春よ来い(18) 
 

第451回 里山の花たち

 先日、久しぶりに近くの里山に入りました。高いところで100bほどの低い山です。ここではゼンマイやトリアシなどの山菜がとれますが、私にとって、この山の一番の魅力はいろいろな野の花を楽しめることです。

 野の花を楽しむといっても、いつも同じ花を見ていて、よく飽きがこないね、と思われる方もあるかも知れません。でも、不思議なくらい新しい発見をすることが多く、楽しみなのです。

 この日、山に入ったのは午前11時頃でした。ウグイスの声を聞きながら、最初に惹かれたのはピンク色の花を咲かせたヤマツツジでした。ヤマツツジの木は10か所くらいありました。たぶん、私が以前見た頃よりも増えたのでしょうね。こんなにもあるのかとびっくりしたぐらいですから。

 木のそばに行くと、キムネクマバチと思われる大きい蜂が何匹も花に群がっていました。面白いと思ったのは、最初から花の中心部に顔を突っ込むのではなく、どの蜂も花から花へと飛び移り、まず雄しべにぶら下がることでした。これが何を意味するのかはよくわかりません。

 次はスミレです。しばらく坂道を上り、山の尾根にあたるところへ出てまもなくでした。1b前後の細い山道の右と左にスミレが紫色の花を咲かせていました。しかも花の群落は5bほど続いています。

 これはいままで見たことがない群落だ、私はそう思いました。花にはナガハシスミレほどではないものの、長い距(きょ)がついていて、葉は細長い三角形です。その姿は気品があって、あまりにも美しい。私は立ち止まってカメラを取り出しました。

 スミレは長靴で踏みそうなほどたくさん咲いていたので、私は花の少ない場所を探してひざをつき、低い位置から撮影しました。最初、この群落はノジスミレかなと思っていました。でも、葉の形、スミレの群がり方はどうみてもノジスミレとは違います。写真を撮りながら、このような群落とは初めての出合いだと確信しました。

 こうなると、じっとしてはいられません。どういうスミレかを調べたくなります。私はスマートフォン(多機能型携帯電話)を使って調べました。その結果、このスミレはシハイスミレ(「紫背菫」)であることが判明しました。やはり、初めて出合ったスミレの群落だったのです。

 スミレは種類が多く、山に入ってからだけでも、ツボスミレやタチツボスミレの姿を確認できていましたが、新しい出合いには興奮しましたね。

 尾根からの下り道。途中に何本かのムシカリ(オオカメノキとも呼びます)の木が白い花を咲かせていました。春に白い花を咲かせる木としてはコブシと並んでおなじみの木です。花の形は梅雨時期に咲くアジサイと似ています。

 道のそばに、私の腰の位置くらいの高さで咲いている花がありました。カメラをぐっと近づけたときハッとしました。なんとなく甘い匂いがしたからです。この木の花にも素敵な匂いがあることはこれまで気づきませんでした。これも新発見でした。

 この日、私は1つの目標を持って山に入っていました。じつは、吉川区のYさんがコシノコバイモをこの山で見つけ、植木鉢の中でタネから育てた十数本に花を咲かせていました。私は、自分の目で自生したものを確認したかったのです。残念ながらこの日、コシノコバイモを見つけることはできませんでしたが、里山はそれに勝るとも劣らない出合いを実現してくれました。
  (2017年4月23日)
 
 
 

第450回 1段の喜び

 地元小学校の今年の入学式は雨でした。晴れ着姿の人たちには気の毒だなと思いながら、校舎に入りました。でも、校舎の中では、受付の先生も来賓控室にいるみなさんも晴々した顔をされていました。

 私が来賓控室となっていた校長室に入ったのは午前9時半過ぎでした。すでに、民生委員の方や後援会役員の方などが到着されていて、上越市が購入しようとしている国宝の太刀はどこの市に置くのがいちばん義の心にかなっているかなど市政のことが話題になりました。

 卒業式に続いて入学式も雨だったことから、雨のことも話に出ました。私は、かなり前、中学校の入学式でアラレだかヒョウだかが降って式典での挨拶などがよく聞き取れなかったことがあったことを紹介し、「それに比べれば雨はいいですよ」と話しました。近くにおられた校長の池田先生は微笑みながら、「雨降って地固まるって言いますから、雨も必要なんです」とおっしゃいました。この言葉で控室の雰囲気がぐんとなごみました。

 入学式ではいろんな出会いがあります。控室におられた人はほとんど知っていますが、ひとりだけ、「この人、誰だったかな」と思った人がいました。その私の気持ちが伝わったのでしょうか、「橋爪さんですね、今度、吉川高等支援学校に来ました井部です」と言って名刺を差し出されました。何と、新しく校長に就かれた井部先生だったのです。改めて井部先生の顔を見ると、顔立ちはお父さんそっくりでした。

 小学校の入学式は上越市になってからだけでも10回以上参加していますが、私の記憶では、式の当日に来賓が新入生と言葉を交わすことは殆どありませんでした。今回は、式典が始まる前に、廊下に並んでいた新入生に「○○(集落名)の人いる?」などと声をかけた人が何人かいました。私のすぐそばの人が、「学校では何が楽しみですか」と問いかけると、「勉強することです」という答えが返ってきました。このひと言に、新入生児童の喜びが素直に表現されていて、うれしくなりました。

 池田先生に案内されて式場に入ったのは午前10時ちょっと前です。席に着いた私は、あらかじめ渡されていた袋の中からA4サイズのプリント1枚を取り出しました。私は新1年生の入学式のときの姿とこのプリントとを一緒にして写真に撮りたいと思っていたのです。

 A4サイズのプリントは池田先生が新1年生向けに作成された激励メッセージです。タイトルは「1段の喜び」。左上には、絵が掲載されていました。桜が満開となった木のそばで、赤いランドセルを背負った1年生が「ジャックと豆の木」のように続いている階段を見上げている。その様子が丁寧に描かれた水彩画です。

 絵に添えられた横書きの文章がまた素敵でした。

  「この絵では、新1年生が6段目にいる6年生を見上げている様子を描きました。あんなところまで行けるかなと不安になりますね。でも、大丈夫です。先生や上級生が手伝うので、前を向いて上りましょう。そのスピードは人それぞれです。1段上れたら、みんなで喜び合いましょう」

 入学式が無事終わり、新入生が退場するときになりました。あっと思ったのは退場する新1年生の表情です。背の高い男の子など、ニコニコして歩く児童が何人もいたのです。うれしかったのでしょうね。私は退場する新1年生に拍子を送りながら、「1段の喜び」をもう一度見ました。
  (2017年4月16日)

 
 

第449回 一枚の写真から

 当たり前と言われれば当たり前かも知れません、親子が似ているのは。先日、糸魚川市能生でTさんの赤ん坊の頃の写真を見せてもらい、びっくりしました。Tさんを抱いているお父さんの顔の輪郭、やさしい目、眉毛の生え方などの特徴がTさんにそっくり引き継がれていたのです。

 写真はTさんが数年前まで住んでいた溝尾の家の前庭で撮ったものです。赤ん坊を抱いているお父さんはまだ30歳前後といった感じで、目にはうれしさが、口元にははずかしさが表れていました。

 Tさんはこの写真を見て、当時住んでいた自分の家の状況を語ってくれました。「ガラスの入っていない戸は雨風を防ぐのがやっとだった」「屋根は板葺きで重しに石をのせていた」「床下の空間には竹の棒や木材などを差し込んで、しまっておいた」などとのべ、懐かしそうでした。

 説明を聞いてから、改めて写真を見て思ったのは、Tさんは顔だけでなく、性格や暮らし方も父親譲りではないかということでした。訥弁(とつべん)ながら、情のこもった話ぶり、いつも控えめなところ、几帳面なところなどです。私はお父さんには一度もお会いしたことがありませんので、これらのことは私の勝手な想像にすぎません。でも、なぜか、外れていないという気がするのです。

 私はこの1か月ほど、Tさんのしゃべりをすぐそばで聞き続けてきました。一番驚いたのは、西飛山の公民館でスライドの説明をしていたときでした。参加されていた1人のお母さんが、Tさんがしゃべるとすぐに、「そうそう、そういうこともあったね」などと反応してくれたのです。それも1回や2回ではありません。スライドを説明した時間帯、ずっとこの調子でTさんとこのお母さんの「かけあい」が続いたのです。この見事とも言える対話の能力もひょっとすると父親譲りかも知れないなと、私は思いました。

 面白いと思ったのは、このセピア色の写真から、わが家の父のことが頭に浮かんできたことです。  Tさんのお父さんが着ておられた服、どこかで見たことがあるなと思っていたのですが、数日前、やっと思い出しました。父が若かりし頃、「酒屋もん」という出稼ぎに出たときに着ていたものとほぼ同じだったのです。服はジャンパーだったのでしょうか、皺が寄ってもすぐに元に戻る弾力性を感じました。また、袖口のところだけ色違いになっていたところはとてもいいなと思いました。

 服のほかにも思い出させてくれるものがありました。髪型です。Tさんのお父さんの耳のところから真っすぐ上に刈り上げるやり方は当時はやったのでしょうね。若い父の髪型もこのタイプでした。

 たぶん、Tさんのお父さんの写真とほぼ同じ時代だったのだろうと思います。この髪型をした父がとてもかっこいいと感じた写真がわが家にも何枚かありました。そのひとつは大島の旭地区にある母の実家へお盆泊まりに行くときのものです。暑い時期でしたから、父はランニング姿で、土産の入ったリュックを背負っていました。父はたくましかったですね。

 Tさんのお父さんはこの写真を撮ってから10数年後、突然の病気で亡くなりました。まだ、四十代の若さです。さぞかし無念だったに違いありません。でも、お父さんはいま、きっと喜んでおられるはずです。Tさんが自分の年齢を大きく超えて生き、世の為人の為に頑張っていることを。
 (2017年4月9日)

