春よ来い(14)


第323回 人魚

 いくつになっても出会って気になる女性はいるものです。先日、林覚寺の脇を通って直江津の海岸通りに出ようとしたときでした。20bほど前方の女性の後ろ姿が目に入りました。その姿がいかにもさみしそうで、とても気になりました。

 女性は大きな石の上に座っていました。でも、生身の人間ではなく、形からして明らかにブロンズ像です。いったい何なんだろうと思いながらも、その日は時間がなく、そのまま通り過ぎてしまいました。

 この日の出来事は私のブログ(日記)などでとりあげ、「今度確認してみたい」と書きました。そうしたら、イラスト作家のひぐちキミヨさんと友人のHさんから、「いつもの彼女……、待ち続けてます」「誰を待ってるのかや? 」など次々とコメントが寄せられました。コメントを寄せてくださった二人は、明らかにその像が何なのかを承知していて、私が先入観を持たずにこの像のところへ行けるように配慮してくださったのだと思います。

 翌日、三八市での宣伝行動を終えた私はブロンズ像がある公園へと歩きました。駐車場からほんの1分ほどのところにその像はありました。遠くから見たときの女性の像は少女が石に座って足をぶらぶらさせているように見えました。でも、それは足ではなく、魚の尾びれでした。そう、ブロンズ像は人魚だったのです。恥ずかしながら船見公園に人魚像があることを私は知りませんでした。

 人魚のブロンズ像は20数年前に直江津港湾事務所と上越市が小川未明の童話、「赤い蝋燭と人魚」にちなんで建立したものでした。高さは全体で1b80aくらいです。

 ブロンズ像のそばに立ってよく見ると、人魚はやはり少女の顔立ちでした。彼女は両手で大きな白い蝋燭(ろうそく)を持っていました。「赤い蝋燭と人魚」の中に出てきたものと同じで、お宮さんにあげて、燃えさしさえ持っていれば、災難から逃れることができるというあの蝋燭です。赤い絵の具で魚の絵などが描かれていました。左右に分けて垂らした長い髪、細い手は、いかにも弱弱しく見えました。髪を右前と左後ろに分けたせいでしょうか、ほっぺたの右から見るのと左から見るのでは何となく違う感じがします。彼女の目はやや下を向いていて、何か一心に考え込んでいるように見えました。「大丈夫かね」と声をかけたくなります。

 この日は海風が強く、風の音とともに、繰り返し押し寄せる「ざぶーん、ざぶーん」という波の音が大きく聞こえました。空は快晴、居多ヶ浜や米山がよく見えました。もっとも米山は山頂付近が雲に覆われていましたが……。

 何枚か写真に収めた後、私は人魚に触ってみました。肩は小さいものでした。私の母の肩よりも小さかったように思います。左肩はちょっと冷たく、右肩は逆に暖かでした。これはお日様があたためてくれたのです。髪は思ったよりも豊かでした。私は何度も人魚の頭と髪をなでました。

 人魚のブロンズ像のそばにいる間、「人魚は誰を待っているのか」を考えました。童話の中では欲の深い人間に裏切られて悲しい運命をたどっていましたので、待っているのは海にすむ仲間たちだと思っていたのですが、ブロンズ像から離れて駐車場に行くまでに歩道脇の茂みの中に野菊の花が咲いているのを見つけてハッとしました。一度裏切られたとはいえ、人魚が待っていたのは人間だったのではないか。人間の持つ本当の優しさにもう一度ふれたかったのではなかったかと。
  (2014年9月21日)



第322回 はしご酒

 3年ぶりでしょうか、飲み屋さんなどを3軒以上もはしごしたのは。9月3日、高田の仲町で、美味しいたこ焼きが売りの店、昔ながらのスナック、家庭料理を堪能できるお店など4軒のお店を回りました。いずれのお店も初めて入るところばかりでした。

 じつは、この日、高田の夜の街を楽しみ、地域を元気にしようというイベント、「高田 夜の街オリエンテーリング2014」(略称、「夜オリ」)があったのです。私はSさん夫婦とグループを作って参加しました。今回の参加者はなんと450人、午後7時過ぎに開会式が行われたイレブンプラザ広場をスタートした時、雁木のある歩道は通勤時の東京駅構内のようでした。人混みの高田は新鮮ですね。

 このイベントでは予め事務局が用意してくれた四つのお店を順番に回って9時までにスタート地点まで戻ってくるようになっています。当日の夕方までどこのお店に行くことになるかもわからないので。どんなお店に行くのか、それだけでも興味津津でした。

 私と友人のSさん夫婦が最初に訪れたお店は「手前屋」という名前のお店でした。壁には雪に埋まった数十年前の高田の街の風景や当時のバスなどの写真が貼られていました。写真を見ただけでホッとしました。そして吹き抜けが見事でした。しっかり組まれた木材がむき出しになっていて、屋根裏まで見ることができたのです。

 2軒目は「カラー」という名のスナック。ここのママさん(?)はサービス精神旺盛の人でした。ここでは生ビールを2杯も飲みました。飲んでおしゃべりを楽しむにはいい雰囲気でしたね。450人も参加していれば、知っている人と飲み屋さんで会う確率は低いと思っていたのですが、タイヤ販売のIさん、音楽教室をやっているNさんなどとばったり出会いました。それだけじゃありません、日頃から付き合いのある消防団幹部のSさん、越後よしかわやったれ祭りの神輿パレードでは欠かせぬ存在のOさん、バスの運転手のSさんたちも入ってくるじゃありませんか。お互いに「おー、おー」と言いながら握手をして喜びました。このお店は「いろんな出会い」が「カラー」かな。

 3軒目は駅前郵便局の道を挟んで反対側にある「ラウンジ田村」、ここは料理がうまかった。一番気に入ったのはクジラ汁です。一緒に回っていたSさんのお連れ合いが、「私のところにクジラの肉が3枚も入っている」と嬉しそうに言うので、Sさんも私もお椀の中をさぐりました。「おれんとこにも3枚ある」「おれも3枚だ」。お椀の中に薄切りの肉片を見つけた3人は周りに他のお客さんがいることをすっかり忘れ、子どものようにはしゃいでしまいました。

 そして最後のお店は「プラダbeego(ビーゴ)」。カウンター席が8つしかない小さなお店です。椅子に腰をかけると、すぐに若い女性の店員さんが声をかけてくれました。「あっ、橋爪さんですよね。ポスターと同じ顔ですね」私のことをずっと前から知っているような親しみを込めて、ニコニコしながら話しかけてくる姿はとても好感が持てました。このお店のカウンター内側にはもう一人、素敵な女性もいましたよ。お客と若い店員さんたちとの距離が近くて、楽しかったです。そう言えば、店長の岩沢さんは夜オリの実行委員長さんでした。アナウンサーのような美声と楽しいおしゃべりが持ち味の男性ですが、お店全体にこの人の持つ独特の雰囲気が漂っているなと感じました。

 4軒もはしごして、ほどよく酔いました。かかった料金は3千円。たまには行きつけのお店以外の暖簾をくぐるのもいいもんですね。十分楽しめました。そうそう、4日後に分かったのですが、最後に訪れたお店の若い女性は大島区出身の美和さんでした。
 (2014年9月14日)



第321回 愛の記念像

 旧松代町の旧莇平(あざみひら)小学校のグランドに「愛の祈念像」というものがあることをご存じでしょうか。縦2b横1bほどの四角い建造物で、いまから24年前の3月、グランド南側の土手の近くに建てられたものです。

  「愛の祈念像」には、「愛」という文字が一番上の左側に配置され、中央部には子ブタにおっぱいを飲ませているお母さんブタとその周りでお母さんブタのお腹やおっぱいに触っている六人の児童が描かれたものが配置されていました。たぶん、お産が終わってまもないときの様子を表現したかったのでしょう。私の眼には、子どもたちが「がんばったね」とお母さんブタをほめ、励ましているように見えました。

 像を制作したのは真治君、知美さん、陽子さんなど6人の児童と全校職員。設置したのは同校のPTAのみなさんでした。像の題字は当時の関谷教育長が書かれ、像の下の方には「思いやりの心育てと、平成2年度修了を記念してこれを建てる」とあります。

 私がこの像があることを知ったのは今年の4月9日、初めて旧莇平小学校を訪ねた時でした。3月末に高田世界館でドキュメンタリー映画、「夢は牛のお医者さん」を観たばかりだったものですから、「これが映画に出てきた校舎か」と思いながら、建物を見上げました。校舎だった建物の写真を何枚か撮り終わって、雪の残ったグランドを歩きはじめてすぐにこの像に気づきました。私の背丈を越える大きな像だったからです。

 像を見た私の脳裏には映画に出てきた場面が次々と浮かんできました。父ちゃんたちがマイクロバスやトラックに乗り、出稼ぎに出ていく場面がありましたね。グランドからはその道が見え、みんなが手を振って別れる場面が浮かびました。入学児童がいないということで、学校に仔牛を導入し、子どもたちが仔牛を飼い、300キロほどの体重になるまで育てる。大きくなったところで牛の卒業式を校舎内で行い、みんなが涙を流した場面もありました。牛の後には豚も飼いましたが、牛もブタも同じようにトラックに乗せて別れる場面がありました。いずれの場面でも子どもたちだけでなく、いつもPTAや地域の人たちの姿が写っていました。それらがみんな浮かんできたのです。  グランドから離れる前に私は自動シャッターで祈念写真を撮りました。もちろん、この像のそばです。私はドキュメンタリー映画には出てこなかった素敵なものを見つけたといい気分になりましたが、その後はブログでこの写真を使ったものの、「愛の祈念像」のことは頭から離れていました。

 8月の下旬、大島区で「夢は牛のお医者さん」の映写会がありました。総合事務所のWさんに誘われ夜の部に参加しました。この映画を観るのは2度目です。会場となった大島地区公民館には50人ほどの人たちが集まりました。私の近くには、日本一のトコロテンを売っているお店の若夫婦と子どもさん、板山のKさん夫婦とお孫さんなど子ども連れが何組もありました。この日は昼間の部で、区内の小中学生全員がこの映画を鑑賞したと聞きましたので、もう一度観たいと思った子どもが何人もいたんでしょうね。

 映画を再び見たことで、四月に出合った「愛の祈念像」のことを思い出し、なぜあの祈念像をつくることになったのかが私なりに理解できました。確かに、映画は牛のお医者さんになりたいという夢を追い、実現する知美さんのことが中心になっています。でも、彼女が夢を持ち、実現できたのは本人の努力ともうひとつあるように思うのです。すべての子どもたちが自らの希望を見出し、やさしい心を持つことができるよう、学校も地域もひとつになっていたことです。来月、もう一度、莇平へ行ってきます。
  (2014年9月7日)



第320回 町屋にて

 もう何度も訪れているのにいつもと違った空気が流れていると思ったのは私だけではないようです。2人の子どもが動き回る様子を見ながら、何人もの人が「いいねぇ」と言い、うれしそうな顔をしていました。

 お盆を過ぎたある日、高田の仲町六丁目にある町屋、「ますや」には60代の半ばになった男女10数人が集っていました。

 この日は高校時代の同級生たちの暑気払いでした。少し遅れて「ますや」に到着した私が入っていくと、すでに宴会が始まっていました。家主の石塚正英さん、S組の恵一さんなどが一斉に私の方を向き、笑顔で迎えてくれました。正英さんのそばにはハローワークに勤めている俊朗さん、柿崎ダム建設に携わっていた定道さんなどの姿が見えます。挨拶を交わしながら、私は正英さんのそばに席を用意してもらいました。

  「ますや」での暑気払いは恒例になっていて、飲み物や食べ物をある程度持ち込み、わずかな会費で楽しんでいます。この日もワイン、ビール、珍しい島根県のお酒などが飯台の上に並んでいました。私の前には枝豆、生の豆腐を小さく切ったものがそれぞれ皿に入れて出されていました。右の前方には鍋も置いてあります。私が鍋に気付いたのとほぼ同時に、正英さんが、「今回は暑気払いだけど、温かいもので暑気払いするのもいいだろうということになっておでんもあるんだよ」と紹介してくれました。

 お腹がすいていた私は枝豆や豆腐をいただきながら、みんなのおしゃべりに合流しました。私の斜め前には元金物屋の富佐子さんがいて、その奥には真知子さんやみつ子さんなどがいました。「あなたのブログに疲れたと書いてあるときがあるけど、頑張り過ぎなんじゃない」と真知子さんが言い、高田の四九市(しくいち)で何度か会った富佐子さんが、「私のことを分からなかったことが2回あったわよ」と言いました。

 真知子さんが連れてきた2人の孫さんの動きが活発になってきたのは、私が普段、遠近、サングラスの3種類の眼鏡を使い分けて動いているという話をしている時でした。おそらく2人ともお腹がいっぱいになり、遊びたくなったのでしょう。

 百年以上も前に造られた「ますや」は入り口からすぐ入ったところに土間があり、右奥まで「通し土間」もあります。居間から2階に上がる階段も、階段を上がった空間も子どもにとっては絶好の遊び場です。2人の男の子は横木につかまってぶら下がったり、2階から1階を覗き込んでVサインをしたりしながらはしゃいでいました。

  「いいねぇ」─子どもたちの様子を見ていた誰かがそう言うと、何人かが2階を見上げました。たしかに町屋は子どもたちがいるかいないかで大違いでした。子どもたちがいると、建物全体がじつに生き生きとした感じがするのです。

 私の隣の正英さんは、このタイミングで飯台の下から3本の団扇を取り出しました。3本とも数10年前のもので、1つは東本町一丁目の中沢酒店と書かれていました。もうひとつは「日本の夏、金鳥の夏」という文字と芸者さんの写真が入ったもの、残りの1本はいまは廃業して無くなったお店のものでした。

 家の中で子どもたちが遊んでいて、団扇がある。それだけならこの日の「ますや」でのことは記憶から消えていったかも知れません。じつは、もうひとつありました。子どもたちがすすんで私も含め何人かの肩をもんでくれたのです。小さな手ではありますがとても気持ちがいい。いまもこういう子どもがいるんですねぇ。うれしかった。
  (2014年8月31日)



第319回 伯母の握手

 お盆前に97歳の伯母の家を訪ねてきました。2年前に県立松代病院に入院し、奇跡的に回復した伯母です。最初に声をかけた時、自分の部屋の網戸を通して私を見つけた伯母は「あらまあ」と言って私の顔を見つめていました。

 入院中に大工さんから造ってもらった伯母の部屋は畑のすぐそばにあり、東側と南側に網戸のついた窓があります。伯母のベッドが近い南側の網戸のところへ行って、もう一回、「ばちゃ、いなったねや」と声をかけると、伯母は網戸を開けてくれました。

