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2004年12月投稿分

2004年12月31日

ふるさとは母 ふるさとはいのち

 吉川町最後の日。前夜から朝4時ころまで年賀状書きをやり、5時半すぎから「しんぶん赤旗」日刊紙の配達に出ました。雪の量は大したことがなかったのですが、ブルが出動していました。明るくなってから見えた景色のなかで素敵だと思ったのは、軽い雪が積もった山の木々の姿でした。白い雪がまるで花のように見えるのです。あっちの山もこっちの山も、みんな白い花が咲いている。やはり、わがふるさと、吉川は雪が似合うな、そう思いました。
 朝の餌くれが終わってから、住民アンケートの結果をまとめた町政レポートの配布に出発。大晦日でしたので町民の方からどんな反応があるかと心配したのですが、どこでも激励されました。「議会の橋爪です。きょうまで議員なんです」。そう言うと、「長い間、ご苦労さんでしたね」「いつも楽しみに読んでいるよ」という声がいくつも返ってきました。なかには私の手を握ったり、肩をたたいてくださる方もあって、予定した集落への配布をいい気分で終えました。
 途中、吉川町最後の写真をと思って、尾神岳と町役場の姿を撮りました。尾神岳は大乗寺集落からのものです。どんよりした空模様でしたので、パッとしていませんが、目で見た景色はもっと良かったんですよ。役場の撮影時は雪が降っていました。合併の準備なのでしょう、職員の姿もちらほら見えました。大晦日だというのに、駐車場には10台以上の車がとまっていました。
 予定した一日の行動を終えて、夕方、再び町役場に立ち寄りました。総務課の職員が一人だけ残っていて、灯りが点いていました。宿直当番だった石野さんの案内で一階から三階までぐるりと回りました。一階は新しいパソコンが目立ち、まさに仕事場という感じです。二階が大きく変わりました。これまで産業建設課の建設関係の職員がいたスペースは机も椅子も無し。合併による異動で18人の職員が上越市役所本庁へ行くと、こうなるのかと思いました。三階、議会事務局の部屋はすっかり片付いていましたが、有線放送ファックスが置いてある机のシートのなかに町議会議員の連絡先一覧表が残っていました。それを見たら、急にさみしくなりました。きょうで私も町議は終わりです。
 吉川町は49年余の歴史に幕を下ろします。明日からは上越市です。さみしい気持ちはありますが、私の生まれ育った吉川の大地は動きません。私をずっと見続けてくれている尾神岳もそのままです。ここは私のふるさとであり、命とおなじくらい大切なところです。あと、どれくらい生きるか分かりませんが、私は、このふるさとの発展のために全力を尽くしたいと思います。吉川町よ、ありがとう。


2004年12月30日

あと2日

 合併まであと2日となりました。町役場と頸城村の希望館へ行ってきましたが、どちらも合併後に備えて机の配置がえなどが行われていました。職員にとっては冬休みどころではないといった感じです。これまでの課名に替わって「町民生活グループ」などの案内板がカウンターに登場しました。吉川町役場がなくなり、総合事務所がスタートする。そのイメージが少しずつ湧いてきました。
 年末だというのに、落着いて年越しの準備をすることができません。年賀状もこれからです。選挙関係でやるべき仕事がたくさん残っていて、こちらの方は後回しになってしまいました。明日も半日は選挙準備の仕事をしようと思っています。明日の頑張りが新年の活動のスタートをスムーズにきれるかどうかに影響を与えます。大晦日までやらなくてもという人もいるでしょうが、ご理解を。


2004年12月29日

宝の山

 昨晩からきょうにかけて一つのことに集中しました。11月末から取り組んでいる住民アンケートの整理作業です。おかげ様で、これまで帰ってきた回答は397通になりました。このぶんだと最終的には400通を超えるでしょう。全世帯数が約1500ですので、4分の1強の方々から書いていただいたということになります。これの整理作業は数値のまとめと記入文のまとめの2つがありますが、支部の仲間たちの協力で、一通り終わりました。
 残された仕事は、これらの印刷とホッチキスどめです。フル回転で印刷した結果、夕方には印刷がほぼ終了しましたので、夜からはホッチキスどめ作業に入りました。全体で23ページにもなり、ちょっとした冊子です。小さなホッチキスでは力を入れないととまりません。これを2~3日で終了させ、各戸配布することになります。来月10日くらいまでに終わらせたいと思います。ご協力いただける方はぜひ連絡を。
 住民アンケートに取り組むのは今回が3回目です。回を重ねるごとに、回答数が多くなり、意見欄への記入がたくさんになってきました。全文を読んでの感想は、宝の山だということです。住民のみなさんの願いがいっぱい書かれています。当面する課題解決へのヒントがあり、議員活動への励ましや問題点の指摘もある。読み始めたらやめられません。こんなに分厚い物を誰が読むのかという人もいますが、新年早々、読み物としては一番話題となるでしょう。
 この宝の山、正月3日くらいまでにHPに掲載します。お楽しみに。


