春よ来い(15)


第356回 アイスクリーム

 母にはアイスクリームの美味しさを忘れることができない思い出があるのかも知れません。最近、私の顔を見るなり、「アイスクリーム、いらんか」と訊いてくることが多くなりました。

 先日も夜12時近くになって、突然、私に「おまん、アイスクリームいらんか」と訊いてきました。時間が時間ですから、私は即座に、「こんな時間にいらん」と言いました。すると、母はもう一度、「いらん?」と訊いてきたのです。母の質問を振り払うように、私は「いらん、いらん」と答えました。

 この日、母は昼間の時間帯に採ってきた笹の葉を1枚ずつ「プチッ」という音を立てながらもぎ取り、大中小の大きさに分けていました。母は91歳です。早めにこの作業をやっておかないと笹自体が使い物にならなくなってしまうこともありますが、こんなに夜遅くまで頑張って仕事をしていて大丈夫なのかと気がもめました。

 アイスクリームを食べないかという母の問いかけは、そんな心配をしている時でしたから、何か不意打ちを食ったような気分でした。

 私が初めてアイスクリームなるものに出合ったのは小学校へ通い始めた頃か、その前だったと思います。当時、私が住んでいた吉川区の尾神岳のふもと、蛍場に自転車に乗ってアイスクリームを売りに来た人がいました。正確にはアイスと呼んだ方がいいのかも知れません。

 その人がどういう人かについては、男性であったこと以外はまったく記憶していません。おそらくアイスばかりに気がとられ、自転車に乗って売りに来た人の顔なり、服装なりを観察する余裕がなかったのでしょう。いまから考えると、当時の道は舗装してあるわけではなく、たいへんな悪路だったはずです。よく蛍場まで来てくださったものだと思います。

 男性が売りに来たアイスはいまで言うアイスバーです。夏の暑いさなかに冷たいものが食べられる、それ自体、大きな喜びでした。もうひとつは甘みです。冷たさとともに口の中で広がる甘さがなんとも言えませんでしたね。

 わが家では私を含め、キョウダイみんなが喜んでアイスを食べたのは言うまでもありません。一度食べれば、また食べたくなります。アイスを売りに来る人を待つようになりました。

 それだけではありません。アイスづくりにも挑戦しました。もちろん、まだ冷蔵庫が導入される以前のことです。冬の寒さが最も厳しい2月の頃だと思います。凍っても大丈夫な入れ物に水と何か色のついたものを入れ、凍らせようとしました。美味しいものが出来上がっていれば、記憶にしっかり残っているはずですが、残っていないということは多分、うまくいかなかったのでしょう。

 笹の葉もぎの作業を深夜までやっていた翌日もアイスクリームのことが母の口から出ました。午後4時頃でした。三輪自転車に乗って買い物に行ってきた母が県道柿崎牧線を横断したところで私の姿を見つけ、「アイスクリーム、いらんか」と訊いてきたのです。この時は、「じゃ、もらう」と答えました。母は、自転車のかごに入った袋の中に手を突っ込み、細長いカップに入ったバニラアイスを1個渡してくれました。

 母の頭の中では、自分の子どもたちが幼いころアイスを喜んで食べていたことが強く印象に残っているのでしょうか。
  (2015年5月24日)



第355回 杉林の中で

 5月はいい天気の日が続いていましたが、ここにきて、寒い日が続いたり、夏日になったりと激しく変化しています。先日亡くなった伯父の壇払い・納骨の日は風が冷たい日でした。

 壇払いは午前10時から。家族、近くに住む親戚など10人ほどが伯父の家に集まりました。

 始まる前に、参加者がお茶を飲みながら話をしたのは、蛍場にある墓地と火葬場のことです。戸数が一番多かったときで8戸と小さな集落でしたが、墓地は1か所ではなく、橋爪、長谷川など同性の家ごとに分散していました。ただ、火葬場だけは釜平という場所に1か所あるだけでした。「裸人足の人たちの仕事だったのかいね、雨が降ったときなんかたいへんだったこて、はみ出た足などを整えなきゃならんし……」A子さんが子ども時代、火葬中の様子を見に出かけたことなどを昨日見たばかりのような調子で語ると、みんながうなずいていました。

 火葬場の話などでいっとき賑やかになった伯父の家も壇払いの儀式が始まると再び静かになりました。専徳寺住職のお経は約30分でした。お経が終わった後、伯母を除く数人が骨箱、ロウソク、線香、スコップなどを分担して持ち、墓場へと向かいました。

 墓場は伯父の家の裏山にあります。伯父の家との標高差は50b以上はあると思います。道はまさに山道で、砂利ひとつ敷かれてない土の道です。5分くらいかけてゆっくり登りました。途中には、スミレやシャガが咲いていました。

 みんなの目を集めたのは、亡くなった伯父の仕事の跡が残った杉林です。これまで見たことのある人も初めて見た人も、「まあ、きれいにしてあるね」「たいしたもんだ」などといった言葉を口にしていました。杉林の中は自分の家の庭と同等の丁寧さで掃除してあり、杉の枯れ葉などが見事に片付けられていたのです。

 杉林の中の掃除のことから、伯父が杉にかけた思いについても話は広がりました。長男である従弟の話によると伯父は生涯かけて杉苗を約5000本植えたそうです。どちらかというと密植だったとか。植えた苗は豪雪などのために十分生長できなかったものもずいぶんあったといいます。最終的には、まともに生長した杉の確率は100本に1本くらいだったのではないかという人もいました。

 それでも伯父の家の裏山にある杉林には、100本くらいの杉の木があったでしょうか。いずれもしっかりと育ち、きれいに枝打ちがされ、りっぱな杉林を形成していました。伯父の仕事ぶりがありありと感じとれます。

 伯父の家の墓は比較的小さなもので、墓石のなかに伯父の骨を納める空間はありませんでした。墓の隣に縦40a、横50a、深さ40aほどの穴が掘ってあり、そこへ従弟が骨箱に入った骨をゆっくりとあけました。それでも伯父の骨はカラカラという音を立てました。骨の上に土をかけるのは私の役目になりました。乾いたきれいな土をスコップで入れ、あとで沈んでへこまないようにと、平らではなく少し高くしました。

 納骨の儀式が終わり、杉林の下のところへ下りて来て、再び伯父の仕事ぶりが話題になりました。杉林の土手の下の方に積まれた コンクリートブロックの積み方があまりにもきれいで、見事だったからです。これも伯父が土方仕事で身につけた技術ですが、その丁寧さな積み方のなかに伯父の几帳面で、真面目な性格が表れていました。生きていれば、伯父もニコニコして説明してくれたでしょうに。
  (2015年5月17日)



第354回 旅支度

 20日後に永遠の旅に出ることがわかったとしたら、あなたは何をしますか。会っておきたい人に会う。残された家族が困らないように、自分にしかできないことをやりきる。それでもまだ時間がまだあったら……。いろんなことが頭に浮かぶことでしょう。

 先日亡くなった伯父のことを救急車で運び込まれた病院やお通夜の席などで聞いたとき、ひょっとしたら、伯父は自分の命がそう長くないことを分かっていたのではないかと思いました。
 市街地に住む伯父の長男から迎えに来てもらい、高田公園の桜を夫婦で鑑賞したのは亡くなる10日ほど前でした。桜はかなり散っていましたが、それでも数千本の桜の木々が花を咲かせている、その迫力はあったはずです。この前日は長男夫婦の家に泊まり、孫の顔も見ることができました。長男夫婦にできた3人目の孫のNちゃんは上の孫たちとはかなり年が離れています。それだけに、かわいかったようです。とても元気な子で、大きな目は未来をまっすぐ見ている感じがします。この子の様子は伯父の口から時どき聞いていました。

 伯父は私のところにも寄ってくれました。もっとも、こちらは花見へ行くよりも1週間ほど前のことです。伯父夫婦は期日前投票をするために総合事務所までやってきて、そのついでに立ち寄ってくれたのです。私は留守だったのですが、ちょうど、妻がいて、伯父と伯母にコーヒーを飲んでもらったとのことでした。伯父に連れ添う伯母はわが家の出身です。家が隣にあった時期が長期にわたっていたことから、「最も近いところにある親戚」として何かと世話になっていました。私が町議選に初めて出たときに責任者をやってくれたのもこの伯父でした。
 
 救急車で病院へ運ばれた日、私は吉川区竹直に向かって車を走らせていました。携帯電話で伯父のことを知らせてくれたTさんは、「いつもの低血糖ではなく脳梗塞で倒れた。医者からは長く持っても3日だと言われた」と教えてくれました。おそらく連絡を受けたほとんどの人は同じ話を聞き、病院へ駆けつけたのだと思います。

 伯父の状況を聞いていた人たちは、病室や談話室で、「こうなることがわかっていたんだろかいね」と口々に言ったのは、長男夫婦の家等を「最後の別れ」としてまわったこと、体調がいまひとつであったにもかかわらず尾神の春祭りに出たこと、それに家の周りの片付け、畑の仕事をいつもよりも早々と丁寧に行っていたことでした。

 今春、伯父の家を訪ねた人たちが驚いていたのは、伯父が自分の家の屋敷内だけでなく、裏山の杉林の中まで掃除をし、きれいにしていたことです。病室などで、「杉林の中の杉っぱまできれいに片付けなったがねかね。まあ、よく動きなる人だったこて」という言葉を何回も聞きました。伯父が「よく動く人であり、働く人である」ことは、私も大田の田んぼの草刈り作業や土方仕事での仕事ぶりを見てきたのでよく知っています。時間をキチンと守り、与えられた仕事をテキパキと、しかもきれいにやるのです。でも、なんで杉っぱまでと思いました。

 伯父と最後に会って話をしたのは県議選投票日の3日後でした。その日は選挙のことばかりしか話をせず、裏山の杉っぱの片付けのことも知りませんでした。でもお通夜の席で伯母と話をしたとき、ふと思い出したのです。十数年前、杉林の中もまわりもカタクリの花が埋め尽くしていたことを。花が好きな伯父のことですから、杉林を含む裏山全体を再びカタクリの花でいっぱいにしたかったのではないか、私はそんな気がしたのです。
  (2015年5月3日)



第353回 母の半纏

 選挙が終わって数日後の夜のことでした。居間のコタツに入ってパソコンの操作に集中していたら、私の背中に半纏(はんてん)をかけてくれる者がいました。誰かと思って振り返ると、母です。

 私は半纏を持っていませんので、母が私に着せようとしたものは母がふだん着用している赤と青の混じった格子模様のついた半纏です。背中に寒さを感じていなかった私は、一瞬、「どうしたのか」と思いました。

 この夜、母の体感した温度が私と違って低かったのかどうかはわかりません。私は意識していなかったのですが、ひょっとしたら、パソコンに向かう私の姿勢のどこかに寒さを感じさせるようなところがあったのかも知れません。

 私は母がかけてくれた半纏を着ながら、この夜、原稿書きを続けました。原稿の締め切りばかりを意識してパソコンに向かっていましたので、母がどんな思いで私に半纏を着せようとしていたのかまで深く考えることはありませんでした。

 ところが、母が私に半纏をかけてくれたのは、この夜だけではありませんでした。数日後にも、もう1回あったのです。寒さの程度は最初のときと同じです。このときはコタツの近くに長女もいて、母が半纏を私にかける様子を見ていて、「ばあちゃん、いいんだよ」と、さとすように声をかけていました。

 今年は4月に県議会議員の選挙がありました。9日間の選挙期間中、母はデイサービスへ行った日をのぞき、選挙事務所となっていたわが家にずっといました。91歳にもなっているので、お茶を出したり、お客さんの接待などはあまりせず、コタツに入ってじっとしていることが多かったようです。

 それでも気をつかっていたんでしょうね、木曜日の朝だったでしょうか、母が具合を悪くしたのは。この日、母はめまいがしたらしく、まともに立つことができなくなりました。木曜日でしたので、本来なら、朝早くから支度をして、デイサービスの迎えの車を待つはずでした。

 この日、母は自分の寝床に入りっぱなしとなりました。何度か、母の額(ひたい)に私の額をつけて、「大丈夫かね」と声をかけると、「うん。でも起きらんねがど」と言っていました。額で感じた母の体温に異常はありませんでしたが、顔色を見ると、何となく白っぽく感じられます。そんななかでも、母は心配をかけて申し訳ないと思っていたようです。

 これまでも母は立っていられなくなり、動けなくなったことが何度かあります。吐き気が止まらないなど状態が極端に悪いときは救急車を呼んだこともありましたが、たいがいは病院へ行って点滴してもらったり、家でゆっくり寝ていることで回復しました。今回も昼間、布団に入って寝ているだけで治り、ホッとしましたが、正直言って、しばらくは自分の体のことを何よりも大切にしてほしいと思っていました。

 こんなことがあったものですから、自分の半纏を私にかけてくれるという今回の母の行為が強く印象に残ることになりました。

 母の目には私が寒そうにしていると見えただけなのかも知れません。でも、私はそれだけではないと感じました。選挙期間中、母はずっと私の動きを見ていました。母にとって私はいくつになっても子どもです。初めて落選した自分の子どものことが心配でならなかったのだと思います。
  (2015年4月26日)



第352回 ハナカイドウ

 高田の朝市へ行った帰り道、鴨島のHさん宅を訪ねました。数年前からインターネットで知り合いになった方です。Hさんとはなぜか趣味も関心事も共通なところが多く、とても親近感を持っています。

 ほんとうは挨拶だけして、すぐに帰るつもりでしたが、「さぁさ、ちょっと入って、入って」とすすめられ、コーヒーやお茶をご馳走になってきました。Hさん宅へ入らせてもらったのは今回で3回目か4回目だと思います。Hさんとの話はいつもはずんで、つい長くおじゃましてしまうのですが、この日も、やはりそうなってしまいました。