 窓のそばに来て、窓枠に肘をついた伯母は身を乗り出すようにして私の手を握りました。それも、腕相撲をやるときのように力を入れてでした。これにはびっくりしましたね。「ばちゃ、力、あるなぁ」と言うと伯母はニコニコ顔になりました。

 伯母はいつ会っても、必ず、私に訊いてくることがあります。それは母の様子です。 「おまんたとこのばちゃ、達者か」そう言った伯母に、「家の中で寝ているよ」と答えたものですから、具合が悪いと勘違いしたようです。真剣な表情で、「大丈夫んがか」と再び訊いてきました。「あっついすけ、寝てるだけだわね」と言ったところ、今度は分かってくれたようです。「そんならいいども」と伯母は静かに言いました。

 母の安否を確認してホッとしたのでしょう、今度は、「おまんたばちゃ、小さいけど達者だ。オレはでっけぇけども駄目だ」と思い出したように言いました。伯母の目には自分よりも背の低い母が畑仕事や笹採りなどで動き回っている姿が焼き付いているようでした。「最近は、おらちのばちゃも太ってきたよ」と言おうと思ったのですが、そう言えば、伯母に余計な心配をかけるのでやめにしました。

 私と話をしている時、しばらく伯母は私の手を握ったままでした。それは以前にはなかったことです。これまで伯母の手をじっくり見たことはなかったのですが、この時は見ました。そして、初めて気付いたことがあります。伯母の右手は人差し指、中指、薬指、いずれも内側に「くの字」型に曲がっていたのです。左手も何本かの指が曲がっていました。働いてそうなったのか、それともリュウマチなどの病気でそうなったかは訊いてみませんでしたが、伯母が畑仕事などで頑張ってきたことを知っているだけに、私には伯母の「頑張りの象徴」のように見えました。

 この日は午後から雲が出てきていました。ふわふわした雲ではなく、ひょっとすれば雨が落ちてくるかもしれないと思わせる雲でした。伯母に「雨、降りそうだねや」と言うと、「降るてがでも」という言葉が返ってきました。テレビの天気予報でも見たのでしょうか、思っていた以上にしっかりしているなと感心しました。

 伯母の手を離してから伯母の家の北側に数本ある大きな杉の木を見上げました。セミの大きな鳴き声が聞こえたからです。いつもの年なら、ひとつのセミが鳴きやむと間をおかず次々と鳴き声が続きますが、今年はひとつ鳴き止むといっとき、静かな時間ができることがあります。それだけセミの数が減っているのかも知れません。

 手を離しても私の顔をずっと見ていた伯母は、「入って、お茶飲んでいかんねがかい」と何回か繰り返しました。私はこの日、新聞配達など、まだたくさんの仕事が残っていました。できるだけ早く私の事務所に戻って、大量のビラ印刷をしなければという思いもありました。その場では「いや、飲んでらんねがど」と答えたのですが、後に伯母の握手を思い出し、反省しました。「じゃ、飲んでっか」と言えばよかったと……。
  (2014年8月24日)



第318回 横井戸(2)

 生きている横井戸をもう一度自分で確かめておきたい。そう思ったのは今月の上旬です。まず頭に浮かんだのは昨年の夏に訪れた大島区竹平にある「いんきょ」(屋号)の横井戸です。台所の近くの横井戸はかつて大活躍していたと従兄から聞いていました。

 出かけた時、「いんきょ」にはちょうど留守家を管理している田麦の賢一さんがおられました。「どっかに横井戸なかったかね。写真、撮りたくて……」と尋ねると、なんと、「おらちにあるよ」。びっくりしましたね。「いんきょ」の裏にある横井戸を確認せず、賢一さん宅へ行きました。

 横井戸は賢一さんの家の裏にありました。「裏山に掘られたトンネル」といった感じの井戸です。入り口は崩れたことがあるのでしょう、大きなU字溝を逆さにしてはめ込んでありました。人間が入るにはやっとの幅と高さで、奥行きは15bほどです。1bほど入ったあたりからコンクリートの色が緑がかっていて、ひんやりしました。

 奥にはビールとスイカなどが冷やしてありました。じつを言うと、スイカは賢一さんが畑から取ってきたばかりでした。横井戸で冷やしたスイカの味は違うということでしたから、出来れば、冷えたのを食べたかったですね。でも、横井戸をどんなふうにして使っているのかを確認できただけでうれしくなりました。

 横井戸の近くではダリアが赤い花を咲かせていました。これは2bほどの背丈があって、「改良」された最近の品種とは違い、堂々とした雰囲気があります。きくと、92歳のお母さんがずっと種イモを保管し、育てているということでした。横井戸といい、ダリアといい、昔からのいいものを大切にしている家だなと感心しました。

 この3日後、今度は私が長年住んでいた吉川区尾神にある伯父の家の横井戸を訪ねました。ここでは花や野菜の球根、山菜などを奥深いところにしまっておいて、うまく暮らしに活かしていることを数年前に確認しています。

 わが家の墓掃除を終わらせて、伯父の家に行くとちょうど、家の周りの片付けをしている最中でした。伯父のところの横井戸も奥行きが15bほどある本格的なものです。伯父が先になり、案内してくれました。

 長靴を履いていたから入れましたが、中では水が流れ出ていました。これが横井戸の水かと思いながら、奥へ10bほど入ると、穴は二手に分かれていました。片方の奥にはしっかりした入れ物をシートのようなもので覆ってあるものが数個ありました。醤油や味噌です。私は、いまの時期だから、野菜類があるものと思っていましたので意外でした。スイカじゃないですが、味噌類も横井戸で美味しい味を出せるのだそうです。

 外へ出てきてから伯父は、横井戸から10bほど離れた家の下見板にぶら下がっていた豆電球のスイッチをパチンと切りました。伯父に説明してもらうまでなんだろうと思っていたのですが、この豆電球は安全確認用のものだったのです。横井戸に入る時点でスイッチを入れます。入っている間は電球が点いていますから、横井戸に入り長時間電球が点きっぱなしのときは、中で何か異変が起きたという知らせになります。なるほどと思いました。

 伯父の家の前には市道半入沢線が通っています。伯父や伯母にサヨナラの挨拶をして車に乗り込んだとき、ふと目に入ったのは赤い大きな花を咲かせたカンナでした。高齢化が進み、ほんの数株しか植えてありませんでしたが、きれいで目立ちます。じつはこの球根も伯父の家の横井戸で貯蔵したものなのです。
  (2014年8月17日)



第317回 最後のサヨナラ

 ちょっとした仕草が心にずっと残ることがあります。お世話になった飯川忠夫先生の葬儀の時のことでした。手を合わせて先生の棺を見送り、目を開いた瞬間、私の前を車いすに乗ったお連れ合いが左手でバイバイをしながら通り過ぎていかれたのです。

 お連れ合いのユキさんがバイバイをした相手は言うまでもありません、霊柩車に乗せられた飯川先生です。この時、車は葬儀場である虹のホールの玄関を出て、50bほど走っていました。

 ユキさんのバイバイを見た時、これは夫への最後のサヨナラだと思いました。これといった理由はないのですが、白髪のユキさんの姿が横にすっと動くのを見てそう直感したのです。その後、ユキさんがどちらへ行かれたかは、その時点ではわかりませんでしたが、たぶんご自宅に戻られたのだろうと推測していました。

 この日は夏空でした。東の方角の山々を見ると、あちこちに入道雲が発生し、上空に向かってどんどん大きくなっていました。葬儀場に駐車しておいた軽乗用車は窓を少し開けておいたにもかかわらず、蒸し風呂のようでした。

 冷房をかけ、数分後に車をスタートさせた私は、柿崎区の上下浜、坂田池のそばを通りいったん自宅に戻りました。その後、再び出かけたのですが、途中、退職校長会会長の佐藤義隆さん、短歌結社「北潮」代表の草間馨子さんの弔辞や喪主を務めた真理子さんなどの挨拶を思い出していました。

 父親である飯川先生の思いを大切にして、最後は自宅に帰ってもらい、そこで息を引き取られたという話も感動的だったのですが、ユキさんの体調が思わしくない時に先生自らが台所に立たれたという真理子さんの話に引きつけられました。また、ご夫婦で高齢者福祉施設に入所後、肺炎か何かで入院された時の話もドラマチックでした。これはご長男の話です。一時は重大な事態になったけれども、先生は奇跡的に回復し退院、戻った施設内での運動会では選手宣誓をしたというのですから、びっくりでした。

 葬儀が終わって数日後、私は飯川先生のお宅を訪ねました。長年にわたり励ましていただいたことへの感謝の気持ちを先生に伝えたかったこともありましたが、出棺時に見たユキさんのバイバイが本当に最後のバイバイであったのかどうかを確かめてみたいという思いもあったのです。

 お参りを済ませた後、お茶をいただきながら、真理子さんと話をしました。そこで飯川先生夫婦は5つ違いの夫婦であることや、ユキさんは私の母と同じ90歳で、しかも誕生日は母と11日しか違っていないことを初めて知りました。

 お互いの父親のことも話題になりました。真理子さんによると、先生は三輪電動カート、トヨタの「ラクーター」を愛用されていました。施設に入所される前はこれに乗って買い物に出かけたり、医者へ行ったりされていたようです。ところが、年を重ねるうちに何度も危ない事故を起こしていたというのです。顕法寺集落の奥の方へフキノトウ採りに出かけた際、愛車とともにひっくり返って泥だらけになっていたこともあったそうです。いくつになっても、先生は春の香りを求めておられたんだなと思いました。

 さて、バイバイについてですが、私の直感は当たっていました。ユキさんはあのまま施設に戻っておられたのです。思い出すと、ユキさんの最後のバイバイ、素敵でした。切なさはまったくなく、また会おうねと恋人に手を振るような雰囲気がありました。
  (2014年8月10日)



第316回 ほたるコンサート

 激しい雨が降った後の夕方でした。大島生涯学習センターで行われていた「ほたるコンサート」が終わろうとしていた時間帯、会場である体育館の後ろの方でコンサートを聴きながらメモを取っていた私のところに思わぬお客さんがやってきました。

 お客さんというのは、まだ歩き始めてから1年足らずといった感じの男の子です。私の近くでお母さんと一緒に音楽を聴いていたのですが、私が水分補給用に持参していたポカリスエットがこの子の目に入ったんですね、私のところにやってきて、ポカリスエットに手を伸ばしてきました。

 もし私が口をつけていなかったならば、すぐにあげたでしょう。飲み始めて、しかも時間が経っていましたので、そうはいきません。ポカリに手を伸ばしてくる仕草がじつにかわいくて、あげたくなる気持ちに負けそうになりましたが、ペットボトルをしっかり握り、ずっと離さないでいたらあきらめてくれました。

 ところが、この男の子はポカリの次に私が持っていたカメラにも関心を持ちました。カメラに何度も触りました。おもちゃと同じように受け止め、遊び続けていました。そして最後は、私のあぐらの中にちょこんと座ったのです。

 この日のコンサートは午後6時頃から始まりました。実行委員長の江口鎮夫さんが「普天間かおりさんのコンサートは大島で3回目です。パンチのある歌、心に響く歌を堪能してください」と挨拶した後、地元のコーラスグループ、コールチロル大島のみなさんによる「シャボン玉」「夕焼け小焼け」などの合唱がありました。背の高いK子さんや仁上のKさんなどが時どき笑顔を見せながら、楽しそうに歌っていました。いずれの歌にも郷愁があり、子ども時代に引きずり込まれそうでした。

 普天間かおりさんが登場すると、ひときわ大きな拍手が起こりました。正面舞台のバックには照明によって普天間さんの姿などが映し出されましたが、夕日が当たった体育館の窓の格子もまた舞台後方の壁に映りました。偶然なのでしょうが、それが舞台照明とうまくかみ合って素敵なシルエットをつくりだしていました。

 1曲目の歌を歌い終わって、普天間さんは語り出しました。沖縄出身だから雪は憧れだったこと、所属する会社の社長さんは「大島のメインストリート」の出身で、生家のあったところはいま、プールになっていることなどの話に会場はたびたび笑いに包まれました。

 ホタルの時期にぴったりの歌もありました。「じんじん」という歌です。沖縄の言葉で「ホタル」を意味するのだそうです。「じんじん」という言葉に合わせて手拍子が起き、照明も「オン」「オフ」を繰り返す。この日一番の盛り上がりとなりました。

 コンサートがスタートして50分ほど経って、普天間さんが歌ったのは「スマイル アゲイン」。3年4カ月前、東日本大震災のとき、彼女は福島にいました。2分40秒の恐怖の体験をした以降、被災した福島の人たちを励まし続けています。「負けないで 負けないで 生きることをあきらめないで…」歌詞からも曲からも被災者を思うやさしさが伝わってきました。

 私のあぐらのなかに座った男の子は、あぐらのなかが気に入ってくれ、一緒に手拍子もとりました。この時、ふと思ったんです、私も幼かった頃に同じようなことをしたことがあるなと……。小さな蛍が私の中に飛び込んできたようなこの気分、最高でした。 
  (2014年8月3日)



第315回 ハッピィカフェ

 今度、イメージキャラクターの入ったお菓子を用意するんです。それとハッピィカフェは2年生と3年生が一緒にやります──吉川区体育祭で、県立吉川高等特別支援学校長の赤松先生にそう言われたら無性に行ってみたくなりました。

 ハッピィカフェというのは同校で取り組んでいる「喫茶店」の名前です。日本語に訳すと、「幸せ喫茶」といったところでしょうか。1年生が取り組んでいるスマイルカフェもそうですが、地域の人たちから学校へ来ていただいて、コーヒーや紅茶などを飲んでもらい、生徒たちはそこで接客の方法などを学びます。地域の人は参加者同士で、あるいは学校の生徒や教職員と交流して楽しんでいます。

 赤松先生からハッピィカフェの開店日時を聞いていましたので、先週の水曜日の午後、出かけてきました。

 学校の玄関に入ると小さな靴がいっぱいありました。案内してくださった職員さんからは、「吉川保育園の年長組さんたちが大勢来てくださったのです。これだけ混むのは初めてかも知れません」と言われました。

 3階の「喫茶店」はこの日、大繁盛で満席でした。グランドの見える待合室に案内されて入ると、吉川保育園の子どもたち十数人がいました。そこには、保育士をしている長女も村松さんもいるじゃありませんか。びっくりしましたね。でも、うれしかった。

 待合室には15分くらいいたでしょうか。柿崎区の人たちと少し話をしてから、窓際へ行き、外を眺めてみました。この日は青空が広がっていました。とても、すがすがしい。窓から10bほどのところにある背の高い木やグランド脇にある桜の木は緑の葉につつまれていて、風に揺れていました。

「お一人でお待ちの橋爪様、どうぞ」そう言われて、「喫茶店」に入ると、いっせいに「いらっしゃいませ」の声がかかりました。おそろいのオレンジ色のエプロンをつけた生徒や職員さんたちが声をかけてくれたのです。店内には私より少し早く入った保育園の子どもたちや吉川区福平の農産物直売所のお母さんたちがいました。

