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2005年08月投稿分

2005年08月31日

9月議会スタート

 きょうから9月議会がはじまりました。会期は30日間です。今議会は合併直後の決算議会であること、そして総選挙と日程が重なったということが大きな特徴です。20数年の議員生活で定例議会と国政選挙がぶつかったのは初めて。お昼の休憩時間、議員控え室にマスコミ関係者が3人も訪ねてきて、総選挙のなかで議会にどう取り組むかを取材していきました。議会も総選挙もどちらも大事なので、3人の議員団が分担して取り組むと答えておきました。具体的に言うと、投票日前の建設企業委員会は議員団の中から分担して1人だけ参加する、文教経済委員会は委員である橋爪に任し、他の2議員は傍聴にもこないということになります。明日の新聞に各会派の見解が載ることでしょう。
 


2005年08月30日

河川内の草木除去進む

 吉川河川内の雑木の伐木や草の除去がかなり進んだというので、現地調査をし、デジカメで撮影してきました。私が以前見た作業と違い、いまの作業は完全に機械による作業となっていました。除去後の風景はぼさぼさの頭を刈ったのとそっくり、とてもきれいになりました。このペースで作業が進めば、秋雨前線や台風による雨の前に作業は終了するものと思います。
 午前の仕事が終わってから、昨日なくなったHさんのところへ行ってきました。吉川にはもう家もないので、お寺で葬儀を行なう準備が進められていました。Hさんの顔は80代とは思えない若さがありました。おっかちゃ、ご苦労さんだったね、がんばったね、と声をかけてきました。


2005年08月29日

Hさんが亡くなった

 朝、母がさみしい知らせが届いたことを教えてくれました。蛍場に住んでいた当時、お世話になったHさんが昨日亡くなったというのです。わが家のすぐ下にすんでいたHさんは4人の子どもを育て、もくもくと働くやさしい女性でした。子どもさんはすべて女の子でしたが、みんな実家を離れ、夫婦だけの暮らしになりました。そして10年ほど前から認知症にかかり、火災にあってからは特別養護老人ホームに入所していました。入所されたばかりの頃、施設を訪ね、Hさんと30分ほど話をしたのが最後となりました。
 明日から総選挙なので、きょうまでにやっておこうと思ったことを一つひとつやりました。そのほとんどが生活相談です。その他は新聞の集金、議会の準備、選挙で使う事務用品の購入などでした。いつものことながら、スケジュールに追われ、タイムリミットぎりぎりにならないとエンジンがかからないのは悪いクセです。明日は3班編成でポスター張りをやることになっています。天気がよければいいのですが……。


2005年08月28日

お茶をご馳走になって聞いた話は……

 公示前の最後の日曜日です、一日中、総選挙を意識して活動しました。新聞の配達、集金、各種号外配布、街宣で柿崎区と吉川区内をまわりました。きょうは、支部の仲間や後援会の人たちが一番動いてくれた1日になったように思います。夕方には頸城区の後援会決起集会兼焼肉パーティにも顔を出してきました。ここも盛り上がっていましたね。私が到着した時はパーティ開始後2時間ということもあって、みんな元気、元気、この勢いがあるなら小選挙区でも勝てるほどの熱気にあふれていました。それにしても70人ほどの人たちが集まったというのはすごいことです。
 きょうの活動で忘れられないのは、川谷地区のある家を訪ねた時のことです。支部の仲間と赤旗号外を配布していたのですが、そこの家のお母さんからお茶を誘われました。そこで出た話は1945年3月の東京大空襲体験でした。この人は1944年から翌年にかけて女中奉公に出ていました。しかもその奉公先は、空襲で行方不明になった私の伯母がかつてお世話になった家だったのです。このお母さん、空襲時の恐怖、切なさをいまでも鮮明におぼえているといいます。防空壕に首だけつっこんでいた人が、首以外真っ黒焦げになっていたとか、川いっぱいに浮いた死体をどかして消火用の水をくんだ話などをいっぱい語ってくださいました。
 いままで何回も会っているのに、今回初めて空襲体験を語ってくださったのはどうしてだろうか。帰りの車の中でそんなことを考えました。ひょっとすると、最近の憲法改悪の動きを心配されているのかもしれません。今度会う時には、メモ用紙を用意して、しっかり聞いて記録したいと思いました。


2005年08月27日

川谷運動会

 配達をして集金をする。それに加えて選挙での支持をお願いする。今回の「しんぶん赤旗」日曜版配達はこうしたことが重なってずいぶん時間がかかりました。きょうは朝からはじめたのですが、まだ終わりません。それでも、こうして時間をかけた時にはそれなりの反響があって、やりがいがあります。「がんばってくんないや」「お茶飲み友だちにも頼んでみるこてね」、こんな言葉に励まされて活動をしています。
 さて、きょうは午後から川谷地区の運動会でした。会場は旧川谷小中学校の体育館。来賓としてよばれたのは初めてです。始めから終わりまでいましたが、思った以上に活気があって、楽しい運動会でした。石谷・名木山チームと岩野・川谷チームに分かれて、ダンボール敷き(ボード)レース、一升瓶レース、玉入れなどの種目で争いました。狭い体育館内では歓声や笑い声が響き、とてもいいムードでした。とくに子どもたちが飛び回って遊んだり、応援する姿が良かったです。私も4種目参加させてもらいました。綱引きでは78キロの体重をいかして勝利に貢献できましたが、一升瓶を釘で釣るレースでは最後まで釣れずじまい、参りました。
 過疎で戸数が激減したにもかかわらず、こうした行事ができるのは、地区内に住む壮年者を先頭にした頑張りがあることに加え、地区外に住む人たちの応援があるから。この地区の出身者で近くに住む人たちが何人も帰ってきて参加していました。それに法政大学との交流があることも大きいですね。きょうも10数人の学生さんたちが自分のところの運動会のように盛り上げてくれていました。また、元源小学校の校長さんのように、遠くに住んでいる人の中にもお祝いを出している人がいました。ふるさとの行事を温かく見守っている人がいるというのはうれしいことです。


