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2007年11月投稿分

2007年11月30日

「切り込み隊長」の役目

 実態を暴露し、問題点をぐさっとえぐるのは橋爪。その問題点をさらにクローズアップし、獲得目標を引き寄せるのは仲田議員。そして二人の議論で抜けていることがあれば小関議員からとり上げてもらう。昨日の作戦会議は学校給食民間委託についてでした。新潟労働局が城北中学校での学校給食における請負の実態について指導したという追い風のあるなかで、きょうの議論は行われました。結果は100点満点で95点くらいになったのではないかと思います。目の前にぶら下がっていた来年度の実施予定校での説明会の延期、民間委託の検証項目の見直し、これらを検討する。学校給食運営委員会、教育委員会で来年度はどうするか話し合うことについても検討する。こちらが考え、予想した通りの答えを引き出すことができました。

 私の役目はかっこよく言えば「切り込み隊長」でした。昨日の作戦会議では、どう切り込むかについても話し合っておいたのですが、きょうは、最初から、そのシナリオとは違った展開となりました。朝、配布された市教委の資料で、「9月からの委託業務状況について、問題なく行われている」という文言が書かれていたからです。何という認識か。読んだとたんにムラムラと怒りがわいてきました。それで、この怒りをバネにして質問を展開することにしました。労働局が指導で問題にした中身を明らかにする。栄養士が調理現場で口を出さねばならなかった場面があったのではないか。学校給食運営委員会や教育委員会での来年度も継続、拡大の方針は、労働局の指導を受ける前の段階でのもの、もう一度検討する必要がある。途中から軌道修正して、昨日話し合ったシナリオどおりに質問を進めることができました。

 質問に集中していると、どんな質問風景となったかは自分ではあまりわかりません。ただ、委員会室に緊張感が充満したことだけは肌で感じました。休憩時間に保守系の議員が私のそばにきて、「まるで警察の尋問のようだった」と言っていましたから、かなりきびしい追及になったのかも知れません。どうあれ、なんとか私の役目を果たせました。ホッとしましたね。


2007年11月29日

作戦会議

 きょうから常任委員会です。午前は建設企業常任委員会を傍聴、午後からは一般質問の質問取りと明日の常任委員会の準備で忙しく動きました。今回の一般質問は、高齢者に配慮した運転免許証更新、除雪格差是正、介護労働者の労働条件改善の3つです。担当課長などとやりとりして思ったのは、今回の質問は提案型、問題提起型の質問になりそうだなということです。いい答弁が早い段階で返ってくれば、さっと終わるかも知れません。

 さて、きょうは市議になって初めて他会派議員と本格的な作戦会議をやりました。質問準備にあたって党議員団で検討するのは当たり前ですが、他会派議員と作戦を練り、質問の分担までしたのは今回が初めてです。突っ込んだ議論をし、獲得目標を明確にする。そして、いい答弁を引き出すために、どういう切り口でどう迫るかも検討しました。何をどう議論したか、それは秘密です。明日の常任委員会が終わってから明らかにしましょう。

 夕飯を食べてから、長峰温泉ゆったりの郷に出かけてきました。ゆっくり風呂につかりたいという妻の求めに応じて出かけてきたのです。遅い時間なのでお客さんは少なかったのですが、身近な温泉では顔見知りの人と必ずと言ってよいほど出会います。浴室から出た途端、目に入ったのは、市役所のある幹部の裸の姿でした。何と、明日の質問相手だったのです。もちろん、笑顔で、「やー、どうも」とやりました。


2007年11月28日

第5次総合計画で修正の動き活発化

 きょうから定例議会が始まりました。今回の市長の提案理由の説明は、9月議会の膨大なものに比べるとあっさりとしたものに思えました。40分弱で終わったのではないでしょうか。でも、これくらいがちょうどいいのかも。3時間以上もしゃべったら、中身はともかく、しゃべる方も聞く方もくたびれてしまいますからね。

 総括質疑は3人。わが議員団の杉本団長を含め、3人とも共通してとり上げたのは第5次総合計画改訂版の将来都市像についてでした。「合併時の約束である新市建設計画はちゃんと生きています。市の最上位計画である総合計画では、ここ2,3年の情勢の変化の中で、新市建設計画を踏まえた上で新たな将来都市像を提案しています」と市長は繰り返しましたが、市民の目線で見ればわかりにくい。そして、「形は編入だが、新設の気持ちで」という合併協議での市長のスタンスが崩れていくのではないかという心配は議員の中に広がってきています。きょうの会議が終わってから、いくつかの会派で修正案を出そうという動きが活発化してきました。

 通園バス分担金徴収条例に関しては、杉本議員の論戦が光りました。新しい制度にするというのであれば子育て支援という視点から考えるべきだ。バスを利用する人としない人の平等性を確保するためにという視点が通用しないことは幼児医療費助成制度を例にとってみれば明白だ。アンケートの設問は恣意的、誘導的であってはならない。杉本議員と市長のどちらが正論を言っているかよく見えたのではないでしょうか。議員団で議論して質疑に臨んだことが論戦で生きました。



2007年11月27日

常任委員会審査の準備

 きょうも一日中、雨模様の天気となりました。市役所の議員控室なら集中できるに相違ない。そう思って市役所に出かけ、30日の文教経済常任委員会審査の準備をしました。定例会開会の前日である割には市役所にいる議員は数人でした。ほとんどの人たちは自宅で準備しているのでしょうか。わが議員団の控室でも、控室に行ったのは私だけでした。

 準備の方はまずまずといったところです。民間施設を活用した公共施設づくりの全国での経験はどうなっているか、学校給食の民間委託と法的な問題点、政府与党がまとめたコメの緊急対策などの中身などについて調べました。ほとんどがインターネットを使っての調査です。私の悪い癖は、そこで新たに見つけたことをどんどん追いかけてしまうことです。そのため、準備作業は3分の2くらいまで進んだところで時間となってしまいました。

