春よ来い(19) 
 

第477回 赤とんぼ(その2)

 「あれっ」と思ったのは水曜日の朝7時過ぎ、私の地元事務所前で軽乗用車に乗り込んだときでした。車のフロントガラスの内側で赤とんぼが飛んでいたのです。それも右に左にと、ガラスにぶつかりながら。

 赤とんぼが私の車に入ってきたのは前日でした。たぶん、私がセンブリの花の写真を撮っていたときだと思います。強い台風がやってきた翌日の夕方のことでした。「たぶん」と書いたのは、車の窓を開けたのはその時だったからです。

 センブリの花を撮ってから、地元の写真家の平田さんと偶然出会いました。平田さんと会うと、いつも写真のことで話が盛り上がります。このときも、平田さんが松之山のブナ林で撮影していて、デジタルカメラを濡らしてしまったという話を聞いたり、私から野の花の話を出したりして、時間が経つのを忘れそうになりました。

 平田さんと別れて、再び車に乗り込んだとき、1匹の赤とんぼが運転席の前の方で飛び回っていました。フロントガラスの内側だけでなく、何と、外側でも数匹の赤とんぼが飛び交っているじゃありませんか。私は両方の赤とんぼを写真に収めたいと思いカメラを向けたのですが、なかなかうまくいきませんでした。

 この日は台風が過ぎ去って青空が広がり、気温も上昇していました。そのせいでしょうか、どこへ行っても赤とんぼの姿を見ることができました。

 一番多くの赤とんぼを見たのは、私の地元事務所周辺でした。なかでも事務所の西側の下見板、その下の基礎コンクリートがすごかった。数十匹、ひょっとするともっといたかも知れません、下見板などに張り付くようにしてとまっていたのです。

 赤とんぼたちは明らかに日向ぼっこを楽しんでいました。人が近づいたり、近くの市道を車が通り過ぎたりすると、パッと下見やコンクリートから離れるのですが、それから1、2分後には再び張り付きます。暖かくて気持ちがいいのでしょう。

 赤とんぼの様子を見ながら私は、自分の気持ちが何となくやさしく、おだやかになっていくのを感じました。夕日が建物や大地などを暖めていて、そこをたくさんの赤とんぼが羽をキラキラさせながら飛んでいる。下見板などにぴたりと体をくっつけているものもたくさんいる。この光景は子どもの頃、何度も見てきました。見ているだけで妙に懐かしく、うれしくなります。不思議ですね。

 水曜日の朝、私は5時過ぎから新聞配達に出ていました。6時頃になれば、明るくなってきますから、その前に車の中の赤とんぼに気づいてもよさそうなのですが、実際は目に入りませんでした。たぶん、運転席左前にあるバックミラーの裏側に姿を隠していたのだと思います。

 新聞配達が終わってから事務所でデスクワークをして、その後、浦川原へと車を走らせようとした段階で、車内にまだ赤とんぼがいることに気づきました。赤とんぼは前日からずっと車の中にいたのです。もちろん配達のときも。車の中は暖房をきかせていて、暖かい空間となっていました。窓を開けても出ようとはしませんでした。

 赤とんぼが車の外に出たのは浦川原での用事が済んで、朔日峠まで行ってから。運転手席の窓を開けたら、手前にいた赤とんぼはフロントガラスに何度かぶつかり、その後、ちょこんと私の右腕にとまり、外へと飛び立ちました。赤とんぼにとっては1泊2日の旅でした。いまごろ、仲間たちに旅の話をしているかも知れません。
   (2017年10月29日)

 
 

第476回 物々交換

 ♪くもりガラスを 手で拭いて あなた明日が 見えますか──軽トラックから流れる曲は「さざんかの宿」。竹平倶楽部を過ぎたあたりから聞こえてきて、イナバ(屋号)の曲がり角あたりで大きくなる。

 先日、長野の新井さんというリンゴ屋さんがリンゴなどを売りに来る話を母の実家で聞き、リンゴ屋さんが車で道を上ってくる様子を勝手に想像しました。そして、なぜか懐かしくなりました。

 私の記憶にはリンゴ屋さんのことはほとんど残っていません。私が子どもだったころは、リンゴやミカンを買うことはまずありませんでした。それだけ貧しかったのだと思います。口にすることができたのは誰かが土産などでくれたときくらいです。ミカンは庵主さんがお経を読みに来られるときにわが家に持ってきてくださいました。そのときだけです、ミカンを食べることができたのは。だから、庵主さんが来られるとき、私は遊びに行かないで庵主さんを待っていたものです。

 トラックでやってくるリンゴ屋さんがわがわが家にやってくるようになったのは、30数年前、吉川区尾神の蛍場から代石に移住して以降のことだったと思います。ただ、流行歌は流していませんでした。

 当時、リンゴは箱買いが主流でしたね。リンゴはひと箱に18`から20`くらい入っていました。わが家ではそれを越冬用にということで2、3箱買っていました。私も一時期、活動資金をつくるために長野県の須坂市まで2トントラックでリンゴを仕入れに行ったことがありました。いまでは考えられないかも知れませんが、当時は、軽トラックでは間に合わないほど売れたのです。

 蛍場に住んでいた当時、スピーカーで流行歌を流しながらやってきたトラックはリンゴ屋さんではなく、農協の移動販売車でした。家にいたときだけでなく、家の前の山に行っていてもよく聞こえました。スピーカーから歌が流れてくると、「農協が来たな」と思ったものです。ただ、どんな曲を流していたかは残念ながら思い出せません。トラックはヒガシ(屋号)の下にとまり、そこへ蛍場の人たちが行って買い物をしたものです。

 従兄夫婦からリンゴ屋さんの話を聞いていて強い関心を持ったのは、物々交換のことです。竹平では、ふた昔くらい前まで新井さんが持って来るリンゴやブドウなどは金で買うのではなく、コメで買う人が多かったといいます。コメをザルに入れて持っていき、リンゴなどと交換してもらう時期があったというのです。

 物々交換については、正直言って、私にはかすかな記憶しかありませんでした。わが家では何と何を交換したかなど知りたいと思い、母にも訊いてみました。その結果、私が住んでいた蛍場でも、海岸部から海藻などを持って行商にやってくる人との間で、コメや小豆と交換していた時期があったことを確認することができました。

 行商と言えば、わが家にほぼ定期的にやってきたのは浦川原のMさん、この人はお茶屋さんでした。それと柿崎のMさん、この人は魚やつくだ煮など食料品が中心だったと記憶しています。あと、原之町からOさんが来ておられました。これらの人はバイクまたは歩きでしたから、物々交換はまずなかったと思います。

 物々交換はちゃんとした信頼関係がなければ成り立たないものです。物と物を交換する商いがいまからそう遠くない時期まであったというのはうれしいですね。
  (2017年10月22日)

 
 

第475回 とちゃは殿様

 たまには早く家に帰るものですね。10月上旬のある日、早く帰ったおかげでいい思いをしました。

 この日、私は三和区での用事を終わらせ、その後、いったん家に帰りました。家に着いたのは午後4時半頃だったでしょうか。こんな早い時間帯に家に戻ったものですから、母もびっくりしていました。

 母は、デイサービスへ行かない日はほとんど居間でテレビを観たり、寝たりしています。この日も居間で横になっていました。横になっていた場所は、ふだん、私が座っている場所です。

 私の姿を確認した母は、すぐに起きて、自分の居場所である電動イスのところへ移ろうとしました。私は、その動きを制止し、「そのまま動かんでいいよ」と言いました。私は、母の顔を見たら、事務所へ行って仕事をするつもりだったのです。

 ただ、このとき私は、ちょっとだけ、電動イスに座りました。なんとなく、電動イスに座ってみたくなったのです。

 私が電動イスに座ると、母が私の様子を見て、声をかけてきました。
「とちゃ、殿様みてぇだなぁ、アハハ」
 電動イスにはひじ掛けがついています。そこに私が手をのせて、母を覗き込むような姿勢でいたことが殿様のように見えたのかも知れません。母は何を思い出したのか、笑い転げていました。

 10年ほど前、父も母と同じ場所で電動イスを使っていました。使い始めの頃は、面白がり、
「とちゃ、見てみろ、ほら」
 そう言って、電動イスを上げたり下げたりしていました。父はスイッチ一つで自分の思い通りに上げ下げできるのが気に入ったのでしょう。まるで、子どもが新しいおもちゃを買ってもらったときのようにうれしそうでした。

 電動イスを操作していたとき、父もひじ掛けに手をのせていました。じつは、そのとき、私も思ったのです、まるで殿様のようだと。といっても、かっこうだけで、やさしい殿様だったのですが……。

 母と数分話をした後、私は地元事務所に向かいました。事務所に着いて西の空を見たとき、これまで見たことのないような輝き方をしている夕日に気づきました。雲の中で夕日が沈み始め、黄金の光がスジとなって大地に降りてきていたのです。私は大急ぎで、わが家に引き返しました。

 わが家に引き返したのには理由がありました。わが家の近くの畑にはヤナギバヒマワリの咲いている場所があり、その花を入れて夕日を撮影したいと思ったのです。

 畑に着いたとき、空いっぱいに広がった雲の下の方に5か所ほど穴があいていて、そこから黄金の光が地上を照らし出していました。そして、ヤナギバヒマワリの黄色の花がこの光と見事に合致していました。この光景を見て、私は惚れ惚れしてしまいました。もし、この光景がほんの一瞬だったなら写真を撮ることはできなかったかも知れません。幸い数分間続いたので、写真も撮ることができました。

 この日も私が帰宅したのは夜遅くになりました。母は数日前に安塚でもらった大きな栗を入れて蒸かした赤飯を用意していました。すでに別の場所で夕飯を食べていた私は、「てしょ」に入れて食べました。