2005年08月26日

吉川町酪農組合解散式

 いつかこの日が来るにちがいない、そう思ってはいたものの、さみしかったですね。吉川町酪農組合がきょう、解散式を行なったのです。戦後まもなく旭地区の農家が乳牛を導入し、手搾りをしたのが始まりでした。それが徐々に増え、農業の最先端を行く取り組みとして注目された時代もありました。わが家の出荷番号は58でしたから、吉川区内で酪農をやったことのある農家は50戸を超えているはずです。わが家も1961年(昭和38年)から組合の仲間にしてもらいました。以来、昨年まで43年間組合員でした。お互いに助け合い、励ましあって酪農を続ける。この組合があったからこそできたことです。その組合も、経営の厳しさ、後継者難などで組合員数が減り続け、いまや2人だけとなってしまいました。解散式を迎えたことは残念ですが、やむをえないことだと思います。
 わが家の場合、父が出稼ぎをやめて酪農をはじめました。私が中学2年生の時でした。冬でも父と一緒に暮らすことができるようになった。あの感激はいまでも忘れることができません。総会後、参加者はしばらく思い出話に花を咲かせました。組合結成20周年の年に茨城県協和町から鈴木茂さんを呼んで酪農技術講演会をやり、それ以後、大きな飛躍につながったこと、パクラマアストロセレクト、紋次郎などといった種牛をめぐるドラマなど忘れられないことが次々と出てきました。おもしろいもので、苦労したことほど懐かしい。ワラ集めのために長時間トラクターに乗り、胃が痛くなったとか、ご飯が食べられなくなったことなど、「そう、そう」とうなづくことばかりでした。
 きょうの解散式、じつは総会でもありました。第50回の総会でした。この総会の中身が昨年度の決算承認と組合の解散だったのです。会場はいつものように、農協旭野支店の2階です。いつもなら総会後に懇親会をやり、ワイワイとやるのですが、組合員のYんが昨年体調を崩して酒を飲めなくなりました。また食事制限もしているということで懇親会はナシということになりました。久しぶりに会ったYさん、顔色も笑顔もすっかり元通りになりました。もう大丈夫です。これからは息子さんとともに吉川の酪農の伝統をしっかりと守ってくれることでしょう。懇親会がない代わりということなのでしょうか、今回は「お土産」ということで牛肉をもらって帰りました。まだ食べていませんが、いままで見たこともないような上等な霜降り肉です。ゆっくりと味わいたいと思います。


2005年08月25日

勉強会続く

 夏が終わりに近くなってきました。軽トラの窓を開けて走ると涼しさをハッキリと感じます。この夏は雨ばかり多くて、本当に梅雨が明けたのか疑問に思うほど、おかしな天気が続いていました。それも終わりを迎えたということでしょう。前にもセミのことを書いたと思いますが、何年の地中で過ごし、やっと地上に出たと思ったら雨だった、というセミもかなりいたように思います。どういうわけか、この夏は、セミの抜け殻をたくさん見つけた年でもありました。
 きょうも選挙準備で半日動いた他は9月議会の勉強会でした。6月と同様に、指定管理者に関する議案が相当数にのぼります。13区にかかわる案件は地域協議会での審議を経てきていますので、基本的には賛成することにしています。ただ、案件に登場する施設の中には一度も訪ねたことのないものがたくさんあります。新市の広さを感じますね。広いといえば、お昼に山間部の議員と食堂で偶然会い、お盆の時期の豪雨災害についての話になりました。一部では、6月末の豪雨より被害がひどかったといいます。大きな市になったので、災害についてはかなり意識していないと見落としてしまうことがあります。
 9月議会の前半は選挙と完全にダブりますが、どちらの活動にも責任を持てるようにするにはどうしたらいいか話し合いました。党議員が所属していない常任委員会については、交代で出席する形をとることにしました。


2005年08月24日

年金者組合の市長交渉

 午前は9月議会の勉強会でした。いろいろな資料をめくりながら、どんな問題をとりあげ、どんな角度から質問していくかを議論しました。今議会に提出された案件のなかで重要なものの1つは上越市の各会計決算です。個別の問題で少しは知っていることはありますが、予算段階からの一連の経過は全然わかりませんので、今回も総括質疑は杉本議員からやってもらうことになりました。
 午後も勉強会を1時間近くやり、その後は年金者組合の市長交渉に同席しました。提出された要望のほとんどは、シニアパスポートの対象年齢引き下げ、介護保険サービスの充実など高齢者の生活にかかわるものでした。合併によってサービスが低下したものを元に戻して、という切実なものもありました。交渉に参加された組合員は元教員の方など70代の方が多かったようですが、とてもお元気でした。
 私の方からは、吉川区の組合員の方が欠席でしたので、特養ホーム入所待機者問題とJAえちご上越川谷店の存続のことで発言させてもらいました。少しでも力になれればいいのですが……。


2005年08月23日

議会資料は高さ43センチ

 いやはや、驚きました。9月定例議会の議案書、説明資料などの文書量がすごいのです。買物などで使う大きな手提げ袋に入れると3つもあるのです。1人で一度に持つのは無理。机の上に積み上げてみたら何と43センチもありました。きょう、議会運営委員会があり、議会日程も決まりました。議会初日に予定されている総括質疑の質問通告は26日まで。ということは、それまでにこれらの資料に目を通せということでしょうか。
 議案書、説明資料が膨大になった最大の理由は合併です。今議会では、昨年度の決算認定が主要案件のひとつです。ここでは合併前の町村の決算についても審査することになっています。1月1日の編入合併ですので、編入された13町村の決算は打ち切り決算ですが、これらも審査しなければなりません。昨年度の予算審議に加わっていないもの、その予算執行状況をまったく見ていないものがほとんどです。審査には限界がありますが、合併した町村の特徴をつかむ絶好の機会でもあります。それらを勉強するつもりで審査に望みたいと思います。
 さて、今晩は、くびき野地域研究会の設立総会が頸城区の希望館でありました。総会に先立つ講演では、新潟大学の石崎誠也教授が「地域自治組織のしくみと可能性」というテーマで話をされました。昨年の地方自治法や合併特例法などの改正措置によって地域自治組織がどうなったか、地域自治区法定化の意義、上越市の地域協議会委員の公募・選考投票制をどうみるかなど、とても興味深い内容でした。東京都の面積の半分にもなる広大な上越市で、顔の見える行政運営をするためには地域自治区を充実発展させるしかないと思います。新たに立ち上げられた研究会では、こうした視点からさまざまな個別課題も研究できればいいなと思います。


