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家族 への全投稿

2009年10月06日

母の付き添い

 母が3か月前に病院へ行った時の医師の診断は、「脳内に動脈瘤があるので3か月に1回は通院してMRI検査をしましょう」ということでした。きょうはその検査日。午前10時に予約してあったのですが、検査、診断などすべてが終わったら12時近くになっていました。診断は前回とほぼ同じで、「動脈瘤の大きさは変わっていない」とのことでした。ただ、血圧が高くなっていて、母としては初めて血圧を下げる薬を服用することになりました。「塩分は控えめに、仕事はがんばらないこと」というアドバイスも前回同様です。

 検査結果をうれしく思ったのでしょう。家に戻ってから、長女に「ばあちゃん、どうだった?」ときかれた母は「うん、治った」と答えていました。「ばあちゃん、違うでしょう、治ったんじゃなくて、進行していないだけでしょ」と長女に言われ、「うん」と言ったものの、やはり、へっちゃらといった感じです。ま、「しょっぱい物を食べるな」と言ってもだめでしょうし、あまり、無理をさせないように気をつけたいと思います。

 家に戻って生活相談をひとつやって、牛舎の周りの山をちょっと歩きました。ねらいはアケビです。数日前にミツバアケビを数個見つけ、「もう4、5日経てばうれて食べ頃となる」と判断して採らないでおいたのです。ところが、きょうでは遅かった。すでに先客があり、紫色になってぶら下がっていたものの、中身はからっぽだったのです。どうやら、小鳥たちに食べられてしまったようです。でも、少し小さめのアケビを2個採ることができました。


2009年09月22日

伯母のところへ

 なんだかんだ言ったって姉妹はおら2人だけ。母と伯母はよく電話をかけて励まし合っています。でも会うのは年に1~2回くらい。今年は春に伯母がわが家に泊まりに来て以来、会うことなくここまで来てしまいました。農繁期でもあるので、稲刈りがないことを確かめて、きょう、久しぶりに大島区板山に住む伯母のところへ出かけてきました。

 「ばちゃ、来たよ」母はそう言って、つかつかと居間へ。「はい、来たがかえ」伯母はいつもニコニコです。「きょうはしょっぱいもんしかないがど」。テーブルの上に出された何種類もの漬物を食べながら、お茶を飲み、野菜の出来は悪いとか、孫がどうしたなどと話はどんどん広がります。おまえは若い、おまんは達者だ。お互いよく褒め合います。いつも思うのですが、どうしてこんなに仲が良いのでしょうか。こうして、あっという間に2時間ほど過ぎてしまいました。

 帰り際、外の花畑のところで記念撮影をしました。伯母は「おまえ、立っていれたがか」と母にききます。母は腰が少し曲がり始めたものの、まだ立っていられます。伯母の方はステッキカーを引っ張り出してきて、そこに座って準備オーケーです。「笑わせないでくれや」などと文句を言われながらかなり撮ったのですが、どういうわけかシャッター押す時に母は目をつむってしまいます。まともな写真は3枚ほどしかありませんでした。そのうちの一枚はこれです。

 母のアッシー君をしたのは午前のみ。午後からは市政レポートの作成準備、議会基本条例検討委員会の準備などをしました。連休は明日まで。党組織の集中行動、議会の討論準備など宿題はまだいっぱい残っています。さて、明日は何から始めましょうか。


2009年09月21日

敬老の日に

 きょうは敬老の日です。党吉川支部には今年80歳になった党員が2人います。午前は党新潟県委員長から預かった手紙と記念品を持って、この2人を訪問しました。2人ともとても元気です。ひとりは、家の中で忙しく働いておられ、いまひとりは近くの畑でラッキョウとりの最中でした。「申し訳ないね、ありがとね」「よろしく申してくんない」。感謝していただきました。いつも、「しんぶん赤旗」日曜版や後援会ニュース配布で頑張ってくれているおふたりさん、これからもよろしくお願いしますよ。

 さて、わが家の高齢者ですが、父がいなくなっても相変わらず、畑仕事などで忙しく動き回っています。このところの天気つづきで、仕事もだいぶはかどったようです。きょうは、畑でとってきたイモがらを屋根に干していました(画像)。「落ちなんなや」と言っても「おう」と言うだけです。医者から「働き過ぎないように」と言われているのに、まったくおかまいなし。それでも、きょうは敬老の日だというので、遊びに出ました。

 私の方は、母と付き合いをした後、清里区等の中山間地へ出向き、写真を撮ってきました。秋に書くことになっている中山間地対策の文章に添える写真に黄金の棚田をと思って出かけたのですが、今年は長雨でどこの田んぼに行っても稲はべったりと寝ています。しかも、稲は一定方向ではなく、風で掻き回されたようになっていました。田んぼはいい写真が撮れませんでしたが、橋はいくつも撮ることができました。合併直前に竣工した橋、昔は吊橋だった橋、土手に桜並木がある川の近くの橋などです。浦川原区では私を以前見たことがあるという人に出会いました。


2009年09月19日

次男夫婦、1か月ぶりに帰省

 連休初日。次男が約1か月ぶりに顔を見せてくれました。「ただいま」この声を聞くとうれしい。一番喜んでいたのは母、あれ食べろ、これ食べろと声を掛け、朝作った得意の押し寿司をもたせました。もっともこれは、尾神に住んでいたことのある人が遊びに来るので、そのために作ったのですが……。私はというと次男の連れ合いに、家の近くにある野の花を教えてあげたり、イモゴ(山芋のツルにできる)を食べてもらったりと、私ならではの大サービスです。

 妻は次男夫婦とともに柏崎の実家へ行きました。次男の結婚式の時の写真などを両親に見せたかったようです。向こうで写真を広げていたら、柏崎の母が何を思ったのか、私たちの新婚時代の写真を持ち出してきて、次男夫婦に見せたそうです。まだ、私が体重58キロの時代の写真です。当時、髪はふさふさ、体はスマートでした。家に戻るなり「あんたって、やはり詐欺師だ」。「詐欺師」だと言う時はニコニコしていちゃ駄目さ。長年、頭を使えば、髪も減ります、ストレスもたまって太ります。

 きょうは「しんぶん赤旗」日刊紙、日曜版の配達と生活相談でした。昨日に続いて、さわやかな秋の風が吹きました。いい風が吹き、青空も時々見せてくれるなかでの活動は気分上々です。2軒の読者のお宅でお茶をご馳走になり、おしゃべりを楽しみました。一人のお母さんが「今度はいい政治になるかいね」と言ったことをきっかけに民主党政権への期待と不安がいっぱいでました。最後は、良くなるか悪くなるかは私たちの頑張りで決まるということになりました。9月も下旬になるというのに、きょうはミンミンゼミの鳴き声が賑やかでした。でも、秋も進みました。ヤマザクラの葉が紅葉し始めましたから。

 市政レポート1415号、掲載しました。ごらんください。


2009年09月06日

カンナ坂媼二人の心意気

 きょうはまず妻のリクエストに応えてと……。お盆にわが家の墓がある蛍場へ一緒に行った時のこと。蛍場地内の市道の両脇にたくさん咲いているカンナなどの花があまりにもきれいなので、車から降りて2人でしばらく花を楽しみました。もちろん、写真も撮りましたよ(画像)。あちこちに花ロードがあるけど、ここは花の種類が多く、迫力満点です。花の世話をしているのは東(屋号)と大西(同)のおかあさんの2人です。昨年までは井戸尻(同)のおかあさんもいたけど、今年は亡くなって2人だけとなったのに、見事に咲かせてくれました。「たいしたもんだ」という話になったのは言うまでもありません。その時のことを題材にした妻の俳句が今朝の新聞に載りました。カンナ坂媼二人の心意気。花はいまも咲いています。

 総選挙が終わって1週間。翌日から9月議会でしたので、これまで、余裕を持って質問の準備をすることはできませんでした。きょうは、ゆっくり新聞を読み、一般質問で何を質問しようかと考えました。私の場合、頭の回転が悪いので、テーマが決まるまでに時間がかかります。そして、決まってからも、質問をどう組み立てるか、これもなかなか定まらないのです。質問したいと思っていることはたくさんあって、それが頭の中でグルグル回っています。定めるためには考えていてもだめ。そこで外に「遊び」に出ます。きょうは午後から、柿崎区でイノシシ対策をしている現場を見たり、林道で野の花写真を撮ってきました。

 トップページの写真を入れ替えました。昨日、きょうと吉川区では酒米である五百万石の刈り取りがかなり進みました。この場所のイネはコシヒカリです。雲がかかっていて、暗い写真となってしまいました。それと、もうひとつお知らせです。市政レポート1413号を掲載しました。今号では、新潟日報、上越タイムス、上越よみうりなどに載っていない情報も書いてあります。ごらんください。


2009年08月14日

わが家の印刷機はいよいよ限界か

 「あと80枚ほどで日曜版折り込み分の印刷は終わり」というところで、印刷機が突然止まってしまいました。どうもヒューズが飛んだらしい。このところ調子が悪いわが家の印刷機も使用限界かもしれません。こうもトラブルが続いたんではまいります。修理を頼むにもお盆休みで駄目。結局、市政レポート最新号の残りの印刷は上野議員のお店でやらせてもらいました。

 市政レポートの印刷が終わってからは、「しんぶん赤旗」日曜版のポストおろし、配達、盆礼まわりで夕方7時まで動きました。初盆だということで、お参りに来て下さる方の数はいつものお盆よりかなり多くなっています。父も喜んでいることでしょう。明日は親戚の法要です。次男が帰省していますが、この調子だと、一緒に食事もすることなくバタバタとお盆が終わってしまいそうです。

 市政レポート1410号を掲載しました。ごらんください。


2009年07月18日

炬火採火式

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 雨がいっぱい降りました。増水した吉川を見たのは久しぶりでした。雨はお昼頃まで降り続けましたが、その後、静かになり、ホッとしました。

 トキめき新潟国体に向けた炬火採火式(きょかさいかしき)が午前9時からリージョンプラザの2階の広場で行われ、参加してきました。
 秋に行われる国体では、県内の各市町村で独自に採火された炬火(きょか・たいまつという意味)を集め、総合開会式の会場で灯されることになっています。火おこしの方法としては主にユミギリ式、マイギリ式、モミギリ式の3つのやり方がありますが、上越市ではマイギリというやり方を採用しました。しかも目立つように、大型のマイギリを作って火おこし(画像)です。
 大型のマイギリは10数人の炬火ランナーのみなさんがロープで動かしました。最初はなかなか呼吸が合わなかったのですが、何回かキュッ、キュッとやると煙が立ちました。写真は火が点いた瞬間です。この火は大会旗とともに30数人の若いリレー走者の手で文化会館まで運ばれました。走者の中には吉川区の片桐悠人さんの姿もありました。

 午後1時過ぎ、次男が1か月ぶりにわが家へ帰ってきました。新しい会社での研修などがあり、まだ落ち着くところまではいってないようですが、元気そうなので安心しました。次男の帰省を一番喜んだのは母です。ほら、これ食べろ、これ飲めと、いつも通りにやっていました。上の写真は母が手作りしたトコロテンです。固めたものを細くしないで包丁で薄く切るだけのトコロテンでしたが、結構いけました。

 次男はその後、嫁さんの実家へ。私は大島区まわりで吉川区の山間部へ「しんぶん赤旗」日曜版の配達と総選挙の支持のお願いをしに出かけてきました。山間部の道路を車で走ると、前の方からオニヤンマが次々と飛んできます。とくに大島区板山と吉川区上川谷間はオニヤンマがたくさんいました。いよいよ夏本番です。


2009年07月14日

病院で母の付き添い

 1週間ぶりに市役所に行きました。市役所近くの大通りでは、早朝からハンドマイクで宣伝している自民党の高鳥代議士の姿が見えました。各陣営は昨日の解散報道でしまった感じがします。私たちの党でも改めて対策会議を開き、明日の党創立記念日の宣伝行動をはじめ、今後の方針を詰めました。明日は上越市北部にて後援会ニュース配布、街頭宣伝等をやることになりました。吉川区には午後3時半過ぎに入る予定です。

 きょうはいったん市役所から離れて、病院へ行った母に付き添いました。じつは先月のMRI検査後、病院から検査結果について説明したいという連絡が入りました。検査当日、医師から異状なしと聞いていたものですから安心していたのですが、動脈瘤が2個見つかったとのことでした。1個は4ミリくらい、もう1個は1ミリほどの小さなものだそうです。母の、頸部のこわばりや平衡感覚の不調はここに原因があったのかも知れません。高齢なので手術はむずかしく、脳神経外科の医師からは、塩分を多く摂らない、仕事などで無理をしないことなどを日常生活で意識するようにと言われました。3か月後には再度MRI検査を行うことになりました。脳動脈瘤が破裂する可能性は一般的に1%ほどですが、破裂した場合はくも膜下出血ということになりますから、気をつけてほしいものです。

 母を家に送り届けて市役所に戻ったのは午後3時過ぎでした。その後、22日から2日間行われる臨時議会の議案の中身について検討しました。まだ、市議団で詰めてありませんが、明後日には総括質疑の通告をする予定です。市役所では、党議員控室のパソコンで一昨日の都議選結果の報道などを検索して見ました。そのなかで法政大学の五十嵐仁教授のブログを興味深く読みました。なかなか面白い分析をされていますね。

 夕方、家に戻るとヒグラシが鳴いていました。今年初めてです、私が聞いたのは。鳴き声はこちらをクリックしてお聞きください。


2009年06月30日

母、検査結果は異状なし

 気になっていた母のMRI検査がきょう行われました。私は議会の用事があり、妻から付き添ってもらいました。結果は異状なしです。「まったく問題ないって」という妻の言葉を聞いてホッとしました。こうしてみると、診療所の先生が言われたとおり、「働き過ぎ」ということになります。この結果を聞いて、すぐにでも畑に行きそうな母にブレーキをかける役目は私がしなければなりません。

 きょうは長野市議会の皆さんとの交流会でした。今回で、確か4回目になりますが、きょうは長野市に出向いて交流です。まず、上越市の観光にも大きなかかわりのある善光寺を2時間以上かけて視察しました。今年の御開帳には670万人を超える人たちが訪れ、その足で、春日山、天地人博などに来られた方もかなりあったようです。私のとっては、小学校の旅行以来の善光寺でした。きょうは、親鸞聖人が善光寺で100日ほど過ごされたことがあることなど、これまで知らなかったことをいくつも学ぶことができました。

 いうまでもなく、日本共産党長野市議団の皆さんとも会って、情報交換することができました。昨春の市議選で応援に来てくれた佐藤久美子市議のほか、宮崎市議、小林市議、野々村市議と話ができてよかったです。宮崎市議は午前の活動で「しんぶん赤旗」の読者を5人も増やしてきたとか。みんな、総選挙の比例で議席を奪還しようと燃えていました。何回かの交流ですっかり顔なじみになった他党派議員もいます。議会での質問の工夫などいろいろ教えてもらいました。来年は上越市での交流となりますので、再会がまた楽しみです。


