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旧東竹沢小学校の写真

 日本共産党吉川支部で中越地震被災者の救援募金の訴えを出した直後は、反応がいまひとつでしたが、ここへきて、何人もの方が「家に取りに来てくれないか」などといった電話をかけてきてくださったり、直接届けてくださったりで、支部の仲間たちも喜んでいます。昨日も私の留守中にHさんから電話があったというので、午前はまず、Hさん宅を訪ねてきました。
 訪ねると、開口一番に「きょうの新聞、見なったかね」。「はい、見ましたが……」と言うと、Hさんが取り出したのは、今朝の新潟日報です。その一面には、すぐそばの大地が大きく崩れ、危険状態になっている山古志村の旧東竹沢小学校の写真が掲載されていました。「高台にあるので心配ないと思っていたがに、これだねかね……」。いかにも悲しげな様子のHさん、実は東竹沢小学校の初代校長だったのです。
 家に戻ってから、同校の開校15周年記念誌に寄せた元校長さんの文を読ませていただき、胸がいっぱいになりました。同校は3つの学校が統合してできた小学校で、開校式のことが書かれています。4月だというのに、残雪は約2メートルもありました。57人の子どもを代表して、ある児童が喜びの言葉をのべています。「友だちが、たくさんできて嬉しい。これからはポートボールも、ちゃんと5人ずつで、できます」。続いて、元校長さんは、「『あかつきの やまなみ清く 新しい光 生まれる われら光の子…』。他に類のない新しい校歌の歌声がこの校舎から流れるようになったのも、この日からである」と書いておられました。
 この文で初めて知ったことがあります。地震でダム湖と化した東竹沢地区は、1978年(昭和53年)の6月26日の梅雨前線豪雨でも大被害にあっていたという事実です。この時の雨でも、道路は崩壊、田畑・養鯉池が流没していました。校区の人々は呆然とたたずんでいたとありましたが、当然でしょう。それにしても、今回の地震で2度目の大災害となりました。自然災害とはいえ、あまりにもひどすぎます。
 さて、この東竹沢小学校も過疎化、少子化の波には勝てず、23年という短い月日を経て閉校に追い込まれて行きました。でも、そこで学んだ児童は言うに及ばず、地域の人、学校の先生たちにとっては忘れることのできない大切な学校です。これまでも、そして、これからも、それぞれの心の中で生き続けていくのだと思います。Hさんは、同校の閉校記念誌でも書いておられます。「山古志村の太陽は、村の東方の地、東竹沢の空から、必ず昇るでありましょう」。


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概要

2004年11月18日 00:00に投稿されたページです。

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