春よ来い(21)
 

第525回 花オクラ

 60数年生きていて、初めて知ることが少なくありません。先日も上越市の山間部にあるTさんの家へ行き、花オクラというものがあることを初めて知りました。

 この日は地元のMさんとともにTさん宅を訪ねたのですが、キュウリの漬物などをいただきながらお茶を飲んでいて、窓の外に見えた黄色い大きな花が気になりました。「あの花はなんという花?」と聞くと、Tさんは、「花オクラです」と言われました。色や大きさは違うものの、花の形はハイビスカスやムクゲの花と似ています。「一日花なんでしょう」と私が尋ねると、「そうです」との答えです。

 一日花だと聞いた途端、私はすぐ写真を撮りたくなりました。ひと月ほど前に、サボテンの一日花と初めて出合い、大きく咲いたところもしぼむところもみていましたので、私の好奇心が一気に高まったのです。お茶の途中でしたが、カメラを持って花畑に行きました。

 そばに行くと、花は思っていた以上に大きく、直径15〜20aほどで、普通のオクラの花の倍はありました。花びらは薄黄色で、5枚です。全体のふんわりした雰囲気はフヨウにそっくりでした。私は花の上や横から何枚も写真を撮りました。

 撮り終わって、居間に戻ると、Tさんが花オクラは食べられるというのです。この話を聞いてまたびっくりしました。今年はウドの花を天ぷらで食べると美味しいという話を初めて聞いていましたが、今度は花オクラ、まさに驚きの連続です。

 花オクラが食べられるということはTさんだけでなく、一緒に行ったMさんも知っていました。Mさんによると、熱湯に酢を少し入れておき、花びらをさっと入れ、あげる。それにポン酢をかけて、はい出来上がりだとか。簡単に食べられるということでした。料理したものはオクラの実と同じようにネバネバしたところがあるとも聞きました。

 Tさん宅でのお茶飲みでは花のことだけでなく、野菜のことも話題になりました。

 9月も後半になってくると、畑で収穫したキュウリやナス、カボチャ、スイカなどの残りの始末もしなければなりません。TさんとMさんの会話の中で、食べきれなくなった野菜を畑に返しているというのが出てきて、これまた驚いた次第です。

 実際、Tさんの畑には黄色くなったキュウリ、スイカ、メロンなどがいくつも転がっていました。これらは余ったから畑に返していたのです。わが家では、余ったものは堆肥置き場に投げておくのが通例でしたので、この話はとても新鮮でした。

 この日はTさん宅で1時間近くもゆっくりさせてもらいました。この間に、私は花オクラの写真をインターネットで発信していました。その際、「花びらは酢の物にするとおいしいとか」と書いたことから、思いのほか反響がたくさんありました。

 そうなると、私自身も食べないではいられません。翌日、Tさん宅に再びおじゃまをし、花オクラの花を7、8個もらってきました。もちろん、料理するためです。

 私流のやり方を紹介しますと、まずは中くらいの鍋に水を入れてわかす。沸騰したところで酢を少したらす。あらかじめ洗っておいた花びらを入れ、しゃぶしゃぶに近い感覚でさっと湯がく。しんなりした花オクラを皿にのせて、料理は終了です。

 今年はどういうわけか、「食べられる花」を発見する年です。酢と醤油を少々かけた花オクラを口に入れると、オクラと同じネバネバ感がさっと広がりました。
   (2018年9月30日)

 
 

第524回 千本桜

 美術館で作品鑑賞をしているときに、突然ピアノが鳴り響いたとなれば誰しもびっくりするでしょう。先日、「絵本と木の実の美術館」で実際にあった話です。

 この日は大地の芸術祭、最後の日でした。十日町市にある旧真田小学校の建物をそのまんま活用した同美術館は、そこに至る道が渋滞となるほどの人気でした。

 私が美術館に到着したのは正午過ぎです。入り口のそばにあるマムシをかたどった大きなトンネルをくぐり抜け、美術館の本体に入った私は、まず田島征三の絵本原画をみました。サンゴのように枝が伸びた木とヘビ、そして白だけでなく、様々な色で雪を表現した雪国の風景はこの人ならではのものです。絵をみた子どもたちが喜ぶのもうなずけます。

 続いて屋内運動場だった広い場所へと移動しました。流木を使ったのでしょうか、赤や青、緑、黄色などの塗料が塗られた木々が見事な作品に生まれ変わって、床の上に置かれたり、天井からぶら下げられたりしていました。その中には、恐竜に見えるもの、家畜に見えるものがありました。人間が両手を広げているようにも見えるものもあります。運動場の空間をいっぱい使って人間だけでなく、様々な生き物が動いている、私はそう思いました。

 作品を一通りみてから、私は山際の窓のそばで、天井からぶら下げられたボードに木の実をいっぱいくっつけた作品を見上げました。これは一体何を表しているのか、川の流れか、それとも吹雪きか、そんなことを考えていたときのことです、突然、ピアノ演奏が始まったのは……。

 タタンタタン、タタタタタン、タタンタ、タタンタ、タタタタン……軽快な演奏は作品をみていた人たちをすぐに惹きつけました。私は展示されていた作品が踊り出すのではないかと思いました。それくらい、この展示会場の雰囲気にぴたりと合っていたのです。

 演奏が一区切りしたところで、会場からは「上手!」という声とともに大きな拍手が送られました。

 ピアノを演奏していたのは縞模様のシャツを着た少年です。「この曲は何という曲?」そう聞くと、「千本桜」という答えが返ってきました。何とヨサコイでおなじみのヒットソングだったのです。

 少し間をおいて、少年は再びピアノに向かい、さらに2曲弾きました。3曲目は会場にいた若夫婦の求めに応えたものです。ピアノのすぐそばでは、演奏する少年の姿をお父さんに抱かれた赤ちゃんがじっと見つめていました。この子も少年の弾くピアノ演奏が気に入ったようです。

 少年は小千谷市からやってきた小学6年生でした。小学1年の時からピアノを習っていて、この美術館を訪れたのは3回目だといいます。前に来た時に、ここでピアノが弾けることがわかり、今回もこの場所でピアノを弾くのを楽しみにしていたようです。低学年用の低い木のイスに座って演奏する姿は少しおかしく見えましたが、激しく軽やかな指の動きはピアノが好きでたまらないことを示していました。

 この日の朝、私は何か素敵な出会いがある予感がしていました。美術館では、教室や階段、木のイスなどが閉校となった13年前の時のそのままの姿で活用されています。数十年前、木造の旧源小学校水源分校で学んだ私は、それだけでも大感激でした。それに加えて少年の突然のピアノ演奏を聴くことができたのです。忘れることのできない一日になりました。 
  (2018年9月23日)

 
 

第523回 幼友達(2)

 幼友達というのは高齢になると家族のように大切な存在になるのでしょうか。母の実家のすぐ隣の家で生まれ育ったキエさんと母の交際の様子を見ていると、いつもそう思います。

 秋の農作業が始まっていたある日の夕方、母を軽自動車に40分ほど乗せて大島区板山の「杉」(屋号)のキエさんのところへ行ってきました。母にとっては9か月ぶりの再会です。

 訪ねた時間は午後4時15分前。出かける少し前に、「おらちのばちゃ、おまんちへ行きたいてがだけどいいかいね」と電話を入れておいたのですが、その連絡が大急ぎで食べ物の準備させてしまうことになったようです。キエさんは、飯台の上にカボチャの煮物、一口メロンなどたくさんのご馳走を用意して待っていてくれました。

  「まあ、おまんばっかしゃ、なんもいらんがに。ごっつお、作ってくんたが」母はそう言いながらも、出してもらったばかりのサワナの煮物にすぐ手を伸ばしました。母の声が聞こえなかったのでしょうか、キエさんは母の質問に答えず、「ああ、いかった。会わしてもらわんて」と言いました。

 2人のしゃべる様子を聞いていたら、裏山が見える窓から風がスーッと部屋に入り込んできます。気温が下がって、寒いくらいです。「さぶくねかね」「さぶくね」という2人の言葉が聞こえてきました。

 キエさんは顔の色つやがよく、とても元気そうでした。久しぶりにキエさんの顔を見た母がいきなり、「おまん、若い時からきりょうよしだった」と言いました。それにはキエさん、すぐ反応して、「なしてぇ、おら、みったくなしと言わんたもん」と言って笑います。

 お茶を飲み始めてから間もなく、母が「お茶、うんめわ」と言ったことから、台所で使っている水のことが話題になりました。私も初めて知ったのですが、かなり遠いところの山から水をひいているのです。

 キエさんは母に向かって、「おまん、知ってるろね、タケノコ採りに行った山から水、きてるがど」と言いました。タケノコなんて言えば、山菜採り大好き人間の母の気持ちは高ぶります。 「タケノコ、いまは、ないろ」と母が言うと、「なして、Hさんなんか、百本もビン詰しなったよ」とキエさんが答えました。たぶん、母は、来年の春には行ってみたいと思ったに違いありません。

 お茶に使う水がうまいという話になれば、次は飯台の上の料理の話です。キノコ、ゴボウ、ニンジン、豆腐、豚肉などが入った煮物を前に、キエさんは、「やわらかいすけ食べて」と勧めます。母が再び、「おまさん、ごっつお、してくんなったがね」と言うと、キエさんは「なして、ガチャガチャとやっただけだ」と答えました。私もご馳走になったのですが、味は抜群、皿にいただいた煮物は遠慮しないでたいらげてしまいました。

 この日もやはり、若い頃のことが話題になりました。「おまん、乳、でっけかったねかね」と母が言うと、キエさんが「乳、でっかくね。さし乳だったけどよく出た。タオルあててもびしょ、びしょになった」と言ってまた笑いました。

 キエさんの家には1時間ほどおじゃましました。キエさんは「おもいつけもね、会わんていかった」と繰り返しました。そして最後、サヨナラするときのことです。キエさんは道の真ん中まで出て、「たっしゃでねー、気いつけてね」と声をかけ、車が見えなくなるまで見送ってくれました。
  (2018年9月16日)

 
 

第522回 まんまし

 8月下旬の豪雨。私の住んでいるところも避難勧告の対象になりました。私は、吉川が増水し、避難しなければならないことを母に告げ、車で5分ほどの叔母の家に行きました。

 母を預かってもらい、私はその後、数時間、吉川区や柿崎区などで被害状況などを見て回りました。この間、吉川の水位も下がって危険な状態はなくなったことから、夕方には避難勧告は解除となりました。