2009年06月22日

雨が降って

 昨日は夕方から温泉へ行ったので、日記を書けませんでした。母の具合が悪いのではと心配して電話をくださった方もありましたが、母はとても元気です。ご安心ください。温泉行きは妻のキョウダイが定年だとか還暦祝いだとかをかねて、妻の父親、母親などにゆっくり楽しんでもらうために前々から準備していたものです。私の母や板山の伯母も一緒でした。私の方で準備していって披露したのは、これまでの家族旅行のスナップ写真や次男の結婚式などの写真です。これらをプロジェクターを使って大画面で観てもらいました。

 久しぶりに昨日は雨、それもかなり強い雨が明け方に降りました。雨が降ったおかげで、昨日の消防団吉川方面隊の演習は駆けつけ放水、小型ポンプ操法の訓練以外は中学校体育館で行われました。駆けつけ放水は午前7時半から原之町の池で実施。いっせいに放水するところをカメラにおさめました(画像)。中学校の体育館で規律訓練を一緒に見ていた元消防団長のTさんは、「まとまりのある、いい訓練をする分団は昔から変わらない。伝統がある」と言っておられましたが、なるほどなと思いました。訓練が終わる頃には天気は晴れ、青い空が広がりました。

 きょうは吉川区地域協議会を傍聴してきました。協議会の中に市教委の「スクールバス等の運行新基準案」を検討する専門委員会が設置されていて、きょうはその代表がPTA役員との意見交換会の様子を報告。それを受けて、今後、吉川区地域協議会としてどう対応するか話し合いが行われました。きょうの委員の発言では、「学校統廃合の経過を踏まえて、その時の原点に立って考えるべき」「1市1制度でなくてもいいのではないか。意見書を出すべきだ」「義務教育なんで無償でいい。(このまま進むと)将来値上げもありうるのではと疑問がある」などといった声がだされました。そして具体的な対応ですが、1500円にこだわらず、できるだけ下げるんだということで、他区地域協議会と足並みをそろえる方向で努力していくことになりました。


2009年06月20日

8中総の学習会は3回目

 関西方面へ研修に行っていた次男が20日ぶりに家に戻ってきました。次男がいなくなって、「はらいね」と言っていた母はこの日を心待ちにしていました。玄関の戸を開けた途端に「〇〇ちゃんか」と母に声をかけられたとか。今朝、母が赤飯を炊いたのには理由があったんですね。勤務の都合で住所を移した次男は、明日からまたいなくなります。

 きょうは午前中に市政レポートの印刷、「しんぶん赤旗」日曜版の配達をやり、午後から第8回中央委員会報告の学習会でした。支部では全党員に読んでもらおうということで、学習会を開いていますが、きょうで3回目になります。総選挙が間近になる中で、仲間たちも力が入ってきました。でも、きょうは暑かった。軽く30度を越えたのではないでしょうか。アイスクリームを食べながらの学習会になりました。

 「しんぶん赤旗」日曜版の配達の途中、天気がよかったので、野の花や風景写真を何枚か撮りました。キオンとコシジシモツケソウとヤマアジサイの黄色、ピンク、青色の3つ色の組み合わせの写真をねらったのですが、2つしか入りませんでした(画像)。ウツボグサ、ミヤマヨメナ、イチヤクソウの写真も撮ることができました。「暇だねぇ」と思われる方があるかもしれませんが、こうした写真はチラシづくりに生かされるのです。

 市政レポートNO1402、それから「春よ来い」第105回「寄り添う」を掲載しました。トップページからお入りください。印刷して新聞に折り込んだものをかなり手直ししました。


2009年06月18日

生活相談、議会の振り返り

 「議会が終わったら…」と約束しておいた生活相談などがいくつもあります。きょうはこのうち、3件について対応しました。飛び込みで「ちょっと相談に乗って」というものも入れると4件かな。約束しておいたものを先送りしていると相談をかけてきた人には申し訳ないし、こちらもいい気分ではありません。きょう動いた相談の中身は書けませんが、納税、離婚に関するものは常識では考えられない内容で、びっくりでした。

 市役所では何人かの人たちと最近の議会の動きについて話をしました。まだ議会が終わって間もない時ですので、どうしても6月議会のことが中心となります。この1年間ほどの間に急速に論戦力を高めている人がいるとか、議長や委員長の役割を再確認する必要があること、代表者会議などで出てきている発言制限の動きは議会活性化に逆行することなどが話題となり、ためになりました。

 夕方からは自分の家のことで吉川区に戻りました。父がいなくなって、農協の建物共済など整理すべきことが残っていましたが、ようやく手をつけ始めました。1か月以内に手続きしておれば不要なものもあり、もっと早く動き出せば良かったと反省しています。残っている整理課題でやっかいなものは相続登記です。これは来月10日くらいまでを目標に個人申請しようと思っています。


2009年06月17日

「ちょっとやそっとではまいらないよ」という顔

 母を乗せて病院へ着いたのは午前8時半過ぎ。それから受付、検査、診察、会計と続き、すべて終わったのは正午を回ったころとなりました。半日なんて、あっという間です。医師の診断では、母のめまいは疲れから来た可能性が高いということでした。レントゲン検査では異常はなく、医師は、「このおばあちゃんは歳の割に元気、元気。ちょっとやそっとではまいらないよ、という顔をしている。仕事のし過ぎでしょう」と言っておられました。ただ、一応、念のため、月末にMRIの検査をしましょうということになりました。母はこの医師の話を聴いて、すぐにでも畑に行きたい様子でした。仕事をしたい気持ちにブレーキをかけるのがたいへんです。

 きょうは午後から、市議会中山間地対策特別委員会の勉強会でした。病院からいったん家に戻り、大急ぎで市役所に向かい、着いたのは開始2分前。会では、これまでの議論を踏まえた課題整理、市への提言、中山間地振興条例づくりにむけた体制などについて話し合いました。途中、過疎地有償運送、公共交通計画と実証運行について担当課から説明を受けました。次回は29日の予定です。


2009年06月16日

ホタルがいっぱい

 昨晩はよく眠れませんでした。何よりも母の様子が気になったこと、そして慣れない部屋だったことがその原因です。時間的には2時間も眠れたかどうか。その影響で、きょうは一日中、ボォーッとしていました。

 母の具合ですが、夜中にトイレに行き、その頃から「フラフラ」の感じは消えたようです。ただ、このままいつも通りに動くとすぐに同じ状態になることが予想されます。それで吉川診療所で診察してもらいました。内臓の方が悪いのか、それとも三半規管がおかしいなど他に原因があるのか。そこら辺は確定できませんでした。そこで、診療所の先生から紹介状を書いていただき、明日は父が入院していた病院へ行って、診てもらうことにしました。

 きょうは6月議会最終日でした。母の方は午後から勤務となる長女にまかせ、私は議会に出ました。市の一般会計補正予算など議案についてはすべて全会一致で可決しましたが、意見書提出を求める請願で割れました。農地法の改悪に反対する請願では、平良木議員が討論に立ち、「農地法の目的まで見直し、農地の貸し借りを全面自由化し、企業の農業への参入に大きく道を開く、1952年農地法制定以来の大転換」だとのべ、改悪反対の意見書の提出を主張しました。賛成は日本共産党議員団と市民クラブの3人のみで不採択。いまひとつ、30人学級の実現を求める請願では市政クラブの7人が反対、他会派はすべて賛成し、採択されました。反対した会派はその理由を明らかにしてほしい。

 夜、ホタルを見るために近くの大出口川へ行ってきました。もちろん、今年になって初めてです。川の柳の木や草むらから飛び立つたくさんのホタルを確認することができました。春普請で農業用水路の掃除をした時にホタルのえさとなるカワニナをいっぱい見て、「今年はホタルが多いぞ」と思ったのですが、その通りとなりました。飛び交うホタルは写真に撮りたいですね。でも今回はうまくいきませんでした。

 今晩も母の部屋で寝ることにしました。


2009年06月01日

囀りや最期の言葉聞き取れず

 今朝の新潟日報文芸欄に妻の俳句が載りました。囀(さえず)りや最期の言葉聞き取れず。これは父が亡くなる前日の夕方、妻が最後に父を見舞った時のことを詠んだものです。この時は私も一緒でした。5分ほど父のそばにいて、ふたりで病室を出ようとした時でした。父が大きな声で「おい!」と私たちを呼び止めたのです。久々に父の「おい!」を聞いてびっくりした私たちは病室に戻り、「じいちゃん、何?」と尋ねたのですが、父はいっぱい喋ったものの、何が言いたいのかさっぱりわかりませんでした。振り返ると、あの時、父が何を言いたかったのか、とても気になります。この俳句にはその気持ちをこめたのでしょう。
 
 さて、きょうから6月議会がはじまりました。市長の提案理由の説明、常任委員長の報告、人事院勧告に関連する条例審査、討論、採決などが行われました。

 総括質疑では、党議員団を代表して上野議員が登壇、緊急融資支援と一般職の期末手当・勤勉手当のカットについて質疑を行いました。

 上越市は昨年11月以降、信用保証料補助制度の拡大、経営改善支援資金緊急金融対策特別枠の創設と同資金への利子補給、さらに、元金の返済猶予及び全ての市制度融資の借換えを可能にするなどの対策を講じてきました。上野議員はまず、これまでの緊急金融支援策の効果の総括について市長の見解を求めました。市長は、「経営改善支援資金において、一般枠と特別枠を合わせ、昨年12月から本年3月までに当初の見込みをはるかに上回る565件、約50億円もの利用があった」ことを明らかにし、中小企業の資金繰りの緩和のための資金需要に応えることができたと答えました。

 融資枠の拡大については一定の評価をしつつも、「売り上げ見込みを含む資金繰り計画書の提出を求められた」「税金の滞納があり、融資を認めてもらえなかった」などの事例をあげ、より借りやすい環境をつくることを求めました。市税の滞納や金融機関の滞納があってもぎりぎりの状態の中で融資を必要としている事業主の声に応えるよう訴えたのです。これに対して沢海産業観光部長は、「さらなる踏み込みが可能かどうか精一杯研究してまいりたい」と答弁しました。大いに期待したいと思います。

 いまひとつ、一般職の夏季一時金カット問題。上野議員は、「内需拡大、消費活性化が求められている時にこれと逆行する一般職の夏季一時金を削減することは、市域の消費拡大に水を差すものだ」として、市内の消費動向への影響を問いました。市長は、「減額の規模から見て、影響が全くないとは言えないが、民間企業における夏季一時金の大幅な減額がうかがえる中で、民間と公務員の一時金に大きな乖離を生じさせないように実施するものだ。消費動向への影響を懸念して手当を減額しないとすれば、市民の皆さんの理解は到底得られない」と答えました。上野議員は再質問などで、「まだ民間企業従業員ベースでの約70%の民間企業が一時金の支給について未定であるときに減額措置をとることには問題がある」「人事院勧告やそれに基づく県人事委員会の調査結果は十分とは言えない」などと反論しましたが、消費を冷え込ませる形で官民の一時金格差を「是正」するのは理解しがたいですね。

 今回の夏季一時金カットは一般職だけでなく市長、市議会議員など特別職についても対象です。党議員団では上越市内の経済への影響、市民世論はどうかなど議論を重ね、地域経済に大きな影響を与える一般職については反対し、特別職については賛成することにしました。
 


2009年05月30日

笑顔いっぱい

 きょうは次男の結婚式・結婚披露宴でした。私の子供としては一番最初です。準備は次男と連れ合いとなる彼女がやっていましたので、どんな企画で行われるのかとても楽しみでした。
 結婚式は家族、親戚、高校時代の友人、元職場の同僚など大勢の人たちが見守る中、牧師さんを中心にして厳粛に進められました。私と妻は最前列に座って参加しましたが、起立のタイミングを間違えるなど緊張しました。花嫁はとてもかわいく、喜びに満ちた表情です。白のタキシードを着た次男は背筋を伸ばし、いつもより背が高く感じられました。親が言うのもなんですが、二人ともなかなかの好青年に見えました。
 式が終わってからがサプライズ。チャペルを出てホテルのガーデン(庭)で参加者全員が風船を持ち、次男の合図でいっせいに飛ばしました。ガーデンはビルの谷間といった空間です。大空に飛び立っていく風船は希望を感じさせてくれ、いいものです。その後、同じ場所で記念撮影です。カメラマンは参加者を見下ろす位置から撮りましたので、参加者はチャペルを見上げる姿勢で撮れているはずです。次男によると、参加者へのお礼に使うのだとか。中学時代から「みんなで何かをする」経験を積んできた二人ならではの企画でした。
 披露宴は涙の連続でした。きょうの披露宴には85歳の母と90歳を超えている新婦のおばあちゃんも参加してくれましたが、二人へのプレゼントがありました。母は何も知らされていなかったようで、こぼれ落ちる涙をハンカチでふきつづけていました。新婦のおばあちゃんも泣きっぱなしでした。披露宴には4月に他界した父も写真参加です(画像)。母のそばで二人の晴れ姿をじっと見つめていました。そして、参加者のトップをきって長持唄を披露してくれました。もちろん、これは音声参加。孫の結婚式を誰よりも楽しみにしていた父の唄を聴いたら涙があふれました。
 披露宴では新郎新婦の成長した姿を確認できました。スライドを使っての二人の生い立ちやこれまでの付き合いの紹介はすべて二人で行い、アドリブも入りました。しゃべるのが苦手だったのに、いつのまにか余裕を持ってスピーチできるまでになっていました。これはこれまで勤めた会社の皆さんの指導のおかげでしょう。
 最後の新郎の挨拶。自分の名前に感謝しているという言葉を聴いてうれしく思いました。どんなに悲しいことがあっても、どんなにつらいことがあっても、名前のように生きていけば元気になれる。笑顔が出る、という話でした。そういえば、きょうも最初から最後まで笑顔がいっぱいでした。おめでとう!


