春よ来い(20)
 

第492回 悲しい知らせ

 大雪が降った日の翌朝、8時頃のことです。除雪機で移動中、携帯電話に従弟から電話が来ていたことがわかりました。 「かちゃに何かあったな」そう直感して従弟に電話をすると、思っていた通りでした。「東のかちゃ」(東は屋号)が亡くなったというのです。

 私は同じ吉川区内に住む「河沢(こうぞ)の叔母」にいっときも早く連絡せねばと思いました。「河沢の叔母」は父のキョウダイの末っ子です。「後生寺の叔母」から始まって、「伊勢崎の伯母」、「下町の伯母」などが次々と亡くなり、キョウダイで生きているのは「東のかちゃ」と「河沢の叔母」の2人だけでした。「河沢の叔母」は13歳も年上の「東のかちゃ」のことをいつも心配していました。

  「河沢の叔母」とは先日会ったばかりです。私に、「東のかちゃに11月、やっと会えていかっと」と言って、笑顔を見せていました。それだけに電話をかけ「河沢の叔母」の声が聞こえた瞬間、グッときました。「東のかちゃ、だめげらど」と言うのが精いっぱいでした。

 もう1人、「東のかちゃ」のことを早く知らせたい人がいました。母です。「東のかちゃ」よりひとつ年下でしたが、母もまた、わが家のすぐそばに住んでいた「東のかちゃ」のことを気にしていました。

 私は除雪機を地元事務所まで持って行き、その後、大急ぎで家に戻りました。

 母は居間のコタツに潜り込んで寝ていました。「ばちゃ」と声をかけると、母は片目だけ開け、私の顔を見てニコリとしました。母が目を覚ましたことを確認したところで、「東のかちゃ、死んじゃった」と言うと、いつもよりも大きな声で、「あらー、死んじゃったとか」そう言って、また目をつぶりました。だいぶ前から覚悟していたのかも知れません。

 親戚と連絡を取り、私が「東のかちゃ」と病院の霊安室で対面したのは正午を少しまわった時間でした。背中に手を入れた時、まだあたたかく、亡くなってから5時間も経っているとは思えませんでした。顔もいつもと同じく優しい表情です。足と手が白っぽくなっていなければ、亡くなっていることがわからないくらいでした。

  「東のかちゃ」は関東大震災の日、旧源村尾神のわが家に生まれました。94歳です。わが家で育ち、わが家のすぐ隣の「東」に嫁ぎました。いつも近くにいて、身近な存在でしたので、私は「東の伯母さん」と言うことはなく、子どもの頃からずっと「東のかちゃ」と呼んでいました。

 私が子どもの頃から見てきた「東のかちゃ」はとても働き者でした。田んぼや畑仕事など何でもこなしました。そして料理が上手でした。私が好きだったのはエゴとアラレです。アラレは赤、白、緑の三色で、小さく切ってあるのが特徴でした。

 びっくりしたのは日記です。一度だけ見せてもらいましたが、たしか「家の光」の付録だったと思います。買い物や誰がやってきたかなどの記録をコツコツと何十年も続けていたのです。几帳面な性格でした。

 3年ほど前に連れ合いが亡くなり、「東のかちゃ」は市役所の近くに住む子どもの家で暮らすようになりました。私が訪ねたときに、「かちゃ、具合はどうだね」と尋ねると、いつも、「生かしてもらってるだけんがど。おまんちのかちゃ、元気かね」という言葉が返ってきました。

 自分のことよりもわが家のことなどほかの人のことをいつも心配してくれた「東のかちゃ」です。葬儀では、最後にしっかりと感謝の気持ちを伝えたいと思います。「かちゃ、ありがとね」と。
  (2018年2月18日)

 
 

第491回 寒椿(2)

 大雪となって、交通事情が最悪となった日、私はグループホームに入っている叔父のところへ行ってきました。用があって近くへ行った帰りに、ふと寄りたくなったのです。

 施設の玄関まで行くと、職員さんの1人がちょうど顔を出してくださいました。「ハシヅメノリカズといいます。タナカシゲオの甥です。会えるでしょうか」と言うと、まだ30代の女性とおぼしきこの職員さんが叔父のいるところへ案内してくれました。

 叔父は共同リビング(居間)で、テーブルのそばに座って、じっとしていました。案内してくれた女性が、「タナカさん、わかりますか」と言うと、私の顔を見てすぐ、「ハシヅメだ。よく来てくんた」とニコニコ顔になりました。

 案内をしてくれた職員さんは介護士さんなのでしょうね、叔父が私と話をしやすい雰囲気をつくろうと、気を遣ってくださいました。私に「お母さんとタナカさんがごキョウダイなんですか」と訊かれたので、「いいえ、私の父とこの人の連れ合いがキョウダイだったんです」と答えました。そして、「叔父は連れ合いを68歳で亡くしたもんですから、その後、1人でずっと頑張ってきたんですよ」とも言いました。

 この職員さんは、話をしっかり聞き、「写真、撮ってもいいですか」と尋ねてきました。「はい、チーズ」という職員さんの声に合わせて、私と叔父はVサインをしました。緊張したのでしょうね、撮ってもらった写真を見ると、叔父も私もちょっぴり硬い表情になって写っていました。

 私がこのグループホームを訪ねた時間は午前11時ちょっと前です。すでに施設ではお昼の準備が始まっていました。共同リビングのすぐそばに厨房があり、その中では2人の女性職員さんが笑顔で働いていました。その人たちも私と叔父の会話に加わる形で話をしてくれました。

 この日はどか雪でした。厨房にいた2人のうち1人は、朝の大雪のため、グループホームまであと数十メートルというところで乗ってきた車がカメになり、隣の事業所の人たちから助けてもらったということでした。その話を聞いているとき、厨房のカウンターのところに椿の花が2輪、それぞれ別の容器に入れて飾ってあるのが目に入りました。尋ねたところ、この花は寒椿だということでした。

 最初に案内をしてくれた女性によると、この施設の中庭で寒椿が咲いていたそうですが、これが雪のため折れてしまったとか。でも花のつぼみは大きくなってきて、もう花の真ん中が開き始めていました。

 寒椿を見ながら、職員さんが、「タナカさん、歌が好きなんですよ」と言っていたことを思い出しました。そして、叔父がある若い夫婦の結婚式のときもマイクを握り、一節太郎の「浪曲子守歌」を歌っていたことも。「逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがる この子がかわい……」。ひょっとすると、この「祝い歌」の反作用のおかげでいまもその夫婦は一緒にいるのかも知れません。

