« 2003年10月 | メイン | 2003年12月 »

2003年11月投稿分

2003年11月30日

読書は乗り物の中で

 このところ、家では落ち着いて本を読む時間がありません。最近、読んだ本は何だったろうと振り返ってみると、列車の中か高速バスなど車の中で読んだものばかりであることに気付きました。
 きょうも新潟市の弁護士事務所へ出かけてきましたが、乗用車に乗せていただいたおかげで一冊の本を読むことができました。岩波ブックレットの『住民投票Q&A』です。5年前に買っておいたもので、入門篇と実践篇、それぞれ分かりやすくまとめてあります。市町村合併がこれからどう展開するか、どう対応していったいいか、この本を読みながらイメージをふくらませることができました。
 車に一緒に乗っていた人に、「橋爪さんは船酔いしないでしょ。車の中で本を読めるくらいだから」と言われました。でも昔、佐渡へ渡った時は船酔いでたいへんだった記憶が残っています。ひょっとしたら、ここ数年の間に、神様が「車の中でも本を読める能力」を授けてくださったのかもしれません。
 明日は軽トラを運転して長野県須坂市まで行く予定です。テープもCDも聴けない、聴けるのはラジオのみというわが愛車です。自分で運転しながら、楽しく有意義に時間を使う方法はないものか。


2003年11月29日

3つある農協支所が1つになると…

 JAえちご上越農協が合併時に残した多くの支所を廃止する動きが強まっており、関係地域で大きな問題になっています。山間部のある家でお茶をご馳走になった時に聞いた話ですが、これまで吉川町にあった旭野、吉川、源の3つの支所(このうち源には川谷出張所もある)のうち、残るのは吉川支所だけ。山間部の源地区では、支所も出張所もなくなることになります。車の運転のできないお年寄りは、支所がまわしてくれるマイクロバスによる送迎で日常の買い物をしてきました。川谷出張所では郵便局の金の出し入れもできました。こうしたことができなくなるとしたら、その先にあるのは、町場への転出です。過疎は一気に進むでしょう。
 この話を聞いて思い出したのは、27日の上越市議会特別委員会での議論です。ある委員が、現在ある1つひとつの町や村に1つの支所を置くのではなく、頸南とか頸北、東頸といった単位で支所を置いたらどうかという提案をしていました。合併推進課長は、「いまの町村単位に置く」とは答えていましたが、財政危機が進んだときには、いま農協幹部が計画していることと同じことをやろうとするのではないか。そんなことが頭に浮かびました。住民の暮らしを守るという原点を忘れた時、自治体は住民からどんどん遠ざかっていきます。


2003年11月28日

柿崎町農業委員会との合同研修会などで大忙し

 午前から臨時議会、農業委員会、柿崎町農業委員会との合同研修会と続きました。臨時議会では人事院勧告にもとづく町職員や特別職の給与・報酬の引き下げを主な内容とした条例改正、補正予算の審議がおこなわれました。補正予算では△印がずらりとならんでいました。職員組合との協議、住民感情などで総合的に判断し賛成しましたが、こういうのは一回だけにしてほしいものです。
 柿崎町農業委員会との合同研修会の後、懇親会がありました。米山のふもとでがんばっている曽田しげ子さんなど何人かと初めて話をしました。話題の中心は農業というより合併問題で、「どうしても合併するというなら吉川と柿崎の農業委員会で合併したいね」などの声が出ていました。
 会議の合間を縫って「しんぶん赤旗」日曜版の配達を30部ほどしました。野菜農家のEさんは、二大政党制を批判するなかで、「一番怖いのは、日頃からおかしいと思っていても、(あきらめて)行動しなくなることだ」と言っていました。なかなかするどい分析です。
 明日は「しんぶん赤旗」日曜版の配達・集金でフル回転の予定です。早めに眠って、がんばりたいと思います。


2003年11月27日

上越市議会市町村合併特別委員会を傍聴

 編入する側では一体どんな雰囲気で市町村合併の議論をしているのだろう。その思いが募り、上越地域合併協議会の幹事会にも影響を与えているといわれる上越市議会の市町村合併特別委員会を40分ほど傍聴してきました。
 議論のテーマは第三セクター。14市町村には約60の第三セクターがありますが、「新市が引き継ぐに値する三セクかどうか、もっと厳しくチェックすべきだ」「こちらは編入するのだから、関係町村のデータを要求する権利がある」などの声が次々と出ていました。「吉川町のゆったりの郷には委託料のほかに形を変えた補助金が出ていないか」といった質問もありました。
 驚いたのは、私が初めて見た資料です。第三セクターといい、指定文化財といい、ここには14市町村のデータが集中していました。なかなか面白いデータが入手できたと喜んでいたら、市役所合併推進課の職員がそばにきて、「すいませんが、数値に不正確なところがあるかもしれないんで、お帰りの際、返してもらえませんか」。残念ながら、もらえたのは、指定文化財のデータだけでした。
 夕方、町職員労働組合の学習会で、市町村合併について約1時間話をしてきました。たいした話はできませんでしたが、うなずく人あり、笑いもありで、こちらとしても楽しい会でした。合併協議会の様子や事務事業の調整などについて具体的に知りたい、という強い要求があることも分かりました。それと、みんなで食べた寿司、うまかったです。