 私は最初、1人用の席に案内されました。座ると学校の中庭が見えるものの、店内の様子は振り向かないとほとんど見えません。ちょっぴりさみしい気分になっていたのが伝わったのでしょうか、赤松先生が「子どもたちと一緒のテーブルに移動しませんか」と声をかけてくださり、甘えさせてもらいました。

 椅子ごと移動すると、保育士の高野先生が私を子どもたちに紹介してくださり、おしゃべりを楽しみました。この日、私はアイスコーヒーと水ようかん、子どもたちはお茶と水ようかんのセットを注文しましたが、保育園の子どもたちと一緒に飲み、食べる時間を過ごすなんて数十年ぶりです。高野先生に「水ようかんの中にクリ(栗)さんが隠れているよ」と言われ、みんなでいっせいに探しました。また、みんなでピースをして記念写真も撮ってもらいました。まさにハッピィ(幸せ)でしたね。

 この日が初登場のイメージキャラクター、「カフェマメくん」のお菓子は米菓です。両手を横に突き出した「カフェマメくん」の元気な姿と吉川高等特別支援学校の名前も入っているので、今後、このお菓子が目当てのお客さんが増えるかも知れません。店を出た時、赤松先生が「3年生は2年生をリードするし、2年生はわからんことがあれば3年生に訊いています」と言われました。ハッピィカフェはまだまだ進化しそうです。
  (2014年7月27日)



第314回 感動の一瞬

 ぶーん、ぶーん。朝の7時前、かえってしばらく経ったカブトムシたちが次々と飛び立っていきます。その姿はあっという間に緑いっぱいの林の中に入って見えなくなりました。ぶーんという音に気付いてから、ほんの数秒間の出来事でした。

 カブトムシたちが飛び立った場所は浦川原区中猪子田の富一さん畑の一角です。自宅から車で5分ほど行った高台にありました。この日は曇り空でしたが、遠くにはうっすらと安塚区の菱ヶ岳が見えます。近くには小さな川があるのでしょうか、川の流れの音がよく聞こえてきます。ウグイスなどの小鳥たちの鳴き声もよく響いていました。

 軽トラックから降りた富一さんは、畑の隅にあるオガクズの山のところへ行きました。これがカブトムシのいるパラダイス、楽園です。富一さんはオガクズの山にかぶせてあった緑色のネットを手にすると、ネットにしがみついたカブトムシを一つひとつ引き離し、野菜入れのコンテナの中に入れ始めました。ネットの中ではすでにカブトムシが幼虫から成虫へとかえり、外で動きはじめていたのです。

 縦横それぞれ3bほどの大きさのネット。カブトムシたちはネットの支柱付近に集まっていました。富一さんは、「どういうわけだか、端っこの方に寄っちゃうよね、おれも不思議でたまらんのだけど」と言いながら引き離す作業を続けました。それが一通り終わった段階で、ネットをまくりました。

 ネットの下は黒茶色になったオガクズです。富一さんが軍手をつけ、オガクズを掘りはじめると、いました、いました、穴から出たばかりのカブトムシ、まだ穴の中に入ったままのカブトムシ、穴から半身を外に出し、手を動かしているカブトムシもいました。これまで私はクヌギの木にとまっているカブトムシや牛舎の中の灯りに誘われて入りこんだカブトムシ、堆肥場のなかにいた大きな白い幼虫くらいしか見ていませんでしたので、これらのカブトムシたちの動きにくぎ付けになりました。

 穴は円柱状で直径2a強、深さは5、6aはあります。ここが幼虫から成虫になる場です。富一さんは、「幼虫が、こんなにきれいに穴を掘るんだよね。いつも感心しているんだ」と言いました。富一さんはまた、「穴から出てくるとこ、子どもたちが見るとばか喜ぶがど」とも言ってニコニコ顔になりました。カブトムシが穴からごそごそと出てくるところは感動の一瞬です。

 カブトムシが穴から出てくる様子をカメラに撮っていたら、山からバイクに乗って下りてきたYさんもエンジンを切って、観察の仲間になりました。「あらー、こんなふうに出てくるんだ」そう言ってしばらく見入っていました。また、コンテナの中にひっくり返って動かないでいるカブトムシを見て、Yさんは、死んでいると思ったようです。「死んでいるように見えるけど、寝ているんだでね」と私が言うと、富一さんも「腹出して寝てるがどね」と笑いながら言いました。私も初めて聞いたときは信じられなかったのですが、Yさんもびっくりした顔をしていました。大人も子どもも、カブトムシという小さな生き物の生態のなかに新たな発見があるとうれしくなるんですね。

 富一さんは現在56歳、お連れ合いは吉川区後生寺の出身です。富一さんがカブトムシを飼うようになったのは10年くらい前から。子どもたちの喜ぶ姿が見たくて、続けているそうです。この日も大潟区の子どもたちが見に来るということでした。穴から出てくるカブトムシを見て、子どもたちはいったいどんな顔をするのでしょうか。 
 (2014年7月20日)



第313回 チマキづくり

 子どもの頃からずっと食べてきたチマキ、まさか自分で作るチャンスがやってくるとは思いませんでした。チマキづくりをするから参加しませんかと平良木さんに誘われ、先週の日曜日、上中田の公民館へ行ってきました。

 午前9時ちょっと前、公民館に到着。会場である2階の大きな部屋に入ると、そこには十数人のお母さんや子どもさんたちがすでに集まっていました。窓の外の眺めは良く、すぐそばに小さなグランド、西南方向には南葉山が見えます。

 板の間には縦4b、横3bほどの大きな青いシートが敷いてあり、といだもち米、笹の葉、スゲ代わりのヒモなどが用意されていました。美佐江さんの短い挨拶と手順についての説明が終わった後、いっせいに作業が始まりました。

 正直言って、これまで私は作り方を覚えようという気持ちを持ってチマキづくりを見たことはありませんでした。ですから、何からはじめて、どんなことをすればいいのか、ほとんどわかりません。幸運にも、すぐ隣におられたお母さんが、お孫さんをだっこして教えようとしておられました。その様子を見ながら、私も挑戦しました。

 まずは笹の中に米を詰め込む作業です。笹の葉は、裏の方が内側になるようにして使います。二等辺三角形をイメージし、笹を2回ほどくるくるっと巻き、そこへスプーンを使って米を入れる、ある程度入ったところで箸を使って押し込める、この詰め具合がチマキの出来に大きく係わります。米は入れ過ぎないようにするのがコツです。

 次は笹の葉で米を包み込む作業です。米が入り、先の細くなった部分を下にしながら、もう1枚の笹の葉を横にして上部にかぶせます。笹は左右のバランスを意識して表側から裏側へぴしっとかぶせ、二等辺三角形からはみ出た部分は裏側へと折り曲げます。ここまではそう苦労しないで覚えられます。

 問題はこの後です。スゲ代わりのヒモを使った結びが待っています。左手には米が入り、笹の葉で包み込まれたものがしっかりと押さえられたままです。ヒモは最後にしばることを考えながら、まず前から縦に後ろへとまわす。それを裏側で押さえ、一方のヒモを前側に持ってきて親指にくるりとかける。もう一度くるりと回し、最初に親指にかかったヒモの中にヒモの端の部分を通す。通ったら、後ろのヒモをきゅっと引っ張る。これで出来上がりです。私はこの結びを覚えるのにかなり時間がかかりました。

 まわりを見ると、昨年も参加したというY子さんが椅子に座りながら、手際良く、ヒモを結んでいます。私の正面にいたT子さんもチマキづくりはベテランなのでしょう、指の動きにリズムがあり、それを見ているだけでも、すごい人だなと感心してしまいました。

 私と同じように悪戦苦闘している人もいました。用意されていた笹の葉のなかには小さめのものもありました。笹の葉を巻いて折るのに手間取る人、結びがなかなかうまくいかない人もいました。でも、みんながわいわい言いながら教え合って、最後はできるようになる。不器用な私でも1時間ほどで出来るようになり、夢のようでした。

 チマキづくりをしている最中、私の右の方にいたお母さんの、「出来の悪いのはバクハツするのよね」という言葉がずっと胸に残りました。この日、私が巻いたチマキは8個です。お昼休みに美佐江さんから茹でていただいたところ、「バクハツ」し、米が笹の葉からはみ出たのは最初の1個だけでした。ああ、よかったあー。
  (2014年7月13日)



第312回 ぬり絵

 水車と川があり、そばにはアジサイの花が咲いている、薄く線が引かれたぬり絵用紙に色鉛筆を走らせている女性がいます。4年前に脳内出血で倒れ、右半身が不自由になった柿崎区在住のNさんです。

 Nさんは吉川区河沢出身です。キョウダイはみんな芸達者で、今年亡くなったお兄さんは、安来節のどじょうすくいが得意でした。Nさんも倒れる前は流行歌は歌う、人形は作る、錦絵も描く、なんでも極めてしまう女性でした。

 私がNさんの描いた錦絵と出合ったのは数ヶ月前、安塚区のラーメン屋さんでした。窓際に飾ってあった絵は、髪の毛の一本一本が見えるような繊細な筆致で描かれていて、最初はどこかのプロが描いたものだろうと思ったくらい見事なものでした。お店のお客さんとの会話でNさんの作品だということを聞いてびっくりしました。

 その後、Nさんの錦絵のことは頭から離れていたのですが、先週の日曜日、時どきお邪魔する浦川原区のFさん宅でお茶をご馳走になった際、錦絵のことが話題になったのです。Nさんとは仲良く付き合いをされていて、安塚区のラーメン屋さんにある錦絵をお連れ合いとともに観に行ったとのことでした。世間は狭いと思いましたね。

 Nさんが倒れたのは4年前のある晩でした。夜8時半過ぎ、大きなミカンを食べているときに突然しびれがきて、立てなくなりました。救急車を呼んでもらい、すぐに病院へ行ったのですが、40分ほどの間に頭の中の血袋が5センチくらいになったといいます。脳内出血を起こした場所は神経が集中しているため手術ができず、血を散らすのが精一杯だったそうです。Nさんは、「毎日、栗のイガに触っているようだった」と回想します。

 先日、Nさん宅を訪れてきました。居間に入らせてもらって、「いやー、びっくりしと、おまんたとFさんが友達だったなんて」と言うと、Nさんは、「アハハ」と明るく笑いました。

 居間には病気になる前に描いたという錦絵が3枚、額に入れてあったので、デジカメ写真に撮らせてもらいました。撮るたびにNさんから1枚ずつカメラに映った画像を確認してもらうと、「アハハ」と笑った後、「まあ、すごい、きれい」と言いました。Nさんには笑顔が似合います。

 お連れ合いから「あれも観てくんない」と言われて、土間の一角にある絵を観ました。こちらは何と折り紙を貼った絵で、柿崎の海を基にした空想画でした。海に外国船が浮かび、松並木もありました。お連れ合いが折り、貼るのはNさんで、ご夫婦の共同作品でした。そして最後にテーブルの上に出されたのがぬり絵だったのです。

 ぬり絵の紙の左上には「脳リハ」と書かれています。脳の病気を患った人がリハビリのために使う用紙であることが一目でわかりました。「まだ輪郭描かんねすけね」とお連れ合いが言われましたが、大きな水車、山と川、アジサイなどはしっかりと色がぬられていました。それだけでなく、自分でイメージをふくらませ、下絵にない田んぼや空を飛ぶ鳥まで描き込まれていました。Nさんの錦絵への再挑戦が始まったのです。

 NさんとFさんは2年ほど前、浦川原区にある老健施設、「保倉の里」のデイサービスで出会ったといいます。二人ともおしゃべりが大好きで、時どき電話を掛け合ったりしながら励まし合っています。この分だと、そう遠くない時期にNさんが左手で素敵な錦絵を描きあげ、この二人が笑い合う姿を見ることができるでしょう。
 (2014年7月6日)


 
第311回 エゾエンゴサクが咲く日に

 考えてみると、あれが「沢」(さわ・屋号)の父ちゃんと会った最後の日となりました。もう2月以上も前になります。近くの人から「退院しなったよ。こんだ、施設に入いんなるげらだ」という電話をもらい、出かけてきました。

 吉川区の最も東奥にある集落、上川谷の岩野(いわの・地名)に「沢」の父ちゃんの家があります。エゾエンゴサクの花がきれいに咲く道路の近くに車を止め、杉林の中を下りていくと、私の足音に気付いたのでしょう、犬が鳴きました。

 家にあげてもらうと、「沢」の父ちゃんは探し物をしている最中でした。上越の街場に出ているセガレさんがその夜に来ると言っていましたので、土地の図面とか大事なものを引き継いでおきたいと思っていたようです。

 お茶をご馳走になりながら、病院での様子とか、新しく入る施設のことなどについて聞きました。私からも母の様子などを伝えました。

 病院では、いうまでもなく酒もたばこも禁止です。「いっぺんに酒とたばことらんて、崖、落とさんたようなもんだ」と言って笑いました。

  「沢」の父ちゃんは、まじめな顔をしていて、話の中にちょこんと面白い話を入れるから、そのときの話は聴いている者の記憶にしっかり残ります。入院直後に地元の人たちと一緒に見舞いに行ったときもそうでした。医師から病名を聴いて頭が破裂しそうだったと言った後、看護師さんから体を拭いてもらっている様子を教えてくれました。「看護婦さんがチンチンの先っぽを押さえて、ぱっぱっとふくんだ」と言って、ミヨさんやトシイチさん夫婦、それに地域おこし協力隊の石川さんなどを笑わせていました。

 新しく入る施設での暮らしについてもいろいろと気がもめたのでしょう、持って行くもの、置いて行くもの、新たに購入するものなど次々と頭に浮かんでいたようでした。 「いやー、新家庭持つ様なもんだ。冷蔵庫から何から何まで心配しなきゃならん。でも、まんまもみんな作ってくれるというし、洗濯もしてもらえるげらだ。ただ、いっぺこと金がかかるてがすけ、金がなくなったらどうしるもんだ、そっているがさ」

 話の途中、犬が動き回りはじめたので、父ちゃんは、「やろ、洗濯もん倒すなや」と言って犬を叱りました。その時、年季の入った食器棚の前にある黒い電気釜が目に入り、びっくりしました。二人暮らしなのにとても大きな電気釜だったからです。たぶん、八合か一升炊きの釜だと思います。

  「ばかでっけ電気釜だねや」と尋ねたら、「ふたりっこでも、山の人間だすけ、三合炊くがど」という答えが返ってきました。いまの時代、二人で三合を食べるというのはめずらしい。でもこの家の二人は働き者ですから、体をたくさん動かすし、腹も減るのです。二人とも年齢的には80代の後半になっていますが、田んぼも畑仕事も第一線で頑張っていました。田んぼは、昨年のうちにすべて打っておいたと言います。