 夕方、市役所の近くの本屋さんに立ち寄りました。目的は「ワード2007」の解説本をさがすことです。数日前に新しいパソコンを使い始めたのですが、マイクロソフトのオフイス関連ソフトは2007になっていました。慣れないためか、一番使う頻度が高いワードは2003と比べて使いにくく、基本的なところだけでも解説本に頼ろうと思いました。でも、どれを買ったいいか迷い、結局、買わずに家に帰りました。


2007年11月26日

ご褒美は月と竹輪と発泡酒

 更年期のため体調を崩していた妻もお陰様で順調に回復してきています。今朝の新潟日報読者文芸欄には妻が投稿した短歌と川柳が掲載されていました。妻が作ったものが掲載されたのは半年ぶりくらいになります。また好きなことを始めたということです。私は最初、短歌しか気付かなかったのですが、川柳には私のことが書かれていました。議会での質問が一段落した時に、自分で自分にご苦労さんと言って、135円の発泡酒をひと缶いただいたのをちゃんと見ていたんですね。ご褒美は月と竹輪と発泡酒。つまみに「豪華な」ものを食べていることもばらされてしまいました。

 きょうは定例の議員団会議でした。一般質問の調整をしたのち、いくつかの調査をはじめました。午後からは、杉本議員と直江津駅前のホテル・センチュリーイカヤを訪ねてきました。今定例会に、同ホテルの新館の1階から3階を使って直江津図書館と社会教育館の機能を持たせようという計画作りが出されているからです。支配人などから案内していただき、普段は見ることのできないホールの裏側や厨房、物置などまで見せてもらいました。図書館が予定されている3階大ホールは、県内のホテルではホテル新潟に次ぐ大きさということですが、それを支える裏の空間があるとは知りませんでした。管理本部長さんから聞いたホテルの歴史や直江津駅前の変遷の話はとてもいい勉強になりました。


2007年11月25日

運動や世論が政治を動かしているのが見える

 今年中にもう1、2回あるかどうかという素晴らしい天気になりました。きょうは1年に1回行われる日本共産党上越地区の大会でした。阿部地区委員長や小日向県委員長の報告を聞いて思ったのは、政局が激しく動いていて、我々の運動や世論が政治を動かす面白い状況が生まれているということです。後期高齢者医療制度の実施が先送りされ、被災者生活再建支援法の改正で住宅本体の再建にも支援措置がとられたことを例にあげられましたが、米価下落問題での緊急対策もそうです。このように頑張ったことが目に見える形で出てくるとうれしいですね。

 さて、昨日から、「しんぶん赤旗」日刊紙で大江健三郎さんのインタビューが掲載されています。地区の会議の中でこのインタビューのことを話題にしました。「社会的活動に参加するときは、自分のやることに小さくてもどういう意味があるかを考える」「老年の人間としてジタバタ考えるのをやめた。今の年齢で自分ができる小さいことをやってみようと」思っているという大江さんの発言。いつものことながら心に残る言葉でした。きょうの記事をある人に紹介したら、「昨日もいいのが載ってましたよ」と言われました。沖縄の集団自決問題での裁判準備のために、50年間も毎日欠かさず英語あるいはフランス語の本を1時間読み続けていたのを中断したという話です。50年間続けたことも、ひとつのことに集中する気合も驚きでした。明日は最終回、どんな内容か楽しみです。


2007年11月24日

トラブルは解決しました

 思っていた通りでした。パソコントラブルは何も手を打たないのに解決しました。ストーブもつけずにスイッチを入れただけでプリントできる状態に復帰したのです。トラブルの原因はよくわかりませんが、急激な環境の変化にパソコンが対応できなかったということでしょう。寒いところから暖かいところへいきなり入れられて、ちょっと戸惑ったようです。パソコンは思った以上に敏感なんですね。これで、またひとつ勉強になりました。

 市政レポートを印刷してから、きょうは、床屋さんへ行き、その後はずっと「しんぶん赤旗」日曜版の配達と集金をしました。床屋さんへ行くと、いつもはぐっすり眠ってくるのですが、きょうは話し相手が2人もいて眠らずに過ごしました。山間部では先日降った雪が残っていて寒かったですね。何人かの読者の方から、「東京はどうだったね?」と訊かれましたので、「今回のレポートに書いておいたすけ、見てくんない」と答えました。配達から戻ると早速反応がありました。「おらちの親戚が出ていた」というのです。うれしいですね、こうやって喜んでもらえるなんて。

 市政レポート最新号、1322号は昨日、HPに掲載しました。ご笑覧ください。


パソコントラブル

 私が使っているパソコンは2台ですが、1台はもう5年ほど使っています。そのパソコンでビラ類を作成しているのですが、プリンターと接続しても反応してくれなくなりました。昨晩はこれを復旧させようと、いつもお世話になっている営業マンと連絡をとりながら頑張ってみました。結果は残念ながら駄目でした。そのあおりを受けてこの日記は、昨日は書かずじまいになったというわけです。印刷しようとしたビラは市政レポート最新号です。すでに「しんぶん赤旗」に折り込む分は印刷済みですが、印刷後、裏面に時間的な間違いを発見しました。これを直さないでおくというのは、性格上できないので、きょうはその復旧仕事からはじめようかと思っています。
 日記が書いてなくて、心配して声をかけてくださった方がありました。ありがとうございました。


2007年11月22日

原発視察そして柿崎病院後援会

 中越沖地震などですべての発電機がストップしている柏崎刈羽原発を初めて視察しました。視察したのは上越市議会のメンバー20数人。マイクロバスに乗って構内に入り、まずびっくりしたのは施設の規模の大きさです。私がいま住んでいる代石集落の田んぼ約30ヘクタールを上回る敷地に、巨大な建物がいくつもあるという感じでした。その建物の一番下の部分をよく見ると、今度の地震で敷地が沈んだことがよくわかります。説明していた東電の人は、建物はしっかりしていて、まわりの地盤が下がったと強調されていましたが、こんな被害が出るようなところになぜ建設したのかという思いがしました。建物の内部では、タービン、原子炉格納庫などを見てきました。

