平和と民主・社会進歩をめざす新潟県の会(略称、県革新懇)の機関紙最新号が送られてきました。封を切った途端、懐かしい満田先生の顔写真が目に入り、うれしくなりました。満田先生とは、元吉川高校醸造科教員の満田誠二さんのことです。吉川区住民にとっては醸造科の先生として、また被爆体験を語る先生として忘れることのできない方です。私は先生が退職されてから一度、ご自宅にお邪魔して話をうかがったことがありますが、とてもおだやかで親しみの持てる方という印象を持ちました。県革新懇の機関紙では先生へのインタビューが2ページにわたって掲載されていましたので、じっくりと読ませてもらいました。
満田先生はハワイ生まれ。開戦間近に、お父さんの故郷である広島に。県庁勤めのお父さんと三番目のお姉さんは原爆の直撃を受け亡くなりました。お父さんの亡骸はなく、碑文に名前が刻まれているだけだそうです。ご自身は、疎開先にいたため直撃を免れましたが、爆撃直後から広島市内に入ったため放射能を浴びました。四番目のお姉さんは捜しはじめて3日後に見つけ、背負って家に連れ帰りました。ある時、明らかに苦しみもだえて死んだと思われる遺体のポケットに入っていた木の認識票に級友の名前を発見、その瞬間の気持ちはいまでも忘れることができないと言います。
満田先生の教師生活の原点は被爆体験。教師になって、自分の体験と思いを伝える決心をされます。戦後、大学教授の薦めで新潟県へ。吉川高校では、ガリ版の手づくり教科書で酒造りを教えたことで有名です。被爆体験も語ることから「原爆先生」とも言われてきました。満田先生は、人間はつらいことを忘れる必要もあるが、忘れてよいことと忘れてはならないことがあると、退職後も被爆体験を語り続けてきました。憲法9条は戦争と原爆の犠牲のうえに立った国民の決意、平和の砦であり宝物だとして、インタビューの最後に語った言葉は、「9条を守り、核廃絶をめざすため、微力を尽くしたい」でした。