春よ来い(17) 
 

第428回 長座布団

 急激に寒くなってきましたね。わが家ではひと月ほど前からコタツを出しています。つい先だって、妙高山系にも初雪が降りましたが、市内の山間部ではすでに初霜が降りたとか。ストーブも必要になってきました。

 わが家でコタツを置いているところは居間です。テレビを観たり、お茶を飲んだりする場所のほぼ中央部に設置しています。

 コタツを囲んで座る場所は長年の習慣で定まっています。台所に一番近いところは母、座敷を背にしたところは私といったふうに。私が座る場所は、9年ほど前までは父の居場所でした。

 いうまでもないことですが、コタツで座る時には座布団を敷いています。わが家の居間のコタツ用座布団としては、普段は長い座布団を3枚使っていて、このほかに普通の1人用の小さなものを1枚使うこともあります。

 そこまではどこの家のコタツでも似たり寄ったりだと思います。わが家では母が風呂に入る頃から、コタツを取り巻く座布団の配置に変化が出てくるのです。母がコタツから出るとき、自分が使っている2つのクッションを私が使っている長座布団の上に置き、座敷の奥に置いてある長座布団を持ってきて、私のところにもう1枚敷いてくれるのです。

 長座布団1枚だけでもその上に横になることはできますが、2枚並べると、寝るには十分すぎる広さになります。母が長い座布団を運んでくると、それに合わせて私もリラックスします。

 母が風呂に入っている時間は長くはありません。せいぜい5分ほどです。風呂からあがると、裸のまま自分のベッドのところへ行き、着替えています。

 風呂から母のベッドまでの距離は10〇b弱です。母はこの距離を移動する途中で、私に「とちゃ、風呂あいたよ」と声をかけます。私が、「はいよ」と言えば、母は安心して自分の部屋に入っていきます。

 母から声をかけられ、そう時間をかけないで風呂に入るのが普通のパターンです。たいがいは、風呂からあがって、そのまま2階の寝室に行って布団に入ります。2階に行かない場合は、コタツに戻り、長座布団の上で横になって、テレビを観たり、スマートフォン(多機能携帯電話)をかまったりすることになります。

 ただ、長座布団の上で横になると、暖房が効いているものですから、ついうとうとしてしまいます。先だっても、疲れていたこともあって、そのまま眠ってしまいました。目を覚ましたら、なんと夜中の2時を回っているではありませんか。それから、大慌てで風呂に入り、2階の寝室に行って布団に入りました。

 私の場合、どういうわけか、コタツで寝た時間というのは睡眠時間にカウントされません。体がそういうふうになってしまっているのでしょう。ですからコタツで3時間寝ても、睡眠時間としてはゼロ、布団に入って寝た時間のみが体に記録されるのです。ですから、睡眠時間が3時間、4時間ということがひと冬に何回かあります。

 こういう失敗を何度か繰り返すと、コタツで横にならないように、長座布団はない方がいいのかもと思うことがあります。それでも、そうはしなかったのには理由があります。

 長座布団を私のところへ運ぶのは、いまや母の日課です。それも、そうすることが母の役目だと思っているようなのです。ひょっとすれば、私のためにゆったりする時間をと思って、運んでいるのかも知れません。

 となれば、もっと長座布団を大事に使わなければなりません。今夜も母が長座布団を運ぶ時間になりました。帰らなきゃ。
  (2016年11月6日)

 

第427回 初恋

 それは秋が深まり、寒さが少しずつ厳しさを増していった10月のある日のことでした。その日は市議と地元の生産組合関係者など10数人が集まった収穫祭でした。出されたご馳走のうち、私が大好きな卵とじを食べて間もなく、突如、「彼女」はやってきたのです。

 身長は約10a、横幅約20aの「彼女」は私の前にやってくると、無言でじっと私を見つめ続けました。さて、いったい何の用があるのだろうと不思議な顔をしていると、「彼女」を抱いてきた長身のHさんが、「橋爪さん、これ持って行ってくんない」と言って緑色の肌をした「彼女」を私の前に差し出したのであります。 「彼女」の名前は「初恋」という名前なんだそうです。びっくりしましたね、まさかきゅっと引き締まったキャベツにそんな素敵な名前が付いているとは……。

 キャベツを差し出したHさんは、続けてこう言いました。「これねぇ、車1台に積んで『あるるん』へ持って行くとけっこういい金になるんだわ。売って儲かれば、女衆が元気になるんさ。これからは、そういう取組をしていかんきゃならんね」と。この「初恋」、枝豆や玉ねぎの後作(あとさく)としてKさんたちの生産組合で試験的に作ったのだそうですが、それが当たりました。気候が合っていたのかも知れません。

 私はHさんから「初恋」をいただいてすぐに、「初恋」を手にしたHさんの写真をインターネットで発信しました。タイトルは言うまでもなく「初恋」。写真の説明文には、「初恋をいただきました。柔らかくて、ちょっぴり甘いんだそうです。私はもう初恋という歳ではありませんが、初恋はするものであって、食べられるものだとは思ってもみませんでした」と書きました。

 発信後、私の投稿を見た人からコメントがいくつもきたのでHさんのところへスマートフォン(高機能携帯電話)を持って行き、「ほら、もう反応がありましたよ」と言うと、Hさんはうれしそうに、「『初恋』いいですねぇ。今、酒の肴に生キャベツをむきながらが流行っているそうですね」というコメントを読み上げました。

 私とHさんが楽しく対話しているところへ、定年退職して農業に打ち込んでいるMさんも加わってきました。

 Mさんは稲作を中心にした経営をしていますが、「献夏(けんか)37号」という夏ダイコンを作ったところ、ちょうど地元産のダイコンがなくなる時期に生産したこともあって、うまくいったと言いました。この名前もなかなかしゃれています。

 私とHさん、Mさんの3人はカリフラワーについても語りあいました。7月から9月末にかけて生産組合のみなさんが栽培しているカリフラワーは、「バージンロード」、「ホワイトパラソル」、「ゆきまつり」の3品種だとか。名前とともに特徴を説明したHさん、「ゆきまつり」のときは、両手をふわーっと広げて紹介し、ここでも「いい名前だろね」と言いました。

 私が一番最初に野菜の素敵な名前と出合ったのは、2年ほど前です。面白いことに、収穫祭の会場となった飯田邸からそう遠くないところに住んでいるKさんのカボチャでした。その名前は「雪化粧」、表面は雪のように白っぽく、茹でるとホクホク感のある美味しい味でしたね。

 さて、いただいた「初恋」ですが、その日の夜に食べてみました。台所に持って行き、キャベツのはいだ1枚をお湯でさっと洗い、手のひらに載せると、くるっと巻きました。まさにロールキャベツです。口に入れると歯ごたえもありました。「味はいかがでしたか」ですって。もちろん、「初恋」の味でした。
  (2016年10月30日)

 

第426回 秋の日の夕方に

 忙しい日が続いた県知事選も終わって、一段落した日の夕方のことでした。机に向かっても何となくボーッとしてしまうので、外に出て気分転換をすることにしました。

 私の気分転換の方法は前にも書いたことがあるように、横になってひと眠りする、シャワーを浴びる、近くの里山や農道を歩く、この3つのいずれかです。この日はまずまずの天候でしたので、迷わず、私の地元事務所脇の里山を散策することにしました。

 この里山、昔は松林もあり、マツタケも出たというふうに聞いています。でも、いまはまったく出なくなり、あるのは白いスギヒラタケ(カタハとも呼びます)くらいです。食用になるキノコはあまりありません。

 昔もいまもあるのは木やツルの実です。私は毎年、キイチゴ、ヤマボウシ、アケビ、山芋のイモゴ、ガマズミの実をこの里山のどこかで食べています。  この日は市道から5bほど入ったところで、珍しいものと出合いました。ヤマブドウの一種であるエビヅルです。いつの間に生えたのでしょうか、この里山では初めて出合いました。木に絡まったツルはさほど太くはなく、ツルが伸び始めてまだ1、2年といった若いツルです。それでも黒くなった実がいくつかなっています。思いがけない出合いに私はうれしくなりました。

 まず写真に撮りました。続いて、手を伸ばしました。でも届きません。それでツルをひっぱってみることにしました。途中でツルがぷつんと切れないように、ゆっくりと引きました。ようやく手元まで来たエビヅルはブドウの房に比べれば、極めて貧弱で、直径3ミリほどの小さな黒い実が4、5個ついているだけです。でも、私は満足でした。

 エビヅルの実を手のひらに載せ、まず1個だけ口に入れてみました。昨年、大島区上達へ稲刈りに行った時、数十年ぶりに見つけたミヤマツのような甘さはまったくなく、酸味がとても強いので2個ほど食べてやめてしまいましたが、懐かしい味でした。

 エビヅルのあったところから20bほど進んだところで、私は再び立ち止まりました。前方に数え切れないほどのドングリが落ちていたからです。おそらく数千個のドングリが落ちていたのではないでしょうか。この里山はナラの木が多く、あちこちにドングリがころがっていますが、これほどたくさんのドングリが落ちている場所は私の60数年の人生でも見たことがありません。今年はドングリが大豊作なのでしょう。

 このドングリはすぐそばにある2本のナラの木の実です。そのうちの1本の木は私が手をまわしても届かないほど太く、木の高さは20bを超えています。  落ちた実のいくつかを手に取り観察している間に、ボトンという音がしたのでびっくりしました。ドングリが落下したのです。落ちてきたドングリは細長い形で、縦2.5a、横1.5aほどの大粒のものでした。ナラの木は枝も広がっていますから、ドングリは木の真下だけでなく、近くの水路や畑にも落ちていました。

 ドングリの実のほとんどはしっかり実がしまっていましたが、実が割れているものもいくつかありました。よく見ると、芽がちょこんと出始めています。冬に向かういまの時期に芽を出してもまず育たないと思うのですが、それでも命をつないでいこうとする強い意思に感動しました。

 この日、薄暗くなり始めてから西の空は茜色に染まりました。私は自家用車を走らせ、家の前を通り過ぎ、田んぼのところまで行きました。すると、茜色がだんだん広がって、じつに美しい景色になりました。素敵な秋が深まっていきますね。
   (2016年10月23日)

 

第425回 風呂場のイス

 一つの器具が老いていく人間の助けになる。介護、福祉の分野ではどこでも見られることですが、実際に自分の家で使うようになって見ると、なかにはしゃれたものもあったりして、「いいもんだなぁ」と感心してしまいます。

 ひと月ほど前、わが家の風呂場に入ってびっくりしました。洗い場のところにオレンジ色の、かっこいいイスが置いてあったからです。言うまでもなく、九二歳の母のために用意した入浴時のイスです。

 イスはアルミ製、軽くて片手で簡単に動かすことができます。いつも私が体を洗う場所に置いてあったものですから、お風呂の入り口側に引きました。オレンジ色と書きましたが、座る場所と背もたれがこの色で目立ちます。残りの部分は銀色と言ったらいいのでしょうか、アルミのパイプの色となっています。

 風呂場にオレンジ色のイスが置かれ、しばらく経ってから、母に「なじょだね、風呂のイスは」と訊(き)きました。母は「足、洗ったりするにいいよ。そんに、あがるときには体もふかれるし……」と答えました。さらに「ケツはどうしてるが」と訊くと、「そりゃ、立って洗ってるよ」と言います。

 母はいつも私の前に風呂に入ります。風呂には、ちゃちゃっと入って出てくる母ですが、母のしゃべっている言葉で、どんなふうにして体を洗っているかはだいたい想像できます。ていねいに体の隅から隅までゴシゴシやることはなく、体の前と後ろを洗った後、イスに座って前かがみになり、タオルで手足を洗い、背中をさっと洗って、「はい、終わり」といった感じです。

 お風呂の話をしているとき、母はふと何かを思い出したようです。 「とちゃ、おまんに話したっけなぁ。この間、おらちにコメ持って来たおとっちゃ、教えてくんなったがど、東んち、壊していなったって……」

 東というのは屋号でわが家の親戚の家です。叔父が亡くなってから、叔母も引っ越し、空き家になっていました。

 わが家が尾神岳のふもとにあったころ、東の家はわが家のすぐ近くにあったものですから、毎日のように行き来していました。歩いて行く場合は、わが家の小さな「たね」(池)の脇から道に出て、急な細いところを上がると、そこがもう東の家でした。私の記憶にはほとんど残っていませんが、水が十分あったわけではないので、互いに「もらい風呂」をしていたようです。母は、そのことを思い出したのかも知れません。

 ところで、わが家の風呂場に介護の器具が入ったのは今回が初めてではありません。いまから10年ほど前、頑丈な体の持ち主だった父の体力が衰え、歩くにも人の手を借りなければならなくなったころ、玄関には手すりが設置され、風呂場には浴槽の中に入れておく台が入りました。これは浴槽に入るときは足場になりましたし、風呂に入ってからは腰かける台にもなりました。

 その父が亡くなってから7年経ちました。父よりも3つ年上の母が今度は介護の器具の世話になるときがやってきました。ただ、父が病院に入る前に比べれば、いまの母の姿はまだまだ「たっしゃ」です。