 私は避難勧告解除が確実になった段階で、母を迎えに叔母の家に行きました。最初は、母を引き取ってすぐ帰るつもりだったのですが、叔母などに勧められてお茶をご馳走になってきました。

 30分くらいやっかいになったでしょうか、その間に叔母や従弟の嫁さんと久しぶりにゆっくりと話をしました。叔母はコーヒーを飲み始めた私に、「ばちゃと昔話いっぱいできていかったわね。ばちゃ、竹平ののうの=i母の実家の屋号)へ自転車で行ってきなったてがだもんねぇ」と言いました。聞いた私は驚きました。

 言うまでもなく、十数キロも離れた母の実家へ94歳の母が自転車に乗っていくことは考えられません。ただ、私は2週間ほど前に、母が見たという夢の話を聞いていました。そのなかでは確かに三輪自転車に乗って竹平まで行ったということでした。母は、竹平の「イナバ」(屋号)の下まで乗って行ったけど、それから先は乗らなかったようだ、と言っていました。まあ、夢のことですから、さもありなんと聞き流していたのですが、その夢が、叔母との話では実際にあった話に「発展」したようです。私は、叔母に「夢ん中の話だがね」と言いました。

 叔母は続いて、「ばちゃ、まだ、まんまし、してなるがねぇ」とも言いました。私は「この間は赤飯蒸かしていたけど、ほとんど家族のもんが作ってるこてね」と言ったのですが、私は「さあさ」と反省しました。母としては、毎食であろうが、数日に1回であろうが、まだ、「まんまし」の第一線から離れていないということを叔母に伝えたのかも知れないと思ったのです。叔母には、「そいがでね、助かってるわね」と言えばよかったのです。

 母を連れて帰ってから、再び外に出た私が家に戻ったのは、この日の夕方6時ごろだったと思います。玄関の戸を開けると、台所の方から何か炒め物をしているような音が聞こえてきました。「さて、誰だろう」と思いながら台所の入り口まで行って驚きました。母です。母が台所に立ち、叔母からもらってきた玉ねぎ、ナス、ピーマンなどを使って料理をしていたのです。出来上がった油味噌料理を大きな皿に移すと、母は私に「飯台のとこへ持って行ってくれ」と言いました。

 すっかり耳が遠くなった母ですが、どうも叔母の家で、私と叔母が交わした言葉が聞こえたようです。「とちゃが、なんだかんだ言ったって、おれはまんまし、してるがど」。たぶん、母はそう思ったのでしょう。どうあれ、叔母の家に行き、野菜ももらって、母の「まんまし」としての気持ちに火がついたことだけは確かです。 「まんまし」というのは、ご飯づくりのこと、あるいはご飯づくりをする人のことを言います。私は、久しぶりに「まんまし」という言葉を耳にしてうれしくなりました。そして、何よりも母が作った油味噌炒めがなつかしい、いい味だったので感激しました。母は間違いなく「まんまし」の現役でした。
  (2018年9月9日)

 

第521回 直売所から

 吉川区福平にある直売所にとって、8月11日は、お盆前最後の直売所「開業日」でした。私は午前11時頃、訪れました。正確に言うと、国田から福平を通って道之下へ抜ける途中、寄ったのです。

 養善寺の下に差し掛かったとき、前方で背の高い人がゆっくりと直売所に入っていこうとしているのが見えました。私の中学時代の恩師、實英先生です。お連れ合いを亡くされて、一人で頑張っておられると聞いていました。

 車の中から實英先生を見ると、先生も私に気づかれ、挨拶してくださいました。こうなれば、車から出て、お店にも寄っていこう、うまくいけば、一口メロンがあるかも知れない、そう思って車から出ました。

 お店にはジャガイモ、玉ねぎ、ウリなどの野菜がずらりと並んでいました。 「お茶飲んで行ってくんない」。奥の方から女しょの声が聞こえたので見ると、大工さんちのHさん、早くにお連れ合いを亡くされたF子さん、それに私がダンプで堆肥を運んだことのある家のE子さんの3人がおられました。

 野菜などが並べてある場所の脇を通って奥に入ると、そこには簡素な台とイスがいくつか用意されていて、ちょっとした「談話室」になっています。小さな台の上には切ったメロン、丸ナス、キュウリなどの漬物がいくつも置いてありました。それらを見ただけで私はお茶をご馳走になる決断をしました。

 私が座ると、まず實英先生が「いやー、おかげさんでいろんな人が来て下さるようになってね」「地域の情報が入るし、助かる」と言われました。そしたら、女しょの中から「隣近所の人でも話す機会は少ない。いいことだこて」という声が聞こえてきました。私は年に数回、この直売所に寄っていますが、買い物だけでなく、ここで誰かと話をしたくてやってきている人たちがいることも知っています。

 實英先生からは、続いて、「干ばつだと言うけど、どこらへんがひどいんだね」と聞かれました。「私の見た感じでは、安塚、吉川、牧、大島あたりかいね」と答えた後、見てきたばかりの吉川区坪野の田んぼのことを付け加えました。「坪野は圃場整備の関係で遅くなって植えたけど、あまり伸びていないんだよね。そこへ水不足で田はひび割れをおこしているんだわ」と。

 直売所の裏側からはミンミンゼミの鳴き声が聞こえてきます。それも休みなしの賑やかさです。「ツクツクボウシはまだだこてね」と私が言うと、Hさんたちから「まだ」という答えが返ってきました。そして、「アブラゼミがいっぱいいて、次々落ちている」「ニイニイゼミは、とまる木の色によってはどこにいるかわからん」などという声が相次ぎました。

 話題はセミのことから8月4日の「越後よしかわやったれ祭り」のことに移りました。じつは、ここの直売所のみなさんも会場となった原之町商店街で農産物を売りに出していたのです。E子さんだったでしょうか、「そこに出したモモが評判でね」と言いました。すると、誰かが、「美味しいし、少し柔らかになると、皮がペロッとむけるんだわ」とも。モモは實英先生が作ったものでした。みんなにほめられた先生は「袋かけが大変でね」とちょっぴり恥ずかしそうに語りました。

 この日の天気は少し不安定でした。でも、直売所の中は常に「晴れ」。この日も楽しいおしゃべりが続き、外では百円店ののぼりがはためいていました。   (2018年9月2日)

 

第520回 喜び増幅

 「あっ、また歩いている。楽しそうだなぁ。何が面白いがかな」。夕方、吉川区の六万部と町田間の県道を通るたびに4人の女性が歩いているのが気になります。

 お盆前に4人の中で最年長のM子さんに尋ねてみました、「何か、おもしいこと話してるがかね」と。「なーに、とうちゃんの悪口言ったりしてるだけだわね」M子さんはそう言って笑いました。

 お盆が終わった最初の日曜日、私は4人と一緒に歩かせてもらいました。集合場所は県道と市道が接続する六万部の三叉路です。5時15分頃にスタートし、30分近くかかって最後まで歩きました。

 グループの中で先頭を行くのは私と同い年のHさんです。約1bほど離れて他の3人と私が続きました。歩きだして驚いたのは、スピードがけっこう速いことです。私から、「速いね、駅の中を歩いている東京の人みたいだ」と言うと、「東京は確かに速いわね」と誰かが答えました。体重があって、腹も出ている私にはついていくのがやっとのスピードでした。

 ただ、みんなが同じテンポで歩いていれば、おしゃべりは出来るんですね。「橋爪さんが後ろについていると、誰もしゃべらんかもしらんよ」とM子さんが言っていたのですが、じきにおしゃべりが始まりました。「ねえ、どこどこの神社のお賽銭、被害にあったんだって」と誰かが言ったものですから、私が冗談っぽく、「犯人はテレビで探している例の人かな」と言うと、「こんがんとこへくるわけねえしね」と他の人がかわしました。

 しばらく進むと、西野島の十字路へ出ます。十字路から左に曲がって50bほど進んだところで、「わあ、スイカだらけだ。もったいない」と誰が言うと、みんなは一斉に畑の方を見ました。

 ネットで囲んであるその畑には、いっぱいとれて食べきれなかったのでしょうか、もいだスイカが5、6個寄せてありました。道路側のネットのそばにも特別大きいスイカがあります。「これももったいないスイカだね」「でも、まだもいでねえがだよ」「おまんた、ここんちの人、いなるよ」と賑やかになりました。話が賑やかになっても、みんなはスピードを落とすことなく歩き続けます。

 西野島から町田へ行く途中、田んぼの中に「つきのあかり」と手書きしてある立て札がありました。その字を見た私は前日のNHKテレビ、思い出のメロディーで水前寺清子が「365歩のマーチ」を歌い、テレビ画面の下には水前寺清子の手書きの歌詞が出ていたことを紹介し、「それがまた上手な字でね」と言うと、「歌詞って、水前寺清子が書いたの?」と聞く人がいて、これでまた話がはずみました。

 町田のT字路を過ぎ、六万部へと向かい始めた頃、木から下がっているアケビヅルが見えました。このアケビの話をすると、M子さんが「前に採ったことがある」と言いました。やはり見えていたようです。

 終点は最初の集合場所から20bほど離れた車庫の前。北からの涼しい風が通り抜けていきます。「いい風が吹くね」と私が言うと、Iさんでしょうか、「だから、ここにいるの」と答え、M子さんやYさんたちもニコニコ顔になりました。

 今回一緒に歩いて、改めてわかりました。歩くスピードだからこそ見えて、ちょっとした発見もある。それを4人が共有することで話が広がっていく。そして新発見です。歩いておしゃべりすることで、歩く喜びが増幅されていくんですね。
  (2018年8月26日)

 
 

第519回 一日花(2)

 たった一日で花が終わってしまう花。これまでもナツツバキなどの一日花について関心を持ってきましたが、短毛丸(たんげまる)というサボテンの花がこんなにも美しく、命の短い花だとは……。心打たれました。

 お盆直前の12日の朝のことでした。大潟区に住む弟が電話をくれたのは。「玄関にサボテン、置いてきたから、見てくんない。サボテンの花が明日には咲くと思うんだわ。花は一日しかもたない一日花だけど、ものすごくきれいだよ。花の中も何とも言えないし……」。

 布団の中で、電話を受けた私は、起床し、玄関へ行ってみました。玄関戸のそばに木の台に載ったサボテンの植木鉢がありました。鉢の中には、直径10aほどのサボテンが2つあり、少し大きめの方には2つのつぼみが、もうひとつのサボテンには1つのつぼみが斜め上に向かって伸びていました。いずれのつぼみも少しふくらみが見えたものの、すぐに咲くようには見えませんでした。