 
 

第448回 亡き伯母の家に

 年寄りなんだから、雪が降って積もっているんだから、怪我をしていたんだから。そう言えば、確かにそうです。母が大島区板山の伯母の家に行けないのはやむを得ないことだったのかも知れません。

 大勢いたキョウダイが次々と亡くなり、姉と妹の2人だけが生きているという状態がけっこう長く続いていましたので、伯母が亡くなってから日がどんどん過ぎて行くことが私には気になっていました。

 母には早く伯母の位牌に手を合わせる機会をつくってやりたい、そう思いつつも、なかなか実現できませんでした。まもなく2か月になろうかというときになって、やっとその機会をつくれる日がやってきました。

 2月の半ばのことです。留守では困ると思い、出かける前に従弟(いとこ)のところに携帯で電話をすると、従弟は「おっかさはいないけど、じゃ、おれ、いるようにするこて」と言ってくれました。私は母を軽自動車に乗せて、朔日峠を越える浦川原ルートで板山へ行きました。

 従弟の家に着くと、家の東側からぐるりと回って玄関に行く道は雪に埋まっていました。正直言って、「こりゃ、困ったな」と思いました。平らな道がだめとなれば、急な坂道、といっても、ほんの5bくらいなのですが、そこから行くしかありません。母の手を引きながら、坂を上って玄関に入りました。

 亡くなった伯母の位牌は、居間の仏壇の中にあります。母は仏壇の前に行くと、ちょこんと座って、お輪(りん)を3回鳴らしてから、手を合わせました。そして、遺影をゆっくりながめるでもなく、すぐにコタツに足を入れました。寒かったのかも知れません。

 居間には隅っこの方に伯母が写った写真が何枚かかざってあります。母は伯母の遺影よりも、これらの写真の方が気になったようです。

 最初に母の目にとまったものは、10人ほどの集合写真です。伯母が真ん中にいて、そのそばには長男のMさんがいます。後ろの方には孫夫婦などがずらりと並んでいました。Mさんの写真を見て、「ありゃ、シュウジさんか」と母が訊いてきたので、「違うよ、シュウジさんのキョウダイだよ」と答えました。少ない髪の毛、顔立ち、ふたりはたしかに似ています。それにしても、写真を手元で見るわけでもないのに、よく見えるものだと感心しました。

  「まあ、こりゃ、いい写真だ」母がそう言ったのは、伯母が百歳の祝いをしてもらったときのものでした。花を手にした伯母を中心にして両脇に従弟夫婦、伯母の後ろには2人の従姉(いとこ)が写っています。伯母はイスに沈み込むように座り、従姉たちは表彰状を手に持ってニコニコしています。おそらく、母はこの笑顔が目に入ったのでしょう。

 亡き伯母の家は母が何度も訪ねてきた思い出の場所です。生前の伯母の姿を写真で確認したものの、母の表情はいま一つぱっとしませんでした。伯母とはもう話ができなくなってしまった、そのさみしさが感じられる母の姿でした。

 帰り際、うれしいことがありました。玄関先からの坂道を下るときでした。私が母の片方の手を持って歩き始めたとき、従弟も「ころんじゃダメだよ」そう言って、母のもう片方の手を持ってくれたのです。やはり親子ですねぇ、亡くなった伯母もこの坂道のところで、母に「ころぶなや」と声をかけてくれていました。
  (2017年4月2日)
 
 
 

第447回 ネコヤナギ

 3月の中旬の土曜日のこと、吉川区東田中地内を軽乗用車で通行中、対向車がライトを点けて私に合図を送ってきました。大潟区に住む弟です。白い軽トラックでしたので、すぐにわかりました。

 車を止めると、弟がニコニコしながら私のそばまでやってきました。「いま、蛍場まで行ってきたがど」と言いながら、私に見せてくれたのはネコヤナギでした。

 まだ、雪があるはずなのに、弟はわざわざ蛍場までとりに行ってきたのです。絵を描くことが好きな弟のことですから、たぶん、ネコのしっぽのような花穂のついた枝を持ち帰って、精細に描写したいと思ったのでしょう。

 私はネコヤナギの一枝を手にした瞬間、「ああ、これは蛍場のネコヤナギだ」と思いました。緑色の細い木の枝、白っぽくて、矢じりのように見える花穂(かすい)、子どもの頃からずっと見続けてきたネコヤナギそのものでした。かっこよくて、「これがおらったりのネコヤナギだ」と自慢したくなります。

 私が子ども時代を過ごした吉川区の蛍場では、わが家の下の方に吉川の支流、釜平川が流れていました。その川辺にネコヤナギが何本かあったのです。

 私にとってネコヤナギは、春を告げる木であり、花でした。3月になって雪解けが始まると、私はその川辺まで何回も下りていき、ネコヤナギの花のふくらみ具合はどうかとか、芽鱗(がりん)という花をおおっている皮がどこまではがれてきたかなどを観察したものです。

 さて、弟と出会った翌日の朝、私は尾神のジュンサクさんの家に行った帰りに、蛍場まで下りました。いうまでもなく、ネコヤナギを30数年ぶりに見てみたくなったのです。

 わが家の墓がある釜平(がまびろ)の入り口で車を降り、雪の上を歩きました。積雪はまだ1b近くありました。今年はいつもよりも雪はしまっていません。何度も雪に埋まりながら、5、6分かけてネコヤナギがあった場所まで下りました。

 ところが、かつてネコヤナギを見かけた川のカーブのところにはネコヤナギの木も花も見当たりません。あったのはタニウツギの木だけでした。困って、弟に電話をかけて場所を確認すると、「そこにはもうないよ。大東(屋号)の下の方だよ」という答えが返ってきました。

 再び雪の上を歩いて100bほど下流へ行きました。かつて丸木橋があった場所まで下りて下流方向を見たら、20bほど先の川の中にネコヤナギらしきものが見えます。私はカメラを回しながら、土手伝いにそこまで行きました。

 ありました、ありました。間違いなく、子どもの頃からずっと見てきたネコヤナギです。勢いよく流れる水に揺られながら、銀白の花が輝いていました。花に触るとネコのしっぽのようなすべすべ感があります。親指と人差し指で挟むとネコのしっぽの骨にあたった感じもします。30数年ぶりに釜平川でネコヤナギに出合った私は、懐かしい気持ちでいっぱいになりました。

 ネコヤナギの花言葉は「自由」。長い冬が終わる頃、春の開放感を感じさせてくれるこの花にぴったりの言葉です。そう言えば、かつてネコヤナギがあった場所のすぐ上にわが家の小さな田んぼがありました。そこは雪消えが早く、私は田んぼの土を掘り返しては「ドジョウつかめ」をしたものです。思えば、ネコヤナギ観察も「ドジョウつかめ」も開放感たっぷりでしたね。
 (2017年3月26日)

 
 

第446回 賞状入れ

 またしても弟の発見でした。

 大潟区に住む弟から電話をもらったのは、半月ほど前、私が用があって、市街地に出ていたときでした。「アニキ、面白いもん出てきたわ」そう言って弟が語り出したのは、父がとっておいた「賞状入れ」の箱を見つけたという話でした。

 電話の中から聞こえてくる弟の声には弾んだところがありましたから、うれしかったのでしょうね。

「賞状入れ」と言いましたが、そのなかには賞状だけでなく、弟の成績連絡票、通知票などが入っていたということでした。弟によると、賞状の中には1枚だけ、私の高校時代の賞状が入っていたといいます。また、弟の通知票の家庭からの連絡欄には私が記入したコメントもあったというのです。弟からは、「しっかりした字で書いてあるよ。時間があったら、寄って、見てくんない」と誘われました。

 ただ、この電話があったときは、なにかと忙しく、弟の家に寄る余裕はありませんでした。弟の電話があってから1週間ほど過ぎた頃だったでしょうか、私が忙しいことを理由に弟の家に寄らなかったものですから、弟はこの「賞状入れ」を紙袋に入れてわざわざわが家に届けてくれました。

 わが家の居間のコタツの上で、この「賞状入れ」の箱を出してみました。

 箱は縦30a、横20a、深さ5aほどのものです。箱には薄水色、薄茶色の模様が入っていて、その上に黒の太いマジックで「賞状入」と書いてありました。「れ」という文字は欠落していましたが、父の文字は大胆でのびのびしているところに特徴があります。「入」という字が躍っていました。

「賞状入」と書かれた箱は40数年前のものです。角はつぶれたり、破れたところがあったりしています。でも、中に入っていた通知票も賞状も色が少し黄ばんでいるくらいで、保存状態は良好でした。

 箱の中のものを一つひとつ確認してみました。賞状のほとんどは新潟大学書道教育研究会が行った書道大会のもので、銀賞、銅賞、入選がたくさんありました。すべて弟のものです。私も何枚かもらっているはずですが、ありませんでした。私の賞状で唯一、箱に入っていたのは高校2年時の校内マラソンで七位に入ったときの賞状でした。たしか2位に入ったときのものもあったはずなのですが、それは見つかりませんでした。

 箱は、おそらく一人ひとりの子ども用のものを父が用意しておいたのでしょう。見つかった箱は大潟区に住む弟のためのもので、通知票や賞状だけでなく、版画も入っていました。弟の通知票は、小学校から高校までのものがほとんどありました。私の賞状は何かの間違いでまぎれ込んだものと思います。

 電話で弟が教えてくれた、通知票の家庭からの通信欄の私のコメントは弟が源中学校1年時の通知票のなかにありました。

 校長は佐藤留五郎先生、担任は倉又廣先生です。正月休みに私が弟の勉強の面倒を少しみたのでしょうか、家庭からの欄には、「冬休みに英語を一生懸命教えてみました。成果に御期待を!のびのびと学習させてください。大いに読書するよう指導お願いします」とありました。びっくりしましたね、こんな生意気なことを書いていたとは。私が自主的に書いたものか、それとも父に書けと言われて書いたのかは記憶にありません。