2005年08月22日

古米の山には驚いた

 今週から市役所5階(議場、委員会室、控え室などがある)は賑やかになります。正確に言うと、明日の議会運営委員会以降になりましょうか。31日からはじまる9月議会の準備などで会議や勉強会などが次々と開かれるからです。
 きょうは午後から文教経済常任委員会と地域産業対策特別委員会の合同管内視察がありました。目的は上越で開発されたというバイオマスプラスチック製造工場を見ることです。原材料は間伐・製材端材と政府備蓄米。いずれも植物性のものですが、これらから環境にやさしい新プラスチックが誕生するというのですから画期的です。説明をしてくださったのは、アグリフューチャー・じょうえつ株式会社社長の大野さん、元上越市の副市長だった方です。
 工場内に入ってショックだったのは、古米の山です。8年前に県内で生産されたコメで売れなかったものが数十トン山になっている姿をみて呆然としてしまいました。コメの袋にさわり、出荷者の名前を見てみましたが、近くの自治体名もありました。視察した人たちからは、「さみしいねぇ」「こんなになる前に食糧不足の国に贈ってやれればいいのに」などの声が出ていました。
 間伐・製材端材と政府備蓄米でできた新素材はアグリウッドという商品名です。これが多く使われるようになると、化石資源の節約、二酸化炭素の排出削減につながります。燃やしても有毒ガスは出ない、土に戻すこともできる、リサイクルも可能といいます。なかなかの優れものですが、難点はコスト高です。この新素材を使ったトレイの製造では労働者が一枚一枚、機械から取り出していました。
 中小企業担当の市職員の説明によれば、この会社で製造した給食用トレイを2学期から市内の2つの小学校で使うとのことです。また福祉施設や市役所の地下食堂でも使いはじめるといいます。一般的には、環境にやさしい素材の開発と利用の拡大は重要なことです。上越市やこの会社のこれまでの取り組みについて、もう少し勉強しなければと思いました。
「私の好きな風景」、久しぶりに一枚追加しました。「真夏の農村風景」です。ご覧ください。


2005年08月21日

地震は活動期?

 長野から新潟に戻ったら、義兄が「大きな地震があったんだよ」と教えてくれました。柏崎と長岡の間では高速道路もJRも一時不通となったそうです。わが家では台所に地震の影響が出ていました。鍋が落ちていて、食器などの一部が動いていました。吉川区内にある特養ホームでは、エレベーター内に50分ほど閉じ込められた人があったとの情報も入ってきました。こんなに次々と地震があるようでは困りますね。
 夜は支部会議でした。音の宣伝などの遅れを取り戻すために、支部の人たちが後援会の人たちとともに頑張ってくれるといいます。ハンドマイク、桃太郎旗などを明日中に手配することにしました。今週は議会活動も本格化し、夏まつりや運動会がいくつもありますので、体調を崩さないように注意しながら頑張りたいと思います。


2005年08月19日

1時間26分の間に小泉首相は何をしていたか

 日が照っていなくても暑い、そう思った一日でした。午前の厚生常任委員協議会、午後の月例議員定例会を除き、ずっと外で日曜版配達をしましたが、タオルを手放すことができませんでした。でも、やはりお盆が過ぎたのですね。さすがに夜の気温は低くなりました。それに虫たちの鳴き声が耳に入るようになりました。じっと耳を澄ませば、3種類くらいの鳴き声が聞こえます。
 さて、きょうは日本共産党の総選挙全国決起集会でした。党中央委員会での集会を全国の党組織が衛星テレビでみて、総決起する。新しい型の決起集会です。夕方の6時半から2時間半、志位委員長、不破議長の報告を聞きました。会場となった地区委員会事務所には50人を超える仲間たちが駆けつけていました。衛星テレビを使って、中央委員会総会などの様子を事務所でみることは、これまでも何回かやられてきましたが、こんなに集まったのは初めてということです。かくいう私も事務所で衛星テレビをみるのは初めてでした。会場にはスイカとナシが用意されていました。仲間と一緒に生中継をみるというのはなかなかいいものですね。
 選挙を左右するのは何といっても論戦です。きょうの決起集会では、志位委員長が郵政問題、「小泉改革」、庶民大増税、憲法の4つにしぼって総選挙の政治論戦について語りました。委員長も話していましたが、今回ほど日本共産党と他党の違いが目に見える選挙はありません。訴えやすいと思いました。不破議長の報告では戦後政治史の中で小泉政治を検証し、新しい政治の展望を明らかにしました。自民党が創立されて今年で丁度50年なのだそうですが、最も深刻な危機を迎えているのが今です。自民党政治の行き詰まりがどこまできているのか、くっきり浮かび上がった報告でした。
 不破議長の話は、いつも心に残るものがあります。きょうも、「近隣と信頼関係を結べない国は遠い国とも関係を持てない」とか、「小泉首相はよく『官から民へ』と言うが、この民は民間大企業の『民』だ」「マニフェストという言葉を遡るとマルクスの『共産党宣言』にたどり着く」などといった話になるほどと感心しました。びっくりしたのは、衆議院を解散した8日の話でした。解散したのは午後7時4分、小泉首相が解散後初めて記者会見したのが同日の午後8時30分でした。この1時間26分の間に首相は何をしていたか。ホテル・ニューオータニで財界幹部と夕飯を食べながら総選挙支援の相談をしていたというのです。小泉首相の正体、ここにあり。
 「春よ来い」第56回をアップしました。今回は「夏まつり」です。ご覧ください。


2005年08月18日

ゴーヤ入りカレーライス

 昨日、きょうと、いい天気になりました。やっと「梅雨が明けた」という感じです。午前中は樋口議員とともに生活相談で動きました。大規模な地すべりで農地や溜池が下になったが、何とかならないかという相談でした。現地は地すべり地帯として有名なところです。現場を見たら、あまりにも規模が大きいので、驚いてしまいました。もし受益者負担が伴うとすれば、手は出せないでしょう。でもこの現場はまだ滑る、そんな予感がします。ジャカゴを積んだぐらいでは災害防止対策として不十分ではないかと思いました。明日、行政側にあたってみようと思います。
 相談を受けてから、大島区、上川谷、尾神岳ルートで帰ってきました。車をゆっくり走らせたら、兜巾山の近くの道からも米山が見えることに気が付きました。それにオトコエシソバナツリガネニンジンなどの花も目にとまりました。庭先で咲いているツリガネニンジンは、今年は紫色がさめた感じなので、山に咲くものの色が気がかりでした。でも、山の花はいつもと同じく鮮やかな紫色で、見事でした。久々に野の花をゆっくり見たおかげで、いい気分転換になりました。
 午後からも生活相談でした。パソコンを使っての仕事でしたので、ぐったりし、夕方から数時間、「昼ね」(というより夕寝かな)をしました。夕飯は大好きなカレーライス。妻に「誰も、ジャガイモ、タマネギを取りに行ってくれないから、今回はゴーヤ入りのカレーよ。食べなさい」と言われ食べたものの、苦味が残っていて、1皿食べて止めにしました。いつもだったら1皿半、時には2皿も食べるのですが、苦いカレーは苦手です。