 風呂場のイスに助けられながらも、92歳になって、自分ひとりで風呂に入り、体を洗って出てくるとはありがたいですね。今夜も、母が風呂から出て、私に声をかけてくれました、「とちゃ、風呂あいたよ」と。
   (2016年10月16日)

 

第424回 駅伝近し

 母の定期検査で市内の病院に行ったときのことです。予約した時間にMRI(強い磁石と電波を使って体内の状況を調べる検査)の場所へ行くと、背の高い男性がニコニコしてこちらを見ています。

 男性はタケシさん、上越市吉川区に住む友人でした。タケシさんについては、体調を崩し入院していると聞いていたので、「どうしたの?」と訊(き)くと、一か月ほどで退院していて、その日は検査に来たということでした。

 タケシさんとは4月以来の再会です。母が検査室に入ってからは、2人で青年団時代の話をして盛り上がりました。

 タケシさんも私もかつては「走ろう会」の仲間であり、駅伝の選手でした。走るということが好きだというだけでひとつになったグループですが、走っては飲み、おしゃべりを楽しんでいました。また、一緒に出かけたこともありました。確か、夜通しで歩く会で柏崎市まで行ったのも「走ろう会」の取組だったと思います。

 話がはずんで、駅伝を走る人はその人の親も子も走るケースが多いという話になりました。アキノリさんの兄弟だか子どもさんも走りが早くて選手になった、ショウイチさんのところは兄弟して早かった、タケシさんが次々と出してくる例にはうなずくことばかりでした。こうした人たちの体の中には共通して駅伝好きの血が流れているのではという話にもなりました。

 考えてみれば、私の兄弟もそろって走るのが好きでした。飛びぬけて早い者はいませんでしたが、走ることを得意にしていて、ねばり強く最後まで走り抜き、それなりの成績を収めていました。私の場合、高校時代は校内マラソン大会において、陸上部の人たちと上位で争いました。

 話をしていて、感心したのはタケシさんの記憶力です。勤務地の地元チームに入っていて4回優勝したとか、各チームがスピードランナーを配置する一区で区間賞をとったことがあるなどいろんなことを記憶しているのです。彼は町の中心部、原之町チームでは2回走り、竹直や大乗寺のチームの一員としても走ったそうです。

 最後に彼が走ったチーム名はオールドゲッパーズ、「走ろう会」のメンバーでつくられたチームです。じつは、「走ろう会」のメンバーはチームをもうひとつ、つくっていました。そのチームはヤングゲッパーズでした。ヤング、オールドいずれのチームもゲッパーズですから、走るのが遅いと思われがちですが、どうしてどうして、けっこう頑張っていました。タケシさんの記憶ではふたつのチームの力にたいした差はなく、駅伝大会では5、6番目に入ったこともあるそうです。参加チーム数が15以上もあった時代のことですから、上位に入っていたということです。

 話をしていて、2人で「そうだよね」と一致したのは、チームが同じ人はもちろんのこと、チームが違っていたとしても、一緒に走った人とは生きていくうえでの連帯感みたいなものがあるということでした。それは、ほとんど走ることがなくなったいまも続いています。とにかく、どうしているかと気になるのです。

 母が検査を終えて出てくるまでの10数分間、タケシさんは、駅伝のことだけでなく、町内会の仕事のことなども語ってくれました。そうそう、彼の隣の家に赤いゲンノショウコがきれいに咲いているということも話してくれました。体は大きいですが、植物などの小さなものへも心を傾けるやさしい人なんですね、この人は。
  (2016年10月9日)

 

第423回 確かめる

 いったん気になりはじめたら止まらない。野の花のことになると、どうしてこういうことになるのか、自分でもあきれるほどです。

 先日、直江津の石橋にある「あひる」という食堂に行ったときのことです。舗装してある駐車場はすでに満車で、お店の西側にある砂利をひいた駐車場に車を止めました。車のドアを開けたところ、きれいな赤い花がすぐ目に入りました。花の形からして「これはゲンノショウコにちがいない」そう思って写真を撮りました。

 撮った写真はフェイスブックというインターネット交流サイトに1時間ほど経ってから投稿しました。赤色のきれいなゲンノショウコをぜひ多くの人たちに見てもらいたいと思ったからです。

 花の写真はたびたび投稿していますが、たいがいは投稿すればそれで終わりとなります。ところがこの日は、投稿した後も気になって何度かその花の写真を見ました。見ているうちに疑問がわいてきました。疑問に思ったのは葉の形です。葉に切れたところがなく、どう見てもゲンノショウコのものとは思えませんでした。この葉は見たことのあるものですが、名前が浮かびません。

 ただ、名前こそ浮かびませんでしたが、その葉を見つけたときのことは鮮明に覚えていました。尾神岳のふもとにある大出口泉水の近く、雑木林の裾というか土手を上がったところに白い花が咲いていて、その野草の葉の形は独特でした。そこで、私のホームページにある「野の花のページ」で探してみたところ、名前がハッキリしました。ミヤマカタバミだったのです。  いうまでもなく、ゲンノショウコとミヤマカタバミの葉は完全に違います。ゲンノショウコの葉は掌のようになった掌型(しょうがた)で、いくつかに深く切れています。一方、ミヤマカタバミの葉はチョウが羽を開いたような形をしていて、ハート型に見えることもあります。大出口泉水の近くで初めて出合ったときは、花だけでなく、この葉の形にも惹かれました。

 さて、そうなると、「あひる」の駐車場にあったゲンノショウコの葉の形はどうなのかが気になります。これはインターネットで調べるわけにはいきません。現地で確かめるしか方法はないのです。

 翌日の午前、私は、木田方面へ出た際、「あひる」の駐車場に向かいました。写真を撮った場所に行くと、間違いなくカタバミの葉がたくさんありました。そして、その真ん中あたりで赤い花が咲いていました。「不思議だなぁ」と思いながら、カタバミの葉をどけて、あっと思いました。赤い花のゲンノショウコの茎は長く、根に近いところで、やはりゲンノショウコの掌形の小さな葉がついていたのです。

 なんのことはありません。ゲンノショウコがたくさんのカタバミの葉を押しのけて赤い花を咲かせていただけなのです。「なんで、そんなこと最初に気づかなかったのか」と思われるかも知れません。でもね、私と野の花の出合いは発見を伴うものが少なくありませんでした。これまで見たものとちょっとの違いの発見が、新しい花との出合いにつながっていたのです。どうしても初めての出合いを期待してしまいます。

 野の花との出合いはいつもドキドキ、ワクワクです。今回は、いつも見かけるものとは違った葉をつけたゲンノショウコとの出合いとはなりませんでしたが、疑問が解けたときの喜びは小さくはありませんでした。
  (2016年10月2日)

 

第422回 敬老の日に

 敬老の日。妻のキョウダイが相談して、柏崎の実家に集まって義母を励まそうということになりました。柿崎駅まで妻を送ろうとしたとき、「うちのばあちゃん、もし、行くと言ったら、あんた、ばあちゃんを柏崎まで連れて来てくんない」と言われました。

 携帯電話で母に「どうしるね」と訊(き)いたところ、すぐに「行く」と返事をしてくれました。私が午前の活動を終えて、正午過ぎにわが家に戻ると、母は既に持参するものを用意して待っていました。長女によると、私から電話があった後、母は出発時間を10時だと勘違いしたらしく、それ以来、居間でずっと待っていたようです。

 私の軽乗用車で柏崎市にある妻の実家に着いたのは午後1時少し前でした。玄関への登り道には萩が赤紫と白の花を咲かせていました。そして、上がりきった右側のところでは真っ赤な彼岸花がたくさん並んでいます。

 玄関に入って声をかけると、まず妻が出てきて、次いで柏崎の義母も兄も出迎えてくれました。母が義母と会ったのは4年前の6月、松之山温泉で88の祝いをしたとき以来ですから、ほんとうに久しぶりです。2人は抱き合って再会を喜びました。

 居間に入った母に義姉だか義母だかが「ありがとうございます」と言うと、母は「もうしゃけないです」を2度も繰り返しました。そして、母は持参してきた袋の中からミョウガの漬物を出しました。急な訪問でも、何か持って行かなければならないと急いで用意したんでしょうね。

 この日、妻の実家に集まったのは妻の姉と連れ合い、私たち夫婦と母の5人です。居間ではすでに食事会が始まっていました。テーブルの上にはすき焼きの鍋がのせられていて、牛肉やエノキダケ、ネギなどの野菜をぐつぐつ煮ていました。参加者が増えたことで、すき焼きを食べるために用意した卵が足りなくなると判断した妻は、「あんた、ばあちゃんと卵、半分こして食べてくれない」と私に言いました。

 正午をとっくに過ぎていましたので、お腹は空いています。じつは車の中で小さなパンを1個だけ食べていたのですが、そのことを隠して牛肉や野菜を勧められるままに食べ、さらに真ん中の大きめの皿に重ねてあった10数個の焼きおにぎりにも手を出し、2つもいただきました。焼きおにぎりは私の好物のひとつだったのです。

 さて、久しぶりに会った母と義母ですが、母は持参したミョウガの漬物をどう作ったかと義姉などから質問され、「シソで色をつけたんですわ」「酢を入れるんではなくて梅酢を使うんです」などとうれしそうに語っていました。一方義母は、突然、私に「柿崎の直海浜に二幸さんのデイサービスがある?」と訊いてきました。「ありますよ、海の近くに」と答えたのですが、何かあったのかなと思いました。義姉等によると、これまで義母が通っていたデイサービスの介護士さんの一人が急にいなくなったとのこと、義母は、その介護士さんが柿崎へ異動したんではと勝手に思い込んでいるようです。

 私はこの日、柏崎市民文化会館で開催される講演会に行くことになっていましたので、30分ほどで食事会を抜け出し、会場へ向かいました。私がいる間は母と義母の会話があまりなく、どういうんだろうと思っていましたが、講演会から戻ると、2人は義母の部屋でニコニコ顔、とても楽しそうでした。どうも余計な心配をしたようです。

 母は7年前に夫を亡くし、柏崎の義母はその2年後に夫を亡くしました。暮らし方も趣味もあまり重なるところはないのですが、歳は92歳で一緒、2人とも同じような苦労をしてきたのかもしれません。この日はたっぷり話をしたようです。いかったぁ。
  (2016年9月25日)

 
 

第421回 声の便り

 手紙、はがきの便りもうれしいけれど「声の便り」もいいものです。特に高齢になって、手紙を書くことがきつくなっている人にはいいようです。

 8月の中旬、高崎市にすむ従姉(いとこ)の家での出来事です。伊勢崎市に住む従兄(いとこ)と3人でお昼を食べることにしました。注文したそばが配達されるまで、久しぶりの再会を喜び、家族のこと、親戚のことなどが話題になりました。

 たぶんわが家の母のことが話に出てきてその気持ちになったのでしょう、ふと、家に電話をしてみたくなりました。

「もしもし、バチャか。おれ、いま高崎んちに世話になっているがど」

 そう言ってから、スマートフォン(高機能携帯電話)を従姉に渡すと、従姉と母の会話が始まりました。「まあ、ヨウコさんかね」と母のはずんだ声が聞こえてきました。

 懐かしい人の声が突然聞こえてきて、今回も母は驚いたようですが、携帯電話を使って母に「声の便り」を伝えたり、逆に母からの「声の便り」を兄弟や親戚の人など届けたりしたのは10年ほど前からです。

 私がいまでも鮮明に記憶しているのは、父が入院していた病院の病室から母にかけた電話を使って母の「声の便り」を父に伝えた時のことです。電話を父の耳のところを持って行き、「トチャ、元気かね。また見舞いに行くすけね」などといった母の声を届けました。すでに会話ができなくなった父が母の声を聞いて、喜んでくれたことは言うまでもありません。

 2分ほど母と従姉の話が続いた後、携帯は伊勢崎の従兄に渡されました。私には母が電話機のそばの椅子にちょこんと座ってニコニコしている様子が浮かびます。再び母の喜ぶ声が聞こえてきました。

 2人のいとこは戦時中、尾神岳のふもとにあったわが家に疎開したことがあり、わが家にたいしては特別の思いがあります。私が生まれてからも毎年のようにお盆泊まりに来てくれました。2人とも高齢となって、わが家に来る回数は減りましたが、それでも3、4年に1回くらいはわが家に来ています。

 いとこたちがわが家にやってきた時の楽しみは尾神岳などのなつかしい風景を見ること、一緒に疎開時代を過ごした人たちの様子を聞くこと、そして母の手づくりの料理を食べることでした。

 母との電話が終わったいとこたちは、母の声を直接聞いて安心したようでした。
 「おばあちゃん、元気じゃない」
 「まだまだしっかりしてるよ」
 私は「まあまあだね。物忘れは進んだけど」と答えましたが、突然の母からの「声の便り」は2人へのプレゼントになりました。

 母のことが話題になっている時に、高崎の従姉は自分の携帯電話を使って会話を始めました。電話の相手は従姉がいま一番かわいがっている孫のHちゃんでした。おやおやと思っていたら、従姉が急に携帯電話を私に差し出しました。びっくりしましたね。従姉も孫からの「声の便り」を私にプレゼントしたかったのです。