 弟が数年前に見つけた40数年前の現金封筒、今回の「賞状入れ」の発見で、改めて父の子どもにたいする愛情の深さを知りました。「ちりも積もれば山となる。為せばなる為さねば成らぬ何事も」が口癖だった父親がここまで子どもの教育のことを考えていてくれたなんて、感謝の気持ちでいっぱいです。
  (2017年3月19日)

 
 

第445回 さいならね〜

 先週の木曜日でした。わが家から30キロほど離れたところに住んでいる伯母の家に行ったのは。その時、母の話が出たので、伯母に母の声を聞かせてあげたくなり、わが家に電話をかけようとました。ところが、その日、母はデイサービスに行っていて留守、母と伯母の会話は実現しませんでした。

 その5日後の夕方のことです。母とおしゃべりしていて、ふと伯母のことを思い出しました。

「そうだ、伯母に電話しなきゃ。ひょっとすれば、電話のことを憶えていて、まだ電話来ないな、と待っているかも知れない」

 時間は午後6時近くでした。私から伯母の家に電話をすると、伯母にとっては孫にあたるNちゃんが出ました。「おばあちゃんいる?」と訊いたところ、「寝てる」という返事が返ってきました。たぶん、伯母はコタツのそばで横になっていたのでしょう。

「ばば、ノリカズさんからだよ。向こうのおばあちゃん、話がしたいんだって」という声が電話の中から聞こえてきました。どうやら、電話に出てもらえるようだ、そう判断した私は、母の耳に携帯電話をあてました。

 電動イスに座ったまま携帯電話を持った母が、まず声をあげました。

「まあ、東のかちゃかね、おまさん、そのまんまの声だねぇ」

 伯母が吉川区を離れて、市街地にある自分の子どもの家に行ったのは約2年前です。連れ合いが亡くなってじきのことでした。母と伯母は、それからずっと会っていなかったのです。電話もたぶんしていなかったのではないかと思います。だから、母の耳に、久しぶりに入ってくる伯母の声はたまらなく懐かしかったのでしょう。

 2年の間にふたりともずいぶん耳が遠くなりました。そのため、母が最初に発した言葉が伯母に届かなかったらしく、母は、「おまさん、そのまんまの声だねぇ」をもう一度言っていました。

「おまさん、何してなるね」という母の問いかけでしばらく会話が続きました。

 母が「また雪、降ったし、ふきんと採りに行かんねし」と言った後、3、4秒くらい間をおいて、「おらもそいがでね」と母が言いました。私の推測では、伯母は、「おら、生きてるばっかで、な〜にもしてねがどね」 と言ったのだと思います。

 この言葉は私が伯母の家を訪ねるたびに聞いてきた言葉です。吉川区にいた頃は、どんな時でも畑仕事をしたり、花を育てていたりしていた伯母です。コタツに入ってじっとしているというのは、申し訳ないことだと思っているのかも知れません。伯母のこの言葉の後に、母は「いこてね、元気でいられりゃ」とも言いました。

 ふたりの会話で、伯母の声が私に聞こえてきたのは2か所だけでした。その1つは、「おら、はい、忘れっぽになってだめど」と言ったところです。

「忘れっぽ」というのは、「忘れやすく、たびたび忘れてしまう」ことをいうのですが、私が接している限りはそんなに物忘れが進んだとは思えません。でも、伯母自身が口にするということは、私の知らないことがあるのかも知れません。

 伯母の声が聞こえてきたもう1か所はふたりの会話の最後の最後、「さいならね〜」という言葉です。これははっきり聞こえてきました。母もこれに応じて、「さいならね〜」と言って電話を切りましたが、いつもなら「さいな」と言うのを今回は「さいならね〜」とのばしたのです。ちょっと気になりました。

 ふたりの電話は、ほんの数分で終わりました。母はまもなく93歳、伯母は9月で94歳です。春になったら、早めに母を連れて行き、ふたりの再会を実現したいと思います。
  (2017年3月12日)

 
 

第444回 天明山が見える道

 大島区板山の従弟のところから家に戻るとき、ふと思ったのです。角間から川谷に抜けるルートで帰れば、母がまた何か新しい昔話をしてくれるかもしれないと。その勘はぴたりと当たりました。

 先日、12月に亡くなった伯母の位牌に手を合わせてこようと母と一緒に大島区板山を訪ねたときのことでした。

 帰り道、角間を過ぎ、大島区と吉川区の境がもうすぐというところで、車の前方に天明山の姿が見えました。 「ありゃ、天明山だ」と母が言うので、「おまんが小学校の頃、遠足に来た山だろ」と確認したところ、「あそこを越えて鯨波へ行ったがど」と、これまでにない話をし始めました。

 遠足の話はこれまで何度か聞いていましたが、柏崎市の鯨波の名前が出てきたのは今回が初めてでした。思わぬ展開に私は耳をすませました。

 母によると、19歳の時、大島区田麦のUさんという旦那さんの家にウドを持って行ったところ、そこの家のお母さんに、「おまんはいい娘だから鯨波の家に奉公してくれないか」と頼まれたというのです。

 東京は深川にあった日清製粉の会社役員の家に母が働きに行ったことは何度も聞いているのですが、まさか、近くの鯨波にも行っていたとは……。ひょっとすると母の記憶間違いかもと思ったのですが、その次に母の口から出てきた言葉を聴いて、「これは間違いない」と確信しました。Uさんの家にウドを届けた時、「椿餅(椿の葉っぱに包んだ餡子入りの餅)を5個もらったがど」という言葉です。よくもまあ、70年も前の細かい事を憶えているものだと感心してしまいました。

 母によると、Uさんの家の嫁さんは鯨波にある下条(しもじょう)さんという家から田麦に嫁いだ人のようです。鯨波の実家は黒い板塀で囲ってあり、近くには「なにわや」という旅館もあったそうです。「なにわや」が本当にあったのかとインターネットで調べたところ、確かにありました。母の記憶どおりでした。「なにわや」は漢字で「浪花屋」と書きます。

 車は吉川区に入り、上川谷の久保地内を走りました。

 母の記憶装置はここでも働き、「ここは直江津のK子さんの姉妹の人が嫁に行った家だねか」とか、「ここらへんで子どもが学校に行くそって雪崩に遭ったがど」と言いました。これらの話は私もすでに知っていることですから、「そいがだ」とすぐ答えました。

 上川谷から下川谷へ行く道はほとんど下り坂です。合併した年の梅雨時期に直後に大きな土砂崩れが発生して県道が埋まってしまった現場近くのカーブで、中学校時代の同級生Tさんとバッタリ会いました。

 Tさんは、助手席に乗った母を見るなり、「わー、お母さん、元気だね、いかったね。足、大丈夫かね」と母に声をかけてくれました。昨年11月に、母が転んで腰を痛め、歩けなくなっていたことをTさんは誰かに聞いていたのだと思います。続いて私の顔を見て言いました。「やっぱ、おふくろっていいよね。女衆って、90を過ぎるとみんないい顔してるよね」と。

 Tさんはひと月前にお母さんを亡くしたばかりです。私の母の姿を見て、自分の母親のことが思い出されたのでしょう、「ああ、きょうはいい日だった、来たかいがあった」と喜んでいました。

 天明山が見える道は、母が旧旭村から旧源村の尾神に嫁いで以来、70年ほどの間に度々通った道です。でも雪のあるときに通ったのは今回が初めてかも知れません。鯨波の思い出話を聴いたので、今度、母を連れて鯨波に行ってみようと思います。
  (2017年3月5日)

 
 

第443回 酒屋の看板

 父が埼玉県寄居町に出稼ぎに出ていたのは30数年前のことでした。どういうことがきっかけだったかはわかりませんが、地元下中条出身のSさんのお世話になったことだけは記憶しています。

 寄居には十一屋という造り酒屋が
あって、父はそこで仕事をしていました。いつ頃からかなど詳しいことは憶えていません。ただ、父から送られてくる小包や手紙で埼玉県大里郡寄居町や藤崎惣兵衛商店(十一屋の正式名称)という名前はしっかりと憶えていました。そして、どういうわけか、父が毎冬行っていた寄居町はどんな町だろうかとずっと気になっていました。

 それだけに市議会の視察で秩父市に行く途中、寄居駅でJR八高線から秩父鉄道に乗り換えるときには、特別な気分になっていました。

 駅の構内では、父が勤めた酒屋の銘柄酒の展示がないかと目をキョロキョロさせながら探しました。地元造り酒屋の酒を展示している駅をいくつも見てきたものですから、寄居駅でもあるだろうと勝手に判断していたのです。ところがなかなか見つかりません。

 また、乗り換えのために線路をまたぐ高い通路を歩いたときには、酒屋の煙突がどこかにないかと探しました。私が数年前に訪ねた新潟市岩室の宝山酒造では大きな煙突があり、ひょっとすると、十一屋にもあるのではないかと思ったのです。これも見つかりませんでした。

 そんなとき目に入ったのは蝋梅(ろうばい)の花です。木の枝を切ってきて、駅の通路の日当たりのいい場所においたのでしょう、これが見事な黄色い花を咲かせていました。しかもいい香りを漂わせています。うっとりして写真に収めました。

 父が勤めていた酒屋の手がかりになるものがなくても、この花に出合えただけもいいか、そう自分を慰めつつ、通路から秩父鉄道の発着する場所へ下りたときでした。古びたというか年季の入った時刻表が天井からぶら下げてあり、その時刻表の脇にある看板の「郷土の銘酒白扇」「藤崎惣兵衛商店」という文字が目に入ったのです。 「白扇」と言う銘柄は私の記憶には残っていませんでしたが、このふたつの文字を見て、私は大感激しました。「とちゃもこの駅に来ていたんだ、そして酒屋に入るときも、酒屋から離れてわが家に戻るときもこの駅にいたんだ」と思い、父のそばに来たような気がしました。