2005年08月17日

お盆明け

 お盆明けは毎年、生活相談が寄せられます。お盆の間に相談したいと思っても遠慮して盆明けに、ということになるのでしょう。きょうも2件の相談が寄せられました。午前はそれらの相談で動き、午後からはお客が3人みえ、その応対をしました。お盆中も動いていたせいか、今年はお盆ぼけはありませんでした。
 来客者のうち一組は長野県須坂市の農家のYさんです。農民組合の活動家で、もう30年ほどの付き合いです。2月の市議増員選挙の時には、わざわざ須坂市からりんごを持って差し入れに来て下さいました。今回は海へ行ってくるとかで、おいしい桃を持って寄ってくださいました。Yさんは、桃、ブドウ、りんごなどを栽培しておられますが、いずれも味は抜群です。その秘けつは土づくりにあるということでした。
 夜はお盆後最初の支部会議でした。私の方から昨日の新潟での街頭演説会や選対会議の様子を報告しました。また、3日の全国会議の志位委員長の報告をみんなで読み合わせをし、吉川区でどういう運動を進めていくか話し合いました。会場は冷房がなく、風の動きも全然なしというなかで、一人の仲間が気をつかい、大きなスイカを持ってきてくれました。こういうなかで食べるスイカは美味いですね。


2005年08月16日

新潟で緊急街頭演説会

 上越市にある独立行政法人「中央農業総合研究センター北陸研究センター」が行なっている遺伝子組み換え(GM)イネの屋外実験栽培について、地元農家や消費者計12人が6月24日、「周辺のイネとの交雑の可能性がある」などとして、栽培禁止を求める仮処分を新潟地裁高田支部に申し立てていました。きょうはその司法判断が出そうだというので、高田まで出かけてきました。午後1時過ぎから2時間半ほど待ったのですが、残念ながら出ませんでした。明日以降にずれ込む見込みです。
 待っている間、上越有機農業研究会の人たちなどと今年の稲の出来具合、市町村合併、憲法改悪のことなどについて語り合いました。この中には私のこの「見てある記」を読んでいる人も何人かいたので、岩波のブックレット、『憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言』をすすめました。地裁高田支部へ出かける前に、本屋さんで5冊ほど買っておいたのですが、瞬く間に売れてしまいました。美輪明宏さんのことや先日、上越にこられた中村哲さんのことが話題にのぼりました。この薄い本が日本の世論を変えるかもしれない、そんな気がします。
 夕方、新潟へ向かいました。日本共産党の市田書記局長などの街頭演説を聴くためです。まだお盆だというのに、新潟駅前には1300人を超える人たちが集まっていました。会場に着いたのが少し遅かったので、全部聴いたのは木島日出夫元衆院議員の話からでした。木島元衆院議員の話は、いつもと同じように歯切れが良く、力強さを感じました。「日本の被災者支援の仕組みはご粗末だ。何としても政治の壁を破りたい」「いま、構造改革という名のもとにコメつぶし、労働者いじめなどが行なわれているが、これらは政治災害だ」「私はいまの憲法の中で生まれ、育ってきた。そして憲法の平和の精神を学び、弁護士になった。ぜひご支援を」。2年ぶりに国会で働くチャンス到来の木島さん、ぜひ押し上げたいものです。
 市田書記局長は演説を丁寧に準備し、制限時間内にピタリと決めることで有名です。今回はメモをとりながら聴きました。「郵便局の職員の給料は郵政省の時代から自らの事業で得た利益の中から出しているのであって、税金は一円も投入されていない」「郵貯、簡易保険などのお金が340兆円あるから無駄遣いにつながると小泉首相は言っているが、これでは消防車があるから火事が出ると言っているようなものだ」「改革を止めるなというが、これまでの改革の実態を見てほしい。家計所得は7年連続で減り続けている。若い人たちの2人に1人はいつ首になるかもしれない不安定就業だ。改革の痛みの先に希望が見えたのは大企業だけ。国民に見えたのは消費税とサラリーマンの大増税だ」「官から民へと言うなら、まず政党助成金を廃止すべきだ。官に頼らず自分のカネで選挙をやるべきです」。
 演説が終わって帰る時、近くにいた女性の人たちが、「いくら商売とはいえ、分かりやすい話だねぇ」と言っているのが聞こえました。市田さんの話は本当に分かりやすいですが、それだけではありません。面白くて、元気が出てくるのです。今回の街頭演説で総選挙の争点がくっきりと浮き彫りになったと思います。「確かな野党、日本共産党を伸ばさなければ」という気持ちになりました。


2005年08月15日

60年目の8月15日

 議員団会議、盆礼、ポスター張り、日中にやったことを並べると、こうなります。おそらく、まだ20回くらいはお盆の15日を今後迎えることになるかと思いますが、こういう過ごし方は今回が最初で最後でしょう。夜は前から読んでみたいと思っていた1冊の本をめくってみました。『子どもたちの8月15日』(岩波新書)です。この本は、1945年に子どもであった人たちがその年の8月15日をどう受け止めたかを書きとめたものです。疲れて全部を読むエネルギーは残っていませんでしたが、何人かの体験文を読むことができました。
 特に印象に残ったものは、飢えの記憶についてです。当時、8歳だったイラストレーターの山藤章二さんは、天皇の放送が流れている時に、「天皇さまより梅干」でした。腹を極限までに減らしていたので、この時、梅干を盗んだというのです。この本の筆者の誰もが体験した飢えの記憶、当時のことを書こうとすると、どうしても食べ物のことが出てくるのでしょう。元NHKアナウンサーの山川静雄さんは、隣組に配給されたアメリカの缶詰、これには杏子のジャムが入っていたらしいのですが、これを開ける時の不安とともに、恐る恐る口に入れた時の味覚を書いています。脳天に突き抜けるような甘さだったと。
 戦後60年。気になるのは、先の戦争を美化したり、正当化する動きが広がりつつあることです。日本軍の働きがアジア諸国の解放につながったなどといった声が、政府の人間の口から出てくる。侵略戦争正当化論が書かれた教科書が容認される、こんなことは絶対許せないことです。長岡空襲体験者の作家の阿刀田高さんは、この本の中で平和憲法について書いています。「平和憲法は……うれしかった。絶対に軍隊を持たない、戦争をしない、というのはすがすがしい。私は今でも、あの日のすがすがしさを心のすみに残している」。いま、戦争の記憶の継承をしっかりやらないといけない、と思います。