2003年11月26日

口では優しく、進め方は強引

 口では優しく、進め方は強引。上越地域合併協議会の木浦会長の進め方については、この言葉がぴったりです。きょうの第3回合併協議会は最悪でした。
 確かに今回の合併協議会で合併期日を決めようという話にはなっていました。しかし、電算システムの整備に約1年かかり、その経費が約17億円もかかるという報告書が昨日になって関係市町村に配布されたばかり。市町村の幹部の中にもまだ読んでいない人もいるし、議員にもほとんど配られていないというのが実態でしょう。当然のことながら、報告書の内容を十分把握したうえでの議論はこれからです。
 にもかかわらず、きょうの会議では、合併期日を従来の方針通り、平成17年1月1日でさっさと決めてしまいました。この結果、関係議会は「事後承認」という形でここ1、2か月の間に電算システム関係の予算を通すことが求められます。私の「議会での審議のために、(今回決めないで)もう少し時間をとってほしい」という提案に、木浦会長は聞く耳を持ちませんでしたが、こんな進め方でいいはずがありません。
 電算システムの整備は、本来なら関係議会で廃置分合議決をしてからするのがスジです。電算システムの整備に約1年かかるなら、合併期日もそれに合わせて遅らせる措置をとるべきなのです。もし、いまの14市町村の中で合併に加わらないところがでたらどうするつもりなのでしょうか。
 木浦会長は言いました。「合併期日については平成17年1月1日ということで関係住民に知られ、定着している。廃置分合議決前に電算システム関係予算約17億円を関係市町村議会で予算化しても違法にはならない。全国でもそういうところがある…」。これが合併協議会の最高責任者の発言とは驚きです。ことの重大さがまったく分かっていない、この人は。


2003年11月25日

牛も履歴調査

 連休明けが火曜日となると、1週間がふだんよりも1日短く感じられます。しかも私のスケジュール表は会議などでびっしりと埋められているときている。月末だということもありましょうが、せかせかした動きになってしまいます。
 午前9時半から北陸農政局農政事務所の方と会うことになっていました。手違いがあって会えませんでしたが、牛の履歴に関する法律が制定され、わが家の牛の確認をする必要ありとのこと、その手続き書類を持参されました。これも狂牛病の影響です。
 牛が生まれてからの流れを個体ごとに確認する仕組みは、2年ほど前からスタートしています。牛が生まれる、売買などで異動する、それから死亡した時、ファックスで東京の家畜個体識別センターに連絡することになっています。ところが、どういうわけだかエラーがものすごく多いのだそうです。わが家にも先だって3頭報告漏れがあるので調べて報告してほしいと連絡がありました。しかも1年以上も前のものばかり。1頭残らず報告してきた者としては不愉快でした。そんなわけで、きょうの確認調査もなんとなく乗り気がしません。協力はしますが…。
 きょうは、「しんぶん赤旗」の集金、『地方自治職員研修』に寄稿した文章の校正作業などをおこないました。


2003年11月24日

市町村合併で情報交換

 予定されている廃置分合議決まで7ヶ月、上越地域14市町村の市町村合併の動きはここにきて、いくつかの矛盾にぶつかっています。きょうは、関係市町村の日本共産党議員が集まり情報交換をしました。
 やはり、集まればためになる情報が入ります。たとえば、コンピューターシステムの問題、14市町村が2005年1月1日に合併するとなると、ほぼ1年前から準備しないと間に合わないと言われています。廃置分合議決前に関連予算を支出するわけにはいきませんから、どうしても合併期日を先送りすることが必要になってきますが、ところがそこを無理やり突破しようという動きがあることが分かりました。これは許すことができません。
 どうしたらいいか判断に苦しんでいた問題の解決の糸口が見えることもあります。町村部の公民館は、地域の社会教育活動の拠点であり、個性ある地域づくりをすすめる大きな役割を果たしています。合併してもこれまでどおりの活動を維持できるようにするには、それなりの予算とスタッフが必要です。いまの流れだとなかなかむずかしい。町村部で連携してがんばらねば、という話になりました。
 市町村合併の情報を十分出して、住民の意思にもとづいてすすめる。参加者は、この原則の大切さについても再確認しました。きょうの会議の成果を各自治体で実らせなければなりません。


2003年11月23日

尾神岳が白くなりました

 早く終わらせてほかの事を、と思ったのが間違いのもとでした。冬囲いの仕事をしている時に、コンパネの上ですべり、コンクリートに全身をぶつけてしまったのです。どういう転び方をしたのか分かりませんが、相撲で言えば、横綱に上手投げで土俵にたたきつけられた感じです。かなり強く打ったために、左足には大きな痣(あざ)が2箇所もできてしまいました。
 やりたいと思っていたことの1つは写真撮影です。昨日、新聞配達の際、モミジの大木が見事に紅葉しているのを見つけ、ぜひ撮っておきたいと考えていましたし、ひょっとしたら尾神岳に初雪が降っているのではないか、そうなれば雪の解けないうちに撮らなければとも思っていたのです。
 冬囲いをある程度までやってから写真撮影に出かけました。思っていたとおり、尾神岳も米山も上の方が白くなっていました。いうまでもなく初雪です。昨年は11月5日でしたから、昨年より18日遅いことになります。尾神岳の写真は早速、トップページに掲載しましたのでご覧ください。
 もう1つ書いておくことがあります。柿崎町に出かけた際、吉川高校醸造科の先生だった満田誠二さんから、1957年(昭和32年)から1985年(昭和60年)までのことをまとめた「吉川高校28年間の想い出」と題する写真集をいただきました。満田さんは、醸造科の設立時から醸造科とともに歩んでこられた方です。写真集は1993年(平成5年)に発行されたもの。この中には、満田さんの醸造科への思いも綴られていました。私がハッとしたのは、挨拶文の中で1983年(昭和58年)の県教委の転科方針をみんなの力で止めさせた時の喜びが書かれていることでした。今回、大事なものを守りきれなかったことのくやしさを改めて感じました。