 この日のふたりの会話は携帯電話の話から始まりました。私は正月からスマートフォン(多機能携帯電話)を使っています。テーブルの上に電話を置かせてもらうと、Hさんが「橋爪さんの電話、大きいですね」と訊いてこられました。「私ね、指が太いので、大きいのにしたんですよ」と答えると、「じつは私も太くてね。それで最初に使っていたのは女房のものにし、電話を替えたんです」と言われ、電話談義が続きました。

 話がスマートフォンから別の話題へと変わろうとした頃です。庭の方を見ると、玄関先にお客さんらしい人の姿がちらっと見えました。「どなたか、お客さんのようですよ」と言うと、Hさんのお連れ合いがすぐに玄関へ行かれました。

 別に耳をそばだてていたわけではないのですが、「ユキヤナギがきれいに咲いていたので、見せてもらおうと思ってね」など、お客さんとお連れ合いの会話が聞こえてきました。そして間もなく、「おとうさん、Oさん、橋爪さんと同級生なんだって」という声がしたので、びっくりして、私も玄関へ飛び出して行きました。

 なんということでしょう、そこにいたのは私の高校時代の同級生、Oさんだったのです。Oさんは現在、福祉関連会社のケアマネージャーをやっているとのことでした。

 それからはHさんとOさん、それに私の3人でお茶会です。私が高校2年生のとき、同級生のSさんから自転車を借りて、碓氷峠経由で高崎まで行ったことを話をすると、Hさんも大型トレーラーを道幅の狭い碓氷峠を通すために仕事は夜中にしたことなどの思い出を語ってくださいました。また、東京で小川未明や杉みき子さんの児童文学と出合ったことなども語ってくださり、楽しい時間を過ごさせてもらいました。

 一緒にお茶を飲んだ3人に共通なのは3人とも花に強い関心を持っていることです。ユキヤナギやトキワイカリソウなどの話をした後、Hさんがふっと思い出したように、「ハナカイドウ(花海棠)を見ていきませんか」と誘ってくださいました。

 Hさん宅の玄関脇にあるユキヤナギやツバキなどの花を見ながら裏庭へ行くと、ソメイヨシノの木が1本ありました。20数年前、Hさんの、いまは亡きお母さんの希望で植えたという桜の木です。満開でした。その木と数メートルの距離にハナカイドウの木が2本ありました。

 初めて見るハナカイドウの木。すでに小さな葉が出ていて、長い花柄(かへい)の先に赤いつぼみがついていました。とてもかわいい。花はまだ咲き始めたばかりで、淡紅色の花がふたつほど開いていました。りんごのような木に、サクランボに似たつぼみ、どこかで出合ったことのある姿になぜか懐かしさを覚えました。

 偶然だった三人の出会い。花を見て会話はまたはずみました。ハナカイドウは花が咲いた後、リンゴに似た小さな実をつけることがあるそうです。そして、花言葉は「美人の眠り」。満開のとき、いったいどんな姿になるのでしょうか。
 (2015年4月19日)



第351回 背中流し

 ずっと前から思っていたことがあります。お風呂に入ったときの背中流しのことです。一度でいいから、自分の子どもや孫から背中を流してもらいたいものだと思い続けてきました。

 チャンスは昨年暮れにやってきました。金沢市に住んでいる次男夫婦が帰省した際、一緒に長峰温泉ゆったりの郷へ出かけることになったのです。この日、次男は私の仕事場の移転の手伝いを半日くらいかけてやってくれました。そのお礼を兼ねて、夕方、妻とともに次男夫婦を誘って長峰温泉ゆったりの郷へ行ってきました。

 仕事で疲れているし、早く食事をと妻が言うので、先にゆったりの郷の中の「味彩」で夕食をとりました。私と妻と次男の連れ合いはカキフライ定食、次男はトンカツ定食を注文しました。次男は、食べながら、「この間は午後6時に仕事にとりかかり、終わったのは深夜の2時過ぎだった」などと、自分の医療機器の仕事について語ってくれました。

 夕食が終わってからはお風呂です。私は次男とともに、妻は次男の連れ合いとともに入りました。

 次男と風呂に入るのは実に20数年ぶりです。洗い場で、次男は「一緒に入ったのは小学生の時までだ」と言っていました。私は上の子どもだけでなく、次男とも一緒にお風呂に入っているはずなんですが、どういうわけか具体的なエピソードが何一つ思い浮かばず、ぼんやりした記憶しかありません。

 最初、大きな浴槽の端っこの方で次男と並んで湯につかりました。首まで湯につかりながら横に並ぶ気分は良いものでした。ここの温泉はちょっとぬるぬるしていて、湯を口に含むとしょっぱい味がする温泉です。この日、お風呂の温度は、ややぬるめでしたので、「ゆっくり入らないと温まらないよ」と私は次男に言いました。

 しばらくしてから、お湯が浴槽に流れ込んでいる場所の近くへと移動しました。先に移動したのは次男です。泳ぐような仕草をしながら、そこまで行くと、「お湯の出ているところも同じ温度だよ」と教えてくれました。この場所でも親子並んで足を伸ばしました。

 同温泉の浴室には大きな浴槽の他に小さなお風呂がふたつあります。そのひとつはラジウム鉱泉と同じ泉質にしているお風呂です。もうひとつは鳥のとさかに含まれているというヒアルロン酸が入っているお風呂です。次男は「お父さん、ヒアルロン酸というのは化粧品に入っている有名なものだよ」と言いましたが、私には初めて耳にするものでした。肌に良い物質だそうです。

 大きな浴槽につかっているとき、ついつい足や背中などを掻いてしまいます。浴槽から出て、再び洗い場に戻ると、次男が「背中が赤くなっているよ」と教えてくれました。私はシメタと思いました。「かゆくてね、ちょいと背中、流してくれや」と頼みました。次男はタオルに石鹸を含ませると、背中をごしごしやってくれました。強くもなく弱くもないほどよい加減のこすり方で、とてもいい気持ちでした。

 最近、次男から、子どもができたかもしれないという、うれしいニュースが伝わってきました。その時ふと思い出したのは、私に背中を流してもらい喜ぶ祖父・音治郎の姿です。普段、手の届かないところをこすってもらうことの気持ち良さと、それを孫にやってもらう快感、数年後、私も味わうことができるかも知れません。
  (2015年4月2日)



第350回 折り目

 毎日のように動き回っていると、いろいろな職種の方と出会います。そして、私が知らなかった光景と出合うこともたびたびです。

 先日、早朝宣伝が終わってから市役所へ行ったときのこと、自分のはいているズボンを見て気になりました。折り目がまったく消えてよれよれになっていたのです。まだ午前の早い時間帯でした。「これから、一日の活動のなかで大勢の人と接することになる」そう考えたら、なんとかしたくなりました。

 すぐに顔見知りのクリーニング屋さんのところへ飛び込みました。市役所の近くにあるお店です。これまで、地元でお世話になっているクリーニング屋さんのところへ行っている余裕がないときに洗濯ものを持ち込んできました。

 お店の中をのぞいたら、ご主人は仕事着に着替えられたばかりといった感じでした。年に何回も行くわけではないのに、ここのご主人とは不思議と気持ちが合います。

 ご無沙汰していることを詫びながら、「ズボンの折り目がすぐ消えちゃってね、折り目加工ってやってもらえます?」と言うと、「生地が何で作られているかによって、できるものとできないものがあるんだよ。まあ、ちょっとよこしない」と言われました。

 この日は、たまたま普段着にしているズボンが車の中にありました。それを取りに行くと、作業場の隅の方に入らせてもらい、ズボンをはき替えました。

 スーツのズボンを渡してから、私はご主人のアイロンがけを見せてもらいました。ご主人は関取の化粧回しのようなものを身につけると、仕事台の上に私のズボンをさっと広げました。ズボンを広げた瞬間から、私はクリーニングのプロの姿を目にすることになります。指でズボンの端を持ち、ぴっとのばす。アイロンを握る。アイロンをすべらす。折り目をつけていく。プレスをかける。見事な集中力とアイロンがけの作業に私は圧倒されました。

 初めてクリーニング屋さんの仕事ぶりを見せていただいた私は、「すごいもんですね」と言いました。ご主人は近くにある機械についても説明してくださいました。作業台には平らなものだけでなく、ズボンのお尻の部分をアイロンがけしやすいようになっているものなどもあることも初めて知りました。

 話を聞いて、感心していると、「おまんのはいているズボンも脱ぎない」とご主人に言われました。一瞬、迷いましたが、店内には私とご主人以外に誰もいません。そっとズボンを脱ぎました。ズボンの下はステテコです。この日は長靴姿でした。誰も見ていなかったからよかったものの、ステテコに長靴ではどうみても格好いいものではありません。

 私はステテコ姿のまま、再び、アイロンがけ作業を見させてもらいました。私が二つ目に渡したズボンは普段着です。汚れがあるにもかかわらず、いやな顔一つせず、作業をすすめ、「蒸気があがっていてよかった。いつでも持ってきない」と言ってくださいました。しかも、この日はお金はいらないとおっしゃったのです。

 アイロンがけは母や妻の作業を見たことはあります。でも、クリーニング屋さんという専門家の作業をじっくり見たのは初めてでした。ズボンの折り目をつけたいということからお願いした作業のなかに、職人としての技術と心意気を見ました。もうひと月もたてば、わが家の山には山菜がたくさん出ます。私はお礼にウドなどの山菜を届ける約束をして、お店を後にしました。
  (2015年3月29日)



第349回 校長先生の涙

 涙にはいったいどれくらいの種類があるのでしょうか。うれしいとき、悲しいとき、くやしいとき、おかしくてたまらないときなど涙が出るときは様々です。それも単純ではありません。うれしさと悲しさなどいくつかが入り混じった涙もあります。

 先日、2回目の卒業生を送り出した県立吉川高等特別支援学校の式典は、最後の最後で私が目にしたひとりの男性の涙によって印象深いものとなりました。

 式典が始まったのは午前9時40分過ぎでした。14人の卒業生が式場となった体育館に入場すると、いっせいに拍手が起こりました。一人ひとりが真ん中の通路からゆっくりと前に進みます。胸にピンクの飾りを付けた卒業生のなかには、緊張している生徒もいれば、笑みを浮かべている生徒もいました。

 卒業証書の授与が終わって、校長の赤松先生が式辞をのべました。先生は3年前の入学式のことを思い出してもらいながら、「自分の夢の実現に向かって、自分だけのオンリーワンの花を咲かせよう」という訴えに応えて生徒たちが頑張り、学校の進むべき道をつくってくれたことを語りました。また、演壇の前の方に「感謝」という文字が書かれたボードを立て、「感謝の気持ちを忘れずに」という言葉をはなむけに贈りました。

 卒業生や在校生、教職員などの気持ちが徐々に高ぶっていったのは、在校生を代表して北島さんが送辞をのべたころからです。

 北島さんは、卒業生と一緒に過ごした時間を振り返りながら、「宿泊体験では卒業生のみなさんの料理の手際の良さに驚いた。おいしいカレーをたべられ、幸せいっぱいになった」「作業学習では働くことの大切さ、力を合わせることの大切さを学んだ」などとのべました。そして最後に、「3年生のみなさん、お世話になりました」とお礼を言うと式場はしーんとしました。

 答辞は卒業生を代表し、福永さんと米田さんが二人で分担してのべました。

 福永さんはお祝いに駆けつけてくれたみなさんにお礼をのべたあと、3年生が「チーム吉川」として一丸となり、年々団結力を強めていったと語り、「仲間と共に笑い、励まし合ってきた3年間、交わした言葉の一つひとつが忘れられない思い出です」と結びました。私は盛り上がった学習発表会での演奏とダンスを思い出していました。吉川高等特別支援学校はハッピィカフェひとつとっても教職員、保護者、地域が一体になっていかないと活動できない面があります。米田さんは、先生方には、「夢を持ち、努力することの大切さを教えていただいた」とのべ、保護者に対しても「一番の理解者だった」と感謝の気持ちを伝えました。

 卒業式が終わって、卒業生が決意と感謝を込めて歌ったのは「旅立ちの日に」。どんな困難にあっても、みんなが一つになって立ち向かい生きていくという、卒業生にはぴったりの歌です。

 その後、卒業生を含む全校生徒が体育館の舞台周辺に集まりました。「大勢になったなあ」と思いました。今度は全校合唱です。歌はFUNKY MONKEY BABYSの「大切」、私にとっては初めて出合った歌ですが、歌の後半になって、校長先生の様子が気になりました。先生はずっと下向きだったのです。そして手でおさえきれなくなった涙を拭くためにハンカチを出されました。「あなたといる日々が なににも代えられない 大切……」。たぶん、生徒たちとのこれまでの日々を思い出されていたのでしょう。校長先生の涙によって、この日の卒業式は忘れられないものとなりました。
  (2015年3月22日)



第348回 酒粕

 先日、珍しいものを食べさせてもらいました。酒粕の焼いたものです。

 その日、私は町の中心部にあるSさん宅へおじゃましました。届けものがあったのです。事務室に入ると、テーブルの上にはアルミホイルに包まれた食べ物が載っていました。アルミホイルからはみ出た部分には焼いた跡が見えます。テーブルの脇の丸ストーブがついていましたから、この上で焼いたものなのでしょう。

「酒粕かね?」と尋ねると、Sさんは食べてみたいという私の気持ちを察したようで、すぐに酒粕を一枚持ってきてくれ、丸ストーブの上にアルミホイルを敷き、あぶりはじめました。

 私が訪ねたときにはちょうど下町のKさんもいて、コーヒーを飲んでおられました。テーブルの上に置いてあった焼いた酒粕はKさんのために焼かれたものだったのです。

 私もコーヒーをいただき、おしゃべりの仲間にさせてもらいました。

 コーヒーを飲み始めて1分も経たないうちに、ストーブの上の酒粕が気になったので、上にかぶせたアルミホイルをそっとめくってみると、ぷっくりふくらみ始め、薄茶色の焦げたところも出始めました。「こういうのがうまいんだよね」と言うと、Sさんはアルミホイルをもう1枚持ってきて、酒粕の上にかぶせ、さっとひっくり返しました。ほんの一瞬の出来事だったのですが、ひっくり返し方があまりにも見事なので感心してしまいました。