 この日は大忙しでした。板倉区の菰立、久々野で干ばつ被害にあった田んぼを見てきした。前々日から30ミリくらいの雨が降ったことから、被害にあった稲がどうなったかを確認したかったからです。光ヶ原高原での夏祭りの様子も見ました。その後は清里区のTさんを訪ね、そこから牧区の大月、安塚区の上方にも行ってきました。牧区も安塚区も干ばつ被害の田んぼを見るためです。田んぼは一部で回復しつつあるものがありましたが、多くは絶対的な水不足状態が続いていました。

 事務所で仕事をしたこともあって、家に戻ったのは夜の9時近くだったと思います。車のライトを照らしながら玄関のそばまで行くと、なんとサボテンの白い花が満開となっているじゃありませんか。私はこんなにも早く咲くとは思ってもみませんでした。花径は10aほど、思っていた以上に大きな花でした。

 私は、植木鉢ごと居間に運びました。母にも見てもらいたかったからです。電動イスに座った母は見たとたん、「まあ、きれいだない」と言いました。びっくりしたのでしょう。家族の者によると、夕方には開花が始まっていたようです。それが、私の到着する時間までには完全開花していたというわけです。

 翌朝、私は起きてすぐ、玄関先へ行ってみました。言うまでもなく、このサボテンの花がどうなったかを見てみたかったからです。夜に咲いたのは予想外でしたので、朝に終わっていたらどうしようと心配になっていました。花は朝日を浴びて、夜よりもきれいに見えました。弟が教えてくれたように、花の中をのぞくと奥が深く、薄緑色になっています。しかも花の入り口付近には雌しべをとり囲むようにたくさんの雄しべがありました。それがまた、とても神秘的でした。

 私はサボテンの花を仏壇のところに持って行きました。9年前に亡くなった父などの先祖にもぜひ見てほしかったからです。そして大潟の弟に電話しました。すると弟は予感していたのでしょうね、「やっぱり、夜咲きはじめるんだよね。夕方までにはしぼんでしまうよ」と言いました。

 サボテンの花は午前が盛りでした。近所のKさんに見てもらったら、「お盆の13日に白い花を咲かせているなんて、最高だこて。いいタイミングだね」と言われました。13日が一日花の花盛り、今年のお盆は一生忘れられないお盆となりました。
   (2018年8月19日)

 
 

第518回 セミファイナル

 今年は、「これはどんぴしゃりだ」と思う言葉に時どき出合います。そうした言葉に出合うたびに、うれしく思ったり、感心したり……。

 先日の朝のこと、5時過ぎに家を出て1分ほど歩いたときでした。市道代石小苗代線の起点付近の路上で、1匹のアブラゼミがひっくり返って、ぐるぐるまわっていました。回転中のコマほどではないにせよ、とても速く、勢いがありました。

 大急ぎでスマートフォンを使って、この様子を動画に収めました。このアブラゼミは、同じ場所でじっとしているのではなく、体を回転させ、羽の音を立てながらススッと移動していましたから、カメラで追うのがやっとでした。

 撮り終わってじきに、フェイスブックでセミの様子を発信しました。「ひっくり返ったセミ」というタイトルをつけ、「どこからか飛んできて、落ちちゃったのでしょう。アブラゼミが路上でひっくり返って回転していました。手で拾い上げ、草むらに置きました。これでしばらくは生きるでしょう」というコメントを添えました。

 しばらくして、市内の2人の方からコメントを寄せていただきました。Sさんからは、「蝉は構造からでしょうか?舗装面などの平面だと起きられない様です。もがいて疲れてしまい天を仰いでいる蝉をみたら、早まるな!気が早い、もう少し生きろ!……と、つまんで空に投げると、我に返って『爺』と言って飛んでいきます」 とユーモアいっぱいのコメントです。いま一人、Yさんからは、「昆虫学者さんによると、この状態は『セミファイナル』というらしいです」とありました。

 2人とも私の知っている人だけに、とてもうれしくなりました。2人のコメントを読んで思ったのは、セミという小さな昆虫がこの世に生を受け、自らの生涯を終える最後の場面を見つめる目のやさしさです。

 2人のコメントにはそれぞれの思いも書かれていて楽しく拝見したのですが、Yさんの「セミファイナル」という言葉がとても新鮮でした。これまでファイナルとかセミファイナルといった言葉はテレビのスポーツ番組くらいでしか聞いたことがなかったからです。

 さっそくインターネットで調べてみると、「スポーツで、準決勝の試合。準決勝戦」というのが出てきました。それともう一つ、「一見死んでいるように見えるが近づくと突然動き出す蝉(セミ)のこと」というのがあったのです。後者の意味は、使われ始めてからまだ歴史は浅いようです。

 私が市道で見たケースでは、セミが「死んでいるように見える」状態ではなく、回転していました。おそらく、私が近づいて、セミがびっくりし、回転し始めたのでしょう。どうあれ、「セミファイナル」状態の一過程であったことだけは確かです。

 英語で「semi=セミ」とは、「半分」「半ば」「やや」といった意味です。でも、昆虫のアブラセミが生涯の最終章で頑張りを見せているときに「セミファイナル」という言葉を使うと、「半分」とか言う意味合いは消え、「セミの最後の頑張り」と聞こえてくるのは私だけでしょうか。そして、何となく応援したくなりませんか。

 アブラゼミがひっくり返っている姿を見たのは今夏は2回目でした。1回目のときは、玄関の外で動かなくなっていました。でも正常の状態に戻し、カメラを向けた瞬間、バタバタッと飛び立ったのです。まさに「セミファイナル」、びっくりでした。
  (2018年8月12日)

 
 

第517回 顔写真

 笑ってしまいました。先日、柏崎市に住む義母を訪ねたときのことです。自分の顔写真にふれて使った義母の言葉が、思いがけないもので、しかも楽しいものだったからです。

 義母の部屋で、私が「お母さんの誕生日って、いつでしたっけ」と尋ねると、妻がカレンダーを見て、「18日だったよね」と言いました。義母はそのとき、カレンダーの方を見て、「私にそっくりなんだわ」と言ったのです。

 カレンダーの脇には義母の顔写真が貼ってありました。プレゼント用に飾りつけがしてありましたから、デイサービスでスタッフの方から撮ってもらったのでしょう。義母はその写真を見て、「そっくり」発言をしたのです。義母の言葉を聞いて、部屋にいたみんなが笑いました。

 人間の顔写真は、どんな顔をしていようとも、シャッターを押した瞬時の表情をとらえています。ですから、どの瞬間のものであれ、自分の顔そのものです。もっとも、目を極端に大きくあけたりして、わざと普段とは違う顔をつくろうとすれば「自分とは違った感じ」にはなりますが……。どうあれ、壁に貼ってある顔写真は、義母の思い通りの写り方になっていたのだと思います。

 離れたところから義母の顔写真を見ていた私は、どんな表情で写っているのか確かめてみたくなり、ベッドのそばの壁まで近づきました。すぐそばで見ると、少し緊張した四角い顔が写っていました。間違いなく、義母に「そっくり」でした。

 率直に言うと、表情に少し硬さが残っていたものの、さっぱりした顔で、とても元気そうに見えました。私が写真をまじまじと見ていると、義母が「笑おうとしたんだでも」と言いました。言われてみれば、頬のあたりがそういう動きをしようとしていたようにも見えました。

 義母の「そっくり」発言を聞いて、思い出したのは母の言葉です。母もまた、自分の顔について、同じことを言うようになっていました。

 私はここ数年、母の写真を出来るだけ撮ろうと心掛けていますが、その多くは顔写真です。最近は顔を撮ると、母はどんな顔になっているかがとても気になるようです。いま多く使われているカメラは、フィルム撮りカメラと違って、写り具合をすぐに確認できます。そのことを母も十分知っていて、「どら、見してくれ」と催促するようになりました。

 自分の顔写真を見ると、母は必ず、「オレ、ばちゃだなぁ」と言って笑います。真っ白な髪、額(ひたい)や目の周り、口元などに皺(しわ)がたくさんあります。とっくに90歳を超えているのですから、たくさんの皺があっても普通のことです。でも、写真で見ると、自分が考えている以上に年をとっている。つい「オレ、ばちゃだなぁ」と言ってしまうのでしょう。

 母と義母はともに1924年(大正13)生まれ。母の方が義母よりも4か月ほど早いのですが、それぞれ連れ合いを亡くし、家族の中で生きていることは共通です。この2人が自分の顔についてそれぞれ気にかけていて、自分の言葉でちょこっと語る。偶然とは思えない何かを感じます。

 義母を訪ねた夜は柏崎の花火の日でした。柿崎の峠から山を越えて行くと、佐水あたりから花火の開いた様子が見えるようになりました。帰り道では新道あたりが一番よく見えました。パッと開き、少し間をおいてドーン。車にずしんと響きました。
  (2018年8月5日)

 
 

第516回 へり食わんがねかな

 猛暑が続いています。母が眼科へ行くことになっていた先日も朝から気温が急上昇しました。通院日でなかったなら外には出たくなかったですね。それほど暑かった。

 眼科はいつもなら、遅くとも午前10時に予約がとれました。この日は母の都合で予約を変更したこともあって、予約の時間は午前11時。少しでも早く診てもらいたいという思いがあって、10時半頃には病院に到着しました。

 眼科の待合場所はほぼ満席、私は母と離れたところで座らざるをえませんでした。最初はスマートフォンを操作して時間つぶしをしていましたが、そのうちに眠気が強くなってきて、うとうとしました。

 1回目の検査が終わったのは12時近くだったと思います。待合室では、やっと母と並んで座ることができました。そこへ同じ区内に住むハツエさんが診察を終えて嫁さんとともに歩いて来られました。90を超えているというのにじつにしっかりした足取りです。ハツエさんは私の顔を見るなり、「おまん、どっか悪いがか」と尋ねてきました。私は、「なして、ばちゃだわね」と言いました。

 いつもは1回でしたが、この日の検査は2回あり、検査がすべて終了したのは午後1時過ぎでした。そのときです、診察室の前のイスに座って、じっと壁の上部を見つめていた母が「まだ、ヘリ食わんがねかな」と、ぼそっとつぶやいたのは……。