 この日は柿崎駅を朝の7時過ぎに出ましたが、北陸新幹線に乗っても寄居駅に着くにはお昼近くまでかかりました。父の出稼ぎしていた時代はおそらく夕方までかかったことと思います。

 酒屋の宣伝看板をじっと見ているうちに、「とちゃは家族が食えるようにするために、私たちキョウダイや母を残して、こんなに遠くまで働きに来ていたのか」と思いました。そう思ったとたん、私の目頭が熱くなり、何かがじわっときました。近くにいた同僚議員にその様子を見られたかもしれないと思い、私は、「いやー、最近、目が弱っちゃって……。日が強いと全然だめなんだわ」と言ってごまかしました。

 父が酒屋の出稼ぎに出たのは、私が生まれる以前からです。十一屋の他、東京の八王子などいくつかの酒屋に勤めました。

 その父が出稼ぎをいったん止めたのは私が中学2年生のときでした。冬でも家族とともに暮らせるようにと酪農を始めたのです。でも私が酪農の仕事につくと、父は再び酒造りの出稼ぎに出ました。たぶん、私を早く一人前の牛飼いにさせようとしたのだと思います。 「白扇」の看板を見た日、私は父への感謝の気持ちでいっぱいになりました
  (2017年2月26日)

 

 

第442回 昼晴れ

 どんなに天気が荒れていようとも、お昼の時間になるとパッと晴れる。いいですね。先週の土曜日がそうでした。11時半を過ぎてYさん宅を訪れた私は、お茶に誘われ、ご馳走になってきました。

 テーブルの上には、この時期としてはめずらしいものがありました。茹(ゆ)でた栗です。小さなかごに入れてありました。Yさんのお連れ合いに「うんめがでね。食べてみてくんない」と言われて、いただきましたが、秋の収穫時期のものとほとんど変わらないほどいい味でした。この栗は冷凍しておいたものだそうです。

 栗を食べ始めたところで、私よりも早くYさん宅でお茶飲みをしていたM子さんが私の顔を見て、声をかけてきました。しばらく、M子さんと私だけの会話になりました。
  「おら、雪降る前に尾神岳から板山の方へ抜けて、田麦へ行ってきた」
  「そいがかね。で、庄屋の家にでも寄ったのかね」
  「いやいや、寄らんかった。そばを通っただけだった」
  「まあ、寄って何か食べてくればいかったがに」  
 
 そんな調子で話をしていたところへYさんがやってきて、お茶飲みの仲間が4人になりました。

 Yさんは私を見るなり、神妙な面持ちで
  「橋爪さん、うちのお父さん帰って来るような気がしてならんがど」
 と言われたのです。まだ60代だったお父さんが突然亡くなってからまだ4か月ほどです。亡くなったことがどうしても信じられないのでしょうね。私は、どう言ってみようもなく、
  「ほんとに帰ってきてくれるといいんだでもね」
 とだけ言いました。

 その私の言葉をつなぐように、今度はM子さんが言いました。
  「おらちのときも切なかったわね。だって、おらちのお父さん、死んだときは53だでね」

 M子さんのお父さんについてはN事業に勤めておられ、真面目な人だという印象が残っています。若いときに亡くなったことは憶えていましたが、50そこそこだったことは忘れていました。M子さんの言葉を聞いて、私が
  「そんがに若かったっけねぇ」  
 と言うと、 
  「はあ、そいがでね。それに、お父さんの壇払いの日だというがに、今度はおじいちゃんが亡くなって、おら、よござに入らんねかったわね、でっけぇ穴あいたようで……。でも、あいらいたすけね、若くて田んぼもせねかったでも、あいらいたすけ助かった」

 そこまで一気にしゃべったM子さんは、久しぶりにお父さんのことをいろいろ思い出したのでしょう、N事業の社員旅行には必ず参加して、うれしそうだったことなども話してくれました。

 そして、今度はYさん夫婦をなぐさめるように、「みんな、切ない思いをすることがあるんだよね」と言ったのでした。

 この日、M子さんとYさん夫婦の話が続く中で、私は素敵な言葉に出合いました。「昼晴れ」という言葉です。「ひりばれ」とか「ひるばれ」と呼ぶのだそうですが、M子さんによれば、この日のように、どんな荒れた日でも午前11時頃から不思議と晴れるというのです。

 その説明を聴いて、私はふと思いました。どんなにさみしいことやつらいことがあっても、必ずパッと晴れるときがやってくる。「昼晴れ」は空模様だけじゃなく、人生にもあるんじゃないかと。
 (2017年2月19日)


 

第441回 キツネのこと

 一時期、「びっくりしたなぁ、もう」という言葉がはやりました。たしか三波伸介のギャグだったと思います。先週の木曜日の朝、その言葉にぴったりのことが私の地元事務所で起きました。

 たまたま事務所の中から外を見ていた妻が突然、「お父さん、お父さん、キツネがいるよ」と言いました。私は自分の机の上においていた携帯電話を持って窓のそばに行きました。窓から見ると、建物からわずか20bくらいしか離れていない雪の上をキツネがゆっくりと歩いているじゃありませんか。体長は60aから70aくらいあります。少し赤みがかった黄色の毛をした大きなキツネでした。

 私はすぐに携帯電話の動画機能を使って撮影を始めました。キツネに「おはよう」と言いながら、時折、吹雪く雪の上を埋まりながら歩くキツネの姿を撮り続けました。こんなに近くで撮れるなんて幸運です。私はとてもうれしくなりました。

 カメラをまわし始めて数秒後、また妻が言いました。「あっ、また来るよ」。その言葉が私の耳に伝わった瞬間、なんとなんと、カメラにもう1匹のキツネが写ったのであります。雪煙りをあげて猛スピードで別のキツネがやってきて、最初にやってきたキツネが身構えたときは、敵の攻撃かと思ったのですが、そうではありませんでした。2匹のキツネが二本足で立ってじゃれあったのです。そして、まもなく2匹は連れだって森の中に消えて行きました。

 近くでキツネの動きを見れるだけでもすごいと興奮したのに、2匹が一緒になって、じゃれ合う姿まで見ることになるとは……。まさに「びっくりしたなぁ、もう」でした。

 動画に撮ったのは約20秒。その映像はただちにフェイスブックで発信しました。こんなめずらしい光景は自分だけで見ているのはもったいない、多くの人から見ていただきたいなと思ったのです。

 発信後、直ちに反応がありました。一番最初にコメントを寄せてくれたのは市内在住のFさんです。「おはようございます。微笑ましい風景ですね」と書いてくださいました。同じく市内在住(たぶん)のOさんも「素晴らしいチャンスでしたね。コンちゃんのように仲良く元気に…」とコメントしてくださいました。元新聞記者だった福井県永平寺町のKさんまでもが「凄い!よくこんな瞬間を目撃はもちろん、撮影できましたね。ドキドキしたでしょう」とほめてくださいました。

 いただいたコメントの中には市内のN子さんからいただいた、「『手袋を買いに』という物語を思い出しました!」というのがありました。私は岩波文庫の『新美南吉童話集』を購入し、すぐに読みました。

 この童話集の中にはキツネの話が3つもありました。『ごん狐』『手袋を買いに』『狐』です。いずれの話でもずるがしこいキツネは1匹も出てきませんでした。いたずらを悔い、つぐないをするキツネ、親子の情がたっぷりのキツネの母親と子の話などは、私のキツネに対するこれまでのイメージを大きく転換するものでした。

 じつは先週の日曜日にも私はキツネの姿を撮影していました。その日の朝は冷え込んだものの、気温上昇に伴い、あちこちの雪原で靄(もや)が発生していました。その様子を撮影しようとカメラを向けたところ、田んぼをサァーッと走り抜ける動物がいたのです。これもキツネでした。このときは、ほんの3、4秒しか撮れませんでしたが、この経験があったからこそ、2匹が出てきたキツネの撮影を落ち着いて行うことができたと思っています。  私の勘では、今冬もう1回、キツネと出合う気がします。
  (2017年2月12日)

 

第440回 日帰り旅行

 1月の下旬、柏崎市の親戚の人たちなどから日帰り旅行をするので参加しないかと誘われ、私も出かけてきました。

 行き先は柏崎から車で1時間ほどの「えちご川口温泉」です。参加者は総勢7人でしたが、ワゴン車で送迎してもらいました。途中、義兄が用意してくれたビールもいただいて、車の中は賑やかでした。

  「えちご川口温泉」は初めてでした。温泉施設はけっこう高台にあって、積雪は1bを軽く超えていました。施設には休憩のための部屋が大小いくつもあり、豪華ホテルという雰囲気がありました。

 係の人に案内してもらい2階に上がって外を見たとき、「わーっ、すごい」と思いました。見えたのは信濃川と魚野川が合流する地点です。2つの川、橋、雪をかぶった山々などの風景はまさに絶景でした。

 私たちが案内された休憩室は10人ほどが入れる和室で、ゆったりと休めるようになっていました。

 日帰り旅行の楽しみはお風呂と宴会です。宴会までには40分ほどの時間がありました。まずは支度をして大浴場に行くことにしました。長い廊下を歩いて浴場に行くと、入浴者はほんの数人。丁度空いている時間帯だったんですね。湯はキハダで色をつけたといった感じで、黄色に染まっていました。顔を洗うと、しょっぱい味がします。温泉は少しぬるめでしたので、ゆっくりとつかりました。

 浴場からは外が見えます。まず目に入ったのはつららです。大きなのは1b、短いのでも50aはありました。今冬は暖冬ですが、これほど大きいつららに出合ったのは久しぶりでした。窓の外には杉の木が数本あり、じっと見ていたら、青空を横切るカラスの姿も目に入りました。温泉の中でゆったりしていると、面倒なことはすべて忘れ、じょんのびできます。