 Hちゃんは昨年の秋、私の母に会いたいというので従姉とともにわが家にやってきました。尾神岳に登って野の花を観察したり、サルナシの実をさがしたりして大満足していました。Hちゃんの元気な声を聞き、私は言いました。「また新潟にお出で!」と。
  (2016年9月18日)

 

第420回 「表彰」

 上越市の市街地に住む伯母と久しぶりにお茶飲みをしました。市役所での会議が終わって、夕方の時間帯でした。たまには夕方行くのもいいもんですね。

 玄関に入って、伯母に声をかけると、茶の間には見たことのある姿がありました。吉川区からやってきた従妹です。「おまんも入っていぎなんねかね」そう言われて居間に上がらせてもらいました。

 伯母の住んでいる家で従妹と会うのは初めてです。私の顔が「何かあったのか」という表情になっていたのでしょうか、従妹は、「いや、きょうはかちゃの誕生日でさね。いつも関東大震災の日に生まんたと言っていたすけ覚えてるがだがね」と言いました。知りませんでしたね、長年、わが家の隣に住んでいた伯母が1923年(大正12年)の9月1日生まれだとは……。

 従妹は子どものときからたくましさとともに、やさしさを持ち合わせた女性です。この日も吉川区国田産のブドウを土産に母親のところを訪ねていました。私は何も知りませんでしたので手ぶらです。土産の役割を果たせそうなものはスマートフォン(高機能携帯電話)に保存してある母の写真くらいです。

「かちゃ(私の母のこと)元気かね」と伯母が聞くので、私は先日、浦川原の山本ブドウ園で買ってきたブドウなどを母が食べている時の写真を差し出しました。母の写真を見て、伯母はすぐに、「まあ、太っていなる」と言いました。私は、「なんてったって毎日のようにアイスクリーム食べてるすけね」と言うと、伯母は笑いました。

 お茶を出してもらってからも楽しいおしゃべりが続きました。「あそこんち、ブドウ、よく作んなんね」と私が言うと、話好きの従妹は、国田産のブドウの説明をしてくれました。

 ブドウを作っているのは従妹の義姉にあたる人のお連れ合いです。昔はブドウの木は一本しかなかったそうです。いま作っているところはかつての田んぼで、水はけがよくなかったということですが、あちこちで栽培技術を学び、何種類もの美味しいブドウを獲れるようにしたことなど、興味深いことをいくつも教えてくれました。

 従妹が持参したブドウを1つ2ついただいたところで、伯母が語り出しました。

「おれ、表彰してもらったがど……」

 一瞬、何のことかと思ったのですが、近くにいた伯母の孫にあたるNちゃんが、すぐに教えてくれました。伯母は通っているデイサービスでどうやら誕生日祝いをしてもらったようです。カードのようなものを持っていましたので、見せてもらうと、ひまわりの花を描いた絵を背景にスタッフの女性と一緒に撮った写真が入っていました。

 その誕生会では該当者にスタッフの皆さんから表彰状のようなものを渡されたのでしょうか、伯母は、「あんがに大勢の人の前に出て表彰してもらうなんて……」と言いながら、そのときのことを思い出している様子でした。おそらく、「表彰状」を受け取ったときには大きな拍手が起こり、会では歌も歌ってもらえたのでしょう。伯母は「表彰」してもらって、よほどうれしかったんですね。「おれ、表彰してもらった」という言葉はその後、もう一度、聞きました。

 その日のお茶飲みの時の話から想像すると、伯母は自分の家でも誕生日祝いをしてもらい、寿司などの美味しいご馳走を食べさせてもらったようです。ひょっとすると、伯母は、その場でもまた「表彰」されたことをうれしそうに語ったかも知れません。
  (2016年9月11日)

 

第419回 退院前日

 いよいよ明日が退院という日に弟が入院している病院へ行ってきました。相部屋ですが、病室にいたのは弟だけでした。病室に入るやいなや、「兄貴の車が入ってくるのが見えたよ」と弟が言いました。病室からは病院へ来る車が見えるんですね。

 退院を前にして、片付けや挨拶などは終わったかと訊いたところ、はっきりとは答えませんでした。退院当日で間に合うという意思表示だったのかも知れません。少し間をおいて、弟はテレビの脇からB4サイズのスケッチブックを取り出しました。

 最初に広げて見せてくれたのは、真ん中に大きく「ありがとう」という文字が書かれていて、その周辺にも様々な大きさの「ありがとう」という文字が緩やかなかたまりになって書かれている絵です。「ありがとう」の文字の周りには日めくりカレンダーからはぎ取られた91枚の紙が描かれていました。

 弟が事故で両足を骨折し、救急車で病院に運ばれたのは6月1日でした。事情でその日のうちに手術ができず、足がはれてしまったことから、10日ほど経ってやっと手術ができるようになりました。手術が成功してからはきびしいリハビリです。日めくりカレンダーの一枚一枚に苦労や思い出がつまっていたようです。

 退院までには、本人の一日一日の努力の積み重ねがあります。絵では、それを支えた人たちがいて、そのおかげで退院できることが見事に表現されていました。退院するその時に、この絵はお世話になった看護師さんに贈るのだと弟は言っていました。

 入院生活を支えるものは患者に共通のものもあれば、個別のものもあります。弟にとっては1冊の本が大きな励ましになったようです。それは「暮しの手帖」の初代編集長のことを紹介した『花森安治』(「暮しの手帖」別冊)というタイトルの本です。

「これ見ると朝のドラマ、『とと姉ちゃん』のこと、だいたいわかるんだよね」そう言って話を始めた弟は、旧源中学校の藤田英夫先生(故人)が発行していた学級新聞のタイトルや見出しの字体が花森安治のものと似ていることや、恩師だった田村憲世先生の書かれた文字がきれいだったことなどを次々と教えてくれました。

 入院生活の中では、『花森安治』を繰り返し読み、大きな影響を受けたようです。スケッチブックの中には、童話の挿絵になりそうなピンク色の屋根の家、長い髪の女性の絵もありました。これらはこれまで弟が描いてきた絵のタッチとは違うものでした。花森安治の絵を真似たものだと思います。

 病室での話がはずんで10分くらい経ったときでしょうか。「兄貴に一度会ってみたいという人がいるんだわ」と言っていた弟が病室からいったん離れ、その人、そしてその人のお連れ合いと思われる人と共に戻ってきました。私に会ってみたいという人は柿崎区在住で同じ病院に入院中のKさんでした。私にとっては初対面の人です。

 Kさんが生まれたのは吉川区村屋(山直海)にあったバスの車庫の2階で、そこに4年ほど住んだことがあると言います。お父さんはバスの運転手さん、家族の人や車掌さんたちは近くのMさん宅で五右衛門風呂に入れてもらったということも聞きました。弟は、Kさんがいたおかげで入院生活はさみしい思いをしないですんだそうです。

 3か月にわたる入院生活では病院スタッフの皆さんだけでなく、入院患者の人たちからも励ましてもらっていたんですね。退院の日、弟は、お世話になった入院患者のみなさんやお医者さんなどに挨拶をしたはずです。その際、涙もろくて、少々恥ずかしがり屋の弟はどんな顔をして「ありがとう」の絵を看護師さんたちに贈ったのでしょうか。
  (2016年9月4日)

 

第418回 夏の便り

 市内北部の小さな郵便局へ立ち寄ったのは8月の上旬でした。柿崎区直海浜にある光徳寺で行われていた作品展を観に行く途中、ふと思い出したのです。そうだ、絵はがきをそろそろ出さなきゃ、切手を買っていこう、そう思ったのです。

 この郵便局は私の知っている郵便局の中では一番小さいものです。平屋の建物で、事務室と休憩室、それにトイレがあるくらいでしょうか。いまはもう無くなっていますが、私が子どもの頃からお世話になった旧尾神郵便局と同じくらいか、ひょっとするとそれよりも小さいかも知れません。

 局内で仕事をしている局員さんは局長さんを含めてもたいがい二人。局長さんは眼鏡をかけた人懐こい女性の方です。もうひとりはかなり前からずっと郵便局員をされていた男性で、顔なじみです。

 手動式のドアを開けて入ると、局長さんが笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけてくださいました。「暑いですね。でもここは涼しいかな」と応じ、私は52円切手2枚を求めました。「普通の切手でいいですか」と訊かれ、一度は、「普通でいいです」と言ったのですが、考え直しました。絵はがきに貼るんだから違う方がいいかも知れないと思ったのです。「いや、普通でない方がいいかな。2人の女性に出すんで……」そう言うと、局長さんも男性局員さんも再び笑顔いっぱいの顔になりました。

 私から「どんなのがありますか」と尋ねると、男性局員さんが切手シートを持ってきて、「シート全部を買っていただくものとそうでないものがありますが、どうしましょうか」と言われました。「ばらで買えるものがいいですね」と答えましたら、10枚の切手が入っているものを持ってきてくださいました。この中から選んでくださいというのです。

 切手は花の写真です。1枚1枚の切手には左下に「国土緑化・長野県」という小さな文字がありました。長野県のふるさと切手だったんですね。私は、10枚の切手の中からトルコギキョウとリンドウを選びました。どちらもリンドウ科の花です。あまり深く考えないでトルコギキョウの切手は川崎市に住むR子さんへのハガキに、リンドウは糸魚川市青海のチエコさんへのハガキに貼りました。

 じつは、この2人は私と同じ中学校の先輩と同級生なのです。2人からは1年に何回もハガキがやってきます。

 R子さんからは、毎回、近況が伝えられ、ハガキの裏面には風景や花の写真が貼ってあります。また、私や母が元気でいるかという言葉も必ず入っています。チエコさんのハガキは無地で、絵も写真もありませんが、いつも伸びのある文字で書かれていて、私の体を気遣い、激励してくれます。2人とも、とても優しい女性です。

 花の切手を買う2週間ほど前、2人からは暑中見舞いのハガキをもらっていました。今年は猛暑が続いていましたので、2人に返すハガキは直江津のイトーヨーカドーで開催されていたイラストレーター、ひぐちキミヨさんの個展で買い求めました。子どもたちが海で楽しく遊ぶ姿を描いた絵ハガキです。

 昔ながらの水着スタイルでじつに気持ちよさそうに遊んでいる子どもたち。絵ハガキをじっと見ているだけで涼しく感じます。そのハガキの表に花の切手を貼る。小さな郵便局での局員さんの勧めによって、これまでになくしゃれた夏の便りになりました。優しい2人は切手に気づいてくれたことでしょう。猛暑の夏はまもなく終わります。
  (2016年8月28日)

 

第417回 お斎

 今年の夏は暑い日が続いています。親戚のMさんの葬儀の日も強い陽射しが照りつけていました。初七日法要が終わって、お斎の会場であるお寿司屋さんへと車で移動したときも、強烈な暑さでした。日陰に入らないと外にはいられませんでしたね。

 今回の葬儀で導師を務められたお寺さんは真宗仏光寺派の方で、この方の声がけでお斎ははじまりました。先付、前菜、刺身、焼物、煮物、蒸物、揚物などが適度の間を置いて出されてきます。おかげで、ゆっくりと落ち着いて食べることができました。

 飲み物はお酒、ビール、ウーロン茶など各人の好みに応じて飲んでいいことになっています。参加者が遠慮している様子を察知されたのでしょう、Mさんのお兄さんにあたるNさんが、「何でも注文してください。注文しないと出てきませんから」と声を出しました。にもかかわらず注文する人はなかなか出てきません。Nさんは飲み物の一覧表を手に「いかがですか」とまわりはじめました。何人もの人が注文し、私も「のんある気分カシスオレンジ」をお願いしました。

 アルコール分がある無しに関係なく、口にある程度飲み物が入ってから、お斎の席は賑やかになりました。私のすぐ隣の席は妻。そのまた隣の席におられたのはMさんの隣家であるAさんです。今回初めてお会いした方ですが、出身は吉川区顕法寺ということで、話がはずみました。

 Aさんは小学校3年生まで顕法寺にいて、その後、直江津に住むことになった方ですが、昔の農家の暮らし体験は私とほぼ同じです。年越しを迎えるときに用意するご馳走のひとつはニワトリの肉でした。その際、ニワトリの骨を槌でつぶし、団子にして食べたとか、ヤギの乳を搾るときにあばれないようにと、左後ろ脚をしばったとかいう思い出を語ってくださいました。

 私が初めて知ったことも出てきました。顕法寺の実家のお父さんは俳句をやっておられたというのです。私は、このお父さんとは何度か話をさせてもらっていましたが、俳句のことはまったく知りませんでした。Aさんからこの日、紹介していただいた句は、「顕法寺? 山深く鳴く セミの声」、いまの季節とぴったりの句でした。

 今年は雪消えが早く、暖かな日が続いたこともあって、野の草木も畑のものも成長が相当早くなっています。中桑取に住むMさんのお姉さんや頸城区北福崎在住の親戚の方たちの話も聞こえてきました。