 この言葉を聞いた瞬間、「えっ」と思いました。私も母も眼科にずっといたのですから、お昼を食べる余裕などまったくありません。そうしたなかで、なんでこんなことを聞くのだろう、母は自分が食べたかどうかを判断できなくなってしまったのだろうかと心配になりました。

 親の発する言葉に「えっ」と思ったのは今回が初めてではありませんでした。十数年前に牛舎の脇で夕日を見ていた父が、「おーい、とちゃ、早く来てみろ」と言ったときもそうでした。

 そのとき、父の視線の先ではオレンジ色の大きな太陽が杉林の中に沈もうとしていました。普段、そんなことを言われたことのない私は正直言って戸惑いました。

 昼食を食べたかどうかの確認を求める母の言葉に、私が「まだだよ」と答えると、母は再び口を開き、「腹、へったな」と小さな声で言いました。

 母はその後、私に「今度はほんとの眼医者か」とも聞いてきました。いま待っているのは3回目の検査のためなのか、それとも眼医者さんによる診察のためなのか、わからなくなっていたのでしょう。私が「そうだよ」と言うと、考え込む表情は消えて、母は普通の顔に戻りました。

 母との短い会話が終わってまもなく、診察室の戸が開いて、母の名前が呼ばれ、私も一緒に診察室に入りました。

 この日の担当は若い女医さんでした。母は耳が遠いことを伝えると、母の耳元で、「エツさん、聞こえますかぁ。左上を見てください」「はい、よろしいですよ」といった調子で声をかけてくださり、診察は無事終了しました。診察の結果、右目の瞼のところに「できもの」があることがわかったほかは異常ありませんでした。

 診察、会計などすべてが終わったのは午後1時45分。私は大急ぎで売店に入り、おにぎりとパンを購入しました。車の中で、三角形のおにぎり1個を母に渡すと、母はすぐに手に取り、子どものように黙々と食べ続けました。よほどお腹がすいていたのでしょう。
  (2018年7月29日)

 
 

第515回 じいちゃんと孫

 梅雨が明けたという日、金沢市に住む次男夫婦と孫がやってきました。空は晴れてスカッとしています。近くの林ではリョウブが白い花をきれいに咲かせていました。

 次男夫婦たちがやって来たとき、私は事務所にいました。玄関まで出て、「リョウくん、はい、だっこ」と声をかけたところ、今回はいやがることなく、そばに来てくれました。だっこしたら、ズシリと来ました。会えなかった数か月の間にずいぶん体重が増えたものです。

 部屋の真ん中にあるテーブルのそばに近づくと、リョウくんはすぐに遊び始めました。テーブルの上には観葉植物が置いてあり、それらと一緒に木製のコマやタイヤ風の積木、ブロックなどの玩具がありました。リョウくんは最初、コマに興味を示し、テーブルの上でまわし始めました。たぶん、ふだんからコマ遊びをやっているのでしょう、けっこう上手でした。それを見ていたおじいちゃんが発奮、「どうだ」と言わんばかりに、3つのコマを同時に回してみせました。

 コマ回しの次はダルマ落とし。青、赤、黄、緑の直径三aほどの円筒状の木片の上にダルマを置き、横から槌で木片を瞬時にたたいて落とし、最後はダルマを落とす。大人でも難しい遊びです。リョウくんは何度か挑戦しましたが失敗続きでした。

 ダルマ落としがうまくいかなかったリョウくんは最後にいろんな形をつくれるブロックに手を出しました。周りで見ていた大人たちは、「あっ、車かな」「今度は怪獣だぁ」などと言って応援しました。

 みんなに応援されて、リョウくんはブロック遊びに夢中になっていきます。そして、次々とブロックを積み、形を変えていきました。段々に高くなる形をつくったところで、リョウくんは「どうだ、階段」と言いました。階段という言葉を知っているのも驚きでしたが、「どうだ」と自信たっぷりに言う態度には驚きましたね。

 おもちゃ遊びが一段落したところでリョウ君、今度は動き回って遊び始めました。一番気に入った様子だったのはとび競争です。玄関のところをスタートにして、お母さんがいるところまでの3bほどの距離を走る、ただそれだけのことなのですが、面白いところがあるんでしょうね、ニコニコしながら走り回っていました。

 その様子を見ていた私は応援を全開させました。リョウ君が走り始めたら、小刻みに手を激しくたたきながら、「頑張れ、頑張れ、頑張れ」とやる。そうすると、応援の力がストレートにリョウ君に伝わったようです。リョウ君は全力で走り、何度も繰り返しました。リョウ君は疲れたのではと思うでしょう。とんでもありません。疲れたのは応援するおじいちゃんの方でした。

 前日、リョウくんは直江津のおばあちゃんなどと一緒に上越市の新水族博物館、「うみがたり」へ行ってきました。水槽の中の魚は、こわかったのか、一bほど離れて見ていたそうですが、イルカやペンギンはすっかり気に入ったようです。私が「いるか、いないか」と親父ギャグを発したのに対して、すぐに「いた」という答えを返してきました。妻が「コンニャク、食べる?」と聞いたときも、「食べない」とはっきり言いました。ここ数カ月の間にリョウ君の会話の力はぐんとつきました。

 9年前に他界した父が生前、口癖のように言っていたことの1つは「孫は自分の子どもよりも10倍かわいい」でした。大げさな言葉ではありませんでした。今度は孫と外でとび競争をしてみたいものです。
  (2018年7月22日)

 
 

第514回 トリアシの花

 やはりトシコさんから聞いたとおりでした。キヨミさんが入っている墓のまわりはきれいに掃除されていましたし、すぐそばの土手にはトリアシの白い花がたくさん咲いていたのです。

 トシコさんがキヨミさんとの思い出を語ってくれたのは先日の午後、久しぶりに強い雨が降った時間帯でした。トシコさんとは前にも一度だけ、一緒になったことがあります。でも、そのときはほとんど口を開けることがなかったことから、「無口な人」との印象を私は持っていました。

 雨がそうさせたのでしょうか、この日のトシコさんは違いました。20分くらい、ずっとしゃべりっぱなし。それも、キヨミさんが亡くなった当日のことから、長年2人が頑張り続けてきた森林組合での草刈りのこと、亡くなってからキヨミさんの弟さんが畑仕事や家の周りの片付けなどのために通い続けていることまで克明に語ってくれたのです。私は、話に引き込まれ、好物のキュウリの漬物を出していただいたにもかかわらず、手をつけずじまいでした。

 亡くなったキヨミさんは74歳でした。生まれ育った集落は豪雪地帯でしたが、縁あって、そこに負けないくらい雪がたくさん降る集落に嫁ぎました。とても頑張り屋で、3年前に亡くなったお連れ合いと一緒に田畑の仕事だけでなく、ゼンマイの栽培などにも力を入れていたようです。

 農閑期には森林組合の仕事にも出ました。ちょうど、今頃なんでしょうね、草刈りの仕事にでたのは……。

 トシコさんは、いま振り返ると、頑張り屋だったキヨミさんが、数年前に弱音を吐いたことが忘れられないというのです。それは、浦川原区の宝台寺から上猪子田の山中にある送電線の点検ルートでの草刈りの時でした。「おれはもう頑張れない」。キヨミさんがぽつりと言ったというのです。そのときトシコさんは、「おまん、おれよりも6つも下んがに、なに言うね」と言い返したとのことでしたが、当時から体調がすぐれなかったのかも知れません。

 トシコさんとキヨミさんとの関係は、家同士の付き合いを含めて強いものであったに違いないとは思っていたのですが、トシコさんの墓参りの話を聴いてその思いはいっそう強まりました。

 キヨミさんが亡くなってから2か月。この間、トシコさんは何度も墓参りをしてきたといいます。

 先だってのバカ暑い日には4リットルの水を持って行き、「墓の頭からゴボゴボと飲ましてやった」と言います。残った水は自分も飲んだとのことでした。トシコさんは、いつも花を持参して行くようにしていますが、この日は家に花がなかったのでしょう、トリアシの花を飾ってきたということでした。

 私はトシコさんの話を聴き、一度、お墓を訪ねてみたいと思いました。数日後、私はトシコさんの親戚の人から案内していただき、墓場に行ってきました。

 キヨミさんの家の墓は集落を過ぎ、農道から入った小高い場所にありました。トシコさんが語ってくれたとおり、墓は1反ほどの田んぼの下にあり、そばにはりっぱな杉林がありました。墓のまわりには杉の葉ひとつ落ちていませんでした。

 墓に至る道にはエゾアジサイなど野の花が咲き、白くなったマタタビの葉も見えます。そのなかで一番多く、目立ったのは福を運んでくると言われるトリアシの花でした。トリアシの花を飾ってもらい、キヨミさんもうれしかったに違いありません。
  (2018年7月15日)

 
 

第513回 キュウリグサ

 野の花のことです。私は、ひとたび名前や花の形のことなどで気になったら、どんなことがあろうと、わかるまでじっとしていられないのです。

 先日、上越市安塚区の菱ヶ岳の山腹を通る国道403号線ルートで信越国境を越え、長野県入りしたときもそうでした。

 この日は梅雨時にもかかわらず真夏を思わせるような快晴で、山も空も素晴らしい景色をつくりだしていました。菱ヶ岳のそばには真っ白な雲があって、山頂はそれよりも高い位置に見えます。じつに堂々としていました。

 そして野に咲く花がまた美しかった。私の大好きな野の花のひとつ、コシジシモツケソウはまだ盛りでした。あちこちにピンク色のふわっとした花を咲かせていました。その近くでは、トリアシショウマも白い花を広げていました。一番多くの花を見せてくれたのはエゾアジサイです。青い花をいっぱい咲かせていました。新潟県側はエゾアジサイロード≠ニ言ってもよいくらいの咲きぶりでしたね。

 キューピットバレイスキー場脇を通り過ぎて5分くらい車を走らせたころだったと思います。エゾアジサイのそばにピンク色のヤマアジサイを見つけたのは……。それも、一輪だけ咲いていたのです。その美しさに興奮し、何度もカメラのシャッターを切りました。ピンク色のヤマアジサイと出合ったのは十数年前に尾神岳で出合って以来のことでした。

 再び車を走らせてからまもなく、今度は左方向にヤマアジサイがいくつも咲いている場所を見つけました。これらもピンクでした。車を止め、何枚かの写真を撮りました。足場にしたところは山からの水を含んでいて、岩もごろごろしていました。