 休憩室に戻って間もなく、楽しい宴が始まりました。もちろんアルコール付きです。エビのてんぷら、シイタケやニンジンなどの煮物、ブリの照り焼きなどがそれぞれに配られ、大いに飲み、食べました。

 柏崎の家では先日、義父の7回忌法要を済ませたばかりでした。義父と隣の家のお父さん、Kさんの月命日が20日と21日だということから、まず、Kさんの生前の頑張り様が話題になりました。田んぼや畑の仕事はいつも土日にやっていて、「午前に仕事を始めるとお昼までずっと仕事をし続けていた。午後も同じだった」などという話にみんなうなずいていました。

 この温泉の大浴場は建物の奥の方にあります。長い廊下を歩いていかなければなりません。以前、ほぼ同じメンバーで出かけた赤倉温泉のホテルでも同じでした。そこには階段があったという話から、私の母が「両手を使って、階段をパッ、パッとのぼっていた」とか、「山菜採りに行くときも孫を背中にぶったまま傾斜地を上り下りしていた」などといった話も出ました。

 日頃、みんなが一緒になることはあまりないので、このときとばかりに話が出てくるのでしょうね。おしゃべりは2時間ほど続きました。

 この日は大浴場に2回入りました。再び休憩室に戻ったときに、宴会に出された食べ物のお品書きが目に留まりました。その一角に初めて出合った言葉が書いてありました。「妻一式」。いろいろと勝手に想像したのですが、調べたところ、「刺身の妻がいろいろ」という意味であることを知って笑ってしまいました。

 今回の小旅行には92歳の義母も参加しました。夕方、柏崎に着いてすぐ帰ろうとしたら、「まだいいろい」と言いました。義母にとってはまだ話足りなかったのかも知れません。
 (2017年2月5日)

 
 

第439回 母が語る昔話(3)

 このところ、母は昔の話をしたがります。昨年秋に腰を痛めてから、母はコタツのそばの電動イスに座るようになりましたが、昔のことを思い出すとすぐに身を乗り出して私に語りかけてきます。

 先日は腰を痛めていたときにお世話になった4人のヘルパーさんのことについて教えてくれました。母は「〇〇さんは大きな池のそばに住んでいる」「□□さんは高田と直江津の中間あたりだと」と一人ひとりのヘルパーさんを紹介し、最後に地元出身のTさんの話になりました。

 母によると、Tさんが「おれ、ムコ(屋号)の嫁!」そう言って話してくれたというのです。同じ集落に住んでいたことがあるのですから、とてもうれしかったようです。「ムコ」という言葉を聞いて、母は、尾神に住んでいた庵主様についてしゃべったことをすぐ思い出し、話を繋ぎました。 「『庵主様のそばにおまんちがあった』と言ったら、庵主様のこと知らないと言ったすけ、まだ歳若いんだわな、あの人は」

 そう言った後、今度は私の子ども時代についても思い出し、 「庵主様はお経読みに来なるとき、衣の下に、普通の着物を着て、袂(たもと)の中に飴玉かなんかのヒリョウを入れて来なったもんだ。庵主様がおらちに来なると言うと、ノリカズは遊びに行かんかったな。ヒリョウをもらうまでは……」  と、笑いながら言いました。

 母の話はどんどん続きます。どこでどうなっているのか、庵主様から分場(分校)のことについて話が変わりました。

 私が旧源小学校水源分校に通っていたのは1950年代の後半です。1年生と2年生のときの担任は大潟区内雁子出身の山田利という女性の先生でした。

「ノリカズは、女の先生に『ねぶてすけ、いっとき眠らせてくれ』と言っていたがど。その後はどうなったもんやら……」
 
 自分で確かめたのかどうかわからないことまで言うとは、作り話かなと母の記憶を疑ったのですが、その次に母の口から出た話を聞いて、これは間違いなさそうだと思いました。

 それは私と同じく、母親が大島区竹平出身のジュンジ君との相撲について語ったときのことです。ジュンジ君の家の屋号は「クライム」という名前でした。

「クライムの子と相撲取ると、ノリカズは体がでかかったけど負けたがど。あの子は細い足だったがに負けたがど」

 と、言ったのです。私の記憶では、ジュンジ君とは分場などで何度も相撲を取りました。でも彼の方が運動神経がよくて、私はいつも負かされていたのです。たぶん、ジュンジ君の家に母親と一緒に出かけたときも私たちは相撲をしたのだと思います。

 そのときのことを母は憶えていたのです。  この日は私がこれまで一度も聞いたことのない話がさらに続きました。子どもの頃の冬のことです。

「ノリカズとツトムが屋根の上で遊んでいたら、雪と一緒に滑り落ちて……。うまく落ったすけ、ノリカズは『どうです』と言って、両手をあげて自慢してた。うまく落ったすけいかったでも、そうでなければたいへんになったがだ」

 と言って、また、母は笑いました。びっくりしたのは、ネコの話でした。たぶん、産まれたばかりの小さなネコのことだったのでしょう。

「赤いネコ、誰かがタネ(家のそばの小さな池)にざぶんと入れたら、ノリカズは、飛び上がってせつながった」  自分の子ども時代の記憶はあまり残っていません。それだけに、母が聴かせてくれる話は興味深く、新鮮です。いまのうちにもっと聴いておかなければと思います。
  (平成29年1月28日)
  
 

第438回 冬の晴れ間

 天気予報はどうであろうと、ここしばらくは雪は降らないだろう。そういう勝手な思い込みをあざ笑うように、先週の土曜日、どか雪が降りました。

 わが家の玄関の屋根には2階の大屋根からの雪がどっさり落ちて、山ができました。玄関の戸を開け、外を見ると、庭に駐車している車は雪にすっぽりと覆われていて、一目で「これでは除雪しないと車は出せない」と感じました。計測した数値ではありませんが、おそらく前夜からの降雪量は50a前後になったものと思います。

 予報では、大雪は3日ほど続くと報道され、テレビ画面に出た予想降雪量は、山間部も平場も初日と同じく、どか雪となるに十分な量でした。1回どんと降ると、その後の降雪予報に関しては急に信じるようになります。私は、それまで準備してこなかったわが家の小型除雪機などを動かすために試運転をするとともに、軽油の手配をしました。

 大雪となった土曜日はふだんでも忙しいのに、一段と忙しくなりました。私が発行しているレポートの大量印刷に加えて、除雪という大仕事ができたからです。やることがいくつもあったので、除雪では車の出し入れができるようにしただけでしたが、それでも2時間ほどかかりました。

 車を出せるようにしたものの、この日はそれで安心してどこにでも行かれるという状況ではありませんでした。道路環境が極端に悪化していたのです。隣の柿崎区へ行く際には、代石や百木付近で地吹雪に遭い、立ち止まることもしばしばでした。吹きだまりもあちこちに出来ていました。

 この日、やることにしていた仕事のひとつは「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。いつもなら午前いっぱいくらいで終わるのですが、この日は大雪と荒れた天気のために午後3時過ぎまでかかりました。

 1回、大雪で苦しめられた日の翌日からは、朝に考えることがいつもと違ってきます。言うまでもなく、雪のことが最大関心事となるのです。目覚めて、一番最初の行動は顔を洗うことではなく、2階の窓から降雪状況を確認することになります。

 しかし、今回の大雪の翌日はそんなことをしないでもよい天気となりました。大雪の日はくたびれたので、ゆっくりと休んだのですが、翌日になって目覚めたときには、寝室の障子戸が明るくなっていました。それだけで、うれしくなりましたね。

 廊下に出て、窓から外を眺めると、東南方向は明るく、なんとも言えない美しい景色になっていました。私は大急ぎで支度をして車を出し、米山や尾神岳が見える場所へ向かいました。その場所は、私の地元にある「かどや商店」の近くから大出口方面に向かう県道の途中にあります。

 下中条が見えるカーブ付近まで行った時、ちょうど尾神岳の東方から朝日が昇り始めたところでした。すぐ車を止めて、カメラを取り出しました。白い雪原、水路、道路、里山などが一瞬にして薄い金色に変わりました。それはそれは見事な光景でした。近くにあった雪の吹きだまりには風が吹いたことによって作られた線状の模様がついていましたが、それも薄い金色に染まりました。この光景はブログなどで全国に発信しました。

 この日は数時間後には再びどんよりした冬空になり、雪を降らせました。ですから、この日の朝はまさに冬の晴れ間≠ニ言ってよい時間帯となりました。

 新潟県内に住んだことのある友人は、あるところで、「たまの晴れ間は心も晴れ晴れしていた。ましてや、豪風雪の直後は生き返ったみたいだった」と書いていましたが、私も同感です。出来れば、その晴れ間が長く続いてほしい。
  (2017年1月22日)

 

第437回 寒椿

 年末にKさん宅を訪れた時、お茶をすすめられ、ご馳走になってきました。Kさんとはひと月に1回くらいはお茶を飲み、世間話をしているのですが、この日はちょっと切なくなりました。

 というのも、この日は、昨年の10月に60代の若さで亡くなった息子さんをめぐる思わぬ出来事が話題になったからです。

 Kさんの家族にとって息子さんは、家計を支えていただけでなく、心の支えでもあり、すべてにおいて大黒柱でした。息子さんが病院に入院していても、今回も回復して家に戻ってきてくれるものとKさん夫婦は思っていました。それだけに、亡くなったことはいまでも信じることができないと言います。

 Kさんのお連れ合いのSさんは、毎朝、仏壇の前に行き、亡くなった息子さんの遺影に「お父さん!」と声をかけているそうです。「でも、何回、声をかけても笑っているだけなんだよね」とSさんはさみしそうに教えてくれました。

