメ袋は運転席から見ると、なかなか似合います。少々下腹が出ていますが、いかにも満足そうな雰囲気が漂っていました。こうやってみると、コメ袋も30`あるんだから一人前、シートベルトをつけてもらいたかったのかも。私はそう思いました。 で、どうなったかといいますと、ピーピーがしなくなったのです。もうピーでもビでもない、完全にお知らせ音がしなくなったのです。 思いがけない展開に感心した私は、今回も情報交流サイト、「フェイスブック」に投稿しました。投稿を読んでくださった人の中には私と似たような体験をされた人が多く、次々とコメントが寄せられました。 「あるある、資料カバンで鳴ったことがあります」 「六キロでも音が鳴り、載せる場所をちょっと前にしてみました。反応する場所があるみたい」 「私も買いものしたものを乗せていて鳴りました。人間でなくても鳴るんですね」 「買い物して助手席に置き、走り出したらその音が。車の故障かと思い……」 私だけでなかったことを確認できて、なんとなくうれしくなりました。じつは、この件があるまで車の使用説明書を丁寧に読んでいなかったのですが、シートベルトについてもちゃんと書いてありました。 ●同乗者にも必ずシートベルトを着用 ●助手席に荷物などを置くと、センサーが重量を感知して警告灯が点滅し、ブザーが鳴ることがあります。 つまり、一定の重量がある荷物は同乗者と同じ扱いがされて、ピーピーと鳴ることがあるのです。30`もあるコメ袋ですからセンサーに反応したのでしょう。いい勉強になりました。 (2018年10月21日) |
第527回 心ひとつに 今年の夏の忘れられない思い出をひとつ。お盆前の11日、地元の人がタケと呼ぶ尾神岳で行われたコンサートの話です。 パラグライダー練習場で「尾神岳サマーフェスティバル」と銘打って行われたコンサートは今回で3回目。出演したのは歌い手グループ、ラフベリーの2人です。 コンサートがスタートする前に地元の大潟、柿崎、吉川の太鼓集団、よさこいグループ、吉川踊り隊のみなさんが演奏や踊りを披露してくれました。これが下地になっていましたね。 コンサートが始まり半分くらい終わった頃だったでしょうか、何とはなしに目をステージからその逆方向へと移した私は、パラグライダー練習場の一番高いところ、てっぺんで数人の人たちが曲に合わせて大きく手を振っていることに気づきました。歌のリズムに合わせて、じつに楽しそうです。そのなかには上越マリオ団のマリオの赤い服が見えました。あとは吉川区の太鼓集団、「鼓舞衆」のメンバーらしき男性も2人ほど確認できました。 ステージからこのてっぺんまで150bくらいあります。そんなに遠いところで彼らが盛んに手を振っている。この様子をみたら、私もステージ前の観客席から離れて、てっぺんへ行ってみたくなりました。てっぺんからステージを見る風景はどんなだろうかという思いもありましたが、何よりも、そんな遠くにいてもステージの歌い手さんたちと心を一つにできる、それを確かめたかったのです。 歩きはじめてから、ふと右脇をみると、1人のお母さんと2人の子どもさんもてっぺんに向かって歩き始めています。さらに、その後ろにはマリオ団のワリオも大きな体をゆっくり動かして歩いているじゃありませんか。みんな同じ気持ちだったんですね。うれしくなりました。 しばらく歩いたところで、黄色の羽を広げて、目の前の芝の上を飛んでいくバッタと出合いました。殿様バッタです。体長は5〜6aはあります。私は、デジカメを取り出し、バッタが羽を広げて飛ぶ姿を撮ろうとしましたが、いい写真にはなりませんでした。バッタも曲に合わせて飛び回っていたのでしょうか。 さて、パラグライダー練習場のてっぺんです。ここにたどり着いて、日本海側を見ると、直江津の居多ヶ浜がよく見えました。眺めがとてもいい。ステージ上のラブベリーもステージ前の聴衆も小さくなって見えました。ステージ近くにある「みはらし荘」の階段のところにも何人かの姿が見えます。みんな、楽しんでいるんですね。 てっぺんにいる仲間たちと一緒に手を振りながらしばらくステージを見つめました。これだけ離れていれば音が届かないことがあるかも知れない、そう思っていたのは私の間違いでした。