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全国唯一の醸造科、47年間ありがとう

 尾瀬あきらのマンガ・『夏子の酒』で全国に紹介され、一躍有名になった県立吉川高校醸造科が来年3月31日で閉じることになっています。きょうは、その閉科式がおこなわれました。
 吉川高校の醸造科は1957年(昭和32年)に全国で4番目の高校醸造科としてスタート。最高時、5つあった醸造科は次々と閉科され、地域住民との強い連携に支えられて最後まで残ったのが、この町にある醸造科でした。これまで1379名の卒業生を社会に送り出してきました。
 十日町市から通学している醸造科3年生・池田竜造君が式典のなかで語った言葉が忘れられません。
 「科の最大のイベントは醸造実習。いざ実習となると、何をしていいのか分からなかったが、作業に入ると杜氏さん、先生から笑顔が消えた。真剣とはこういうものかと思った。4ヵ月後、僕たちの造った酒を飲んだ父親が『うまい!』といってくれたが、なによりの言葉だった」「できることなら閉科などせず、いつまでも存続してほしかった。僕たちは最後の卒業生であることに誇りを持って歩んでいく」。
 醸造科生徒募集停止から約2年、池田君たちは、後輩が入学してこないさびしさを味わいつつも醸造科でしっかり学んできました。それが自信となり、誇りとなっている。全国で唯一の「高校生が酒を造る学校」の地元住民として、うれしくなる言葉でした。
 醸造科で学び、醸造科を愛してきたのは教師のみなさんも同じです。醸造科設置の1957年に広島から雪深い吉川にやってきて、醸造科の黄金時代を築いた満田誠二さんの思い出話も印象に残るものでした。
 全国的に醸造科生徒の数そのものが少ないため、既存の教科書は無し。ほとんど教科書らしきものが無いなかで授業をスタートさせ、仲間の教師たちが手づくりで全文約2600ページの教科書を書き上げました。宿泊実習では、生徒たちと真剣勝負、「生徒からはコンチクショウと思われることがあったかも」と語ります。いつの頃からか、「満田先生はカレーライスを食べられない」という噂が広まり、先生も生徒も献立を考えるのに苦労します。そういうなかで、夜間、食用ガエルを捕まえ、実習時のオカズにすることもありました。
 ここから先は、「惜別の会」で聞いた話。吉川高校に着任してから10数年後、満田さんは頸北の地に自分の家を建てました。その時、卒業生たちから思いがけないプレゼントがありました。清酒「白鶴」の一斗樽が送られてきたのです。これは新築のお祝いという意味だけでなく、高校の地元に根付いて教育に打ち込む決意をした教師への感謝の印でした。
 式典後、町の多目的集会場で開かれた「惜別の会」は、当初の予定を大きく上回る150人もの人たちが参加。懐かしい出会いや初対面のうれしい出会いがいくつもありました。このうち、東京八王子市のE子さんは、10月3日付けの「見てある記」に書いた人。この方も醸造科出身だそうで、私の出稼ぎ先だった八王子市の八木酒造のこととか絵のことなどを楽しくおしゃべりしました。また、10年ぶりに再会した元校長の佐藤義久さんとは、『夏子の酒』のモデルとなった久須美酒造の酒造りについて書かれた本・『酒は風』などについてなつかしく語り合うことができました。吉川高校醸造科を核にしたつながりはこれからも大事にしていきたいと思います。


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コメント (2)

宮野入 修:

橋爪さんって、剣道で怖かった,あなたかな? 私は、長峰の修です。茨城県で元気にしています。醸造科の記事で知りました。素晴らし課程でした。私は、伏見の酒造さんに就職して今は、定年しています。年金が中々貰えず、でも生きているだけで最高です。頑張れニッポン・・・・・・・!

ホーセ:

コメントありがとうございました。吉川町出身の人が私のブログをこうして読んでくださるなんてうれしいです。なお、現在のブログは、「ホーセの見てある記2」というタイトルになっていますのでごらんください。

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概要

2003年11月14日 00:00に投稿されたページです。

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