 息子さんへの想いが募っているのはKさんも同じです。まもなく93歳になるというKさんは、見たばかりだという息子さんの夢の話をしてくださいました。

 Kさん宅の前庭の隅に寒椿の木がありますが、夢の中で、息子さんがこの椿の木の手入れをしていたというのです。寒椿はいつも雪が降る前に、息子さんが雪よけなどの手入れをしていたのでしょうか。今冬は、そのままになっているということでした。夢の中で、息子さんがどんな仕事をされていたのかまで聞きませんでしたが、息子さんに会えたことがとてもうれしかったようです。Kさんの言葉ははずんでいましたね。

 この日のお茶飲み会ではKさん夫婦の他、大潟区に住む子どもさん、Yさんもおられました。このYさんの話にも引き込まれました。

 壇払いの頃のことだったといいます。Kさんの家では不思議なことが起きたというのです。家の外には干しもの竿があるのですが、その竿(さお)の上を小さなヘビがはい、舌をちょろりと出しては家の中をのぞきこんでいたというのです。その様子を見ていた家の中の人たちは、「このヘビは普通のヘビとは違う。これはきっと亡くなったお父さんだ」と思ったそうです。

 年末でしたから、4人のお茶飲み会では、ソバ打ちのことも話題になりました。元々はKさん夫婦が中心になっていたのですが、歳をとっていくうちに、亡くなった息子さんの出番が多くなりました。そしてソバ打ちと言えば、この息子さん抜きには考えられない状態になっていました。

 亡くなって最初の年越しを前にして、さて、どうしたものかと思っていたところへ応援にやってきたのはYさんでした。Kさん夫婦は、このYさんのおかげで今回も年越しそばを自分の家で作れたのです。

 お茶飲み会では、大きなカリントなどをいただきながら、次から次へと出る話に引き付けられました。

 30分ほど経ってから、お礼を言って外に出た時、話に出てきた寒椿の姿を見たくなりました。椿の木は、2bほど立ち上がったところから横に伸びていて、とても素敵な形をしています。花はすべて赤、つぼみ段階のもの、すでに大きく花を開いているものなどたくさん付いていました。

 私は、青い空をバックにこの寒椿の姿を何枚か写真に撮りました。すぐそばで幹や花を見て思ったのは、よく手入れされているということでした。そして、もうひとつ、この寒椿は花を咲かせることで周りを明るくしています。赤い花は、息子さんが「おい、みんな、元気出して頑張れや」と言っているようにも見えました。
  (2017年1月15日)

 

第436回 おみ漬け

 ふるさとの味というものはちょっとしたことで思いだすことがあるようです。大潟区に住むKさんの場合もそうでした。昨年の秋、福島県会津市出身で、近所に住む人から高菜という野菜をもらったことで、Kさんの記憶装置にスイッチが入りました。

 高菜はアブラナ科の越年草で、丈は50から60aほどになります。葉や茎は柔らかく辛味があって、野沢菜と同じように漬け菜として活用されます。もらった高菜を見たKさんはすぐ、生まれ育った山形の地でお母さんが作ってくれた「おみ漬け」を思い出したのでした。

「おみ漬け」は山形県の内陸部特産の冬の保存食です。青菜(せいさい)を中心に、大根、ニンジン、シソの実などを樽に入れて、塩や醤油などで漬けます。Kさんの家では、毎日のようにご飯のおかずとして食べたそうです。そして、時間が経ってすっかくなってきたときには、炒めて食べるか、おにぎりに巻く海苔がわりとして葉っぱを活用したとのことです。

 Kさんの話を聞いてすごいと思ったのは、「おみ漬け」を思い出しただけでなく、高菜を使って「おみ漬け」を作ろうと思ったというところです。

 Kさんが山形にいた頃、「おみ漬け」を作ってくれたお母さんは2年ほど前に亡くなっていますので、お母さんにじかに訊くことはできません。インターネットで調べながら漬物に入れる野菜などの種類や塩などの量の確認をしたといいます。

 でも、インターネットで出てくるものはお母さんが作った「おみ漬け」のデータがそのまま出てくるわけではありません。Kさんの記憶と微妙な違いがあったとのことでした。例えば漬物の中に入れる品物です。Kさんの記憶では青菜、大根、ニンジン、シソの実までは同じでした。その他にスルメや数の子も入っていたのではないか、そんなことが思い浮かんできたというのです。最終的にはスルメも数の子も入れました。野菜を切る時の形にもこだわりました。細かく切るか、イチョウ切りにするかなど考えて切ったといいます。

 こうして、お母さんが昔作ったものにできるだけ近づける努力をして「おみ漬け」が出来上がりました。Kさんは高菜をくれた人にそれを「お返し」としてプレゼントしました。Kさんの手づくり「おみ漬け」を食べたその人は、「美味しい」と大喜びされたそうです。

 ほめてもらったことでKさんは今年、新しい挑戦をはじめました。大根などの通常の野菜の他、なんと、「おみ漬け」に使う山形青菜(やまがたせいさい)を自分の家の裏にある畑で作ったのです。お母さんの「おみ漬け」にさらに近づけたいというのがKさんの思いでした。

 畑では、5bほどの長さの畝(うね)を3列作り、そこに山形青菜の種をまきました。Kさんは、「まぁ、ちょっと種まくのが遅かったけど普通に育ってくれた」と喜んでいました。収穫期を迎えた山形青菜は、野沢菜に似ているけれども茎は丸くなく、平べったいのだそうです。しかもパリパリしていて折れやすいとか。Kさんは1日ほど干してから洗ったといいます。

 先日、私はKさんから今年漬けた「おみ漬け」をいただきました。透明の丸いタッパー(容器)に入っていた青菜、大根などは上手に詰めてあって、人参の色が鮮やかでした。野菜とスルメや数の子もとても合います。食べたとたん、「うまい!」と叫びたくなりました。

 私が美味しそうに食べているのを見て、Kさんはずっと笑顔でした。これまで漬物は、山形の丸ナスを使った粕漬けの経験もあるとのことです。「おみ漬け」の次はどんなものに挑戦するのでしょうか。
 (2017年1月1日)

 

第435回 母が泣いた

 何人かのキョウダイがいて、子どもの頃は一緒に暮らした。学校を終え、それぞれが別の道を歩んでも、キョウダイの絆は強い。それだけに高齢になって、1人、また1人とキョウダイが亡くなっていくのは辛いことだと思います。まして、自分が最後の1人となったときの気持ちはいかばかりでしょう。

 大島区の従弟(いとこ)から伯母が亡くなったという知らせが入ったのは日曜日のお昼休みの時間帯、12時40分頃でした。先日、従弟がわが家に来たときに、「目がよく動かなくなった」などと言っていたので、「ひょっとすれば伯母に重大事態が……」と思ったのですが、その通りでした。

 伯母の訃報を聞いて一番悲しむのは母です。ここ数年間、伯母と母は7人キョウダイのなかで残された姉と妹として互いに励まし合って生きてきましたからね。伯母が老人福祉施設に入るまでは、「ばちゃかね、達者かね」とたびたび電話をしていて、母は伯母の家の電話番号をすっかり暗記しています。

 日曜日は母がデイサービスに行っている日でした。わが家から1`bほどのところですので、教えに行こうかとも思いましたが、伯母が亡くなったことを知れば落ち着いていられないはず、夕方、帰ってからにしようと決めました。

 夕方、私はやるべきことができたので、長女に「おばあちゃんに板山のばあちゃん、亡くなったこと伝えておいてくれ」と一度は言ったものの、気になって前庭にて母の到着を待ちました。

 デイサービスセンターの送迎車がわが家に着いたのは午後4時半過ぎでした。車いすからおろしてもらい、長女の手を借りながら自分の部屋に入った母がベッドに腰をおろした段階で、母に声をかけました。

「ばちゃ、板山のばちゃ、亡くなったよ」

私の言葉を聞いた母は、 「あら、そいが。はい、100だもんな」
 と言って、落ち着いているように見えました。しかし、それから数秒後、

「自動車で来たがかえ、と言っていたがに……」

 と言った途端、顔を両手でおおい、「エーン、エン」と泣き始めたのです。これにはびっくりしました。

 キョウダイのなかで一番行き来していた千葉の叔父が亡くなったときは、体をブルッと震わせたものの、泣くことがなく、7年前に父が死んで病院にかけつけた時も涙ひとつ見せなかった母が今回、まさか声を出して泣くとは思いませんでした。

 こういう母の様子を見たものですから、翌日、母にたずねました。
「どうしるね。おまん、板山のばちゃに会いたけりゃ、つんてってやるよ」
 そういうと、
「行きてでもだめだな。こんだ、ころべば、ほんとに動かんねくなっちゃうもん」

 と答えました。じつは母は先日、背中を痛めてしまい、まともに歩けない状態だったのです。

 そして母はこうも言ったのです。

「おら、いいとき、会ってきた。なんにもあいそねでもと、ばちゃ、言っていたな」
 前日、母が「自動車で来たがかえ」という言葉を使ったのは、今年の7月16日、伯母が入っている福祉施設を訪ねたときに、伯母が言った言葉だったのです。

 伯母が亡くなったいま、母の胸の内はよくわかりません。ただ、お通夜の前日のこと、母はパンをむしゃむしゃ食べながら、ときおり、目をつむっては、口を動かし、こう言ったのです。「7人キョウダイで、おれだけになっちゃった。しょうがねぇな」と。
  (2016年12月24日)

 
 

第434回 長時間停電

 子どもの頃の記憶がよほど強烈だったのでしょうか、雷(かみなり)が激しく鳴り響き、その回数が多くなっていくと、どうしても停電の心配をしてしまいます。12月上旬に発生した雷の時もそうでした。

 この日の雷は朝でした。「しんぶん赤旗」日刊紙の配達をする当番の日だったのですが、2階の寝室から出ようとした瞬間にドカンと一発きました。それも窓の外の稲妻が鋭く、いやな感じがしました。外はまだ真っ暗です。どうしようかと迷いましたが、配達を遅くするわけにはいきませんので、車に乗り込みました。