2009年05月08日

もう1か月

 父が旅立ったのは先月の8日のことでした。あれからもう1か月も経ったんですね。時の流れは本当に早いと感じます。
 人間の気持ちというものは簡単に切り替えができないのでしょうか、いまだに父が死んだとは思えません。父が入院していた当時、市役所の行き帰りに病院へ立ち寄ってきました。それが1年4か月続いたこともあってか、何となく病院へ行きたくなります。病院へ行けば、父に会えるような気がするのです。
 一番さびしがるかなと思っていた母は元気です。毎日のように畑仕事に精を出す。山へ山菜採りに行く。お茶飲みに出かける。以前とまったく変わらぬ生活をしています。父に「早く帰ってこいや」と叱られないですむので、暗くなるまで外に出ていて、家族に気をもませています。

 さて、きょうは市議会の中山間地対策特別委員会でした。市役所の調査報告書、食料・農業・農村議員連盟の提言、特別委員会での調査と議論の3つを対比した一覧表をもとにして、委員会メンバーだけで課題整理をしました。
 一覧表は正副委員長が作成したといいます。こういう表があると、議論不足の分野、項目などが明らかになって便利ですね。きょうの委員会では、雪への対応、住民の健康維持、移動手段の確保、集落機能維持などの課題整理の中で「まだ不足しているところがあったらぜひ発言を」という委員長からの要請があり、これを受けて活発な発言が相次ぎました。
 私が発言したのは、冬期保安要員制度の維持と充実、拡大の必要性、保健師などによる保健集会の継続、防災・安全確保のための緊急通報装置、若者定住対策の強化についてでした。このうち、冬期保安要員制度関連では、「高齢化が進み、木戸先除雪などのへの援助が求められている」と発言したところ、「市道などから入った木戸先や民家周囲の除雪で人手が足りない」など他の委員の発言が続きました。また、合併後の過疎地の人口減対策は各区(旧町村)ごとの若者定住対策が必要ではないかとの私の指摘に、「合併して一番頭の痛いところだ」などと関連発言がいくつも出ました。
 次回の委員会では、きょうの議論を踏まえてさらに踏み込んだ課題整理と具体的な対策を話し合うことにしています。


2009年04月23日

壇払いを終えて市政レポートづくり

 きょうの天気予報はどうだったのでしょうか、壇払いに出席してくださった方のなかから、「予報とは違っていかったね。ここんちのじいちゃんの騒ぎでは雨が降らないね」という声が聞かれました。お陰様で無事壇払いも終わりました。葬儀屋さんが明日片づけに来るそうですので、それが終われば、わが家の座敷も元通りになります。
 お斎が終わったのは午後1時過ぎでした。予定よりも少し早めでしたが、炬燵にもぐったら2時間くらい眠ってしまいました。アルコールが効いていたからです。
 目を覚ましてから、パソコンを持ち出し、市政レポートづくりをしました。今号の内容は区内路線バスの見直しについてです。すでに公共交通懇話会で見直し原案が示され、地域協議会にも説明されています。長年続いてきた定期運行が限定され、デマンド型運行に変わるところがあったり、運行ルートが変わるところもあります。吉川区の公共交通の歴史のなかで大きな転機を迎えようとしています。市政レポートでは見直し原案の内容を伝えるところに力点を置きました。ご意見がある方は早めにお寄せいただきたいと思います。
 「春よ来い」も書いてみました。まだ未完成です。父の葬儀後の動きの中で感じたことを綴ってみましたが、2回続けて父のことを書き、内容的にもセンチメンタルなところがあるので、少し時間をおいてから市政レポートやホームページに掲載したいと思っています。


2009年04月17日

「宗教人と日本共産党との懇談会」の準備

 父の葬儀後初めて、日本共産党の会議に参加しました。きょうの会議は今月27日午後7時から上越文化会館で開催される「宗教人と日本共産党との懇談会」の準備です。何人ものお寺さんや宗教関係者が呼びかけ、党中央委員会から緒方靖夫副委員長も参加して開催されるものですが、10日前の段階での準備状況を確認し合い、今後の取り組みについて話し合いました。上越地域は全国的にみても寺院、神社などがたくさんある地域といいます。どんな話が出るか楽しみにしています。ぜひ成功させたいですね。

 かく言う私も宗教には大いにかかわりがあります。そもそもわが家の屋号、法生(ほうせ)はお寺の名前からきています。どれくらい前からは定かではありませんが、わが家は昔、「法生坊(ほうさいぼう)」という小さな山伏寺だったと聞いています。この「法生坊」が時代の流れの中で「ほうせ」になったのでしょう。私の名前は屋号から一文字をとり、祖父がつけたものです。そしていま、わが家は真宗大谷派専徳寺の檀家でもあります。今回の葬儀も真宗大谷派のやり方で行われました。

 夕方、妻を職場に迎えに行き、ともに帰りました。これまでなら、妻の職場から病院に寄って帰るのですが、その必要はなくなりました。稲田の十字路を直江津方向に曲がらないで車を進めるのが何となくさみしい。そして特別養護老人ホーム「いなほ園」の近くを通った時には、父をショートスティで送迎した時のことが浮かんできました。初めてショートにお世話になった時は母と長女と3人で連れて行ったのですが、帰り際に父は「置いていかれる」ことを察知し、切ない表情を見せました。しばらくの間、いろんなところで父を思い出すことになるのでしょうね。


2009年04月13日

ムシカリやトキワイカリソウが咲く中で

 ちょっぴりでしたが、今朝、久しぶりに雨が降りました。このところずっと晴れの日が続いていましたので、庭の木や草も喜んでいるように見えます。この雨で、咲いて間もないムシカリ(虫狩・スイカズラ科)やトキワイカリソウも一段と美しくなりました。どちらも家の近くに咲く花です。撮ってきたものをパソコンで見たら、小さな虫たちが何匹もいました(トキワイカリソウの画像)。おそらく蜜を求めているのでしょう。
 きょうも弔問客が続きました。いうまでもなく、故人と付き合いのあった人がほとんどです。埼玉県は寄居の造り酒屋さんで4年間父と一緒に仕事をしたという方は、父から酒造り唄や祝い唄などを習ったと教えてくださいました。この方は90歳を超えておられるのですが、電動自転車に乗ってわが家にこられました。自転車に乗ってからの動きが早く、びっくりしました。元酪農家のお連れ合いの方とも話がはずみました。吉川町酪農組合婦人部で旅行に出かけた話が始まると、母も身を乗り出してきました。組合のみなさんは牛のお産の時やサイロ詰めの時などお互いに助け合って生きてきました。それだけに思い出はいっぱいです。
 お昼過ぎに吉川区総合事務所の戸籍窓口で各種申請書を書いていたところ、大島区板山の従弟から電話が入りました。「夕方、おらちのばさま連れて行くし、一晩泊めてくんねかえ」と言います。母がさみしいだろうから一番の話し相手である伯母と一緒に過ごしてもらおうという配慮です。ありがたいですね。母は大喜びでした。


2009年02月27日

総括質疑聞き取り調査

 朝、市役所へ行く前に母を連れて病院へ。じつは、2月上旬に予約してあった眼科の治療のことをすっかり忘れていたのです。結果的に予約なしの診療となったので、お昼ごろまでかかったとのことでした。私の方は、最後まで付き合う時間がなく、帰りの家までの送りは弟に頼みました。診察結果を聞くと、母の眼は思ったほど悪化しておらず安心しました。
 市役所では、総括質疑の通告内容について、関係課から聞き取り調査(いわゆる質問どり)をうけました。予算編成と総合計画、国保予算、地域活性化・生活対策交付金などについて、なんだかんだで4時間近くかかりました。問題によっては、こちらの勘違いがあったり、課長と議論になるものもありました。なかには通告内容の書き方ひとつで市長答弁を準備する担当課が変わったものもあります。
 きょうの聞き取りで当初描いていた質問の展開とかなりちがったものがいくつも出ました。明日、明後日のいくつかの予定をこなしながら、もう一度準備できるか、ちょっと心配になってきました。私の総括質疑の順番は9番目、4日の午後の予定です。ケーブルテレビ、インターネット中継されます。


2009年02月14日

父の誕生日

 きょうは父の誕生日です。一昨年の12月に入院して以来、父の病院生活は414日になりました。率直に言って、よくここまで持ったものだと思います。病院のスタッフのみなさん、お見舞いにきて励ましてくださったみなさんに心から感謝いたします。
 病院へは市政レポートの印刷と新聞屋さんへの持ち込みを済ませてから、妻と一緒に行きました。私たち夫婦は午前に、午後からは母と長女が見舞いましたので、父にとってはいい日になったことと思います。「じいちゃん、きょうから82歳だよ。たいしたもんだね」と声をかけたら、こっくりして喜んでいました。きょうは記念に写真を撮り、父との会話も録音しました。写真(画像)をごらんください。頭の毛は伸びたままです。じつは、お風呂がある先週の木曜日に、すっきりした頭で誕生日を迎えたいものだと床屋さんにお願いしてあったのですが、発熱のため先送りせざるをえませんでした。熱は下がっていますので、次の月曜日には刈ってもらえるでしょう。
 さて、きょうはバレンタインデーでした。妻と長女からチョコをプレゼントしてもらいましたが、この他に81歳の女性からもいただきました。電話でお礼を言ったら、「私、初めて男性にチョコを送りました」。チョコはマレーシア産のもので、なかなかおいしい味でした。


2009年01月09日

新年最初の日曜版配達

 ヒラタケ採りは予想以上に体力を消耗し、昨晩はぐっすりと眠ることができました。朝早く起床。一杯のコーヒーを飲み、市政レポートづくりをしました。これで、新年になってから2枚目です。前号では数字を間違えたり、漢字の変換ミスをしたりしてしまいましたが、今号では「うっかりミス」をしないように気をつけました。次の「しんぶん赤旗」日曜版に折り込むビラは市議団ニュースと2枚の市政レポートです。配達ポストごとに新聞の部数分を印刷するのですが、今朝は印刷だけでも1時間以上かかりました。印刷後にミスが発見されませんように。
 午前中に「しんぶん赤旗」日曜版を30部ほど配達しました。日曜版の配達は新年に入って最初です。1軒1軒、声をかけながら配達してきました。どこの家でも、「雪が少なくていいやんべだね」という声が出ました。いつも声をかけてくださる家で、定額給付金のことや市内の派遣労働者のことで質問されました。この方の話のなかには私の知らない情報が時々入っており、とても助かります。午後から生活相談が2件入ったため、山間部の配達については後援会の仲間に応援を頼みました。新聞配達は明日も半日はかかります。
 夕方、父のところに寄ったところ、マスクをしていました。ちょっと元気がありません。帰りしなに、「また来るすけ、帰ってもいいかね」と呼びかけましたが、いつものように首を縦にふりません。「ダメか?」というと今度はこっくり。帰らないでくれということを父がはっきり意思表示したのは入院後初めてです。明日、明後日とスケジュールはいっぱいですが、どこかで時間をつくって見舞ってあげたいと思います。


2008年12月27日

入院から1年

 このままでは危ない。すぐに救急車を。そう言われて、父を緊急入院させたのが昨年の12月27日の夜でした。その夜が山、翌日の朝までもつかどうかと心配して、病室で付き添った時のことは一生忘れません。夜明けまでの時間は長く、明るくなった時、これで山を越えたととてもうれしかったものです。
 あれからちょうど1年が経ちました。何回か高熱に襲われたものの、おかげさまで父はなんとか生きていてくれます。この間、入院先の医師、看護師さんなどにたいへんお世話になりました。また、親戚の皆さんをはじめ、多くの皆さんからご心配いただきました。心から感謝申し上げます。
 父の病状は、いまのところ安定しているように見えます。何をしゃべっているかほとんど聞き取れないのですが、熱がない時は語りかけると「あぁん」といった言葉で反応してくれます。母や私、妻、長女のことは分かるようです。数日前、久しぶりに39度を上回り、心配しましたが、それも乗り切ってくれました。昨日はいままでのなかでも最高に調子がよく、母と電話でまともに話をしていました(父と母の会話の音声記録)
 きょうは久しぶりに除雪ブルが出動しました。降雪は10数センチです。私は朝から「しんぶん赤旗」日刊紙の配達、市政レポートの印刷、「しんぶん赤旗」日曜版の配達、集金、党の会議と続きました。予報で言われたほど雪は降らなかったおかげで、助かっています。ここ数日は集金で大忙しとなります。


2008年12月14日

新しい親戚

 久々に緊張しました。次男が来春結婚する予定ですが、市内の割烹で彼女のご両親との昼食会を行ったのです。ひと昔前で言えば、結納のようなものでしょうか。若い二人はもう5年ほど付き合いをしているのですが、ご両親と会ったのは今回が初めてです。きょうの昼食会はそれぞれの両親の顔合わせをと二人が計画し、準備してくれました。
 彼女のお父さんは職人さんと聞いていました。かなり厳しい人ではないかと勝手に想像していたのですが、気持のやさしい方でホッとしました。偶然にもビール党で、しかもキリンラガー派である点は私と全く同じ。手の指は乳しぼりをしていた私に負けないくらい太く、働き者の職人さんらしい感じがしました。びっくりしたのは焼いたヒラメの食べ方です。頭の部分と骨をほんの少し残して見事にというか、きれいに食べる点にみんなの目が集まりました。私もきれいに食べる方ですが、私以上に食べられる部分を徹底的に食べる、これには圧倒されました。では、試しにどこまで食べられるのかと私も挑戦したところ、ほぼ同じレベルまで食べることができました。ここまで食べると、残物をもらったネコはがっかりするかも知れません。
 ちょっと余計なことを書きました。何よりもありがたかったのは、次男のことをよく理解していてくださり、二人の付き合いをあたたかい目で見ていてくださることでした。きょうは、初めてとはいえ、話がはずみ、3時間ほど一緒に楽しい時間を過ごすことができました。彼女のご両親も近くの山に行ったり、温泉に入ったりすることが好きだということがわかり、今後、一緒に出かけることも出来そうです。
 


2008年11月28日

里芋がおいしい季節に

 「これから帰ってチラシ1枚作るんだ」昨日の夜、高田駅でそう言ったところ、一緒にいた人に「そんなに無理しなくてもいいんじゃない」と言われました。その言葉が頭に残っていたのでしょうかね、結局、半分くらい作ったところでダウンしてしまいました。ということで、今朝は市政レポート作成から仕事がはじまりました。今週はいろいろな出来事があって表も裏もニュースで埋めました。
 印刷を開始したのは午前10時半を回ってから。それから、「しんぶん赤旗」日曜版の配達に出かけました。今回は配達だけでなく集金もありますので結構時間がかかりますが、読者の人といろいろ話ができます。ある家へ行ったら、ちょうどお茶が出ていて、「あら、おまさんだね、上がってお茶飲んできない」と誘われました。炬燵の上にはカブや白菜の漬物、それに里芋のゆでたものが出ています。「吉川、最近悪いこと重なるねぇ」と言われ、しばらく「市政報告」をすることとなりました。その際、何も食べないでいればいいのでしょうが、お昼に近いこともあって、お腹はペコペコです、すっかりいただいてしまいました。とくに美味しかったのは里芋です。少し小さめのイモは皮がつるりとむけます。それを口の中に放り込んで……。あっという間に30分以上も遊んでしまいました。
 きょうは時々、雨風になりました。やはり、冬が近づいてきているなと感じます。車から出られないような荒れ方をした時が何度かありました。そこで、父が入っている病院まで足を伸ばし、汚れものなどを家に持ち帰りました。昨日はお風呂の日で、着替えさせてもらっていました。昨日は午前のうちに床屋さんから頭を刈ってもらった父、頭がぼさぼさだったのが、きれいに刈り上げてもらいベッカム風に(画像)。「じいちゃん、いい男にしてもらったねぇ」とほめるとニコッとしました。そのあと、私に何かを伝えたいらしく口を開けてぶつぶつ言います。何を言っているのかさっぱりわからないので、「何?わからない」と言うと、ベッカムさんは口をでっかく開けて、「たばこ!」と言うのです。これにはびっくりでした。きょうはいつになく元気なので安心しました。


