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三宅島民からの手紙

 きょうは、ぜひ一度お会いしたいと思っていた人に会うことができました。足立正恒さん、65歳、日本共産党中央委員で理論誌『前衛』の編集長です。足立さんは柿崎町平沢の出身で、元町長・足立茂藤英さんのご長男です。
 足立さんは、今回、新潟県内の日本共産党議員を対象にした講演会の講師として来県されました。今度の党大会で党綱領が改定されましたが、足立さんの話は綱領改定のポイントについてでした。いくつものエピソードが入っていたせいか、足立さんの話はとても分かりやすく、勉強になりました。
 初めてお会いしてびっくりしたのは、お父さんの茂藤英さんとそっくりな顔立ちをされていることでした。休憩時間に、柿崎町下中山出身の宮崎(旧姓小熊)栄子柏崎市議と3人で懇談しましたが、柿崎町や吉川町の人の話にはとても懐かしがっておられました。足立さんは吉川町にも親戚があり、足立さんご夫婦の仲人は何と長谷川保信さん(元吉川町長)でした。本当に世間は狭いですね。
 きょうはもう1つうれしいことがありました。三宅島民の佐々木美代子さんから「清く正しく美しく輝いていたい!」というタイトルの付いたお手紙をいただいたことです。とても感動的な文章ですので、みなさんに紹介したいと思います。佐々木さんは数年前、当町を訪問。その後、私の著書『幸せめっけた』を島民の皆さんに普及してくださったことなどからお付き合いをさせていただいています。手紙は美しい文字で綴られています。活字でしか紹介できないのが残念です。
 清く正しく美しく輝いていたい! 三宅島 佐々木美代子
 この世に誕生して65年、わたしの生涯の眼目はこうありたいと願っていたことに気づきました。年を重ねるよろこびです。
 1996年9月に脳内出血の病発生して臨死体験して生還したのち、生命の讃歌を発信してきました。昨年4月10日、母大茂フミ永眠しましたので喪中欠礼していました。
 昨年の大きなできごとは、母を看取ることができたことです。苦労の多かった母はさいごに「みよちゃん いいこ いいこ」と賛辞を残して旅立ちました。埼玉県越生にある霊園に納骨する時、54年前に他界した父の隣に安置することができ感慨無量でした。
 大正、昭和と生きた両親は、生きている間の幸せはなく離婚する破目にあいました。その人生が走馬灯のようにかけぬけて、両親の冥福を心から祈りました。天空と青葉しげる山々にわたしのこころは晴れやかでした。
 (中略)
 滞在型帰島を3年ぶりに果たしました。荒れはてた島の様子、我が家の状況を見て物を処分して掃除をしてきました。おいしい空気、かわらぬ海の風景、野鳥の声に接して、ハイビスカスの花に元気をもらいました。二酸化硫黄のガスは横ばい傾向で、一日あたり3千から1万トン、安全帰島の目安はまだ先のようです。
 新年を迎えた1月10日、三宅島で50年近く住んで、その豊かな自然を世界へ発信された海洋生態学者のジャック・T・モイヤー先生(74歳)が避難先の北区で自殺、その報道はマスコミにのって大きな衝撃を与えました。日本の首都東京で、私たち三宅島民と同じ境遇の中での悲劇に私自身良心の呵責に沈みこむ日々をすごしました。
 同じ噴火災害にあった雲仙、有珠山は毎月生活支援が実施されているのに、三宅島は、義援金配分と生活再建支援法が1回実施されているだけです。都知事は三宅島にNLP基地化しか考えていないのでしょうか。
 困難な状況の中で、展望が持てない昨今、イラクへ自衛隊を派兵するという日本政府の方針に憤りを感じて悲しくなります。それでも、清く正しく美しく輝いていたいと念願して、平和な21世紀をめざして前進してゆきましょう。
 *しんぶん「赤旗」のコラム欄、『美代子さんのひとり言』、3月で区切りをつけることになりました。
 皆様もどうぞお元気で
 より一層のご活躍を祈念いたします。


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概要

2004年02月10日 00:00に投稿されたページです。

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