 酒粕はお焦げがついて、とてもいい色になりました。懐かしい香りがほんのりとします。端っこの方を指先でつまみとり、口に入れてみました。うん、これこれ、昔から知っているいい味です。Sさんは、私の顔を見ながら、「そうやってちょこんちょこんと食べ始めると、こたえさんねくて、やめられなくなるんだよね」と言いました。

 焼きあがった酒粕は、さあ、食べてくださいと言った感じでアルミホイルに包んだままテーブルの上に置かれました。でも、二口か三口ほど食べたところで、私は止めました。何となく顔が赤らんできたように感じたからです。せっかく焼いてもらったのに申し訳ないと思いましたが、千切って食べ続けていれば、飲酒と同じ状況となり、車に乗って帰られなくなるのは目に見えていましたから、どうしようもありません。

 酒粕の方は食べるのを抑えたのですが、丸ストーブのそばで話ははずみました。

 今冬は、平場では12月にまとまった雪が降ったものの、その後はたいしたことがなく例年よりも早く雪が消えました。Sさんは、雪が少なかったわりに畑のものをいじめる天気だったと語りました。畑にある五月菜が全滅してしまったというのです。Kさんの畑でも駄目になったといいます。Sさんは五月菜の代わりに野沢菜を大事にして、春の食べ物にしようとしているということでした。こういう話は初めて聞きました。

 Sさんが出稼ぎに出たことがあるという話も興味深かったです。出稼ぎは男性だけでなく、女性も出る人がいたんですね。Sさんは伊勢神宮へあげる酒を造っているある酒屋さんへひと冬だけ行ったことがあるのだそうです。これも知りませんでした。

 かつて、酒粕は出稼ぎから帰ってくる人のお土産のひとつでした。わが家では父が酒屋から持ち帰る酒粕を楽しみにしていました。酒粕を食べれば、子どものときも赤くなったと思うのですが、なぜか赤くなったことの記憶はありません。記憶に残っているのは、酒粕を食べられるようになると、父と一緒に暮らせる春がやってきたことです。
 (2015年3月15日)



第347回 ハプニング

 どんなところでも思いがけないことが起きることがあります。Yさんの母親であるハルイさんの葬儀の時もそうでした。喪主を務めていたYさんが告別式の途中、急に体調を崩し、喪主の席を離れて別室で安静にせざるを得なくなったのです。

 2月の下旬でした。この日は市内で葬儀がいくつもあり、ハルイさんの告別式は午後1時半からとなりました。天気は晴れ、告別式が行われた虹のホールおおがたの駐車場からは霊峰米山の雄姿が見えました。

 ハプニングが起きたのは告別式が始まってまもなくでした。私はこの日も寝不足のためうつらうつらしていたのですが、喪主とその家族が座っていた場所でざわざわした雰囲気となった段階で気づきました。見ると、喪主であるYさんの姿はありません。これにはびっくりしました。そして、隣に座っていたお連れ合いのS子さんと息子さんのTさんがメモらしきものを見て、話をしていたのです。

 一瞬、何が起きているのかわからなかったのですが、Yさんの体調に異変が起きたなと直感しました。じつは、昨年だったか、一昨年だったか、代石の池や農道等の草刈作業で一緒になったときにも、体調を崩し、動けなくなったことがあったからです。後で聞いて知ったのですが、喪主のYさんはふらふらして座っていられなくなり、式場の係りの人の手を借りて別室へ行き、横になっていたということでした。

 お連れ合いのS子さんと息子のTさんが話をしていたのは喪主の挨拶をどうするかでした。喪主に代わって挨拶するにしても、挨拶のメモが必要です。そのメモが見つかるまでかなり時間がかかりました。遠くで見ていただけで、交わす言葉は聞こえてこないのですが、メモが見つかったことはすぐにわかりました。S子さんのホッとした様子が顔に出たからです。

 正直言って、告別式がその後どうなるか心配したのですが、それはまったく余計なことでした。喪主がいないなか、Yさんの息子さんたちが見事にやるべきことをやってくれたのです。

 まずは弔辞をのべた三男のKさん。長野県の養命酒製造で働いています。進行役の人から「では、Kさんから弔辞を」と言われ、ハルイさんの遺影の前に出ていきました。そこで、原稿もなしにいきなり、「おばあちゃん」と声を出しはじめたのです。
「学校から家に帰ったとき、お父さんもお母さんも仕事で留守でした。そんなとき、おばちゃんがいてくれてホッとしたものです。えっと、それから、おばあちゃんは朝早くから新聞配達をして頑張っていたね……」
「えっと」という言葉が出るたびに、ハルイさんに関するいくつかのエピソードが紹介され、そのたびに参列者の心を打ちました。

 告別式が終わって、喪主の挨拶のときがやってきました。やはり、Yさんの姿はありませんでした。今度は次男のTさんが父親の代わりを務めました。「百歳まで生きると言っていたおばあちゃんでしたので、少し早かったのですが……。これからも残された家族をよろしくお願いします」と、しっかりした口調でのべました。

 告別式から4日後、Yさん宅を訪ねると、Yさんは起きたばかりでした。「さっきまで頭、上がらんかったがど……。一時はどうなるかと思ったけど、運よく看護師やっている上増田のMさんもいたし、助かった」と言って微笑みました。
 (2015年3月8日)



第346回 冷たいお茶

 このところ忙しくて母の顔もろくに見ていません。母との親子の会話もほとんどなしの状態が続いています。朝早い時間に家を出て事務所で仕事をし、そのまま外に出て、夜遅く、母が寝ている時間に家に戻る生活が続いているからです。

 そうしたなかで先週は、わずかな時間ですが、2回ほど母と話ができました。

 1回目は宣伝活動が一区切りしたある日の午後、それも夕方に近い時間帯でした。母が少し前に、「ツバキが赤くなってきたな」と言った言葉が気になり、明るい時に見ておきたいと思って家にいったん戻ったのです。

 わが家には高崎の親戚からもらったツバキの木と父が植えたものと思われるツバキの木の2本があります。そのうちの1本は高さが2bほどで、きゅっとしまった赤いつぼみをいくつかつけていました。写真に撮り、「これか、おまんの言うツバキは」と訊くと、「うん、そうだねかな」と頼りない返事でした。でも間違いなさそうです。

 この日、母とは15分ほど一緒にいました。母からは話が次々出てきます。「ツバキが咲いたすけ、春になったな」とか、「橋の工事で、でっけ機械がぐるぐるまわって穴開けているがだ」など身近に起きていることをいくつか教えてくれました。

 母はいま、1週間に2度デイサービスに行っていますが、あとの日はほとんどコタツに入ってじいっとテレビを見ていることが多くなっています。大好きだったコンニャクづくりもやめてしまいました。そんな具合ですから、たまに昔から付き合いのある誰かが訪ねてきて、話し相手になってくださるときはとてもうれしいようです。

 居間のコタツの上のテーブルにはこの日、梅の焼酎漬けやコンニャクなどが並んでいました。梅の焼酎漬けは2種類、母が作った焼酎漬けが入ったものが一皿あり、その他にも一皿ありました。こちらは氷砂糖が入った焼酎漬けです。隣集落に住むチコさんからもらったものだとか。地元商店・角屋さんに買い物にきたというチコさんが母の様子を見に寄ってくれたのです。ありがたいですね。母には「梅、うんめすけ食べてみろ」とすすめられました。

 コンニャクは菖蒲のあるおばあちゃんからもらったものです。梅にしみ込んだ酒で顔が赤くなっては困るので、コンニャクばかり食べながら母の話を聞きました。味は母の手づくりのものに負けないくらいおいしいものでした。食べ始めてまもなく、母は台所へ行き、急須(きゅうす)を持って居間に来ました。急須から湯呑みに入れ、「お茶、飲めや」と言われたので、口をつけました。口をつけた瞬間、びっくりしてしまいました。中に入ったものはお湯ではなく、水だったのです。

 「水だでね」と母に言うと、「ほしゃ、ポットのスイッチ入ってなかったがだろかな」と言いながら台所へ確かめに行きました。私もついて行くと、ポットのスイッチは入っています。ただ、温度の表示は15度になっていました。どこでこうなったのかはわかりませんでしたが、母が急須に注いだ時に水だということを気付かなかったのが気になりました。

 2日ほどおいてまた母と話ができました。この日も夕方、5時近くになってでした。母はフキノトウを採るために三輪自転車に乗って出かけようとしていました。母はもうすぐ91歳。もう自転車に乗るのをやめたのかと思っていたので、うれしくなりました。「気いつけないや」と言うと、母は「おーっ」と言ってペダルをこぎ出しました。
 (2015年3月1日)


 
第345回 雪化粧

 たぶん、Kさんは私が家にやって来るのをずっと待っていてくれたのだと思います。夕方、それも、すでに6時をまわった時間帯でした。「ごめんください」という私の声が聞こえると、Kさんはすぐに居間から戸を開けて玄関の方にやってきました。

 Kさんは私の顔を見る前から、ニコニコしています。まるで、「おー、来たか、よく来た、よく来た」と言っているように見えました。「さあさ、入って、お茶飲んでってくんない」と言われ、一度は「いや、もう夕飯の時間だすけ、またの機会にするこて」と言ったのですが、Kさんの顔を見たら、あまりにもさみしそうでしたので、「じゃ、ちょっとだけ入らしてもらうか」と言って、あげさせてもらいました。

 居間に入ると、練炭や豆炭専用の丸いコンロの上で豆炭をおこしているところでした。「こりゃ、懐かしい」私はそう言いながらカメラのレンズを向けました。豆炭の周囲はすでに白くなっています。豆炭にはもう火がついたということです。このままコタツにも行火にも使えます。詳しいことは聞かずじまいでしたが、Kさんは背中に豆炭入りの小さな行火をだかせているようでした。

 居間の真ん中にあるコタツの上には、おいしそうなカボチャの煮たものがたくさんありました。「これ、うんめがでね、食べてみてくんない」そう言われ、すぐに一個を手づかみして口に入れると、確かに、甘くて、「うんめ」ものでした。

 順序は逆になりましたが、その後、Kさんが小皿を持ってきてくれましたので、ふたつだけこの皿に入れました。箸を使って食べようとした直前、「これも写真に撮らなきゃ」と思い、写真に収めました。ですから、このとき撮影した写真には箸をつけた跡が残っています。

 私が写真に撮ったことが刺激になったのでしょうか、見た目では普通のカボチャだと思っていたのですが、Kさんは、このカボチャについて説明を始めました。 「このカボチャはね、雪化粧と言うんだわ。畑で歩いていたら、これにけつまづいてしまってさね、そしたら、このカボチャがあったんだわね」

 Kさんの畑というのはおそらく家のそばにあるのだと思います。カボチャの葉でいっぱいになったところでは、よく見ないと、カボチャがどこにあるのかわかりません。私はKさんがこのカボチャにつまずいた様子を想像し、笑ってしまいました。

 私はカボチャに「雪化粧」という名前がついていることが信じられず、何度か、「雪化粧かね」と問いただしました。間違いありませんでした。よく見ると、カボチャの皮のところがうっすらと雪がついているように見えます。名前はここからきたんですね。

 ストーブの近くには、カボチャの種と思われるものが乾燥させてありました。種を炒って食べるのかと思っていましたが、Kさんはこれでカボチャを増やしていこうと思っていたようです。それも自分のところで使うだけではなく、よその人からも増やしてもらいたいと思っていたようなのです。私には農協の請求書が入っていた古封筒に種を入れ、分けてくださいました。

 Kさんは雪の多い山間部での一人暮らし。週に1回はデイサービスに通い、あとは近所でお茶飲みを楽しんだり、家の中で好きな食べ物を作ったりして過ごしています。この日、分けてもらったカボチャの種は私も近くの畑で育ててみようと思います。今年の秋にはカボチャたちがうっすらと白い色で化粧してくれるかどうか、楽しみです。
  (2015年2月22日)



第344回 枯れ木

 吹雪の朝でした。風が強く吹いて、ビュービューという音がしていました。この日は久しぶりに除雪車が出動しました。路面は凍っていて、すべりやすく、とても危険な状態でした。

 アラスカのことを書いた星野道夫の『めぐる季節の物語』を前日の夜に読んだばかりの私は、この本の短いエッセイ、「春」に書かれている枯れ木の話が強く印象に残っていました。倒れたシラカバの枯れ木にはリスが小さな穴を利用して作った巣があり、巣の底には断熱材が入っていたという話です。

 私はこの話を読んだその時から一本の枯れ木のことが頭に浮かんでいました。それは私の事務所の近くの林の縁にある大きな木です。最近、枯れてきていることに気づいていたのですが、私は本に出てきた枯れ木とこの木を重ねて頭の中でイメージを膨らませていました。ひょっとすると、私が見た枯れ木にも穴があって、リスかムササビがいるんではないかと思い始めたのです。

 いったんそう思うとずっと気になるのは私の性分なのでしょうか、朝起きるとすぐにこの木に向かいました。

 そばまで行って、改めて木を見ました。あちこち皮がはげています。苔のような緑のものが、下から上までずーっと木の表面に張り付いています。ツルも下の方からいくつも上の方に伸び上がっています。そして、あれっと思ったのは、皮のはげたところの色です。ピンク色になっていたのです。いままでこんな色だとは知りませんでした。ひょっとすると前は別の色だったのかも知れません。

 木の上部を見ると、木の先っぽがゆらゆらとゆれています。風にゆられているのでしょうが、いまにも一部が落ちてきそうな感じがしました。再び目を幹の下の方へ動かすと、枝が大きく分かれているところに、深い割れ目ができていました。ただ、これはリスなどが入るには狭すぎました。他にも穴はありましたが、小さなものばかりです。

 それならば、幹の上の方はどうだろうか。パンパンパンパンと、木の幹を手のひらで4回たたいてみました。反応はありません。もう一度パンパンパンとやりました。やはり駄目です。残念ながらリスなどがいる気配はありませんでした。

