春よ来い(13)

 
第288回 折り紙

 下町の伯母の葬儀が終わった翌日、浦川原区の介護老人保健施設、「保倉の里」に入所している「岩佐のおばさん」のところへ母とともに行ってきました。「岩佐のおばさん」に会うのは数か月ぶりです。

「岩佐のおばさん」に会いに行きたいと思ったのは、折り紙のことを思い出したからです。「おばさん」は、直江津の病院に入院していた昨年の冬、「こんがなことでもしなきゃ、手持ち無沙汰でさね」と言いながら、折り紙を使って見事なくす玉や人形を作っていました。思い出したきっかけは下町の伯母が大量の折り紙を残して逝ったことでした。下町の伯母もまた、物忘れ対策などで折り紙をやっていたのです。

「保倉の里」に着くと、職員さんが食堂にいた「岩佐のおばさん」をすぐに呼んできてくれました。母の顔を見た途端、「おばさん」は、「まあ、来てくんなったが」と言って喜んでくれました。そして、「さーさ、おれんとこへ行こさね。一人部屋だすけ」と言ってさっさと歩きだしたのです。驚きましたね、ステッキを使いながら歩いていたのですが、私よりも歩くスピードが速いんです。もちろん、母はついていけませんでした。「おばさん、元気になったな」と思いました。

「おばさん」の部屋からは外の景色が見えます。「国道が見えるし、円重寺も見える。こっちは南側になるのかね」と尋ねると、「いや、西じゃないだろうかね。それにしても、あんた、よく知ってなんね」という言葉が返ってきました。私は先日、円重寺のそばを通り、菱田の大池公園へ行ってきたばかりでした。

 ベッドの脇には棚があります。そこに白い紙で折られたツルが二羽いました。一羽はピンポン玉くらいの大きさ、もう一羽は縦横一センチにも満たない小さなものでした。いうまでもなく二羽とも「おばさん」が折ったものです。適当な紙さえあれば、なんでも折ってしまうといいますから、たいしたものです。ツルの小さな方はキャラメルの包み紙を使っていました。

 二羽の折り鶴を見て、「おばさん」が病院に入っていた当時の作品の写真が私の携帯電話に残っていることを思い出しました。さっそく携帯を取り出し、画像を再生してみました。病院のベッドの脇にぶら下げられたカラフルなくす玉が写っていました。それを「おばさん」に見せると、懐かしげにのぞき込み、作品の思い出や家に持ち帰ったことなどを語ってくれました。

「おばさん」と母との会話で一番賑やかになったのは干し柿とタヌキの話です。わが家では母が柿の皮をむき、細いヒモにくくりつけ、二階の窓のところにぶら下げて干し柿づくりをします。数年前、この柿をねらってタヌキが屋根から干し柿に接近し、ヒモの下の方の柿をいくつも盗んでいました。

 ところが、ある時、そのタヌキが屋根からすべって地面に落ちたのです。「ドスン」という音を聞いてしばらくしてから、母が外を見ると、タヌキは庭木の所でうずくまっていたといいます。屋根に登っていたタヌキは二匹で、落ちなかったタヌキは心配そうに落ちたタヌキのそばにいたとか。母と「おばさん」は何度もこの話をしているのでしょう。思い出しては笑っていました。

「岩佐のおばさん」の誕生日は一二月二日。下町の伯母と同じ日です。ただ九歳下です。下町の伯母とはもう会えないので、母とはこれまで以上に大事なお茶のみ友達になりました。約三〇分の訪問の最後、二人はしばらく手を握り合ったままでした。
 (2014年1月19日)


 
第287回 バイバイ

 「ばあちゃん、呼吸止まってしまってさあ」。下町の従姉の連れ合い、シズオさんから携帯電話をもらったのは年の暮れでした。柿崎区にある介護老人保健施設に入所していた伯母が一時、呼吸停止状態になり、危なかったという知らせでした。

 知らせを聞いたときは、父と同じことが起きているなと思いました。自力で痰を切る力がなくなり、痰が詰まりやすくなっている、その様子は容易に想像できました。痰さえ取ってもらえれば、しばらくは大丈夫だろうとも思いました。

 心配になったのは年が替わってからです。東鳥越の従姉に「おまん、ばちゃのところへ行ってくんた?」と訊かれたのです。一瞬、「えっ」と思いました。時間のあるときに行こうと思っていたからです。伯母と会ってきた従姉がそう訊くということは、伯母の状態はあまり良くないのかも知れない、そう思ったら心配になりました。

 伯母の家は旧吉川小学校のすぐそばにあり、昔は文房具、雑貨などを販売する小さなお店をやっていました。私が尾神から街に出かけるときは、必ずといってよいほど伯母の家を訪ねていました。行くと、伯母は売り場から少し奥まった部屋で行儀よく座っていて、「はい、そうですかいね」とか言って、丁寧にお客さんの対応をしていました。とても新鮮でした。伯母はまた、父や祖父がどうしているかなどを私に尋ね、いつもわが家のことを心配してくれていました。その伯母が危ないかも……。

 いったん「危ないのかも知れない」と思い始めるとじっとしていられないのが私の性分です。新年祝賀会があった日の夕方、伯母が入所している施設を訪れました。

 伯母が入っている部屋は一番奥にありました。玄関から伯母の所へ行くまでに何人かの施設利用者の方が「あっ、橋爪さんだ」と声をかけてくださいました。突然、私の姿を見て皆さん、びっくりされたのでしょう。職員のTさんの案内で部屋に行くと、そこにはシズオさんの姿がありました。このところ、毎日、伯母のところに出かけ、励ましてくれています。

 伯母はベッドで寝ていました。寝ていたといっても眠っているわけではありません。時どき、目を開けていたようですから。「ばあちゃん、代石(たいし)のノリカズさん、来てくんなったよ。わかるかね」シズオさんが伯母の耳元で何回か同じ言葉を繰り返した時、伯母の目はかすかに開きました。そして、明らかにうなずいてくれたのです。うれしかったですね。

 シズオさんは、私に伯母の具合について教えてくれました。一時はどうなることかと思ったけれど、呼びかけに反応してくれるようになったし、ひ孫のユイちゃんの写真を見せると喜んでいるようだとも言いました。

 こうした変化に確信を持ったシズオさんは、毎日のように息子夫婦がメールで送ってくれる孫の写真を現像し、アルバムふうにまとめて伯母の部屋に持ち込んでいました。私も見せてもらいました。ユイちゃんが赤いアノラックを着て立っている写真、初めて自力でお茶を飲んだ記念すべき写真などがありました。写真の多くはユイちゃんの笑顔がいっぱいです。これなら伯母も喜ぶはずです。

 午後五時半を回って、「そろりと失礼するわ」とシズオさんに告げると、また、伯母の耳元で「ノリカズさん、帰るって。バイバイしない」と催促してくれました。伯母は左手の指をちょっぴり動かしてくれましたが、その瞬間、胸がいっぱいになりました。その時の伯母の顔が晩年の父とそっくりだったのです。 
  (2014年1月12日)


 
第286回 うーちゃん

 ひ孫がいるっていうのは、どんな感じなのだろう。元日の午後、柏崎市にある妻の実家を訪ねた際、89歳になった柏崎の母の様子を見ていてそう思いました。この日、義母は、それこそ最高の笑顔をずーっと見せてくれたのです。

 じつは12月に柏崎の母の姉にあたる人が亡くなっていました。さぞかし、さみしい思いをしているのではないかと思ったら、孫やひ孫に囲まれてけっこう元気でした。とくにひ孫の「うーちゃん」がいい役割を果たしてくれていました。

 「うーちゃん」は川崎市に住む甥(おい)の子どもで、10歳の女の子です。正式の名前は「叶」(かなう)と言うのですが、いつの間にか、親も周りの人もみんなが「うーちゃん」と呼ぶようになりました。子どもながら手先が器用で、次々といろんなものを作り出して、みんなを喜ばせてくれます。

 この日も、「うーちゃん」の作品が一番の話題となりました。最初に注目したのは柏崎の母にあてた手紙です。縦20センチ、横15センチほどの赤い画用紙に、ひと回り小さな白い紙が貼られ、そこに横書きの文章が書かれていました。

 短いですので、「きよちゃんへ」と題した手紙の全文を紹介しましょう。

 きよちゃんへ。今年もにいがたに来たよ。もう冬だね。きよちゃん、うーちゃん来るのをまっていた? うーちゃん、はやくきよちゃんに会いたくて、ずーとうずうずしていた。うーちゃんの名前、おぼえてる? うーちゃんはきよちゃんの名前、ちゃーんとおぼえているよ! 「きよこ」でしょ! うらにカエルとかがいるから見てね! うーちゃんより。

 柏崎の母の名前は清子です。「うーちゃん」は親しみをこめて「きよちゃん」と呼んでいるのです。気持ちのこもったかわいい文章で、文字もきれいでした。

 びっくりしたのは手紙の裏面でした。折りたたみができる緑色のカエルの折り紙が貼られていたのです。手紙の左右の真ん中を持ち、たたんだり、広げたりすると、貼り付けられたカエルの口が大きく開いたり、閉じたりする仕組みになっていました。あまりにも見事に作られていたので、私も手紙を閉じたり開いたりしながら、カエルの歌が聞こえてくるよ。クワッ、クワッ、クワッ、ケロケロケロケロ、クワッカッカ」と歌ってしまいました。

 炬燵の上には小田原提灯もありました。これも「うーちゃん」の作品です。上部と下部には厚紙が貼られ、しっかりした作りになっています。もちろん、ちゃんとたたむことができます。白い円筒形の提灯の上部には赤いボールペンで、「きよちゃん大好き。かわいがってくれてありがとね」と書いてありました。

 この提灯を作ることになったきっかけは昨年のお盆の墓参りでした。柏崎の父が眠っている墓参りをした時に提灯の火が簡単に消えてしまったので、火が消えないような提灯づくりを思い立ったというのですから、たいしたものです。

 みんなでお茶飲みをし、作品をほめているところへ、お風呂から上がったばかりの「うーちゃん」が登場しました。「うーちゃん」は拍手で迎えられました。頭にタオルを巻いた姿の「うーちゃん」はうれしそうでしたが、そのまま真っすぐに柏崎の母のそばへと行きました。柏崎では、大おばあちゃんにつきっきりなのだそうです。

 「そう言えば、細々したのを作るの好きなのは母ちゃんの血を引いているんじゃないの」と言う声が出たら、柏崎の母も「うーちゃん」もそろって笑顔になりました。
  (2014年1月5日)


 
第285回 柿崎駅

 子どもの頃からずっとお世話になってきた駅だからでしょうか、柿崎駅で起きるちょっとした出来事がいつも心に残ります。

 先日の夜、高田の街で友達と飲んで、電車に乗って帰ってきた時のことです。柿崎駅に着いて、電車から降りようとすると、「あら、おまんだね」とNさんが声をかけてくださいました。

 Nさんとは、妻の職場が柿崎にあった頃からですから30数年来の付き合いです。長女と長男が保育園児だったころはNさんの仕事場が遊び場だったとも聞いています。Nさんは文化から政治まで幅広い活動をされていて、私も一時期、一緒に動いたことがあります。活動が多分野にわたっていることは知っていましたが、秋の大島音楽祭で浦川原区のコーラスグループの一員として歌を歌っている姿を見たときにはびっくりしました。

 電車から降りるとき、Nさんは私の下腹部に触り、「ちょっと太り過ぎだなー」そう言ったあと、駅の玄関口に行くまでの時間、私と一緒に歩きながらおしゃべりをしました。私が高田で飲んできた話をすると、Nさんは「おれは、浦川原で飲んできたんだ」と言われましたから、コーラスグループの忘年会でもあったのでしょう、だいぶ御機嫌がよさそうな感じがしました。

 柿崎駅は午後6時を過ぎると無人駅となります。この日は午後9時半を回っていましたから、すでに駅員さんはいません。無人の改札口の近くで、Nさんが「こんだ、おまんと飲みてぇなー」とつぶやきました。この言葉がとてもやさしくてね、余韻が耳もとを去りませんでした。

 柿崎駅の入り口にはタクシー乗り場があります。この日、私が電車から降りた時には2台のタクシーがお客を待っていました。予約を入れたお客さんを待っていたのでしょうか、先頭にいたタクシーの運転手さんが入り口の所に立って待っていました。

 運転手さんは源小学校水源分校時代から知っているナオちゃんです。少しぐらい暗くても、何十年も前からおにぎり顔で、いつもニコニコしているからすぐにわかります。「ちゃん」と呼んでいますが、ナオちゃんはすでに60代になっています。「飲み会があってね」と声をかけると、「たいへんだね」とねぎらってくれました。

 ナオちゃんの最大の魅力は笑顔とやさしさです。この夜もそのやさしさぶりを発揮してくれました。駅を出る時はちょうど雨がぱらついていました。すでに私の妻が軽自動車で迎えに来ていることを知っていたのでしょう、自分のタクシーに乗るお客でもないのに、玄関口の所へ行くとパッと傘を開いて私を入れてくれました。そして妻が乗っている自動車のところまで送ってくれたのです。うれしかったことは言うまでもありません。

  「春よ来い」に何度も書いたように、柿崎駅は私が少年だったころからあこがれの場所でした。未知の遠い所へ行く出発点であるとともに、ふるさとに戻る玄関口でもありました。これは今でも同じです。一日の活動が終わって、柿崎駅に降り立ったときの安堵感は他の駅では味わえないものがあります。

 今年もあと数日になりました。年の瀬を迎えて、相変わらずバタバタすることが多い毎日ですが、もう一度くらいは柿崎駅を利用することがあるでしょう。その時、また素敵な出来事が起こりそうな気がします。
 (2013年12月29日)


 
第284回 還暦祝い忘年会

 今年もあと10日ほどになりました。年内にやるべきことが山ほどあるにもかかわらず、「一年の区切りだよ、忘年会にこねかね」と誘われると、ついつい出て行きたくなります。

 4年前のことでした。高校時代の同級生から、「還暦祝いを兼ねた忘年会をやるから都合つけてよ」と声をかけてもらいました。12月議会も始まっていましたが、「還暦祝い」という言葉を聞いて、即座に「いいよ」と返事をしました。

 忘年会の会場は、仲町6丁目の同級生Iさんの家です。酒やビールなどを持ち込み、できるだけ安くやりましょうということでしたので、私は吉川特産のサルナシワインを持って行きました。飲み物はけっこう集まりましたね。女性陣の中には手づくりの料理を持参した人もいました。

 Iさんの家は明治初期に建てられた町屋です。会が始まるまでの間、箱型の階段や土間のつくりなどを興味深く見せてもらいました。屋根のこば、黒い梁などからは長い年月が経たないと出てこない色合いを感じました。土間は玄関から奥の台所や洗面所へと細幅で続いています。これは商いをやっていた家ならではの構造でした。

 会は20人ほどが集まって始まりました。乾杯の後、すぐに参加者の自己紹介、近況報告です。集まった人の中には建築会社の社長さん、サラリーマン、主婦、花屋の社長さん、大学の教授などがいて、じつに様々な話を聴けました。

 びっくりしたのは、自分の親が要介護になったので、故郷に帰ってきたという人が何人もいたことです。なかには、自分だけ上越に戻り、お連れ合いと子どもさんは関東の方に残して生活しているという人もいました。考えてみれば、同級生の親はみんな80代、90代です。そういう人が何人いても不思議ではありません。でも自分が住んでいたところを離れて親のもとに帰ってくるというのは、気持ちが優しく、条件が許される人でないとできないことです。えらいなと思いました。

 同級生は同じころに生まれ、一緒に成長し、同じように老けていきます。気持の通じることがいっぱいあります。Sさんは信越線に乗って長野県のある町に通っている人ですが、「電車の窓から毎日、南葉山とか大毛無山、妙高山などを見ているんだけど、あきないんだよね」と言っていました。わかる、わかる。私も毎日見ている風景が何よりも気に入るようになりましたから。

 参加者の中には約40年ぶりに再会した人が何人かいました。Mさんもその一人です。彼女は絵を描き、合唱もやっていて、とても輝いていました。私の近くに座っていたMさんは、「高校時代、数学の時間に鼻歌歌っていたら、橋爪君に睨まれた」という思い出を語ってくれました。私にはまったく憶えがないので、そんなことがあったのかと懐かしくなりました。

 同級生は最低、1年間は一緒だった人です。立って話す人の様子をじっと見ていると、最初は誰だかわからなかった人であっても自然と思いだすようになります。40年以上経っても、顔の輪郭などの特徴、話すときのクセ、歩く時の姿勢などはほとんど変わらないんですね。Mさんも、太い眉毛を見ているうちに思い出しました。

 先日、大学教授のIさんからメールで忘年会をやるよという案内をもらいました。今回も会場は同じです。今度は誰が来るのか、そしてどんな話が聴かれるのか、楽しみです。今回は牧区の卓さんのどぶろくを持って行きます。
   (2013年12月22日)


 
第283回 油絵

 もし一枚の絵と出合うことがなかったならこの人とは一生会うことはなかったでしょう。農村に暮らす人々を描き続けているシンヤさんのことです。一枚の絵というのは上越市展の洋画・版画部門に入選した「春の山菜採り」という題名の絵です。

