春よ来い(12)


第247回 ふんばり桜

 私の顔を見ると、先生は真ん中のコーナーへと案内して下さいました。展示の順番を無視して何故いきなりそこへと思ったのですが、作品を見てすぐにわかりました。昨年、大きな地滑り被害の出た板倉区国川の絵があったからです。

 案内して下さった先生は上越高校の大口満先生です。毎年、この時期に地元などのギャラリーで絵の個展を開いておられます。昨年の秋だったでしょうか、国川在住のお父さんの昭治さん、満さん、長女の萌さん、この3人の作品を展示した親子孫の三代展があり、それを観に行ったことからご案内をいただき、出かけてきました。

「地滑り災害を描く」というコーナーの左側には水彩画が縦に2つ並んでいました。地滑りが発生してから5回ほど、私が現地に入っていたことを大口先生がご存じだったのかどうかはわかりませんが、先生は地滑りと描かれた絵について詳しく語ってくださいました。

 水彩画は地滑りから約一カ月後に描かれたものでした。

 上の絵の中央部には押しつぶされたり、傾いたりしたいくつかの家が描かれていて、その周りを遠くの杉の林や土手の草が囲んでいます。野の草の黄緑や桜のピンクは、春になったばかりということを教えてくれます。

 絵を観たときに私が思い出したのは、地滑りが発生した翌日のことでした。地滑りが起きて初めて現場に行った時、私の目の前にあった建物は、1年近く、毎週のように通った長嶺さんの住宅でした。時どき、「ググッ」とか「バリッ」という不気味な音を出し、雪崩に押されていました。早く止まってほしい、そう思いながら、家族の人も、近所の人も、仲間の人もみんな心配そうに見守っていました。

 当時、何度か現場に足を運びましたが、まだ雪が相当残っていて、緑色と言えば、杉の木の葉っぱくらいしか目に入っていませんでした。水彩画のような黄緑やピンク色の景色を見ることができたのは、おそらく4月に入ってからです。この頃は、丁度、市議選と重なっていて、現場の様子を見ることはできませんでした。それだけに描かれた景色は私の眼には新鮮に映りました。

 印象的だったのは下の絵です。「ふんばり桜」という題名がついていました。絵の真ん中には、見てくれといわんばかりに咲いているピンク色の桜がありました。地滑りで押し倒され、家とともに斜めになりながらも花の色はじつに鮮やかです。この桜についての先生の説明を聴いた時、「これは素敵な話だな」と思いました。この桜の持ち主である大口勲雄さんは、「桜は今回が最後だと悟ったのか、いままでにないくらい見事な花をつけた」とおっしゃったそうですが、まさに「ふんばり桜」でした。これが被災者を励ましたことは言うまでもありません。

 大口先生は2つの絵を語る時に、手作りのパンフレットを持ってきて説明して下さいました。あとで、このパンフレットを読んでびっくりしました。パンフレットの中には国川の被災した桜と同じようにたいへんな目に遭いながら、絵画で自らの資質、能力を全面開花させた生徒や卒業生などの体験がいくつも書かれていたからです。それらを読みながら、私はハッとしました。大口先生が絵を描くことを通して目指しておられることのひとつは、被災した桜のような“ふんばり”なのではないかと。

 地滑りから二度目の春がやってきた国川。「ふんばり桜」はすでに切り倒されてありませんが、絵には他にも桜の木が描かれていました。ぜひ見てみたいと思います。
   (2013年4月7日)



第246回 花束

 妻が花束を3つもいただいたんですって。びっくりしました。私もこれまで何度か花束をいただいたことがありますが、同じ日に3つももらったことはまだ経験がありません。

 妻が花束をいただいたのは今年の3月で定年を迎え、41年にわたった学校勤務を終えることになったからでした。

 正直言いますと、私は花束を見るまで妻が定年になって仕事を辞めるという実感を持てないでいました。しかもこの日は3月議会の最終日です。離任式という言葉は妻から聞いた記憶が残っていましたが、同じ日にこういう大事な日を迎えるということが頭にしっかりと入っていなかったのです。

 最初、妻がテーブルの上に置いた花束は1つでした。薄いピンク色したユリを中心に、カーネーションやバラなどが入った豪華なものでした。色も白、ピンク、赤、黄、緑とまさにいろいろあって、きれいです。しかも、ユリが素敵な香りを漂わせ、とてもいい気分にさせてくれます。

 花の一つひとつに見入っていたところ、妻が、「じつは車の中には花束がもうふたつあるの」と言うんです。驚きましたね。

 花束の一つは離任式の時に贈っていただいたものです。これは生徒会から。二つ目は送別会の際、職員の皆さんからいただいたものだそうです。そしてもう一つは、いつの時点だか聞いていませんが、顧問をしていた茶の湯同好会の生徒の皆さんからのプレゼントでした。

 妻によると、この日は挨拶をする場面が3回もあったといいます。おそらく、花束をもらった時点でしょう。数日前までは「挨拶するのがたいへんだから休もうかしら。辞める人や転勤する人が大勢だから、たいして目立たないだろうし」などと言っていました。まあ、半分は冗談だったのでしょうが。でも、そういうことを口にしていた割には、挨拶の内容そのものにふれませんでしたので、案外うまくいったのかも知れません。

 花束はいくつあっても困ることはありませんが、この目出たい花束はおすそ分けしなきゃ、と思いました。この点は妻も私と同じ考えでした。花束の一つは私の母に贈ることにしました。もうひとつは、妻の母親、柏崎の母に贈ることに決めました。

 その日は夜遅くなったので、母に花束を渡したのは翌日の朝です。もちろん、母に渡す前に儀式をしました。写真撮影です。明るくなった玄関前で妻が花束を持っているところを写真に収めました。そして花束そのものも大きく撮りました。これでオーケーです。妻の離任式がいつかという話は母にはほとんどしてなかったので、花束を受け取った母は、「まあぁ、こんがにもらっていいがかね」とびっくり顔でした。

 母に手渡された花束は夜に見た感じとずいぶん違いました。花の色はより鮮やかになっています。ユリは一晩経っただけなのに花の開きが広がったように見えました。

 花束を母にプレゼントしてまもなく、妻も私も出かけました。だから、その後のことはまったく見てはいなかったのですが、家に帰って来ると、母がうれしそうに語ってくれました。花束は仏壇のところに持っていき、「じちゃ、ほら、花もらったよ」と父に見せたというのです。母の顔から推察すると、「へー、そりゃ、いかったな」という父の言葉が母には聞こえたのかも知れません。
 (2013年3月31日)



第245回 結びの確認

 そうか、こんなふうにしばってあったのか。ずっと気になっていた結びを間近で見て、やっと気持ちに一区切りつきました。「気になっていた結び」というのはわが家の牛舎脇のハンノキにぶら下がっていたヒモの結びのことです。

 大きく生長したハンノキの幹に2本のヒモがぶらさがっていることに気付いたのは昨年の8月、盆支度をしているときでした。ヒモは寒冷紗(かんれいしゃ)をつるために父が用意しておいたものです。わが家では牛舎に強い陽射しが直接当たるのを防ぐために、以前から寒冷紗を使っていました。

 昨年、ヒモに気付いた時、ヒモの1本を軽く引くと、木の上の方でヒモがするりと解(ほど)けることがわかりました。父がこのヒモを木の枝にくくりつけたのは、父がまだ牛舎で仕事をしていた頃ですから、7、8年前です。長期間にわたってヒモが解けるようになったままの結びがどんなものなのか、自分の目で確認しておきたい、そう思って、結びは完全に解かないでおいたのです。

 ハンノキに登ったのは青空が広がった日の午前です。木の根もとにはハンノキの実や花穂が数え切れないほどたくさん落ちていました。牛舎から持ちだした梯子を幹にかけ、木の枝があるところまで行き、そこから先は枝につかまりながら上へと登りました。ヒモが結んである木の枝は地上から5メートルほどの高さのところにあります。たどり着くと、牛舎の屋根を越えて風がそよそよと流れてきます。私の近くにある枝の先に残っていた花穂が揺れていました。

 ヒモは直径20センチほどの枝に結んでありました。かなりの年月が経っているので、ヒモは少々色あせていましたが、ヒモ自体はまだしっかりしています。枝にくくられた部分は枝に食い込んでいました。結びのところは10センチほどの輪がぽこっと出ていて、下に伸びたヒモを引くと輪が小さくなり、ほどけます。なるほどなぁ、うまく結んであるもんだと感心しました。

 結びの確認をし、何枚か写真に撮ってから、木の上の方を見てみました。うーん、高い。まだ10メートルは上に伸びています。枝も横に大きく広がっています。下の方の枝は4メートル以上の長さです。この大きな木が青空を突き刺すようにどんと立っているのです。まさに堂々としていました。

 ただ、木の肌は老化が進み、表面はかさぶたのようになっていました。手で引っ張ると、ぼろぼろととれます。それと登ってみて初めてわかったのですが、下の方の枝は木の幹から出たというより、外から無理やり棒を押し込んだ感じになって見えました。また、木のくぼみのところから新しい枝が伸び始めているのも見つけました。ひょっとすると、くぼみに実が落ち、そこで発芽したのかもしれません。

 木の上から見る景色は久しぶりです。近くの畑は雪解けが進み、ほとんど雪がありません。暖かい陽射しのなかで散歩をしている人たちの姿も見えました。左手を後ろに回し、右手を大きく振って歩くHさんが小苗代方面からやってきて、代石方面から歩いてきたMさんと牛舎の近くで会うと、「好い天気だねぇ」と言葉を交わしています。のどかな景色を見てうれしくなりました。

 木から下りる時、ヒモをどうするかを再び考えました。枝に食い込んでいたところは少しゆるめました。でも、ヒモを完全に取り去るのは今回もやめました。死んだ父が遺した仕事の足跡はやはりそのままにしておいてあげたい、そう思ったからです。
  (2013年3月24日)



第244回 フキ味噌

 母が退院して10日ほどたちました。人間なら誰しもそうだと思いますが、退院してもすぐには元の健康状態に戻らず、しばらくは大事をとることが必要になります。ところが、母の頭の中は別のことでいっぱいになっていたのです。

 数日前、中学校の卒業式が終わって家に戻ったところ、居間に母の姿がありません。「ばちゃ、おまん、どこにいるが」と声を出しても応答なしでした。そうなると、どうしても最悪の事態が頭に浮かんでしまいます。ひょっとすれば、まためまいがして、倒れているんではないか。そう思って、トイレ、風呂場、台所、廊下と声を出しながら探しました。しかし、どこにも見当たりませんでした。

 落ち着いて振り返ってみると、玄関の戸が開いていました。私が開けた記憶がありませんので、「母は外へ出かけたに違いない。たぶん、近所でお茶飲みだな」と勝手に判断して市役所に向かいました。

 市役所に着いてまもなく、家に電話を入れたら母が出ました。
「おまん、どこへ行っていたんだね」
 と訊いたところ、驚きましたね。
「おらちの裏でフキントウ採りしてたがど」
 という答えが返ってきたのです。あきれてしまいました。退院してからまだ一週間も経たないというのに、もう外で動いているのですから。
「間違っても川のそばになんか行きなんなや」
「おー、行かんわや」
 
 そんなやりとりをした後でも、母の言葉は信じられませんでした。心配させないためにやむなく「行かんわや」と言っている雰囲気を感じ取ったからです。

 母の気持ちは分からないでもありません。母は上越市の山間部、大島区で生まれ育ちました。今冬も4メートルからの積雪になるほど雪深いところです。それだけに春になって、田んぼの畦などに出るフキノトウをどれほどうれしく思ったことか。

 じつは私も、雪解けの頃になると、なぜか体がうずうずしてくるのです。私が少年時代を過ごした尾神岳のふもと、蛍場では南向きの田んぼや釜平川のそばで雪解けが早く、その周辺でフキノトウを採るのが何よりも楽しみでした。

 母は山菜採りが大好きで、そのスタートはフキノトウです。フキノトウから始まって、コゴミ、カタクリ、ノカンゾウ、ノノバ、タラの芽、ウド、ゼンマイ、タケノコ、ワラビと続きます。

 ただ、母にとって、数年前から急傾斜の山での山菜採りは無理になってきました。昨年も群馬県の従兄たちと一緒に山に向かいましたが、若い頃のように急傾斜のところを自由に動き回ることができません。すぐに休んでしまうのです。

 山が無理でも平場はまだまだ大丈夫です。平場だと山菜はコゴミ、ゼンマイ、ワラビが中心になります。母は愛用している三輪自転車のかごに満載になるまで採り続けます。ウドも川べりにあるらしく、時たま採ってくることがあります。

 さて、母が今年初めてフキノトウを採ってきた日、市役所から戻ると居間のテーブルの上には皿に入ったフキ味噌がありました。「食べてみろ」と言われて手を出すと、独特の香りと苦みが口の中に広がりました。「春だなぁ。うんまい」と言ったら、母はその言葉を待っていたかのようにフフフと笑いました。   (2013年3月17日)


 
第243回 母の緊急入院

 長女から緊急連絡が入ったのは先週の火曜日の夕方のことでした。「お父さん、ばあちゃん、Sさんちで立てなくなったの」という声を聴き、また例の病気だなと思いました。母は年に1、2回、三半規管の具合でめまいに襲われることがあるのです。

 幸い、電話をもらった時には家に帰ってきていましたので、すぐにSさん宅へ向かいました。Sさん宅の居間から広間に出たところで母はまったく動けなくなり、倒れたまま毛布に包んでもらっていました。

「ばちゃ、大丈夫か」と訊くと、「とちゃか、大丈夫だ」という言葉が返ってきました。ただ、頭が痛いし、はきっぽいと言います。顔の様子もいつもとちょっと違うなと感じました。その時、私の脳裏をよぎったのは、動脈瘤が破裂したのではないかということでした。

 じつは父が旅立ってから数カ月後、母は頭痛を訴えました。市内の病院で頭の中をMRI(エムアールアイ)というもので検査してもらったところ、動脈瘤が二個あることが判明しました。そのうちの1個は比較的大きく、これが破裂しないようにと定期的に病院に通って検査してもらっているのです。

 母をこのまま家に連れて帰るわけにはいかない、病院へ行こう。そう決断し、電話を借りて救急車を呼びました。何回か聴いているはずなのに、「火災ですか、救急ですか」という消防署員の言葉を聴いたら、緊張しました。母が救急車のお世話になったのは、前に住んでいた尾神岳のふもと、蛍場の家の屋根から落ちた時、めまいでまったく動けなくなった時、そして今回とで3回目です。

 母と一緒に救急車に乗り込み、柿崎のインターから高速道路を使って母がいつも検査してもらっている市内の病院へ行きました。救急車の中でも母は嘔吐(おうと)を繰り返しましたが、救急隊員の冷静沈着な対応で心配はやわらぎました。ただ、もしものことがあればと思い、弟と妻にだけ携帯メールで知らせました。

 病院に着いてから検査の結果が出るまでが長かったですね。約2時間、夜間入り口の近くの長椅子に座って待ち続けました。職場から帰る途中の妻は春日山駅で電車を降り、タクシーで病院に駆けつけてくれました。弟も軽トラに乗って駆けつけました。こういう時は身近な人間がそばにいてくれると心強く、助かります。

「橋爪エツさんのお家の方おられますか」と看護師さんから声がかかったのは午後9時を回った頃でした。緊急治療室では、母はベッドで横になっていました。お医者さんから、動脈瘤の破裂ではないと聴いた時はホッとしました。ただ、大事をとって、病院で数日間、様子をみていただくことになりました。

 母が入院した日は地元の吉川ケーブルテレビが「おらったりの出来事」で母のコンニャクづくりを1週間にわたり放映した最終日。テレビを見た何人もの人たちから、「おまんたとこのばあちゃん、達者だね」と声をかけてもらいました。その母が一転して入院したとあって、何人もの人たちから心配していただきました。感謝です。

 病院には5日間、お世話になりました。最近、肉がついて、大島区板山の伯母とそっくりになっていた顔も入院している間に少し小さくなりました。退院する前日の夕方、病室に行くと、ちょうど夕食の時間でした。ご飯は茶碗の3分の1くらい残しましたが、オカズはきれいにたいらげ、デザートとして出されたイチゴを美味しそうに食べています。まあ、この調子なら、今春も山菜採りができるかも知れません。
  (2013年3月10日)



第242回 ひんねり餅

 先日、近くに住む従姉のところへ寄ったところ、「おまんももらったろでも食べていきない」と言って珍しいものを出してくれました。ひんねり餅です。この日は、他にも美味しい料理を出してもらったのですが、この懐かしい味が最高でした。

 ひんねり餅に私が初めて出合ったのは父が出稼ぎに出ていた子どもの頃です。

 4月の上旬だったかと思います、父が出稼ぎから帰ってきたのは。半年近くも家にいなかった父が今度はずっと家にいると思うとうれしかったですね。指を折りながら修学旅行の日を待ったと同じように、父が戻る日を正式に知らされると、その日から、あと何日経てば父が戻ると毎日、指で計算していました。

 父が出稼ぎ先から戻ってきた時に、お土産の一つとして持ってきてくれたのがひんねり餅でした。元々は、酒米を蒸す時に蒸し具合を確かめるために、ちょっと取り出し食べたようなのですが、それを普通の餅のような感じで、ひんねり餅を作りだしたのは出稼ぎ者の遊び心だったのかも知れません。どうあれ、いまでも懐かしく思い出すくらいですから、楽しみな土産として受け入れていたのだと思います。

 父が持ち帰ったひんねり餅は、ソーセージよりもひと回り小さい、丸い棒のようななものでした。もち米ではなく、うるち米を使っていることもあって、とても硬く、表面がごつごつしていたように思います。これを焼いてもらい、醤油だか味噌をつけて食べました。私のキョウダイのなかではお焦げの入ったものが人気でしたね。ひんねり餅は何も付けなくとも噛んでいるだけで口の中に甘みが広がりました。

 従姉のところでは、ひんねり餅を御馳走になっただけでなく、20本ほどもらいました。このもらったひんねり餅があとで大活躍することになりました。

 この日、安塚区、大島区、浦川原区では雪ほたるロードや雪まつりが行われました。大島区の従兄たちは、「庄屋の家」の脇の広場で行われる「あさひ雪あそび」を盛り上げるために餅を焼いて販売することにしていて、彼らから「ノリカズは餅焼きの番だぞ」と頼まれていました。

 私が浦川原から牧、安塚などを回って現地に着いたのは午後6時半過ぎです。長屋式のテントの下では、従兄たちが炭火をおこし、餅焼きが始まっていました。大きな網の上には白い餅を並べてあります。「よっ、来てくんたか」と言われ、すぐに餅焼きの番を始めました。

 番を始めてから間もなく、餅を焼く網の中心にひんねり餅を置きました。四角い白い餅に囲まれたひんねり餅は目立ちます。気付いた従兄たちは焼きあがったひんねり餅をお客さんに見せ、四角い餅を販売するオマケに使って宣伝してくれました。

 最初に食べてくれたのはK建設の社長さんです。「硬いすけ、歯傷めねよに」「懐かしいだろい」「焦げてるとこがうまいよ」などと従兄たちに言われながら、珍しそうに食べてくださいました。マコトさんの奥さんもやって来て、私の顔をじいっと見た後、従兄たちに声をかけました。
「ねえ、この人って、あの人?」
「そうそう、あの人」
 それからしばらく、次々とお客さんがやってきて楽しい会話が続きました。

 例年、餅の販売は苦戦するのですが、この日は途中から餅焼きが間に合わなくなるほどでした。もちろん、完売です。どうやら、ひんねり餅効果があったようです。
  (2013年3月3日)



第241回 魚拓に囲まれて

 毎朝、その日の段取りをして動き始めていますが、その段取りとまったく違った動きをしなければならない日が一年に何回かあります。今月の18日はそういう日になりました。板倉区の旧板倉町議、長嶺雄二さんが朝8時頃亡くなり、夕方にはお通夜という事態になったからです。

 長嶺さんの家は昨年の3月、大規模な地滑りでつぶされました。いまだ住宅の再建が出来ず避難生活をしていますが、雄二さんの死で改めて被災したことの大変さを思いました。

 通夜式は、妙高市新井の「虹のホールあらい」で行われました。時間があまりない中で行われたにもかかわらず、これまで私が参列したいくつもの通夜式の中でも強く印象に残るものでした。

 まずお経、焼香が終わってからの西蓮寺のご住職の話です。一家を背負っての雄二さんの苦労、町議時代の頑張りなどについて、とつとつと語られました。

 雄二さんはお父さんを早く亡くしています。ご住職は、「父親と早く別れ、大おばあちゃん、お母さんと次々と亡くされ、葬式の繰り返しだった。苦労されたことと思う。思い出せば胸がいっぱいになる」と語りました。私にはお父さんが亡くなられた当時のことは一切分かりませんが、ご住職は、雄二さんのいろんな苦労を見聞きされていたのでしょう。また、ご住職は、「元気な頃の活躍ぶりは一つひとつ、私の胸に刻まれている」とも話されました。

 私が思い出したのは昨年3月の大災害です。亡くなったお母さんの壇引きが終わらないうちだったと思います。長嶺さんの家は大規模地滑りに巻き込まれ、最初に押しつぶされました。自分の家がミシッ、ミシッという不気味な音を立てながら引き裂かれ、つぶされていく、雄二さんにとってどれほど辛かったことか。

 でも、通夜式が終わってから、棺に入った雄二さんの顔を見に行って、雄二さんの人生は辛いことばかりではなかったことを知りました。

 びっくりしたのは、雄二さんの棺の両脇に彼が大好きだった釣りの成果、魚拓がずらりと並んでいたことです。鯛やヒラメ、それも体長70a〜90aという大型です。一番大きかった魚拓には、「平成9年6月14日、午後7時30分。直江津沖。平目、9キロ」と書かれていました。雄二さんが所有しているモーターボートの写真も飾ってあります。うーん、こりゃすごいと思いました。東山寺という山間部で生まれ育った雄二さんがこれほど海にあこがれ、釣り好きだとは驚きました。

 一緒に活動をしている何人かの仲間とともに雄二さんの思い出話をしました。お連れ合いも加わっての話の中では、釣った大きな鯛は光ヶ原の牧場での懇親会に持ち込み、刺身をみんなで食べた、子ども会でも魚を持ち込んだことがある、病室では大好きなベンチャーズの曲を大きな音をたてて聴いていた、などといった話が次々と出されました。話が弾んだものですから、通夜食のこともすっかり忘れてしまったほどです。私が知らなかった雄二さんのことを初めて知って、とてもうれしくなりました。

 私たちがわいわい話をしているそばには、自分の特技を生かし、みんなとともに楽しく活動していた雄二さんがいました。もちろん彼は棺の中です。がんに侵された片方の目は眼帯で覆われ、もう一方の目はちょっとだけ開いていました。「よっ、ご苦労さん。ありがとね」市政レポートを彼の家に届けに行った時と同じ顔でした。 
   (2013年2月24日)



第240回 猫とシイタケと

 2月の中旬のある日、久しぶりに母の定期検診の送迎をしました。この日の朝は冷え込みが強く、道路はどこも凍っていて、車を走らせるとガラガラ音がしました。 朝の9時が予約の時間だったので、8時過ぎに家を出て病院へと向かいました。

 母を送迎していて、いつも楽しみにしているのは、母とのおしゃべりです。母はちょっとしたことをきっかけにしゃべりだします。

 頸城区のある動物病院のそばを通った時のこと、母は「ここは猫の医者んとこだな」と言いながら、わが家で長女が飼っている2匹の猫はこの動物病院で予防接種をしているらしいとか、普段の猫の様子がどうだこうだと語ってくれました。

 猫たちは私に対しては警戒心を持って接してきますが、母とは相性がいいようです。特に、2匹の猫のうち1匹は信じられないくらい母と仲良しです。

 雪が降り続いたある日のこと、家の二階屋根から雪が滑り落ちました。その瞬間の猫の様子を聴いて感心したというより驚きました。
「ドドンとナゼの音がすると、猫は目を丸くして、ひょーんとして、首をのばしてオレの顔見るがど」
 母が語る猫の話は聴いているだけでも面白く、ナゼの音にびっくりした猫と母の様子が目に浮かびます。母はねずみ年生まれですが、猫たちは母を仲間だと思っているようです。

 前回の「春よ来い」で書いた40数年前の母の「シイタケ販売」についても詳しいことを話してくれました。

 この話はわが家が蛍場にあった頃のことです。シイタケは、わが家の南側の山で栽培していました。通称、「むかい」という山の中腹辺りの場所になります。

 父が種ごまを打ち込み、杉林の中にほだ木をおいたところ、ある年の春、食べきれないほどたくさんのシイタケが出ました。それを母は当時の大潟町まで持って行って、一日がかりで売ってきたのだそうです。

 聞いてびっくりしたのは、旧吉川町の中心部、原之町までバスで行って、そこから梶経由で歩いて大潟まで行ったということでした。背中にシイタケを背負い、原之町から五キロはある大潟まで歩いて行ったというのですから、まあ、達者と言えば達者ではありますが、たいへんだったろうと思います。

 誰に紹介してもらったのでしょうか、母がめざしたのは石油会社のアパートだったといいます。たぶんT社でしょう。そこで一軒一軒チャイムを押し、「シイタケ、いんなんねかね」と聞いて回り、ほしいという家には棒ばかりで量り売りしたということでした。

 母によると、これらのアパートはいまはもうないようです。母は何回もここを訪れたようで、シイタケを売りに行き、顔なじみになると、「今度、アザミ持ってきてくんない。ノノバ持ってきてくんない」といった調子で、山菜や野菜についても注文をもらったといいます。

 シイタケなどの販売では、値段はすべて母が決めたということでした。持って行ったものはいつも全部売り切れたそうです。どれほどの大きさのガマ口財布だったのかわかりませんが、持参したシイタケなどの販売が終わるころにはガマ口のふたがプチンとしまらなかったとか。母はそう言ってフフフと笑いました。
   (2013年2月17日)



第239回 声の便り

 愛知県に住む弟が母のところにテープと写真を送ってきました。昨年のお盆に里帰りをしなかったのに続いて、今年の正月にもふるさとに帰らず、母が「どこかへ行っていなきゃいいが」と心配していた、その弟からです。

 最初に、弟が送ってきた写真を見て思わず噴き出してしまいました。どこかの音楽ショーに参加した時のものなのでしょう、きらびやかな服と帽子を着用し、マイクを握って歌っている写真が数枚入っていました。本人は恰好いいと思って送ってきたのでしょうが、「フーテンの寅さん」のような雰囲気が漂っていました。

 テープには母へのメッセージ、弟が歌った曲、ラジオ番組に出演した時の録音が入っていました。  テープレコーダーのスイッチを入れた時、最初に聞こえてきたのは、「ランララララー、ランラララー……」です。そして数秒後、弟のメッセージが始まりました。

「こんちは、先日、母ちゃんの声を聴いて安心しました。正月には帰れなかったけど五月には家に帰って母ちゃんとゆっくり話をしたいと思います」
 静かな響く声はおそらく、自分が経営しているカラオケスナックで録音したものなのでしょう。

「いま流れている曲は母ちゃんの好きなラララ節です。そう、由紀さおりの『夜明けのスキャット』ですね。私は勉強嫌いで、スポーツと歌だけは大好きでした。いまも歌に関わる仕事をして司会などで頑張っています。きょうは母ちゃんと天国の親父に歌を二曲贈りますので、それを聴いて、元気を出して、風邪をひかないように頑張ってください」

 弟が歌った最初の曲は森進一の『おふくろさん』でした。「おふくろさんよ、おふくろさん……雨が降る日にゃ笠になり、おまえもいつかは世の中の……忘れはしない」と歌い、二番に入る間にまた語りが入っていました。

「男兄弟四人、たいへんだったと思います。母ちゃん、ありがとうございました。冬になると、父ちゃんは出稼ぎに出かけ、母ちゃんは家で雪かきをして家を守っていました。また、カンジキをはいてしいたけを採りに行き、それを売りに出かけていましたね。そのたいへんだったころのことを思い出すと心が痛みます。母ちゃんの分までご飯を食べてしまい、兄貴に怒られたこともあります。母ちゃんは釜の底のご飯を食べていましたね。ごめんなさい」

 母へのメッセージ、語りは二番を歌ったあとも続いていました。まあ、よくしゃべる、しゃべる。兄弟げんかをした時のことなどの思い出を立て板に水のごとく語り続けていました。

 語りの中で弟は、私のことにもふれていました。私が高校受験で合格した時のこと、私が小さな母を抱きあげ、天井にぶつかりそうになるくらい高く胴上げしたというのです。それを見て、弟はうれしくて泣いたと語っていました。私の記憶からはすっかり消えていたことですが、弟の記憶にはしっかりと残っていた、これは私にとってもうれしいことでした。

 長女によると、弟が送ってきた写真を見て、テープを聴いた母は喜んでいたといいます。じつは弟のことを心配している母を見て、「おふくろに心配かけちゃ駄目だねか」と私からそっと電話をしておいたのです。母への声の便りの最後の言葉は、「母ちゃん、ありがとう。では、また……」、ちょっと涙声でした。
  (2013年2月10日)



第238回 じゃがじゃが煮

 豪雪の実態調査で板倉区に出かけた時のことです。昨年の2月の調査の時にも寄せていただいたSさん宅へお礼を兼ねて立ち寄りました。「いなったかいね」と声をかけると、コタツでテレビを観ていたSさん夫婦に「さ、入って。お茶を飲んでいきない」と勧められました。

 集落の様子を見てから、Sさん宅に上がらせてもらったのですが、すぐにはお茶が出てきませんでした。そのわけは後でわかりましたが、訪ねた私ともう一人の仲間に食べさせたいものがあったのです。

 最初にチヨコさんが飯台の上に出してくださったのは、手作りのコンニャクでした。コンニャクには深緑色のワカメがからめてあって、これがまたいい味を出していました。ワカメとセットになったコンニャク料理を食べるのは初めてです。カメラに収めると、NHKの「きょうの料理」でも使えそうなきれいな写真となりました。

 コンニャクを食べ始めて間もなく、今度はトン汁に使うような大きなどんぶりに煮物が出てきました。まあ、これがまた美味しそうな鍋物です。サケ、生サバの頭、ダイコン、人参、それにサトイモが入って湯気を立てています。チヨコさんは、「じゃがじゃが煮だすけ、どんなだやら」と遠慮勝ちに言いました。

 「じゃがじゃが煮」という言葉が出た瞬間、私は「いったい、なんだろう」と思いました。「ジャガイモ煮」だったらわかるけれども、ジャガイモが入っていない「じゃがじゃが煮」っておもしろい表現だ。そう感じて、すぐにチヨコさんに尋ねたのです。「じゃがじゃが煮って何ですね……」って。ところが、チヨコさんもお連れ合いのショウジさんも急に笑い出したのです。しばらく時間をおいて、やっと出てきた言葉は、「じゃがじゃが煮るすけ、じゃがじゃが煮さね」。これじゃわかりません。この「じゃがじゃが」を知りたかったのですから。

 それでいま一度訊きました。「その、『じゃがじゃが』を訊きたかったんだわね」と言うと、またチヨコさんもショウジさんも笑い出します。うーん、参りました。どうも、この「じゃがじゃが煮」というのは、この二人だけで通用する言葉らしい。

 チヨコさんによると、この煮物は居間にある石油ストーブの上に大きな鍋をのせ、約3時間かけて作ったといいます。調理方法、中に入れる具の順番まで教えてもらったのですが、記憶に残ったのは、先にある程度煮ておくものがあること、本だしを使っていること、ダイコンは早い段階で入れて、味をしみ込ませるくらいなもの、あとは食べることに夢中になっていたので頭に入りませんでした。

 ただ、しっかりと頭に入ったことがあります。この料理は時間をかけてゆっくり作ればまだ美味しくなるということです。温め、冷まし、また温める。これを何度も繰り返すことで美味しさが増す。どうやら、チヨコさんは、まだまだ美味しくなるものだが、そこまで時間をかけていない料理だということを、「じゃがじゃが煮」と表現したようなのです。でも「じゃがじゃが煮」は美味しかった。私はどんぶりで2杯もいただきました。

 この日、Sさん宅から猿供養寺の方を見たら、雪で真っ白になった黒倉山が太陽に照らしだされて輝いていました。黒倉の雪が消える頃、ショウジさんとチヨコさんは大好きな山菜採りに出かけます。ショウジさん、85歳。チヨコさん、80歳。「年下の若い奥さんもらっていかったね」と言ったら二人ともまた大笑いでした。
   (2013年2月3日)



第237回 義父の三回忌


 義父の三回忌が亡くなったのと同じ日に柏崎の家で行われました。一周忌と違い、今回は柏崎の妻の実家の人たち、義姉夫婦、そして私たち夫婦だけのこじんまりした法要でした。

 法要の開始前、座布団を出すなどの準備をしていて、目に入ったのは良寛さんのブロンズ像です。高さが20センチほどの小さなものなのですが、これを見たみんなが思わず噴き出してしまいました。

 10数年前、あるチャリティーバザーで、この像は値段を下げても買い手がまったくつかず、義父が信じられないほどの低額で入手しました。そのことを私や妻などに話をする時に、義父は良寛さんのブロンズ像の首根っこをつまむようにして運んで来たのです。義父には悪意はなかったのですが、その時の様子をみんなが覚えていて、「良寛さんがかわいそうだった」などと言いながら思い出したのです。

 お経が終わり、お斎をいただく時のこと、ハプニングがありました。仕出し屋さんとの打ち合わせが不十分だったのか、当初予定していたお膳が用意されてなく、急遽、飯台を使ってやることになったのです。

 飯台の上には、魚の刺身、カニ、エビフライ、鱈(たら)煮たの煮たもの、焼魚、サラダ、かまぼこ、煮しめ、メロンなどたくさんのご馳走が所狭しと並びました。仕出し屋さんがうまく並べてくださったのですが、それでも、どの料理が誰のものだかわからない状態となりました。

 義兄の「どうぞ召し上がってください」という言葉を受けて、一斉に食べ始めたのですが、みんな間違いそうです。「あなたは斜めに取るから気をつけて」「お寺さんの方には手をつけないように」「他人(ひと)のをとらないでね」といった言葉が飛び交いました。亭主役の義兄も心配になったのか、「38度線つけますか」とまで発言しました。もっとも、これは半分冗談ですが……。

 賑やかな境界論争が落ち着いた頃、今度は不思議な現象が起きました。居間とお斎の会場となった広間の仕切りとなっている曇りガラスの向こう側で、高さ1メートル50センチくらいのところから黒いものがふわっと下りたのです。これに気付いたのは隣席の義姉の連れ合いと私でした。義姉の連れ合いは、「さっき、良寛さんのことで親父さんの悪口を言ったので、『忘れないで覚えていてくれたな』と出てきたんじゃないか」と言いました。二人とも気になり、お斎が終わってすぐに曇りガラスの向こう側に行き、何が落ちたかと確認しましたが、何もありませんでした。

 今回の法要では恒例となっていたスライド上映はしませんでした。そのかわり、私の手元に録音して残っていた義父の生前の声を聴いてもらいました。亡くなる半年くらい前の声です。テレビの音と一緒に流れてきたのは、耳が遠くなった義父のぼやきでした。「困ったもんだ、まったく……。急に聞こえなくなっちゃった。どうしてこうなるんかいね」と言う言葉がはっきりと聞こえます。続いて、痰を切るための義父の大きな咳払いが聞こえました。「よく、これやっていたよね」ここでみんながまた大笑いしました。

 義父が亡くなって丸2年。当初心配していた義母も改造された新しい居間で元気に過ごしています。この日の法要を終わって、義母もホッとしたようです。居間から見える裏庭では地滑り止めの「じゃかご」も姿を現しました。春はもうすぐです。
  (2013年1月27日)



第236回 雪を楽しむ

 12月の、ある寒い日の午前、「しんぶん赤旗」日曜版の配達で動き回っていた時のことでした。吉川区から柿崎区へ向かう途中、お寺のご住職のSさんが車庫の脇からひょいと出てこられたので、びっくりしました。