 木の裏側の方にも回ってみました。風で雪が木に吹き付けられ、30aくらいの幅でずっと上まで白くしています。

 そのまま上の方を見ていたら、なんということでしょう、枯れた木は一本だけではありませんでした。すぐ傍にある杉も一本枯れています。さらにその奥には、何という名前の木でしょうか、人間の両手でひとかかえもある大きな木が枯れていました。この木も上の方でゆっくりゆれていて、いつ倒れてもおかしくないくらいです。私が手でちょっと押せば倒れてくるかもしれない、そんな感じすらしました。

 雪が1aほど積もった林の中を歩いてみると、この林の中の木のほとんどは幹の直径が20aから30aほどのものです。そして、まだ芽を出してから2、3年しか経っていないナラの木もありました。

 これらの木々にカメラを向けたとき、はっとしました。林の中にあって、小さな木は周りの大木が枯れていかない限り、育たないのです。私はもう一度、倒れそうな大きな枯れ木を見上げました。太い枝を横に二本広げた姿がとても大きく見えました。
  (2015年2月15日)



第343回 幸来花

 朝市にはドラマがあります。毎回のように印象に残る出来事、出会いがあるのです。先日の直江津の三八市のときもそうでした。花を売っていたひとりのお母さんが、「この花、持っていってくんない」と言って一鉢くださいました。それが始まりでした。

 この花の草丈は50a前後、最先端に薄いオレンジ色のちょうちんのような花をつけています。花屋さんからは「幸せを呼ぶ花だよ」と言われたのですが、花は「幸来花」(こうらいか)とも呼び、マダガスカル原産の多年草であることが後でわかりました。

 朝市で一緒に宣伝した仲間のミキ子さんが、「橋爪さん、きょうはきっといいことがあるよ」と言ってくれたとき、私は笑って「そうだね」と軽く受け止めていたのですが、じつは、この日、幸せを感じる出来事が次から次へと起きていったのです。

 ひとつだけ紹介しましょう。この日は県立吉川高等特別支援学校の3年生がハッピィカフェという「喫茶店」を開店する日でした。久しぶりに顔を出してこようと、私の事務所で出かける準備をしていたら、妻が「行くんなら、私も連れてって」と言います。それなら、母も連れて行ってあげようと思いました。母もこれまで原之町の定子さんなどと何度か出かけていたことを思い出したからです。

 高校の玄関に入ると、ちょうど校長の赤松先生がおられ、「お母さん、すみませんねぇ、エレベーターがなくって……」と声をかけてくださいました。スリッパに履き替えた母は階段を少し上ったところで、スリッパをぬぐと、階段に手をつきながら、どんどん上の方へと進みました。ハッピィカフェの会場は3階です。私も母の腕を持ちながら一緒に上りましたが、母の階段を上がるスピードが速いのにはびっくりしました。

 会場にはすでに何人ものお客さんの姿がありました。少し別室で待った後、学校評議員のみなさんに続いて「喫茶店」に入ると、コーヒーのいい香りが漂っています。生徒たちに元気な声で「いらっしゃいませ」と迎えてもらいました。とてもいい声です。 「喫茶店」では、母がりんごジュース、妻はコーヒー、そして私はカプチーノを注文しました。待っている間に、赤松先生がまた声をかけてくださいました。先生も母が元気に階段を上るので驚かれたのでしょうね。「お母さんはおいくつですか」という問いに、母はすぐ、「91歳です」と数え年で答えていました。

 本格的なコーヒーを飲んだ妻は、「久しぶりにおいしいコーヒーを飲んだ」と言い、ジュースを一気に飲んだ母も満足した様子でした。デザートについてきた小浜屋の「かの子」という名の和菓子はこの日のために作られたものです。真ん中に梅の花をイメージしたものがのっていて、これもおいしくいただきました。母は妻に教えてもらいながら、アンケートにしっかりした文字で感想を書きました、「おいしかったです」と。

 階段を下り、1階の廊下にあった各種競技大会の表彰状を見たとき、妻も私も同じことを考えていました。「この子かぁ、さっき、うちらのテーブルのところに飲み物を運んでくれたのは」と言うと、妻も「やっぱりね」と言いました。素敵な笑顔と動きで、私たちのテーブル周辺をやさしい、気持ちの良い空間にしていってくれた生徒は喫茶サービスの技能大会で2年連続で金賞を獲得していたのです。

 吉川高等特別支援学校の「喫茶店」へ出かけたのはこれで5回目くらいです。でも母や妻と一緒は初めてで、思い出に残るものとなりました。家に帰って、玄関に置いた幸来花を見たとき、オレンジ色の花が朝の段階より増えているように見えました。
  (2015年2月8日)



第342回 正月休み

 年老いた親を実家に置いて、遠くで暮らす人はいつもどんな気持ちでいるのでしょうか。正月の三が日が過ぎた4日、桑取地区の土口にある幸太郎さんの実家を訪ねて、そんなことを考えました。

 幸太郎さんの母親、ふじさんが元気かどうか様子を見ておきたいと思ったのでしょう、また、三和区の橋本さんがあらかじめ、「寄らせてもらいますよ」とふじさんに電話をしてくれていました。

 玄関で「いなったかいね」と大きな声を出したら、「お茶、飲んでいけばいいこて」と誘われました。街頭演説をしてきたばかりなので、喉も乾いています。遠慮せずに居間にあげさせてもらって、ふじさんの顔色を見ると、色つやのいい顔をしています。とても元気そうでした。

 ところが、ふじさんはいきなり、「いやー、足が立たんくなっちゃった」と言ったのです。そしてこちらからきかないうちに、ふじさんは年末から正月にかけて実家にいた幸太郎さん親子の話を続けてくれたのでした。

 ふじさんによると、幸太郎さんと彼の娘さんは年末から1週間実家に泊まっていったそうです。二人ともじっとしていられない性格で、いつもせっせと働いてくれたとか。掃除も洗濯も、もちろん料理もしてくれたのでしょう。ふじさんは「動かんでいいよ」と言われ、ずっと椅子に座ってばかりいたのです。だから、「足が立たなくなっちゃった」んですね。一緒にお茶飲みをした橋本さんも笑いました。

 ふじさんの話を聞きながら、目の前にあるテーブルの上のものを見ました。皿に入ったおかずは何と7種類もあるじゃありませんか。「ささぎ」の茹でたもの、ゼンマイの煮つけ、白菜の漬物と沢庵、レンコンの煮つけ、キムチ、それと大根を薄く切ったものもありました。みんなうまそうです。それぞれの皿に入っているものを少しずついただきました。このうち大根については、ふじさんの友達が雪の下から掘り出してくれ、それを使って幸太郎さんが作ったのだそうです。なかなかいい味でした。

 私が「おいしい」という言葉を何度も使ったものですから、ふじさんのしゃべりはますます滑らかになりました。山越えして名立区の折戸へ抜ける道の話からキムチの話になりました。名立の不動に住む誰かさんから心配してもらったキムチの素を使って近くの集落の女性がキムチを作り、ふじさんにくれたのだそうです。ふじさんのまわりにはいろんな人がいて、生活を支えてくれているんですね。

 いつの間にか、キムチの話から豆腐の話になって、たびたびやってくる長浜の豆腐屋さんのおかげで助かっているとか、昔、ふじさんがやっていたお店では、正月になると、豆腐がバカ売れしたもんだということも聞きました。私は三十数年前に初めて桑取地区に入ったのですが、ふじさんのお店については不思議なことに、あまり記憶に残っていません。でも地域の小さな商店がお盆や正月、とても忙しかっただろうことは、私のふるさと、尾神の「カワバタ」(杉田商店)の父ちゃんや母ちゃんの若かりし頃の姿を見ていますので、よくわかります。

 この日、ふじさんの家にいたのはわずか二〇分ほどでした。読書好きの幸太郎さんが正月休み中、ずっと動き回り、料理までする人だとは思いませんでした。せがれに「足を立たなくさせられた」ふじさん、足が痛かったかもしれないけど、いかったねかね。
  (2015年2月1日)



第341回 危機一髪

 妻から聞いたとき、びっくりしました。柏崎の母(義母)がもう少しで火につつまれるところだったというのです。満90歳、一人で家にいる時の出来事だったので、ぞっとしました。

 この日は私が千葉県での視察を終えて、夕方から長岡市に出かけていました。同じ時間帯、妻も柏崎市にある実家へ車で出かけました。方向が同じなので、帰りは柏崎で合流する約束をしていました。

 すべての仕事が終わっての帰り道、私は柏崎にて仲間の車からわが家の車へと乗り移りました。私が車を運転し始めてすぐ、妻は実家での出来事を話してくれました。

 この日の昼間のことです。義母が台所に立ち、ガスに火をつけたところ、炎がバッと広がったんでしょうね、義母が着ているものに火が移り、袖から肩、背中へと一気に燃えていったというのです。幸い、着ていたものを脱ぐことができ、大事にいたらずにすんだということでしたが、それにしても危機一髪でした。

 数日後、義母や義兄などが長峰温泉ゆったりの郷へ行く途中、わが家に寄りました。今度は義母から直接詳しい話を聞きました。火が移った上着にはボタンがついていて、さっとは脱げなかったといいます。それでも、落ち着いて一つひとつのボタンをはずし、脱いだものは他所に火が移らないようにと、台所の流しの中に入れて消し止めたそうです。「一時はどうなるかと思ったけど、スムーズにボタンが外れてくれて助かった」と言う義母ですが、思っていた以上にしっかりしているなと感心しました。

 話は義母や母のがんばりのことに移りました。二人とも90歳になっているものの、大きな病気やけがをすることもなく、家の中でも外でも仕事をしてくれています。わが家ではいまでも畑仕事は母の担当です。みんながたいしたもんだとほめるものですから、二人はずっと笑顔でした。笑わない顔に戻ったのは、物忘れがだんだんひどくなっていくという話になった時くらいなものです。義母は、「督促状をもらっていながら、また払うのを忘れちゃうんだよね」と言ってまた笑いました。

 義母などがわが家へやってきた日、母は沢庵と白菜の漬物、それに八つ頭の煮物を用意していました。このうち、沢庵がとても好評でした。義兄などが次々と食べ、残ったものは家に持って帰ろうと言いだしました。いうまでもなく、母は上機嫌でしたし、残ったものは持ち帰ってもらいました。

 よほど漬物の味が気に入ったとみえて、話題は漬物のことに集中しました。二人の母はどんなふうに漬けているか、それぞれ語ってくれました。「ええっ」という声が上がったのは漬物の重しの話になった時です。二人ともたいへんな力持ちだったんですね。母は若い頃、40`からある石を漬物桶から出し入れしていたというから驚きました。もっとも、年をとってからは石は軽くなったようですが……。義母も最近まで10キロもの石を使っていたということでした。

 話を戻しましょう。ガスの火でとても怖い思いをした義母は、その日、家に戻ってきた義兄が「あわや火事に」という話を聞いて、「何をやっているんだ」と怒るかも知れないと心配していたようです。でも、ガスの火が衣類に移って焦がしたことを伝えたとき、義兄の口から最初に出た言葉は「大丈夫か」でした。義母は妻に言いました。「とてもうれしかったさ」と 。
  (2015年1月25日)  



第340回 めんぱ

 ひょっとしたらこの人は国定忠治の生まれ変わりなんじゃなかろうか。そう思ったのは牧区でラーメンを食べている時でした。越後の米はうまい、長野から嫁いできた人が多いなどといった話を、俊一さんはそれこそ忠治親分のしゃべり方で続けたのです。

「塩の道だこてねー、人のつながりは……。嫁さん、ここら、みんな長野の人だねかね。みんな白いまんまにあこがれてさ……、まさにまんまだ」

「忠治親分のしゃべり方」と書きましたが、親分の話を聞いたわけではありません。でも、こんな調子だろうなというイメージをずっと前から私は持っていました。人懐こさときっぷの良さがあり、「ついてこい」と言われれば、ついて行きたくなるようなしゃべりです。俊一さんのしゃべりにも同じ要素がありました。俊一さんの話は続きます。

「荷そってって、宿の家で昼をとらしてもらうわけだ。おかずといったって沢庵か塩辛だ。『めんぱ』のフタ開けると白いまんまががっちり入っていてさ。長野んしょとこには白いまんまなんかないすけ、みんなあこがんちゃって。越後へ行けや、朝から白いまんま、食われるんだどと言われりゃ、そりゃ、おまん……」

 俊一さんは話の中で「めんぱ」という言葉を繰り返し使いました。白いまんまの入った「めんぱ」と言うからには、「めんぱ」は明らかに弁当箱です。どうやら、薄い木の板をまげて作ったものらしい。金井旅館にはたくさんあったものだと言います。私もどこかで一度は見たことがあるような気がしました。でも、「めんぱ」と呼ぶ弁当箱は初めて耳にしました。

 俊一さんの言う「塩の道」というのは柿崎から吉川の大正屋の前を通って、朔日峠(ついたちとうげ)、浦川原、牧、そして長野へと生活物資を運んだ道のことです。いうまでもなく、生活物資の中心は塩です。このほかには魚、塩辛、酒なども運んだようです。この道は夏場だけでなく、冬場も使っていたというから驚きました。雪がたくさん積もるところですから、冬場と言ってもある程度、雪が固まるようになる春に近いころの話だろうと思います。20人からの人たちが一列になって荷物を運んでいた姿は力強く見えたにちがいありません。

 びっくりしたのは、牧峠を通る「塩の道」を通じた長野側と新潟側の交流が思っていた以上に深いものだったことです。俊一さんによると、牧峠を挟んで牧区の上牧と飯山市照岡の双方に炭焼き小屋がいくつもあり、そこが交流の拠点になっていたといいます。ふたたび「親分」に登場してもらいましょう。

