春よ来い(20)
 

第483回 アリコ

 犬の「アリコ」が上越市のE子さん宅にやってきたのは1年前でした。早いもんですね、時の流れは。

 私が初めて「アリコ」の姿を見たのは、ビラ配布でE子さん宅を訪ねた時です。昨年12月か今年の1月だったと思います。

 率直に言って、初めてこの犬と出合った時、緊張しました。「アリコ」のせいではありません。私は、子どもの頃に左足の付け根をガブリとやられて以来、犬はずっと苦手だったのです。

 でも、「アリコ」は、どういうわけか、最初から人懐こく、犬に警戒心を持っていた私にも甘えてきました。いま考えると、それだけさみしかったのだと思います。

 じつは、「アリコ」は昨年4月、熊本地震で被災した犬でした。昨年の12月の半ば、テレビで被災した犬たちのことを知り、E子さん宅では、家族みんなで長岡市の動物愛護センターまで行き、「アリコ」を譲り受けてきたのです。

 先日、久しぶりにE子さん宅へ行ったとき、「アリコ」は玄関まで出迎えてくれました。すっかりE子さん宅の一員になったようです。とても落ち着いていました。ただ、地震から1年半以上経った今も、ガタンと音がしただけでおびえるといいます。

 玄関まで来てくれた「アリコ」は私を居間まで「案内」してくれました。私がコタツに入っても、ひざに座ろうとしたり、私に自分の体をくっつけてきたりしました。人間がとても好きなんでしょうね。

 この日、私はE子さん宅でお茶をご馳走になるなかで、これまで知らなかったことをいくつか教えてもらいました。

 そのひとつは「アリコ」という名前のことです。私はE子さんたちがつけた名前だと思っていたら、そうではないというのです。九州にいたときからつけられていたようで、長岡で初めて出合ったときに名前を教えてもらい、「アリコ」と呼ぶとすぐに振り向いたそうです。E子さんは、「たぶん、有明海の名前からとったんではないか」と言っていました。

 もうひとつ、E子さんたちが旧吉川町に住んでいた当時、犬を飼っていたことがあったということも初めて知りました。

 犬の名前は「ブチ」。吉川区川袋のU子さんのところからもらってきたとのことでした。「ブチ」もとてもいい犬だったそうです。家族みんながかわいがり、育てたといいますが、とくにE子さんのお連れ合いのYさんが大事にしました。散歩をする。仕事に行く。始終、車の荷台に乗せる。何をするにも一緒だったようです。

 それだけに、Yさんが大けがで入院して離れ離れになると、「ブチ」は大きなショックを受けました。いつも一緒だった人の姿が見えなくなった。そういうことは人間だけでなく、犬にも影響を与えるんですね。

 「ブチ」は、Yさんが大けがをした翌年の2月2日、死亡してしまいました。E子さんがお連れ合いの入院先から戻ったとき、「ブチ」の体はすでに冷たく、硬くなっていたということです。「ブチ」の遺影は今、長期にわたる入院後亡くなったYさんの遺影とともに仏壇に飾られています。

 23年ぶりに犬を迎えたE子さんは、「アリコはブチの生まれかわり」だと言い、毎日仲良く暮らしています。先日は一緒に散歩をしていて、オオイヌノフグリの紫色の花を見つけたとか。

 E子さん宅からの帰り際、「アリコ」は再び私のそばにきました。私は、「アリコ」の頭を何度も何度もなでました。
  (2017年12月10日)
 
 
 

第482回 七曲がり

 11月上旬、川谷地区で行われた「川谷もより大交流会」で懐かしい言葉を耳にしました。それは「七曲がり」。「七曲がり」と呼ぶところが川谷地区にもあったと聞いて、私はうれしくなりました。

 じつは、私が長年住んでいた尾神にも「七曲がり」があったのです。それは尾神の「ガマビロ」(地名)から標高200bほどの「ナナトリ」(地名)を越えて石谷へとつながる道の一部でした。まっすぐ山を登るには急すぎるので、くの字や逆くの字型に道をつくり、高いところへ行ったり来たりできるようにしてありました。