2005年08月14日

お盆選対

 この間まで「お盆には○○をしよう」といくつか計画していたのですが、今年はすべて駄目になりました。いうまでもなく総選挙が目前に迫っているからです。きょうは午前中、地区委員会事務所で上越地区委員会と魚沼地区委員会が合同選対会議をもちました。いずれの地区委員会も小選挙区の新潟6区に責任をおっているので、どう運動を進めるか話し合いをしました。
 郵政民営化問題では、「職員の身分は国家公務員扱いだが、給与は税金で支払われているわけではない。こういう事実を知らない人が多い」「もっと基礎的な知識を学んで支持拡大をしないと小泉にやられてしまう」などの発言が出ました。今朝の赤旗では、郵政民営化が何故「百害あって一利なし」なのか特集してありました。読んだ時、私の知らない事実がいくつも書かれていたので、「これは大事だな」と思ったのですが、同じように思った仲間が多かったようです。
 6区候補の武田勝利氏については、私の方から「(いままでの候補も良かったが)これまでの候補にない魅力(個性)が話題になっている。頸城区で出稼ぎと農業について語り、聴衆の心をつかんでいた。そこらへんを考慮した宣伝を」と話しました。武田氏は旧松代町出身、新潟大学大学院理学研究科で学んでいます。「松代のどこらへんの生まれか」「理学研究科となっているが何を勉強した人なのか」など彼の生い立ちなどに関心が高まっているのを感じました。こうした議論は今後出される宣伝物や候補者演説などに反映されることと思います。
 「春よ来い」第55回、「バイキング」をアップしました。第56回は「夏まつり」、数日後にアップします。


2005年08月13日

大きな雨でヒヤッとしました

 すごい雨でした。お昼ごろに降った雨は。ある家に新聞配達をしていたところだったんですが、車までとんで行けないほど大きな雨が少なくとも15分は続いたと思います。この雨で河川は増水し、吉川橋の上流では、堤防まであと1メートルくらいという高さまで水位が上昇しました。山間部ではまた地すべりなどが発生したかもしれません。
 とにかく、きょうはほとんど雨。お墓の花立て、線香立て、ロウソク立てなどをつくって墓参りの準備をと思ったものの、実際に尾神にあるわが家の墓まで行けたのは午後2時をまわってからでした。こうした仕事をして親戚の家に寄り、お茶をご馳走になっている間にまた雨が降り始めました。ほんとうにしつこい雨でした。
 きょうのこの雨のおかげで、「しんぶん赤旗」の配達は進まず、明日も1時間半くらい続きの配達をしなければならなくなりました。明日は災害に関する生活相談もある、選対会議もあります。今年の夏はまさにお盆休みは無しという状況になってきました。


2005年08月12日

雨続き

 このところ雨が続いています。夏らしい、太陽がカッと照りつけるような天気があまりありません。どこへ行ったのやら、賑やかだったセミの大合唱も聞こえてこなくなりました。6月の水害で水浸しになった乾草を少しでも使えないかと、父はコンクリートの上に広げたのですが、乾かすつもりが逆になってしまっています。毎日のように雨が降るものですから、もう1回水害にあったようなものです。市内では旧頸南地域で水害が出ていると報道されています。明日もこのようだと現地へ飛んでいきたいと思います。
 きょうはほとんど家で原稿を書いていました。市政レポートの原稿書き、編集です。当初、お盆の「しんぶん赤旗」日曜版は合併号になるだろうと勝手に判断していたのですが、総選挙が急遽入ってきたので、レポートを休むどころではなくなりました。書き終ってから、歯医者へ行き、「しんぶん赤旗」日曜版の配達に出ました。明日は尾神へ行き、墓掃除、お参りもしてこなければなりません。配達は明後日までかかるでしょう。
 きょうは8月12日、日航ジャンボ機の墜落事故が起きてから20年目にあたります。夜、何気なくテレビを観たら、「ボイスレコーダー・残された声の記録」を放映していました。企業の利益優先が見え隠れした事故原因調査だったと記憶していますが、事故の真相にせまろうとする人たちの姿に感動しました。片平なぎさが亡くなった機長の奥さん役を演じていましたが、好演でした。ドキュメントと再現ドラマで構成されていてなかなか見ごたえがある番組でしたね。


2005年08月11日

どうしよう会作品展

 昨日、記者会見したばかりの武田勝利氏、きょうから早速、街頭に出て訴えました。頸城区で彼の演説を聴いてきました。「私は松代町の生まれ。子どもの時、田んぼ仕事が終わってから、父ちゃんたちが出稼ぎに出ました。とても寂しい思いがしたものです。何で農業だけで食えないのか、その思いが私の政治活動の原点でした……」。私よりも15歳も年下なのに、私の子ども時代と同じ体験をした、この話で彼との距離はぐんと縮まりました。
 午後から妻と一緒に高田の雁木通り美術館へ出かけてきました。そこでは14日まで「どうしよう会作品展」が開催されています。大潟区の4人の人たちが自ら描いた油絵、イラストなどを展示しています。そのメンバーの1人が弟です。また、妻と同じ職場で働いていた人もいるということで観にいってきました。弟は昔から絵を描くことが大好きで、年賀状ではいつも絵を入れていました。私の選挙では、彼が描いたイラストを利用させてもらっています。
 展示されていた絵のほとんどは身近な風景で、親しみを感じました。柿の木のある風景、米山などとてもいいなと思いました。弟のイラストはどんどん進化しています。農村ならではの懐かしい食べもの、身近な風景などを繊細なタッチで描いています。もっと描きためて、イラスト集でもつくれば、いろんな人たちに利用してもらえるだろうに、と思いました。13日、14日は弟も会場にいるそうです。午前10時の開会です。ぜひお出かけください。