 久しぶりに見る叔父は顔色もよく、とても元気でした。「早く家に戻りたいでも、そうもいかんだろうし……」という言葉から察すると、ここが気に入ったようです。  私が帰る時、叔父は2人の職員さんたちと一緒に門送りをしてくれました。背後から、叔父の「ありがとう」という力強い、大きな声が聞こえたので振り返ると、叔父は手を合わせサヨナラしていました。
  (2018年2月11日)

 
 

第490回 ニコニコ半分

 地吹雪が始まって3日目。柏崎の義母が初めて老健施設に入るというので、妻とともに柏崎市内にあるその施設まで車で行ってきました。

 施設は妻の実家から2㌔ほど離れた高台にありました。市道から施設への入り口はけっこう急な坂道となっていて、道路脇のコンクリートの縦板から消雪用の水が横に噴き出ていました。

 施設は思っていた以上に大きな建物でした。入所定員は140人。数年前に亡くなった柏崎の義父もこの施設でお世話になったのですが、そのときは入所期間が短かったこともあって、私が施設に行くことはありませんでした。今回が初めてです。

 施設の玄関に入ると、まず目に入ったのは人形です。右手の壁に3、4段、和服姿の人形が数十体置かれていたのです。人形は着物を着せた本格的なもので、とてもよくできていました。どこかの人形館から借りてきて、いっとき展示されているのかなと思ったくらいです。

 受付まで行くと、事務室の中には、すでに義母と妻の実家の義兄などが入っていました。入所の手続きをしていたのでしょうね。施設長さん、ケアマネさん、介護士さんなどから説明を受け、聞き取りも行われていました。

  「お母さん、何か趣味ありますか。好きなことありますか」。職員さんの質問に義母が黙っていると、義姉などが、「紙折るのが好きのようです。人形つくったりしてました」「数年前まではやってたけど、最近はどうだろう」と義母の代わりに答えていました。そして、誰かが「計算問題が好きなんです。九九が得意なんです」と言ったのです。これには、みんなが笑いました。

 事務室での手続きが終わってから、義母が入る部屋に案内してもらいました。入所に当たっては大きな袋を3つほど持参していましたが、その1つを私が持ちました。義姉たちが「食堂の前だって」「いいとこだね、すごいね」などと言葉を交わしている時、義母はちょっと落ち着きがなく、「不安なんだわ。行くなんて言うてきかさんから」と誰にともなく言っていました。

 義母が入るところは2階の中ほどにあり、4人部屋でした。義母のベッドは窓際です。「日当たり良さそうだねかね。こりゃ、いい部屋だ」「タンスもあるんだね」などとみんなが部屋をほめました。

 ひと通り、部屋のことを聞いた後、義母が持参した荷物の整理にかかりました。「かあちゃん、これ、着ないんじゃない。持って帰っていい」「これはタンスの上でいいのかな」などと賑やかです。

 義母は東京生まれ。着るものひとつとっても、しゃれたセンスがあります。持参したものの中には手鏡と化粧用具もありました。義母は93歳。「たいしたもんだ」そんな顔をしていると、義母は「頭の手入れ、したいんだよ」と言いました。

 同じ部屋には91歳だというお母さんもいました。柏崎市与板の出身で、同級生の1人が義母の住んでいた集落に嫁に来ているとのこと。義兄が、「『かどべいどん』(屋号)の引っ張りかね。よかったね、話し、合うかも」と言っていました。

 荷物の整理が終わって、私たち夫婦が帰ると言うと、義母が小さな声で「帰っちゃうの」と言いました。私は義父が手を合わせて私たちに「帰らないでくれ」と頼んだ7年前のことをふと思い出し、心配しました。でも義母は気丈な人です。「ありがとう。にこにこ半分、半分心配だけどね」と言って私たちに手を振りました。
  (2018年2月4日)

 
 

第489回 陽だまりの中で

 1月の半ばだとは思えませんでしたね。とにかくバカ暖かかったのです、この日は。車の暖房はいりませんでしたし、家の中にいても、ストーブを消した家がけっこうあったのではないでしょうか。

 1月15日のことです。市役所での会議が40分ほどで終わったので、ここ数年、直江津の三八市などで話すようになったM子さん宅を訪ねてきました。

 M子さんの家は市役所から車で10分くらいの集落の南側にありました。少し道に迷ってたどり着くと、木戸先からは青空をバックに堂々とした尾神岳がはっきりと見えます。すぐにカメラを取り出して何枚か撮りました。

 出迎えてくださったM子さんに「滑るから気をつけて」と言われ、コンクリートの階段を上って玄関に入ると、まだ生まれて半年ばかりというネコが迎えてくれました。人が訪ねてくるとうれしいのでしょうか、ネコはとてもはしゃいでいました。

  訪ねたのは11時半頃。「お昼の時間になるというのに申し訳ないですね」と言うと、M子さんは、「お昼は出さないけれど、ゆっくりしていってください」と言って、居間の南側にある廊下に案内してくださいました。

 そこは庭全体を見渡せるいい空間でした。雪がかぶっていましたので、確認は出来なかったのですが、梅、椿、ケヤキなどが植わっているように思えました。幹は細いものの、枝の張り方からして桜らしいものもありました。春になれば、花を咲かせてくれるに違いありません。

 廊下は、この日、暖かい陽射しが入ってポカポカでした。玄関寄りの場所には、しゃれた感じの丸いテーブルと2つのイスが置いてありました。

 M子さんに勧められてイスに座ると、すぐにネコが私に飛びついてきました。そのネコの様子を見ながらM子さんは、「きょうの陽はもう春の陽だね」と言い、その後、姿を消しました。

 再びM子さんが姿を現すまでには5分以上かかったように思います。M子さんが持ってこられたものを見て、「あっ」と思いました。手には丸いお盆があり、その中に桜の花が描かれた湯呑み茶碗を用意されていたのです。

 M子さんは、テーブルの上にそれらを置き、お茶を注いでくださいました。手元に近づけて湯呑み茶碗を見ると、湯呑みの側面に桜の小枝と花びらがいくつも描かれていて、とてもきれいです。1月といえども暦の上では既に春、陽だまりの中でお茶を飲むには最高のおもてなしです。私はうれしくなりました。