 母が蒸かした栗入り赤飯は格別でした。とてもうまい。私が食べているとき、母は電動イスに座って私のすぐそばにいました。母を見たとき、私はあっと思いました。母もまた殿様に見えたのです。
  (2017年10月15日)

 
 

第474回 恐怖の遭遇

 いやー、ドキッとしましたね。

 9月の最後の金曜日。午前11時半頃、私は大島区板山にいました。

 Kさん宅の玄関を出て、私の車のところへ行く途中のことです。郵便局の四角いポストの脇に咲いていたピンクのバラが目に入りました。

 咲いていたのはわずか一輪。しかし、歩いている私を止めるだけの美しさがありました。すぐに私は車からカメラをとってきて、バラにカメラを向けました。

 接写しようと、バラにぐっと近づいた次の瞬間です、私の息が止まってしまったのは。バラの花のすぐそばに、何とヘビの頭が見えたからです。一瞬、どうしようかと迷ったのですが、幸いにも、ヘビの視線は私の体の下部に向いていました。お陰でシャッターを切ることができました。

 ヘビはシマヘビでした。バラの茎に体をはわせながら、ピンクの花のそばまで行っていました。シャッターを切ってからわかったのですが、ヘビの頭から2aくらいのところに、じつは黄緑色のカエルがいました。体長はわずか2aほどです。ヘビはこのカエルを狙っていたのでした。

 いま振り返って考えてみると、ヘビはバラの茎を静かに登り、カエルを食べようとしていたに違いありません。いよいよ口を開けて、ぱくりとやろうとした直前、カメラを持った人間が邪魔に入った。おそらく、そういうことだったのだと思います。

 ヘビと緊張感を持って対峙するというか、向き合うことは私のこれまでの人生でも何度かありました。そのなかで一番鮮明に記憶しているのは、私が中学生時代に体験したマムシとの遭遇(そうぐう)です。

 ちょうど今頃だったと思います。吉川区尾神でミヤマツ(サンカクヅルのこと)を採りに行って、マムシにかまれそうになったことがあったのです。

 ミヤマツは野生のブドウの一種で、エビヅルよりも甘味があり、子どもたちは競い合って山に入ったものでした。当時、私がミヤマツのある場所として知っていたのは「ナナトリ」という名前の山でした。

 マムシと出合ったのは、この「ナナトリ」でミヤマツを採りに行って木から落ちたときでした。高いところになっていた黒くて大粒のミヤマツを採ろうと木に登ったものの、木の枝が私の体重を支えきれず、ザザーッと地面に落ちてしまいました。

 幸い怪我はなかったのですが、落ちた場所のすぐ近くに赤マムシがいたのです。しかも完全に目と目があってしまいました。私が逃げだせばすぐにでも飛びつく。マムシはそういう態勢でした。怖かったなんてもんじゃありません。ですから、私はじっと動かず、息を殺して、マムシが去るのを待ちました。マムシが動いて、「もう大丈夫」と思える距離になるまでの時間の長かったこと、忘れることはできません。

 さて、1週間前の話に戻りましょうか。ピンクのバラのそばにいたヘビは邪魔が入ったことでカエルを諦(あきら)めたかというと、そうではありませんでした。

 私がカメラのシャッターを切った直後にカエルはバラの根元の方へ飛び降りました。いまが逃げるチャンスと思ったのでしょう。カエルを追いかけるようにして、今度はヘビがドサッと地上に落ちて、体をくねらせて動きました。

 私の目に入ったのはそこまでです。双方が草むらの中に姿を消しました。カエルは無事逃げ切ることが出来たのかどうか、わかりません。でも、カエルが絶体絶命のピンチを脱したことだけは確かです。
  (2017年10月8日)

 
 

第473回 母の「勉強」

 母の頭の中はいま、どんなふうになっているのでしょうか。突然、思いがけないことを言いだしたり、質問してきたりするので、面くらうことがあります。

 先日の夜、テレビで『この声をきみに』という番組を放映しているときもそうでした。私は、この朗読をテーマにした番組を楽しみにしていて、この日も「がまくんとかえるくん」という絵本の朗読に聴き惚れていました。

 そこへ母がいきなり、私に訊(き)いてきたのです。
「とちゃ、『くさかんむり』に西(にし)と書いてなんと読むが……」
 急に訊かれたので、私は「なにね」と訊き返しました。すると、母は、テーブルの上に右手人指し指を使って、草冠(くさかんむり)を書き、「くさかんむりの下に西という字を書いて何と読むがかてがど」と言い直しました。

 私は「茜(あかね)だよ」と答え、今度は私の方から「茜がなしたてが」と訊きました。母は小さな声で、
「テレビに出てきたすけ……」
 と応じました。たぶん、母は昼間の時間帯にテレビドラマでも観ていて、俳優の名前か何かが目に留まったのでしょうね。

 それで終わっていれば、印象に残ることもなく忘れたのでしょうが、母は続いて、
「とちゃ、魚へんに京(きょう)と書いてクジラか」
 と訊いてきたのです。よく知っているもんだと感心しながらも、「なしたてが」と逆質問すると、
「うん、デイサービスでクイズしたがど……」
 と母は言いました。

 なるほど、そういうことだったのか。これで読めました。前日、母はデイサービスのお世話になっていますので、そこで職員さんが魚へんの漢字を次々と出して「はい、何と読むか、わかる人いますか」といった調子で漢字の読み方の遊びをしたのでしょうね、おそらく。

 母のことですから、鯉(こい)とか鮎(あゆ)くらいの字は読めたはずです。そこで鯨(くじら)もちゃんと読めて、ほめられたのだと思います。

 ほめられていい気持ちを味わったものですから、テレビを観ていても、ちょっとむずかしそうな漢字が出てくれば、覚えようということになったのでしょう。

 それにしても、93歳を過ぎても漢字を覚えようという意欲を持っているとはたいしたものです。

 この夜、母は、デイサービスでの他の遊びのことも話してくれました。グループで都道府県名を出し合う遊びです。母と私のやりとりを紹介しましょう。

「デイサービスでケンがでたがど」
「なにね、ケンて」
「うん、四角い紙、配らんて、一枚ずつ書いて、グループで県(けん)の名前書いて、なんだろかな、なんだろかな、そう言って出すがど」  
「なんだ、県の名前か」
「うん、うん、そいが……。グループで。とちゃ、九つあると言ったすけ、新潟県だろ、細長い山形県だろ、それに栃木県に茨城県もある。端っこの方には山口県もあるし……」

 しゃべり続ける母の様子を見て家の者が、「ばあちゃん、また日本地図の勉強してんが。風呂に入んないや」と誘いました。それでも母のしゃべりはまだ続きました。母の漢字や地図の「勉強」はまだしばらく続きそうです。
 (2017年10月1日)

 
 

第472回 ぎっくり腰

 これは危ない。腰の痛みがいつもとは違ってきた。まずいぞ。そう思ったのはほんの数日前です。

 正直言って、何か重いものをもったわけでもないし、物を持つときに体のバランスを崩したわけでもない。原因らしいものがないかと訊かれれば、最近しっかり休んでないすけね、と答えます。どうあれ、背中でものすごくいや〜な感じがしたのです。

 その日は朝から新聞配達などで動き回っていました。連れ合いに「腰の痛み、ちょっとまずくなってきたみたい」と言うと、「じゃ、うつ伏せになって寝てみたら……」と言います。それくらいで治るんだろうかと思いながらも、少しでも楽になればありがたいと、1時間ほど言われるままにうつ伏せ状態で休みました。

 私が初めてぎっくり腰になったのは20代の後半の冬の日でした。その日のことはいまでもハッキリ憶えています。

 朝の搾乳を終わらせ、牛乳缶に入れた牛乳がじゅうぶん冷えてから、耕運機にキャタビラを履かせた運搬機で牛乳缶を村屋まで運びました。

 当時、村屋には旧源農協があり、道路の近くには、2階建ての小さな建物がありました。その1階だか地下に牛乳缶を冷やす水槽があったのです。そこまで、わが家から運搬機で20分ほどかかりました。

 その日は、雪の降りがひどく、除雪した道の幅が狭くなっていました。運搬機の荷台から私が牛乳缶を降ろし始めたときのことです。そばを通ろうとした車が急にクラクションを鳴らしたのです。たぶん、車がそばを通るので私に気をつけてということだったのでしょうが、私は、降ろしかけた缶を大急ぎで降ろしました。その瞬間です、ぐつっという鈍い音とともに背中がふにゃふにゃになってしまったのは……。

 不思議なことにその後、牛乳缶をどうしたかはまったく憶えていません。自力でなんとか降ろしたか、農協の職員さんに頼んだかのどちらかでしょう。いずれにせよ、その後、数日間はまともにしゃがむこともできなければ、立って歩くこともままなりませんでした。

 以来、ぎっくり腰はクセになってしまいました。腰の位置も決めないうちに重い物を持って、ぎっくり腰になったこともあれば、風呂の中から何も入っていない洗面器を取ろうとしてふにゃふにゃになったこともあります。そんなことで1年に1、2回はぎっくり腰になりました。

 酪農という仕事は、1日たりとも仕事を休むことができませんでしたから、長期間休むことは絶対に無理です。私は牛飼いの仲間から紹介してもらい、柏崎市与板にあった整体院のお世話になりました。

 ちょうど、そこでの治し方が私の体には合っていたようで、背中を引っ張り、外れていた骨をカシャッとはめるような感じですぐに治してもらったものです。

 でも、そこの整体師さんはじきに亡くなり、近間の鍼灸治療院や整体院に助けてもらうことが多くなりました。今回も最終的には鍼灸治療院の世話になり、なんとかいま動いています。

 長年、ぎっくり腰に悩まされてきた私ですが、幸いなことに長期間病院に入って治療をするといった事態に陥ることなく、今日に至っています。それは、これ以上頑張ったらおかしくなってしまうという限界点を体で判断できるようになってきたからです。そのおかげで、いろんな活動を継続できています。何事も無理をせず、頑張り続けることが大事ですね。
  (2017年9月24日)