 いまから50年ほど前、わが家の畑は「ガマビロ」、「ヨシワラ」(地名)、そそして「ナナトリ」にありました。キュウリやナス、ネギ、スイカ、メロンなどほとんどの野菜は「ヨシワラ」で、「ガマビロ」では大根、白菜などをつくっていたように記憶しています。わが家から1q以上離れている「ナナトリ」の畑ではジャガイモなどの野菜を作っていました。

「七曲がり」は、畑に持っていく道具や肥料を背負って登ることもあれば、収穫したジャガイモなどを背負って下ることもありました。私はいまでも覚えています。ジャガイモを背負いかごに入れて、運んだときのたいそだったことを。これは子どもにはきびしい仕事だったと思います。でも、当時は田んぼも畑も親子みんなでやらないと食べていけない時代でした。

 野菜づくりのときだけでなく、春の山菜採りでも「七曲がり」を歩きました。「ナナトリ」周辺はウドやゼンマイ、ワラビ、トリアシなど山菜の宝庫だったのです。そして秋、ミヤマツ、アケビ採りや山芋掘りなどで「七曲がり」を通りました。

 先日、尾神へ行った際、「チョウチ」(地名)から「七曲がり」を見る機会に恵まれました。 「チョウチ」でギンナン拾いをしていた大西(屋号)のお母さんと子ども時代の話などをした後、車に乗りもうとしたとき、目の前に、屏風のように連なっている尾神の山々が見えました。

 この尾神の山々の風景の中に「七曲がり」がハッキリと見えたのです。いきなり降った初雪が解け始めたことによって、七曲がりの道筋がよくわかるようになっていました。こういう機会は雪の降り始めと雪解けが進む春先くらいしかありません。私は、「よしっ、チャンスだ」そう思って、「七曲がり」にカメラを向けました。

 この日、「七曲がり」の写真を撮り、インターネットで発信したところ、浦川原区の上猪子田に住んでいた人や安塚区の菅沼に住んでいる人から、「私のところでも七曲がりがありました」というコメントを寄せていただきました。「七曲がり」と呼ぶところが次から次へと出てくるとはまったく予想外でした。

「七曲がり」と呼ぶ道がいつごろからつくられたのかは定かではありません。ただ少なくとも、食糧難の時代には、不便な山の上であっても田や畑を作る必要がありました。そこへ至るルートを確保するために七曲がりの道もつくらなければなりませんでした。おそらく、山間部には私の知らないたくさんの「七曲がり」があり、それぞれドラマがあったのだろうと思います。

 川谷の交流会では、上川谷出身の人が下川谷と上川谷間にあった冬の「七曲がり」を語ってくださいました。豪雪の中、よくカンジキで道をつけ、子どもたちを通学させたと思います。もっとたくさんの「七曲がり」のドラマを聴きたくなりました。
  (2017年12月3日)

 

第481回 涙が止まらない

 今年の東京吉川会総会は、25回目という区切りの総会でした。上野の東天紅で行われた設立総会当時と比べると、高齢化が進み、参加者はがくんと減ってきていますが、故郷を思う心はいまも熱いままです。

 私は総会の前日まで市議会の研修視察で九州方面に出かけていて、疲れがピークに達していました。総会では、まともに目が開けていられなくなるのではと心配しました。しかし、まったくの杞憂でした。

 会場に入ってすぐに、顔なじみの人たちが次々と声をかけてくださり、それだけで眠気が吹き飛んだのです。

 村屋出身のフミエイさんは、わざわざ私のテーブルまで来て下さって、「今回が最後の参加になるかもと思って……」と挨拶してくださいました。高齢で、体力に自信をなくされたのでしょうね。長年、ずっと参加してくださった方でした。

 私がいま住んでいる代石(たいし)出身のヒサコさんからは、「姉が一人暮らしになってしまって……。よろしくお願いします」と言われました。やさしい、思いやりのある妹さんだなと改めて思いました。

