おはようございます。今朝は曇り空となっています。ごみ出しをしてから、近くの田んぼを見に行きますと、Nさんが田植えをしていました。私が稲作りをしていた頃に比べると、田植え機はものすごく進化しています。しばらく、ぼけっと見学しました。
昨日はゆっくり過ごす予定でしたが、フェイスブックを開いていたところ、2年前の集会の写真が出てきて、急遽、「直江津空襲とと平和を考える会」(関川幹雄会長)の平和集会に出ることにしました。写真には今年亡くなった2人の友人の姿がありました。安部首相が憲法9条を変えると期限付きで約束するなど、とんでもない事態が進行している時こそ、平和集会もを成功させなければならない、2人がそう言っているような気がして直江津に急ぎました。
集会には25人ほどの人たちがつどい、児童文学者の杉みき子さんや地元のSさんなどが戦争体験を語りました。私もこの空襲のことを憶えている人の思い出を紹介し、平和を脅かしかねない政治情勢となっているなかで、「戦争のいたみを思い起こし、平和を考え続ける」ことの大切さを語りました。発言した人は、いずれも最近の安倍首相の憲法「改正」発言や共謀罪をめぐる国会の動きを意識していましたね。
直江津空襲は1945年5月5日、午前11時15分頃に米軍の爆撃機、B29が行ったものです。上越市黒井に50キロ爆弾を6個(「直江津空襲黒井の被爆・昭和20年5月5日」小林勉著)投下し、死者3人、重軽傷者4名という被害をもたらしました。空襲による犠牲者は新潟県内で初めてだったということです。
児童文学者の杉みき子さんは、杖をつきながらもしっかりと立ち、「夕べ、子ども時代の夢を見た。男女共学でない頃の教室で、男の子にどういうふうに声をかけたらいいかなどを相談していた。(中略)大勢集まっちゃいけない、そんなことが広がっていくのかな(と感じている)。そんなことが気になるまでにいまの世の中、あぶなくなっていそうだなと思っている。それにしっかり対抗していく気持ちは持ち続けたい。きょうのような集いでたくさんの力をいただくことをありがたく思うし、それを力に生きていきたい」とのべました。
興味深く聴いたのは関川会長の会の後半での話です。関川さんは、「爆弾が投下された時、私は2歳と4か月であまり記憶はないけれど、防空壕に入った記憶は鮮明にある。当時、この辺には防空壕がたくさんあった。いままで、信越化学とかステンレスに落とすのが外れたという説があった。ですが、最近、NHKが昔の記録を放送していて、広島に原爆を落とされたのは、そこに捕虜収容所がなかったからだと説明しているのを見た。信越化学やステンレスにはたくさんの捕虜がいた。捕虜の人たちを守るためにわざと避けて落としたという見方がある。じつは、長野オリンピックのときに上越市の聖火ランナーを務めた人にアメリカの元捕虜のザンペリーニさんがいるが、その人の伝記が書かれた『不屈の男』(角川書店)という本があって、その中に爆弾が投下されたときのことが書いてある。アメリカ側から見たものだ。この事件を理解する一助になればいいと思っている」とのべたのです。まだまだ解明すべきことが残っているなと思いました。下の写真は集会の最初の挨拶の時のものです。
関川さんの発言が終わって、「他にどなたか発言なさりたい方ありませんか」との声に応えたのはSさんです。Sさんは「ステンレスの防空壕にいたときに、爆弾が落ちて、帰りに見に行った。ものすごい穴だった。これで戦争負けるのかなと思った。いまはこうやって平和でいられるけど、切ない思いをした。いまは平和でいいです」と発言、参加者の心を揺さぶりました。
集会の最後は地元の詩吟グループのみなさんによる吟詠です。「北国の春」や「故郷」が集会での平和を守る決意と調和し、とてもいい雰囲気を醸し出していました。
きょうはこれから大島区の親戚で法事です。