2003年11月22日

軽トラの荷台にあられがたまった

 昨日は一日中会議だったので、「しんぶん赤旗」日曜版の配達を少ししかできませんでした。そのため、きょうは朝から夕方まで配達活動でフル回転、昼食時にも家には帰らずがんばりました。
 配達をするうえでの悪条件は、私の場合、強風と雨。きょうはダブルでやってきました。しかも時たま霰(あられ)まじりとくる。最悪でした。そんなわけで、配達時の挨拶は、「悪い天気になったね」。
 山間部のある読者宅でお茶をご馳走になりました。この家のご主人はかつて郵便配達をされていました。話題は、昨年の初雪の話から始まり、豪雪時の雪との闘いの話に。わが家の牛乳出荷では、一輪車を改造した運搬車や耕運機にキャタビラをはかせた運搬機を使い、苦労していましたが、そのことも話をしてくださいました。話をしている間にも霰が降り、再び軽トラに乗る時には荷台が霰で白くなっていました。
 明日は何があっても冬囲いをしなくては……。


2003年11月21日

「おかしな動き」にご用心

 町議会市町村合併特別委員会と検討委員会、きょうは市町村合併関連の会議が連続して開かれました。町側から合併協議会幹事会の動きを聞いて、驚いてしまいました。幹事会の仕事の1つは、合併協議会の審議に付す原案をまとめることですが、どう考えても「おかしな動き」が出てきているのです。
 具体的にいいましょう。13日の幹事会で、「議会の議員の定数及び任期の取扱い」を議論した時に、事務局が用意してきた素案の「特例期間は上越市の議員の残任期間とする」という文言について、編入される町村の大半が反対し、「特例期間を合併特例法で認めている最大の期間(ここでは合併後7年間)とする」よう求めたといいます。この日はまとまらず、20日の幹事会で再協議したのですが、この日、事務局が用意した案文も、「特例期間は上越市の議員の残任期間とする」というものでした。前回まとまらないもとになったものを修正も加えずにまた持ち出す。こんなやり方は異常です。結局、この日の幹事会でも調整がつかず、次回の合併協議会の議題にはしないで、先送りとすることになりました。
 こうした「おかしな動き」はどこから来ているのか。ここでは断定的なことは書きませんが、この「おかしな動き」を聞いたときに、私が思い出したのは、木浦会長の第1回合併協議会での「これまで調整に徹してきたが、(これからは)上越市長として意見をのべることもあるのでご理解を」「協議にあたっては、上越地域合併協議会と上越市議会が共通の認識と方向性を持つことが極めて重要だ」という発言です。新聞報道によれば、上越市議会が「議会の議員の定数及び任期の取扱い」については、「特例期間は上越市の議員の残任期間とする」方向を確認したといいます。「おかしな動き」がこうしたこととつながっていなければよいのですが…。


2003年11月20日

まだメマツヨイグサが咲いていました

 大島村2往復、柏崎市1往復。きょうは車の運転で疲れ、夕方の搾乳前にぐったりして「夕寝」をしました。大島村も柏崎市も母に頼まれていた用事です。
 このうち大島村への1往復は、ここ数年、恒例となっているもので、伯母のところへ越冬用の野菜を届ける用事です。軽トラックに白菜、キャベツ、大根、野沢菜、オータムポエムなどを積んで運んできました。80歳を超えた伯母は、20年前に母が屋根から落ちて大怪我した時に、病院に何ヶ月も泊り込んで看病してくれた人。とても仲のいい姉妹です。伯母はトラックの荷台の野菜を見るなり、「まあ、まあ、八百屋さんみたいだのい」「この大根、何ごやし(肥やし)したもんだか、でっかくして…」とニコニコ顔でした。
 伯母のところからの帰り道、兜巾山(トキンザン)、尾神岳を通る林道を走り、景色を眺めてきました。紅葉は最終段階を迎えていて、モミジがとてもきれいでした。山は全体として黄色に染まっています。つい先だってまで楽しむことができた野の花も、もう終わりです。ノコンギクの花も枯れてしまいました。でも、1つだけまだ咲いていた花があります。それはメマツヨイグサ、どちらかというと夏の花ですが、11月まで咲いているとは、うれしくなります。
 夜は週刊町政レポートの作成でした。夕方の搾乳時に思い出したのですが、印刷機のインクがなくなっているのに、注文することをすっかり忘れていました。明日のいそがしい日程の中でどうしたものか。困りました。


2003年11月19日

いまがふんばり時

 総選挙結果についてどうみるか。きょうは新潟市で、日本共産党の常任委員、議員などが集まって話し合いました。県委員長が中央委員会幹部会声明に沿った報告をした後、参加者が自由に発言できるので、自治体議員や小選挙区候補だった人たち、地区委員会の役員などが次々と自分の考えていること、経験したことなどを述べました。
 これはと思う発言がたくさんありましたが、特に強く印象に残ったのは、これまで衆議院議員で、比例代表区の候補だった木島日出夫さんの発言です。落選した木島さんは、議席を失ったことがどういうことなのか、その重さについて語りました。日本共産党の衆議院議員が1桁になったのは30数年ぶり。17の常任委員会のうち、5つの委員会に入れず、党の国対委員会がどの委員会を選ぶか頭を痛めているといいます。発言時間も少なくなることは必至、党首討論など何分になることか。イラク派兵問題や年金など国民生活が重大な時に日本共産党の国会での発言力が弱まることを具体的に聞いて、改めてたいへんなことになったと思いました。
 木島さんは北陸信越地域の住民の要求を国政につなぐパイプ役でもありました。これまでにとりあげた要求は1400項目を超えます。要求は、一つひとつファイルに入れて大切に扱いました。先日、国会の議員会館の自分の部屋を明け払う時に、膨大な資料を整理したとのこと。しかし、地域要求の入ったファイルだけは全部ダンボール箱に入れて自宅に持ち帰ったといいます。ダンボール箱もかなりの数になったはずです。身近な要求を大切にしてくれる国会議員を失った重さを感じました。
 最後に木島さんは言いました。「国民に訴える日本共産党の力が足りない。演説を聴いてくれた人たちは、財界やアメリカの意図も見抜いて、日本共産党の役割も分かってくれた。しかし、聴いてくれたのは全有権者のほんのひとしずくだったのではないか。もっと外に向って訴えていく力が必要だ。国会もマスコミもますます二大政党制に向って進んでいく。いまが日本共産党のふんばり時だ」。力強く、説得力のある話に引き込まれてしまいました。
 きょうは新潟への交通手段として鉄道を使いました。行き帰りの列車の中で、読みかけていた大江健三郎の『「新しい人」の方へ』を読むことができました。選挙が終わったらじっくり読んでみたいと思っていた本です。昔は大江さんの本というと、難しすぎて読む気はしなかったのですが、最近の本はわかりやすいだけでなく、大江さんのやさしさと真面目さが出ていて、人間というのはこうでなければと感ずることがたくさんあります。私自身の欠点も見えてきて、とても勉強になります。