 田んぼの土手らしきところでコゴミを採っている様子を描いたこの作品、春を迎えた喜びがよく描かれていました。山村ならどこでも見られる春の光景ですが、山菜を採っている二人の女性の表情がじつに明るく、楽しそうでした。

 いったいどんな人が描いたのだろうか。他に絵があるのなら、それも観てみたい。そう思って、11月の中旬、シンヤさんのお住まいを訪ねてきました。

 シンヤさんは安塚区伏野に住む男性で、現在80歳。玄関で声をかけると、お連れ合いが出迎えてくださいました。

 居間に入った途端、私の目に入ってきたのは、鴨居のところにずらりと並べられたシンヤさんの作品です。ご本人とお連れ合い、それぞれの肖像画がありました。女性グループの人たちが料理をしている絵もありました。そして、土地を開墾して田んぼをつくっている絵と牛の背中に稲をつけ、その前を人間もまた稲をそって歩いている絵が丸い時計をはさんで飾られていました。おおー、これはすごい。この二つの作品を観ただけで胸がいっぱいになりました。

 初めて会ったシンヤさんは、ハンサムというか、流行の言葉でいえばイケメンじいちゃんでした。少しひげをたくわえ、芸術家の雰囲気もあるが、それでいながら人懐こさのある人でした。炬燵のそばで、ズイキの酢漬け、野沢菜漬けなどをいただきながら話を聴きました。

 シンヤさんはもともと絵が好きな人で、小学校時代に金賞をもらったこともあるといいます。油絵を本格的に描き始めたのは63歳から。それまでは写真に凝っていたようです。ところが写真は長い月日が経つと色が変わります。色の変わりはじめた写真を絵にして残そうと思ったのがシンヤさんにとって油絵の出発となりました。以来、独学で油絵を勉強し、描き続けます。

「写真はせいぜい百年もてばいい方、油絵は何百年経っても残っているでしょ。描き始めたら、何もしねで昼も夜も描き続けていた。人の顔なんか、あれですよ、眉毛だけで三日もかかったことがあるんです」

 シンヤさんの作品は居間だけではなく、奥の部屋にもずらりと並んでいました。それだけではありません、なんと、二階の一室にも作品がたくさんあったのです。ここはシンヤさんの作業場、アトリエでもありました。亡くなった両親の姿を描いた絵、薬草採りの絵、それに裸婦の絵もありました。この家はシンヤさん御家族の住まいであると同時にギャラリー(画廊)にもなっていたのです。

 二階からは菱ヶ岳がよく見えます。この日は青空が広がっていて、雪をかぶった景色がじつに見事でした。ふるさとの山はいつもそこに住む人たちを励ましてくれます。シンヤさんが最初に描いた絵は菱ヶ岳にある不動滝でした。  今年の10月3日、シンヤさんはこの間、ずっと支えてくれたお連れ合いに、「きょうは何の日だか知っているか」と声をかけました。「初めて、こんなこと言われた」と、お連れ合いは笑いました。10月3日はシンヤさんの誕生日です。二人はこの日、ケーキの代わりにお寿司をとって食べたとか。これもまた絵になることでしょう。
 (2013年12月15日)


 
第282回 柿だんご

 今年は鈴なりになっている柿の木をあちこちで見かけます。でも、ほとんどの木は柿をならせたままです。柿を食べたいと思う人たちが少なくなってしまったんでしょうね。そういうなかで、渋柿を使ってだんごをつくり、楽しんでいる人がいます。

 だんごをつくっているのは大島区板山のキエさん、私が赤ん坊の頃、乳の出が少なかった母に代わって、私におっぱいを飲ませてくれたお母さんです。11月の下旬、キエさんの家でお茶をご馳走になってきました。

 冬用の玄関から、「ありがとうございましたー」と声をかけながら入っていくと、キエさんはニコニコしながら「さーさ、入ってくんない」と言います。

 広々とした居間に入った途端、私の目に入ったのは黒い薪ストーブでした。ストーブの上ではサツマイモが3個、それとギンナンも何個か置いてありました。どちらも美味しそうに焼けています。このストーブには窓があって、薪が燃えているのがよく見えました。見ているだけでも体が暖かくなります。

 炬燵のところへ行くと、キエさんの近所のお茶のみ友達、サダ子さんもおられました。炬燵の上には、まあ、びっくりしましたね、私が食べたくなるようなものがずらりと並んでいるじゃありませんか。ズイキの酢もの、ユズの甘煮、蒸かしたサツマイモ、キュウリの漬物、ヤーコン、ニンジンなどの天ぷら、そして、真ん中には薄茶色のだんごのようなものがありました。

 あまりにも美味しそうなのでカメラをこの食べ物に向けて、「これ、何だね」とたずねると、キエさんは、「柿だんごだいね、食べてみてくんなさい。今回は小麦粉で作ってみたけど、ちょっと硬かった。やっぱり、米粉の方がやわらかくていいわ」と答えてくれました。

 じつは、この日の1週間ほど前にもキエさんから柿だんごをもらっていました。この時のものは丸い形でした。この日のだんごはその時のものより一回り小さく、しかも平べったい形だったので、最初、何だろうと思ったのです。

 柿だんごは、今年になって初めて出合った食べ物です。渋柿を包丁で細かく切り、よく煮てかんもすとジャムのようになります。それに米粉などの粉を入れて、よく混ぜ、焼くか、蒸かすかして出来上がりです。昔は囲炉裏のなかで「渡し」にのせて焼くのが一般的だったそうです。私が初めて食べた柿だんごは一度焼いて、揚げたものでした。真ん中には野沢菜漬けの刻んだものが入っていて、柿の味と野沢菜漬けの味がじつにうまく混じり合っていました。

 この日、3人で柿だんごやキュウリの漬物などを食べながらお茶飲みをしていて話題になったことのひとつは雪のことでした。「スノーダンプの前はトヨ使ってたでも、やばくせくてのー」「昔はスコップだけでなんにもねかったもんだ。屋根に上がる時にゃ、近所のしょに『おまいちゃ、寝る前におれ落ちてねか覗いてみてくんない』と頼んだもんだこて」尾神の「在家の中」(屋号)のおっかちゃとそっくりの顔をしたサダ子さんとキエさんが自分たちが経験してきた屋根の雪下ろしや家の周りの雪どかしの苦労を語りました。

 板山で柿だんごをつくっているのはキエさんだけです。キエさんは、「おれみてえなもの好きもいねこてね。おれさ、昔のことをしてみたくてさ、『すいこ』づくりもするがよ」と言いました。また、何か美味しいものをつくってもらえそうです。
  (2013年12月8日)


 
第281回 最後の涙

 「マサヒロさん、死んじゃったねぇー」高見盛が負けたときに見せたような顔をしてそう言ったのは「でみせ」(屋号)のばーちゃん、キヨコさんです。先日、久しぶりに一緒にお茶飲みをしました。

 キヨコさんは休むことなく話し続け、マサヒロさんとの最後の出会いのことを教えてくれました。一か月ほど前、場所は柿崎病院だったそうです。頭がすっぽり入るほど大きな帽子をかぶった男性がキヨコさんのすぐそばにやってきたのは待合室でのことでした。椅子に座っていたキヨコさんは最初、誰だかわからなかったと言います。

 マサヒロさんから「おれ、分からんがか」と声をかけられたキヨコさんは、黒っぽい大きな顔を見てびっくり、「わからんこて、そんげなかっこしてりゃ」と言い返しました。でも、うれしかったようです、声をかけてもらって……。

 二人とも昭和ひと桁生まれ、年が一つ違うだけで子どもの頃からの知り合いでした。マサヒロさんが尾神から直江津市街地の西本町に移転しても、尾神郵便局に長く勤めていたこともあって、二人が出会う機会は何度かあったようです。キヨコさんが最初に口に出したのは、マサヒロさんが身に着けていたものについてでした。

「あまいけの西(屋号)のマサヒロさん、あの通りの真っ黒い顔だろ、それなのに赤い蝶ネクタイつけてさぁ。おれは似合わんと思っていたがだでも、本人は気に入っていたげらでしばらくつけていたこてー」

 私もマサヒロさんの赤い蝶ネクタイ姿は見たことがあります。ベレー帽をかぶり、蝶ネクタイをしている姿は独特の雰囲気を醸し出していて、恰好良かったですね。

 マサヒロさんは郵便局を退職後もたびたび故郷にやってきました。その目的のひとつは懐かしい人に会うことでした。意外とさみしがり屋だったのかも知れません。

「山さわぎが好きだったろー、あの人、直江津からバイクに乗って来たこて。それに乗れなくなったら、今度はバスに乗って来たもんだこて。おらちに初めて来たときは『ばいげつや』でバス降りたすけ、こんだ、米山塗装のところで降りろそったが……。あんどきもマントかなんか着てさ、おもしれえ格好して来たがど」

 キヨコさんの話を聴いていると、マサヒロさんが初めてキヨコさんの家に来た時の様子がそのまんま目に浮かびます。

 マサヒロさんの山好きは私も良く知っています。雪が解けると、ウドなどの山菜を採るために時どき尾神の山に入っていました。入る山は私とほとんど同じ。山で一緒になったことはありませんが、マサヒロさんの友人である酒屋(屋号)のタケシさんのところで何度も会いました。山菜採りが上手で、「こりゃ、誰かに先を越されたな」と思ったケースのうち何度かはマサヒロさんだったのだろう推測しています。

 マサヒロさんは地域の人からは、親しみをこめて「あまいけの西のあんちゃ」と呼ばれていました。林英夫先生が私の小学校の担任だった頃からずーっとです。七〇、八〇になっても「あんちゃ」と呼ばれていたのは私の知る限り、この人ぐらいです。子どもがいなかった分、生まれた故郷や地域の人たちに愛情を注いだ人でした。

 さて、キヨコさんとマサヒロさんの最後の出会いの最後です。キヨコさんが言いました。「あの日、西のあんちゃと病院出る時も一緒になったがど。おれにさー、手、振ってサイナラしてくれたがよ。そん時さー、目に涙うかべてんがねかね。うれしかったこてー」そう言うキヨコさんも目がうるんでいました。
  (2013年12月1日)


 
第280回 一四時間の旅

 朝早く起きなければならないという緊張感があったのでしょうか、東京へ行く前の夜は眠れない一夜になりました。

 約20人がマイクロバスに乗り込み、吉川区総合事務所前を出発したのは午前6時過ぎ、東京吉川会が開かれる四ツ谷のホテルへと向かいました。早い時間の出発にもかかわらず、バスの中は賑やかでした。比較的静かになったのは、関越道がJR上越線の線路をまたぐあたりからです。左右に見える山々の紅葉が私たちを迎えてくれました。とくに越後湯沢近辺は見ごろで、私もカメラで何枚も風景を撮りました。

 マイクロバスが東京都内に入ったのは午前10時過ぎです。目に入る緑は街路樹くらいなもので、それもほとんど葉が落ちていました。カシワの木の仲間だと思うのですが、木肌が様々でした。つるつるしたものもあれば、ところどころはがれおちたものもあります。今年の6月に結成され、東京吉川会初参加の吉川おどり隊の八木さんや上野さんとの間で人間の肌を連想する会話をしばらく楽しみました。

 ホテルに到着すると、東京吉川会の役員さんたちが出迎えてくださいました。挨拶を交わした後、「いやー、どうなるかと思いました」と言われたのは会長の平山勇さんです。この日は午前7時半頃、大きな地震があり、電車も止まったのです。みなさん、中越地震の時と同じように中止しなければならないのかと心配されたのでした。

 総会は午前11時半から。会場となった3階の大きなホールに入るやいなや、動物園で働いておられた逗子市のSさんが私のところに挨拶に来て下さいました。うれしかったですね。総会では、越後よしかわ酒まつりの前日にスカイトピア遊ランドで賑やかに歓迎してもらったエピソードなどを紹介した平山会長さんの挨拶や生涯学習フェスティバルなど最近の故郷の様子を伝えた武藤総合事務所長の挨拶に参加者はじっと聴き入っていました。皆さん、ふるさとの情報を楽しみにしているんですね。

 懇親会が始まってまもなく、竹直出身のMさんが私のところへ挨拶にやってこられました。初めてお会いする人です。名刺をお渡しすると、「こんなもので挨拶代わりですが」と言って私にくださったものは小さな細長い封筒でした。表には達筆で「すばらしき出会いの記念に」と書かれていて、中には素敵な図柄の切手が貼られたメッセージがありました。Mさんからは私が書いた本の感想、原之町や長沢に住むご姉妹(きょうだい)のことなどをお聴きしましたが、初めての出会いを大切にする行為がとても素敵でした。

 このMさんの記念品がヒントになり、私も毎回挨拶を交わす代石出身、川口市在住のMさんや尾神出身、古河市在住のSさん、米山出身のR子さんなどにささやかなプレゼントをしました。カバンの中に「山芋掘り」のことを書いた市政レポートが数枚入っていたのです。Sさんとは、「ばちゃ、元気かね」と声を掛け合いました。

 ふるさとが同じという絆を大切にして出会い、再会し、みんなが元気をもらう東京吉川会は今回が21回目の総会でした。私たちが吉川区総合事務所に戻ったのは午後8時10分でした。出発から戻るまでの所要時間は14時間、私は今回で連続九回の参加となりましたが、今年も楽しい旅となりました。

 この日、私が見た最も素敵な光景は原之町出身のYさんとNさんの握手です。お二人は幼なじみといった感じでした。本当に久しぶりだったのでしょう、荻谷商工会長さんの席で再会した二人は笑顔で、しばらく手を握り合ったままでした。
  (2013年11月24日)


 
第279回 いもじり

 今回は「山芋掘り」の続きです。山芋掘りをしてきたことを母に伝えたところ、母も話をしてくれました。母は山芋掘りをした記憶はないと言いますが、それでいながら、家族が掘った場所についてはよく憶えているのですから不思議です。

 旧旭村竹平の自分が生まれた家、「のうの」(屋号)のそばに藤尾が一望できる「イナサマ」というハサ場があり、そこから谷へ下りて行く細い道がありました。下りたところには「のうの」の田んぼがあり、その近くに川が流れていました。

 母は、「稲刈りをした後、そいあげるのがたいへんだったがど。そんで、鉄索で稲をハサ場にあげたもんだ。川の近くには、山芋のばかいいのがあったがと」と教えてくれました。掘りだした土は川の方へ落とせばいいだけだったということまで憶えているくらいですから、ひょっとすると、山芋掘りについて行ったか、近くで見ていたことがあったのかも知れません。

 もっとも、山芋を誰が掘ってきたのかについては、母の記憶は混乱しているようです。「川のそばで芋掘りしたのはイサムだろう」と母が言うものですから、「おまんが嫁に来る前にイサムが掘るわけねこてね」と言ってしまいました。イサムは大潟区に住む私の弟です。母の記憶は嫁に来る前と後で交錯しているんでしょうね。

 母が旧源村尾神に嫁いでからの山芋掘りの記憶も具体的でした。「ほとんど、家の近くの山だこてや……。クズレとかナナトリ、それにナカンゾの沢だな」母の頭の中には山芋のツルや黄色くなった葉が浮かんでいるようでした。母によると、山芋掘りをしたのはほとんど父だったということです。

 わが家では、つい最近まで、掘ってきた山芋はすべて「いもじり」にしてご飯にかけて食べました。「いもじり」づくりの手順は、母によると、掘ってきた芋をきれいに洗って、すり鉢の中でする。味噌汁を作っておいて、その汁をしゃもじですくっては芋にかけ、芋を少しずつ薄めていく。その作業を続け、徐々に芋の汁を増やしていくのがいいとか。「少しずつ」が大事なんだそうです。こうして最初は粘りがあって、ころころしていた芋もだんだんとゆるみ、最後はとろとろした状態になります。

 子どもの頃、わが家では、母の「いもじり」づくりが終わるのを今かいまかと待っていました。いうまでもなく、私だけでなく弟たちもです。飯台の上だか、脇だか忘れましたが、母がすり鉢に入った「いもじり」を持ってくると、すぐにご飯を盛りました。ご飯は山盛りにするのではなく、茶碗の中に少なめに入れ、それに「いもじり」をかけるよう言われました。

  「いもじり」をかけたご飯はのどをするすると通り抜けていきます。しかも美味しい。「いもじり」さえあれば、もう他におかずはいりませんでした。口の周りが多少かゆくなってもかまわず、急いで食べ、弟たちと競争してお代わりしました。

 尾神からいまの代石(たいし)に住所を移してからは、ほとんど畑で作った芋をすって「いもじり」を作りました。ただ、いまひとつ物足りない気がしていました。

 それだけに、先日、久しぶりに釜平川沿いで掘ってきた山芋を使って「いもじり」を作ったときには驚きました。ものすごく粘りがあって、するには思っていた以上に手間も力もいるのです。妻がみんなで作ると美味しいものができるね、と言いましたが、子ども時代、私が食べた「いもじり」はすべて母が一人で作ったものです。「あんげんことぐれ、ひとりでしたこて」そういう母の言葉が心に響きました。
  (2013年11月17日)


 
第278回 山芋掘り

 何故なんでしょうね、無性に山芋掘りがしたくなりました。山々の紅葉が進み、黄色くなった山芋の葉が目に入るようになってから、20年ほど前に掘った時のイメージがふくらんできて消えなくなってしまったのです。