 午後からは県立柿崎病院後援会の懇談会でした。ここで藤森院長の講演を聴きました。院長は今春、着任したばかり。おそらく定年まで10年前後ある人かと思います。若くてバリバリのお医者さんという印象でした。健康で安心して暮らせるまちづくりをするために、病院として何をしたらいいのか。小さな病院であっても、個性を出して地域に貢献しようとしている点は好感が持てました。聴いていて、自分の身にこたえたのは肥満の話です。脳疾患、心疾患のいろんな病気のもとになっているのが肥満であることを繰り返し訴えておられました。私が昨年、一般質問で取り上げた肺炎球菌ワクチンを積極的に活用するよう提案されていたのはうれしく受け止めました。全国の病院の中で同病院は、このワクチンを打つ数が第8位となっているそうです。


2007年11月21日

平場も雪模様

 尾神岳に雪が降った翌日だというのに、もう平場に雪が降りました。朝、新聞配達に出た時は大潟区の路面はシャーベット状態でした。こういう路面を車で走るのは久しぶりです。やはり、緊張しますね。きょうは午後からカミナリが落ちたそうです。そのおかげで、またもやパソコン通信が出来なくなりました。

 市議会の方は、きょうは、政治倫理検討委員会、月例議員懇談会、勉強会と続きました。このうち勉強会は、「産業構造の変化と考え方」と題する日通総合研究所の井出高吉さんの講演でした。いまは第三次産業革命の時代だ、日本企業は10年遅れている、そして時代を動かすキーワードのトップに「デジタル情報技術の大進歩」を持ってくる。話に出てくる言葉も内容も新鮮でしたね。井出さんは上越市出身、ものすごく頭の言い方だと思いました。


2007年11月20日

犬もコート

 寒いのは1日だけで、あとはまた、暖かくなる。少なくとも、寒さという点では大したことがない日となるだろう。つい、そのように思ってしまいます。ところが、きょうからまた寒いのです。妻は職場はまだ暖房が入らないといって、厚着をして出かけました。こちらはそう寒さを感じない場所での仕事となりますから、普通の格好をして役所に向かいました。それでも、車の中は狭い空間とはいえ、寒いのでずっと暖房を入れっぱなしでした。

 帰りは妻と一緒です。異なる服装をしているものですから、車に乗るとすぐに妻から「暑すぎる」とクレーム。ところが、こちらは暖房なしではいられません。暖房を入れて、窓を少し開けるという対応をしました。妻の話では、朝の電車には盲導犬が乗っていて、その犬もコートを着せてもらっていたといいます。夕方には、ごろごろとカミナリが鳴り始めました。いよいよ、平場でも降雪があるのかも知れません。明日は完全に冬の格好かな。

 きょうは、昨日に続いて議員団会議をやりました。午後からは、食料・農業・農村議員連盟主催の農業講演会でした。講師は北陸農政局の局長さん。「食料をめぐる情勢」についてがテーマです。政府が参院選結果にびっくりして新たに打ち出した米の緊急対策や品目横断的経営安定対策の見直しの中身についての最新情報をたっぷり聞かせていただけるかと思ったのですが、人口がどうなったとか、コメ以外の食べものの自給率がどうだとかなど、データの説明が中心でした。


2007年11月19日

尾神岳に初雪

 朝、尾神岳を見たら上の方に雪がかぶっていました(画像)。昨晩、降ったのでしょうね。きょうは一日中、市役所で議員団会議でした。いよいよ、12月議会の準備です。提案理由の説明を読み、総括質疑、委員会質疑をどうするか検討しました。通園バス制度統一の条例、文化会館の指定管理者指定、直江津図書館、第5次総合計画などが中心となりそうです。明日も議員団会議をやります。


2007年11月18日

東京吉川会15周年記念総会

 「いろんな人から楽しかった、楽しかったという声があがりましたから、やはり楽しかったのでしょう」総会が終わって関沢英世会長は、東京吉川会の役員や吉川区から駆けつけた私たちを前にしてこう挨拶されました。東京は晴れ。会場となった四ツ谷のスクワール麹町には約100人が集まりました。集まった人たちは関東へ出て暮らしている吉川出身者が殆んどです。郷土が同じ人間が励ましあう組織として2003年10月に結成された東京吉川会は、きょうで15回目の総会を迎えました。何よりも郷土の情報を一番知りたがっている会員さんたちです。佐々木博一総合事務所長の口から語られた中越沖地震の被害状況やコシヒカリが1万円に下落した話などに耳を傾けました。会場では、同級生や同じ集落出身者と情報交換する姿があちこちに見られました。

 私は、この総会には確か5回目の参加だと思います。いつも新たな出会いがあり、懐かしい人との再会もあるので楽しみにしています。きょうは東田中地区出身のKさんが声をかけてくださいました。なんでも、私の『春よ来い』(同時代社)を読んで故郷が懐かしく思い出されたとかで、私に会いたかったのだそうです。うれしい出会いでした。代石出身の人たち(画像)や旧源中学時代の先輩の人たちとは1年ぶりの再会です。先日の吉川高校の閉校記念式典のことや地震の話などをしました。それともうひとつ、この会には来賓として参加していますので、壇上の出し物を至近距離で見ることができます。昨年は女性歌手のすばらしい歌をすぐそばで聴くことができましたし、今回はバリ踊り(画像)を3メートルくらしか離れていないところから観させていただきました。指の動きや目の動き、そして激しく揺さぶる腰の動きに、びっくりでした。