「ああ、私も白い飯を腹いっぱい食ってみたい。長野のしょのその思い。越後に嫁に来る。ねぇ。うちなんざ全部、長野の嫁さんだ。電話がない時代、どっかのおじいちゃん亡くなったそうだど、どっかのおばあちゃん危ないみたいだなんてね、長野は隣みたいなもんだ。国境なんてなかった。うまいことに炭焼き小屋があってね、そこが情報の中継点になってたもんだ。お互いに山沿いにある。おめ、どうだえ、おら兄もいい年になって女っ子ほしがってるようだ。娘、いい子いねかえ。じゃ、行って聞いてみらなって。次に炭小屋で会ったときに、ああ、あそこにいい子いるわー。その子もはえ、年頃で嫁に行きたがってるわって調子だ」

 俊一さんとの話は30分くらい続きました。「めんぱ」や米づくりなどの話をして、あらためて米の価値、大切さを考えました。今度、「めんぱ」に入ったまんまをみんなで食べて勉強をする会をやりたくなりました。もちろん、講師は「忠治親分」です。
 (2015年1月18日)



第339回 未来への手紙

 12月27日、吉川区内の大勢の人たちのところへ手紙が届けられました。封筒の表には「吉川町閉町記念、未来へのメッセージ」と書かれています。合併の前年の12月に書かれた手紙が10年経って、書いた本人や家族などに届いたのです。

 10年も経てば、たいがいのことは忘れてしまいます。六万部のM子さんのところへ郵便屋さんが手紙を届けたのは午前11時半頃でした。その時、私は栽培された綿の写真を撮っていました。M子さんは、私に封筒を見せ、「『本人より』と書いてあったから、何かと思ったら、おれが書いた手紙だった」と言って笑いました。

 封書の中には紙に書かれた手紙と写真が2枚入っていました。M子さんはまず写真を取り出し、とても懐かしそうでした。写真には2人のお孫さんの姿が写っていたのです。1枚は大きな船の近くでの記念写真。もう1枚はたぶん、家の中でのものでしょう、2人のお孫さんが楽しそうに遊んでいる様子が写っていました。写真を見せてもらった私も、時の流れの速さを感じました。じつはこの孫さんたちの父親は小さなころから知っていて、私は「オッスのおじさん」と呼ばれていたのです。その子が成長し、すでに親になっているのですからね。私も年を取るわけです。

 手紙は大学ノートの1枚を切りとり書かれていました。M子さん夫婦にとって、この年は忘れられない年でした。結婚して30年目の年、長男夫婦は市内の中心部に家を新築、次男夫婦にも子どもが誕生しました。この子の誕生を待つようにして、M子さんのお連れ合いの母親が亡くなったのもこの年でした。そして、10月には中越地震です。

 手紙には、10年後、自分や夫が元気でいられるだろうかと心配する気持ちとともに、子どもや孫たちが大きく成長することを願う言葉が書かれていました。そして、合併に対する不安も記されていました。「なじめるようになるのはいつか」「大きな網にひっかかったこの地域は、いつか取り残されていくのではないか」と。

 泉のΤ子さんのところにも27日、手紙が届いていました。私が見せてもらったのは翌日の28日の夕方のことでした。「どうぞ」とすすめられた豆もちを食べていると、Τ子さんは、「こういう手紙が届いたの」と言って手紙を私に見せ、思い出を一つひとつ紡ぎ出すように語ってくださいました。

 手紙は2004年(平成16)の12月5日に書かれたものでした。手紙を書くことが好きな人らしく、5枚の便箋にきれいな文字で書かれていました。内容はやはりこの年の家族の状況や出来事が中心です。子どもたちの成長ぶりなどを書いた後、実の父親が亡くなった悲しい出来事も書いてありました。Τ子さんは目を潤ませて亡くなった前日のお父さんの様子などを語ってくださいました。気持ちの優しい方ですので、感情を抑えることができなくなったのでしょう。

 Τ子さんは何よりも自分自身が認知症にならないかと心配していました。Τ子さんは、「物忘れはするけれども、まだ大丈夫」とうれしそうに語りました。手紙には10年後までにキョウダイ旅行をしたいという希望も書いてありました。その旅行は昨年7月に実現。旅先の妙高高原の国民休暇村には5人のキョウダイがそろい、おいしい料理を食べ、温泉にも使って楽しいひと時を過ごすことができたとか。よかったですね。

 10年前に出された手紙は未来に向けて書かれたものです。タイムカプセルに保管されていた手紙は、昨年12月26日に郵便局へ持ち込まれました。手紙を受け取った人たちはそれぞれが歩んできた10年間を振り返るいい機会となったようです。
  (2015年1月11日)



第338回 そば打ち体験

 一度はやってみたいと思っていたそば打ちを先日、安塚区で体験させてもらいました。場所は石橋の広宣寺の一室、そば作り専用の厨房です。住職の和喜さんの指示に従い、そばを練る、のす、切るという一連のそば作りの流れをやらせていただきました。

 和喜さんがそばを打ち、販売をしているということを知ったのは数年前です。安塚区にあるラーメン屋さんで食事をしていたときに、「食べてみてください」と渡されたのが、「天女の羽衣蕎麦」という名前のそばでした。たぶん、吉川区中谷内で自然薯を収穫中の和喜さんの姿を私が発行しているビラに載せたことへのお礼だったのでしょう。

 そば打ちに来ませんかと誘われたのは12月の上旬でしたが、実際に訪ねたのはお誘いを受けてから半月ほど経ってからです。ラーメン屋のお父さんから案内していただき、妻とともに、広宣寺を訪ねました。厨房に入ってびっくりしましたね。そばを製造販売しているとはいえ、そばを練る大きな鉢が4つも5つもあったからです。

 鉢についての説明を受けた後、頭にバンダナ風のかぶりものをつけ、そば打ち用の服に着替えて、すぐにそば打ちの仕事に入りました。

 まずはそば粉、小麦粉、自然薯をすったもの、水をよく混ぜて、こねる作業です。 親指で固めるように練り込むんですよ、とアドバイスをもらいながら練っていったのですがなかなかうまくいきません。妻からは「あんたのは練っているのではなく、壊しているんじゃない」と言われる始末です。練るには相当の力がいります。うんうんうなりながら続けました。最後は和喜さんから代わっていただきました。

 素人にはできないと思ったのは水の加減です。和喜さんはほんの少しの水を加えることによって、人間の耳たぶのような弾力性のあるものにしていきました。

 練りの工程の最終段階。コロになったものを回しながら練り込んでいくと、キュッ、キュッという音が出ます。和喜さんは真面目な顔をして言いました。「ここを見ていてください。何かに見えるでしょ。ほら」。そう言われてみると、ペニスの頭そっくりの形ができているじゃありませんか。私からも何か言いたかったのですが、和喜さんはその時間を与えず、「これが上手にできないと駄目なんだよね。話を聞いた女の人もほんとだねというだけど、実際のものを見ているんだろうね、きっと……」と続けました。

 玉になったそばをのす工程も簡単ではありませんでした。最初は手を使ってのし、そば玉を丸い板状にしていきます。「人間は年をとると角がとれて丸くなるけど、そばは年をとると角が出てくるんですよ。角出しって言うんですね。できるだけきれいな円にすると角出しもうまくいくんです」和喜さんにそう言われたものの、なかなかきれいな円にはなりませんでした。

 そしてのし棒を使っての作業、5ミリほどの厚さになったそばを2ミリ以下の厚さにのしていくのですが、途中で破れてしまうのではないかと、とても緊張しました。のして、のし棒に巻く。巻いたものをさらに薄くするために力を入れてのしていく。そばを巻いた棒を引く時にはスーッという音がします。スッスッスッ、トントントン。リズム感のある音がいいなと思っていたら、のしていくときに香りが漂っていることに気づきました。おいしそうなそばの匂いです。うれしくなりました。

 のしたそばはその場で切って、パックに入れて家に持ち帰りました。家でゆでてもらい食べたとき、のしていたときそのままの香りが残っていて、じつに美味しかったです。和喜さんのお蔭で、自分で打ったからこそ味わえる喜びに浸ることができました。
  (2015年1月5日)




第337回 父の木工作品

 金曜日でした。地域協議会の忘年会があるというので、妻に送ってもらい、指定されていた時間よりも15分ほど早く会場の割烹に着きました。たぶん会議がまだ終わっていなかったのでしょう、宴会が行われる一番大きな部屋にはまだ誰一人来ていませんでした。

 手元には新聞も本もありませんでしたので、カラオケの道具や床の間に飾ってあった置物をゆっくりと見て過ごしました。そのなかで私の目を引いたのは、木の根っこを使い、制作した木工作品です。武士のような姿の人間が何かの動物の背中に乗り、手綱を引いて、敵を追いかけているといった感じの置物でした。置物の台は木の根元部分を輪切りにしたもので、その磨き方が何となく父の作品に似ているなと思いました。

 しばらくしてから女将さんが来られ、「おばあちゃん、元気でいなったですか」と声をかけてくださったので、少しの時間、家族の話をしました。じつはこの割烹のおばあちゃんも母と同じ日曜日に区内のデイサービスに通っておられるということを母から聞いていたのです。双方の母親の物忘れの程度やこの割烹のおばあちゃんが若かりし頃、山間部まで出かけて料理をされていたことなどで話がはずみました。

 話の途中で、「床の間にある木の置物はひょっとすると私の家のおやじが作ったものではないでしょうか」とさりげなく訊くと、「そうです」という言葉が返ってきました。心の中ではそうではないかと期待していたのですが、間違いなく父の作品であることを知って一気に胸が熱くなりました。頬をゆっくりと下る涙を私は女将さんに気付かれないようにそっと指先で止めました。

 私の父は一時期、こうした木の根などを使って何かを制作し、楽しんでいたことがありました。私の記憶では、八王子市の小澤酒造場という名の造り酒屋に出稼ぎに行き、「桑の都」という銘柄のお酒を造っていた時期だったと思います。出稼ぎから戻ってくる時、父は、関東方面で買い求めたいろんな形、大きさの鑿(のみ)、カンナ、磨きの道具などをたくさん持ってきました。そしてその年の春から、川で拾ってきた木の根などを活用して作品づくりを本格的に始めたのです。

 制作の場は牛舎とつながっている車庫です。父は雨で外作業ができない時だけでなく、晴れていた時であっても時間を見つけては集めてきた木の板や根などを削ったり、磨いたりしていました。ある程度できてくると、台づくりをし、最後の仕上げ、塗りの作業をやりました。材料集めから塗りまで全て自分の手でやっていたのです。

 割烹にある作品をじっと眺めていたとき、ふと思い出したのは、父が制作した置物の台づくりの場面でした。台の平らの部分と他の部分の境目を丸く磨くのが父の作品の特徴のひとつだったのですが、じつは、父が制作しているところを見たとき、私は、境目は丸くしないで、境目のラインがはっきりしていた方がいいと思っていたのです。それを言っても、頑固な父は私の言うことを聞いてはくれまいと思っていましたので、何も言わないでそのままになってしまったのですが……。

 出来上がった木工作品はわが家の玄関や廊下などにいまも置かれています。作品の一部は親戚の家や付き合いのあった商店などにも置かせてもらったようです。ここ1年ほどの間にも、大潟区に住む従兄妹の家や吉川区内の伯母の家などで見かけました。でも、まさか忘年会の会場で父の作品と出合うことになるとは……。私は父と再会したようなうれしさを覚えました。
  (2014年12月28日)



第336回 ソリ遊び

 宣伝カーが春日新田から川原町へと入り、関川沿いの市道を北の方へと進んでいる時でした。左側前方の堤防の向こうで子どもたちが盛んに手を振ってくれています。薄暗くなりかけていた時間帯ではありましたが、その姿はハッキリと確認できました。

 この日の夕方、直江津の空は雪雲で覆われ、鉛色でした。でも、堤防の雪は街灯に照らされていて真っ白です。宣伝カーの音を聞き、白くなった堤防の一番高い、平らなところへ飛び出してきたのは、4、5人の子どもたちでした。大きな音に喜んでのことだとは思いますが、私にはそれだけではないように思えました。ニコニコしていて、とても楽しそうなのです。よく見たら、黄色のソリを持っている子どもがいました。そうです、子どもたちはソリ遊びの真っ最中だったのです。

 宣伝カーは演説をするためにスピードを落とし、公園と思われる場所のそばで止まりました。子どもたちが遊んでいた場所のずっと奥の方には、荒川橋の灯りが点々と見えます。荒川橋と子どもたちの遊んでいる姿の組み合わせがとても素敵でした。私は急いでカメラを向けました。暗くなりかけた頃だったので子どもたちの顔は見えませんでしたが、元気に手を振ってくれている様子を写真におさめることができました。

 演説の出番が終わってから、のぼり旗などの片付けをするちょっとの時間、私は堤防まで上がってみました。すでに子どもたちの姿はありませんでした。でも、子どもたちの足跡はちゃんと残っていました。月夜のウサギの足跡と同じように、あちこちへ行ったり来たり、歩いたり、走ったり……。足跡を見ただけで子どもたちがどんな思いで遊んでいたかはだいたいわかります。

 この足跡を見たとき、子どもはいつの時代もみんな同じなんだなぁと思いました。  じつは、先日、私の仕事場の片付けをしていてわが家の子どもたちが牛舎で遊んでいる写真を見つけました。写真は30数年前のものです。牛舎の屋根から落ちた雪は三bほどの高さになっていて、それを利用して長女と長男の二人が仲良くソリ遊びをしています。赤いソリを持って、一番高いところへ急いで駆け上がる長女とそれを追う長男、長女と長男が交替でソリを操作している様子などが写っていました。

 そうそう、子どもたちが遊んでいる場所から10bほど離れた道を母が歩いているところも入っていましたよ。水色のアノラックを着て、背中には小さなバッグがちらっと見えます。何かをかついでいるようでした。たぶん、子どもたちのために美味しいものを作って食べさせようとしていたのでしょう。子どもたちがソリ遊びをしていることを母が知っていたかどうかはわかりませんが、子どもたちの遊ぶ声や姿を確認できて、いかにもうれしそうでした。