  私が訪ねたM子さんは80代前半の女性です。戦前から今日に至るまで様々な喜びや悲しみを経験しながら頑張って生きてこられました。お茶をご馳走になりながら、M子さんの人生の歩みの一端をお聴きすることができました。

 市へ野菜などを売りに行っても、最初は自分で値段をつけられなかった。大雨のとき、ハサにかけたイネが増水した流れに浮いたこともある。女性の声を少しでも政治に反映させたいと農業委員に立候補したら、取りやめてほしいと圧力がかかったこともあったなど、約1時間にわたるM子さんの話に引き付けられました。

 いつも弱い人たちに心を寄せ、季節感を大切にして生きているM子さん。昨年暮れの市では、「豆もち」を販売していました。雪が消えて山菜が出たら、ウドでも持って再び訪ねようと思います。
  (2018年1月28日)

 
 

第488回 待合室にて

 3か月に1回の割合で病院の眼科にかかっている母。私は会議などが入っていない限り、母を車に乗せて病院に行っています。もちろん送迎だけでなく、手続きや診察などに付き添います。

 先週の火曜日は今年初めての通院日でした。通院の日は懐かしい人と再会したり、母から昔話を聞いたりとけっこう楽しみがありますが、この日は待合室で興味深い出来事がありました。

 この日は午前10時の予約でした。眼科の受付カウンターで手続きを済ませて、待合室へ行ったときのことです。検査室の前のイスが1人分だけ空いていましたので、母からそこに座ってもらい、私は母の背中側のイスに腰掛けました。

 母が座って1分も経たないうちに、母の左隣に座っていた70代後半とおぼしき女性が母に声をかけてきました.

  「おばあちゃん、どこからきなったの」
 「吉川町からです」
 「遠くからですね、柿崎の方でしょ」
 「はい、あんたはどこでいなったですか」
 「市内です」
 「市内? どこですね」
 「港の方です。風が強くてね」

  あとでわかったのですが、この女性は港町で一人暮らしをされているMさんでした。2人とも耳が遠く、2人の会話はけっこう大きい声でした。私にもよく聞こえました。2人の会話はどんどん進みます。

  「おばあちゃん、いくつでいなんの」
  「94です」  
 母の答えを聞き、目の前を歩いていた母の姿を思い出し、Mさんはびっくりされたのでしょうか。すぐに、Mさんは、

 「まあ、歩かれていいですね」

 と言いました。母はそれにまともに答えず、自分がいま一番気になっている事を言いました。

 「フキント、出るがですわ」
 「おばあちゃん、歩いて採りに行きなるの?」
 「はい、歩いて採りに行くがです」
 「まあ、そりゃ、えらいもんですね」

 この会話を聴いていて、笑ってしまいました。最近、フキノトウを採ってきたことをまだ聞いていなかったし、そう遠くまで歩けるわけがない。「ま、ばちゃの一番得意分野の話だからいいか」そう思いながら、引き続き聴きました。

  「あくだしして、食べるんです」
  「おかずになるから家の人も助かるわね」
  「そいがです」

 母はうれしそうに語っていました。そっと、振り返って見ると、Mさんはメガネをかけておられ、眉はきれいに書かれていました。鍬(くわ)を持ったり、山菜採りに行くような感じの女性ではありませんでした。Mさんは話題を換え、

 「私、終わったら、あるるん畑に行くんですわ。揚げたかき餅売ってるの」
  と言いました。 あるるん畑はこのところ、母にとって大事な買い物場所のひとつです。かき餅を売っている場所が目に浮かんだのでしょう。

  「ちゃじょっぺにいいわね」

 母の言葉にまた笑ってしまいました。

 2人の会話では、それぞれ農村部と市街地に住む2人の暮らし方の違いが時どき出てきて、言葉づかいも違いました。

 この日も診察が終わってから、あるるん畑に寄り、家に帰りました。台所に行ってみて、私は驚きました。水の入ったボールにフキノトウが十数個浮かんでいたからです。母は家の周りで採っていたのでした。
  (2018年1月21日)

 
 

第487回 山菜オードブル

 今回は山菜の話です。びっくりしましたね、同じ上越市でも知らないことがいくつもあるんですから。

 先日、新春宣伝で板倉区に入ったときのことです。機織のSさん宅にご挨拶に伺った際、居間に上げさせてもらってお茶をご馳走になってきました。

 新年の挨拶をし、コタツの上の料理に目を向けた瞬間、「うわ―、すごい」と思いました。そこには、ほとんど山菜だけのオードブルがあったのです。それもそれぞれ形よく、きれいに並んでいました。

 直径35㌢ほどの円形の入れ物の中にあったものは、胡麻(ごま)がちょっぴり振りかけられた太いゼンマイ、採ってきたばかりではないかと錯覚するぐらい鮮やかな緑色のコゴミ、小さくカットされたウド、ワラビなどの山菜料理です。山菜でないものは、ニンジン、チクワ、コンニャクくらいなものです。

 コンニャクはオードブルの真ん中にあり、花びらのような形になっていました。しかも、その「花びら」の「めしべ」にあたる位置には新生姜(しょうが)の甘酢漬けがちょこんと置いてあるじゃありませんか。全体として暗くなりがちなオードブルをピンク色の生姜とだいだい色のニンジンで明るく仕上げるとは見事です。

 春の山菜シーズン、私はいくつもの山菜料理がテーブルの上に並ぶ姿を何度も見てきましたが、山菜を主体にしてこんなにも素敵なオードブルをつくることができるとは思ってもみませんでした。

 山菜オードブルを作ったのは女性グループ、『寺野いろりばた』(代表は下久々野の島田チイさん)のみなさんです。同グループは15年ほど前につくられた組織ですが、年末の山菜オードブルだけでなく、これまでも地元のイベントで、40種もの山菜バイキングに取り組んだり、笹寿し、ミョウガ団子、オコワなどを作ったりして大活躍してきました。

 この日、オードブルでもう一つ驚いたことがあります。山菜オードブルの中のウドの隣にウドに似たものが並べられていたのです。ウドの茎よりは平べったくて、口に入れると、こりこりした歯ごたえがありました。