2003年11月18日

北海道からお客さんが…

 きょうは、北海道のオホーツク海側からはるばる吉川町まで視察にきてくださいました。西紋別地区の議長さんたちです。議員立法でまちづくり基本条例をつくった経験に学びたいということでした。八木議長も吉村副議長も都合が悪いというので、私と中嶋議員、塚田議会事務局長、常山総務課長の4人で対応しましたが、こんな遠くまで来てもらえるなんてうれしいですね。
 議長さんたちの町村は、どこも面積的には吉川町の10倍前後の広さです。まちづくり基本条例と市町村合併についての話になりましたら、合併の話でにぎやかになりました。滝上(たきのうえ)町の佐藤議長さんからは、「ここの町役場の上からは柿崎町役場が見えるが、私たちのところは、隣の町へ行くだけでも数十キロから100キロある。そういうところなのに、何が何でも合併だと総務省は言う。総務省って、一体何なんだと言いたい」と怒りの発言がありました。興部(おこっぺ)町の木下議長さんは、「私たちのところは、介護保険など広域でやっている。道町村会などが提唱している(市町村)連合を考えるべきだ」と主張されました。いまの市町村の枠を維持しながら、近隣町村と共同できるものは共同しながら生きていく、この市町村連合構想は、全国町村会でも提唱しているのですから、もっと研究してもいいのではないでしょうか。
 午後からは生活相談と原稿書きでした。昨日がんばったので、きょう締切りの原稿は夕方までに何とか書き上げました。この原稿は、『地方自治職員研修』の1月号に掲載される予定です。原稿書きが一区切りついたので、夜は久しぶりに(というより数日ぶりが正確かな)ビールを飲みました。つまみは、北海道の議長さんたちからいただいたホタテの乾燥したものです。口の中で噛んでいると、美味しさがじゅわっと広がります。ああ、うまかった。
 


2003年11月17日

虫たちの鳴き声がきえました

 夜の搾乳が終わり、家に戻る時に空を見上げました。雲が流れていて北斗七星が見えました。その時、あれっと思ったのは、虫たちの鳴き声がまったく聞こえなくなっていることでした。1週間ほどまえには、まだ何匹かの鳴き声が聞こえていたのに……。5月のセミからはじまった昆虫たちの大合唱は、冬を前にしてとうとう終わりです。にぎやかだった時にはうるさいと感じたこともあったのに、まったく聞こえなくなると、なぜか寂しさを感じてしまいます。
 きょうの議員としての仕事は原稿書きと生活相談。原稿書きの方は締切りまであと1日というところまできて、ようやくピッチが上がってきました。きょうだけで400字詰原稿用紙の枚数に換算して10枚くらいは書いたのかな。当初、「こんなに長い原稿なんて書けるだろうか」と思っていたのに、書き終わる間際まできたら、なんと枚数がかなりオーバーしてしまうことがハッキリしました。明日はこの長すぎた原稿の、どこを削って短くするかで頭を痛めることになりそうです。


2003年11月16日

マラソンは何が起きるかわからない

 きょうは風もあり雨もありの悪天候でした。午前は、生活相談で上越市に出かけてきました。その帰り道、久しぶりに本屋さんへ。私にとって、本屋でブラブラするのは楽しみの一つです。気に入った本はないかとさがす、買うまでもない、雑誌の、ちょっとした記事を立ち読みをする、これがけっこう面白くて楽しいんです。30分や1時間、あっという間に過ぎてしまいます。今回はある週刊誌の最新号が総選挙結果について特集していたので、立ち読みしてしまいました。本多勝一氏などが総選挙の争点となるべき憲法問題や消費税増税問題がそうならなかったことへの不満を述べ、二大政党制の批判をしていたのは注目でした。
 午後からは東京国際女子マラソンのテレビ中継を途中まで見て、「まちづくり基本条例」についての原稿書きに入りました。途中からというのは、高橋尚子選手が独走状態になってからです。「そろそろゴールの時間だ」とテレビのところへ戻ったらなんとなんと高橋選手がいつ倒れても不思議のない格好で走っているではありませんか。驚いてしまいました。小出監督は、レース中、「Qちゃんは天才だ。レースも自分で(どう走るかコントロールして)走っている。最後はうまくまとめてくれるでしょう」と言っていたので安心しきっていたのですが、マラソンも政治の世界と同じで何が起こるかわからない。レース前の食事のとり方などいろいろ問題があったのでしょうが、マラソン大好きの私の目では、25度前後の暑さの中で2時間20分を切ることを目標に持ち続けたことが最大の間違いだったと思います。そうは言っても、目標も切り替えは難しいでしょうが……。
 夜遅くなって、岡谷市の毛利正道弁護士からメールが送られてきました。1967年の衆議院選挙から今回の選挙までの各党の得票率、世論調査の政党支持率などを整理し、今回の選挙結果を分析しています。いつものことながら、数字を歴史的に追い、きちんと分析していく、几帳面さには脱帽です。彼の総選挙総括は近いうちに彼のホームページに掲載されるでしょう。その時は紹介します。ところで、彼の送ってきた文書の中で信濃毎日に掲載された興味深いデータがありました。信濃毎日が選挙直後に実施した世論調査で、「第三勢力の共産党・社民党・保守新党が減少したこと」に「好ましくない」と答えた人が47.5%にのぼり、「好ましい」の43%を上回っていたというのです。この47.5%の中で、これらの政党に投票した人は合計しても半分もいないのに、こういう結果が出る、何となくホッとしました。