 堤防へ上がったとき、特急「はくたか」が鉄橋を渡り、越後湯沢に向かって走っていく姿も偶然見ることができました。鉄橋を渡る時の音とともに、車両の明かりが次々と動いて行く様子がとても新鮮で、私も電車に乗って遠くへ出かけたくなりました。それにしても、直江津駅を出たばかりなのに特急の電車ってずいぶん早いんですね。しっかりとカメラを向ける余裕がありませんでした。

 ソリ遊びをしていた子どもたちの姿を見れたのはほんのいっときでした。でも、この日、雪の中で遊ぶ子どもたちの姿に出合ったおかげで、とてもいい気分にひたることができました。昔も今も、雪国の子どもたちにとって雪は天からの贈り物です。子どもたちは、どんな時でも、雪の中で楽しく遊んじゃいます。いいですねぇ。
  (2014年12月21日)



第335回 宝探し

 師走は本格的な掃除や片付けをする人が多いのではないでしょうか。私の場合、たいしたこともしないで年を越すことが多いのですが、今年は別です。私の仕事場を移転することに伴い、机の回りや本棚などの整理をどうしてもやらなければならないのです。

 議会や選挙戦の合間を縫って、少しずつ整理をしていこうと始めたものの、その少しずつという時間がなかなかとれません。そもそも、整理整頓が苦手な私は、片付け仕事のエンジンがなかなか、かからないのです。

 その結果、このままのペースでやっていくと人様に迷惑をかけることが間違いないところまで追い込まれてしまいました。そこで、大雪となった日の夕方、思い切ってまとまった時間をとることにしました。

 じつは、きっかけとなったのはテレビです。この日の朝、テレビで上手な片付け方について放映していたのをたまたま見たのです。ちょっと見ただけでしたが、片付けについて詳しい女性の、「宝探し」をやる気持ちでやるのが大事です、という言葉が印象に残りました。そうだ、おれも本格的にやれば、いままで失くしたと思っていたものなどいいものを発見できるかも知れない、そう思ったら、何か吹っ切れたのです。

 最初にとりかかったのは膨大な資料です。一度見れば二度と見ることのないもの、大事だと思われるものであっても電子データがあるものなどが山となっています。今後の活動に必要で、今後、簡単には手に入らないものを最優先して残し、あとはどんどん紙ひもでしばっていくことにしました。こうしてしばった資料は2時間ほどの間に5、6個できました。

 人間というのはおもしろいもので、自分のやってきた仕事をしっかりと目で確認できると前に進みやすくなることがあります。山登りで言えば、途中で下界を見て、「ここまで来たのか、じゃあ、もう少し上まで登ってみよう」というあの気分です。紙ひもでしばった資料はさらにどんどん増え、十数個になりました。ここまで来ると、しばったものが増えること自体がなぜかうれしくなります。

 片付けを初めて4時間ほど経った頃だったと思います。2枚の原稿用紙のコピーが出てきました。2つとも中身は同じです。四百字詰め原稿用紙に書かれていたのは、「三ころ突」という題名の酒造り唄でした。「御じじ何処きゃるこららのや 御主父の代から三代伝わる桐木どーらん 菜っ葉にはぜ飯 御母の分迄てっちり詰め込み 裏の板山へこらやのや 芝刈りに」が1番です。2番も書いてありました。いずれもボールペンで書かれたくせのある文字で、一目で父が書いたものだとわかりました。

 原稿用紙に書かれたものは20年ほど前に私が父に頼んで書いてもらったものです。長年酒屋者に行くなかで、誰かが歌っていたものを覚えたのでしょう、父は祝いの集まりなどで好んで歌っていました。何度か父が歌うのを聴き、唄の文句はよそでは聴くことができないものだ、これは絶対残しておかなければと思い、父に頼みました。ですから、失くしてはならない宝物でした。ところがその後、一度だけどこかで見かけたものの、原稿はずっと行方不明のままなのです。

 今回、見つけたものは父が書いた原稿のコピーです。コピーが残っていたということはその原本もどこかにあるはずです。片付け仕事はこれからまだしばらく続けなければなりませんが、宝探しはまだ道半ばです。父の匂いがそのまま残った生の原稿に再び出合うことができるかどうか。
 (2014年12月14日)



第334回 チョウチ

 言葉って、おもしろいですね。もう何十年も使っていなかったのに、突然、口から出てくることがあるのですから。

 先日、直江津の石橋にある食堂で定食を食べて、3人の女性とおしゃべりを楽しんでいる時でした。旧源小学校水源分校への通学路がどこをどう通っていたかの話になり、「チョウチの杉林を通って『いずみや』(屋号)の脇に出た」と私が言ったところ、一緒にいた人たちがいっせいに、「チョウチかぁ、なつかしいねぇ」と言いました。チョウチというのは地名です。私も自分で言いながら、突如、この言葉を使ったことに驚いたくらいです。

 この日は午前に会議があったのですが、11時半頃には終わったので、いつもよりも早い時間帯に食堂へと出かけました。入り口のドアを開けて、食堂の中に入った時にすぐ目に入ったのは食事をしているハナコさんの姿でした。大きな目をして、私の顔を見てびっくりしています。ハナコさんの隣には、「よごべ」(屋号)のカズコさんがいて、その横には「となり」(屋号)のミヨコさんの姿もありました。

  「あら、知らん人ばっかだね」と声をかけると、「おまん、どうしなったが」と訊かれました。お昼休みの時間ではないので、市役所から離れた食堂に何か別の用事でもあったのだろうと思ったのでしょうね。「おれ、お昼は時どき、ここんちにお世話になってるの。でも、きょうのような時間には来ないけどさ」と答えました。

 3人の女性は現在、市内各地にばらばらに住んでいますが、いずれも吉川区尾神の出身です。それに食堂を切り盛りしているセイコさんも、私もそう。それにしても、まさか食堂でこんなふうに出会うとは……。もし、会議がもう少し遅くまで続いていれば、この食堂には行かなかったでしょうから幸運な再会でした。

 さて、分校時代の通学路について話を戻しましょう。当時、わが家は同じ尾神地内であっても、標高が低い蛍場という小字にありました。蛍場は「ほたるば」または「ほとろば」と読みます。そこに8軒の家が集まっていました。近くに釜平川という小さな川があります。蛍場の子どもたちは水源分校まで約1`bの距離を歩いて通いました。

 蛍場のほぼ中心部から幅が2bあるかなしかの狭い道が高い方に伸びていました。それが私たちの通学路だったのです。最初は急な坂道になっていて、砂利ひとつ敷いてない「べと道」でした。途中、林の中を掘り割って道がつくられたところでは、岩肌が出ているところがあり、よく滑って転びました。

 通学路のほぼ真ん中にあたる場所が通称「チョウチ」と呼ばれた場所でした。近くには田んぼや畑があり、尾神で3番以内に入る立派な杉林がありました。そして、陽のあたる南側には大きな梨の木が一本ありました。食べ物に不自由していた時代でしたから、この梨の木への関心は高く、「いつ食べられるようになるか」を近くに住む子どもたちはみんな考えていました。というわけでチョウチは、そこで遊んだことのある人間にとっては忘れ難い場所だったのです。

 食堂に集まった尾神出身の人たちは、食事が終わってからもコーヒーをいただきながら、「子どもの時には尾神のしだれ桜に気付かなかった」とか、「山菜採りに行ったら、だれだれに叱られた」などと時の経つのを忘れて懐かしい話を続けました。

 チョウチ。この日はこの地名を使ったことにより、幼少年時代を過ごしたふるさとが自分の心の中でいかに大きな存在であるかを改めて知る機会となりました。
  (2014年12月7日)



第333回 初雪の後に

 頸城三山、鍋倉山、菱ヶ岳などが白くなりました。先日、板倉まで行ったついでに光ヶ原高原まで登ってきました。もちろん、歩いて行ったわけではありません。車で訪ねてきました。

 この日、光ヶ原へ行きたくなったのは、自然の中にある美しい風景を撮りたいと思ったからです。じつは、私よりも先に初雪後の光ヶ原高原を訪ねた人がいました。日頃お世話になっている地元のKさんです。Kさんは見事な写真を毎日のように全国に発信されています。初雪が観測されたその日も高原に行き、妙高山をバックに雪がうっすらと積もった畑の風景や冷たい雪の中の草花などを撮り、発信されていました。

 宮嶋小学校近くの交差点から達野を通って上関田、そして光ヶ原へと続く道を進みました。この日はあいにくの曇り空でしたが、あちこちで素敵な紅葉を見ることができました。特に達野から下関田の間と上関田の集落の最上部周辺が美しく、何枚も写真に撮りました。

 上関田からは一気に標高が高くなります。道路脇の木々や草花を見ながら、ゆっくりと車を進めました。トキワイカリソウの葉が白っぽくなっています。春の早い段階から芽を出すヨモギがまだまだ元気で、ところどころに緑色のかたまりをつくっていました。ひときわ目立つのはヤマウルシの葉です。赤くなった葉がとてもきれいでした。

 かつて牧場であったところまで上がってから、カメラを手に持って車を降りました。積雪は2、3aといったところでしょうか。長靴を持参していなかったので、なるべく地面の固そうなところを歩きました。

 最初に向かったのは新井さんや中島さんの畑です。今年のお盆直後に視察させてもらい、畑の美しさを確認していましたので、初雪後の様子を自分の目で見てみたいと思っていました。

 そば畑が広がったところへ行き、「うわー、いいなぁ」と思いました。雪があるなかで、そばを刈り取った跡がスジ状になっていて、しかも大規模な美しい模様をつくりだしていたのです。目の前に広がる風景に圧倒され、何度もシャッターを切りました。この日撮った写真の中では、一番気に入ったものとなりました。

 広い畑の中央部の道は車で走ってみました。本当は歩きたかったのですが、みぞれになってきたので断念しました。この道には30数年前、わが家の牛たちを放牧させてもらった時とまったく同じ風景が残っています。砂利道は車の轍(わだち)がずっと続いています。牧場へ牛たちをつれてきた時に軽トラの荷台に乗せてもらった記憶がふとよみがえりました。懐かしさに押されてここでも写真を撮りました。

 光ヶ原高原の北側の道で、再び車を降りました。降りたのは、遠くにうっすらとではありましたが、尾神岳や黒姫山などが見えたからです。

 高原からの道を下りていくときも道路脇の野の花が目に入りました。オトコエシはまだ小さな白い花を咲かせていました。花は散ったものの、花の形状が残っていて、明らかにシラネセンキュウだということがわかるものもありました。

 車を2分ほど走らせたところで、みぞれがひどくなってきました。もう花を見るのも終わりだと思っていたら、黄色の花が私の目に飛び込んできました。メマツヨイグサです。茎の回りを冷たい雪に囲まれていながらも、花をちゃんと咲かせている、その姿に感動し、カメラを向けました。いよいよ冬、花たちに負けずに頑張りたいと思います。
  (2014年11月30日)



第332回 飛び出し芋

 一瞬、耳を疑いましたね。「飛び出し芋」という名前を聞いたときのことです。あまりにもどんぴしゃりの名前なので、それこそ「適当」に付けたのではと思ったのです。でも考えてみれば、まさに適当な名前でした。皮の一部をちょっとだけむいて、手で押し出せば、ぐにゅんと芋が出るんですから。

 一晩中、雷と雨が賑やかだったときの翌日、私は青野十文字近くの広場で偶数日に開催されている青空元気市に寄ってきました。駐車場に入った途端、この市のリーダーである徳治さんの目に私の姿が入ったようです。お互いに手を上げて挨拶しました。

 この日は仕事がたまっていて、あまり時間がなかったのですが、虫が知らせたんですね、美味しいものがあるよってね。徳治さんに、「まあまあ、お茶飲んでいきない」と誘われて細長い販売テントの中央部にあるテーブルのところに行くと、すでに二人のお客さんが座っていました。

 私が座った椅子のすぐ前にあるテーブルの上には、サトイモの親芋のまわりにできる小さな芋の子、白菜とニンジンの浅漬け、カブの酢漬け、そして味実菜を漬けたのでしょうか、漬け菜がのせられていました。

 みんな美味しそうなのですが、すぐに手を出したくなったのは芋の子でした。「これっ、おまんた、どう言っていなる」と訊くと、徳治さんのお連れ合いが、「飛び出し芋」と言われたのです。それを聞いた私が「えっ、飛び出し芋ー、おもしい名前だね、おらんとこは芋としか言わないで」と言ったら大笑いになりました。私の口からとっさに出たのは「芋」でしたが、わが家では本当は「いもんこ」と呼んでいました。

 驚いたのは名前だけではありません。この芋を食べる際に、醤油、あるいはワサビ醤油をつけて食べるというのです。わが家では何もつけないで食べていますし、何かをつけて食べるという話は、私の周りではこれまでひとつも聞いたことがありませんでした。所変われば品変わるとはよく言ったものです。

「飛び出し芋」を食べ、お茶を飲んでいるときも、お客さんが次々とやってきます。徳治さんのお連れ合いが誰かに「お茶飲んでいかんかね」と声をかけたら、それに反応して、「おまんの顔、見に来たがど」という言葉も聞こえてきました。

「こうやって知ってる人と顔を合わせて話できるのが最高だね」と私が言うと、徳治さんは、「市をはじめたのはそういうのが目的さ。こういうことやらんと高齢者は力出ないんだよね。いまじゃ高齢者が押し車押して朝の八時半にはやってくる。みんな楽しくってしょうがないって顔してるよ」と言いました。徳治さんによると、近所の高齢者のみなさんに「なんでもいいから持ってきて」と言うと、めずらしいもんを作って持ってきてくれるということです。

 青空元気市では地場産の野菜、食べ物、洋服をはじめいろんなものが並びます。この日、私は、三和区越柳のMさんから孟宗竹の枝に布で作った花を咲かせたものや最近流行の「九南猿(苦難去る)」の手芸作品について楽しい説明を聴いた後、安塚区二本木の「かきもち」や石橋の「中華まんじゅう」を買ってきました。