2004年12月28日

御用納め

 きょうは雨。多くはありませんでしたが、一日中降っていました。昨日と違って少しは暖かかったのでしょう、雪にはなりませんでした。そのかわり、夕方からぐんぐん冷え込みました。明日の朝は水道管が凍りそうな冷え方です。明日は日刊紙の配達当番なので路面凍結が心配です。
 さて、きょうは御用納めでした。ただ、今年はいつもと雰囲気がずいぶん違います。机の配置が変わっているところがあります。気のせいか、職員の動きにも落ち着きがまったくありません。午後4時ころ、町役場へ行ったのですが、退職される職員や上越市の本庁などへ異動する人から次々と挨拶されました。あとから聞いたところ、きょうは閉庁式もやったそうです。合併目前の、吉川町役場最後の御用納めの風景でした。
 夕方からは議会事務局職員との送別会兼議員互助会解散式でした。塚田泰助事務局長はきょうで退職、市川寛事務局員は上越市議会へ異動です。お二人からは数年間助けてもらいました。感謝です。塚田局長が挨拶の中で、事務局在職中に印象に残ったこととして、議会として住民懇談会をやったこと、まちづくり基本条例を議員提案で制定したことをあげておられました。二人の事務局員が在職中にでっかい仕事をいくつもやったと思います。
 全議員で酒を飲むのも今回が最後です。みんなたっぷり飲んで、楽しく語り合いました。吉川町閉町まであと3日となりました。


2004年12月27日

除雪車が2回出動

 一日中、雪が降り続けました。朝8時の段階で、下川谷で45センチだったといいますが、どこまで積雪量が伸びたのか。町役場のロビィの掲示板に書き込まれている数字を見て、「こんなもんじゃないこて」と言っている人がいました。正直言って、年内は雪が降らないものと勝手に思い込んでいましたので、この雪には参りました。集会、ビラ配布などいろんな活動に支障が出てきます。天気予報では正月の3日ころまで雪のマークが出ています。大雪にならなければいいんですが……。
 きょうも新聞の配達・集金で町内を回りました。年末になって、あわただしくなってきましたが、お茶を飲んでいかないかと誘ってくださるところが数軒あり、すべてお茶を飲み、いろいろな話をしてきました。みなさんの最大の関心事は2月13日投票の市議増員選挙です。「町の助役陣営が失職を待たずにもう動き始めたらしい。名前を書いてくれと言って回ってきた人もいるという」「五十嵐町議は町役場の入り口付近に事務所を設けるのだそうだ」などといった情報を教えてくださいます。ありがたいですね。
 夜、仲間たちと選挙についての打合せをしました。アンケートに寄せられた意見のまとめをどう整理するか、各種ビラの配布をどうするか、などを一つひとつ決めていきました。パソコンで処理する仕事が山ほどあり、年末年始は大忙しとなりそうです。コーヒーを飲みながら、トコロを食べました。結構いい味だったので、好評でした。この時に話題となったのは、「しんぶん赤旗」日曜版の新年号です。長野県信濃町で全議員が参加して「九条の会」を結成したことが大きく取り上げられていましたが、その会の事務局長さんは、なんと吉川町出身の宮川ヒデさんでした。宮川さんはすごい、負けていられないね、ということになりました。


2004年12月26日

ラストサンデー

 今年最後の日曜日でした。吉川町としての最後でもあります。朝9時ころ、もくもくと雪が降り始め、どうなることかと心配しましたが、その後、一時晴れ、午後からは雨がシトシトと降りました。せっかくの日曜日なのに、いやらしい天気でした。そうはいっても、この時期なら、雪が降りっぱなしとならなかっただけでも有難いと思わなければいけないかな。
 キリストは人間の休息日として日曜日を考えたそうですが、今年最後の日曜日は市議選が40日後に迫っていることもあって忙しい日曜日になりました。「しんぶん赤旗」日曜版の配達、集金、後援会ニュースの配布、対話とフル回転。夕飯を食べたのは午後9時過ぎとなるほどでした。
 年末ともなると、気になることがいっぱいあります。年賀状を書かなければなりません。後片付けも全くと言ってよいほどしていない。恒例となっている町政レポート1年分の整理もある。支払うべきところへの払いもしなければならない。そう考えると頭の中がパンクしてしまいますので、割り切って、最低限やっておくべきことのみに集中することにしました。さて、残るは5日間です、がんばりましょう。
 トップページの写真、昨日入れ替えました。新年からは場所を変えます。「春よ来い」の第41回「トコロ」を掲載しました。


2004年12月25日

今回の雪はおもしろい降り方をした

 快晴。すばらしい青空がひろがり、とてもいい気分で飛び回ることができました。ところで、今回の雪はおもしろい降り方をしたようです。妙高高原の方に聞いたら、むこうは5センチくらいとか。吉川町に来られて、「ここは雪が多いね」と言われました。スキー場も困っているといいます。私のところは朝の段階で10センチ弱でした。
 午前は市政レポートの書き残した部分を書き上げ、印刷しました。4ページだての新年号は、今回が初めてかな。正月休みの関係で「しんぶん赤旗」日曜版の次号は1月9日号となりますので、レポート作成もそれに合わせます。もっともこれは、通常号の話で、市政レポート号外の作成が待っています。年末年始はこの号外作成で大忙しになりそう。
 午後からは山間部で「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金、対話をしました。丸滝温泉を過ぎてからは雪の多いことがすぐ分かります。除雪した後の雪の壁の高さが違いますからね。あるお年寄りにいわれました。とにかく、ここはどんどん年をとっていく人間ばかりだ。バスもいままでどおり出してもらいたいし、農協を守ってほしい。訴えておられる姿は真剣そのものでした。こういう人たちの願いに応えなくてはなりません。
 役場職員の1月1日付け異動内示を掲載しました。