2008年11月11日

母を連れて病院へ

 昨日からきょうにかけて市議会報告をB4サイズ1万枚(表裏とも)印刷しました。印刷機の性能は以前のものと比較するとずいぶん良くなってきていますが、写真がいくつもある場合、インクをたくさん使うので、片面を印刷したら、半日ぐらいおいて乾かした方が残りの片面の印刷が楽になります。片面だけ昨日刷ったものは、きょうは快調なテンポで印刷できました。
 きょうは午前9時から歯医者の予約をとってあり、歯の治療が済んでから、母を眼科へ連れて行きました。このところ、「目がぼやっとする」というので、父が入院している病院で診察してもらいました。結果はたいしたことがなく、薬を使い治療すれば通院ですむということでした。母の付き添いで2時間近くかかりましたが、受付、検査、治療、再診予約、支払、薬もらい、この一連の流れを80代の人間が初めての病院でやるにはたいへんだと思いました。
 母の眼の治療が終わってから、父の所へ行きました。母と一緒に父を見舞うのは久しぶりです。「じちゃ、ばちゃだよ。エツが来たよ」そう言う母に父は目を開けようとはしません。おかしいなと思ったら、また熱を出して、水枕をしてもらっていました。熱が上がったり下がったりするのは慣れっこになっていることもあり、母はあまり心配しません。「だめど、目、開けねぇわ」と言って笑い(画像)、10分ほど見舞って、家に戻ることにしました。
 午後は議員団会議でした。都合のつかなかった樋口議員をのぞいて3人で13日夜7時から吉川区コミュニティプラザで開催する杜氏の郷問題についての議会報告会の準備をしました。私の地元の問題ではありますが、市政の重要問題となっていることから市議団4人そろっての報告会としました。約20枚となったスライドもアニメーションをつけてほぼ完成し、あとは最終チェックだけです。総合事務所幹部の話では、他の区の人からも問い合わせが来ているといいます。ありがたいことです。
 父の熱は夕方下がりました。私の顔を見てニコニコするくらい回復しましたから、大丈夫でしょう。


2008年10月20日

頻繁にメール交して待ちぼうけ

 またやられてしまいました。妻の川柳の対象にされてしまったのです。今朝の新潟日報の文芸欄を見たら、「頻繁にメール交して待ちぼうけ」とあります。
 議会の会議が終わって、議員控室で妻に「会議終わった。これから迎えに行きます」とメールをしたのはひと月ほど前のことでした。議員控室を出てから駐車場へ行くまでに何人かの人と会い、話をしていたら、あっという間に30分ほど経ってしまいました。妻の方は職場の門のところでずっと待つはめに。以来、迎えに来るというメールをする時は車に乗ってからにしてよ、と何度も言われ、最近はそれを守っています。
 きょうは総務常任委員会でした。合併前の上越市内に地域自治区、地域協議会を置くことについて行政側から説明があり、1時間半くらい審議しました。これまで地域自治区は16のエリアで設置する提案でしたが、谷浜と桑取地区をひとつにし15でどうかという案になりました。また地域自治区の事務所については3か所で設置することが示されました。事務所には所長のほか、1ないし2名の職員を置くとのことでした。委員会では強い異論はなく、11月下旬に合併前市内の3か所で市民説明会が開催されます。また、その前の17日には市議会としての議会報告会も開催されます。そこで、地域自治区についてどんな声が出るか注目です。
 委員会が予想よりも早く終わったので、昼食後まもなく市役所を出て病院経由で自宅に戻りました。家から妻にメールをしたら、すぐそばで妻の携帯電話が鳴っています。連絡のメールをしたらそばで鳴り。おや、川柳もどきのものが出来ましたよ。


2008年10月13日

このままじゃ、おら、暮らしていかんね

 きょうもいい天気になりました。ただ朝晩は少し冷え込みます。パジャマは半袖から長袖にしました。わが家の周囲の景色も少しずつ変わりつつあります。木に絡みついたツタは赤い色になり、桜の木の葉も赤くなってきました。牛舎に至る道の周囲はセイタカアワダチソウが黄色に染めています。ミゾソバとヒメジソもがんばってきれいな花を咲かせていますが、セイタカアワダチソウの黄色に押され、なかなか目立ちません。
 さて、きょうは3連休最後の日。午前からお昼休みにかけてビラ配布をしました。県政も国政も身近なところから考える人が着実に増えてきているのを対話の中で感じます。事故米や後期高齢者医療制度は政治をいままで以上にひきつけ、政治の中身を変える必要性を浮き彫りにしてくれています。きょうも81歳だという女性が私の手を握り、「頼むでね。このままじゃ、おら、暮らしていかんね」。手はしばらく握りっぱなしでした。
 午後2時過ぎ、2日間行かなかった父の様子を見に、病院へ。夕方までビラ配布の予定でしたので気分転換も兼ねてのつもりでしたが、父は39度近い熱を出していてまったく元気がありません。帰ろうとすると「おい」という声を出します。10分くらいの予定がとうとう夕方まで付き添いました。熱は帰り際には少し下がりました。明日の朝には元気になっていてくれるでしょう。
 そうそう、大事なことをひとつ書き忘れました。午前はビラ配布前、千葉と埼玉の従弟たちがわが家を訪れ母の顔を見ていってくれました。自分たちの父親と血がつながっているキョウダイのことを心配してくれる、その気持ちがうれしい。


2008年08月28日

父の三階節

 父の入院生活はきょうから9か月目に入りました。時々、「家に帰ろさ。いっぱいやろさ」と言います。口から食べ物、飲み物はいっさいダメという中で、家への思いは募るばかりなのでしょう。短い言葉で弱弱しく言うので何をしゃべっているかわからないことが多いのですが、「家に帰りたい」気持ちが強いのか、この言葉だけはハッキリとしています。
 きょうは、最近、デジカメに撮ったわが家の写真を病室に持って行き、父に見せました。写真はわが家を南側から撮ったもの、木戸先の百日紅が満開となっています。「ほら、じちゃ、きょうはいいもの持ってきたよ」と声をかけ、写真を見せると、「おらちか」と私に聞きます。「そうだよ、おまんが建てた家だよ」「お医者さんから帰ってもいいよと言われるまでがんばるんだよ」と励ましました。
 写真をじっと見ていた父。涙を流すことはありませんでしたが、よほどうれしかったのか、「歌、うたうわ」と言って、ベッドで寝たまま、「米山さんから雲が出た…」と始めました。柏崎の民謡、三階節です。父の三階節を久しぶりに聴きました。


2008年07月30日

集金、生活相談、見舞い

 昨日の雨が効いたのか、ちょっぴり涼しくなったように思います。きょうは、「しんぶん赤旗」の集金と生活相談を中心に動きました。今度の土日もイベントが入っていますので、平日に少しでも集金しておかないとすすみません。
 午後からは2つの病院、市役所などを回りました。従姉のお連れ合いを見舞った際、吉川区の2人の人とばったり出会い、話をしました。そのうちのひとりはMさん、おじいさんが入院されていると聞いてびっくりしました。春の市議選の時はとても元気で動いてくださった方だったからです。
 高熱が続いていた父はようやく平熱になりました。病室に入ると、私の顔を見るなりニコッとし、耳垢をとろうとすれば「いいがど」と大きな声を出す。いつものスタイルが戻ってきました。
 


2008年07月28日

議員団会議、そして地域協議会

 朝、妻を職場に送ってから父が入院している病院へ。きょうは朝と夕方の2度病院へ行きましたが、相変わらず熱は高いままでした。これでもう4日ほど高い熱が続いています。これまで熱があっても「大丈夫だ」と言っていた父も今回ばかりはきついらしく、「じいちゃん、たいそかね?」と訊くとゆっくりと首を縦に振ります。夕方からは再び点滴をしてもらっています。額は熱く、水枕をしてもらっいるくらいなのに、どういうわけか足や手は冷たいのでびっくりでした。

 きょうは久しぶりに議員団会議をやりました。11日に予定している農業委員会幹部の皆さんとの懇談会の準備、明日の総務委員会や11日の文教経済委員会で審議される課題にどう対応するかなど短時間で整理しました。合併前上越市の区域に地域自治区を導入する課題については、市議選後の総務委員会としては初めての本格的な議論となります。行政側の案では、来年の3月には条例の一部改正を行い、来年秋に予定されている市長選と合わせて地域協議会委員を選任したい意向です。

 夜は吉川区の地域協議会でした。新メンバーになって3回目の協議会です。「公の施設の統廃合計画(案)」に基づいて、六角山リフト、旭地域生涯学習センター(校舎棟)については来年度から廃止したいという市長の諮問について審議されました。賑やかな議論となったのは旭地域生涯学習センターです。撤去費だけでも3987万円もかかるので当面は壊さないでおくという説明に、「廃止後、確実な安全管理をしてほしい」「耐震面で問題があっても条件付きで貸出できないか」「プールはどうするのか」などの質問や要望が相次ぎました。自主審議事項のなかでは、今春閉校されたばかりの吉川高校跡地について総合事務所から説明がありました。県では利用計画がないこと、土地建物は一括処分する方針であることなどが説明されましたが、「体育館だけでも利用できないのか。もったいない」などという声があがっていました。「一括処分」にこだわると、まったく手つかずのまま推移していくことになりますが、それでいいのでしょうか。


2008年07月15日

肺炎再発

 病院から連絡がありました。父が再び肺炎にかかっているというのです。日曜日あたりから熱が高いなとは思っていたのですが、一時、39度1分にもなったといいます。レントゲンでは肺は白くなっており、当面、頸管栄養は中止して点滴で対応したいとの説明がありました。ただ、思っていたよりも父は元気で、私の顔を見て笑うこともあります。
 こういう状況なので、明日からの常任委員会の視察をどうしようか迷いましたが、担当医から「急におかしくなることはないと思います」という言葉をもらいましたので、出かけることにしました。18日まで千葉県、東京都方面へ行っていますので、この日記も休みます。


2008年07月10日

長岡市議団の視察に同席

 上越市の自治基本条例を学ぼうと日本共産党長岡市議団(笠井則雄議員など3人)の皆さんが上越市役所へ来られました。私も何とか都合をつけることができたので、同席させてもらいました。合併協議の段階から条例制定に至るまでの経過、条例の逐条説明を自治・地域振興課副課長の池田さんなどから語ってもらいましたが、長岡市議団のメンバーの皆さんは、「市民や市役所職員が市民会議を立ち上げて3年も検討したのはすごい」などと感想をのべていました。私も復習できて、よかったです。

 条例が施行されて3か月が経過してどうなったかを考える時に、頭に浮かんでくるのは直江津図書館等整備問題です。長岡市議団も新聞報道で知っていて、「市議会及び市長等の説明責任」、パブリックコメントなどが話題になりました。「当市ではパブリックコメントは要綱で運用してきたが、庁内でも解釈に食い違いがあって…」との説明を聞き、改めて条例制定の必要性を理解できました。図書館等とは直接関係ありませんが、「住民投票条例を本年度中に制定したい」との話もありました。パブコメ条例、住民投票条例制定は今年の後半、しっかり対応せねばと思いました。

 午前、父の入院する病院に寄ってきました。院内の床屋さんから昨日電話をもらい、きょう、お風呂に入る前にカットすると聞いていました。動かないで、ちゃんと刈ってもらえるかどうか心配でしたので、寄ったのです。こちらの心配は無用でした。動くどころか、気持よさそうに刈ってもらっていた(画像)のです。床屋さんは、市議仲間や吉川区の住民についてもよく知っていて、楽しいおしゃべりもできました。


2008年06月19日

一般質問初日は盛りだくさん

 直江津図書館・社会教育館整備事業が追加議案に盛り込まれることになりました。これは今朝の議会運営委員会で明らかになりました。具体的に言いますと、この事業の費用が計上された一般会計補正予算が24日に提案され、27日には財産取得の議案が提案されます。24日に提案される議案についての総括質疑の通告は明日まで。私は党議員団を代表して今議会で2度目の総括質疑に立ちます。場合によっては、27日に3度目の総括質疑をしなければなりません。今晩は、久しぶりに書きたいと思っていた「春よ来い」の執筆もやめて、質問準備をしました。

 きょうは一般質問の1日目でした。32歳の新人、中川幹太議員が本会議で初質問を行いました。テレビ放送にかかる負担格差解消を訴えた質問は、ほとんど原稿を見ることもなく、落ち着いて、じつに堂々としたものでした。彼の質問する姿を見ながら、私の町議としての初質問を思い出しました。当時28歳。3回できる質問を、上がったのでしょうか、2回でやめてしまったら、後の席にいた社会党(当時)の杉田惣平議員が「橋爪さん、もう1回質問できるんだよ。もったいない」と声をかけてくれたものです。中川議員の頑張りを見て、樋口議員は、「新人でなく、中人(ちゅうじん?)だね」と言っていました。ベテラン議員にも大きな影響を与えるでしょう。

 夕方、父の入院している病院へと急ぎました。午後4時頃から手術(といっても大げさなものではなく、胃に穴を開けて管で流動食を入れるようにするもの)をすることになっていたのです。妻が午後から休みをとって手術に立ち会ってくれたので、心配してはいませんでしたが、やはり気になります。胃ろうの手術は入院して2度目です。手も足もやせ細って、血管も細く、もろくなっている中で、生きていくためにはどうしても必要な手術でした。病院に着くと、「メール送ったんだけど、無事終わったよ」と妻が待っていてくれました。数日前、父が、「おい、とちゃ、(家に)帰っていっぱいやろさ」と言いました。酒をしめしたガーゼくらい、かませてあげられればいいのですが。

 病院を出てから、吉川区総合事務所へ急ぎました。「まちづくり吉川」(まちづくり団体)の呼びかけで、今後のまちづくりについての意見交換を行うことになっていたからです。私は会の終わるちょっと前に到着し、尾神岳のふもとにある遊ランドでの懇親会に出させていただきました。吉川高校同窓会の小林会長さんや東京吉川会に参加しているメンバーなどと飲みながら、吉川区の将来について楽しく語り合いました。出された料理の中に、ほうの葉に包まれた寿司(画像)がありました。先日も、ほうの葉でつつんだ赤飯を食べたばかりです。葉の匂いがなんともいえない懐かしさを感じさせてくれます。味も良かった。


2008年06月12日

定例会初日

 6月定例市議会がきょうからはじまりました。会期は27日までです。市議になって3年と4か月が経過しましたが、今定例会はいろんな意味で新しいことに取りくむことになります。何よりも議員団長になったことが大きいですね。4人の議員団全体をまとめていかねばなりませんし、質問などについての準備も私の受け持つ分野だけとはいきません。きょうは市議になって初めて総括質疑をしました。「学校評価の充実改善のための実践研究事業」に関して、集中的に質疑をしました。「研究だけにとどまらないで、学校評価指針を市の段階でもつくるのはいかがか。各学校の自主性を侵すことになるのではないか」などとききました。登壇して3回だけ質疑を行うやり方は久しぶりです。昨晩、どんな展開になるかイメージトレーニングをしてのぞみましたが、まずまずの出来だったかなと思っています。

 きょうは会議の始まる前に議員勤続表彰がありました。全国と北信越の市議会議長会の表彰です。当市議会では6人の議員が表彰されたのですが、そのなかには私も入っています。表彰規定で合併前に町村議をやってきたものは勤務年数の半分を市議としての勤務年数とみなすとなっているそうです。私の場合、町議は26年ちょっとでしたから、合併前の分で13年間市議をやってきたとみなされ、今回15年以上勤続表彰をもらいました(画像)。議場にはこの規定を知らない人もあったようで、何で表彰されたのかケゲンな顔をしている人もいました。私が議員になったのは28歳の秋です。合併で1ヶ月ちょっとの空白がありますが、議員生活は30年目に入っています。新たな気持ちでがんばります。