 きょうは朝6時の出発でした。マイクロバスに総勢15人が乗り込んで車中のおしゃべりなどを楽しんだのですが、帰りが怖かった。越後湯沢から雪が降っていたのです。比較的前の席に座っていたのですが、雪が降り始めてからは、みんな、体を前のめりさせ、路面の状況を見つめ続けました。川口までシャーベット状の雪があり、運転手も乗っている人間も緊張しましたね。行きは4時間ちょっと、帰りは6時間くらいかかりました。いよいよ、雪のシーズンです。


2007年11月17日

車のフロントガラス凍る

 昨晩、いやに寒いなと思ったら、外に出して駐車している軽乗用車のフロントガラスが凍っていました。これだけ寒くなってくれば、次は雪です。予報では明日、明後日あたりがあやしい。尾神岳に雪が舞い降りるかもしれません。

 きょうは朝から「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。途中、遊ランドで行われた澁澤寿一さんの「山からみるこれからの暮らし」と題した講演を聴きました。澁澤さんは澁澤栄一の子孫に当たる人、目のあたりがそっくりでした。同氏は、「昭和35年から40年頃にかけて世界中で石油に依存した社会になり、村の共同体が崩壊し始めた」と指摘しつつ、そうしたなかでも人間的な暮らしを維持しようと努力しているいくつかの集落を画像を使って紹介しました。集落のたまり場となっている雑貨店の大きな役割、家の切り盛りを30代のうちにまかせている例、木を使って地域循環を実現しているところなど興味深い取り組みに注目しました。最後に、「地域づくりは同じ夢を見ることが大事、集落の全員が夢に向かって歩き始めることが大事」と語りました。

 川谷地区で新聞配達、市政レポート配布をしたついでに兜巾山、尾神岳の紅葉を見てきました(兜巾山の画像)。背の高い木の紅葉から背の低い木の紅葉へと移っていて、赤や黄色が入りまじった風景は最高でした。もっと時間があれば、ブナ林にも入りたかったです。

市政レポートNO1320号、1321号アップしました。ご笑覧ください。


2007年11月16日

地域事業費削減問題で13区議員が市長に訴え

 合併後10ヵ年にわたる新市建設計画の財政フレームが地方交付税の大幅減額や市当局の甘い見通しなどによってくずれているなかで、編入された地域から選出された議員は地域事業の減額を少しでもくいとめたいと市長に訴えました。第5次総合計画改定案で示された減額は平均で約20%の削減でした。「地域事業費は13区が合併する時の判断材料のひとつだったはず。後退する方向に見直しされるのは憤まんやるかたない」「いま中学校の校舎を造っているが、このままだと体育館までたどりつかない」「今回は29%も減額された。3人も議員がいながら何しているんだと言われている」「ある程度の見直しはやむをえないと思っているが、市道整備などができなくなるのではという不安が高まっている。財源確保に全力を」。わずか30分でしたが、12人の議員はそれぞれの区の実情に応じて必死でしたね(画像)。市長は、「市民にとって悪いことは早いうちに情報を明らかにした方がいいと判断した。不要不急のものは早くきちんと見直ししながら、財源を確保していきたい」とのべていました。なぜこういう事態になったかを市民にもっと分かりやすく説明する、財源確保に向けて市長が先頭になって頑張る、その姿が見えないと編入された地域住民の怒りが燃え上がりそうな予感がした30分でした。


2007年11月15日

妙高市で研修会

 糸魚川市、妙高市、上越市の3市の議員が集まって研修する日でした。あいにくの雨、私は、軽乗用車でに乗って妙高市(新井)の会場まで行きました。片道45分くらいはかかったでしょうか、長い時間なので、高橋真梨子のCDを聴きながら、ゆっくりとした時間を楽しみました。高橋真梨子のCDのなかでも、最近、繰り返し聴いているのは「無伴奏」です。偶然、彼を見た…という出だしくらいしか、まだ覚えられませんが、すっかり好きになってしまいました。

 研修会では市町村アカデミー教授の大塚康男さんが「議会人が知っておきたい危機管理術」と題して講演されました。政務調査費、視察、住民訴訟、兼業問題についての話でしたが、どちらかといえば、たんたんとした話し方をされるので眠くなりました。興味を持ったのは、妙高市職員による「滞在型市民農園」の取り組みです。内容にも興味はありましたが、何よりもデジカメ写真などを使ってDVDをつくる技術にひかれました。画像を大きくしたり、小さくしたりする。右から左へと、あるいは上から下へと動かす。バックに軽音楽を流し、ナレーションを入れる。それだけでDVDが作成できることを知って、自分でも作ってみたくなりました。

 これまでストーブなしで頑張ってきましたが、今晩から入れました。これでパソコンの作業も楽になります。ただ、暖かいと眠たくなりますね。これが問題です。


2007年11月14日

一陽来復

 「郷土料理とバイキングを楽しむ集い」が高田のデュオ・セレッソで開かれました。会場には600人を越える人たちが集まっていました。今回のテーマは「一陽来復」。逆境・不運など、良くないことが続いた後、幸運が向いてくることを言うのだそうです。今回の郷土料理は中越沖地震で大きな被害を受けた吉川区と三和区のものが出されました。「ずいきの酢の物」「のっぺい」「呉汁」「冬瓜のデザート」など両区が用意したレシピに基づいて調理されたものが並びましたが、いやー、じつに美味しかった。今晩はぜいたくをさせてもらいました。

 会場で配布されたレシピを見ながら感じたのは、昔の人たち、とくに母ちゃんたちは、身近にある素材を使って、腹いっぱいになるようにいろいろと工夫したんだなということでした。例えば「呉汁」、私のところでは、「ゴージル」と呼びますが、大豆を一晩水に浸し、つぶして、いろんな野菜などを入れて煮る。ただ、それだけですが、美味くて何杯もおかわりしたものです。区の紹介(その時の画像)を地元市議がやることになっていましたので、急遽、この話をすることにしました。だいぶ、酒が入っていたので弁舌さわやかとはいきませんでしたが、少しは印象に残ったでしょう。