2003年11月15日

住井すゑ百歳の人間宣言

 住井すゑさんのことを初めて知ったのは大学生の時でした。ちょうど『橋のない川』の第4部だか第5部が発刊されたころで、私も、全巻は読んでいないと思いますが、かなり読みすすんだ記憶があります。高校時代に島崎藤村の『破戒』を読んで衝撃を受けていましたから、部落や差別問題に関心があって、すっと入り込んでいった。そんな気がします。あの当時は、住井さんて、ものすごくやさしい女性だという印象が残っています。
 柿崎町の長井泰雄町議に誘われて、きょう、記録映画『住井すゑ・百歳の人間宣言』を観にいってきました。上映前に児童文学者の杉みき子さんが挨拶でのべられたように、心にしみる言葉がいくつもあって、住井すゑさんという人間の魅力が十分伝わってくる記録映画でした。「やさしい女性文学者」というよりも「気骨のある哲学者」。私の彼女にたいする印象は、ここ30年くらいの間に大きく変わってきましたが、やさしいおばあちゃん顔で、腕組みをして話す映像をみたら、「怪物」と呼びたくなるような、すごさを感じました。
 「天皇は国民の象徴だというんなら選挙で選べばいい」「いったん発言すべきところで発言しないと、とんでもないことになる」。こういった発言も90年以上生きてきた人ならではの重みがありました。大逆事件で殺された幸徳秋水のかたきを一生かけてとってやるという姿勢、膨大な資料を指をなめてめくり、徹底的に調べて、わかりやすく書く。記録映画を観たあと、住井すゑさんの作品をまた読んでみたくなりました。


2003年11月14日

全国唯一の醸造科、47年間ありがとう

 尾瀬あきらのマンガ・『夏子の酒』で全国に紹介され、一躍有名になった県立吉川高校醸造科が来年3月31日で閉じることになっています。きょうは、その閉科式がおこなわれました。
 吉川高校の醸造科は1957年(昭和32年)に全国で4番目の高校醸造科としてスタート。最高時、5つあった醸造科は次々と閉科され、地域住民との強い連携に支えられて最後まで残ったのが、この町にある醸造科でした。これまで1379名の卒業生を社会に送り出してきました。
 十日町市から通学している醸造科3年生・池田竜造君が式典のなかで語った言葉が忘れられません。
 「科の最大のイベントは醸造実習。いざ実習となると、何をしていいのか分からなかったが、作業に入ると杜氏さん、先生から笑顔が消えた。真剣とはこういうものかと思った。4ヵ月後、僕たちの造った酒を飲んだ父親が『うまい!』といってくれたが、なによりの言葉だった」「できることなら閉科などせず、いつまでも存続してほしかった。僕たちは最後の卒業生であることに誇りを持って歩んでいく」。
 醸造科生徒募集停止から約2年、池田君たちは、後輩が入学してこないさびしさを味わいつつも醸造科でしっかり学んできました。それが自信となり、誇りとなっている。全国で唯一の「高校生が酒を造る学校」の地元住民として、うれしくなる言葉でした。
 醸造科で学び、醸造科を愛してきたのは教師のみなさんも同じです。醸造科設置の1957年に広島から雪深い吉川にやってきて、醸造科の黄金時代を築いた満田誠二さんの思い出話も印象に残るものでした。
 全国的に醸造科生徒の数そのものが少ないため、既存の教科書は無し。ほとんど教科書らしきものが無いなかで授業をスタートさせ、仲間の教師たちが手づくりで全文約2600ページの教科書を書き上げました。宿泊実習では、生徒たちと真剣勝負、「生徒からはコンチクショウと思われることがあったかも」と語ります。いつの頃からか、「満田先生はカレーライスを食べられない」という噂が広まり、先生も生徒も献立を考えるのに苦労します。そういうなかで、夜間、食用ガエルを捕まえ、実習時のオカズにすることもありました。
 ここから先は、「惜別の会」で聞いた話。吉川高校に着任してから10数年後、満田さんは頸北の地に自分の家を建てました。その時、卒業生たちから思いがけないプレゼントがありました。清酒「白鶴」の一斗樽が送られてきたのです。これは新築のお祝いという意味だけでなく、高校の地元に根付いて教育に打ち込む決意をした教師への感謝の印でした。
 式典後、町の多目的集会場で開かれた「惜別の会」は、当初の予定を大きく上回る150人もの人たちが参加。懐かしい出会いや初対面のうれしい出会いがいくつもありました。このうち、東京八王子市のE子さんは、10月3日付けの「見てある記」に書いた人。この方も醸造科出身だそうで、私の出稼ぎ先だった八王子市の八木酒造のこととか絵のことなどを楽しくおしゃべりしました。また、10年ぶりに再会した元校長の佐藤義久さんとは、『夏子の酒』のモデルとなった久須美酒造の酒造りについて書かれた本・『酒は風』などについてなつかしく語り合うことができました。吉川高校醸造科を核にしたつながりはこれからも大事にしていきたいと思います。


