おはようございます。今朝は5時半頃、布団の中で強い揺れを感じ目が覚めました。一瞬、地震かと思いました。わが家から県道柿崎牧線までは直線で30㍍ほどの距離にあります。おそらく、吉川橋架け替え工事の資材を運んできた大型トラックの音が聞こえてきましたので、その通行による揺れでしょう。県道に小さな段差があっても近所の家では大きな揺れが起きることがあるということがよくわかりました。写真は工事現場付近です。
昨日は生活相談などで市街地へ2度行ったほかは地元事務所にいました。睡眠不足がたたり、なかなか集中できなく仕事はまったくはかどりませんでした。こうした中、大潟区のHさんから電話がありました。新潟日報の1面に掲載されているシリーズ、「満州国策の果て」についてでした。昨日の記事に登場した本間キミさんとHさんのお母さんとは同級生だというのです。話がはずみました。
このシリーズ、「満州国策の果て」は今朝の朝刊で終わりました。かつて満州へ渡った源村開拓団の人たちと付き合いがあっただけに、今回の清和開拓団の悲惨とも言える歴史を綴った記事に引きつけられ、何度か涙を流しました。
シリーズのなかで登場した高野三郎さんと姉の本間キミさんは吉川区に係わりのある人です。昨日の本間さんの記事は切なかったですね。敗戦後8年経ち、ようやく日本に戻ったキミさんのことが書かれていました。船が舞鶴港に着き、胎内へ向かう途中、キミさんが乗った列車が柿崎駅に滑り込んだ時の様子は記事を直接読んでもらうのが一番いいでしょう。こうありました。
「途中、列車が柿崎駅に滑り込んだとき、ホームに母シンさんの姿が見えた。すっかり老いた母は、娘の顔を見るなり駆け寄った。キミさんはその胸でむせび泣いた。▲日本の終戦から8年を経て、やっとつかんだ『戦後』といえる。放すまいと固く抱き合う親子。その光景に、ただ事でないと察した車掌は発車を遅らせてくれた。▲母は、娘の帰国を見届けるまではと、踏ん張ったのだろう。肝臓がんを患っていたシンさんは、その3ヵ月後に亡くなった。親子で語らう時間はほとんどなかった」(文中の▲は段落のしるしとして私が付けました)
いかがでしたでしょうか。今朝のシリーズの最終回のタイトルは、「伝えたい戦禍の記憶」です。ここ1か月ほどの間に、私の手元には戦争体験記などをまとめたものが2つも届いています。これらの資料をしっかり読んで、聴いて、見て、次世代に伝えていきたいと思います。
きょうはできるだけデスクワークに集中したいと思っています。今週の週末は大忙しなので、きょうやっておかないとすべての予定が狂ってきますから。