2005年08月10日

「パパ、今度、係長になるの?」

 今回の衆院選は正に短期決戦、わが陣営でも、候補が正式に決まってから投票日まで1ヶ月という戦いを国政では初めて経験することになりました。これは衆院選新潟6区での話です。7月以来、候補擁立のために県委員会や地区委員会幹部が動いたものの難航し、ひょっとしたら見送りかと思われたのですが、きょう、目出度く決定しました。日本共産党の候補として決まったのは、旧松代町出身で現在、党県議団事務局長をしている武田勝利氏です。まだ41歳ですが、なかなかしっかりもので、いいセンスを持っています。
 夜の決起集会で初めて彼の演説を聴きました。「私が立候補を決意したのは衆院の解散、総選挙が決まった日だった。自民党が自ら壊れようとしている中での選挙、めったにないチャンスだ。こういう時に日本共産党の候補者としてたたかえるのはうれしい」「6区は多数激戦になるが、オール与党と共産党の戦いだと思っている。民主党幹部は『自民党と政策的にはほとんど変わらないから野党と呼ばずに政権準備政党と言ってほしい』と言っている。大して変わらないなら一緒になればいい」「私の名前は勝利(かつとし)。勝利という名前をたくさん書いてもらえれば、私は勝利する」。歯切れがよくて元気いっぱいの演説でした。
 武田氏の持ち味を感じたのは、立候補決意後の話と政策について触れた時でした。立候補を決意後、彼はまだ小学生の息子に語りかけます。「今度、お父さん、衆議院選挙に出ることになったんだ」。すると、「すごいね、パパ。パパは今度係長になるんだ(新潟弁で、係長になるの?という意味)」という言葉が返ってきました。子ども大好き人間の武田氏、「子どもは地域の宝。子どもの声が聞こえるところに繁栄がある」と述べ、子育て政策の充実を訴えました。また彼は、ふるさと松代についてふれ、農業の大切さを語りました。
 きょうは北陸・信越ブロックの比例候補である木島日出夫元衆院議員が上越各地で街頭から訴えました。武田氏が最後に決意を語りました。「木島さんは弁護士資格のある国会議員として他の人にできない仕事をしてきた、絶対落とせない人だ。越後人はしんなり強いのが特徴、私も1票1票積み重ねて勝利したい、木島さんと一緒に国会に出て働かせてほしい」。ほんとうに木島さんとともに働いてほしく思いました。頑張らなくてはなりません。


2005年08月09日

「ゑしんの里記念館」の竣工式

 午前は板倉区の「ゑしんの里記念館」の竣工式でした。議員として、吉川区以外のところの竣工式に出席したのは初めてのことです。まず行政側の代表者の挨拶があり、その後、建設にいたるまでの経過報告をやって施行業者への感謝状をおくる。業者から謝辞、その他へと続く。どんなかたちになるのか関心がありましたが、旧吉川町とほぼ同じでした。ただ、ひとつだけこれはと思ったことがあります。それは板倉区のナビゲーションマップ(案内図、歴史、温泉など)が出来ていて、配布されたことです。作成者は板倉観光協会と「ゑしんの里観光公社」です。吉川区でもこういうものがほしいと思っていただけに勉強になりました。
 式典後、参加者の何人かと話ができました。その1人、田中弘邦さんは合併協議会で一緒だった方です。田中さんは元全国特定郵便局長会会長で、ベストセラーとなった『国営ではなぜいけないのですか』(マネジメント社)の著者でもあります。「田中さん、(郵政民営化反対で)頑張ってくださいましたね」と声をかけたら、「いやー」といって笑っておられました。田中さんのところではお酒もつくっておられます。「うちの親父もお宅で仕事をさせてもらったんですよ、上野武夫さん(故人)とともに」と言いますと、「そうだったんですか」。また、合併協議で知り合いになった板倉区のMさんからは「Mです。どうもどうも」と声をかけてもらいました。
 午後からは上川谷の県道崩落現場へ行きました。地学団体研究会の3人の方が現地でこれまでの調査の説明をし、さらに調査を続けられましたが、私が崩落した現場の中へ入って歩いたのは初めてです。災害発生後、現場のすぐそばまで行った時、「これは写真ではわからない、すごい迫力だ」と思ったものですが、現場の中、上部まで入ったら、すさまじいと思いましたね。研究者の方々からは、波のようなものがなぜ化石として残るかとか、現場周辺の地すべりの形についてなどたくさんのことを教えていただきました。きょうの現場説明会、調査には地元の人も8人参加してくださいました。その中には、貝の化石などの説明に目を輝かせていた小学5年生のY君もいました。この少年は将来、何になるのかな。
 総選挙を前に、いよいよ忙しくなってきました。明日10日には日本共産党の木島日出夫前衆議院議員が上越に来て、国政刷新の決意をのべることになっています。吉川区では午前11時半から、原之町十文字周辺で街頭演説します。夜7時半からは上越南厚生会館で決起集会です。ぜひご参加を。


2005年08月08日

衆院解散、総選挙へ

 やはり衆院解散という事態になりましたね。思った以上に反対票が多かったので、ひょっとしたら内閣総辞職もありうるかと思いきや、「どうなろうとおれは解散だ、自民党をぶっこわす」というチョウ変人の小泉総理大臣、確実に負けることが分かっていないんでしょうか。今回ハッキリ分かりましたが、この総理はまったく先が読めない人だったんですね。
 夕方、地区委員会の宣伝カーを借りて、区内3箇所で街頭演説をしました。まだ解散が決まっていない時点での演説でしたが、何人も手を振ってくれたり、宣伝カーのところまで来てくれたりと、とても反応がよく、関心の高まりを感じました。最後に街頭演説をした場所では、町内会長さんがやってきて、「何で手を打てなかったのかね、ひどいもんだ。もっとやりようがあったはずなのに」と総理大臣を批判しておられました。
 総選挙の日取りは8月30日公示、9月11日投票となっています。9月議会と重なり、稲刈り時期とも重なりますが、まず議員が頑張らないといい戦いになりません。これまでの国政選挙では自分の町だけで動いていればよかったのですが、今回の総選挙では選挙区全域を飛び回る覚悟でがんばっていきたいと思います。