 午後、明日の委員会の準備を議員団でやっていたら、病院から電話が入りました。父のことで担当医の方からお話ししたいことがあるので、きょう、病院に来ていただけませんかという看護師さんからの連絡でした。父はいろうの手術をして流動食をチューブで胃に直接入れているんですが、聞くと、無意識のうちなのか、意識的なのか、今月になってチューブを2度も抜き取ってしまったとのことです。きょうの場合は抜き取った後にもう一度差し込むこともできなくなってしまい、再び点滴になりました。担当医からは、たいへんあばれて困っているとまで言われました。父の気持のなかで何か我慢できないものがあるのかも知れません。市役所からの帰り道、妻と話しました。一度、それも1時間でもいいから、家に連れて帰ってあげたいねと。


2008年06月03日

食むことも酒も煙草も叶はねど…

 夕方、そろそろ妻に帰りの時間の連絡をしなければならないと思っていた時でした。妻の方からメールがきたので見ると、「きょうの朝日に短歌が載りました」とあります。先日、「今度、朝日新聞にも出してみようかな」と言っていたのですが、こんなにも早く載るとはびっくりです。議会事務局でさがしたところ、朝日の新潟版の「歌壇」にありました。食むことも酒も煙草も叶はねど舅(ちち)朗らかに歌うたふなり。選者の評には、「食事も叶わなくなった老い人の、なお朗らかに歌う心の健やかさにこちらが励まされる。事実のみ述べて余分な感想などださないため作品が深まった」とありました。父も喜ぶことでしょう。

 さて、いよいよ6月議会です。6月定例会そのものは12日から始まりますが、きょうから事実上のスタートです。きょうは午前に議会運営委員会がありました。上野議員から委員会報告を受けましたが、今回は改選後の初定例会ということから、開会前に記念撮影が行われます。その後、議場で議員表彰があるといいます。そのなかに私の名前まであるので驚きました。在職15年以上者という扱いで表彰されることになっていました。市議になったのは3年4か月前ですから、それ以前の町議在職期間26年を考慮したのでしょう。午後からは議案の勉強会を団でやりました。提出された議案数は少ないものの、条例などでわからないものもあり、さらに検討することにしました。一般質問の準備もしなければなりませんが、党議員団では平良木、上野両議員がすでにスタンバイ状態です。こちらも遅れないようにしないと。


2008年05月24日

久々の雨で農家は喜んだ

 午後3時頃からポツポツと落ちはじめ、夕方には降る音がするほどの雨になりました。ほんとうに久しぶりの雨です。この5月は晴れの日が続きました。行楽には良いのですが、困ったのは農家の人たちです。「畑ものをするにも雨が降ってくれないと…」「まだ代かきができない。このままだと平成6年の干ばつみたいになるんではないか。田植えできるかどうか心配だ」などといった声が聞こえてきていました。この降り方で水不足が解消されるようになるかはわかりません。明日まで降り続け、まとまった量になってくれればいいのですが。

 きょうは千葉、埼玉から従兄弟たちが父の見舞いに来てくれました(画像)。ありがたいことです。朝3時半に出て、大島区の親戚をぐるりとまわって、病院へ。父の状態は安定傾向にありますが、機嫌のいい時もあれば悪い時もあります。きょうは調子が良かったのか、うれしそうでした。従兄弟たちとは、病院の待合室で、ゆっくり話をすることができました。刷りたての市政レポート改訂版を持参したことから、印刷機のことやこの日記のことなど楽しい話が続きました。日帰りでなければ、どこかで湯につかり、ビールでも飲みながら話を続けたかったなぁ。

 ここのところ、「しんぶん赤旗」の配達はとても時間がかかります。選挙のことや、市議会の様子などで話が弾むからです。きょうは、国民年金の加入状況の確認の手紙や市役所からの布団丸洗い・乾燥の再申請手続きなどで相談してくる人が何人かいて、その対応もしました。もちろん、お茶もご馳走になりながら。山の竹の子の煮付けや沢菜(サワナと呼びます。ミズナとも言います)の粕漬けもいただきましたよ。


2008年05月20日

伊勢崎の伯母の葬儀

 朝出る時はポツポツ、電車を降りた伊勢崎市では小雨、そして告別式や繰り上げ初七日法要が終わったときには晴れている。亡くなった伯母は91歳でした。父のキョウダイのなかでは一番上の姉で、よく稼ぐ人でした。農作業であろうが、家具店の商売であろうが一生懸命がんばってきた伯母にとっては最高の天気です。普通なら「ゆっくり休んでください」と言うところですが、これから鉢巻をしめてがんばろうとする伯母を見送る、そんな雰囲気がありました。

 伯母の遺影は90歳に到達した時に市が敬老記念として贈ってくれたものを使っていました。目がしっかりしていて、顔の表情は働き者であった父親・音治郎とそっくりでした。4年前の6月に亡くなった伯母も普段は違うように見えたのですが、亡くなった時の顔はやはり親と同じでした。不思議なものですね。火葬場の控室で昼食をとった時、私の席の周辺には何組ものイトコ夫婦がいて、戦争時代にわが家に疎開したした頃の思い出話で賑やかでした。家の周りに池が二つあって、たしかグミの木があったはずだとか、下の水車のところで遊んだなどと、とても生き生きと語ります。そこでも音治郎じいさんが何回も出てきました。

 帰りの電車のなかではめずらしく眠りませんでした。伊勢崎の家で少し横にならせてもらったのがよかったようです。新幹線の座席の前に小冊子があります。内舘牧子のエッセーや秋田県小坂鉱山のまちづくりのことが紹介してあるものです。これを読みふけりました。ここでは近代建築やアカシアをたくさん植えて甘い香りのするまちづくりをしていることが書いてあって、ひき込まれました。アカシアの開花時期は私たちのところよりも10日以上遅いようです。毎年、アカシアの花の匂いを嗅いで、いい気分を味わっていますが、外に出て楽しみたくなりました。


2008年05月19日

議長・副議長候補と申し合わせ

 市議選後初の臨時議会が開かれました。20日以上も過ぎてからになったのはゴールデンウィークをはさんだことが主な要因ですが、災害など緊急事態があるかもしれないことを考えればもっと早く開会させたかったですね。

 きょうの臨時議会は初議会ですから、議会人事が中心です。議長、副議長は選挙の結果、山岸行則、古澤弘議員が続投することに決まりました。私たちの議員団では、昨日の段階で各候補と選挙にあたって数項目の申し合わせをしました。内容は、①議長(副議長)は会派などの代表としてではなく、議会の代表として発言し、行動する、②議長として重要な政治決断が求められる場合は、双方が十分意見交換を行う、③少数意見も尊重し、議会の民主的な運営に努める、などです。

 選挙の結果は議長については、白票が1で、あとはすべて山岸票でした。副議長では、大量の白票が出たのでびっくりしました。古澤票が35、白票が10、そのほかに小林克美票が2、橋爪票が1出ました。私の名前は他会派のどなたかが書いてくださったものです。

 明日は群馬県伊勢崎市です。父の一番上の姉にあたる伯母が亡くなり、葬儀に行くことになりました。病院で父に死亡報告をしようか迷い、結局、伯母が具合が悪くなったので見舞いに行くというウソをつきました。何か言付けないかとたずねると、「ない」と答えました。きょうは、調子がいまいちでした。


2008年05月07日

団結し、学び、行動する議員団めざして

 きょうは午前中、党議員団会議でした。先回、ある程度イメージを膨らませていた団会議について、さらに意見を出し合い、どういう内容で会議を持つかを深めました。その結果、団会議の主な課題は、①質問、討論など議会対策、②「議会と自治体」誌掲載論文、赤旗掲載の論文などを使った学習会、③党建設の計画と実践、④管内視察、⑤議員団ニュースの検討、⑥生活相談など、その他の課題とし、毎週1回、一日かけて行うことを確認しました。毎回の学習会、議員団ニュースは各議員の持ち回りとなります。会議のレジュメは私が用意しなければなりません。しばらく、試行錯誤の連続となるでしょうが、がんばりたいと思います。

 さて、午後からは13区総合事務所回りです。いつもとは逆の順番で、きょうは、名立、中郷、板倉、牧、清里の各区総合事務所を訪ねました。4月1日の異動で幹部職員の替わったところもあり、新鮮な感じがしました。途中、牧区の渡辺靖子元村議の御宅におじゃまをしてお茶をご馳走になってきました。渡辺さんはいつもおいしい漬物等を出してくださるので、みんな楽しみにしています。きょうは孟宗竹の子をスライスして、酢で煮た(?)もの、ソバ粉の団子などを出してもらいました。酢の効いた竹の子スライスは絶品でしたね。明日は午後から、旧東頸城、頸北の各区総合事務所を訪れる予定です。

 夕方、妻と一緒に病院へ。父はここ1週間ほど、熱が上がったり、下がったりしています。きょうも37度8分あり、看護師さんに手当てしてもらいました。数日前も37度5分になり、心配しましたが、痰が肺に入ってしまうのかも知れません。熱がある時の父は元気がなく、これまで繰り返し聞かされてきた「家に帰りたい」「酒を飲みたい」「たばこを吸いたい」という言葉はひとつも出ません。意味不明の言葉をいくつかボソボソと言うとまどろむ、そういう状態が続いています。


2008年04月30日

睡魔と闘いながら

 夏を思わせるような暑い一日でした。25度は越えたでしょうね。朝から車を長時間運転しました。妻を職場に送り届け、父の病院へ顔を出し、その後、高速道路にのって長岡市小国町へ。じつは選挙の候補カーを細井長岡市議からお借りし、昨日お返ししたのですが、車の中に私の宣伝カーのマイクを入れっぱなしだったのです。小国の帰りには柏崎の義父母のところへ久しぶりに寄りました。お土産は、地元紙に掲載された選挙報道です。「よかったのぉー」と言いながら、闘病中の義父はベッドの上で繰り返し読んでくれました。

 柏崎からの帰り道は小村峠を越えて柿崎へと計画していたのですが、野田から2キロほど行ったところで交通止めとなっていました。雪消えの遅いところでの山菜採り、野の花写真撮影などを楽しみたいと思っていただけに、残念でした。4時間近い車の運転は久々です。これまでの睡眠不足に加え、きょうの暑さも手伝って、運転していてもウトウトする寸前まで行きました。これは危ないと思い、家ではすぐ横になりました。

 午後からは「しんぶん赤旗」の学習党建設版担当記者の取材と生活相談でした。取材は、選挙にかかわるものです。旧吉川町の歴史や集落懇談会の取り組み、選挙戦そのものの展開と特徴などについてインタビューされたのですが、時たま、強烈な睡魔がやってきてまともな対応は出来ませんでした。記者の方には申し訳なく思っています。生活相談は、選挙期間中、選挙が終わるまでお待ちくださいと言ってきたこともあって、きょうは3件もありました。こちらは一眠りしてから対応しましたので、何とかなりました。


2008年04月28日

父も万歳をしてくれた

 昨晩は2時間ほどしか眠れませんでした。興奮して眠れなかったわけではありません。やるべきことがいっぱいあって眠れなかったのです。まず、全国から寄せられたメールに返信したい。親戚、同級生、これまで取材に来られたことのある記者の方、党議員などたくさんのお祝いのメールが届きました。学生時代の友人からは、「このところ少し風が変わってきている気配を感じます。共産党の政策提言が受け入れられる下地が出来てきているような」というメールがきました。また、メールのなかには公明党支持の方からのメールもありました。うれしいですね。

 HPはスピードが大事ですね。千葉県に住む従弟から、「市役所のHPよりも私のHPの日記の方が選挙結果報道が早かった」とありました。市のHPよりも早くなったのは、新聞記者のインタビューをすませてすぐに、パソコンに飛びつく時間をつくったから。勝利を確信して投票日の夕方、日記の原稿を書いておいたこともよかった。何人かのメールを読み、一秒でも早く選挙結果を知りたがっていることを改めて知りました。「ホーセの見てある記」には久しぶりにいくつかのコメントが寄せられました。沖縄の方からも初めて寄せていただきましたよ。ご覧ください。

 昨晩から電話もたくさんいただきました。電話は選挙事務所の2つの臨時電話を含めると6台あります。後援会長さんや妻などに手伝ってもらいましたが、それでも対応しきれませんでした。多々失礼があったことと思います。その点、お許しください。区内からのお祝いの電話がほとんどですが、区外からもたくさんいただきました。「あなたの、共産党としての柔らかさが評価されたんだから、それをふまえて活動してくんないや」とは学校の元先生でした。自民党のある県議さんからは、「いや見事なたたかいだった。最後は人間(が大事)だね」と激励されました。

 きょうは、父の入院している病院へ行ってきました。私の顔を見るなり、「トチャか」と言ってニコリ。会いたかったのでしょう。父には地元新聞で報じられた、万歳をしている時の写真(画像)をみせ、「じいちゃん、当選したよ。ほら、載ってるよ」と言うと、涙を浮かべて万歳を何回も繰り返してくれました。一緒に出かけた妻も、「私も万歳してないから、一緒にやろうね」と言うので、病室では3人で万歳をしました。父のところへは市役所からの帰り道にも寄りました。

 市役所木田事務所へは本当に久しぶりに訪れました。当選証書をもらうためと挨拶をするためです。証書をもらってからは、市役所内のあいさつ回りです。きょうで議員活動を終える杉本市議も含め、5人で各課をぐるりとまわりました。階段を上ったり下がったりしたものですから、汗をかきました。挨拶は私が代表して声を出したのですが、自分でもびっくりするほど大きな声がまだ出ます。この調子なら、10日間くらいの選挙でも大丈夫かも。あいさつ回りでは、目でお祝いのメッセージを送ってくれる人がいました。学校給食民間委託問題で一緒にやってきた市職労の委員長からは、「よかったですね。おめでとうございました」と声をかけてもらいました。


2008年04月17日

うれしい激励

 告示3日前。朝早くからうれしいことが続きました。まず、旧上越市区域内に住む友人が激励に来てくれました。相手陣営の運動情報などが伝わったようで、すごい戦になっている、何が何でも勝って再び議会に出てほしい、出来ることがあれば遠慮なく言ってほしい、と励ましてもらいました。高校、大学とも同じで私よりも3つ年下の人が橋爪支持を訴えてくれているという情報も入ってきました。この人は会社で一緒だった吉川区の人に働きかけをしていてくださるとか。ありがたいことです。

 昨日、父が入院している病院から出かけてきてほしいと連絡をもらい、きょう、久しぶりに父の所へ行ってきました。少しの時間しか一緒にいてあげることが出来ませんでしたが、時たま、ニコッと笑ってくれた様子からいえば、喜んでくれたのだと思います。最近、私よりも回数で多く父に会っている妻の口から、「じいちゃん、だいぶ弱ってきているね」と聞いていたので、手袋をはずして父の手を握ってみました。入院して間もないころのような強い握力はありません。でも、まだまだ大丈夫だと感じました。父には、次は選挙が終わってからでないと来れないよ、がんばるんだよ、と声をかけてきました。

 私の事務所は告示直前の準備でフル回転です。病院から帰ってからは、私でないとわからない事務的な仕事をいくつかやりました。腹が減っては戦は出来ぬ。最近は、運動をしているみんなと一緒に食べるご飯がとても美味いですね。きょうは、コシアブラも手に入りました。明日あたり、食べられるかも。