 少し間をおいて私の方から「歩いてこられたんですか」と声をかけますと、Sさんははっきりとした口調で、「はい」と言われました。たぶん、車庫脇の広い土地や大出口川の土手などの雪の上を歩いてこられたのでしょう。誰が雪の上を歩いて楽しんでいてもおかしくはないのですが、お寺さんも「凍み渡り」をされたのだと思うと、なぜかうれしくなりました。

 私たちのところでは、前日の夜からこの日の朝にかけて急に冷え込みました。12月から一気に2月になったのではないかと思うほどでした。わが家の周辺では積雪は60センチほどでしたが、この雪がしっかりと固まりました。じつは、私もこの日、雪の上を歩いてきたのです。

 ガリッと音がする。長靴が路面にくっつきそうになる。長年にわたり培ってきた雪に対する感覚から、道をちょっと歩くだけで「凍み渡り」が出来るかどうかの判断はできます。私は牛舎脇の畑の雪の上にひょいと上がり、榛の木の方に行ったり来たりしながら歩き、楽しみました。

 ここまでなら、「おれだってやってるよ」という人が大勢おられるだろうと思いますが、私の場合、それだけで終わらなくなったのです。今冬はこの12月の「凍み渡り」を楽しめたことがきっかけとなって、様々な雪の楽しみ方をしています。

 例えば、年始の挨拶で尾神の親戚へ行った帰り道のこと、道路沿いの水路が雪に覆われてトンネルになっていました。そのトンネルにカメラを向けると、水路が暗くなっていて、雪の中にほっぺたのふくらんだ少女が立っているように見えたのです。「少女」はどこかで見たことがあると思ったら、不二家のミルキーの宣伝でおなじみのペコちゃんでした。雪の白と水路の黒が作りだした光景はじつに新鮮で、写真に撮って全国に発信しました。

 今冬は雪の降り方がいつもと違います。けっこう晴れ間もありますし、雨が降ることもあります。そのせいもあるのでしょうか、雪が見せてくれる表情の面白さにも目が行くようになりました。

 先日は朝から靄(もや)が立ち込めました。わが家の牛舎から隣の集落へ行く途中にある田んぼや排水路もこれまでと違って見えました。白い平原のなかに排水路だけが遠くまで続いていて、排水路の先は靄でかすんでいました。手前から伸びる排水路は細長い三角形になって見えます。そして、排水路に沿ってキツネらしきものの足跡がずっとついていました。おそらく、この動物は排水路を飛び越したくても飛び越える自信が無くて慎重な判断をしたに違いありません。この情景もカメラに収め、発信しました。

 街灯の光によって、雪も表情が変わります。たいへんな吹雪になった日の夕方、バスで仕事から帰ってくる妻を迎えに出ました。その時、吉川橋を見たら、街灯の光が吹雪と一体になり、暖かく柔らかな温暖色を生み出していることに気づきました。何か幸せなドラマが生まれそうな素敵な空間でした。

 雪の季節はあとふた月。次の雪との新たな出合いは何かと、わくわくしています。
   (2013年1月20日)



第235回 時間旅行

 数日前のこと、「アニキ、こんなのがあったよ」そう言って大潟区在住の弟が私に見せてくれたのはアルバム3冊でした。そのうちの1冊は昨年8月、高校の同級生のところで数十年ぶりに見たものと同じ卒業アルバムです。失くしてしまったと思っていただけに、とてもうれしく思いました。

  「どこにあったんだ」と訊く前に弟が教えてくれました。「尾神から引っ越しする時に段ボールにつめこんだままになっていたんだね。牛舎の2階にあったよ」と言ったのです。「なーんだ、そんなところにあったのか」と思いながら、とりあえず3冊のアルバムを私の事務所に運び入れました。

 そしてその翌日のこと、卒業アルバムを開いてみてびっくりしました。アルバムの最後のページのところに電報、写真とネガ、新潟日報記事、薄いレコード盤がはさまっていたからです。いずれも、今になれば宝のようなものばかり。それらの一部は私の記憶に残っていませんでしたが、アルバムにはさんだのは間違いなく私です。電報や写真は私を一気に40数年前まで運んでくれました。

 電報は1968年(昭和43年)3月18日のものと翌19日のもの2通。18日のものは、大学受験に合格したことを知らせる電報でした。電文が入った、ほぼ真四角の袋は赤く、7羽の鶴が飛んでいる図柄が入っています。電報は大学受験の際、受験会場で私が頼んでおいたものです。不合格なら別の袋になったのでしょう。当時住んでいた尾神の家でこの電報を受け取った私は、すぐに父のもとに走りました。この日、父は下町の豊田材木店さん(当時)に頼まれ、雪の残った山で伐採した木をソリで運び出す仕事をやっていました。父が喜んでくれたのは言うまでもありません。

 19日付の電報は大島村(当時)田麦にある旭郵便局からの発信。母の実家、竹平の従兄からのものでした。「合格オメデトウゴザイマス、フミエイ」という電文を発信した時間は、「受付コ二、五五分」とありますから、午後です。従兄はその日の新聞記事で私の合格を知り、電報を打ってくれたのだと思います。いまもお世話になっている従兄の一人ですが、こんな気配りまでしてくれたのかと胸が熱くなりました。

 写真は3枚ありました。そのうち一番大きな写真は大学1年生のクラスの仲間の集合写真です。私がランニング姿で中央にいて、その後ろには木村がいる。清家は旗持ちか。おお、バレーボールを持っているのは哲学青年だった丸山だ。そして、そのとなりは春吉と風岡。前列で紐を持っているのは確か金津だ。胸が震えました。

 一人ひとりの顔をじっと見つめていると、次々といろんなことが浮かんできます。私の下宿によくやってきた丸山さんは恋愛論を語り、私に亀井勝一郎の本を読むようにとすすめたものです。後に亀田製菓の社長になった金津さんは、「おばあちゃんのぽたぽた焼き」を開発して一躍有名になりました。卒業後、まったく会う機会がなかった木村さんとは数年前、県庁でばったりと会いました。日本画家になった風岡さんは、尾神岳を描いてくれると約束していましたが、三年ほど前に亡くなってしまいました。みんな本当に懐かしい人ばかりです。

 電報と写真はフェイスブックに載せて全国に紹介しました。すると、「日本電信電話公社という名前が懐かしい」とか「若い」とかの反応に混じって、元亀田製菓社長の金津さんが「これはすごい写真です」と喜びを伝えてくれました。おそらく、彼もこの写真で四十数年前まで旅をしてきたのでしょう。  
  (2013年1月13日発行)



第234回 伯母の入院

 昨年は暮れが近づいてから大忙しとなりました。何よりも総選挙があったことが大きい。加えて、親戚の伯母などが病気やケガで相次ぎ入院したということもありました。でも、忙しいなかにあっても心温まる出来事がありました。

 それは下町の伯母のことです。伯母は父のキョウダイの中でいま最年長、すでに90歳を超えています。最近、耳が遠くなり、物忘れがひどくなってきました。これまで大きな病気一つせずに生きてきましたが、12月の下旬、転倒により大腿部を骨折してしまい、入院しました。

 初めて見舞った日、伯母はほとんど目をつむりながら、口だけもごもごと動かしていました。ヨーグルトを食べさせてもらっていたのです。そのときの姿を見てびっくりしました。顔の輪郭、眉毛、髪の様子など晩年の父とまったく同じと言ってよいほど似ていたからです。キョウダイというのは、年を取るとこんなにも似るものなのでしょうか。

 病室で伯母の面倒を見ていてくれたシズオさんが、伯母の耳元で声をかけました。「おばあちゃん、この人、誰かわかるかね」。私を指差して訊いた瞬間、どう反応するかと私は緊張しました。3秒ほどおいてから、伯母はか細い声で、しかしはっきりと言いました。「ノリカズ」。うれしかったですね。

 うれしかったのは、何よりも伯母の記憶がしっかりしていることを確認できたからです。それにもう一つ、伯母が「代石(たいし)のお父さん」と答えずに、自分の子どものように「ノリカズ」と呼び捨てにしてくれたのも心地よいものでした。

 シズオさんは続いて、見舞いで一緒になった河沢の叔母の方を向き、「この人は?」と再び伯母に訊きました。今度はすぐに、「ヤスイ」という言葉が返ってきました。

 入れ歯を外してもらい、ベッドで横になると、伯母はすぐに眠りました。これまでと違った環境におかれ、感情が高ぶり、疲れがたまっていたのでしょう。眠っているとき、伯母は口を開けていました。このときの表情もまた、父とそっくりでした。

 その後も何度か伯母の様子を見に出かけました。大晦日は午後から病院へ行きました。シズオさんや従妹のキヨコちゃんがやっていたことをまねて、この日は伯母の耳元へ口を寄せ、少しばかり話をしてみました。

「伯母さん、ここどこだか知っているかね」
「デパートじゃないがか」
「デパートではないよ。○○病院だよ」
「まぁーっ、きれいだ」
「うん、確かにきれいだね」

 伯母が驚く時はいつも、「まぁーっ」と言って顔を縦長にします。デパートだかアパートだか、伯母の頭の中は少しこんがらがっているようでしたが、まあ、それはともかく、昔からずっと慣れ親しんできた伯母の縦長の顔の「まぁーっ」を見て安心しました。

 伯母が入院した病院には、原之町の「岩佐のおばさん」も年末に緊急入院しました。伯母の耳元で、「あのね、岩佐のおばさんもここの病院に入院しているんだよ」と言うと、伯母は再び、「まぁーっ」。うん、これなら、まだ大丈夫、大丈夫……。
  (2013年1月6日)



第233回 対面キッチン(2)


 先週の日曜日、柏崎の家のリフォーム(改修)工事が終わったというので見に行ってきました。これまでの台所は義母の寝室に、居間は台所兼居間にかわっていて、2つの部屋はずいぶん明るくなった感じがしました。

 工事は約40日間かかり、しばらく不自由な生活をしたらしいのですが、義母などの思い通りの改修ができたようです。義母の寝室に入った時、「おっ、いくなったねぇ」と言うと、「やっと終わったよ。窓はみんな二重サッシだから暖かい」などと言って義母は笑顔でした。

 今回のリフォームのねらいのひとつは義母がトイレに行きやすいように寝室をトイレの隣にもっていくことでした。今度は具合が悪くなっても、そう時間をかけずにトイレにたどり着くことができます。壁際にはベッドが置かれ、義母が望んでいた整理棚も簡単な洗い場も作られました。そして部屋の天井の真ん中には大きな、丸い蛍光灯がつけられ、明るい光がパーッと広がりました。義母が喜ぶのは当然です。

 リフォームのもうひとつのねらいは、対面キッチンを設置することでした。これがまた、うまく考えて設置されていました。

 台所と義母の寝室は壁で仕切られているものの、真ん中に縦90センチ、横1メートル80センチくらいの障子戸があります。障子戸は両開きです。案内をしてくれた義兄が、「ほら、こうやって全部開けられるんだ。できた料理はすっと出すことができる。いやー、考え過ぎて、だいぶ脳みそ減ったよ」と誇らしげに説明してくれました。そばにいた義母も、「これで、よたよたしても大丈夫だ」と言います。

 職人さんたちによる2つの部屋の工事は終わりましたが、カーテンの取り付けはまだこれからです。これはたぶん義兄が自力でやるのでしょう。いまは、義母の寝室も居間も裏庭からは丸見えです。もっとも裏に人家があるわけではありませんが……。

 出来上がった部屋の説明を一通り聴いてから、3人で居間のコタツに入りながら、おしゃべりを楽しみました。

 工事期間中のこと、騒音やほこりを避けるため、義母は当初、アパートへの引っ越しを考えていたらしい。でも、大工さんが入ったある日のこと、大工さんとのお茶飲みが終わった後、使った茶碗は出しっぱなしという状況を見て、「こりゃ、自分がいなきゃならん」と義母は覚悟を決めたといいます。その結果、1か月以上も職人さんたちの世話をしたことで、義母の改修への思いはいっそう深まったようです。

 3人でお茶のみをしていた時、裏庭の上の方にある杉の木の皮がはがれて、茶色の肌が出ているのを私が見つけました。よく見ると、皮がはがれている杉は1本だけでなく2本でした。義兄が、「子どもの頃、よくお宮さんの杉の皮を引っ張り、はがしたもんだ」と言い、懐かしい記憶を呼び戻してくれました。でも、私たちの目の前の杉は子どもたちではなく、明らかに動物がむいたものです。

 タヌキも下手ながら木登りすることがあるといいます。杉の皮をはがした真犯人はタヌキかムササビか、それともハクビシンか。義母によると、親ダヌキが子ダヌキを4つもDつも引き連れて裏庭を通って行くことがあるそうです。

 台所と寝室のカーテンがつけられるまでの間にも動物たちはやってくるでしょう。その時、明るくなった部屋や対面キッチンを見て、彼らはどう思うのでしょうか。きっとうらやましがるに相違ありません。
   (2012年12月30日)



第232回 はんてん

 「忙しいろでもお茶飲んでいきない」。雪が降りやんで、少し落ち着いたある日のこと、二人のお母さんに誘われました。その日は朝から飛び回っていたので、喉もかわいていました。遠慮しないでお茶の仲間に入れてもらいました。

 テーブルの上には野沢菜漬けとサトイモのゆでたものが出ています。サトイモは、金網のボールの中に小さなものばかりが入っていました。私の住んでいるところでは「イモの子」と呼んでいるものです。上手にゆでてあって、皮もぴろりとむくことができるので、次々と手を出してしまいます。

 「イモの子」を御馳走になりながら、三人でおしゃべりを楽しみました。今年は例年よりも雪が早くやってきて、しかも真冬のような降り方をしました。すぐに雪の話になりました。
「まあ、重たい雪降ったこて」
「そうそう、重かったね。でも、そのわりにゃ、杉ん木、折んねかった」
「こんだ、雪も息すりゃいいけどもね」
「はあ、息しなけりゃこまるわ。まだ一二月の半ばだでね。上川谷は二メートル近くも降ったというし……」

 二人のお母さんのうち、Yさんは少し耳が遠くなったようで、時どき、同じ言葉を繰り返さなければならない場面もありました。でも元気です。

 もうひとりのNさんからは悲しい出来事を聴きました。先日亡くなったKさんの話です。Kさんは大島区板山からNさんの近所に嫁いできた人ですが、亡くなる前の日の話が切ないものでした。

 Kさんはここのところずっと一人暮らしでした。同じ集落の、やはり同じ一人暮らしの二人のお母さんたちと毎日のように会い、励ましあって生きてきました。一人暮らしは自分以外の人を気遣い遠慮する必要のないことがいいところです。三人のお母さんたちは、「暗くなろうが昼になろうがお茶のみをしてぐるぐるっと回っている」ほど親密な関係になっていました。

 亡くなる前日も、Kさんは一人暮らし仲間の家を訪ねていたといいます。ただ、いつもと違って、最後の別れの挨拶に来たような感じがあったというのです。

 その日、Kさんはお茶飲み仲間の一人、「宮の前」のお母さんの所へ新品の「はんてん」を届けました。たまたま留守だったので、Kさんは「はんてん」のそばにメモを置きました。そのメモには、何ということでしょう、「これまで一緒にお茶のみをさせてもらって楽しかった」と書かれていたというのです。

 Kさんは最近体調が悪く、亡くなった日の翌日に病院へ入ることになっていました。入院の翌日には手術も予定されていたそうです。入院すれば、生きて家に帰ることができないかもしれない。Kさんはそう思って、お礼のつもりで「はんてん」をプレゼントされたのだと思います。それにしても、もらった人はびっくりされたでしょうね。

 「はんてん」は板山から高田へ出た実家の人からKさんがもらったもの。綿がたっぷり入っていて暖かく、柄も良いと近所の人たちの間では評判になっています。「宮の前」のお母さんは、「おれだって、いつどんなんなるかもしらんすけ、しまっとかんで着るこて」と言って、いま、この「はんてん」を毎日着ています。
  (2012年12月23日)



第231回 自分鍋

 いきなり冬将軍がやってきました。除雪車の音が初めて聞こえてきた日は風は強く、雪は横殴りでした。こういうときは外へ出るのがおっくうになりますし、食べ物はやはり温かいものがほしい。

 この日、お米をといでいる時に、テレビから「自分鍋」という言葉が流れてきました。どういう番組だったかわかりませんが、これがストレートに響いてきましてね、「おれがふだん作っている鍋料理だな。これでいこう」と思ったのです。

 すぐに、どんな野菜がまわりにあるかを確認しました。玄関先には尾神でもらった一本ネギがあります。あと牛舎には白菜、ジャガイモ、チンゲン菜がある。「よし、これなら作れるぞ」そう思いながら、準備に入りました。  まずは鍋料理用の平たい鍋に水を3分の1ほど入れて沸かす。ジャガイモの皮をむく。白菜とチンゲン菜は使えないところを切り落とし、丁寧に水洗いをする。あとはもう、まったく自分流です。

 鍋の水が沸くのを待って、最初にきざんだジャガイモを入れました。しばらくしてから今度は一枚一枚の葉にばらしたチンゲン菜を、次いで白菜という順番です。白菜は丸ごと鍋の上に持って行き、包丁でバサッ、バサッと削り落とす。最後はネギ、これはまな板の上で斜めに大きく切断しました。ネギの葉の先の方を切ると葉の中に入っていた空気がスーッと抜けていきます。

 この後に鍋の中に入れたものはふたつ。ひとつは味付けのサンマの缶詰です。昔、母がカレーをつくる時に肉の代わりに缶詰を使っていたことがありましたが、鍋料理でも同じように使えます。これがまたいい味を出してくれます。

 もうひとつはカレーです。カレーライスではないので固形のルーは小さいものを5、6個入れるだけにします。鍋に入れるタイミングは白菜などが煮あがり、落ち着いた頃です。ルーを入れたら、溶け込んでいくのじっと待ち、最後はお玉でゆっくりとかき混ぜる。これで出来上がりです。

 どうです、湯気の立つのが見えてきたでしょう。匂いもいいですよ。ゆっくりと煮込んだものは野菜でいっぱい、栄養満点です。

 出来上がった鍋料理はレシピを見て作ったわけではありません。家にある材料を使い、味付けも適当にやったものです。こうした料理方法では口に入れてみてからでないと分からないことがあります。今回はジャガイモを小さく切り過ぎたようで、鍋の中のどこにあるのかわからないくらいの大きさになってしまいました。

 でも味は今回も満足のいくものでした。薄く小さくなったジャガイモは甘く、口の中でとろけるような白菜もいい。サンマが出してくれた味はカレー味に隠れてしまったものの、やはりサンマ自体はどこにあるかと探したくなります。たくさん作ったこともありますが、この日はご飯の茶碗とほぼ同じ分量が入る入れ物で3杯も食べ、体はじつによく温まりました。

 さて、妻が帰ってきた時、私の作った鍋料理をどうするか、やはり気になりました。私よりも先に帰宅した妻はすぐに温めなおし、食べたようです。そして、鶏肉が焼いてありました。「ジャガイモ、入れればよかったのに」「鶏肉入れるともっと美味しくなるよ」という私への言葉にはちょっぴりショックでしたが、素直に従いました。妻が焼いた鶏肉を入れたら、たしかにぐんと美味しくなりました。
  (2012年12月16日)



第230回 ぶり大根

 原発に依存しない経済をどう再生していくかをテーマにしたフォーラムでのこと、会場に「そう、そう」というつぶやきとともに、ふわーっとした温かい空気が広がったのはぶり大根などの食べ物の話が出たときでした。

 京都大学の岡田知弘先生が、「オールシーズンで柏崎の良さを体験してもらうために、海の幸、山の幸を結合したぶり大根とか鯛茶漬けなどをもっと売り出していこうという動きが出てきている」と紹介された時、聴衆のみなさんは自分たちが食べたことのあるぶり大根や鯛茶漬けのことを一瞬、思い浮かべたのでしょう。私も懐かしさを覚えました。じつは、私にはぶり大根についての忘れ難い思い出があったのです。

 いまから40年ほど前、私は生まれて初めて酒造りの出稼ぎに出ました。いわゆる「酒屋もん」というものです。場所は東京の八王子市でした。

 酒造りについて何も分からない私がそこで最初に与えられた仕事は食事の用意でした。食事の用意というより、オマケのおかずづくり、あるいは酒の肴づくりといった方がいいのかも知れません。近くの鮮魚店へ行き、魚のあらを買ってきてそれを煮ておくこと、それにたくわんを切っておくことぐらいだったのですから。主食のご飯を炊くことやお汁を作る本当の炊事番は別の人がやってくれていました。

 この酒屋では、魚のあら料理が長年続いていて、親方のゲンゴさん、頭のミノルさん、蛍場のセイジさんなど出稼ぎをしていた人たち、みんなの好物となっていました。私は毎日のように鮮魚店へ行き、時どき八百屋さんへも立ち寄りました。あらの値段は覚えていませんが、安く手に入ったことだけはよく記憶しています。

 私が手伝ったあら料理の中には、いうまでもなく、ぶり大根もありました。魚のあらだけも美味かったんですが、魚の味がしみ込んだ大根などの野菜がまたいいものでした。特に大根は、ぶりと融合することによって深みのある味に変わります。寒いなか、朝早くから夕方まで稼いだ体に静かにしみ込んでいきました。

 さてフォーラムの翌日のことです。大島区の田麦へ出かけた際、今年初めてのぶり大根と出合いました。

 竹林寺の石段を下り、下の道を歩いていたら、マコトさんの車庫の中からいい匂いが漂ってきました。ひょっとしたらと思いつつ、「いい匂いするねぇ。うんまそうだね」と声をかけると、道普請を終えたマコトさんやタダマサさんなどがご苦労さん会を始めるところで、「寄ってきない」と誘っていただきました。

 真ん中のテーブルの上にはお酒や発泡酒、天ぷら料理、もつ煮、漬けもの、そしてやはり鍋に入ったぶり大根がありました。「いっぱいやんない。泊まっていけばいいねかね」などと言われましたが、その日は必ず帰らなければならず、残念ながら飲むことはできませんでした。

 ぶり大根をプラスチックの食器に入れてもらうと、私は他のものには目をくれず、そればかりを食べました。というのも、ぶり大根が美味しい季節に入っているとはいえ、前の日に強く印象に残った食べ物が目の前にあるのは偶然とは思えなかったのです。不思議な巡り合わせを感じ、ゆっくり味を確かめながらいただきました。

 ぶり大根を食べていた時、幼い頃、お盆泊まりで竹林寺のそばの道を通った記憶がよみがえりました。母の実家にもうすぐ着く、そのことを感じた時のうれしさはいまでも覚えています。いい気分にひたりながら、私はぶり大根のお代わりをしました。
  (2012年12月9日)



第229回 母のもてなし

 居間にいた私も妻も次男夫婦もびっくりしました。母が居間の障子戸を開けたとたん、廊下に落花生がたくさん広げてあったのが目に入ったからです。しかも立派なものばかりです。まさか、雪深い上越の地でこんなにも落花生がとれるなんて……。

 この日は11月の下旬の3連休初日でした。金沢市から帰省した次男夫婦を迎えるために母は、お昼の食事としていつものように赤飯を炊き、自慢のコンニャク料理やキャベツの炒めものなどを用意していました。食べ始めてからしばらくの間、みんながほとんどおしゃべりもせず食べていました。それだけ美味しかったのでしょう。

「ササゲ、いつもよりもいっぺ入れたがど」という母の言葉が出てから、ようやくおしゃべりが始まりました。「これ、ばあちゃんのコンニャクだよね」「いい味だよね」「これはキャベツ、それとも白菜かな」そんな声を聞きながら母はうれしそうでした。赤飯は残さずきれいに食べてもらったし、味の良さをほめる言葉も聞こえてくる。作ったものとしては最高の気分だったと思います。

 私たちがテーブルの上のものを一通り食べたところで、母は、腰をあげました。母の頭の中には次男夫婦に食べさせたいものがまだいくつかあったのです。まずは友達からもらったという甘柿を5、6個台所から持ってきて、次男の前に置きました。柿を食べろというわけです。

 次男は最初、もう食べられないよという顔をしていましたが、母の気持ちに少しでも応えようと柿を手にしました。

 次男が包丁で皮をむき始めたら、みんなの目が次男の手元に向きました。包丁を動かさずに柿を動かしてヘタをすっと取る。皮を切れ目なしでうすくむく。手のひらの上で十字に切れ目を入れ、種を出しやすいようにと横にも切れ目を入れて皿にポンと出す。どこで覚えたのか、包丁の使い方がじつに見事でした。

 母が次男夫婦に食べてもらいたいと持った食べ物は居間の南側の廊下にもありました。障子戸を開けると、そこには丸々としていて、しかも大きい落花生が畳2枚分も広げてあったのです。

 母は落花生をステンレスの鍋の中に次々と入れ、台所に持って行きました。最近、わが家でも始めたのですが、落花生をゆでて食べようというのです。

 しばらくして、ゆであがった落花生を母はテーブルの上に持ってきました。皿を敷いて、その上に水きり用のザルに入った落花生を置くと、まだ少し湯気が立っています。妻や次男夫婦がめずらしそうに皮をむき、「なるほどね。これなら散らからないね」とか「時間がたつと色が変わっていく」などと言って感心していました。

 落花生は千葉県の特産です。亡くなった叔父が習志野市に住んでいたこともあって、小さな頃から落花生を贈ってもらい食べてきました。妻が「お母さん、千葉へは行ったことあるの」と訊くと、母は待ってましたとばかりに昔話を始めました。

 叔父の所へ行った母は、落花生がハサにかけて干してあったことなどを紹介した後、何を思ったか叔父の家で出してもらった御馳走のことを語りました。「肉のでっかいのを食べさせてもらって、刺身をいっぺ食いすぎたらご飯食わんねくなっちゃった」という言葉を聞いてみんな大笑いしました。

 孫夫婦を迎えて母は大満足でした。赤飯もコンニャク料理も、そして最近覚えた落花生のゆでたのもみんな喜んで食べてもらえたのです。いかったね、ばちゃ。
  (2012年12月2日)



第228回 柱時計

 ふとしたことから記憶というものは甦(よみがえ)るものですね。直江津の学びの交流館でドキュメント映画「瞽女さんの唄が聞こえる」を観た時、居間の柱時計が鳴る場面が出てきました。音を聞いた途端、祖父の葬儀のことを思い出しました。

 私の祖父・音治郎は1964年(昭和39年)の3月、夕飯を食べていた時に突然箸をぽろりと落とし、徐々に意識を失って、1週間後には絶命してしまいました。葬儀は3月の21日か22日だったと思いますが、その葬儀の途中、広間と座敷の間にある柱にかけてあった時計が鳴りました。その時のボン、ボンという音と映画の中の時計の音がまったく同じだったのです。

 葬儀の時、時計が何時に鳴ったのかしっかり覚えていませんが、おそらく午前10時か11時だったのではないかと思います。わが家の時計は30分ごとに鳴りました。10時なら、ボンという音が10回、11時なら11回、そして半時間を知らせる時にはボンが1回あるいは2回鳴ったのです。お経の最中にボンという音を何回も繰り返したものですから、当時中学二年生だった私は、タイミングが悪いと思ったものでした。止めるにも止められず、じっと待つしかなかった、その時の切なさは時計の音とともに記憶していました。

 当時、わが家の柱時計はひとつだけでした。いうまでもなく手巻き式です。ゼンマイの緩み具合を目で確認して、適当な時にゼンマイを巻く、その役目はいつしか私のところに来ていました。父か祖父に言いつけられて、私がゼンマイを巻くことになったのだと思います。時計が鳴った時の切なさは、たぶん、私の役目からのものだったのでしょう。

 わが家にあった柱時計を思い出したことによって、葬儀そのものの記憶はあまり甦ってこなかったのですが、祖父の亡くなった日のことが次々と浮かんできました。

 午後4時過ぎ、祖父の呼吸が荒くなってきた時、父は私に医者を迎えに行くよう命じました。まだ当時は蛍場から村屋の間の道路は除雪されていませんでした。長靴をはいた私は雪道を走りました。「じちゃ、待ってないや、医者すぐつんてくるすけね」そう叫びながら走り続けました。

 わが家から道を2キロほど下っていくと県道川谷十町歩線にぶつかります。村屋の丁字路です。ここにお医者さんが来るはずでした。この場所に着いたときは汗びっしょりでした。着いてから30分くらいは待っていたのではないかと思いますが、もう5分、もう10分と待ち続けたものの、原之町からやってくるはずだったお医者さんの姿は見えませんでした。おそらくお医者さんは、急いで行っても無駄だと判断されていたのでしょう。

 お医者さんを待ち続けた場所はいまでも鮮明に覚えています。稲などをかけるハサ場でした。くたびれた私はハサにおっかかりながら待ちました。どれくらい待った時だったのでしょうか、おっかかっていたハサ木が突然、ポキッと折れました。「あっ」と思った、この瞬間が忘れられません。家から、「もう、じちゃの目が落ちたすけ帰ってこい」と連絡があった時、ハサ木が折れた時間が祖父の死んだ時間だと思いました。

 いまわが家にある時計は電池式です。便利な柱時計ではありますが、映画で時計の音を聴いてから、やはり手巻き式でボンと音が出るのがいいなと思い始めています。
  (2012年11月25日)



第227回 お帰りなさい

 相模原市からやってきたキヨコさんは、同級会の連絡をもらってからずっとこの日を待っていたといいます。みんなそうです。旧源中学校の同級会(昭和40年卒)は11月10日、尾神岳のふもとにあるスカイトピア遊ランドで開催されました。

 私が会場に着いたのは開始時間よりも40分ほど前。すでに控室には10人近い人たちが到着していました。「よっ、久しぶり」「ご苦労さん」ユキミツくんやモリオくんなどから声をかけてもらいました。

 この日の参加者の八割方は関東、関西など遠くからやってきました。控室の入り口付近にいた大潟区在住のミツコさんが、入ってきた同級生に「お帰りなさい」と声をかけています。彼女の母親のような優しい言葉にみんな、うれしそうでした。

 同級会が始まったのは午後1時ちょっと過ぎ。会場は畳の大きな部屋です。席に着こうとする時に、「アッツッツ」と言う人の声が聞こえました。すでに還暦を過ぎていて、腰を痛めたり、足を痛めたりしている人が多いんですね。

 トラオくんが開会挨拶。そしてすでに亡くなっているミノルくん、コウゾウくん、ミツエさんなど6人の同級生の冥福を祈って全員で黙とうをしました。その後、上野實英先生から挨拶をしていただきました。

  「膝があれなもんで立たないで挨拶を……」と先生が言うと、誰かが「立たないでいいよ」と声をかけました。先生は、「みなさんと再会すると涙が出てきます。故郷をいつまでも忘れないで過ごしていただきたい。趣味や生きがいを持ち、筋力を鍛えることに心がけてください。そしてぜひ77歳(の同級会)をめざしてがんばってほしい。その時はたぶん僕はいないので、黙とうしてください」と挨拶されました。最後に笑いをとって終わる、相変わらず話上手な先生でした。

 続いて全員による自己紹介と近況報告。卒業以来初めて同級会に参加し、47年ぶりの再会をしたヒサミさん、彼女は対馬市からやってきました。「朝鮮半島の南で漁師をやっています」と言うと、「エーッ」という驚きの声が沸き起こりました。看護師をやっているカズコさんは会場の近くの尾神生まれ。「そろそろ定年しようと思っています。さっき、昔住んでいた自分の家まで行ってきました」と語りました。懐かしかったんでしょうね、彼女はすでに他人に渡った家の周りをぐるぐると歩いて来たといいます。

 同級生が歩んできた人生は様々です。10年ほど前に生家に戻ってきたユミコさんは美声で自己紹介。「ユミコデゴザイマス。ヨクイラッシャイマシタァー、ハイハイ、バスガイドやっていたんです。いまは二人目の旦那とすばらしい田舎暮らしをしています」と楽しそうに語りました。一方、Aくん、結婚生活はわずか1年ほどで終わってしまいました。「11年前にみんなと会った時には、桜が咲いたと思ったがだでも、すぐに散ってしまいました。おふくろも死にました」と涙ぐみました。あとで柿崎のカオルさんが言いました。「Aくん、泣きながらお店に来てくんなったけど、どうしてもあげられなくてね……」。

 中学校時代の同級会は11年ぶり。たっぷり語り合いました。「春風そよぐ山峡の…」という校歌を歌ったのは中学校卒業以来かも知れません。うれしいときはもちろんのこと、かなしいときも、さみしいときも同級生に会うと元気が出ます。みんなの前で涙ぐんだAくんも最後は笑顔でした。おーい、みんな、また来てくれよ。
  (2012年11月18日)



第226回 記録の力

 11月の2週目の土曜日に源中学校時代の同級会を開くということで、地元の同級生とともにその準備をしています。私の役目は、当日、会場で配布するパンフレット作りです。いつもの癖で作業が遅く開催日間際になってバタバタしてしまいました。

 というのも、困ったことに、みんなで歌おうと思っていた校歌が見つからなかったのです。小学校の校歌はすぐに見つかったのですが、中学校の方はどこへしまいこんだのか出てきませんでした。

 そこで学校のすぐそばに住んでいる先輩のYさんに電話してみました。「あると思うよ」との返事でしたので、すぐにYさんのところへと車を走らせました。

 最初、なかなか見つからなかったようですが、源中学校の閉校記念誌が出てきました。冊子を開いた途端、うれしくなりました。校歌はもちろんのこと、学校の校舎、体育館、忠霊塔などの写真も掲載されていたからです。これで、同級生と一緒に校歌を歌うことができます。校舎などの写真を見た同級生たちは学校での授業のこと、部活のこと、新潟地震のことなどいろいろな思い出を語ってくれるはずです。記念誌のなかで読んでおきたいと思った数ページをYさんからコピーしてもらいました。

 家に戻って、コピーしてもらった写真などをゆっくり見ているうちに、いろんなことを発見しました。例えば、校歌は1番から3番まであるのですが、額に入れた校歌と音符付きの校歌では、2番と3番の順序が違っているのです。これは同級会でどちらが正しいのか確かめたいと思います。また、忠霊塔の写真にはお世話になった中村三代志先生のほかに、わが家と同じ蛍場に住んでおられた長谷川正則先生の姿も写っていました。長谷川先生がなぜここにおられたかも調べたくなりました。

 私が源中学校に入学したのは昭和37年4月です。校長は中学2年までが熊倉平三郎先生、中学校3年の時は山田良雄先生でした。このうち、熊倉先生は私が小学校の時からずっと校長でした。小中学校とも同じ校長というのはめずらしいと思います。

 記念誌にはこの二人の先生も寄稿されていました。私はこの二人については中学生時代から対照的なイメージで記憶していました。熊倉先生は「近寄りがたく、硬い先生」、山田先生は「良家のお父さん」といった感じです。寄稿された文を読んで私のイメージに狂いはないものの、二人の先生のお仕事ぶりについてはほとんど知らないできたということが分かりました。

  「社会教育を案じつつ源中校2ヶ年の教育を担って」と題した熊倉先生の文には、生徒を「お預かりした大切な国の宝」ととらえ、社会に出ても「絶えず自己の足下を見つめて反省し、思いやりを持って四囲(しい)の社会人に接する」ことができるよう努力したという文言がありました。また、山田先生の「さりゆく記録」という文には、500メートルも離れた崖から湧出した清水を学校までひいたこと、体育館のステージを組み立て式に改造し、体育館を広く使えるようにしたことなどが書かれていました。おふたりとも生徒に限りない愛情を注がれていたことを改めて知り、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

 さて、完成した同級会のパンフレットは8ページにもなりました。掲載された記録を読むと、テニスに夢中になったこと、先生方が熱心に補習授業の取組をされたことなどを思い出します。参加する同級生のみなさんも私以上にいろんなことを思い出し、語ってくれることでしょう。同級会ではパンフレットに載せた記録がどんな力を発揮してくれるか、楽しみです。
 (2012年11月11日)



第225回 寝小便

 まあ、よく集まったもんです。竹平の「のうの」(屋号)系統のいとこは19人いるのですが、そのうち14人も集まったのです。あっ、すみません、連れ合いと一緒の人もいたので16人かな。何に集まったかですって、「いとこ会」です。