2005年08月07日

啄木短歌の世界

 私と石川啄木との出会いは教科書でした。体が弱く、貧しかったけれど、日本人の心に残る大きな仕事をした、そんなイメージをいだきました。以来、名前は何度もおめにかかるけれども深い付き合いには発展しませんでした。その啄木についてもう少し知ってみたいと思うようになったのは、昨年、国際啄木学会会長の近藤典彦さんと出会ってからでした。そしてまもなく、同じ学会に吉川区出身の池田功さんが所属し、活躍されていることをある新聞に掲載された論文で知ることになります。
 池田さんが帰省された機会に、ぜひ講演をしていただこうという動きが短歌愛好者の中から起き、総合事務所の教育文化グループで企画してくださいました。きょうはその講演会でした。テーマは「石川啄木・短歌の世界」、約1時間半にわたる力の入ったいい講演でした。啄木がどんな生涯を送ったのか、『一握の砂』『悲しき玩具』の作品紹介、そして啄木短歌の影響がどう広がっているか、よく整理されていて、分かりやすい話でした。
 正直言うと、啄木と宮沢賢治が同じ岩手県の出身だということもあって、私の記憶の中ではごっちゃになっていました。イメージもほとんど同じでした。それがきょうのお話でやっとすっきりしました。26年の生涯を略年賦、ビデオ映像などで紹介いただいたので、これからはもう混同しないでしょう。きょうの講演によって、初めて知ったことがいくつもあります。まさか谷村新司の『昴』の出だし、「目を閉じて 何も見えず 哀しくて目を開けば…」が彼の『悲しき玩具』から影響を受けているとは思いませんでしたね。いわれてみれば、啄木の作品はいまでも日本の様々な分野に影響を与えています。若いときに残した作品がいつまでも国民の心をとらえている、まさに天才です。その天才が結婚後、妻以外の「女性」に恋心を抱くこともあったという話、これも初めて知ったことですが、とても人間臭さを感じます。
 きょうの講演はどちらかというと啄木の入門講座でした。これで読みかけていた近藤典彦さんの『国家を撃つ者』(同時代社)を読むことができるでしょう。


2005年08月06日

第8回越後よしかわやったれ祭り

 盛り上がった、盛り上がった。よしかわの祭がこんなにも盛り上がるとは思いませんでした。夕方から雨、だらだらと降り続けて人出も悪くなるんじゃないかと思ったら、杞憂でした。吉川区内外の大勢の人たちが原之町商店街を埋めたのです。商店街の路上でくりひろげられたよさこいソーラン、太鼓、それから、「ハァ~ またも出ました 三角野郎が 四角四面の 櫓の上で……」というのは八木節でしたっけ、これもよかったですね。そして最後の大人みこし、力強く、みんなが一体となって興奮しました。かみなりが心配され、子どもみこしは中止になりましたが、雨中の抽選会、ずぶぬれになりながら最前列で大きな声を出す子どもたちもがんばりました。この子どもたちの元気な声で雨もどこかへ逃げていきました。
 今回の祭を盛り上げるうえで大きな役割を果たしたのは稲穂竿灯です。透明なペットボトルにロウソクを入れ、細い竹に6個ずつぶらさげる。遠くから見れば稲穂のイメージです。この稲穂竿灯が今回は300本も並びました。これがものすごく良かったですね。私のデジカメではその良さの半分もお伝えできませんが、まあ、ごらんください。稲作を中心にした農業の町、よしかわにぴったりです。ある新聞社の記者が私のそばにきて、「見事ですね。来年は新潟からカメラマンに来てもらいますよ」と言いました。来賓として祭にかけつけてくれた市の中川助役も「いいねぇ、これが本当の手づくりのまつりだよ」。来年以降、この祭はどんどん発展するかもしれない、そう思いました。実行委員の皆さん、ご苦労様でした。
 きょうの午前中は日曜版の配達、集金でした。まだお盆まで何日かありますが、もう帰省している方がありました。ほぼ1年ぶりの再会です。立ち話の中で出たのは、郵政民営化のことから始まって、今日の政治の異常さでした。この人の話によると、東北のあるバス会社が名古屋の会社に吸収され、赤字路線は直ちに廃止になったといいます。学校が統合で無くなり、郵便局も農協も無くなる。日本全国、どこにいても暮らせたのに、これからは過疎地には住めなくなる、ひどいもんだともいいます。もともと保守的な人だと思っていただけに驚きました。こういう人も怒るほどいまの政治はおかしいということでしょうか。


2005年08月05日

暑くて、暑くて……

 猛暑。朝から晩まで一日中暑くて、暑くて……。まいりました。たぶん、35度以上になったのではないでしょうか。猛暑の中、柿崎まで行ってきたのですが、軽トラに乗っていると、シャツもズボンもあっという間に汗でべたべたになりました。首筋から汗が流れ落ちてくるのも分かるようになったので、いつものクセでタオルを首に巻いて動きました。
 きょうは主に市政レポートの作成と「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。原稿書きはクーラーのある部屋でしたので、ほぼ予定通りのことをやることができました。配達は涼しくなる時間帯に出たのですが、気温はなかなか下がってくれません。「あっついねぇ」「ほんと、ほんと」。これが挨拶でした。
 テレビでは参院特別委での郵政民営化法案審議の様子が放映されていました。夕方、同法案は通りました。あとは8日の本会議での採決がどうなるか。テレビに映る小泉首相は相変わらず強気です。8日は日本の歴史が動く1日になるかもしれません。


2005年08月04日

『憲法を変えて戦争へ行こう…』

 朝、新聞をめくっていてビックリしました。目に飛び込んできたのは、「憲法を変えて戦争へ行こう」の文字です。一瞬、一面全体を使っての意見広告かと思いました。何だこれは……と思いながら、もう一度読み直しました。「憲法を変えて戦争へ行こう」の後に一回り小さな文字で「という世の中にしないための18人の発言」とあります。右翼の意見広告ではなく、岩波ブックレットの宣伝でした。ホッとすると同時に、これはビッグな企画だと感じました。井上ひさし、田島征三、吉永小百合など著名人がずらりと並んでいます。出版社の岩波書店がこれだけの大掛かりな宣伝をする力の入れ具合からみて、本の内容にも自信を持っているにちがいない。これはいっときも早く読んでみたいと思いました。
 午前中に市役所での用事を済ませ、本屋でこの本を入手しました。昨日入ったばかりということでしたが、30冊ほど平積みされていました。ぱらぱらめくってみると、これまで見たことのない編集がされています。縦書きがあれば横書きもある。長い文章は二段組、短いのは一段。絵と詩がセットになったページもあります。予想通り、斬新な編集がしてありました。ただ、午後からは予定がひとつありましたので、読みたいのを4時間ほどガマンして、家に戻ってから一気に読みました。
 全文62ページ。18人の発言は先日、真宗大谷派主催の講演会にやってこられた中村哲さんからはじまっています。アフガニスタンで灌漑事業をすすめている中村さん、「武力に守られた支援は歓迎されない。『丸腰の強さ』を現地にいると痛感します」。2番手は戦前、戦後の時代を知っている美輪明宏さん、新しい憲法ができ、「戦争を放棄します」が入っていることを聞いて、ほんとうに跳びあがるほど嬉しく思った、みんな戦争の正体を知らなさすぎます、と語ります。美輪さんの憲法改正論者にたいする皮肉たっぷりの批判は切れ味十分、「また戦時中と同じように、日本中が老人と女子どもだけになればいいんです。自分の恋人を殺して、子どもを殺して、孫を殺して、さぞかし満足でしょうよ」。こんなにすごい文章を書く人だとは知りませんでした。18人は作家、芸能人、大学教授、企業人など多彩です。訴える角度も様々ですが、それぞれの個性あふれた訴えは、憲法を守ることの大切さをしっかりと教えてくれます。いま、吉川区でも有志が集まり「9条を守る会」を準備していますが、このブックレットは強力な援軍になるでしょう。
 午後からの用事というのは妙高市の新井有線放送の取材を受けることでした。吉川区総合事務所の一室を借りて、旧吉川町まちづくり基本条例について話をさせていただきました。妙高市民のみなさんからもっと自治基本条例について知ってもらいたい、関心を持ってほしい、そういう観点で、たくさんの質問をされたのですが、少しでも旧吉川町の経験がお役に立てればいいなと思います。インタビューの中で、吉川町が新潟県自由民権運動の発祥の地であることをお話したら、アナウンサーの方は鈴木昌司についても知っているので、うれしくなりました。取材にこられたアナウンサー、じつは、私と同じ大学で日本史を学んだ後輩でした。世間は本当に狭い。