 ここで写真を撮っていたとき、私の足元で薄い空色の小さな花を咲かせている草がありました。草丈は20aほどです。沢水が出ているところなので、サワハコベに違いないと勝手に判断、写真だけ撮って、詳しく調べることなく車に乗り込みました。

 翌日の朝、ブログ(日記)を書いてから改めてこの小さな花の写真を見て、ふと思いました。「サワハコベの花は白いはず。花の形もハコベとは違って、ルリソウとそっくりだ。その仲間ではないか」と。

 インターネットや図鑑で調べても結論は出せませんでした。こうなったら、もう一度現地で確認してくるしかない。そう思って行動したのは次の日曜日の午後です。

 菱ヶ岳に行く前に植物に詳しいKさんと会い、私の撮った写真を見てもらいました。Kさんはキュウリグサかも知れないと言われましたが、ヤマルリソウの可能性も否定されませんでした。

 国道403号線を走り、現地に着いたのは午後4時半過ぎです。ヤマアジサイの咲いていた場所を目印に探したので、探すには余り時間がかかりませんでした。

 ルリソウのような花の形をした植物は、思っていた以上に広がっていて、道路にもありました。物差しで測ったら、花の直径は約3ミリ。下方についている葉の大きさは幅1・5a、長さ3aほど。花は穂のようにいくつも付いていました。ヤマルリソウとは明らかに違いました。

 菱ヶ岳からの帰り道、Kさんに再び説明し確認したところ、探し続けた花の名前は間違いなくキュウリグサでした。穂のような花のつき方が決め手になりました。花言葉は、「愛しい人への真実の愛」。薄い空色の花は美しく、私はミクロレンズで撮った写真を毎日のように見ています。 
  (2018年7月8日)

 
 

第512回 広角レンズ

 ほんのひと工夫しただけで撮影がこんなにも楽しくなるとは……。今回はカメラレンズの話です。

 先日、大島区へ行ったときのことです。板山から田麦へ向かうため、県道13号線から昔は通学道路でもあった市道に入ってすぐでした。右手下の県道の端に5、6人の男性の姿が見えました。そのなかの1人が私の知っている人に似ているなと思い、車をそこへと進めました。

 車から降りてみると、全員がカメラを手に持って板山地内を流れる川の上流を見ていました。あとで分かったことですが、川の床が段々になっているところを流れる美しい滝を撮っていたのでした。

 少し経ってから、最も体格いい人が、「橋爪さんですよね」と声をかけてくださいました。「そうです」と返事をすると、今度は細身で背の高い人が私のそばにやってきて名刺をくださいました。びっくりしましたね、写真インストラクターをやっている西ヶ窪の渡邉繁信さんだったのです。

 滝をどう撮るか。「三脚を使ってカメラを固定することが大事なんです」「ガードレールにカメラをくっつけるだけでもいいですよ」私の耳には渡邉さんのアドバイスのいくつかが聞こえてきました。そうこうしているうちに、渡邉さんが私のところまでやってきて、面白いものを見せてくださいました。それはスマートフォンにつけるクリップ方式の広角レンズでした。

 ワンタッチで広角レンズをつけ、渡邉さんが試し撮りしたスマートフォンの画面を見せてもらったら、普通のレンズよりも広く撮れていましたし、画面全体が丸くなっていました。これなら、いままでよりも広く、しかも立体的に撮れます。広角レンズがもたらす威力に驚いた私は、「なるほどね、すごいもんですね」と言いました。

 私が強い関心を持ったことを知った渡邉さんは、「このレンズは百円ショップで求めることができますよ」とも教えてくださいました。広角レンズを簡単にスマートフォンに装着できる、撮った写真はこれまでにない画像となる、レンズの値段はたったの百円。そう思ったら、ワクワクした気持ちになりました。

 次の日曜日、妻を高田まで送った私は、その足で百円ショップに行きました。お店の人に案内してもらい、レンズのコーナーに行くと、クリップ式のレンズが2種類ありました。広角レンズとマクロレンズです。いずれも税込みで108円。私はどちらも購入しました。

 ひとたび購入すれば、レンズの効果を試してみたくなります。

 この日は午後から春日野駐車場で上越市消防点検がありました。私はテント席の最前列でポンプ操法などを見ることができます。早速、入場行進、全員が整列したところ、小型ポンプ操法などを撮ってみました。ここまでは、普通のレンズよりも広く撮れているな、という程度の思いでした。

「おおっ、ここまで撮れるのか」とうれしくなったのは消防事務組合の消防士のみなさんによる化学消防車などが繰り出す大々的な訓練です。駐車場の端から端まで使った訓練ではハシゴ車付近に水がかけられ、ハシゴ車からも放水が行われる、といった光景が目の前に現れました。この様子を私は広角レンズを使い、動画で撮ってみました。今までとは違う迫力が出ていました。

 広角レンズを入手して以来、私は毎日のようにこのレンズで写真を撮りまくっています。みなさんには、おもちゃを買ってもらった子どものように見えるかも。
  (2018年7月1日)

 
 

第511回 9年後の挨拶

 ずっと気になっていたことがあります。父が病院で亡くなったときに、それまでお世話になっていたHさんに最後の挨拶をしないで、そのままになっていたことです。

 Hさんは父のベッドの隣にいた入院患者さんのお連れ合いでした。9年前の4月、父が急性呼吸不全で亡くなったとき、バタバタしていたこともあって、Hさんとはその後、病院などで会うこともなく、そのままになっていました。

 父が亡くなって、かなり経ってから、一度だけ、Hさんの自宅を訪ねようとしたことがありました。病院で聞いていたHさんの自宅は、私の記憶では高校時代に下宿仲間が住んでいた南城町の家の近くでした。ところが、いくら探してもHさん宅らしい家を見つけることができませんでした。

 6月の半ば、知事選後の用事があって、前にHさん宅を探しても見つからなかった住宅街へ行く機会がありました。そこで、ようやく気付いたのです。私の記憶していた場所がまったく違っていたことに……。Hさんは私が探していた場所から五百bほど離れた場所に住んでおられたのです。

 9年ぶりに再会したHさんは、自宅前の庭先で私を待っていてくださいました。杖を頼りに立っておられたものの、以前よりも老けたという印象はありませんでした。

 懐かしい顔を見て、「どうも御無沙汰しちゃって」と声をかけると、「腰痛めたら掃除もできなくてさ。障子張りもトショリしょにお願いしている」という言葉がまず返ってきました。杖を頼りにしている状態が気になっていたのかも知れません。

 こちらからの挨拶が終わらないうちに、Hさんは父が亡くなった前後のことを話してくださいました。

「じいちゃん、わけなく亡くなっちゃったもんね。私、看護婦さんに、このおじいちゃん、でっけ声出して元気いかったのにどうしたのって聞いたら、痰(たん)つまらして亡くなったって」

 やはり、Hさんは心配していてくださった、そのことがわかっただけで胸が熱くなりました。  私の父は10年ほど前に誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)で緊急入院して以来、亡くなるまで1年4か月ほど病院生活をしていました。その3分の2くらいだと思いますが、Hさんのお連れ合いと同じ病室で、しかも隣同士でした。

 Hさんは、入院している夫に会うためにほぼ毎日、病室に姿を見せました。Hさんとは多く話をしたわけではありません。ただ、毎日のように会っているうちに、同じ病室の仲間意識みたいなものが芽生えていたのです。

 私は父が亡くなった当日、病院に着いたときには看護師さんなどが父の心臓マッサージをしていてくださったこと、霊安室から直接自宅へ向かってしまったことなどを語り、挨拶が遅れたことを詫びました。

 Hさんは挨拶の遅れは全く気にせず、「体格もいかったし、元気もいかったんだけどねぇ」と言い、その後、お連れ合いのことについても教えてくださいました。

「あれから、部屋、いくつか替わったんだわ。婦長さん、風呂入りに行ってゆっくりしてこいってわけさ。虫、知らせたんだね。息引きとるときに私、いないの。それが残念でね……」

 Hさんはいま85歳。デイサービスには1週間に2回行っているとのことです。「まあ、暇があって困るんだわね」と言って笑うHさんでしたが、次回はスモモでも持って訪ねたいと思います。
  (2018年6月24日)

 

第510回 笹かんじょ

 梅雨に入り、笹の葉が大きくなってきました。笹の葉はここ越後の地では、餅、笹団子、チマキ、押し寿司などを作るうえで必需品ですので、笹の葉採りがあちこちで見られるようになります。

 母は長年にわたり笹の葉を採り続け、自家用だけでなく、市内北部在住の私の友人などに頼まれた分も採ってきました。採った笹の葉は、三輪自転車のかごに載せて家に運びました。笹の葉を自転車にどっさり載せて、ギーコ、ギーコとペダルをこぐ姿は喜びにあふれていました。

 ただ、90歳を過ぎてからは、さすがに山に入って採ってくるのはきつくなったようです。笹の葉の量はがくんと減りました。そして昨年からは自分で採りに行かなくなりました。その代わり、どうしても必要なときだけ大潟区に住む弟に頼んで採ってきてもらっています。

 先だっての金曜日だったでしょうか、私が高田の事務所から地元に戻った際、母の様子を見るために、いっとき家に立ち寄りました。母はテレビの前に立っていて、束ね終わった笹の葉をコメの30`用紙袋にしまっていました。

 母が束ねた笹の葉はけっこうたくさんありました。笹の葉の束のひとつには、「○○様。1500枚 47枚」と書いた紙を挟んでありました。合計で1547枚の笹の葉を用意できましたよ、というメモです。どうやら、また私の友人に笹を頼まれたようです。

 数日後、私は居間の南側にある廊下で笹かんじょしている母の姿を久しぶりに見ました。母はコタツのそばに敷いてあった長座布団を2つ折りにし、さらにその上に枕(まくら)を置いていました。驚いたのは、その枕の高さまで背中を倒した姿勢で仕事をしていたことです。

 笹かんじょをするとき、母は両足は伸ばし、その上にコメ袋を載せていました。右手で笹の葉を1枚1枚数え、左の手のひらにぱたっ、ぱたっと載せていく、五〇枚ずつの山が2つできると、輪ゴムを取り出し、100枚の束としてまとめる、スピードはゆっくりでしたが、丁寧に数えていることがよくわかりました。

 母の独特の姿勢だと、少し顔を上げれば、廊下の外の様子や庭の景色などがよく見えます。母は言いました。「笹かんじょしてると、鳥が見えるがど。ツバメは巣の場所ねかとパパッと飛んでくるし、しっぽの長い小鳥が柿ん木から下りてくる」と。