 懇親会ではお酒も入ります。美味しい食べ物も出ます。どこのテーブルも同郷の人の動静や最近の出来事などが話題になり、とてもにぎやかになります。

 一つのテーブルに、どこかで見たことがある顔立ちの女性がいました。誰だったろうと気にしながら近づくと、私の肩をつつく人がいました。道之下出身のヒデコさんです。亡くなったお父さんのことが話題になったとき、ハッとしました。「どこかで見たことがある顔」の人の主が誰だかわかったのです。「国際人」とか「マムシのトラさん」などと呼ばれたヒデコさんのお父さんでした。そのお父さんとそっくりの顔の二人のお姉さん、ミドリさんとキミエさんも会に参加されていたのです。「似てなるねぇ」「だって、親子だもん」などといいながら話が盛り上がりました。

 いったん、自分のテーブルに戻って寿司などを口に入れていると、正面舞台の脇でニュース映画のような、動きのある画像がスクリーンに映し出されていました。

 最初は何とはなしに見ていたのですが、東田中の学校らしい建物に続いて、原之町の小浜屋のおばあちゃんや「ちんころ」づくりが映された段階で、「これは吉川のだいぶ前の風景だ」と思いました。

 そして、私の目から涙があふれ出したのは、尾神の人たちや風景などが出てからです。キャンプ場の近くで飼っていた梅花鹿、豆腐づくり、ハングライダーなどが次々と映し出されました。

 ハングライダーの練習場はわが家の牧草地だったところです。そこが出てきましたし、尾神集落の懐かしいお父さん、お母さんたちも出てきました。「オカダ」のお母さん、「イケンシリノシタ」のお父さんとお母さん、それに「ナカヤ」のお父さんにお母さんも……。すでに亡くなった人たちもみんな笑顔で写っていました。もう涙は止まりません。思わぬ上映で、私の心は揺さぶられっぱなしでした。

 会では、ひと月に一度は吉川区米山に戻るというレイコさんとも再会しました。私に母の様子を訊いてこられたので「元気ですよ」と答えると、「良かったですね。お母さんが頑張って生きておられるのはあなたのことが心配だからですよ」と言われ、ぐっときました。

 同郷者の交流は、参加者に生きていく希望と元気を与えてくれます。来年は東京見物ツアーも計画されるとか。楽しみです。
   (2017年11月26日)

 
 
第480回 花嫁行列

 晴れていかったねぇ。11月12日。大島区田麦は祝いの日となりました。昨年、吉川の山間部での研修後、田麦に移り住んできた光則さんと詩歩さんはこの日、地域あげての結婚式をあげたのです。

「昔ながらのやり方で花嫁行列をやるてがすけ、おまん、時間あったら見にこねかね」そう言って私に声をかけてくれたのはヨシコさんです。花嫁行列は午前10時に田麦町内会長のケンジさん宅から出るという案内でした。

 私が到着したときには、すでに前庭にはジュンコさん、トミコさんなど3、40人の人が集まっていました。みんな、いまかいまかと待っています。小さな紙コップに入った祝いの酒やゼンマイの煮しめなどが入ったパックがふるまわれていました。

 私は竹平町内会長のマサユキさんから「さあさ、入って。花嫁の顔見ていってくんない」と誘われ、ケンジさん宅の座敷で、詩歩さんの花嫁姿を見ることができました。軽トラを運転しているときの顔も素敵ですが、やはり花嫁衣装を身につけた姿は違います。とてもきれいでした。

 居間には田麦町内会長のケンジさんがおられました。「大役ご苦労さんです」と声をかけると、「川谷に来なったが、こっちに来てもらって、もうしゃけねがど」との言葉が返ってきました。

 ふと、詩歩さんのところへ目を向けると、姉妹だか、親戚の人だかから携帯電話が渡され、耳につけています。「たぶん、結婚式に出れない遠くの人からの祝いの言葉が寄せられたのでしょう。詩歩さんの目が明らかに潤(うる)んでいました。

 さて、いよいよ花嫁行列の始まりです。「おはようございます。きょうはみなさん、たいへんどうもありがとうございます。これから、じゃ、嫁に出ますんで、よろしくお願いします」とケンジさんが挨拶しました。挨拶が終わるとすぐに長持唄が始まりました。「はああ、きょうはなああああぁ、ひもよおおしい……」坂口ハルオさんの声は伸びがあって素敵です。めでたい唄にぴったりでした。