 お茶飲みを終えて別れる間際、「沢」の父ちゃんが言った言葉が忘れられません。「これが岩野の最後だと思うと情けなくなる。でも、ちょこちょこ家につんてきてもらえるてがすけ」。先日、「沢」の父ちゃんは亡くなりました。満88歳でした。鉢巻きを締め、ヤンマーの耕耘機に乗って動き回る姿はもう見られませんが、岩野は野の花の宝庫、エゾエンゴサクをはじめ、アズマイチゲなどの花が次々と咲きます。時どき、カメラを持って訪ねたいと思います。   (2014年6月29日)



第310回 キイチゴ

 強い風にあおられて山にある大半の木の葉が裏側を見せた日のことでした。偶然と言えば偶然なのですが、山の風景写真を撮り終わり、軽自動車に乗り込もうとした瞬間、土手にある黄色のイチゴが目に入りました。

 おやおや、こんなところにもあったのか。そんな思いで近づいてみると、イチゴはちょうど食べ頃のものばかりです。まずはカメラに収め、その後、茎のあちこちに付いているトゲに注意しながら一つひとつもいで左の手のひらに入れました。

 イチゴの実は小さな粒が集まって塊(かたまり)になっています。色は黄色というよりもオレンジ色に近い感じです。手のひらにのせると、そうですね、粒は小さめですが、イクラと同じように光っていました。

 イチゴの塊は大きなものでも、せいぜい直径1.5ミリくらいです。たいがい、ひとつの塊の中のいくつかの粒はカメムシなどに食べられていて、塊を丸ごと食べられないことが多いのですが、ここでみつけたイチゴのなかにはそういったものはほんの2、3個で、全体としてきれいなイチゴでした。

 手のひらにのせたイチゴは全部で12個。何かの入れ物に移して、家へ持って帰ろうという気持ちがなかったわけではありません。ただ、今年は家の近くですでに1回採り、妻などと一緒に食べたことがありました。家に持って帰るよりもイチゴの全部を口の中にパッと入れて食べてみたい気持ちの方が勝っていました。口に入れたイチゴは口の中全体にあっさりした甘みを広げていき、じきにのどへと移動していきました。

 この日、私が見つけた黄色いイチゴは頸城区の玄僧(げんぞう)という集落を過ぎ、吉川区へと抜ける道のそばにありました。小さな実を食べ終わってから、近くの杉林のすそへと目を動かしたところ、イチゴの木はまだ何本もあります。しかも実がついていました。どうしようか迷ったのですが、採るのをやめにしました。あまり時間がないことが最大の理由です。もうひとつ、かっこいい言い方をすれば、ここのイチゴを楽しみにしている人は他にいるかも知れない、その人たちのためにも残しておこうと思ったのです。

 じつは先日、私の地元でもキイチゴのことが話題になり、みんながこの実を楽しんでいることがわかりました。

 私の牛舎の近くの杉林のすそに、最近、イチゴの木が増えてきています。それも黄色だけでなく、赤いキイチゴも急速に繁殖してきていました。それに気付いたのは私だけではありませんでした。よく散歩している「橋本屋」(屋号)さんも見つけ、「キイチゴならあそこにもあるよ」と何人かに教えていたのです。

 「下稲場」(屋号)のお母さんもその一人でした。「ちょっと食べるだけでいいんだけどね」そう言って私に声をかけてくださった「下稲場」のお母さんは、黄色いキイチゴを食べた時の喜びをうれしそうに語った後、「おまんに一度、訊いてみたいと思っていたがでもね」と言いました。そして、「いつ頃からあそこに赤いイチゴが増えたのか。食べられるんだろかね」と質問してきたのです。

 おそらく、食べられるイチゴなら、お孫さんにも食べさせてあげたいと思っておられたのでしょうが、話を聞いてうれしかったですね、何人もの人がキイチゴの小さな実のことに関心を持ち、ちょっとでいいから食べてみたいと思っているなんて。
  (2014年6月22日)



第309回 チマキ

 いつも大きな体を揺さぶって動くSさんの姿が見えないからおかしいなと思っていました。何ということでしょう、腰の骨を折って45日も入院していたというのです。

 Sさんは今年、88歳になりました。2か月ほど前、ちょっとした拍子に厨房で転倒してしまったといいます。打ちどころが悪かったようで激痛が走りました。直江津の病院に入院し、手術を受け、ある程度落ち着いたところで柿崎病院へ転院しました。そこでリハビリをやりました。病院の職員さんたちに「お母さん、リハビリ、ちゃんとしなけりゃ、寝たきりになるよ」と言われ、必死になって努力した結果、退院することができました。

 私が訪ねた日、2階へ上がる階段の一番下には小さな紙の箱があり、その中にはトマトが3個、大きな丸なすが2個、それに豆腐が一丁入っていました。大潟のマルキンさんから購入したものです。

 この箱があるということはSさんがいるに違いない。そっとのぞいてみると、すでに私に気付いていたようで、「きない、きない」と手招きしています。厨房の中に入ると、そこには5月に満90歳になったお連れ合いのKさんの姿もありました。

 真ん中のおおきな調理台の脇の椅子に座ったSさんは、お茶をすすめてくださり、「これ、初もん、おばあちゃんに持って行ってくんない」とチマキを6個出してくれました。ガスレンジを見ると、そこには大きな鍋がのせられています。二人は今年初めてのチマキづくりをしていたのです。Sさんはこれをやりたくて頑張ったんですね。

 Sさんは退院したばかりですので、いうまでもなく無理はできません。動きもまだまだです。Kさんがどういう役割をしているかはすぐにわかりました。「はい、そろそろ、いいだろ」というSさんの言葉を確認したKさんが鍋のふたを開け、そばを茹でた時に使う水切りでチマキを数個ずつすくっては鍋の外へと出していました。茹でたチマキを乾かすのもKさんの役目でした。

 私の目の前でKさんがやっていたのはチマキづくりの第二陣でした。この日、チマキは2回茹で、1回目のものの一部を私がもらったのでした。見ていて、分かったのですが、Sさんは笹に米を入れて巻く仕事など自分でできることは自分でやり、鍋に入れて茹でる、あげる、干すなど力のいる仕事はすべてお連れ合いに頼んだんですね。その二人の呼吸が見事に合っているのにはびっくりしました。

 ひと段落してから3人でお茶会をやりました。お茶を飲み始めてまもなく、Sさんは画像を見ながら手術をしてもらったときのことを体をひねりながら解説してくれました。よほど印象に残ったのでしょう、鉄をどこに、どんなふうに入れたとかの話はまるで実況中継を聴いているようでした。

  「若い時の半分も仕事できなくなった」と切り出したKさんの話もまた興味深いものでした。49九年前の新潟国体のときといいますから、40歳頃の話です。驚いたことに、Kさんは国体旗を持って柏崎から柿崎まで走ったというのです。長距離走は得意だったようで、子どもさんにも引き継がれています。

 母へ渡してくれというチマキは、私もご馳走になりました。茹で加減もちょうどよく、何もつけないでも美味しいものでした。私はSさんの執念を感じました。Kさんと二人で力を合わせて作ったチマキのこの味は一生忘れることがないでしょう。
  (2014年6月15日)



第308回 巣から落下したツバメ(2)

 一度あることは二度あるって本当ですね。昨年の8月、車庫の巣から落ちたツバメのことを書きました。めったにないことだと思っていたのですが、先日、その車庫のある事務所に行ったら、ツバメの子が今年も落ちたというのです。

 今年は異常気象です。この日も、まだ5月だというのに真夏のような暑さでした。板山不動尊のそばで土建業をやっている章喜さんの事務所を訪ねたのは午前8時半頃です。ウグイスが「ケチョ、ケチョ」と鳴いていました。用が済んで帰ろうとしたところで、章喜さんから「今年もツバメの子が落ちちゃったがど」と声がかかりました。

 章喜さんは、どんな様子なのか見てみたいという私の気持ちを察したのでしょう、すぐに腰を上げ、巣のある事務所脇の車庫へ案内してくださいました。ツバメが巣をかけた場所は昨年と同じく、パイプで造った車庫の屋根裏でした。

 今年はその巣からツバメの子が2羽落ちたといいます。そのうち1羽はコンクリートに体を打ちつけ即死、残りの1羽は打ちどころがよかったのか助かりました。その事故があってからドラマが始まりました。章喜さんは対策を考え、巣の下に白色のマットレスを敷き、ちょうど巣の真下あたりにタオルを入れた縦横30aほどの紙の箱を置きました。

 箱の中には運よく助かった子ツバメが1羽いました。子ツバメは黄色い口を大きく開けて、餌を催促しています。親ツバメが2羽、飛び回っていましたが、子ツバメに餌を与えることはありませんでした。

 章喜さんによると、落ちた子ツバメは一度は巣に戻したものの、また落ちてしまったといいます。落ちたのか、落とされたのかは分からないそうです。いったん人間の手にふれると、いくら自分の子であっても親ツバメは子の面倒をみないのではないか、とも言っておられました。

 昨年の場合は8月で、事務所の周りにバッタなどがたくさんいたので、餌には困らなかったそうですが、今回は違いました。まだバッタなどの昆虫類がたくさん出てくるまでには時間があり過ぎます。それで、どうしたか。章喜さんは、ホームセンターへ行って、さなぎを買ってきて、餌としてくれていたのです。

 餌くれは、人間のように3食ならまだしも1日に何十回もくれる必要があるとか。それに、ヘビなどの危険から身を守ってやることも必要です。ひとりでできる仕事ではないので、家族みんなが交代でツバメの子の餌くれや見張りをしているそうです。

 ツバメの子が巣から落ちたというニュースは、その日のうちにインターネットで発信しました。「ツバメの赤ちゃんが巣から落下」と書いたら、何人もの人から便りが寄せられました。私の地元のランさんからは、「巣には戻せませんか。お世話たいへんでしょうが、飛べるまでがんばって」と応援メッセージがありました。三和区のトシコさんは、「幼い頃、猫を飼っていて、出産したばかりの子猫を見たら、翌日に母猫が我が子の首を食いちぎった記憶が鮮明に残っています。動物の世界も厳しいんだね」と言葉を寄せてくれました。みんな、心配しての便りでした。

 いうまでもなく私も気になりました。4日後、章喜さんに電話したところ、餌をくれていると、手のひらから腕を伝わって肩まで行くようになったと嬉しそうでした。そしてこう言って笑いました。「 忙しくて仕事にならんがど。商売あがったりだ。ここまでくれば、巣立つまで面倒みるてもんだこて」
 (2014年6月8日)


 
第307回 64年ぶりの再会

 「おまん、いま、どこにいるが。お客さんだよ」そう言って電話をくれたのは地元、代石集落の「丸木屋」(屋号)のシュウちゃんです。お客さんが誰かを聞いてびっくりしました。64年前、私をとりあげてくれた助産師のフミ子さんだったのです。

  「お客さんだよ」と言われた時、私は訪ねてきてくださったのはフミ子さんだと直感しました。というのは、フミ子さんの姪にあたる浦川原区の久代さんから住所を教えてもらい、私が書いた本を送っておいたことがあったからです。でも、手紙をくださることがあっても、わざわざわが家を訪ねてきてくださるとは……。

 私は電話を受けた時、高田からの帰り道で、ラーメン屋さんに寄ってタンメンを注文したばかりでした。大急ぎで食べて、わが家へと急ぎました。わが家に着くと、玄関先には母と近くに住む従姉の他に、見知らぬ二人の女性の姿がありました。そのうちの一人は背が少し丸くなっているけれども、黒い帽子が似合う素敵なおばあちゃんでした。一目でフミ子さんだとわかりました。もう一人の女性はフミ子さんの娘さんです。お母さんを車に乗せてわが家に連れてきてくださったのでした。

 すぐにフミ子さんのそばに行き、手を握りました。私をとりあげてくださった助産師さんは母よりもいくつも年上の人だと思い込んでいたのですが、思っていた以上に若い人でした。実際、年は母よりも二つ下だとか。手を離すと、フミ子さんは「まあ、握手までしてもらって……。どうも、どうも。初めてお目にかかります。宮川と言います。宝の文章、書いてくんなさってありがとうございました」と一気にしゃべりました。

 フミ子さんについてはだいぶ前に母から聞き、本にはこんな話を書きました。私が生まれたばかりの頃のある日、私の体温が下がり、足が冷たくなってきて、危険な状態になったときのことでした。母の実家のある旧旭村竹平で開業していた医者の内山先生がすぐに来て、私の足にコツンと注射を打ってくれたといいます。そして、内山先生と一緒だった看護師でもあるフミ子さんが母に声をかけたというのです。「行火(あんか)よりもおまさんの体で赤ちゃんあっためなった方がいいんじゃないかね」と。

 旧旭村藤尾出身のフミ子さんは当時、助産師の資格を取ったばかりで、赤ちゃんをとりあげたのは私が第1号でした。それだけに心配してくださったのでしょうね。もちろん、私の記憶にはまったく残っていないのですが、注射やフミ子さんのアドバイスが効いたのでしょう、おかげさまで無事回復することができたのでした。

 フミ子さんは結婚後、旧吉川町上川谷に住み、その後、柏崎市へ移住しました。柏崎に出てもう45年経つそうです。まだふるさとが恋しくて1年に1回はふるさとに戻ってきているとのことでした。柏崎へ出た人は多く、最盛期には旭会をやると70人から集まったこともあったそうです。母とフミ子さんは同郷なので共通の話題も多く、「隠居」(屋号)の弘夫さんのことや「山ノ脇」(屋号)の話が次々と出ました。

 保育園に通う子どもさんの迎えがあるということでフミ子さんたちがわが家で滞在した時間はわずか15分ほどでした。母がお土産をもらったお返しに「ふうきの甘煮」とお菓子のゼリーを渡そうとすると、フミ子さんは、「おまさんばっかしゃ、いいてがに。かえって迷惑だこてね」と遠慮がちに受け取りました。そして別れの時間がやってきました。フミ子さんを乗せた車が走り出すと、母もフミ子さんも声を掛け合いました。「お元気で、達者でね」「またね」。この二人、姉妹のように見えました。
 (2014年6月1日)



第306回 四回目の運動会

 いつもこの運動会には素敵なドラマがあるんですよ。ぜひ出かけてください──ある新聞記者さんに電話でそう話したのは、県立吉川高等特別支援学校の運動会が始まる1時間ほど前でした。

 5月も半ば、数日間、夏のような高温の日が続きました。その後、一気に気温が下がり、運動会の日は寒くて防寒着を用意しなければならないくらいでした。創立から4年目の同校の運動会は初めて体育館内で開会式をやり、前半の競技もこの室内で行われることになりました。