 この日は時折アラレ混じりの雨が降る寒い日でした。でもテントの下では笑顔や笑い声が絶えませんでした。私は芋の子を三個もいただきました。漬物は味が良かったから、私がいなくなってからもどんどん減ったことでしょう。青空元気市へ行くと体の中から次々と元気が飛び出してきますよ。一度、出かけてみませんか。
 (2014年11月23日)



第331回 小春日和の日に

 小春日和のある日、母は居間の南側の廊下で日向ぼっこをしながら黙々と柿の皮むきを続けていました。よほど集中していたのでしょう、私が近くで咳をすると、「おおっ、とちゃか」と言って驚きました。

 柿は牛舎の近くにある八珍柿です。忙しく動いているから私に声をかけてもだめだろうと、母は大潟区に住む弟に頼んでもいでもらったようです。すでに皮むきが終わったものは細い縄にくくりつけ、二階の窓のところにつるしてあります。この日、皮むきしていたのは、そのときの「残りもの」でした。やわらかな陽射しのなかで、母は細い目で柿と包丁を見つめ、「干せばうんめし、もったいないしなぁ」と言いました。

 私はこの日、地元にいる時間がけっこうあって、お昼前にいったん家に戻りました。

 じつは私には母に訊いてみたいと思っていたことがありました。「春よ来い」に「食いっからし」のことを書いたことをきっかけにして、大島区岡のテエ子さんと母と板山の伯母の家に集まって三人でお茶飲みをしようという話が持ち上がり、先日、三人が寄ったのです。その様子を訊いてみたいと思っていました。
「おまん、この間、板山へ行って来て、いかったかね」と訊くと、
「いかったよー、かちゃが伊作からごっつお取ってくんなったし、杉(屋号)のかちゃからもまるっこい、そいもんもらった……」と言いました。
「丸っこい、そいもん」というのは何かと思ったら、コタツの上に置いてあった丸い入れ物に入った奈良漬でした。

 笑ってしまいましたね。いかったかどうかの一番先に食べ物のことを口に出したからです。このところ、母は美味しいものがあれば、次々と食べてしまいます。

 母が板山の伯母のところへ行ったのはほぼ一年ぶり、岡のテエ子さんに会ったのは数十年ぶりだったようです。

 七人姉妹の中で生きているのは母と伯母、会った時に気になるのは健康状態です。母は、「板山のばちゃ、しっかりしていたよ。小姑だったテエ子さんから毛糸で編んだいい靴下はかしてもらって、ぽんぽんとはいていた」と伯母の様子を教えてくれました。

 九〇歳の母は時どき、私にはわからない自作の言葉を使います。それも世間でごく普通に使われている言葉のように使うのです。でも今回の「ぽんぽんとはいていた」という言葉からは、伯母がうれしそうな表情で靴下をはいている光景が目に浮かびました。

 テエ子さんとは数十年ぶりに再会でき、とても懐かしかったらしい。「テエ子さんにはへさで会った。あの人、岡村のいい家にいなんがど。『おまん、ちっとも変わらんの』と言わんたすけ、『なして、顔かくさんきゃならんようだ』とオラ、言ったがど」と話してくれました。テエ子さんとその後、話がはずんだことが想像できます。

 三人がお茶飲みをしたのは伯母が寝起きしている部屋です。板山のかちゃやシュウジさん、それに、近所の、目のくりくりしたおばあちゃんと一緒に楽しいひと時を過ごしたようです。たくさんしゃべり、食べ、伯母の家で食べきれなかったものはお土産にもらってきたとか。

 私が再び外へ出ていく時間になった時も母は柿の皮をむき続けていました。私が立ち上がると、母は柿を見つめながら、「板山のばちゃ、別れ際にサイナラと言ったら、オレの手、しっかかんとおさくがど。まんで手に力ある。力あればまだ大丈夫だ」そう言ってフフフと笑いました。
  (2014年11月16日)



第330回 小さなドライバー

 たった1個の小さなドライバーでも人生に大きな影響を与えることがあるんですね。先日、東京吉川会で再会したMさんから旧吉川町時代の、それもかなり遠い日の思い出を語っていただき、心を動かされました。

 Mさんの実家は旧吉川町立竹直小学校の入り口付近にあるお店です。いまから50年程前のこと、Mさんは小学校の北側に住んでいたNさんから小さな段ボール箱をもらいました。この箱はNさんの息子のFさんが就職するにあたって、家に置いていったもので、中にはラジオの部品などが入っていました。

 Nさんからは、「おまんの趣味に合いそうなものもあるから、みんなあげる。いらんかったら捨ててくれ」と言われたそうですが、箱の中にはMさんが「これはすごい」と思ったものが入っていたのです。それは手づくりの小さなマイナスドライバーでした。

 このドライバーは針金を加工して主軸をつくり、桐の木の小さな枝を使った柄で支えられていました。Mさんが目を見張ったのは、主軸が柄の中で空回りしないようにと、柄にブリキ板をくぎ打ちし、その板に主軸をはんだ付けしてあったところでした。Mさんは、この空回り防止の知恵に驚き、宝物を手に入れたと思ったそうです。

 小さなドライバーを手にしたMさんは、その後、「何事でもよく考え、より良い方法はないものか」を探る精神を大事にするようになったと言います。親しくしていた人が作ったということもあるでしょうが、小さなドライバーにこめられた見事な創意と工夫を人生の指針のひとつにしたのです。

 東京吉川会の総会と懇親会は毎年11月上旬に行われます。Mさんは今年の総会をめざして、50年ほど前に手にした小さなドライバーを複製しました。Mさんはこの複製品を東京吉川会の会場でFさんに渡そうと思ったのです。Mさんは自宅の庭にある木の小枝、クリ―ニング屋さんの針金製ハンガー、焼き海苔の空き缶などを材料にして、Fさんがドライバーをつくっている情景を思い起こしながらつくったと言います。

 私がMさんからこのドライバーの話を聞いたのは懇親会の後半になってからです。

 MさんのテーブルにはMさんの同級生だという国田出身のAさんやKさん、原之町出身のYさんなどがいて、私がこのテーブルの人たちのところへ挨拶に行った時には、楽しい会話の真っ最中でした。Mさんは私の顔を見るとニコニコしながら、カバンの中からA4サイズのファイルにとじられた「散遊記」を取り出し、「読んでみてください」と渡されました。そして、突然、決意したように、もうひとつ、白い封筒を取り出したのです。「これも持って行ってくんない」そう言って渡された封筒はカレンダーを再利用したもので、その中には複製した小さなドライバーとともにFさんにあてた短い手紙も入っていました。

 じつはこの日、Fさんは参加されていなかったのです。Mさんは私に渡してくださった古利根川や綾瀬川などの川辺を歩いた自らの記録、「散遊記」については少し説明しただけで、ドライバーを複製するにいたったこれまでのいきさつをゆっくり語ってくださいました。それだけ、このドライバーにたいする思いが強かったのでしょう。

 複製された小さなドライバー、軸の長さは約10センチ、直径2センチほどの小枝の軸受にしっかりはんだ付けされていました。軸の先っぽは巾3ミリのマイナスのドライバーですが、Mさんの人生には大きなプラスになりました。私の推測ですが、Mさんは多分、今頃、Fさんへ贈る複製ドライバーをもう1個制作されていると思います。
  (2014年11月9日)



第329回 天使とともに

 正直言うと、昨年の甥と同じ場所で姪が結婚式をやって何かいいことがあるんだろうかと思っていました。それがね、いいことがいっぱいあったんですよ。考えてみれば、結婚するカップルが違う人間なんですから、当然と言えば当然なのですが……。

 結婚式の当日、大潟区の、ある割烹のマイクロバスで長野県飯縄町にあるワイナリー(ワイン醸造所)に向かいました。出発はわが家でした。昨年の場合は大潟で新郎の友人が大勢乗ったのですが、今回は直江津駅前で新婦の友人と思われる三人の若い女性が乗っただけで、親戚の者がほとんどでした。

 マイクロバスの中では、新婦の父親が今回もまた、バタバタと動き回っていました。「白い吊りバンド、ねじれているよ」と誰かが指摘すると、「すいません、私、目立ちたがり屋なもんで…」と言って、みんなを笑わせていました。しかし、いくら目立ちたがり屋でもバスの中の主役にはなれませんでした。じつは数ヶ月前に生まれたばかりの甥の赤ちゃんが乗っていたのです。名前は新(あらた)くん。赤ちゃんとは思えないくらい落ち着いた顔をしていて、いい子になっているものですから、「あら、大人になってる」などと言われ、みんなの注目を浴びていました。

 この日は秋晴れ、青空が広がり、ワイナリーがあるサンクゼールの丘では収穫期を迎えた赤や黄色のりんごがキラキラと光っていました。今回も結婚式はワインを醸造する建物の近くの広場で行われました。大きなケヤキの木の下に教会と同じような配置で椅子が並べられていて、バージンロードには白いバラの花が敷き詰められていました。

 私の胸にぐっときた場面の1回目は弟とともに新婦が歩いてきたときにやってきました。新婦の祖父にあたる直江津のFさんが「美里、おめでとう」と声をかけると、新婦が小さな声で「ありがとう」という言葉を返したのです。声は小さくても感謝の気持ちがいっぱいつまっていたのがよくわかりました。Fさんには子どものころからずっとお世話になってきたのです。

 結婚式が順調に進み、新郎新婦が指輪を交換する場面になって、私の前方に白いドレスを着せてもらった赤ちゃんがいることに気づきました。バスの中で甥の子どもをずっと見てきたので、最初は新くんかと思ったのですが、いつの間に来ていたのでしょう、今年の1月に新郎新婦の間に生まれた「いつき」ちゃんだったのです。

 記念撮影の場面からは「いつき」ちゃんが加わって、結婚式は一段と盛り上がりを見せました。かわいいドレス姿で新郎に抱かれ、新婦と3人でいると、「いつき」ちゃんはまさに天使のようでした。参列者の心がぐんぐん熱くなりました。

 新郎新婦とも友人がいっぱいいます。結婚披露パーティでは、挨拶で「芸能界」からの出演があったり、外国に住む友人がスライドを送ってくれたりするなど素敵な会になりました。新郎が夕焼けを見ながらプロポーズしたってのは初めて聞きました。

 言うまでもなく、「いつき」ちゃんは式だけでなく結婚披露パーティでも注目されっぱなしでした。パーティ会場への入場は新郎の腕に抱かれていて、大きな拍手を浴びましたし、「いつき」ちゃんとの記念写真を撮る人が何人もいました。

 私はこれまでも10数回の結婚式に出てきていますが、新郎新婦の子どもと一緒の結婚式は初めてでした。帰りのバスのなかでは「いつき」ちゃん、新くんと一緒です。「いつき」ちゃんは私と目が合うとニコッとしてくれました。天使と一緒の結婚式、いい思い出になりました。
  (2014年11月2日)



第328回 顔こしらい

 「ちょっとばかでも入っていかんねがか」とKさんにうながされ、居間に入らせてもらったのは稲刈りがほぼ終わった秋のある日のことでした。一度は「忙しくてね」と断ったものの、Kさんのあまりにもさみしそうな顔を見て考え直しました。では、10分だけ上がらせてもらおうと……。

 じつはKさんは、この日の前日から2度も私のところに電話をかけてきていました。携帯ではなく普通の電話ですので、たいがいは留守です。留守電の内容は忘れてしまいましたが、たしか、「おれだでもさあ、おまんちょっと来らんねぇ……」といった調子で録音されていました。この日は、顔だけでも出しておかないと悪いなと思い、早めに訪問したのです。

 居間に入ると、すでにコタツが出ていました。コタツの上にはティッシュボックス、公告の紙を利用して作ったゴミ入れ、テレビのチャンネルを選ぶコントローラーがおいてあります。そして真ん中には半月型の大きな皿があり、その中にはカブ、キュウリ、シロウリの漬けものが載せてありました。漬けものが大好きな私にとっては、手を出したくなるものばかりです。

 コタツの上のものを見ていると、Kさんは、「いま、顔、こしらったとこんが。女だすけ、一度はぬったくらんきゃならんがど」と声をかけてきました。一瞬、「顔、こしらった」ってなんだろうと思ったのですが、Kさんの顔を改めて見て、すぐにわかりました。額やほっぺたがつやつやしていたからです。化粧をすることを「顔こしらい」と言っていたのです。

 私も普段、「こしらえる」という言葉を耳にすることがあります。「うんめもんをこしらえる」とか「こしらえ話だこて」といった形で聞くことがありました。でも、「顔をこしらえる」って使い方は男だったからでしょうか、これまで聞きませんでした。

 どうあれ、「顔こしらい」とはどんぴしゃりの表現ですね。鏡を見ながら、地の顔に化粧水やパウダー、クリームなどを塗って見事に美しい顔に仕立て上げていく様子が目に浮かびます。私の周りの男性の中には、化粧することを「壁ぬり」という言い方をする人がいますが、「顔こしらい」の方がきれいになるイメージをいだかせてくれます。

 こしらったばかりのKさんの顔はほぼ四角でした。眉毛は薄く、ほとんどありません。ひょっとすれば、眉をひく一歩手前だったのでしょうか。眉の下にある目は落ち着きがあって、やさしく光っていました。いつも目にしていた額の深い皺もあまりデコボコが目立ちません。うまくこしらえたものです。

 この日、目の前に出された漬けものに舌鼓を打ちながらKさんとのおしゃべりを楽しみました。漬けものはおいしくても、ご飯などと一緒でないと、たくさん食べられるものではありません。何回も「もっと食べてくんない」とうながされたので、「今度、来るときはお昼のまんまどきだな」と笑いながら言ったら、Kさんもまたアハハハと大笑いしました。

 Kさんは今年の1月で満80歳になりました。Kさんのお宅は私の幼友達で東城町に住むHさんの親戚筋にあたります。そんなこともあって、数十年前から付き合いをさせてもらっていますが、Kさん自身、気さくな人柄で、しかも話好きな人ですので、1年に何回もお茶をご馳走になっています。この日も10分のつもりが30分にもなってしまいました。でも、おもしい話を聴かせてもらい、いかったです。
  (2014年10月26日)



