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2006年10月投稿分

2006年10月31日

県土木部長への要請

 きょうは主要地方道新井柿崎線の整備促進を求めて、県土木部長への要請に出かけてきました。私一人で行ったのではありません。この道の整備促進のために結成した上越市の議員連盟の一員として参加したのです。市役所の都市整備部長も同行してくれ、総勢9名でした。
 今回の要請の具体的な中身は歩道、防雪柵の設置、交差点改良、橋梁架け替えなどでしたが、いずれも住民の安全に関わるものばかり。県土木部長とのやりとりのなかで改めて確認できたのは、無駄な大規模開発がすすめられている一方で身近な道路の整備が遅れているということでした。例えば、新井柿崎線の歩道の整備率は37.8%にすぎません。それから、橋の架け替え。県内のメタルの橋で60年以上経過しているものが44もあるものの、財政が厳しいから優先度を決めて順次整備していることが明らかにされました。清里区内のこの道にも幅員の狭い老朽化した橋が1本かかっていて、時たま、接触事故も起きているといいますが、きびしい話でした。
 要請が終わってから出発まで10分ほどありました。この時間を利用してある課長を訪ねてきました。大学時代の同級生、Kさんです。最初、私が誰かわからなかったようで、名刺を出したら、「おおっ」と声を出し、穏やかな顔になりました。34年ぶりの再会でした。彼は何べんも「(会えて)よかった」と繰り返していましたが、こちらもうれしかったですね。もっとも政治の場では対立することもある部署にいます。彼は、「(日本共産党の)五十嵐県議さんから、時々、きびしい質問をしていただいているよ」とも言っていました。
 


2006年10月30日

自治基本問題調査特別委員会

 午前は議員団会議、午後は自治基本問題調査特別委員会でした。先週は一度だけしか市役所・木田事務所に行かなかったこともあって、なぜか久しぶりに出かけたような気分でした。午前の団会議では9月議会報告チラシの最終チェックと当面する課題について議論しました。一番時間をかけたのは、自治基本条例づくりにどうのぞむかです。いじめ自殺をめぐるマスコミの対応についても話題になりました。教育基本法改悪をすすめるために利用しているきらいがあるという指摘がありましたが、同感です。
 自治基本問題調査特別委員会では、会派ごとに検討してきた内容を集約する作業が行われました。私は午前中の団会議での議論に基づいて発言しました。基本的には合併協議会自治基本条例小委員会や市民会議での議論の積み重ねを尊重すること、そして議会が主体的に係っていくためは条文の形での提案が必要だということを訴えました。また、個別の項目を審議する前に、そもそも自治基本条例がなぜ必要か、その全体像をどうするかを議論すべきだとものべました。
 委員でもある山岸議長および石平委員から今後の審議の方向について提案があり、①前文、基本理念を含め条例の全体像を議論する、②個別の検討課題としては、当面、市議会の責務、住民投票制度、最高規範性、都市内分権の4つを優先的に取り上げる、③これまで市民会議がまとめてきたものについての各派の意見、提案などを文書でまとめ、提出することを全委員で確認しました。いよいよ次回から本格的な検討がはじまります。次回は来月17日の予定。
 「私の好きな風景」に「柿のある風景2」をアップしました。このHPの容量の関係でかなり解像度を落としてありますが、ご覧ください。


2006年10月29日

「家栽の人」の話

 きょうの最大の収穫は、「子どもの権利を考える市民フォーラム」での講演です。講師は元家庭裁判所調査官の佐々木光郎さん、現在は静岡英和学院大学教授です。まったく知らなかった人なのですが、「少年非行と子どもの権利」と題する講演を聴きながら、ある漫画を思い出していました。毛利甚八作・魚戸おさむ画の『家栽の人』です。漫画の主人公は家庭裁判所裁判官の桑田義雄でした。でも、少年審判・家事審判を解決していく時の姿勢は佐々木さんも桑田裁判官と同じで、温かく、感動的でした。違いといえば、植物の話が出てこないくらいです。
 豊富な事例に接してきた人だけに、なるほどと思う話がいっぱい。非行少年たちの食事で共通しているのは、家族一緒に食べないこと、栄養のバランスがとれていないことだ。食をつくるプロセス、すべて生きているものを殺して食べているという意識も無い。事例として出されたのは、毎晩の夕食、1000円をもらってコンビニで弁当とかカップラーメンなどを食べているという話でした。そしてこういう子どもがテレビで「サザエさん」をみていて、この番組を「痛い」と感じていた。とてもわかりやすい。
 非行の根が深い人はイスに座る姿勢に特徴があるといいます。イスから落ちるか落ちないかというくらい浅く座って、手は両脇にだらり。会場の聴講者全員がその姿勢をとるよう求められましたが、壇上から佐々木さんが、「あっ、そこの人うまい。その姿勢です」と何人かを指差していました。私もほめられたひとりでした。ほめる時はちょっとしたことでもほめる。どんなことでも「刑事コロンボ的かかわり」を大事にする。右手にタバコ、左手で頭をかき、4秒間待つ。子どもの、問題だなと思う言動にすぐ反応する大人の一人として反省させられました。佐々木さんの話は子どもと向き合うためだけでなく、人間として生きていく上でのヒントに満ちていました。


2006年10月28日

19銘柄が勢揃い

 上越市と妙高市の造り酒屋を合わせると19あります。ほとんどは辛口で人気のある地酒ばかり。きょう、この造り酒屋が高田の本町通りに勢揃いしました。この酒のほかに、川上善兵衛が日本で最初につくったといわれる岩の原ワインがあり、特区で、これまた日本最初の公認となったどぶろくもある。さらに地ビールも。第1回の越後・謙信SAKEまつりは賑わいましたね。試飲コーナーがあり、酒やワイン、地場産の酒饅頭、寿司などの販売も行われていました。
 このまつりの契機となったのは、越後よしかわ酒まつりです。ここに参加した木浦上越市長が市内全域の酒屋を集めてこうしたまつりをしたいと関係者に働きかけたと言われています。それが妙高市も加わって、ひろがりました。参加してみて、改めて思ったのは、上越地方は酒の郷であることです。大勢の杜氏が全国各地に出かけ、酒造りをする「頸城杜氏」の郷であるだけでなく、地元でも酒造りが盛んなところである。しかもいい酒が多い。これを全国に発信していくことはこれまで弱かったと思います。
 まつりの中央舞台は大和デパート前。ここでは謙信太鼓や酒造り唄などが披露されました。酒造り唄は父がいくつも知っていて、よく唄っていたこともあって、何度聞いてもいい。きょうは保存会の人たちが揃いの法被を着て、唄っておられました。このなかには吉川区の長谷川和作さん、高倉一郎さんの姿もありました。いつも越後よしかわ酒まつりなど地元吉川で聴いていたのですが、こういう場で聴くのは初めてです。なにか遠征試合に出た地元チームを応援するような気分でした。


2006年10月27日

Sさんからの電話

 ここ数週間、ゆっくり休みがとれませんでした。そのせいでしょう、きょうは議員団事務局長の上野さんと市議会報告の校正作業をしたのですが、途中から目が開きません。「お疲れのようだから、休んだ方がいいよ」と言われ、家に戻って横になって目が覚めたら何と4時。これで、きょう、明日の予定は大幅な変更が余儀なくされました。
 夜になって、とてもうれしいことがありました。党の常任活動家だった人で、体調をくずしていたSさんから、電話があったのです。Sさんはたいへんな頑張り屋で、なんでもとことん集中してやる人でした。私の町議2期目の選挙の時には、張り付いて指導してくれた人でもあります。「これ以上、頑張ってはいけない」というラインが見えなかったのでしょうか、無理をして体調を崩してしまいました。もう何年も姿を見ていないし、会っていません。電話は「あんたのホームページに私のことが書いてあるということを知らせてくれた人があったけど、どうしたら見れるか」という問い合わせでした。電話では、これまでのこと、いま取り組んでいることなど15分くらい話をしました。今度、一緒に出かけようという約束もしました。一度、会いたいと思っていた人だけに、良かったです。
 きょうは、どうしても撮っておきたい写真があるので、出かけたのですがダメでした。夕方になってしまったので、明るさが足りなかったのです。撮りたい対象は「民家と柿の木」です。先週から葉も紅葉し、「里の秋」の素敵なところがでています。明日は撮れるかな。