 段ボールを次々と敷き、その上を歩いてゴールを目指す種目やフラフープをくぐり、それを校長先生や教頭先生に渡す種目など1学年から3学年までの競技種目が終わってまもなく、ふれあいレースが始まろうとしていた時でした。

 来賓席に姿を見せた前PTA会長の伊藤さんが、私に小さな声で「きょうは卒業生も来ているんです」と教えてくださったのです。うれしかったですね。ふれあいレースに参加する人たちのの列を見ると、眉毛の濃い男性も伊藤さんの息子さんもいるじゃないですか。ほかにも何人か見覚えのある卒業生がいました。

 3月まで同じ学校で学んでいた卒業生が体育館の中央部に登場したことにより、卒業生も参加していることをみんなが確認できました。そして、運動会の雰囲気がぐんと温かいものになったのです。在校生だけでなく、先生方も保護者も地域の人もみんなうれしそうでした。卒業生も久しぶりに母校へやってきて喜びいっぱいです。それは体の動きにも顔の表情にも出ていました。

 卒業生の参加がわかってからの種目はPTA種目、大玉送りでした。そのちょっと前、体育館内に音楽が流れました。君は何を今 見つめているの 若い悲しみに 濡れたひとみで……そう、青い三角定規のヒット曲、「太陽がくれた季節」です。誰が考えたのか、素敵な演出でした。大玉送りは2対0で紅組の勝ちとなりましたが、負けた白組の人たちもいい気分で競技に参加できたのではないでしょうか。

 体育館内での最後のプログラムは紅組と白組による応援合戦でした。これがまた、力の入った応援合戦になりました。鳴り物はどちらの組も太鼓とペットボトル。ペットボトルの中には小石でしょうか、硬いものが入れてあるようでした。太鼓の音とペットボトルのガチャッ、ガチャッという音がかみ合い、力強い応援となりました。

 旗振り役の生徒も頑張っていましたよ。白組の旗振りは吉川中学校出身のY君です。隣の席に座っていた「まちづくり吉川」の小山会長さんが「あっ、Y君だ」と言った次の瞬間、私も「がんばれ」と声をかけていました。応援リーダーもよかったです。力強い応援を指揮し、応援が終わった時点で、全員を整列させ、「礼、ありがとうございました」という言葉がまた決まっていました。

 私はこの日の運動会は都合で前半だけしか見られませんでした。前半の種目が終わった時点で、来賓席に来た先生が、「年々、パワーアップしてきています」と言われ、吉川小学校前校長の八島先生も「応援がすごかった」と評価されていました。

 開会式で校長の赤松先生は、「一つひとつのご飯つぶもオニギリになるときはギュッとしまって力を発揮します。がんばりましょう」と話しておられました。四回目の運動会では生徒、教職員、保護者、地域の人たち、それに卒業生も加わって、みんなが力を合わせて大きなオニギリをつくることができたと思います。
  (2014年5月25日)


 
第305回 新緑の中で

 数年前の地元紙に掲載された写真がずっと気になっていました。大島区旭地区の新緑祭の写真です。そこには私が知っている吉川区在住の2人の女性の姿が写っていました。2人ともとてもうれしそうな表情をしていました。

 2人が日頃、ブナ林の近くに住んでいるにもかかわらず、わざわざ大島区まで出かけたのは、そのイベントに何かいいことがあるに違いない、いつか確かめてこよう、そう思いました。

 あれから数年が経ち、この4日、ようやくそのチャンスがやってきました。集合場所は旭農村環境改善センター前。開会15分前に着くと、すでに大勢の人たちが集まっていました。7、80人はいたでしょう。知らない顔の人がほとんどでしたが、田麦のケンイチさん、ケンジさん、藤尾のイチロウさんなどから次々と声をかけてもらいました。

 新緑祭の開会式は主催者代表のシゲルさんの挨拶のあと、ブナ林散策グループと山菜採りグループに分かれて行動しました。山菜採りグループは希望者が多く、3班に分かれました。私は案内役がシゲトシさんの山菜採りグループに入りました。

 竹林寺の脇の道を進み、十数分歩いて着いた場所は、田麦と角間を結ぶ旧道沿いの山です。ここは私が子ども時代、母の実家へ行くときに何度も通ったことのある場所です。懐かしい。下の方には田んぼ仕事をしている人たちの姿が見えました。

 旧道は荒れ、雑木が伸び、道を覆っていました。まだ雪解けしてから日が浅いとみえて、じめじめしています。そこにもっこりしたコゴミの芽があちらこちらとありました。「ありましたよー」というシゲトシさんの声を聞きながら、私も含め、みんながせっせと採りました。手ごろな大きさのコゴミと出合ったのは今春初めてです。

 しばらくして山の斜面にウドの姿も見えました。ここでは地元の人が遠くからやってきた人たちにウドを採るよう促していました。面白かったのはウドのそばへ行くにはどういうルートで登った方がいいか、竹平のフミエイさんや群馬のタカジさんなどが声を出し合っていたことです。ガイド役の人だけでなく地元の人たちや山菜採りの経験者が一緒になって、ああだこうだとやっている、とてもいい雰囲気でした。

 山菜採りを終え、斜面を登り、ブナ林を歩いているうちにブナ林散策グループの人たちと出会いました。こちらは20人ほどで、田麦のウエキさんがガイド役です。棚田が下の方に見え、遠くには信越国境が見える眺望のいいところで、ウエキさんの説明が始まりました。ウエキさんは、雪の残った信越国境の山々を指しながら、「あそこは信越トレイルがあるところで……」と紹介していました。説明を聞きながら、みんなが集中して美しい景色に見入っています。これも素敵な光景でした。

 この日は五月晴れ。山菜採りやブナ林散策を終えてからは懇親会でした。会場となった野外広場は120人を超える人たちでにぎわいました。三和区のマサオさんや安塚区のユキオさんなどと挨拶を交わした後、山菜の天ぷらや焼き肉、従兄の連れ合いが用意してくれた美味しいおにぎりを食べて交流しました。

 びっくりしたのは天ぷらです。20数aの長いウドがそのままの形でどんと揚げて出されたのです。これがまたうまく、話題になりました。初めて出会った人たちとの話も弾みました。新緑をみんなで見て、みんなで採って、みんなで食べて楽しむ。新緑はひとりでも楽しめますが、こんなふうに楽しむのもいいもんですね。
  (2014年5月18日)


 
第304回 湯呑みが七つに

 4月から5月にかけての連休、帰省客のある家ではどこでもいつもとは違った雰囲気が生まれるのではないでしょうか。わが家はそうなります。

 今年の連休の後半、金沢市で仕事をしている次男夫婦が帰ってきました。帰省した日はちょうど日曜日、母のデイサービスの日です。いうまでもなく母はいませんでした。早く家に着いた次男夫婦が初めて母を迎えるかたちとなりました。

 午後4時少し前、デイサービスの送迎車が到着し、母が下車。スタッフの人に、「おばあちゃん、ウドの皮むきすると手が黒くなるよ」と言われるなか、歩きはじめました。次男の車が玄関前に置いてあるのが目に入り、母の気持ちはもう次男の方に向いてしまっています。

 母は居間に入るとすぐに、「顔、見るが楽しみにしていたがど」とうれしそうな顔をして次男に声をかけました。次男は次男で、デイサービスに通い始めた母の様子が気になっていたようです。「大丈夫かね」とでも声をかけたのでしょう、母がすぐに話しました。

「体、どこも痛くねし、山菜採りにも行かれる。畑にも行かれる。おれは普通に食べられるし、毎日、何を食べるかばっか考えているがど」

 次男がそれを聞いて、今度はデイサービスの様子を尋ねます。「ばあちゃん、いい男いたかね」との質問に、母は直接答えず、フフフと笑いながら、その日、デイサービスであったことを次々と語り続けました。

「あこへ行くと『ばちゃの体操』するがど。足、動かしたり、手、動かしたり、顔、動かしたり、へらもあっちこっちと動かすがど。風呂にも入んてもらったし……。昼には、ごっつおあったわ。でっけ入れもんの中に、卵に、キノコも入っていた。肉もあったし、ホウレンソウも豆腐も入っていた」

 頭の中に一つひとつ浮かんでくるので、それを拾って言葉にする、そんな感じで話してくれました。

 次男夫婦が帰省することを聞いていた母は、デイサービスへ行く前に迎える準備をしていました。そうです、次男夫婦に食べてもらいたい食べ物の料理です。

 デイサービスの話が一区切りしたところで、母は立って台所へ行きました。そしてまず持ってきたのが「ウドのさんばい」です。ウドには赤みがあって、しかもでかい。15aほどの長さに切られていました。「うわー、すごい」という声に応えて、母は、「五倍酢、ちょっとたらして、それから普通の酢に漬ける、そうすると赤くなるがど」と得意げに説明していました。

 母はウドに続いて、ワラビも持ってきました。これも15aはあるでしょう、この長さにみんながびっくりしました。ワラビはアク抜きした後、ほどよくゆでるのがコツです。ちょうどいい柔らかさでした。さらにタケノコ、自家製のコンニャクを一つひとつ持ってきました。

 母が台所と居間を行き来している間に、次男の連れ合いが茶道具入れから飯台の上に湯呑み茶碗を出しはじめました。湯呑みは白く、サクラの小さな花びらがいくつか描かれています。湯呑みを一個一個ゆっくり出す、その丁寧さに感心しました。

 出された湯呑みは二列に並べられました。いつもは四、五個なのにこの日は七個です。七個の湯呑みを見ていたら、何となくうれしくなりました。
 (2014年5月11日)


 
第303回 閉店を惜しんで

 「こんばんはー」という女性の声がお店の入り口から聞こえたのは、会も後半に入ったころのことでした。でも声はすれども、顔は見えません。入り口付近のお客さんの目が店の入り口に集中しました。

 数秒後、戸が少し開けられ、そこから顔を出したのは……。びっくりしましたね、腹話術のときに使われるキンちゃんだったのです。続いて、キンちゃんを抱いているK子さんの顔も見えました。

 驚きはそこで終わりませんでした。畳半分ほどの大きさのプラカードが続いたのです。プラカードを持っていたのはKさんのパートナー、Hさんでした。大きな厚紙からあふれでるように黄色や水色の花、子どもたちの笑顔が貼り付けられています。ピンク色の大小ふたつのハート形の貼り紙もあります。そこにはメッセージが書かれていました。人間の顔くらいのハート型の紙には、「感謝 ありがとう」、もうひとつ、人間の顔が10人分くらい入る大きなハート型の紙には、「とくこさん お誕生日おめでとうございます ますますお元気で」と書かれていました。

 店内のお客さんたちは一瞬、「おおっ」という表情をして静まり返り、再びキンちゃんとプラカードに集中しました。2台のカメラが動き、何枚もの写真をとりました。「お誕生日 おめでとうございます」と言いながらキンちゃんはカウンター内に入り、お店の店主、トクコさんに声をかけます。オレンジの生地に白い水玉が描かれたエプロンを着たトクコさんも大喜び、笑顔と拍手でキンちゃんを迎えました。

 この日は上越市高田の大町にある居酒屋・「柊」(ひいらぎ)の、お客さんを呼んでの「さよならの会」でした。4月いっぱいで店を閉じることになったことを聞いた馴染みのお客が次々と訪れました。K子さんもHさんも馴染み客だったのです。

 私がこのお店に初めて入ったのは数年前です。高田在住の友人に誘われ、そこで2時間ほど飲み、食べさせてもらいました。そこで食べた魚とご飯がとても美味しく、それだけでこの店が好きになりました。以来、年に2、3回は訪れています。

 この日、私が店内に入ったのは午後6時ちょっと前です。すでにカウンター前の席に数人、畳が敷かれた小さな部屋には5、6人のお客さんがいました。私はカウンター前に仲間入りさせてもらいました。

 カウンターには大きな皿がいくつも並んでいました。私の好きなウドやシシャモもあります。シシャモは味付けが抜群でした。私も早速ビールを注文、飲み始めました。お客さんが増えてからは、通路にいくつもの椅子が追加されました。

 お客さんの顔ぶれを見たら、何人も知っている人がいました。会社の元社長さん、造り酒屋の親方さん、学校の先生などです。店では一度も会っていなかったにもかかわらず、話をしているうちに、以前からここで一緒に飲んだことがあるような気がしてくるから不思議です。三和区のHさんとは旧吉川高等学校醸造科の同級生のみなさんのことや醸造科廃止反対運動のときの思い出話などを語り合いました。もちろん、カウンターの中にいたトクコさんたちとも話しましたよ。

「さよならの会」では何人ものお客さんが花や感謝の言葉をトクコさんにプレゼント、「柊」の閉店を惜しみました。「柊」の花言葉のひとつは「歓迎」、控えめで清楚な花が香りで相手を「おもてなし」するところからきているとか。「柊」のトクコさんのことですから、中郷区でも新たなことに挑戦されるはずです。また出かけてみたいと思います。
 (2014年5月4日)


 
第302回 デイサービス

 母が初めてデイサービスへ行った日のことです。買い物でも病院通いでも出かけるときは、いつも出発時間ギリギリにならないと用意が整わない母ですが、この日はもう30分も前に靴下を履き、頭にネットをかぶって準備を終了していました。

 午前8時45分には迎えの車がわが家にやってくるというので、私も母と一緒に炬燵に入って車を待ちました。テレビではコマーシャルが流れていました。
「はてな、ありゃ、誰だったかな」
 母は、急にテレビに写っていた俳優さんを指差して言いました。
「小林旭だがね」  
 と私が言うと、
「あーら、ほんとだ」
 という言葉が返ってきました。こんな会話だけならいいのですが、母の場合、物忘れが普通よりも進行したということで、医療、介護の専門家の人から、デイサービスに通うことを奨められました。

 母はしゃべる方はいつも通りです。この日も、迎えの車が来るまでの間、先日亡くなったばかりの同級生、稲田のカズヲさんのことやデイサービスセンターで一緒になるであろうおばあちゃんたちのことを次々としゃべってくれました。
「おまん、この間、カズヲさんが新聞に載っていたと言ったこて。今度、春日山の留一さんもハガキで教えてくんなった」
「おまんたの同級生の男しょで生きていなるがは留一さんだけか」
「いやいや、群馬の幸四郎さんも元気だし、藤尾の一平さんも元気だ」

 何を思い出したのか、母はフフフと笑いながら、再びしゃべりだしました。

 「カズヲさんはシンヤ(屋号)という家からテッキョウ(屋号)という家に嫁に行ったがど。ふんだでも、名前が変わらんかった。名字は同じ小山だったし、名前もカズヲさんはカタカナだったがでも、一緒になった人も漢字で一雄だったすけ、カズヲさんが『カズオ』さんとこへ嫁に行ったことになるがど……」