 激しい雷雨がやってきた日の翌日、青空が広がって絶好の芋掘り日和になりました。「よしっ、きょうこそは芋掘りに行こう」と決意しました。幸いこの日は午後から山に入る時間を1、2時間は確保できそうでした。せっかくですから、中山間地の暮らしに強い関心を持っている30代の青年、Sさんも誘いました。

 私が山芋掘りに行きたいと思ってイメージした山は、吉川の支流、釜平川のそばにある雑木林の土手でした。ここはかつて2時間ほどの間に次から次へと山芋を掘り、10本ほど掘った記憶のある場所です。山すそで適当な傾斜あり、1本掘るとすぐそばにまたツルがある、そんな感じで掘ったことが頭の中にしっかりと残っていました。

 二人で釜平川を渡り、めざした山に向かって歩きはじめると、誰かが草藪を払いながら歩いた跡があります。「こりゃ、先客かも知れないね」そう言いながら、目的地に着くと、案の定、芋掘りをしたばかりの跡がありました。5、6本は簡単に掘れるはずだという目論見は完全に外れてしまいました。しかも木の根がたくさん張っていて、岩もごろごろしていたため苦戦しました。結局、当初予定した場所では1本掘るのがやっとでした。川の対岸にも山芋のツルがたくさんあったので、そこでも挑戦しましたが、石や木の根がじゃましていて、ちょっと掘っただけで断念しました。

 200メートルほど下流の土手に場所を替えて、再び芋掘りを始めたのは午後四時半過ぎでした。

 山芋のツルを確認して掘りはじめる直前、リンドウの花が咲いていることに気づきました。花は1本や2本ではありませんでした。数か所で群生していたのです。「うれしいねぇ、こんなところでリンドウが咲いているなんて。励まされるよ」そう言ってSさんに伝えました。リンドウの花との出合いは幸運を予感させてくれました。

 唐鍬(とうが)で掘りはじめてからじきに、土の匂いとともに芋の匂いもしてきました。ここは土も柔らかいし、岩や石もほとんど出てきませんでした。ある程度掘り進み、山芋が下に伸びていることを確認したところで、Sさんと交代しました。Sさんは山芋掘りは初めてです。「あまり、芋のそばを掘っていじめないようにね」とアドバイスして、私は別のツルを探しに歩き始めました。

 2、3分たったころだったでしょうか、いままで掘っていた場所から、「おーっ」という声が2度も聞こえてきたので、私も戻ると、芋の周辺の土がどかされ、見事な山芋の姿が浮き彫りになっていました。しかも、芋は1本ではなく、2本だったのです。私も、「おーっ」という声を何度も上げてしまいました。

 この日の収穫は芋の先っぽのところまでまともに掘れたのが2本、中途半端に終わったのが3本でした。当初想定したほど掘れませんでしたが、それでも山芋掘りのときの、わくわくする気分は味わうことができました。Sさんも、「いやー、山芋掘りがこんなにもたいへんだとは……。でも楽しかったです」と笑顔でした。

 Sさんは週末、お連れ合いと子どもさんに自分も掘った山芋を見せて一緒に食べるのだそうです。私はいうまでもなく「いもじり」です。あっ、もう、口のまわりが何となくかゆくなってきました。
 (2013年11月10日)


 
第277回 粋な計らい

 午後6時半、「のうのいとこ会」がいよいよ始まろうとした時でした。会長のフミエイさんが上座の真ん中のテーブルに4個のコップを置きました。その時、なんだろうと思ったのですが、理由は会長の開宴の挨拶ですぐにわかりました。

「これは足谷のばちゃ、これは狭山のおじさん、これはうちの親父、そしてこれは千葉のおじさん……。おめたばっか、うんまい思いしねで、おれたちも仲間にしろと言わんねうちに用意させてもらいました」フミエイさんが用意した4個のコップは母の実家、「のうの」(屋号)出身者で、すでに亡くなった人たちにも宴会に「参加」してもらおうというフミエイさんの粋な計らいだったのです。

 今回のいとこ会の会場は伊香保温泉のホテルです。フミエイさんの「心を開いて楽しく語り合ってください」という挨拶のあと、天ぷら、煮魚、豆腐、そば、寿司、焼き肉などの料理をいただきながら、おしゃべりを楽しみました。

 1時間くらい経ってからでしょうか、誰かの呼びかけで家族の近況報告などのスピーチをすることになり、みんなが上座の真ん中のテーブルまで行き、次々と語りはじめました。このテーブルにはコップだけでなく、おちょこも並んでいました。

 亡くなったおじさんやおばさんのためのビールやお酒を前にして語った話はユーモアたっぷりのものもあれば、しんみりとするものもありました。

 みんなの拍手で立ったのは板山出身のモトエイさん。7月10日に北里大学病院で腎部分の切除手術を受けて、ようやく元気を取り戻しつつあります。出欠届のはがきに「約27七a」切ったと書いてあったこともあって、話は手術のことが中心でしたが、最後に「『のうの』の血筋はすごいまとまりがあり、パワーを感じる。健康に留意して頑張りたい」と結ぶと、再び大きな拍手を浴びました。

 孫が2人になったという千葉のヨシエさん。「皿を片づけようと思って、嫁さんにあげようかと言ったら、『いらない』と言われた。家具もいらない、洋服もいらない、ついでに親も……」「お互い、変わってきたなーと思います。いつまで生きられるかわからないけど、元気なうちは参加したい」との発言は笑いと拍手でした。

 私やアイジさんとともに遅くなってホテルに到着した板山のシュージさん。まずは遅くなったことを詫びました。「前の職場の女の子から結婚式に出てくれと言われて」と言った途端、「何かあったのか」とヤジが飛びました。「何もなかったけれど、(キューピットでの)結婚式に出てきました」と言ってみんなを笑わせた後、今年から田んぼを増やしたこと、おばさんが元気であることなどを報告しました。

 参加者の中で一番年若いのは埼玉のユウジさんでした。まだ40代です。「みなさん、お疲れ様です。きょうはDNA(遺伝子)を思ったんです。正直言って、セイゴさんとは久しぶりに会ったんですよ。30数年ぶりかな。死んだ親父かなと思って……」そう言ったところで、足谷出身のタカジさんが間髪をいれず声をあげました。「これがいとこ会のいいところだよ、なっ」。ユウジさんの「死んだ親父かなと思った」には拍手喝さい、もう最高の盛り上がりでしたね。

 「のうのいとこ会」は昨年に続いて2回目。心をこめて準備してくれたエツオさんやトモコさん、気の利いた会を演出してくれたフミエイさんなどのおかげで昨年以上にいい会になりました。みんなと別れるとき、宴会では黙っていた奈良のカツエさんが切ない声で「元気でねー、またねー」と言いました。その姿が忘れられません。
 (2013年11月3日)


 
第276回 米山薬師

 米山の山頂で休んでいたときのことです。突然、カランカランという音が聞こえてきてびっくりしました。見ると、私よりも数分後に登ってきた女性が薬師堂で祈りをささげていました。私は薬師堂の扉の前に鐘があることを初めて知りました。

 この女性は山小屋の脇からすっと姿を見せると、私の知らぬ間に薬師堂の前に行っていました。動きの速さから判断すると、体をそうとう鍛えている人です。何を祈っていたのか、女性が手を合わせていた時間は長く、2分ほどにわたりました。微動だにせず祈り続ける姿は美しく、強く印象に残りました。

 この日、私は久しぶりに米山に登りました。前回登ったのはまだ子どもたちが小さな頃でしたから、20数年ぶりだと思います。

 米山に登ることにしたのは、この日の素晴らしい青空に誘われたからです。急に、青空の中の米山に登りたくなったのです。体力が続かず、登り切ることが無理であれば、女しらばまで行って戻ってきてもいいと思っていました。女しらばまでは登りたいと思っていたのは理由がありました。そこにたくさんあるツリガネニンジンの姿を見たいと思っていたからです。

 私がこの花と初めて出合ったのはある年の夏のことで、水野から米山へと登る登山道でした。登山口の駐車場までの道はまだ砂利道だった時代です。釣鐘状の、小さな薄紫色の花がススキの葉に隠れるようにして咲いていました。人目につかないところでひっそりときれいな花を咲かせている、それだけで惚れてしまいました。

 秋から冬に向かおうとしている時期ですから、ツリガネニンジンの花はとっくに終わっています。この日、女しらばで見たツリガネニンジンは枯れてはいるものの、種をつけた状態ですくっと立っていました。この姿も素敵だなと思いました。

 登山道は急な坂道の連続です。80キロを超えた体で登るのは正直言ってきつく、何度も断念したくなりました。それでも頑張ることができたのは野の花のお陰です。「やはり無理かも」と思いはじめた頃、茎の最上部に袋状のものがあって、クルマバソウのような葉をつけた野の草を見つけました。これから花を咲かせるといった感じでした。初めて見る野の花かも知れない、どこかに咲いているはずだと胸がときめきました。アキノキリンソウも所々で私を励ますように黄色の花を咲かせていました。

 不思議なもので、女しらばまで行くことができると、欲が出ました。「もっと上に登れば、袋状のものが花になっているかも」そう思っただけで力が沸いてきました。山頂までの道の周りでは紅葉が始まっていました。赤トンボも飛び交っています。時どき、さわやかな風が体を冷ましてくれました。おかげで、山頂まで無事にたどり着くことができました。山頂ではマユミとノコンギクが出迎えてくれました。

 山頂で出合った女性は私のことを知っている人でした。登山の途中で出合った袋状の花らしきものについて話すと、「たぶん、クルマユリですね」という言葉が返ってきました。袋状のものは花のつぼみではなく、真夏にオレンジ色の花を咲かせるクルマユリの実だったのです。

 米山薬師は日本三大薬師のひとつとして知られていて、病気の苦しみから解放してくれる仏様だと言われています。薬師堂の戸を開けようとしたら、この女性から「重たいんですよ」と声をかけられました。確かにすごく重たい戸でした。やっと開けて、薬師如来に手を合わせたとき、海からの風が私の頬を優しくなでてくれました。
  (2013年10月27日)


 
第275回 稲刈りが終わって

 ずいぶん寒くなりましたね。体育の日、約2カ月ぶりに柏崎の家を訪ねてきました。今回も妻と一緒です。

 柏崎の家では稲刈りがだいぶ前に終わって一段落しました。みんなが楽々しているものと思っていたら、驚きましたね、家の前にある田んぼで、義兄が田んぼの高いところの土を低いところへと一輪車で運んでいたのです。年を重ねるに従って、いつも体を動かして働いていた亡き義父に似てきたなと思いました。

 私たちの訪問に気づいた義兄は、田んぼから上がってきて、「ちょっと景色、変わったろい」と言います。言われるまでわからなかったのですが、作業所のそばにあった木が一本、切り倒されていたのです。木は両手をまわしてやっと届くくらいの太いものでした。木は先日の強風で道路側に倒れ、そのままにしておけないので、専門家に頼んで切ってもらったとのことでした。

 義兄が倒れた木の説明を私たちにしはじめてまもなく、裏山からセミらしい鳴き声が聞こえてきました。ツクツク…ツクツク…。どうやらツクツクボウシらしい。わが家の周辺ではまったく聞こえなくなっていましたから、ここではまだセミの季節が完全には終わっていないのかといとおしくなりました。

 この日、柏崎の母の所へ土産として持参したのはジャンボスイカとクリです。ジャンボスイカはちょうど、尾神のNさんからもらったばかりだったので、半分に切り、片方を持って行きました。ジャンボだから大味かなと思ったら、けっこういい味で、みんな喜んで食べてくれました。

 クリを美味しく食べるようにするためには水に浸しておく、皮をむくなど手がかかります。特に皮をむくのがたいへんなので、こういった細々したことをしなければならないものを柏崎の母がどう思うかちょっと心配でした。「クリも持って来たんだけどもらってくれる?」と声をかけると、すぐに「もらう、もらう」という言葉が返ってきてホッとしました。

 お茶をご馳走になりながら、しばらくおしゃべりを楽しみましたが、「私ね、細かいことが好きなんよ」と柏崎の母が言ったことで、しばらくの間、折り紙や草取りなどの話に集中しました。

 柏崎の母の話でおもしろかったのは草取りの話でした。
「私はね、草取りなら暗くなってもあきないの……。ただね、椅子に座って仕事続けていると、簡単には立てないのよ。椅子といっても箱だし、ひじ掛けがついていないでしょ。そんで、威勢をつけて『よいしょ』と立つんだ……」
 
 家の周りの草を取る時に、木箱などを椅子代わりに使いながら作業をすすめているところを見たことがあるだけに、はまり込んだ格好をして作業をする様子が目に浮かびました。柏崎の母は妻と同じく細々としたことは苦手だと勝手に思い込んでいましたが、そうではなかったのです。

 話が一区切りしたところで私は八石山(はちこくさん)へ向かいました。南条から登りはじめてすぐに見つけたのはサルビアと同じ形をした黄色の花です。これは、今春、大島区の従弟から教えてもらった「嫁泣かせ」という山菜の花でした。

 この日は、柏崎の母のおもしろい話を聞けたことと、自然の中で咲いていた「嫁泣かせ」の花を見つけたことでとても気持ちのいい日になりました。
 (2013年10月20日)


 
第274回 偶然の再会

 安塚区出身のヨシハルさんは長野市豊野町在住、私は上越市吉川区在住です。距離は約60キロもありますし、生活圏域も違うので、この2人が連絡し合うことなしにばったり会うことはめったにないことです。

 数十年ぶりにヨシハルさんと再会したのは9年前の秋でした。中越地震の後片付けのボランティアとして川西町(当時)の体育館脇で仕事をしていた時です。一緒にゴミの分別作業をしていた人たちが長野県からやってきたというので、仕事が終わって、さあ帰ろうという段階になって、一人の白髪の人に、「じつは、私の友人に安塚町から豊野町に移った人がいてね」と話したら、なんと、話しかけた相手の人がヨシハルさんその人だったのです。驚いたことは言うまでもありません。

 それから、またずっと会うことがなかったのですが、先日、たまたま安塚区の食堂にいたところ、息子さんとともに店に入ってきたヨシハルさんにばったり会いました。ちょうど、たまには会いたいなと思っていたところに本人が現れたもんですから、いやー、びっくりするやら、うれしくなるやら……。

 ヨシハルさんはこの日、コメをもらうために安塚へやってきたのでした。私のいたテーブルに座ると、味噌ラーメンを注文し、その後、溜まりたまっていた話を次々としてくれました。じつは9年前に川西町で再会した時は帰り際だったので、ろくに話ができなかったのです。

 私が乳搾りの仕事をはじめた頃、ヨシハルさんは菅沼で専業農家として頑張る決意をしていました。田んぼは全部で1町5反ほどでしたが、150枚もの小さな田んぼでだいぶ苦労したようです。でも、稲作を始めて数年後、米の検査員から、「これは誰が作ったんだ」と言われるほど出来のいいコメを作ったことがあり、その時は、収量もあって、いつもよりも2、30万円ほど多い収入があったとうれしそうに語りました。やはり、稲作農家の出身ですね。

 ヨシハルさんとは30数年前からの付き合いです。私が菅沼の家へ行ったこともありますし、わが家に来てもらったこともあります。

 私が初めて町議選に出馬した時でした。お連れ合いがウグイス嬢をやってくれ、ヨシハルさんは候補者カーの運転手をしてくださったのだそうです。じつは、候補者の私はまだ28歳、とても緊張していたようで、誰が運転してくださったのかまったくといってよいほど憶えていないのです。ヨシハルさんによると、私のポスターは似顔絵で、しかも草刈り鎌を片手に持っていたといいます。確かに当時、私は似顔絵を描いていましたし、そのポスターは間違いなく私が描いたものでした。

 私についてのヨシハルさんの記憶は町議選のことばかりではありませんでした。「橋爪さん、昔はすんなりしていて、長距離ランナーだったよね、しかも早かった」と語ってくれました。「早かったかどうか」は別として、よくそんなところまで憶えていてくれたものだと感心してしまいました。

 ヨシハルさんにとって安塚は生まれ育った故郷です。長野へ出ても故郷への愛着は強く、心から離れることがないのでしょう。この日も息子さんとともに2時間かけてやってきて、自分の家の畑にあるクリや柿を収穫していきました。息子さんは昔のことを話す父親の言葉を黙って聞いていましたが、表情はうれしそうでしたから、彼もまた安塚生まれだったのかも知れません。どうあれ、ばかうれしい再会でした。
  (2013年10月13日)


 
第273回 昔取った杵柄

 おや、こんなことまで憶えていたのか。20数年ぶりに稲を刈り、稲束をまるけたときでした。時計回りと反対にくるっとまわしてワラでくくったあと、不ぞろいだった稲束の根の部分を右手の内側でポンポンとたたいていたんです。

 稲束の根の部分がそろい、きれいになった姿を見て、私はびっくりしたというか、うれしくなりました。稲束がきれいになったこともありますが、何よりも右手が無意識のうちに動いて、ポンポンとやっていたことに感動したのです。

 考えてみれば、尾神にあった田んぼで稲刈り鎌を最後に持ったのは2年や3年前ではありません。昭和60年代の半ば頃ですので、少なくとも23年は経っています。この間、稲を刈ったこともなければ、稲束をまるけたこともないのです。稲刈りや稲まるけの仕方を忘れてしまったとしても不思議ではないのです。でも、私の体が憶えていてくれました。