 昔話からお盆の話になったのでしょうか、誰かが、「おらとこのひまわり、咲き終わったよ」と言うと、「うちのアスターも、もう終わってしまったよ。まだお盆が来ないというのにさ」「グラジオラスだって終わっている」といった声が続きました。お盆まで一週間ほどしかないときでしたので、みんな心配しているんですね。

 お斎は葬儀の一連の流れの中で終盤の行事です。亡くなった人を思い出しながら、既にこの世にいない自分の親などと共に過ごした時代のことなども振り返る機会となります。そして、命のバトンをつなぐ子や孫への思いも強くなるときでもあります。

 今回のお斎の参加者の中で最年少は生まれて九か月のR君です。冷房の利いた会場の隅っこの小さな布団の上でスヤスヤと寝ていました。お斎が終わったとき、何人もの人がこの子の顔を見に行きました。「この子、福耳だわ、いい耳しているね」と言って耳に触る人もいました。そばにいた新米のおじいちゃんが待っていましたとばかりに言いました。「耳はわが家の系統です。ただ、カネはたまらんけどもね」。
  (2016年8月14日)

 

第416回 オニヤンマ

 またもや食堂が消えました。中山間地でのことです。食堂がひとつなくなって、地域の過疎化のスピードがまた上がらなければいいがと心配しています。

 今回は大島区菖蒲の食堂・ばんや亭です。この食堂がそう遅くない時期になくなるということは店主の幸雄さんから聞いていました。そのとき、思ったのです。昔に比べれば、お客は減ってきているし、どうしようもないことだろうなと。でも、まさかこんなにも早くやめることになろうとは思ってもみませんでした。

 食堂・ばんや亭が7月末にやめるということを知ったのは、やめるという日より3日ほど前のことでした。菖蒲東のKさん宅でお茶をご馳走になっているときに、Kさんが1枚のビラを持ってきて、「こんだ、出前お願いしようにもできなくなる」と言ったのです。ビラには、「突然で、申し訳ありません。7月31日を持って、食堂関係を休業させていただきます。時代の流れには勝てませんでした」と書かれていました。

 私がこの食堂のお世話になるようになったのは上越市が周辺町村と合併して以降ですので、10年ほど前からになりますが、山間部の奥まったところに食堂があることでずいぶん助かっていました。ビラを読んで、「これは最後の日は出かけていかなければならない」と思いました。

 食堂の最後の日は日曜日。ちょうど大島夏まつりの日でもありました。ふれあい会館脇の広場を訪れた後、ばんや亭に向かいました。牛ヶ鼻を過ぎると、じきに菱ヶ岳が見えてきます。この日は山頂付近が雲に覆われていました。

 暖簾(のれん)をくぐって食堂に入ると、菖蒲東のIさん夫婦と生まれてからまだ1年ほどの小さな子どもがひとり客席にいました。幸雄さん夫婦は厨房の中です。「きょうの昼食で最後かね」と声をかけると、「そう」という言葉が返ってきました。この短い言葉にはさみしさが漂っていました。

 Iさん夫婦が冷やし中華を注文されたので、私も同じものを注文しました。まだ掘り起こしたばかりだというジャガイモの煮っころがしをおまけにいただきました。注文したもの以外のものが出てきたのは食堂の最後の日だったからでしょうか。どちらも食べたらお腹がいっぱいになりました。

 冷やし中華を先に食べたIさん夫婦が帰った後、お客は私ただ一人となりました。幸雄さん夫婦とも言葉を交わすことなく、しばらくじっとしていたところ、窓の外では大きなトンボが食堂のまわりを行ったり来たりしていました。そして、なんと暖簾の下から食堂の中へ入ってきたのです。トンボはオニヤンマでした。

 オニヤンマが壁にぶつかりっこしながら部屋の中をしばらく飛び回って、再び暖簾をくぐって外に出た頃、幸雄さんが厨房から出てきて、話をし始めました。

 幸雄さんは「おれはここで食堂20年だでも、その前があるんさ。菖蒲高原のベルハウスで30年近くやっていたんですわ。あそこでは地元を中心に大勢来てくんなった」と言いました。この発言を契機に菖蒲高原での牧場のこと、高原にある薄い板のような石のことなどの思い出を語り合いました。

 オニヤンマは私が少年だった頃から知っている大好きな昆虫のひとつです。このトンボが登場すると何かいいことが起きる、私はいつもそんな予感がするのです。この日は大島夏祭りで浦川原区山本の「こじろ」(屋号)と親戚関係にあるという若い女性と初めて出会いました。オニヤンマを見た時にこの女性の元気な声を思い浮かべました。
  (2016年8月7日)

 

第415回 ジグソウパズル

 みなさんもご覧になったことがあるかと思います。1枚の絵が細かく分けられていて、これをいったんバラバラにし、それを再び結合させて絵に仕上げるというゲームです。ジグソウパズルって言うんだそうです。

 この間、家族の一人が母のために1枚のジグソウパズルを購入してきました。B4サイズの横長のもので、上の方には、「場所と形がおぼえられる都道府県ジグソウパズル」という文字が大きく書かれています。

 先日、夜遅く家に戻り、居間のテーブルの脇で横になっていたところ、母が突然、私に質問してきたのでびっくりしました。その時のやりとりを書くとこうです。
「とちゃ、日本列島に県は41か?」
「なして、47だこてね」
「ほっか」  
 母を見たら、手に日本列島の各都道府県名、及びそこの名物が描かれているこのジグソウパズルを持っていました。母は、再び数えはじめました。
「とちゃ、49だでや」
「なして」
「違うがか」  
 正直言って、このやりとりをしていて、私は「こりゃ、ばちゃ、だいぶ進んだな」と思いました。「これじゃ、じきにまともな話ができなくなる」とも思いました。でも、それは私の思い違いでした。

 そのことがわかったのは数日後のことでした。大雨災害の調査から戻ってきた日の午後、母と再びこのジグソウパズルをめぐってやりとりをしました。母は、「東京だとか京都はちっちゃいな。長野はでっけでも」と言い、続いて、「京都は府か。東京は都だな」と訊いてきたのです。それでわかったのです。母が前に「県は41か」と言ったのは、全国の都道府県の中で県はいくつあるのかと訊いてきたのだということが。

 これは申し訳ないことをしたなと思っていたところ、母が私に向かって、「とちゃ、県はいくつあると言ったけかな」と訊いてきました。

「おまん、都道府県の中の県だけの数か。そんなら43だよ」と答えると、母は長座布団の上に横になって、ジグソウパズルの絵を左手に持ち、右手人指し指で一つひとつ数え始めました。「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……」とやって、数え終わったところで、「やっぱり、もっといっぺことあるでや」と言いました。

 ここで「なして、違うこてね」と言う前に、何故、母が数えると日本の県の数が増えるのかを探ることにしました。それで、ちょっと角度を変えて、「新潟県の名物はなんだね」と今度は私から尋ねてみました。

  「山梨県はブドウだろーな。あ、(新潟県は)コシヒカリだもんな。長野県はわさび、山形県はさくらんぼ。群馬はダルマさん、洋子さんは選挙のとき、贈ってくれた……」と答えたところで、ふと思いました。県がいくつあるか、母の勘定の仕方ではときどき名物のところにも右手人指し指で指しているのかも知れないと。

 母が持っている「都道府県ジグソウパズル」はまだ47に分解したことがありません。いまのところ、ナイロンカバーをつけたままです。47をバラバラにしたときに、果たして再び日本列島が出来上がるのかどうか、母の頭の体操の結果に注目です。
    (2016年7月31日)

 

第414回 くらべっこ

 「また来るすけね」そう言ってから、も1一年も経っていました。時の流れは速いものですね。先日、市内山間部の老人福祉施設に入所している板山の伯母を母と訪ねてきました。

 訪ねることにしたその日は、たまたまプロパンガスを扱う業者さんがわが家に点検に来るというので自宅にいました。午後3時過ぎには点検が終了したので、その後の時間を使って伯母のところに出かけることにしたのです。

 訪問したとき、伯母は施設の2階で他の入所者のみなさんとテレビを観てくつろいでいました。母の顔を見るなり、伯母は、「誰から連んてきてもらったが」といい、次いで私の顔を見て、「お父さんからか」と言いました。母も私もちゃんとわかりました。物忘れが相当進んでいて、ひょっとすれば分からないのではないかと思っていましたので、うれしくなりました。

 伯母と母、1年ぶりに会った姉妹です。それぞれの健康が気になるのでしょうね。互いに顔を見ているので、どんな話をするのかと思ったら、母が、「おまん、きれいな顔してなるねぇ」と切り出しました。すると伯母はすぐ反応し、「だって、遊んでるがだもん」と答えました。いつも働いていた人間は言うことが違いますねぇ。この日の伯母は母より7つも年上とは思えないくらいつやつやした顔をしていました。

 次は手です。2人の手はどちらも皺(しわ)だらけ、母が伯母の手をとり、右手と左手を合わせています。手のでかさの比べっこをはじめたのです。「おまんの手、でっけがど」と言って母が感心していると、伯母は言いました。「だって、おりゃ、男の仕事をしてきたもん」伯母は真面目な顔をして言いました。若くして連れ合いを亡くし、苦労をしてきたことがそのひと言でわかります。私も伯母の手をとってみましたが、たしかに伯母の指は太くて長い。伯母が言うとおり、男勝りにばりばり働いた手でした。

 手のでかさの比べっこが終わると、伯母が突然、母に訊きました。
「どっから来たが……」
 一瞬、「あれっ」と思いながら、2人を見ると、母がやさしく答えました。
「家から来たがだよ。『のうの』からじゃないよ」
  『のうの』というのは2人が生まれ育った実家の屋号です。大島区竹平にあります。2人の会話はそれからキョウダイの話になりました。
「いま生きてるがはおらたち2人だけだよ。足谷も千葉も狭山もみんな死んじゃった」
「生きてりゃ、いつか会えるけど……」
「死んでしまえば神様だ。でも、話してみようねぇ。達者でいない。死んじゃったら、見えないとこ行かなきゃならんよ」

 2人とも90年以上生きてきたので、姉妹としての共通した思い出もあれば、そうでないものもあります。耳が遠くなってきたとはいえ、しゃべる内容はある程度予想がつくのでしょうか、会話ははずんでいました。

 会話の様子をじっと聴いていたら、伯母と同じ部屋にいるという安塚区出身のお母さんも車いすを動かしながらそばにやってきました。楽しそうに見えたのでしょうね。

 母が伯母と話をしたのは20分ほどでした。2人に向かって、「そろそろ帰るよ」と言うと、伯母は「はえ、帰るがかい」と言ってさみしそうな表情を見せました。「また来るすけね」と言って別れましたが、今度はあまり間をおかないようにします。
  (2016年7月24日)

 

第413回 家畜車

 Hさんは今年80歳になります。いまは一線から退いていますが、長年にわたり家畜商をしてきました。わが家との付き合いは40年以上も前から続いていて、わが家では「直江津のお父さん」と呼んでいます。先日、そのHさんを訪ねてきました。

 電話をかけると、Hさんはわざわざ市道のところまで出て、私を待っていてくださいました。背は少し丸くなりかけていましたが、きっぷのいいところは昔も今も変わりありません。「まあ、入りゃいいこて」そう言われ、居間に上げさせてもらいました。

 居間に入って挨拶をしてから1分も経たないうちに、Hさんはこれまで私がまったく知らなかったことを話しはじめました。何十年も前の家畜商のことや自分がやってきた仕事についてです。私が「40年くれぇ前の話かね」と言うと、「なして、50年以上も前の話さ」と言って、話を続けました。

 その話というのは貨車を使った牛の運送のことです。運ぶのは生きた牛ですから、貨車といっても、専用の家畜車です。いまのようにトラックが本格的に普及する前のこと、直江津駅を起点にして牛を東京や関西の家畜市場に持ち込み、商売をやっていた人たちがこの上越にもいたんですね。Hさんを含め、頸城や柿崎などで活躍していた何人かの家畜商が手を組んでこの家畜車を使った商いをやっていたのです。

 Hさんは若い頃、この家畜車に乗って牛たちの世話をした人たちの一人でした。牛の大きさにもよりますが、1両の家畜車には20数頭の牛たちを乗せることができました。牛たちを家畜車に乗せるのは、現在のトラックに乗せるやり方に比べれば、高低差が小さいこともあって、そう難しいとは思えません。問題は家畜車に乗せてからです。ガタゴトガタゴトと長時間揺らして、牛たちを無事に目的地まで運ぶのはたいへんな仕事であることが、話を聞いてわかりました。

「いまのように東京へ1時間半や2時間で行かれる時代じゃないだろ。芝浦までなら1日、吹田までなら、ともすりゃ、2日もかかる」Hさんは、数十年も前のことを一つひとつ思い出すようにして語りました。

 家畜車の中では、最初は1頭1頭、綱でしばっていたのでしょうか、1頭倒れでもしようものなら大騒ぎになる。それで、牛たちはつながないで運ぶことにしたということでした。でも、つながないで運ぶとなれば、脱走の心配はないのだろうか、餌をくれるときなど面倒なことが起きないだろうかと考えてしまいます。何よりも世話をする人の居場所をどう確保するのかと思いました。