 母のしゃべりが止まると、チックタック、チックタックという柱時計の音がよく居間に響きます。そこへ、有線電話が鳴りました。

「まだ迎えに来ね。ありがとね。はえ、そろそろだろ……。はえ、行くばっかになってるよ……。はいよ、ありがとね」

 時どき母のところに遊びに来てくれる従姉も心配して電話をくれたのです。
 
 そうこうしているうちに迎えの車が来ました。2人の職員さんが玄関のドアを開けて、「おはようございます。デイサービスセンターです」と元気に声をかけてくださいました。「もうしゃけねーです」と言いながら、母は靴を履き外に出ました。職員さんたちに支えてもらって歩く姿は一見、具合が悪そうに見えますが、大丈夫です。

 たまたま 隣の家に来ていた尾神のタカワラ(屋号)のお母さんも、少し経ってからやってきて、「この間、コゴメのバカでかいがくんなったがに、どうしたが」と心配して声をかけてくださいました。ありがたいですね。

 母の初めてのデイサービスはこうしてはじまりました。母は原之町のTさんやわが家の畑の近くに畑を持つSさんなどと話ができたとか。「日曜日ごとというがすけ、また行ぐがねかな」と言う母、次回は誰とおしゃべりできるか楽しみにしています。
 (2014年4月27日)


 
第301回 スイセン


 青空の広がる天気が続いています。木々が芽吹き、近くの里山ではヤマザクラやコブシ、ムシカリなどが白い花を咲かせています。この時期、写真に撮りたくなる風景が次々と出現しますが、今年は思いがけない風景と出合う機会が何度かありました。

 先日の夕方のことです。夕日の写真を撮ろうとわが家の牛舎脇の荒れた畑に入って、低い位置から夕日にカメラを向けた瞬間、アッと思いました。私の足下にスイセンが広がっていたのです。それもひとつやふたつではありません。雪で倒れたカヤの下から数十本、いや数百本のスイセンが黄色や白の花を咲かせていたのです。

 思いがけずたくさんのスイセンに出合えた、それだけでもうれしかったのですが、そこで畑を作っていたTさんの姿も思い出し、胸が熱くなりました。

 Tさんは隣集落の下中条に住んでいた人で、数年前に病気で亡くなっています。元気なころは毎朝、自転車に乗ってこの畑まで来て、ナスやキュウリなどの野菜を作っていました。手先の器用なTさんのことですから、畑には野菜だけでなく、花も作っていたはずです。スイセンを何本か植えていたとしても不思議ではありません。

 スイセンの花に見とれている間に夕日はスッ、スッと沈んでいきます。夕日の写真はほんの1、2枚しか撮れませんでした。でも、日が沈んでからの夕焼けがまた魅力的でした。どう表現したらいいか迷うほど次々と変わる温かい色合いの空間が夕日の見えた西の空にできていました。私はうっとりして、スイセンを入れた夕焼けの写真も撮りました。

 それにしても、いったい、いつの間にこれほどスイセンが広がったのか。私自身、毎年、この畑のそばに来ていたはずなのに、なぜいままで気付かなかったのか。カヤが新しい芽を出し、生長を始めれば、この畑全体が緑色のカヤ野になりますから、花の咲く時期にこの畑のそばに来なかったのではと言われれば、そうかも知れません。でも、信じられない思いでした。

 翌日になってもスイセンのことが気になりました。再び畑の中に入りました。雪の重みで押し倒されたカヤの上を歩くと、バリッ、バリッという音がします。明るい陽射しの中で見たスイセンのなかには、花を咲かせたものだけでなく、まだカヤの下でつぼみの状態のものがたくさんありました。葉っぱだけのものもあります。そっと指で葉を挟んでみると、ニラの葉のような感触がありました。

 たまたま、畑仕事に来ていたTさんの近所のチコさん夫婦に、「あそこのスイセン、前からあんがにいっぺことあったかいね」と訊いてみました。

 チコさんによると、たくさんのスイセンの大もとになったものは数十年前、チコさんともう一人、Tさんの近所に住むカズコさんが柏崎市の鉢崎で購入してきたものだというのです。私が目にしたスイセンは、チコさんたちからTさんが分けてもらい、自分の畑に移植したものだということでした。黄色と白のスイセンのうち、黄色のものは自力でどんどん増え続けていくのだそうです。ただ、白い花のものもあちこちにありました。Tさんが亡くなってからも誰かが植えたものなのでしょう。

 30年ほど前、私が牛舎脇の畑でソルゴーなどの飼料作物を作っていた時、下中条のTさんやSさん、Kさん、竹直のKさんなどから何度もサイレージづくりを手伝ってもらい、助けていただきました。素敵な景色に出合い、昔のことも思い出すことができたのはスイセンのおかげです。あの頃もスイセンは咲いていたのでしょうか。
  (2014年4月20日)


 
第300回 帯戸のキズ

 「えっ、そういうことだったのか」……お釈迦様の誕生日の日に父が逝ってから五年、これまでずっと私たち兄弟など子どもの遊びの傷あとだと思っていたことが、父のクセによるものであることを初めて知りました。

 つい先日、父の命日のことでした。専徳寺のご住職からわが家に来ていただき、お経を上げてもらいました。終わってから、居間のコタツでお茶を飲んでもらいました。正確に言うと、お茶だけでなく、少しでしたが、コゴミの胡麻和えや赤飯など母の手づくりの料理も食べていただきました。

  「うんめね」というご住職の言葉に母も気分をよくしたのでしょうね、専徳寺さんがお帰りになってから、居間と座敷を仕切っている帯戸を見つめた母が突然言い出したのです。

 「そこの白いキズはじちゃがつけたもんだ。じちゃが毎朝、戸を開けて仏壇のお参りする時に爪で傷つけたがだ」
 
 これにはびっくりしました。帯戸についている丸い把手(とって)のそばの白くなったところは、父の爪のあとだというのです。意外でした。縦30aくらい、横3aほどの白くなったところは、私も気になっていました。かなり目立つし、漆を塗らなければならないなと思っていました。でも、それが父の爪あとだったとは……。

 母によると、父は戸を開けるときに把手に手を入れずに、すぐ近くのところへ手をやって開けるのがクセになっていたようです。父が戸を開ける姿は私も何度となく見ていましたが、把手に手をかけて開けているものだと思い込んでいました。

 母の「じちゃが……」という言葉を聞いたとき、とっさに訊き返しました。「じちゃてがは音治郎じちゃか」と。当たり前のことかも知れませんが、「じちゃ」という言葉ですぐ思い出すのは、私の場合、祖父・音治郎なのです。私が子どもの頃、一緒に遊んでくれた祖父のことは、神棚の前でパンパンとやる姿も仏壇の前で手を合わせる姿もよく憶えていたのです。

「ちがうこてや、おらとちゃだこてや」  

 そう言った後、母は「とちゃの手は稼ぎ手の手だったこて」とも言いました。確かに父は、体格も良く、手も大きい手でした。庭で米俵を縛っている時とか、牛舎での乳搾りの時の、父の太く、大きな手はいまでも鮮明に思い出すことができます。

 わが家の帯戸はわが家が尾神岳のふもとにあった時からのものです。当時は広間と座敷を仕切る戸でした。いまでは少なくなりましたが、当時はあちこちの家に帯戸がありました。

 いうまでもなく、帯戸で仕切られた広間は子どもにとっては最高の遊び場のひとつでした。紙風船をぱーん、ぱーんとやったのも、兄弟や近所のコイちゃやエコちゃなどととび競争をしたり、相撲をしたりしたのもこの場所でした。帯戸にぶつかり、戸板に割れ目がついたのは遊びのせいでしたので、白いところもてっきり、私たちの遊びの結果だと思っていたのです。

  「帯戸のキズは父がつけた」母のひと言でこれまで気づかなかった父のクセを知ることができました。また、すっかり忘れていた子ども時代のことも思い出しました。

 父が旅立った日、わが家の庭では父が最も愛したミニコブシが満開でした。今年も少し遅れてピンク色の花を咲かせています。父が観ていてくれると嬉しいのですが。
 (2014年4月13日)


 
第299回 幸せの年輪

 3月の下旬、わが家は誕生日ラッシュです。私が一番早24四日、続いて母が27日、最後は月末に妻という順番でやってきます。

 わが家では誕生日といっても、その日を祝って1個200円ほどのお菓子を食べるくらいです。それも誰かが気付いたときだけで、今年の私の誕生日は妻も忘れていたようです。妻が気付いたのは翌日になってからでした。

 今年の妻の誕生日。朝早く、長女が縦横それぞれ25aほどの四角い箱をくれました。箱にはリボンがキュッと結んであり、いかにもプレゼントといった感じになっていました。箱の上には「お父さんとお母さんのたん生日のお祝いの品です」と書かれた短冊もありました。

 長女に「中身はなんだい」とたずねると、「バームクーヘン。幸せが重なるという意味があるんだよ」と言います。木の年輪のようなバームクーヘンの模様を思い浮かべながら、なるほどと思いました。

 プレゼントをもらったことを妻に伝えようと、台所に行くと、電気釜がぶつぶつ音を立てていました。
「ほら、誕生日のプレゼント、もらったよ。バームクーヘンだって」
 私がそう言うと、妻から「よかったね」という言葉が返ってきました。私だけにくれたプレゼントではないのに……。

 しばらくしてから、妻は「みんなで食べよう」と言って、プレゼントの入った箱を開けました。そしてぽつりと言ったのです、「ああ、食器でなくてよかった」と。

 じつはこれには訳があるのです。数か月前、ちょっとしたトラブルがわが家で起きました。私も妻も記憶していないコーヒーカップが台所の隅から出てきたのです。うぐいす色よりも少し緑が濃い色のカップには、小さな植物の芽が出て、葉っぱを2個つけた絵が入っていました。

 見た瞬間、「素敵なカップだな」と思いました。そこらへんは妻も私の心の動きが見えたようで、「いったい誰からもらったのよ」と訊いてきました。ところが、もらったような記憶はかすかにあるけれど、いくら考えても、「うーん、誰だろう」という言葉が出てくるだけで、贈り主の名前が思い浮かばないのです。

 約1時間後、険悪な雰囲気になりそうだったところを救ってくれたのは、「おねえちゃんじゃないの」という長男のひと言でした。私には別にやましいことはなかったのですが、この日は、どういうわけか、長女のことが頭から抜けていました。そうですよね、こういうプレゼントをくれる人はまず家族から考えるべきでした。

 さて、バームクーヘンです。長女の「幸せが重なる」という言葉が心に残っていて、包丁で切った断面をしみじみと見てみました。年輪のように見える横線は一直線ではなく、ところどころカーブしています。また線と線の間隔はほとんど同じ幅ではありますが、なかには狭くなったり、広くなったりしているところもありました。

 妻によると、バームクーヘンの年輪模様は卵や薄力粉などで作った生地を塗って焼く、焼けたらまた塗るという作業を繰り返すなかでできるのだそうです。いまは大量生産の時代、生地は機械で塗っているのでしょうが、それでも空気が入ったり、生地の量が微妙に違ったりして、様々な模様ができるんですね。人生と同じです。数えてみたら、もらったお菓子には23の「幸せの年輪」がついていました。 
 (2014年4月6日)


 
第298回 母さがし

 もう何十年も前のこと、学校から家に帰ると、外は真っ暗なのに家には母がいないということが何度もありました。切なくなって、畑や田んぼなどへさがしに行き、母を見つけると、「かーちゃ、早くきなーい」と呼びかけたものでした。

 先週の月曜日、子どもの頃のこの記憶を呼び戻すようなことが起きました。この日はちょうど私の誕生日、私は市役所をいつもよりも早く出て家に戻りました。

 暗くなる少し前の時間ですから、母は家にいるものと思っていたのですが、玄関前にあるはずの母の三輪自転車がありません。いうまでもなく、家の電気も点いていませんでした。まだ完全に日が沈んでいなかったものの、急速に暗くなる時間帯、母はどこにいるのだろうと心配になりました。たぶん、フキノトウを採りに出かけているに違いない、そう思った私は再び軽乗用車に乗って、母をさがし始めました。

 最初に出かけたのは、集落のはずれにある田んぼです。だいぶ前に、ここの田んぼの畦やすぐそばにある川の堤防でフキノトウをさがしたことがありました。母が春先に栗を見つけたことのある場所もこの田んぼの先でした。農道をゆっくり走りながら、母の三輪自転車をさがしました。母は山菜採りでも笹の葉採りでも、道の端に自転車を止め、そこから現場に歩いて行くのが常でしたから、自転車は母をさがすときの目印になっているのです。

 田んぼは十数枚あります。遠くから見た時、そのなかの一枚にしゃがんでフキノトウ採りをしている母のような姿が見えました。でも近づいてみると完全に見間違いでした。それは白い肥料だったのです。がっかりしました。母の三輪自転車はここでは見つかりませんでした。

 となれば、上の方に違いない。今度は吉川の上流に向かいました。わが家からは2キロほどのところです。ここは田んぼではなくて、川の土手です。従姉から、「おまんちのばちゃ、よく採りに来ている」と聞いていた場所です。しかし、ここでも母の三輪自転車は見当たりませんでした。

 さがしはじめて30分近く経ったでしょうか。日が落ちて、辺りはすっかり暗くなっていました。こうなると、不安が募ってきます。頭の中にある動脈瘤が破裂して、倒れていないか。うっかり足を滑らせて、川に落ちなかっただろうか。最悪のことばかり考えてしまいます。従姉のところにも電話を入れてみました。従姉の家に上がり込んでお茶飲みしている可能性もあったからです。でも、いませんでした。

 もう一度、軽乗用車に乗り込み、吉川の支流、平等寺川沿いの田んぼやひと山越えたところにある田んぼへも行ってみました。どちらにも母の三輪自転車はなく、もうこれまでと観念して家に戻りました。そうしたら、どうでしょう、いつもの自転車置き場に母の三輪自転車があるではありませんか。

 家に入ると母はけろっとした顔をして、「おまん、おれをさがしていたがと」と言います。従姉と話をしたのでしょう。「そうだこてね。なしてたがだね、こんがん暗くなって」と訊いたら、何と、大出口川の上流まで三輪自転車で出かけていたというのです。私がさがした場所とは方向違いでした。そして母は、廊下から米袋を引いてきて、「ほら」といった感じで見せてくれました。思っていた通りでした。中にはフキノトウがずっぱり入っていたのです。

 母はこの27日で満90歳になりました。
  (2014年3月30日)


 
第297回 手っぱずれ

 笑っちゃいましたね。何のことはない、大本は私だったのです。

 先日のこと、テーブルの上でリンゴの皮をむき、包丁で切れ目を入れ、リンゴの一部を口に入れようとした時でした。リンゴがほぼ真ん中で割れ、割れた片方がポンと飛び上がりました。一瞬、床に落ちるかと思ったのですが、運よく、再び、私の手のなかに入ったのです。