 
 

第471回 リポビタンD

 いったいどうしたのかと思いました。義母の顔がいやにやつれて見えたからです。

 先週の土曜日、約3か月ぶりに柏崎の義母の家を訪ねました。玄関の網戸を開け、「ごめん下さい」と声をかけると、義母はすぐに私だとわかったようです。

「久しぶりだねぇ」。私の顔を見て、義母はそう言いました。しばらくして、「いつもお盆の13日には来るのに来なかったからさ、どうしたのかと思っていた」と続けました。

 逆光だったこともあったのでしょう、久しぶりに見る義母の顔は何となく暗かったので、「どうしたの、元気ないねかね」と、声をかけました。義母は私の顔を見上げて、言いました。「一緒にデイサービスに行っていた人、ほんの2、3時間で死んじまってさ、元気なんか出ないわ」と。

 亡くなった方は義母と同じ集落の女性で、89歳でした。腸ねん転だったらしいのですが、急に具合が悪くなり、あれよあれよという間に亡くなられたとのことでした。義母よりは4つ年下でしたが、一度大きな病気をされ、その後はデイサービスに通うようになって、リハビリの結果、車いすで動けるまでに回復したとか。その人が亡くなったのです。

 義母はここ数年、この女性の前向きな姿勢を手本にして生きてきたといいます。「目標の人がいなくなっちまった」とも義母は言いました。家族以外であっても、こうした身近な存在は大きいんですね。

 この日、私は、柏崎のスーパーでアイスクリームとドライフルーツ(乾いた果物)のパインを買って、義母のところへ持参しました。義母の部屋の真ん中にあるテーブルの上にこれらを出すと、義母は義母で黒いようかんを出してくれました。

 アイスを食べはじめたところで義母は、いつものように、「そこんちのおばあちゃん、元気かね」と母の様子を訊いてきました。母と学年は違うものの、歳は一緒なので、いつも気になるみたいです。

 私からは、母が畑仕事をまったくしなくなったことやデイサービスに週2回行っていることなどを伝えました。

 義母も5年ほど前からデイサービスに通っています。義母は週1回です。5年間、同じペースで通っているのですが、やはり歳が増えるに従い、体の衰えを感じているようです。

 話題になったことの1つは紙おむつのことでした。義母は「ずぼんを全部汚してしまい、ひどい目にあった」「トイレに行くまでに出てしまうこともあるんだよ」などと失敗談を語りました。

 義母はこれまで、どんなことがあっても自分でできることは自分でやると心がけてきました。トイレや風呂の掃除、洗濯などほとんどを自分でしてきました。でも、最近は思うように体が動かないと言います。

 びっくりしたのは風呂に入るときの話です。なかなか入る気になれないから、リポビタンDをぐいっと飲んで、威勢をつけてお風呂に入っているというのです。

 もうひとつ、目の前に出してもらった黒ようかんを見て、「おやっ」と思いました。黒ようかんは、包んである紙ごと2aくらいの間隔で切ってあったのですが、下の方はみんなつながっていたからです。義母のキチンとした性格からは考えられないことでした。

 私が訪ねた3日後、妻が心配して義母のところへ行ってきました。妻は、「あんたが行ってくれて、母も少し元気が出たみたい」と言いました。よかった、よかった。
  (2017年9月17日)

 
 

第470回 三八市にて

 どんな出会いが待っているか。9月の最初の日曜日、もくもくした大きな雲を見ながら、私は車を直江津の三八市へと走らせました。

 海岸に近い駐車場に車を止めると、市へはほんの1分です。西側のお店からビラを配り始めて3つ目か4つ目くらいのお店では、高齢のお母さんがパラソルを開こうとしているところでした。なかなか開けない様子でしたので、手伝いました。バッと開くと、小さなお店が出来上がりました。

 ビラを渡すといつも笑顔で「ご苦労さん」と言ってくれる魚屋のKさん、家族みんなが力を合わせている姿がとても素敵です。でも体調が悪いのか、最近はお父さんの姿が見えません。それがさみしいです。

 聴信寺の近くまで行くと、まだ9時30分過ぎだというのに、Oさんはもう店じまいをしていました。ナスが少し残ったけどあとは売れたからいいのだとか。Oさんとはいつも聴信寺の掲示板のことで話をします。この日も、「地獄とは言葉が通じない世界」ではじまる訴え文を見て、「これ、誰に言っているかわかるよね」「わかります、わかります」と言葉を交わしました。

 果物がずらりと並んでいるMさんのお店、そして最後のH園芸さんまで行って、東側に移ります。

 いつも、「また、勉強させてもらいます」と言ってビラを受け取ってくださるのは、フルーツを売っているK青果店のそばで自家産野菜を売っているお母さんです。「あれっ、やせたんじゃない」と言ったら、「また、戻っちゃって……」。この人、いつも控えめなところが魅力です。

 東側のお店の7店目かな、柏崎のK養鶏が出しているお店があります。そこで卵を販売している女性に、挨拶をしようとしたら、市で靴下のお店を出しているKさんがいらして、私に声がかかりました。「この間、おまんのこと、いい人だねとふたりで話をしていたんだ」と。私はとっさに言葉を返しました。「あんまり褒めんでくんない。この人、好きになったら困るからさ」そういうと、大笑いになりました。

 ひとしきり話をして、次のお店へと動こうとしたら、西側で洋服を売っているお父さんから、「旦那さん、ありがとう」という声が飛んできました。少し前にお店に行ったときにお留守だったお店です。このお父さんは、私のビラを真剣な表情で読んでおられました。ありがたいことです。

 妙高市からやってくるFさんは、タケノコの瓶詰やマムシの焼酎漬けなどを売っています。この日は、元気がありませんでしたね。「この間、国会中継見ていたら頭にきたよ」こんな調子でいつも声をかけてくださるのに、にこにこ笑っているだけでした。夏風邪でもひかれたのでしょうか。

 軽トラで浦川原からやってくる花屋さんはもともとは吉川区出身の人です。この店のお母さんのお陰で「幸来花」(こうらいか)という花を知りました。丁度、お客さんがあり、私に、「まだ、おまんち、とれないだろね」と言って、小さなサツマイモが入った袋を渡してくださいました。

 紙面の制約があって紹介しきれないのですが、この日もおいしい漬物で定評のあるYさんや柿崎からやってくるKさんなど大勢のみなさんと交流できました。

 三八市の通りは私が20代の頃、勤めで2年間通った思い出の地です。そこの市の魅力は何と言っても生産者、販売している人と直接顔を合わせて交流できることにあります。それに思いがけない出会いもある。これからも出かけたいと思います。
  (2017年9月10日)
 
 
 

第469回 さぶくねがか

 夜遅く、それも10時、11時という時間に家に戻ってきたとき、私は居間のテーブルの脇で横になるクセがあります。たいがいはテレビを観たり、スマホを操作したりしているのですが。

 ただ疲れていると、そこで1、2時間寝てしまうこともあります。先日の夜もそうでした。扇風機をまわしながら、横になっていたら、気持ち良くなったのでしょうね、ぐっすり眠ってしまいました。

 眠りの継続を遮断したのは母のひと言でした。

「さぶくねがか」

 一瞬、誰かと思いました。眼鏡をはずしていた私の目に入ったのは、白い肌着を着た老婆。居間に置いてある大きな電動イスの脇に立っていたのです。声は明らかに母の声でした。

「うん、さぶくね」

 たぶん、私はそう言ったのだろうと思います。母は、「さぶくねがか」のひと言以外に何も言わずに、自分の寝室に戻っていきました。時計は12時半過ぎでした。

 細い眼をした母ではありますが、視力はまだいい方です。母が私に声をかけてきたのはトイレに行って、その際、居間の灯りに気づき、横になっている私を見つけたからだと思います。

 夜中に母が私に声をかけてきたのは今回が最初ではありません。これまで何回かあります。私の頭に残っている最初の記憶は、中学生時代のことでした。

 部活で疲れたのか稲刈り仕事の手伝いで疲れたのかは忘れてしまいましたが、夜遅い時間、母が居間で寝てしまった私に笑いながら声をかけてきました。
「あにゃ、大事なもん、外に出てるど」

 このときは、言われて、びくっとしましたね。はいているパンツをまくり上げていたのか、パンツの脇から“大事なもの”がちょこっと顔を出していたのです。大慌てで「収納」しました。

 比較的新しい記憶としては、数年前のこと、夜中にアイスクリームを冷蔵庫から持ってきて、「おまん、アイスクリームいらんか」と声をかけてことがありました。これは「春よ来い」にも書きました。

 こうやって書くと、母は夜遅くまで起きていて、私が寝ているケースが多いように思えるでしょうが、実際はその逆のことが少なくありませんでした。特に、秋の稲刈りの時期はそうでしたね。母はよく舟を漕いでいました。

 私や弟たちが共通して記憶しているのは、「稲こき」などの夜なべ仕事をした後の母の姿です。小さな体で動き回っていた母は、仕事が終わると、よくインスタントラーメンをつくってくれました。父や祖父、私たちキョウダイにまず与え、自分も最後に食べるのですが、母はラーメンが入ったどんぶりを前にこっくりを始めるのです。父に、「どんぶりに顔、つっこむなや」と何度言われたことか。もちろん、それは疲れからきていたのでしたが。

 今年の夏、母は風呂から上がると自分のベッドのところに行って、寝間着に着替えないで、裸んぼのまま横になってうつらうつらしていることが何度かありました。

 夏とはいえ、風邪は大敵です。とくに母のように高齢の場合、風邪をひくと、命にかかわることもあります。私が夜遅く帰ってきて、母の寝室の灯りがついているときは、「さぶくねがか」と必ず声をかけてきました。どうやら、先日の私への母の呼びかけは、そのお返しだったのかも知れません。「とちゃだって、寝てるねか」と。 
  (2017年9月3日)