 笹かんじょと言えば、先日、まさかと思うことがありました。

 この日も朝早く、玄関には大きなビニール袋に入った笹の葉が届いていました。弟が採ってきてくれたのです。

 ところが、この日の朝、母の体調はすぐれませんでした。最近、私が3週間ほど風邪で苦しんだこともあって、母にうつしたのかと疑ったのですが、手にしびれがあるなど風邪とは別の症状でした。

 医療機関で検査してもらったら、脳梗塞でした。ただ、思っていたよりも母の症状は軽く、ホッとしました。薬は2週間分もらってきましたので、安静にしているようにと母に言い、私は市役所へ行きました。

 市役所では2時間ほど会議に出て、終わり次第、家に戻りました。居間に入って最初に目にしたのは笹の葉の束です。何と、テレビの脇に山になっていたのです。 「おまん、また、笹かんじょしたがか」と母に聞くと、にこにこ笑っています。休むことを知らないのでしょうか、大正生まれのこの人は……。
   (2018年6月17日)

 

第509回 夢の不思議

 たいがいの夢は見てもすぐ忘れてしまいます。ただ、なかには布団の中に入っているうちは憶えているものがあります。それも少し時間がたてば、あっという間に忘れてしまうのですが。

 5月21日の明け方に見た夢もそういうものでした。ただ、このときは、夢が私の記憶から逃げていかないうちに、枕元にあるスマートフォン(多機能携帯電話)を使って記録しました。

 夢の中では、私は吉川区伯母ヶ沢の山に入っていました。柿崎区東横山に隣接する標高100b足らずの山です。

 ここは、これまでに一度だけ入ったことがありました。いまから24年前、春から雨がほとんど降らず大騒ぎになった年の夏のことです。山に掘った大きな井戸が不足している水道水源にならないかと、見に出かけたのでした。確か、町議の仲間や町役場の担当者と一緒でした。

 何故、伯母ヶ沢の山が夢に登場したのかはまったくわかりません。ただ、きっかけとなったかもしれない出来事がこの頃、ひとつありました。

 母を連れて市内の病院に行ったときに、農協に勤めていたSさんの姿を見かけ、同じ日にSさんのお連れ合いとも思わぬところで出会っていました。そのお連れ合いの実家は、夢に出てきた山の近くだったのです。お連れ合いとは、実家のお母さんの最近の様子や地域のことを話したのですが、それで、20数年前の眠っていた記憶が少し蘇ったのかも知れません。

 夢の続きです。山では、道具で土を掘ったわけでもないのに、私がいたそばの土手に栗の実をいくつか見つけました。少なくとも3個はありました。夢の中では栗の木のことや実について、私が説明をしていました。

 栗の品種や特徴などを語っていたのであればわかるのですが、中身はデタラメなものでした。「ここにある栗は伯母ヶ沢にもともとあったわけではありません。梶のOさんが持ってきて、この地で育ったものなんです」と私が語っていたのです。

 梶のOさんとはしばらく会っていませんが、今年の4月上旬、Oさんの息子さんと大潟区の朝日池総合農場の創業を祝う集いで一緒になっていました。そのとき、「お父さん、元気かね」と言葉を交わしていました。それが夢に影響したのでしょう。

 夢はまだ続きました。夢の中にビニール製の風呂敷が出てきました。栗が数十個も出てくれば、それを入れる物が必要となりますが、ほんの数個なら手に持つだけで十分のはずです。でも、そこは夢なんですね。栗を入れるためのビニール風呂敷が登場したのです。

 風呂敷は先日、埼玉で久しぶりに見かけました。親戚の法事の際、お斎の場となったお店の販売コーナーで、お寿司を包むものとして使われていたのを見たのです。そこにあったのは、昔、愛用した唐草模様のものとか、緑っぽい無地のものとかではなく、もっと賑やかなものでした。三つ葉の緑と赤いイチゴがいくつも描かれたものとか、川の流れをイメージした水色と薄い緑のものなど素敵な模様の風呂敷でした。

 夢に出てくるなら、このときのきれいな風呂敷を見せてほしかったのですが、残念ながら無地のビニール製でした。

 夢を記録したことで分かったことがあります。夢は体験した事実を基にしながら、まったく関係のないこととも結びついて、勝手にありもしない話を創作するということです。うーん、不思議な世界です。
 (2018年6月10日)

 
 

第508回 グーとグー

 急に叔父の顔を見たくなって、叔父が入所しているグループホームへ行ってきました。前回、訪ねたのは2月でしたので、3カ月ぶりです。

 ちょうど、朝ご飯を食べ終わったばかりの時間帯でした。部屋から出てきた叔父は、談話室にいた私の顔を見ると、小さな声で「おーっ」と言い、にこやかな表情になりました。

「顔、見いきたがどね……。顔色、けっこういいねかね」。私にそう言われてうれしかったのでしょうか、叔父はますますいい顔になりました。

 この様子を見ていた厨房内の職員さんは、すかさず、「タナカさん、グー?」と叔父に声をかけます。それに応えて、叔父は「グー」と言いました。おそらく、叔父とこの職員さんとで、「タナカさん、グー?」「グー」といった言葉の交換を普段からやっているのだと思います。

 それから、私はスマートフォンに入っている写真を叔父に見てもらいました。  まずは私の母の写真です。先日、直江津の三八市でチマキを買ってきて、母にプレゼントしたときのものを見てもらいました。写真では、母が右手でチマキを持ち、細い目をさらに細くしていました。

 叔父は「若いねー」とほめてくれました。私はすぐに、「94だでね、おらちのばちゃ」と言いました。写真では、年齢よりも少し若く見えたのかも知れません。ありがたいことです。

 次は野の花の写真です。わが家の近くで撮ったヤマボウシの白い花、緑の葉の上にひらひらした感じで咲いています。そしてもう1枚、その日の朝、撮ったばかりの野ばらも見てもらいました。

 野の花を見てもらえば喜んでもらえるというのは、私の勝手な判断です。いま、どんな花が咲いているかを見てもらうのが季節感を味わってもらうには一番だと思ったのです。叔父は「便利なもんだなぁ」といった感じで見てくれました。

 談話室ではテレビで国会中継がはじまっていました。叔父はかつて政治にかかわったことがあります。いまはどうなんだろうという思いで、「国会中継、見るかね」と尋ねると、すぐに「見ね」という言葉が返ってきました。「相撲は見たかね」と質問を変えると、これにも「見ね」という答えでした。そう言えば、私の父も、大好きだった大相撲中継や水戸黄門の番組をある時期から全く見なくなりましたね。

 今回もコーヒーをいただきながら、話を続けました。テレビを見ないとなれば、退屈に違いない、そう思った私は、叔父にずばり聞いてみました。
「退屈でねかね」
 すると、叔父はすぐに答えました。
「おかげさんで、家にいりゃ、一人だでも、ここにいりゃ、仲間いるすけね。まんまもしてもらえるし……」

 この言葉を聞いて、叔父は思っていた以上に元気で、しっかりしているなと私は思いました。ホッとしました。

 この日、談話室には30分ほどおじゃましました。次の予定があったので、席を立つと、職員さんも叔父もみんなで玄関先まで見送りしてくださいました。

 私と一緒に帰りたいと言い出すかも知れないと心配されたのでしょうか、叔父に、「帰らんねがだよ、タナカさん、ここにいるんだよ」と声をかけた職員さんがおられました。そしてまた、例の厨房の職員さんから、「タナカさん、グー」という声が……。叔父は「グー」と言ってニコニコ顔になりました。
  (2018年6月3日)

 

第507回 真夜中の訪問客

 月曜日の朝のことです。玄関を開け、外に出て車に乗ろうとしたとき、すぐ私の目に入ったのは動物の足跡でした。それも、握りこぶしよりも少し小さめな足跡ですから、けっこう大きな動物です。

 よく見ると、庭にある百日紅の木の下あたりから金木犀の木のそばを通って、玄関の近くまでやってきたようです。途中の土が何ヶ所かほじくられていました。というよりも、重い体重の動物が歩いたことで跡がついたと言った方が正確なのかも知れません。

 動物が歩いたコースはわが家の庭でも、土が比較的軟らかいところです。めくれた黒っぽい土、その土の色の鮮度からみて、明らかに夜中に動いた跡だと思います。深くえぐられた穴の大きさは直径6、7aで、穴の形から判断すると、カモシカの足跡であることはほぼ間違いありません。となると、カモシカが夜中にわが家の玄関のところまでやってきて帰っていったということになります。

 しばらくして、私の地元事務所まで車に乗って行くと、そこでも同じ足跡がありました。大きさもほぼ同じです。カモシカはわが家に来ただけでなく、私の事務所にもやってきたのです。

 実際は、カモシカがたまたま、わが家や事務所にやってきただけのことなのかも知れませんが、そうでないとしたら……。ひょっとすると、カモシカは用があって私を訪ねてきたのではないか。そんな気がしてきました。

 家と事務所に残された足跡は、いろんな想像を掻き立ててくれます。

 500bも離れた建物を行き来したとなると、カモシカの家族に切ない事件があったのではないか。例えば、カモシカの子どもの姿が見えなくなったから、一緒にさがしてくれないか、そういった緊急事態があったのかもしれない。緊急事態というなら、子どもが病気になっていることも考えられます。橋爪さんなら、長年、牛を飼っていた。獣医さんを知っているんではないか。そう思って、訪ねたのかもなどと考えてしまいます。

 ここ数年の間に私は3回、カモシカと出合っています。

 1回目は吉川区と大島区の境とでもいうべき場所です。上川谷から板山に抜けようとしたときでした。私の車の斜め前にカモシカを見つけたので、カメラを持って車を降りようとしました。カメラが何かの武器のように見えたのでしょうか、カモシカは私の姿を見た瞬間、カヤをなぎ倒して、急な土手を下っていきました。

 2回目は、私の地元事務所のすぐそばの杉林でした。このときは、私と目が合ったのですが、私をじっと見ていて、逃げることはしませんでした。おかげで、このとき、初めてカモシカを写真に収めることができました。

 3回目は今年です。ひと月くらい前のことでした。市役所へ行く途中、ちょうど、小苗代の平和橋のたもと付近まで車を進めたとき、何か大きな動物が道をぴょんぴょんと横切り、竹林の中へと消えていきました。以前に見たことのあるカモシカに比べ、細く見えたので、最初は何だろうと思ったのですが、顔がちらっと見えたとき、カモシカであると確信しました。