 「いとこ会」は昨年、6人ほどで1回やっているのですが、今春、埼玉の叔母が亡くなった際、今度は全員に声をかけて越後湯沢でやろうよということになり、今回、千葉のエッちゃんや埼玉のトモちゃんなどが骨を折ってくれて実現しました。

 会の名前は「のうのいとこ会」。葬儀や法事以外でいとこたちが十数人も集まるなんてもちろん初めて。宴会が始まってからの自己紹介がばかいかった。子ども時代のことや近況などを語ったのですが、一番多く出た話は寝小便の思い出でした。

 最初に寝小便体験をしゃべったのは弟のイサムです。お盆に「のうの」や「足谷」(屋号)に泊まったときのことを思い出したのでしょう、「夜、いい夢を見ると寝小便しちゃって、昼寝をしたときもネションベンしちゃった。そのたんびに布団や毛布をぬらすということで○○○○の先っちょを押さえられたもんで、いまだに○○○○が変形していて、大人になったら10人も女性を泣かせることになっちゃった」と言うと、宴会場は爆笑につつまれました。もちろん、最後の話は作り話です。

 司会に促され、「ヨシッ」と声を出して立ちあがったのは太田市に住むタカジさん。「いまだに忘れないのは『のうの』のおじいちゃんの世話になって、冬場、わら布団に寝るとザワザワと音がして……、でも、暖かかった。亡くなったミッちゃんを子もりしたんだけど、あの子もいい子でね……、だでも、あの子が背中で寝てしまって、ぬるっとしたもんが流れた。家の人に言えんかったな。ま、その後、時代は流れて、いまここにいるマチコと合体することになりましたが」と語りました。すかさず、誰かが、「合体しちゃ駄目じゃないか」とヤジを飛ばし、再び会場は笑いの渦に包まれました。

 どうも、「のうの」の系統はみんな寝小便をしたようです。東京のタダオさんの後に自己紹介した東鳥越のカチャも、「『のうの』のフミエイさんをぶっていたら、背中でもらしちゃった……」とやっていました。

 いとこのほとんどはいま、50代から80代です。子ども時代は食糧難で、いつも食べ物のことが頭にありました。嶺のセイゴさんからは柿、「のうの」のフミエイさんからはウサギの肉の話が出ました。なかでもみんなが注目したのは肉の話でした。

 ある土曜日のこと、フミエイさんは足谷へ泊まりに出かけました。そこで伯母さんが出してくれた肉を初めて食べたことについて、フミエイさんは語りました。

「足谷の谷一郎さんは鉄砲うちの達人だったから肉があるんです。亡くなったばあちゃんから『ほら、食べろ、食べろ』と言われて、焼いてもらって、世の中にこんなにうんめもんあるがかと思った」
 
 話を聴いていた人たちは肉を食べたときのことを懐かしく思い出していました。

 いとこ会の宴会は2時間飲み放題。会では、亡くなった人や都合で参加できなかった人の話も出ました。東鳥越のカチャは、「みなさん、ちょっと聞いてください。今朝、尾神のムツコから電話来て、『姉ちゃん、おれ、湯沢に行って寝ていた夢を見た』てがね。そして目を覚ましたら家の布団だったと言うんです」と紹介すると、大きな拍手が起きました。次回はムツコさんも参加できる場所でやりたいもんです。
 (2012年11月4日)



第224回 最高の一瞬

 今年の正月の3日だったと思います。宣伝カーで浦川原区の坪野というところまで上って、びっくりしました。前方に、私の本の表紙写真を撮ってくださったカメラマン、平田一幸さんの姿が見えたからです。

 思わぬところで出会い驚いたのですが、平田さんはこの日、雪の中の柿の木を撮影するために、わざわざ坪野に出かけていたのです。車を降りて挨拶すると、そこにはカメラマンの方がもう一人いました。二人とも目的は同じでした。

「いいのが撮れました?」と声をかけると、平田さんはニコニコして、「撮れましたよ。朝からずっと待っていたんです」という言葉を返してきました。この日は最初曇っていてパッとしない天気でしたが、その後、見事な青空が広がりました。平田さんたちは、冬の青空のなかで気に入った写真が撮れたのでしょう。

「いい写真が撮れた」という言葉を聞いたとき、私がイメージしたのは、青空と白雪をバックにした柿の木でした。でも、平田さんたちが待ち続けていたのは、太陽が照りはじめたときの一瞬のシャッターチャンスだったのです。

 そのことが分かったのは、9月に高田図書館市民ギャラリーで開催された「写友かたくり」写真展で、出展した作品を撮った時のエピソードを平田さんから聞いたときでした。

 平田さんがこの写真展に出した作品のひとつに雪をかぶった柿の木の写真がありました。見た瞬間、私は1月に坪野で見た柿の木を思い出していました。「この写真、あのときのものですか」と尋ねると、「あそこではなくて、熊沢の上沼道の近くで撮ったものです」と平田さんは答えました。そして、そのあと、この写真の風景に出合ったときのことを興奮して語ってくださったのです。

 この日も最初は曇り空だったそうで、雲が切れ、太陽が顔を出すのを平田さんはずっと待ち続けたといいます。どれくらい待ち続けたのかは聞きませんでしたが、おそらく、1時間や2時間は待ったのでしょう。柿の木の上空の雲がなくなり、青空が見え、太陽の光が輝いた瞬間、平田さんは胸をドキドキさせながら雪をかき分け、柿の木の近くへと急いだのでした。もちろん、カメラを持って……。

 柿の木の写真では、ふんわりとした雪がオレンジ色の柿に載って輝いています。背景は青空。平田さんの説明によると、雪がキラキラと輝き、柿の実の上に載っている時間はわずかで、すぐに落ちてしまうとのことでした。バックに青空があり、雪が載っていたから柿の実のオレンジ色も一段と美しく見えました。平田さんは、この「最高の一瞬」を待っていたのです。

 写真展に出した平田さんの他の作品もやはり、「最高の一瞬」を撮ったものでした。朝日が昇り始める瞬間の田んぼの写真、水面に砂金が散りばめられたような輝きが映し出されています。牧区大月の早春の棚田の写真もそう、水面にやわらかく温かな光が広がっています。手前には残雪があり、フキノトウがいくつも出ています。闇から明るい空間に代わる一瞬、そこに雪もフキノトウもある。この写真は平田さんが20年も通い続けて、ようやく撮ることができたということでした。

 毎日、バタバタと過ごしていると見逃してしまう自然の美しい風景。「写友かたくり」写真展で平田さんの作品を観てうれしくなりました。そしてなんとなく心があたたまりました。わたしたちのふるさとにこんなにも美しい瞬間があるとは……。
 (2012年10月28日)


 
第223回 もらい乳

 私が生まれて間もなくの頃、母、エツの乳の出が悪くて近くの女性から「もらい乳」をしたということを知ったのは昨年の秋のことでした。その女性というのは、母の幼友達のキエさん、生まれは母の実家のすぐ隣下の「あたしゃ」(屋号)です。

 キエさんの現在の住まいは嫁ぎ先の大島区板山にあります。先日、親戚の家に行った時、寄せてもらいました。家のすぐ下の畑で仕事をしていたキエさんに声をかけると、「さあさ、入ってくんない」と誘われました。

 お連れ合いが数年前に亡くなっているので、キエさんはいま、一人で暮らしています。農家特有の広い居間の真ん中よりも少し台所寄りにテーブルが置いてありました。「なんにも、かまわんでくんないや」と言ったのですが、キエさんは居間と台所を何回も行き来し、豆腐のオカラで作った料理、キュウリのキムチ漬け、サヤインゲンのゆでたものなど、次々と出してきてくれました。

  「おらとこにあるもんは、みんな年寄りごっつおで」と遠慮がちに勧められたのですが、見た目も、実際の味もとてもいいものでした。本人も本当は味に自信があったのでしょう、キエさんは「これ、ばちゃにひとっぱやるわ」そう言いながら、テーブルに出したものと同じオカラ料理などをナイロン袋に四つも入れてくれました。

 この日、お茶を御馳走になりながら聴いた話に私は惹きつけられました。戦争末期、東京・世田谷のS家へ女中奉公に行ったことや私の生まれた頃のことなど、初めて聴くことがいくつも出てきたからです。

 キエさんが戦争末期に東京のS家に行く時、一緒について行って案内役を務めたのは私の母でした。そのことは母からある程度聞いていたのですが、奉公に行った先は、同じS家でも弟さんの家であることをこの日まで知りませんでした。そして、S家に行く前の晩、東京大空襲で亡くなったアヤノおばさんの家に泊まったということも初耳でした。

 私が生まれたあとの「もらい乳」のことはこの日、詳しく教えてもらいました。私は1950年(昭和25年)3月、母の実家である大島区竹平の「のうの」で生まれました。キエさんは、この前月に「あたしゃ」で娘さんを産んでいます。「もらい乳」した当時のことについてキエさんが語りました。

 母は私を産んだ後、乳が十分出なく、私は泣いてばかり。それを聞いたキエさんから「ほーさ、つんてきゃっさい」と言われ、母は「のうの」から近道を下ってキエさんのところに私を抱いて通ったのだそうです。キエさんは、「飲んでもらったすけ、おらも助かったがでね。だって、乳が出て震えきゃくるがでね、きょもんも綿入れもくさっちゃったそね……」と言って笑いました。

  「もらい乳」をした私は丸々太った赤ちゃんになります。私が現在持っている最も若い時の写真は、ミシン用の丸い椅子に座って、ふっくらした顔になって写っている赤ちゃん時代のものです。この写真についてもキエさんは語ってくれました。私が生まれた1950年のお盆に、千葉の叔父が「のうの」の家のそばの道端で撮ってくれたもので、椅子に背もたれがないものだから、母が後ろで支えていたといいます。まあ、よくこんな細かいことまで覚えていてくださったと思います。

「もらい乳」をしてから62年、私はようやく乳を与えてくれた女性にお礼を言うことができました。キエさん、キュウリのキムチ漬け、うんめかったでね。
 (2012年10月21日)


 
第222回 センナリホウズキ

 先日、安塚区へ行った時の帰り道、ほくほく線浦川原駅の近くにある物産館に立ち寄ったところ、小さなホウズキが目にとまりました。出荷者は大島区下達のTさん。ホウズキを見ただけで、なぜか懐かしくなって買い求めました。

 小さな袋に50個くらい入ったホウズキ。一つひとつを見ると、ギンナンくらいの大きさで、ごく薄い黄色の袋に包まれています。「これ、なんというものですか」と店員さんにと訊くと、「○○○○ホウズキです。畑で熟すと実が落ちるんです。甘酸っぱくなって、美味しいんですよ」という言葉が返ってきました。

 この時、店員さんは自分の頬のところに両手を持って行き、食べると顔全体に甘さが広がっていくようなかわいい仕草(しぐさ)をしました。それが強く印象に残り、家に戻るまで我慢できませんでした。袋を破いて1、2個食べてしまったのです。

 食べると確かに甘い。でも、この甘さはどこかで味わったことがあります。いったいどこで食べたのだろう。思いだそうとしましたが、その日はとうとう思い出すことができず、私の公開日記には「思い出せませんでした」と書きました。

 それが功を奏して、数日後、友人のJさんに会った時、「橋爪さん、あのホウズキを食べなったが、私んちだったんだでね。忘れなったが」と言われたのです。Jさんからは、このホウズキが「センナリホウズキ」と呼ぶことも教えてもらいました。1本の茎に何本もの枝がついて、実が千個までとはいかなくても、ものすごくたくさんなるのでそう呼ぶのだそうです。

 さらに数日経って、高田公園内の建物で、70代のIさん夫婦、それに3人の職員さんたちと一緒に話し合いをした時のことです。話し合いがほぼ終わってから、「これ食べてみなんねかね」とセンナリホウズキを勧めたところ、みんな、めずらしそうにしながら、皮をむいて黄色い実を口に運びました。

 最初に、「わー、甘ーい」と言って笑顔を見せてくれたのはIさんの奥さんでした。職員さんたちも、「これって、この間の日記に載っていたものですよね」などと言いながら、味を確かめるように食べていました。子どものように喜ぶお連れ合いの姿を見ていたIさんですが、Iさんは落ち着いた表情で、「これ、おまえさんの実家の庭にあったねか」と言います。でも、お連れ合いはなかなか思い出せないようでした。センナリホウズキはかなり前から農家に広がっていたのかも知れません。

 こうなると、畑や庭に植わっているセンナリホウズキの実際の姿を見たくなります。ある日の早朝、Jさん宅を訪ねたとき、お連れ合いが案内してくださいました。「ここだでね」と言って案内された場所は庭の一角です。ここにセンナリホウズキが植わっていました。普通のホウズキと違って、横に枝が広がり、実はそれこそ鈴なりでした。熟した実は、一定の時間が経つと地面に落ちます。落ちた実は、私が購入したものと同じ色になっていて、20個、いや30個はありました。

 お連れ合いの説明によると、センナリホウズキは強健で、どんどん広がっていくのだそうです。実は緑色ですが、落ちてからは次第に薄黄色へと変わっていきます。落ちた実を食べてみたら、やはり、甘酸っぱくて、いくつも食べてしまいそうでした。

 センナリホウズキと再会し、いろんなことを教えてもらい、この実がすっかり気に入りました。見ても良し、食べても良し。小さな実を見てもらうだけで次々と話が広がっていき、食べれば甘さとともに幸せも広がっていく。そんな感じがするのです。
 (2012年10月14日)


 
第221回 母が語る昔の話

 久しぶりに母の通院の送迎をしました。通院と言っても、年に1、2回行っている頭の中の断層写真撮影です。父が旅立ってまもなく発見された4ミリほどの動脈のこぶが大きくなっていないかどうかを調べてもらっています。

 わが家から母が通う病院までは車で約30分かかります。息子と一緒に車に乗って二人きりになるのがうれしかったのでしょうか、母のキョウダイのこと、私が幼かったころのことなど次々と語ってくれました。

 この日、母の話には、私の知らないことがいくつも出てきました。一番驚いたのは、母の下には狭山や千葉の叔父の他にもう一人弟ができるはずだったという話です。母の母親は、この「もう一人の弟」の出産時に出血の量が多かったことが原因でこの子とともに亡くなったということです。初めて知りました。

 母親が亡くなった時、母はまだ幼く、自分がいくつの時に亡くなったかを憶えていないといいます。それでいながら、葬儀の時、当時、やはり幼かった千葉の叔父のことを憶えているのですから不思議です。叔父は、葬儀の時、人が大勢集まったのでうれしかったらしい。雁木の柱につかまって無邪気に遊んでいたことなど細かいことまで記憶していました。

 まだ幼い子どもたちを残して母親が亡くなり、母親の代わりをしたのは母の祖母です。この人は大島区竹平の内山医院から母の実家、「のうの」に嫁ぎ、母のキョウダイを育てたといいます。母は、「正月には『つっぽ』を作ってくれて、着してもらった。そのばちゃがいっせき、おらを育ててくんたがだ」と思いだしていました。

 東京大空襲で亡くなったアヤノ伯母については十数年前に母から初めて聴きました。この日は世田谷のS家で女中奉公をしていたアヤノ伯母がSさんの家族と共に4年間、シンガポールに行ったことや行方不明となったアヤノ伯母を嫁ぎ先の家族が探し続けたことなどを詳しく教えてくれました。

 戦争で食糧難の時代だったこともあって、当時のことのうち、食べ物については特別によく憶えているようです。母はおもしろい話をしてくれました。アヤノ伯母がシンガポールから帰ってきた時のお土産はシカの角の飾りと大きな茶筒に入ったザラメだったというのです。

「砂糖なんてなかったすけ、煮て食うがよりもなめる方がいっぺだった」

 そういう母の言葉からは、母のキョウダイたちが「のうの」の家でザラメをなめている様子が目に浮かびました。

 土産に食べ物をもらったという話は千葉の叔父の話でも出てきました。叔父は国鉄に勤める前は造船所に勤めていて、実家に帰る時は必ず土産を持参したといいます。

「千葉はいつも、うんめもん買って来てくれるので、みんな待っていたもんだ。持ってきたのはニシンの干したもんに砂糖をつけたものだ。ゴマもついていた」

 と母は言いました。叔父が土産に買ってきたものというのはミリン干しです。母の語る昔話は次々と広がりました。

 この日の検査と診察はわずか1時間ほどで終わりました。母の言う「エマル」(MRI、頭の中の断層撮影のこと)の結果、動脈のこぶの大きさは前回検査と変らずでした。お医者さんはニコニコ顔で、次回の検査日を提案されました。次回は何と来年の10月1日、午前9時20分からです。これならまだ長生きできるでしょう。
  (2012年10月7日)


 
第220回 風鈴が鳴る中で

 コーヒーを飲んでは笑い、思い出話をしては笑う。80代後半の母と娘がたまに一緒になると、まあ何と言うか、うれしさいっぱいになるんですね。稲刈りが終わったころを見計らって妻の実家へ遊びに出掛けたとき、そう思いました。

 柏崎市にある妻の実家へ着いたのは日曜日の夕方、4時過ぎでした。義兄が、「おふくろは裏庭にいるよ」と言うので、家の後ろへ回ると、義母は雑草を取っている最中でした。四角いボックスに腰をかけ、丸い蚊取り線香を腰に下げて仕事をしている姿は若々しく、とても88歳には見えませんでした。

 私たちの姿を見た義母は、草を取るのをやめ、「さあさ、家に入って、入って」と言って、私たちを誘いました。居間に入ると、「さて、何出そうか、コーヒーがいい?、お茶がいい?」と訊きます。

「コーヒーがいい」と言った私たちに応えて、義母はコーヒーメーカーのスイッチを入れてくれ、話を始めました。

「チーン、チリンチリン」

 音がした方を見上げると、居間と広間の間にある鴨居に風鈴が下げられていました。細い金属性の棒が風に揺られて他の棒に当たるとチリリンと音が出るのです。

「この音、父ちゃん、聞こえなかったよね」 と妻が尋ねる調子で言うと、この言葉をつなぐように義母が言いました。
「新聞も読まんくなったし、相撲も観なくなった……」  二人の会話を聞きながら、晩年の義父の様子を思い出しました。夕方になるとベッドから起き上がって部屋のカーテンを閉めていた義父。些細なことに見えるかも知れませんが、義父はこれを自分の「仕事」としてとても大事にしていました。そしてカーテンを閉め終わると、再びベッドに戻り、あぐらをかいてじっとしていました。

「チーン、チリンチリン」また風鈴が鳴りました。
 「でも、私はこの音好きだ」
 座イスにゆったりと腰かけていた義母はそう言いながら、「ヘッヘッへ」と笑いました。何かを思い出したのでしょう、笑う顔はじつにうれしそうです。

「この前さ、小学校の時のK先生、Y子んとこへ来たと。苗字が変わっていたので自分の教え子だということがわからんかったようだ」

 K先生は、妻のキョウダイ全員が小学校時代にお世話になった人だということです。義母と妻の話の様子から言って、おそらく90代の方だと思います。その先生が義姉の勤める老人福祉施設に入った時、義姉が自分の教え子だということを知らずに、妻のキョウダイ、一人ひとりについてほめてくださったらしいのです。これなら、義母が喜ぶわけです。

 二人の会話ははずみ、妻の小学校時代のころまでさかのぼりました。まさかと私が耳を疑ったのは、絵日記の話でした。妻の書いた絵日記がその時代の教科書に載り、妻の従妹のクミちゃんがその教科書を使っていたというのです。絵日記には、近所の友達とケンケン飛びをしているところが描かれていて、「こういうふうにして絵日記を書きましょう」と書いてあったとか。いったいどんな絵だったのでしょうか。

 夕方、薄暗くなっても風鈴は鳴り続けていました。帰り際に、義母がぽつりと言った言葉が心に残りました。「来年は畑、やめようと思って……」。
 (2012年9月30日)


 
第219回 あなたへ

 映画「あなたへ」を観終わったとき、観客はみんな心が優しくなったのではないでしょうか。私の場合、妻が定年を迎えたら、早いうちに一緒に旅に行きたいと思いました。悲しい思いを背負っての旅ではなく、生きているうちに楽しい思い出をつくる旅に。

 先日、一日中いろいろな会議が続いて最後の会議が終わった後、どうしてもこの映画を観ておきたいと思い、映画館に駆けつけました。高倉健主演のこの映画は夜九時からが最終上映でした。途中で眠くならなければいいがと心配したのですが、眠たくなるどころか、はじめから終わりまでずっと惹きつけられた映画でした。

 季節外れの風鈴の音が悲しく響いている部屋。その一角にキク科の赤紫の花、たぶんアスターかノコンギクでしょう、これが小さな花瓶に入れられ、とてもいい感じで飾ってあります。そこには、亡き妻から送られた手紙を読む夫がいました。手紙には、「あなたへ。私の遺骨は故郷の海へ撒いてください」と書かれています。

 友人らの心配をよそに妻からの短い手紙に従って妻が生まれた故郷、平戸市への旅に出る主人公……。ワゴン車での旅でした。本来なら、妻と一緒に出かける旅だったはずなのに、ひとり旅となります。でも、旅のいろんな場面で生前の妻とかわした言葉や思い出がスクリーンに出てきて、二人が一緒の旅のようにも見えました。小さな花瓶に入れられた赤紫の花も、主人公とずっと一緒でした。

 人は愛しい人を亡くした後、思い出の場所に立ったり、思い出の品と出合ったりすると、一気に過去にタイムスリップすることがあります。主人公が天空の城、兵庫県朝来市の竹田城に立ち寄る場面もそうでした。童謡歌手だった妻が「星めぐりの歌」(作詞は宮澤賢治)をさみしく歌う姿を思い浮かべ、歌い終わった後で「私、これで歌をやめようと思うの」と言った言葉も思い出す。こうしたことは大切な家族の一員や友人などを亡くした人なら一度や二度は体験しているのではないでしょうか。この場面では、雲の中に浮かぶ美しい山城の風景がじつに見事でした。

 映画を見て「短い言葉」の魅力をあらためて感じました。主人公の妻がNPO法人に託した遺書は2通。そのひとつは、「あなたへ。私の遺骨は…」で、妻の故郷の郵便局で受け取ったもう1通は、「さようなら」としか書いてない極めて短い手紙でした。でも短いがゆえに心に余韻が残ります。想いが広がっていきます。そして山頭火の句も良かった。「分け入っても分け入っても青い山」「ひとり山越えてまた山」、旅の中で作った句なのでしょうが、人の生き方、生き様を短く表現しているように思えました。

  「旅」と「放浪」の違いは「目的があるかないか」、そして「帰るところがあるかないか」だと、映画の中で車上荒らしの旅人役を演じたビートたけしが言っていました。私は一度でいいからゆっくりと「放浪の旅」をしてみたい。「放浪」と「旅」の良さをどちらも味わってみたいのです。主人公が妻の故郷、平戸の街中をぶらぶら歩いているとき、閉館した写真館の出窓に飾られっぱなしとなっている何枚かの写真の中に妻の少女時代の写真を発見する。ああいう感動を味わってみたいのです。もちろん、旅の中には天空の城、竹田城址に登ってみるとか、舟に乗ってばかでかい夕陽を見るといったことも入れて。

 私の妻は来春、定年退職を迎えます。
                            (2012年9月16日)


 
第218回 うちわ

 ムッとする暑さには参ります。先日執り行われたKさんの葬儀の日もそうでした。外を歩くと、すぐに汗が吹き出します。この日、式場へは礼服の上着を持って行ったものの、ワイシャツにネクタイ姿で通させてもらいました。

 焼香が終わって外に出たとき、すぐに日陰を探しました。アスファルト舗装の照り返しが強く、陽が直接あたる場所にはとてもいられなかったからです。目に入ったのは葬儀参加者を受付、案内するテントです。ここは直射日光があたっている場所とは明らかに違った空間になっていて、いかにも涼しげでした。

 テント周辺には最後のお別れをしようと足を運んでいた人たちが何人もいました。ほとんどの人が半そでシャツ姿で、タオルを持った人もいました。みんな、葬儀が終わり、出棺の時が来るのを静かに待っていました。

 私はテントの裏側の方で休ませてもらっていたのですが、テント脇にある作業所入り口のところに若いお母さんと小さな子どもがいることに気づきました。子どもは3歳くらいの男の子と赤ちゃんです。この親子3人がいたこの場所も日陰となっていました。言うまでもなく、親子は涼を求めてこの場所にいたのです。

 親子はおそらく亡くなったKさんの親戚の人でしょう、若いお母さんは礼服姿でしたから。日陰のところでは、生後2、3カ月くらいの赤ちゃんが足を広げて寝ていました。日陰といっても、コンクリートの上です。かたいし、太陽熱で暖まっています。若いお母さんはコンクリートの上に段ボールを敷き、ハンカチを枕にして赤ちゃんを寝かせていました。

 赤ちゃんは目を閉じ、すやすやと眠っています。ただ、そのままにしておくと、赤ちゃんの髪の毛が汗でべったりとくっつきそうでしたし、ふっくらとした足も汗がにじみ出てきそうでした。そこはお母さんも承知していて、赤ちゃんのそばで「うちわ」を使って風を送っていました。

 いいなあぁと思いながら、私はしばらく親子の様子をじっと見ていました。どれくらい経った頃だったでしょうか、お母さんに代わって3歳くらいの男の子が「うちわ」を使って赤ちゃんに風を送りはじめました。この子にとって、赤ちゃんは弟になるのか妹になるのかわかりませんでしたが、とても素敵な光景でした。

  「うちわ」はいつ頃から使われ始めたものなのでしょうか。私の記憶では、扇風機が流行る前、「うちわ」は夏の生活必需品でした。夏の暑い盛り、大人も子どもも商店などからもらった「うちわ」を使い、涼んでいましたね。

 さて、日陰で涼んで耳を澄ましている時、ふと気付いたことがあります。セミの鳴き声がほとんど聞こえなかったのです。私だけだろうかと心配になり、Kさんの近所に住むY雄さんに訊くと、セミの鳴き声が聞こえなかったのは私だけではありませんでした。みんな聞こえなかったのです。Y雄さんによると、「普段はセミ時雨がすごい」とのことでした。たまたまセミたちが鳴くのを一斉にやめただけなのでしょうが、それにしても不思議さを感じた時間帯でした。

 目を再び親子の所に向けると、お母さんが再び「うちわ」で赤ちゃんをあおいでいました。ゆっくりゆっくりと……。まーるく、やさしい風を送っています。亡くなった人を送る場所で、小さな子どもの命が守られ、育っていく。私は何となくうれしくなりました。
 (2012年9月9日)



第217回 みんな一つになって

 第一回黒川・黒岩ふれあい祭りが18日から2日間行われ、初日の夜の部だけ参加させてもらいました。この祭りは、先日行われた、市議会中山間地対策特別委員会と集落づくり推進員さんなどとの意見交換会で話題になったイベントです。

 訪れた時はちょうど夕飯時でした。会場となった黒川小学校グランドでは「ピース16」や柿崎商工会など地元の団体が屋台を出し、飲食物を販売していました。屋台はどこも行列ができ、私が並んだ焼きそばのところでは美味しい焼きそばを手にするまで20分もかかりました。

 午後7時からのキャンプファイヤーは黒川小学校児童の司会で進められました。グランドの真ん中で点火が行われ、その火を子どもたちが囲みました。私がカメラを向けた時、炎が大きく上がって、その形はアメリカの「自由の女神」そっくりになりました。火の周りでフォークダンス、「マイムマイム」が踊られましたが、キャンプファイヤーを囲んだ踊りはフォークダンスが似合います。

 続いて行われたのは樽太鼓の演奏です。これもまた、祭りを大きく盛り上げました。まずは黒川小学校児童による演奏です。同校は来春、閉校しますので、ふれあい祭りでは最初で最後の演奏です。繰り返し練習してきたのでしょう、最初から調和のとれたいい音を出していました。

 児童に続いて樽太鼓の演奏をしたのは、黒川小学校を卒業した若者たち。中学生、それに少しは高校生も入っていたのでしょうか。♪ドンドコドンドコドンドコドン、ドンドコドンドコドンドコドン、ドンドンドン、ドンドンドン。最初はぎこちなさがあったものの、後半になると、力強く、見事に統一したリズムで聴衆を魅了しました。私のそばにいた人は、「まったく練習をやらなかったのに、これだけの音が出せるなんて……」と言って拍手を送っていました。

 この夜、キャンプファイヤーを囲んで最後に行われたのは十三夜の踊りです。近くの米山寺という集落では、いまも踊られていると聞いていましたので、どんな歌詞で、どんな踊りなのか私も楽しみにしていました。

 赤い法被を着て、鉢巻きを締めた音頭とりの人たちが燃え続ける火の周りで唐傘をかざして十三夜を歌います。♪霊峰米山さんから秋風下りりゃ、ハーヨイヤサーノヤッサ、黄金色した稲穂が招く、ヨイヤナーヨイヤナー……。太鼓もこれに合わせて、バチッ、バチッ、ドン、ドン、音がよく響きます。

 驚いたのは、踊りを知っている人が大勢いて、踊りの輪がどんどん大きくなっていったことでした。小さな輪は次第に大きく広がり、一重から二重となりました。踊り手はおそらく150人くらいにはなったのではないでしょうか。

 私がこれまで、十三夜の踊りで一番印象に残っているのは吉川区尾神の盆踊りの時のものでした。お宮さんの広場でみんなが楽しみ、踊りの輪が広がっていく姿は子ども時代の忘れられない思い出となっています。今回の踊りはその規模といい、力強さといい、尾神での踊りに勝るとも劣らないものでした。

 最後の花火、全部で百発を超えたのではないでしょうか。静かになって、もう終わりかなと夜空を見上げていると、シュルシュル、ドン。私の近くにいた人たちの中から声が聞こえてきました。次の花火はヒザが治った○○さんの祝いの花火ですとやったらいいね……。みんなが一つになって盛り上げる、その工夫はまだまだ続きます。
  (2012年8月26日)


第216回 納涼盆踊り

 ひと山越えると盆踊りも違うものだ─大島区田麦の盆踊り大会をみて、そう思いました。私がこれまでみてきた盆踊りでは、「十三夜」を中心に、「平成音頭」とか「佐渡おけさ」などいくつも踊りますが、ここでの踊りは「ションガイ節」ただ一つ、これを約一時間、延々と踊り続けるのです。

 お盆の15日、田麦観音堂前広場で行われた盆踊り大会は午後8時頃から始まりました。心配された雨も上がり、広場の中央にある櫓(やぐら)の上に太鼓があげられると、久雄さんと信子さんが向かい合って太鼓をたたき続けます。たたく二人の息はぴったりです。広場には最初、町内会の役員さんなど数人しかいなかったのに、太鼓の音で吸い寄せられるようにして家々から一人、二人と出てきます。寄せ太鼓の音が聞こえてくるとそわそわしてくるんですね。

 太鼓の櫓は木造で四角いものとなっています。これを捲くようにして留められた白い布には、「ションガイ節」の文句が毛筆できれいに書かれていました。「ションガイ、ションガイヤー」で始まる唄は農村の暮らしのなかで歌い続けられてきたものです。とはいえ、私にとっては初めてお目にかかる唄、「十三夜」のような雰囲気の踊りだろうと想像していたものの、どんな唄と踊りなのか興味津津でした。

 鉢巻き姿の音頭とりのひとり、七郎さんがマイクを持つと、すぐに踊りが始まりました。音頭とりはこの日は勝義さんと二人。二人の頭の中には歌う文句が刷り込まれているのでしょう、合の手を入れる人と一緒にゆっくりと、櫓の周りを歩きながら独特の節回しで歌い続けます。
 「山には木の数 草の数」
 「ヨイヤナー、ヨイコラセー」
 「里では田の数 畔の数」
 「ハー、アリャサ、ヨイヤサト」
 「鯖石川には石の数」
 「ヨイヤナー、ヨイトサ」
 唄は一節ごとに「ヨイヤナー、ヨイコラセー」などの合いの手が入るので、ずいぶん長く感じました。でも一節ごとに、歌われている情景が目に浮かびます。

 踊りを楽しむ人たちの数は時間の経過とともに徐々に増え、踊りが終わりを迎える頃には100人以上に膨れ上がりました。団扇を腰の帯にさして踊る人、子どもの手をとって教えながら踊る人がいます。小さな子どものなかには踊りの輪の周りを駆け巡る子もいました。踊りの輪の中には地元に住む人はもちろんのこと、旅から戻ってきている人、よそから来ている親戚の人も入っています。どこに住んでいようが、大人も子どももみんなが一緒になって踊る、いいもんですね。

 盆踊り大会の最後はお楽しみ抽選会です。景品にはバーベキューコンロや高級座椅子などが用意されていました。ここで、思わぬ出来事が起きました。一等賞を当てた人が「景品は地元の人へあげて」と辞退されたのです。この人は東京在住で、「こしみず」(屋号)の親戚の人でした。やさしい気配りにみんなは拍手を送りました。

 盆踊りは故郷に暮らすもの、暮らしていた者などが一緒に過ぎゆく夏を楽しみ、英気を養う場です。広場に人のやさしさが余韻となって残っているなか、宮本屋の近くの草むらから秋の虫たちの鳴き声が聞こえてきました。夏はもうすぐ終わりです。
 (2012年8月19日)


 
第215回 盆支度

 ひぐらしとミンミンゼミが朝早くから鳴いています。しばらくして、今度はニイニイゼミとアブラゼミの混声大合唱が始まります。8月に入って、わが家の近くの森はセミたちの鳴き声でいっぱいになりました。

 この時期になると気になるのは盆支度です。支度の中身としては、家や牛舎周りの草刈り、墓の掃除などのように比較的時間のかかる作業もあれば、お盆用品の買い出しなど、その気になればすぐ終わるものもあります。いずれもお盆が始まる13日までにやっておかなければなりません。

 わが家では、盆支度は草刈りから始めます。わが家が尾神岳のふもとにあったころ、先祖が入った墓は家から200メートル足らずの釜平(がまびろ)というところにありました。家の周りの草刈り、前庭の草取りをした後、墓場に至る道の草刈りや掃除をしました。もちろん、墓場の掃除もあります。私もいつからだったかはわかりませんが、カマやビビラを持って手伝いをしました。

 家から墓場に至る道については、祖父・音治郎から、御先祖様が通る道だと教えてもらっていました。いまでも記憶しているのは、この墓場への道の掃除をした時に、土手に遅咲きのホタルブクロがいくつか咲いていたことです。小さくてきれいな白い花でした。その印象がよほど強かったのでしょう、10年ほど前まで、ホタルブクロはお盆のころに咲くものだと思っていたくらいです。

 家の中の盆支度も大変でした。お盆には御先祖様だけでなく、親戚の人たちもまたわが家にやってくるということで、畳を起こして外に干す、すす払いをするなど大忙しでした。お盆用の酒、ビール、サイダーなどの用意もしました。これは、地元の尾神にあった杉田商店が注文取りに来ていました。私や弟たちは、お盆の支度が進むのを見ながら、従兄弟たちとの楽しい時間がやってくるのを待ったものです。

 さて、もう一度、お盆前の草刈り仕事に話を戻しましょう。この仕事は祖父から父へ、父から私へと引き継がれています。今年は猛暑でしたので、なるべく朝晩にやるようにしました。7月下旬から始めて8月の8日までには終わりました。

 今年の草刈りでは思いがけない出来事がありました。先日の夕方、牛舎の近くにある榛(はん)の木の周りの草を刈っていたとき、木から細長い薄緑色のロープが垂れ下がっているのを見つけたのです。

 わが家でまだ牛を飼っていたころ、夏になれば、牛舎の中に強い日が当たらないようにと、黒くて四角形の寒冷紗(かんれいしゃ)を張りました。寒冷紗の一辺を屋根の軒先の何カ所かにしばりつけ、向かい合う辺については細いロープを使って牛舎の西側にあるキハダや榛の木の枝にしばりつけていました。垂れ下がっていたロープは、そのときに使っていたものです。

 ロープは榛の木の根元から4メートルほどの高さのところにある直径20センチほどの枝に結ばれ、二本に分かれて下がっていました。結び目を見つめながら、ロープの一方を引いたとき、ハッとしました。木の枝のところまで登らなくても、ロープを引けば結びがすっと解けるようになっていたからです。