2004年12月24日

私の所も除雪車出動

 布団の中でゴーッという音を聞きました。10ヶ月ぶりでしょうか、除雪車の音です。多分、4時半ころだと思います。明るくなってから外へ出てみると、積雪は15センチにもなっていました。用があって漆田の杉田和子さんのところへ電話をしましたら、「私のとこは、モノサシで測ったら35センチでした」という言葉が返ってきました。みんな雪が気になるんですね。
 きょうは忘年会も懇親会も無し。市政レポートよしかわ版の新年号の原稿書きに集中しました。いつも新年号の表紙に載せる尾神岳、今回は川袋地内から撮ったものです。多くの人が見慣れた風景なのでどうかなと思ったのですが、印刷してみると悪くはありません。この位置からの写真は新年からこのHPのトップページ写真として使います。
 新年号の内容は、恒例となった挨拶、吉川町職員の合併に伴う人事異動、12月議会報告第3弾、そしてシリーズ「春よ来い」です。これまでになく人事異動が入ったので、ページ数は4ページとなりました。レポートは明日には完成させ、「しんぶん赤旗」日曜版の12月26日号と新年1月2日号の合併号に折り込みます。配達は、いつもより少し遅らせる予定にしています。


2004年12月23日

ほっとホットコンサート

 デジカメのない生活はがまんできず、大潟町の後藤紀一議長(日本共産党)にお願いして、しばらくデジカメを借りることにしました。後藤さんのデジカメも私のものと同じメーカーなので、使い方もほぼ同じです。朝早くに大潟町まで出かけ、軽トラに常備すると、おもしろいものですね、気持ちが落着きました。
 きょうは、吉川町音楽を楽しむ会の「クリスマスほっとホットコンサート」でした。吉川町があと8日で終わろうとしているなかで、「ありがとう吉川町」「これからは良い吉川区をつくりましょう」という思いを込めて企画されたものです。町内外で演奏活動をしている人たちによる箏(こと)、フルート、ミュージックベル、ギター、ピアノの演奏があり、コーラスもある。吉川中学校の吹奏楽部の生徒たちも出演する。それに、これまた町内外で活躍中の2人の女性が朗読で参加する。この、ちょっと変わったコンサートに、なんと250人が参加してくれました。
 正直言って、5500人の小さな町に、こんなにも素晴らしい演奏家たちがいるとは知りませんでした。そして、力を合わせれば、小さな町でもこれだけの取り組みができる。すごいことです。コーラスグループ・「ゆりかご」の合唱、プラハ在住の市村幸恵さんのピアノは何回か聴いていましたが、関沢章子さんのフルート、中学校教頭の千名先生のギター、初めてでした。コンサートとしての質もなかなかの出来ではなかったかと思います。
 朗読をしてくれた女性の1人、北井さくらさんは、児童文学者・杉みき子さんの「木まもり」を丁寧に、心を込めて読んでくれました。そしてもう1人は小田順子さん、小田さんは、私の『幸せめっけた』の中から「夜なべ仕事」を選んでくれました。聴いている人たちの中から時々笑いが起きるほど、おもしろく読んでもらい、感謝です。もう、完全に小田さんの「夜なべ仕事」になっていました。
 今回のコンサートは事実上、吉川町でのラストコンサートでした。私も音楽を楽しむ会の会員です。きょうは、受付、会場係の仕事をしました。終わってからは懇親会がありました。みんな、きょうの成功を喜び、楽しいひと時を過ごしました。ピアノの市村さん、ギターの山岸協慈さん、演奏だけでなく歌の方もとても上手く、びっくりでした。


2004年12月22日

初雪

 とうとう雪が降りました。朝方、いつもと違う寒さを感じていました。雪が降る時の気温を久しぶりに感じました。外へ出てみたら、牧草の上にほんわかと雪が乗っていました。道路はまだ積もっていません。これから本格的な冬がやってくる。そういう心の準備をさせてくれたのでしょう。これで、雪への備えができました。心の備えです。
 聞くところによると、川谷方面は除雪車が出たとのことです。積雪は上川谷で25センチほどとか。これだけ降ると、着る物、履くものが変わります。きょうは町農業委員会でした。長靴を履いてきている人が数人いました。また、ほとんどの人たちがオーバーやアノラックを着てきていました。
 それにしても、こんな時にデジカメが壊れるなんて……。尾神岳は真っ白でした。この写真を撮れないことが悔しいです。カメラ屋さんに聞いたら、おそらく、預かって修理する必要があるでしょう、とのことでした。デジカメの無い生活は、ここ数年の間では初めてのことです。
                                    


2004年12月21日

デジカメ故障?

 いつも車に乗せて持ち歩いているものの1つにデジタルカメラがあります。購入してからすでに3年は経っていますが、これまで故障することなく活躍してくれました。ところが、きょう、ある集落内で現場写真を撮ろうと思ってデジカメのスイッチを入れたら、画面は縞模様となっています。何回もスイッチを入れたり、切ったりしても駄目でした。どうも故障してしまったようです。
 愛用しているものが使いものにならないというのは、とても不便です。写真を撮れないために、この「見てある記」も制約を受けます。先日、原之町の場場谷池にハクチョウが来ていると書きました。きょう、通りすがりに池を見たら、白鳥の数が2羽になっていました。しかも仲がとても良さそうでした。おそらく恋人同士、あるいは夫婦なのでしょう。その仲の良い様子も紹介できません。
 きょうは民主商工会の忘年会がありました。景気が悪くても忘年会は毎年賑やかです。きょうも10数人が集まり、大いに飲み、食べ、語り楽しみました。話題の中心は来年2月13日投票の市議増員選挙です。誰が出馬するのか、予想される人がこれまでどういうことをしてきたかなど、次々話が展開されました。明日も農業委員会の最終定例会、そして忘年会と続くのですが、同じような雰囲気になるのかな。