2006年10月26日

農協川谷店は賑やかでした

 午前は3つの集落をまわり、「囲む会」の案内をしました。寒くなってきたので、雪が降らないうちに、山間部の集落での「囲む会」を終えたいと思っています。久しぶりに農協の川谷店へ寄ったら、ちょうど買物に来た人たち6人がお茶飲みをしている最中でした。そういえば木曜日は売り出しの日。ここに来た人たちは買物だけでなく、お互いに顔を見せ合って、しゃべり、元気をもらいます。農協組織の再編、合理化が進むなかで、川谷店は住民の強い働きかけもあって存続が決まりました。そのことが頭にあるせいなのか、集まっている人たちがとても明るい感じがしました。
 私も一緒にお茶をご馳走になりました。この地区へは大島区から嫁に来ている人が何人もいます。伯母の死についてもすでに知っている人がいて、「たいへんだったね」と声をかけてもらいました。また、「春よ来い」をいつも楽しみにしていてくれるNさんからは、「じいちゃん、その後、なじょだね(どんな具合か)」ときかれました。この発言を皮切りに、「骨太で、がっしりした体格の人だったがに、無理しなったがだこて」「大事にしてやってくんない」などと、父のことを心配してくれる声が続きました。ありがたいことです。
 きょうは後援会幹部の方たちがポスター張りをしてくださいました。これまで支部が責任を負うポスター張りについては、私だけでやることがほとんどでした。党地区委員会から10月中には張り出しを完了するようにという要請がでていたので、とても助かりました。市役所からの帰り道、吉川区内で、日本共産党のポスターが何枚も目に入りました。とても、元気になりますね、たくさんのポスターを見ると。


2006年10月25日

伯母の葬儀、そして文化財調査

 伯母の葬儀でした。一番心配した天気は晴れ。この時期の天気としては最高でした。母を軽トラに乗せて、浦川原区まわりで大島へ行きましたが、大島区の大平付近は霧が立ちこめていて、伯母の家に近づくとまた晴れていました。板山に住む従弟によると、大平周辺で霧が低く広がっている時はいい天気になるということです。伯母の葬儀は順調でしたが、火葬場までの距離が長いと感じました。5年前の伯父の葬儀の時は、浦川原区に火葬場があり、20分もあれば着きました。今回は五智の上越斎場です。1時間もかかりました。
 葬儀などで話題となったことの1つは、葬儀で使った伯母の写真です。おだやかで、じつにいい表情をしています。この写真は写真屋さんが撮ったもの。旧大島村では、77歳の祝いの時に村で写真を撮ってくれたそうです。これなら、いざという時に、どの写真を使おうかとバタバタすることもありません。もっとも、従弟たちによると、6年前の写真だから使えたけれど、90歳代まで生きたケースでは、この写真では若すぎるということでした。それにしても、喜寿にこういうプレゼントがあるというのはいいですね。
 初七日は母にでてもらい、私は午後から吉川区に戻りました。旧町指定の文化財の調査に同行するためです。対象は、雪のため、前回調査できなかった尾神岳の報尽碑。そこに至る市道尾神北線は現在、改良工事中です。長靴を履いて参加しました。工事している区間は土だけの道です。ユンボなどで踏み固められていた道は弾力性があり、歩くと最高の気分でした。久しぶりに味わった「べと」の感触、こんなにもやさしいとは思いませんでした。私が報尽碑を訪ねたのは、今回で少なくとも5回目となります。今回の調査では、碑文、碑の位置、周辺の土質、景観など、様々な角度から調べが進められました。調査が終わり、報尽碑下の広場に下りた時、生涯学習課の小島副課長が声をあげました。「これはすごい、絶景だ」。親鸞聖人が799年前、越後の国に流された時に上陸した居多ヶ浜が太陽光線の影響なのか、くっきりと浮かび上がっていたのです。
 調査が終わってから懇談会をやりました。今回の調査での最大の収穫は、「報尽碑のある場所からは、親鸞聖人が上陸した場所、高田の浄興寺、ゑしんの里などが全部見渡せること」をみんなで確認できたことです。これで文化財としての報尽碑をどう活かすかが見えてきました。「報尽碑への道が舗装されても、歩ける人はできるだけ歩いてみてもらった方がいい」「雪崩発生箇所が大切なポイントとなる。ここでの解説が大事」などの意見も出されました。懇談会では、これまでの吉川区内文化財調査を振り返りましたが、顕法寺については追加調査をしようとの声が文化財調査審議会の植木委員長などから出ました。この調査によっては、新たな指定文化財候補が出てくる可能性もあります。


2006年10月24日

ストーブをつけて葬儀の準備

 ずいぶん寒くなりましたね。薄地のブレザーを今月いっぱい着るつもりでいるのですが、きょうは冬用を着たくなる気温となりました。朝から夕方まで大島区の伯母の葬儀関係で動きましたが、居間というか、昔、囲炉裏があった部屋では、ストーブをつけました。私の仕事は火葬場へ行く人の名簿、初七日参加者名簿、焼香予定者名とその順番などをパソコンを使って整理すること、遠くから電車でやってくる親戚の人たちを「ほくほく大島駅」まで迎えに行くことでした。伯母の家の親戚には政治に係ってきた人が多く、元の大島村の村長、三郷市の前教育長なども出迎えました。
 遠くからの参列者を私が迎えに行くことになった理由は酒を飲んでいなかったから。葬儀には酒はつきものですが、夕方には車の運転をしなければならなかった私は、ウーロン茶でがまんしました。おかげでいろんなことを見聞きできました。迎えにはオートマチックで運転する乗用車を借りました。ゆったりした運転席はとても気持ちがいい。ところが降りるときになって、車のキイをはずすことができません。ワイパーなどすべてがオフ状態にならないとはずれない車があることを初めて知りました。都会の草一本無いところの生活と大島区などでの生活の差をどう実感しているかという、元村長さんの話は、先日、東京駅周辺を歩いたばかりだったので、おもしろく聞きました。
 夜は「囲む会」でした。日曜日もそうでしたが、今年の「囲む会」は女性の参加が多い感じがします。私の話を初めて聞く人がほとんどでしたので、つい、ハッスルしてしまいました。30分の予定の報告は45分にも及んでしまいました。しゃべりすぎるとすぐ喉がやられてしまいます。少し声がかすれました。先日から使用するスライドの中には最低1枚は会場となる集落に住む人とか、なじみの風景などを入れるようにしています。これは好評で、きょうも川袋の春祭りのスライドを映し出したところ、とても喜ばれました。懇談では、核家族化に伴う問題をどう考えるか、中山間地対策、運転免許証更新問題などが出されました。