2003年11月13日

農業者年金受給者も地域農業の重要な担い手

 もう、そろそろ寒さ慣れしてきてもいい頃ですが、どういうわけか最高気温が15度前後でも寒さを強く感じます。牛舎の中で半袖で仕事をするのも限界、パソコンを置いてある空間もストーブなしではいられなくなりました。年のせいかな。
 午前中は生活相談で飛び回りました。山間地で農業を営むKさんからは、農地と農業者年金についての相談が寄せられています。すでに70代に入っているKさん、近くの町に住んでいる息子さんへ経営を移譲してはいますが、日頃の農作業はKさんなしには考えられません。「あと何年やれるかねぇ。農業者年金だけでももらい続けたいんだけど…」という言葉が重くひびきます。後継者に経営移譲していても農業者年金受給者の労力抜きには考えられない地域農業の現実、このままだと数年の内に大変な事態がやってきます。
 午後からは週刊町政レポートの作成をしました。今号には総選挙の結果を載せるので、一般紙にも折り込んでもらう予定です。


2003年11月12日

たまには他人のパソコンで見てみるもんだ

 総選挙後初めて日本共産党上越地区委員会へ顔を出してきました。小選挙区候補だった阿部正義さんもおられ、「いやー、どうもどうも、ありがとうございました」とお礼の言葉をもらいました。本人としては、力をつくした充実感みたいなものがあるのでしょうか、とてもさばさばした表情で笑顔もたくさん見られました。
 コーヒーを飲みながら話題になったことの一つは、政治活動とパソコンのことでした。地区委員会と直接メールの送受信ができない現状は時代遅れだという話からはじまって議員や候補者のホームページの出来具合の話に。それから自分のパソコンを持ち込んで仕事をしていたYさんが私のホームページ開いてくれました。
 Yさんのパソコンで私のホームページを見て、おやおやと思ったのは、普通の電話回線を使った場合には、このトップページが重すぎることでした。この「見てある記」も開くまでにはタバコ一本吸うくらいの時間がかかります。また、昨日アップした「敬徳寺のイチョウ」や「ブナ林のなかの道」などが入った「私の好きな風景」もちょっとやそっとの時間では開くことができないことがわかりました。そんなわけで、とりあえず、「敬徳寺のイチョウ」など昨日アップした分だけページを別にしましたが、私のホームページは抜本的に再編集しないといけないようです。
 きょうは、生活相談と18日締め切りの原稿書きに集中しました。生活相談はこれまで溜めていた分だけでなく、新たなものもいくつか持ち込まれており、しばらくこれらの対応に追われることになりそう。一日の時間が25時間くらいになってくれればありがたいのですが。


2003年11月11日

秋に撮った写真

 今週は雨が続くようです。外仕事ができそうもないので、総選挙期間中にできなかった生活相談の解決、原稿書き、写真整理など溜まった仕事を一つひとつやることにしました。
 きょうは、そのうちの写真整理を中心にやりました。秋に撮った野の花や風景写真は結構たまっています。写真を撮った時の感動も忘れないうちにメモしておかなければならない。なんだかんだで約半日費やすことになりました。
 写真整理をするなかで「私の好きな風景」のページに載せたかった、山方の「敬徳寺のイチョウ」と「ブナ林のなかの道」をようやくアップしました。ご覧ください。


2003年11月10日

励ましの言葉を寄せられて…

 昨日、開票立会いから帰ったのが11時半過ぎでした。その後、テレビで選挙結果を見て、もう日本共産党の議席が増えそうもないことを確認して布団に入ったのは夜中の2時ごろだったでしょうか。論戦の組み立てがこれまでのどの選挙よりもきまっていたのに、なぜ日本共産党は大きく後退したのか。その答えは今後の総括のなかで出すにしても、歯の隙間に魚の骨がひっかかったような感じで疑問が残っていて、よく眠れませんでした。
 朝、新聞をいつもより時間をかけて読みました。自民党の悪政を変えたいという国民の思いが、「とにもかくにも、まず、自民党以外の政党に政権を移してみたい」という投票行動になった。政策の中身は二の次。テレビや新聞などは「今度の選挙は政権選択が最大の焦点だ」とあおり、憲法改悪や消費税増税といった大問題にほとんど触れようとはしない。このマスコミの巨大な影響力を打ち破るだけの宣伝網を早めに構築しないといけない。さもないと、あっという間に選挙制度を改悪されて、日本共産党などの小政党は議席ゼロになってしまうのではないか。そんなことを考えました。
 午前は町議会全員協議会と市町村合併特別委員会、午後からは政党ポスターの撤去作業でした。議会が終わってから、一人の議員がそばにきて、声をかけてくれました。「今回はおまんたのとこに入れといたよ。憲法問題のこと考えたら、共産党には残っていてもらわないと困る」。思いがけない言葉に、ものすごくうれしくなりました。ポスター撤去では、張らせてくれた人にお礼を言いながら作業をすすめました。ここでも何人もの人が、「がんばってくんないや」「吉川では伸びたねかね(小選挙区)。おまんに世話になっているからオラも入れた。うちのじいちゃんは、今回初めて投票する孫に、共産党と書いた紙を渡して頼んでいたよ」などと励ましてくれました。うれしいですねぇ。こんな言葉を聞くと、元気もりもりです。


2003年11月09日

小選挙区、比例代表区とも得票率増加

 時たま、小雨が降る寒い一日でした。もう立冬を過ぎましたから、これからどんどん寒くなるんでしょうね。総選挙ですっかり忘れてしまっていますが、牛舎の冬囲いなど急がなくてはなりません。
 きょうは投票日。私は比例代表区の開票立会人として開票結果を見守りました。NHKの出口調査によると、日本共産党は残念ながら大きく後退することが確定的となっていました。吉川町でも相当落ち込むことになるのではないかと心配しましたが、小選挙区ではあべ正義さんが200票(得票率5.87%)獲得し、得票数、得票率とも前回(172票、4.47%)を上回りました。比例代表区では、291票(得票率8.93%)獲得。得票数では、残念ながら前回より21票減らしました。しかし得票率は、前回(8.48%)を超えました。まずまずの成績を残せたと思います。
 ご支援、ご協力くださったみなさん、ありがとうございました。今後ともがんばりますので、どうかよろしくお願いします。
 選挙結果は、「町と議会の動き」のページに掲載しました。