第327回 義母からの電話

 びっくりしました。「母が電話かけてきて、来ないかと言ってるし、あんた、車貸して」午後3時前、吉川区敬老会が終わって家に戻ったら、妻がそう言うのです。電話は義姉の携帯を使い、妻の携帯にかかってきました。こんなことは初めてでした。

 義母は義兄との二人暮らし、柏崎市上軽井川に住んでいます。私の母とは同じ年の生まれですが、4か月ほど母よりも遅く生まれました。今年90歳です。私がひと月ほど前に訪ねた時は稲刈りが始まる頃でした。デイサービスセンターに通うことになったと聞いていたので、少し弱ってきたのかなと思っていましたが、とても元気でした。

 「何かあったのだろうか」そう思ったのは私だけではなく、妻もそうだったようです。私は新聞屋さんに持ち込む折り込みチラシの配達などがあったものですから、それらを早く済ませて、県道上越安塚柏崎線を通って妻とともに柏崎の家に向かいました。

 義母は80代後半から台所での料理が難儀になってきました。なるべく料理の心配をかけないようにと、訪問するときはいつも食べ物を持参することにしています。この日は家から何も持って行かなかったので、柏崎市内のスーパーに立ち寄り、寿司、ワカメのメカブ、それと新発売の「妙高ラーメン」を買って、妻の実家に行きました。

 心配だったのでしょう、妻は車から降りるとすぐに家の中に入っていきました。私は持参したパソコン、買い求めた寿司などを持ってから玄関へと向かいました。玄関の戸を開け、妻よりも2分ほど遅れて家に入ったところ、玄関から真っすぐのところにある義母の部屋ではもう笑い声が起きていました。妻が、「元気なくしていると思った」とかなんとか言ったのでしょう。私が部屋に入ると、そこには義母だけでなく義兄もいて、みんなにこにこしています。すっかり安心しました。

 安心した私は寿司とラーメンを食べた後、横にならせてもらいました。この日は朝から宣伝行動や敬老会などがありましたので、けっこう疲れがたまっていたのです。

 義母も義兄も妻に話したいことがいっぱいあったのでしょう、二人とも妻に聴かせようと、競争してしゃべていました。義母と義兄の話につながりはなく、片方の話が終わるか終わらないうちに、別の話を妻にする、これを繰り返していたので、面白い光景でしたね。

 義母は自分の姉が死んで家族葬をやったこと、香典をやればまたお返しでたいへんだからとちょっとした品物を送ったところ、お菓子が送られてきたことなどを語りました。義兄はいま自力で進めている田直しについて図面まで持ち出して語りました。これから直したいという田んぼは上軽井川から柿崎区の黒川地区にお嫁に行った人の了解をもらわないとできないとか。熱心な語りに感心しました。

 寝転んでウトウトしながら親子3人の会話を聞いていたら、そのうち、私が加わらない方がいいような楽しい話で盛り上がっていました。ずっとずっと昔のこと、妻の家族と妻の叔父にあたる城之組の藤巻さん親子が米山登山をした時のことです。柏崎の大平から登ろうとして違う場所に行ってしまいました。下山のときにも道を間違えて、大平ではなく今度はなんと柿崎区の岩野に出てしまい、暗い道を柿崎まで歩いたとか。最後は柿崎でラーメン食って汽車に乗って無事帰ったそうです。大の男、ふたりが「おれたちについて来い」と言いながら、まったくあてにならなかったと大笑いしていました。

 こんなに楽しい会話ができるなんて、やはり親子はいいもんですね。次回は電話が来ないうちに訪ねようと思います。
  (2014年10月19日)



第326回 くいっからし

 10月になったばかりの日、半月ぶりに大島区へ行ってきました。朝方は雲が出ていて、どうなるかと思ったのですが、午前9時をまわった頃には青空がどんどん広がっていました。雲も浮かんでいます。青空と雲は山があると特別美しく感じられます。

 板山から嫁いだ上岡のお母さん、テエ子さんの家に車を入れようとした時、私の姿に気付いた正司さんが、大きな声で「あら、橋爪さん」と声をかけてくれました。にこにこしながらの声がけにうれしくなりました。

 テエ子さん宅にお邪魔したのはほぼ1年ぶりです。玄関で「橋爪でーす」と声をかけたらすぐにテエ子さんが顔を出し、「あら、まあ」と言ってくれました。つづいて孫さん夫婦らしい若い2人とひ孫さんらしい姿も。

 居間に入ることを勧められ、座ってしばらくテレビを観ていましたが、テエ子さんは台所に行ったきり、なかなか戻ってきません。5分、いやもっと経っていたかも知れません。どうしたんだろうと思いはじめたころ、テエ子さんはおいしそうなものを運んできてくれました。私に食べてもらいたいと準備していてくれたのです。

 おいしそうなものというのは、イモガラの酢ものとキュウリ、なますカボチャ(「そうめんカボチャ」とも言います)の漬物、さらにほうれん草の煮物です。

 イモガラは鮮やかな色をしていましたし、なますカボチャも長く切ってあって、うまそうだったのでカメラを向けました。すると、テエ子さんは、「まあ、くいっからしなんか撮らんでくんない」と言います。「くいっからし」ってなんだろうと思いましたが、どうやら「食べ残し」のことを指しているようでした。イモガラだけはちょっと手をつけた感じはありましたが、いわゆる「食べ残し」といった感じではありませんでした。「どこかへ出すわけじゃないから」と言って撮らせてもらいました。

 食べてみると、この「くいっからし」は本当においしいものでした。イモガラもなますカボチャも私の好物です。なますカボチャは噛むといい音がして、独特の食感があります。テエ子さんの話では、「ぬき粕」に漬けたものだということでした。粕の味がうまくしみ込んでいましたね。イモガラも酢がうまく効いていました。

 私がうまそうに食べていたのが気に入ったのか、テエ子さんは、今度はすぐった大根を細かく刻んで、何かと和えたもの、それとなますカボチャとキュウリの一夜漬けも台所から出してきてくれました。

「おまんたばちゃ、元気かね」テエ子さんがそう言ってからは、同級会のことや昔話で賑やかになりました。テエ子さんは81歳、母と従弟のイナバ(屋号)の克行さんとも同級生だと言います。旭の学校で一緒だったのでしょう。

 私が初めて聴いた話もありました。テエ子さんの実家、板山の合沢西(屋号)へ私の母が泊まりに行ったときの話です。当時は「ひりょう」(ちょっとした「おみやげ」、プレゼントのことを言う方言)と言えばガムだったと言いますが、そのガムをめぐって切ない思い出があると言うのです。母がきれいな着物を着ていた時に、その着物のどこかにテエ子さんがガムをくっつけてしまい大騒ぎしたそうです。今度、母に訊いてみなきゃなりません。

 この日、テエ子さんから出してもらった「くいっからし」はけっこう食べてしまいました。でも、残したものもいくつかあります。なかでもなますカボチャがたくさん残りました。おいしかっただけにちょっともらってくればよかったなぁ。
 (2014年10月12日)



第325回 ありもん

 玄関の戸を開けて、「いなったかいねー」と声をかけたら、台所の方から「はーい」という声が聞こえてきました、元気に返事をしてくれたのは上越市の西部、土口でひとり暮らしをしている佐藤フジさん、86歳です。

 この日は事務所のミキ子さんと一緒に桑取地区に宣伝に入っていました。ひとり暮らしだし、桑取の方へ行ったら必ず顔を出してくんない──三和の橋本さんに言われた言葉が耳に残っていたのですが、時計はすでに正午を回っていたので、フジさんの元気な顔を見たらすぐに帰るつもりでした。

「お茶くらい飲んでいって」フジさんにそう言われて、それなら少しだけお邪魔していくかと居間に上がらせてもらいました。じつはほとんど休みなしに演説を繰り返していたので、のどがかわいていたのです。

 フジさんは私たち二人の顔を見るなり、「橋本さんから、おまんた来なると電話もらっていたよ」と言いました。続いて、「幸太郎たちも今朝帰ったばっかだ」とも言います。連休を利用して新潟に住む息子さん夫婦とその子どもさんの三人が二泊三日で泊まりに来ていたのでした。

 私の母もそうですが、遠くに離れたところに住んでいた息子やその家族が帰省した時はうれしいんでしょうね、息子さんたちが帰ったとはいえ、まだ喜びの余韻が残っていました。幸太郎さんのお連れ合いが料理を作ってくれたことや普段は佐渡にいる孫さんが目指している将来の仕事のことをゆっくりと、うれしそうに語ってくれました。

 フジさんはしゃべっている間に何度も台所と居間を行き来しました。お茶と言いながら、ちゃんと煮物を用意していてくださいました。たぶん、幸太郎さんたちに食べてもらおうと作ったものの一部なのでしょう、「ありもんだよ」と言って出されたものは昆布とタケノコの煮物でした。味がしっかりしみ込んでいてとてもおいしかったです。ミキ子さんも、「わー、美味しいー。どうやって作るの」と大きな体をゆすりながら質問していました。

 出してもらったご馳走はこれだけではありません。新米とオハギも出してもらいました。新米はご飯茶わんに軽く一杯。釜に残っていたものを私とミキ子さんに分けてくださいました。冷や飯でしたが、甘みがあって新米ならではの味がしました。オハギは「粒入りのアン」がぬられ、皿に入っていました。二等分したものが1個、切らずにひとつになっているものが2個です。私が半分に切られていたものの片方を箸でつかもうとしたら、フジさんは「ふたりが1個半ずつ食べられるようにしたんだよ」と言って微笑みました。「ありもん」だと言われましたが、ご飯もオハギもとてもいい味でした。

 ご飯とオハギを食べ終わった段階でふと南側の窓の外を見たら、ツリフネソウらしい紫色の花が咲いているのが見えました。カメラを持って裏庭に行くと、花は間違いなくツリフネソウでした。そして、うれしいじゃありませんか、そのすぐ傍にキバナアキギリが咲いていたのです。秋になってから、私がずっと探し続けていた野の花です。

 私はフジさんを呼び、ツリフネソウとキバナアキギリを手にしたフジさんの姿を写真に撮りました。花とフジさんの知的な雰囲気がマッチしていて、結構いい写真になりました。この日の午後、フジさんの家には、パーマ屋さんがやってくるとか。フジさんは髪に手を当て、「後ろが伸びちゃってね。敬老会も近いし……」と言いました。フジさんのことですから、お礼にきっとおいしい食べ物を用意していたに違いありません。
  (2014年10月5日)



第324回 牛舎解体

 8月1日午後3時51分、わが家の牛舎がドスンと倒されました。大地が響き、牛が倒れたような音にびっくりして、私はすぐ隣にある管理舎から飛び出しました。見ると、屋根だけが残り、その下の部分は完全につぶされていました。

 牛舎の解体工事は7月29日から始まっていました。ワラ等が入った2階建て部分から取り壊しが始まり、わずか4日目で牛たちがいた平屋の部分へと進んでいました。「これから徐々に壊され、あと数日で終わるのかな」くらいにしか思っていませんでしたので、正直言ってドスンといった場面があるとは思いもよらないことでした。

 ぺしゃんこになった牛舎を見た瞬間、脳裏に浮かんだのは屠場で倒れた牛の姿でした。涙こそ流れなかったものの、牛たちに申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。それともうひとつ、亡くなった父にも申し訳ないと思いました。わが家の牛飼いの歴史は祖父、音治郎以来続いてきましたが、その中心にいたのは出稼ぎをやめて乳牛を飼い始めた父だったからです。

 わが家の牛舎は1982年(昭和57)7月に新築した建物で、32年たっています。牛飼いをやめてからすでに5年以上たっていますが、土台がシロアリにやられ、ガタガタになっていました。思い出がたくさんつまった建物でしたが、このまま放置しておけないなと思い、今春、解体を決断しました。

 新しい牛舎を建てる時、父はその設計も財政計画もほとんど私に任せてくれました。牛舎は頸城区の、ある酪農家の牛舎をモデルにしました。お金は源農協(当時)の常山さんや普及所の職員さんの助言をもらいながら、農業近代化資金を使いました。貸し付けが実行される日、仕事を請け負ってくださったKさんとともに藤巻にある金融機関まで出かけ、千数百万円からの現金を風呂敷に包んで運びました。百万円の束を風呂敷で運んだのは私の人生ではもちろん初めて、たった一度の経験となりました。ドキドキしながらもKさんの家についたときはホッとして、当時は健在だったおばあちゃんに「はい、おかあさん、お小遣い」と冗談で札束をひとつ渡す余裕が生まれていました。当時、私は32歳、牛飼いをするようになってからまだ10年たっていませんでした。

 牛舎にまつわる思い出はこれまでも「春よ来い」にいくつも書いてきましたが、次から次へと出てきます。

 新しい牛舎を建てた年から3年ほど大雪が続きました。餌は越冬用として確保しておいたので心配しないですみましたが、問題は毎日出荷する牛乳です。牛舎から県酪連の集乳車が通る道まで出さなければなりませんでした。出荷できないかも知れないと思った日が何回かありました。2月の吹雪いてどうにもならなかったある日、今度こそは駄目だなと覚悟した時、手伝いにやってきてくれたのは近くに住む太田さんや中島さんなど大勢の牛飼いの仲間たちでした。おかげ様でこの日も何とか捨てずに済みました。

 牛舎についての一番の思い出はやはり9年前の6月下旬の豪雨災害のことです。増水した吉川の流れは牛舎を襲い、牛舎の中はゴミと濁流でいっぱいになりました。牛たちが寝起きしている場所も水位がどんどん上がっていき、牛たちは頸城区中島の荻谷さんの牛舎に避難させてもらいました。そして水が引いてからは、大勢の仲間や友人が泥やゴミなどの片付けのために約10日間もボランティア活動をしてくれました。どれだけ助かったかわかりません。

 これまでお世話になった皆さんに心から感謝します。ありがとうございました。
  
  (2014年9月28日)

 
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