 これは間違いなく父が結んだものです。となると、父がまだ牛の世話をしていたころですから6、7年は経っています。父が永眠してから迎えるお盆は今年で4回目、父がすぐそばにいるような気がして胸が熱くなりました。
 (2012年8月12日)



第214回 餅まき

 ジージーというセミたちの鳴き声が一瞬やんだように思えました。パンパン。町内会長さんや棟梁さんの動きに合わせて手のひらを打つ音が新しい集会所の建築現場に響きます。

 7月下旬、30度を超える猛暑となった日の夕方、吉川区大乗寺でコミュニティセンター(集会所)の上棟式が行われました。集まったのは、町内会役員、工事関係者、地元の人たちなど約80人です。そのなかには保育園に通っている子どもたちやステッキカーを頼りに歩いている人もいました。

 祈願の儀式が終わって、足場の一番高いところに立った一人の大工さんが棟札を柱に打ち付けます。トントン、トントン。この音がまた式場に響きました。いいもんですねぇ、金鎚の音は。

 進行役のYさんが「これより餅まきの準備をさせてもらいます」と言うと、集まった人たちの餅まきへの期待が一気にふくらみました。餅まきを経験したことのある人もない人も餅まきを待ちます。私の近くにいた誰かが、「いよいよ餅まきか」と言うと、うちわを持ったSさんも、「いまどき、こいがやるとこないろ」とつぶやきました。餅まきの情報を聴き、地元紙の記者も駆けつけています。

 若い大工さんたちが屋根に上がったところで、Yさんが、「町内会長さんが大きな餅を作ってくださいました。あんまり大きいので怪我をしないように、あせらないで気をつけて拾ってください」と告げました。

 用意された餅は直径30センチ弱の大きなもので、建物の隅から落とす餅です。「いいかな」「はい、いきますよ」屋根の上の大工さんの掛け声がした後、ドスンという音がして、落とされた大きな餅が土ぼこりをたててバウンドしました。これにはみんなびっくりしました。

 続いて、紅白の四角い餅、お菓子などがまかれました。「危ない危ない、怪我しんな」という誰かの声が気になったのでしょうか、大工さんたちは最初、遠慮がちに、そっと餅を落としました。すると、棟梁さんの声が飛びました。「上にごっと上げるもんだ。ごーっと。怪我するもんなんかいないわ」。それからは元気な餅まきに変わりました。餅を拾う大人も子どもも大はしゃぎです。

 屋根から曲線を描いて落ちてくる餅を手で直接捕ろうという人はほとんどなく、土の上に落ちるのを待って、餅をほしい人たちが一斉に動きます。子どもさんたちの中から、「流星群みたいだ」という声が上がりました。大人たちの中からは、「野球みたいにグローブでとりゃいいがだ」という声も出ました。いくつも拾ったのでしょう、「おっ、ほほほ」という喜びの声も聞こえてきました。

 大人の中で一番張り切っていたのはスーツ姿の町内会長さんです。マイクを使ったときと同じくらいの大きな声で、「ヨイショ!」「ほらほら、とれ」「ほら、第三弾!」「よーし、最後の一発。とれとれ」「ヨハン(夕飯)いらんど、これ食べれば」などと言っては盛り上げておられました。

 餅まきは始めてから終わりまで約15分。「もう、ないのかね。早いもんだね」という声がありました。短いと言われれば短いかも知れません。でも、大人も子どもも貴重な体験をし、大いに楽しみました。この日の楽しい餅まきの様子はいつまでも語り伝えられることでしょう。
 (2012年8月5日)


 
第213回 一気読み

 浜松市で開催された自治体学校へ行った時のことです。開校式の前に受付周辺で行われていた書籍市をのぞいてみました。そこで手にした一冊の本は、『お父さん、牛になる』というタイトルの児童文学でした。

 私の場合、あらかじめ新聞などで本の情報を得ている場合は別として、目にとまった本は、手に取り、目次、あとがき、解説などを読み、買うかどうかを判断します。この本については、まずタイトルと表紙に描かれた牛の絵が気に入りました。

 子どもの頃、「ほら、まんま食ったばっかにすぐ横になると牛になるど」と祖父によく叱られたものです。だから、食後、すぐ寝ることが続いて太ってしまった話だと思ったら、この本では、サラリーマンのお父さんが本当に牛になってしまい、都会の家の中で牛を飼う物語になっていたのです。30年牛飼いをしてきた私としては無関心ではいられません。すぐに買い求めました。

 この日は外で夕食をとり、夜遅くにビジネスホテルに戻ってから、本を読み始めました。夕食では瓶ビールを一本ほど飲んでいたのですが、めずらしく睡魔は襲って来ませんでした。本を読みたい気持ちが勝っていて、眠くならなかったのです。

 物語は、ある月曜日の朝から始まっていました。前の晩、自分の家の和室ですき焼きを食べ、ビールを飲んで、寝てしまったお父さんが牛になっていたというところからです。もちろん、家族はびっくり仰天です。

 それから、お母さんとお姉ちゃん、そして「ぼく」を巻き込んで大騒ぎとなります。大量のフンと尿の後始末だけでもたいへんです。フンを人間のトイレに流しこむ、新聞紙にしみ込ませた尿はゴミとして出す。これが重労働でした。しかもこうした作業は近所の人たちに気付かれないようにしなければなりません。悪臭が出ないように、大きな鳴き声が聞こえないようにと……。

 お父さんが勤めていた会社へは休みの届け出をしなければなりませんでした。急に牛になったとも言えず、ウソの理由で休みの届けを出し続けます。でも、会社の方も疑いの目で見るようになり、家にやってこようとします。

 読み始めて1時間もすれば、たいがいの本は、本からちょっと離れたくなります。しかし、この本は違いました。牛になったことで、お父さんが会社では宴会の時と野球をやる時以外ではあてにされていないことが次第に分かる。家族のなかでもそう。なんだか、牛になったお父さんがかわいそうになってきました。それに、まだ20代の著者が牛について実に詳しいのです。牛の胃に針金とかクギなどが刺さらないようにと磁石の棒を飲ませておくとか、鼻かんのない牛をロープで引いて移動させるために、ロープの片側にふたつの輪を8の字につくって牛の鼻先と顔にはめ込むことなどは、いったいどこで知ったのでしょうか。どんどん惹き込まれて行きました。

 この本の構成がまた見事でした。最後はまた人間に戻るのかと思ったら、そうはならず、牛のまま、おばあちゃんに連れられてお父さんの生まれた故郷に帰るのです。

 いよいよ故郷へ帰ることとなった時、お父さん牛との別れが切ない。お父さんが大嫌いだったはずのお姉ちゃんが突然泣き出して、どんな世話でもするからこのまま家においてと訴えます。「あなた……」と声をかけたお母さんに牛は、長い顔をお母さんにこすりつけ、小さく「モウ……」と鳴く。  読み終えて、時計を見たら、深夜の1時近くになっていました。
 (2012年7月29日)


 
第212回 昆虫の世界

 雨上がりの夕方、昆虫の世界をのぞいてみたくなりました。カメラを片手に持って近くの畑や道端をゆっくり歩きました。小さな動きでもとらえようと、時どき立ち止まり、目をゆっくり動かすと、いました、いました、小さな昆虫たちが……。

 畑の端っこにはススキが生い茂っています。その草むらで、一瞬、緑色の何かが動いたように見えました。よぉーく探してみると、カマキリが葉の上にじっとしていました。細い体と葉の色にたいした差はありません。これじゃ、大きく動かない限り誰かに見つかることはないでしょう。カメラをぐっと近づけたら、私に怖さを感じたのでしょうか、カマキリは葉の裏側にまわりました。その動きはけっこう速く、脚で葉をつかむと、動きが止まりました。

 牛舎脇のハンノキ(榛の木)の周辺はミゾソバが群生しています。ミゾソバの葉は形が牛の顔にそっくりなので、いつのまにか好きになりました。その「牛の顔」の上に小さなコガネムシが2匹いました。マメコガネです。体長は1センチ前後、体の表面が金属のように光っています。1匹のマメコガネの背後から、もう1匹のマメコガネがおおいかぶさって、押さえつけていました。2匹のマメコガネはまったく動こうとしなかったので、もっと近づいて写真をと思って動いたところ、「あっちに行け」と言わんばかりに後脚を斜めに挙げました。いや、失礼、失礼。2匹は合体中だったのです。

 笹の葉がたくさんある道路脇では、シオカラトンボが5、6匹いました。いずれも黄色に小さな黒い斑紋が散在する模様がついています。おそらく雌(メス)でしょう。最初はみんな飛んでいたのですが、そのうちにすべてのトンボが笹の茎の一番高いところに止まりました。成熟した雄(オス)が縄張りを占有し、草上などに静止して警戒するということは聞いていました。でも、高いところに静止していたのは雌です。いったい何をしていたのでしょうか。止まっているトンボたちはいずれも6つの脚でしっかりと笹の茎につかまり、二対の翅(はね)を動かしてバランスをとっています。シオカラトンボの絶妙なバランス感覚と静止の姿勢からは体操選手が「つり輪」でバランスをとっている姿を連想します。トンボがオリンピックのこの種目に参加すれば間違いなく金メダルです。

 トンボたちの写真を撮っている間に、舗装された道路の上に1匹の緑色のお客さんがやってきました。バッタです。近づいたら、ピョーン、ピョーンと3、4回、大きくジャンプして笹竹の近くまで逃げ、急に姿が見えなくなりました。さすがに逃げ足が速い。バッタは後脚が発達していますが、これは敵から逃げるためだといいます。私も敵とみなされたのでしょう。探してみると、バッタは枯れた草の中に潜んでいました。体を委縮させているのがよくわかります。「心配しないでいいよ。おじさんは決していじめたりはしないから…」そんな声をかけてやりたいくらいでした。

 わずか30分ほどの間に見つけた昆虫は、このほか、てんとう虫、アリ、それと名前のわからないものがふたつほどいました。これらの昆虫たちのそばまで接近して写真を撮りながら思ったのは、どの昆虫も自分たちの暮らしを守るために必死に生きているということです。体の色で背景と見分けがつかないようにしているものもあれば、素早く逃げる能力を身につけているものもある。となると、昆虫たちにとって、突然現れた私は……。そう、巨大な怪物に見えたに違いありません。
  (2012年7月22日)


 
第211回 一日花

 咲く時期が一緒なので当たり前と言えば当たり前なのですが、どこへ行っても同じ花と出合い、その花のことが話題になることがあります。6月の最後の土曜日に行われた叔母の49日法要の時がそうでした。

 埼玉県は所沢市の願誓寺というお寺で法要が行われました。お御堂は新築されて間もないのでしょう、丸い大きな柱や壁には汚れが一つもなく、触るのが怖いくらいでした。ここで約40分間、お経をあげていただき、親類・親族が焼香しました。

 この日は納骨も行われることになっていました。叔母の入るお墓は、この寺のすぐ脇の墓地にあります。墓には十数年前に亡くなった叔父がすでに入っています。

 墓前でお経をあげてもらう前に、何人かで墓地内をぐるりとまわってみました。ここでは、お墓の脇に墓碑を建ててあるものがたくさんありました。墓碑には亡くなった人の戒名、俗名、没年月日などが刻まれています。どうしても見てしまうのは年齢です。40代や50代で亡くなる人がけっこうおられるのには驚きでした。

 墓地内には何本かの木が植えられていました。墓地そのものが新しく、植えられている木々もまだ若いものばかりです。そのなかで1本だけ、白い花を咲かせているものがありました。


 強い日差しの中できらりと輝く美しさを持っていて、誰もが注目しました。大島区から一緒に行った従兄の一人が、「おい、この花、何だい」と私に訊いてきました。「たぶん、ナツツバキだと思うよ」木の肌がつるつるしていることや花が雪椿と同じ形をしていることから、そう言ったのですが、自信はありませんでした。

 お寺から「梅の花」という名前の料理屋さんに移動してお斎を御馳走になりました。ここは豆腐料理が得意なお店で、煮物、天ぷらなど次々と美味しいものが出されてきます。珍しい食べ物ばかりだったので、「これはなんだろう」などと言いながら、一つひとつ、味を確かめていただきました。 「叔母さんが新潟に来たのは足谷のばちゃの葬儀の時が最後だったんじゃないか。庄屋の家で撮った写真があるよ」「千葉の叔父さんが労災病院へ来たとき、直江津駅前の多七で一緒にご飯を食べたんだよ。そのとき、『今度はおれだよ』と言っていてさ……」お酒もいただいて、お斎の席での話は亡くなった叔母や叔父のこと、さらには「のうの」の伯父さんのことまで広がりました。

 どれくらい時間が経った時だったでしょうか。私の近くにいた従兄が部屋から見える庭の中に白い花を咲かせている木があることを発見しました。間違いなく、墓地で咲いていたものと同じです。花そのものはいくつもついていませんでしたが、その美しさがやはり気になりました。

 従兄がお店の従業員さんを呼び、木の名前を教えてほしいと言いました。着物姿の若い従業員さんが、「少々お待ちください」と言って、持ってきたのは、私たちの部屋から見える庭の木々について説明が書かれた紙でした。「これはすごい」と感心したのですが、そこには「シャラの木」とありました。

 家に戻って調べると、「シャラの木」というのは何とナツツバキの別名でした。そしてこの花は、朝に開花し、夕方には落花する一日花だったのです。この花と私が初めて出合ったのは吉川区内にある戦国時代の山城、町田城の本丸跡に登った時でした。どうしても、いのちの一瞬の輝き、人生のはかなさを意識してしまいます。
 (2012年7月15日)


 
第210回 しわ伸ばし

 まいったというよりは驚きました。こう言えば叱られるかも知れませんが、歌舞伎役者が玄関の上がり口にどかっと座っているように見えたのです。私の顔を見ている義母の顔がいつもとまったく違って見えました。

 八十八の祝いをやってからひと月ほど経ったある日の夕方のこと、妻と一緒に柏崎の母を訪ねてきました。道路沿いにある真紅のつるバラがあまりにもきれいだったので、この花を写真におさめてから玄関の戸を開けると、そこに義母がいました。

 この日は青空が広がり、さわやかな一日でした。義母は家のそばの畑に出て草取りなどの仕事を何と4時間近くもしたといいます。「家の中は寒いけど、外に出て、日にあたるとちょうどいかったから」と言っていましたが、外仕事で頑張れたのは体調が良かったからに違いありません。

 でも、さすがに疲れたのでしょう。玄関で座っている義母の姿からは、動くエネルギーがまったく失せているように見えました。

 約1カ月ぶりの再会。茶の間に入ってからは、義母と妻の会話が弾みました。1か月も離れていれば、話のネタは山ほどあります。私はそばで二人の会話をじっと聞いていました。まあ、私がしゃべっても、せいぜい妻の10分の1くらいなもんです。二人の会話は八十八の祝いの翌日のことから始まりました。

「ばあちゃんはちょっとでも具合が良くなれば、山へ行ったり、畑に行ったりするからね。子どもが休みとって、ばあちゃんが山へ行かないように監視しているの」
「そっか、そっか、そんでも、出ようとする気があるだけいいんだわね。私なんか出られない。よっぽど仕事師なんだね」
「40度からの熱が出たらさ、命にかかわることもあるよ。気をつけてね」

 じつは、母は祝いをした翌日から3日ほど寝込みました。地元の吉川診療所で診てもらったところ、39度も熱があったのです。

 義母の方はこの1ヶ月間、母のように寝込むことはなかったようです。ただ、足腰の調子が良くないこともあって、義父がいなくなった頃から、台所に立つことがずいぶん減りました。先だっては、数キロメートル離れたところにある食堂から出前をしてもらったようです。

「まさか、ひとつだけ持ってきてもらうわけにはいかんからさ」
「ふたつ頼んだの?」
「ふたつ頼んだの。それをずっと食べている」
「なに、カツ丼かなんか……」
「カツ丼一つと、それから鍋焼きうどん」
「ふーん。まず鍋焼きうどん食べて?」
 「それを温めちゃ食べ、温めちゃ食べしてる。あれが一番いいわ」

 さて、義母の顔のことです。もちろん、これも話題になりました。義母の目の下には膏薬(こうやく)が貼ってあったのです。それも縦横それぞれ五センチくらいの大きなものでした。なぜ貼ったのか、その理由を聞いて大笑いしました。膝に貼っていたら、そこのしわが伸びて、つるつるになったから、今度は目じりに貼って、そこのしわ伸ばしをやろうというのです。

 美顔をめざす八十八歳の新たな挑戦、うまくいけばいいのですが……。 
  (2012年7月8日)


 
第209回 おなりごと

 大島区板山に住む伯母が退院してから1カ月が経ちました。退院した数日後に訪ねた時は、率直に言って、「この先、どうなることか」と心配していたのですが、思っていた以上に順調な回復ぶりです。

 先週の後半、伯母の家を訪ね、「ごめんくださーい」と声をかけると、家の中からはっきりとした声で「はい」という返事が聞こえてきました。聞きなれた伯母の声です。声は聞こえましたが、たぶん、伯母は玄関まで出て来られないと思い、上げさせてもらいました。

 玄関で靴を脱ぎ、伯母のいる部屋に入ろうとしたら、びっくりしましたね、伯母がベッドから離れて、私のところに向かって歩き始めていたのです。「おっ、ばちゃ、歩けるようになったね。大したもんだ」と声をかけると、腰を曲げ、左右の膝を両手で押さえながら立っていた伯母は、ニコニコして私の顔を見上げていました。

 伯母はこのとき、デイサービスから戻ってきたばかりでした。もう一度、「よく歩けるようになったね」と私が言うと、伯母は、「だすけさ、やっとこさとそね、おなりごとしてるがだ。よわったもんだ」と言います。伯母によれば、「おなりごと」というのは、自分で元気を出すよう励まして歩くことをいうようです。この言葉は初めて聞きました。

 退院後に訪ねたとき、伯母の足腰はすっかり弱っていました。正直言って、私は完全にベッド生活になってしまうと予想していました。良くなっても、車イスを使って移動できればいい方だと思っていました。それがどうでしょう、歩くようになったのです。いま、振り返ってみると、退院直後から、トイレには這って行っていたそうですから、その後、伯母はヨイショ、ヨイショと足を動かす練習をしてきたに違いありません。

 この日、伯母の家には大工さんが入っていました。伯母が松代病院に入院していた頃から従弟が計画していた住宅改造が始まっていたのです。伯母のベッドがある部屋からは外がよく見えます。大工さんたちのカナヅチの音も聞こえてきました。トントン、トントン、トトト。大工さんの仕事の音はいいもんですね。伯母に、「こんだ、おまんの部屋もできるがろね」と聞くと、「泊まるところがねえてがで、こんがなことしてくんたがだ。おれは下だろでも」と教えてくれました。

 大工さんたちの仕事のことが気がかりなのか、伯母は「こんげんとこでおれが死んだなんていえや大ごとだ」と言います。「まだ、死んでなんかいらんねことね」とすぐに言い返したら、「みんなの世話になっていてばっかいて、わりいじゃね」と言って笑いました。

 伯母は話好きです。おそらく、この日もデイサービスで一緒になった人たちとたっぷり話をしてきたのでしょう。お年寄りがいっぱい増えたもんだとか、浦川原区の顕聖寺にある老人保健施設に田麦のどこどこのばちゃが入ったらしいなど、見聞きしてきたことをいくつも語ってくれました。

 外ではウグイスが鳴いていました。私は半そでシャツを着ていたのですが、伯母はまだ冬物を着ていました。コタツがほしいくらいだとも言っていましたので、まだ、体は本調子ではないのかも知れません。でも伯母は頑張り屋です。家のそばの畑でヨイショ、ヨイショと歩く姿を見せてくれる日も近いと確信しています。
  (2012年7月1日)


 
第208回 ハトぽっぽ

 還暦を迎えてから、あっという間に2年が過ぎてしまいました。60歳を過ぎて何か変わったことがありますかと訊かれ、答える言葉は「忘れっぽくなった」です。極端な話、5分前に話したことを忘れることも。それだけに、記録は大切です。

 先日、こんなことがありました。4年前の議会のことを調べようとして、当時の日記を読み直しました。調べたかったのは、選挙後の初の定例議会のことです。同僚議員の初質問にたいする感想など、いまではすっかり忘れていたことがちゃんと書かれていました。「おお、あった、あった」と喜んだ次第です。知りたかったことは議事録などでは記録に残らないことでしたので、「どんな文章でもいいから、残しておくものだ」と思いました。

 ところが、調べようと思った情報が入手できたにもかかわらず、そこから脇道に入ってしまいました。緊急入院してから半年後の父の様子やわが家の庭木のことなどを書いた記事へと目が移ってしまったのです。言うまでもなく、脇道からなかなか抜け出すことができなくなりました。

 6月23日の日記。「議会後、妻と一緒に病院へ。昨日は母と長女が見舞い、『ハトぽっぽ』を歌っていたと聞いていたので元気だと思っていたら、げんなりしていてまったく元気がありません。顔に赤いぶつぶつも出来ていたので、熱を測ったら36度ちょっとです。でも、目はうっすらとしか開けず、声をかけてもすぐ寝てしまうといった状態です。いつもは10分程度の面会で帰ってくるのですが、心配になり30分ほどいました。明日は家を早く出て、まず病院へ行こうと思います」。

 ここに書いてある『ハトぽっぽ』は滝廉太郎作曲の『鳩ぽっぽ』ではなく、文部省唱歌の『鳩』です。「ぽっぽっぽ、鳩ポッぽ、豆がほしいか、そらやるぞ」たぶん父が歌ったのはこれくらいでしょう。それにしても、歌謡曲や民謡、酒造り唄を歌う父の姿はよく知っていましたが、童謡を歌っていたとはびっくりでした。

 翌日、24日の日記。「父が入院している病院へは朝と議会終了後行きました。昨日よりも少し元気が出てきたようです。夕方から2時間ほど父のそばにいてくれた妻の話によると、しゃっくりが止まらなかったものの、『さざんかの宿』『炭坑節』のさわりを歌ったとか。帰りに『おれたち、これから家に帰るけど、がまんできるかね』ときくと、いつもなら首を縦に振るか、『うん』とか言うのですが、今晩は黙っていました。『さみしい?』と言うと、こっくりしていました。ちょっとかわいそうでした」

 さらに読み進んで25日の日記。ここには議会の出来事とともにスモモのことが記録してありました。「わが家の庭にあるスモモが実りました。妻の職場で友人の奥さんと会った際、スモモの話をしたところ、『すっぱいスモモが好き。ぜひ分けてほしい』と頼まれました。日が沈むちょっと前の時間、150個くらいもぎました。朝、食べたときには、『もう1日くらい待った方がいいかな』と思ったのですが、夕方、もいで食べると、朝よりも酸っぱさが薄くなって甘味が少しついています。とても美味しくなりました」とありました。今年はいくつもなっていませんが、この年はスモモが豊作でした。

 日記から離れて、議員の仕事に戻るまで30分はかかったと思います。でも、気分転換ができました。60歳を過ぎ、「忘れっぽくなった」けれども、ちょっとした記録、きっかけさえあれば、思い出にひたり、くつろぐことが多くなってきました。
 (2012年6月24日)


 
第207回 散歩

 先日、近くの池まで行ってきました。初夏になり、周りの山はすっかり緑に覆われています。訪れた時間帯が夕方だったこともあったのでしょうか、池をはさんだ反対側の山で鳴く小鳥たちの声が澄んで聞こえてきました。

 晴れの天気が続いていたので、池の周りの道はよく乾いています。山裾の土砂が風化して崩れ落ちた「しもくずれ」の上を歩くと、もくもくした感じが靴の下から伝わってきます。

 山裾の雑木林の中では、レンゲツツジがオレンジ色の花をそっと咲かせていました。池の側の土手にはハルジオンも咲いています。花はしぼみがかっていましたが、夕日に照らされて、ピンク色が鮮やかです。あっ、白い花も見えました。あれはガマズミでしょう。

 道を横断する細い溝に目を向けると、2センチほどの黒い虫が出てきました。たぶん、私の足音でびっくりして溝の外に出て様子を見ようとしたに違いありません。出てきて、私の大きな体を見て、さらに驚いたようです。大急ぎで溝の中に引っ込んでしまいました。

 散歩をしていると、同じ道を歩いていても必ず新しい発見があります。この日は、池の一番奥まったところまで歩いて行って、一瞬、動けなくなりました。私の目の前で、薄いピンク色の花のつぼみが大きくふくらんでいたのです。まさか、こんなところにもササユリがあるとは……。

 ササユリは吉川区が生育の北限と聞いています。私がこれまで見かけた場所は同じ吉川区でもかなり南に位置する里山でした。6月に咲く野の花のなかでは一番大きい花を咲かせますが、ヤマユリよりはひと回り小さく、何とも言えない美しさをそなえています。私にとっては、一度出合ったら、毎年見てみたくなる野の花の一つです。

 いまの時期、ヤマボウシが独特の形をした白い花をたくさん咲かせます。ササユリがあった場所から百メートルほど歩くと、何本かのヤマボウシの木があります。ところが今年はどういうわけか、いくつも咲いていませんでした。花を見つけるにも大変なくらいです。一本の木にわずか一個しか咲いていないものもありました。これだと、今年の秋は赤いヤマボウシの実を食べることができないかも知れません。

 この日は風がまったく吹いていませんでした。元の場所まで戻った時、池の中を見ると、水面は完ぺきなほど平らで、池を囲む林の姿を映し出していました。杉林は濃い緑、カエデやナラなどの雑木林はそれよりも明るい緑色です。しばらく池の中を見ていて、またもや、「おやっ」と思うことがありました。池の端っこに杉の枝が浮かんでいて、そこには白っぽいものが付着していたのです。

 杉の枝についた白いものを見た瞬間、私は「鯉の卵」だと思いました。50年ほど前、わが家の「たね」(小さな池)の中には杉の枝が浮かばせてありました。浮かばせたのは、おそらく祖父、音治郎です。飼っていた鯉の産卵場所をつくってやったのです。卵が付着したものを見つけてからは、私は毎日のように、「たね」のなかの杉の枝を見に行きました。卵がかえったのを見つけたときはうれしかったですね。

 約1時間の散歩を終えて家に戻ったとき、気分は爽快でした。体を動かし、心を動かすものと出合った、そのことによって頭の中にさわやかなものが送り込まれたのでしょう、再び机に向かった私は一気に仕事を終わらせることができました。
  (2012年6月17日)


 
第206回 八十八の祝い

 2年前の5月、柏崎の父の米寿の祝いをした時、「来年は山へ行って、今度は二人の祝いをしようね」という約束をしていました。二人というのは私の母と、柏崎の母のことですが、先月、ようやくその約束を果たすことができました。

 約束が1年延びたのは、柏崎の父が急逝したからです。先延ばしによって、母は満88歳になりました。柏崎の母は7月生まれですので、数えで88歳です。

 祝いの場所は柏崎の父の時は海が見えるホテルでした。今回は山のホテルです。新緑と山菜料理を楽しむことができるところを選びました。ホテルで用意してくださった部屋には、紫の藤、オレンジ色のツツジなど季節の花が飾られていました。

 開会に当たり、二人の母に花をプレゼントしました。これは妻がホテルの女将さんに頼んでおいたものです。カーネーションやカスミソウなどがたっぷり入った素敵な花束でした。花束を手にした二人を中心にして記念写真を撮りましたが、少し緊張気味でしたね、二人とも。

 柏崎の兄が挨拶した後、私の出番がやってきました。スライド上映です。二人の母の歩みを50枚のスライドにまとめて上映して、みんなで見ました。

 当初、柏崎の母の写真に関しては柏崎の兄が、母の写真は私が説明することにしていました。ところが映し始めたら、スライド写真に登場している本人たちが次々と語りだし、周りの人もしゃべって、とても賑やかになりました。

 婦人会時代の写真を数枚使って数十年前の柏崎の母を映し出した時には、「お母さん、いい顔しているわ。銀歯流行っていたんだね、当時は」「若い、若い。森光子みたいだね。若い時、きれいだったね」「じゃ、いま、きれいでないということか」などといった声が飛び交いました。母が写った大島村での写真を上映する時も、「この人は死んじゃったけど、千葉の国鉄マン、叔父さんだ」「誰が撮ったの」「誰だろう」「これは足谷のばあちゃんだ。この人はこの間、亡くなった狭山の叔母さん」といった調子です。説明が終わらないうちに質問の出るケースも何回かありました。

 言うまでもなく、スライドで使った写真にはいろいろなエピソードがあります。

 私たちの結婚式当日の写真には、ウエディングドレスを着た妻を真ん中に柏崎の両親が写っていました。「あの恰好して車を運転して結婚式場に行ったんだもん、対向車の運転手もびっくりしたろい、花嫁が逃げたと思って……」「私、誰とも相談せずにパッパッと結婚してしまった」私も聴いたことがない話が出てびっくりしました。

 母が入った集合写真。4、50人の人が写っています。「これ、集団で旅行に行ったところだ」と説明し、画像を拡大すると、「1967年」「長浜」という字が見えます。「55年前か。ああ、長浜か」「ヤンマーディーゼルの耕運機を買った時に、招待受けたんだろ」山間部にも耕運機が入り、農業の機械化が本格的に始まろうとしていた時代の写真です。「ハンドルを回してエンジンをかけると、タンタンタン、タタタタ─という音が出てさ……」懐かしい話でいっぱいになりました。

 最後のスライドは撮ったばかりの花束贈呈の写真を使いました。これには二人の母が驚いていました。

 二人の母が主役の八十八の祝い。スライドに何回も登場したこともあって、二人の連れ合いが一緒に山菜料理や鯉の甘露煮等を食べ、スライドを見ているような雰囲気がありました。たぶん、柏崎の父も私の父も喜んでくれたと思います。
 (2012年6月10日)


 
第205回 シャワー

 気持ちいいだろうなぁ──シャワーで頭を洗ってもらっている叔母の様子を5メートルほど離れたところから眺めながらそう思いました。5月も半ばを迎えたある日の午後のことです。

 80歳を超えたとはいえ、叔母の髪は豊かでした。たっぷりとシャワーを浴び、シャンプーもリンスもしてもらいました。タオルで髪を拭いたあとは乾燥です。ドライヤーで乾かす「ガー、ガー」という音を聞いたときに、一瞬、「叔母は生きている」と錯覚しました。それほど音に現実感があって、亡くなった人の髪を乾かしているとはとても思えなかったからです。

 櫛を入れてもらっているときも叔母は気持ちよさそうです。髪はきれいに整い、頬はふくよかで生き生きとしていました。

 体を洗い、髪を整えてもらった叔母にたいする次のサービスは化粧です。これがまた見事なものでした。顔をマッサージした後、脱脂綿で丁寧にバッティングする。ジュラルミンケースから化粧品を取り出す。化粧水を塗る。まだ30代といった感じの女性納棺師のあまりにも美しい手の動きに目を奪われました。

 場所は埼玉県入間市にあるシティホール。私は一緒に出かけた大島区の従兄弟たちとともに叔母の湯潅(ゆかん)の様子を初めから終わりまで見せてもらいました。湯潅に立ち会った回数はすでに10回を超えていますが、儀式の場に湯舟を持ち込み、実際に湯を使って身体を洗う場面を見たのはこの日が初めてでした。

 湯潅の儀式が終わったあとの納棺の儀式でも、「いいなぁ」と思った場面がありました。棺に納めてから遺族・親戚など納棺に立ち会った者が一人ひとり、叔母の額や髪などに手を触れて合掌する機会が設けられていたのです。

 化粧してもらった叔母はとてもいい顔になっていました。叔母の髪を何度もなでる人がいました。頬にそっと手を当てる人もいました。やり方は様々でしたが、叔母に触れた一人ひとりの想いが叔母に伝わっていくように思えました。隣の席の人が叔母に触れるやり方にならって、私も叔母の額にさわらせてもらいました。この、ちょっとのスキンシップによって叔母がぐんと身近に感じられました。

 叔母は母の弟の連れ合いです。長年、夫婦で力を合わせて牛乳配達の仕事をしていました。母とは気持ちの通じるところがあったのでしょう、叔父が交通事故で亡くなってからも、1年に何度かは電話で話をしていたようです。母が餅などを送ると、叔母はお返しに狭山茶を送ってくれたものです。

 叔母は長年、糖尿病を患っていました。糖尿病を原因とした腎不全などの合併症を引き起こしてからは危ない場面も何度かあったようです。もちろん、大好きな温泉にも思うようにいけなくなりました。

 叔母は自分がどんなに大変な状況におかれていても、自分のことよりも家族や他人のことを気遣う人でした。告別式の挨拶のなかで従妹が教えてくれました。病気が悪化して親子の最後の会話となった時も、叔母は、「食べたか」「寝たか」と従妹たちに声をかけ、心配していたというのです。それだけに、最後の最後の場面で、大好きな風呂の気分を叔母に味わってもらうことができて本当に良かったと思います。

 埼玉の叔母が亡くなったことにより、母の姉妹とその連れ合いのなかで生きているのは母と大島区板山の伯母だけです。さみしくなりました。
 (2012年6月3日)


 
第204回 入場行進

 まさに体育祭日和でした。若葉がとても美しく、空は青空。暑くもなく、寒くもない。前日降った雨のためグランドが乾ききっていないということはありましたが、生徒たちは全く気にしないで動き回りました。

 入場行進。スピーカーの音が校舎の壁にぶつかってはねかえってきます。いいもんですね、体育祭のアナウンスの声って……。アナウンサー担当の女性の声が本当によくグランドに響きます。

 ──県立吉川高等特別支援学校は今年度、生徒数は30名となりました。本日、さわやかな青空のもと、記念すべき第1回体育祭が行われることとなりました。白組と紅組の二組に分かれ、競技や応援などを繰り広げていきます。皆様、最後まで温かいご声援をお願いします──

 グランドの東側からスタートした行進は、プラカードを持った生徒が先頭を行き、その後ろに紅組、白組と続きます。紅組、白組の先頭はいずれも旗です。旗手が斜め前に突き出した旗は風にはためき、力強く感じられます。生徒たちは全員鉢巻き姿でした。気合を入れたのでしょう。

 行進の際に流れた音楽、聴いたことのある曲だと思ったら、岡村孝子の「夢をあきらめないで」でした。この曲は吉川高等特別支援学校の応援歌的な存在です。

 ♪苦しいことに つまずく時も きっと 上手に 越えて行ける 心配なんて ずっと しないで 似てる誰かを愛せるから……

 曲に合わせて大きく手を振って歩く生徒もいれば、前を歩く人の足の動きを見ているのでしょうか、ちょっぴり下を向いて歩いている生徒もいます。紅組の生徒も白組の生徒も少し緊張気味です。でも、行進は列を崩すこともなく、みんな、しっかりと大地を踏みしめています。一生懸命さが伝わってくる行進です。

 グランドの南側にあるテント周辺では、ステージ上の校長先生をはじめ教職員、保護者、来賓、地域の人たちが手拍子で応援です。行進する生徒たちがテント前に来たとき、応援する人たちの手拍子の音が一段と大きくなりました。このとき、ちらっと横を向いて行進する生徒もいました。応援に来た家族の様子が気になったのかも知れません。

 思いがけないことが起きたのはそれから間もなくです。生徒たちがグランドのトラックを一周し、さらに進んで本部テントの反対側のトラックまで来たときでした。90度曲がってグランド中央へと進まなければならないのに、生徒たちはそのままトラックを進み続けたのです。

 「あれっ」と思ったのはほんの一瞬でした。アナウンサー担当の方が間髪をいれず「前に進んでください。もう一周します」と生徒たちに呼びかけたのです。見事な判断でした。続いて、別の先生が、「リクエストにお応えしてもう一周まわります。みなさん、大きな拍手をお願いします」とテント周辺の人たちに肉声で呼びかけました。これまた素敵な呼びかけでした。

 行進の2周目、先頭の生徒がグランド中央へと曲がったとき、職員や保護者、地域の人たちからは大きな拍手が送られました。グランドを2周したことで、生徒たちは入場行進の感動を二回分も味わうことができました。体育祭は今回が第一回目。グランドではこれからも感動のドラマがいくつもつくられるにちがいありません。
 (2012年5月27日)