 
 

第468回 おもいをカタチに

 3年前のお盆の頃だったでしょうか、私が柿崎区の光徳寺を初めて訪ねたのは。「お寺のお堂で、だれでも出展できる面白い作品展をしてるよ」。知り合いの人から、そう言われて出かけたのでした。

 正直言って、作品展といっても、お堂の一角でやっているくらいかなと思っていました。ところが入ってみて、びっくり。作品はお堂の一角どころか、お堂全体に広がっていたのです。

 最初に目が行ったのは私が知っている人の作品です。その一人、ヒョウタンを使った作品づくりに精を出していたKさんの作品の中では、左右に伸びた筒の中央部に仏様が座っているものが強く印象に残りました。現実の世界で苦悩する人たちと信仰への道を表現しているように見えたのです。

 仏壇のそばには、虹のような色合いのさをり織の作品が高いところから低いところへと流れるように飾られていました。作品は明るくて、自由奔放な精神が宿っているように思えました。これは大潟区のSさんの作品でした。

 このほか、会場となったお堂では佐渡おけさをしなやかに踊っている女性を切り絵で描いたもの、水色の朝顔の花と葉を涼しそうに描いた水彩画、竹で作られたいろんな大きさのザルや籠などが所狭しと展示されていました。

 作品をひと通り観たところで、スタッフの1人の方からお茶を飲んで行ってくださいと勧められました。そこにはテーブルとイスが並んでいて、作者を含めて数人の人がいました。とてもいい雰囲気の中で、お茶をご馳走になりながら楽しくおしゃべりさせてもらいました。

 以来、私は毎年8月になると、光徳寺の作品展に出かけるようになりました。訪れると毎回、新しい作品との出合い、発見があります。今年もいくつかの作品とのうれしい出合いがありました。

 そのひとつは「初めての絵」というタイトルがつけられたFさんの水彩画です。4枚の絵に描かれていたのはカボチャやサツマイモなど身近にある食べ物です。あっさりした色塗りですが、野菜の配置がぴたりと決まっています。本当に初めて描いたものかと思いましたね。

 いま1つは小学4年生、K子さんの「これ、食べていいかな?」という絵。これにも惹きつけられました。太陽が照りつける中、空には白い雲、2つの里山にはたくさんの花が咲いている。そこにウサギなど5匹の動物たちが腕組みしたり、物を持ったりしている姿が描かれていました。絵を見ていると、これから1つの物語が始まるのではといった期待感がふくらんできます。K子さんは将来、絵本作家になるかも知れないと思うほど素敵な作品でした。

 光徳寺作品展の正式名称は「みんなのお寺のみんなの作品展」。思想信条、宗教の違いを越えて、まさにいろんな人の作品が寄せられます。今回、お堂の入り口付近に飾られていた作品の中にキハダを使って制作された手すき和紙や箸、押し花などがありました。作品の説明を読んでいて、「あっ、これだ」と思いました。そこには、「それぞれのおもいが一つの『カタチ』になりました」と書かれてあったのです。

 自分の思いを何らかの形で表現したいという人がいて何かを制作する。作ったからには、この作品を他の人から見てもらいたい。そして、お寺に作品を持ちこみ、みんなで楽しむ。みんなの作品展、今年は展示期間の途中からの参加もあったようです。これからもずっと続けてほしいですね。
  (2017年8月27日)

 
 

第467回 いないいないばあ

 5月の連休にやってきたときは、わが家のメンバーの誰にも抱かれようとしなかった孫のリョウ君。お盆の13日、再びわが家にやってきました。

 母は「まあ、いい子になったない」と言って両手を広げ、「おいで」の合図を何度も送りました。しかし、リョウ君はまったく気にとめることがなく、今回も母のところへ行こうとはしませんでした。

「また、だめか」……そんな空気が漂い始めてまもなくでした。意外なことが起きたのです。母のとっさの判断だったのでしょうか、母が両手で自分の顔を隠しながら、「リョウちゃん、いないいないばあ」とやると、リョウ君が母のその動作に関心を示したのです。

 チャンス到来とばかりに母は最高の演技力で「いないいないばあ」を繰り返しました。両手で小さな顔をすっかり隠し、手を離すと最大の笑顔を見せる。リョウ君はその姿がすっかり気に入って母の方を向き、うれしそうな表情を見せてくれました。これで母とリョウ君との距離はぐんと縮まりました。

 わが家にやってくる前にリョウ君は両親とともに尾神にあるわが家の墓に行き、お参りをしてきました。また、飛行しているパラグライダーも観てきました。動き回ったことで、お腹が空いていたようです。

 母との「いないいないばあ」が終わると今度はテーブルの上にあるものに興味を示しました。最初は、ヨーグルト入りのモモをパクパクと食べ、次いで、にぎった朝ご飯の残りを食べようとしました。

 じつは、妻はお昼用にと鯛めしを用意していました。鯛めしを炊くために、朝の残りをたまたまおむすびにしておいただけなのですが、それを食べれば、お腹がいっぱいになってしまうはず。妻はそのおむすびから関心をそらそうと必死でした。ところが鯛めしの方はまだ炊きあがらないときています。仕方なく、モモを予定した以上に食べさせるという結果になりました。

 面白いと思ったのは、母も妻もそれぞれリョウ君と文字通り接触したいと思っていたことです。何と言っても3か月前にまったく触らせてもらえないという「悲劇」を味わっていましたからね。

 母は、リョウ君がモモを食べることに集中している間に後ろからリョウ君の頭に触り、「いこいこ」することに成功。鯛めしを喜んで食べてもらえた妻は、食後は外に連れ出し、手をつないで散歩を楽しみました。小指を出すとつかまってくれたとか。

 もちろん、私も今度こそという思いがありました。大出口泉水の冷たい水をペットボトルに入れて用意しておきました。そして、散歩から戻ってきたリョウ君とそのペットボトルを使って、「はい、どうぞお飲みください」ごっごを実行したのです。

 ペットボトルのキャップをつけたまま、相手のコップに水を入れる仕草をする。「はい、入りましたぁ。どうぞ、どうぞ」とやるわけです。水が「注がれた」段階で、今度はコップを口のそばに持っていき、ごくりごくりと飲む仕草をする。リョウ君はこの遊びをとても気に入ってくれました。おかげで「たかい、たかい」もできましたし、私の大きなお腹の上にのぼって遊んでもくれました。

 子どもはどんどん成長します。前回会ってからわずか3か月ですが、その間にリョウ君は歩けるようになりました。どんなことでも関心を示し、動きまわります。母はひ孫と別れるとき、「両手でバイバイしてくれた」と涙を流して喜びました
  (2017年8月20日)

 

第466回 いつもと変わらず

 若くして連れ合いを亡くした人は悲しみをどんなふうにして乗り越えていくのでしょうか。8月の猛烈に暑い日の午前、軽のオープンカーに乗った一人の男性が長野県から山を越え上越市に入ってきました。

 その男性は、岐阜県本巣市に住んでいる元会社員のトシヒコさんです。年齢は60代半ばといったところでしょうか。頭には白いものが混じってはいますが、髪は刈り上げてあり、キリリとしています。一見してスポーツマンといった感じでした。

 トシヒコさんは2年前の8月にお連れ合いのM子さんを病気で亡くしました。まだ五九歳という若さでした。M子さんは安塚区の山間部出身の人で、3人姉妹の末っ子でした。この日、トシヒコさんはM子さんの実家を目指して来ていたのです。

 私とトシヒコさんとは初対面でした。でも、市内のお店でトシヒコさんと偶然会ったとき、私は、初対面という気がしませんでした。ニコニコして挨拶する姿は人懐こくて、かなり前からの知り合いのような錯覚を起こしそうでした。じつは、これまで私は、M子さんのお姉さんから、トシヒコさんのことを何度か聞いていたのです。

 M子さんが亡くなる1、2年前だったと思います。3人姉妹がそれぞれの連れ合いとともに本巣市に集まりました。本巣ではみんなで酒を飲み、美味しいものを食べ、楽しいひと時を過ごしたということでした。そのときもトシヒコさんは会を大いに盛り上げていたといいます。

 トシヒコさんと会った翌々日、M子さんのお姉さんから、いろいろ聞きました。トシヒコさんは車を2台所有していて、そのうちの1台のナンバーは「319」。この数字は2人の結婚記念日の月日そのものだというのです。また、携帯電話の待ち受け画面にはM子さんの写真を使っていました。さらに、M子さんが亡くなってからは、ほぼ毎日、お墓参りをしているというのです。ここまで徹底している人、めったにいませんね。

 愛妻家ぶりを聞いた日、私は、M子さんが亡くなった年の年末にトシヒコさんがフェイスブックで発信した黄色い花の写真とコメントを見て胸が熱くなりました。「正月の買い出しから帰ってきて、ふと庭を見ると、亡き妻が植えたと思われる花が日も当たらないのにきれいに咲いており、心和む思いがしました」とあったのです。花はプリムラジュリアン。娘さんの「かわいい花だね」というコメントには、「お母さんのように」と返していました。

 さて、トシヒコさんが安塚にやってきた日の夜のこと、M子さんの実家に泊めてもらうにあたり、トシヒコさんは、「枕だけ貸して」と言いました。なんと、トシヒコさんは車に積んでいた寝袋を出して来て、それを使ったというのです。連れ合いの実家に少しでも迷惑をかけたくないという思いがあったのでしょうか。

 M子さんが亡くなってからトシヒコさんがM子さんの実家を訪れたのは今回で2回目。実家の人たちは、M子さんが生きていたときと同じように、安塚にやってきて、お墓参りをし、一晩泊まって帰るトシヒコさんの姿を見て、「亡くなってもいつもと変わらない」と喜んでおられました。

