おはようございます。きょうは連休最後の日。曇り空ですが、少し寒いです。近くの田んぼでは昨日までに代かきが終わり、急に静かになりました。
昨日は午前に黒井まで出かけてきました。直江津空襲と平和を考える会主催の集いに参加するためです。1945年5月5日、午前11時15分に米軍機が上越市黒井周辺に50キロ爆弾を7個投下し、死者3人、重軽傷者4名を出しました。空襲による犠牲者は新潟県内で初めてでした。この集会は4年ぶりに開かれ、犠牲者を追悼するとともに、平和の誓いを新たにしました。
会長の関川幹雄さんは、「畑で仕事中の人が爆弾で粉々になった。悔しかったと思う。戦争被害者慰霊の取組は全国どこでもやっている。一番大きなのは長岡の花火だ。あれも慰霊だ。ここには花火も鯉のぼりもないが爆弾投下があったということを思い起こし、慰霊していただきたい」と挨拶しました。
児童文学者の杉みき子さんも駆けつけ、戦時の暮らしの様子や直江津空襲時のことなどを語りました。杉さんは、「直江津の空襲のとき、いまの高田公民館のところにあったカワバタ製作所という工場にいた。昼間、空襲警報が鳴った。でもそのときは損害は軽微で、亡くなったりした人がいることはなんにも言われなかったように思う。戦争が終わって、こういう運動が始まって初めて、ここで空襲があったことを知った」「本当に戦争が終わったと思ったのは、ラジオ放送の数日後、いままで真っ暗だったのが、パッと明るくなった時だった。電灯がついて、これから明るい中で過ごせる。これで戦争をしないでいいんだなと思い、うれしかった」「新しい憲法ができて、戦争放棄という条項があるのを知って、もう、あんな思いをしないですむんだなとうれしかった。この気持ちはいまだに忘れない。その時に、平和を守るためにはなんでもしなっくっちゃと決意した。戦争の中で育ち、平和のありがたさを知って、どこまでも平和を守らなければならないという気持ちはずっと続いている」とのべました。
集会では、このほか、地元の笠原文人さんが、体験談を語りました。笠原さんは、「空襲があった時は直江津ステンレスに勤めていた時だった。飛行機が飛んできて爆弾落としたとは聞いたが、会社では(詳しい)話はしなかった。ただ、黒井で死んだ人がいたということは聞いた。戦争というのは秘密が多すぎる。何も教えない。戦争のことを口にすると引っ張られる時代だった。いまの秘密保護法も同じだ。戦争は人間性を無くす。自分を殺さなきゃ、人を殺せない」と語っていました。
私からも話をさせてもらいました。私は1945年3月の東京大空襲で伯母が行方不明になり、いまもわからないこと、家族が伯母の出身地の大島区まで捜しにきたことを母の記憶をもとに語りました。また、議会で戦争体験集を作るべきとの提案をしたら、行政が動いてくれ、この直江津空襲についても証言が寄せられたことなどを紹介しました。
午後からは、議会報告と山菜料理を楽しむ会でした。今回は日本共産党議員団のメンバー全員が分担して議会報告をしました。上野議員は消費税増税と予算、平良木議員は公の施設の再配置と福祉の切り捨て、私はガス水道局の入札談合疑惑と総合事務所産業建設グループの集約の問題についてのべ、日本共産党の考えを示しました。山菜料理は盛りだくさんでした。ウドやワラビ、トリアシ、タケノコなどの料理を堪能しました。調理をしてくださった女性陣のみなさん、ありがとうございました。懇親会では柿崎区の仙田幸造さんが時局漫談で沸かせました。また、女性後援会有志の方々が先日のパフォーマンスを再現してくださいました。 写真は私が報告しているところと仙田さんが漫談をやっているところです。
きょうは午前中に原稿書き、午後からは高田で集いがあり、参加してきます。