2006年10月23日

「のうの」の伯母亡くなる

 午後1時半過ぎでした。ちょうど、地区議員団会議で私が発言している最中でした。大島区に住む従兄から電話が入り、伯母が亡くなったことを知らされました。大島区には3人の伯母がいます。母の一番上の姉(足谷の伯母さんと呼んでいます。現在、県立松代病院に入院中)、その次の姉(板山の伯母さんと呼んでいます。先回の「春よ来い」に登場)、そして母の実家の伯母です。屋号が「のうの」であることから、「のうの」の伯母さんと呼んでいました。亡くなったのは「のうの」の伯母です。数年前にがんに侵されていることがわかり、胃の手術を受けていました。伯父が胃がんで亡くなってまもなくのことでした。まさか同じところががんになるとは伯母も思っていなかったようです。
 「のうの」の伯母は気の毒なことが続きました。昨年の3月12日には交通事故に遭い、労災病院に緊急入院しました。意識はあったものの、右側の半身がきかなくなっていましたが、その後、奇跡的に回復して、数ヵ月後には畑仕事もできるようになりました。この経過については「ホーセの見てある記」に書いたとおりです。でもがんは再発、最近は、ずいぶんやせてやっと歩いている状態でした。上川谷へ市政レポートを配布に出かけた際、「のうの」に寄った時が伯母との最後となりました。突然、訪ねたのですが、伯母は不自由な体でありながらお茶を出してくれました。私にとっては、子ども時代からお世話になり続けてきた伯母です。父のことでバタバタしていて、再入院した伯母を見舞うことができなかったので、申し訳なく思っています。
 きょうは、連絡をうけてすぐ「のうの」へ行き、葬儀の準備の手伝いをしました。明日はお通夜、明後日は朝8時から葬儀となります。尾神岳経由で家に戻ったのは夜9時前でした。
 従兄の了解を得て、私のスケジュールは変更しないで頑張りますので、よろしくお願いします。ただ、市役所の木田事務所には、今週は行けなくなりそう。来週、来た時に連絡しますからと言っていた職員の皆さん、しばらくお待ちください。
 「春よ来い」第70回、「医者の『面接試験』」を掲載しました。


2006年10月22日

地元小学校の文化祭

 吉川小学校の文化祭に出かけてきました。来賓として呼ばれていることもありますが、出かけてみたくなる楽しみがあります。そのひとつは、絵です。学年ごとにテーマが決まっていて、その学年らしいといったらいいか特徴がある。それから個性あふれた作品もある。例えば1年生。「きらら」という名前のうさぎを飼育しているのですが、うさぎと自分の姿を描きました。私たちと違って、まだ背の低い子どもたちにはうさぎはずいぶん大きく見えます。学校生活の中でうさぎと仲良しであることがわかる作品が多かったですね。そのなかでも私の目を引いたのは「いべ・きょうや」君の「きららちゃん、まてぇ」でした。タイトルからいうと、うさぎを追っかけているのかと思ったのですが、絵では逆にうさぎに追っかけられていました。じつに楽しい作品でした。
 学校の文化祭では図画の展示だけでなく、音楽発表会もあります。これがなかなかの人気で、家族みんなで参加する人たちも少なくありません。小学校の体育館は満杯でしたね。1年生から6年生までみんな良かったと感じましたが、とても興味深くみたのは4年生の歌と合奏などによる創作劇『みんなの宝物を探しにでかけよう』でした。市内のすべての小学校が集まる合同音楽発表会で吉川区の魅力を紹介する内容となっています。これが子どもらしくてとてもいい。吉川区の宝物、最初に紹介されたのは「自然の豊かさ」でした。その理由は何かというと、学校周辺でクワガタがとれるからということでした。2番目は米でした。この米を使ってつくる酒がうまいといって、一升瓶を持ち出し、酒飲みをしている光景には大笑いでした。「ぼくたちはふるさと吉川にいろいろなものをみつけています。みなさんはどんなものをみつけていますか」と結びました。
 午後からは「橋爪法一を囲む会」を3会場で行いました。日曜日なので忙しくて参加者が少ないのではと心配したのですが、どこもたくさん集まっていただきました。きょうは後援会の方から朗読ボランティアの小田順子さんにも参加してもらいましたが、小田さんの朗読がある時はちがいます。今回は「幸せめっけた」の中の「ばば殺し」や「春よ来い」の中の「ワラはたきの音が聞こえる」を朗読していただきました。囲む会では、運転免許証の更新問題、除雪対策、それときょう新聞に折り込んだ「限界集落」調査に関していろいろと意見が出ました。懇談してみるもんだと思ったのは、カーブミラーの設置位置についてでした。太陽光線でまるっきり反射してくる時間帯があるという話を初めて聞きました。信号機にも太陽の位置によっては赤だか青だか、まったく判断できないという声もありました。こういうのは人命にもかかわることですので、すぐに調査したいと思います。


2006年10月21日

親守(おやもり)?

 子どもを見守り、一緒にすごし、世話をすることを子守といいます。これはわかります。では、この逆は何と呼べばよいのでしょうか。きょうは土曜日でしたが、妻も長女も勤務でした。長女に「おばあちゃんひとりに任せちゃダメだよ。つかれるんだから。それに畑仕事もしたがっているし…。お父さんも時間つくって、じいちゃんの世話してよ」と言われたので、3時間ほど父と一緒に過ごしました。
 居間にすわり、パソコンで仕事をしながら父の世話をすればいい。そう考えていたのですが、簡単にはいかないことがすぐわかりました。父はベッドに寝てはいますが、トイレに行こうとします。「ばちゃはどこへ行ったか」とさがします。これをひんぱんに繰り返すのです。足がしっかりしていればまだいいのですが、いつ転ぶかもしれない。きわめて不安定な歩き方をしています。そして、時たま、外に出ようとするのです。日頃、母や長女にまかせっきりになっている父の介護の大変さが、きょうはよく分かりました。
 午後からは総合事務所で開催された「まちづくり吉川」の講演会に出て、その後、尾神岳経由で大島区へ飛びました。あるお寺の住職が私の本がほしいというので届けてきたのです。そして夕方からは、楽しみにしていた「上越名人会」に出てきました。本物の落語は今年に入って2度目です。柳家小さんの孫にあたる花緑がじつにいい演技をしていましたね。講談、踊りもよかった。日本舞踊の世界は伝統があります。きょうの「京人形」「流星」、どちらも初めて観ました。
 名人会では、これまで味わったことの無い魅力を発見しました。人間の体で芸術的な表現をする舞踊がきれいなだけでなく、これほど楽しいものだとは思いませんでした。踊っていたひとりは同じ市議会の佐藤敏議員です。この人は議員としてだけではない、何かを持っていることを日頃から感じていましたが、まさに芸人です。見事でした。拍手。