 私は、この話を聞いたとき、この「いつもと変わらない」ということがとても大切なことだと思えました。トシヒコさんが帰る日の朝、89歳になるM子さんのお母さんは赤飯を蒸かし、おにぎりにして、お土産に持って行ってもらったとか。これもいつもと変わらないことでした。
  (2017年8月12日)

 

第465回 ウワミズザクラの実

 何でいままで気づかなかったのでしょうか。ウワミズザクラの実も他のサクラと同じように「サクラの実」として食べられる。私は、そのことを今年の7月9日まで知らなかったのです。

 ウワミズザクラというのはバラ科の落葉高木で、私の地域ではネズミザクラとかアンニンゴという名で知られています。花は白、小さな花がびっしり並ぶ姿はまるでブラシのようです。花が咲く前のつぼみを塩漬けにして食べると、滋養強壮、精力回復に効能があると言われています。

 7月7日、私は朝の散歩道で緑色のウワミズザクラの実を撮り、フェイスブックで発信していました。写真のそばには「熟したら、いちど、食べてみよう」という言葉を添えてみました。正直言って、「熟したら云々」と書いたときには、緑色の実がどんなふうになっていくのかまったくイメージがわかず、実は食べられるかどうか確かめてみようという思いだったのです。

 そうしたら、「杉並の縄文人」、考古学者の岡村道夫さんが2日後にコメントを寄せてくださいました。

 岡村さんは私の思いを感じとってくださったのでしょうね。岡村さんのコメントには、「日本在来(縄文時代来の)のヤマザクラの仲間は、サクランボが食べれますし、樹皮は樺細工になってきました。低湿地遺跡を掘ると種や樺製品が良く出てきます。昭和30年くらいまでは、桑子・グミ、キイチゴなどと並んでよく食べられていました。結構甘くておいしいですよ」とありました。

 こういうコメントをいただくと私の好奇心にエンジンがかかります。その日以降、散歩するたびに、ウワミズザクラの木の枝に目をやり、何か変化が生まれていないかと観察するようになりました。

 7月の16日の朝5時半過ぎでした。ウワミズザクラの実に大きな変化が出たことを知ったのは。それまで徐々に実は緑色から薄赤い色に変化し続けていたのですが、 実の1粒が黒く変化していたのです。

 枝を引き寄せ、実がついた部分をよく見てみると、そこには直径5_ほどの実が十数個ありました。そのなかで、熟して黒くなった1粒をもいでみました。大きさは確かにひと回り小さいですが、形は、昔から食べていたサクラの実とほぼ同じでした。

 もいだ実は口の中に入れてみました。すると、昔からなじんできたサクラの実と同じく、薄甘い味が広がりました。岡村さんの指摘通りです。私は、ウワミズザクラの花を初めて見たときから、勝手に、他のサクラとまったく別物という先入観を持っていましたが、それは完全に間違いでした。

 ウワミズザクラの実は少しずつ熟し、8月に入ったいまも食べることができます。数日前、私の事務所の近くで畑仕事をしていた青年時代からの友人、A子さんにあげたところ、「初めて見た」と言います。食べたのも初めてとのことでした。私だけではなかったんですね、「熟した実も食べられる」ことを知らなかったのは……。

 とてもめずらしそうにしているので、「これ食べると妊娠しやすくなるかも」とA子さんに言うと、「あらそう、そりゃたいへん」と平然とした表情で言葉を返してきました。さすが60代です。

 A子さんは残った実を家に持って行っていいかと私に聞きました。なんでもこの実をお連れ合いに食べさせてあげたいんだとか。やさしいですね。私は「どうぞ」と言いました。そう言えば、ウワミズザクラの花言葉は「持続する愛情」でした。
  (2017年8月6日)

 

第464回 母の手を引きながら

 先日は母の眼の定期検査でした。雨降りが何日か続いて、ようやく落ち着きを取り戻していました。午前9時頃、母を軽乗用車に乗せました。予約の時間は10時半。余裕を持って病院へと車を走らせました。

 母は車に乗ると、いつも私に話かけてきます。この日は最初、田んぼの様子や原之町商店街の街並みなどに目を向けていましたが、しばらくは何も語りませんでした。

 口を開けたのは六万部を過ぎ、町田に入ってから。「トシコさん、ここだったねかな。どうしていなる」と訊(き)いてきたのです。
「おへがし(大東)のか?」
「うん、おへがしの……」
「特養に行ってなるよ」
「そいがか」
 大東(屋号)は、30数年前まで住んでいた尾神のわが家から少し下ったところにあった家ですが、まだ嫁に行く前のトシコさんやタツコさんなどと母が付き合いがあったことを初めて知りました。

 車が頸城区から下吉野に入る橋の一歩手前で、母は急に話題を変え、車に乗って酔ったときの話を始めました。
「とちゃに乗せてもらったとき、ここで、おれ、具合悪くなったがど」

 それから、車酔いした過去のことを思い出したのでしょう。婦人会の旅行に行ったときのこと、30数年前、高田のある整形外科に5ヶ月間も入院した後、お世話になった板山の伯母にお礼として新しい布団を持って行ったときのこと、その布団を購入したとき、くじ引きで一等賞をもらったことなどを次々と語りました。

 病院に着いたのは9時半過ぎです。玄関のところで母を降ろし、駐車場に車を置いてきました。その後、診察検査の手続きをすませ、エレベーターに乗って2階の眼科へと進みました。その間、ずっと母の手を引きながら歩きました。

 通院を始めた最初の頃は、母とはいえ、手をつないで歩くのはちょっぴりはずかしい気持ちがありました。でも最近はすっかり慣れました。母も歩くときに手を引いてくれるようにと私の手をさがします。

 検査は受付の手続きをしてからすぐ行われ、診察は予約時間どおり10時半からでした。担当のお医者さんから、「おばあちゃん、どうですか具合は」と尋ねられ、母が「なんともないです」と答えたのには笑ってしまいました。すっかり耳が遠くなった母ですが、お医者さんの薬の説明には、すべて「はい」と答えていました。

 この日、検査、診察などすべてが終わったのは午前11時過ぎでした。車に再び乗り込むと母は、「『あるるん』に行かんがか」と言います。地元の商店でアイスクリームなどを買うことがあっても、遠いところで買い物をするチャンスはめったにない母です。母の求めに従いました。

 JAの農産物直売所、「あるるん畑」は大勢の人で賑わっていました。ここでも母の手を引きながら買い物をしました。 「なんでも買ってもいいよ」と私が言ったこともあって、母はトウモロコシ、ピーマン、干ししいたけ、赤飯、一口メロンなど2千4000円ほど買いました。買い物が大好きな母ですから、少しは喜んでもらえたかなと思っています。

 93歳の母はいま1週間に2回、デイサービスに通っています。あと、外に出るのは地元で買い物をするときくらいです。歩くことができる今のうちに、母をお茶飲みや買い物に連れて出歩きたいと思っています。もちろん、母の手を引きながら。
  (2017年7月30日)

 
 

第463回 ウドの姿煮

 魚は聞いたことがあります。もちろん食べたことも。でも、山菜のウドについても姿煮があるとは思いませんでした。

 山ウドの姿煮を見たのは今年の5月の連休の後半。板山出身のT子さんから「おまんちのおばあちゃん、遊びに来てもらってくんない」と誘われ、母と一緒におじゃましたときのことでした。

 居間に上げさせてもらうと、びっくりしましたね。テーブルの上には手づくりのコンニャク、各種天ぷら、みかん、菜っぱの煮物、お菓子などがずらりと並んでいたのです。いつもおじゃますると、食べきれないほどたくさんの野菜料理、漬物などを出していただくのですが、この日はそれを大きく上回る量です。

 山ウドの姿煮は、どっさりと出していただいた料理の一部でした。大きな白い皿に入ったウドは、長さが20aほどで、7本くらいありました。ウドは先の方から根元まで、山で採ったときの姿、そのまんまでした。

 出された料理について、「まあ、うんまそうだ。上手に作んなる」と母が褒めたところ、T子さんは「おっかちゃ、料理人だもん。たいしたもんだ。憶えもいいし……」と逆に母を持ち上げました。

 そしてT子さんは、姿煮をしたウドの説明をしてくれました。「昆布つゆとミリンでガラッと煮ただけだけだがね。ただ、今回は、歯、弱けりゃわりすけ、長く煮たが。そしたら、ウドの青い色、飛んじゃった」と。話を聞いてから、いま一度、皿の中のウドをよく見ました。確かに、色はいかにも長時間煮たという感じになっていました。

 箸(はし)でウドの1本を口に入れると、じつに柔らかです。ウドに一定の歯ごたえを求める人にとっては、ちょっと物足りないかも知れません。でも、味は抜群でした。ミリンも効いているし、適度の甘みがあります。私はがぶがぶっと一本、食べました。

 食べ始めるとじきに、母とT子さんは昔話を始めました。地名も人の名前も私の知らないものがいくつか出てきますが、2人の話を聞いていると、私の知っていることとつながって容易にイメージできます。

 そのなかで一番面白く聞いたのは柿の話でした。

 T子さんがまず語り出しました。 「シモバヤシ(屋号)のばちゃ、坪野から嫁に来ていなったこて。おら、石谷から上がって、坪野へ柿もらいに行ったもんだ」  私は尾神の下の方にある蛍場から「ナナトリ」というところを通って石谷に行ったことはありましたが、同じ道を通って坪野まで柿をもらいに出かけた人がいるというのです。道を逆方向に歩いて、柿をもらいに行った人がいたとは初めて聞きました。

 母はT子さんの話を聞いて思い出し、竹平の実家、「のうの」(屋号)にあったという柿の木のことを語りました。 「『のうの』には、じさ柿というのがあった。百目柿もあった。たぶん、いまもあるがねかな」 「のうの」の従兄(いとこ)が板山の従兄とともに歩いてわが家へ柿もぎに来たという話を何度も聞いていたので、母のこの話は新鮮でした。