 
第203回 雪椿(2)

 雪が解けたらぜひ訪ねてみたいと思っていたところがあります。牧区今清水です。そこにある大きな雪椿の木が花を咲かせる姿を見てみたかったのです。5月10日、ようやくこの願いが実現しました。

 雪椿の話を今清水のNさんから聴いたのは冬のことでした。話を聞いてから、まだ見ぬ雪椿のイメージはどんどん膨らんでいきました。雪椿の木は薄暗い杉林の中にあって、大きく広がっている。そして春には、雪をはねのけて、真っ赤な花を一面に咲かせる。そんな感じで受けとめていました。

 初めて訪ねた大きな雪椿は杉林の中ではなく、杉林のとなりにありました。思っていたよりも明るい場所にあり、降雪期には、雪がどんどん降り積もるところです。そこに雪椿の大木が一本あって、根元のところから百数十本の枝がうまく重なり合って横に広がっていました。見た目では、枝というよりも畳二枚分くらいの広さの場所に百数十本の椿の木が生え、それぞれが競い合って横に伸びているといった感じです。

 雪椿があるところは集落の中心部から泉集落へとつながる道のそばです。道の下の方から冷たい風が時どき吹き上げてきます。道端にはスミレやユリ科のエンレイソウが花を咲かせていました。道を挟んで反対側の林の中にはウワミズザクラの木が一本あり、ブラシのような形のたくさんの白い花が目に映ります。

 5月の連休が終わったというのに、雪椿の周りにはまだ雪が残っていました。そのおかげで、「冬、雪で押さえつけられていた椿の木がびんと起きる」までの過程を見ることができました。雪椿の半分くらいは雪解けに伴い、立ち上がりつつあります。そのうち、道端に近いものはすでに真っ赤な八重の花を咲かせていました。残りの半分くらいの枝は、まだ固い雪の下にすっぽりとおおわれているもの、雪解けに伴い半分くらい姿を現したものなど立ち上がりを見せる前の段階にありました。言うまでもなく花を咲かせるのはまだまだ先といった状態でした。

 木のまわりをゆっくり歩いて全体を見た時、「すごい」と思ったのは雪に負けた枝が一本もなかったことです。4メートルを超える雪に押されても折れたり、傷ついたりしたものはありませんでした。雪が解けたところは、一本残らず立ち上がっています。やはり、Nさんの言われた通りでした。どんなに重い雪に押さえつけられていても、しなやかで折れなかったのです。

 私が雪椿の大木を観察しているとき、鷲尾集落のKさんが軽トラに乗ってやって来て、まだ雪の下になっている雪椿がこれからどんなふうにして立ち上がっていくかを教えてくださいました。電柱のそばの雪椿は、電柱を這い上がるようにして起きていくといいます。その説明はうれしさと誇りに満ちていて、印象的した。

 残念ながらこの日、満開の雪椿を見ることはできませんでした。でも、押しつぶされようになっても重い雪に耐え、がんばっている雪椿の姿を見てとてもうれしくなりました。今清水の雪椿は私たちに生きる勇気と元気を与えてくれます。

 今清水には雪椿だけでなく、縄文時代の遺跡もあります。NさんやKさんたちは今月の12日、昨年の「雪椿まつり」を継続、発展させて「縄文まつり」を開催しました。まつりでは地域の歴史に詳しい人から来ていただいて、講演を聴き、イノシシ汁を食べ、青竹で作ったコップで酒を酌み交わしたと言います。地域の宝をより深く知り、大いに楽しむ。素晴らしい取り組みです。また、今清水に行きたくなりました。
  (2012年5月20日)


 
第202回 愛情込めて…

 5月になって間もないころの朝のことです。早朝の田園風景を撮りたいと思い、県道柿崎牧線を車で走っていたら、右前方にチューリップ畑が見えます。「うん、これはいい写真になるかも……」そう思い、車を止めて畑へ行きました。

 畑の近くまで行ってみて、びっくりしました。赤、白、黄色のチューリップが3畝ほどの畑一面に広がっていて、とてもきれいだったからです。市議選に集中していたせいでしょうか、何度も近くを通っていたにもかかわらず、こんなにもたくさんのチューリップが咲いているのに気づきませんでした。

 チューリップ畑の近くではMさんが耕運機を使って作業をしていました。私の姿に気づいたMさんは、機械を止めて、チューリップのところまでやって来てくださいました。

 造成して間もなかった頃、この畑の土は固くしまっていてゴロゴロしていました。畑として使えるようにするには堆肥などを繰り返し入れて、土づくりをしなければなりませんでした。私も牛を飼っていた頃、堆肥を運んだ記憶があります。それが今は、細かく、黒々とした良い土になっていました。「いいベトになったね」そう言うと、Mさんは「まあ」と遠慮がちに答えていました。

 Mさんがこの畑でチューリップを栽培し始めたのは3年前から。チューリップは、うまくすると球根が2つ、あるいは3つつくことがあります。球根は腐りやすいので消毒しているそうですが、うっかりすると違う色のチューリップを混ぜてしまうことがあるとか。たしかに畑の一部に混じったものがありました。でも、どの花もまっすぐ上を向き、太陽の光をしっかり受け入れようと大きく開いていて、とても美しく咲いていました。

 Mさんの花にかける情熱のすごさは数年前、丹精込めて育ててこられたサツキの盆栽展を見て、初めて知りました。会場となったMさんの車庫はサツキを展示するためにもぴったりで、飾られた盆栽の一つひとつがそれぞれ独自の美しさを持っていました。なかでも、一つの鉢全体がピンクと白の花でおおわれていた盆栽はあまりにも美しく、静御前が舞を舞っているのではないかと思うくらいでした。

 チューリップ畑を見て、Mさんの花への思いはサツキだけではないことを知りました。おそらく、チューリップだけでなく、他の花にたいしても同じように、手間暇かけて世話をする人なのだと思います。

 話の途中、Mさんは話題を変え、お孫さんのことについてニコニコしながら語りました。お孫さんは吉川小学校2年生です。先日、学校で担任の先生が子どもたちにたずねました。みなさんのお家(うち)で「野菜教室の先生」をやってくれる人はいませんかと。その時、お孫さんはさっと手を上げたというのです。

 その時の様子を語るMさんはほんとうにうれしそうでした。お孫さんの学校での積極的な態度もさることながら、一生懸命野菜作りをしている自分の姿を見ていてくれたことが何よりもうれしかったのです。

 チューリップを見に行った時、Mさんが耕運機で耕していた畑は、子どもたちの「野菜教室」の場所のひとつになるかも知れません。Mさんの頭のなかでは、すでにどんな授業をするのかのイメージがふくらみ、「子どもたちには、愛情込めて育てればいいものに育つことを教えたい」と言います。きっと楽しい授業になるでしょう。
 (2012年5月13日)


 
第201回 桜散る日に


 人の心というのは突然揺さぶられたときほど大きく振れるのでしょうか。先日執り行われた、同級生のお母さん、ユキコさんの葬儀の時がそうでした。川崎市在住のレイコさんの思いがけない「お別れの言葉」に何人もの参列者が涙を流したのです。

 葬儀は午前10時に始まりました。参列者はユキコさんの親族、近所の人たちなど約30人。居間と座敷を区切る戸を外してつくられた細長い空間でお経が読まれ、焼香などが終わって、あとは喪主の挨拶と思っていた時でした。司会者から、レイコさんが「お別れの言葉」を読まれるという案内があって、「えっ、どんなことを話されるのだろう」みんながそう思い、注目しました。

 棺の前に立ったレイコさんは静かに読み始めました。「お帰りなさい。帰って来てホッとされたことでしょう。今年の冬の厳しい中、よく頑張りましたね」やっと聞こえるほどの小さな、やさしい声でした。そして、次の言葉からです、亡くなったユキコさんの心の中にまっすぐに入り込んでいったのは……。

「柿崎病院のベッドの中でかちゃは何を思い、何を考えていらしたの? きっと雪のことを心配していらしたのでしょう。息子がひとりで心細くはないだろうか。毎日、雪掘りで大変だろうな。ちゃんと食事をしているだろうか」。ユキコさんが入院されてからの6カ月というものは、ほとんどが冬、しかも豪雪でした。その中で、家にひとり残された息子さんのことをずーっと考えていた。これは誰もがそう思っていたことではありました。でも、みんなの前で改めて示されたことでユキコさんの想いを強く感じることができました。

「お別れの言葉」は続きます。「私は、かちゃが何を考えていらしたか、わかる気がするんです。いろんな方たちに心配してもらい、支えてもらっていることもよーくわかっていらっしゃいました。そして、そのことをありがたいことだと感謝していらっしゃいました。そのなかで一番(感謝されていたの)は地元集落のみなさんのことでした」「入院される前、だんだん体が思うようにならなくなってきた頃、私が訪ねるとポツポツと話してくださっていました。山も畑も集落のみなさんも、みんなどこよりも好きだと話していらっしゃいました」

 わずか8軒の集落に住む人たちへの感謝の言葉は、ユキコさんからだけではなく、「お別れの言葉」を読んでいるレイコさん自身の言葉でもあると思いました。レイコさんの実家はユキコさんの家のすぐそばにあります。実家でひとり暮らしている弟さんのことが心配で月に一回は訪ねています。年に数回私のところに配達されてくるレイコさんからの葉書には、いつもふるさとを訪ねた時のことがつづられ、自分で撮影した風景や野の花の写真が貼られていて、故郷への感謝の想いがあふれていました。

 レイコさんは「お別れの言葉」の最後の部分で再びユキコさんの息子さんのことについてふれました。「心配しないでください。この冬、息子さんはいろんな方々に支えてもらい、かちゃのことを毎日まいにち思い、がんばり抜きました。これからひとりになっても生きることから逃げずに、あきらめずに生きていけると思います」と。

 直後の喪主の挨拶。ユキコさんの息子さんは、目に涙をいっぱい溜めて精いっぱいの挨拶をしました。「みなさん、お忙しいなか、ありがとうございました。六ヶ月……かいなく……、帰りました。ありがとうございました」。胸が熱くなって窓の外に目を向けると、桜の花ががひらひらと舞い降りていました。   (2012年5月5日)


 
第200回 背中かき

 大島区板山の伯母が入院している県立松代病院へ行ったのは市議選告示のちょっと前でした。正直言って、見舞いというよりも伯母に会っておかないと何となく落ち着かなかったのです。

 伯母に関しては、入院したという記憶はありませんので、おそらく今回が初めての入院でしょう。看護師さんから病室番号を教えていただいて病室に入ったとき、伯母は目を閉じていました。「ばちゃ、来たよ。なじょだね」静かに声をかけると、伯母はゆっくりと目を開き、「まあ、忙しいのに……」と言って喜んでくれました。

 どうやら伯母は軽く眠っていたようです。眠っていた時間はかなり長かったのかも知れません。私に「お昼を食べたか」と訊いたくらいですから……。びっくりした私は、「もう夕方の5時15分前だよ」と伯母に教えました。

 入院前に板山で会ったとき、伯母の顔はかなりむくんでいました。そのむくみはとれ、ほぼ元の顔に戻っていました。「顔、いくなったねかね」と言ったら、伯母もその点は自覚しているようで、「もう少しだ。がんばれ、がんばれと先生に言われている」とうれしそうに言いました。ただ、手がやせ細っているのが気になりました。

 伯母のベッド脇にある棚には額入りの一枚の写真がありました。埼玉県は川口市に住む孫夫婦とその子どもの写真です。写真の日付は4月7日。入園式の際に撮った記念写真でした。「いい写真だねかね」と伯母に言うと、伯母は、「はい、そういんです。昨日、来て行ったがです」と急に他人行儀な言い方をしました。でも、うれしかったからこそ、そういう言い方になったのかも知れません。

 この日、私は伯母に会ったら、やってやりたいと思うことが一つありました。背中かきです。伯母が入院して間もなくの頃、母が従姉たちと一緒に見舞ったとき、「一番喜んでくれたのは背中をかいてやった時だった」そう母が言っていたからです。

 私は伯母と話をしながら、「背中かき」のタイミングをずっと考えていました。そして、体をゆするようにした時です、すかさず訊きました、「ばちゃ、かゆいがか。背中かいてやろかね」。伯母は遠慮がちに体を横にしました。「どら、どら、かいてやるよ」そう言いながら、伯母の背中に手を入れました。

 伯母の背中は思いのほか、やわらかく、あたたかでした。右手の五本の指の、先端部分でゆっくりと、やさしくかきました。「まあ、気持ちいい。やっぱし手だね」伯母は何度もこの言葉を繰り返しました。顔の表情もほんとうにうれしそうです。その様子を見て、今度は体を反対向きにしてもらい、再び背中かきをしました。伯母は「思いつけもね、ありがとうございました」と言いました。

 伯母に会ったとき、いつも感心するのは、妹である母のことを気にかけていてくれることです。この日も、母のことを心配していました。季節はもう春です。「ばちゃ、ふきん採りして川の中に落ちなきゃいいが。その連絡もしねうちにこっちに来ちゃった……」母がすでにフキノトウやコゴミを採るために近くの川のそばに出かけていることをよく知っているのです。これには驚きました。

 今冬は大雪でした。山間部はまだかなり雪が残っています。15分くらい経った頃、伯母が突然、私に訊きました。「おまさんの方は雪、消えたかえ?」伯母は頭の中で自分でやりたい春仕事のことを考えていたのです。これならもう大丈夫です。私は帰る時、伯母に言いました。「雪が消えたら、やわやわと畑仕事でもしんがさ」
  (2012年4月29日)


 
第199回 再会(2)

 4月上旬のある日のこと、ある女性から直江津の事務所に一本の電話が入りました。「今朝、チラシが入っていたけど、橋爪さんの声を聞きたいので、電話をもらえないか」というものでした。名前はTさん、浦川原区に住む人でした。

 名前を聞いたとき、私はすぐにひとりの女性のことを思い出していました。いまから30数年前、山本ブドウ園の奥にあった三和牧場で一緒に仕事をした人です。ただ、一緒だったのはわずか3ヶ月間でしたので、ひょっとすれば違う人かもという思いもありました。

 事務所から連絡を受けて電話をかけるとすぐに、「おれ、わかんなるかね」と訊かれました。声の調子からいって、私の予想した人に間違いありませんでした。「わかりますよ、山本のHさんと一緒に仕事させてもらったねかね」そう答えたら、喜んでいてくださることが話の雰囲気で伝わってきました。電話での二人の会話は懐かしさでいっぱい。だから、「こっちに来なったら寄ってくんない。会いたいし……」と言われたときは、すぐに駆けつける気持ちになっていました。

 その日の午後、私はTさんの家を訪ねました。外で待っていてくださったTさんは、髪の毛こそ真白になっていましたが、四角い顔、大きな目は昔のまんまでした。30数年ぶりに再会を果たした私たちは、手を握って喜びあいました。

 座敷に入れてもらい、お茶を御馳走になりました。「あんた、かっぷくいくなったけど顔は変わらんね。チラシを見て思い出したんだ。がんばっていなんなと思って電話したんだわね」Tさんはそう言って笑いました。人間の記憶というのは面白いもので、再会して、話をしているうちに昔のことを徐々に思い出します。牧場で一緒に仕事をしていた当時のことが次々とよみがえってきました。

 Tさんは自分の生い立ちからお連れ合いのことまで話をしてくださいました。「私んちはね、旧小黒村の専敬寺の前からずーっと行った切越の一番上の方にあってね、『上屋敷』という屋号だったの。たまたま東京から帰っていたときに、うちの人が田んぼの調査で来たんだわね。当時、T開発の人たちに飯場に貸していてね。その親方が、『あのあばちゃ、もらわんか』と声をかけたんだわね。それが縁で、見合い結婚したの。私、おしゃべりだすけね、フフフ。高田へ行って、映画を観たんだけど、おまん知っているかね、『君の名は』という映画……」じつにうれしそうでした。一緒に仕事をしていたときはこういう話を一度もしたことがなかったので、興味深く聞かせてもらいました。

 お連れ合いが亡くなった時にはたいへんびっくりされたようです。その日のことも聞きました。「うちのじいちゃん、頑張り屋でね、いっぺ仕事してさ、そして、昔の人の歴史を自分で書いて法事してさ、25日に法事して、7月の9日に逝っちゃうんだねかね、たまげたね。ほんの、朝茶一杯飲んで、二杯目のお茶飲まんで逝ってしまった」心臓が止まってから救急車で病院へ行くところまで、一気に語りました。

 Tさんは現在82歳。とても元気でした。これまでの人生をいろいろと語り合ったせいでしょうか、30数年ぶりに再会したというのに、なぜか、前に会ってからあまり時間がたっていないような気がしました。仏壇で手を合わせていたとき、背中の方から、「ああ、いかった、いかった。じいちゃん、橋爪さん、来てくんなったよ」というTさんの弾む声が聞こえてきました。すぐに駆けつけてよかった。
 (2012年4月14日)


 
第198回 母の誕生日

 3月の天気は変わりやすい。暖かくなったかと思って喜んだ翌日に雪が降ることもありますし、その逆もあります。今年の3月27日は、雪が降った前日とは打って変わって青空の広がる素晴らしい天気になりました。

 この日は母の満88歳の誕生日でした。朝起きて居間に入ると、母はすでにコタツに入って仕事をしていました。といっても、イモの皮むきです。コタツの脇で新聞紙を広げ、包丁を動かせていたのです。

 作業をするときに手ぬぐいを使って「ほっかむり」する、これは母の習慣です。普段からの恰好をした母を撮らなければと、カメラを向けたところ、「ほっかむりしているがなんか撮るなや」と言います。でも、まあ、しょうがないかという気持ちがどこかにあったのでしょう、母は手を休めて顔を向けてくれました。

 私はこの日、母の故郷である大島区でビラ配布をすることになっていました。出かける時、母は、コタツの上にあった、ゆでたアピオス(北アメリカ原産のイモ)を小さなビニール袋に入れて渡してくれました。イモのなかでもアピオスは栗と間違えそうになるほどほくほく感があって、美味しい。本当は従兄たちへの土産にと思っていたのですが、車の中でほとんど食べてしまいました。

 大島区の大島へ入った時、楽しみにしていたことのひとつは、母の同級生である留一さんと会うことでした。まだ一度も会ったことのない人ですが、同級会の連絡や母への手紙を読ませてもらっていました。幹事役として同級生にたいする親しみを込めた文章を書く。同級会参加者へは様々な情報提供もする。やることなすこと、すべて気配りが行き届いていて、この人は一体どんな人なのか、機会があれば一度会って話をしてみたいと思っていたのです。

 留一さんはこの日、大島に来ておられました。留一さんと同じ旭地区出身のMさん宅へビラを持っていた時、「さっきまで一緒にお茶のみしていたんだよ」と言われたときはうれしかったですね。ワクワクして自宅へ足を運びました。ところが、わずかの時間差ですれ違いとなってしまったようです。玄関には「留守にしているので、用がある人は○○さん宅へ連絡してください」と張り紙がしてあり、会うことができませんでした。もし会うことができていれば、母にいい土産話ができたのに、とても残念でした。

 この日、大島区でのビラ配布を終えたのは午後7時近くになっていました。朝の段階では、母に何かプレゼントをしようと思っていたのですが、途中ですっかり忘れてしまっていました。再び思い出したのは、浦川原区の中猪子田あたりです。

 もう、じっくりと考えている余裕はありません。ショッピングセンターに立ち寄り、紫色の小さな花がいっぱい咲いている鉢を買い求めました。価格は三百数十円。プレゼントにするにはあまりにも安すぎるような気もしましたが、他に母が喜びそうなものは見当たりませんでした。

 家に着いてから、コタツの上にこの花の鉢を置き、「はい、これ、おまんの誕生日の祝いだよ」そう言うと、母は細い眼をさらに細くして「ありがとう」と言ってくれました。続いて、「これ、高かったんだろう」と心配して訊くので、「なして、なして、たいした値段じゃないよ」と言いましたが、鉢の脇を見たら、値札が貼ってあるじゃありませんか。あわてて、ビリっとはぎ取りました。いやー、あぶなかった。
 (2012年4月8日)



 
第197回 戻り雪

 玄関前まで行った時、何となく懐かしさを覚えたくらいですから、前回の訪問からもう3か月くらいは経っていたんだと思います。3月下旬の雪が降った日、久しぶりに柏崎の母を訪ねてきました。

 義父が天国に旅立ってから1年数カ月になりますが、独りになってさみしいだろうと、ひと月に一度や二度は義母のところへ行くようにしてきました。ところが、今冬は豪雪で雪と格闘する日が続き、柏崎まで行く余裕がありませんでした。それに、春には市議の改選を迎えるということもありました。

 居間に入ると、義母は私の顔を見るなり、「久しぶりだねぇ、どうしたかと思ってた」と言いました。そして、「3月20日には来ると思って、あんちゃん、いっぱい用意していたんだよ」とも。義兄もまた、「彼岸の中日でしょ、休みだし、来る確率高い、そんなん考えてたらさ、なんかやらんばならんと考えてた。とりあえず用意だけしといたこて。飲み会になってしもうたけど」と笑って言いました。

 20日は義父の命日でした。昨年はこの日に法要を行い、納骨をしていたのです。そんなこともあって、特別の思いがあったのでしょう。私は、「うちんのは来るつもりではいたんだけどね、具合が悪くなっちゃって……」と言ったものの、申し訳なく思いました。

 コタツのそばの座イスに座っていた義母は、「おめさんちのお母さんは体調いいんだのう、細々(こまごま)と動いてるから」などと言いながらコーヒーを用意してくれました。「ギュギュギュギュ……、ブブブブブ……」ポットのような形をした器具(コーヒーメーカー)からコーヒーが出てきて、カップに注ぎこまれます。うーん、やわらかい感じがして、いい香りがする。私は、テーブルの上にあった沢庵(たくわん)をいただきながらゆっくりと飲みました。

 私がコーヒーを飲む様子を見ていた義母が「おここ、美味しいでしょ」と尋ねてきましたので、「これ、コーヒーに合うね」と答えました。すると、義兄が「あんまり聞いたことないな、沢庵がコーヒーに合うなんて」と言って笑いました。

 居間にいた3人のおしゃべりは、サッカー、相撲と次々と変わり、住宅改造の話になりました。

 正月前の話では台所と居間をかまうという話でした。それがまったく進んでいません。どうしたのかと思い、「ねぇ、そことここの部屋かまうなんて言わなかった?」と訊くと、当初の計画は変更することになって、その中身がまだ詰まっていませんでした。「トイレの隣を居間にしようと思ったけどさ、段があるでしょ。それで玄関脇の方がいいかと思ってさ」。義母の話では、玄関脇の物置スペースを改造して自分の部屋をつくるのだとか。ただ、天井が低いから、芝居小屋みたいになるそうです。

 話の途中、外でドドッという音がしました。屋根の雪が落ちたのです。今冬は寒くて、屋根の雪も凍りました。軒(のき)を壊したり、樋(とよ)を一緒くたにして曲げてしまった家もあります。でも、この日の雪はお日様に当たるとすぐにびしゃびしゃになりました。

 今年の雪消えは去年に比べて、1週間から10日遅いといわれています。戻り雪を踏んで外に出た時、玄関先にいた義母の声が聞こえてきました。そんでも、おめさんだけでも顔見せてくれてよかった……。やはり、わが子に会いたかったんですね
 (2012年4月1日)


 
第196回 小さなお客さん

 朝早い時間、机に向かってパソコンで仕事をしていると、窓のところでコンコンという音がします。いったい何だろうと思って、カーテンを開けると、びっくりしました。ヤマガラが窓ガラスを突いていたのです。

 まだ、外は明るくなったばかりでした。ヤマガラは網戸の桟(さん)にとまって、首をくるくる動かし、体を小刻みに回転させています。でも、それはいっときのことでした。忙しそうにして、さっと飛び立っていきました。その直前、ヤマガラは私の顔を見たのかも知れません。

 数分後、ヤマガラは再びやって来て、またコンコンとやりました。この日は原稿書きの締め切りが迫っていたこともあって、ヤマガラの動きの一部始終を見ている余裕はありませんでした。たぶん、原稿を書いている間にも何度もやってきていたのだろうと思います。窓のところのことは気にしないで仕事を続けました。

 それからしばらくたったある日のこと、今度は午前10時過ぎでした。また、窓ガラスをコンコンとやる音がしました。訪問客はまたもやヤマガラです。

 この日、外は晴れていて、残雪を照らす太陽の光がとてもまぶしく感じられました。雪の上には雑木の一本一本が影となって映っています。ヤマガラは気分がよかったのでしょうね、私の仕事部屋の窓と数メートル離れた雑木林の間を何度も往復して飛び回っていました。

 このときは少しばかり余裕があったので、このヤマガラをしばらくの間、観察しました。ヤマガラは一度窓の手すりにとまったのち、ぴょんと網戸の桟に移ります。そして桟から一気に林の中へと飛んで行きました。その様子はまるで空を滑り降りるといった感じで、見事でした。ヤマガラが窓際でとまる位置は毎回ほとんど同じで、飛び去っていく雑木林はいつも同じ方向でした。たぶん、雑木林のなかでとまる木の枝も同じなのだろうと思います。

 ヤマガラが飛んでいく雑木林はナラやモミジなどがある小さな林です。晩秋に葉が落ち、いまはほとんどが裸の木となっています。緑色の葉をつけているのはサカキと笹だけ、どちらも風に揺さぶられ、サラサラという音を出していました。

 ヤマガラが窓と雑木林を往復している様子を観察していたら、数十年前、蛍場に住んでいた頃のことを思い出しました。わが家の近所に小鳥を飼うことが好きな人がいて、そこの家の雁木や庭にはいくつもの鳥かごが下げられていました。

 近所の人が飼っていた小鳥の中にはヤマガラもいました。このヤマガラはとても動きが活発で、鳥かごの中の止まり木とかごの天井を、バック転しながら行き来していました。狭い空間を信じられないくらい早いスピードで移動していたので、鮮明に覚えています。

 考えてみれば、私の仕事部屋の窓と林を行ったり来たりするヤマガラの動きも数十年前に見た鳥かごの中のヤマガラの動きも、移動する空間の広さが違うだけで、ほとんど同じように思えました。

 カサッ、コンコン。この音がしたら、そっとカーテンを開けて外を見る。すると首を振り、盛んに動き回る小鳥の姿がある。すぐに飛び立ち、いなくなることもありますが、「おー、また来たか」と、うれしくなります。ヤマガラがやってきた日から、なぜかこの小さなお客さんを待つようになりました。
 (2012年3月25日)



 
第195回 春の音

 田中輪業さんの近くの三叉路で朝の挨拶を始めてから3カ月目に入りました。同じ場所に立っているのですが、周りの景色、天候、通る車両などは毎日違いがあります。最近、近くの水路を流れる水の音が日増しに大きくなってきました。

 毎日、同じ場所で挨拶していると、決まった時間にやってくる車や人の姿が頭に入り、気になります。例えば、小学校の子どもたち。毎朝、7時半に私の前を3人の子どもたちが歩いて通過します。今冬は風邪が流行しました。風邪で休む子どもがいれば、歩く子どもの数は減ります。だから、歩く子どもの人数が気になるのです。一番流行っていた頃、たった1人ということもありました。

 1回だけですが、子どもたちがいつもの時間よりも10分ほど遅くなったことがあります。このときも、「みんな、風邪にやられたのかな」と心配になりました。毎朝、交通誘導をされているWさんもこの日はあきらめて帰られたので、急きょ、私が交通誘導をしました。

 私のそばを歩いて通学している中学生は2人です。2人とも元気に挨拶をしてくれます。

 このうち、2年生のT君は、区内の各種イベントでいつも一緒になる少年です。素直で、好奇心が強く、誰にでも気軽に声をかけます。最近は、もう一人の中学生がやってくるまで私のそばにいて、雪の山に登ったり、私に声を掛けてきたりと、とても賑やかです。T君は、「はい、橋爪さん、ボディチェック!」と言って体にさわり、携帯電話をさがし、時間を確認しています。私は両手を上にあげてチェックに応じていますが、スキンシップのおかげですっかり仲良しになりました。

 T君のすばらしいところは、何でも楽しく語ること。県立吉川高等特別支援学校の校長さんの車が見えた時には、「ぼくね、あの学校へ行くとしたら、ムービーメーカーを使って作りたいものがあるんだ……」と夢を語ってくれました。彼は13日から京都、奈良方面へ修学旅行へ行きました。旅行の前日、背中のかばんの中から青いファイルを取り出すよう私に求め、それに基づいて、「えーとね、最初はバスに乗ってね、それからサンダーバードに乗るんだ」などと行程を説明してくれました。どんなみやげ話をしてくれるか楽しみです。

 3月に入ってから、通る車にも少し変化が出てきました。JAの職員さんや中学3年生の保護者など何人かの車が見えなくなったのです。人事異動があり、卒業式を迎えた、といえばそれまでですが、挨拶を交わしていた人といつもの時間に会えなくなるというのはさみしいものです。

 季節は春に向かって進んだり戻ったりするようになってきました。1月の上旬、朝日が私が立っているところを照らしだすのは7時50分頃でした。山方の大田さん宅の外壁にまず日が当たり、続いて田中輪業さんの近くの建物も明るくなりました。そして、しばらくすると私の体にも光があたりはじめるのでした。それがもう、6時半頃から日があたりはじめるようになってきたのです。

 近くで聞こえる水音をうれしく受けとめていると、今度は小鳥たちの鳴き声も聞こえてくるようになりました。「ツィッ、ツィッ」という鳴き声がしたので見上げると、テレビのアンテナの一番上でシジュウカラが鳴いているじゃありませんか。小鳥たちも春の訪れを喜んでいるのでしょう。
 (2012年3月18日)


 
第194回 雪ほたる

 うーん、これはいい。青空の下での新雪の感動は何度も体験してきましたが、夜の雪がこんなにもやさしく、美しいものだとは……。数年前の2月、大島区を訪れた時のうれしさはいまでも覚えています。

 吉川区の山間部から山越えをして角間、板山を通り過ぎ、まもなくでした。道路わきの雪の壁のところからポッ、ポッと灯りが見えたのは。灯りの色は何色といったらいいのでしょう、やさしさに満ちたとてもいい色でした。

 地元の人たちは、この灯りを「雪ほたる」としてピーアールしています。遠くからみれば、確かにほたるのように見えます。私は車から降りて、しばらくの間、この灯りをデジタルカメラで撮り続けました。きれいに並んだいくつもの灯りもいいし、ひとつだけの灯りもいい。近づいてみると、小さな家があって、そこの家の中の灯りが障子をとおって外を照らしている、そんな雰囲気もありました。

 この夜、私が向かっていたのは旭地区で取り組んでいるという「雪あそび」の会場でした。吉川区在住のMさんから、「おまん、まだ見たことがないがかね。一度は見てきない。ばかいいすけ」と声をかけられたことが直接のきっかけです。この人は田麦という集落に友達がいて、何回も「雪あそび」に参加していたのです。

 会場である「庄屋の家」脇広場に着いたときはびっくりしました。500人近い人たちがいて、とても活気があったからです。雪で造られた舞台があって、その前には観客席がありました。大きな雪像もあります。そして、トン汁、焼き鳥、うどんなどの食べ物を売る屋台がいくつもでていて、にぎわっていました。

 この日は昼間から晴れ上がっていて、日中の気持ち良さが夜まで持続していました。舞台、観客席、テントの中、どこでも元気な声と笑顔がありました。従兄たちも大活躍です。「のうの」と「足谷」はテントの中で串餅を売っていました。「はい、いらっしゃい。うまいよ」お客さんを呼び込む声はなかなかのものでした。餅は炭火で焼き、竹の串にさし、「ふき味噌」をつけて出来上がりです。食べてみましたが、美味しくて、ふきの香りがまた何とも言えませんでした。

 雪の舞台では、カラオケ、レクダンス、寸劇、三味線演奏などが行われていました。最高に盛り上がったのは寸劇です。NHKの大河ドラマ、「天地人」に登場する人物の恰好をして演じていました。

 どこで調達してきたのか、着ているものはカラフルで、ちょんまげ姿も決まっています。時代の違いがはっきりわかるのは長靴ぐらいでした。私の従弟である「シュウジ」も武将の一人として登場していました。忙しいなかで練習してきたのでしょう、なかには、セリフがすぐに出てこない人もいます。でも、これがまたいい。観客はおおいに笑い、拍手を送っていました。この日はマイクの調子がいまいちで、声がよくとおらなかったのですが、それでも、みんなよくがんばりました。

 「雪あそび」はその後もできるだけ都合をつけて参加しています。今年は餅焼きを手伝いました。「おい、まだか」と催促されながら、炭火をおこしたり、餅をかえしたり……。忙しかったけれど、多くの人とおしゃべりができ、楽しいひと時でした。

 帰りには大山温泉で風呂につかり、その後、ほくほく線の「ほくほく大島駅」に寄ってきました。駅が見えるところまで行き、妻と一緒に「うわっ、すごい」という声をあげてしまいました。駅周辺の山全体で「雪ほたる」が光を放っていたのです。
 (2012年3月11日)


 
第193回 雪花菜

 雪花菜と書いて「おから」と読むことを知ったのはつい先だってのことです。字を見た時、おからの中に緑色の菜がきざまれて入っている料理を思い出しました。ご飯のおかずにしてもよし、酒のつまみにも合う。おからは私の好物の一つです。

 おからが好きになったのは、いうまでもなく、母の影響です。わが家が尾神岳のふもとにあったころ、それも40年以上も前のことでした。当時、食べ物に関しては、魚など一部を除き、自給自足の時代でした。自分たちで食べる物のほとんどは自分の家で作っていました。豆腐も家で作っていたのです。そして、豆腐を作る過程で出るおからも、煮たり、炒めたりして、ひとっぱ残らず食べ大切にしていました。

 さて、この間、新聞配達をしていたときに寄せてもらった家でのことです。私が訪ねた時は、近所のお母さんなどが集まってお茶飲み会をやっている真っ最中でした。ここで、久しぶりにおから料理に出合ったのです。

 テーブルの上には、煮物、漬物などが並んでいましたが、私が一番食べたくなったのは半透明の四角い入れ物の中に入ったおから料理です。竹輪、ネギ、人参などいろんなものが入っていて、とても美味しそうでした。じっと見ていたら、この家に遊びに来ていたお母さんが、
「おからは安いでも、いろいろなものを入れるすけ、諸式がかかるがでね」 と言いました。「諸式ね?」と私が言うと、今度はもう一人のお母さんが、
「いっぺこと材料集めねきゃならんすけ、金がかかるってことさ」 と説明してくれました。

 さっそく、この料理を御馳走になりました。味は醤油味で、おから特有の匂いがします。竹輪もおからと絡み合っていて、とても美味しく感じられました。デジタルカメラでこのおからや煮物などを撮影し、みんなに見てもらうと、「ばかうまそう」「料理の本にでてくる御馳走の写真とおんなじだ」などとにぎやかになりました。

 そこへ、豆腐を作った本人もやって来ました。「昔はどこの家でも豆腐作っていたもんだでも、最近は少なくなったねぇ」と切り出すと、豆腐作りの話で盛り上がりました。

「また、家でした(作った)が、うんめがてさ。あらっぽいし……」
「おら、ねぶってが起こさんちゃ、2軒も3軒(分)もしねかならんがすけ早く起きろなんて言わんてさ、3時半ごろ起こさんちゃ、寝ってるが半分だわね、イススにつかまっているときは……。まあ、さんざ、したわね。『ほら、早く豆入れろ』なんて言わんてさ……、寝っているもんだもん、子供だがにさ」

 お母さんたちの話は、自分で作っていた頃よりもさらにさかのぼって、子ども時代に豆腐づくりの手伝いをした話にまでおよびました。

 話を聞いたおかげで、母が流しで豆腐づくりをしていましたときの記憶がかなりよみがえってきました。手伝った記憶こそありませんが、母のそばで豆腐づくりを見ていたのでしょう、白い、ぱんぱんにふくらんだ袋が脳裏に浮かんできます。これはしぼる前の段階のものでしょうか。そして、流しに広がる湯気も思い出しました。