2004年12月20日

きょうも町政レポート号外を配布

 午前は晴れ、午後から雨。たとえ半日でも晴れはもうけ。いい気分で動き回れました。午前中は、まず役場で「しんぶん赤旗」の集金などを済ませ、その後、大潟町へ出かけました。父の薬をもらいに行って来るのが主たる目的でしたが、少し時間をとって、小関柿崎町議に会って、情報交換をしてきました。柿崎、大潟の市議選立候補予定者の動きなどが分かり、とても参考になりました。
 午後からは町政レポート号外を配布し、対話、懇談をしました。思っていた以上に、町政レポートが読まれていることが分かりました。今後も続けてほしい、という声も多く寄せられました。新市の広報が月2回発行されるものの、吉川区の情報がこれまでより少なくなるとの見方が強くあります。そうしたなかで、今後、町政レポートをどういう内容にしていくか、しっかり検討していく必要があります。
 きょう届いたメールの中に吉川町出身の方からのものがありました。吉川町に帰る度に、運命共同体として難儀をされた人たちが眠る共同墓地の掃除を必ずやっている。いつまで続けられるのか、これが最後かも…と思いながら、手を合わせてから帰る、とありました。ふるさとのことをこんなふうに受け止めて、大事にしてくださる方がいるのはとてもうれしい。


2004年12月19日

「長い間、ごくろうさんだったね」の声が…

 きょうもまた晴天。今年の天気はいったいどうなったのでしょうか。12月も半ばだというのに、スミレが咲いていますし、きょう聞いた話では、雪割草も花を咲かせているといいます。日が照っている時は車の暖房も要りません。こんな天気が一日でも多くあれば、とても助かります。
 きょうは一日中、町政レポート号外を配布したり、町民の方々と懇談したりしました。町政レポート最終号を今朝の一般紙に折り込んだこともあって、何人もの人から、「長い間、ごくろうさんだったね」「いままで、ありがとう」という言葉をかけてもらいました。こういう言葉をかけてもらえるのはとてもうれしいですね。引き続きがんばっていこうという元気が出てきます。
 町政レポート最終号に掲載した「春よ来い」は第40回になりました。子ども時代に父母が田を開墾し、水で苦労した話を「横井戸」という短文にまとめてみました。多くの町民のみなさんから読んでいただいたようです。ごらんください。


2004年12月18日

旧源中の解体工事進む

 午前は東田中の佐々木虎治さんの葬儀に参列してきました。私と同じ寅年とのことで、満90歳になられたそうです。私の弟の就職先を心配してくださった方で、いつも笑顔の人でした。葬儀の際、何となく冬の気配を感じたのですが、葬儀終了後、外へ出たら、気温がかなり下がってきました。午後からはアノラックを着て飛び回りました。
 午後からは、いつも通り、「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。読者の方と会話が弾み、配達は全部終了とはいきませんでした。明日の朝、1時間くらいがんばらないと。先週、教えてもらった旧源中学校の解体工事は進み、あと一日ぐらいで更地になる見込みです。校舎が無くなり、体育館も屋根の一部を残すのみとなりました。きょうは早朝よりフル回転したためか、ちょっと疲れました。


2004年12月17日

町政レポート最終号作成

 午後から町役場に行ったら、何となく、いつもと違うなと思いました。その原因は事務机の上に新品のパソコンがいくつも並んでいたから。それだけではありません。新市になった時の案内看板、外のものは何かでおおってあるのですが、覆いのしてないものも登場してきました。上越市立図書館吉川分室の案内(写真)です。吉川町から上越市への切り替えがいよいよ本格的になってきた、そう感じました。
 きょうは午前中、町政レポート作成でした。次号は新年号ですので、「町政レポート」から「市政レポートよしかわ版」に名称が変わります。従って今回のレポートは、通常号としては最後の町政レポートです。最終議会での閉場式の様子、私のお礼の言葉、12月議会で決まったことを簡潔にまとめました。また、裏面には、今年からスタートした随想『春よ来い』の第40回を掲載しました。
 町政レポートは第1号が1985年(昭和60年)6月2日発行でした。あれから19年と6ヶ月になります。「町政レポート」としての最終号は1177号でした。いま、第1号から1176号までを風呂敷に入れて持ち歩いていますが、片手で持つには重いので、びっくりしています。自分で言うのもなんですが、まあ、よくやったと思います。パソコンで作成するようになる数年前までは、池田さんという友人が毎週金曜日の早朝にわが家に来て、手書きで清書してくれました。彼にも感謝です。
 夜、懇談会の後に、泉谷のイルミネーションを見てきました。テレビに何回も登場し、すっかり有名になったイルミネーションです。県道沿いから見ると光がクルクルとまわっていて、実に豪華でした。デジカメで撮影しましたが、今度、もう少し近づいて撮って紹介しようと思います。お楽しみに。


2004年12月16日

冬模様

 天気がきょうから変わりました。まだ白い雪の姿は見えませんが、空は明らかに冬空です。気温が下がり、吹く風も寒い。きょうのビラ配布はアノラックを着て行いました。途中、一度お会いしたいと思っていた人を訪ねました。M子さん、吉川町出身の人で石川啄木の研究をされているTさんの母親にあたります。少しだけでしたが、息子さんの思い出話を語ってもらいました。苦学をされて大学教授になり、現在は外国にも出かけているというTさんが帰郷されたら、ぜひ会わせてほしいとお願いしてきました。
 夜は23日(午後2時から多目的集会場)に行われる「ほっと、ホットコンサート」の実行委員会でした。吉川町在住の朗読家、音楽愛好者が一堂に会する温かい催しにしようと、みんなが張り切っています。コーラスあり、ギターあり、フルートにベルもある。そして若い中学生たちも演奏をしてくれます。吉川町としての最後のコンサートですので、かならず成功させたいと思います。今晩は、開会から演奏などの順序に従ってどういう流れになるかの確認をしました。また、当日の任務分担についても話し合いました。
 家に帰ってパソコンを立ち上げたら、吉川町出身の方からメールが届いていました。私のHPをある人から紹介してもらってみたとありました。ふるさとのことをいつも心配していてくださる方なのでとてもうれしく拝読しました。きょうは東京都在住のIさんから『新潟を撮る』という写真集を送っていただきました。この方も吉川町出身者です。お二方のメールと小包でとてもいい気分にさせてもらいました。