 幸い、この日の雷は配達が終わるころにはしずまり、ホッとしました。いうまでもなく、停電はしませんでした。

 停電の原因となるものは落雷、強風、大雪など様々です。どういう原因であれ、停電すると困るのはどこの家でも同じだと思います。ただ、わが家においては、停電が長時間に及ぶと、家業そのものが打撃を受け、たいへんなことになりました。

 私の日記には、停電が1時間以上に及んだ長時間停電のときの記録がいくつか残っています。その1つ、いまから11年前の12月中旬の記録を紹介しましょう。

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 ひと眠りして目を覚ましたら停電していました。朝、3時頃だったと思います。しばらく布団にもぐりこみ待ちましたが、いつまでも電気が来ないので、電力会社へ電話しました。柿崎区と吉川区全域が停電したそうです。この停電は、朝の2時17分から8時6分まで何と6時間近くも続きました。そのうえ、一晩だけで50a近くも雪が降ったからたまりません。住民は震え上がりました。

 これほどの長時間の停電は久しぶりでした。ひょっとすると、少年時代以来かもしれません。昔は冬場の停電はよくありました。でも、きょうほどの寒さを感じなかったように思います。湯たんぽとか豆炭こたつ、練炭こたつがありましたから、けっこう暖かでしたね。当時はトランジスタラジオがありましたので、アンテナを伸ばせば、ある程度の情報も入ってきました。それがいまは完全電化の時代になっていますからたいへんです。暖をとるものは全くナシ、有線も電話もインターネットも使えない状態になってしまうのです。

 今回の停電は朝食の時間と重なったこともあって、東北電力や市役所などに問い合わせが殺到しました。当初、有線放送が活用されず、身近な情報を伝えるものがなかったことも不安を広げました。

 大変だったのは、病院や特別養護老人ホームなどの施設です。自家発電装置が稼動してもせいぜい2時間、あとは電気のない時間に突入します。県立柿崎病院では電源車が出たといいます。吉川区の中心部にある特養ほほ笑・よしかわの里では、源のディサービスセンターから丸ストーブを運び込みました。冬場の長時間停電でどうなるか。災害に十分対応できない弱点をさらけだした6時間でした。

 ……………………………………………

 この日記を書いてからまだ10年ちょっとしか経っていないのに、ずいぶん昔のことのように思えます。この記録には長時間停電によってわが家が一番苦しんだことが書いてありません。それは乳搾りができなくなった苦しみのことです。

 じつはこの記録を書いた年の3月にわが家は乳搾りをやめていました。それ以前の長時間停電では、乳搾りの時間になっても搾乳機のスイッチを入れることができない、牛の乳は張ってくる、まだか、まだかとひたすら復旧するのを待ちました。あのときの切なさ、いまでも思い出すと胸が締め付けられます。
  (2016年12月18日)

 

第433回 父親の手

 確かにそうですよね、小さかったころに父親に手を引いてもらったとしても、そのことはすっかり忘れている。そして、父親の手を握ってちゃんと見るようになるのは、父親の体力が急速に落ちたり、病弱になったりしてからになります。

 先日、85歳で亡くなったNさんの告別式でのことでした。式が無事終わって、喪主を務めたYさんが参列者にお礼の挨拶をする場面になりました。Yさんはそのなかで、父親の手について静かに、しかし熱く語りました。父親が入院している時、初めて父親の手にさわったYさんは、「こんなにも黒くて、大きな手だったのか」と思い、感謝の気持ちがこみ上げてきたというのです。参列者が聴き入り、それぞれ胸を熱くしているのが伝わってきました。

 話を聴いて、私は自分の父親のことを思い出していました。子どもの頃、私は父と一緒に遊んだ記憶はまったくありません。大島区にある母の実家へのお盆泊まりのときの写真がいまも残っていますから、父と一緒に出かけたことは何度かあるようなのですが、当時の父親の手のことはまったくよみがえってこないのです。

 私と遊んでくれたのは祖父、音治郎でした。祖父とは家の前庭から150bほど離れたハサ場までとび競争をしましたし、家の中では相撲もしました。ですから、祖父の長い指、大きな手はよく憶えています。

 子ども時代に父の手についての記憶がないのは、それだけ父が忙しく働いていて、子どもと一緒の時間が持てなかったことが大きいと思います。冬季間、父が酒造りの出稼ぎに出ていたことも一緒の時間を少なくしていました。

 父親の手のことを意識し始めたのは、私もYさんと同じでした。70代後半に入り、父が自力ではなかなか歩けなくなったときに、父の両手を持ち、こちらがバックしながら歩くということをするようになりました。時には、「1、2、1、2」と声を出しながら歩きました。

 弱ってきた父ではありますが、それでも手の大きさは変わりません。太くて、じつにしっかりした指、祖父に負けないくらいの大きな手、私はその手から、父のそれまでの苦労、頑張りを思いました。

 父の晩年は入院生活でした。耳の方はずっと聞こえていたようですが、自分でしゃべることができませんでした。見舞いに行っても意思の疎通ができないことから、最後は手を握って別れることが多くなりました。ですから、父の手と言うと、病院に入っていたときの手を思い出してしまいます。

 Nさんは酒造りでは杜氏として活躍された人です。確か、全国鑑評会で何度か金賞に入ったことがあったと思います。出稼ぎをやめてからは田んぼ仕事の傍ら、菊作りにも励み、地元の文化展などで表彰されていました。とても器用な人だったなと思い出しています。

 出棺を前にした花入れのとき、私も花を持ち、Nさんと最後の別れをさせてもらいました。じつはYさんの挨拶を聴いて、Nさんの手を見てみたいと思ったのです。でも、手には布団がかかっていて、見ることができませんでした。私は、布団の上に掛けられた「清酒」という白抜きの文字が入った造り酒屋の半纏を見ながら、Nさんの大きな手を想像し、手を合わせました。

 Yさんの挨拶にも出てきましたが、Nさんは畑仕事も熱心な人でした。その仕事は最近まで続いていたようです。そのNさんが栽培したネギがいま食べごろを迎えているとのことです。少なくとも2、3か月は食べられるでしょう。家族の皆さんはネギを食べるたびにNさんを思い出し、手のことも話題にされるに違いありません。
 (2016年12月11日)

 

第432回 「柿泥棒」

 油断をしていなかったかと言えばうそになります。9月下旬に食べられるようになってから、毎日のように、食べたい数だけもぎ続けていても、とられる心配はこの間、まったくしませんでしたから。

 柿の木は私の地元事務所のすぐそばにあります。樹齢は十数年といったところでしょうか。高さは3bくらいしかなく、木としては小さな方です。この木は母が近所の人と一緒に注文したものですが、1年おきにたくさんの実をつけています。

 今年はこの柿の当たり年で、木の枝が折れるのではないかと心配になるほどたくさんの実をならせました。数えはしなかったのですが、おそらく300個近くはあったと思います。

 柿が美味しさを増すようになってからは、休むことなくもぎ続けました。母から、「柿の種が黒くならんとうんめくならんど」と言われていたので、最初は少なめにしていましたが、1回にもぐ柿の数も増えました。

 柿の木に異変を感じたのは11月の半ば過ぎになってからです。木の下の方の枝になっていた実の1つが何者かに食べられていたのです。1個まるごと食べられたのではなく、半分くらい残ってぶら下がっていました。きれいにすべて食べられていればおそらく気づかなかったでしょう。

 私は最初、鳥がつついて食べたものだと思いこんでいました。ところが、ある日の夜のこと、柿が食べたくなって、薄暗い中を柿の木のところまで行ったところ、ガサガサという音を立てて、笹の生い茂ったなかへある動物が逃げ込んだのです。タヌキなら何度も出合っているのですぐにわかるのですが、逃げ方はタヌキとは違ってスピードがありました。この時、ひょっとすると柿を食べたのはハクビシンかも知れない、と思いました。

 ハクビシンは甘い果物が大好物と聞いています。わが家の柿の木は枝が垂れ下がり、地上30aくらいのところまで柿はなっていましたから、ハクビシンが取ろうと思えば簡単に取れます。「犯人」がハクビシンである確率は高いと思いました。ただ、ハクビシンとはその後、出合うことがありませんでした。

 数日後、今度は柿の木の上の方の実が少なくなっていることに気づきました。木の高いところには縦横8aから10aほどの四角い大きい柿がいくつも実っていました。下から見ると、太陽の光をたっぷり浴びて、とても美味しそうに見えます。そろそろ一番のもぎどきかな、と思っていたところで食われてしまいました。

 ハクビシンはこんなにも高いところに登るのか。最初はそう思っていたのですが、もし登って食べたとしたら、枝を1本くらいは折っていても不思議はありません。でも、それらしき跡はまったくありませんでした。

 さて、そうなると、食べたのは誰だろう。そう思っていたら、近くの杉の木の高いところでカラスが鳴いています。「なあんだ、こいつか、食べたのは」と思いました。私は、「アホウ、アホウ」と言われているような気がしてなりませんでした。でも、カラスがこの柿の木にとまって実を食べている姿も見たわけではないのです。

 母が植えたこの柿の木の実を食べたのは何者か。それはいまでも分かりません。ただ、ハッキリしているのは、「犯人」はこの柿の一番美味しい時期を知っていて、そのときにやってきて食べていったということです。それも全部食べたわけでなく、食べても遠慮がちに食べ、あとは「ほしい方、どうぞ」といった感じで残していったのです。なかなかやりますねぇ、「柿泥棒」さんよ。  
 (2016年12月4日)
 

第431回 スカイライン

 Uさんて、こんなにも気持ちのやさしい人だとは思いませんでした。昔から気っ風が良くて、面倒見のいい人だということは知っていましたが、自分でこうと決めたことについて、とことん面倒を見る姿に、ほれぼれしてしまいました。

