わが家の酪農の歴史の終わりの日がついに来てしまいました。約40年にわたって乳牛を飼い、乳を搾ってきましたが、きょうの朝の搾乳が最後となりました。二日前、第一陣が牛舎から去り、きょう搾った頭数はわずかに4頭。朝の仕事も40分くらいで終わってしまいました。きょうまで残った牛たちは記念にデジカメで撮りました。カメラを向けたら、何かめずらしい食べ物でもくれるのかと首をすっと伸ばす牛もいました。
昨日も書いたように、わが家の酪農は父が始めたものです。出稼ぎをやめて冬でも家族みんなで暮らそうと、酪農の知識や技術がほとんどない中で父は挑戦してきました。山間部での酪農は厳しいものがありました。特に冬、牛乳の出荷だけでもどれだけ苦労をしたことか。牧草地を持たないので、野草を刈り、サイロに詰め、田んぼの土手草の乾草を集めました。21年前、山間部から平場に出ても、仕事の中心にはいつも父がいました。私の議員活動を支えてくれたのはこの父です。父さん、長い間、ご苦労さんでした。
これまで三桁の牛たちと別れてきましたので、私は、牛たちを家畜商の車に乗せて別れるのには慣れています。家畜商が午後3時ころにやってきて、牛たちを連れて行くということでした。しかし、きょうはその場面にいるのがいやで、役場での会議が終わってもすぐ家に戻る気がしません。少し遅くなってから牛舎へ向かいました。そうしたら下町の信号機の近くで見えたのです、わが家の牛たちを乗せた家畜商の車が走っていくのが。心の中で「ごめんな」と言いました。
牛舎の中には、乳牛はもう2頭だけです。3月にお産をするこの牛たちは、乾乳中(お産を前にして乳搾りを休むこと)で、まだ行き先が決まっていません。私がそばに行ったら、2頭とも私の顔をじっと見つめ、「みんな、どこへ行ったの」と聞きたそうな目をしています。この牛たちはできるだけ長くおいてやろう、そう思いました。
きょうは、何人もの人たちに搾乳をやめた話をしました。夕方、市町村合併の資料をもらうために大潟町に向かいました。途中で、トラクターに乗って仕事をしているTさんに会いました。Tさんは、長年、酪農仲間として付き合いをしてきた人です。「俺、きょうの朝で搾乳やめたんだわ」と言うと、「しかたないさ、ご苦労さんだったね」という言葉が返ってきました。酪農をやめた人たちから、「やめた時には涙が出るよ」と聞かされていたのですが、私は、朝から涙は一粒も出ませんでした。ところが、軽トラックに乗って走り出したら、もう駄目、涙がぼろぼろと出てきて、止まりません。これまでお世話になってきた仲間たちの顔が次々と浮かんできたのです。
私が牛舎で倒れた時、すぐに駆けつけてくれ仕事を手伝ってくれたNさんとIさん。町議選の時に「乳を搾っていたんでは危ない」と遠く大和町から泊りがけで応援に来てくれたYさん。牛が死んでがっかりしていたら香典とろうそくをもってきて励ましてくれたKさんなど…。私の酪農は議員活動と二束わらじをはいた中でのものでしたので、いい成績も残せませんでしたが、酪農仲間や獣医さん、農協の営農担当のみなさんなど大勢の人たちに助けられ、人のやさしさをいっぱいもらったことが最大の財産となりました。お世話になった方々に心から御礼申し上げます。たいへんお世話になりました。ありがとうございました。