2006年10月20日

長野市議会との交流会

 数年間途絶えていた上越市議会と長野市議会の交流会が復活しました。長野市議会からは職員を含めて37人の方が、上越市議会からは47人が参加しました。場所は国民年金健康センター上越です。1時間ほど講演を聴いたあと、懇親会をやりました。どちらもとても良かったです。
 講演は上越市生涯学習推進課の中西聰文化財係長による「上杉謙信と川中島の戦い」。吉川区の文化財調査で彼の歴史を語る能力のすごさは分かっていましたが、きょうもやさしく、とても興味深い話をしてくれました。歴史というのはイメージが先行して本質とかけ離れてしまいがちだとして、既成のイメージに疑問を投げかけるスタイルで話を展開しました。上杉謙信は武将ではありましたが、今回は信仰という側面から謙信像に迫りました。
 49年の生涯のなかで、謙信は真言宗を敬虔に信仰していて、ずっと係りながら生きていた。兜の前立てには雲の上に飯綱(いづな・きつねに似た動物)が乗っているが、これは飯綱権現をあらわしている。謙信公は上越・北信濃の聖地を守ることを大義名分にして川中島へ行ったとも言われている。よく使われる「毘」は毘沙門の毘だ。旧栃尾市に謙信公が生きていた時代にもっとも近い時代の肖像画が残っているが、弘法大師にそっくり。山形県に残っている肖像画も袈裟を着て、坊さんの帽子をかぶっている。謙信公は武将というよりもお坊さんとして生きていたのではないか。
 写真や文化財などをスクリーンに映し出し、ひとつひとつ、説得力のある解説をしていく。こういう歴史講演は初めてでした。既存のイメージにこだわってはいけないことも理解できました。その点では、戦国時代に関する彼の話も強く印象に残りました。
 戦国時代はよく動乱の時代だと言われてきた。しかし、戦は100年も続くものだろうか。だいたい疲れてしまう。最近の研究で、必ずしもそうとはいえないことが分かってきた。100年続いたが、この間、人口は増加している。耕地も拡大した。日本の歴史上、もっともバブルで豊かな時代だったともいわれている。
 中西係長の話は懇親会の場でも話題になりました。同じテーブルになった長野市議のM議員は川中島でお菓子を作っている人です。また、長野市議会の日本共産党議員団(6人)のうち宮崎利幸議員とも一緒、楽しい交流ができました。宮崎議員からは、「田中角栄は牢屋の中にいて選挙に出たが、私はがんの手術で病院に入院中、市議選となった。病院の中から選挙に出た。リンゲルを打ってもらいながら演説もした」などという武勇伝も聞きました。


2006年10月19日

わがパソコンはそろりと寿命かも

 平日なのにめずらしく一日中、吉川区にいました。党中央委員会が作成したリーフの配布、生活相談、市政レポート作成で結構時間がかかり、市役所の木田事務所に行くつもりが行けなくなりました。高田の仲間から夕方寄ってほしいという電話ももらっていたのですが、それも不可能となりました。直接的な原因はパソコンの不具合です。ちょっとしたことがきっかけでマウスがまったく動かなくなってしまったのです。パソコンを強制終了させ、休ませ、正常となったのは夕方でした。ノートパソコンを購入して約4年、毎日酷使していますので、そろりと寿命なのかもしれません。
 リーフの配布などで動いたのは午前中。対象地域は源地区です。会って話すのは、この時間帯だと高齢者がほとんど。父や母のことを知っている人が多く、「じいちゃん元気かね」「ばあちゃん、相変わらず畑仕事してなるかね」などといった調子で聞かれます。こうしてみると、父や母を通じて私に親しみを感じている人がずいぶんいることがわかります。最近、親父は1ヵ月ごとに体が弱っていっているという話をしたら、Sさんは、「そうだよ。ある程度まで行くと、年寄りは1年ごとではなく、1ヶ月ごとに年をとるんだよ」。なるほどと思いました。
 明日は上越市議会と長野市議会との交流会です。近い距離にありながら、なかなか交流の機会がないのですが、今回の会がきっかけになって付き合いが深まればいいなと思います。


2006年10月18日

案内ビラ配布も楽しい

 きょうもいい天気でした。「橋爪法一を囲む会」の案内ビラ配布を3時間ほどかけてやりましたが、途中で汗がにじんできました。気温もかなり上がったようです。こんな日は外へ出かける人も多い。そういう中で、畑仕事をしている人や家でお茶飲みをしている人たちと話ができました。ほとんどが久しぶりに会う人たちですので、どうしても話は長くなります。
 Sさんを訪ねたら、ちょうど隣の人とお茶飲みをしているところでした。「橋爪です」と声をかけると、ちょっと戸を開けて、「あらまあ、政治家さんがじきじきに来てくんなったわ。さあさあ入ってくんなさい」。漬物の話から議会活動のこと、先日の敬老会のことへと話がどんどん広がりました。まるで「囲む会」の予行演習をしたようなものです。楽しいお茶会でした。
 畑では、一人暮らしのNさんと話をしました。この人は私の市政レポートをじつによく読んでいてくださいます。『春よ来い』の中の「巣立ち」がよかったねぇ、子どもが家から離れる時の親の気持ち、年寄りの気持ち、あの通りだね。おら、涙出たわね。そう言いながら、もう涙を浮かべておられました。もう一人暮らしには慣れたはずなのに、やはり、さみしいのでしょうか。それにしても、こういう反応を聞けるのはありがたいことです。
 一人暮らしではないけれど、昼間は一人になることの多いKさん。「○○さん、おれです、橋爪です」と言うと、奥から小さな声がしました。「入るでね」そう言って茶の間に行くと、Kさんは車イスにすわったまま、じっとしていました。そばには薬とお茶がおいてあります。とてもさびしそうでした。近況や体の具合を聞いた後、帰ろうとしたら、「あんちゃ、頼むわね」と言われました。もう何ヶ月も訪ねてなかったので、これからは訪問回数を増やそうと思います。
 きょうは午後から安全・安心のまちづくり条例制定に伴うシンポジュームがリージョンプラザでありました。吉川区からも総合事務所の職員だけでなく、民生委員、町内会長数人が参加しておられました。


2006年10月17日

一転、入院中止

 なんということでしょうか、入院することになっていたその日の診察で、父は入院するまでもないと診断され、通院して様子を見ることになったのです。おそらく、点滴が効いたのでしょう、昨晩からご飯を食べ始め、きょうは朝から普通に食べられるようになりました。昨日から父は「オレは入院しない」と頑張っていましたが、その気持ちが好転をもたらしたようにも思えます。午前には理髪屋さんに行き、髪も顔もきれいにしてもらいました。担当の医師からは、昨日よりもいいねと言われ、次々と出された質問にも的確な答えを出していました。まともに答えられなかったのは、きょうの日付と前回病院に来た日だけでした。
 きょうは、入院ということで、母も同行しました。長女は入院に必要な物をすべて準備してくれました。弟も仕事場から家に駆けつけ、入院を説得してくれました。入院することになっていたのは老人病棟です。母や長女とともに見学させていただきましたが、父よりも具合が悪そうな方がたくさん入院されていました。案内してくださった看護師さんはとてもやさしい感じで好感が持てました。でも、家族の顔が父の前から消えた時にどうなるかちょっと心配になりました。父の性格から言うと、「家に帰る」とわめいて迷惑をかけそうな気がしたからです。
 入院が中止になって大喜びしたのは父でした。「医者の面接試験に合格した」と言って喜ぶ姿を見て、みんなで笑いましたが、正直言ってホッとしました。これまでも、父の病状は良くなったり、悪くなったりしています。今回の好転がそのままいくとは限りません。でも、いい時ぐらいは自分の住みなれたところで楽々させてあげたいと思います。入院中止が決まってから、弟や妻などに連絡しましたが、みんなびっくりでした。妻からは、職場から「よかったね」とメールがきました。


2006年10月16日

父、入院へ

 昨日、東京へ行っている間に父の具合が悪化しました。熱も無いのにほとんどご飯を食べようとしなくなってしまったというのです。それで、きょうは朝から、大潟区のさいがた病院へ行き、いろいろと検査をしてもらいました。その結果、脱水症状などからくる意識障害(せん妄)がかなり進んでいること、レントゲン検査で左肺下部について詳しく検査する必要があることなどから、明日の午後、入院することになりました。
 きょうは長女とともに病院へ行き、父の世話をしました。午後からは長女が勤務のため、私ひとりで付き添うことになりましたが、付き添いの大変さが少しわかりました。点滴の針がなかなか入らず、30分ほど担当のお医者さんが他の患者さんの手当をされて待たされる場面があったのですが、じっと待つことができず、30秒ぐらいの間隔で医者を呼ぶよう催促するのです。そのうちに家に帰ると言い出し、なだめるのに苦労しました。点滴が始まってからは、腕をすぐ曲げてしまうので、ずっと握っていてやらないとダメです。約2時間半、握りっぱなしはくたびれました。
 父を連れて家に戻ったのは5時過ぎでした。明日入院するんだよ、といってもなかなか納得してくれません。おれは悪いところが無いのに、なんで入院しなければならないんだ、と頑固に頑張るのです。幸い、担当の医師の説明では短期間の入院になる可能性が高いので、「早く検査してもらって帰ろう」と説得する予定です。