 今晩のイベントではいろいろな人たちと話ができました。上越地域消防事務組合の消防長さんとは隣の席でした。私が先日、この日記に書いた「救急車で走行距離が20万キロを越えているものが何台もある。整備計画では1台だけ更新対象になっているがこれでいいのか」という記事を読んでいてくださったのは驚きでした。多分、防災局の職員さんあたりが知らせてくれたのでしょう。また、ある区の50代の女性が私の席まできて、「あなたの一般質問見て、感激しました」と声をかけてくださいました。まったく初対面の人ですが、うれしかったですね。


2007年11月13日

須藤友三郎さん宅へ

 きょうは木田の市役所でほとんどを過ごしました。妻を職場まで送ってから、すぐに木田事務所に入り、議員控え室に閉じこもって仕事をさせてもらいました。主な仕事はパワーポイントでのスライドづくりと原稿書きです。昨年度の決算データなどで数値を確認しながらの原稿書きは結構時間がかかりましたが、国保会計などは一昨年度のデータと比較できて勉強になりました。

 午後2時頃、市役所を出て、先日亡くなられた須藤友三郎さん宅へ行ってきました。葬儀の時はちょうど吉川高校閉校記念式典や惜別の会と重なっていたので、参列できませんでした。それで、ご自宅へ行ってきたというわけです。奥さんや妹さんなどがおられ、葬儀の時の模様などを語ってもらいました。三浦さんの弔辞も読ませていただきました。毛筆で書かれた美しい原稿には、須藤さんの歩みの紹介や憲法9条を守る決意などが盛り込まれていました。遺影はだいぶ若い時のものでしょうか、数年前、柿崎町(当時)の人から、「須藤さんの演説を聴いて感動したものだ。いま、どうしてなるね」ときかれたという話をした時の、うれしそうな表情が浮かびました。

 明日は「郷土料理とバイキングを楽しむ集い」です。吉川区からは押し寿司、柿の白和え、冬瓜のデザート、ズイキの煮しめ、自然薯の天ぷらなどが出ます。太るかもしれないなんてことは忘れて、大いに食べて楽しんでこようと思います。


2007年11月12日

将来都市像修正したが…

 第5次総合計画改訂版についての議論が総務常任委員会で行われました。議会側が指摘したことを受けて「新市の将来都市像」の修正案が示されました。「海に山に大地に 学びと出会いが織りなす 創造都市 上越」から「海に山に大地に 学びと出会いが織りなす 共生・創造都市 上越」になったのです。これまでの委員会では、「共生」にかける思いの強さを感じていましたので、私は、「創造都市」が「共生都市」に変わると思っていました。「共生」と「創造」の併記は意外でした。

 委員からは、「13区住民が、21万市民がこれを見たとき、新市建設計画が変わり始めたなと疑念を呼び起こすきっかけになりかねない」「議会との議論の真ん中をとったと感じる」「合併してまだ3年に満たないのに、世論を割るような将来都市像を作って何の効果があるのか。一生懸命、創造都市を造ってどこへいくのか」などの批判的な意見が相次ぎました。批判的なことを言った会派の委員は4人にのぼります。この調子だと12月議会での提案は無理だと思いました。

 序論などで、改定案の文章を更にきびしく見つめ、事実関係と異なる記述や曖昧な表現などを修正してきた点は丁寧というか、市役所職員の総力を結集している感じがして、すごいなと思いました。ただ、農業関係の政策目標(指標項目)の修正で、「農業従事者数」と「経営耕地面積」をカットしたのはうなづけませんでした。食料・農業・農村基本条例を持つ市にしてはいかがなものかと思いましたね。それにしても、「新市の将来都市像」の決着は難しくなってきました。


2007年11月11日

有坂農漁民局長が講演

 米どころ上越市の頸城区で「農業と食の今と未来」と題する講演会が開催されました。主催は日本共産党上越地区委員会です。市内各地から稲作農家、農業生産法人の役員、農業高校の職員、農業普及センター職員などが集まりました。最近の稲作をめぐる厳しい状況もあって、講演の後の質疑応答は1時間近くにも及びました。

 講師は党中央委員会の農漁民局長・有坂哲夫氏(画像)。同氏はまず、自公政治にたいする厳しい審判が下された参院選挙結果の背景にふれ、「働いても働いても食べていけないワーキングプアは農家、農村でも起きている。構造改革と新自由主義の下で、自公政治は農業・農村を切捨てきたが、その具体的な表れのひとつがコメ価格の暴落だ」とのべました。また同氏は、国民の運動、要求、世論が政治を動かす情勢になってきていると指摘し、日本共産党綱領を紹介しながら、当面する農業危機打開の方向として、①適切な国境措置と価格政策を基本に農政の転換を図ること、②アメリカいいなり、財界本位から脱却する一環として食料主権を確保すること、③家族経営を基本にして、全国民的な結集、統一戦線の立場での政策推進の3つをあげました。

 参加者からは、「農業生産法人の会計をしているが、今の米価では農協から借金でもしないとやっていけない」「中山間地の棚田を守ると言っても、そこで働く農民を国家公務員にでもしないかぎり、担い手は確保できないのではないか」「農家の人たちは怒りを忘れている。もっと怒らなければマスコミや行政を動かせない」などという声が出ました。また、日本共産党にたいしては、「もう一歩踏み込んだ現実的な提案をしてほしい」「政策をもっとわかりやすく説明することが必要ではないか」「来年の市議選でぜひ勝利してもらいたい」などといった注文や激励が相次ぎました。