 唄の区切りがついたところで「祝いましょう」と言って小豆が花嫁の列にふりまかれました。と同時に、「詩歩さん、きれいよ」「おめでとう」の声が次々と発せられました。小さな子どもさんの「おめでとう」という声も聞こえてきました。

 行列はとてもゆっくりです。「雨降らんでいかったね」「ほんとはもうちょっと青空出てもらいかったがど。でも、こんで充分だこて」という声が聞こえてきました。道ばたにはシソ科のハーブ、アメジストセージが紫と白の花を咲かせていました。小さな花が寄り添って咲いているように見えることから花言葉は「家族愛」だとか。ふたりの結婚式にぴったりの花です。

 花嫁行列が旭郵便局の前を過ぎるあたりで、歌い手はハルオさんからシチロウさんに代わり、光則さんと詩歩さんの住まいである「うしだ屋」の前に着くと、最高潮に盛り上がりました。ハルオさんとシチロウさんが代わり番こに長持唄を唄い、やまざと暮らし応援団のショウキさんなどが「祝いましょう」と、小豆をまきました。

 この日の花嫁行列を見に来た人はすごい数でした。百五十人を軽く超えたかも。そして私が「いいなあ」と思ったのは、花嫁、花婿だけでなく、行列を見に来た人たちみんながうれしそうだったことです。そのひとり、一人暮らしのヨミさんは言いました。「嫁さん、きれいでいい顔してなったし、こんな嫁取りなんて初めてだ」と。
   (2017年11月19日)

 

第479回 シーさんへの手紙

 シーさんが亡くなってから、もう2か月も過ぎたんですね。今年の秋は雨ばかり降っていて、農家はたいへんでした。10月には急に総選挙もあったので、正直言うと、シーさんのことを忘れていました。

 でも、この間の土曜日、自分の車を運転していて、ふと、あなたを思い出しました。いつものクセで、お宅へ行く道をちらっと見てね、そういえば、シーさんはもういなんねがだと……。

 毎週土曜日になると、だいたい午前11時半頃、お宅に行っていたもんね。それが何十年も続いたんだもん、オレの目も、ハンドルを握る手も自然と動きます。無理もないですよ。オレの体がすっかり覚えているんです。

 お宅に行くと、シーさんは必ず厨房にいなったですよね。オレを待っていてくんなったのか、大潟のマルキンさんを待っていなったがだかわからんけど、よほどのことがない限り、そこにいて、「お茶飲んでいきない」と声をかけてくださった。とても感謝しています。

 寄らせてもらってうれしかったのは、実の母親のように、いつもオレのことを心配してくんなったことです。「そこらじゅうう回るがもいいけど、ちゃんと寝ないや」「腹減ってねかね。これ食っていぎない」こんな調子で励ましてもらいました。

 いつ頃からでしたっけ、ストーブの上でサツマイモなどを焼くようになったのは。皮は焦げていたけど、サツマイモの中までよく焼けていて、じつにうまかった。「おやき」もそうでしたね。ストーブの上で焼いたのが最高でした。オレの好きなのは、野沢菜漬けか、味噌漬けが「おやき」の中に刻まれて入っているものでした。長年の付き合いで、シーさんはオレの性格や食べ物の好みも承知でしたね。

 もちろん、いただいた食べ物はこれだけではありませんでした。いま頃だったら、大根とか里イモの煮物かな。味付けが抜群でしたね。それに、昔から親に叩き込まれたのでしょうか、すぐった野菜など何でも美味しく調理して、出してくんなったね。それらの料理をデジカメで撮って、画像をあなたに見せると、「まあ、うんまそうに撮れている」と喜んでくださいました。

 お茶をご馳走になったとき、オレはスマートフォンでメモをとることがたびたびでした。だって、シーさんと話をしていると、もうすっかり使わなくなった言葉や面白い昔の話が次々と出てくるんだもん、記録しておかなきゃ損をします。

 こうして記録したものは、お陰さまでその後、「やきもち」「雪椿」などというタイトルでエッセイにまとめることができました。エッセイに書いた翌週は、お茶飲み話がいつも以上に盛り上がりましたね。

 でもね、シーさん、あなたが残した言葉はまだまだ記録として残っているんです。「ばんたびだねかね、やだこてね」「おまんのチラシがくると、おらちでは、ばいっつらいになるがでね」「ねら、やべや」……本当は、もう少し話を聞いて、こういう言葉を入れたエッセイも書きたいと思っていたんですけどね。残念です。