2003年11月08日

投票日直前、サルも動き回って…

 とうとう投票日の前の日になってしまいました。声をかけ忘れているところはないか。後援会ニュースの届いていないところはないか。チラシは残っていないか。投票所近くの政党ポスターは誰の目にも入るようになっているか。一つひとつ確認してみると、けっこうもれ落ちがあるものです。
 午前、午後と、私自身が直接足を運んだ方がいいと思われるところを50軒ほど訪ねてきました。すでに支持の訴えをしてあるところには、支持を広げてくれるようにとお願いし、まだ訴えてなかったところには、遅くなったことをわびながら協力を要請してきました。
 まわっていたら、「誰だと思ったら、おまさんだね。日頃から一所懸命やっていてくんなるすけ、応援させてもらうわね」「いつも情報ありがとね、協力するよ」といった声を寄せてもらいました。市町村合併とか、地域福祉など地元の問題からどの政党を選ぶか考えている人もいる。国政のことばかり訴えてきただけに、こうした声がとても新鮮に聞こえました。
 投票日直前とあって、きょうは他党の動きも活発でした。自民党支部のたまり場も、これまでになくたくさんの車が駐車していました。このようななかで、町の中心部の原之町でサルが出現したという有線放送が流れました。「いたずらに刺激しないように」という駐在さんの呼びかけがありましたが、財界本位の政治がサル前ぶれなら大歓迎です。
 


2003年11月07日

最後の訴え

 投票日まであと2日となりました。いつもなら金、土の2日間で「しんぶん赤旗」日曜版配達をするのですが、今回は、しんぶんに満載された選挙情勢や私たちの党の政策などを早く読んでほしいと思い、昨日ときょうで配達を終了しました。最終盤をむかえ、読者のみなさんには最後の訴えをしながら配達をしました。
 こちらの訴えにこたえ、読者のみなさんからは、うれしい言葉がたくさん寄せられました。「本部(選挙事務所のこと?)から電話もらったよ。負けないでくんない」「おまんたとこに頑張ってもらわんと、(政治が)おかしな方へ行ってしまう」。序盤とは明らかにちがう、いいムードも流れてきています。これを大事にして、もっと大きな盛り上がりをつくれるかどうか、明日の活動にかかっています。
 夕方、選挙区のあべ正義候補の宣伝カーが吉川町に入ってきました。こちらも最後の訴えです。「ぜひ、あべさんの声を聞きたい」といっておられた障害者のAさんに宣伝カーの運行予定をお知らせしておきました。その方の家のそばで宣伝カーのスピードを落としたら、Aさんは車いすに乗って部屋の窓際で盛んに手を振っていてくださいました。こういう人がいると、ますます元気が出ます。ありがとう、Aさん。


2003年11月06日

送受信トラブル

 投票日まであと3日。昨晩、県委員会経由でメール送信されるはずだった後援会ニュースをめぐってトラブルがあり、睡眠時間は2時間弱となってしまいました。その影響で一日中、頭がボーッとしていました。
 トラブルのもとになったのは、こちらの勉強不足でした。まず、ニュースを作成したソフトのバージョンを事前に調べていなかったこと、古いバージョンのソフトでは最新版バージョンで作成されたファイルを開けませんでした。
 後援会ニュースのファイルが重すぎる(8メガぐらいあったとか)ことも頭に入っていませんでした。写真や映像見出しを貼り付けたファイルでは重くなりすぎて、メールで送受信できなくなることが多いことも忘れていました。パソコンに詳しい杉本上越市議や霜鳥前新井市議と3人ですったもんだし、深夜まで対応に追われることになりました。後から考えてみれば、技術的なことをあまり勉強していなくても、出来上がったニュースをファックスで送ってもらい、写真や文はそれぞれ別にメール送信してもらう。そして、これらをもとにこちらで編集すればよいことでした。そうすれば30分くらいできれいなチラシができたのに…。
 今回のトラブルで影響をこうむったのは、上越地区委員会管内のすべての党組織でした。メールで受信して、各地の印刷機で印刷する手はずだったのですが、完全にくるってしまいました。一刻も早く後援会ニュースを配布しようとしていた皆さんには迷惑をおかけしました。バージョンを落としてニュースを作成しなおし送信する、圧縮して送信するなど技術面での基本を学ぶことの大切さを確認したトラブルですが、選挙後の総括では、電子情報の利活用について地区全体でどうするか話してみたいと思います。


2003年11月05日

志位委員長が聞いた「母の戦争体験」

 投票日まであと4日。きょうは、新潟市の万代シティで開催された日本共産党大街頭演説会に参加してきました。1500人の聴衆を前にした志位委員長の話は、とても分かりやすく、選挙最終盤の情勢にふさわしいものでした。
 消費税の大増税、憲法改悪、そして比例代表定数の削減で自民党と民主党がなぜ同じ船に乗って悪政を競い合っているのか。その背景には、経済同友会や日本経団連などの財界の野望があることがはっきりと示され、悪政にストップをかける日本共産党の役割が鮮明になりました。志位さんじゃないけれど、財界にほめられるようになったらおしまいです。日本経団連が各政党の政策に関して「通信簿」をつけていたというのは、おもしろかったですね。
 志位さんというと、様々な資料を使って論理明快な話をする人だというイメージが強いのですが、きょうの演説では、めずらしく情に訴える内容がありました。平和憲法の話のなかに、自分の母親の戦争体験が入ったのです。千葉の女子師範に生徒として通っていたお母さんは、軍需工場で働いていました。ある時、空襲に遭い、旧友8人は手足がバラバラになり死亡、お母さんも生き埋めに。寮の同室で一番の仲良しだった人も亡くなりました。こうした犠牲の上に日本憲法ができた、子の世代、孫の世代に引き継いでいきましょう、との訴えが心にひびきました。
 「しんぶん赤旗」日曜版の9日号が選挙の関係もあり、いつもより早く到着しました。すぐさがしたのは、元吉川小学校教頭だった仙田幸造さんの記事です。今度の選挙から日本共産党後援会員として頑張っている仙田さんの奮闘ぶりが載っています。負けずに頑張らなくては。