2007年11月10日

吉川高校よ、ありがとう

 吉川高校閉校記念式の日を迎えました。このところ、連日、有線放送でこの式典のことが流れていて、多くの吉川区住民がきょうの日を意識していたように思います。もちろん、私もそのひとりです。そのせいなのでしょうか、式典や惜別の会が終わって家に戻った時には何か疲れとさみしさが一体となったような気持ちになりました。学校は来年3月までは続きます。同校はわが家から直線で500メートルほどの距離にありますが、校内放送の音が時々聞こえていました。牛舎のそばの市道を部活などでランニングする生徒たちもいました。それらがまもなくプツンとなくなる。残念です。

 閉校記念式は午前9時半から。会場となった同校の体育館は在校生徒を最前列に、同窓生、元教職員、来賓など約400人の参加者でうまりました。同校が開学したのは明治43年の5月、それから来年の3月に卒業する生徒を含めて9805人の卒業生を送り出してきました。きょうの式典では、挨拶や講演などで同校の歴史と伝統を、そして卒業生たちが地域で、日本で、世界でいかに頑張ってきたかを知ることができました。そのひとつ、学校長である山田豊先生の式辞は1ヶ月も推敲されたといいます。「吉川高校は頸北の一大コミュニケーション・文化センターとしての役割を果たしてきました。いつも地域と一体となって、地域と深い交流をしながら地域に根ざした教育を展開してきました。新潟県の教育の歴史に個性あふれる学校として永遠に書きどどめられるでしょう。吉川高校よ、あなたは雨の日も風の日も雪の日も私たちをじっと見守り続けてきました。吉川高校よ、さようなら。98年間ありがとう。私たちはあなたの黄金の微笑を忘れない」。心のこもったすばらしい内容でした。

 山田先生が式辞で言われた同校の歴史と役割を各種歴史資料を存分に使って示してくださったのは、元東北大学教授の竹内昌昭さんの講演でした。パワーポイントを駆使して、農産物品評会やスキークラブの活躍(画像)など懐かしい写真や新聞資料などを映し出しての話は分かりやすく、ぐいぐいひきつけられました。私も数年前から付き合いをさせていただいていますが、とても研究熱心な方で、不明なところが出てくると、とことん調べる学者さんです。きょうの講演でもここまで調べてくださったのかと思うことが何回もありました。たとえば、日本学校農業クラブ、昭和25年11月に東京は日比谷公会堂で全国結成大会が開かれましたが、そこに参加した吉川高校の生徒は10人で、全国でもっとも多かったことを初めて知りました。そして参加者がうなったのは、校門のそばで85年間、同校の生徒を見つめ続けていた樹木、ヒマラヤシーダの話でした。この木は今年の2月の強風で傾き伐採されたのですが、その年輪(画像)の画像を示し、年輪幅に影響を与えた冷夏のことや学校の歩みを語られたのです。感動でした。

 きょうの式典、惜別の会では吉川高校との関連でお世話になった何人もの方と再会しました。『酒は風』を貸してくださった佐藤元校長、私が同校のPTA役員をやっていた時の平山元校長、醸造科の満田先生、東京吉川会で何度もお会いしている人たちなどです。たくさんの思い出話をさせてもらいました。きょうは、吉川区の歴史に残るさみしい日ではありましたが、懐かしい人たちと再会できたという点ではいい日でした。


2007年11月09日

退院後初めての外泊

 夏前に入院した柏崎の義父はおかげ様で退院後、自宅で療養生活を続けています。ただ、酸素ボンベなしには生きていけないので、なかなか外に出ることができませんでした。というより、出ようとしなかったといった方がいいのかも知れません。その義父を外に連れ出そうという話が義兄などから出て、すぐに話がまとまりました。そして、きょうがその実行日だったのです。

 近くのホテルに義父母を連れて行き、妻のキョウダイ全員と連れ合いが一緒になって懇親会をやる。酒を飲む以上は泊まる。それだけの計画でしたが、義父にとってはとても楽しみなことだったのでしょう、ホテルに着くとずっとニコニコ顔でした。義兄たちが酸素吸入に必要な機器を運んでくれました。私はバタバタして何も手伝いできなかったので、もらったばかりのサルナシを持参しました。それが大当たりでした。生まれて初めて食べた、美味しい、どこで採れたのか、ツルか木か、と私はたくさんの質問を浴びることになりましたが、役に立ってよかったです(サルナシと義父の画像)

 夜遅くなってからは、スライドを上映しました。今年の夏、柿崎海岸で見た夕陽、数年前に群馬県や長野県へ家族旅行に行った時の写真、野の花写真をホテルの一室の壁に次々と映し出したところ、みんな乗ってくれ、スライド上映は3時間にも及びました。懐かしい写真がいっぱいあったことや義兄が野の花を好きだったこともあり、話はつきませんでした。最後に映し出したのは、このホテルでサルナシをめずらしそうに見ている義父の姿です。夕方撮ったばかりの写真を見て、「もう映せるのか」と喜んでもらいました。


2007年11月08日

雁の飛び立つ光景に出会い感動

 きょうも上天気でしたね。ただ、朝晩は寒かった。暦の上ではきょうが立冬ですが、早朝、「しんぶん赤旗」日刊紙の配達でホンダの軽乗用車に乗り込んだ時、体がブルッときました。配達のため大潟区に向かう途中、雁が一斉に飛び立つ場面に出会いました。時間は6時13分です。朝日池近くの田んぼから、「クワッ」「クワッ」という鳴き声を出しながら飛び立っていく姿に愛車を止めてしまいました。本当は車を降りて撮影すればよかったのでしょうけれど、降りては絶好のタイミングがずれてしまう、そんな気がして車の中からその模様を撮影(画像)しました。

 議員団ニュースを作成後、きょうは家を出て、一日中、市役所にて仕事をしました。主に資料の整理と市政レポートの原稿書きです。原稿書きが思うように進まず、もんもんとしていたところ、すぐそばの議場で賑やかな声がするので、行って見たら、上越青年会議所のみなさんでした。夜に模擬議会をやるための準備に来ていたのです。10人ほどの青年たちが音楽を聴きながら、「こころの教育党」「上越JC党」などの席を用意し、質問でプロジェクターも使えるようにテストを繰り返していました。とても楽しそうでしたね。議会改革は青年会議所の模擬議会の方が進んでいると思いました。