2004年12月15日

チラシづくり検討会

 昨晩の酒がききすぎて町政レポート議会速報版の作成が大幅に遅れてしまいました。「しんぶん赤旗」日刊紙に折り込む分だけ印刷し、一般紙に折り込む予定の残りはお昼前にようやく印刷を終えました。本来なら、もう少し早く終わるはずでしたが、印刷機がダメでした。寒くなってくると、わが家の印刷機はストーブをつけたら、1時間くらい待たないと印刷できないのです。
 きょうは次に出すチラシの検討会がありました。私の生い立ち、これまでの活動などがよく分かってもらえるように、というのがこのチラシ発行の目的です。この作業の中心になってくれるKさんには、驚きました。私の本やホームページ、さらには私に大きな影響を与えた本まで読んできてくれたのです。約2時間でチラシのラフをつくり、きょうの会議は終わりました。
 午後からは山間部で町政レポートの配布をやりました。途中、80歳を過ぎている女性からお茶に誘われ、ご馳走になってきました。みかん、漬物まで出してくれ、道路改良や農協出張所のこと、雪掘りボランティアのことなどを聞きました。木戸先にトコロがあったので、それを話題にしたら、「トコロのくずと女のくずは残らない」といって結婚当時の話をしてくださいました。おもしろかったです。


2004年12月14日

最終議会

 1955年(昭和30年)にスタートした吉川町議会、きょうが最後でした。さみしいけれど、きょうが吉川町議会としての最後の会議でした。私は1978年(昭和53年)の11月からお世話になりました。これまで26年と1ヶ月、吉川町議会とともに歩んできました。私の人生の約半分、吉川町議会議員として生きてきたことになります。それだけに、吉川町議会が無くなるのはくやしい。
 きょうの議会、12月定例議会でした。私がきょうの議会にのぞむにあたって心したことは、最後の会議も町民のみなさんの思い、願いを代弁するということでした。だから、一般質問では、いま、多くの町民のみなさんが関心を持っている地震の問題をメインに据えました。双方向の情報伝達手段をもつべきだ。弱者救済は手抜かりなくやってほしい。避難所開設基準はもっと分かりやすく。自主防災組織の重要性、再確認しよう。こういったことに、角張町長は前向きに答えてくださいました。うれしかったです。
 議会が終わってからの閉場式、これはつらかった。各議員がそれぞれ1分以内で思いを語る、これは先日の議運で決まったことでした。わかっていたことですが、議会の質問準備に集中したために、何を語るか、まったく準備してきませんでした。自分の思いは、その時に胸に浮かんできたことを自分の言葉で語ればいい、そう思ってのぞみました。
 頭にふっと浮かんできたのは、子どもの時に父が私に繰り返し言ってきた言葉です。あにゃ、いいか、チリも積もれば山となる。為せば成る、為さねば成らぬ、何事も。本も読まない、新聞も読まない父が語ったこの言葉、私をずっと支えてくれていました。毎回発言する、毎回議会報告をする、この議員としての当たり前のことが、山をつくりました。一般質問102回。吉川町議会新記録です。町政レポート発行回数1175回。これも最高記録でしょう。
 最後の懇親会では、酔っ払いました。一緒に吉川町議会議員として生きてきた、活動してきた、それだけで仲間意識が生まれます。吉川町議会は全国に先駆けて「義務教育における父母負担禁止条例」をつくった歴史を持っています。全国唯一、議員提案で「まちづくり基本条例」を制定しました。これは誇りです。最後の万歳三唱の前にひとこと言わせてもらいました。「ここにいる人たちはみんな吉川町の人間として生きてきました。これからも一緒にがんばりましょう」。さようなら、吉川町議会。ありがとう、吉川町議会。


2004年12月13日

また本を読みたくなった

 議会が近づくと本を読みたくなる。それも質問とは関係ない本を読みたくなることが多い。26年間議員生活をやっているなかで身についた変なクセです。今回は、真壁仁の『詩の中にめざめる日本』(岩波新書、絶版)、これが読みたくなりました。学生時代に買って読み、たいへん感動した本の中の1冊です。一昨日、仲間と話をしていた時に、この本をまとめた真壁さん(故人)の一言が私の人生に大きな影響を与えたことを思い出しました。
 もっともこの本はどういうわけか私の手元にはなく、数年前に県立図書館から借りて読んだ記憶があります。それで今回は、日本の古本屋で検索し、注文しました。カバーつきで1000円、本は1982年のものですから、かなりいいものだと思います。残念ながら議会前には読むことはできませんが、議会が終わればじきに届くでしょう。今年の読書はこの本が最後となるかもしれません。ひょっとしたら、新たな発見があるかも。
 この原稿を書いていたら、牛舎の外でガタガタ音がしました。何かと思いきや、子牛が脱走していました。牛舎の外へ出て、また中に入ったようです。先日から、牛舎の戸が開いていることがあるのでおかしいと思っていたのですが、戸を開けっ放しにした記憶はないので、どうも子牛が自分で開けたらしい。ネコが戸を開ける話を聞いたことがありますが、牛が戸を開けたとしたら、すごいことです。わが家の子牛は、これまでになく個性的な(?)牛です。