 私が何だろうという顔をしていたら、Sさんが笑って、「トトガラだわね、サイキとも言うけど」と教えてくださいました。

 トトガラ? 初めて聞く名前です。またの名をサイキと言う? 正式名称はシシウドと言いますが、山菜の一つとして食べられると紹介してもらったものの、私はすぐには信じられませんでした。

 サイキのことをトトガラというのであれば、トトガラは子ども時代からよく知っている野草です。野山の草が出始めたばかりの頃、牛のえさとして刈って与えてはいました。でも、人間も食べているという話は初めて聞きました。驚きましたね。

 電話で島田チイさんに詳しいことを聞いてみました。トトガラは黒倉の標高の高いところで、茎が30㌢から50㌢くらいのときに手でポンと折って採ってくるのだそうです。鎌ではなく、手で採ることによってトトガラのやわらかさがわかるとか。ただ、難しいのはトトガラの塩漬け。ちょっとした加減で「こりこり」どころか柔らかくなってしまうというのです。

 2005年1月に14市町村が合併し、現上越市になりました。面積は佐渡島よりも大きい市です。山菜ひとつとっても、私の知らない魅力がまだたくさんありそうです。また、春が楽しみになってきました。
  (2018年1月14日)

 
 

第486回 ゆっくり書く

 正月が近づいてきて、地元の商店、かどやさんから注文書が届きました。A4サイズの緑色の紙に紅白の蒲鉾など24の商品名と単価、数量などの欄があって、簡単に注文できるようになっています。

 注文書提出の締め切りが近くなってから動き始めたのは母です。それも夜10時過ぎでした。一番上の木綿豆腐の行(ぎょう)から書きはじめたのですが、一つひとつ、ボールペンに力を込め集中しています。

 書き始めて30分くらい経っても母の注文書書きが終わらないものですから、家族が心配して、「ばあちゃん、もうやめて明日にしない」「早くお風呂入んないや」などと声をかけました。母は「おー」と返事しても、なかなかやめませんでした。

 母は40分ほどかけて、豆腐やチクワなど9種類の商品に注文する数を入れました。この他、注文書の下の方にあった、「その他、お酒、ビールなどもございましたらお書きください」の欄にも、「大 サイダー1本」「ビール6本入れ 1」などと書きました。

 私は母の電動イスの隣の席から観察していたのですが、母はいくつかの商品の欄に書き込みをするとボールペンを離し、注文書を片手に持って全体を眺めていました。でも、少し経つと、思い出したように再びボールペンを持って注文書に向かいます。

 7月に農協のゼンマイの注文書を書いていたときは10分足らずで書き終わっていましたので、それに比べると、そうとうゆったりしたスピードです。

 ようやく注文書を書き終えたかと思ったら、母は、今度は白いメモ帳に字を書き始めました。どうやら、注文書の控えを書いていたようです。注文した商品名と数量、そしてその商品についての合計額を書き込んでいました。このメモ書きにも10分ほどの時間がかかりました。

 母は書き終わった後、このメモをテレビの前に置いておきました。数日後、このメモを手に母に、「おまん、なんだそってメモ書いたが」と聞いてみました。母は「計算していくらになるかと思って書いたがど」と言いました。たしかにメモ帳の書き方を見るとそうなっています。

 注文書の本体のことについても母に聞いてみました。
「蒲鉾、あったね」
「うん、正月、年始に来なる人があったら、白と赤いのを出して茶じょっぺにしようと思って……」
 伊達巻についても聞くと、
「年始に来なった人に切って出そうと思ってんがど」
 最後に、「ゆでそば」についても聞いてみました。
「ゆでそば、なんで2つ頼んだが」
「汁のなかにソバが少しじゃ食った気がしねすけ。茶碗に山もっこもらんきゃ……」

 母の答えを聞いたときは、「そうか、そうか」と思っていたのですが、あとでメモをよく見てみたら、蒲鉾は注文してありませんでした。

 母とやりとりをしていてわかったのは、母はこれまで以上に想像力が豊かになってきているということでした。

 注文書を書くスピードが7月の時よりも極端に落ちていたのは、一つひとつの商品の名前を見て、「正月には誰だれが来て、これを食べてもらおう」「これはどんな料理をしたら、『うんめ』とほめてもらえるだろうか」などと考えていたからです。

 新年を迎えてまもなく、母は94歳になります。
  (2018年1月7日)

 
 

第485回 幼友達

 大島区板山の伯母が亡くなったのは昨年の12月半ばでした。伯母が亡くなったことで、女4人、男3人の七人キョウダイのうち生きているのは母だけになりました。あれからもう1年になります。

 キョウダイがいなくなって、母が頼りにできるのは家族です。でも、何かさみしいのでしょうね。子どもの頃の幼友達(おさなともだち)などずっと同じ時代を生きた人たちが時どき恋しくなるようです。

 先だっての午後、たまたま私の時間があいたので、「どうしんね、『杉』(屋号)のかちゃんとこへ行ってみるかね」と母に声をかけました。すると母はすぐに、「うん、行く」といいます。早速、「杉」の家に電話を入れて都合を聞き、了解をもらいました。母は急いで支度をしました。

「杉」のかちゃというのは母が生まれ育った旧大島村竹平の実家のすぐ下に住んでいた人で、板山の「杉」に嫁いだキエさんのことです。母よりも5歳年下ですが、気持ちが合うのか大の仲良しで、よく電話をかけたり、電話をもらったりしています。

 母を車に乗せて、走らせようとしたときでした。庭にあるピンク色のサザンカの花が母の目に入ったようで、「サザンカ、一輪持って行こさ」と私に言いました。母はキエさんが喜ぶだろうと瞬時に判断したのでしょう。すでにサザンカは花の盛りが過ぎていましたので、なるべく長持ちしそうな花をひと枝とって母に渡しました。

 40分ほどでキエさんの家に着きました。家の周りには1㍍近い雪が積もっています。母の手を引き、冬用の玄関で、呼び鈴を押すとキエさんが腰を曲げて迎えに出てくれました。

 居間のコタツまで行ったところで、母は「はい」と言ってサザンカをキエさんに渡しました。キエさんは、「まあ、サザンカ。水ん中に入れとかなきゃ」と言いながら、台所へ持って行きました。この短いやりとりを聞いただけでも、2人の気持ちが通じていることがよくわかります。