 ここ数年、旧東頸城の人々と交流する機会が増えています。そこで、旧中頸城とは違った食文化を知り、びっくりするケースが何度もあります。山菜で言えば、「嫁泣かせ」(アキギリ)を食べているというのが最初でした。今回の、ウドをまるごと煮て食べるというのも驚きでしたね。
  (2017年7月23日)

 

第462回 ビラを片手に

 先だっての月曜日の午後のことです。午前中に議員団会議を終えた私は、ビラを片手に持ち、久しぶりに山間部で訪問活動をしました。この日は猛暑で、夕方にならないと外で仕事をするには暑すぎました。

 この日、訪れた家は20数軒でした。

 このうちNさんの家では、玄関で「ごめんください」と声をかけると、奥の部屋からお母さんが姿を見せてくださいました。

「暑いもんだすけ、家にいたがでね。はい、年だすけ……」と言われたものですから、「いくつになんなったね」と尋ねると、まだ80代前半です。「おらちは93だでね。おらちに比べればまだ若い」と言うと、「おまんちのばちゃ、達者でいなるもんね」という言葉が返ってきました。

 Nさんのお連れ合いはすでに亡くなっていますが、8年前に他界した私の父と同級生でした。そんなこともあって、訪ねると、父が牛飼いをしていたときのことやPTAでの活動など、2人の昔のことなどで話がはずみます。もっとも、この日は私の母のことが中心でしたが。

 次に親子で頑張っているTさん宅へ。ここでいつも感心するのは、自分の家の屋敷まわりだけでなく、近くの県道や市道の草を伸ばすことなく、きれいにしてあることです。

 玄関先で何度かTさんに声をかけたものの、返事が返ってきません。留守かなと諦めて外へ足を踏み出したところで、「はーい」という声が聞こえてきました。たぶん、暑い中、仕事をされて、休んでおられたのでしょう。「もうしゃけね、すぐに出てこねで」と言われました。 「何も用事ねがだでも、おまんの顔、見に来たが」と言うと、「もう姉んとこ、行ってくんなった」と訊かれました。「まだ、これから」と答えたら、「この間から、風邪でたいそしたげらだすけ、顔みせてやってくんない」と頼まれました。

 その後、Tさんの姉さんの家にもおじゃまして、元気な様子を確認させてもらいました。風邪で苦労されたようで顔にはちょっぴり疲れが見えましたが、具合が悪いといった感じではありませんでした。

 この日の午後の訪問活動で一番印象に残ったのは、お寺がある集落のMさんです。大きな杉の木の根っこのところに座り込んで、干しておいたラッキョウの実を一つひとつ取る仕事をしておられました。

 Mさんは、大正15年生まれで90歳。息子さんと2人暮らしです。私の顔を見るなり、「おまさん、へさだね」と言って、仕事の手を休めて私の話し相手になってくださいました。

「おらたり、最近、2人も死んだ。でも、空気がいいのか、何がいいのか、90からのしょ、何人もいるがでね。下町(の施設)にいるしょ、浦川原にいるしょ、吉川んしょだらけだ」そう言いながら、地域の高齢者の近況を教えてもらいました。

 Mさん自身もディサービスに週一度の割合で通っているとのことですが、「行くと、おれが一番たっしょげらだ」と言って笑います。そして、「おれはまんましねきゃならんすけ、そんがに行っていらんねがだ」とも言いました。

 10分ほど話したでしょうか。Mさんは別れ際に、「おまさんの顔、見ると、おらオヤジ思い出す。おまさんと同じで飛び回ってばかりいたすけね」と言って、目を潤ませました。うれしかったですね。

 猛暑の中での訪問活動。久しぶりの訪問を喜んでくださる人の顔を見て、「時間を作ってまた来なきゃ」と私は思いました。
  (2017年7月16日)

 

第461回 注文書

 その日、私が家に戻ったのは午後10時頃でした。母はいつもと違う行動をしたので、疲れて横になっているだろうと思っていたのですが、そうではありませんでした。まだ起きていて、コタツのテーブルの上で書きものをしていたのです。

 母が書いていたのは黄緑色の紙。農協の支所が各戸に配布した干しぜんまい注文書でした。ゼンマイ採りに行けなくなっても、ゼンマイを使った料理をして誰かに食べてもらい、「うんめでね」と言ってもらいたいのでしょうね。

 まだ、書き始めたばかりだったのでしょうか、いきなり、
「とちゃ、ここの名前はどうやって書けばいいがだ」
 と訊(き)いてきました。「いったい何を訊いているのだろう」と考えているうちに、母から、
「『はしづめ・のりかず』か『はしづめ・えつ』か」
 と続きましたので、「おれの名前でいいこてね」と答えました。

 すると、「は・し・づ・め・の・り・か・ず」とゆっくり言いながらボールペンで字を書いていきました。

 干しゼンマイを注文したいのは母です。母は注文したい人間の名前を書かなければならないのではと思ったようです。

 私は疲れていたので、コタツのそばで横になりながら母の様子を見ていたのですが、母の真剣な表情には驚きました。細い目で50aほど離れたボールペンの先を見据え、一字一字、それこそ丁寧に書いていたのです。

 名前を書き終わると、今度は住所です。
「とちゃ、ここの住所はどうやって書けばいいがだ」
 と訊いてきました。
「吉川区代石(たいし)でいいよ。番地はいらんよ」
 と答えると、
「いらんがか」
 と言いました。こんな調子で母の質問が続き、最後に母が訊いてきたのは「お支払方法」でした。これがまた、母を悩ませる書き込み欄だったのです。
「とちゃ」
「なんだね」
「カネは口座か現金か」
「どっちでもいいよ」
「おれ、カネ、払ってもいいよ」
 そこまで会話が進んだところで、注文書を見ると、口座引き落としにマルをつけた場合は「取引先コード」をご記入くださいとありました。私もコードは知りませんし、わざわざ調べるのも面倒なので、母に言いました。
「ほしゃ、現金にしておきない」
 と。それで一段落したのですが、おそらく注文書を書き上げるまでには10分近くかかったのではないでしょうか。

 母が干しゼンマイの注文書を書いた日は、朝の3時頃から土砂降りとなり、6時には避難勧告が出ました。防災無線で一斉放送されたこともあって、近くの親戚から「うちに来ないか」と誘ってもらい、母はその親戚の家に半日ほど避難しました。

 親戚の家では美味しいものを食べさせてもらい、叔母と懐かしい昔話も楽しんだようです。

 お陰で母は家に戻っても元気でした。「どら、よこしない」と言えばすぐに終わった注文書書きでしたが、母に任せたことで、ゆっくりでも自力で注文しようとする母の頑張りを見ることができました。           
 (2017年7月9日)

 
 

第460回 顔を見るだけで…

 先日、吉川区の旭地区に用事があって出かけました。午前11時40分頃だったでしょうか、車を走らせていて、ふとTさんのことを思い出し、元気だろうかと気になりました。

「ふと」と書きましたが、じつはきっかけとなることがあったのです。その日の1週間ほど前、新潟市にお住まいがあるNさんと上越市の春日野で会いしました。その際、Nさんに「お父さん、お元気ですか」と声をかけ、少し話をすることができました。TさんはNさんのお父さんと親交のあった人なのです。

 もう10年以上も前になりますが、Tさんのところでお茶をご馳走になった際、TさんがNさんのお父さんと深い付き合いがあることを知りました。当時、私はNさんのお父さんから時どきメールをいただいていましたので、Nさんのお父さんが出された本のことなどが話題となり、楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

 さて、今回です。Tさん宅の玄関で、大きな声で「ごめんください」と声をかけると、Tさんのお連れ合いが出てこられました。私の顔を見るなり、「さっ、お入りください」と勧められたのですが、お昼の時間になることや午後の予定もあったので、遠慮しました。

 私がTさん宅を訪ねたのは約1年ぶりです。お連れ合いの「橋爪さんですよ」の声に促されて、Tさんは玄関に出てこられました。

 Tさんは、私の父よりも4歳年下であると聞いていましたから、確か86歳です。正直言って、だいぶ老けられただろうなと予想していたのですが、しゃんとした姿勢で、目もしょぼしょぼしたところがありません。私が、「やあ、お変わりありませんね」と言うと、Tさんは笑っておられましたが、前回よりも老けた感じはまったくしませんでした。

 1年も会っていないと、やはり話は次から次へと出てきます。Tさんが最初に話をされたのは、私の活動範囲のことでした。

「レポート、見せてもらっていると、ずいぶんあちこちに行っていなるんだね」と言われましたので、「合併して広くなったすけ、そうなるこてね。でも、いろんな人と出会えるし、なかには俺を待っていてくんなる人もいなったりして、それが張り合いです」と答えました。

 そして、Tさんからは、年末で92歳になる私の叔父がどうしているかとも聞かれました。68歳の連れ合いを亡くして以来、ずっと一人暮らしを続けている叔父のことを気遣っていてくださったんですね。

 私は、「先だって、宣伝カーでそばを通ったので、寄ってきました。そしたら、玄関のとこまでもう出ていて、『ありがとね、がんばってくんないや』と手を握られました」と言いました。

 すると、Tさんは「歳をとってくるとね、親しい人の顔を見るだけでホッとするんだわね」とおっしゃったのです。Tさんの「顔を見るだけで……」という言葉が強く心に残りました。

 Tさんの家とは、酪農を始めたころから付き合いをさせてもらっています。いまも忘れることができないのは、Tさんのお父さん、お母さんが亡くなられるときの話です。お父さんもお母さんもTさんに抱かれた状態で息を引き取られたということでした。ひょっとすると、そのとき、ご両親はTさんの顔を見られたのかも……。

 わずか10分ほどでしたが、私は、Tさんを訪ねてよかったと思いました。

 (2017年7月2日)

 
 