2006年10月15日

東京吉川会総会

 きょうは楽しみにしていた東京吉川会の総会です。吉川区からは山田総合事務所長や塚田参事、まちづくり吉川の吉村理事など9人が参加してきました。もちろん私もそのなかのひとりです。いろんな荷物もあって、1台の車には乗り切れなかったため、行きは4人が新幹線・電車で東京四ツ谷まで行きました。帰りは、明日も東京で仕事のある2人をのぞき、7人が1台の車に乗って、戻りました。朝7時過ぎに出て夜9時前には帰っている、便利になったものです。
 さて、東京吉川会ですが、地元、吉川からの最大のお土産は地場産の情報です。今回はケーブルテレビで放映された「おらったりの出来事」を15分ものに再編集してもらい、懇親会の場で観てもらいました。意識的に何人かの参加者に感想を聞きましたが、「懐かしくてとてもよかった。山賀さんも出ていたし…」(石谷出身のAさん)など、全体的には好評でした。ただ、酒が入ってからの放映だったこともあってか、スクリーンに集中していなかった人もいました。懇親会の冒頭にするなど、放映のタイミングは工夫しないといけないなと思いました。放映時間も最大で7分が限度かな。来年に向けて課題が残りました。
 その一方で、予想以上に盛り上がったのは、地元から参加した3人の女性による踊りです。舞台の上での踊りは、みんなが集中してみてくれました。そして大当たりだったのはフロアーでの踊りです。司会者が「みなさんもご一緒に」と呼びかけたら、吉川音頭、佐渡おけさを踊る輪ができました。この時の参加者の表情はじつによかった。参加型アトラクションの魅力の原点をみた思いがしましたね。
 この会は吉川生まれ、吉川育ちという共通したものを持っている人たちの集まりです。13年前の設立総会から4回ほど参加させてもらいましたが、故郷のことを語り始めるとみんな生き生きしてくる。郷土が同じだけで交流することがじつに楽しく、元気が出てきます。会場では、私も何人もの人とゆっくり話ができました。私のHPをみていてくださる方も3人おられました。うれしかったです。
 来年は東京吉川会の15回目の総会となります。記念の会となりますので、地元からも最大限の参加をして大いに盛り上げたいですね。


2006年10月14日

多忙、でも充実した土曜日

 ビューティフルサタディ、英語で言えば、そう言いたくなるすばらしい天気でした。遠くの山々もすっきりと見える。しかも紅葉が始まってきていて、景色がいい。あちこちに咲くコスモスも、アキノキリンソウも、ミゾソバも素敵に輝いていた一日でした。きょうは、えちご・くびき野100キロマラソンの日でもありました。私は夕方、少しの時間しか応援できませんでしたが、選手のみなさんも気分良く走れたのではないでしょうか。
 午前は10時過ぎまで「しんぶん赤旗」日曜版の配達をしました。気温が25度前後まで上がりそうだというので、農家は忙しそうでした。ある家ではムシロの代わりに畳の上に敷く「うすべり」を使って小豆を干していました。こういう光景をみると懐かしくなります。写真を撮らせてもらいました。ある家に行ったら、関東方面からお客さんが来ておられ、野の花のことが話題になりました。ツリガネニンジン、シラネセンキュウの花の種がほしいとか。私の知っている場所を教えたところ、とても喜んでくださいました。
 午前11時からは、「北陸新幹線 並行在来線 どうとりくむか」をテーマにした学習交流集会でした。長野、富山、石川、それと新潟の各県から60数人が集まって学び、活動の交流をする。この会は昨年に続いて2回目でした。並行在来線はどこでも赤字が必至といった状況の中で、住民の足を守り、地域の経済を守っていくために、どうしたらいいのか。巨額の初期投資に対する財政支援、JR鉄道資産の無償譲渡、並行在来線の駅を中心にしたまちづくりなどの提起は、上越市議会での議論とマッチするものでした。4県の学習交流会は「北陸新幹線並行在来線問題連絡会」として発展させることになりました。
 夜は地元集落での「語る会」です。様々な行事が重なって参加者数はいまいちでしたが、意見や要望がいくつも出て、いい会になりました。昨年の水害後、総合事務所長に吉川だけでなく、大出口川の河床掘削などについても申し入れたのですが、その後の動きはどうかとか、自動車運転免許証更新問題、柿崎病院問題の取り組みはどうなっているかなどの質問が相次ぎ、とても勉強になりました。自分流の議会活動にならないようにするためにも、こうした声を聞くことは大切だと感じました。会では、最近撮ったヤマトリカブト、ミゾソバ、シロバナサクラタデ、アキギリなど野の花の写真映像も喜んでもらえました。野の花写真はどこでも好評です。


2006年10月13日

地域政治新聞ではありますが…

 深まりゆく秋。この言葉がぴたりと当てはまる時期になってきました。稲刈りは山間部に一部残っているだけです。山も少しずつ色がついてきました。朝晩はぐんと冷え込み、暖房がほしいくらいです。ここ1ヶ月ほど賑やかに、というより騒々しく鳴いていたアオマツムシの鳴き声が聞こえなくなり、昔からおなじみのコオロギ(?)などの鳴き声を楽しめるようになりました。
 さて、きょうは金曜日、「しんぶん赤旗」日曜版の配達を開始する日です。出来上がった市政レポート吉川版を毎週おり込んでいますが、紙面を見て、自分で書いていながら、「おやっ」と思いました。政治的なことは右下の災害復旧工事の写真と短い説明だけ、あとは吉川区内の出来事、駅伝とコンサートのことがメインとなっている。1、2面の無い、社会面だけの「しんぶん赤旗」日刊紙のようなものになっていたからです。初めて市政レポートを読む人ならば、「ここにもミニコミ紙書く人がいるんだね」と言いながら、レポートの下のほうに目を向け、「えっ、これ、共産党の議員が書いているの?」と言うかもしれません。
 私たちの党では、市町村段階、場合によっては県段階で定期的に出すミニ新聞のことを「地域政治新聞」と呼んでいます。そのことに異議は無いのですが、大型合併をした市町村にあっては、その新聞の中身は、これまでの町や村の広報に掲載されていた地域内の話題も書いていく必要があると思っています。そうしないと情報過疎地帯になってしまうからです。10月から11月にかけては文化、スポーツ行事が続きます。市政レポートでは、しばらくの間、政治的なこと以外のことを大きくとりあげた紙面になるでしょう。
 いうまでもなく、地域政治新聞は、地域に住む人々の暮らしの守り手である新聞です。全体としては、地域内の様々な政治的出来事と私たちの活動の紹介が中心になりますが、発行する号によっては、今回のような紙面の時も出てきます。ご意見をお寄せいただければ幸いです。