 電話してから板山に到着するまで1時間くらいしかなかったのに、コタツの上にはいくつものご馳走が並んでいました。大根の酢漬け、サツマイモ、五目豆、そしてキャベツの下に豆腐と鶏肉のフライを煮たものが……。キャベツは暖かい状態でしたので、おそらく、私と母が来るというので、すぐに作ってくれたのでしょう。

 ご馳走を見て、母が「杉んちに来た気がする」と言うと、キエさんは、笑いながら、「散らかってるすけか」と言いました。すぐに母は、「なして、なして」と打ち消しました。

 母は食欲が旺盛です。次々と箸(はし)を伸ばし、「このタケノコは『のうの』(母の実家の屋号)の向こうのオオダイラバヤシ(地名)のタケノコか」「ごっつおで、ごっつおで、何から食べていいかわからん。おまさん、ごっつおしの先生だ」などとほめてはご馳走を食べていました。

 「杉」の家にいたのは約1時間。話の中には子どもの頃から一緒だった地域の人たちのことが必ず出てきます。「いま旭で大正生まれの人は、竹平のトセさん、田麦のシゲトラさん、『ほしば』(屋号)のばちゃ、板山の『日の出屋』(屋号)のばちゃかな」などと話がはずんでいました。

 この日の帰り道、母は浦川原物産館に立ち寄り、ニンジン、キュウリ、玉ねぎ、ささげなどたくさんの野菜を買いました。また何かを作ろうというのです。一輪の花を持って行って幼友達と会った、それだけでこんなにも元気が出るとは……。
 (2017年12月24日)

 
 

第484回 「コケの花」

 12月に里山に入ったり、散歩したりできるのはうれしいですね。先だっての日曜日は青空が広がり、気温も高めとなりました。こういうときは家の中でじっとしていられません。外を歩きたくなります。

 歩き初めてすぐに目指したのは、秋に見つけたエビヅルがはっていた木です。もう葉は落ち、ツルだけになっていました。木の幹の中間あたりに目を向けたとき、えっと思いました。なんとエビヅルの実がまだいくつもついていたのです。高い場所でなければねぇ、この時期にどんな味になっているかを確かめたのですが……。今回は写真に撮るだけでがまんしました。

 続いて、小苗代地内の農道を歩きました。今年も1年間、たくさんの野の花の写真を撮らせてもらった道です。根雪になる前に何か咲いていないかと探しましたが、もうすっかり終わっていました。その代わり、笹が生い茂っている場所で赤くなっていたツルリンドウの実を見つけました。平場でもけっこうあるんですね。

 コケと思われるものと出合ったのは、私の地元の代石池(たいしいけ)の周回道路での散歩が終わり、もう帰ろうかというタイミングでした。左側の土手の一部にチラッと赤いものが見えました。

 見た瞬間、胸がドキドキしました。杉の木の切り株、土砂崩れを防止するための杭、トンパックの表面にたくさんの「もやし状」のものが広がっていたのです。しかも、それぞれの「もやし」の先っぽには小さな赤い「花」がついていて、まるでおとぎの国に入ったような美しさでした。

 よく見ると、「もやし状」のものは灰色で、背丈はわずか1.5㌢ほどでした。これが数十本、いや数百本生えていました。この小さな空間には私の知らない生き物たちの世界があるに違いない、私はそう思いました。

 ポケットからデジカメを取り出し、「コケの花」の群れとおぼしきものを、上から、横から、斜めから、できるだけ近づいて撮りました。ひょっとすれば匂いがするかも知れない。「もやし状」のものに鼻を近づけてみました。匂いはまったくしませんでした。

 10分くらい観察し続けたでしょうか。私はこれはコケか外来種の花のどちらかだと思いました。外来種の花かもと思ったのは、トンパックにたくさん付着していたからです。よその土地から見たことのない外来種の花の種がついた土を入れて運んできたのではないかと勝手に思ったのです。

 いつもそうなのですが、初めて出合った植物体はいったいどんなものなのか、どんな名前がついているのだろうか、知りたくなります。私はひとたび気になり始めると、ずっと気になる性分なのです。

 まずはインターネットで検索してみようと、秋から冬にかけて咲く「赤い野の花」をさがしてみましたが、見つかりませんでした。野の花でないならコケに違いない。そう思って探し続け、とうとうその日の深夜、正体をつかみました。

 名前は「コアカミゴケ」、コケに近いものと思ったのですが、正式には菌類と藻類との共生体だということです。そして 「コケの花」かと思っていた赤いものは、「コアカミゴケ」の生殖器官だったのです。

 ここまでわかると、もう一度見てみたくなります。ところが、そう思っていたところに雪が降ってきてしまいました。60数年生きてきて初めて出合ったくらいですから、来年、雪が消えて再び出合えるかどうかわかりません。惜しいことをしました。
  (2017年12月17日)

 

第483回 アリコ

 犬の「アリコ」が上越市のE子さん宅にやってきたのは1年前でした。早いもんですね、時の流れは。

 私が初めて「アリコ」の姿を見たのは、ビラ配布でE子さん宅を訪ねた時です。昨年12月か今年の1月だったと思います。

 率直に言って、初めてこの犬と出合った時、緊張しました。「アリコ」のせいではありません。私は、子どもの頃に左足の付け根をガブリとやられて以来、犬はずっと苦手だったのです。

 でも、「アリコ」は、どういうわけか、最初から人懐こく、犬に警戒心を持っていた私にも甘えてきました。いま考えると、それだけさみしかったのだと思います。

 じつは、「アリコ」は昨年4月、熊本地震で被災した犬でした。昨年の12月の半ば、テレビで被災した犬たちのことを知り、E子さん宅では、家族みんなで長岡市の動物愛護センターまで行き、「アリコ」を譲り受けてきたのです。

 先日、久しぶりにE子さん宅へ行ったとき、「アリコ」は玄関まで出迎えてくれました。すっかりE子さん宅の一員になったようです。とても落ち着いていました。ただ、地震から1年半以上経った今も、ガタンと音がしただけでおびえるといいます。

 玄関まで来てくれた「アリコ」は私を居間まで「案内」してくれました。私がコタツに入っても、ひざに座ろうとしたり、私に自分の体をくっつけてきたりしました。人間がとても好きなんでしょうね。