2005年08月03日

クーラーのある部屋で

 朝晩はいいのですが、日中は駄目。私が普段パソコンを使っている部屋のことです。気温が上昇すれば、シャツを脱ぎ、ズボンも脱ぐ。最後はパンツ一枚になってパソコンに向かいます。しかし、何事も限界というのがあります。午前も11時を過ぎるころになると、仕事をする気分になれないほど暑くなって、クーラーのある部屋に移動してしまいます。先日から、もう2回くらい、こうして移動しました。
 ところが人間というのは、そういう楽をすると、限界にならなくともクーラーのある部屋へ移動してしまうようです。きょうは、総合事務所や郵便局などでちょっとした用事をこなした以外はほとんど家で仕事をしました。もちろんクーラーのある部屋で。仕事といっても原稿書きです。ビラにすれば、一枚くらいの長さしか書けませんでしたが、ひとつでもやるべきことをやった、という達成感が残ります。
 達成感があればビールを、といきたいところですが、わが家の冷蔵庫に在庫はなし。というわけで、昨日、きょうと2日間もビールを飲んでいません。りっぱ、りっぱ。その「貧困さ」のおかげで本を読むことができました。梨本香歩の『西の魔女が死んだ』(新潮文庫)をかなり読み進みました。著者は私よりも9歳ほど年下ですが、なぜか生活感覚に共通点があります。しあわせになるヒントがいくつも書いてある本ですので、まだの方はぜひご一読を。


2005年08月02日

歯医者通い

 数日前から冷たい物を飲むと左側上部の歯がしみて痛みを感ずるようになりました。最初は1回きりのものと思っていたら、なかなか頑固です。それで1年半ぶりに歯医者へ行ってきました。「どうですか、忙しいでしょう」「(区選出議員は)1名ですからね」などと議会の仕事の話をしながら治療してもらいました。歯はレントゲン検査の結果、1本だけでなく3本もやられていました。日頃、しっかりと丁寧に歯磨きをしなかった罰です。これで、また何回か、歯医者通いをしなければならなくなりました。
 午前は議員団会議でした。もう解散が流れになりつつあるなかで、衆院選をどうたたかうのか、9月の決算審査をどうすすめたらいいのか、地区委員会の財政を確立するために夏季募金の取り組みをどうするか、などを話し合いました。14市町村の合併が1月1日だったので、旧13町村の分については12月までの打ち切り決算です。担当課では、昨年4月から今年3月末までの1年間でみたらどうなるかが分かるように資料作りをすすめています。丁寧でありがたいけれど、この資料作りで職員はたいへんです。
 昼食後、前々から一度は顔を出しておきたいと思っていた市の創造行政研究所を訪ねてきました。八木副課長から、研究所の設立当初からのいろいろな経過、取り組みなどについて説明をしてもらいました。私がこの研究所を知ったのは、3年ほど前、上越市が子育てや交通など市政に関する本を次々と出版した時でした。スタッフには個性の強い研究者が何人もいる、そんなイメージを持っていました。でも実際に会った研究者はみんな若く、誠実な方ばかりという印象を受けました。市のシンクタンクとして頑張ってもらわなければなりませんが、個人的にも市政に関する政策づくりで意見交換させてもらいたいと思っています。


2005年08月01日

生活相談で動いた一日

 もう8月です。梅雨も明けたことだし、もっとカラッと晴れてほしいと思うのですが、相変わらず蒸し暑い。クーラー無しの軽トラックで動くには窓を開けて走ります。ところが夕方、雨が降り、4キロくらいずっと窓を開けないで走ることになりました。こういう時が一番切ないですね。ところできょう会った人の中に、「もうひと月で稲刈りだ」と言う人がありました。このひと月、田んぼの色も急速に変わっていきます。五百万石は穂が出そろいました。そろりと、コシヒカリも出穂してきます。
 きょうは生活相談が続きました。結婚相談、防災無線、農地の権利移動、保育問題とバラエティに富んでいますが、いずれも区内の住民からの相談ですので移動に時間がかかりません。相談者が遠くに散らばっているとこうはいかないでしょう。ただ、どの問題も解決には時間がかかりそうです。住民には願いがある、怒りを持つこともある。そして悩む。相談を受ける者としては、こういう人たちの思いに役立てればいいのですが、うまくいかないこともあります。きょうの相談は月末からの9月市議会定例会開始までには解決させたいですね。
 きょうは、この他、吉川町まちづくり基本条例に関する問い合わせ、取材の申し込みが2件ありました。このうち1件は、お隣の妙高市にある新井有線放送からのものです。同市では自治基本条例制定に向けた動きがすでに始まっていて、市民を対象にした講演会も行なわれました。今後、住民参加による条例制定に向けた勉強会も行われようとしているといいます。そういう中、有線放送で条例制定に関する番組を企画しているそうです。これはなかなかいいことだと思います。
 久しぶりに「野の花」をアップしました。シソ科のトウバナです。昨日、勝穂フェスティバルに参加した時、見つけた花です。


2005年08月投稿分

2005年08月に投稿された全てです。

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