 なるほどと思ったのは、世話をする人のためにハンモックを用意したという話です。そう、家畜車の床にではなく、空中に人間の居場所を確保したのであります。考えたものですね。ハンモックに入って、時どき牛たちに声をかけているHさんの姿が目に浮かびました。

 こうした家畜車は戦後20年くらいまで動いていたようです。Hさんの昔話を聞いたおかげで、鉄道が人間だけでなく、動物たちを含めたすべてのものを運搬するための最有力な輸送手段であった時代があったことを改めて確認できました。

 私は乳牛を飼い始めてまもなく、吉川町酪農組合(当時)の総会か何かのときに、旭地区に初めて乳牛を導入した頃の話を聞きました。その際、確か、直江津から牛を歩かせてきたという話を聞いた記憶が残っています。Hさんの話を聞いて、「直江津から」というのは「直江津駅から」だったのではないかと思いました。今度、確かめます。 
  (2016年7月17日)

 

第412回 クッション

 ここ1、2年の間に母はクッションを使うようになりました。母の普段の居場所となっている居間には、いつも2つのクッションが置いてあり、母は仕事をするとき、物を食べるとき、テレビを観るときなど、いろんなときに使っています。

 2つのクッションのうち1つは縦40a、横60どの四角形で、縞模様がついています。もうひとつはペンギンの赤ちゃんのぬいぐるみです。こちらは50aくらいの丈があります。いずれも、父の従妹にあたるSさんからのプレゼントです。母はこのふたつを別々にではなく、いつも重ねて使っています。

 居間にいる時の母はいつも後ろに倒れかかった姿勢でいます。そうですね、数字で言えば、寝ころぶとき以外は120度から140度くらいの角度でしょうか。もっと、体を起こしていた方が楽だと私は思うのですが、体を一番起こしている食事、お茶飲みのときでも120度くらいです。

 晩秋から春にかけて、わが家の居間にはコタツがあります。母はコタツに足を突っ込みながら、イモ類の皮むきなど、ちょっとした手作業をしています。自分の体の左右に新聞紙とサトイモなどを置き、上向きになりながら包丁を使ってそれらの皮をむく。よくこんな姿勢で仕事ができるものだと思います。

 先日、母がアイスモナカを食べているときの様子をまじまじと見ました。こんなに倒れてしまって大丈夫かと思うくらい倒れた状態になりながら、モナカをパクリパクリと美味しそうに食べていました。

 物を食べているときよりも母の角度がさらに広がり平らに近づくのは寝ているときです。このとき、クッションは完全に枕の役割を果たしています。母が目をぴっちり閉じて寝ているときに、「ばちゃ」と声をかけると、閉じた目をやっと開け、私の顔を見て、「おおっ」と驚きます。耳が遠くなり、私の声が聞こえにくくなったんですね。もっとも、最近、母は昼寝のときにはベッドへ行って横になることが多くなりました。

 母は2つのクッションを居間の自分の定位置に置きっぱなしにしてはいません。山菜を採ってきたときや笹の葉を採ってきたときには、居間の南側にある廊下と居間の間にある障子戸のところへ持って行き、そこで仕事をしています。笹の葉の選別作業をやるときには、上の方から見ると、まるで寝ころんでいるように見えますが、笹の葉をプチッともぎ、いらない部分は左の方へ、葉は右側の方へときれいに並べるようにしていました。

 ちょっとした仕事でも、物を食べているときでも2つのクッションは、母を背中のところでしっかり支えてくれています。いまやクッションは母が普段の生活を送るうえでなくてはならぬものとなりました。

 この2つのクッション、母はよほど使い心地がいいと判断したのか、私が居間でテレビを観るために横になっていると、「とちゃ、これ、使え」といったふうに自分の背中から外して私の方に差し出します。正直言いますと、居間でこのクッションを使って横になっていると、気持ち良くなって長時間にわたり、そこで寝てしまいます。

 そんなわけで、なるべく使わないようにしようと思っていたのですが、最近、夜遅くなって帰宅すると、2つのクッションは私の座る場所においてあるのです。物忘れが進んだとはいえ、子どもを思う親の気持ちに変わりはありません。母がそこまで気にかけてくれているのに使わないでいるのは悪いなと思い、私も時どき使っています。
  (2016年7月10日)

 

第411回 箕冠城址に咲く花

 先日、板倉区へ行ったときのことです。訪ねた家はあいにく留守でした。そのまま帰るのはもったいない、そう思って一度は登ってみたいと思っていた箕冠城址(みかぶりじょうし)に寄ってきました。

 箕冠城址は標高242bの箕冠山の山頂部など東西約400b、南北約300bを利用して作られた中世・戦国期の山城。川中島の合戦の頃まで使われていたと言われ、本丸などにいまも遺構が残っています。私はこれまでも顕法寺城、雁金城などいくつかの山城を登ってきましたが、他の山城と同じく箕冠城址も歴史を感じさせる場所でした。

 私が出かけたときはちょうど地域の人たちが大勢で城跡の草刈りしていた日でした。駐車場に車を止め、急な坂道をゆっくり歩いて本丸跡まで登ると、そこからは板倉の東部に広がる田園地帯や上越妙高駅などがよく見えます。予想していた通り、眺めはまさに一級でした。

 眺望を楽しんだ後、まっすぐ山を降りれば、素敵な景色のことだけが強く印象に残り、それで終わりだったかも知れません。ところが、その日はその後、面白い展開が待っていたのです。

 じつは本丸から下りる頃、急にお腹の調子が悪くなり、トイレに行きたくなったのです。平らなところまで下りると、そこには公衆トイレがあり、助かりました。その後、周辺部を見てみたら、箕冠城址登城道(とうじょうどう)下り口という道案内の柱が目に入りました。

 こうした道が残っていることはまったく予想しないことでした。下りの細い道を歩きはじめると、右側にトリアシショウマの白い花が数本見えました。花はいずれも斜めに傾いています。その様子がまわりの雑木林の緑とマッチしていて、なんとも言えない美しさをつくりだしていました。私は、何枚もカメラに収めました。

 カメラを手に持ち、さらに下ると、今度は左側の斜面にトリアシショウマの花が見えました。そして20bほど前方にも白いブラシのような花が見えます。これも同じくトリアシショウマです。花を近くで見ると、下部から順に上部に向かって枝分かれし、小さな花をびっしりつけています。よくできている花だと改めて感心しました。

 道を50bほど下ったところで、今度は赤っぽい花が左手に見えてきました。なんだろうと近づいてみると、なんとヤマホタルブクロでした。一本の草に5、6個の花を咲かせています。一部はしぼんだ風船のようになっていました。花はいずれも下向きでした。そのまま撮ったのではだらりとした感じで面白くありません。カメラをなるべく下げて、下から花を見上げるような角度で撮ってみました。赤っぽい花を咲かせたホタルブクロと出合ったのはこれで3か所目ですが、妖艶な美しさを撮ることができました。

 この日、私が歩いた登城道は100bほどでした。そこで出合った野の花はトリアシショウマ、ヤマホタルブクロ、ヤマアジサイ、オカトラノオ、ヒヨドリバナの5種類でしたが、すでに花が終わったヒトリシズカ、トキワイカリソウなどを見つけることができましたし、これから花を咲かせようとしていたムラサキシキブも確認できました。

 箕冠城址登城道の一部、それも100bほどの道沿いで私が過ごした時間は30分ほどでしかありません。しかしながら、短時間でも野の花、野草と出合っただけで、とても充実した気持ちになります。自然の中でひっそりと咲く美しい花たち、今回もまた、私の目と心を楽しませてくれました。
  (2016年7月3日)

 

第410回 奈良漬名人

 漬物の腕はひょっとすれば母よりも上かも知れない。一度ゆっくり話を聞いてみたいものだ──だいぶ前からそう思っていた大島区大島地区在住のT子さんのところへ先日、行ってきました。

 今年は梅雨に入っても晴れの日が多く、T子さん宅へ行った時も青空が広がっていました。車から降りたとき目に入ったのは、木戸先の土手に咲く花です。土手のあちこちにコシジシモツケソウのピンクや白の花がふわっと咲いていて、見事でした。

 坂道を上りはじめたところで、T子さんとお連れ合いのYさんの会話が聞こえてきました。ふたりは家のすぐ脇にある畑で、60aほどに伸びたキュウリの茎を白いナイロン紐でクネバラにしばりつけて行く作業をされていました。声を掛け合いながらの作業は息がぴったり、私はしばらく声をかけずにその様子を見せてもらいました。

 私が声をかけたら、びっくりされたのでしょう、T子さんは「あらまあ」といった感じの顔になりました。クネバラに使っている木は、何年も使っていたようで、皮はすっかりむけてつるつるになっていました。「これ、みんな杉かね」と訊くと、「雑木もある。でも杉の木が一番丈夫だね」との答えが返ってきました。

 畑を見渡すと、キュウリの他にヤツガシラ、シロイモが植わっています。畑には草一本なく、80代前半の夫婦が畑をきれいに守っているのにも驚きましたが、もっと驚いたのはヤツガシラなど野菜もんの種芋はできるだけ自分のところで採っているということでした。しかも、その保存には横井戸を使っているというのです。

 T子さんに「さあさ、入ってお茶でも飲んで行ってくんない」と誘われ、居間でお茶と大きくて甘いサクランボをご馳走になりました。

 私がお連れ合いのYさんと窓の外を見ながら話をしていると、T子さんは「橋爪さんにお茶、ついでやってくんない」と言ってどこかへ行きました。後でわかったことですが、その間にT子さんは家の近くにある建物へ行き、母へのプレゼント用の奈良漬を出してきてくださったのです。

 菓子箱にいっぱい入れた奈良漬を私のそばまで持って来るまでに10分はかかったでしょうか。それからです、私の母のことや漬物のことで話がはずんだのは……。

「おまんちのお母さんにお会いしたがは足谷の騒ぎのときだった。イナバ(屋号)の家でお会いしてそれっきりだもんね。でも、それよりもずっと前に岡村の家に泊まんなったこともあるすけ、お母さんの顔は十分知っているがでもさ」

 話のなかで私が一番関心を持ったのは横井戸です。夫婦が使っている横井戸は家の裏山のかなり高いところにあります。奥行きは約5メートル、穴の高さはあまりなく、出入りするときは這(は)って動くしかないとのことでした。横井戸は野菜もんの種芋を入れるだけでなく、漬物を保存する場所としても使っていました。話を聞いて、穴の中の低い温度が美味しい奈良漬づくりに大事な役割を果たしていることがわかりました。

 T子さんは白瓜を漬けるのに30`もの粕を使います。「漬けたもんは四角い箱に入れて、ひきずって横井戸に運ぶの。すっぱくならんし」とT子さんが言うと、すかさずYさんが「味、変わらん」と言葉をつなぎました。夫婦はここでも息がぴたりでした。

 家に戻って、奈良漬はすぐ母に渡しました。食べてみると、歯ごたえがあってじつに美味しい。横井戸をうまく使い、いつまでもいい味を出す。T子さんはやはり奈良漬名人です。母もすっかり気に入ったようで、入院中の弟にも届けるように言いました。
   (2016年6月26日)

 

第409回 槐

 槐(えんじゅ)という木をご存じでしょうか。木へんに鬼と書くことから、魔除けなどのシンボルとして大事にする人がけっこういます。わが家でも亡くなった父がこの木を好きだったものですから、床の間の柱として使っています。

 私がこの木の存在を知ったのも、床の間がある2階の和室にこの木を使うことにしたことからでした。30数年前のことです。木目がなんとも言えないほど美しく、材質も固い。床柱にはもってこいの木だと思いました。

 父はこの木をわが家で使った後、何本か植樹しました。うまく育てることができるならば、お金にもなる、そう考えたのかも知れません。植えた場所はわが家の庭と牛舎脇の荒れ地でした。

 植えてから手入れをしていたかどうかは記憶にないのですが、牛舎があった場所の近くにはいまも2本の槐の木が立っています。どちらも思うようには育たず、真っすぐな幹の部分は1bちょっとの長さしかありません。床柱になるような素生の良さは発揮できませんでした。

 ただ、いつも気になる木ではあります。特に春、この木は芽が出るのが極めて遅いのです。木々の中では一番遅いと言ってもいいかも知れません。周りにある榛の木、桑、ヤマザクラ、柿などが芽を出し、葉が青々するころになってもなかなか芽が見えません。ひょっとすると枯れたのかもしれない、そんな心配をしてしまうのです。

 この2本の槐に異変が起きていたことに気づいたのは昨年の6月のことでした。周辺の草刈りをしていて、南側の槐の幹にツタが絡まっていることがわかりました。蔓性(つるせい)のものが木の幹に絡みつくと木そのものを殺してしまうことがあるものですから、ツタをはぎとりました。

 何本かのツタをはぎ取ってみると、そこにはナイロン袋をくわえた幹の姿があるじゃありませんか。その姿は頭の大きな宇宙人のようでした。驚きましたね。いったい何でこんなことになったのだろう。いろいろ考えてみたうえでの結論は、父の仕事の跡だということでした。