 今年は私が住んでいる集落や私の事務所周辺でカモシカを見たという人が相次いでいます。このカモシカは、たぶん、私がひと月ほど前に見たカモシカと、そして、夜中にわが家にやってきたカモシカとも同じでしょう。  今夜もそうですが、私は事務所で原稿を書き、夜遅く家に帰ることが少なくありません。夜中にわが家にやってきたカモシカと夜中に出合う日はまもなくでしょう。そのとき、どんなドラマがおきるのでしょうか。
  (2018年5月27日)

 
 

第506回 母へのメッセージ

 母にプレゼントを買わなきゃ、と思ったのは日曜日の夕方でした。毎年のように花ばかり贈っていたので、今年はスイーツをと決めていました。

 買ったのは320円のものと200円ほどのスイーツ2個。どちらも見ただけで甘くておいしいことのわかるスイーツでした。車の助手席に置いて、家に着くまでに形が崩れないようにと気を遣いました。

 居間で電動イスに座っていた母は、私がスイーツをコタツの上のテーブルに出すと、「まあ、うんまそうだない」と言って喜びました。

 母がそう言ったのを耳にしてすぐに、家族の一人が、「ツトムおじさんも、去年と同じくゼリーをばあちゃんにって、送ってくれたんだよ」と言いました。座敷の隅には果物のミックスゼリーが何とふた箱もありました。

 3時間ほど事務所で仕事をしてから家に戻り、コタツのいつもの席に座ったとき、ふたたび驚きました。お菓子入れの中に、大きな袋入りの見たことのない食べ物があったからです。よく見ると、このお菓子は善光寺平特産の杏(あんず)で作った「ゆきげ杏」というものでした。こちらは、隣の大潟区に住んでいる、もう一人の弟からの贈り物だったのです。

 こうして3人の子どもから母に贈られたプレゼントは、中身こそ違ったものの、すべてお菓子類となりました。偶然とはいえ、同じことをそれぞれが考えていたかと思うと、おかしくなりました。いくら甘いものが好きだとはいえ、母はこれだけのものは食べられないでしょう。

 3人のうち一番遠くにいるのは、私のすぐ下の弟、ツトムです。愛知県に住んでいます。この弟が、大量のミックスゼリーが入った箱にメッセージを添えていました。縦横それぞれ20aほどの大きさの白い紙です。

 白い紙には、「母ちゃん 母の日おめでとう! いつまでも元気でいてネ! ※近日帰ります。ツトムより」と書いてありました。字を見て気づいたのですが、この弟の文字は9年前に他界した父の文字に似ていました。

 このメッセージを見たとき、母に弟の声を聞かせてやろうと思いました。「ばちゃ、ツトムと話し、しんかね」と尋ねると、「うん」と言います。私はスマホを操作し、呼び出し音がしている時に、母の耳元にスマホを持っていきました。

 母の耳元では、「もしもし……」という弟の声がし、私のところにも聞こえてきました。

 ツトムかぁ。きょうはもうしゃけねかったねー。うんめかったよ。ありがとねー。イサムも取りに来たよ。

 母は一気にしゃべりました。これに応えて弟が「近いうちに帰るすけね」とでも言ったのでしょう。母は、「うん、道中、気つけて来てくんない。待ってるすけねー」と言いました。

 母と弟が言葉を交わしたのは1分足らず、でも、言葉を交わしている母の表情はとてもうれしそうでした。電動イスに座り、斜め上の天井を見つめながら、はるか遠いところにいる人に呼びかけるような調子で、声をかけていました。また、弟からの言葉は、ひと言ひと言、かみしめるように聞いていました。

 弟のメッセージで思いついた母と弟との電話。遠くを見つめる姿勢でうれしそうな表情を浮かべる母を見て、親子4人がそろう日を早く実現させたいと思いました。
 (2018年5月20日)

 
 

第505回 水が張られただけで

 5月の日曜日の朝のことです。

 少しだけ風が吹き、わが家のそばの木の葉を揺らしていました。軽乗用車に乗って事務所まで行くとき、目に入ったのは田んぼです。きれいだなぁ、と思いました。田んぼのほとんどが代になっていて、周りの景色を見事に映し出していたのです。

 事務所に着いてから、カメラを手に持って、近くの田んぼの周辺を歩くことにしました。水が張られた田んぼの様々な風景を撮りたかったからです。

 事務所から100bほどのところにある田んぼのそばで、まず足を止めました。田んぼは前日に代かきしたばかりなのでしょうね、まだ濁っていました。それでも、よく見ると、水面に杉とミズナラの木が映っていました。

 水面から木の方へと目を移したら、風が見えました。正確に言うと、ミズナラの木の下の方の葉が東側から吹いてくる風で揺らされていました。ゆっくり揺れている葉、せわしく揺れる葉など風の当たり具合によって葉の動きが違っていて面白い。私は、しばらく見入りました。

 道をさらに100bほど進むと、用排水路と水門があります。その水門の隙間から水がこぼれ落ちていました。じょじょじょじょ……。その落ちる音がまた心地よく私の体に響いてきました。

 水門のそばにある田んぼは私と同年代のYさんの耕作田です。近くの畔にはハルジオンが5、6本、ピンク色の花を咲かせていました。静かです。音こそ聞こえてきませんが、田んぼの向こうの畔を見たら、カラスが1羽、盛んに土をつついています。何か虫でもいたのでしょうか。

 このカラスを見ていたときに、白いトラックがスピードを緩め、私のそばで止まりました。Hさんでした。朝仕事をして家に戻る途中だったのだろうと思います。久しぶりに会ったこともあって、田んぼのことや仕事のことなどで話が弾みました。

 Hさんが語った話の中で、印象に残ったのは夢の話です。夢の中で、カレーライスを食べている時に、すでに亡くなっているはずの柿崎の岩手の伯母さんが出てきて、桃を持ってきてくれたというのです。話をするHさんはうれしそうでした。私は、「きっと何かいいことがあるんじゃないの」と言いました。

 10数分後、Hさんと別れてから、私は水門の北西方向にある田んぼに目をやりました。ここでは、田んぼの表面に細かな波が丸い曲線を描きながら広がっている様子が見えました。これも東側から吹く風によるものです。それも強い風ではなく、水面をやさしくなでるような感じの風です。ここの水面もまた、きれいでした。

 波が小刻みに広がっている田んぼの隣の田んぼへ行ってみました。しばらくすると風は止み、水面は完全に鏡になりました。ミズナラ、ヤマボウシ、ケヤキなどの木々の幹の色も葉の緑も映し出されています。目立ったのは藤の花、水面の紫色の花が実物と同じくらい美しく見えました。

 田んぼを観察している最中、近くの雑木林からは小鳥たちの澄んだ鳴き声が聞こえてきます。

 この日は立夏を迎えたばかりです。田んぼの畦に立っていた私を太陽が照らし続け、背中が次第に暖かくなるのを感じました。そして、首の付け根もまた暖かくなりました。再び田んぼに目を向けると、1羽のカラスが降りて、すぐに飛び立ちました。その瞬間、田んぼの中で木々の緑が揺れました。
  (2018年5月13日)

 
 

第504回 母の出番

 「はあーどっこいしょ」。長座布団を南側の廊下に引っ張ってきた母は、気合を入れて座りました。5月の上旬、ある晴れた日の夕方のことです。

 この日の朝、わが家では近くのKさんから筍(たけのこ)をもらっていました。母の頭の中にはその筍が玄関に置いてあることが入っていて、コタツで寝ころんでいても気にしていたようです。 「とちゃ、玄関から筍持ってきてくれ」と言うと、母はコタツから抜け出し、まず台所から包丁を持ってきました。続いて、コタツのそばにある長座布団のひとつを廊下に引き寄せたのです。

 ビニール袋に入った筍は大小5本、ずしりとした重さがありました。筍は母が作業をする廊下まで私が運びました。「はい、持って来たよ」と言うと、母は身を乗り出し、袋から筍をすべて取り出しました。

 そのうち一番大きい1本をぐいっと引いた母は、包丁で手前から先の方へと筍の皮に切れ目を入れました。かなり力がいるようで、ぐっ、ぐっ、ぐっと包丁を押していきます。まさに筍をさばくという感じ。母は切れ具合を確かめた後、再び包丁で切れ目をより深くしました。

 最初の1本に切れ目を入れ終わった時点で、「おまん、何本かまうが」と母に尋ねました。もらった5本、すべてを処理するとなると、たいへんな作業となると思ったからです。すると、母は私が生の筍をほしいと思ったらしく、「おまん、1本ほしい?」と聞いてきました。「別にいらんけどさ」と答えると、「ほしゃ、みんな皮むいちゃうかな。こしゃっちゃう」そう言って、作業を続けました。

 筍の皮に切れ目を入れたあとの作業は皮むきです。母は包丁を脇に置き、両手で皮をむきはじめました。ぱりっ、ばりっという音がすると同時に、薄甘い、生の香りがぷーんと漂いました。

 自分の股に筍をはさみ、先っぽから徐々に根元の方へと皮をむいていく母。むきはじめると、すぐに白っぽい筍の実そのものが出てきます。ほぼむき終わった段階で、母は先っぽから15aほどのところを指し、「こっから刺身だな」と言い、すぱっと切り落としました。

 転がった部分は筍の中でも最も柔らかく、美味しい部分です。「茹でて、ワサビを入んた醤油をつけて食えや、うんめこて」母はそう言って片付けました。続いて、根に近い方からの輪切りです。左手で少しずつタケノコを回しながら切る母の姿を見て、年季が入っていると思いました。

 筍1本の皮むきの所要時間は約10分。むき終わったちょうどそのとき、防災無線から、「春の小川はさらさらゆくよ」と曲が流れてきました。午後5時です。廊下の外ではカエルたちも鳴いていました。

 1本目の皮むきが終わってから、私は少し散歩に出かけてきました。家を離れたのは50分間くらいだったでしょうか。戻ってみると、廊下には皮むきが終わった白い筍が転がっていました。それを見て私が「うわー」という声をあげると、母は「うんまげだねかな。食ってみない」と言って、小さく切った筍の先っぽを私に渡しました。それを口に入れた瞬間、びっくりしましたね。とても柔らかく、お菓子のような甘さがあったからです。