2003年11月04日

山がまた衣替え

 夜に降った雨も上がって日中はいい天気になりました。やはり、雨が降った後は大気中のごみやチリが流されるのでしょうか、澄み渡った秋空はとてもいいですね。デジカメで素敵な風景を何枚も撮ることができました。
 
 きょうは連休明けだったので、午前は農協、役場、銀行などで用を足した後、直江津の地区委員会事務所へ。遅れていた選挙はがきを提出してきました。事務所の責任者は、新潟市での緊急会議に参加しているとのこと。選挙戦はもう終盤に突入です。
 午後からは山間部を中心に赤旗号外などを配布してきました。おやっと思ったのは、山々の色です。ブナやケヤキの紅葉も終わり、落ち葉が目立つようになってきたこの時期に、山の色はもう一度変わるんですね。きょうは、もみじやヤマウルシなどが鮮やかな赤や黄色の景色をつくりだしていて、見事でした。
 夜は町政レポートの作成にとりかかりました。選挙の関係で、「しんぶん赤旗」日曜版がいつもより早く到着するというので、こちらもそれに合わせて作成を早めています。


2003年11月03日

白紙投票しようと思っていた人も

 3連休最後の日、赤旗号外、後援会ニュースを持って支持拡大で動きました。日頃なかなか話をできない人たちと何人も対話できました。
 小売業を営んでいるTさん、Oさんとは消費税のことが一番話題に。来年4月から総額表示方式になり、売り上げが1000万円以上の事業者すべてが消費税の申告をしなければならなくなる(準備期間開始は来年1月1日。申告義務化は2年後)ことの影響は大きいものがあります。Tさんは、「これまで仕入れでは消費税払っても、売る時には消費税を上乗せしないで商売してきた。こんど制度が変われば、商売止めざるを得ない」と言います。そして、その後にうれしい言葉が続きました。「頭にきたので、みんなで白紙投票するかと話し合っていたが、橋爪さんのところの党に入れようということになった」というのです。
 うれしいことがもう1つありました。選挙区候補のあべ正義さんが、吉川高校前で街頭演説した時のことです。事前に演説の案内しておいたら、家族みんなで聞いてくれた家、夫婦で出てきてくれた人など10数人が真剣に耳を傾けてくれました。夜、候補者のあべさんが電話をくれ、「大勢出てくれたなぁ。演説終わったら、お年寄りの人に、どうです、当選できそうですか、と言われたよ。日頃の党の活動がちゃんと反映しているね」。明日から最後の追い込みをする元気が出てきました。


2003年11月02日

こんがな天気、もっと早くほしかった

 きょうは午後から孫祝いに招待されているので、やるべきことを午前中にやろうとがんばりました。選挙はがきの宛名の整理、赤旗号外の新聞折込依頼をすませた後、後援会ニュース配布と支持の訴えで汗を流しました。
 いい天気が続いていることもあって、訪ねた家の多くは、豆や小豆、そばなどの穀類を干しています。「いい天気だね。こんがな天気、もっと早くほしかったね」という言葉は、いま、一番はやっているかも…。来年から転作がまた強化されるので、訪ねた農家では、コメの輸入に唯一反対したのが農業を国の基幹産業として位置づけている日本共産党であること、ヨーロッパ諸国のように農産物の価格補償、所得補償を農業予算の主役にすることが大事であることなどを訴えました。
 孫祝いは、昨春、結婚したカップルにできた子どもの祝い。仲人をしたことからよばれてきました。孫をあやす初心者マーク付のじいちゃん、ばあちゃんの笑顔は最高です。わが家でも、こういう光景が見られる日が早くきてくれればいいのですが。


2003年11月01日

デコボコ道が直ってお母さんたちは大喜び

 小春日和、暖かくて気持ちのいい一日でした。朝の搾乳が終わってすぐに農道の砂利敷きがありました。わが家の牛舎近くには、1ヘクタールあまりの畑がありますが、これらの畑は、3つの集落の人たちが利用しています。畑を作っている人たちの内、9人が集まり、いろいろなおしゃべりを楽しみながら共同作業をしました。わが家がいまの地に移り住んで20年経ちましたが、関係者が共同してこの農道に砂利を敷いたのは初めて。砂利を敷いた後、ダンプで填圧したら、穴だらけのデコボコ道がしっかりしたものに。毎日のように畑にやってくるお母さんたちは大喜びでした。
 砂利敷きの後に、山間部を中心に「しんぶん赤旗」日曜版の配達、支持拡大で動きました。ここ数年、仕事がどんどん減っているYさんが、「小泉には頭にきた、やめさせなきゃならん」と声をかけてこられたので、「そのとおり。でも、財界の後押しを受けている民主党が伸びても良くならないよ。消費税も上げるというしさ、おらとこの党頼むね」と私が答え、話がはずみました。いままで日本共産党を支持してくれた人たちにもていねいに話をしないと引き続き支持してもらえないのが今回の選挙の特徴です。なかなかたいへんです。
 配達がもう少しという段階で、町の文化フェスティバルに参加してきました。町民のみなさんの書、写真、竹細工など様々な作品を観て回りました。偶然、道祖神にくわしい吉村博さんと出会い、群馬県や長野県の「接吻道祖神」など珍しいものの由来、時代背景など聞くことができました。道祖神は私も興味があり、いつか道祖神をめぐる旅をしたいと思っています。


2003年11月投稿分

2003年11月に投稿された全てです。

前:2003年10月
次:2003年12月

過去の投稿

小さな町の幸せ通信