2004年12月12日

寝坊

 どうも疲れがたまっているようです。昨晩は夜遅くまでがんばり、寝たのは2時過ぎでした。きょうは日刊紙の配達当番だというのに、起きたのは朝6時半すぎ、いつもより1時間近くも遅い配達となってしまいました。振り返ってみると、ここ1週間は休みらしい休みをとっていません。人間の体というのはキチンと休息をとって維持されることを忘れていました。きょうは早く寝ます。
 きょうは千葉県から従弟がやってきました。叔父の法事についての相談ということでした。亡くなった叔父もそうでしたが、従弟も親戚のことをいろいろ気遣ってくれます。きょうのように、はるばるやってきて父や母の様子を見に来てくれる、この姿に父も母もうれしそうでした。残念ながら、私の方は、予定がいくつも入っていて、従弟とゆっくり話ができませんでした。
 きょう付けの一般紙に町政レポートを折り込みました。そのせいで、何人もの人から声をかけてもらいました。今回のレポートでもっとも読まれたのは「春よ来い」だったようです。私と同じ集落に住むMさんは、読んだら私に会いたくなったらしく、早い時間にわが家にきたそうです。もっとも、私の方は寝坊したので、まだ新聞配達中でしたが。その「春よ来い」は今回で39回目になりました。「長持」というタイトルで書きました。ごらんください。


2004年12月11日

旧源中校舎解体

 きょうは、午前、母に頼まれて大島村へ行ってきました。その後は、夕方まで「しんぶん赤旗」日曜版の配達でした。源地区で、ある人から、「中学校の壊しが始まっているよ」と聞いてびっくり。この中学校というのは旧源中学校、私の母校です。つい、「ええっ、おれの教室も」と言ってしまいました。町内の3中学校が統合してから、旧源中学校の建物は農協が借受、キノコ栽培などに使っていたのですが、外見は昔のままでしたので、見るとホッとしたものです。それがついに解体ですか。残念です。
 夜は党県委員会の選対部長さんや支部の人たちと次に発行するビラの内容について話し合いました。私の生い立ちやこれまでの活動について検討したのですが、長い歴史を振り返るのもいいものです。途中で30年ほど前に発行した「吉川民報」を引っ張り出してきたら、紙の端の部分が黄色くなっていました。「ホームラン王、またしても大当たり」などといった見出しをみながら、印刷機械も技術も進歩したもんだな、と思いました。


2004年12月10日

最後の議運

 めずらしく晴天が続いています。これで3日目です。きょうは議会運営委員会と各派代表者会議が行われました。このうち議運は最後の委員会、12月定例会の日程について審議しました。審議の対象となる案件はわずかに12ですので、定例会は1日で終わる予定です。会議では、定例会終了後の儀式についても話し合いました。
 議場の閉場式というのをやるのだそうですが、議長や町長が挨拶し、全議員がそれぞれの思いを語る。議員各自が自席の名札を記念に持ち帰る。議場から各議員が出る時には職員から花束が渡される。そして最後に議長が議場の施錠をして終わり。こういう流れを聞いたら、急にさみしくなりました。
 議場は議員にとっては最大の活動舞台。さまざまな思い出があります。いまの議場は10年前から使い始めました。思い出されるのは議会改革の取り組みです。一般質問の席を議員席の脇に設置して行うようにしたこともその1つ、それまで議員の方を向いて質問していたのが町長の方を向いて質問できるようになった。力の入り具合が変わりましたね。日曜日に開催する日曜議会も新しい議場へ来てからでした。それまで何人も来ない傍聴者が20人以上も来て、質問者全員が張り切りました。
 
 議場を使うのは14日が最後。その後は町づくりの活動の場として、集会などができるように改造されることになります。


2004年12月09日

青い空が広がる

 きょうは青い空が広がりました。家でじっくりと質問準備を、と思っていたのですが、こんなに天気のいい時にじっとしてはいられません。デジカメを持って外へ飛び出しました。新年からトップページの写真にと考えているところからの尾神岳の写真、そしてサケの溯上の様子を撮ってきました。数匹のサケがバチャ、バチャと浅瀬を上っていく様子を見て、これぞシャッターチャンスとばかりにカメラを向けたのですが、私が近づいた時には一匹しか残っていませんでした。
 家では町政レポートと一般質問の原稿書きをしました。明日は議会運営委員会と各派代表者会議があるので、きょうのうちにと思い、頑張っています。一般質問は今回が最後です。議員になってから102回目、最後はピシッと決めたいと思っているのですが、いつもどおり、バタバタと質問原稿を書いています。あと半月ほどで失職する町長への質問となりますので、これまで約束してもらったことの確認を中心にすえて頑張りたいと思います。
 「私の好きな風景」に「溯上するサケ」を掲載しました。ご覧ください。


2004年12月08日

10代からも返信

 先月下旬から取り組んでいる住民アンケート、おかげ様で順調に返信封筒が届いてきています。きょうの時点で300通を超えました。全町的なアンケートは6年前に初めて取り組み、今回が3回目になります。最大の魅力は住民のみなさんの願いがリアルにつかめることです。そして党や私にたいする期待や評価も記入者の気持ちがずばり書かれていて、とても参考になります。
 返信封筒は郵便局の留置きにしてあるので、1週間に2回ほど取りにいきます。それを家で開封して読むことになります。何が書いてあるか。緊張感もあるけれど、開封時のワクワクした気持ちが何とも言えません。きょうも郵便局へ行ってきて開封したのですが、とてもうれしいことがありました。これまで3回のアンケートでは、もっとも若い、10代の青年から初めて返信があったのです。
 この青年は、「いまの政治について思うこと」の欄では「全国的に見て、税金の無駄づかいが多いので、もっと節約してほしい」と書いています。そして、「日本共産党や党議員へのご意見・ご希望」欄では、「日本共産党の考えは、私も共感するところが多い。だが、世界的に見ても、共産主義はあまり見られないので、共産党という名前を変えて欲しい」とありました。
 アンケートは、寄せられたご意見・ご要望も全部掲載して今月下旬には1冊にまとめます。作業が終わり次第、また、町内全戸に配布する予定です。配布が終わるまでには、かなり時間がかかりますので、新年に配布するところもあろうかと思いますが、よろしくお願いします。