 私が20数年ぶりに稲刈りをすることになった日は突然やってきました。先週の金曜日、私は浦川原から安塚を通って大島へと車を走らせていました。保倉川沿いの道を上流方向に進み、仁上を通り過ぎようとした時です。左前方の田んぼのそばに大勢の子どもたちの姿が見えたのです。「これは稲刈り体験だな」と思い、車をとめました。稲刈りをしている子どもたちの写真を撮りたいと思っていた私にとってはグッドタイミング、絶好の機会でした。

 車から降りて田んぼのそばへ行くと、学校の先生、稲刈りを指導する地元の農家の方の説明が行われている最中でした。話を聴いていたのは東京都は多摩市から越後田舎体験でやってきた生徒、20人ほどです。これから体験する稲刈りをやるうえで大事なことを聴きもらすまいと真剣な表情をしていました。耳を傾けますと、「くれぐれも指を切らないように」という言葉が聞こえてきました。

 稲刈りが始まってから、すぐに何枚かの写真を撮りました。被写体である生徒たちの中には稲刈り鎌をノコギリのように押したり、引いたりして使っている生徒がいます。何よりも刈った稲をまるけるのにみんなが苦労していました。もうじっとしていられませんでした。学校の先生に頼んで仲間に入れてもらうことにしました。

 そばにいた「庄屋の家」の武田さんに「長靴あるよ」と勧められたのですが、私が履いていたのは安い運動靴ですので、そのまま田んぼに入りました。鎌を右手に持ち稲を刈ると、ザッ、ザッ、ザッといい音がします。「おお、この感じ、この感じ…」鎌の使い方も刈った稲の置き方も体がちゃんと憶えていてくれていました。

 まるけるとき、右手人差し指をのばし、稲束をぐるりと一回転させくくります。そのあと、ポンポンとやって、畔元へ投げました。その様子を見ていた女子生徒と男の先生が「どうすればいいのか」と訊いてきました。まったく初めての人には稲まるけは難しいようで、なかなか覚えてもらえません。何度か繰り返しているうちに、一人の生徒がようやくできるようになりました。そして、生徒よりもかなり時間がかかりましたが、先生もうまくいきました。

 この日は秋晴れ、青い空が広がっていました。田んぼのあちこちで生徒の歓声が上がり、教えているお母さん、お父さんたちの笑顔も見えました。学校の生徒も先生も、できなかったことができるようになって、とてもうれしそうな表情です。かくいう私も思いがけないところで「昔取った杵柄(きねづか)」が役立ち、満足でした。
  (2013年10月6日)


 
第272回 頑張ってこいや

 トラオさんから源中学時代の同級生のシゲルさんが亡くなったという知らせがあったのは2週間ほど前でした。急な話でびっくりしました。体調がすぐれないという話は聞いていましたが、こんなにも早く別れなければならないとは思いませんでした。

 シゲルさんは半入沢(なかんぞ)の出身です。子どもの頃、私の住んでいた蛍場の隣の集落だということもあって、時どき一緒になって遊んだものです。ただ、大人になってからは近くに住んでいたものの、彼も私も忙しく、同級会でもないかぎりなかなか会えませんでした。

 葬儀の日。開式の時間よりもかなり早く出かけたつもりでしたが、式場となった自宅にはすでに親戚や友人など大勢の人たちが到着し、座っておられました。そっと後ろの方も見ると、ショウイチさん、トラオさん、エイイチさんなど同級生の姿もありました。みんな最後の別れをしたかったのです。

 開式までの時間、シゲルさんの遺影をじっと見ながら思い出したのは、子ども時代の遊びのことでした。半入沢の神社境内や「ミズカミ」(屋号)の脇の広場などで一緒に遊びました。遊びの大将は「ミズカミ」のトキオさんです。パッチ、チャンバラ、山騒ぎ、なんでもトキオさんの指示で動いていたように記憶しています。

 ある春のことでした。シゲルさんの家の近くの山で誰かがムジナの穴を発見、みんなで捕まえようということになりました。生の杉の葉を入り口付近で燃やしてムジナをいぶり出そうという作戦でした。ところが、穴の中に煙をうまく送りこむことができず、かえってこちらの方が煙が目にしみて、見事に失敗してしまいました。いまでも思い出すと、笑ってしまいます。

 葬儀では地元集落の2人のお坊さんがお経を読み、参列者が焼香しました。弔電が披露された後に、遺族を代表して挨拶をしたのは長男のAさんです。

「父は普段から口数の少ない人でした。そんな父親が私に声をかけてくれたのは、専門学校へ入学することになった時でした。父は柿崎駅まで車で送ってくれ、その時、何度か言ってくれたのです。『頑張ってこいや』と……」

 Aさんは悲しさがぐっとこみ上げてくると、左横に首をちょこっと振り、一呼吸置いて、言葉を続けました。父親への思いが込められた挨拶に私も涙が流れました。

 葬儀が終わって出棺の準備の時、家族や親戚の人たちに続いて、たくさん人たちが棺の中に花を入れました。身内の人以外でも故人と係わりのある人はみんなが花を入れる、いいもんですね。私たち同級生も花を棺の中に入れ、「ゆっくり休んでくんないや」などの声をかけながら手を合わせました。

 出棺の時はあいにくの悪天候でした。強い雨と風が吹き、しばらく玄関へは出られませんでした。その時、ふと、壁にかけてあった詩が目に入りました。詩のタイトルは「ありがとう」。本文には「ありがとうの心をもてば、人にやさしくできます。ありがとうの心をもてば、人と仲良くできます。ありがとうの心をもてば、新しい発見や出逢いがあって幸せになります」と書いてあります。素敵な詩でした。

 木の板に書かれた詩にはフクロウの絵が描かれていました。そのフクロウは頭の形といい、目の位置といい、なんとなく長男のAさんに似ていました。そしてフクロウの絵を見て思い出したのは、Aさんが挨拶した時の首を左横に振る仕草です。あの仕草、父親のシゲルさんゆずりだ、そう思った途端、再び涙が頬を伝わりました。
  (2013年9月29日)


 
第271回 視線

 なんと言っていいかわからないほど温かな視線でした。安塚区のラーメン屋・どさん娘さんの入り口付近の席にちょこんと座って、じっと私の方を見ている70歳前後のお母さんのことです。目はやさしく笑っていました。

 私がどさん娘さんに入ったのはお昼の遅い時間帯です。カウンター席に1人、畳が敷かれたテーブル席に3人のお客さんがいました。このうち入り口付近にいたお客さんが早く帰り、入れ替わりにこのお母さんが入ってきたのでした。

 入ってくるなり、お母さんは「冷やし中華をお願いします」と注文したのですが、このラーメン屋さんでは冷やし中華をすでにやめていました。この日は久しぶりの好天で、しかも湿度がとても高かったんです。冷たいものが食べたかったのでしょうね。温かいラーメンに切り替えて注文したお母さんでしたが、がっかりした表情を見せることなく、静かに出来上がりを待っていました。

 この日は土曜日でした。しかも、雨が続いた後に晴れた土曜日です。稲刈りを急いでいる稲作農家はもちろんのこと、晴れの日を想定して仕事をしている人たちはみんな、チャンス到来とばかりに一生懸命働いていました。

 一番奥のテーブル席に座った私は塩ラーメンを注文しました。そして何気なしに隣のテーブル席を見たら、驚きましたね、私が知っている建具職人さんとそっくりの人が、いかにも職人さんらしい人と一緒に食事をしていたのです。どうも、この晴れの天気の中、このお二人さんは一緒に仕事をしているようでした。

 もし、その「建具職人」さんが私の知っている人であれば、吉川区尾神出身で、現在大潟区在住のTさんです。私の顔を見れば、何らかの反応をするに違いない、そう期待したのですが、すぐには反応がありませんでした。でも、なんとなく私を知っている感じがしました。私に直接目を向けないで、それとなく私が誰かを確認したがっている、そんな視線を感じたのです。

 言うまでもなく、こういう時はなかなか落ち着きません。ラーメンを食べていた時も気になりました。時どき、ちらっと隣の二人に目を向けたり、二人の会話にヒントがないか探りました。私が隣の席の方へ目を向けると入り口の席にいるお母さんが私の様子を見ていることがわかりました。このお母さんも私が誰かを確認したかったのかも知れません。

 ひょっとすると、私が太ったことで、「建具職人」さんが判断できずにいるのではないか、そう思ったのはラーメンを半分くらい食べたころです。直接聞くのも変だし、店長さんと一緒に店をやっているMさんに語りかけるような調子で、わざと、「尾神」という地名を言ってみました。すると、どうでしょう、Tさんらしき人が店員さんに「(そこの人、)橋爪さんと違うかね」と尋ねていたのです。 「そうです、そうです、橋爪さんです」というMさんの返事が聞こえました。すぐに、私からも声をかけました。「やはり、Kちゃんか、おまん、目、とちゃとそっくりだわ」そう言ってから、しばらく楽しい会話が続きました。Tさんも気にしていてくれたのです。

 入り口のお母さんも私たちの会話を聞いてうれしそうでした。後でわかったのですが、このお母さんは大島区菖蒲在住、「ばんや亭」で会った人でした。4年前にお連れ合いを亡くし、豪雪のなかでも一人でがんばっていたお母さんだったのです。 
  (2013年9月22日)


 
第270回 夏から秋へ

 賑やかに鳴いていたミンミンゼミの鳴き声も少なくなり、コオロギなど虫たちの声の方が多く聞こえるようになってきました。早朝のミンミンゼミの鳴き声は大きく、1匹だけで10匹分くらいの音量を出そうと力んでいるようにも聞こえます。

 9月に入り、季節は本格的な秋に向かって大きく動き始めました。私の周りの田んぼでは酒米・五百万石の収穫作業が終わり、コシヒカリよりも一足早く刈り取りができる「こしいぶき」の作業が始まっています。ただ、今年は雨が続いたこともあって、稲の倒伏によって刈り取りに時間はかかるし、ぬかるんだ田んぼではコンバインを埋めないようにと気を使わなければならないとあって、稲作農家のみなさんは大変苦労されています。

 私はこうした人たちの姿を見ると、いまでも、稲刈りやワラ集めをしたときの父や母の苦労を思い出します。

 いまから30年ほど前のこと、尾神岳の南側の屏風のような山の一角に「ヨシワラ」という地名のところがあり、そこにわが家の田んぼの一部がありました。田んぼは5枚ほどで、全部合わせても面積は2反あるかないかといった感じでした。

 稲の刈り取りはバインダーです。「ガチャガチャッ、ボン」という音を立てて刈り取っていく、その機械はけっこう重く、半日もつかまっていると肩が痛くなりました。田んぼに水がたまっているときや泥だらけの時には、バインダーの脇に舟をつけ、そこで稲の束をうけるようになっていました。しかし、それは使い勝手が悪く、父が運転する時には、機械のスピードに合わせ、脇を一緒に歩き、飛び出してくる稲の束を瞬時に受け取る担当をしたものです。

 言うまでもなく、バインダーがまったく使えない田んぼもありました。稲が倒伏して、しかも、稲穂が田んぼの表面に張り付いてしまったところです。張り付いた稲を手で引っ張るとビリビリと言う音がしました。それを稲刈り鎌で刈り取りました。

 私が味わった苦労はほんの十数年でしたが、父や母は私の何倍もの苦労を経験してきました。振り返ると、本当によく頑張ったものだと思います。

 父が逝って5回目の秋がやってきました。すでに田んぼ仕事も牛飼いの仕事も辞めてしまいましたが、母は相変わらず、牛舎近くにある畑に三輪自転車で通い、野菜を作り、自分でいろんな料理をして楽しんでいます。

 先日も母は暗くなるまで牛舎脇にいました。何をしているのかと思って近づくと、大量のミョウガを洗っているところでした。こんなにたくさん洗っても食べきれないだろうにと思っていたら、余計な心配でした。冷凍庫に保存しただけでなく、翌朝までにミョウガの佃煮まで作っていたのです。

 また、数日後には、白菜の移植作業をしました。牛舎脇で小さな黒いポットに種をまいていたものです。三輪自転車の荷台に載せ、畑まで運び、移植していたのですが、私が市役所から戻ったときに母の背中を見てびっくりしました。汗びっしょりになっていたからです。「汗、かいたがか。風邪、引きなんなや」と声をかけたら、母は「おー」と返事をして自転車にまたがりました。

 夏から秋へ。暑さ対策から外へ出るのを控えていたどこの家でも、外仕事を活発にするようになってきました。食欲も出てきます。わが家では母の作った漬物だけでなく、ミョウガの佃煮なども食卓に並ぶようになりました。
 (2013年9月15日)


 
第269回 アイスモナカ

 もう40年近くも付き合いをしているにもかかわらず、柏崎の母についてこんなにも知らないことがあるとは……。今年のお盆、一緒にラーメンを食べに行って、驚いたというよりも笑ってしまいました。

 柏崎の母というのは、7月に満89歳になったばかりの義母です。妻と私の3人でラーメン屋さんへ行ったのは午後1時頃でした。お盆といえども、この時間帯になれば空いているだろうと出かけたお店は、妻の実家から車で5分くらいのところにありました。お店に入ると、私たちの他に数組のお客さんがいるだけでした。楽々と席を確保できました。

 メニューをしばらく見て、なんだかんだ言いながら柏崎の母と妻が最終的に決めたのは冷やし中華です。私だけが野菜ラーメンでした。注文してから出来上がったものが運ばれてくるまで、そうですね、20分くらいかかったのではないかと思います。この間に、私はお店にあった分厚い写真集『写真アルバム柏崎・刈羽の昭和』をめくり、妻と柏崎の母はおしゃべりを楽しんでいました。

 写真集は米山の北や東側に位置するところに住んでいた人たちの暮らしを記録したものです。隣接地に住む私たちとは昔から交流があり、暮らしの中には共通するものもたくさんあります。惹きつけられた写真のひとつは、高柳石黒小学校板畑分校の区民運動会の写真でした。私が通っていた源小学校水源分校の運動会とそっくりな雰囲気があり、小さなグランドでとび競争をしたことや米俵を持ち上げる競争などを思い出しました。また、黒姫山で行われた相撲大会の写真でも水源分校の土俵での取り組みを思い浮かべました。

 どういうきっかけだったか忘れてしまいましたが、写真集を見ている途中で、柏崎の母がキムチなど食べ物の話をしているのが耳に入ってきました。「私ね、白菜キムチが好きなんだわ」と言ったのに続いて、話に出てきた食べ物はなんとアイスモナカです。「そろそろ無くなるから買っておかなきゃ」と言ったのです。夏場はアイスモナカを大量に買い込み、冷蔵庫に保管しておき、毎日食べないと気が済まないという話を聞いて、最初は信じられませんでした。東京生まれ、東京育ちで、戦争時代の食糧危機を経験してきた義母は、嗜好品を大量に買っておくような人には思えなかったからです。

 横井戸の話も新鮮でした。柏崎の母は東京育ちということが私の頭に入っていて、横井戸と結びつけて考えたことはありませんでした。でも、嫁ぎ先の柏崎の家では、水道はなく、私のところと同じく横井戸なくして暮らしは成り立たなかったのです。

 横井戸から出てくる水は、家の裏にあった四角いコンクリート製(?)の入れ物にちょろちょろと入っていて、夏場は冷たく、冬場は暖かったそうです。お風呂の水は大事に使い、1週間に一度しかかえなかったとか。大笑いしたのは、隣の親戚の家へ風呂もらいに行った時の話でした。風呂に入る時、家の人に「お静かに」と言われ、声を出さないようにしただけでなく、水の音もたてないようにじっとしていたというのです。「お静かに」が「ゆっくりと」という意味だとは思わないですよね。

 さて、ラーメン屋からの帰り道、食料品スーパーに寄りました。いうまでもなく、アイスモナカを買うためです。柏崎の母は1個98円の「モナ王」を20個も買い求めると、妻と一緒にうれしそうな顔をしながら私の軽自動車に乗り込んできました。
  (2013年9月8日)


 
第268回 笑いがいっぱい

 「笑顔がいっぱいで、とても楽しかったです」

 初めて川谷大運動会に参加したAさんの感想がマイクを通じて体育館に広がったのは午後5時過ぎでした。その後に続いた人たちも、「こんなに楽しい運動会はない」とのべていました。

 私自身、とても楽しかったので、それらの感想にうなずき、拍手を送っていたのですが、何人もの人たちが笑顔のことにふれたので、参加者がどれほど笑っていたのかを写真で確認してみたくなりました。

 家に戻ってからパソコンを立ち上げ、写真を見てみたら、驚きましたね。この日は運動会の写真だけでも87枚撮っていたのですが、笑顔いっぱいの写真が次から次へと出てきたのです。

 例えば最初の種目の輪投げ。5メートル離れたところから数字の書かれたボードめがけて輪を投げ、ボード上の棒に輪がかかったところの数字の合計で競う種目です。7枚目、8枚目の写真では、左利きのサイチロウさんが真剣な表情で投げている、その後ろで首からタオルをぶらさげたゲンイチさんがニコニコしています。カメラを構えた農文協の記者さんも笑っています。20枚目の写真、とんでもない方向に輪が飛んで行ったのでしょうか、お寺の奥さんが手で顔をおおっています。後ろにいたミエさんとヨシエさんは大笑いしています。輪がうまくボードの棒にかかったときだけでなく、外れたときも笑えるのは、こうしたゲームならではのことです。