 私なりに推測すると、父がこの木にロープを巻く際に、幹を傷めないようにナイロンをかけ、その上にロープを巻いたのだと思います。父はその後、要介護状態になり、ロープはそのままとなりました。数年経過するなかでロープはナイロンごと幹に食い込んでいきます。ロープは一昨年、牛舎解体工事の人たちの手によって外されました。でも、ナイロン袋はそのままとなり、今度はツタが木に絡みついたというわけです。たぶん、私の推測は当たっていると思います。

 この槐の木は形が宇宙人のような感じになっていただけでなく、幹そのものも致命的ともいえる損傷を受けていました。「宇宙人の頭」の部分の裏側に回ってみると、人間のお尻のようにふくらんでいました。ところが、そのふくらみには割れ目があり、中をのぞいてみると、幹の内部がぼろぼろに腐っていたのです。それだけではありません。上の方にある枝の一部がすでに枯れていたのです。

 昨年、わが家の槐の木の異変に気づいたのは父の7回忌法要の後でした。槐は魔よけだけでなく、幸せを呼ぶとも言われています。おそらく父もそんなことも頭において大事に育てようとしたにちがいありません。2本のうち1本が枯れかかったいま、せめて残りの1本だけでも大事に育てなければ……。
        (2016年6月12日)

 

第408回 黄色いボタン

 花はひとつ咲くだけでも人を励ますことがあります。その花が23年ぶりに咲いたとなればなおさらのことです。

 わずか10軒ほどの山間集落に住むKさんは夫を亡くして10年ほどになります。一人暮らしとなってからの楽しみのひとつは庭などに咲く花を見ることです。庭に咲く花は自分が見るだけでなく、時どきとって仏様にあげています。

 先日、Kさんを訪ねたときにはバラの花が家の下見にくっつくようにしてひとつふたつと咲いていました。色は薄いピンクです。近くにはこれから開いてくるつぼみがいくつかありました。以前訪ねたときは雪が降る頃に咲いていましたから、この家のバラはほぼ1年を通じて咲いているのかも知れません。

 この日、Kさん宅の居間でお茶をご馳走になったときに聴いた花の話がとても興味深いものでした。花は落葉小低木のボタン(牡丹)です。

 Kさんが鉢植えのボタンをもらったのは23年前の母の日でした。咲いていた黄色い花はとてもきれいで、当初、鉢植えのままずっと大事にしていこうと思ったそうです。でも、ひと冬越した段階で「これは面倒みらんねな」と思い、前庭のひまわりのそばに植え替えたのでした。地におろせば毎年黄色い花を咲かせてくれるにちがいない、そう期待していたKさんですが、しかし、植え替えたボタンはそれ以降、咲くことがなかったのです。次第に期待は薄らぎ、「はい、咲かんと思った」そうです。

 ところが先月の朝のこと、Kさんが仏様にあげる花をとろうと思ってボタンの植えてある場所に行くと、なんと、そこには黄色い花が開いていたのです。驚いたことは言うまでもありません。じつは、鉢植えのボタンをプレゼントしてくれたのはKさんの娘さんでした。その娘さんはプレゼントした翌年、若くして亡くなっていたのです。今春、23回忌法要が行われたばかりでした。

 母の日のプレゼントにボタンの鉢植えをもらった23年前はお連れ合いもまだ元気でした。地におろして、いつ咲くかと待っていたのはKさんだけではなかったはず。そう思って、「ほしゃ、じいちゃんに見せねきゃならんねかね」と言うと、「あの世に行ってんがすけ、見らんねこて」という言葉が返ってきました。でも続けて、こうも言ったのです、「写真を撮らんで損をした」と。心の中では写真に撮って仏壇のところへ持って行きたかったのかも……。

 話をしながらKさんは、私に食べてもらいたいと飯台の上にゆで卵や山菜料理などを出してくださいました。この日、私は別の家でもいろいろとご馳走になっていましたので、腹の中にはそう簡単には入りません。手を伸ばさないでいたら、「こりゃ、別腹だ。食べてくんない」と小皿に入ったネマガリダケとフキの煮物が出されました。こうなれば食べないわけにはいきません。でも、口に入れたら味はあっさりしていて美味しい。タケノコは尾神岳で採ってきたものだとかで、とても柔らかでした。

 Kさん宅の居間には柱時計があります。煮物を食べ終わったところで時計が1回ボンと鳴りました。午後4時半を知らせてくれたのです。

 私は夕方から会議でした。おいとまを告げ、外に出たとき、Kさんは庭先のボタンの咲いた場所へ案内してくれました。黄色い花はすっかりしぼんでいたものの、葉には勢いがありました。Kさんは、「来年はここにいれたかどうか」と言いましたが、まだまだ元気です。今度咲く時には一番いいタイミングで写真を撮ってあげようと思います。
  (2016年6月12日)

 

第407回 全校朝礼

 学校の先生だった人にとって、自分が勤めていた学校の子どもだった人から手紙をもらうことは特別うれしいようです。元教員のHさんが20年ぶりに手紙をくれた人のことを語ってくださったのは5月の下旬のことでした。

「いやー、20年ぶりに手紙がきましてね」そう語り出したHさんは、ちょっと照れくさそうにしながら、手紙がくることになった背景というか、小学校に勤務していた当時の出来事について教えてくださいました。その時、Hさんは眼鏡の奥に横たわっている細い目をさらに細くさせていました。

 Hさんは旧柿崎町立上中山小学校の校長先生だった人です。Hさんに手紙を出したのは黒川地区出身のTさん、20数年前に上中山小学校に通っていた女性です。Tさんは20代の前半に父親を亡くした後、事情があって実家へ戻ることができなかったそうです。それが昨年、久しぶりに実家を訪れ、小学校時代にもらった賞状や卒業アルバムなどを手にします。それらを見たTさんは、小学校時代は「宝のような六年間」だったと振り返り、その気持ちをHさんに伝えようとしたのでした。

 Tさんが担任でもないHさんに手紙を書くにあたって、何がそうさせたのか。Hさんからお聴きした手紙の内容から判断すると、これは私の想像ですが、Hさんが校長として全校朝礼で約2年間話し続けた草花のことが大きな影響を与えたようなのです。

 Hさんは旧上中山小学校に3年間、校長として勤務していました。全校朝礼は毎週1回あります。最初は、子どもたちの心に残る話をしようと、テーマも決めずに話をしていたとのことですが、次第に話題をさがすのがたいへんになります。そこで思いついたのは学校の周辺に咲く野の花のことを語ることでした。子どもたちに草花について関心を持つようになってほしいという思いもありました。

 学校の周辺に咲く花のことを語るには、いうまでもなく実際にどんな花が咲いているのかを知る必要があります。これは簡単そうで簡単ではありませんでした。そこでHさんは、学校の近くに住んでいて、野の花のことについて詳しいSさんの力を借りることにしました。Sさんは職場がHさんと同じだったこともある元教員でした。頼まれたSさんは、「オレかね、だれか他にいねかね」と遠慮しておられたそうですが、最後は協力されます。そして学校の教職員を対象にした野の花の研修会も開かれました。

 全校朝礼で野の花について語るにあたり、Hさんは子どもたちに一方的に語って教えるのではなく、一緒に学ぶことを重視してきました。分からない野の花が出てきた時に、関係資料を子どもたちにどんと預けたこともあるといいます。もちろん、自分自身でも調べました。そのために新潟日報事業社の『新潟県野草図鑑』や平凡社の『日本の野生植物』も手元に置きました。

 Tさんからの手紙の中では、先生に花の名前などを教えていただき、すっかり花を愛する人になったことが書かれていました。そしてHさんもまた、Tさんのことをよく憶えておられました。「話をよく聴いてくれた子でした。頭がいかったです。花には関心が深く、『これ、なーに』とよく訊いてきました」。すごい記憶力ですね。

 Hさん宅に上がって行く道のそばにはいま、キョウチクトウ科のツルニチニチソウが青紫色の花を咲かせています。「子どもたちに花の名前をおぼえてもらうためには由来をしっかり伝えることが大事でした」と熱心に語るHさんの姿を見ていて、私は思いました。一度、Hさんから野の花をテーマにした全校朝礼を再現してほしいものだと。
  (2016年6月5日)

 

第406回 節句の頃

 先だって、安塚区内でお茶をご馳走になっていたとき、ある人から笹もちをいただきました。笹もちは大潟区の朝日池総合農場で作られたものです。もちは香りも良く、中に入った餡子(あんこ)は甘すぎることがない。食べ心地のいいものでした。

 みんなで食べながら、ひとしきり田植え後の節句のことやもちを包んだ笹のことが話題になりました。私の子ども時代、節句と言えば農休日のことでした。「田休み」と呼んでいる人もいましたね。機械化が進んだいまでは、いずれも死語になりつつありますが、昔は集落全体で取り組んだものです。

 じつはいただいたもちの笹の葉は母が採って農場に納入したものでした。そんなこともあって、その日、わが家での田植え節句の様子、笹もちづくりについて母に訊いてみました。

 母によると、わが家では農作業場所となっていた家の中の「にわ」でもちを3升もついたといいます。もちをついたのは祖父または父、ついたもちを笹にくるむのは母の仕事でした。笹の葉はわが家の田んぼの中では一番大きかった「ヨドの田んぼ」の土手で採ってきました。そこからは高沢入集落がよく見えました。

 ついたもちは笹でくるむと、笹の香りがつきます。なんとも言えないいい香りです。そして殺菌作用もありました。今回、母から初めて教えてもらったのは、笹にくるんだ餅は笊(ざる)ではなく、竹などでつくった箕(み)のなかに並べてとっておいたということでした。冷蔵庫がなかった時代の話です。笹の葉でしっかりくるんでおいたものは比較的長持ちしましたが、もちがむきだしになったところはじきにカビが生えたということでした。

 最近、母の話はすぐに飛びます。餡子の入っていない笹もちは何をつけて食べたかという話になった時でした。「黄な粉か醤油をつけて食べたわな」と言ったところで、大島区板山にある民宿、『伊作』で食べたもちの話になりました。

 大潟区のH子さんや吉川区のT子さん、それに板山の伯母も一緒だったといいますから相当前のことだったのでしょう。『伊作』の囲炉裏では炭ががんがんおきていて、誰かが、「もち、焼けば、うんまいだろね」と言ったところ、『伊作』のお母さんが「もちならありますよ」と持ってきてくださったとのことでした。

 母は、焼き上がったもちにつけるものについて、興味深いことを語ってくれました。「醤油の中には七味唐辛子がパッパッと入れてあり、それをもちにつけ、細いノリをくるくるっと巻いて食べさせてもらったがど。うんめかったすけ、それから醤油に七味を入れたもんをつけて食べるようになったがど……」と言うのです。まあ、よく憶えているもんだと感心していたら、「あのとき、板山のばちゃはアメリカの歌を歌ったな」とも言いました。

 話を元に戻しましょう。田植え後の節句が行われたのは、早いところではいま頃だったのでしょうか。わが家の田植えは6月4日と決まっていましたから、私が住んでいた吉川の尾神では、節句はもう少し遅い時期だったと思います。

 節句になれば、みんなが休む。それだけでうれしくなりました。ところが私の記憶に残っていることといえば、もちをついたとか川向こうの田んぼの土手にキイチゴがたくさんあったなど食べ物のことだけなのです。いつも空腹感を覚えながら過ごした世代の人間ですから、それが普通なのかも知れません。
  (2016年5月29日)

 

第405回 ダンスシューズ

 Yさんの葬儀は5月の中旬、上越市内高田にあるセレモニーホールで行われました。生前、多くの人に慕われていただけあって参列者は多く、私が到着した時、式場の席はほとんど埋まっていました。

 式場全体を眺めたところ、空いている席は一般席の最前列だけでした。式場関係者の勧めで、私とほぼ同じ時間帯に式場入りをしたIさんとともに、その空いた席へ座らせてもらいました。席からは式場の前の方がよく見えます。特に導師を務めるお寺さんの表情や帯同したお寺さんの様子が良く見えました。

 式場の係りの人が水の入ったガラスのコップを持ってくると、導師を務めるお寺さんが、お経を読む前に水を一口飲まれました。多少、緊張されていたのかも知れません。導師のそばにいて、一緒にお経を読み、鐘はたきをされたお寺さんはきりりとした姿勢で、葬儀中、小さな鐘をずっと手に持ち続けておられました。これには驚きました。

 私の席からは遺族席もよく見えました。喪主を務めた人とはこれまでお会いしたことはありませんでしたが、背が高く、顔の輪郭や口元がお父さんにそっくりでしたので、一目でYさんの息子さんであることがわかりました。眼鏡をかけたYさんのお連れ合いが、背筋をピッと伸ばして座っておられたのも印象に残りました。お連れ合いの眼差しが向けられていたのはYさんの遺影だったのでしょうか、とても穏やかで、やさしさに満ちていました。