 日中、党市議団事務局長の上野公悦さんから電話があり、びっくりしました。長年、上越地区党の責任者として頑張ってこられた須藤友三郎さんが亡くなったというのです。83歳でした。須藤さんは衆院選挙に、たしか7回くらい出馬されたと記憶しています。いつも張りのある声で、しかもわかりやすく演説されるので定評がありました。80歳を過ぎても足腰がしっかりしていて、この人は100歳前後まで生きる人だと思っていたのですが、最後はガンとの闘いでした。とても残念です。須藤さん、ゆっくりお休みください。ありがとうございました。


2007年11月07日

生活相談で旧東頸城へ

 青い空が広がりました。紅葉は最盛期を過ぎたとはいえ、赤や黄色がはっきりしていて、とてもきれいです。わが家の牛舎の近くの山は、ふだん、「きれい」ということを意識したことはないのですが、きょうは写真に撮りたくなりました。ごらんください(画像)

 先月受けた生活相談の件で浦川原区まで行き、そのついでに、旧東頸城のいくつかの区の総合事務所に行き、『山村集落再生の可能性』の宣伝をしてきました。ある区では、集落機能維持の話から身近な情報を行政としてどう発信していくべきかについて意見交換をすることができました。昨年、市の広報・HPについて一般質問でとり上げたのですが、HPの各区のページ、区の広報紙に関してはほとんど改善されていません。このままではいけないなと改めて感じました。

 きょうの新潟日報上越版に吉川区で元町議が立候補を表明とありました。すでに数ヶ月前から自らの広報紙で立候補を明らかにしている人ですが、吉川区内でも初めて知った人がいて、「強敵だよ。負けないようにがんばってくんない」と声をかけてもらいました。ありがたいことです。


2007年11月06日

党県委員会が県交渉

 日本共産党新潟県委員会が県の新年度予算に関して交渉をしました。上越地区からは私と平良木哲也さんと2人の参加でした。あらかじめ要望事項を文書で提出していたこともあって、県側から一つひとつ回答があり、その後、一定の時間以内に参加者が発言するという流れで進められました。私は平常時での除雪費補助制度、佐渡汽船小木直江津航路問題などで発言させてもらいました。1,2分でインパクトのある発言をするには十分準備してこないとダメです。きょうはいい勉強になりました。

 交渉は午前中に終わり、その後、県庁の食堂で定食B(450円)を食べました。キャベツとフライ、白菜のロール煮(?)スープがオカズでしたが、結構美味しかったです。食堂では社民党の小山県議で偶然会い、挨拶を交わしました。食堂を出てから高速バスの乗るまで40分ほど時間があったので、生協の書籍売り場で本を眺めてきました。先日出たばかりの『山村集落再生の可能性』(自治体研究社・1500円)も15冊積んでありました。昨日、20冊ほどおかせてもらったばかりといいますから、順調な売れ行きです。


2007年11月05日

『ざ・むぅん』300号

 上越市大和にお住まいの柳川月さんから『ざ・むぅん』最新号(画像)が届きました。今号は第300号です。地元新聞でも話題となっていましたので、いつ来るかと楽しみにしていました。封筒を開きます。B4二つ折りの新聞をすっと抜いて手にしたとき、いつも思うのは手で書かれた文字がとてもきれいだということ、それだけでほれぼれしてしまいます。私は学生時代からチラシや手づくり新聞をたくさん見てきましたが、この書体はガリ版でそうとう鍛えてこられたのではないでしょうか。一字一字が丁寧に書かれていて、全体を見ても美しい。こんな文字を書けたらいいなといつも思います。

 今号は、300回も継続できたことがトップ記事です。「どうやら300号にこぎつけました」で始まる文章は柳川さんの人柄がそのままにじみでていて、励まし、支えてくれた人たちへの感謝の気持ちが書かれていました。創刊は1972年1月とありますから、私が大学を卒業した年です。創刊が35年前だというのに、私が『ざ・むぅん』に初めて出会ったのは昨年のことでした。初めて読んだ時、人とのつながりをとても大事にされている方だという印象を持ちました。今号でも、家族新聞などを受けとった記録、「風だより」はびっしり、交流の広さには驚きます。

 10月の中旬頃より右手親指の付根が痛くなったとありました。痛む部位にビップエレキバンを貼って完治、と書いてありましたが少し心配になりました。「えんぴつの会」などの会合に出て、歴史講座では勉強をする。さらに映画鑑賞、平出修旧宅清掃ボランティアも。すごい行動力です。柳川さんとは、お会いしても、ゆっくりと話をしたことがありません。いつか、時間をつくっていただき、手づくり新聞の心を学びたいと思います。


2007年11月04日

吉川高校閉校記念碑除幕式

 6日後に閉校記念式典を迎える県立吉川高校に出かけてきました。きょうは最後の文化祭で、閉校記念碑の除幕式もありました。10時前に学校へ行くと、校門のある坂道を登りきったところにある記念碑の前にはすでに全校生徒が集結しており、閉校記念式典の実行委員会の人たちやマスコミ関係者も来ていました。それだけではありません。地元の近所の人たちやアマチュアカメラマンとして活躍しているIさんの姿もありました。閉校を惜しむ人たちが自然に集まったんですね。