 ホッとすると同時に、「いやー、危うく手っぱずれするところだった」と私が言うと、長男が、「実際、手っぱずれしたんじゃないの」と口をはさみました。この時、私は、リンゴが落ちなかったんだから、手っぱずれではないと言おうとしたのですが、手から離れたことは事実ですし、文句を言う気にはなりませんでした。それよりも、長男が「手っぱずれ」という言葉をよく知っているなと感心しました。

「おまん、よく、手っぱずれという言葉を知っているな」 そう言ったところ、今度は妻が口出してきました。
「あら、やだ、自分で手っぱずれという言葉を広めたんじゃない、家中に」 というのです。

 妻も子どもたちも「手っぱずれ」という言葉を憶えたのは、よそでではなく、私が何度も使っていたから憶えたというのです。しかも、私はいつも「言い訳」としてこの言葉を使っていたというのです。自分の失敗を認めたくないから、手のせいにして、自分の意志とは全く関係ないところで何かが勝手に手を離れた、そういう意味合いで使っていたというのです。

「手っぱずれ」という言葉は、ずいぶん前から使っていた記憶があります。たぶん、子どもの頃からでしょう。家族みんなでご飯を食べている時に、ちょっとした拍子に茶碗を落として割ってしまったことがありました。押さえていたはずなのに、うっかり滑らせてしまい、鍋をひっくり返したこともあります。

 私のまわりでは、手を滑らした時だけでなく、もっと広い意味で「想定外のこと」が起きた時にも使っていたように思います。例えば、「どこどこの家んしょ、手っぱずれして子どもができたみたいだ」といった調子です。

「手っぱずれ」という言葉は、現在、ほとんど使われていません。世間でよく言う「死語」になってしまった感があります。それでいながら、わが家では、最近、この言葉を使うことになる事態が多くなってきました。使っているのはもちろん私です。還暦を過ぎ、注意力だけでなく、運動能力も明らかに低下してきました。「おっとっと」という言葉を使う余裕もないほど、すぐに「手っぱずれ」をしてしまいます。

 考えてみると、わが家では子どもたちも含めて、「死語」に近い言葉をけっこう使っています。「さんざテレビを観ていた」「ふんだすけ、そっつぁなとこへ行ぐなと言ったろが」「そんがにゆっくりしてると、また、げっぱになっちゃうど」などの言葉は、わが家ではまだ現役です。

 2年ほど前、誘われて高田の大町にある居酒屋へ入った時のこと、カウンター脇に相撲文字で書かれた「高田ことば番付表」の手ぬぐいが貼ってあり、懐かしさで胸がいっぱいになりました。たしか、そのなかには「ばらこくたい」などと一緒に「手っぱずれ」もあったように思います。そろそろ、わが家でも「『ほーせ』ことば番付表」を作っておいた方がいいかも知れません。
 (2014年3月23日)


 
第296回 ひ孫

 初めて見るひ孫がよほどかわいかったのでしょう、先だっての日曜日、母は姪夫婦が赤ちゃんを連れてわが家を訪ねてくれた時のことをニコニコしながら私に語ってくれました。

 テレビでは大相撲中継が始まり、遠藤が2日目に初めて横綱日馬富士に挑戦するということをアナウンサーが紹介していました。土俵上は稀勢の里と隠岐の海の対戦。ハッケヨイ、ノコッタ、ノコッタ、上手投げー、稀勢の里の勝ちとなりました。

 ここで母は相撲を観るのをやめて、私に声をかけてきました。
「ミサトちゃんがな、オヤジさんと2人で、子ども、見せに来たがど。ほして、おれ見ると、赤ちゃんがニカニカと笑った。目配りもコッコしてた。そしたら、オヤジさん、『おれは、笑ったとこ、見たことない』そう言って携帯で写真、撮ろうとしたんだけど笑わんかったがど……」
「おまん見て、笑ったがか」
「おお、笑った、笑った。おれ、赤ちゃんをちょっと見て、『ひょっ』と言ったら、笑った。まあ、ほんとにかわいがど」

 姪のところに「天使が舞い降りた」のは1月の下旬のある日でした。すぐにでも母に見せたかったようですが、ちょうどインフルエンザが流行していたこともあって、赤ちゃんとともに姪夫婦がやって来る日は3月にずれ込みました。

 赤ちゃんを見れば、誰でも抱いてみたくなります。母のその気持ちをくんで、姪は母の腕の中に赤ちゃんを渡したのでしょうね。
「赤ちゃん、『抱いてみろ』せうすけ、抱いてみたけど、抱いていらんねがど、重たくて……」  
 母の言葉を聞くだけで、その時の様子が目に浮かびます。小柄な母には、抱き続けるのは体力的に無理だったのでしょう。母はすぐそばの座布団の上に寝かします。そしたら、赤ちゃんがまたニカニカと笑ったということでした。母が喜ぶわけです。

 久しぶりに赤ちゃんを抱いた母は、その重みから、かつて自分が赤ちゃんを抱いたときのことを思い出したようです。突然、数十年も前のことを話し出しました。
「おまんがちっちゃい時、赤ちゃんの検査かなんかがあって、分場(ぶんじょう)へ連れてったら、『橋爪エツさん』と呼ばれて……。おまん、目方が一番いっぺあったがど。それと、忘れらんねがは、東(屋号)のカチャと大東(屋号)のカチャと三人で赤ちゃんぶって、ショショウ寺(正式名称は光宗寺)に行ったことだ」

 後段の話には驚きましたね。蛍場の若い母ちゃんたち3人が連れだって、1日がかりで柿崎の平沢のショショウ寺まで歩いて行ったというんですから。それも、背中に赤ちゃんをぶってでした。ぶってもらったのはコイちゃ、ケコちゃ、それに私です。わが家のあった蛍場から坪野、芋島を経て、岩野から山の方に向かって道を歩く。想像しただけでも、たいへん疲れた気持ちになってしまいます。それでも、母たちには楽しい思い出だったようです。途中、アイスクリーム売っているお店に2回も立ち寄り、棒状のアイスクリームにかぶりついて食べたといいます。

 今月末か来月の初め、今度は昨年結婚した甥夫婦にも赤ちゃんが生まれる予定です。母にとっては2人目のひ孫となります。母のことですから、生まれれば、また、赤ちゃんを抱っこし、「ひょっ」とやって笑わせるにちがいありません。
  (2014年3月16日)


 
第295回 たまご酒

 俺は風邪をひくことなんてない。マスクをしている人を見ても、自分とはまったく無関係、そう思ってきました。どんなに疲れていても、どんなに風邪がはやっていても、これまで風邪をひくことなどなかったのです。

 そもそも風邪であろうがなんであろうが、寝込むようなことになったというのは、ここ数十年ありません。何十年も風邪をひかなかったことが、風邪とは無関係と思うほどの自信を産み出していました。

 ところが3月議会の初日、めずらしく咳が何度も出ました。「あれっ、おかしいな」と感じ始めて数時間後、今度は体のだるさを感じるようになりました。他の議員のなかには私の顔色がおかしいと思った人もいたようです。これはまずいと判断し、その日も、その翌日も早めに家に戻りました。

 考えてみれば、ここ1か月ほど土日の休みもなく動いてきました。疲れが出ても不思議はないし、風邪が流行しているので、うつる機会はそこらじゅうにあります。議会の準備もあるがまずは眠ること、そう心がけて、早めに布団に入りました。ただ、やりたいことがいっぱいあると、なかなか眠れません。

 それで、風邪をひき初めて3日目、「たまご酒」に頼ることにしました。普段、わが家にはビールはあっても、日本酒は置いてありませんので、近くのスーパーで紙パック入りのお酒を購入してきました。900ミリリットル、628円というとても安価な酒です。

 私のたまご酒の作り方は極めて簡単。私が毎日使っている大きな白いカップの中に卵を入れて、よくかき混ぜる。次に砂糖を大さじ1杯入れ、よく混ぜる。お酒を適当に入れる。再びかき混ぜる。電子レンジに入れる。時間は最初1分程度にし、その後、様子を見てチンを繰り返す。今回は出来上がりまで約2分かかりました。

 出来上がったたまご酒はとてもまろやかな、いい匂いがします。見た目は、そうですね、卵入りプリンといったところでしょうか。口の中に入れたら、甘くて、とろりとした感触がふわっと広がりました。

 たまご酒を飲んでからパソコンに向かい、ホームページを見たり、書き込みをしてみたりしましたが、言うまでもなく、じきに眠くなりました。布団に入ってすぐに眠り、目が覚めたのは翌日の午前4時前でした。布団に入った時間から計算すると、7時間くらいはたっぷりと眠ったことになります。

 目を覚ました時、外は風が吹いていました。部屋のストーブの灯油がなくなったので外に出てみたら、雪がちらちらと舞っていました。うれしいことに、アノラックを着て歩いていると、頭のふらふら感はすでになくなっていました。

 まだ、時どき咳き込むことがありますので、完全回復したとは言い切れませんが、たまご酒によって回復に向かい始めたことだけは確かです。

 私がたまご酒に頼ることにしたのは子ども時代の記憶です。これを飲めば、たいがいの風邪は治りました。作ってくれたのは母です。寝ているところへ母が持ってきてくれたたまご酒は、風邪の薬というよりは美味しい食べ物でした。飲めば眠くなります。そして今回と同じように、眠って、目を覚ますと体調がよくなっていたのです。

 みなさん、風邪をひいたときはお医者さんへ行くのが一番、二番はもちろんたまご酒ですよ、たまご酒。
 (2014年3月9日)


 
第294回 燗鍋

 心配しただけ損をしました。母の実家の従兄のことです。2週間前に訪ねたときには、連れ合いのヨシコさんが、「入ってもらえばいいがだでも、インフルエンザにかかって42度も熱出して寝てるんだわ」と言っていたので、心配していたのです。

 1週間後、私が訪ねると、従兄は玄関まで出てきて、「お茶飲んでいかんかい」と誘ってくれました。炬燵(こたつ)のところまで行くと、先客がありました。「おおくぼ」(屋号)のお父さんです。

 炬燵の上にはレンコンの酢もの、大根やニンジンの煮物などヨシコさんの手づくりの料理が並んでいました。そして、真ん中には銅製の鍋がどんと置いてありました。この銅鍋はお酒を燗(かん)するための専用の鍋です。インフルエンザにかかった従兄はすっかり治り、「おおくぼ」のお父さんといっぱいやっていたのです。しかも、かなり出来上がっていました。

 お酒を燗する銅鍋は初めて見ました。この鍋は「のうの」(屋号・母の実家)に代々伝わるもので、内側の錫(すず)のメッキはところどころはがれていました。

 銅鍋の説明が終わったところで、「おおくぼ」のお父さんが「のうの」にまつわるお酒の昔話を始めました。

「『のうの』んちは人間だけでなく、飼っていた牛や馬まで酒好きだった。酒の匂いするもんだすけ、『のうの』へ行ったら馬まで酒飲むと言われたもんだ。『のうの』んしょのとこじゃ、牛はドブロク飲んでいるとも言われたもんさ」  近所に住んでいて、「のうの」についてはいろんなことを知っているだけに、「おおくぼ」のお父さんの話には説得力があります。しばらく、家畜とお酒についての話で盛り上がりました。

 「飲めば、馬、あだけんでしょ」とヨシコさんが言うと、「おおくぼ」のお父さんは、「あだけね、あだけね。馬、酒飲むと立ったまま、いびきかいて寝るんだよ」と言いました。みんな、信じられないといった顔をしていたので、今度は私が、牛のお産の時にビール飲ませてやったという話をしました。「へーっ、ビールも飲むんかい」「おらたりんしょはもったいながってくんねかったもんね」という声が出ました。ヨシコさんが後から言いましたが、昔は牛や馬は宝でした。大事な牛や馬に感謝の気持ちを込めてお酒を飲ませることがあっても不思議ではありません。

 銅鍋で燗をしたとなると、味を確かめてみたいという気持ちが動きます。でも、この日は車でしたから、飲むことができません。可哀想だと思ったのでしょうか、ヨシコさんが「つぐら」(屋号)からもらったという山形の餅を勧めてくれました。

「山形県の餅って、何がかわってんの」と訊くと、「ま、食べてみない。あぐあぐと……」とヨシコさんが笑って言いました。普通の豆餅としか見えませんでしたが、何と、餅には砂糖が入っていたのでした。「つぐら」のイクコさんは山形県の出身だとか。「よく山形から来たもんだね」と言うと、ヨシコさんは「出稼ぎで一緒になって、おらちのジチャがもらいに行って来たがだがね」と言ってまた笑いました。

 私が山形の餅をご馳走になっている間も、従兄と「おおくぼ」のお父さんは賑やかに酒を飲み続けていました。銅の燗鍋で燗をすると、お酒はまろやかな、いい味の酒になるのだそうです。この日はお酒を飲まない私やヨシコさんをも包み込んで、楽しい、まろやかな雰囲気をつくりだしていました。
 (2014年3月2日)



第293回 青い雪

 除雪機を牛舎へと移動させているときのことでした。右側の雪壁の奥に青いものが光って見えたのです。何だろうと思い、すぐに除雪機を止め、奥の方をのぞきました。そこにあったのは雪に囲まれた小さな青い空間でした。

 見た瞬間、うれしくなりました。青い、きれいな雪を見たのは初めてです。そしてまわりをぐるりと見渡すと、青い空間は一か所だけではありませんでした。雪と雪が重なって洞窟のようになっているところ、棒でつつかれてできたようなくぼみなど、あちこちにたくさんの青い空間ができていたのです。大きさは握りこぶしほどのものからピンポン玉くらいのものまで様々でした。

 この日は今冬一番の大雪となりました。朝から、雪がもこもこと降り積もり、除雪ドーザーはお昼過ぎまでに二度も出動しました。当然、道路の端っこには雪の山ができます。高さは50aから1bほどです。機械で押しまくられた雪は高く積まれたままのものもあれば、道路に割れて落ちたものもあります。

 ここまでなら、いつも見る風景です。でもこの日は違いました。一つの雪の塊(かたまり)と別の塊の間など雪に囲まれたてできた空間の色が違ったのです。

 私が青い雪の空間を見つけたのは午後三時過ぎでした。アノラックのポケットからデジタルカメラを取り出し、青い空間のできたところを次々と移動しながら何枚もカメラに収めました。太陽の光と雪がつくりだす光景ですから、ひょっとすれば、すぐに見られなくなるかもしれないと心配しながらシャッターを押し続けました。

 青い雪の空間を見たときの胸のトキメキは自分のものだけにしておくのはもったいない。家に戻った私はすぐ妻に雪の画像を見せ、「びっくりしたよ。雪が青くなっている」と伝えました。すると妻は、「きれいだね。水分を多く含んだ雪だということね」とあっさりした顔で言うのです。驚かせてあげようと思っていたのですが、妻は私よりも前に青い雪を見ていたのでしょうね。