 早飲み競争はビールや酒、ジュースなどを早く飲みほしてからゴールまで走る種目です。スタート地点から走り出し、5bほど行ったところにある段ボールで隠された飲み物が走者にとって飲みやすいものかどうかが勝負を左右します。飲み物を走者に見えないようにしながら準備している下川谷町内会長さんとカズシさんの笑顔が写っていました。おそらく、リュウジさんあたりが、「おい、見えたど」とか言って笑わせたのだと思います。写真にはありませんでしたが、飲めないワンカップを手にした人が、隣の人と交渉して別ものにかえてもらう場面でも笑いが起きました。

 競技では予測できない事態が起こることがあります。輪投げで、投げた輪がボードの棒の一番上にひっかかったままになるという極めて珍しいことが起きました。みんなはどうなるか、しーんとして注目していたように思っていたのですが、やはり最後は笑顔がいっぱいになっていました。パン食い競争では、誰よりも早くパンをくわえゴールしたものの、途中でパンが袋から出て床に落ちてしまった人いました。この時も、「あーあ」というため息とともに、大きな笑いが起きました。

 集落対抗をやめて、個人競争を中心にした運動会になって2回目。この日の運動会では、みんなに参加してもらい、喜んでもらうための工夫が随所にみられました。縄ない、小豆拾いなど、ふだん競うことのないものも入れて全員参加種目に据える。賞は1等賞から3等賞までに加え、10位と20位にも賞が出る。賞状や景品を渡すときは、駐在さんや郵便局長さんなど来賓として参加した人たち全員が分担する。初めて参加した人、久しぶりに参加した人など、大勢の人たちから参加した感想を語ってもらう。こういった工夫はみんなの笑顔につながりました。

 私が撮った写真の中で一番笑顔の数が多かった人は誰だと思いますか。ビン釣りではまさかの大苦戦、縄ない競争で最長の2b50aを記録したゲンイチさんです。
 (2013年9月1日)



第267回 五年前の約束

 ずっと前から気にしていたことがありました。「今度、ヒマを見て一緒に出かけ、楽しくやりましょう」という言葉を交わしながら、その人たちとこの5年間、一度も一緒に出かけたことがなかったからです。

 言葉を交わした相手は次男の連れ合いの両親です。初めて会ったのは大潟区のある料理屋さん、そこで次男と交際相手との「結納」の儀式があり、酒を交わしました。その際、相手方の両親とはすっかり打ち解け、「山騒ぎ」、温泉入浴など共通の楽しみがあることを知りました。正直言って、翌日、一緒に山へ出かけても不思議でないくらいの盛り上がりようだったのです。

 それが一体どうしたというのでしょう、私がバタバタしていて常に忙しそうに見えてしまったのかも知れません、お盆とか正月に挨拶で会うだけで、一緒に出かけるということはまったくありませんでした。そして、私自身も最初に会った時の言葉をすっかり忘れてしまっていました。

 5年前の言葉を思い出すきっかけになったのは、お盆に帰省した次男の一言、「何か気まずい雰囲気になったんだってね」でした。

 次男が帰省する前日だったと思います。私は盆礼で直江津にある次男の連れ合いの実家を訪問していました。そのとき、お母さんと一緒にお茶を飲んだのですが、あまり、話がはずみませんでした。話の中で、次男夫婦の帰省の日を私には知らせてなかったのに、直江津の両親には伝えてあったことが明らかになった場面があったのですが、お母さんはそのことが気になっていたのかも知れません。

 次男の言葉を聞いた直後、「そういえば、一緒に出かけようと言いながら、出かけていなかったな」と5年前のことを思い出しました。やはり、心の奥底で気になっていたのですね。直ちに、次男に頼んで、次男夫婦、直江津の夫婦、そして私たち夫婦の6人で飲み会をやる段取りをしてもらいました。次男夫婦が帰省した翌日という急な日程ではありましたが、実現しました。

 さて、当日です。直江津の両親の近くの料理屋さんに6人がそろったのは午後7時過ぎでした。最初、大きな四角いテーブルの両サイドに私たち夫婦と次男、直江津の夫婦と次男の連れ合いが対面式に座ったので、「これじゃ、見合いだね」と言うと、次男夫婦が移動しました。それからは、やわらかな雰囲気になりました。

 ビールとジュースなどで乾杯。その後は次男夫婦が予約しておいてくれた刺身、焼き肉などの料理を堪能しました。直江津のお父さんは私と同じビール党です。中ジョッキで3杯までいった時、私の方は2杯でしたから、私よりもいける方なのかも知れません。その次は1杯だけ注文して、2人で仲良く分けました。2つのコップに分けたのは私です。泡が落ち着くと見事に2等分されていて、「おーっ」という声が聞こえてきました。

 ビールなどをいただきながらの約2時間、お互いに話をしてみてびっくりすることばかりでした。直江津のお父さんは職人さんです。お得意さんである家が私の友人の家であったり、会社で一緒に仕事をしている人が、わが家の親せき筋の人だったり……。何回、「えーっ」という言葉を発したことか。世間は狭いと感じました。また、私の名前の入った看板がどこにあるかをしっかり覚えているのにも驚きました。2時間ほどの付き合いで、家族間の距離がぐんと短くなりました。 
  (2013年8月25日)


 
第266回 巣から落ちたツバメ

 10年ほど前のこと、わが家の牛舎で異変が起きました。お母さん牛が自分で産んだ子どもなのに子育てを放棄してしまったのです。おっぱいが飲めなくなった仔牛を守ろうと初乳でヨーグルトを作り、父と私が必死になって育てた思い出があります。

 こういうことは動物の世界ではめったにないことだと思っていたのですが、先日、大島区板山でツバメの世界でも似たようなことがあることを知りました。

 この日は猛烈に暑い日でした。暑さのせいか、遠くの景色はかすんでいました。セミたちの鳴き声が車の中に入り込んできます。いつもは窓を開けて車を走らせる私ですが、この日は汗がにじみ出て、我慢できませんでした。クーラーのスイッチを入れ、ラムネを時どき飲みながら運転しました。

 板山の章喜さん宅に立ち寄ったのは午後4時頃です。お連れ合いから冷たい麦茶をご馳走していただき、そろりと御いとましようと思って外に出ようとしたら、章喜さんが仕事から戻ってこられました。
「おまんに見てもらいたいものがあるんだ」
 そう言われ、案内してもらった場所は車庫兼物置といった感じのところです。バイクが1台あって、その荷台を見て驚きました。荷台の上に四角いビニールのケースが載せてあり、何とその中に小さなツバメが4羽もいたのです。章喜さんによると、4羽とも車庫の屋根の内側にあった巣から落ちてしまったとか。そして困ったことに、親ツバメがそれを機に子ツバメたちの面倒をみなくなってしまったというのです。

 餌を与えられない子ツバメたちは鳴くばかりです。見かねた章喜さんは餌くれをはじめたのでした。餌はバッタです。バッタを捕まえるために「たも」まで購入したと言いますから、本腰が入っています。実際、バイクの近くにある虫かごには10匹前後のバッタが入っていました。

 章喜さんは、どんなふうに餌くれをするのかも見せてくださいました。虫かごから緑色のバッタを1匹取り出すと、ツバメの口に入る大きさにするため、ハサミで足などを切ります。そして、手でつかむと、1羽のツバメの口のそばへ持って行きました。すると、子ツバメは黄色い口を大きく開けました。

 私の目の前でバッタの足をもらったツバメは口をもぐもぐさせますが、なかなか飲み込むことができません。章喜さんは、「ちょっと、でか過ぎたか」と言いながら、静かに引っ張りだし、小さくして再び口の中に入れました。そうすると、今度は飲みこみました。

 「いやー、本業よりも忙しいんだわ」と言って笑う章喜さんでしたが、ツバメの世話は餌くれにとどまりません。私に説明を続けながら割りばしを使って、小さな黒っぽいものをつまみ、捨てました。これはツバメの糞です。糞の片付けもあるし、ヘビの攻撃から身を守ってやらなければなりません。

 さあ、ここまで書けば、あなたも、子ツバメたちがその後、どうなったか知りたくなるでしょう。5日後、私は気になって、章喜さんのところへ電話をしました。そうしたら、うれしいじゃありませんか、子ツバメたちはみんな巣立ったというのです。それも電話のちょっと前です。「いやね、その後、ツバメたちを少し高いところへ移したんだわ。そしたら、親も餌をくれるようになってさ、飛び立ったんだ」電話なのに、章喜さんがニコニコしているのがはっきりとわかりました。
  (2013年8月18日)


 
第265回 ノノバの花

 お盆が近づいてきました。梅雨も明けたので、先日、車に草刈り機を積み込み、尾神の蛍場(小字名、集落名)にあるわが家の墓の周辺の草刈りに行ってきました。

 この日は猛烈に暑い日でした。お盆まで一週間足らずという時でしたので、誰でも家の周りやお墓掃除などをお盆前にやっておこうと思って動いています。スカイトピア遊ランドのそばを通って尾神へ行き、蛍場方面へと下りはじめたら、N子さんが実家の近くで草刈りをしていました。すでにお父さんやお母さん、お兄さんが亡くなっているので、同じ区内に嫁いだ彼女が草刈りをしていたのです。自分が生まれ、育った家を守ろうとしている彼女の姿を見て、何故かうれしくなり、「がんばってんね」と声をかけて通り過ぎました。

 わが家から墓場まで車で約15分です。蛍場の市道半入沢線から入って60bほどのところにわが家と「井戸尻」(屋号・いどんしり)の先祖の墓があります。

 この日、私はセミたちの大合唱に迎えられました。ミンミンやアブラゼミが盛んに鳴いていました。墓場までの道は農道です。誰が植えたのか、道の片側にクルミ、キハダ、ケヤキ、コナラの木があります。これらの木は去年よりもひと回り大きくなって、木陰をつくっています。そこを歩くだけでも気持ち良くなりました。それだけではありません、子どもの頃、ホタルを採って遊んだハサ場近くの小川の流れ、それと釜平川の流れの音も聞こえてきて、これまた涼しさを感じさせてくれます。

 草刈り機を車から降ろして、エンジンをかけると、一発でかかりました。墓場は農道よりも少し高いところにあり、そこへ上がって見ると、すでに20日くらい前に一度草を刈った跡があります。親戚の誰かが刈ってくれたのでしょう、おかげで草刈りは思っていたよりもはかどり、わずか三〇分ほどで終わりました。

 草刈りを始めてすぐに気付いたことは、この墓場にはいろんな野草があり、花を咲かせるということです。肉厚の葉をつけたキリンソウ、船のイカリのような白い花を咲かせるトキワイカリソウがまず目に入りました。ヤマユリは、緑色の実をつけていました。中には種子が入っています。

 私よりも早く掃除に来た人が野の花を大切にしていることは、花の時期を終えたばかりのヤマユリだけがすっと立っている様子を見ただけでもわかります。言うまでもなく私も、野の花を意識しながら草刈りをしました。この時期、墓場やその周辺で咲いている野の花はヤマウドとオトギリソウなどほんの数種類です。子どもの頃、お盆に咲く花だとばかり思っていたホタルブクロもひとつだけですが、小じんまりした花をまだ咲かせていました。いずれも刈らずに残しました。

 草刈りも後半になって、「井戸尻」の墓の裏側に行ってびっくりしました。私の大好きな夏の野の花、ツリガネニンジン(ノノバの正式名称)が薄紫色の小さな花を咲かせていたからです。この夏、ノノバの花を見たのは初めてでした。これはおそらく、4年前に母ちゃんと一緒に事故死した「井戸尻」の父ちゃんが何年も前に植えたものなのでしょう。あの人懐こい父ちゃんも野の花が好きでしたから。

 ノノバの花を見たことで、「井戸尻」の父ちゃんの、「おらが死んでも、酒、あげてもらいたいがど」という言葉を思い出しました。お盆の13日に墓場に出かけるときには、忘れずにお酒を持って行きたいと思います。「井戸尻」の父ちゃんや隣の墓に入っている父、そして祖父に楽しく飲んでもらうために……。 
  (2013年8月11日)



第264回 風が通るとき

 なんという心地良さでしょうか。風が静かに通り過ぎるだけなのに、まるで別世界に入ったような気分になります。今回は、暑い夏の日に風が起こり、風が流れていくときの短い物語です。

 数日前、市役所で仕事をしていた私は、久しぶりに、直江津の石橋にある食堂・喫茶、「あひる」へ出かけることにしました。

 市役所の正面玄関を出て、数秒後、夜間入り口の見える場所へ足を運び入れた瞬間のことです。石の階段の下の方から風が吹き上げてきました。ケヤキやカエデなどの木の下で、私の腕や顔をなでるようにして通り過ぎていく風はひんやりしていて、思わず、「わーっ、気持ちいいー」と声を出してしまいました。その時、階段の掃除をしていたTさんが私の声に気づいて、「そうなんですよ、ここは一番いい風が吹くんです」と言いました。Tさんは吉川区原之町から通ってきている人です。

「あひる」へ出かけることにしたのは、言うまでもなく、昼食をとるためです。それと、この店を経営しているS子さんに会いたい気持ちもありました。

 ここの定食はコーヒー付きでわずか五百円です。この日は、イワシや昆布などの煮物、やわらかく煮込んだヨウゴ、ダイコンの漬物などがおかずでした。

 定食を食べ始めてまもなくのこと、S子さんは、尾神に住んでいる私の伯母とその家族について語りはじめました。

「あんたんちのすぐ上の家にいぎなった嫁さんの話、母親から聞いててね、いつも語り草のようにしてるんです。少し障がいもっておられる方いらして、その方と上手に付き合ってくんなっててね、あそこのおばあちゃん、『おらちには日本一の嫁が来た』と言ってなったもんだと語っていました」

 すでに90歳になった伯母の、若かりし頃のことをそこで聞くことになろうとは思ってもみませんでした。でも、程度の差こそあれ、障がいを持った家族のいるS子さんにとっては、心の支えになるような記憶だったのでしょうね。いまでも、いろんな人に伯母の話をしているということでした。

 この日の定食のおかずの中で特に印象に残ったのは、冷たく、すっきりした味のヨウゴです。これがまた美味しかった。「これ、ヨウゴだよね」と訊くと、S子さんは、「そうです。安塚の人がくださったの」と教えてくれました。

 S子さんが語る何十年も前の伯母の話は、ヨウゴの味とともに私の体の中にさわやかな風を送り込んでくれました。また、40数年前に亡くなった伯母の家の、体格のいい「おばあちゃん」のことや尾神にあったわが家のことを思い出しました。

 そう言えば、あのおばあちゃん、お茶が大好きで、暑い夏場でも毎日のようにわが家にお茶飲みに来ていました。小さな池のそばを通る近道もあったけれど、おばあちゃんは大きな体を揺さぶりながら、ひんやりした空間となっていた「御前様井戸」のそばを通って自分の家とわが家とを行き来していました。

 S子さんは私と同郷の人です。帰り際に駐車場まで見送ってくれたS子さんに、「子どもの頃、『おしたむき』で一番涼しかったのはどこだいね」と尋ねたら、「そりゃ、『おもや』の井戸のそばだわね」という答えが返ってきました。思い出しました。たしかにあそこには井戸があって、子どもの時分、何度か水を飲ませてもらいました。そして、その井戸の下の方から涼しい風が吹き上げていたことも……。
  (2013年8月4日)

 

 
第263回 盛之助日記

 すごい人がいるものです。今年の6月で84歳になったばかりだといいますが、パソコンを操作し、郷土に残っている古文書などの史資料の整理をコツコツとすすめている。しかも、誰もが読めるデータに編集しているのです。

 この人は旧大島村の教育長を8年余り務めた高橋英夫さんです。先日、初めてお会いし、話を伺ってきました。急な訪問にもかかわらず、高橋さんはお連れ合いとともに笑顔で私を迎えてくださいました。

 コーヒーを飲み始めるとまもなく、高橋さんは私が見たいと思っていた内山盛之助(うちやま・もりのすけ)の日記の原本をテーブルの上に出してくださいました。 盛之助は旧東頸城郡嶺村の「いんきょ」(屋号)の出身で、私の母の実家、「のうの」(屋号)の本家の人です。日記には1877(明治10)から1912年(明治45)までの間の農作業や日常の暮らしのことなどが記録してありました。日記は全部で26冊にもなっています。全部を重ねると、高さは15センチになりました。

 高橋さんは日記を束ねたものをテーブルの上に置くと、「尾神岳での遭難のあと、徳之助はじきに安塚に大持引きに行っているんだよね」と言われ、びっくりしました。徳之助は「いんきょ」から分家した「足谷」(あしだに。屋号)の先先代、あるいはそれより一代前の人だったからです。この家もわが家の親戚です。

 私が高橋さんから盛之助の日記を見せてもらいたいと思うきっかけとなったのは、今月の11日、「足谷」の従兄を通じて「竹平内山家の年中農作業等記録」という題名の小冊子をいただいたことにはじまります。

 この冊子は、盛之助日記のうち、1883年(明治16)の記録を抜きだし、高橋さんがわかりやすく編集されたものでした。冊子を手にしたばかりの時は、「時間がある時に家で読んでみよう」と軽く考えていたのですが、同日、私はこの記録の表紙を「のうの」で改めて見て、胸がふるえました。「なに、明治16年……」、私はお茶をいただきながら、冊子をめくりました。ひょっとすると、明治16年3月12日にあった尾神岳の遭難事故のことが記録されているのではないかと思ったからです。