 わが家では昔、母がひんぱんにおから料理を作ってくれました。ヒジキと菜っ葉が少し入っていて、まさに雪花菜という言葉がぴったりです。その雪花菜を作ってくれた母は今月、満88歳になります。
  (2012年3月4日)


 
第192回 春近し

 2月も後半になりました。まだまだ寒さも厳しく、時どき雪も降ります。でも、晴れた日にお天道様の日差しを浴びると、とても暖かく感じられるようになりました。そして、私の気持ちもウキウキしてくるのです。

 先日、市役所での仕事が終わって、午後3時半ころ家に帰ってきました。この日は朝から晴れて、一日中暖かでした。お天道様が暖めてくれたのでしょう、ストーブをつけていないのに部屋の温度は10度近くもありました。

 仕事部屋で印刷作業を終わらせてから、外へ出たくなりました。というのも、気になることがあったからです。こんなに暖かくなっているんなら、ひょっとすると咲いているかも知れない。私の頭の中では黄色の、びらびらした花が開いている様子が描かれていました。そう、黄色の花というのはマンサクです。

 わが家の牛舎近くの山には一本だけマンサクの木があります。それも道から数メートルの距離にあります。

 木に一番近い位置まで歩いて行くと、道から林の中に入って行った動物の足跡がありました。横二つの跡の手前に縦に二つの跡があり、林の奥の方まで続いています。形からして動物は明らかにウサギでした。私の手の握りこぶしくらいの大きさの足跡から推測すると、かなり大きなウサギだと思います。足跡はまだはっきりとしていましたので、数時間前に飛び跳ねていたようです。道からぴょんと跳ね、まっすぐに山の上の方へと進んでいったことがわかります。このウサギもまた、暖かい日差しの中で外遊びをしたくなったのかも知れません。

 雪はまだ1メートル50センチほど積もっています。私は、空に向かって4メートルほどの背丈になっているマンサクの木を見上げました。うん、こりゃ、まだ早かったかな。でも、確かめてみよう。そう思って、長靴で雪を踏み固めながら、木のそばまで行きました。

 手前の枝についた芽を見ると、まだしっかりと閉まっていました。やっぱりだめだったか、半ばあきらめて戻ろうとした次の一瞬でした。別の枝の先っぽの方がうっすらと黄色くなっているような気がしました。手を伸ばし枝を引き寄せてみると、わっ、うれしい、咲き始めているじゃありませんか。

 咲き始めていることがわかれば、写真に撮りたくなります。ポケットからデジタルカメラを取り出し、何枚か撮りました。写真は、ブログに載せるためです。マンサクが咲き始めたこの喜びを一時も早くみなさんにお知らせしたいと思ったからです。

 マンサクの木があるところから北の方角には田があり、そのはるか向こうには米山の姿も見えます。気のせいか、数日前までとは景色ががらっと変わったように思えます。コココココ……、キツツキが木を突く音も聞こえてきました。

 マンサクが咲き始めたなら、わが家の梅も咲いているかも知れない。その後、家に戻って確認したところ、わが家の庭にある梅の木の花もまた大きくふくらんでいました。こちらは白い花です。ふくらんだつぼみは一部の表面が白くなってきていました。この分だと、マンサクとわが家の梅はほぼ同時に開花するかも……。

 ブログに咲き始めたマンサクの写真を載せたら、長野県在住の方からすぐに「辛いことも、小さなつぼみに癒されます」という声を寄せていただきました。小さな花でも人の心を動かす力はけっして小さくはありません。春はもうそこまで来ました。
  (2012年2月26日)


 
第191回 一本のロープ

 坂になった雪の一本道を50メートルほど歩き、大きな栗の木の枝の下をくぐりぬけると、そこにヒサさんの家がありました。家の一階は雪ですっぽりとうまっています。すぐそばの作業所もまた雪に覆われていました。ここは板倉区寺野地区です。

 案内役をしてくださったSさんの顔が見えたのでしょうね、初対面の私が作業所の見えるところまで行くと、屋根に上っていたヒサさんが笑顔で迎えてくださいました。私がヒサさんのところを訪ねた理由の一つは、市内に住む息子さんとは別に山間部でひとり暮らしをされているなかで、豪雪とどうたたかっておられるかをこの目で見たいと思ったからですが、この笑顔でいい話を聞けるなと直感しました。

 作業所の屋根にはヒサさんだけでなく、息子さんの姿もありました。二人ともスノーダンプを手に雪下ろしの最中だったのです。雪下ろしと言えば、高いところから低いところへ雪を落とすというイメージをお持ちの人が多いとは思いますが、スノーダンプで屋根雪を掘って低い場所まで運んでいるといった感じでした。

 初めて見たヒサさんの仕事ぶりには力強さがありました。緑色のスノーダンプで雪をぐさっとさす。腕にぐっと力を入れて雪をダンプの中に入れる。入れた雪を運ぶ。若いときから相当、力仕事をされてきたのでしょう。七十代後半のお母さんだということでしたが、とても若々しく感じた仕事ぶりでした。

 私たちがそばまで行くと、ヒサさんは住宅の方へさっと移動しました。住宅の玄関前は雪が積もり、3メートルほどの高さになっています。「こりゃ、たいへんだ」そう思いながら、視線を前庭の方へと向けると、すぐそばに小さな穴がありました。のぞき込むと下の方に水たまりが見えます。なんと、ここは小さな池だったのです。 「最初はそこへ雪を少しずつ運んで溶かしていたんだわね。でも、どんどん雪が降るすけ、運びきんなくなっちゃって……」

 ヒサさんは静かに語ってくれましたが、私の脳裏には池の中に毎日せっせと雪出しをしているヒサさんの姿が思い浮かびました。

 池へ運び出すことができなくなってから、玄関前は雪が積もる一方です。何日もたたないうちに、玄関から家の中に入ったり出たりすることができなくなりました。一階はどこからも出入りできません。それで、ヒサさんは二階から出入りすることにしたというのです。

 私が尾神岳のふもとに住んでいた頃、それも五十年以上も前になりますが、二階から出入りしたことがあります。ただ、その時でも玄関のところでは雪の階段を作り、出入りできたように記憶しています。それだけに、いまの時代に二階から出入りせざるをえないケースがあることを知ってびっくりしました。

 ヒサさんの家の二階を見たとき、一本のロープが目に入りました。ロープは二階の角から屋根づたいに下へと伸びていました。私の目の動きを感じたのでしょう、案内役のSさんがニコッと笑って「おれがつけたんだ」と言いました。屋根は滑りやすいし、危険です。近くに住むSさんは、ヒサさんが楽に上り下りできるようにとロープの設置を考えたのでした。

 私もロープにつかまり、屋根に上ってみました。ロープをぴんと張ったとき、「あっ、これだ」と思いました。とてもしっかりしていて、安心感があるのです。Sさんとは30数年のつきあいですが、やさしい気配りに私までうれしくなりました。
 (2012年2月19日)



 第190回 雪椿

 杉林の近くにある大きな木。何本もの枝を横に大きく広げ、紅色の花が上から下へと一つまたひとつと毎日のように咲いていく。まだ一度も見たことがないのに、その木のイメージがどんどん膨らんでいきます。

 木は上越市牧区今清水にある雪椿です。豪雪の実態調査でNさん宅を訪問したときに初めてこの木のことを知りました。茶の間でNさんは言いました。 「なんて言ったって新潟県で一番だと言うすけね。(枝まで含めると)直径が15メートルくらいはあるかな。冬、雪で押さえつけられて寝ていたのが、春になるとびんと起きるんだわ。木はしなやかで折れない。春になれば雪解けが進み、先に雪が消えた上の方から下へと順番に咲いていき、いっぱいになるんだ」

 話を聞いていて、「雪に押さえつけられていても、しなやかで折れない」というところが私の心に強く響きました。そして、花がいっぱいになる姿はどんなものなのかと思いました。

 Nさんの住んでいるところでは、今冬は4メートルを超える大雪で、どかしきれないほど降りました。雪とたたかうなかで楽しみなのはお茶飲みです。コンニャクを作ったら、それを持って近所へお茶飲みに行き、世間話をする。そういう人がNさんのまわりには二人もおられるとか。Nさんは人から自分の家に来てもらうのがとてもうれしいといいます。私と案内役をしてくださったWさんの二人で訪ねたときも、「さあさ、入って」と大歓迎でした。

 私たちが入らせていただく前にも近所からのお客さんがありました。その方が帰られた後は、茶の間に私たち二人とNさん夫婦の4人だけとなりました。薪ストーブがあるものの、スス掃除がたいへんとかで、その日、使っていたのは石油ストーブのみでしたが、茶の間はとても暖かでした。

 78歳のNさんの語る話もまた温かいものでした。Nさんは1月15日に腰を痛め、近所の人やケアマネージャーさんなどいろんな人に助けてもらったといいます。酒を買ってきてもらったとか、惣菜をたべさせてもらったなどの話はじつにユーモアたっぷりでした。近所でお茶飲みをして、惣菜が出たら、家で食べないでいいようにたくさん食べさせてもらうという話には大笑いしてしまいました。

 人が訪ねてきたら歓迎するという気持ちを持っているのはNさんのお連れ合いも同じです。お連れ合いは最初、テーブルのそばで背中を曲げたまま固まっていたように見えました。一言もしゃべらず、まったく動かないでいたからです。ところが、私たちの会話をじっと聴いておられたのですね。「しゃべっていると口がザラザラしてくる」そう言うと、手助けをしたくなるほどゆっくりと時間をかけて立ち上がり、台所へ行かれたのです。そして、大きなコーヒーカップをテーブルの上に出してくださったのでした。カップの中身は甘酒、これがまた実にうまかった。

 Nさんをはじめ集落の人たちは地域を元気にしたいと昨年、初めて雪椿まつりを実施しました。自慢の雪椿の花がたくさん咲くなかで、フキノトウ、ウドなど山菜料理を楽しんだといいます。高齢化が急速に進んでいる中での取組みに驚きました。

 話を聞きながら、ふと思いました。「雪に押さえつけられていても、しなやかで折れない」というのは雪椿だけではなく、そこに住む人たちもそうだと。雪椿が咲いて見ごろとなるのは5月の連休明けだそうです。どんな花を咲かせるのか見てみたい。
 (2012年2月12日)



第189回 小型除雪機

 冬になると、起床して最初にするのは夜に降った雪の量の確認です。つづいて、一日の行動の段取りをするために温かいコーヒーを一杯飲む。これは牛飼いをやめたいまでも私の習慣になっています。

 降雪量を確認するのはいうまでもなく、除雪をする必要があるかないかを判断するためです。いっぱい降るという予報が前の晩に出ていた時は恐る恐る外の様子をみます。だから、先日のように、山沿いで1メートル、平地でも70センチは降るでしょうという予報が外れ、20センチほどの降雪量だった時はずいぶん得をしたような気持ちになりました。

 乳を搾っていた当時、雪が降れば牛乳の出荷ができるように牛舎脇の道を除雪することが最優先の仕事でした。牛舎付近の道路が町の除雪路線になっていなかった頃は、ここの除雪だけでもたっぷり1時間はかかったものです。それと、わが家の牛舎の屋根から落ちた雪の処理もたいへんでした。牛舎の屋根は小さな学校の体育館と同じくらいの大きさがありますから。

 こうした除雪作業は人力だけではとても対応できません。小型除雪機の力に頼るしかありませんでした。

 除雪機を初めて購入したのは、牛舎を新築した翌年のことですから、いまから30年ほど前になります。確か18馬力だったと思います。スノーダンプがはやりだした時、「こんなに便利なものはない」と思ったものですが、除雪機の導入した時の喜びはそれをはるかに超えるものがありました。車庫前で除雪機の中にかき入れた雪は放物線を描いて道路をまたぎ10数メートル先へと落ちていきます。雪を投げたり、押したりする必要はまったくなくなりました。除雪機は除雪作業時間を一気に短縮し、雪処理の重労働から私たちを解放してくれました。

 わが家の1台目の除雪機は大活躍でした。導入した当時、私の地元の集落内に除雪機は何台もありませんでした。木戸先や民家周囲の除雪でたびたび応援に出かけました。春先には苗代除雪も依頼されました。小さい割に雪を遠くまで飛ばす能力があったのでひっぱりだこだったのです。

 現在、わが家で使っている除雪機は2台目、23馬力です。25年は使っています。とっくに耐用年数は過ぎていますが、雪の少ない冬が何回もあったこともあって、まだ十分使えます。

 除雪機はたいへん便利な機械ではありますが、操作を間違えると命にかかわる重大事故になることもあります。かく言う私も、危ない目にあったことがありました。

 最初の除雪機を購入して間もない頃でした。牛舎からわが家へ移動している時、除雪機と雪の壁の間にはさまれてしまったのです。除雪機を前進させるつもりでいたのが、うっかりバックギヤーを入れてバックさせてしまい、ハンドルが胸を強烈に締め付けました。たまたま、そばにいた父がギヤーをはずしてくれたお陰で命は助かりましたが、肋骨を3本骨折してしまいました。その結果、3か月ほど不自由な思いをしたことがあるのです。

 わが家で小型除雪機を導入するきっかけとなったのは、雪上運搬車を使っても牛乳をまともに出荷できない事態があったことでした。そういえば、あの時、心配して私の牛舎まで駆けつけてきてくれた牛飼いの仲間たちがいたことを思い出しました。
 (2012年2月5日)



第188回 踊りびと

 「はー、ソーラン、ソーラン」「どっこいしょ、どっこいしょ」そろいの半天を着た人たちが、大きく手を振り、舟をこぐ。跳ぶ。私がその力強さとリズムにひきつけられたのはいまから10年ほど前、吉川小学校のグランドでした。

 初めて見るよさこいソーランの踊り。グランドでは、100人を超える人たちが観客席を前に横に広がり、まさに、美しく踊り乱れていました。踊りをリードしていたのは、たしか、女性陣だったように思います。

 師走の日曜日、このよさこいソーラングループ、「百華踊乱よしかわ」が結成10周年を迎え、記念の演舞を行うというので応援に行ってきました。会場の多目的集会場には、メンバーの家族、友人などが駆けつけていました。

 会を代表して挨拶した山岸実さんは、「ここまでこれたのはみなさんのおかげです。これからもお客さんを主役にがんばっていきたい」とのべました。この日、来賓として招かれていた初代会長の佐々木陽子さんも、「みなさんの踊りは地域のみなさんに活力をもたらしました」と激励しました。

 記念演舞会で披露された曲は、「よさこいソーラン」、「酒や唄」、「ハレルヤ」、「ワミレス2000」、「天地人(あまちびと)」など10曲。途中、このグループが県内各地のイベントで踊った動画も会場で映し出されました。

 司会は竹田敏夫さんです。「親にしかられ、子にしかられ……、いや、子にしかられることはないか」「拍手がやまないと思ったら、やみました」「元気いっぱいで床が抜けなければいいのですが」演舞曲を紹介するときや終わったときのコメントが笑いを誘い、記念演舞会を盛り上げました。

 披露された踊りには様々な思い出やドラマがあります。そのひとつ、「酒や唄」は元吉川中学校の鈴木栄太郎先生が作曲されたものです。かつて全国各地に杜氏を送りだした「酒造りのまち」にふさわしいものをという思いを込めてつくられました。長い棒を持ち、何かをかき混ぜているような振り付けは、酒造りの工程のひとつ、もろみを撹拌する作業を意識したものです。酒造りをしたことのない人のところにも、酒造りの緊張感が伝わってきます。

 この日の演舞で私の心をぐいっと引き寄せた曲は「See the Reinbow」。色とりどりの服装をした子どもたちが踊ってくれました。空を見つめて、違いを認め合って心開き、信じ合おう、心はつながっているよ。会場に流れたこの曲の歌声と踊りの振り付けがピタリと合っていて、お互いを信じあい、認め合うことの大切さが伝わってきました。特に手をつなぐところがよかった。

 そして最後の曲は「よっちょれ」、よさこいの登竜門と言われている曲です。「三味線あったり、太鼓あったり……。元気をもらいます」と竹田さんが紹介したあと、メンバー全員がそろって踊りました。一人ひとりの動きは最後の曲になってもきびきびしていて、みんな笑顔です。観客席からは手拍子も出て、お母さんにだっこされていた小さな子どもさんまでもが踊りだしました。踊る人たちも観ている人たちも一体となったのです。

 「百華踊乱よしかわ」の踊りは、地域のイベントでは欠かせないものとなっています。副会長の山田和代さんが、「ありがとうの気持ちがみなさんに伝わっていけばうれしい」とのべていましたが、その言葉をそっくりメンバーのみなさんに贈りたい。
  (2012年1月29日)
             


第187回 母のやけどあと

 自分の親でも聞いてみなきゃわからないことがあるもんです。先日、母と一緒にお茶を飲み、布団に寝ていても寒いことがあるという話をしたとき、数十年前に母が火傷(やけど)をしたことを初めて教えてくれました。

 「こっちの足だったかな、いや、こっちか」そう言って母はズボンをまくり、火傷痕(やけどあと)を見せてくれました。体が小さい割に、びっくりするほど太い足。その左足には明らかに火傷とわかる痕がありました。

 火傷は母がまだ若い頃のこと、それも私かすぐ下の弟を抱いて寝ていた頃のことといいますから五十数年も前の話です。湯たんぽを布団の中に入れていて、いわゆる低温火傷をしてしまったのでした。朝、起きたらひりひりして水ぶくれになり、風呂に入る時には、しばらくの間、手ぬぐいで火傷をした個所をしばって入ったそうです。いまでも火傷痕が残っているくらいですから、だいぶひどかったのだと思います。

 母は、遠い彼方からたぐり寄せるように、私が幼かったころの記憶をいくつも語ってくれました。  そのなかで一番印象に残ったのは布団の話です。当時、稲を作っていたわが家にはわら二階があり、わらをすぐって出たクズを布団の中に入れて温かくする工夫をしていました。いわゆる「クズ布団」というものです。クズを入れたばかりのときはふわふわした布団になります。湯たんぽのような即効性はないものの、その温かさは人間の肌にぴたりと合いました。母は笑いながら言いました。「おまんた、クズ布団作ってやると、その上で跳びはねちゃって……。大喜びだった」と。まあ、よく憶えているもんだと思います。

 クズ布団は子どもだけでなく、母も祖父も使っていました。祖父・音治郎は自分の布団のなかに行火(あんか)も入れていました。熱源は炭です。当時、わが家は炭焼農家でしたので、行火に入れる炭は十分あったようです。

 祖父は、わが家で一番暖房の効いた布団に入り、私より六つ年下の弟を抱いて寝ていました。どうして弟が「最高待遇」を受けていたのかはわかりませんが、祖父にとってはかわいくてしょうがなかったのでしょう。ところが、祖父がかわいがっているにもかかわらず、一緒に寝ている弟は時々問題を起こしていました。寝小便をしてしまうのです。

 やわらかなクズ布団を濡らされたら、乾かすのはたいへんです。そこで祖父は考えました。クズ布団の上に広いゴムシートを置き、さらにその上に毛布を敷いたのです。これなら被害は最小限に抑えることができます。ひょっとすると、私も寝小便をしたことがあるのかも知れませんが、ゴムシートの話も聞くのは初めてでした。

 最近、わが家では母が電気行火、妻は湯たんぽ、私は布団乾燥機を使っています。乾燥機は寝る前にいっとき、電気のスイッチを入れておけば、布団を適度な温度に温めてくれます。ただ、布団に入ったばかりの時は幸せいっぱいの気分になりますが、若い時と違って、明け方になったころの布団の冷たさにがまんできなくなりました。

 私が子どもだったころ、冬場になると、父は出稼ぎに出ていました。普段は縄ないやムシロ作りをやっていた母と祖父も、大雪になると屋根の雪下ろしや落とした雪の片付けでたいへんでした。母の火傷の原因は、こうした雪かまいでくたびれて、深眠りをしてしまったからでした。
  (’2012年1月22日)



第186回 三分間の交通誘導

 わずか三分。でも、この三分があるから平和な一日になるのではないか。吉川区原之町地内の三叉路で、毎朝月曜日から金曜日まで交通誘導をするWさんの姿を見てそう思いました。

 Wさんが自宅を出て三叉路へやってくるのは午前7時25分ころです。フリッカー(誘導棒)を左手に持ち、オレンジ色の安全ベストを着て三叉路に立った瞬間から、この空間のムードが緊張したものに替わります。Wさんがこの場所で交通誘導をしているのは、小中学校へ通う児童生徒を交通事故から守るためです。

 1月10日の始業式の日。子どもたちがやってくる前にWさんに声をかけたら、「ここは事故が起きやすい場所なんだわ」という声が返ってきました。信号機のない三叉路ですので、自動車の運転では進むか止まるかの瞬時の判断が求められます。冬場は、路面に雪があって滑りやすい状態のときもあります。確かに、交通事故が起きやすい場所だと思います。

 午前7時30分、山方方面から一列になってやってくる子どもたちの姿が見えると、Wさんは横断歩道をすっと渡り、待ちます。もうずっと交通誘導をしているので、子どもたちにはすっかりおなじみのWさん。久しぶりに小学校の子どもたちから「おはようございます」と声をかけられ、とてもうれしそうでした。

 横断歩道を渡る直前、Wさんは左右の車の流れを見ながら、子どもたちを守るようにフリッカーを横にして車を止め、子どもたちを通します。渡り終わったところで、Wさんは小学生たちと別れます。横断歩道の一方に行き、子どもたちが渡りきるまでにかかった時間は、ほんの三分でした。

 Wさんの交通誘導の「仕事」はこれで終わりですが、自宅までは中学校へ行くY君と一緒に歩道を歩いて帰ります。Y君に「おめでとうございます」と言われたWさんは、彼の肩をたたき、頭をなでて一緒に歩いていました。WさんとY君はおそらく50以上も年が離れているはずです。これまでもこうして一緒に歩いていたのでしょうか、二人が歩く後ろ姿は楽しそうな雰囲気が漂っていて、まるで同年代の友だち同士のように見えました。

 Wさんは私が青年時代から付き合いをさせていただいている人です。私が27歳で町の農業委員になった時も一緒でした。夏場は町の中心部で稲作を行い、冬になると、近くの造り酒屋で杜氏の仕事をしておられました。長身で、きりっとした身なりをされていたこともあって、近寄りがたい人のように見えました。その一方で、「おれ、いま上州から帰ってきたところだ」などと言っては仲間の農業委員を笑わせる人でもありました。

 私がこれまでWさんにたいして持っていたイメージのなかには子どもたちを守る姿はありませんでした。いつも仕事一筋で、テキパキと仕事をこなしているか、犬と一緒に散歩している姿くらいしか思い浮かばなかったのです。でも、交通誘導をされている姿を見て思いました、この人は元々、子どもたちにやさしい人だったんだ、と。

 子どもたちが学校へ行ったあとの三叉路は再び車が通るだけとなりました。時々、ブレーキ音や走り抜ける音がするくらいで、小鳥たちの鳴き声もしません。ほんとうに静かな一日の始まりです。
 ※原之町、下町には、こうした交通誘導をされている人がまだ数人おられます。
  (2012年1月15日)



第185回 ネコと一緒に

 入っていかんかい。ミヨさんにそう言われると、どんなに忙しくても入りたくなります。年の瀬もせまったある日、私は久しぶりにひとり暮らしのミヨさん宅におじゃまし、お茶をご馳走になってきました。

 茶の間にはコタツがひとつあります。天井が高く、広い部屋なのでコタツだけではちょっと寒く、いつもストーブがつけられていました。ところが、この日はストーブに火がついていませんでした。故障してしまったのだそうです。ミヨさんはホッカイロを背中にふたつも貼り、着物を着られるだけ着て体を温めていました。

 私が寒いと感じたのはいっときだけでした。すぐに台所から湯気の立っている煮物が運ばれ、コタツの上に出されてきたからです。煮物はジャガイモ、サトイモ、麩(ふ)、それと「ごんぼまき」。とても温かそうでした。

「きょうは何日だね」
「二十三日」
「そっか、きんな、カボチャ食った日か」

 質問に答えたのは私です。私たちのことを知らない人が見れば、きっと、親子と間違えるでしょう。親父の時代から長く、親しい付き合いをさせてもらっているので、自然とそういう雰囲気になります。

 底の浅い大きなどんぶりに入った煮物を見ていると、ミヨさんが「さあさ、食べてくんない」と勧めます。「シロイモ」という言葉を何度も使うので、どんなイモかと聞いたらサトイモでした。「おまさん、シロイモと言わんでサトイモと言うがかえ」と言われてしまいました。シロイモという言葉、じつは私は知らなかったのです。

 煮物の一つひとつをいただきながら、「おやっ」と思ったのは、一緒に住んでいるネコの様子です。お腹の様子からいって、どうも妊娠しているらしい。近所にネコを飼っている家もないのに、どうしてできたのかと不思議に思いました。そういう疑問を持った人は私だけではなく、他にもいたそうです。なかには「ムジナの子を産むがねがか」という人もいたとか。

 ミヨさんがネコと一緒に住むようになったのは一年ほど前からです。それまでは「動き、しゃべるおもちゃ」と一緒でした。犬だったか、ネコだったか忘れましたが、さわると、「おはよう」とか、「元気ですか」などとしゃべってくれるおもちゃです。それだけでも、ミヨさんはうれしそうにしていました。  それが今度は、生きたネコと一緒です。いうまでもなく大喜びでした。数ヶ月前に私が初めてこのネコと出合った時は、大きな部屋を激しく動き回っていました。部屋の隅には、同じ集落のMさんが作ってくれたというネコの小さな家もあります。このネコの家とコタツのある場所を全速力で行き来していました。「こら」とか「やろ」だの言って口ではネコを叱っていながら、ミヨさんの目は細くなっていました。

 山間部の小さな集落に住むミヨさんがひとり暮らしとなってから、おそらく十数年は経っているでしょう。昨年、ミヨさんにとって大事な人が二人も亡くなりました。ひとりは親戚のIさん、毎日のように軽トラに乗って訪ねてきてくれた人です。もうひとりはSさん。近所に住んでいた姉妹のような関係の友だちでした。

 この二人が亡くなってから、一緒に住むネコはますます大事な存在になりました。ネコが無事に出産してくれるかどうか。ミヨさんは今、それを一番心配しています。
  (2012年1月8日)



第184回 お茶飲み場

 30年以上もお世話になっているお店が近くにあります。正確には元お店と言った方がいいのかも知れません。工場の手前に小さな事務所があり、そこはお客さんだった人たちや近所の人たちなどの楽しいお茶飲み場になっています。

 この間もこの事務所へ行ってきました。窓のそばまで行った時、長年のクセで事務所内の電気がついているかどうかをつい見てしまいます。この日もついていました。ほっとして事務所の入り口まで行くと、左奥にSさんとNさんの姿が見えました。

 事務所にいたのはこの2人と家主のY子さん。そこに私も加わって4人でコーヒーとお茶をいただきながら、おしゃべりを楽しみました。何がきっかけだったかは忘れましたが、Sさんがお盆などにどうやって実家へ行ったかが話題となりました。
「おらは石黒から嫁に来たがどね、高柳町の……。はあ、家には歩いて行ったもんだわね。時間が経つのも忘れてさ、とっととっとと歩いたもんだ」

 Sさんは旧石黒村(現柏崎市)の出身。実家へ帰る時のうれしさを思い出したのでしょう、しゃべる言葉には弾んだ調子がありました。「とっととっとと歩いた」といってもSさんの住まいから石黒までは直線でも15キロメートルはあります。
「5時間くらいはかかったろね」とたずねたところ、「なして、そんがにかからんこて。田麦(大島区)まで行って、そこからまた1時間も歩けば着いたわね」と言われました。否定はされましたが、山や坂がありますから、まあ、5時間近くはかかったことと思います。もっとも、歩きが中心の時代では、5時間というのは大した時間ではなかったのかも知れません。

 SさんとNさんは、すでに夫を亡くしています。2人はお互いの家が50メートルくらいしか離れていないこともあって、いつも声を掛け合い、天気が良い時には散歩をしたり、アパートの入口で日向ぼっこをしたりしています。この日もたぶん一緒に歩いて事務所にやってきたのだと思います。

 私よりも先に来ていた2人が帰ったあと、Y子さんと話をしていると、今度は同じ町内会のTさんがやってきました。TさんはY子さんとは親戚筋の人です。

 水色のベストを着たTさんは私の顔を見るなり、「橋爪さんの車があったすけ、入って来たがだ」と言いました。「よく、おれの車だとわかったねぇ」と言うと、「ナンバー憶えているもん、わかるわね」。昭和ひとケタ生まれの人ですが、記憶力は抜群です。びっくりしました。

 Y子さん、Tさん、そして私の3人での話題は犬の散歩でした。TさんとY子さんの連れ合いは猟友会の仲間でもあり、どちらも犬を飼っていました。犬は長く飼っていると「家族の一員」になります。言うまでもなく、犬も人間も年を重ねると体力が落ちていきます。犬が老いた時のエピソードが印象的でした。

「最初は元気に歩いているがさ。それが散歩の帰りになると、へとへとになっちゃって……。最後はだっこして家に連れて行ったもんだこて」

 同じ経験されたのでしょうか、Tさんの話にY子さんもうなずいていました。  Y子さんは一昨年、夫を亡くしています。Tさんが帰り、再び私とY子さんだけになった時、「店やめても、こうしてみんなに寄ってもらうってすごいね」そう声をかけたところ、Y子さんからすぐに言葉が返ってきました。「だって、おらだってさみしいもん」。
  (2012年1月1日)


第183回 対面キッチン

 コタツで横になってうとうとしていたら、義母と妻、義兄の楽しそうな笑い声で目が覚めました。先日、柏崎市にある妻の実家を訪れた時のことです。

 義父の一周忌法要も終わり、ひと区切りがついたという気持ちがあるのでしょうか、親子三人の会話にはとても明るい調子があって、居間と台所を改造する話で盛り上がっていました。

 「私だって、あててるよ。間に合わなくなって失敗するよりもいいじゃない」

 義母が言うのはオムツのことです。三人の間では寝室とトイレの距離のことが話題になっていたのでした。

 柏崎の家はずっと前からの農家で、一階だけでも大きな部屋が三つもあります。そのうちのひとつは、義父母の寝室として使っていました。ところが、そこはトイレからもっとも遠い位置にあるのです。義父が闘病中は、トイレまでの距離がかなりあって、間に合わないこともありました。

 そこで義兄が打ち出した改造プランのひとつは、現在、台所として使用している部屋を義母の寝室にするということでした。これなら、すぐ隣がトイレということになるので、心配が一つ減ると言うのです。

 義母は改造にあたって、自分なりのイメージを膨らませていました。自分の寝室はできるだけコンパクトにし、あまり動きまわらなくていいようにする。手が届くところに整理棚があって、冷蔵庫は小さなものがいい。どうやら、病院の個室のことが頭に入っているらしいのです。

 いまの台所を寝室にするとなると、今度は台所をどこにするかを決めなくてはなりません。義兄は現在の居間を台所にするという計画をまとめていました。すでの業者さんに計画図面を渡していたので、それを見ることはできませんでしたが、義兄は私と妻に説明するためキッチンセットなどのカタログを持ってきて、「対面キッチンにすることにしたんだ」と言いました。

 「なーに、その対面キッチンって……」
 私がそう言うと、妻が笑いながら言いました。
 「あら、あんた、知らないの、うちもそうよ。人の顔を見ながら、料理でも茶わん洗いでも何でもできるようになってる、だから対面キッチンというの」

 義母との話し合いで義兄が対面キッチンを選んだのは、顔が見えるからだけではありません。出来上がった料理は台の上の乗せ、それをテーブルに移せばそれでいい。歩いて料理を運ぶ必要がなくなるのも魅力だったのです。もっともわが家のように、出来上がった料理をコタツまで運んでいると、その魅力は感じませんが……。

 対面キッチンの話になったところで、台所からピーピーという音が聞こえてきました。冷蔵庫のドアが開けっ放しになっていることを知らせる音です。義兄が閉めに行くために立ちあがると、義母が笑いながら小さな声で言いました。

「流しくらい、おら、出すわーな」

 義兄が私たちの前で、「最後の親孝行だ」と言ったところをみると、今回の改造計画は義兄がお金の工面もしたようです。工事は今月から始まって来月には完成の予定とか。完成した時、87歳の義母は対面キッチンでどんな笑顔を見せてくれるのでしょうか。吉川の特産、さるなしワインでも持参してお祝いに行こうと思います。
  (2011年12月25日)



第182回 ぼたもち

 偶然と言えば偶然なのでしょうが、何か偶然ではないものを感じることがあります。先日の朝、急に思い立ち、母の実家を訪れた時がそうでした。

 この日は時々みぞれ交じりの雨が降るという生憎の天気でした。従兄に手伝ってもらい100軒ほどの家に声をかけビラ配布をしたのですが、どこの家へ行っても気持ちよく受け取ってもらえました。それだけはありません。うれしいことに、五軒に一軒ほどの割合で「いつも読んでるよ」「楽しみにしている」などといった声を寄せていただいたのです。

 そのなかには、私が生まれた当時、母の実家で従兄の子守りをしていた人もいました。玄関先で仕事をしていた女性、マサ子さんです。
「おまさんが生まれなった時のこと、おれ、よく知っているよ。だって、そんとき、『のうの』にいたがだもん。だから、おまさんが書いたもん読んだら涙出たわね」
 私はこの日に発行したビラのなかで母が嫁いだ頃のことについてふれ、生まれて間もない私が重い風邪をひいた時、お医者さんや産婆さんにたいへんお世話になったことを書いていました。『のうの』というのは母の実家の屋号です。まさか、60年も前の私のことを話してくださる人に出会うとは……。うれしさで心が震えました。

 母の実家でお昼をご馳走になるちょっと前、炬燵に入った私は従兄の連れ合いの好子さんに言いました。
「いやー、いい日に来たわ。いろんな人に声かけてもらわんたし、それに、おれの生まんた時に、ここんちにいなったという人にも会ったよ。びっくりしちゃった」
 飯台のところにご馳走を運んできた好子さんは、それに応じて、
「そりゃ、いかったね。きょうはね、じいちゃんの命日なんだわ。じいちゃんが『のりかず、来い』って呼んだのだと思うよ」
 と言うのです。これには、驚きました。じつは、この日は伯父が亡くなった月命日だったのです。伯父が私を呼んだという好子さんの言葉を聞いて、私は急いで仏壇へ行きました。

 お昼は従兄夫婦と私と3人でいただきました。命日だということなのでしょうか、ぼたもちが用意されていました。ぼたもちは伯父の好きな食べ物のひとつだったということですが、私も好きです。

 お昼をいただいた時、地域の人たちのことや伯父のことなどが話題となりました。しっかりと冬囲いをし、家のまわりに水を溜めて雪対策を終えている家、赤い南天がきれいな家、たくわんにちょうど良い太さの大根を干していた家などを思い浮かべながら話をしました。

 伯父が亡くなったのは、いまから10年前の1月のことです。前年から上越市内の病院に入院していて、闘病生活は長期にわたりました。入院していた時、伯父は私の1冊目の随想集・『幸せめっけた』(恒文社)を繰り返し読んでいました。私の幼年時代、伯父が「前」という店で饅頭を買ってくれたことなど、母の実家や足谷へ泊まりに行った時のエピソードがいくつか入っていて、懐かしかったのだと思います。

 仏壇のところへ行って手を合わせた時、私の目に入ったのは、伯父のために供えてあったぼたもちです。10年経っても月命日を大事にしている、そのことに心を打たれました。同時に、まちがいなく伯父が私を呼んでくれたのだと思いました。
 (2011年12月11日)



第181回 母が嫁いだ頃のこと

 思い出が刻み込まれた風景に出合うとしゃべりたくなるのでしょうか。先日、吉川区の丸滝橋の近くを通ったら、尾神に嫁いだ頃の思い出話を母が堰を切ったようにたくさん語ってくれました。

 母の話は丸滝橋のたもと付近で突然はじまりました。
「ここは、おら、とちゃと一緒に炭そって出たところだ。ここまで来ると、運送ひきをやっていた村屋の「かじや」(屋号)のじちゃが炭俵を運んで駄賃とりしていなったもんだ。炭の検査もここでやったがだ」