 筍をもらった日、じつは母の体調は芳しくありませんでした。でも、筍を見ただけで母の気持ちにスイッチが入りました。筍料理は自分の出番、まかせておきなさいと。筍には母を動かす力がありました。
  (2018年5月6日)

 
 

第503回 じちゃのカギ

 「ありゃ、じちゃの自動車のカギでねかな」。電動イスに座っていた母が急にそう言ったんですが、最初は何のことかわかりませんでした。

 先日の夜のことでした。母を見ると、母はテレビの上の方にある長押(なげし)を見上げていました。そこは普段、よく見たことがありませんでした。近くまで行くと、確かにカギがありました。

 父が亡くなってから、すでに9年が経過しています。こんなところに父の車のカギが置いてあるとは……。初めて知った私は、なんとも言えない感動を覚えました。

 長押にかけられていたカギは2つです。

 そのうちのひとつはダンプカーのカギでした。ダンプそのものは牛飼いをやめる前の段階で廃車処分しましたので、おそらく予備の合いカギだったのでしょう。

 もうひとつは父が乗っていた軽乗用車のカギです。カギと一緒にしてあった小さな赤いマスコットで父の車のカギであることを確認できました。このカギを見ていたら、父の車をめぐるいくつかの出来事を思い出しました。

 父は70代の後半に入って、何回か自動車事故をおこしました。そのうち、相手のある事故としては、たぶん最後だった事故のことを鮮明に憶えています。

 場所は柿崎区上下浜地内の国道でした。「とちゃ、事故おこしちゃっと」。父は、いかにも申し訳なさそうな声で私に連絡してきました。前方不注意で他人の車にぶつけ、自分の車も傷めた事故でした。人身事故にならなかったのが不幸中の幸いでしたが、私としては、父が弱弱しく見えたのがショックでした。

 この事故の前にも、父がカーブで車道の右側を走るところを見ていましたので、私は、「父はもう、車の運転をやめた方がいいかも」と思うようになりました。

 私が父の運転免許証を預かったのは、それから間もなくでした。車をスタートさせるとき、ペダルを踏み込み過ぎて急発進させるようになったのです。「この調子でハンドルを握っていると、いつか人を傷つけてしまうに違いない」そう思った私は、父の免許証を牛舎のある場所にしまいました。もちろん、父に断った上で。

 長押にあった父の車のカギを私がしみじみと見ていると、車とは全く関係のないことを母が話し始めました。

  「昔は青い豆、一斗ぐれぇ、精米所に持って行って、黄な粉にしてもらったもんだ。そうしると、精米所んしょ、全部、黄な粉にしなるがかね、と聞いてきなった。おらちは黄な粉、いっぺ食ったすけな。ノリカズの弁当もツトムの弁当もまんまの上に黄な粉かけて、端っこに大根やナスの味噌漬け、ふたっきれのせておいた。そうしると、喜んでたな……」

 何で急に青い豆のことや弁当のことをしゃべったのかはわかりません。ただ、この母のしゃべりで、源小学校水源分校時代に、母が作ってくれた弁当のことを思い出しました。

 正直言って、当時の私は子を思う母の気持ちを理解できず、弁当のおかずは同じクラスの人たちが持参したものよりも劣っていると思っていました。ですから、弁当を食べるときには、おかずの入っている部分を弁当のフタで隠して食べたものです。

 この日は父の車のカギを10数年ぶりに見たお陰で、忘れていた昔のことをいくつも思い出すことができました。忘れられていた父の小さなカギ、これは記憶の扉を開けるカギでもあったのです。
 (2018年4月29日)


 
 

第502回 足を鍛えて

 冬の間、柏崎市内の老健施設でお世話になっていた義母が自宅生活に戻りました。といっても、しばらくは義姉夫婦の住んでいるアパート暮らしですが……。

 先日、信越線安田駅の近くにあるアパートを訪ねてきました。「ごめんくださーい」と声をかけて、義母の部屋に入っていくと、義母は部屋の入り口付近で、座イスに座っていました。ほんの2、3か月会っていないだけなのに、義母の頬はだいぶやせ、なんとなく老けて見えました。

 何でこんなふうに見えるのだろうと考えたとき、最初に目に入ったのは髪です。義母は髪を短くカットしてもらったばかりだったのです。義母によると、ステッキカーにつかまりながらも一人でN子美容室まで歩き、カットしてもらってきたとのことでした。

 アパートから美容室までは300b弱です。足腰が弱りつつある93歳の義母が、自力でこんなにも歩くとはびっくりでした。それも交通量の多い国道252号線を横断したのです。よく渡ったものだと思いました。

 美容室にとって義母は昔からのなじみの客だったのでしょうか、義母はお金も持たずに行き、髪をショートカットしてもらい、頭を洗ってもらったそうです。代金2700円は義姉から持っていってもらったようです。

 義母とは老健施設で会って以来の再会でした。「施設での暮らしはどうだったね」と訊こうと思っていたら、こちらの気持ちが通じたのか、義母から語り始めました。「施設はご飯がいいね。それにおやつが楽しみだ。ただ、決まりが細かすぎるのがどうかと思うけど…」そう言って、施設内で「歩きまわる」などの運動が自分の考えているようにはできなかったことを教えてくれました。

 運動が思うようにいかなかった分を取り戻そうと、アパートに行ってからの義母はとても頑張っています。

 ステッキカーにつかまっての散歩は1日に4回もやっているといいます。アパートからすぐ近くの安田駅まで行き、郵便ポストをぐるっと回って帰ってくるだけですから、距離的にはそうたいしたことはないのですが、それでも1回当たり、1700歩前後も歩くそうです。

 それに、部屋に置いてある健康器具の「ペダルこぎ」もやっています。私たちが訪問したときも、話の途中からペダルこぎを始めました。たいがい1回当たり15分ほどぐるぐると回します。これを1日に数回やっているとのことでした。

 この日は義母が長年住んでいた自分の家で、「しだれ桜を楽しむ会」が計画されていました。お昼前に義母の家へと車を走らせました。義母が私の車から降りるときの体の動き、自宅前の坂道を歩く時の姿勢は、まだまだ達者という感じでしたね。

 お目当てのしだれ桜は、義兄の長女が生まれた翌年に植えた木です。空は薄青く、薄い雲が流れている。近くの田んぼではトラクターの音が賑やかで、カエルもそれに負けじと鳴いている。そんななか、樹齢約40年のしだれ桜はちょうど満開でした。

 会では、義兄夫婦などが用意してくれたコゴミの胡麻和え、シイタケの煮つけ、寿司などを食べながら、話がはずみました。「桜のそばにあるモミジ、ビールを飲んだわけではないのにずっと赤くなっている」「近くの道を走るカモシカ姉さんのランニングコースがわかった」など楽しい話ばかりでした。

 義母は義姉やその連れ合いなどとともに食べ、「きょうは、なんたら腹すくのい」と言っていました。3人の子どもがそろっただけで食が進むのでしょう。それと、「ペダルこぎ」が良かったのかも。いいやんべです。 
  (2018年4月22日)

 


第501回 コシノコバイモ

 ここ二週間ほど、探し続けている野の花があります。その名はコシノコバイモ。ユリ科の多年草で、4月から5月にかけて白っぽい花を咲かせます。

 私が初めてコシノコバイモに出合ったのは、10年ほど前です。わが家から直線で1キロほど離れた里山の斜面で偶然見つけたのです。ちょうどキクザキイチゲが花時を迎えていた頃でした。下向きに咲いている花は、何となくさびしそうで、それでいながら美しい。私は一目惚れしてしまいました。

 野の花の美しさにふれると、面白いもので、「もう一度あいたい」と思うようになります。コシノコバイモも例外ではありませんでした。私は翌年も同じ場所へ行きました。もちろん、見つけたときと同じ時期を選び、最初に出合った場所の周辺を探しました。しかし、その年も、さらにその翌年も見つけることができませんでした。

 コシノコバイモと再び出合ったのはそれから数年後です。2度目の出合いは思わぬ形で実現しました。吉川区山方のYさん宅を訪ねたときでした。玄関ドアの外の植木鉢を見た時、私は目を疑いました。縦15a、横20aほどの小さな鉢の中に、十数本のコシノコバイモが整然と並び、見事な花を咲かせていたのです。葉も花も全体の雰囲気も、私が初めて見たものとまったく同じでした。

 そこの家の人に聞くと、近くの里山で見つけたコシノコバイモの種をまいて、育てたということでした。インターネットで調べた時に、私は、コシノコバイモという野の花は数が極めて少なくなってきているということを確認していました。それだけに、種の段階から栽培してふやせることを知り、跳びはねたくなる思いでした。

 Yさんのお宅で再び出合い、私の気持ちにも区切りがついたのでしょう。その後、わざわざ里山に入ってコシノコバイモを探すことはなくなりました。また、山に入って野の花の写真を撮ったり、山菜採りをしても、コシノコバイモと再び出合うことはありませんでした。

 それが先日、安塚区のAさんに会ったことを契機に、無性にコシノコバイモにあいたくなりました。Aさんは、今年、近くの山でコシノコバイモを見たと教えてくださったのです。「山でコシノコバイモを見た」、その言葉は、自然の中で「もう一度あいたい」という私の思いを再び呼び戻しました。

 まず出かけたのは吉川区のYさんが種を取ったと思われる里山です。約1時間、山の中を歩き回りました。目指すは、カタクリとキクザキイチゲの群生地です。山のどこへ行ってもショウジョウバカマがいっぱいありました。ときどきトキワイカリソウ、スミレ、オオイワカガミの咲き始めたばかりのものと出合ったものの、カタクリなどの群生地はなく、コシノコバイモらしい花の姿はどこにもありませんでした。

 数日後、今度は安塚区にある山に登ってみました。こちらも1時間ほど歩きまわったでしょうか。吉川で登った山と違い、カタクリやキクザキイチゲの群生地が何か所もありました。チョウが舞い、ショウジョウバカマ、ミチノクエンゴサク、スミレなどたくさんの野の花と出合いました。それはそれで大いに楽しむことができたのですが、ここでもコシノコバイモの花を見つけることができませんでした。

 コシノコバイモの花言葉は、「母の優しさ」。見つけることが困難であればあるほど花への思いは募ります。今年は花が早く、ここ1週間ほどが最後のチャンスかも。10年ほど前に初めて出合った場所へもう一度出かけてみようと思います。今度こそあいたい。
  (2018年4月15日)

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