 10時きっかりに、PTA会長の常山光雄さんが、「ただいまより、吉川高校閉校記念碑除幕式(画像)を行います」と宣言。続いて同校の閉校記念式典実行委員長である田中辰也同窓会長が挨拶に立ちました。「きょうはさわやかな日となり、除幕式には最適の日となりました。明治43年5月に開学して以来、本年度で98年の歴史を積み重ねてきました。この坂道を登り、下って巣立っていった人たちは9900余名になります。地域の文化、産業に貢献され、なかには世界に羽ばたいて貢献された人たちもあります。この晴れやかな歴史を閉じることになります。この記念碑は真嶋先生をはじめ大勢のみなさんの協力でできました。改めて教育の素晴らしさを感じています」。田中さんの挨拶は熱がこもっていて、同校を卒業されたすべての人たちを前に語っているような力強さと雰囲気がありました。挨拶が終わった途端、音楽が流れました。♪仰げば高し米山の 千古の雄姿天を衝く 望めば広しみこしじの…。校歌です。ジーンときました。

 さて、文化祭。どなたが準備してくれたのでしょうか、同校の歴史を振り返ることのできるコーナーがあり、そこにひきつけられてしまいました。1階にある吉川高校の「博物館」と名づけた教室です。報道資料などがたくさん展示されていました。同校が全国で唯一の「酒を造る高校」となってからのマスコミ各紙の報道はすごい量になります。醸造科をとり上げた新聞のなかには「しんぶん赤旗」日曜版(画像)もありました。この記事のコピーは醸造科で造ったお酒とともに全国に発送されたと聞いています。醸造科を取材した雑誌も多かったんですね。現代農業や教育雑誌の『エデュカス』にも写真がたくさん掲載されていました。なかには、私がよく知っている橋本紘二さんのものもあり、とても懐かしくなりました。


2007年11月03日

第3回吉川区芸能発表会

 吉川区の第3回芸能発表会でした。天気に恵まれましたが、その分、外のイベントへ人が流れたように思います。出演団体は特別出演の吉川中学校吹奏楽部の皆さんを入れて13団体、それぞれ持ち味が出ていて日頃の練習の成果を発揮できた発表となりました。今回の初出場は「オカリナアンサンブルうぐいす」(画像)です。おそろいの緑のジャケットと黒のズボンがとてもお似合いでした。少し緊張感が漂っていたものの、うれしそうに腰を振りながら初の演奏を楽しむ人もいて、いいムードでした。演奏は「いつも何度でも」からはじまり3曲、ラストは秋にふさわしく「もみじ」を二重奏しました。司会者からは、「赤く色づいた山々が浮かびました。あったかい演奏でしたね」とコメントがありました。

 私が来賓として参加したのは一昨年からです。今回を含め3回とも、はじめから終わりまで観させていただきました。毎回、いろいろな発見があります。今回は、踊りは舞踊であろうがレクダンスであろうが、指の使い方がうまい人の踊りはひと味違うと思いました。人差し指一本をゆっくり動かす、10本の指全体をさっと伸ばす。これだけでも、やわらかな色っぽさを出したり、情熱溢れるムードがつくれるんですね。もうひとつ、笑顔です。レクダンスを踊っているメンバーの中で、柿崎区在住のひとりの女性の笑顔が自然で、とてもいい雰囲気をかもしだしていました。この人はグループのリーダーかな。


2007年11月02日

一升瓶で小豆を保管

 この時期になると、暖かいだけでうれしくなります。朝からずっと「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしました。さわやかな小春日和で、気分は上々でした。今回は、配達員を手伝ってくださっている方が風邪をひいたということで、その人の受け持ち区域も配達しました。おかげで、普段会えない人とも対話できました。会うと、必ずといってよいほどきかれたのが私の手の具合です。先月19日の診断で手術はしないことになりましたが、補助具は今年いっぱいつけているようにという指示でした。そういったことを説明したりしながらの対話ですから、配達は時間がかかりました。

 きょうも何軒かでお茶をご馳走になりましたが、漬物などの工夫に目が向きます。白菜の酢漬け、タクワンの青海苔巻きなど美味しくいただいてきました。きょう、もっとも気に入ったのは漬物ではなく、小豆の保管方法です。ある家では、一升瓶とペットボトルが居間に置いてありました。そのなかには小豆がきれいな色をしたまま入っていました。このやり方だと、まず虫がつかないんだそうです。しかも長持ちする。なるほどと感心して、写真も撮らせてもらいました。


2007年11月01日

コンニャク持って大島区へ

 母に頼まれて大島区まで出かけてきました。奈良県から実家に泊まりに来ている従姉のところへコンニャクと柿を届けに行ってきたのです。この従姉からはいつもたくさんのお土産をもらっているので、母が得意とする手づくりコンニャクを食べてほしかったのでしょう。大島区では、お昼をご馳走になってきました。いくつかのオカズを食べて思ったのは母の味と似ていることでした。私の母の味は大島仕込みだったのだと改めて感じました。きょうは一日中、どんよりした天気でした。天気さえ良ければ、大島行きは紅葉も楽しめるはずだったのですが。

 きょうは吉川区内で「しんぶん赤旗」の集金をすることにしていました。大島区行きの時間を除き、その仕事に専念しました。こういう平日に、ゆっくりと集金できるのは久しぶりのことです。何軒かでお茶をご馳走になってきましたが、驚いたことに、先日泊まってきた小国町の法末集落とかかわりのある人が2人もいました。訪ねた時の様子や中越地震から見事に立ち直って、集落再生に向けて頑張っていることを伝えると、目を輝かせて話を聴いてくださいました。

 このところ、カバンの中に1冊の新書を入れて持ち歩いています。岩波新書の新刊で、辰濃和男の『文章のみがき方』です。時間のある時に、少しずつ読んでいるのですが、『文章の書き方』の姉妹編と宣伝されているだけあって、とても参考になります。「日々、たゆまずに書く。そのうちにはきっとあなた自身の文章が形をなしてゆくはずです」「日記は野球でいう素振りでしょう」。こういう文章を読むと励まされます。文章を書くためには本多勝一の『日本語の作文技術』と辰濃和男の『文章の書き方』を読むといいよと後輩に薦めてきましたが、『文章のみがき方』も加えたくなってきました。


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