2006年10月12日

朝から夕方まで団会議

 きょうは朝から夕方まで市役所・木田事務所で議員団会議でした。会議のテーマは政務調査費問題、自治基本条例についてです。これらについては各派代表者会議、特別委員会で議員団としての見解をまとめておくことが求められていました。ふだん、日本共産党議員団として活動することが多いのですが、個別の問題を議論すると、各議員の思いもあり、激しい議論になることがあります。きょうも、都市内分権、男女共同参画などいくつかの項目について意見が分かれ、長時間の議論となりました。
 市役所が限界集落(65歳以上の人口割合が50%以上を占める集落)の本格的な調査に乗り出すことになりました。3月議会で私が問題提起したことを受けての調査です。すでに関係課で調査項目などの検討がはじまっていて、集落へは来月から入るそうです。対象集落は、今年度の4月現在のデータでいくと、約50となります。過疎地の限界集落の生々しい実態を行政が把握しようとする姿勢は大いに評価できるものです。この動きについてはすでにマスコミもつかんでいて、きょうは、この問題で取材されました。
 サルナシの実は昨日よりもさらにおいしくなりました。もう1、2日たつと、やわらかくなり過ぎるので、きょうは議員控え室に来た人にどんどんあげました。「どうぞ、あなたの課のみなさんで食べてください」と言って、持って行ってもらった人もいます。昨日食べた他会派議員のなかには、「家に持って行って食べたが、ばかうまかった」とニコニコして感想を述べてくれた人もいました。この人には追加でまた、大きなのを数個あげました。「おいしいからといって、食べ過ぎないように。子どもができることもあるから」と冗談で言ったら、「えっ、そんな効果もあるんですか」。大笑いでした。


2006年10月11日

サルナシ、食べ頃に

 先日、採ってきたサルナシの実がやわらかくなって、ちょうど食べ頃になりました。香りよし、食感よし。とてもおいしかったので、何人かの人にお裾分けしました。きょう、あげた人はいずれもサルナシは初めて食べる人ばかりでした。「小さくても、キウイフルーツと同じ味がする。ふだんはどんな食べ方をするの」「これを使って、自分でワインはつくられるか」「どうやって栽培しているのか」などと質問攻めにあいました。
 きょうは、昨日の疲れが残っていたので、囲む会の案内チラシを作成、配布したほかは新しい本の構想を練ることだけとしました。時たま、こっくりこっくりしながらですので、なかなか進みませんでしたが、これをじっくりとやることが大事だと思って机に向かいました。そういうなか、生活相談や市役所職員との打ち合わせがあったおかげで、気分転換になりました。同じことだけをやっている時には、こうしたものがないとだめですね。
 日中はかなり暖かでした。でも、朝晩はぐんと冷え込むようになりましたね。今晩も暖房を入れて軽トラを走らせました。私の部屋では、もう1、2度下がると暖房が必要となります。妙高山はすでに初冠雪がありました。米山、尾神岳はまだ先とはいえ、冬が近づきつつあることを少しずつ教えてくれています。牛舎のそばの畑ではカマキリの巣も見つけました。


2006年10月10日

東京にて

 ここのところ、出かける時に一番心配なのは父の様子です。昨日もディサービスに行ったものの、38.5度の熱を出し、長女が迎えに行ってくれました。今朝も調子が悪く、一時はまったくといってよいほど歩けなくなりました。きょうは東京で本の出版について相談する日でしたので、長女と弟に頼んで、かかりつけの医院に連れて行ってもらいました。東京駅に着いてまもなく、長女からメールが来て、肺炎ではない、熱も下がっているとの情報が入った時はホッとしました。
 東京へは、ほくほく線の各駅停車で越後湯沢まで行き、そこから新幹線で行きました。電車の中では、書き溜めた原稿の整理に集中しました。こういうことができるから、電車は少々高くても利用したくなります。本の方は、まだ正式に決まっていませんが、年内には発刊の予定です。編集担当の方と相談したところ、「幸せめっけた」シリーズの原稿を8割方使い、残りは「春よ来い」をとり入れる方向で進むことにしました。ここ10日間くらい、この編集作業で大忙しとなりそうです。
 相談が終わってから、本屋のはしごを楽しみました。古本屋では竹西寛子と向田邦子の本を探しましたが、残念ながら見つけることができませんでした。本屋の最後は八重洲ブックスセンターで新書、文庫めぐりです。このなかで偶然、目にとまったのは、祥伝社新書の『村が消えたー平成大合併とは何だったのか』でした。著者の菅沼栄一郎さんは現在、上越市の地域自治のあり方についての研究会メンバーのひとりです。本の中では上越市のこともたくさん出てくることもあって、窓際にある机と椅子を利用してどんどん読み進みました。
 夕方からは2時間くらい、都内で働く友人とおしゃべりを楽しみました。ブログのこと、最近増えている通信システム、そして、「幸せめっけた」の原稿についても話をしました。「夫婦愛」「恋」の2編を読んでもらい、率直な感想を出してもらいましたが、私よりも年代の若い人でも関心を持ってもらえそうなことがわかり安心しました。友人からは、原稿を全部読んで、「お気に入り」を教えてもらう約束をしていただきました。どういうわけか、この人とは心の波長が合うので、甘えさせてもらっています。


2006年10月09日

上川谷の県道災害復旧工事は順調

 ミサイルで一度やっているから、どんなに国際世論が高まっていても実験を強行するのではないかと思っていましたが、それでもテレビニュースで北朝鮮が核実験をしたことを知ったときはショックでした。この次に切るカードが再び核実験をやることになるのか、それとも他国に戦争を仕掛けるのかといった声を聞くと、不安は募ります。力には力でという対応では、この国の指導者は野蛮な行為をエスカレートさせるだけです。問題の解決のためには平和的・外交的交渉で、を貫いてほしいものです。
 きょうは午前中、上川谷まで出かけ、市政レポートの配布をしてきました。昨日と違って、秋らしい、いい天気です。あちこちで野の花の写真を撮りながら楽しんできました。ホトトギスという名の花は園芸種は何度も見たことがありますが、いつか自然の中にあるものに会いたいものだと思っていました。それがきょう実現しました。「秋の野の花」に加えましたので、ごらんください。今回はSさんのところでお茶をご馳走になりました。ここでうれしかったのは、いろりが現役で活躍していたことです。つい先日、有線農協の職員から「いろりを使っている家を紹介して」と言われて、吉川区内の2軒の家を教えたのですが、さらに1軒紹介できます。いろりには丸いどんごろ(木の幹や太い枝をマキにしたもの)がありました。Sさんから、「けぶったくてね」と言われたのですが、今度、実際に燃やしているところを見せていただく約束をしてきました。
 さて、きょうの最後はうれしいニュースです。県道の災害復旧工事が行われている上川谷の現場に1ヶ月ぶりに出かけてきました。この1ヶ月の間に工事はどんどん進み、とうとう元の道の路盤が見えるようになりました。あの、山のようになっていた崩落した土砂はもうほとんどありません。いまは、元の路盤を掘って発泡スチロールで新しい路盤をつくる作業に入っています。この調子なら、雪が降る前に車が通れるようになることでしょう。