音は小さくはなっても、しっかり聴こえたのです。 ラフベリーの歌を聴きながら、てっぺんでは足を上げたり下げたりしてリズムに合わせている人がいました。団扇をあおぎながらじっと聴いている人もいます。それどころか、芝生の坂を転がる人もいました。まさに喜び満開という感じでしたね。 この日、コンサート会場に集まった人のなかには尾神と深いかかわりのある人が何人もいました。上越マリオ団のマリオもワリオも、もちろん私も。ラフベリーが最後の方で歌った母さんへの歌、「アナタがくれた温もり感じているから 今日もまた優しくなれる……」。歌を聴いていて、「ああ、タケに来ていかった」と思いました。 (2018年10月14日) |
第526回 いいこといくつも 予定変更がいいことにつながることもあるんですね。先日、楽しみにしていた地元の酒まつりが台風の影響で中止となり、急きょ、介護老人保健施設・保倉の里まつりに参加することにしました。 参加することにしたのは、もう2年くらい会っていない親戚のT子さんの顔を見に行きたいと思っていたからです。 まつりは午後1時から。1時15分前頃、受付を通って2階に上がると、大平のTさんなどと会いました。廊下からホールまですごい混みようです。 ホールの方に向かって歩き始めたときでした。「あらまあ」といった表情で私に声をかけてくださった女性がいました。大きな目を見て、すぐにSさんだとわかりました。私が尾神に住んでいたときに私の頭を刈ってくださった人だからです。 Sさんと話し始めて1分も経たないうちに、ステッキカーを押して、ニコニコしながら私のそばにきた人がいました。母と同郷の「ハヤシ」(屋号)のお母さんです。私の手を握ると、「エツさん、達者かい」。私は、「はい、お陰さんで達者だでね。悪いときもあるでも」と答えました。そして、かつては読んでもらっていた私のレポートを1枚渡すと、「ハヤシ」のお母さんは大喜びしてくださいました。 「ハヤシ」のお母さんとひとしきり話した後、Sさんと再び話をしました。 Sさんの亡くなったお連れ合いが仕事をしておられた石谷の畑付近で先日、人の姿を見かけ、お父さんかと思ったという話をした後、「ところで、おまんた親類の町田のお母さん元気かいね」と言うと、「ここにいるがね」と言われてびっくりしました。なんと、なんとSさんの隣の席で話をじっと聴いていた女性が町田のお母さん、Fさんだったのです。ほっぺたのまわりが少しふくらんでいたものですから、私は山直海のTさんだと勘違いしていました。 そうこうしているうちに、今度は私のことを知っている職員さんが親戚のT子さんを私のところまで連れてきてくださいました。事前連絡なしで訪問したこともあって、T子さんも喜び、声を弾ませて、「おばあちゃん、元気かね。おばあちゃんに会いたい」と言いました。 午後2時半過ぎからは長寿の祝いの表彰式です。高橋先生が111歳のWさんなどの対象者に次々と賞状を渡されました。そのなかにはヨネさん、シゲコさん、ワスケさん、T子さんなどの姿がありました。みなさん、顔の色つやがよかったですね。 表彰式、そして地元の小中学校のみなさんの演奏、ダンスなどの様子を写真に収めていたところ、私のすぐ隣にいた男性から挨拶されました。赤沢のIさんです。 見ると、すぐそばには私の父と同い年のキヨノさんがおられるじゃありませんか。たしか91歳、10年くらい前までは毎週のように私とおしゃべりをしていた間柄です。このお母さんも私のレポートをよく読んでいてくださり、口癖のように「いつもいろいろ教えてくんなってありがとね」と言ってくださったものです。 キヨノさんは私のことがわかったようで、私に何かを伝えようと必死でした。口元まで耳を寄せると、やっと聴きとれる声で、「教えてください。おたのもうします」。私は涙が出そうになりました。 この日は思いがけなく再会した人が何人もいました。T子さんだったでしょうか、「きょうは、いいこと1つふえた」と言われましたが、私の場合、いいことがいくつもふえました。 (2018年10月7日) |
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