 この日、私はE子さん宅でお茶をご馳走になるなかで、これまで知らなかったことをいくつか教えてもらいました。

 そのひとつは「アリコ」という名前のことです。私はE子さんたちがつけた名前だと思っていたら、そうではないというのです。九州にいたときからつけられていたようで、長岡で初めて出合ったときに名前を教えてもらい、「アリコ」と呼ぶとすぐに振り向いたそうです。E子さんは、「たぶん、有明海の名前からとったんではないか」と言っていました。

 もうひとつ、E子さんたちが旧吉川町に住んでいた当時、犬を飼っていたことがあったということも初めて知りました。

 犬の名前は「ブチ」。吉川区川袋のU子さんのところからもらってきたとのことでした。「ブチ」もとてもいい犬だったそうです。家族みんながかわいがり、育てたといいますが、とくにE子さんのお連れ合いのYさんが大事にしました。散歩をする。仕事に行く。始終、車の荷台に乗せる。何をするにも一緒だったようです。

 それだけに、Yさんが大けがで入院して離れ離れになると、「ブチ」は大きなショックを受けました。いつも一緒だった人の姿が見えなくなった。そういうことは人間だけでなく、犬にも影響を与えるんですね。

 「ブチ」は、Yさんが大けがをした翌年の2月2日、死亡してしまいました。E子さんがお連れ合いの入院先から戻ったとき、「ブチ」の体はすでに冷たく、硬くなっていたということです。「ブチ」の遺影は今、長期にわたる入院後亡くなったYさんの遺影とともに仏壇に飾られています。

 23年ぶりに犬を迎えたE子さんは、「アリコはブチの生まれかわり」だと言い、毎日仲良く暮らしています。先日は一緒に散歩をしていて、オオイヌノフグリの紫色の花を見つけたとか。

 E子さん宅からの帰り際、「アリコ」は再び私のそばにきました。私は、「アリコ」の頭を何度も何度もなでました。
  (2017年12月10日)
 
 
 

第482回 七曲がり

 11月上旬、川谷地区で行われた「川谷もより大交流会」で懐かしい言葉を耳にしました。それは「七曲がり」。「七曲がり」と呼ぶところが川谷地区にもあったと聞いて、私はうれしくなりました。

 じつは、私が長年住んでいた尾神にも「七曲がり」があったのです。それは尾神の「ガマビロ」(地名)から標高200㍍ほどの「ナナトリ」(地名)を越えて石谷へとつながる道の一部でした。まっすぐ山を登るには急すぎるので、くの字や逆くの字型に道をつくり、高いところへ行ったり来たりできるようにしてありました。

 いまから50年ほど前、わが家の畑は「ガマビロ」、「ヨシワラ」(地名)、そそして「ナナトリ」にありました。キュウリやナス、ネギ、スイカ、メロンなどほとんどの野菜は「ヨシワラ」で、「ガマビロ」では大根、白菜などをつくっていたように記憶しています。わが家から1㎞以上離れている「ナナトリ」の畑ではジャガイモなどの野菜を作っていました。

「七曲がり」は、畑に持っていく道具や肥料を背負って登ることもあれば、収穫したジャガイモなどを背負って下ることもありました。私はいまでも覚えています。ジャガイモを背負いかごに入れて、運んだときのたいそだったことを。これは子どもにはきびしい仕事だったと思います。でも、当時は田んぼも畑も親子みんなでやらないと食べていけない時代でした。

 野菜づくりのときだけでなく、春の山菜採りでも「七曲がり」を歩きました。「ナナトリ」周辺はウドやゼンマイ、ワラビ、トリアシなど山菜の宝庫だったのです。そして秋、ミヤマツ、アケビ採りや山芋掘りなどで「七曲がり」を通りました。

 先日、尾神へ行った際、「チョウチ」(地名)から「七曲がり」を見る機会に恵まれました。 「チョウチ」でギンナン拾いをしていた大西(屋号)のお母さんと子ども時代の話などをした後、車に乗りもうとしたとき、目の前に、屏風のように連なっている尾神の山々が見えました。

 この尾神の山々の風景の中に「七曲がり」がハッキリと見えたのです。いきなり降った初雪が解け始めたことによって、七曲がりの道筋がよくわかるようになっていました。こういう機会は雪の降り始めと雪解けが進む春先くらいしかありません。私は、「よしっ、チャンスだ」そう思って、「七曲がり」にカメラを向けました。

 この日、「七曲がり」の写真を撮り、インターネットで発信したところ、浦川原区の上猪子田に住んでいた人や安塚区の菅沼に住んでいる人から、「私のところでも七曲がりがありました」というコメントを寄せていただきました。「七曲がり」と呼ぶところが次から次へと出てくるとはまったく予想外でした。

「七曲がり」と呼ぶ道がいつごろからつくられたのかは定かではありません。ただ少なくとも、食糧難の時代には、不便な山の上であっても田や畑を作る必要がありました。そこへ至るルートを確保するために七曲がりの道もつくらなければなりませんでした。おそらく、山間部には私の知らないたくさんの「七曲がり」があり、それぞれドラマがあったのだろうと思います。

 川谷の交流会では、上川谷出身の人が下川谷と上川谷間にあった冬の「七曲がり」を語ってくださいました。豪雪の中、よくカンジキで道をつけ、子どもたちを通学させたと思います。もっとたくさんの「七曲がり」のドラマを聴きたくなりました。
  (2017年12月3日)

 

第481回 涙が止まらない

 今年の東京吉川会総会は、25回目という区切りの総会でした。上野の東天紅で行われた設立総会当時と比べると、高齢化が進み、参加者はがくんと減ってきていますが、故郷を思う心はいまも熱いままです。

 私は総会の前日まで市議会の研修視察で九州方面に出かけていて、疲れがピークに達していました。総会では、まともに目が開けていられなくなるのではと心配しました。しかし、まったくの杞憂でした。

 会場に入ってすぐに、顔なじみの人たちが次々と声をかけてくださり、それだけで眠気が吹き飛んだのです。

 村屋出身のフミエイさんは、わざわざ私のテーブルまで来て下さって、「今回が最後の参加になるかもと思って……」と挨拶してくださいました。高齢で、体力に自信をなくされたのでしょうね。長年、ずっと参加してくださった方でした。

 私がいま住んでいる代石(たいし)出身のヒサコさんからは、「姉が一人暮らしになってしまって……。よろしくお願いします」と言われました。やさしい、思いやりのある妹さんだなと改めて思いました。