2004年12月07日

夕日の小道の会

 吉川町では2000年(平成12年)から翌年にかけてエッセイ集が3冊発行されました。そのうちの1冊は、酒屋さんのご主人が書かれた「夕日の小道」というタイトルの本です。出版後、数ヶ月たってから、出版記念祝賀会が開催されました。その時の実行委員会のメンバーが毎年正月に、この酒屋さんに集まって懇親会を開いてきました。ところが、その酒屋さんが今月いっぱいで店を閉じられるというので、恒例となった新年の懇親会を繰り上げて実施することになりました。きょうはその日でした。
 会が始まってから、すぐに昔話で賑やかになるのがこの会の特徴です。きょうは、この酒屋さんの歩みが話題になりました。創業は大正年間、85年にわたる営業にはいくつものドラマがあります。大雪の時にソリを使って酒を運んだ話などのエピソードは、「夕日の小道」にたくさん書かれていますが、今回は、この酒屋さんの2階で行われた祝言のことが話題の中心でした。また、会場となった和室の柱にヒョウタンが飾られていたこともあって、私が「春よ来い」に書いた「ふくべ」の話でも盛り上がりました。
 この酒屋さんは町の中心部、原之町にあります。ここでは、今年になってすでに1軒の雑貨店が廃業しています。この酒屋さんで、廃業は2軒目ということになります。経営者が高齢になっていて、後継ぎがいないこと、酒離れがすすんでいることが大きな要因でしょうが、市町村合併が店の歴史を閉じることにもつながったと聞いて複雑な思いがしました。参加者の一人が言いました。町の灯りがまた一つ消えることになる、と。
 


2004年12月06日

合併自治体選挙についての学習会

 昨日の強風被害は、私の住んでいる集落でもありました。ある家では、作業所のトタン屋根がめくれていました。また、杉の木が危なくなってきたということで、材木屋さんに切ってもらうよう手配した家もあったようです。きょうは、新潟へ出かけた関係で調査できていませんが、明日、役場で全町的な被害状況について調べようと思っています。
 新潟では合併後の議員選挙についての学習会がありました。講師は党中央選対局の田熊さんで、「合併自治体の選挙をどうたたかうか」というテーマで2時間にわたって話をされました。新潟県は佐渡市と阿賀野市で明と暗の両方の選挙を経験していますが、全国の経験をもとに展開された田熊さんの話は、とても説得力のあるものでした。「合併のプロセスや選挙の形態などによって、一つひとつの選挙の様相が違う」「これまでの経験の延長では勝てない。新たな探求が必要だ」などという指摘は重要だと思いました。
 質疑、経験交流の時間に、中越のある議員が、「定数1でどうたたかったらいいか」と田熊さんに質問しました。答えは、何と、「合併自治体選挙で定数3ではいくつか勝ちましたが、定数2や1で勝ったことはありません。ぜひ勝ってみせてください」。この答えに会場は大笑いでしたが、必死になって知恵と力を発揮して道を切り開くしかないことを改めて知りました。私も大笑いしたのですが、考えてみれば、私のところも定数1でした。なお、定数1の選挙は合併自治体選挙ではまだ勝ったことがないそうですが、補欠選挙ではいくつも勝利した経験があります。やりがいがありますね。
 学習会では中越大震災で被災した議員数人に会いました。「たいへんだったね、家はどうだった」とある議員に聞いたら、「家かい、建て直しだ」とさらりと言います。本当は苦しいのでしょうが、明るく、前向きに生きようとしているのがよく分かりました。がんばってほしいと思います。


2004年12月05日

強風で倒れた杉もある

 ものすごい風でした。家の周りの軽いものはすべて吹き飛ばされました。こんな強い風が一日中吹いていたのは、めずらしいことです。牛舎の下見板をはってないので、牛舎内は台無しでした。雨風が止み次第、早めに手を打ちたいと思います。町内では風による被害が出た模様です。耳に入った被害では、川袋地内で杉が倒れ、有線や電話線に寄りかかったというのがありました。
 きょうは懇談会の案内チラシの配布などで駆け回りました。最後の定例議会が14日から予定されているので、そろそろ質問の準備に入らなければなりません。中越地震に関連した災害対策を中心に構想を練っていますが、文章化にはまだ時間がかかりそうです。
 「春よ来い」の第38回「ふくべ」を掲載しました。


2004年12月04日

高沢入のブナ林で

 きょうも一日中、配達と集金でした。同じことをやっていても、相手は違うし、場所も時間も違います。だから、昨日とは違った出会いもあれば、あらたな発見もあります。東京都で調理師をやっている中学時代の同級生のH君、きょうは特別養護老人ホームに入っているお母さんに会うために帰郷していました。新聞配達のスピードがもう少し速ければ、会えなかったので、運が良かったです。彼の実家では、お母さんのことや料理の話をしました。
 春から秋にかけては野の花を見る楽しみがあります。いまの時期から雪が消えるまでは別のことを考えないといけません。きょうは、気分転換もかねて高沢入地内のブナ林に入りました。丸く巻いたブナの葉がたくさん落ちていて、その上を歩く時のブヨブヨ感がとてもよかったです。秋も終わり、冬が始まりつつある。そんな気がしたのは、ブナ林から尾神岳を見た時でした。雑木林の紅葉した葉が少し残っていて、まだ秋が完全に終わったわけではないが、景色全体の印象は寒々していました。
 配達が終わったらぐったりとしてしまいました。原稿書きや資料整理を夜にやろうと意気込んでいたのですが、あくびばかり出るので早く寝ることにしました。それでは、おやすみなさい。