 予感は的中しました。東本願寺の再建に使うケヤキをソリにて運ぶ途中、27人もの犠牲者を出した尾神岳の雪崩事故のことが、わずか数行ではありましたが記録されていました。しかも、現場には盛之助自身がいたのです。

 当日の記録には、「雪ちらちら降る。此日盛之助御本山大持引に出る。川谷上より大神嶽のコシを通り、大神村・川谷村地境にて山より『大雪ナゼ』が出、大勢『雪ナゼ下』に相成る……」とありました。「これはたいへんな史料だよ」と従兄夫婦に繰り返し語ったものです。

 さて、高橋さんのところでは、尾神岳の遭難事件に関連する日の記録を写真に撮った後、高橋さん夫婦と話がはずみました。記録に書かれている「カヤ刈り」がなぜ4月に行われたのか、「春木」で使われたねじり木はマンサクだけでなかったのではないかなど、次々と話が続きました。そして、私が読みたいと思っていた原本の写しが安塚の添景寺の長尾先生のところへ最近送付されたことも知りました。

 いまから100年以上も前の記録、盛之助日記はいま、高橋英夫さんの努力によって光が当てられました。この日記はまだなぞの多い尾神岳遭難事故の解明だけでなく、私たちの暮らしの在り方にも大きな影響を与えるかも知れません。
 (2013年7月28日)


 
第262回 鏡

 何がいいのかなぁ。Sさんは居間のテーブルの上に小さな鏡を置いてしょっちゅう、自分の顔を眺めて暮らしています。先日、久しぶりにお茶を飲みに行ったときも時どき、鏡を見ていました。

 私が訪ねた日は暑い日だったので、居間で休んでおられました。お連れ合いのチヨさんと一緒です。自分の席のそばには枕が置いてありましたから、くたびれたときにはすぐに横になってテレビを見たり、眠ったりしておられるんでしょうね。

 テーブルの上の鏡は、縦15センチ、横10センチほどで、お風呂場に置いてひげ剃りに使うには手ごろの大きさです。「いつも鏡、見ていなるんかね」と訊くと、「いつも見ているがだ」とSさんは言いました。Sさんは90歳を過ぎ、歯がまったくなくなったことから、顔は細く見えます。

 チヨさんが台所からキュウリの漬物を出してきてくださり、3人でお茶を楽しみました。話の中心は田んぼ仕事のことでした。それも馬や牛を使って田打ちや代かきをしていたころのことですから、数十年も前の話です。「田打ちよりも代かきのときの方がたいそだった」などといった話が次々と出されました。

 田んぼで難儀した話は昭和20年の大雪の時の苦労とも重なって、どんどん惹きつけられました。

「おれは若い時に母親亡くしたすけね、苦労したわね」というチヨさん。お母さんは昭和20年の1月に亡くなりました。

 当時、チヨさんは未婚でした。お兄さんは冬場、静岡県のある酒造会社へ出稼ぎに出ていました。いわゆる「酒屋もん」です。大雪の中、汽車に乗って葬式に駆けつけたお兄さんは風邪をこじらせ、旅先に戻って間もなく、亡くなってしまいます。

 それからが大変だったのです。当時、約2町ほどあった田んぼの仕事がチヨさんの肩にかかってきたのですから。その年の春作業では、近所のお父さんに馬の扱い方について習い、馬耕から田かきまですることになりました。田を打つ時はまだ良かったといいますが、「くるい返し」が大変でした。

「足袋にワラジはいていたがだでも、打った土が山になっているところに乗った時はいいがさね。そうでねとこに乗った時がきょろんきょろんして転んだもんさね」

 チヨさんは、まるで田んぼの中に入っている時のような格好をしながら語り続けました。「女しょには馬は可哀想だ、牛にしよう」という声があり、その後、牛に切り替えたのですが、その牛がまたバカでかい牛で扱いがやっかいでした。そこへ後に連れ添うことになるSさんが登場したのです。当時としては珍しいトラクターを持って行ったSさんは、「おりゃ、助けたがだ」と言って、ニコニコ顔でした。

「若い時は褒められることがなかった人だ」とのチヨさんの評価を聴いていたので、「どうせ、夜にちょっかい出したんじゃないの」と冗談を言ったところ、チヨさんは、「それが、夜になっても、ちょっかいださないまじめな人だったがでね」と答えました。

 話は弾んで1時間近くにもなりました。Sさんは歯が無いので、薄く切ってもらったキュウリの漬物を時どき食べながら、鏡をのぞいていました。どうやら、この鏡はのぞき込んでいると、昔の思い出が次々と出てくる魔法の鏡のようです。Sさんは、「昔のこと、忘んねよ。思い出してばっかりだ」そう言って、また鏡を見ました。
 (2013年7月21日)


 
第261回 アサガオ

 もう何年も前のことです。早朝に町の中心部を車で走っていると、自宅前にある赤い郵便ポストをタオルか何かで拭いている女性の姿が目に入りました。ゆっくり見ている余裕はありませんでしたが、やさしく拭いている姿が強く印象に残りました。

 ポストを拭いている姿を見たのは、その1回だけだったのですが、拭く姿を見た瞬間、「この人は毎日、こうやって奉仕活動をされているのだろうな」と思いました。というのは、訊かなくてもわかるほど、丁寧な拭き方をされていたからです。

 その女性は一人暮らしのKさん、私の父と同じ昭和2年生まれだと聞いていますので、現在85歳か86歳です。先日、久しぶりにKさんの家を訪問しました。

 玄関の戸をあけると、「ちょうどいま、お茶を飲むところだがね、上がっていってくんない。おまんの知っていなる人もいなるし……」と誘っていただきました。車のエンジンを切った後、お邪魔すると、居間には現在は山間部に住んでおられるT子さんもおられました。T子さんはかつてお連れ合いとともにKさんの近くに住んでいたことのある人です。

 Kさんは私にお茶を差し出すと、開口一番、「もう5年も経っちゃったわね」と言いました。「5年も経っちゃった」というのは、亡くなったお連れ合いのことです。私がたびたびお会いし、大雨になった時の排水対策などで話をしていたことを思い浮かべてくださったのだと思いますが、そんなふうに話をしてくださることをとてもうれしく思いました。

 お茶会では、キュウリの漬物とお菓子が出てきました。一緒にお茶をご馳走になったT子さんとともに、「とりたてのキュウリはガブッとやると、キュウリそのものの香りもして美味い」とか、「ひと口メロンがメロンのなかでも一番うまいのではないか」などといった話をして盛り上がりました。

 話を始めて間もなくのこと、居間の障子風の戸にツルらしい影が映りました。お天道さんが明るい光を注いだ時に外にあるものが映ったのです。脇の戸を開けてみると、思っていた通り、そこにはアサガオが何本もあり、ツルが上の方に伸びてもいいようにネットが張られていました。

 私はカメラを取り出し、影が映るタイミングを待ちました。写真では左側にアサガオの影、右側には外のアサガオがそのまま入るように、戸を少し開けてみました。自画自賛になりますが、暑い日が続くなかにあって、涼しそうな感じがよく出た写真となりました。

 アサガオはまだ伸び始めたばかりで、花はいくつも咲いていませんでした。アサガオが花や葉っぱとともに窓全体を覆うまでにはまだしばらく時間がかかりそうです。Kさんによると、アサガオとネットは午前の強い陽射しを避けるために近くに住むHさんが仕掛けてくださったとのことでした。ひょっとすると、アサガオはKさんがお店をやっていた頃から近所の人たちなどを招いてお茶会をやってきたことへの感謝の気持ちのあらわれだったのかも知れません。

 人間は誰でも人のために役に立ちたいという気持ちを持っていると思います。ただ、それを行動に移すかどうかとなると、躊躇してしまうことが多いのも現実です。だから、Kさんがポストを拭いていた姿やHさんがKさん宅の居間の東側にアサガオを植えたという話には拍手を送りたくなります。
  (2013年7月14日)



第260回 夫婦茶碗

 市役所での用事が予定よりも早く終わったので、先日の夕方、40数日ぶりに柏崎の母を妻とともに訪ねてきました。家のすぐそばの畑にいた義母は私たちを見つけると、「あんまり来ないので心配していたんだよ」と言って喜んでくれました。

 3年前に夫を亡くした義母は今月で満89歳になります。足腰が良くないので、もっぱら近くの畑で大好きな畑仕事をやっています。この日は、ご飯が炊けるまでの間にということで、畑に出て、野菜に水くれをしていました。畑にはキュウリ、ナス、ネギ、サトイモ、大豆、ミョウガ、コショウなどが植えられています。義母は玄関脇の手洗い場からホースをのばし、野菜の一つひとつに水をかけていました。

 野菜に水をくれながら、義母はキュウリにかけるネット(網)の話をし始めました。キュウリは私の背丈ほどに生長し、10aほどの実がいくつかなっていました。
「カラスがいじめるんだて……。この間も食い散らかしていったんだわ」
いかにもカラスが憎いといった表情で、義母はそう言いました。キュウリが植えられている畑から20bほど離れたところでは、義兄がイチジクの木にかけてあったネットを取り外しています。これをキュウリにかけようというのです。

 水くれが終わった義母は、「さあさ、入って」と私たちに家の中に入るよう勧めました。玄関からまっすぐ入ったところに義母の部屋があります。40日ほどの間に部屋の中はずいぶん変わっていました。ベッドの位置が以前とは違っています。小さな冷蔵庫が入り、クーラーも設置されていました。

 部屋の一角に、これまた小さなテーブルが置いてあって、その周りに座イスが2つあります。その1つに座らせてもらい、お茶をご馳走になりました。

 ベッドに目をやると、布団が落ちないようにと、高さ30aほどの手すりがつけられ、それをかわいい布でおおってあります。しかも、その布にはポケットがいくつかあって、テレビ、エアコン、電灯のコントローラーが入れてありました。
「あら、いいもんつけてもらったね」  と、私が言うと、義母は、義姉の連れ合いのトシオさんがつけてくれたと教えてくれました。これなら、ベッドに寝ていようと、座っていようと、そこでテレビなどを操作できるし、とても便利です。

 義母によると、ベッドの手すりをつけてもらったのには、訳がありました。 「トシオさんたちがダブルベッドを買うと言ったから、私、それは止めとけと言ったの。いずれ一人になるんだから、その時、ベッドが広すぎて困るからね。私のように寝ていても行儀悪いと布団落ちるけど、トシオさんたちは行儀いいんだね、そんで分けてくれたの」
 ベッドの手すりは義姉夫婦がシングルベッドを購入した時のものだったのです。

 私よりも少し遅れて妻が部屋に入ってきた時、義母は湯呑み茶碗を4つ出し、お茶を注いでくれました。私と妻には白い茶碗、そして残りの2つは何と夫婦茶碗でした。これは柏崎の父が栃木で買ってきたものだそうです。

 亡くなって3年経っても、お茶を飲むときには連れ合いの分もお茶を入れる、これには驚きました。「もう夜になるし、寝そけるからね。これはあげないの。死んでしまえば、悪いこともみんな、ようなってくるもんだ」、そういう義母を食器棚のそばの写真の中から義父が見下ろしていました。
  (2013年7月7日)

 

 
第259回 ドングリ

 今春、ドングリの芽と出合ったおかげで、今年は植物の新しい世界に招待されたような気分をたびたび味わっています。

 ドングリの芽を見つけたのは雪解けが進んでいた3月の上旬でした。市道脇にある側溝と雑木林との間に落ち葉や枯れ草でおおわれているスペースがあり、そこにドングリがいくつか転がっていました。ただそれだけなら通り過ぎたのでしょうが、皮が破られ、ちょっぴり赤くなった実の見えたものがありました。しかも、その実の先はとがりはじめていて、これから芽を出そうとしていたのです。雪の重みと冷たさに耐え、ドングリが新しい生命をのばそうとしている、これからどうなっていくのだろうかと、とても気になりました。

 その日から、ドングリの転がっていた場所を通るたびに、足を止めるようになります。最初に見つけたドングリの周辺をよく観察してみると、ドングリの実が割れているものは他にもまだありました。そして、芽を出しはじめたものの、凍傷にあったのか、そのまま先が黒くなって枯れてしまったものがいくつもありました。となると、芽を出しているものは寒さに耐え、勝ったものです。これは目を離せません。

 約1ヶ月後、ドングリに大きな変化が起きました。少し赤みがかったドングリの実がパカッと2つに割れ、真ん中の部分から、明らかに芽だとわかるものがすっと出ていたのです。芽の長さは1aあるかないかくらい、色はいかにも出始めといった感じの乳白色でした。

 真ん中から伸び始めた芽は、2週間ほどの間にどんどん変わっていきました。何よりも背丈が伸びました。最初は1aほどであったものが5aほどになります。色も赤みを帯びたものへと変化し、力強さが出てきました。さらに、芽の先端部分では葉を作り、開いていきました。上の方を向いて開き始めた葉は五日ほどで水平になり、続いて地面の方へと下がりました。

 葉が赤っぽい色から黄緑色へと変わり、葉の数が4〜5枚へと増えてからはなかなか大きな変化は生まれず、次第に毎日の観察はしなくなりました。ところが、6月の半ばを過ぎて事件が起きました。道路脇の除草が行われたのです。「しまった」と思いました。除草が行われる前に移植しておかなければ、刈られてしまうと思っていながら、その移植をすっかり忘れてしまっていたのです。

 ドングリには申し訳ないことをしたと思いながら、草刈りがされた場所で、手で少しずつ草をどけながら、さがしました。一度目にはわからなかったのですが、二度目に、丁寧にさがした結果、観察し続けていたドングリの木のそばにあった直径1センチほどの枯れ枝を見つけました。そして次の瞬間、ドングリの木、そのものを発見したのです。あまりにもうれしくて、「あったぁ」と声を出してしまいました。4枚の葉はいずれも3分の1ほどちぎり取られていましたが生きていたのです。

 さて、生き残ったドングリの木をどこに移植したらいいのか。そもそもドングリはどんな土を好むのだろうか。そう思って、先日、ドングリの木が大きく育っている林の中に入り、ドングリの木の根の周辺の土を掘ったり、匂いを嗅いだりしてきました。落ち葉の下にはぼろぼろになった葉や木の枝があり、何種類ものアリたちが忙しそうに動いていました。でも、木の根の周辺では芽をだした小さなドングリの木は一本も見つけることができませんでした。うーん、これは一体どうしたことか。
  (2013年6月30日)


 
第258回 爆弾おにぎり

 埼玉の叔母の一周忌法要の際、今年の「いとこ会」をいつ、どこでやろうかという話が出ました。そこでは決まらず、後日、大島区に集合して相談することになりました。正直言いますと、飲んで語る楽しい時間を増やすために決めなかったのです。

 相談会はこの間の土曜日に行われました。会場は大島区板山の「伊作」です。吉川、浦川原、牧、三和、高田などで街頭宣伝を終えた私は、高田から「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしながら会場へと急ぎました。

 この日、私が急いだのにはわけがありました。「いとこ会」の事務局をしている千葉のエツオちゃんが、「パソコンを使い、今秋、予定している『いとこ会』の会場候補地を映像も使ってみんなに説明したいので、プロジェクター(映写機)とスクリーンを持ってきてくれないか」と言っていたのです。

 相談会は午後6時にスタート。再会を祝し、ビールで乾杯すると、「酔っぱらわないうちに、早く決めちゃおうど」と誰かが言いました。そして、エツオちゃんはすぐに映しはじめました。いやー、びっくりしましたね。スクリーンに映し出された「いとこ会開催予定会場」一覧表には、松之山など8つの温泉地の11の宿が並んでいて、宿泊料金や飲み放題がいくらかを全部掲載してあったのです。しかも、それぞれの宿のホームページもボタン一つで見られるようになっていました。

 各地の宿のホームページに掲載されているお風呂や部屋、交通の便などの説明を聴きながら、「おっ、これでいこう」と決まったのは伊香保温泉のあるホテルです。乾杯後、10分経つか経たないうちに決めるというスピード決定でした。

 思ったよりも早く決まったので、埼玉のトモコちゃんが持ってきた昨年の「いとこ会」の写真データを今度は私のパソコンを使って上映しました。まだ数か月前の写真だというのに、まるで数十年前の思い出を語るかのような賑やかさでした。
「アイジとノリカズは『のうの』の系統だでの、頭の禿げ具合がそうだ」
「シュウジさんはうちの父に似てきたわ」
「奈良(のカズエさん)ととうちゃん、恥ずかしげもなく、肩を抱いて写ってる。夫婦があんがなふうになるには歳とらんと駄目だこて。こっぱずかしくてそ」

 数十枚の写真を映した後、オマケに母の最近の様子を写真で紹介しました。牛舎で水をペットボトルに詰め、一輪車で畑へ運ぶところです。「達者だでの」「まだ、くびき餅のしょに頼まんて、笹採りしてんがかい」「この間、おらんどこのモミジの木がどうなったと訊いてこらんたがで、死ぬんでないかと心配した」などの声が次々と出て、酒もろくに飲まないで、おしゃべりがはずみました。

 会が一応終わったのは午後九時ごろでした。「伊作」に残った埼玉と千葉の4人、私、それにシュウジさんとで、タケノコ汁とおにぎりを食べながら、子どもの頃の思い出話に花が咲きました。