2008年03月21日

任期中最後の一般質問

 一般質問3日目でした。私の出番はやはり午後となりました。市議になってから、一般質問は今回で13回目です。質問は毎回、同じ雰囲気の中で進行するとはかぎりません。今回は明るい選挙推進協議会の人たちが大勢傍聴されました。これは想定外でした。その分、緊張したように思います。質問時間が30分と制限されているなかで、1回目の質問で15分を使いました。再質問は震災対策の質問で8分間を使い、現段階での被災者の状況をしっかりとつかみ、支援していく必要性を浮き彫りにできたかと思います。残りは7分、このなかで3つのテーマを質問するのは欲張りすぎでした。公立病院改革ガイドラインの質問はわずか1分間、まったく詰めることができずに終わってしまいました。

 市役所を出たのは午後6時30分を回っていました。妻を職場まで迎えに行くには遅いので、父の入院している病院で待っていてもらうことにしました。病室の近くまで行ったところ、父の歌声が聞こえてきました。月が出た出た、月が出た……。炭坑節です。妻によると、きょうは病室から月をみせたやったのだそうです。ちょうど、まん丸の月でした。父にとっては数か月ぶりのお月様です。よほどうれしかったのでしょう、何回も何回も歌を繰り返しました。

 


2008年03月06日

「風呂に入れるよ」に「いいやんべ」と父

 朝から市役所で一日中、委員会質問の準備をしました。主に教育委員会関係が中心です。学校教育現場のいくつかの問題に絞ってどういう論戦をして要求を実現していくか作戦を練りました。他会派の委員とも情報交換をし、議論をしたりしたので時間がかかりました。上越市は、予算の時でも決算の時でも、議案に関する資料は全体としてはとてもよくまとめてあります。単純な質問はほとんどする必要はありません。きょうは、県の行政機関からも資料を取り寄せ、問題を掘り下げる方法を考えました。

 夕方、妻を迎えに行き、病院経由で家に帰りました。昨日、看護師さんから「お風呂に入れますので、必要なものを持ってきておいてください」と言われたので、洗剤などを用意して届けました。「じいちゃん、今度、風呂へ入れるがだと」と声をかけたら、「そりゃ、いいやんべだ」という声が返ってきました。昨年の12月末から70日以上入っていなかったので、父にとってはビッグニュースです。風呂に入っている時の喜ぶ様子を見たくなりました。

 明日は建設企業常任委員会の最終日ですが、他の用事で動かなければならなくなりました。午前は市川前議長のお連れ合いの葬儀です。12月議会の一般質問では、足の不自由なお連れ合いと一緒に栃尾城に登った話をされていたので、どんな方かなと思っていたのですが、明日、初めてお会いすることになります。午後からは、父が入所できる老人保健施設をさがすために動きます。病院のソーシャルワーカーなどからアドバイスをもらっていますが、議会の一番忙しい時期と重なりました。


2008年03月04日

国保税条例の委員会審議

 厚生常任委員会は3日目です。注目の国保税条例の審査が行われました。3人の委員が質問に立ちました。党議員団の樋口委員が値上げ反対の立場でいくつか質問しました。そのなかで、国民健康保険が社会保障であることを確認する発言をしていましたが、市側が「制度論の議論は(この場では)なじまない」と答えていたのには唖然としました。他の委員からは「国保税の引き下げが合併するかしないかの選択をする時の判断材料の1つになっていた。(当時の、引き下げという)政策判断は間違いだったのではないか」などという質問が出ていました。私は、市民の担税能力からいって、引き下げは妥当な判断だったと思います。問題は、この間、合併で持ち寄った基金の取り崩しだけで国保税率を上げないようにした点にあったのではないでしょうか。長岡市などは合併時に、一般会計からの特別繰り入れも行ったと聞いています。国保税値上げ条例は残念ながら賛成多数で通りました。

 夕方、妻と一緒に父を見舞いました。相変わらず、良くなったり悪くなったりの繰り返しですが、きょうは上機嫌でした。妻が「じいちゃん、歌を歌いましょう。『岸壁の母』はどうですか」と言い、誘い水をしたところ、一番の歌詞を全部歌い切りました。頭の中にしみ込んでいたのでしょうね。声も悪くはありませんでした。


2008年02月25日

ソーシャルワーカーと相談

 きょうは、父の退院後の介護をどうするかで病院のソウシャルワーカーなどと相談しました。施設での介護をお願いしたいと思っていますが、簡単にことは進まないことがわかりました。特養ホームだけでなく、老健施設もなかなか入れません。また、入っても入所に伴う利用料がばかになりません。相部屋で月に14万円前後かかるそうです。昨日、友人から、「うちの場合は夫婦ふたりだったから20万円を超えた」という話を聞き、びっくりしてしまいました。

 父のところへは、市役所の行き帰りに2回行ってきました。帰りに病室を訪ねると、ゼリー状の食べ物が置いてありました。「じいちゃん、口から食べ物、食べたがか。いかったねぇ。うまかったかね」と聞くと大きくうなづきました。これで、少しでも口から食事をとれるようになればいいのですが……。きょうは、市役所でも介護に詳しい職員さんや議会関係者と介護問題について教えてもらいました。アドバイスをしてくださる方がいると、とても助かります。

 今朝の新聞で、「人手不足のためにショートスティの1ブロックをオープンできない」ところがあるという記事が目に留まりました。昨年の12月議会で、介護労働者の労働条件の悪さを指摘しましたが、人が集まらなくて施設運営できなくなってきているところもあるという現実は深刻です。市内にはいくつかの施設で人手不足が問題になってきているようなので、今後、調べて、打開の道を探っていきたいと思います。

 市政レポートNO1335、掲載しました。ご笑覧ください。


2008年02月23日

退院の準備

 昨晩、病院に泊まった妻から連絡が入りました。担当の医師から、胃ろうの手術後の経過もよく、父の容態が安定してきているので、そろりと退院の準備をしてくださいと言われたというのです。熱は平熱、酸素の補給も必要なしとなってきている中で、近いうちに話があるだろうと思っていました。ただ、口から食べ物を食べさせる試験もやってみたいとの話も前にありましたので、それをやる場合はまだ時間がかかるかもしれません。いずれにせよ、週明けには病院のケースワーカーと相談したいと思っています。

 きょうは、朝のうちは冬晴れのいい天気だったのですが、午前11時頃から荒れ模様になりました。「しんぶん赤旗」の配達の際は、アノラックの内側に新聞を入れ、雨風で濡らさないようにしながら配りました。病院では窓ガラスに横殴りの雨が流れたそうです。その様子を見て、父は、「ばちゃ、お茶飲もうさ」と言ったとのことです。きょうは機嫌が良かったらしく、歌も何曲か歌ったといいます。たぶん、家にでもいると思ったのでしょう。この話を妻から聞いた時、もう一度、口から飲食物をとれるようにしてあげたいと思いました。


2008年02月20日

ポスター試作品できる

 昨日に続いて議案について議員団で勉強会をしました。事前に議員に配布された市長の提案理由の説明を読み合わせ、何が問題かを出し合う。その中から総括質疑の項目を拾っていくのですが、きょうは途中で、党自治体局長の地方財政計画についての論文も読み、勉強しました。国が地方政治をどこへもっていこうとしているのか、その流れをつかんだだけで、市の予算について見えてくるものがあります。それにしても、これまで定着してきた各種補助金などをバッサバッサと切り落としたもんです。

 印刷屋さんから候補ポスターの試作品が出来たので見てほしいとの連絡が入りました。顔写真のバックの色を黄金色にしたものと私がデザインした色のものと2種類作成してありました。バックの色をどうするかで顔というより、人間のイメージがずいぶん違ってきます。すぐには結論を出さないで、試作品を借りてきて、議員仲間や家族にも見てもらい、意見を聴くことにしました。「家の中で見る場合と外で見る場合とで違うから、そこをよく考えて」「片方は落ち着いているが冷たく感じる。本人の性格がそのまま出た色を」などいくつかのアドバイスをもらいました。

 きょうは市役所の行き帰りに父を見舞いました。行きの午前、エレベーターで下りようとした時に長女とばったり会いました。長女は週に3回ほど紙オムツやパットなどを補充し、父を励ますために出かけてくれます。入院前も父が最も頼りにしていたのは長女でした。夕方、病院に寄ったところ、私のすぐ前に訪れた面会届が目に入りました。妻の面会届でした。きょうは家族で話し合うことなく見舞いに行ったので、父は、家族が次々とやってきて満足したことでしょう。妻は、父から笑顔で「お母さんかね」と言われたそうです。


2008年02月17日

雪が降り続けて

 昨日からの雪は暖かかった今冬の中では厳しいものとなりました。とくに、きょうは一日中、降り続けていて、早く寒気がぬけてほしいと思いました。道路除雪にたいする苦情や要望は今冬は少なかったのですが、降雪が続く中で連続して寄せられています。きょうは、「きのうの夕方、県道が除雪してあったのでホッとして家に向かったが、市道に入った途端、除雪がしてなくてびっくりした。20センチ近くもあったのに、こんなことがあっていいのか」山間部に住む会社員の方に厳しい言葉で言われました。これらは明日、総合事務所に伝えておきたいと思います。

 夕方、病院へ向かい、妻とともに父を見舞いました。微熱が出ていて、少し元気がないなと思いましたが、「どうだね、具合は。大丈夫かなね」と言うと微笑みながらうなづいてくれました。病院からの帰り道、このところ、ずっとお世話になっている「門前の湯」に入ってきました。病院に近く、温泉の質もとてもいいので気に入っています。きょうはサウナにも入ってゆっくりしてきましたら、1週間の疲れがドッと出て、家への帰り道は睡魔との闘いとなりました。


2008年02月14日

ポスター作成の打ち合わせ

 昨日に続いて、きょうも寒かったですね。道路が凍って滑りやすく、交通量の少ないところや日当たりの悪い路線はなかなか解けませんでした。2日続きで凍ったこともあって、朝早く、「○○の道路を歩いてみてください。保育所のマイクロバスは大丈夫でしょうか」とのショートメールをもらいました。確かに、現地はツルツル、危ない道になっていると感じました。

 きょうは印刷屋さんとポスター作成についての打ち合わせでした。写真屋さんからいただいた写真をもとに、どういうイメージのポスターにするか、色の配置などについてのこちら側の案を説明し、話し合った結果、季節の色というよりも公営ポスター掲示板の色を考慮して試作していただくことになりました。私の希望を入れてもらい、専門家の意見も入って、とてもいい雰囲気のものが出来そうです。来週の前半には出来上がることと思います。

 午後、写真屋さんから連絡があり、電子データを持って再び印刷屋さんへ。このお陰で、父が入院している病院へはきょう、3回足を運びました。何回も会いに行ったのは、きょうが父の誕生日であるからです(画像)。昨年、「おれ、80歳になった」と繰り返し言い、笑っていた父が81歳になりました。夕方には妻もかけつけ、父に誕生日のプレゼントをしてくれました。プレゼントといっても、「あいうえお…」のひらがなを書いた一枚の紙です。会話がよくできないので、指で文字を指してもらい、いいたいことを教えてもらおうというのがねらいです。うまくいけばいいのですが……。


2008年02月13日

寒さ強烈

 きびしい寒さでした。ストーブをつけてもなかなか部屋の温度が15度を上回らず、上着の上にジャンパーをもう一枚羽織って仕事をしました。市役所への道もほとんどがアイスバーン状態で、総務常任委員会開会時間にはギリギリでした。委員会では、来年、新潟県内で開催される国体の準備状況、情報基盤整備の進捗状況、電子市役所推進計画などがテーマでした。上越市内で行われる国体の各種競技の日程が決まり始めています。新体操、ハンドボール、ソフトテニス、ソフトボール、ビーチバレーの日程は確定しました。尾神岳で開催されるパラ・ハングライダーは10月3日、4日の予定です。

 委員会開催中に病院から電話があり、父の病室が再び個室になりました。個室になったのは病気が悪化したからではありません。こちら側の希望と新たな入院患者を迎える病院側の都合によるものです。今度の病室は6階です。5階よりも何メートル高くなったのかわかりませんが、これまでも病室から見えた謙信大橋は見下ろす感じになりました。市役所の私の議員控室もよく見えます。4人部屋から1人になって、何か様子がおかしいと思ったのか、きょうの父は、昨日に比べて元気がありませんでした。


2008年02月12日

家に帰りたい

 午前はKさんの葬儀でした。喪主を務めた息子さんがお礼の挨拶でのべた、「父は50年間酒造りに励んできました。一級酒造技能士として頑張ってきた父は私の誇りです」という言葉に涙が出ました。
 
 その後、たまった生活相談を解決するため、市役所等へ行きました。市役所への行き帰りの途中、父を見舞いました。髭が伸びていたので電気カミソリで剃ってやると、目を閉じて、剃りやすいように顎を伸ばしてくれます。父の言葉は入院後ほとんど聞き取れないできましたが、きょうは、はっきりと分かる言葉で、「家に帰りたい」と言いました。「わかったよ。それじゃ、早く病気を治そうね」と私から声をかけたところ、うなずきました。きょうは比較的、具合がよかったのかもしれません。

 吉川に戻ったら、先日、写真屋さんで撮ってもらったのが出来上がってきていました。やはりプロは上手です。いい写真(画像)になりました。前回の写真よりも頭がうすくなって、顔は大島区の従兄にずいぶん似てきました。


2008年02月07日

父の手術無事終了

 誤嚥性肺炎で入院している父は口からの食事はまったくダメ、鼻から栄養剤を入れてもらっています。入院後、2週間位経った時点で担当医から、胃に穴を開けてそこから栄養剤を注入する手術をすすめられました。家族で話し合った結果、この手術をお願いすることにしたのですが、その後、熱が37℃台から38℃に上がる事態が何度も繰り返され、先延ばしになっていました。

 数日前、担当医から7日の午後、手術を行う予定との連絡がありました。きょうはその手術が予定通り行われました。父のベッドの脇には白い紙に「9日、胃ろう造設」と書いてありました。3時半過ぎに手術室(検査室?)に入った父は、30分ほどで出てきました。麻酔が効いたのか、もうろうとした状態が続いています。手術をしたお医者さんから、どうであったかの説明を受けてきました。胃ろうが安定するまで1週間ほどかかるようです。

 地元紙、上越タイムスが10日ほど前から、4月の市議選に出馬予定者のインタビュー記事を掲載し始めています。5日には定数1の吉川区で私と議席を争うN氏が登場、今朝の新聞では、私のものが掲載されました。これまで掲載された6人はいずれも新人でしたので、現職としては私が最初です。1時間ほどの取材でずいぶんたくさんしゃべったように思いましたが、「議員30年、暮らし第一」というタイトルで私という人間や政策の一端をコンパクトにまとめてあり、さすがはプロだと思いました。


2008年01月29日

市の環境基本計画(案)に注文相次ぐ

 厚生常任委員会でした。自分の所属する委員会ではないものの、市の環境基本計画(案)についての議論があるというので傍聴してきました。傍聴席にあった計画(案)は全文約60ページ、相変わらず、上越市の計画作りは力が入っているなと思いました。でも、事前に配布され、すでに読んできた委員からは、「わかりにくい。一人ひとりが何をすべきかが載っていない」「国の地球温暖化対策では企業責任があいまいだが、上越市の計画も同じではないか」など厳しい意見が続きました。