 この日は夕方、近くに住むカメラマンの平田さんと会う約束をしていました。次に発行するエッセイ集の表紙写真をお願いしてあったのです。平田さんのところでも開口一番、青い雪の空間の話をしました。平田さんは、「春が近いんだね」と言われました。春が近くなってから降る水分の多い雪がどんな色を見せてくれるかなど雪の表情を熟知している人ならではの言葉でした。

 家に戻ったのは夕方の五時過ぎだったと思いますが、パソコンを使い、青い雪の画像を発信しました。多くの人たちに青い雪を見てもらいたいと思ったからです。数多くの画像の中から、ちょうど水の中の大きな岩のそばにできた空間といった感じの画像を選びました。これが青い空間をもっともよくとらえた画像だったのです。

 発信したら、その直後から感想を寄せていただきました。「今日の雪は青かったですね」「結晶の関係ですかね、今日はきれいな青でしたね」「青い雪は見たことないニャー。氷河の青氷は見たけどニャー。何か混じっているのかニャー」。同じ上越市内から、あるいは新潟市の友人からのものです。そして東京都在住のMさんからも「こちらもその色でしたー」という知らせが入ってきました。

 今回の雪、私たちのところでは喜びを与えてくれましたが、いつもはほとんど降ることのない関東や甲信などの地域では記録的な降雪となり、大きな被害をもたらしました。青い雪とともに記憶しておきたいと思います。 
 (2014年2月23日)



第292回 現金書留

 まさかと思いましたが、ほんとうでした。父と母がそれぞれ手紙を書き、ひとつの封筒に入れて私のところに送ってきていたのです。

 先日のこと、市役所から私の事務所に戻ってみると、びっくりしましたね。机の上に現金書留の封筒が置いてあるじゃありませんか。現金書留と書かれた封筒は変色しつつありました。封筒は源郵便局から出されたもので、日時は昭和43年12月18日の午前8時から12時の間でした。宛先は新潟市古町十三番町に住んでいた私です。差出人は父の名前になっていましたが、文字は明らかに母が書いたものでした。

 現金書留は、「金を送ってほしい」という私からの要請を受けて、送られてきたものでした。封筒の中に現金は入っていませんでしたが、便箋が入っていました。折りたたまれた便箋は普通の大きさのものが1枚、それよりもひと回り小さなものが1枚、あわせて2枚です。どうやら、母だけでなく誰かも手紙を書いたらしい。便箋を見た瞬間、ひょっとすれば父かも知れないと思ったのです。

 折りたたまれた便箋を開いてうれしくなりました。大きな便箋には、青いインクで書かれた父のクセのある文字が並んでいたからです。そこには「御便り拝見致しました。元気の由何よりです。新大でもデモを始めた様ですが、なるべく避けて、休みに成ったら早く帰ってくることです。絶対ケガをせぬ様にすることです。毎日、妻が心配致して居ります。御金受取ってください。(五仟円也)御身大切に。父より」(原文のまま)とありました。

 母が書いた便箋は小さい方のものでした。体は小さいものの、母の書く文字は伸び伸びしていて、きれいでした。母の手紙は、「其の後お元氣ですか、一生懸命勉強してください」から始まり、私のすぐ下の弟から便りがないこと、布団を購入したことによる招待旅行で大東(おおひがし・屋号)のお母さんとともに福井県の永平寺へ行くことになったことなどが書いてありました。そして最後に、さりげなく、「けがをしない様に、お金入り用でしたら、又知らせてください」と書いてあったのです。

 父と母が私のことを心配し、そろって手紙を書いてくれたことは、私の記憶の中には全く残っていませんでした。返事を書いたかどうかも記憶していないのです。父の手紙にはデモの横にわざわざ線を引いてありましたから、デモに参加してケガでもしたらどうするんだという父の思いが強かったのでしょうね。

 2枚の便箋が現金書留の封筒に入っていたのか、それとも別の封筒で送られてきたのかはわかりません。いずれにせよ、手紙にはお金のことも書いてありましたので、同時期に書かれたものであることだけは確かです。

 私は学生時代、月額5千円の新潟県奨学金を借り、アルバイトもしていました。大学1年生の頃は、下宿代だけでも月に1万5千円かかっていましたから、それだけでは足りず、実家からほぼ毎月送金してもらっていました。だから、現金書留の封筒は何十回も送られてきたはずです。そういう中でこの昭和43年12月のものだけなぜ残しておいたのか。めったに手紙を書かない父が私宛に書いた唯一のもので、しかも母と一緒に書いた手紙だったからではないかと推測しています。

 45年前の現金書留の封筒、今回も大潟区に住んでいる弟が見つけてくれました。電話で確認したところ、昨年見つかった大学入試時の電報と同じく、牛舎の二階にあったということです。私にとって大事な宝ものがまたひとつ増えました。 
   (2014年2月16日)


 
第291回 続・母が語る昔話

 またしてもナナトリが見えるところで母の昔話が始まりました。ナナトリというのは吉川区尾神にある地名で、正式には国造山(こくぞうやま)と言います。ここは県道川谷十町歩線、名木山地内からよく見えるのです。

 先日、母が大島区板山に住む友達や伯母に会いたいというので、この道を通って車で送ってきました。今冬は暖冬ですが、この日も暖かい日でした。丸滝橋を過ぎた頃から、「あれだねかや、じちゃ、あこで炭焼きしてたがだ」と話しはじめました。

 この日、母が語ったことのなかには初めて聞いたことがいくつもありました。その筆頭は、ナナトリにはわが家の畑だけでなく田んぼもあったということです。あそこは急斜面の多い山です。稲を植えるだけの面積をよく確保できたものだと思いました。それに、田んぼをやるだけの水があったとは……。

 母によると名木山の「みね」(屋号)の人がわが家の田んぼをほしいと言って来て、私の祖父・音治郎は、そのかわりに雑木林を分けてもらったとのことでした。「あれには儲かった」祖父はそう言っていたとのことですから、山を分けてもらったおかげでいっぱい炭焼きができたのでしょう。

 母が蛍場からナナトリの山を越えて川谷の店や教員住宅まで歩いて行き、ナメコを買ってもらったことがあるという話も初めて聞きました。「とちゃがズドンと切った木にナメコがバカいっぱい出ちゃって食いきれねかったがど。そんで、売りに行こうということになったがど」と母は言って笑いましたが、父が切り倒した木はどれくらい大きな木だったのか。

「教員住宅へ行ったら、岩佐の先生が口元にいなったがど。そんで、そこにはごっつぉしのおんなしょ(女衆)がいなって、ナメコのおっつゆして食べられるそって喜んでくんなった」「そのころは道はどろんこでいい道じゃねかったすけ、岩佐の先生も泊まっていなったがど」どんな先生方がおられるか母は心配もしていたのでしょうが、親戚の先生がいたことで、安心してしゃべっている母の様子が想像できました。母がシイタケを売るためにバスに乗って大潟町まで行った話は聞いていましたが、川谷の方面まで行商に行ったとはびっくりでした。

 ナナトリから山の中腹にある細い道を下って石谷に出て、そこから板山へと行った話も聞きました。板山には伯母が嫁いだ「あいざわにし」(屋号)があります。母の姉妹が住んでいるところとしては一番近い家です。「板山のおとっちゃが亡くなって手が足らんすけてがで、石谷から登って行ったがど。そしたら、『いんきょ』(屋号、大島区竹平にある家)のあねちゃが休んでいなった。あーら、おまさんだねと言って、そこでひとしきりしゃべったがど。板山へ行くまでには、サワナとフウキがいっぱい出てた」と母はしゃべり続けました。

 話を聞きながら思ったのは、母がとても行動派だということです。板山へ田植えの手伝いに行くにしても、山を二つも越えて行かなければなりません。田植え仕事が始まるまでに到着するには夜明け前の暗い時間帯に出なければなりませんでした。よく歩いて行ったと思います。

 板山には家から35分ほどで着きました。母を迎えたのは、母の幼友達である「すぎ」(屋号)のかちゃです。「さぁさ、入ってくんなさい」と言われ、冬の出入り口から家の中につつっと入っていく母の後ろ姿からはうれしさが伝わってきました。
     (2014年2月9日)


 
第290回 穏やかな日に

 「きょうはありがとうございました。おばあちゃんがお世話になっていたサンクス米山もすぐそばだし、穏やかな海も見えます。ここなら、おばあちゃんが喜んでくれると思います」

 シズオさんの心の中には介護老人保健施設で伯母を最後に見送っていただいた大勢の職員さんたちの姿が強く印象に残っていたのでしょう、壇ばらいの儀式を無事終えた後のお斎の席の挨拶で、シズオさんはなぜこの会場を選んだのかを語りました。

 会場となったホテルは老人介護施設から200bほど離れていたところにあります。シズオさんが挨拶の中で伯母が入っていた施設と海のことにふれたので、挨拶が終わるとすぐに何人かが窓際のところへ行きました。もちろん私も……。

 この日の海はシズオさんの言うとおり穏やかでした。寄せては引く波、波の大きさが違います。波と波の間隔も違います。ずっと見ていても飽きることがありません。私たちがいた部屋の窓からは5人ほど魚釣りを楽しんでいる姿が見えました。散歩でしょうか、小さな娘さんとその母親らしい人が仲良く歩いている様子も目に入りました。目を遠くに向けると、火力発電所の煙突もガスタンクもはっきりと見えます。

 山登りの好きなリョウゾウさんは、「おばあちゃんの部屋がこっち側にあればもっとよかったね。でも、ほんとうにおばあちゃんがいる感じがする」と言いながら、「電柱の左側のずっと奥に白馬の姿が見えるよね、その手前が駒ヶ岳さ」と施設のはるか向こうに見える山々について説明をしてくれました。

 席に戻ってからは、刺身、煮魚、のっぺ、吸い物、茶碗蒸し、海老の天ぷらなど次々と出てくる美味しい料理をせっせと食べました。じつは、私も隣の席におられたお寺の副住職さんも、料理の持ち帰りはできないものだと思っていて、それならばなるべく残さず食べようと話し合っていたのです。私の大好きなのっぺはよその料理屋さんよりも多くよそってありましたが、それもたいらげました。

 シズオさんがお酒を注ぎに回っているとき、伯母の亡くなった時期のことが話題になりました。「正直言ってさ、暮れと正月だけは外してもらいたいと思ってたんだわ。ノリカズさんが遠くへ行くまではもたないと思っていた。そのとおりになったもんね」というシズオさんの言葉を聞き、年末に伯母が一時、呼吸停止状態になった後、家族がいまかいまかと気をもんだ様子が伝わってきました。

 酒がすすんで全体が賑やかになってきたなと思ったのは、鳥越のイサムちゃんの元気な声が聞こえてきてからです。「すいません。あれですわ。同級生のみんなと店に入った時、下町の伯母さんがお茶、飲んでけと言ってくんなったんだわ。おれ、飲んでいらんねと言ったがさね。それでも……」イサムちゃんは伯母が小さな店をやっていた当時のことをいつもの調子で語り、思い出させてくれました。

 伯母が生まれ育った当時、蛍場にあったわが家のことやいまも蛍場にあるわが家のお墓のことも話題になりました。何人かの人に場所を問われ、村屋の稲田商会の看板があるところから入ると、4戸ほどの集落があることを伝えました。わが家の墓は、集落を通る市道が急な坂道になる一歩手前から50bほど入ったところにあります。

 こうしてお斎の時間はあっという間に過ぎて行きました。そうそう、伯母が亡くなったことをわが家の墓に入っている祖父や父にも伝えなければなりません。雪が解け、春になったら、早めにわが家の墓へ行ってこようと思います。                                       
  (2014年2月2日)


第289回 裂けた木の枝

 「見て、あの木、芽が出ているわよ」私の前方を歩く女の人の声を聞いたのは伊豆学習会館へ行く坂道を歩いている時でした。

 目を向けると、道路から数b入った畑の平らなところに直径30aくらいの木があり、下の方の枝が裂けて横たわっていました。枝は長さが2bを優に越えていたと思います。その枝の先に赤橙色(あかだいだいいろ)をした芽が出ていて、10aほどの長さに伸びていました。

 幹から大きく裂けた枝は誰が見ても、このままでは助からない状態でした。半端な裂け方ではなかったからです。幹とつながっているのは枝の付け根の部分で、それも裂けた枝の内側が白く、むき出しになっていました。幹から枝へはほとんど栄養分がいかなくなったのでしょう、それでも生きようと必死になって芽を出している、私にはそう見えました。

 その木と枝を見つけてからは、そこを通るたびに立ち止まるようになりました。もちろん、帰りの時間が暗くなったときは別です。この木の様子はカメラにも収めました。生命力のあふれた、これほど頑張っている木の姿は記録に残しておきたいと思ったからです。カメラで撮った画像をパソコンで拡大してみたら、枝の先の部分は地面に着いていることがわかりました。ひょっとすると、この芽の下の方では根が伸び始めているかも知れません。

 冬の時期に太平洋側で4日間も過ごしたのは約40年ぶりでした。4日間の党大会は毎日晴れ、日本海側とはちがうもんだなと改めて思いました。しかも、今回は暖流の影響を受けている熱海市です。気温は高く、冬とは思えない暖かさでした。

 党大会会場の伊豆の学習会館は熱海市の上多賀地域にあります。海がかなり下の方に見えましたから、海抜200bくらいでしょうか。JR東海道線の伊豆多賀駅からゆっくり歩いて40分かかります。暖かい気温の中で、この時期の雪国では見られない植物の姿を見ることができました。

 住宅街では、黄色い花を咲かせたスイセン、二等辺三角形をした赤いサボテンの花などがまず目に入りました。住宅街を抜けて、ミカン畑や雑木林の付近を歩くようになってからは、野の花が気になりました。いくつかの葉が重ねられ、その上の方に小さな紫のつぼみをつけているのはヒメオドリコソウです。これはそう遅くない時期に咲くに違いない、そう思っただけでわくわくしました。

 びっくりしたのは石垣が積まれた脇の坂道を歩いていた時でした。明らかにスミレとわかる紫色の花がありました。なんということでしょう、ここではもうスミレの花が咲いていたのです。しかも、ひとつだけではありませんでした。前に進むと一つ、またひとつと咲いていました。全部で五個か六個くらい咲いていたと思います。雪国では考えられない開花でした。

 裂けた木の枝が芽を出した、これも雪国ではありえない光景だったと思います。温暖な気候がもたらしたものと言えば、それまでかも知れません。それでも私は、この枝の頑張りを見て、とてもうれしくなりました。

 大会の発言で一番印象に残ったのは様々な困難を乗り越え、社会変革の道を歩み始めた青年たちです。ある青年が最後に言ったのは、「まだまだ苦しんでいる青年たちがいる。その人たちに希望を届けたい」。私はこの木の枝を思い出していました。 
 (2014年1月26日)