 葬儀が終わってから、式場の担当者の方だと思いますが、参列者などにたいするお礼のハガキに書かれた文面を読み上げました。私はまだ読んでいなかったので、「春夏秋冬、どの季節が好きかと問えば、父は何と答えたでしょう」で始まるナレーションはとても新鮮でした。退職後、第2の人生を謳歌したという話の中では、読書やパソコンに加えて社交ダンスにも一生懸命だったことが報告され、びっくりしました。

 パソコンで思い出しました。Yさんが退職されてまもなくだったと思います、私が町議選をたたかっているときに選挙専従者のように毎日、わが家に来てくださったのは。車で片道50分はかかるところへ毎日通い続け、ビラを配布してくださったり、支持を増やして下さったりと大活躍でした。そんなこともあって、私が10数年前から書き続けているブログ、「ホーセの見てある記」も読んでいてくださり、時どき、「○○の記事、読んだ」などと声をかけていただいたものです。

 遺族の人たちよりも少し早く、一般会葬者が棺の中のYさんと最後のお別れをする場面がありました。Yさんはたくさんの方と深い交流があったのですね、花を手に最後の対面をする人の長い列ができました。もちろん、その列の中には私もいました。遺族以外の人が長い列をつくる場面を見たのは、私がお世話になった大学の先生の葬儀以来のこと、久しぶりでした。

 私の前の前あたりの女性が「遺族の人が一番いい場所に花を入れられるようにしないといけないんじゃないの」と言い、続いて男性が、「あっ、ダンスシューズも入っている」と声を出しました。Yさんの足元を見ると、黒色の素敵な靴が左右においてありました。その男性のひと言がなければ、私はおそらく見逃してしまったでしょう。

 ダンスシューズはYさんが退職後の人生をけっこう楽しんでおられたことの証拠品のようなものです。何事もまじめに一生懸命にやるYさんが、スロー、スロー、クイック、クイックとやっておられる姿を思い浮かべたら、なんとなくうれしくなりました。
  (2016年5月22日)

 
 

第404回 モウセンゴケ

 土手にあるひとつの植物に私が目を奪われたのはその日の午前11時半頃だったと思います。大島区旭新緑祭での自然観察が終わろうとしていました。ガイド役の植木務さんが農道のそばの土手で指した場所には、長さ3、4aの緑色のものが土の中から数本伸びていました。

 それは植物と言うよりも、小さな動物のように見えました。茎なのでしょうか、それとも葉なのでしょうか、その表面からはトゲのようなものがものがたくさん出ていて、先端にはそれぞれ小さな水玉状のものがついていました。もし、風に吹かれて動いていれば、毛虫だと思ったことでしょう。

 植木さんの説明で、この動物のようなものがモウセンゴケと呼ぶ植物であることを初めて知りました。そして、何よりも驚いたのは、このモウセンゴケが氷河時代からの生き残りであり、虫を食べることもあるということです。小さな水玉のようなものは粘液で、この液に虫がくっつくとしっかり捕まえて食べてしまうというのです。

 話を聴いていた私は、少年時代、標高200bほどの屏風のような形をした山の尾根近くで貝の化石を見つけたときのことを思い出していました。場所は吉川区尾神地内です。海の隆起など考えたこともなかったあの当時は、「海で生きていたはずの貝が何でこんなにも高いところにあるのだろう」と驚き、不思議に思ったものでした。

 今回もそのときに勝るとも劣らない衝撃でした。大島区田麦の標高300bほどのところに氷河がやってきたことがあるということだけで感動しました。そして、「氷河が拡大した時、このモウセンゴケはどんなふうにして生き残ったのだろうか」「食虫植物だというがどんなふうに虫を捕まえて体に取り込むのか」そんな疑問が次から次へと湧いてきたのです。

 数日後、私は、モウセンゴケがあった場所に再び出かけることにしました。出かけたいと思ったのはモウセンゴケの粘液に手で触ってみたかったからです。

 ブナ林の入り口まで行くと、幸運にも植木さんがおられました。植木さんは自宅へ招き入れてくださり、インターネットなどで調べた資料を見せてくださいました。モウセンゴケのトゲのようなものは腺毛だったんですね。そこから粘液を出して虫を捕まえると、なんと、腺毛は虫を逃がさないように曲がるのだそうです。葉も虫を包み込み、腺毛からは消化酵素を分泌し、虫を溶かして体に取り込むのだとか。なるほど、すごい。

 粘液は植木さんも触ったことがないということで、モウセンゴケのあった場所へは植木さんも同行してくださることになりました。10分くらい歩いて現地に到着すると、モウセンゴケは北向きの少し湿り気のある斜面にひとつだけではなく、7つか8つほどありました。

 恐るおそる粘液に指で触ってみました。モウセンゴケは指にぴたっとくっついてついてきます。なるほど、これなら虫は逃げ出すことはできません。どうなるかとちょっぴり心配した指ですが、溶け出すことはありませんでした。

 この日、植木さんからまた興味深いことを教えてもらいました。モウセンゴケのそばにあった10aほどのヒカゲノカズラ、これは3億年前は40bほどの大木だったというのです。ということはモウセンゴケも元はもっと大きな植物だったのかも知れません。そして、モウセンゴケはもう少し経つと白色かまたは赤い花を咲かせるということです。花はタデ科の花に似ているとか。何となくそわそわしてきました。
  (2016年5月15日)

 

第403回 中立山へ

 ドキュメンタリー映画、「風の波紋」を観たとき、「ああ、この集落へ行ってみたい」と思いました。いったん、そう思ったらじっとしていられないのが私の性分です。翌日、市役所などで会議を終わらせた私はロケ地、中立山へと車を走らせていました。

 ロケ地というのは、撮影場所のこと。この映画は十日町市、上越市などが舞台で、中立山はその中心でした。あらかじめ地図で確認したら、大島区菖蒲から行けばそんなに遠くはありません。わが家から車で約1時間ほどで行くことができると思いました。

 菖蒲東を過ぎ、国道405号線が下りにかかると景色はがらりと変わった気がしました。朴の木の芽は出始めたばかり、ヤマザクラが咲いていて、カタクリの花も見えます。私が住んでいる所に比べると少なくとも20日は春の進み具合が遅かったですね。

 台門橋を渡って坂道を上がると、そこが十日町市中立山集落でした。すぐ目に飛び込んできたのはスイセンの花です。集落のあちこちに咲いていました。主人公と言ったらいいのか、映画では最も多く登場していた木暮さんの家の近くに車を止め、田んぼや神社などの周辺を歩きました。

 ゆっくり歩いていて、「いいなぁ」と思ったのは風景です。映画に登場した家屋が見えたときは、「おお、ここだ」とうれしくなりました。映画を思い浮かべながら、カヤぶきの家の屋根、下見板、田んぼ、屏風のような形をした山などを眺めました。

 集落内には人の姿はありませんでしたが、3匹のヤギさんがいました。このうち一番大きいヤギさんが「誰が来たのか」といった顔をして、柵に足をかけて私を見つめていたのには驚きました。私がよそ者であることを察知し、警戒したのでしょう。映画では1軒1軒の家がかなり離れているように見えたのですが、実際にはそう離れておらず、まとまっている感じがしました。

 初めて出合ったはずなのに懐かしさをおぼえたのは屏風のような形の山の連なりです。高いところには雑木がハッキリと見え、下の方には残雪も見えました。この風景は私が青少年時代を過ごした吉川区の蛍場の山とそっくりでした。映画、「風の波紋」には特別な親近感を持ったのですが、その一番の要因はここにありました。残雪が残っている山のふもとまで行くと、そこにはカタクリやニリンソウなどがきれいな花を咲かせていました。食べ頃のトリアシ、コゴミもありましたよ。

 中立山の集落では音にも惹きつけられました。車を止めたとき、最初に聞こえてきたのは水の音です。田んぼ脇の幅40aほどの用水路を流れる水は豊富で、勢いがあります。次から次へと尽きることなく流れてくる水の音は大きく、迫力がありました。音は春の音です。聞いているだけで元気が出ます。集落の下の方で流れる渋海川の流れの音も聞こえてきました。

 映画で印象に残ったカエルの鳴き声、これは田んぼから聞こえてきました。何種類かのカエルが鳴いているのでしょう、とてもにぎやかで、いい感じです。カエルたちの鳴き声を録音していたら、防災無線から音楽が流れてきました。集落の中にも山にも響きました。「夕焼け小焼けで日が暮れて……」童謡の「夕焼け小焼け」ですが、これがまた私の気持ちとぴたり合いました。

 散歩をやめ、中立山集落から三方峠に向けて車を走らせはじめたときです。左側の田んぼを見て、あっと思いました。映画でヤギと人間の動きが早送りされたあの風景が目に入ったからです。「ここかぁ」ロケ地を訪れた喜びが再び大きくなりました。
  (2016年5月8日)

 

第402回 母と一緒に

 4月下旬のある日、母を山へ連れて行くことにしました。今年は私が忙しいということを知って、親戚の人などいろんな人が山菜をくださいました。もらうたびに喜ぶ母の姿を見て思っていたのです、「山へ連れて行けばどんなに喜ぶことか」と。

 宣伝カーでの活動を早めに切り上げて自宅に戻り、コタツのそばに寝ころんでいた母に、「半入沢(「なかんぞう」または「はんいりざわ」と呼ぶ)の山へ連れて行ってやんかね」と訊くと、すぐに「おー、行く」と答えました。半入沢というのは吉川区の山間部にあって、わが家の田んぼや山があるところです。母の返答ぶりから、行きたくてずっと我慢していたことがわかりました。

 母が吉川区の山間部へ行くのは昨年の夏、わが家の墓参りに行って以来のことです。母は手ぬぐいでほおっかぶりをし、手には鎌と収穫したものを入れる「てご」(手籠のこと)を持って車に乗り込みました。母は途中、景色を見ながら、亡くなった父と一緒に乗って出た時の思い出などを語ってくれました。「懐かしいな」とも言いました。

 半入沢まではわが家から車で約15分です。わが家の田んぼがある場所へ至る農道の途中で車を止め、そこから歩きました。

 半入沢の山へ出かけたのは私も春になってから初めてです。遠くの山のほとんどはすでに緑色に覆われていて、ヤマザクラとウワミズザクラの白だけが目立っていました。ウグイスとキビタキでしょうか、盛んに鳴いているのが聞こえてきます。

 車を止めた場所から農道の高い方を見たとき、「ああ、これじゃ、ウドは終わったな。1、2本でもあればいい方だ」と思いました。すでにカヤやサイキなどが大きくなっていて、道をふさいでいたからです。その代わり、道の両脇や土手には20aから30aほどになったワラビがありました。母も私もワラビを採り始めました。手で折る時の感触が柔らかく、母は何度も「やわらかいなぁ」と言いました。

 車を止めたところから100bほど離れた坂道まで行くと、右下に荒れた田んぼが見えます。母は「てご」を道ばたにおいて、少しずつ下って行きました。私はたまたま長靴をはくことを忘れていましたので、農道沿いに上へ上へと進んでいきました。それから10分くらいでしょうか、ワラビ採りに夢中になったのは。その間、母のことをすっかり忘れてしまっていました。近くに母がいないことに気づいてから、「ばーちゃ、おまん、どこにいるが」と呼びましたが返事がありません。最初は、どうせ近くにいるんだろうと思っていたのですが、だんだん、心配になってきました。

 もう一度、母と一緒にいた場所に戻り、「ばーちゃ、どこだね」と大きい声で繰り返し呼びかけました。返事はありませんでしたが、直線距離で100bほど離れたところに青い服が少し動いたのが見えました。母です。ホッとしました。母は最近耳が遠くなってきたんですね。だから聞こえなかったのです。

 母は荒れた田んぼの中で右に動き、左に動きワラビ採りをしていました。手に持った鎌をうまく活かし、草をどかしつつワラビをさがし、見つけたら、ぽつっ、ぽつっと折っていく、その動きは山菜採りのベテランの動きです。うまいものだと思いました。

 30分ほどワラビ採りをして、母と私は車のあるところへ戻りました。母の顔を見たら汗びっしょりです。右腕はカに刺され、血が出ていました。母は疲れたのか、「おりゃ、年取ったな」と言いました。「どうだね、おもしかったかね」と訊くと、「まだ採りたかった」と答えました。92歳のベテラン山菜採りはなかなか欲張りです。
  (2016年5月1日)

 

第401回 卒業生へのお礼

 どんな式典でも心に残る挨拶が続くと、何か得をした気分になります。3回目を迎えた県立吉川高等特別支援学校の卒業式もそうでした。

 この日はちょっぴり雪が降り、冷えた朝になりました。卒業式が行われる場所は体育館。ストーブをつけても寒いだろうなと思いながら、高校へ向かいました。でも、予想は外れました。体育館は思ったほど寒くはありませんでした。

 今回は14人の生徒が卒業式を迎えました。在校生、教職員、保護者、来賓が見守るなか卒業生が入場し、式典が始まりました。

 昨春、同校に着任した校長の中田先生は式辞の中でクラーク博士の「少年よ大志を抱け」を引用し、「夢や希望をつかみ自分らしい人生をつくりあげてください」と卒業生を励ましました。中田先生は、「このことばには『しかし、お金を求めるためであってはならない』などの続きがある。つらいとき、くじけそうになるとき、その場に踏みとどまり、この言葉を思い出して、改めて一歩前に踏み出して下さい。これまで学校で学んだこと、身に付けたことが役に立つはずです」とのべました。わかりやすい、素敵な式辞でした。