2006年10月08日

『緑の星に』に感動

 時たま、激しい雨風になる。きょうの天気はまさに荒れ模様でした。ひょっとすれば駅伝はできないかもしれない、そんな予想もしていましたが、スタートの時間には落着き、まずまずの駅伝日和となりました。参加チームはオープン参加を含めて9チーム。後半の強風、雨の影響か、新記録は生まれませんでしたが、常勝の旭ランナーズが3位になる波乱がありました。代わりにトップに立ったのは源パイレーツ、2位は勝友会でした。
 午後は源克雪センターで「橋爪法一を囲む会」でした。昨日、きょうの参加者に聞いたら、私の一般質問や討論をケーブルテレビで見たことのある人はゼロでした。見ようとしたが見れなかったという人はいましたが。この点は、市政レポートでの案内に工夫が必要だと思いました。もっとも、それよりも録画ビデオを見てもらう方がいいのかもしれません。
 きょうの会場では午前中の駅伝のゴール写真を映し出して、その結果を報告するところからはじめましたが、参加者は驚いておられました。この他、村屋の村松家のしだれ桜、先日の敬老会の写真など、身近な映像を何枚か使いました。「囲む会」の会場ごとに、こうした工夫ができるといい会になることがはっきりしました。これからの会は、こうしたことを意識して準備しようと思います。
 懇談で出されたのは地域自治区の評価と存続への要望、文化財保護、農協の源支店の閉鎖後の暮らしをどうするかなどでした。
 コーラスグループ「ゆりかご」が結成15周年を迎えました。今晩はそれを記念するコンサートが多目的集会場で行われ、妻とともに参加してきました。直前の激しい雨にもかかわらず、参加者は100人を大きく上回りました。この会と市民のつながりの強さでしょう。今回のコンサートでは、初めて聴く、素晴らしい歌がいくつもあって感動しました。ビックリしたのは最初の曲です。まさか料理研究家の小林カツ代さんが9.11テロのことを意識して、『緑の星に』という歌の作詞をされているとは思いませんでした。
 地には花が咲き 人には歌がある この美しい緑の星と 与えられたいのちのために
戦をやめて 歌っておくれ 戦をやめて 歌っておくれ
 目をつぶって聴いていると、涙が出て来そうになる歌でした。地球から戦争をなくそうということだけでなく、ふるさとの大地に咲く花やそこに暮らす人たちのことが思い浮かんでくる。これはこれからどんどん広がっていく歌だと感じました。
 きょうは地元集落で草刈りがありました。私は参加できませんでしたが、サイの神に使うカヤ刈りも行われました。昨年から、刈り取ったカヤの保管場所として、わが家の牛舎を使ってもらっています。忙しくて、なかなか参加できなくなったお詫びもかねて。


2006年10月07日

市展そして囲む会

 朝、携帯のスケジュールを確認したら、「雁木美術展」と入力してあります。このページに書いておかなかったこともあって、他の行動をしようとしていました。うっかりできないものです。「雁木美術展」は正式には上越市展です。高田の雁木通り美術館などで、きょうから9日間開催されています。
 オープンセレモニーが始まるまでの間、作品を出品した人の名前を隅々まで見ました。知っている人は、吉川区在住の細井さんがコンピューターグラフィック部門で、深沢さんが書道部門でそれぞれ無鑑査で載っていました。その他には、元吉川高校の教師だった早川先生が書道部門で無鑑査で掲載されており、旧源中学校教師だった直江津の藤田先生が写真部門奨励賞に入っていました。また最近、各種展覧会で活躍している直江津の菅井さんは彫刻部門に名前がありました。
 知っている人の名前を見ると、その人の作品が気になります。私は表彰式が終わった時点で帰りましたが、彫刻、写真、CGの作品は市民プラザが会場だったので、見られませんでした。日を改めて出かけてこようと思っています。
 急いで帰ったのは、午後から「橋爪法一を囲む会」があるからです。昨年も秋から冬にかけて30数会場で行いましたが、今年も今月から集中して取り組みます。きょうは2会場でした。最悪の天候にもかかわらず、集落の戸数の半分近い人たちが参加してくださいました。スライドを使っての報告は好評で、きょうも分かりやすかったとの声を寄せていただきました。会場で出された話は、ゴミの有料化、税制「改正」の影響などが中心でした。税金が高くなった、介護保険も負担が多くてたいへんなど、予想はしていたけれど、税制「改正」を進めてきた政府などに対する怒りが急速に広がっているなと感じました。


2006年10月06日

〝失敗学〟に興味津々

 15日に東京吉川会があります。きょうは、その場で吉川区の最近の動きを紹介するビデオの試写会を有線放送事務所でやり、区総合事務所長や産業建設グループ長などとともに、その内容について相談しました。ビデオは吉川区のケーブルテレビジョンで放送された「おらったりの出来事」の中から、上川谷の雪の様子、尾神岳の春、区体育祭などをとりあげ、再編集したもの。話し合いの結果、東京吉川会に参加される人たちが知っているふるさとの人たちをできるだけ登場させようということから、昨日の敬老会の様子も付け加えてもらうことになりました。時間は約15分、参加者には喜んでもらえるものと思います。
 その後、市役所・木田事務所に出かけ、一昨日整理した野の花の写真のファイル集を上越地域水道用水供給企業団事務局に渡し、懇談しました。いろいろお聞きしたなかで、同企業団が行っている自然観察会が大変好評であることがわかりました。いうまでもなく、事務局では事前の準備をしっかりやっています。どこにどんな花が咲いているかについても下調べをし、参加者に配布する写真集(解説付き)では、歩いて出会う順番に並べておくなどの工夫もしているとか。水源涵養林などに市民からもっと目を向けてもらうための活動の一端を知ることができました。私も来年度は一度参加させてもらおうと思っています。
 議員控え室では、9月議会で取り上げた農業労働災害や学校管理下での事故について、防災局長から原因分析等に関するアドバイスをしていただきました。NHK教育テレビで放映された畑村洋太郎さんの『だから失敗は起こる』についての話はとても興味深いものでした。議会に提出した決算概況などにみられた記述ミスの連続的な発生なども、よく考えてみれば、各種災害、事故との共通項があります。NHK教育の「知るを楽しむ」のテキストも借りました。〝失敗学〟を学ぶことで、私の問題意識もさらに発展するかも知れません。


2006年10月05日

敬老会参加の最高年齢者は94歳

 上越市と合併してから2回目の敬老会が長峰温泉・ゆったりの郷で行われました。会場となった屋内ゲートボール場には、400人を超える方々が出席。私は市長、副議長、総合事務所長とともに参加してきました。外の天気は曇り空、雨が落ちなくて良かったです。
 主催者を代表しての市長の挨拶は、次々と数字を並べて聴衆の気持ちをひきつけました。吉川区の高齢者人口比率は30.18%で、これは市内では、大島、牧、安塚、名立の各区に次ぐ高い比率だ。要介護者は298人で、高齢者の18.53%とになる。新潟県の数値、上越市全体の数値、そして吉川区の数値を紹介するたびに「ホーッ」という声が出たのには驚きました。会場に参加した最高年齢者は長峰のHさん、94歳。ふだんは自転車に乗って動くという元気者です。市長が、杯をもちあげるしぐさをしながら、「こちらの方もやられますか」と問いかけると、「やります」という答えが返ってきました。
 昨年は市直営で敬老会をやりましたが、今年からは株式会社ゆったりの郷が受けての運営となりました。第2部のアトラクションでは、お酒も飲め、昼食も、暖かいお汁も出ました。これは好評だったようです。私も来賓席でお酒を2合ほどいただきました。河沢あすなろ会などのみなさんによる踊りの写真を何枚か撮りましたが、何人もの人たちが声をかけてくださいました。なかには、「おれはおまんと正反対の党だが、次回は町内会の選対委員長になって応援するすけ、がんばれ」などという方もありました。ありがたいことです。
 敬老会は午後1時には終わりました。お酒が入ったので、午後から、友人を誘って山間部へ出かけてきました。目的はサルナシの実を収穫することです。今年はいつも以上に実がたくさんなっていて、2人で4キロ近くもとることができました。まだ実は硬く、数日間は寝かせておく必要があります。来週にはおいしい香りが漂うはずです。市役所の職員さんで、ぜひ食べてみたいという方は議員控え室においでください。少し持ち込み、寝かせておきますので。