 懇親会ではお酒も入ります。美味しい食べ物も出ます。どこのテーブルも同郷の人の動静や最近の出来事などが話題になり、とてもにぎやかになります。

 一つのテーブルに、どこかで見たことがある顔立ちの女性がいました。誰だったろうと気にしながら近づくと、私の肩をつつく人がいました。道之下出身のヒデコさんです。亡くなったお父さんのことが話題になったとき、ハッとしました。「どこかで見たことがある顔」の人の主が誰だかわかったのです。「国際人」とか「マムシのトラさん」などと呼ばれたヒデコさんのお父さんでした。そのお父さんとそっくりの顔の二人のお姉さん、ミドリさんとキミエさんも会に参加されていたのです。「似てなるねぇ」「だって、親子だもん」などといいながら話が盛り上がりました。

 いったん、自分のテーブルに戻って寿司などを口に入れていると、正面舞台の脇でニュース映画のような、動きのある画像がスクリーンに映し出されていました。

 最初は何とはなしに見ていたのですが、東田中の学校らしい建物に続いて、原之町の小浜屋のおばあちゃんや「ちんころ」づくりが映された段階で、「これは吉川のだいぶ前の風景だ」と思いました。

 そして、私の目から涙があふれ出したのは、尾神の人たちや風景などが出てからです。キャンプ場の近くで飼っていた梅花鹿、豆腐づくり、ハングライダーなどが次々と映し出されました。

 ハングライダーの練習場はわが家の牧草地だったところです。そこが出てきましたし、尾神集落の懐かしいお父さん、お母さんたちも出てきました。「オカダ」のお母さん、「イケンシリノシタ」のお父さんとお母さん、それに「ナカヤ」のお父さんにお母さんも……。すでに亡くなった人たちもみんな笑顔で写っていました。もう涙は止まりません。思わぬ上映で、私の心は揺さぶられっぱなしでした。

 会では、ひと月に一度は吉川区米山に戻るというレイコさんとも再会しました。私に母の様子を訊いてこられたので「元気ですよ」と答えると、「良かったですね。お母さんが頑張って生きておられるのはあなたのことが心配だからですよ」と言われ、ぐっときました。

 同郷者の交流は、参加者に生きていく希望と元気を与えてくれます。来年は東京見物ツアーも計画されるとか。楽しみです。
   (2017年11月26日)

 
 
第480回 花嫁行列

 晴れていかったねぇ。11月12日。大島区田麦は祝いの日となりました。昨年、吉川の山間部での研修後、田麦に移り住んできた光則さんと詩歩さんはこの日、地域あげての結婚式をあげたのです。

「昔ながらのやり方で花嫁行列をやるてがすけ、おまん、時間あったら見にこねかね」そう言って私に声をかけてくれたのはヨシコさんです。花嫁行列は午前10時に田麦町内会長のケンジさん宅から出るという案内でした。

 私が到着したときには、すでに前庭にはジュンコさん、トミコさんなど3、40人の人が集まっていました。みんな、いまかいまかと待っています。小さな紙コップに入った祝いの酒やゼンマイの煮しめなどが入ったパックがふるまわれていました。

 私は竹平町内会長のマサユキさんから「さあさ、入って。花嫁の顔見ていってくんない」と誘われ、ケンジさん宅の座敷で、詩歩さんの花嫁姿を見ることができました。軽トラを運転しているときの顔も素敵ですが、やはり花嫁衣装を身につけた姿は違います。とてもきれいでした。

 居間には田麦町内会長のケンジさんがおられました。「大役ご苦労さんです」と声をかけると、「川谷に来なったが、こっちに来てもらって、もうしゃけねがど」との言葉が返ってきました。

 ふと、詩歩さんのところへ目を向けると、姉妹だか、親戚の人だかから携帯電話が渡され、耳につけています。「たぶん、結婚式に出れない遠くの人からの祝いの言葉が寄せられたのでしょう。詩歩さんの目が明らかに潤(うる)んでいました。

 さて、いよいよ花嫁行列の始まりです。「おはようございます。きょうはみなさん、たいへんどうもありがとうございます。これから、じゃ、嫁に出ますんで、よろしくお願いします」とケンジさんが挨拶しました。挨拶が終わるとすぐに長持唄が始まりました。「はああ、きょうはなああああぁ、ひもよおおしい……」坂口ハルオさんの声は伸びがあって素敵です。めでたい唄にぴったりでした。

 唄の区切りがついたところで「祝いましょう」と言って小豆が花嫁の列にふりまかれました。と同時に、「詩歩さん、きれいよ」「おめでとう」の声が次々と発せられました。小さな子どもさんの「おめでとう」という声も聞こえてきました。

 行列はとてもゆっくりです。「雨降らんでいかったね」「ほんとはもうちょっと青空出てもらいかったがど。でも、こんで充分だこて」という声が聞こえてきました。道ばたにはシソ科のハーブ、アメジストセージが紫と白の花を咲かせていました。小さな花が寄り添って咲いているように見えることから花言葉は「家族愛」だとか。ふたりの結婚式にぴったりの花です。

 花嫁行列が旭郵便局の前を過ぎるあたりで、歌い手はハルオさんからシチロウさんに代わり、光則さんと詩歩さんの住まいである「うしだ屋」の前に着くと、最高潮に盛り上がりました。ハルオさんとシチロウさんが代わり番こに長持唄を唄い、やまざと暮らし応援団のショウキさんなどが「祝いましょう」と、小豆をまきました。

 この日の花嫁行列を見に来た人はすごい数でした。百五十人を軽く超えたかも。そして私が「いいなあ」と思ったのは、花嫁、花婿だけでなく、行列を見に来た人たちみんながうれしそうだったことです。そのひとり、一人暮らしのヨミさんは言いました。「嫁さん、きれいでいい顔してなったし、こんな嫁取りなんて初めてだ」と。
   (2017年11月19日)

 

第479回 シーさんへの手紙

 シーさんが亡くなってから、もう2か月も過ぎたんですね。今年の秋は雨ばかり降っていて、農家はたいへんでした。10月には急に総選挙もあったので、正直言うと、シーさんのことを忘れていました。

 でも、この間の土曜日、自分の車を運転していて、ふと、あなたを思い出しました。いつものクセで、お宅へ行く道をちらっと見てね、そういえば、シーさんはもういなんねがだと……。