2004年12月03日

初氷

 朝起きて寒いと思ったら、外はうっすらと白くなっていました。霜が降りていたのです。そういえば、昨日の夜空は満天の星、次の朝は冷え込むことを示していました。厳しい冷え込みで、牛舎の入り口の水たまりは氷が張っていました。この冬では最初です。外に置いた車の窓ガラスも凍っていました。これから数ヶ月間は、「寒くなったら凍る」ことを意識して暮らすことになります。
 きょうは午前中に町政レポートを作成し、午後から「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金に出ました。昨日に続いて快晴でしたので、外仕事をしたくなる気持ちを抑えて飛び回りました。配達の途中、アンケートに応じてくださった家にも寄り、お礼の言葉をのべてきました。ここ2週間くらいは、新聞配達とこうした活動を組み合わせて動くことになりそうです。
 夕方、ある家でお茶をご馳走になっていると、その家の親戚の方がこられました。この方は、蛍場時代のわが家のことをよく知っておられ、鉄索を使って野草の運搬をしていたことや牛乳を1升ビンに入れてもらったことなどを詳しく話してくださいました。わが家のあった蛍場へ何回も行かないのに、詳しく知っているというのは、よほど強く印象に残っていたのでしょう。


2004年12月02日

はめ板

 この時期になると晴れの日はめったになく、とても貴重です。やるべきことはたくさんあるのですが、きょうは、晴れた日にやっておきたいことを最優先しました。それは、家の一階の窓ガラスが屋根から落ちてくる雪で割れないように板で囲む(はめ板をする)仕事です。牛舎から角材や板を運び、板をはめるまで1時間ほどですみました。これで、毎日のように催促していた父もニコニコ、ようやく安心したようです。母に頼まれていた大根運びもしました。畑から牛舎まで軽トラで運ぶ、たったこれだけの仕事ですが、年をとると、これが重労働となります。雪が降る前にやっておきたいことは、きょうの天気で大きく前進しました。
 午後からは農業委員会上越地区協議会主催の研修会でした。上越市のリージョンプラザで実施された研修会は、東大名誉教授・今村奈良臣さんの講演でした。テーマは「知恵とパワーで地域農業に活力を…農業改革の推進力」。現在の農政で農民を苦しめている農産物輸入問題にほとんどふれない、市場原理による効果を強調するなど問題点がいくつもありましたが、「中央集権的画一農政から地域提案型創造的農政への転換」を訴えるなど評価できる提案、主張があってひきつけられました。ユーモアたっぷりの話の展開で2時間にも及ぶ講演はあっという間に終わりました。ちょっと、笑いくたびれたかな。
 夜、頸城村の上野村議がメールで新しくできるチラシの原稿を見せてくれました。今回のチラシは、彼の生い立ちや人柄を紹介することに力点をおいた構成となっていますが、ふだん仲良くしている私でさえ知らなかったいくつものエピソードが書かれていたので、興味深く読みました。例えば高校時代、彼は生徒指導を担当する若くて情熱的なS先生と出会います。そして、『「これを読め」と、S先生から借りて読んだのは特攻生の手記。若くして命を絶たれた人々の無念さに「泣けて泣けて…」。書いた感想文がコンクールで優秀賞を取りました』と紹介されていました。この手記は『わが命、月明に燃ゆ』、私も読んで見たくなりました。


2004年12月01日

ズボンが擦り切れた

 まずはお詫びから。昨日付けの「見てある記」で事実と異なる記述がありました。 文面の中で「これらの教室の事務を手伝っていたのは社会福祉協議会職員でした」
と書きましたが、これは間違いです。「生きがい教室」は町の事業として取り組まれていて、事務局は町民福祉課でした。ただし、管理面では総務課の用務員があたっています。昨日の文面では、社協の事務局体制が変わるために生きがい教室が廃止さ
れると読み取れますが、事実と違いました。関係者にご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。なお、昨日の文面は一部訂正しました。
 さて、きょうから師走、あとひと月で今年も終わりかと思うと、やり残している仕事のことが気になります。生活相談で持ち込まれた数件は年内に解決しないといけない、恒例となっている町政レポート一年分の合冊作業もある、それに年賀状、計画的にやる必要があると思いつつ、あちこち手をつけたままとなっています。きょうは農業委員会の仕事や選挙関係資料の整理、ビラ配布などで大忙しでした。すぐ書くべき記録を後回しにすると、名簿ひとつ整理するにしてもそうとう時間がかかってしまいます。数日前に会った人の名前を思い出すにも一苦労するようになったのは、年のせいか。
 農業委員会だより最終号の編集作業で町役場に行った時、何とはなしにズボンに手を当ててみてドキッとしました。はいていったズボンが破れていたのです。それも両方のお尻の部分が大きく切れていました。釘などで切れたのではありません。完全に擦り切れていたのです。よほど安っぽい代物だったのか、それとも本当にはきすぎて破れたのか、よく分かりませんが、このところ、アンケート配布などで車に乗ったり降りたりすることが激しくなっていました。いやー、恥ずかしかった。


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