 きょうは病院へ3回行きました。市役所へ行く前に寄ったところ、熱もないのに何となく元気がありません。それが気になって、帰りに再び寄ったら、マスクをしてじっとしています。自分の肺炎だけでなく、他の感染症対策もあったのでしょうが、午前よりもさらに元気がなくなっていました。それで、妻を迎えに行ってから病院へ戻りました。熱は37.4度、少し熱が高くなってきていました。市内ではインフルエンザで休んでいる学校のクラスもあるといいます。明日は早めに行ってあげようと思います。


2008年01月23日

鉢植えの福寿草

 1年で最も寒い時期のはずなのに雪が降らないで雨が降る。ここ数日は暖かいですね。ある家を訪問したら、玄関先の鉢の中で福寿草が咲いていました。部屋の中にでも置いてあったのでしょうか、春を告げる花とはいえ、とても早い。どうあれ、今年初めて見る福寿草です。黄色の花がまぶしいくらい美しく感じられました。この調子なら、来月には雪割草の開花があるかもしれません。1年に1度は自然の中で咲く雪割草を見ないと気が済まない私です。早目に咲いてくれれば、選挙年であっても見に行けるかも。

 きょうは訪問活動の後、雑用をこなし、その後、父の所へ行ってきました。病院へは毎日行くのですが、ここ2日間ほど体温が38度を超えていて、あまり元気がありません。片方の肺に痰がたまりやすく、父の体位はそれを意識して数時間ごとに変えてもらっています。きょう訪ねた時は、右肺を下にして体を90度起こした姿勢でいました。枕を抱いて寝ている恰好は、まるで子どものようです。「じいちゃん、また来るからね」と言っても、きょうは白いグローブを上げませんでした。


2008年01月19日

千葉から従弟が見舞いに

 千葉より従弟が病院へ来てくれました。きょうは、その時間帯までに新聞配達などの仕事をこなして、待ちました。最初、直江津駅まで迎えに行くよと言っておいたのですが、大島区の従兄(母の実家)が道案内役をしてくれました。病院では、談話室の一角で近況などについて話をしました。千葉の従弟によると、最近、叔父の部下だった人に偶然会ったとのこと。両国駅か錦糸町駅の駅員さんだったのでしょう。この話を聞いて、久しぶりに亡くなった叔父のことを思い出しました。数年前、大島区の伯父を見舞いにきた時、直江津駅前の食堂に入り、一緒にお昼を食べました。その際、「兄貴が死んだら、次はおれの番だよ」と叔父は言っていたのですが、その通りになってしまいました。さみしいものです。でも、亡くなった叔父に代わって、こうして従弟が義理堅く見舞いに来てくれる、うれしいですね。

 きょうは、選挙がんばって、というメールが2通届きました。1通は、相手候補の宣伝の動きについて教えてくださる内容でした。私をどう攻めてくるかを知る上で参考になる情報提供です。助かります。もう1通は中学時代の同級生からでした。遠い、遠いところからのメールで、「昨年お盆に帰省した際、あなたの本を見つけ、読ませていただきました。子供の時の写真がとても懐かしかったです。当時の暮らしぶりからにじみでてくる家族の心情もとても懐かしく、胸が熱くなりました。最近思いついて、あなたのホームページを見つけました。尾神岳の写真や、ブログを読んで元気をもらっています。あなたのお父上は、私が小さい頃、何度か私の家へ来られたことがあります。いろり端で私の父と話し込んでおられたのを覚えています。一日も早く回復されますよう、祈っております。選挙戦がんばってくださいね」とありました。おふたりさん、ありがとう。


2008年01月17日

国保問題で「よくする会」が市に要請

 大寒が近づいてきたら、ぐんと冷え込んできましたね。今朝は道路も凍って、車ものろのろ運転となりました。きょうは、午前9時から、「上越市の国保をよくする会」の国保税についての要請活動でした。12月議会で「国保の基金も底をつく。一人あたり2万円からの不足を生じるので税率の見直しが必要」との見解を市が示していたことから、一般会計からの法定外繰り入れを行ってでも値上げをしないでほしいと訴えました。応対した村山副市長の発言を聞いていて、市はこれまでにない政策的な判断をしてくれそうな感触を得ました。今後、この動きを確かなものにするため、署名活動などを急速に広げていきたいと思います。

 要請行動が終わってからすぐに病院へ行きました。父の容態が良くなっていくことを前提に、今後、どういう介護を、どこでやっていったらいいのかなどについてソーシャルワーカーの方と相談しました。母がここ1、2年の介護で相当疲れているので、何とか施設対応でとお願いしてきました。その後、吉川の包括支援センターに立ち寄り、ケアマネージャーの方と話し合い、手続きの段取りをしてきました。前段の相談では妻も付き合ってくれました。今朝は家から勤務先へ行ったのですが、介護休暇をとってあったとか。父は妻が顔を見せたら、手袋のついた手をサッとあげたそうです。一晩、誰も付いてあげなかったので、うれしかったのでしょう。


2008年01月16日

 個室から4人部屋へ

 昨日、きょうと病院から携帯電話があり、その度にドキッとしました。昨日の電話は、ある看護師さんから。父よりも病気が重い患者が入院したし、またこれからも入院する可能性があるので、個室を開けてもらえないかと私に了解を求める電話でした。父は大きな声を出したりして近くの人に迷惑をかけますが、その点、他の患者さんにがまんしてもらえるなら了解です、と答えました。父はきょうの午前、4人部屋に移りました。後でわかったのですが、昨日の時点で入院されたのは、私が知っている人のお連れ合いでした。救急車で運ばれたのですが、昨晩亡くなりました。

 きょうの電話も看護師さんからです。父の要介護度は現在4ですが、どうみても5になる、先の話になるけれどもどうするか、ケースワーカーと一緒に話し合いませんかという内容でした。電話をもらい、退院後のことまで考えられるところまでこぎつけたのかと思ったら、何か急に疲れが出てきました。考えてみれば、昨晩も病室で2時間ほどしか眠れていませんでしたから、無理のないことです。新しい部屋には父と同じように声を出す人もいました。新たな環境のなかでも、父はよく眠り続けています。夕方、妻とともに病室へ行きましたが、夜も付き添うには狭すぎると判断し、看護師さんたちにお任せして家に帰ることにしました。年末の入院以来、家族が父の付き添いをしないのは今晩が初めてとなります。


2008年01月05日

市政レポート新年号作成

 軽トラックから軽乗用車に変えて初めての冬を迎えています。同じ四輪駆動車であっても、両者にはいくつかの違いがあります。そのひとつは乗用車の方が車高が低いこと。きょうはそのことを頭に入れずドアを開けてバックしました。ところが、道路わきの固い雪を抱き込んでしまい、ドアを壊してしまいました。軽トラに乗っていたときの感で運転したのが間違いのもとでした。かなり傷めてしまいましたので、金がかかりそうです。

 今朝は日刊紙の配達のため、病院を5時45分頃に出ました。配達が終わってからは、年末に予定していた市政レポート吉川版新年号の作成に集中しました。昨晩から病院で原稿を練っておいたつもりだったのですが、原稿を寝かせる余裕がなく、作成して、すぐに印刷しました。明日になれば、また間違いに気づくのでしょうが、新聞折り込みの期限があるのでいたしかたありません。新年号には昨年を振り返り、新年の課題を思いつくままに書いてみました。「春よ来い」も久しぶりに書きました。いずれもホームページに掲載しましたので、ご笑覧ください。

 父の方は昨日、体温が38.2度まで上昇しましたが、きょうは37.1くらいまで下がったとのことです。昼間は次男と長女などが付いてくれました。これから、妻とまた病院に向かいます。


2008年01月03日

再び体温上昇

 父の状態がまた変化しています。昨日、体温が37.9度まで上昇し、おかしいと思っていたところ、誤嚥の疑いありとの診断が下されました。一昨日から少しずつ食べ始めたゼリーがどうやら肺に入ってしまったようです。手当の結果、体温は37.4度まで下がってきたものの、まだぐったりしています。医師の説明によると、今後は鼻から胃に直接、流動食を入れるか、胃に穴をあけてチューブでそこに流し込むかしかないとのこと。困ったことになりました。

 きょうは新年の宣伝行動でした。吉川区から浦川原区に入り、午後からの活動を再開しようとしたところへ母から電話が入り、急遽、病院へ駆けつけました。小康状態が続いているので、いったん家に戻りましたが、これからまた病院です。明日からは妻も長女も勤務が始まります。私も次々と日程が入ってきていますが、割り切って、父のことを最優先にして行動したいと思っています。関係者の皆さんにはご迷惑をおかけしますが、お許しくださいますよう、お願いします。

 写真は昨日の段階での父の様子(画像)です。


2008年01月02日

日刊赤旗での品川・志位対談が面白い

 新春二日目。きょうも病院泊まりでした。朝は新聞休刊日ということもあって、午前10時過ぎまで病院にいました。時間があったので、昨日付の新聞をゆっくり読むことができました。おもしろかったというか、興味深く読んだのは、「しんぶん赤旗」日刊紙に載っていた経済同友会終身幹事の品川正治氏と共産党志位委員長の対談です。品川氏が、小泉内閣以降、新自由主義・「構造改革」という“貧乏神”によって国民生活が直撃を受けているという指摘をしたりして、2人の対談が今日の日本の資本主義の異常さをうきぼりにしていたのはとても参考になりました。

 病院から家に戻り、旧吉川町農業委員会会長のお連れ合いの葬儀に参列しました。農民運動、政治活動で活発に動いていた夫をずっと支え、働き者だったY子さんは先月末、亡くなりました。たった一晩で冷たくなってしまっていたといいます。私は何回かお邪魔し、お茶をごちそうになったことがありますが、無駄口をいうことなく、いかにも農家の“おっかちゃん”という感じの方でした。葬儀には地元集落の人だけでなく、夫のOさんの関係団体、湯人の人たちが大勢駆けつけ、家の中には入れ切れず、前庭まで参列者であふれました。ご冥福をお祈りします。

 これからまた病院です。父は回復がよくわかるようになりました。痰も少なくなって、点滴のみの治療です。きょうの段階で、流動食がとれるようになるかどうか、病院に行くのが楽しみになってきました。それでは、お休みなさい。


2007年12月31日

一年間ありがとうございました

 いよいよ大晦日になりました。政治の世界もわが家も激動の一年でした。わが家については、何とか家族全員で新しい年を迎えることができそうです。一年間、「ホーセの見てある記」をお読みいただいたみなさん、ありがとうございました。

 入院中の父はお陰様で、だいぶ、調子が良いようです。長女からの連絡によると、父の大好きな平成音頭を歌ってやっている時に、途中で歌詞を忘れたら、何と、その続きを父が歌ったといいます。きょうは、新聞代の集金をしていたところ、90代の男性が肺炎から立ち直って元気にしているという話を聞きました。父と症状が似ているので、とてもうれしくなりました。

 これから、病院で付き添いです。大みそかは家族でカラオケに出かけようという計画は先送りとなりましたが、これは、きょうでなくてもいい話です。まずは父に元気になってもらわなければ…。それでは、良いお年をお迎えください。


2007年12月30日

爆睡

 3日連続、病院で泊まったので疲れがピークに達し、きょうは午後から家に戻りました。2時間だけ睡眠をとり、新聞代の集金に出かけました。議員団ニュースの欄外に「父の緊急入院で配達・集金が通常通りいかなくなりました」とお詫びの言葉を入れておいたこともあって、「お父さんの具合はどうか」「こんなことをしていないで病院へ行かなくていいのか」などとたくさんの人から声をかけてもらいました。夕方、雷の影響でパソコン通信は不可能となりました。それを直していただいてから、ちょっと一休みと思って横になったら、もうこの時間です。まだ何時間も眠れそうです。

 父の状態はいま小康状態から回復に向かって動き出している感じがします。夜は痰がたくさんでますが、今朝は黄色い痰を自力で出す場面がありました。痰は切れるようになりつつある。体温は36度7分と普通、血圧も上が120、下が75です。ただ酸素は供給してやらなければならない状況だと言います。ベッドの近くで、うっかりお茶を飲んだら、父は両手をさっと伸ばし、「おれにもよこせ」といった表情をしました。点滴による栄養補給だけでは満足できずに、飲食物に興味を持つようになっただけでも一歩前進かも知れません。


2007年12月29日

病院と吉川区を往復

 早朝の、まだ暗い時間に病院を出て、「しんぶん赤旗」日刊紙の配達をしました。配達後、家で市政レポートの印刷を済ませ、再び病院へ。長女と交代するまで、妻とともに父のそばにいました。夜中から、いつものように「おい」を連続して発しています。この「おい」を聞いている限りは、父の様態は少しずつ良くなってきているような気がします。

 午前11時すぎに妻と一緒に病院を出ました。家で約2時間の仮眠をとり、今度は「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしました。年末ですので、集金もしなければならなかったのですが、時間的な余裕はなく、ほとんど配達だけで回りました。いまは、また病院です。長女の話では痰が切れるようになってきたといいます。この調子で回復してくれればと願っています。


2007年12月28日

何とか持ちこたえたようです

 父に徹夜で付き添いました。きょうの朝までに命の炎が燃え尽きることもありうると言われたので、心配したのですが、何とか持ちこたえてくれました。家族全員の顔をみることができ、うれしかったのでしょう、ほんの一時でしたが、父の笑顔もこの目で見ることができました。市内に住む父のキョウダイや親戚の人たちなど大勢の人たちから見舞いに駆けつけていただきました。心から感謝します。

 昼間、回診にきてくれたお医者さんは、私の知っている人の息子さんでした。すらっとしたスタイルと丁寧な言い方は父親譲りです。まだ30代の若いお医者さんですが、退院後どうするかという話までだしてくれるなど、前向き思考でいろいろと教えていただきました。この人の話を聞いていたら、父もまだ頑張って生きてくれそうな気がしてきました。

 年末の忙しい時期の緊急入院で年賀状書きなどたくさんのことができなくなったり、遅れたりしています。関係者の皆さんには失礼を重ねておりますが、お許しくださいますよう、お願いします。


2007年12月27日

父、緊急入院

 きょうの夕方、救急車で病院に運んでもらいました。痰がつまり、飲食物を一切飲み込めなくなりました。肺炎だそうです。明日の朝までが山だと宣告されました。そこを無事に通過してもたいへんだという話でした。妻と二人で病院にいます。


2007年12月26日

初めて往診してもらった父

 まさか床ずれだったとは。父の足の付け根の「赤めどこ」は低温やけどではなく、床ずれでした。ベッドの上でほとんど同じ姿勢でいたことによるものだそうで、よく調べたら、3か所もできていました。これは昨日、デイ・サービスに行ってわかったことです。医者にみせた方が良いと言われ、きょうはかかりつけのお医者さんから往診していただきました。往診してもらうのは、父にとってはじめてのことです。母と長女が対応してくれました。長女は勤務でしたが、時間休暇をもらってくれました。