 祖父が戦前から戦後にかけて炭焼をやっていたことは伯母などから聞いていましたが、母が新婚時代に祖父を手伝っていたという話にはびっくりしました。私の祖父・音治郎はこの近くの山の上の方で炭焼をしていたのです。いまではほとんど跡形のない急な山道、20代の母はどんな格好をして炭俵を運んでいたのでしょうか。

 丸滝橋を渡って間もなく、母の話は自分の結婚のことや私が生まれた時の話になりました。母の実家は旧旭村(現大島区)竹平です。母を嫁に欲しいと竹平に出かけたのは祖父でした。
「じちゃ、一人で竹平へ行って、話して決めてきなったがねかな。そんげんがど。とちゃは酒屋もんをして家にいなかった。酒屋もんの写真を見合い写真として送んなったというでも、待っていたけど、どういうわけかその写真が届かなかったがど……」
「ほしゃ、おまん、どんな男だか心配だったろ」ときくと、母はフフッと笑いました。

 私が生まれた頃のエピソードも初めて聞くことばかりでした。母が私を産んだのは実家です。嫁ぎ先である尾神のわが家から、母は歩いて竹平の実家に向かいます。その時、一匹の赤毛の犬が母について行ったといいます。
「どこの犬だか知らん、赤い犬がずっとついてきたがど。尾神から。ちょちょちょっと行くと小便しちゃ、おれについてきた。しばらく竹平にいたでも、知らんこまに帰っちゃった」
その時の様子が目に見えるようです。

 出産時、産婆役をしてくれた人は藤尾の「じんべい」(屋号)から吉川区上川谷の「した」(屋号)に嫁いだ文子さん。竹平の内山医院で看護師として働いていた人です。文子さんが産婆として初めてとりあげた赤ちゃんは何と私だったというのです。

 私は生まれてまもなく風邪をひいてしまいます。風邪をひいてから、当初、母親と私は行火(あんか)を抱かしてもらい別々に寝ていたそうですが、ところが、まだ3月です、寒さは厳しかった。私の小さな腕は棒っきれのようになり、凍えていたといいます。内山医師が母の実家にやって来て、私の小さくて細い腕に注射を打ってくださいました。この時、一緒に来た文子さんの言葉を母は忘れていませんでした。
「おまさんの体で、親の熱であっためてくんなった方がいいがだねかね」

 母が嫁いだ時、わが家ではすでに祖母は亡くなっていました。私が生まれてから、子守りの仕事は祖父が大方やってくれたといいます。特に忙しい田植え時期には、祖父は炭焼の仕事を休んで私たち兄弟を育ててくれたそうです。
「おらちのじちゃ、えらかったがど。ばちゃ、なかったすけ、おまんたを子守りしなったがだ。水車のところへ行ってぽちゃぽちゃとオシメ洗ったり、納屋の下のハサ場で干したりしていなったもんだ。まあ、子どもを背中にそって子守りしながらよく稼いだこて」

 母が思い出話をしてくれたお陰で、この日はとてもいい日になりました。
  (2011年12月4日)



第180回 紅葉舞う中で

 「うわーっ、これはたいしたもんだ」小雨が降る中、柏崎の妻の実家の前で車から降りた瞬間、目に飛び込んできたのは庭の周辺にある赤と黄色の紅葉でした。あまりにも美しかったので、しばらくはカメラを持って紅葉を撮りまくりました。

 この日は義父の一周忌法要でした。法要だけでなくお斎も自宅で営まれ、家族と妻の姉夫婦、義母の実家の人など10数人が集まりました。みんな気心が知れている間柄なので、腰を痛めていた私や高齢の人をのぞくみんなが座布団を出したり、引き出物用の大きな袋の中にお土産を入れたりして準備をしました。

 お経が始まるまでのしばらくの時間、話題となったのは1枚のプリントです。じつは、この日のために妻は短歌を1枚の紙にプリントして用意していたのです。短歌は、「四男に生まれ二歳で母逝きて父そして兄結核に死す」にはじまって、「提灯の灯を消さぬようそろそろと都会に住まう曾孫歩めり」まで20首ありました。生まれた家で父母や兄弟が次々と亡くなり、16歳にして家を継ぐことになったことや戦争での苦しみ、義母との結婚のことなどが歌われています。私も読んでみてびっくりしたのですが、80数年にわたる義父の生涯がこれらの歌にまとめられていました。

 妻は柏崎市内の海岸部から出かけてきたTさんのところへこのプリントを持って行き、短歌で詠んだ事実関係に間違いないか確かめてほしいとお願いしていました。

 Tさんは少年時代、義父と同じ屋根の下で13年間一緒に暮らした仲でした。居間の丸いテーブルのそばに座って、時々うなづきながらプリントを読んでいたTさんは、老眼鏡をはずすと、みんなに聞えるように大きな声で言いました。「よーわかった。間違いはない。すべて網羅されていて、凝縮されている」と。この言葉を聴いた妻は安心したのでしょう、頬がゆるみました。

 法要が始まったのは午前10時半過ぎでした。慶福寺住職の「次は○○ページをお開きください」といった言葉に従いながら、舎利礼文などをみんなで読みました。この日は荒れ模様の天気で、途中から雨の音が聞こえてきました。不思議なことに日が照っているのに雨が降っていました。風の音も賑やかになってきました。外を見ると、いくつもの紅い葉が舞い、地面を転がっています。私はしばらくその光景から目を離すことができませんでした。

 お経が終わってお斎が始まる前、義兄が正座して「本日はありがとうございました。じつは親父が紅葉を愛でていまして、この時期に法事をやりたかったんです」と挨拶しました。

 この挨拶を契機に、紅葉もまた話題となりました。ハッとするほど美しい紅葉にひかれたのは私だけではありませんでした。川崎から来た人たちも妻の姉夫婦もほれこんでいました。この家の周りにあるモミジは元々あった木だけでなく、義父が美しい紅葉を楽しみたいと、わざわざ植えたものもあるといいます。義母は「いまになって色がついてきたんだよ。今年はすっかりダメだと思っていた」と言いました。義兄によると、紅葉は例年よりも4、5日ほど遅かったそうです。

 生前、「四男は死なん」と言ってみんなを笑わせていた義父、戦争に行ってマラリヤにかかったことは知っていましたが、用水路に落ち、危ない目にあっていたことは知りませんでした。お斎の席で次々と亡き夫のことが話に出て、うれしかったのでしょう、帰り際に義母が言いました。「おじいさん、喜んでくれたと思うよ」と。
  (2011年11月27日)



第179回 夢を持ち続けて

 11月12日はとても暖かい日となりました。日射しを受けて赤とんぼが楽しそうに飛び交う姿を久しぶりに見ました。何となく気持ちが高ぶったこの日、新潟県立吉川高等特別支援学校では開校式、学習発表会が行われました。

 同校の生徒は今春入学した15人だけです。入学式だけでなく、毎月1回実施しているスマイルカフェなどで何回か生徒を見ているので、何人かの顔を憶えました。スマイルカフェの時、窓際で大きく息をしたあの生徒は元気だろうか。顔を赤らめていた生徒、眉毛の太い生徒はどうしているだろうか。春以来、出会った生徒の顔を思い浮かべながら、学校へ行きました。

 学校へ着くと、来賓控室になっている2階の作業室に案内されました。ここは何回かスマイルカフェの場所になったところです。控室に入るやいなや、生徒の一人が「おはようございます」と元気に声をかけてくれました。指定された場所に着席すると、今度は別の生徒がコーヒーを持ってきてくれて、「ごゆっくりどうぞ」とすすめます。さらに、「こちら、きょうの資料とお土産となっております」と紙バッグを渡してくれました。半年余りの間に、言葉遣いや挨拶の仕方がこんなにもうまくなるとはびっくりしました。

 さらに驚いたのは、式典の資料とお土産が入ったバッグの中身を見た時でした。オレンジ色の紙バッグを見ただけでも、「おっ、これは喫茶店で使ったエプロンと同じ色だ」と感心していたのですが、お土産として入っていたものの中には、厚紙を組んで作った「ハッピーサークル」、スマイルカフェで使ったコーヒーの豆粕を再利用して脱臭剤にした「スマイルデオドラント」があったのです。いずれも生徒が手づくりしたもので、「使っているみなさんがいつもハッピーでいられますように」などといった手書きのメッセージが添えられていました。

 さて、開校式。校旗の樹立式や来賓の祝辞などが終わってからの、生徒全員による「喜びの言葉」と演奏に注目しました。大きな声で「仲間と出会い、先生方と出会い、私たちは学ぶ喜び、認められることの幸せを感じています。必要とされる人となるため、どんなことにも積極的に挑戦していきます。私たちは夢をあきらめません」と力強く宣言した後、岡村孝子の「夢をあきらめないで」を見事に演奏したのです。

 キーボードをしっかりと見つめ演奏する生徒、ドラムをたたく生徒は後列。前列にはギターを弾く生徒が並びました。足を組んでギターを弾く男子生徒の顔は自信に満ちていました。生徒の演奏を初めて聴いた保護者や来賓席の人たちだけでなく、教職員のみなさんもじっと聴き入っています。保護者席には若いお母さんに抱っこされていた小さな男の子もいましたが、この子も目を動かさないで聴いていました。演奏は一人の生徒が大きくジャンプして終わりました。その瞬間、演奏した生徒全員に大きな拍手が送られました。

 学校は生徒の夢を実現する場。夢を持ち続けて、それに向かって努力するなかでこそ楽しさや笑顔が生まれます。午後からの学習発表会では、保護者や地域の人たちが大勢見守るなかでバンド演奏やダンスが行われました。髪形を三角にしてはじける生徒もいれば、首を振り、リズムに乗って踊りまくる生徒もいる。会場では手拍子が出て、生徒も教職員も観客も一体となりました。

 夢を持ち続ける生徒が今後どんな成長を見せてくれるか楽しみになってきました。
 (2011年11月20日)



第178回 人形出会い旅

 人形を見るだけでこんなにも心を揺さぶられるとは……。先日、長野市の信州新町を視察した際、道の駅で『人形出会い旅』という一冊の本を購入しました。この本を読んだら、本の中に登場する人形たちにすっかり惚れ込んでしまいました。

 本の著者は飯山市在住の高橋まゆみさん。いまや、全国に多くのファンを持つ人形作家だそうですが、私はこの本を買うまで高橋さんの名前をまったく知りませんでした。ただ、この人の人形の写真は、あるNPOの事務所でちらっと見たことがありました。その出合いがあったから、道の駅で、「あっ、これはどこかで見たことがある」と手にすることになったのでした。

 本には人形の写真とそれにまつわるエピソードが載っています。あぐらをかいた足の中に孫を入れて本を読んでやるおじいさん、そのおじいさんの肩につかまって本をのぞきこむ小さな女の子。黄色い帽子をかぶった男の子の手を引く、背中の曲がったおじいさんの後ろ姿……。人形から伝わってくる人のやさしさが何とも言えません。そして、私の祖父音治郎や父母との思い出があふれ出てきました。

 バスの中で本を読んでいると、隣の席に座っていたY議員がのぞき込み、「この人の人形はおれもおっかさと一緒に二度、見に行って来た。いかったよ。とくに、嫁に行った娘さんが寝たきりになったお母さんのそばで眠っているの、たぶん、娘さんもつらいことがあったんだろね。その娘さんの背中を病気のお母さんがさすっているのがばかいかった。ふたりで泣いたよ」と声をかけてきました。

 本はバスに乗っている間に一気に読み終えましたが、こんな話を聞くと、じっとしていられるわけがありません。数日後、私は軽乗用車を飛ばして、飯山市の高橋まゆみ人形館へ行ってきました。いっときも早く本物の人形をこの目で見てみたかったのです。

 人形館に着くと、開館前から入口付近は小学生や大人たちが順番待ちの列をつくっていました。案内係の女性が、「子どもたちで混んでいますから、どうぞどこからでもごらんになってください」と丁寧に誘導してくれました。

 まず目に留まったのは、Y議員がべたぼめしていた「母の手」という作品です。写真もよかったのですが、このお母さんの眼元やさする手は思っていた以上にやさしいものでした。お母さんに声をかけ、手を握ってやりたくなります。顔のしわの寄り具合などもじつに生き生きと表現されていました。

 館の中には本に登場していた人形だけでなく、登場していなかった人形もたくさんありました。それらのなかで「押し車」という作品に強く惹かれました。かなり使い込んだシルバーカーを押しているおばあさんの人形です。

 後ろから見た時のおばあさんの丸い背中、もんぺ、そして頭には手ぬぐいという姿は、どこにでもいるおばあさんの姿です。横から見ると、おばあさんの視線がはっきりとわかります。押し車の先っぽを見ていました。正面から見ると、眉毛がやさしくたれさがり、車を押す右手の親指と左手の親指がはねています。鼻は小さくて、かわいい。どうしてこんなにうまく作れたんでしょうか。立ったり、しゃがんだりしながら、作品をいろんな角度からながめさせてもらいました。

 人形館からの帰り、飯山から長沢経由で上越市へと戻りました。途中、何人かのおばあさんを見かけました。不思議なことに、みんな人形のように見えました。
 (2011年11月13日)



第177回 遺作

 吉川区文化展の会場に入ってまもなく、私は一人の市民の作品の前で動けなくなりました。その作品は今年の8月に亡くなったMさんのひょうたんを材料にした作品です。まさか、Mさんの作品に会場で出合えるとは思っていませんでした。

 Mさんの作品は、ひょうたん作品がずらりと並んだテーブルのほぼ中央にありました。きれいに色塗りされた6つのひょうたんが約1メートルの高さの木の枝に下げられていて、「無病(六瓢)息災」という作品名がつけられていました。

 ひょうたん作品というのはおもしろいもので、時々、作者自身の姿に見えることがあります。正面から作品をじっと見つめていたら、比較的背の高かったMさんがそこにいて、「おや、橋爪さん、来てくんなったね。こんだ、おれもこっちに来て、おまんちのお父さんともお茶飲みできるようになったすけ、いいやんべだわね」そう語りかけておられるように感じました。Mさんは、私の父とは酒づくりの仲間として親しく付き合いをしていただいた方でした。

 ひょうたん教室にMさんが通うようになったのは昨年の秋ごろからでした。ひょうたん教室の仲間だったKさんの話によると、特別、一生懸命やっていたひとりだったといいます。毎年、ひょうたんの色塗りは12月ころから始め、7回くらい色塗りを繰り返すそうですが、Mさんは、真面目に参加し、色塗りを続けたということでした。そして、Mさんがこの作品を完成させたのは亡くなる半月くらい前だったとのことです。

 Mさんの作品には、教室の仲間からのメッセージが添えられていました。「Mさんはこの1年で種苗、育成そして細工と、ゼロからのスタートでした。老いても逞しい新人として期待していましたが、正直これだけの作品を生み出すとは驚きでした。皮肉にも表題とは裏腹に、急な病を得て早世されてしまいました。天国があるとしたら、みなさんの無病息災を願いながら見守って下さっていると思います。ひょうたん教室の仲間一同」。胸が熱くなりました。

 文化展の会場には、写真、絵画、押し花、竹細工、編み物、パッチワーク、木工、陶芸などの作品がたくさん出品されていました。それぞれの分野には「これは見事だ」と思う作品がいくつもあります。なかには桐ダンスなどのように、職人がつくったような作品もありました。

 一つひとつの作品をゆっくり観させていただき、最後のコーナーに近づいた時です。編み物の参考作品の隅のところに小さな手づくりの歌集が置いてありました。昨年の2月に亡くなったHさんの歌集です。Hさんは編み物教室のメンバーのひとりだったのでしょうか、歌集と編み物が良い雰囲気で一体となっていました。手に取って歌集を読ませてもらいました。

 寝苦しく蹴飛ばされたり孫と添い寝の熱帯夜なるも  旅先に求めし酒を貰い至福と夫口軽やかに  私は短歌に関してはまったくの素人ですが、お連れ合いや孫さんなど家族のことがじつに生き生きと歌われていると思いました。

 文化展に出されるものはどの作品も、多くの人たちに観てもらいたいからこそ展示されます。そして観てもらうことによって作品は輝きます。仲間や家族の手によって展示されたMさんやHさんの作品を観て、お二人の笑顔を思い出しました。
   (2011年11月6日)



第176回 柿と大根菜と

 このところ、高齢の人の話に引き込まれることが多くなりました。先日、あるお家を訪ねると、姉妹3人と隣の家のお母さんの4人が移動販売車を待っていて、みんなでおしゃべりを楽しんでいる最中でした。

 この日はさわやかな秋晴れ。柿の色もおいしそうな色になっていました。この4人の女性に、「今年は柿が大豊作だね。柿がいっぱいなりすぎて枝が折れちゃった木もあるでね」と声をかけたら、柿の話から始まり、昔からの食べ物についての話が次々と出ました。

 最近は、自分の家に柿の木があっても無関心の人が多くなりました。昔のように子どもたちが柿の木に登って柿を食っているといった光景はほとんど見られなくなっています。私も太ったこともあって、木に登ることはなく、たいがい、竹竿にカギをつけて柿をもいでいます。

 4人の中のひとりのお母さんが、「だでも、柿もぎそっても、もちゃつけなもんだこて。なんていったって、カギが見えねぇがど」と言うと、他の3人も含めて大笑いしました。カギは竹竿の先に付いていますが、そのカギが遠くて見えないというのです。私はいまのところ大丈夫です。でも、そのうち体力だけでなく視力も急激に落ちて同じようになるのかも知れません。

 さて、そのお母さんがおもしろいことを言いだしはじめました。「昔の人たちは秋菜食って太れと言った」というのです。秋菜というのは大根菜のことです。大根の種をまき、芽が出て10センチほどになった時、すぐります。それを食べろといわれたということでした。

 いまは飽食の時代、「やせろ」と言う人はいても、「太れ」という人はまずいません。このお母さんが若かりし頃は、食糧難の時代でしたから、柿であろうが大根であろうが、食べられるものはなんでも食べたのだと思います。いまでは信じられないでしょうが、かつては大根のずぼまで食べたものです。

 大根菜は大事な秋野菜のひとつです。ゆでても、炒めてもおいしく食べることができます。4人のお母さんたちのおしゃべりは、「大根菜じょっから」のことで盛り上がりました。
「大根菜ゆでてさ、酒粕入んて、シーチキン入れると出来上がり。何度でも暖めかえして食べたもんだ」
「シーチキンのかわりにサバの缶詰でもうんまいよ」
「大根菜がいっぺあるときにゃ、干して、干し菜もしょっからにしたこて」

 わが家ではこの時期、大根菜じょっからをご飯のおかずとしてよく食べた記憶があります。でも、「大根菜じょっから」と呼ぶことを今回、初めて知りました。中に入れた缶詰も昔はシーチキンではありませんでした。

 4人の女性の話を聞いたら、「大根菜じょっから」を無性に食べたくなり、母に頼んでわが家風のものを作ってもらいました。大根の葉が細かく切ってあって、歯ごたえがあります。缶詰はサバでした。うっかり醤油を入れたとかで、味はちょっとしょっぱい。でも、ご飯と一緒に食べた時、「これはうまい」と思いました。ご飯とじつによく合うのです。そして、ご飯を食べた後、無意識のうちに茶わんに「大根菜じょっから」を少し入れてお湯を注ぎました。これまた、この上なくうまかった。
 (2011年10月30日)



第175回 二次会

 敬老会にも二次会があるということを初めて知りました。10月13日の午後、用があって吉川区町田へ行ったところ、チヨさん宅がとてもにぎやかです。玄関で声をかけると、何人もの人たちが「あら、橋爪さんだねかね、入んない」「入っていぎない」「入んない、入んない」と誘ってくださいました。

 茶の間に入ってみると、驚きましたね、タカシさん、テルコさん、シヅオさん、ヨシさん、ミヨコさん、シヅコさん、ハツエさん、マツエさんなど町田から敬老会に参加したほとんどの人たちがお茶飲みをしているじゃありませんか。

 顔ぶれを見てびっくりしたことが私の顔に出ていたのでしょうか、こちらから質問もしないのに、ひとりの人がニコニコしながら、「おらたち、敬老会からそのままここんちに世話になっているがどね」と教えてくださいました。時計は午後3時をまわっていましたから、チヨさん宅ですでに1時間はお茶飲みをしていたことになります。よほど楽しかったのでしょう。

 真ん中のテーブルの上に目をやると、茶菓子のほか、ピーマンとゴーヤの佃煮、緑色のトマトの酢漬け、シソの佃煮などがならんでいます。茶菓子以外はかなり食べたようです。特にトマトの酢漬けは評判がよかったようで、小さな皿ひとつ分が残っているだけでした。「おらちにはこういうもんばっかなんど」とチヨさんに勧められた私は、トマトの酢漬けとシソの佃煮をいただきました。これだけで食べるのはもったいないくらいおいしかったので、「これじゃ、ご飯も食べたくなるね」と言うと、「やるかね、ご飯もあるよ」という言葉が返ってきました。

 私が食べている間にもおしゃべりは続きます。おしゃべりにはもちろん私も参入させてもらいました。

「いや、支配人の中村さんの、歌うまいがにはびっくりしと。去年も同じ歌だったろかいね」
「あの人は細川たかしの歌がうまいんだでね」
「ゆったりの郷に勤めているしょの劇もいかったこて。ちょっとエッチなとこもあったけどね」
「けっこうエッチだったこてね、○○がなくなったなんて言っちゃってさ」

 お茶飲みをしている人の中には敬老会初参加の人もいました。シヅコさんです。お連れ合いを2年ほど前に亡くされています。ちょうどいまは季節の変わり目、斎場が混雑するほど多くの人が亡くなっていることから、シヅコさんのお連れ合いが亡くなった時にはどうしたかなど、人が亡くなった時の話でにぎやかになりました。

 それを聞いて、私の方から、「さっき、敬老会で、みんながずっと生きていくことに決定したがに、また死んだ人の話になっちゃったね」と言うと、みんなが大笑いしました。

 おしゃべりは方向転換し、町田城の話になりました。430年ほど前、御館の乱で景勝勢と景虎勢の戦いの場となった城です。誰かが小学校の先生に案内を頼まれたという話から始まって、空掘など城跡の整備や草刈りの苦労話に花が咲きました。

 集まった人のほとんどは連れ合いを亡くし「独身」ですが、延々と続くおしゃべりを聞いていると、さみしさはひとかけらもないように見えます。でも、さみしいからこうしてお茶飲みをしているのかも。いずれにしても楽しい二次会でした。
  (2011年10月23日)



第174回 似顔絵

 10日ほど前、長野中央病院で医師として働いている中野友貴さんのベトナム旅行記を見て興奮しました。訪ねた場所で次々と似顔絵を描きまくり、現地の人たちと楽しく交流されている様子がじつによく伝わってきたからです。

 旅行記に掲載されていた似顔絵は32枚、いずれも描かれた人の特徴を見事につかんで表現してありました。頬骨の目立つ旧南ベトナム大統領府の職員、目がとてもやさしいホテルのマッサージ師等の絵は、ひょっとしたら、性格まで似顔絵に描き込まれているのではないかと思うくらい似ていました。 「すごい絵だな。これなら、おれも描いてもらいたい」そう思って中野さん宅へ連絡したところ、お連れ合いの早苗さんから「ぜひ、おいでください。ただ、お酒を飲まないと描けないそうですよ」と返事がありました。それで、先週の土曜日、地酒を2本持ち、中野さん宅へ出かけてきました。

 夕方、中野さん宅へ着くと、すでに居間のテーブルの上には手づくりの料理が並んでいます。トマト、ブロッコリー、パプリカのサラダ、茄子の煮物、煮豆、イクラやエビなどが入ったちらし寿司、レタスと春巻き、それにおでんまで用意してありました。おや、なつかしいと思ったのは、サツマイモの茎。この油炒めもあったのです。これはたいへんなご馳走です。

 懇親会は中野さん夫婦に子どもさんたち、それと中野さんや私の共通した友人である山口さんや橋本さんも加わって、総勢8人となりました。午後6時過ぎに開始。中野さんが2合ほどお酒を飲んだところで、お連れ合いから「おとうさん、そろそろ描いた方がいいんじゃないの」と声がかかりました。

 中野さんは腰に付けたバッグの中から黒の筆ペンを取り出し、まず、私の似顔絵から描きはじめました。筆ペンのキャップを口にくわえ、描く対象となった私を前方や後方から観察した後、左手に私製はがきを持ち、スッ、スッと筆を動かします。仕上げ段階では、うす墨と朱墨の筆ペンも使って描き上げました。それから山口さん、橋本さん、早苗さんを次々と描いていきました。いくつもの方角から描く対象を見つめる時の目、スピード感あふれる筆さばきがすごい。私は食べたり、飲んだりすることを忘れ、見入ってしまいました。

 ひとりの人を描き上げると中野さんは、百円ショップで購入してきた葉書大の額に入れて、みんなに「どうだ」といった調子で見せてくれました。そのあとが面白い。「似ている、似ている」「髪のはねているところがいい」などといった声が出るたびに、みんなが笑顔になります。山口さんの似顔絵が描き上がった時には、「これはめちゃくちゃだ」と思いました。しかし、目だけは山口さんの目そっくり、この大胆かつ独創的な作品にみんな爆笑でした。

 この日、中野さんは似顔絵だけでなく、お連れ合いの手づくり料理、私が持ち込んだ母の漬物、ツノハシバミの実なども描きました。中野さんの描いている様子があまりにも楽しそうだったので、私も山口さんも似顔絵描きに挑戦しました。中野さんいわく、「おれが描いていると、みんなが自分も描けそうだと思うんだよな」。

 似顔絵を描いてもらい、自分でも描き、改めてわかったのは、似顔絵ひとつで笑顔が生まれ、人間同士が仲良くなることです。中野さんが初めて訪問したベトナムで、言葉をかわすこともできないのに、楽しい交流ができた理由がよくわかりました。
 (2011年10月16日)



第173回 衣替えの頃に

 朝晩ぐんと冷え込むようになりました。つい先だってまではバスタオルを1枚、腹に巻いていれば眠れたのに、いまは、毛布に布団を重ねてかぶせ、そのなかで体を丸めています。

 10月は衣替えの月です。子どもの頃から、6月と10月は衣替えをするものだと教え込まれていましたので、冬服から夏服へ、夏服から冬服への衣替えにはあまり抵抗感がありません。それにしても、今年の10月のはじめは衣替えのタイミングとしてはどんぴしゃでした。冬服に変えざるをえないほど急激に冷え込んだからです。

 私の場合、太っていることもあって、ちょっと動くとすぐに汗ばみます。ですから、よほど寒くならないと半袖から長袖シャツへの切り替えはしないのですが、今年は我慢ができませんでした。さっさと長袖シャツを出して着ました。ただ、半袖はまだ全部しまわないでいます。時々、半袖の上にジャンパーを着ることがあるからです。これは寒暖の差が大きい時にはとても便利なのです。

 この10月は最低気温が10度を割る日がありました。妙高、火打などの頸城三山で初冠雪をみた日です。油断をして風邪をひいてしまった人もけっこうおられるようです。かく言う私も、じつは鼻がぐずぐずしています。原因は風呂上がりに夏場と同じ格好で寝てしまったからですが、これにはまいりました。衣替えの基本は暑さ寒さなどから身を守ることであることを忘れてはなりませんね。

 衣替えをした時、何となく気分も変わります。6月、私はたいして暑くなくとも半袖にします。半袖にすると、何よりも身軽になります。そして分厚いものを脱いで楽々した時の解放感がいい。家の中にじっとしていないで、いっときも早く外に飛び出したくなります。

 10月の場合はというと、その逆。軽い服装から、今度は全身を包む服装に替わります。着ているものの色にもよりますが、一定の重量感があって、身も心も落ち着きが出てきます。そのせいだからでしょうか、半袖シャツ姿の人よりもスーツを着ている人の方が落ち着いて見えることがあります。

 私が小中学生だった頃、私のまわりでスーツ姿で仕事をしている人といえば、学校の先生くらいなものでした。どの先生も人生の達人という気がしました。いまから思うと、それだけ優れた先生方が私のまわりにおられたということですが、なかには、近寄りがたい雰囲気を持った先生もおられました。

 その代表格は、私が源小学校1年生の時から源中学校2年生まで校長だった熊倉平三郎先生です。たぶん、源中学校の2年生の頃だったと思います。初めて校長室に入った時は緊張しました。何の用事で入ったのかはまったく憶えていないのですが、記憶に鮮明に残っているものがあります。校長先生の愛用されていた極太の万年筆とスーツ姿です。このふたつだけで私は圧倒されてしまいました。熊倉先生については、校長室での印象が強く、不思議なことに夏服の時の姿はいまも思い浮かべることができません。

 さて、今年の10月は1日が土曜日だったこともあって、妻の最初の勤務日は3日となりました。出かける時に妻が着てきたものは、だいだい色と緑色などのチェック柄のシャツでした。これまで着てきた夏服とは違った、とてもいい感じが出ていたので思わず声をかけました。「おや、母さん、秋になったね」と。
  (2011年10月9日)



第172回 父の思い出の地

 岩室温泉に行ったらぜひ訪れてみたいと思っていたところがありました。近くにある宝山酒造です。ここは父が長年にわたって出稼ぎ先としてお世話になっていた造り酒屋さんで、その当時の写真はわが家に何枚も残されています。

 訪ねたのは9月の土曜日。朝6時半頃、ホテルを出発しました。前日までとは打って変って、この日は快晴、ひんやりとした空気がじつにさわやかです。北国街道を弥彦方面へと車を走らせました。岩室温泉病院を過ぎ、宝山酒造が近くなると、なぜか胸がドキドキしました。父の思い出の地に行くことがこんなにもうれしさを伴うものだとは思っても見ませんでした。

 酒蔵はすぐにわかりました。白い壁と黒い下見板がとてもきれいです。駐車場に車を止めて、宝山酒造の建物を眺めました。大きな欅が2本あり、そのそばには欅とほぼ同じ高さの灰色の煙突がすくっと建っていました。煙突には「地酒 宝山」と書かれています。「ここかぁ、親父がいた酒屋は……。この煙突、どこかで見たな」そう思いながら車を下りました。

 この時は、朝早い時間だったので、建物のまわりをゆっくりと歩いて見させていただきました。玄関のところの黒い柱に「電話三番」という小さな板が打ちつけられています。石瀬簡易郵便局の方から見ると、瓶詰の工場の中も見えました。親父たちが寝泊まりしていた部屋はどこらへんにあったのだろうかと気になりました。蔵人たちが休憩し、酒を飲んでいた部屋もあったはずだ……。

 10分ほど見学させてもらった後、ホテルに戻ったものの、なぜか落ち着きません。それで思い切って、宝山酒造へ電話をしてみました。「40年ほど前に上野武夫さんと一緒にお世話になった橋爪の家の者ですが、蔵の中を見せていただけないでしょうか」と言うと若女将らしい女性が快く、「どうぞ、お出でください」と言ってくださいました。

 午前9時過ぎ、再び宝山酒造へ。受付の女性が私の到着を告げると、案内役として出てきてくださったのは白髪が素敵な女性でした。おそらく、先代の女将さんかと思います。

 仕込み蔵の暖簾をくぐると左手に大きな和釜がありました。正面には酒を搾る機械がどんとすわっています。「昔は舟で酒を搾っていましたよね」と言うと、「蔵のなかで新しく入った機械はこれぐらいなものです。他はみんな昔のまんま……」という答えが返ってきました。言われてみると、私が40年前、八王子市の小澤酒造で一冬だけ仕事をさせてもらった時に見たものとほとんど変わりません。そのせいでしょうか、蔵の中にいると懐かしさでいっぱいになりました。

 蔵人たちが寝泊まりしたところも特別に見せてもらいました。酒造りの道具や機械が40年前とほぼ同じだけでもうれしかったのですが、風呂場も休憩所も親方さんの部屋も食堂もなんと昔のまんまだというのです。これには感動しました。

 小さなホーローの風呂桶、畳が敷かれた休憩所、食堂の、茶わんや箸を入れる引き出しが付いた長いテーブルなどを見た時、「親父も、井戸尻の父ちゃんも、上野さんも、常山さんも、秦野さんも、みんなここにいたんだな」と思い、懐かしさとうれしさで胸がいっぱいになりました。父や井戸尻の父ちゃんや上野さんはすでに亡くなっています。でも、宝山酒造へ行ったら、この3人に会えたような気がしました。
  (2011年10月2日)



第171回 心の故郷

 私の方を見ている女性の姿を見た瞬間、うれしくなりました。私を出迎えるためにずっと玄関前に出ていてくださったのです。初めて出会うおばあちゃん、イクさんは間違いなく、この人だと確信しました。

 ひと月ほど前のことでした。柿崎区に住むイクさんが私のところに電話をかけてこられたのは。イクさんは、この「春よ来い」の第164回「故郷」を読み、「私のところに『幸せめっけた』(恒文社)があるよ。読みたい人がいるなら、その人にあげて」と連絡してきてくださったのです。

 以来、イクさん宅に行って、いろんな話を聞かせてもらおうと思っていたものの、なかなか時間がとれませんでした。ようやく時間をつくれたのは、この間の日曜日です。「これからお茶をご馳走になりに行きたいと思うんだけど、いいですか」と私の方からイクさん宅へ電話しました。即座に「来てくんない。待ってるすけ」という言葉が返ってきました。

 イクさん宅は、わが家から車で10分くらいの距離にある柿崎の街なか。電話で聞いたところ、30年ほど前にわが家の子どもたちがお世話になった小出さんや長井さん宅の近くだということでした。それならわかると軽く考えていたのが間違いでした。イクさん宅がどこかすぐにわからず、迷ってしまったのです。

 車から降りると、イクさんは、「さぁさ、入ってくんない」と私を一番奥にある居間に案内してくださいました。隣の家との間にわずかながら空き地があり、そこから入りこむ風がすずしい部屋です。

 飯台の上には、『幸せめっけた』1冊と尾神岳での雪崩事故のことを綴った記事のコピィ、漬物、それにフキの甘煮が置いてあります。イクさんはお茶を入れた後、本の中に書いてあることを中心にこれまでの人生について語り始めました。

 イクさんは柿崎出身ですが、お連れ合いは吉川区尾神の出身で、すでに亡くなっています。お連れ合いが元気だった頃はいうまでもなく、亡くなってからも夫の故郷である尾神を何度も訪ねてきたといいます。尾神のことについて、あまりにも詳しいので尾神で生まれ育った人だと錯覚するほどでした。

 もちろん、尾神についてすべてを知っていたわけではありません。例えば尾神にある大きな池、「深田の池」についてはよくご存じでしたが、私が本の中で書いた「ヨドの池」のことはまったく知らなかったとのことでした。イクさんは、尾神のこととなると、強い関心を持ちます。1883年(明治16)年3月12日、尾神岳で27名の犠牲者を出した雪崩事故についての専門的な記事のコピィが飯台の上にあったのもそうしたことのあらわれでした。

 私の本に登場した人物についても、イクさんは次々と語ってくださいました。「祝言の写真、本に載っていたけど、あれは順作さんだねかね」「つらいことがあった時、ミヨセさんから、がまんしないやと何度も言われ、励まされたもんだわね」……。夫の故郷での様々な人との出会いやドラマを教えてもらい、時間がたつのを忘れてしまいました。

 イクさんは現在、88歳。お連れ合いの実家はすでになくなっています。それでも、そこはイクさんにとっては大事な心の故郷です。1年に2回、春と秋には旧水源分校を改造してできた宿泊施設・「スカイトピア遊ランド」に泊まり、故郷の空気を吸っています。今度、尾神に来られる時には、私も出迎えたいと思います。
 (2011年9月25日)



第170回 月さんを囲んで

 毎日のように手紙が来て、電話もある。相手は短歌の仲間、平和と民主主義を求めて運動する仲間、兄弟など様々です。その人たちとのつながりをいつも大切にして、小さな新聞を毎月発行している人を囲む会が先日、牧区の深山荘でありました。

 小さな新聞のタイトルは「ざ・むぅん」。発行人は上越市大和在住の柳川月さん。1972年1月に創刊し、8月末で346号になりました。日頃の思いを綴ったエッセイ、短歌、いろんな仲間との交流記録等をB5サイズ4ページ建ての新聞にしています。月さんは先だって、百歳まで書き続けることを約束して話題になりました。

