ついに10週連続となりました。新潟日報や朝日新聞新潟版は毎週日曜日、新潟地区、長岡地区、上越地区に分けて「売れている本」を1番から10番まで掲載していますが、私の『春よ来い』がこの中にきょうで10週連続入ったのです。前回の『幸せめっけた』が3回しか入りませんでしたから、これはびっくりでした。きょうも、尾神岳報尽碑研修会で真宗大谷派の人たちと話す機会がありましたが、安塚区、大潟区などのお寺の住職のみなさんも読んでいてくださいました。読んだ人が、「この本、いいよ」と広めていてくださることもわかりました。感謝です。
さて、その尾神岳報尽碑研修会についてです。最初の基調講演からパネルディスカッション、交流会まで参加しました。「報尽碑の過去・現在・未来」と題した上野實英さんの講演はますます磨きがかかって、聴衆をひきつけました。興味深かったのは、1883年(明治16年)3月12日の雪崩事故が何故後世に正しく伝わらなかったのかという点に関する言及です。上野さんは、「自由民権弾圧事件として有名な高田事件の方に新聞社が目を奪われ、遭難の取材が取材が徹底しなかったという説もあるが、私は、死の一歩手前までいった、心的傷害が大きかったのではないかと思っている」と語りました。最後の未来を語るところでは、「親鸞ブームは必ず起きます。尾神岳報尽碑は信心を示す大事な碑であると同時に、この地域に住んでいた先人たちが100年前にどういう暮らしをしていたかを知り、先人の思いを知る重要な文化財。地域おこしに役立ててこそ碑は活きる」と結びました。この話を聞いて、地元の人たちも元気が出たのではないでしょうか。
パネラーの発言にも注目しました。みんな報尽碑にかかわる思い出を持った人ばかりです。尾神町内会長の長谷川勉さんは、「碑に至る道は昔から『牛街道』と言われていた。牛馬が通るのがやっとの道だったが、災害復旧工事などで自然と広くなり軽トラが通る道になった。碑があるあたりは『セキトウ』と呼ばれていたところで、アケビがいっぱいだった」と子どもの頃の話を中心に紹介しました。また専徳寺の住職である松村公雄さんは、小学3、4年生頃、父親などと一緒に歩いて碑のところへ行った記憶を語りました。「あたりはカヤやぶつで、草ぼうぼう。まだかまだかと思いながら、やっとたどりついた。碑の周辺の草刈りは、最初の頃、名木山の永法寺、村屋の善立寺と専徳寺で何年も続けた」などといった話は初めて聞きました。報尽碑に至る途中の案内看板の中には間違った誘導をしやすいものがあること、遊ランド前のような大型観光案内看板はもっと地元や関係者の意見を聞いて作製してほしいとの指摘や要望も出ました。
研修会が始まる前の1時間くらい、上野公悦さんと吉川区内をまわり、5箇所で街頭演説をしました。後援会の人たちが事前に案内をしていてくれたこともあって、どこでも聴衆がいて、元気づけられる「まちかど演説会」となりました。きょうは女性後援会の人たちが大勢参加していて、とてもにぎやかでした。車で近くを通った人たちには「勢いがあるな」と感じさせるパワーがありましたね。