 スカイラインの話を教えてくれたのは正月になると83歳になるK子さんでした。私の顔を覗き込むような格好をして、「この間、おら、Uさんからスカイラインに連れて行ってもらったがど。ばかいかったわね」と語ってくれました。

 Uさんというのは吉川区の山間部から柿崎区に出て自営業をやっている人です。Uさんは今年10月の下旬、親戚のTさんとその友人のJさん、K子さんを誘ってドライブに出かけました。

 Uさんが声をかけた3人はいずれも80代前半で、早い時期にお連れ合いを亡くされています。「家にばかりいちゃ、いくねすけ、たまにゃ外に出なきゃ」と言って誘いました。

 4人がめざしたのは標高700bくらいの魚沼丘陵にある魚沼スカイライン。ここでの紅葉を楽しみたいと天気の長期予報を見ながら日取りをしました。

 出かけた日はバカいい天気の日となりました。青空が見え、紅葉を楽しむには絶好の条件となりました。

 魚沼スカイラインは全長約19`bの県道です。4人を乗せた車は八箇峠から入ってしばらく右に左にとくねくねする道を走りました。Tさんは「ちょっときつかった」といいます。でもそれはいっとき、ひとたび高いところへ上がってからは魚沼丘陵の尾根づたいを走りますから爽快な気分になりました。Uさんは、「つんねっこに上がれば、馬の背のような道で、こっちも見えれば、あっちも見える。そりゃ、いい景色だわね。ただ最高の紅葉にはちょっと早かったかな。赤いのはあまり観ることができなくて、黄色の景色が多かった」と言っていました。

 Uさんが魚沼スカイラインへ行ったのは今回で3回目。気に入ったのは景色だけではなく、お守りも気に入っていました。スカイラインの途中に「護国観世音」というのがあって、そこで購入したお守りのおかげで、「なにがいいかというわけでないけど、いいことあった」と言うのです。深くは聞かなかったのですが、その話をしている時のUさんの顔の表情からいって、「いいこと」がいくつも重なったのでしょう。

 今回も「護国観世音」に立ち寄りました。売店は開いておらず、お守りを返して、新しいものをもらいたいと思っていたUさんの願いはかないませんでした。ただ、観音様のある建物の中に長さ30aほどの大きなロウソクがあり、それに火がともされていて、手を合わせてきたそうです。ロウソクの日はスカイラインを訪れた初回のときも、2回目のときもちゃんと灯されていたといいますから、ひょっとすれば、そこに通い、ロウソクをずっと灯し続けている人がいるのかも知れません。どうあれ、強く印象に残ったそうです。

 今回のドライブでは車を250`も走らせました。帰りは飯山から県道新井柿崎線を通ってきたといいます。話を聴いていて、驚いたのは昨年も同じメンバーで魚沼スカイラインをドライブしてきたということでした。

 4人は歳は違っていても、ほぼ同じ時期に尾神岳のふもとで生まれ育った者同士です。Uさんは、K子さんとの別れ際、「バチャ、またね」そう言って握手をしたとか。同郷のよしみということもあるかも知れませんが、Uさんが中心になり、4人が一緒に行動して楽しんでいることが私にはとても素敵なことに思えました。
  (2016年11月27日)

 

第430回 孫のクレヨンで

 Kさんが絵を描き始めたという情報を私に伝えてくれたのは元教員のHさんでした。どういうことから絵の話になったのかは記憶していませんが、Hさんが見たKさんの絵の印象は、とても繊細で、きれいだということでした。しかも描いている絵は野の花だということです。そう言われると、とても気になります。いつかKさんの絵を観てみたいものだと私は思いました。

 Kさんは私と同じく60代半ば過ぎの人です。写真愛好家であり、野の花については他の追随を許さない素敵な写真をたくさん撮っておられます。それだけに、写真とは別に絵を描いているということに強い関心を抱きました。

 選挙も一段落した先日、Kさん宅を訪ねました。コーヒーを出して私に勧めた後、すぐに持ってきてくださったのは、マルマンの小さなスケッチブックです。

 手元で広げてみてびっくりしました。一つひとつの花がじつに丁寧に描かれていたのです。例えばナデシコ科のガンピ(岩菲)。葉が対生となっているところや葉のギザギザ、花びらの切れ具合などが正確に描かれていました。これだけ丁寧に描いてあれば、花の名前がわからなくて調べるときに十分役に立ちます。まさに「野の花図鑑」といってよいでしょう。

 スケッチブックは、私に見せてくださったものだけでも4冊にものぼります。描かれていたものはヤマユリ、ツユクサ、リンドウ、ヒヨドリバナなどいずれも私が普段、目にするものばかりです。ツユクサの絵を観た時、青い花自体が持っているかわいらしさ、ひょうきんさなどがよく出ているので驚きました。草花の特徴をしっかりつかんで、絵を描く。1枚の絵を描くには相当な時間がかかっているはずです。4冊ともなると、すごい時間になりますね。

 スケッチしている場所を訊いてみると、私がよく散歩に出かける農道や池の周りなど共通のところがいくつもありました。それだけに、描かれている野の花には強い親近感を覚えました。

 いまも咲いている秋の野の花、センブリは今年はこれまでになくたくさんの花を咲かせていますが、花のつきぐあい、茎の分岐の仕方などスケッチされたものは私が見たものとまったく同じ花を描いたのではないかと思うくらい似ていました。

 Kさんの絵の特徴の一つは茎や根などの線がとてもすっきりしていて、美しいことです。花ではないところでも美しさが出ているのはいいなと思ったので尋ねてみると、思っていた通りでした。Kさんは線にこだわりを持っていたのです。子どもの頃からオオバコのたくさんの根が気に入って描いてきたとかで、そうしたところが今回のスケッチにも出ているんですね。

 スケッチブックの中でKさんが最後に見せてくださったものは、シダの葉の絵でした。この絵には短い言葉も添えられていました。じつはこの絵、絵手紙として出そうとしたものなんだそうです。でも、描き上げた段階で「これは下手だ」と思い、出さずじまいになってしまったのだとか。このシダの絵、私は観た瞬間、傑作だと思いました。というのも、シダの葉の周りが太陽の光を受けて、普段なかなか見ることのできない美しい色合いで描かれていたからです。それだけではありません。この絵を観ただけで涼しさを感じるのです。絵は夏に描かれたものでした。

 Kさんが絵を描き始めたきっかけはお孫さんが使い残したクレヨンだと言います。いいものを残してくれましたね、お孫さんは。クレヨンを毎日のように使って描いていることで、本人のお気に入りの作品も出てきました。この調子だと、Kさんの写真にも影響が出るかも知れません。
  (2016年11月20日)
 

第429回 貝の化石

 先日、風邪をひいた母を診療所へ連れて行こうとしたときのことでした。偶然と言えば偶然ですが、何とはなしに玄関脇に植えてある南天の木を見ておやっと思ったのです。木の根元に見たことのある白っぽい石があることに気づいたのです。

 手にした途端、「なあんだ、こんなところにあったのか」と思いました。石は、吉川区の蛍場(尾神町内会の一部)にわが家があった30数年前までは、玄関先にいつも置いてあったものだったのです。何十年も見ていなかったので、それがあったこともすっかり忘れていたのですが、それでも見ればすぐに思い出します。

 石の大きさは縦横それぞれ25aほどの大きさです。この石には貝の化石がいっぱい入っていました。たぶん父が蛍場のどこかで拾ってきたものだと思います。

 何で「蛍場のどこかで拾ったのでは」かと言うと、蛍場は化石が出るところというイメージが子どもの頃からあったからです。私が知っているだけでも、蛍場の南側にある屏風のような山の中腹と蛍場集落の「むこう」(屋号)という家のそばにあった小さな池の縁で化石を見たことがありました。これらの2つの場所でなくても、どこから化石が出てきても不思議はありません。蛍場はかつて海だったところが隆起して出来た場所だからです。

 父が貝の化石の入った石を大事にしていた理由は何だったのかよくはわかりません。単に、貝の化石がたくさん入っている石がめずらしかっただけのことかも知れません。ただ、母によると、父は「値打ちもん」と見なしたものは絵であろうが石であろうが大事にしてきた人だということでした。ですから、わが家を訪ねてきた誰かに、「こりゃ、めずらしい。いいもの見つけましたね」などと褒めてもらっていれば、それだけで、父の評価は大きく上昇、「わが家の宝物だ」ということになったというのです。

 1982(昭和57)年の11月のいまごろ、わが家は現在の場所に移転しました。その際、私はその石をどうしたかについてはまったく知りませんでしたし、どこへやったのかと父に訊くこともありませんでした。

 いま、こうしてわが家にあるということを確認できたということは誰かが運んできたということです。たぶん、父が持って来たのでしょうね。

 南天の木の下をよく見ると、化石を含んだ石はいま、3つになっていて、そのうちの一番大きいものはコンクリートに埋め込まれています。最初から3つになっていたのか、それとも風化が進み、石が割れて3つになったのか、そこらへんはよくわかりません。

 私の推測では、3つの石の色から見て、石は元々2つ、そのうちの1つが何らかの作用で2つに割れ、大小3つの石が南天の根元にあることになったと見ています。

 現在住んでいる家の玄関先にこれらの石が置いてあることを知った私は、すぐに大潟区に住む弟に連絡しました。弟もびっくりするかも知れないと思ったからです。ところが弟はかなり前から気づいていたようです。そして石の出どころについては蛍場集落地内にある池の可能性が大きいのではないかとも言いました。

 どうあれ、貝の化石を含んだ石は30数年ぶりに突然、私の目の前に現れたのです。思いがけない出現で私は、蛍場に住んでいたとき、化石が置いてあった場所の周辺や「たね」と呼んでいた小さな池のことを久しぶりに思い出しました。そして、いろんなものを集めては夢中になっていた亡き父の姿を思い浮かべることもできました。これが何よりもうれしかったです。
 (2016年11月13日)

 
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