 来賓を代表して祝辞をのべた坂田PTA会長の言葉もまた心にビンと響きました。坂田会長は卒業生に向かってまず、「学校行事に取り組むみなさんの真剣な姿に襟を正される思いがした3年間でした。私自身が皆さんから成長させてもらった。ありがとう」とのべました。

 私は、これまで学校の卒業式に数十回出ていますが、卒業生へのお礼を最初にのべた挨拶は初めて聴きました。でもこの日の卒業式に出席した人の多くは同じ思いだったのではないでしょうか。中田先生の式辞でも引用された同校の教育目標、「夢と希望を持ち続け、みんな輝く」、その場面を運動会や学習フェスティバルなどいろんなところで見てきたからです。そういう場面で感動したのは、何よりも生徒自身だったとは思いますが、教職員も地域の人も感動したのです。そして、感動しただけじゃなく、改めて人としてあるべき姿を学んだ人は少なくなかったと思うのです。

 坂田さんは挨拶の中で「失敗から学べ」「遠くを見よ」ということを自らの経験のなかから語り、出席者に感動を与えました。「数限りなくある失敗の中らほんのひとつだけ」と言って坂田さんが紹介した失敗談は、学生時代の20歳のときにアルバイト先を首になったことでした。坂田さんは、「注意されたことについて素直に謝ることができなかったのが原因だが、若いのにすべてわかっているという自分自身の思い上がりがあった。苦い経験だったがその時のことがその後の人生に役に立った」とのべました。

 続いて坂田さんは、フランスの思想家、アランが『幸福論』の中に書いた言葉だという「遠くを見よ」にもふれ、「海岸で水平線を見るのもいいが私は星空を見るのが好きだ。先日の明け方、新聞を取りに外に出たとき、南の空に赤い星がきらきら輝いていて、寒さを忘れて見入ってしまった。星の光は何百年もかかって私たちのところに届く。ひょっとしたら、爆発していまはない星もあるかも知れない。遠くを見ているとどんな悩みも軽くなります」とのべて祝辞を終えました。

 卒業式が終わってからの全校合唱。今回の曲はEXILEの「道」でした。「優しさに出会えたことで 僕は独りじゃなかった……」。式典ではずっと緊張しっぱなしだった卒業生のY君が笑顔で歌っている姿を見た私も胸が熱くなりました。
   (2016年4月16日)

 

第400回 夕焼け

 「吉井のかちゃ」が亡くなりそうだと知ったのは昨年の暮れでした。従妹だか他の人だったか記憶は定かではありませんが、教えてくれた人は「正月を迎えることができればいいが……」と言っていました。

 それだけに正月を越え、2月、3月になっても何も連絡がなかったので、いつの間にか、「大丈夫だったんだな。まだしばらくは大丈夫だな」と安心しきっていました。

 亡くなったという知らせは先日、突然やってきました。関東地方に住む息子のHさんがフェイスブック(インターネット上の投稿交流サイト)に「母がなくなってしまいました。涙が止まらない。仕事中。」と書いて投稿されたのです。びっくりしました。「やはりだめだったか」と体から力がすーっと抜けていくのを感じました。

 Hさんの投稿は短いコメントでしたが、母親が亡くなった知らせを受けたときの気持ちがよく書かれていました。たぶん、東京で仕事をされていたのでしょう。すぐに飛んで帰りたい、でも帰れない、その切なさがこちらまで伝わってくるコメントでした。

 「吉井のかちゃ」は30年ほど前までわが家があった吉川区尾神の出身です。それも、わが家の隣の人でした。父の姉がそこの家に嫁いでいて、昨年亡くなった私の伯父とキョウダイです。結婚をしても田植えや田の草取りなどで尾神に足を運んでおられました。もちろんお盆にもです。親しく付き合いをさせてもらうなかで、わが家の誰もが「吉井のかちゃ」と呼び、私は、「ホーセのノリちゃ」と呼ばれていました。

「吉井のかちゃ」を語るとき、夫である「吉井のとちゃ」のことを抜きに語ることはできません。「吉井のとちゃ」は既に亡くなっていますが、若いころは「木挽き(こびき)」の仕事をされていました。尾神にあったわが家は昭和30年に建てたものです。「吉井のとちゃ」は、わが家の製材の仕事をした2人の「木挽きさ」の1人でした。「木挽きさ」というのは木挽きをする人のことを言います。母の記憶によると、「ズイーッ、ズイーッ」と音を出しながら、もう1人の「木挽きさ」と太いケヤキを大きなノコギリで切り割っていったそうです。尾神で仕事をするときには弁当持ちで、おかずは辛いものがお気に入りだったとか。とても働き者で、お酒を飲むと元気の出る人でもありました。「かちゃ」が「とちゃ」の世話をする場面もあったようです。

「吉井のかちゃ」と「とちゃ」は同い年でしたが、「とちゃ」の方が先に体調を崩し、要介護になります。「吉井のかちゃ」は食事から排泄まで「とちゃ」の世話をずっとしてきました。苦労することが多く、ゆっくり休む時間などなかったのではないでしょうか。そういう「かちゃ」ではありましたが、私に会えば、「ばちゃ、元気でいなったかね」「じちゃはなじょだね」などと、いつもわが家のことに気をつかってくださいました。気持ちのやさしい人でしたね。

 葬儀日程を従弟から知らせてもらい、私はお通夜が行われた日に大潟区雁子浜にある「虹のホールおおがた」へ行ってきました。通夜式が終わってから、棺に入った「吉井のかちゃ」と対面しました。いつもと変わらぬ太めの眉、四角い顔を見て、「これからはゆっくり休んでね」と手を合わせてきました。

 最後の対面を済ませ、式場を後にした私は、江島新田の南側にある田んぼのところまで車を走らせて、ハッとしました。雁子浜あたりの西の空が夕焼けできれいな色に染まっていたからです。私には、「吉井のかちゃ」が目をしばたたかせながら、「ばちゃによろしく言ってくんない」と言っているように見えました。
  (2016年4月10日)

 

第399回 ネコと一緒に

 3月もあと数日で終わりという日、上越市の山間部で一人暮らしをしているムツさん宅を久しぶりに訪ねました。ムツさんの住まいは集落では一番高いところにあり、家の前の庭からは兜巾山(とっきんざん)がよく見えます。

 玄関でブザーを鳴らし、「ごめんください」と声をかけると、奥の居間から「どうぞ入ってください」との声が返ってきました。でも、こちらは顔を見せてもらえればそれでいいと思っていたものですから、入らないでいると、ムツさんは時間をかけて玄関まで出てきてくださいました。「あら、ごめんなさい。橋爪さんかね。てっきり薬屋さんだと思ったもんだすけ……。さあさ、入って」ともう一度、誘ってもらいました。

 居間に行き、コタツの窓側の方に入らせてもらうと、台所と仕切ってある障子戸にネコの出入り口らしきものが見えました。下から50aくらいの高さのところに、縦20a、横30aほど障子紙が短冊形の暖簾(のれん)のように切ってあります。「前にも同じような高さのところからネコが出入りしていたよね」と尋ねると、ムツさんは「そいがです」と答えました。そして、「きょうは天気がいいもんだすけ、ネコは外へ遊びに行きました」と言いました。

 数年前にお茶をご馳走になったとき、現在飼っておられるネコとは別のネコがちょうど家にいたのですが、やはり台所と居間を仕切る戸の一角にネコ専用の出入り口がありました。そのときのネコはこの出入り口から私を見つめて、おばあさんを困らせる人かどうかを確かめ、大丈夫だと思うと、さっと引っ込んだものです。

「いまのネコもあそこでお客の様子を見るがかね」と訊くと、ムツさんは「せんのネコと同じこんだの」と言って笑いました。前に飼っていたネコはすでにいなくなり、いまムツさんは別のネコと一緒に暮らしているのですが、一緒にいると、ネコも人間も自然と家族意識が芽生え、それがだんだん強くなっていくのかも知れません。

 コタツでは今冬の雪のことが話題になりました。今冬は雪が少なく、大雪のときと比べればたいしたことがなく、ずいぶん助かりました。ムツさんの家ではブルドーザーなのか、ユンボなのかの確認はしませんでしたが、機械で除雪してもらったのはほんの1回だけだったといいます。ただ、前庭にはまだ雪がけっこう残っていました。ムツさんは「ダキあるすけ、すぐつっかえちゃうがです」と言って、外を見ました。

 いま、ムツさんが飼っているネコは雌です。6年前に赤ちゃんだったころにもらってきました。名前は「華(はな)」。どういう名前にしようか迷い、付けられないでいたので、あるパーマ屋さんに相談してこの名前にしたのだそうです。

 赤ちゃん時代から育てたので、「華」はムツさんを親だと思っているのかも知れません。ムツさんによると、「ちょっと変わったネコ」になりました。ムツさんがトイレに入ると、トイレにある台の上から様子を見ています。ムツさんとともに外に出たときに、「華ちゃん、お昼だから家に入るよ」と声をかけると、一緒に家に戻ります。医者に行くときには、「これから医者に言ってくるよ」と言い聞かせると、後追いしないとのことです。

 ムツさんにとって「華」はいま、一番大事な家族です。寝坊したときには、ムツさんの顔をぽんぽんとたたくのだそうです。もちろん、爪は出しません。「華」はムツさんのしゃべる言葉もわかるし、気持ちもわかります。ムツさんは言いました。「華は私の生きがい。華がいればさみしくない」と。
  (2016年4月3日)

 

第398回 せりご飯

 春がやってきて、母の動きが活発になってきました。特に天気のいい日は家の中でじっとしていられないようです。冬場、ほとんどコタツに足を突っ込み、寝てばっかりの姿を見ることが多かっただけに、何となくうれしい気分です。

 この間の青空が広がった日、私は午前に大島区へ出かけ、午後2時近くに地元事務所に戻ったのですが、家族から、「ばあちゃんがお昼近くになって自転車に乗ってどこかへ行ったようだ」と聞きました。気温が14、5度くらいに上がっていて、日が照れば、上着を脱ぎたくなるような陽気でしたから、母も出かけたくなったのでしょう。

 家に行くと、コタツの上のテーブルの隅にメモ書きが置いてありました。小さな紙切れにひらがなで「ふきのとうをとりに行ってきます」と書いてあります。

 数日前、母が作ったふきのとうの酢漬けが美味しかったのでほめたのですが、私だけでなく、他の人からもほめられたのかも知れません。気分をよくし、もう一度作りたいと思ったのでしょう。

 母の行く場所はだいたい見当がついていましたから、車に乗ってさがしてみることにしました。車を走らせ、目的地が近づいてくると、前方から一生懸命自転車をこいでいる人の姿が目に入りました。母です。私の顔を見るなり、「ふふふ」と笑った顔になりました。思い通りの収穫があったのだなと直感し、自転車の後ろのかごを見ると、母が持って行った袋が大きく膨らんでいました。

 家に着いて、母が降ろした荷物の中身を見たら、フキノトウよりも「せり」がたくさん入っていました。

 母によると、最近、NHKテレビで、春に採れる「せり」を利用した「せりご飯」が紹介されたといいます。母は、「春一番に採ってきたがすけ、『せり』にはビタミンCとか何とかがいっぱい入っていて栄養があるてがど。葉っぱだけでなく、根までみんな食われる。店で売っているでっけぇがよりのうかいい」そういって「せり」を袋から出しはじめました。そして母は、「せり」はよく洗い、「さっと湯に通す」のがいいんだとも言いました。その方が栄養もあるし、「せり」ならではの春の香りが漂うのだそうです。コタツのところにあった母のメモではフキノトウのことしか書いてありませんでしたが、どうやら、はじめから「せり」を採ることも目的にして出かけたようです。

 その日の夜、母は「せり」が入ったご飯を初めて作ってくれました。「さっと湯に通す」のがいいんだと言った割には、「せり」は緑色をしていませんでしたから、ゆで過ぎたか、それともご飯の釜の中で保温をしていて、色がさめたかどちらかでしょう。でも「せり」の味がご飯によくしみ込んでいて、とても美味しかったです。

 翌日、仲のいい友達ばかりの会議がありましたので、「せりご飯」をパックに入れて持参しました。「せり」の香りがするかどうか、味はどうか、感想を聞きたかったからです。じつは私は嗅覚の方はいまいちなのです。パックをまわすと、「ふたを開けたとたんに『せり』の香りがするね」「初めて食べるけど、うまいわね」などの感想を寄せていただきました。

 きょう3月27日は母の誕生日です。満92歳になりました。母は最近、何事に取り組むにしても意欲的です。特に料理は、新しい情報を得ると、すぐに自分でも作ってみたくなるようです。ひょっとすると、「せりご飯」に続く何かを、すでに考え始めているかも知れません。
 (2016年3月27日)