2006年10月04日

野の花の写真整理

 午前中は、「橋爪法一を囲む会」の案内ビラ配布でした。昨日もそうでしたが、久しぶりに会った人との会話がはずみます。わが家の父母が元気かどうか、牛はどうしたか、市政レポートに書いた内容についてなど、次々と話が広がって、あっと言う間に時間が過ぎてしまいます。なかには、私の顔を見るなり、「あら、おまんどうしたが」と驚く人もありました。いつも市役所に行っているはずなのに、なんでここにいるのか。何かあったのかというわけです。やはり、一年に2、3回は各戸を訪問しておかないといけないなと感じた次第です。
 午後からは、市役所の議員控え室で仕事をしました。急ぎの仕事として、議員団ニュースの作成、上越地域水道用水供給企業団から依頼されている「柿崎川ダム周辺に咲く花」(総合学習などで使うパンフレット)に掲載予定の野の花の写真の整理があります。きょうは夜遅くまでかかって、どちらもやりとげることができました。ただ花の写真は、私のパソコンの写真ファイルのどこにあるか不明なのがいくつかあって、厳密には95%の進捗率です。これはいくら時間をかけても100%は無理のようです。
 


2006年10月03日

桑原加代子さんがブログ

 朝の6時半。牛舎に向かって歩いてくる人の姿を見てびっくりしました。杖をつき、麦わら帽子をかぶり、足を引きずるようにして歩いてくる姿はまぎれもなく父です。昨日、転倒したのはうそのようでした。それにしても、家から500メートルもよく歩いてきたものです。すぐそばまでとんで行き、「どうした、じいちゃん」と声をかけると、「牛にエサをくれなきゃならん」。もう、牛飼いをやめたことはすっかり忘れているのでした。
 念のため、きょうは娘と母が付き添って、父をかかりつけのさいがた病院(大潟区)に連れて行ってくれました。何か大きな病気の前触れでないか、というのが家族の心配でした。昨日はどこも痛くないと言っていたのですが、調べてもらったら、腰の一部に赤くなったあざがありました。MRI検査の方は、特に異常は確認できなかったものの、3ヵ月後に再度調べてもらうことになったそうです。医師からは、転びやすくなっているので注意してほしいと言われました。
 きょうは、午前が上越地域消防事務組合議会でした。昨年度の決算、一般会計補正予算の審議が中心です。午後からは、土曜日からスタートする「橋爪法一を囲む会」の案内ビラを作成し、一部地域に配布してきました。天気が良かったので始めの頃は留守の家が多かったのですが、夕方になると人もいて、何人もの人たちと話ができました。市政レポートを読んでいてくださり、「(新聞に折り込まれる)日曜日が楽しみだ」との感想もお聞きしました。ある家では、「橋爪です」と声をかけると、お風呂に入っていたおばあさんが、腰にタオルだけ巻いて出てきてくださいました。
 夜、地域協議会が終わって、家に戻ると、先月17日、津南町を案内してくれた党県常任委員の桑原加代子さんから電話が何回もありました。あの時、ホームページをすぐに立ち上げたいと相談されたので、「ブログなら1週間くらいでスタートできるはず」と言っておいたのですが、スタートしたので見てほしいということでした。頑張り屋の彼女は来春、十日町市、津南町などの選挙区から県議選に立候補を予定していますが、パソコンが苦手だった彼女がもうブログを始めるとは……。桑原さんのブログは「かよこ通信」です。さっそく、津南の特産の花情報を載せています。パソコンの技術面でも、これからどんどん伸びていくはずです。ぜひ訪問してあげてください。


2006年10月02日

まず笹の立あがりたる雪解かな

 毎週月曜日、地元の新潟日報紙を開いて必ず見るページがあります。読者文芸欄です。いつも妻の名前があるかどうかを確認するクセがついています。今週は日報歌壇賞、俳壇賞が発表されていたのですが、そのなかに、妻の名前があったのはうれしかったですね。6月12日付け「ホーセの見てある記」で紹介させてもらった妻の俳句が佳作に選ばれていました。
 まず笹の立あがりたる雪解かな
 選者の中原道夫さんは、「これこそ雪国の人が見落としてはならないもの、笹の青が垣間見えたときの喜びを言外に知る」と書いてくださいました。「これでいつでも葬式やってもらってもいい」と妻は受賞に大喜びでした。
 さて、きょうは午前が党議員団会議、午後は自治基本問題特別委員会でした。議員団会議では、9月議会の市議団報告をどうするかを中心に話し合いました。B4サイズの紙の裏表に、3議員の発言をコンパクトに載せるためにはどうしたらいいのか、いままでと同じレイアウトにしないようにと考えると、とても時間がかかります。次回も引き続き検討することになりました。特別委員会は、現在すすめられている市民会議による自治基本条例の素案作りに市議会の考えをどう反映させていくかを中心に話し合いました。
 夕方、弟から連絡があり、父が玄関で転倒したとの情報が入ってきました。後で母に聞いたところ、きょうは体調もよくなかったらしく、コンクリートの上にドドンと転んだといいます。一時、意識を失ったのか、父も何が起きたかわからないと言っていました。今年に入って、父の転倒は、これで3回目です。1回目は牛舎内、この時は転んだあと、子牛に腹の上にのぼられるというオマケまでつきました。2回目は寝室で圧迫骨折。そして今回と続きました。父は転倒の度にがくがくっと弱っていくので、とても心配しています。


2006年10月01日

第9回越後よしかわ酒祭り

 雨が降ると降らないでは雲泥の差。きょうの酒祭りは天気に恵まれ、大賑わいでした。昨年、一昨年と2年連続で雨にやられ、人集まりが悪かったので、今回はうれしかったですね。きょうも多少、曇ってはいましたが、雨が落ちなければそれでいいのです。実行委員の人たちが駐車場でどのくらいの人たちが入ったかを数えていたとのことですが、4000人は軽く超えたでしょう。今回は県外からの参加者もかなりあったようです。いつも頑張ってくれている太鼓のメンバーやよさこいソーラングループの人たちの演奏、踊りも力が入っていました。
 きょうは、10時半頃から会場となっている杜氏の郷前広場に行きました。すでに、東京吉川会から、関澤会長をはじめ6名の方が来ていてくださいました。また、毎年、顔を見せてくださる吉川高等学校同窓会東京支部の竹内支部長の姿もありました。私のすぐ隣の来賓席に座っておられた新潟県酒造従業員組合連合会の青柳会長さんから名刺をいただき、勤務先の会社名を見てびっくりしました。私の父が以前お世話になっていた新潟市石瀬(旧岩室村)の宝山酒造だったのです。亡くなった杜氏の上野武夫さんのことなど、ゆっくりとお話できました。
 もうひとり、懐かしい人と6年ぶりに再会しました。『酒は風』(大月書店)『高校生が酒を造る町』(フィゼック社)の著者である首藤和弘さんです。ちょうど、『高校生が酒を造る町』を出版された年に私も本を出し、同じ時期に吉川のことを書いていたということで、丁寧な手紙をいただいたことがありました。きょうは短時間でしたが、新刊の『旅のプラズマ』(新風舎)に関する思いなどを聞くことができました。
 昨年は雨でびしょ濡れになり、オープンセレモニーに参加して間もなく家に帰ったのですが、きょうは最後まで楽しませてもらいました。地元吉川出身の歌手、三島みどりの歌、それからTVものまね番組にレギュラーで活躍中の
ビューティこくぶ ものまねショー、いずれも観客と一緒になった運びで盛り上がりました。これだけ、お客さんがのってくると、芸人さんも気分上々だと思います。今年のよしかわの祭りは、やったれ祭りといい、酒祭りといい、大成功でした。
 「春よ来い」第69回「姉と妹(2)」をアップしました。


2006年10月投稿分

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