 私がこの会に参加したのは、「ざ・むぅん」発行の裏話や月さんの文章、短歌などへの思いをたっぷりと聞きたかったからです。それだけに、月さんの話が始まる前からどんな展開となるのかワクワクしました。

 この会のメインは月さんの「90年の人生を語る」です。竹製の座イスに座った月さんは、製本された「ざ・むぅん」の1ページ目を開き、創刊号の最初の部分を読みはじめます。「暖冬異変の毎日をどうおすごしでいらっしゃいますか。“このままではすまないだろう、気味が悪いね”そんな声が聞かれるふしぎなことしの冬です」月さんの、歌声のような澄んだ声が部屋に響くと、会場の和室はシーンとしました。そして、続いて朗読された「あの日のまま」という詩、

 雨漏りの天井と/ささくれたたたみと/凩のメロディーをうたう破れ障子と/うっすらとホコリをおいた白黒テレビと/立てつけ悪い玄関の戸と……(中略)みんなあの日のままですが/あの日のものでないものが ひとつ/仏だんの奥の/ま新しいあなたの位はい……

 前年に亡くなった夫を恋う想いがビンビンと伝わってきて、胸が熱くなりました。「ざ・むぅん」の出発点は夫への愛情だったのです。

 文章を書くことが好きな月さんですが、それは子どもの頃からのものであることも初めて知りました。

 月さんは、小学生の4、5年生の頃からお母さんに頼まれて、手紙の代筆をしていたといいます。月さんのお母さんは文章を書けないわけでもないのに、親戚などに出す手紙を月さんに頼みます。もちろん、何を書くかについては、自分で考えていることを少しばかり話して……。月さんが面倒くさがって、2、3日ほったらかしていると、お母さんは「手紙出してくれたかい」と催促。仕方なしに書いていたそうです。でも、手紙を受け取った人たちの反応がとても良かった。「親戚の人が文章もいいし、字もうまいと言ってくれたよ」とお母さんから教えてもらった月さんは、その後、文章を書き続けるようになったのでした。

 月さんは、この他、家族がレッドパージに遭った時のことや、会に参加した一人ひとりとのつながりなどを丁寧に語り続けました。自分のことを語るだけでなく、参加者を話の中に登場させて静かに引き寄せていく、その見事さにうっとりとしました。

 「月さんを囲む会」には、地元はもとより、北海道や富山県などから元教師、ピアノの調律師、税理士など20数人が集まりました。調律師のMさんが、「月さんには『ばあちゃん』という言葉が似合わない。やっぱり、月さんと呼びたくなる」と言っておられましたが、参加者はみな、親しみと尊敬の念を抱いていましたね。

 月さんはこの日、終始笑顔でうれしそうでした。ぜひ百歳まで書き続けてほしい。
  (2011年9月18日)



第169回 有線放送

 スピーカーからラジオ放送が聞こえてきた時、理髪屋さんにいた人たちはどれほどうれしかったことか。1937年(昭和12年)、全国初の有線放送は東頸城郡牧村大字原の明願寺から近くの理髪屋さんへ針金を通して送信されたことでスタートしました。先日、明願寺の住職、池永文雄さんから当時のことを教えてもらいました。

 1930年(昭和5年)に神戸から郷土に戻ってきた先代住職の池永隆勝さんがラジオを購入し、放送を聴けるようになったのが1936年(昭和11年)。お寺に出入りしていた近くの理髪屋さんは、詩も短歌も作る文化人でしたが、ある日、隆勝さんに「このラジオ、ちょっと家でも引いてもらえんだろうか」と頼みます。それで、高田の電気屋の技師さんから来てもらい実験をしてもらったところ、ラジオのある部屋からまっすぐ線を引き、山門にガイシを付けて、途中に支えをつくれば理髪屋さんまで引けるということがわかりました。音がとてもきれいに入って、調子が良かったといいます。

 スピーカーから流れてくる放送を聴いたお客さんたちは、理髪屋さんに「あんたんとこ、電気入っていないのに、どうしてラジオ鳴っているの」と不思議がり、話はすぐに近所に広がりました。アンプをつけて増幅器を大きくしていけば、3台くらいは付けられることがわかり、この年は3軒に広まったということでした。

 さらに広がって、ラジオ共同聴取の会をつくったのが1939年(昭和14年)です。隆勝さんは、マイクロホンを設置するとともにレコードプレーヤーを入れました。当時のラジオ放送は、お休みの時間帯がかなりありました。隆勝さんがその時間を利用して自主放送をやられたというから驚きました。浪曲や歌謡曲などの娯楽を提供し、地域情報も伝えました。「ご連絡します。あらかじめご承知置きください」と言うのが口癖だったことから、隆勝さんは「あらかじめのお寺さん」とも呼ばれたそうです。この共同聴取は1945年(昭和20年)には560戸に広がりました。

 明願寺からの有線放送のことをお聴きしたその日、全国家族新聞交流会の仲間のみなさんとともに庫裡(くり)の2階に上げさせてもらい、放送設備やレコードなどを見せていただきました。そこで、とてもうれしいことがありました。全国でいくつも残っていないという昭和初期の蓄音機、フィルモンを池永文雄さんが動かし、そこから流れる音を聴かせてくださったのです。私にとってはもちろん初めて、まさに感動のひと時でした。

 フィルモンから聞こえてきたのは、浪曲師、浪速亭桃太郎の『天野屋利兵衛、男でござる』。赤穂浪士、大石内蔵助を助けた浪速商人・天野屋利兵衛の物語です。「ペンペンペンペン……。そちはあっぱれの志の持ち主じゃのう。昨日まで、その方に白状させようと松野がかけた拷問をよくこらえた。そちが拷問をこらえておることを……」セリフも三味線の音もハッキリと聞こえました。そして、私には昭和の10年代、理髪屋などのスピーカーのそばで明願寺からの放送を真剣に聴き入る人たちの姿も浮かんできたのです。

 私が有線放送に初めて出合ったのは、いまから50年ほど前です。黒いスピーカーからは源農協などからのお知らせが伝えられ、「○番さん、○番さん」と交換手さんの呼び出しの声がかかると電話にもなりました。その有線放送の出発点が上越市牧区にあり、全国に広まったというのです。有線放送初期の頃のことを知り、うれしくなりました。
  (2011年9月11日)



第168回 いとこ会

 「足谷」がまた雨にやられて元気をなくしているようだ。見舞いに行こう。そう言いだしたのは習志野市のエツオちゃん、私の従弟です。エツオちゃんは先日、埼玉県入間市に住む従妹のトモコちゃんとともに上越市大島区まで足を運んでくれました。

 大島区は7月30日の新潟・福島豪雨で大きな被害をこうむりました。「足谷」というのは足谷という所に住んでいた従兄、アイジさんのことです。稲作を中心に農業を営んでいますが、6年前の梅雨前線豪雨で農地が土砂に埋まりました。昨年は干ばつ被害で打撃を受け、今年こそはと張り切っていたところで、再び農地に大量の土砂が流れ込んだのです。がっくりしたのは言うまでもありません。

 エツオちゃんとトモコちゃんが関越道を車で走らせてやってきたのは8月下旬の土曜日でした。二人は被災した足谷の田んぼを見て、大島区の親戚3軒にも顔を出してきました。そして夕方には、この日の宿と決めている民宿の「伊作」に入りました。「伊作」は二人のお気に入りの宿です。

 じつは、この日、二人が出かけてきたのは豪雨災害見舞いのためだけではありません。初めての「いとこ会」を計画していたのです。これまで、葬式とか法事でもないかぎりみんなが集まることはありませんでした。「せっかくだから、いとこ同士でいっぱいやろさ」というのがエツオちゃんの提案でした。会場は「伊作」、急な企画でしたので、比較的交流の多い、いとこたち数人に声をかけて実現しました。

 「いとこ会」は午後7時から。私は、この日、吉川区の山間部で法政大学米米クラブの「ゆい祭」があって、「いとこ会」に合流したのは、午後7時半頃でした。すでにエツオちゃん、トモコちゃんのほか、アイジさんなど大島区在住のいとこのうち、三人が集まっていました。

 私以外は、みんな酒に強い人ばかり。すでに生ビールや酒をかなり飲んでいたようです。私が合流すると、いとこたちは、「よし、ノリカズも来たことだし、練習はやめて、これから本番だ」そう言って乾杯をしました。木製の大きなテーブルの上には、魚の刺身、牛肉、カニなどのご馳走が所狭しと並んでいましたが、食べ物にはあまり手をつけず、話に夢中になりました。

 「『のうの』(母の実家の屋号)の家に行った時、玄関のそばに牛がいたでしょ。その隣に板を並べただけのトイレがあったよね。あれって、下の方で人間のものと牛のものが一緒になっていたんじゃないの」「五右衛門風呂にもびっくりしたわ。背中が風呂釜に当たると熱くて……」トモコちゃんが子ども時代に大島へ泊まりに来た時のことを語り始めてからは、昔話に花が咲きました。

 「昔は直江津の駅で降りてさ、それからバスに乗ってきたんだよ。帰りは『のうの』の伯父さんが大平まで送ってくれた」「千葉の家に行った時、ハマグリと落花生、いっぱいもらったもんだ」「風呂場が薄暗くてさ、風呂の上の方に浮いたアカなんか、おかまいなしに顔を洗ったもんだこて」懐かしい話の連続に、いつもなら酒が入ると眠たくなる私も、眠気を催すことはまったくありませんでした。

 たっぷり飲み食いして、最後は記念撮影です。私のデジカメで撮ることにし、「伊作」のお母さんに撮影をお願いしました。私から「はい、3ひく1は?」と言うと、いっせいに「2」。撮れた写真は全員が笑顔、まるでキョウダイのような雰囲気が漂っていました。
 (2011年9月4日)



第167回 もぎ時

 「ポン、ポン」「ポン、ポン」県庁の生協売店で、やってしまいました。大きなスイカが台の上にいくつも並んでいたので、つい、たたいてみたくなったのです。もちろん軽くですが。スイカは「八色西瓜」、いずれも食べごろのいい音がしました。

 「いい音するねぇ。こりゃ、食べごろだ」そうつぶやくと、売店の係の女性が「わかるんですか」と私に声をかけてきました。「もちろん、わかりますよ。昔からたたいてきたんだから」と私は答えたのですが、正直言って、もう何年も畑のスイカをポンポンとたたいていません。県庁の売店では、かつて身につけた感覚を確かめるような気持ちでスイカをポンポンとやりました。

 言うまでもなくスイカは、夏の食べ物のなかでも最高の美味しさを持った食べ物のひとつです。タヌキやハクビシンによる被害がなかったころには、どこの農家でも畑につくっていました。

 わが家では、8月のお盆前から収穫できるようになり、稲刈りの中間頃までスイカを楽しんだものです。暑い盛りに横井戸で冷やしたスイカを家の中で食べるのも美味しいものでしたが、忘れられないのは田んぼの畦で食べたスイカです。稲刈りの合間というか休憩時間に、祖父や父母が稲刈り鎌でスイカを割り、食べさせてくれました。のどをうるおし、口に中に広がる甘味は文字通り最高でした。

 スイカを収穫することを、私たちのところでは「スイカをもぐ」と言います。畑から初めてもいできたスイカは仏壇に上げた後、家族みんなで食べました。その後は、熟したものから順にもいできました。スイカをもいでくるのは、父や母だけではありません。子どもにもまかされることがありました。

 スイカには熟した時にもぐ、いわゆる「もぎ時」というのがあります。誰に教わったのか記憶していませんが、玉をつけている枝の付け根に一番近い巻きひげが枯れたかどうか、スイカを軽くたたいた時にいい音がするかどうかがポイントです。私の場合、スイカを手で軽くポンポンとやって熟しているかどうかを確認してきました。実が熟しているスイカは、横腹をたたくと心地よい、軽い響きがします。一方、まだ熟していないスイカは重い音で、あまり響きませんでした。

 畑でつくっていたものはスイカだけではありません。今ごろですと、キュウリ、ナス、カボチャ、マクワ、マクワウリ、トマトといったところでしょうか。いずれも収穫時期というものがありますから、キュウリなら、実についていた花が枯れる、トマトなら色が赤くなるといった「もぎ時」の知識が必要でした。

 憶えたつもりでも適期の判断が難しかったのは、マクワウリでした。まず、実が大きくなって黄色くなっていることが大前提です。そして、つると実をつないでいる「つぼ」という部分がはずれそうになって、マクワウリ特有のいい香りが出てくる、ここが適期です。ところが、この適期が意外と短かい。もぐのがちょっとでも遅すぎると、甘味は増すものの、実の頭部にひび割れがはじまってしまうのです。

 スイカのポンポンという音、マクワウリのぷーんと匂ってくる甘い香りなど「もぎ時」を知ると、実の美味しいところも意識するようになります。先だって、ある人から、マクワウリについて「内緒ですが、種のところが一番おいしい。刺さらないように気をつけながら、筋になっているところをすすりながら食べた」と教えていただきました。そう言われると、スイカも種の周りが一番甘かったような気がします。
  (2011年8月28日)


第166回 百日紅(2)

 「なんだ、ここにも咲いていたのか」妻の実家の墓参りに行き、墓のすぐ近くにある百日紅を見て、うれしくなりました。手前の階段のところから見上げると、鮮やかな赤い花が青い空にパッと咲いています。それもひとつだけでなく、いくつも。

 じつはこの日、妻も私も百日紅(さるすべり)の花が頭から離れなくなっていました。金沢に住む次男夫婦が帰ってきていて、母が炊いた赤飯を家族みんなで食べた後、金沢で撮影したという花火の動画をテレビで再生して見ました。その花火の映像を見た妻が、わが家の庭に咲いている百日紅を思い浮かべたのでしょう、「百日紅って、花火みたい」と言ったのです。

 以来、吉川区尾神(蛍場)にあるわが家の墓参りをした時も、妻の実家がある柏崎へ行く時も、「ほら、あそこにも咲いている」「こっちには白い百日紅があるよ」と、どこへ行っても百日紅を探すようになっていました。言われてみれば、百日紅は夏の青空に似合いますし、木のあちこちに花を咲かせた姿は花火そっくりです。

 妻の実家のお墓は集落のほぼ真ん中にあります。集落は30数戸、そのうちのほとんどの家の墓がここにあります。道路から段々につくられている墓地の最上部には杉林があって、セミの鳴き声がじつに賑やかでした。

 墓場にあった百日紅は、幹の太さが直径10センチくらいです。幹はところどころツルツルになっていて、枝打ちした痕(あと)が2か所ありました。墓場に植える木ですから、天に向かって伸びるのはかまわないけれども、よその敷地まで枝を広げては困るということなのでしょう。

 私たちがお墓へ行き、先祖を迎えに出かけたのは午後5時頃でした。墓場は徐々に人の数が増え、30人近くになりました。どこの家も家族連れ、なかには親戚の人と一緒のグループもありました。みんな、小さい子どもからかなり高齢の人までお墓に来ています。先祖から命を受け継ぎ、親から子へ、子から孫へとつなげている、その姿がここにあると思いました。

 当然のことながら、それぞれの家族の間には何らかの横のつながりがあります。妻の実家の本家にあたる家は「大西」という屋号の家です。「『大』という字が屋号についている家というのは、力があったんだよね。分家を出すことができたんだから。お宅は分家をふたつも出したのだからすごいですよ」。義兄と「大西」の親戚にあたるという女性との間で話が弾んでいました。

 お墓のロウソクの火を提灯の中に移し、墓場から下りて舗装された市道を歩き始めた時のことです。墓参りを終えたばかりのおばあさんの両手を持って後ろ向きに歩く女性の姿が目に入りました。手を引いている女性はおそらく、おばあさんの家の嫁さんでしょう。2人が歩くテンポは言うまでもなく超スローです。そのうち、その嫁さんがおばあさんの左手をとって横に並び、声をかけながら歩き始めました。「はい、1、2、1、2、左足をちゃんと上げて、はい、左足をしっかり上げて……」その声は力強く、やさしさに満ちていて、素敵な光景でした。

 この2人が横に並んで歩く姿が気に入り、その後の帰り道は私も足を大きく上げて「1、2、1、2……」とやりました。墓参りに一緒に出かけた甥も、甥の子どもである小さな女の子もニコニコ顔です。

 妻の実家に着くと、玄関前の大きな百日紅の木が私たちを迎えてくれました。右に赤、左に白、花はとてもきれいに咲いています。                       (2011年8月21日)



第165回 盆参

 妻の父親が亡くなって初めて迎えるお盆、義母、妻の兄妹などと一緒に柏崎市安田にある慶福寺の盆参に出かけてきました。冬の葬式の時以来、何度か訪ねたことのあるお寺ですが、庭内をゆっくりと見たのも、本堂の中に入ったのも初めてでした。

 安田駅周辺が見える境内。大人の手で二抱えもある大きな杉が4本立っています。夏の強い日差しが大地をじりじりとさせるなか、アブラゼミとミンミンゼミが賑やかに鳴いていました。時々、北の風が石の階段にそって吹き上げてきます。「涼しいもんだね」「気持ちいい」などと言いながら、義兄夫婦と境内を散策しました。

 義母から声がかかり、本堂へ入りました。外にいてはわからなかったのですが、子どもやお年寄りなど大勢の人たちがそこにいました。少なくとも100人はいたでしょう。焼香台の置いてあるところで手を合わせている人、位牌を一つひとつ見ている人、久しぶりの再会を喜び合っている人たちなどでとても賑やかでした。

 位牌がずらっと並んでいるところに立っていると、義兄が「右から3番目のが家のだよ」と教えてくれました。妻の実家の位牌には、「先祖代々の霊位○○家」の文字だけでなく、「初右ェ門」という屋号も入っていて、とても身近に感じられました。

 盆参というのは宗派によって、中身も流れも違うのでしょうが、この日は初盆を迎える人たちは最初にお斎、続いてお経、法話という順番になっていました。

 縦長で足の短いテーブルをコの字形に並べたところがお斎の場です。座っていると、最初に麦茶が配られました。続いて、パック入りのお寿司、さらにお汁、漬物という順番で運んできてもらいました。お汁の中の具としては茄子、夕顔、それに油揚げも入っていたように思います。

 お斎の時の風景はまさに壮観でしたね。縦長のテーブルはコの字形でも長い部分が30メートルくらいの長さになります。その中央部に学校給食で使うものと同じバケツが4個ほどおいてありました。中に入っているのはお汁です。料理当番のお母さんたち数人が、首にタオルを巻き、エプロン姿でテキパキと動き回っていました。バケツの中の汁をお椀に入れる、お盆に入れて運ぶ、お代りいかがですかと声をかける、その熱気がすごかった。私も声をかけられ、お代りをさせてもらいました。

 お手伝いのお母さんたちの動きに混じって、良寛さんのような風貌をした安寿さんが、盆参に来た人、一人ひとりに声をかけておられました。すでに百歳を越えているということでしたが、人の肩に手をそっとおいて、「元気かね」と声をかける、その姿がじつにやさしく映りました。

 お寿司を食べながら、妻の実家と親戚の「街のおばさん」が思い出話を披露してくれました。「街のおばさん」の子ども時代、盆参は最高の楽しみだったそうです。出かけたお寺は、鯨波の妙智寺というお寺でした。食べ物が少なかった時代ですから、食べられるものは何でも食べました。お斎の時にはお汁を何杯もお代りしたとか。笑ってしまったのは、「いごねり」の話です。甘い羊かんが出たと思って食べたところ、「いごねり」だったというのです。

 私にとって慶福寺の盆参は初めてです。お寿司などをいただいていた時、人の話声が途絶えた一瞬があり、遠くから鳩の鳴き声が聞こえてきました。ふと、思い出したのは、「今度はお墓に行くことになる」と身振り手振りで語った義父の言葉です。今年の正月2日のことでした。この言葉が義父から聞いた最後の言葉となりました。

  (2011年8月14日)


第164回 故郷

 ポケットの中の携帯電話が震えだしたのはJR中央線の電車に乗っていた時でした。たいがいは6、7回の呼び出しで電話に出なければ、あきらめるものです。ところが、この時は20数回も呼び出しが続きました。

 電車の中での受信ですので、電話に出ることはできません。ただ、どこからの電話かくらいは確認できます。携帯の画面を見ると、見たことのない電話番号が表示されていました。何があったのかと心配になりました。

 東京駅に着いてすぐ、この電話番号のところに電話をしました。「すみません、いま、東京で電車に乗っていたもので……」と切り出すと、相手方から、「こちらこそ、急にお電話して申し訳ございません」との声が返ってきました。

 私に電話をかけてきたのは群馬県伊勢崎市にある高齢者福祉施設の勤務員のAさんでした。声を聞く限り、まだ30代の若い男性です。Aさんによると、最近、1人の高齢の女性が退所されたが、女性が大事にされていた1冊の本が行方不明になっていて困っているということでした。電話は、本をなんとか入手できないかという相談だったのです。

 その本というのは、私が10数年前に恒文社から出版した『幸せめっけた』でした。話を聞いて、とてもうれしかったのですが、その一方で、一体どういう事情でその女性が私の拙い1冊を肌身離さず持っていたのかということが気になりました。

 東京駅でしばらく考えたのですが、その時、ふと思い出したのは数年前に亡くなった足谷のチヨノ伯母さんのことです。伯母は80代の半ば頃から体調を崩し、県立松代病院に何度か入院していました。

 まだ、しっかりとした話ができた頃のことです。見舞った私に、伯母は大きな目玉をむいて言ってくれたのです。「この本はおらの宝じゃ」。本の中では、伯母のことについては「お盆泊まり」のところぐらいしか書いてありません。にもかかわらず、伯母がこの本を大切にしてくれたのは、自分が生まれ育った大島区旭地区のことが何回も出てくるからでした。

 伯母のことを思い出したことで、伊勢崎市の高齢者福祉施設に入っていたという女性は、どういう人かだいたい想像できました。「この人はきっと吉川区尾神出身の人に違いない」そう直感したのです。尾神から出た人で群馬に行った人といえば、私が知っているだけでも数人います。そのなかでも私の本のことを知っている可能性があるのはわが家の親戚か同級生の親です。親戚筋で高齢者福祉施設に入っている人は現在いませんので、そうなると、同級生の親しか考えられませんでした。

 東京から家に戻って、伊勢崎市にある施設のAさんに尋ねました。「差支えなかったら、そのおばあさんのお名前を教えていただけませんか」と。返答を聞いて、「やっぱり」と思いました。同級生の親のYさんだったのです。Yさんは、加齢に伴って物忘れがひどくなりつつあるということもお聞きしました。それでも故郷、尾神のことは忘れないで生きておられる、うれしくてうれしくて……。

 『幸せめっけた』はお陰さまで出版社にも本屋さんにも在庫がなくなりました。新品の本は、私の手元にある3冊のみです。そのうちの1冊をAさんのところに送りました。Yさんは40数年前に群馬県へと転居された方です。その後、Yさんにも、同級生にも一度も会っていません。無性に会いたくなりました。
 (2011年7月31日)



第163回 スモモ

 スモモを好きになったのはいつ頃からのことか。実が熟す頃になると、スモモのことが気になって、何となくそわそわしてしまいます。甘酸っぱい味が口のなかに広がる、それを想像するだけで幸せな気分になります。

 考えてみれば、私は子どもの頃からずっとスモモの木のそばに住んでいました。蛍場に住んでいた時には、わが家の前庭から10メートルほどのところにスモモの木が一本ありました。田植えが終わってまもなく、黄色い野イチゴを食べることができるようになります。その楽しみがなくなった頃、今度はこのスモモの実が注目の的でした。わが家のキョウダイだけでなく、近くの遊び仲間もみんな、いつスモモが食べられるようになるかを見ていました。

 そんなこともあって、スモモが熟す時期を待つ習慣みたいなものが身についています。今年も小さな実がなり始めてから、時々、スモモの木を観察してきました。

 現在、わが家の庭にあるスモモの木は亡き父が苗木を買ってきて育てたもの。幹の直径は20センチほどで、高さは5メートルくらいになりました。地面から1メートル50センチほどのところで2つに分かれ、枝を東西南北に広げています。

 木を下から見上げて観察する場合、実が小さな頃は探すのが難しいものの、実が大きくなるに従って、すぐにわかるようになります。問題は実が大きくなってから。熟す一歩手前の実か、それともすでに熟したものかどうか、これは見ただけではなかなか判断がつきません。直接手にふれてみるか、口のなかに入れてみるかしないと、なかなかわからないのです。

 先月の30日頃のことでした。スモモの木のそばに行くと、実はすでに大きくなっていて、小さいものでも直径3センチ、大きいものになると直径5センチにもなっていました。一番低い枝についていたスモモを一個だけもぎ、手で表面をさっとふいて口のなかに入れてみました。実はしっかりしていて、歯ごたえがあります。口のなかでじわっと広がった味は甘酸っぱくて、十分食べられる状態になっていました。「この味だ、この味だ」と喜びながら、立て続けに3個ほど食べました。

 食べることに夢中になっていると、目の前にあるスモモの木のことが頭から離れませんが、よその家のスモモのなかにもいいものがあります。その代表格は蛍場の叔父の家にあったスモモでした。実の表面は緑ですが、中身は赤く、甘味はわが家のものよりも上でした。子どもの頃は、いつもらえるかと楽しみにしていたものです。

 話を元に戻しましょう。わが家のスモモは今年はあまり生りませんでした。加えて、虫に食われてしまい、落下するものも少なくありませんでした。私が食べたスモモは、5日間ほどの間で20個ほどです。昨年、大きなかごに入りきれないほどたくさん採れたので、今年はいっぱいはならない年だと、ある程度は覚悟していたのですが、がっかりでした。

 そうしたなかで先日、吉川区内で「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしていた時、こんなことがありました。畑にいたTさんが、近くにあるスモモをもいできて、ニコニコしながら私の手に2個渡してくださったのです。

 スモモの色はわが家のものよりも赤みがあって、とても美味しそうでした。すぐにでも食べたかったのですが、そこは遠慮して、車を少し走らせてからいただきました。それにしても、美味しいものをお裾分けしてくれる人がいるって、うれしい。 
 (2011年7月24日)


第162回 還暦記念写真

 梅雨が明けて、真夏の太陽がギラギラと輝いている日でした。市内の山間部に住むMさん宅を久しぶりに訪問しました。Mさんは、家の近くにある畑で仕事の最中でした。声をかけると、びっくりした様子で手を休め、家に戻ってくれました。

 Mさんは絵が得意な人で、玄関先には、以前、Mさん宅で飼っていた柴犬の絵が置いてありました。いまにも絵から飛び出てきそうで、真に迫るものがあります。また、その近くには大きなしだれ桜の木の写真が2枚飾られていました。

「きょうはバカ暑いね。体重があるから、汗が出ちゃって……」と言うと、Mさんは、私の顔を覗き込むようにして「ウーロン茶がいいですか、それとも冷たいコーヒーがいい?」と訊きます。私はしばらく飲んでいない冷たいコーヒーをお願いしました。

 Mさんは、明るい性格の人で、とても話好きです。この日も、お盆に載せて台所から冷えた手ふきとコーヒーを持ってくると、冷たいコーヒーをどうつくったかなどについて楽しそうに語ってくれました。

 話がはずんで10分ほど経過した頃でした。Mさんは思いついたように、「ねぇ、ちょっと写真見てくれる」と言います。さて、何の写真だろうと考えているうちに、Mさんは家の中から大きな一枚の写真を持って出てきました。そうですね、縦40センチ、横30センチくらいはあったでしょうか。

 写真は何とMさん夫婦の写真でした。ピンクのドレスを着て、左肩に淡いピンクのコサージュをつけたMさん。そして隣には、薄い水色のスーツを着たお連れ合いが笑顔で寄り添い立っています。撮影時にそばにいれば、拍手を送りたくなるような見事な写真です。Mさんが見てほしいと言いたくなる気持ちがよくわかりました。

 誕生月こそ違いますが、二人は昨年、満60歳に到達しました。写真はそれを記念して撮ったものです。

 撮影したのは今年の5月頃らしい。自分の家の中に真っ白のスクリーンを用意、それをバックに最高のおしゃれをして、自動シャッターで撮ったということでした。

 Mさんのピンクのドレスは、30数年前の結婚式の際、お色直しで着たものだといいますが、60歳の彼女が着てもまったく違和感がありませんでした。

「お色直しをした時のドレス」という話を聞いて、青年団の仲間たちが地元の集落センターで開催した二人の「結婚を祝う会」のことを思い出しました。祝う会はとても盛り上がり、若い二人の出発を励ます会になったのですが、二人の歩みがスライドで上映された時、一つだけ気になったことがありました。それは海でダイビングをする新郎の趣味でした。当時、世間知らずだったんですね、私は。ダイビングは大金持ちの遊びだと思っていたのです。正直言って、そんな遊びをしていていいのだろうかと、心配しました。

 言うまでもなく心配ご無用でした。お連れ合いは人一倍やさしく、誠実な人で、夫婦が抱えるどんな困難も一緒になって解決する人だったのです。  写真の説明を続けるMさんに、「ねぇ、お父さんの左手ってどこにあるの?」とたずねました。すると、Mさんいわく、「私の背中。ほんとうは肩を抱いてくれたんだけど、そうすると彼の肩の位置がおかしくなるんだって……」。幸せいっぱいの還暦記念写真、ああ、うらやましい。
  (2011年7月17日)



第161回 長峰池

 歩き始めて5分ほど経った頃だったでしょうか。池の中央部で突然、「バシャッ」という音がしました。一瞬、何が起きたかと思ったのですが、水面に波紋が広がっていくのを見て、魚が跳び上がったことを知りました。

 7月上旬の早朝、吉川区にある長峰池をめぐる遊歩道を歩いていた時のことです。波紋の大きさからいって、跳び上がった魚はかなり大きい。たぶん鯉でしょう。空中に飛ぶ蚊でも目に入ったのでしょうか。それとも、体がむずむずしたり、ストレスでも溜まったりして、たまらず跳びはねたのでしょうか。

 そんなことを考えながら歩き続けているうちに、今度は遊歩道のすぐそばにある松の木が目に留まりました。高さはまだ2、3メートルしかない若い木ですが、新しい葉の近くに松ぼっくり(松傘)がいくつもついています。これまで、秋にしか見たことがなかったので、緑色をした、生長過程にある松ぼっくりがとても新鮮でした。これからどんなふうに色が変わって、傘が開いて行くのか気になります。

 池の南西部、一番奥のところに湖上遊歩道があります。水中にある足場の上に厚い板を横に3枚並べ、幅が約1メートル、長さ100メートルほどの道が造られています。池の水位と板の高さがほとんど同じなので、遊歩道が湖面に浮かんでいるように見えます。

 湖上遊歩道からは水面や水中などの生物を観察できます。階段を下りて、板の道を歩いた時、まず気付いたのはトンボでした。胴体が青っぽいので、コフキトンボかシオカラトンボのどちらかです。朝日が当たり始めたばかりの湖面を何匹ものトンボがすべるように飛んでいました。

 板の上でしゃがむと、小さな虫がスッ、スッと動いているのが見えます。アメンボです。そして、もうひとつ、ミズスマシでしょうか、こちらは水面をぐるぐると動き回っています。目線を低くしただけで、普段見ることのない世界が見えてきます。おもしろいものですね。

 湖上遊歩道から堤(つつみ)の遊歩道へ戻ろうとしたところで、鐘の音が響いてきました。朝を知らせる光円寺の鐘の音です。池の南側の丘陵地を越えて来る、長く、ゆったりした音は、数百年も前の遠い昔から届けられた音のように聞こえます。

 南側の丘陵地にはご存じのように、長峰城がありました。1616年(元和2年)といいますから、今からちょうど405年前に牧野忠成の手によって築城され、わずか2年間で廃城となりました。謎の多い城です。ここのコナラやヤマザクラなどの雑木林は今、緑一色ですが、春と秋には、花と紅葉で美しい景観をつくりだします。

 長峰池の南側から東側の遊歩道周辺は野の花の宝庫です。この日、出合った花だけでも、ホタルブクロ、トリアシショウマ、ヨツバヒヨドリ、オカトラノオ、ヤマアジサイなど十数種にのぼりました。花どきを迎えて今、一番美しいのはホタルブクロとヤマアジサイです。カメラを持って歩くと、どうしても立ちどまってしまいます。

 長峰池は東西約1キロメートル、幅250メートルほどの池です。この池は縄文時代、地球的規模の温暖化により大陸の氷河が溶け出し、海水が流れ込んだ歴史があって、かつては淡水と海水が混じり合ったところに生息するというイサザアミやケブカヒゲナガケンミジンコなどがたくさんいたといいます。池をめぐる遊歩道の長さは2.6キロ。歩くと、いろんな発見がありますよ、この池は。
  (2011年7月10日)


第160回 蛍場

 私が少年時代を過ごした場所は吉川区尾神の蛍場というところです。蛍場というのは小字名で、そこに住んでいる人たちは「ほとろば」または「ほたるば」と呼んでいました。私が蛍場の出身であることを初めて知った人の多くは、「いい名前だね」とほめてくださいます。

 いまから50年ほど前、蛍場には「さくらさわ」「おおひがし」「ひがし」「おおにし」「かみ」「いどんしり」「むこう」、そしてわが家の「ほーせ」(いずれも屋号)の8軒がありました。いまは4軒(全部で5人)だけになってしまいましたが、蛍場に8軒あった頃、子どもは大勢いましたし、蛍場という名前の通り、ホタルがたくさんいたのです。

 当時、わが家の前に釜平川(がまびろがわ)という川がありました。と言っても、距離的には100メートルほど離れていましたが。蛍場と釜平というところの境に、川幅がわずか1メートルほどの小さな川が流れていて、釜平川に流れ込んでいました。この小川の周辺がホタルたちの棲家でした。

 ホタルが出るのは6月の半ば過ぎ、わが家の庭にあった梅の木の実をもぐ頃でした。暗くなって、わが家から釜平川の方面を見下ろすと、左の方にホタルが放つ無数の光が見えました。そのうちの何疋かはわが家まで飛んできました。

 蛍場の子どもたちは、小川周辺に飛ぶホタルを採って遊びました。小川まで持っていったのは草ぼうき、または竹ぼうきでした。ほうきをサッとひと振りするだけでホタルを採ることができたものです。

 すっかり生活の中に入り込んでいたホタルも、農薬などの影響があったのでしょうか、私が高校へ行く頃にはほとんど姿を見ることができなくなりました。それからしばらくホタルのことを忘れていました。

 私がホタルのことを思い出すようになったのは50歳前後の頃です。野に咲く花が好きになり、いろんな野の花を求めるようになりました。そこで頭に浮かんだ花のひとつがホタルブクロでした。この花は蛍場に住んでいたとき、わが家の土手や釜平というハサ場へ行く途中に咲いていました。

 ホタルブクロの開花とホタルの出る時期がほとんど一緒であることを思い出したのも10年ほど前のことです。子どもの頃、ほうきで採ったホタルを花の中に入れた記憶が蘇ったのです。その花をチョウチンバナ(提灯花)と呼んでいたことも。

 以来、ホタルブクロが咲くと、ホタルを見に行きたくなります。どういうわけか、私とホタルとは縁があり、いま住んでいる代石(たいし)の近くでもホタルを見ることができます。場所は大出口川とその周辺の用水路です。

 先日もホタルを見に出かけてきました。蒸し暑い日でしたので、夕涼みがてら、歩いて大出口川へ行きました。県道から川の近くまで行くと、右にも左にもチカッ、チカッと光るものが見えます。さらに進んで農道橋へ。欄干から川下を見た瞬間、「わぁっ、すごい」と思いました。数十疋のホタルが上に下に横にと飛び交っていたのです。そこはまさしく「蛍場」、子どもの頃に見た風景と同じでした。

 「蛍場」は私のふるさとです。ホタルを見ただけで心が休まります。最近、気になっているのは、子どもの頃に見た「蛍場」がどうなっているかです。ひょっとするとホタルが復活しているかも知れない。もしそうであるなら、どれほどうれしいことか。
 (2011年7月3日)

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