おはようございます。今朝は7時近くまで寝ていました。寝たのは午前2時ですから、しょうがありませんね。外は曇り空。これから崩れていくのかも知れません。写真はミヤマヨメナです。ササユリとほぼ同じ時期に咲くのですが、忙しくて咲いているところへなかなか行けませんでした。今年も会うことが出来てホッとしています。
昨日は総務常任委員会でした。付託された案件では、発言は少なく、市の総合計画の後期基本計画策定に関する所管事務調査の方がむしろ発言がありました。前期基本計画が検証され、課題の洗い出しなどが行われていますが、後期基本計画がどんなふうにまとまられていくのかが気になりました。分厚い冊子の改訂版が出されるよりも、後期基本計画は別の冊子になった方がこれまでの前期計画と比較もでき、いいと思うのですが、今後の動きに注目です。
昨日の総務常任委員会では、「核兵器禁止条約の調印を求める意見書の提出に関する請願書」の審査も行われました。冒頭、説明に立った新潟県原爆被害者の会の会長、山内悦子さんの話は感動的で、委員会室は静まり返りました。山内さんは90歳とか、じつにしっかりしておられましたね。
以下は山内さんの発言の大要です。
「私は女学校4年生の時に広島で被爆した。父は内務省、いまで言えば国土交通省職員。(学徒動員で)私の会社は爆心地にあったが、原爆が落とされる2週間ほど前に、引っ越していたから、こうして生かされている。髪の毛はすぐに抜けず、3年ぐらいたってから抜けた。髪も眉もまつ毛も抜けると、自分の顔を見るのも怖いぐらいだった。夫はあわれと思ったのか、私を放り出しもしないでいてくれた。貧血がひどくて、私はじき死ぬと思っていた。でもあちら(お連れ合い)が先に逝き、私が一人残っている。いま、被爆体験の話をあちらこちらでしている。核兵器を持って平和など絶対ありえない。世界が平和になるには核兵器の廃絶ということを心から願っている。新潟には被爆者は最初300人ほどいた。全部、兵隊さんだった。とくに魚沼の方にたくさんいらした。いま、ほとんど生きていない。ティーンエイジャーで被爆したのは私ひとりだ。父の転勤で新潟勤務となり、私は新潟県人となった。私のつたない話を聴いていただき感謝している」
山内さんの説明後、質疑はなく、採決の結果、この請願は全会一致で採択されました。18日の本会議でも採択の見通しです。
委員会が終わってからは池田ちかこ県知事候補事務所で仕事をしました。選挙は最終盤です。県議補選について、マスコミから取材も受けました。
昨日は時間をもらい、地元で「しんぶん赤旗」日曜版の配達もしました。その際、家に寄ったのですが、母は「笹かんじょ」をしていました。弟が採ってきた笹の葉を選別し、一定の大きさごとに分類、100枚ごとに束ねていく作業です。今年はもうやめたのかと思っていたら、また再開しました。「笹かんじょ」をしている姿を見ると、ホッとします。
きょうは、これから「しんぶん赤旗」日曜版の残りを配達し、その後、池田ちかこ事務所に行きます。