第459回 小鳥の演技

 「橋爪さん、おまん、あの鳥の名前わかんなる?」──先日、市で買い物を済ませ、自分の車のところに向かおうとしていた私にそう言って声をかけてくださったのは、店番をしていたTさんでした。

 私が「何?」って顔をしたのでしょう。Tさんはすぐ歩きだし、私と一緒にその小鳥の近くまで行きました。驚きましたね。小鳥から2bほどのところに行っても、飛び去ることなく、親指大の砂利の上をピイピイ鳴きながら歩きまわっていたのです。

 小鳥が遠くに行かなかったのには理由がありました。Tさんから教えてもらったのですが、近くにその小鳥が産んだと思われる卵が3つあったのです。小鳥はそれらの卵を守るために離れずにいたのでした。

 卵の大きさはウズラの卵とほぼ同じでした。結構大きく、1a×2aくらいはあったでしょうか。スズメと同じくらいの小鳥がよくこんな大きな卵を産んだものです。卵の色と模様は周囲の砂利とまったく同じです。だから、いったん卵から目を離すと分からなくなってしまいます。

 私は、駐車場の一角にいたこの鳥の名前を即座に答えることができませんでした。最初はセキレイの仲間かと思ったのですが、黄色い輪で囲まれた目といい、のどの下にある帯状の模様といい、これまで見たことがないものです。「これは初めて出合った小鳥だな」と私は思いました。

 私は自分の車に戻り、カメラを用意しました。あとでこの小鳥の名前をしっかり調べたいと思ったからです。そのためには、体の大きさ、顔や頭などの模様、全体としての雰囲気などをしっかりと記録しておかなければなりません。

 小鳥にカメラを向けると、何ということでしょう、左右の羽を広げて、私を睨(にら)みつける、そんな行動に出たのです。黄色い輪に囲まれた目は鋭く、睨んだときはすご味がありました。Tさんは、「威嚇(いかく)している」と言っていましたが、自分が産んだ卵をとられると、この小鳥に思わせてしまったのかも知れません。

 私はこの日、市役所で会議があり、時間はあまりありませんでした。でも、砂利の窪みに卵を産んだ小鳥がいて、それを守るために一生懸命になっている。その姿を見たら、すぐには離れる気にはなれませんでした。市役所に行かなければならないギリギリの時間まで遠くから観察を続け、気になったことをメモ帳に記録しました。

 この日、私は市役所での会議が終わってから再びこの場所を訪れました。正午近くだったと思います。インターネットや本で名前を調べた私は、この小鳥がチドリの仲間であることを知り、再度、観察するなかで、コチドリであることに確信を持ちました。もちろん、Tさんにも伝えました。

 2度目の観察は、インターネットで新たな知識を得た後でした。最初に見たとき、コチドリが翼を広げたのはなんだったのか気になりました。というのも、コチドリは「自分が傷ついてもがき苦しんでいる様子を演じ、敵の注意を自分に引きつけさせて、卵や雛と反対の方向へ敵を導こうとする」ことがわかったからです。これを「擬傷(ぎしょう)」というのだそうです。この日は確認できませんでしたが、小鳥が演技をするとは思いませんでしたね。

 コチドリの抱卵期間は3週間余り。そして、その後、巣立ちまでどれくらいかかるのでしょうか。これからは梅雨時期で雨も風も吹きます。暑い日もあるでしょう。それにヘビに襲われる可能性もあります。無事に巣立ってほしいですね。
 (2017年6月25日)

 
 

第458回 花に惚れて

 いまから10年ほど前のことだといいます。上越市の山間部に住むアケミさんは実家がある小豆島に帰省したとき、お姉さんの嫁ぎ先に行き、その家の隣の家で咲いていた赤い花に惚れこんでしまいました。

 その花の名はツキヌキニンドウ。北米原産のスイカズラ科のツル性低木で、赤い筒状の花は長さが4aから5aにもなります。これが軒下などで花を咲かせると、縦方向でほぼ一面赤くなるのです。

 上越市に戻ったアケミさんはその後、娘さんが嫁いでいる新津市へ出かけました。新津市には県立植物園があります。そこへ行けばツキヌキニンドウを入手できるかも知れないと思ったのでしょう。でも、残念なことに見つかりませんでした。

 その後、しばらく情報が入らなかったそうですが、数年後、アケミさんは郵便局の通信販売のパンフレットを見ていて、偶然、その中にツキヌキニンドウの写真を見つけたのです。言うまでもなく大喜びし、すぐに申し込みました。1本、980円でした。

 苗木を買い、大事に育てたアケミさんは、自宅の南側の下見のところにツキヌケニンドウのツルをはわせます。そして数年前から、小豆島で見かけたものと同じ素敵な花を自宅でも咲かせることに成功したのでした。

 じつは、私がこの花のことを初めて聞いたのは昨年のことでした。従兄の連れ合いのY子さんからです。でも、そのときはいろいろと忙しいことが続いていて、花を見に出かけることはできず、花期を逃してしまいました。

 今年、Y子さんがメールで教えてくれたのは5月26日でした。そこには、「小豆島の花が見事に咲いていました。赤い花が細いツルみたいな木につたい、赤い雨が降っているようでした」とありました。昨年、私が見逃してしまったことを憶えていてくれたんですね。「今年こそ、必ず見てみたい」そう思った私は翌日、すべての行動予定が終わってから、アケミさんの家に車を走らせました。

 アケミさんの家に着いたときは、すでに夕方です。写真に撮れるだろうかと心配しながら、南側の下見のところへ行って、私の足はぴたりと止まりました。花はすでに最盛期を迎えていて、「赤い雨」というよりも「赤い滝」が目に前にありました。Y子さんが見たときよりも進んでいたのです。花は細長く、ラッパ状で、じつに見事に咲いています。私は、「こんな花も世にあったのか」と信じられない思いでした。

 家から出てきて説明してくださったアケミさんは首にタオルを巻いていました。働き者であることは日焼けした顔を見ればすぐにわかります。

 アケミさんはツキヌキニンドウの花を初めて見たときの感動から、栽培方法まで丁寧に教えてくださいました。話を聴いていて、「この人は、命あるものは何でも大切にする人に違いない」と思いました。

 あとでわかったことですが、アケミさんは20年ほど前まで牛飼いをしていた人でした。「野菜は堆肥を使ったときとそうでないときと甘味が違う。漬物にしてもわかる」、そう言い切るアケミさんはいま、牛飼いで頑張ったときの情熱を畑に注いでいます。

 牛飼いをしたことがあって、花が好き。それだけで私はアケミさんに親近感を持ちました。ツキヌキニンドウは冬に耐えて生き抜くとか。「ぜひ植えて咲かせて」と言われ、もらった枝は挿し木にしました。
  (2017年6月18日)

 

第457回 お寺さんのひと声
 
 強い風が吹いた日の夕方でした。左右に竹直と上直海の田んぼが広がった農道を軽乗用車で走りながら、私は思っていました、「アマイケの上」(屋号)のお母さんの姉のMさんはどうしなっただろうかと。

 この日、私はMさんのお連れ合いであるGさんの通夜式に参列するために大潟区に向かっていました。亡くなったGさんは95歳、父の代からお世話になった方です。風の便りではMさんもGさんも高齢者福祉施設に入っておられると聞いていました。

 式が始まる少し前、「虹のホールおおがた」に着いた私は、式場の一般席の真ん中あたりに座りました。そこにはGさんの家がある集落からこられたNさん、Oさん、Yさんなど数人の姿がありました。そして気になる遺族席を見ると、最前列で車いすにかけたままの姿でいるMさんを確認できました。私は、「ああ、お母さんもきなったんだ」とホッとしました。

 式を執り行うお寺さん、Kさんが入場された後、Gさんの棺(ひつぎ)のまわりに、家族のみなさんが集まる場面がありました。車いすに乗ったMさんも息子さん夫婦に支えられ、Gさんの棺のところへ行きました。そのとき、KさんはMさんの顔を確認すると、目を大きく開いて、「よくここへ来ましたね」といった表情になりました。KさんもMさんのことが気になっていたのでしょうね。

 お経が始まるとまもなく、焼香の案内がありました。いうまでもなく遺族のみなさんが最初です。Mさんは息子さん夫婦に車いすを操作してもらいながら、焼香台のところへ進みました。イスに座ったまま、香をつまんで焚(た)き、手を合わせる姿が私の席からも見えます。Mさんはもともと背が低く、小さく見える人ですが、気のせいか、さらに小さくなって見えました。

 親族のみなさんによる焼香の列のなかには、「アマイケの上」のお母さんの姿もありました。一昨年の秋に会ったのを最後に、会っていませんでした。1、2度電話で話をしただけです。それだけに、とても懐かしく思いました。

 参列者の焼香がすべて終わっても、しばらくお経は続きました。その間、私はGさんの遺影と生花を見ていました。この日はどういうわけか目が冴えていて、大柄で働き者だったGさんの元気だったころの姿を思い出したり、生花の名札を見て、「あれ、Gさんはこの人と親戚だったのか」などと考えたりしていました。

 そして、通夜式が終わって、お寺さんが退場されるときのことでした。普通なら、お寺さんは真ん中の通路をまっすぐ歩いて式場を出られます。ところが、この日のお寺さんはMさんのところへ寄って、ひと声かけられたのです。何を言われたかは聞こえてきませんでしたが、Mさんを慰め、元気づける言葉であることは遠くにいた者でも分かりました。Mさん、とてもうれしそうでしたから。

 それにしても、なんというやさしさでしょうか。お寺さんの、この異例ともいえる行動は私の心を揺さぶりました。もちろん、その場にいた人たちも同じだったと思います。

 通夜式の場を離れたのは午後6時よりも少し前でした。帰りも行きと同じ農道を通って、わが家に向かいました。

 お寺さんの、やさしいひと声と行動を見たことによって、何となくうれしい気分になりました。車に乗っていても、空を見ていても、気持ちがやさしくなります30分後、西の空はオレンジ色になりました。    
   (2017年6月11日)