 シーさん、今年の冬は早くて、妙高山はもう白くなりました。尾神岳はまだですけど、もうじきだと思います。雪がいっぺこと降れば家のことが心配でしょう。なんと言ったって、シーさんは一家の大黒柱だったもんね。でも大丈夫、心配しないでください。お孫さんを先頭に、みんな頑張っていますから。シーさん、いままでたいそした分、休んでいてください。では、また。
  (2017年11月12日)

 
 
 
第478回 牛とともに

 いまから50数年も前の冬のことです。わが家で飼っていた牛は、腹にガスがたまって「まや」で死にました。わが家では人間が死んだときと同じくらいの大きな出来事でした。

 原因は水でした。水を入れる桶が壊れていたことに誰も気づかなかったのです。「角で『がらん、がらん』といつも桶を押しこくっていたすけ、穴、あいたんじゃないかな」母はそう振り返ったのですが、牛が死んだときは切なかったですね。

 牛が「まや」のなかで倒れているのを見つけたのは私よりも6つ年下の弟でした。母によると、この弟はいつもじっとしていなくて、「棒で牛をつついて死んでいたのがわかったみてで、じちゃを呼んだがど」。そのとき祖父はまだ寝ていたらしく、ガバッと起きて大急ぎで牛のところへ行ったといいます。

 牛が死んだとき、父は酒屋者(さかやもん)の出稼ぎに出ていて留守でした。家に残っていた家族みんなが共通して思ったのは、大事な牛を殺してしまい、父は怒るだろうということでした。当時、わが家は8反ほどの田んぼで稲を作っていました。春になれば、田打ちがはじまります。代かきもあります。その仕事をしてくれた一番の働き手は牛だったのです。その牛がいなくなって困るのは誰よりも父でした。

 父は牛を使って仕事をするのが上手でした。春の田打ちなどの田んぼ仕事だけではありません。重たいものを荷車で運ぶときもそうでした。秋になって、稲を運ぶときも牛の力を借りて仕事をしていたのです。

 いまでも牛を使った父の仕事ぶりを鮮明に憶えています。通称「サカンソ」という地名の田んぼで田打ちをしているときの父の姿です。「サカンソ」の田んぼのうち一番大きな田んぼは人間の胃のような形をしていました。先を歩く牛の後ろから犂(すき)をあやつり、べろべろと田を起こしていく様子は子どもの目で見てもじつに見事でした。調子よく仕事ができているとき、父はよく流行歌を歌いました。独特の節回しでしたが、よく田んぼの中から父が歌う三橋美智也の歌が聞こえてきたものです。

 出稼ぎ先で聞いて、すでに気持ちは落ち着き、静かになっていたのでしょうか。出稼ぎから帰ってきた父は怒りませんでした。ただ、牛が死んだあとの春作業をどうしたのかは私の記憶に残っていません。

 牛がいかに頑張り屋で力持ちだったか、最近、改めて確認する機会がありました。安塚区坊金のある農家でお茶をご馳走になっているとき、Gさんから稲運びをする牛が眠ってしまった話を聞きました。秋の忙しい時期、背中に稲をつけて運んでいた、その牛が眠りながら歩いていたことがあったというのです。

 いったいどれくらい稲をつけて運んでいたのか。Gさんによると、生稲で12束(96把・きゅうじゅうろくわ)、乾燥稲で18束(144把)くらいつけて運んだはずだといいます。では、人間はどれくらいかというと、頑張っても生稲で4束、乾燥したもので6、7束だったかと思います。ですから牛は、人間の3倍から4倍は運んだということでしょうか。すごい力です。

 茶の間で語るGさんの姿を見ていて、ふと思いました。「この人もうちのオヤジと同じだ。がっしりした体つきをしているし、牛に似ているなぁ」と。

 牛は眠い時には眠ります。悲しい時には涙も流します。半世紀以上も前、多くの農家では牛は大事な労働力であり、家族の一員でした。牛には今でも感謝しています。
  (2017年11月5日)

 「春よ来い」トップへ