 興味深く聞いたのは、板山の伯母がお盆などで作ってくれたおにぎりの話です。トモコちゃんやヨシエちゃん、ユウジ君などによると、伯母がつくったおにぎりは「爆弾おにぎり」だったというのです。普通のおにぎりの約四倍の大きさで、「あれほど大きいのは他に見たことがないわ。それにご飯がうまいのよ」と言っていました。

「いとこ」たちが大島に集まるのは、みんなこの地に幼い時からの思い出がたくさんあるからです。私も伯母の作った「爆弾おにぎり」を食べてみたくなりました。
  (2013年6月23日)


 
第257回 「おいっ」

 「吉川民謡お披露目発表会」も最終盤にかかっていた頃でした。吉川体育館のステージ前では浴衣姿の20数人の踊り手のみなさんが吉川区の新民謡、「吉川ばやし」の唄に合わせて踊りの輪をつくっていました。

 来賓席に座っていた私は、踊り手のみなさんの動きを惚れ惚れしながら見つめ、時どき、カメラのシャッターを切っていました。

 どれくらい経った時だったでしょうか、突然、私の斜め前方にいた男性が、私の顔を指差し、「おいっ」と声をかけてきたのです。びっくりしましたが、誰が声をかけてきたのかはすぐにわかりました。長年にわたり、農業委員の仕事をご一緒させていただいたSさんの声だったからです。

 Sさんについては、同じ集落に住む人から、「病気がすすんで、家族でもわからん時があるようだ」と聞いていました。それだけに、「おいっ」と声をかけられた時はまさかと思いました。同時に、何回も涙が頬を伝わりました。口を開けた格好が父の姿に似ていたこともありましたが、何よりも、「よく、オレのことを憶えていてくれたね」とうれしく思ったからです。

 この日、Sさんがステージ前のござを敷いた場所にお連れ合いや娘さんらしき人とともにやってきたのは開始時間の少し前でした。禿げあがった頭、垂れ下がった眉、先っぽの方がかくっと曲がった独特な形の鼻……、それらは昔のまんまです。

 以前と比べて、Sさんの様子が明らかに違うなと感じたのは、口を大きく開けた状態がずっと続いていたことでした。すでにこの世にはいない私の父が病院でベッド生活をしているときも口を開けていましたので、心配になりました。また、民謡や懐かしい歌謡曲が歌われているのに、うれしそうな顔をせず、会場入り口で渡された二枚のビラを折りたたんだり、広げたりしていて落ち着かない姿も気になりました。

 でも、発表会が進むにつれて、硬くなっていた気持ちが少しずつほぐれ、懐かしい記憶がよみがえってきたのでしょうか、「吉川十三夜」の踊りの輪ができる頃には、Sさんの顔の表情が明るくなり、笑顔になっていました。踊り手の中に自分の娘さんがいたことがわかり、そのことがうれしかったのかも知れません。唄と踊りに手拍子が加わると、一緒に手拍子をとりました。

「おいっ」という声を出してから少し経って、Sさんは、再び私を指差し、その手を左の方へと動かしました。おそらく、「踊りの輪に入ればいいねか」という意味だったのだと思います。私は手を短く動かし、「オレにはできない」ことを伝えたのですが、この合図もわかったようでした。

♪ハアー  北は米山 東は尾神  
 緑うるおす 水の里
 ここは上越 吉川ばやし
 さぁさ輪になれ 手拍子で
 老いも若きも 老いも若きも
 踊ろうじゃないか

 吉川町音頭を元にした「吉川ばやし」が終わってすぐ、私は笑顔のSさんのそばに行き、肩を抱きました。Sさん、あなたの「おいっ」と笑顔、一生忘れませんよ。
 (2013年6月16日)


 
第256回 合いの手

 まさか、と思われるでしょうが、その、まさかが現実になりました。人間がギターを弾き、歌う曲になんとカラスが合いの手を入れたのです。コンサート会場となった民家の一室では、「あら、まあ」という声とともに笑い声も出ました。

 5月の最後の日曜日。中郷区江口のFさん宅で料理と音楽、それにマジックを楽しむ会があり、参加してきました。Fさんは高田の大町に居酒屋を出しておられ、私は近くで会議があった時など、年に数回、ゆっくりした時間を過ごすために利用させてもらっています。その縁で、出かけてきたのです。

 この会のテーマは「人生ってすばらしい!」。コンサートとマジックの前にピザや焼き肉などを楽しみました。なかでもピザが美味かった。Fさんの自宅脇の作業所になるのでしょうか、この建物の奥に煉瓦造りの窯(かま)があり、ピザはそこで薪(たきぎ)をくべて焼いたものでした。私は、自分の目の前の窯で焼いたピザを食べるのは初めてです。「こんなふうにして楽しむ人がいるのか」と感心しました。

 Fさん宅は国道から少し入ったところにあります。たくさんの花が庭に植えられていて、すぐそばには田んぼもあり、県境の山々が見えます。コンサートは、午後1時過ぎからFさん宅の1階の大きな部屋で始まりました。

 ギターを弾き、歌を歌ったのは新潟市在住の音楽家、さとう・えみさん。青山学院大学在学中よりヴォーカリストとして活動、新潟に戻ってからはジャズヴォーカルを学びライブハウス等への出演を重ねている人です。この日は代表的なボサノバを六曲ほど歌いました。

 1曲目は短い曲、でも、何度も聞いたことのある懐かしい曲でした。恋をし、失恋を繰り返していた10代後半から20代の頃の切ない気分が甦ってきました。たぶん、喫茶店で聴いていたのでしょうね。曲のリズムは私の耳にしっかりと残っていました。2曲目も3曲目も曲名はわかりませんが、初めてではありませんでした。体をゆすったり、両手で膝を軽く打ってリズムをとりたくなるような曲が続きました。

 そして4曲目でした。えみさんが歌い始めると、丁度いいタイミングで、「カア、カア」というカラスの鳴き声が聞こえてきたのです。それも1回だけではありません。歌っているえみさんが息を吸うときに、「カア、カア」を数回繰り返したのです。びっくりしましたね。もちろん、鳴き声は外からです。聴衆のみなさんの中からは「伴奏している」という声が聞こえてきました。

 コンサートの会場にはマイクとスピーカーがあり、歌は会場だけでなく、私が座っていた近くの窓から外へと流れていったのでしょう。この4曲目は、映画音楽として有名な「カーニバルの朝」という曲で、合いの手を入れるにはちょうどよい、ゆったりしたリズムです。カラスが気に入ったとしても不思議ではありません。

 マジシャン・カズのマジックも大好評でした。カズさんは、一昨年の東日本大震災以来、福島に数十回ボランティアで入り、被災者の支援活動を続けています。高田の夜桜を観てほしいと願い、考案した花吹雪を次々と作りだすマジックには大きな拍手とカンパが寄せられました。

 この日、中郷区はニセアカシアの素敵な香りがあちこちに漂っていて、それだけでも強く印象に残ったのですが、この日のコンサートで初めて聞いたカラスの合いの手によって、忘れられない一日となりました。   
 (2013年6月9日)


 
第255回 昔のアルバム

 この日のために誰にも明かさないできました。妻の昔のアルバムが見つかったことを。だから、プロジェクターで懐かしい写真がスクリーンに映し出されるたびに、「どこで探して来たんだろいね」という声があがりました。

 五月の半ば過ぎの日曜日のこと、海の見えるホテルの一室で、妻の退職を祝ってささやかな会が行われました。集まったのは私たち夫婦と、妻のキョウダイ夫婦、そして二人の母親です。会食が中心の会でしたが、じつに楽しいひと時となりました。

 最初に妻が挨拶、「兄貴は家をしっかり守ってくれてありがとう。これからも居心地のいい実家の維持をよろしくお願いします」と義兄にお礼の言葉を贈りました。私にもありましたよ。私への言葉は、「そこでカメラを構えている体の大きな人、いろいろあったけれど、定年まで仕事ができました。ありがとう」でした。

 祝いの会だということでホテルからいただいたワインで乾杯した後、それぞれのお膳の上に次々と出される料理を楽しみました。ビールやジュースを飲み、カニ、イカ、ヒラメなど海の幸を食べながら、話がはずみました。

 この日、話題になったことの一つは大きなヒラメの刺身です。大きなひとつの皿に盛られた体長50a近いヒラメの刺身を見て、義兄や義姉が「これは船で漁に出て釣ったものなの?」「刺身の山が崩されないうちに見に来いよ」「一番美味しいとこ食べない。まずは親に権利あるど。二度と食べられないかも知れんし…… 」などと言って、みんなを笑わせました。義母は、「おじいさんがヒラメ、好きでのう。刺身と言えば、ヒラメだった。私はイワシやサバが好きだったけど……」と言い、懐かしがっていました。

 ある程度、食べ進んでから、私の出番がやってきました。じつは、わが家と妻の実家とで何かをやる時は私がスライドを作成し、上映することが恒例となっています。この日のスライド上映も大きな話題となりました。

「はい、始まり、始まり」。私がオオイワカガミの花の写真に続いて映し出したのは、いまから五十数年前の写真です。近所の子どもに抱かれた1歳頃の妻の姿が写っています。妻のキョウダイや義母もいました。
「どこから、こんな写真、見つけたろいね。誰か棒で写真の説明してくれ」
「これ、『はずれ』のばあちゃん? これ、だーれ。これ、みきこちゃん? 」

 義母や妻のキョウダイが驚嘆の声をあげました。柏崎の海での海水浴の写真も2枚映し出しました。妻が水泳の帽子をかぶった子ども時代の写真は次男とそっくり、「これ、ゲンキか」という声が出るほどでした。一緒に海に出かけた義母の水着姿もありました。
「お母さん、このころ、美人だったね。いや、このころから美人だった」
 今度は義姉の連れ合いが声を出し、まあ、まあ、とても賑やかになりました。2年前に亡くなった義父の写真は二人の同級生と一緒でした。義母が、「この人は早く死んだ。この人はまだ生きている」と言うと、「そりゃ、ないよ」と大笑いしました。

 スライド上映に使った写真は全部で28枚。このうち21枚は妻の昔のアルバムを使って作ったものです。じつは、このアルバム、30数年前にわが家が尾神から引っ越した時にどこかにしまいこんで無くしてしまっていました。それが今年1月、私の牛舎で見つかったのです。まさか、妻の退職3か月前に出てくるとはね……。
  (2013年6月2日)



第254回 甥の結婚式

 何度も笑いました。何度も涙を流しました。甥の結婚式でのことです。五月晴れの土曜日、6年間の付き合いの中で愛を育んできた甥とR子さんは、家族や親戚、職場の友人、同級生などから祝福を受け、結婚式をあげました。

 結婚式場は長野県北部にあるワイナリー(ワイン醸造所)。わが家の近くから観光バスに乗って約2時間かかりました。バスの中は若い人たちが大勢で、賑やかでしたね。「殺し屋」というあだ名の同級生がいたとか、どこどこにエロ本があったといった話がポンポンと飛び出します。「新郎の橋爪の父親の橋爪です」という弟の挨拶に、甥の同級生などは「面白い」と声をあげました。まるでバス遠足のようでした。

 ワイナリーに着いてから案内されたのは芝生の広場です。大きなトチの木が一本ありました。ケヤキがひと固まりになって大きく伸びているところが2か所ありました。遠くには妙高山が見えます。ここが結婚式場でした。

 結婚式は大きなケヤキの木の下で行われました。神父さんが進行役です。ユーモアたっぷりでした。新郎新婦の両親への問いかけに続いて他の参列者にも「お二人の結婚を心から祝福なさいますか」と訊きました。ほとんどの人が静かに「はい」と言うと、「ちょっと弱いですね。外ですからね。もっと山まで響くように大きな声で」と催促されました。今度は全員、大きな声で、「はい」とやりました。みんなは遠慮することなく笑いました。会場の硬い雰囲気はこれですっかりなくなりました。

 新郎新婦の誓いの言葉の後、神父さんは聖書に書かれている、「一生の間にあなたの妻と生活を楽しむがよい」「あなたは若い頃の妻と喜び、悲しむ」という格言を引用しながら夫婦生活のあるべき姿を語りました。そして新郎新婦に3つの言葉を贈ります。「ありがとう」「ごめんなさい」「いいでしょう」、この3つの言葉を必要に応じて使えばあなたたち二人は一生幸せです。神父さんがこう話をされている時、偶然なのでしょうが、ケヤキの木の上から小鳥たちの鳴き声が聞こえてきました。

 さて、結婚を祝うパーティはぶどう畑のそばのレストランで行われました。ここでも様々な工夫がありました。新郎の友人のなかには映像作成が得意の同級生がいたようで、「結婚式場に向かうバスに乗り遅れた男性が、高速を走り、大急ぎで会場に飛び込んでくる」映像をスクリーンで映し出し、どんぴしゃりのタイミングで実際にその彼と仲間が舞台に登場して歌を歌い始めたのにはびっくりしました。なかなかやりますね。新郎新婦の歩みを紹介するために、また、参加者への感謝のメッセージを伝えるためにスライドが上映されました。これもよかった。

 パーティではレストランのスタッフの人たちが一緒に楽しむ場面もありました。ケーキを運んでくる場面です。ラテン系の素敵な音楽が流れるなか、黒人女性がケーキを頭にのせて会場に入り、みんなと踊る。新郎も腰を揺らして踊り出しました。スタッフが結婚パーティを楽しむのを見たのは初めてでしたが、結婚を祝うって、本来、こういうことなんではないかなと思いました。

 不覚にも涙を流したのは新郎の上司の方から、「お父さんのことではお世話になりました」と言われたときでした。何と、父が介護でお世話になった人だったのです。新郎の友人の「ユウダイ君はガニマタ」という言葉を聞いた時は祖父や父の姿を思い浮かべました。「私が自由に生きてこられたのも二人が私を守ってくれたから」と新婦が両親に伝えた感謝の言葉でも涙が流れました。お二人さん、がんばれよ。
  (2013年5月26日)

 

 
第253回 用水普請

 倒れた木や邪魔な枝などを片付け、ゴミを拾い、たまった土砂をどかしたばかりの用水路。水源の大滝から水を取り入れると、残ったゴミを巻き込みながら水が丸くなって低い方へと流れていく。普請直後の通水を見て胸がいっぱいになりました。

 私が今回、体験したのは吉川区の山間部、川谷にある立石用水の普請です。この用水は尾神岳(標高757メートル)の中腹に切り開かれたもので、全長が約1.5キロメートルあります。高齢化が進み、集落だけの力では用水普請が困難となってきているなかで、何としても用水を守りたい、そう思っている人たちが考えだしたのは「深山の水を田に引く…ボランティア支援による用水普請」です。ホームページなどで全国に訴えました。もちろん、初めての試みです。

 当日の朝、8時ちょっと前、どんな人たちが集まるのかなと思いながら、旧川谷小学校の校庭に行くと、水たまりを囲むようにして何人かがおしゃべりをしています。写真を撮っている人もいました。水たまりにはたくさんのオタマジャクシがいたのです。この光景を見て、面白く、楽しい普請になりそうな予感がしました。

 簡単な打ち合わせの後、集まった10数人の人たちは3台の軽トラに分乗して用水の近くまで行き、あとは歩きました。耳に入ってきたのは小鳥たちの賑やかなさえずりです。ウグイスやオオヨシキリなどの合唱が私たちを迎えてくれました。

 用水路のあるところまで上がって、午前は2つの班に分かれ、午後は全員で水源に向かって作業を行いました。水路にかぶさった枯れ草を草刈り機やカマで切る。水路を埋めている土砂や落ち葉などをスコップでさらう。倒れた木をチェンソーで切断し、片付ける。作業は順調に進み、初めての人が多いとは思えませんでした。

 私が立石用水を訪れたのは今回で3度目か4度目だと思います。何度見てもすごいと思うのはバカでかい岩を削って水路をつくってある所がいくつもあることです。細い岩場の道を恐る恐る歩きながら、みんなが先人の仕事のすごさを口にしていました。水路の近くにある数々の巨木も目を引きます。そのうちの一本は巨大な太さの幹と枝を持ったヤマザクラ、怪物のように立ち、今回も見るものを圧倒していました。

 さらに、野の花もたくさん咲いています。この日はナガハシスミレ、キスミレ、エゾエンゴサク、ニシキゴロモ、トキワイカリソウなどの花と出合いました。いずれも作業の疲れを忘れさせてくれる美しさをそなえています。東京からやってきた女性陣は盛んに花の写真を撮っていましたね。

 草がまだ伸びていないことや大勢のボランティアが参加したこともあって、作業は当初予定よりも2時間ほど早く終わりました。私は原之町在住のMさんや糸魚川市からやってきた若夫婦などとともに用水路の下流の方を見てきました。どんづまりまで行って、びっくりしました。用水はそこから一気に100メートルほど下っていたからです。眼下には川谷地区で一番の面積を持つ棚田が広がり、旧川谷小学校の校舎や家々も見えます。改めて、用水を切り開いた先人の努力に頭が下がりました。