 

第456回 青嵐吹くなかで

 春がどんどん遠くなっていきます。今年の5月は夏のような暑い日が続いたかと思うと、雨が降り、その後はまた暑い日になりました。雨をもらった山野や田畑は元気になり、草木の緑はいまが一番美しいときとなっています。

 そうしたなか、先週の土曜日、朝から夕方まで動き回って、気持ち良い一日を送ることができました。

 午前9時前から始まった地元の吉川小学校の運動会。幸い雨は落ちることなく、午前10時頃には陽が射すようになりました。私は、この運動会でいい体験をさせてもらいました。

 私は今回、初めて、運動会で「ジャンケンマン」をやりました。1、2年生の「チャンスレース」で、「ジャンケン」をする係として手伝ったということです。

 レースの途中、選手たちが私とジャンケンをするポイント(場所)がありました。選手が私に勝てば前にすすめます。私に負けると5bくらい前の赤いコーンのところまで走ってきて再びジャンケンをしなければなりません。早く負けてやりたくなる場面もあったのですが、そうは簡単にいきません。小さな選手たちは必死でした。急いで走り、ジャンケンも真剣勝負です。子どもたちとこんな形で触れ合ったのは本当に久しぶりのことでした。いいもんですね。

 午後からは高田へ行きました。本町五丁目の内山栄子さん(95歳)のパッチワーク、3人の娘さんたち、そのお連れ合い、子どもさんたちなどの油絵、書などの作品を集めた作品展を観るためです。

 会場のほっとステーション五番館に着くと、栄子さんの次女で、既に亡くなっている美代子さんのお連れ合いの秀二さんに迎えていただきました。

 秀二さんとは、花ロードのときや大島区の新緑祭などでほんの数回会っただけなのですが、ずっと前から知り合いであったような、親しみを感じています。今回は作品の解説をしてもらいました。

 内山家の人たちはどこから作品づくりのエネルギーが出てくるのでしょうか。パッチワークであろうが、油絵であろうが、ものすごく精力的な感じがするのです。なかでも男女の抱擁とキスシーンを描いた美代子さんの作品は人間臭さがあふれていて、強く印象に残りました。

 会場にはアジサイなどいくつかの花も作品として一緒に配置されていて、それがまたいい雰囲気をつくり出していました。作品展には三〇分ほどしかいませんでしたが、私は、とても濃密な時間を過ごした感じがしました。

 この日は午後3時から、直江津の学びの交流館において、ある市民団体の総会がありました。

 総会には会員でない柿崎区在住の女性の方も参加していて、鉄道に乗って移動する自らの体験に基づいて発言されていました。それがとても新鮮で、マンネリ化しやすい総会に刺激を与えました。私もその発言で議会質問のヒントをもらい、参加して良かったと思いました。

 この日は夕方遅くなってからも動き、帰りは浦川原区から朔日峠を通って自宅へと向かいました。その時のことです。青嵐(あおあらし)が吹きまくり、夕日が横からそれらを照らし出したのは。

 吉川区の福平や河沢、片田の山々は金色に輝きました。そのときの景色は、私の人生で初めて出合った極上の美しい風景でした。私だけが見たのではもったいないと写真に収めましたが、最高の気分でしたね。
 (2017年6月4日)

 

 

第455回 一生懸命だから

 まだ5月だというのに暑い日が続いています。田んぼや畑の水のことが心配になりますが、体育祭を企画したところでは、どこでも天気が良くて助かったのではないでしょうか。

 先日は県立吉川高等特別支援学校からお誘いがあり、2年ぶりに同校の体育祭に参加してきました。まだ歴史が浅い同校にとって体育祭は6回目です。でも、学校関係者だけでなく、地域みんなで盛り上げるイベントとして定着しましたね。

 私はこの日、8時40分過ぎに会場となった同校のグラウンドに到着しました。青空が広がっていて、澄み渡っています。周りの木々も新緑が輝いています。まさに体育祭日和でした。

 グラウンドに降りる場所に置いてあったプログラムを手に取り、あたりを見渡すと、すでにグラウンドの土手の上やテント裏にある杉の木の下などにPTAの人たちや地元原之町の人たちなどがいました。みなさん、明るい表情をされていて、体育祭を楽しみにしているんだなと思いました。

 テント内に座らせてもらった私も、同校の小山後援会長さんや吉川小学校長の池田先生などと話をしながら、ワクワクした気分で体育祭の開会を待ちました。というのも、これまでの体育祭では必ずと言ってよいほど心揺さぶられる出来事がいくつもあったからです。

 入場行進。始まったのは8時55分でした。48人の生徒が白軍と赤軍に分かれてグラウンドを一周しました。少し緊張している生徒、落ち着いて行進している生徒など表情は様々でしたが、全体として足が高く上がっていて力強く、素敵な行進だと感じました。特に、白軍の応援団長を務めたIさんの手足の動きがきびきびしていて、見ている方も身が引き締まりました。

 行進でのいいリズムは競技にもつながっていきます。

 私が最も注目したのは、「THE仕事人」という名の競技です。この競技は生徒たちが作業実習で取り組んでいる物流や清掃、接客などを種目の中に盛り込んだものです。ただ、普段と違うのは「走る」という要素が加わったことでした。そのため、清掃用具を使ってサッカーボールを転がすところでも、お盆に水の入ったペットボトルを載せ、それを立てて走るところでも「思うようにはいかない場面」がたびたび出ました。ボールがとんでもないところに行ってしまったり、お盆に載ったペットボトルを起こしても起こしてもすぐ倒れてしまったり……。当然、選手たちは焦り、あわてます。そんなとき、応援の人たちから「大丈夫!大丈夫!」という声が飛びました。

 もうひとつ、ボール運びリレーにも注目しました。この競技は、ふたりの選手が2本の棒を操作してボールを挟み、走るレースです。大きいボールよりも小さいボールを運ぶのがむずかしく、ボールを落としてしまうことがたびたびでした。このときも「大丈夫!大丈夫!」という声が選手たちにかかりました。やっとゴールインしたときの選手たちのホッとした様子、印象に残りました。

 選手も応援の人も一体になって頑張る。こうした様子を目の前で見ていると、時間が経つのを忘れます。セミの鳴き声を聞きながら、私はPTA会長さんの開会式での挨拶を思い出しました。「人の心をつかむということは一生懸命ということ。一生懸命だと、どうしても応援したくなる」。今回も素敵な運動会でしたね。  
  (2017年5月28日)

 
 

第454回 一反の大きさ

 これまでじっくりと考えることのなかったことを誰かから詳しく説明してもらって理解を深めると、とてもうれしくなります。先日、大島区で行われた旭新緑祭の「自然散策コース」に参加したときも、何回かそういうことがありました。

 新緑祭はいつも「山菜採りコース」と「自然散策コース」に分かれるのですが、今回は「山菜採りコース」が人気で、「自然散策コース」を選択したのは地元の郵便局長さんなどほんの数人でした。

 ガイド役はこれまで務めてこられた植木さんに代わって、昨年、田麦に移住してきた若い牛田さんです。「足の具合がいまひとつ」と従兄(いとこ)から聞いていた植木さんも同行してくださいました。

 牛田さんによると、今回、植木さんからデータをもらい、事前に2人で下見もしたそうです。入念な準備をして当日にのぞんだことを知っただけでもありがたかったですね。ただ、自然が相手ですから何が起きるかわかりません。その思いがけないことへの対応をどうするのかも楽しみでした。

 ミズバショウが咲いている小さな池でサンショウウオとイモリの違いなどの説明を聴いてまもなくのことでした。ブナ林に入る階段を上り始めたその時、1匹のカナチョロが参加者の目に入りました。

 牛田さんはカナチョロを捕まえると、左の手のひらにのせて、説明を始めました。捕まえたカナチョロは体長15aくらい。おそらく体温調節をしようと出てきたのだと思いますが、牛田さんはニコニコしながら「カナチョロは日向ぼっこが大好きなんですよ」と言いました。

 私は、牛田さん自身がカナチョロと友達であるかのような心優しい説明を聞きながら、「この人は小さなころからカナチョロと遊んでいるな」と思いました。それほど牛田さんの表情が明るく、うれしそうな語りだったのです。

「自然散策コース」一行(いっこう)はその後、ブナ林の中の道を歩き、1本のブナの木に葉は60万枚もあることやハサ木として活用されたであろう痕(あと)などを牛田さんの案内で確認しました。そして昨年、植木さんから氷河期の生き残り植物であるモウセンゴケの説明を聴き、衝撃を受けた農道を歩きました。

 農道の下の方には、すでに代かきが終わっていた田んぼが広がっています。田んぼのほとんどを見渡せる場所へ移動した時点で、牛田さんが参加者に思いがけない質問をしました。最初に「この大きな田んぼの面積はどれくらいだと思いますか」と訊き、次に「一反の田んぼってどれくらいの大きさだと思いますか」と訊いてきたのです。これにはびっくりしましたね。

 長年にわたり田んぼをやってきた者は、ふだんそんなことは考えません。田んぼの大きさは自分のうちの田んぼでイメージし、判断してきましたからね。一行は、「一反の大きさは幅10b、長さ100bの面積です」「この集落の現在の耕作面積は37町歩ほどです」「かつてこの集落には600人を超える人たちが住んでいました」などといった説明に、なるほどと思ったり、驚いたりしていました。

 散策中の説明では、このほか、旧旭小学校の公認グラウンドの整備のことなども出てきました。牛田さんは旭小学校閉校記念誌も読んでいたのです。これから住み続ける地域をよく知っておきたいという気持ちからかも知れませんが、自然散策の案内人として、ここまで準備してくれたとは……。植木さんもうれしそうでした。
  (2017年5月21日)

 
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