 医者が帰ってしばらくして私も家に戻り、父のそばに行ったのですが、きょうは、痰が詰まり、いつもより弱弱しく感じました。ご飯もほとんど食べなかったと母はいいます。もっと水分を摂らせなければだめだよ、と友人に言われました。確かに水分補給しないと口の中はべたべた、ねっとりといった状態になってしまいます。それにしても急に弱ったものです。父も疲れているのか、すぐに眠りにつきます。口を大きくあけて、いかにも病人という表情が気になり、しばらくベッドのそばにいると、「おじいちゃん、すぐに死ぬわけでないから、ついてなくてもいいわよ」と長女に言われてしまいました。

 きょうは旧上越市へ2往復しました。午前は党地区委員会による上越市長への予算要望、午後は妻の送迎です。12月下旬とは思えないほど暖かく、高田公園でトイレに行き、少し休憩していたら、いつの間にかウトウトして1時間ほど眠ってしまいました。


2007年12月20日

ベッドから落ちた父

 父の体温が37.7度まで上がり、下がったかと思えばまた上がるという状態が2日ほど続いています。市役所に出かける前に父のベッドのところに行ったところ、顔は横にしてよだれがだらりと出ています。顔全体が幾分膨らんで見えました。「大丈夫か?」と尋ねると、「大丈夫」という声が返ってきました。毎日、様子を見ている母など話では、これくらいならゆっくり休ませておけば心配いらないというので、出かけました。

 夕方、まず父の所へ行こうと玄関を開けると、母が「とちゃ、いいところに来てくれた」と言います。父がベッドから落ちて、そのまま動かせないというのです。寝ている時はたいがい足をベッドの脇に出している父ですが、この日は、そのままずり落ちてしまったのでしょう。ベッドのそばに落ちてぼけっとしている父を後ろから抱き、引き上げました。ぐいっと持ち上げたところ、いやに重たいと思ったら、父が衣装箱を手でしっかりつかんでいるではありませんか。これには、まいりました。

 市役所では議会だよりの原稿を書いたり、吉川区以外から寄せられた生活相談で動きました。また、学校給食運営委員会があるというので傍聴してきました。新潟労働局から請負について指導があったからには、運営委員会はもう一度開催し、来年度からの民間委託をどうするか検討すべきとの私の主張に応えた会議です。市教委は、来年度から民間委託を予定している4校について、初年度は労働者派遣で、慣れたら、請負に切り替えるという方針を示しました。会議はいろんな質問が出て、なかなか終わりそうのない雰囲気でしたが、会長が「来年も民間委託という方針でいく」ことを確認して終わりました。新方針については明日、市教委と学校給食を考える会で話し合います。


2007年12月18日

知らない顔

 日中はずっと雨でした。時々晴れてくれればいいのですが、降りっぱなしで、強く降ることもありました。こういう時は家の中での仕事であればいいなと思います。でも、きょうは久しぶりに、吉川区で一日を過ごすことができる日です。土日以外はなかなか進まない市政レポートの配布や「しんぶん赤旗」の集金に精を出しました。

 市役所木田事務所に行かないことで、いつも職場まで軽乗用車に乗せていく妻は、行きは電車、帰りは高速バスとなります。行きは電車の決まった時間ですが、帰りは職場での仕事の具合などで時間は定まりません。しかも、きょうのようにバスに乗り遅れることもあります。その時の連絡はすべて携帯のメールです。忙しい時に何回もメールがくると、「自力で通勤できないのか」と思うこともあるのですが、そこのところは妻も承知しているようで、メールの最後に絵文字でラブマークを付けてきます。絵文字というのは便利で、かつ遊び心がありますね。

 夜、気分転換をかねて幸田文の『番茶菓子』(講談社文芸文庫)をめくってみました。日曜日の新潟日報読書欄で紹介された、この本の中に入っている「雨の萩」などを読んでみたくなったからです。「雨の萩」は、雨で倒れかかっている萩の花を傘できれいに起こしながら歩く姿が目に浮かぶ素敵な短文でした。さらに読みすすんで、これは面白いと思ったのは、「知らない顔」という一文です。毎日のように鏡で見ている自分の顔でも「あまり逢ったことのない顔」がある。顔にはまったく自信のない私ですが、なぜかホッとするエッセイでした。


2007年12月15日

自力で立とうとしない人間の重さ

 また雪になりました。山間部では午前から降り始め、尾神では10センチ近くまで積りました。この調子で降り続けると、明日の朝はブルドーザーが出動するでしょう。こうした天気でしたので、普段は「しんぶん赤旗」日曜版の配達は、平場からはじめて山間部で終わるようにしているのですが、きょうは逆にしました。午後の方がたくさん降ったので、この判断は正解だったと思います。途中、専徳寺の近くで風景写真(画像)を撮りました。写真は午前10時頃のものです。

 10日くらい前から、父の具合が悪い方へまた一段上がりました。全く歩けなくなったのでポータブルのトイレを使っているのですが、そこで立つことができなくなったのです。気合いを入れても、自力で立とうという意欲はなく、ベタッと座ったままです。今朝、日刊紙の配達中に長女から携帯電話があり、出ると、父がトイレに30分も座ったままで、パンツをはかせることができないことができない、手助けしてくれという内容でした。父を抱きかかえて、自力で立とうとしない人間の重さを初めて知りました。人間が石になったようなものです。

 市政レポート1324号、ようやく掲載できました。1325号も同時掲載です。トップページからお入りください。


2007年12月02日

信州りんご

 党支部では、30年ほど前からりんごの販売をやっていました。活動資金を集めるためです。信州は須坂市の農民組合を通じて仕入れ、それを注文をとった家に届けていたのです。いまでは手がなくて、組織的な取り組みはしていませんが、その名残があって、須坂市の農家の方が我が家までりんごを運んでくださいます。それを常連客となっている人たちに届ける仕事をきょう、やりました。たいした数ではないものの、軽トラをやめて軽乗用車にしたものですから、いつもより時間がかかりました。

 今年のりんごは天候のせいでしょうか、ものすごく美味いですね。蜜の入りがよくて甘みはたっぷり、蜜の部分はまるでパイナップルの缶詰のような味です。きょう、届けた家の中には、あまりにも美味しくて、追加注文してもらえないかという要請までありました。我が家はりんご大好き人間ばかりです。私は一日に最低1個は食べますし、妻も昔からリンゴが好き。子どもたちもリンゴを食べて育ってきましたから、みんな、自分で皮をむいてどんどん食べています。今年は、この調子だと、すぐに追加しなければならなくなりそうです。


2007年12月01日

家族サービスデー

 もう12月になってしまいました。土曜日なので、自分の思い通りに動ければいいのですが、そうもいきません。わが家の一員であることを意識して、動きました。まず、母に頼まれ、大島区の青空市場へ。続いて、長女に催促され、父の薬をもらいに大潟区へ。それが終わったら、今度は妻の求めに応じて柏崎へと出かけました。戻ってから、ようやく、「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金の仕事をすることができました。ま、こういう家族サービスデーがあって当然なのでしょう。ないと、家族の一員として認めてもらえなくなりますから。


2007年10月10日

新米

 朝、コメをとぐのは私の役目。指を怪我していなければ、この他に食器洗いも加わります。今朝は、先週、ある方からいただいた新米をとぎ、家族には内緒にしておきました。寝坊して朝飯を食べる余裕の無かった妻は弁当にご飯を入れ、「いつもより白いね」と言いました。家族の中で一番早く朝食をとり、出かけるのは次男です。「きょうのご飯、やわらくて美味しいね」と言っていたそうです。妻を駅まで送って行く時に、「きょうのご飯は新米だよ」と教えたら、やっぱりそうだったの、とうなづいていました。毎年、新米を初めて食べる時には、その美味しさに感動します。おかず無し、ご飯だけでも口の中にジワッとしたうまさが広がりますね。

 きょうは2ヶ月に1回まわってくる資源ごみの当番でした。その回収場所のすぐそばに一本の柿の木があります。直径30センチくらいの太さで甘柿、ここ数年の間に大きく生長し、りっぱな柿の木になりました。きょうは、その木の所有者がごみを持ってきた時に、食べてもいいと言われたので、3個ほどその場でご馳走になりました。ごまがたくさん入っていて、甘さは十分ありました。今年の秋に柿を食べたのは2度目です。少年時代、柿の甘さを味わって成長した人間にとっては、忘れられない味です。そろりと柿の王様、「村屋柿」が最高に美味しい時期になります。また、食べたくなりました。


2007年10月05日

原稿書いたり、福祉タクシー乗ったり

 大忙しの一日となりました。『山村集落再生の可能性』(自治体研究社)の2校が届けられ、お昼までに校正作業を終えなければなりませんでした。初校で手を入れたところがどうなっているかというチェックが中心ですが、一応、全部読んでみました。私の原稿は本で約40ページになります。読んだら、初校段階では気が付かなかった箇所も発見しました。原稿は時間をおくと、これまで見えなかったものが見えてきますから不思議です。

 お昼までにもうひとつ、作業がありました。市政レポート1315号の作成です。昨日、ビールを飲んだら、パソコンに向かっても、頭の回転率は30%くらいだったので断念。仕事は今朝に持ち越しとなりました。インターネットで私の一般質問を聞きながら(これは上越市議会のホームページの中の「過去の中継」10月2日で見られます)書きましたが、これが結構、時間かかりました。ただ、質問項目がたくさんだったので、今回のレポートには震災対策分だけ掲載することにしました。

 お昼には大潟区にある医院へ長女の車で飛びました。じつは昨日から、父の状態がおもわしくなく、診察してもらっていたのです。熱が38度にもなり、血尿も出る容態となっていました。点滴をしてもらっていたのですが、長女が午後からの勤務なので、私と交代したのです。点滴は個室でした。父は眠ったり、目を覚ましたりを何回も繰り返します。しかも、時々、点滴のホースなどをとろうとします。私は約1時間の付き添いでしたが、たいへんさが少しわかりました。

 きょうの父の通院にあたっては、初めて福祉タクシーを使いました。片道3000円前後でした。運転手さんは普通のタクシー運転手さんとはちょっと違いました。福祉施設の職員、といった印象を持ちました。私も初めて福祉タクシーに乗ったのですが、父が車イスから前にずり落ちそうになったり、時々、大きな声をだしたりするので、なだめるのにたいへんでした。正常の感覚に戻ったり、おかしくなったり。認知症がこれ以上、進まなければうれしいのですが、どうなることやら。

 家に戻ってからは暗くなるまで、「しんぶん赤旗」日曜版の配達、集金でした。何人かの方が「テレビ見たよ」と声をかけてくださいました。一般質問の中継です。今回は市政レポートで案内していた時間とほぼ同じ時間帯となったので、見てくださった方が多かったのかも知れません。ありがたいことです。


2007年09月30日

久々にジャンパーを着て

 いよいよ、きょうで9月も終わり。あの猛暑はどこへ行ったのか、今朝は久しぶりにジャンパーを着ました。「しんぶん赤旗」の配達の時には暖房も入れました。日中とえ、多少は気温が上がったのでしょうが、ジャンパーを脱ぐわけにはいきませんでした。9月半ばころまで聞こえていたセミの鳴き声もまったくしなくなりました。夜も9時半を過ぎると、おそらくコオロギかなんかでしょう、静かに鳴いています。上越市役所は、クールビズはきょうまでです。10月1日から、議場では普段の服装で、と先週の各派代表者会議で言われた時は、こんなに暑いのに何でか、と抵抗感がありました。でも、この涼しさならば、明日は半袖姿ではいられないでしょう。

 きょうは夕方まで一日中、家にいました。まずは『山村集落再生の可能性』の初校のチェックです。これまでの経験から一字一句しっかり読み、漢字はどこかに必ず間違いがあるはずと、疑いの目で点検しました。「部屋を暖める」とすべきところを「部屋を温める」という間違いや、人名で、明らかに私の入力ミスが数ヶ所ありました。勝手な思い込み、パソコンの「勝手な判断」がありました。うっかりできないものです。このほか、次回の「春よ来い」の原稿書き、父の介護をしました。父はベッド生活が続き、足はすっかり細くなってしまいました。しわしわで、筋力はどんどん落ちています。きょうはトイレ行きがうまくいかず、大変な目にあいました。パンツを履き替えさせるにも、母と2人がかりでした。

 市政レポートNO1314号をアップしました。ご笑覧ください。


2007年09月20日

手術をしないで治る可能性が大

 きょうは医者へ行く日でした。左手の短母指伸筋を痛めてからまもなく1ヶ月になろうとしていますが、医師の診断では、治るまでもう2ヵ月ほどかかりそうだということでした。親指の腫れは完全にとれました。ただ、筋は完全に切れてはいないものの、今後の治り加減によっては手術の可能性もある、その場合でも、以前に考えていたほど難しい手術とはならないそうです。まわりくどい言い方でしたが、手術をしないでも治る可能性が大きくなったということです。

 さて、議会の方ですが、きょうから総務常任委員会です。財務部からスタートし、総務部、企画・地域振興部と進みます。きょうは財務部を終わり、総務部の決算の説明まで行きました。でも、私の方は、きょうは一般質問の「質問どり」のため、ほとんど傍聴できませんでした。質問は13項目にも及んでいて、しかも抽象的な質問もいくつかあることから、時間は3時間以上かかりました。関係課の幹部と話をしていて思ったのは、今回の質問は長くなりそうだということです。私の質問は30番目です。10月1日の夕方か2日の1番目あたりになるでしょう。

 このほか、きょうは生活相談が相次ぎました。朝の5時半過ぎからはじまって、相談件数は3件、このうち2件は介護にかかわるものでした。要介護者が高齢になって、認知症が出ている、家族では面倒見切れなくなった、何とかしてほしいという内容です。話の中身を聴いていたら、私の父のことを考えました。わが家も似た状況に近づきつつあるからです。担当者との話し合いでは、つい、身を乗り出してしまい、誰が相談者かわからなくなる場面もありました。


2007年09月09日

母の押し寿司

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 吉川中学校の運動会でした。会場となった中学校のグランドは地震で深い地割れもでき、砂を入れて整備して使えるようにした経過があります。生徒会長の石田望さんが開会式でのべた、「地震にもめげず準備をしてきた」といった言葉が印象に残りました。準備体操は、軽いジャンプの繰り返しから。大縄跳びでアキレス腱を切った人の話を聞いていたので、地面から足を離すのが怖く感じました。選手宣誓では、毎朝、新聞配達をしているS君の元気な声を聞きました。小さい頃から知っている生徒なので、たくましく成長したなと思いました。

 運動会は途中で失礼させてもらい、柿崎区などで生活相談です。建物の被害認定で相談してきた人は、「いろいろ悩んでいたところへ、あなた方の『支援制度の紹介』ビラが新聞折込で入ってきた。これで救われると思った」と語りました。ビラは重要なところに赤いボールペンで線が引いてありました。一部損壊と認定されたが、修理には500万円前後はかかるとか。訴える姿には切ない思いがあふれでていました。何とか助けてやりたいものです。

 午後、母が何を思ったか、押し寿司をつくってくれました。今年は母の押し寿司を食べる機会が少なくなった気がします。上越地方ではあちこちで押し寿司が売られていますが、やはり、母のものが一番です。味が違います。5個も食べてしまいました。今年は最後の押し寿司になるかも知れないと思い、デジカメで撮っておきました。いい色でしょう。


小さな町の幸せ通信