 毎週土曜日になると、だいたい午前11時半頃、お宅に行っていたもんね。それが何十年も続いたんだもん、オレの目も、ハンドルを握る手も自然と動きます。無理もないですよ。オレの体がすっかり覚えているんです。

 お宅に行くと、シーさんは必ず厨房にいなったですよね。オレを待っていてくんなったのか、大潟のマルキンさんを待っていなったがだかわからんけど、よほどのことがない限り、そこにいて、「お茶飲んでいきない」と声をかけてくださった。とても感謝しています。

 寄らせてもらってうれしかったのは、実の母親のように、いつもオレのことを心配してくんなったことです。「そこらじゅうう回るがもいいけど、ちゃんと寝ないや」「腹減ってねかね。これ食っていぎない」こんな調子で励ましてもらいました。

 いつ頃からでしたっけ、ストーブの上でサツマイモなどを焼くようになったのは。皮は焦げていたけど、サツマイモの中までよく焼けていて、じつにうまかった。「おやき」もそうでしたね。ストーブの上で焼いたのが最高でした。オレの好きなのは、野沢菜漬けか、味噌漬けが「おやき」の中に刻まれて入っているものでした。長年の付き合いで、シーさんはオレの性格や食べ物の好みも承知でしたね。

 もちろん、いただいた食べ物はこれだけではありませんでした。いま頃だったら、大根とか里イモの煮物かな。味付けが抜群でしたね。それに、昔から親に叩き込まれたのでしょうか、すぐった野菜など何でも美味しく調理して、出してくんなったね。それらの料理をデジカメで撮って、画像をあなたに見せると、「まあ、うんまそうに撮れている」と喜んでくださいました。

 お茶をご馳走になったとき、オレはスマートフォンでメモをとることがたびたびでした。だって、シーさんと話をしていると、もうすっかり使わなくなった言葉や面白い昔の話が次々と出てくるんだもん、記録しておかなきゃ損をします。

 こうして記録したものは、お陰さまでその後、「やきもち」「雪椿」などというタイトルでエッセイにまとめることができました。エッセイに書いた翌週は、お茶飲み話がいつも以上に盛り上がりましたね。

 でもね、シーさん、あなたが残した言葉はまだまだ記録として残っているんです。「ばんたびだねかね、やだこてね」「おまんのチラシがくると、おらちでは、ばいっつらいになるがでね」「ねら、やべや」……本当は、もう少し話を聞いて、こういう言葉を入れたエッセイも書きたいと思っていたんですけどね。残念です。

 シーさん、今年の冬は早くて、妙高山はもう白くなりました。尾神岳はまだですけど、もうじきだと思います。雪がいっぺこと降れば家のことが心配でしょう。なんと言ったって、シーさんは一家の大黒柱だったもんね。でも大丈夫、心配しないでください。お孫さんを先頭に、みんな頑張っていますから。シーさん、いままでたいそした分、休んでいてください。では、また。
  (2017年11月12日)

 
 
 
第478回 牛とともに

 いまから50数年も前の冬のことです。わが家で飼っていた牛は、腹にガスがたまって「まや」で死にました。わが家では人間が死んだときと同じくらいの大きな出来事でした。

 原因は水でした。水を入れる桶が壊れていたことに誰も気づかなかったのです。「角で『がらん、がらん』といつも桶を押しこくっていたすけ、穴、あいたんじゃないかな」母はそう振り返ったのですが、牛が死んだときは切なかったですね。

 牛が「まや」のなかで倒れているのを見つけたのは私よりも6つ年下の弟でした。母によると、この弟はいつもじっとしていなくて、「棒で牛をつついて死んでいたのがわかったみてで、じちゃを呼んだがど」。そのとき祖父はまだ寝ていたらしく、ガバッと起きて大急ぎで牛のところへ行ったといいます。

 牛が死んだとき、父は酒屋者(さかやもん)の出稼ぎに出ていて留守でした。家に残っていた家族みんなが共通して思ったのは、大事な牛を殺してしまい、父は怒るだろうということでした。当時、わが家は8反ほどの田んぼで稲を作っていました。春になれば、田打ちがはじまります。代かきもあります。その仕事をしてくれた一番の働き手は牛だったのです。その牛がいなくなって困るのは誰よりも父でした。

 父は牛を使って仕事をするのが上手でした。春の田打ちなどの田んぼ仕事だけではありません。重たいものを荷車で運ぶときもそうでした。秋になって、稲を運ぶときも牛の力を借りて仕事をしていたのです。

 いまでも牛を使った父の仕事ぶりを鮮明に憶えています。通称「サカンソ」という地名の田んぼで田打ちをしているときの父の姿です。「サカンソ」の田んぼのうち一番大きな田んぼは人間の胃のような形をしていました。先を歩く牛の後ろから犂(すき)をあやつり、べろべろと田を起こしていく様子は子どもの目で見てもじつに見事でした。調子よく仕事ができているとき、父はよく流行歌を歌いました。独特の節回しでしたが、よく田んぼの中から父が歌う三橋美智也の歌が聞こえてきたものです。

 出稼ぎ先で聞いて、すでに気持ちは落ち着き、静かになっていたのでしょうか。出稼ぎから帰ってきた父は怒りませんでした。ただ、牛が死んだあとの春作業をどうしたのかは私の記憶に残っていません。

 牛がいかに頑張り屋で力持ちだったか、最近、改めて確認する機会がありました。安塚区坊金のある農家でお茶をご馳走になっているとき、Gさんから稲運びをする牛が眠ってしまった話を聞きました。秋の忙しい時期、背中に稲をつけて運んでいた、その牛が眠りながら歩いていたことがあったというのです。

 いったいどれくらい稲をつけて運んでいたのか。Gさんによると、生稲で12束(96把・きゅうじゅうろくわ)、乾燥稲で18束(144把)くらいつけて運んだはずだといいます。では、人間はどれくらいかというと、頑張っても生稲で4束、乾燥したもので6、7束だったかと思います。ですから牛は、人間の3倍から4倍は運んだということでしょうか。すごい力です。

 茶の間で語るGさんの姿を見ていて、ふと思いました。「この人もうちのオヤジと同じだ。がっしりした体つきをしているし、牛に似ているなぁ」と。

 牛は眠い時には眠ります。悲しい時には涙も流します。半世紀以上も前、多くの農家では牛は大事な労働力であり、家族の一員でした。牛には今でも感謝しています。
  (2017年11月5日)

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