 夕方の懇親会には上越やまざと暮らし応援団の小山理事長もビールを持って駆けつけ、地元町内会を代表してお寺さんが挨拶しました。ボランティア募集を呼びかけた天明さんは、「多くの人の手を借りる事によって、『米作りのバトンを渡し、先人の思いを今人に伝える』行事になりました」と喜びました。感想を語った参加者はみんな笑顔です。私は深山の水は来年も、再来年も田んぼに引かれると確信しました。
  (2013年5月19日)



第252回 てんでばらばら

 ゴールデンウイーク後半の3日、金沢の次男夫婦が帰省しました。いつものことながら母が一番楽しみにしていました。私は「しんぶん赤旗」日曜版の配達と集金で出かけていたのですが、母が「元気、来たよ」と次男夫婦の到着を教えてくれました。

 母はお昼前から準備をしていたのでしょう、私が到着した午後6時半よりも前には料理が出来上がっていたようで、居間の炬燵(こたつ)の上にはすでに御馳走が並べてありました。

 出されていた料理は、茹でたコゴミとイワシをまぶしたもの、ウドの「さんばい」、ノノバ(ツリガネニンジンの若芽)のお浸し、豆腐の厚揚げ、それに母が得意とする赤飯とコンニャクです。このうち目を引いたのはウドの「さんばい」でした。皮をむき、酢を入れたお湯で湯がき、三倍酢に漬けておくと出来上がるとか。色鮮やかで、とても美味しそうです。

 この日の午前、私は友人と一緒に山菜採りをしてきました。母が料理して出してくれたノノバなどいくつかは私が採ってきたものです。その時の様子をデジカメに撮っていました。次男夫婦も写真が好き、カメラなどに入った画像データを持って来ていました。さらに私は夕食中からカメラを持ちだし、ばあちゃん料理を撮影しました。

 おもしろい光景が出現したのは夕食後でした。言うまでもなく、私が持っているものと次男が持っているものとでは画像データは違います。私のデータは山菜や山の様子、次男は夫婦で出かけたときの愛車の入った風景が主でした。それらの写真を私と次男は、てんでばらばらにまわりの者に見せていたのです。私は隣にいた次男の連れ合いに、野の花や山菜採りの様子を見せたり、教えたりしました。次男の方は妻が相手です。きれいな海で撮った風景を妻に見せ、話がはずんでいました。

 しばらくして、次男の連れ合いだったと思いますが、みんながひとつのことに集中しないで、バラバラにしていることに気づきました。親子が久しぶりに再会したというのに、ここの家はどうなっているんだという気持ちがあったのでしょうか。笑いながら、「みんな、ばらばらに好きなことしている」と小さな声で言いました。そのひと声で、てんでてんでに遊んでいることにみんなが気づき、大笑いしました。

 そうこうしているうちに、次男がデジタルカメラとテレビをケーブルでつなぎ、画像をみんなに見せてくれました。こうなれば、全員がテレビに集中することになります。次男の画像データが先に映し出され、次いで私のデジカメの画像も映しました。

 最初は海や山の写真でしたので、みんなが「なるほどね」と言った感じで見ていたのですが、私が撮った一枚の画像を映し出したところで全員が再び噴き出してしまったのです。その写真に写っていたのはちょっと前の食後の風景です。次男はカメラを斜め上にかまえて覗き込んでいました。母は自分の前の山菜料理を見ています。妻は妻でとんでもない方向を見て笑っていて、ここでも、てんでばらばら、勝手に動いているのが映し出されていたのです。

 映し出された中には山菜採りに行った時の山の写真も2、3枚ありました。そのうちの1枚には山の急斜面が写っていました。この写真にいち早く反応したのは母です。「あっ、ウドがある」。母は、写真の左下の方にあるウドを見つけたのでした。長年、山菜採りをしてきた者ならではの「山菜を見つける目」はウドを見逃さなかったのです。そして、みんながそろって言いました、「ばあちゃん、すごいね」と。
  (2013年5月12日)

 


第251回 ちょうちん行列

 カンカンカンカンカン……。4月29日、午後7時40分ちょっと前だったでしょうか、秋葉山の上の方で半鐘が連打されました。行列の先頭を行く人たちが山頂にある秋葉神社に着いた合図です。

 ちょうど1年前の同じ日、私は大島区の上岡周辺にいました。140数年続いているという秋葉山へのちょうちん行列を一度、この目で見てみたい、そしてできれば写真に撮りたいと思っていました。

 薄暗くなった上岡の集落センター前でソバを御馳走になったのち、出発前の様子などを写真に撮りはじめました。地元の人の薦めで、「写真を撮るなら、あそこが一番いいよ」と言われた場所は保倉川をはさんで南側の山の中腹でした。

 出発してから10分くらいでちょうちんの列が見え始めました。行列の先頭を行く半鐘の音も聞こえます。真っ暗ななかを進むちょうちんは小さな点になって見えます。点の列が左に曲がったり、右に曲がったり……、幻想的な美しい光の行進でした。そして、左下の方角からはドンドンドンという太鼓の音が途切れることなく伝わってきました。集落センター脇の広場で叩いている太鼓の音です。

 私が中腹の田んぼの畦で撮った写真は数枚です。家のパソコンで見ると、ねらっていたS字型のちょうちん行列の写真もちゃんと撮れていました。そして、思ったのです、よし、来年はおれもちょうちん行列に加わろうと。

 今年のちょうちん行列。出発前、上岡集落センター前で行われた式典では、保倉地区振興協議会の丸田新一さんが、「きょうは大勢のみなさんから登っていただき、秋葉山の火の神様にお賽銭をいっぱいあげて、家内安全、地域の振興、健康、大いに願ってください」と大きな声で元気に挨拶。上岡の中條道男町内会長も祭りとちょうちん行列を伝承していく決意をのべ、大きな拍手に包まれました。

 歩き始めて間もなく、私は汗びっしょりになりました。太っていることもありますが、思ったよりも気温が高かったのです。左手にちょうちん、右手にはカメラを持ってゆっくり、ゆっくり登りました。私の前や後ろには千代子さんなど上岡の人たちがいました。鳥居をかついで登った時の話など興味深く聴かせてもらいました。

 細い道を右へ左へと一列縦隊で歩くようになった時でした。私のすぐ後ろの男性が、「さあ、今度はちょうちんは右手に持って」と指示を出しました。道は右上方向へと上っていました。ちょうちんを右手に持つのは、行列をきれいに見ていただくためだということです。もちろん、左上方向へ上がる時は左手にちょうちんを持つことになります。昨年、私がカメラを構えた場所には今年もカメラマンが集まっていたようですが、写真に小さな点の列がきれいに写るのは、こうした配慮があるからなんですね。話を聴いて、すごいと感心しました。

 秋葉山は標高が294b。山頂までの途中、一緒に歩いた人たちが「ミズバショウが咲いているよ」「あれは直江津の街だよ」「あの灯りは上達だ」などとガイド役を務めてくださいました。歩いている間中、下の方から聞こえてきたのは、幸雄さん、菊治さん、隆一さんなどが叩く太鼓の音です。これは私たちへの励ましの音でした。

 カンカンカンカンカンという半鐘の音がして数分後、私も無事、秋葉神社に参拝出来ました。地元の人のもてなしの心を味わいながら、上りも下りも楽しく歩くことができたちょうちん行列、何よりも、神社から眼下に見える大平の夜景が美しかった。
   (2013年5月5日)

 


第250回 嫁泣かせ

 「えっ、何だって、嫁泣かせ?」
 先週の土曜日のことでした。狭山の叔母の一周忌法要が終わっての帰り道、関越自動車道を走る車の中で、一瞬、耳を疑いました。大島区在住の従兄弟たちが、山菜のなかに「嫁泣かせ」というのがあると言ったのです。

 従兄弟たちの口から出た「嫁泣かせ」という山菜の名前、小さな頃から山菜採りをしてきた私にとっては、興味津津でした。ノノバには白い汁が出るチチノノバと出ないアズキノノバの2種類あるということを知っただけでも驚いていたのに、今度は山菜の名前とは思えない「嫁泣かせ」の登場にもうじっとしてはいられませんでした。

 従弟の話によると、「嫁泣かせ」は山の雪が滑り落ちる斜面に出て、20aほどの若芽のうちに採ってきて食べるのだそうです。従弟は「お日様にあたるとけなけなしてしまうが、おめたとこにもあると思うよ」とも言っていました。

 私に母乳を分け与えてくれた板山のキエさんにも電話で訊いてみました。キエさんの話では、昔、婦人会時代に天ぷらをして食べたことがあるものの、最近は採ってもいないし、食べてもいないといいます。どんなものかについてはある程度覚えていて、陽に当てるとすぐにくたくたしてしまうので、採ってきたものの始末をしないでおくと、姑や小姑の嫁いびりの材料になったものだと教えてもらいました。

 ただ、ここまで話を聞いても、「嫁泣かせ」の姿かたちはなかなか想像できませんでした。こうなれば、どんなものか、実際に山の中に入り確かめるしかありません。数日後の朝早く、板山の従弟に頼んで自生しているところを案内してもらいました。

 従弟の軽トラに乗せてもらい、農道を行くと、じきに行き止まりでした。雪がたくさん残っていて進めなかったのです。そこからは、カマとカメラを持って歩きました。途中、板山から吉川区の石谷に抜ける古道を横切り、杉林を通って山を登りました。山の上の方は木々も芽吹き、草も緑色になりつつあるのが見えます。下の方はと言えば、まだ雪ががっちり残っていて、上部の雪が斜面と接するところでは大きな口を開けていました。この穴に落ちれば、簡単には上がってこれません。小さな木につかまったり、カマを急な斜面にくい込ませたりしながら、300メートルクラスの山の上の方にたどり着きました。

 山の斜面の上の方は雪が早く滑り落ち、春の植物がいち早く芽を出して地面を緑色に変えていました。そこから遠くを見ると、大島区の中心部、大平の家々が見えました。山の上部が独特の形をしている菱ヶ岳や板倉区の光ヶ原高原も見えます。

 斜面で、すぐ目に入ったのはノノバです。私が大好きなチチノノバがあちこちにありました。また、アズキノノバも同じようにたくさんありました。そして、突然、「おい、あったど」という声を聞きました。従弟が「嫁泣かせ」を見つけたのです。これだと教えてもらった「嫁泣かせ」は私が少年時代を過ごした蛍場の山で何度も出合ったものでした。葉はシソのような感じで、茎には白っぽい毛が生えています。「これも食べられるのか」と思いながら、何度もシャッターを切りました。

 わずか1時間ほどの山歩きにもかかわらず、私は汗びっしょりになりました。山から下りながら、従弟が、「嫁泣かせ」について興味深いことを教えてくれました。何となんと、「嫁泣かせ」は精力剤でもあるというのです。従弟は笑いながら言いました。「おらなんか、天ぷらにして食べれば、すぐ眠ってしまうでもさ」      
 (2013年4月28日)

 


第249回 親譲り

 子どもの頃、何度か会っただけで、もう50年以上も会っていなかった人と再会しました。声をかけられた瞬間、「あっ、藤野さんですね」と声を出してしまいましたが、間違いありませんでした。マエダのS子さんだったのです。

 マエダというのは40数年前まで吉川区尾神にあった藤野さん宅の屋号です。S子さんは私よりも年上で、そこの娘さんでした。S子さんと再会したのは半月ほど前、場所は高田の大島画廊でした。ちょうど上越高校の大口満先生の個展が開催されていたときです。いうまでもなく、藤野さんというのはS子さんの旧姓です。S子さんは画廊で私の顔を見るなり、「まあ、橋爪さん」と声をかけてくださったのでした。

 正直言って、私自身、声をかけられてすぐに「藤野さん」という名前がなぜ出たのが不思議なくらいです。ただ、顔は明らかに見たことのある顔でした。眼は一見、きつそうだけれども、ものすごく優しいところのある人懐こい顔。瞬時に「マエダの人だ」と判断しました。

 画廊で、S子さんが小さな喫茶店兼食堂を経営していらっしゃるということを聞きましたので、先日、お昼の時間帯に出かけてきました。

 お店の名前は「あひる」。ドアを開けて入った途端、S子さんは「まあ、うれしい。よく来てくんなった」と大喜びして私の手を握り、一番奥のテーブルへと案内してくださいました。

 私がお店に入った時、お客さんは私を含めて3人でした。一人は踊りのお師匠さんらしく、身のこなし方も美しい方でした。もうひとりの方は細っこい男性で、新聞をもくもくと読んでいました。常連のお客さんなのでしょう。S子さんは私と話をしたかったらしく、すぐに話を始めました。

「さっそく『あねさかぶり』を読んだんだけど、情景がすっと浮かんでくるし、何よりも蛍場(ほたるば)とか釜平(がまびろ)という名前が懐かしくてね……。日曜日の新聞にあんたの名前が載ってたので拍手をしたんだわ」

 話をする中で、S子さんは私よりも五つ年上であること、私の顔についてはパンフレットや議会のテレビ中継などで知っていたこと、私の父や母とは付き合いがあり、わが家のことをかなり知っておられることなどがわかりました。

 年が五つも違うにもかかわらず、話がはずんだのは同じ集落で育ち、同じ学校に通っていたからです。カミ(屋号)のヒトシちゃんは郵便局長になったとか、アマイケノニシ(屋号)のマサヒロさんは施設暮らしだとかいった情報は、時どき店にやってくるというトナリ(屋号)のミヨコさんあたりから入ったのでしょうか、よく知っておられるのには感心しました。

 小中学校時代のことになると、私が知らなかったことが次々と出てきました。私もお世話になった中村三代志先生の話になったらS子さんは目を輝かせ、「先生は、図画の授業の時、子どもたちが描いた絵はどの絵も必ず一か所ほめてくんなった」と語りました。学校からの帰り道、吉原という場所に、首に生きたヘビを巻いてS子さんたちを驚かせようとした人がいたという話にはびっくりでした。

 話の途中、食事が終わった踊りのお師匠さんが席を立つと、S子さんは、「○○さん、感謝です」と手を合わせました。その時のS子さんの様子を見て、あっと思いました。横顔も体の動かし方も父親譲りだったからです。
 (2013年4月21日)

 


第248回 おもちゃ

 「君の名前は?」「君の名前は?」「ハシヅメ」「ハシヅメ」……。握りこぶし大のハムスター君に声をかけると、呼びかけ主と違った声で同じ言葉が返ってくる、ただそれだけなのに、なんでこんなにも楽しいのか。

 先日、金沢市に住む次男夫婦の家を訪ねたとき、ハムスターの形をしたおもちゃと初めて出合い、はまり込んでしまいました。声を出すのが遠くではだめ、早口も駄目。おもちゃに顔をぐっと近付けて、ゆっくり語りかけると、そのままの言葉が返ってきます。しかも、おもちゃのハムスター君は声を出す時に体を揺らせて、全身で応えてくれ、その様子がとてもかわいいときている。もう、こたえさんねのです。

 声を出すおもちゃに出合ったのはこの日が初めてではありません。数年前、吉川区の山間部に住むTさんのところへお邪魔したとき、テーブルのそばにイヌだかネコだかのおもちゃがありました。頭とか背中をさすると、「お元気ですか」とか「おはようございます」といった言葉を出すおもちゃでした。おもちゃはTさんも気に入っていて、いいおもちゃがあるものだと思ったものです。でも、それまででした。

 それが今回はどうしたことでしょう。声をかけておもちゃと遊ぶのが楽しくてやめられなくなったのです。あとで次男が撮った私の写真を見ると、完全にこのおもちゃの虜(とりこ)になっています。

 しばらく遊んでいるうちに、このおもちゃが無性にほしくなりました。次男夫婦もおそらく同じ思いをしたことがあるのでしょうね、私が盛んに声を出して遊んでいる様子を見て、「お父さん、売っているところわかるよ。手頃の値段だし、買いに行くかね」と訊いてきたのです。もちろん、喜んで「よし、行こう」と返事をしました。

 おもちゃのデパートと言ってもいいような大きな玩具店に入ったのは、午後の2時近くになってからだったと思います。日曜日だということもあって、子ども連れの人たちでものすごく混んでいました。私が知っているおもちゃはアンパンマンの風船と空気の入ったゴム製のチャンバラ道具くらいなもの、あとは初めて見るおもちゃや子ども向けの商品で店内はあふれていました。

 言葉をオウム返ししてくれるおもちゃは次男夫婦の案内ですぐに見つかりました。ハムスターだけではなく、ネコやイヌなどの形をしたものもあるという話だったのですが、店内にはハムスター君しかおいてありませんでした。他のものは売れてしまったのかも知れません。いくつかあったハムスター君のなかから私好みの顔かたちのものを選んで、購入しました。

 金沢市では、妻と私たちは別行動でした。妻は文化イベントを楽しみ、私は夕方まで次男夫婦と一緒でした。夕方、私が一足先に金沢駅に着き、妻は、後から次男の車で駅まで送ってもらいました。妻は私の顔を見るなり、「おとうさん、おもちゃ買ったんだって」と声をかけてきました。次男夫婦がおもちゃを買うまでの顛末を話したのでしょう、ニコニコしていましたから。

 私がハムスター君を購入したのは、私自身がハムスター君ともっと遊びたいという気持ちもありましたが、おもちゃと言葉を交わして楽しむ気分を他の人にも味わってもらいたかったからです。翌日、妻の前で、「あなたの名前は?」「あなたの名前は?」と実演したところ、やはり、妻もびっくりして大笑いしました。さーてと、次は、ばあちゃんに見せようかな。 
  (2013年4月14日)